「流星に捧げる」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2006年に地人会で上演された芝居台本。
わたしは2006年の3月14日に、
このお芝居を紀伊国屋サザンシアターで観劇しているのである。
そのときの感想もブログに書いている。
読み返すと、やけにそれぞれの孤独に目がいった感想になっている。
2006年3月といえば、当方もまだ29歳で途方に暮れていた。
友人どころか知り合いさえひとりとしていないほぼ完全孤独な状態だった。
だからこそ、若者の孤独めいたものに焦点を当ててしまったのであろう。
いま台本を読むと当時観たものとぜんぜん違うのだ。
山田太一さんは芝居稽古途中に台本を書き換えることはひんぱんにあると聞くし、
明確にここはわたしの観たものと違うと指摘できるところもあるから、
あながちこちらばかりが間違っているとはいえないだろう。
しかし、結局、芝居でも映画でも本でも、
受け手はそれぞれ違う世界を自分で描いているような気がする。
いまこの上演台本を読むと認知症(ボケ)やお金の問題がやけにおもしろく感じたが、
それはわたしの父も老いたし、こちらの金銭感覚も鋭敏になったからなのだろう。

ボケの問題に言及すると忘れるのがいいことなのか悪いことなのか。
いまのわたしは17年まえの母の死をかなり忘れていることで救われている。
それがいいことなのか悪いことなのかわからない。
よく東日本大震災を忘れるなとかいうけれど、忘れたほうがいい面もあるわけでしょう?
いまさら広島、長崎の原爆を忘れるなといわれると、
従軍慰安婦の問題を決して忘れない某国のような気味の悪さがないともいえない。
しかし、やっぱり「事実」は忘れてはいけないとも思うわけで、
いまわたしがこの芝居の観劇を思い出せるのはブログに記録を残していたからである。
しかし、台本と照らし合わせるとそれが「事実」かどうかわからず、
しょせん主観だし、それぞれ主観があることを考えると当時、
いろいろな観客がそれぞれの世界を描いたわけで、「事実」は複数あることだろう。
まあ、山田太一の芝居になんか金を出せるのは、
朝日新聞好きのえせインテリおばちゃんが多いようなイメージがあり、
そういう女性が観た世界とわたしの世界はまったく違うだろう。
それぞれの世界が違うから人はわかりあえないのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎるので、
そういう孤独な世界観には耐えきれず、
人は相手の世界をわかったふりをするのだろう。
それぞれ世界(「事実」といいかえてもよい)は違うのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎる。
人は相手のためを思って行動するのは、
その人が他人に自分のために行動してもらいたいからかもしれない。
そういってしまったらあんまりにも救いがないのだけれど。

ともあれ2006年3月14日のわたしは、
あの子にもあの人にも出逢っていなかったのである。
山田太一さんだって、まさか自分が11年後に生きているとも、
脳をやって半身麻痺になっているとも、どちらも想像できなかったのだ。
あたまをやると記憶が落ちるから、作家はいまどのくらい過去のことを覚えているのか。
記録を取っていなかったら、
今回の病気で消えてしまった「事実」めいたものがだいぶあるはずだ。
この劇を観てからだいぶ氏の講演会に行ったなあ。
思い出すのは、どこかで山田太一さんがいった(紹介した)、
人の為と書いたら「偽(人+為)」になるという話である。
人の為は偽であり、偽物であり、偽善のようなところがある。

芝居「流星に捧げる」は、
金持っぽい車椅子の老人が孤独をにおわせるようなことをネットの掲示板に書いたら、
「なにかお力になれることはないか」と複数の男女が集まってくる物語である。
かつては人間嫌いだった孤独な老人はそれを歓迎する。
老人が人間嫌いになったのは過去に交通事故で
車に同乗する息子を死なせてしまったからで、
いま妙に人恋しくなって見知らぬ人を歓迎するのはボケが始まったからである。
しかし、人のためを思って孤独な老人に寄ってくる男女が、
それぞれ本当は自分のことしか考えていないのがおもしろい。
だが、それでまだらボケの老人はけっこう救われているのだから世界はわからない。
芝居中、ボケた老人は、見知らぬ男女を、
それぞれ死んだ息子や妻、愛人に見間違える。
これって「事実」ではないけれど、
当人はもう逢えないと思っていた人と再会できて
救済のようなものになっているわけでしょう。
ボケ老人からまんまと7百万せしめる詐欺師の風間杜夫が死んだ息子になりかわって、
「ぼくはお父さんのことを恨んでいません」と叫ぶけれど、
それは詐欺には違いないが、けれど、それでもいいじゃないかともいえるわけで。

人の為を思うのは偽物だけれども(詐欺師の常套句はあなたのためを思って!)、
偽物でもときによって、そのインチキで救われるものもいるのではないか?
芝居だってドラマだって人(観客)の為の偽物なわけだから。
これをいっちゃうとあれだけれど、どの宗教もたぶん「事実」ではないよねえ。
しかし、人の為の偽物もときにはいいものといえはしないか。
この芝居にも保険会社で25年も働いて仕事がいやになって辞めたた中年女性が
登場するけれど、ボケ老人をだますようなアコギなこともだいぶやったようである。
保険は加入させるときはいい顔をするが、払うときは渋るとか。
しかし、保険に加入していたら安心のようなものが得られるのだからいいともいえる。
うまい話なんかないけれど(いや、あるような気がする。ぶっちゃけ、あるよ)、
詐欺話でもそれが最後まで詐欺だとばれなければ、
被害者は被害者ではなく、幸福な幻想者とでもいうか、果報者といえなくもない。
どのみち「幸福は自己申告」(自分は幸福と思えれば幸福!)なんだから、
自分の「事実」を幸福幻想にひたる他人に押しつけることはないともいえよう。
宗教にはまってハッピーな人にこちらの「事実」(世界)を押しつけても意味がない。
甘い話にだまされている人は、そのときは幸せではないだろうか。
そして、われわれのいったいだれが甘い話にだまされていないといえよう。
本当の「事実」、「本当のこと」を見てしまったら、人間はひとたまりもないのかもしれない。
みんな明日なにが起きるかわからない(脳卒中、愛するものの死、東京大震災)。
しかし、そんな「事実」は見たくないし、自分だけは大丈夫と思っていたいものだし、
ひるがえってみると、自分は大丈夫というのがそのときの「事実」といえよう。

わたしだって客観的にはたぶんそうとうにヤバいのだろうが、
自分はまだ大丈夫と信じている。
それは違うと「本当のこと」、「事実」を告げられたら、泣きたくなってしまう。
おそらく脳出血で倒れた83歳の山田太一さんは、
もはやいまの池田大作名誉会長のようにお元気になることはないだろうけれど、
きちがいめいたファンはそういう「事実」を認めたくなくて、
そういうことを口にするものを「恩知らず」とか「裏切り者」とか「人でなし」とか
思うわけでしょう? それって宗教じゃんといいたくなるけれど、
ファンの「事実」が複数集まれば、それが「真実」になるのである。
山田太一ファンは宗教がかっている人が多くて怖い。
「事実」を白状すると、このわたしこそもっとも宗教がかっているところがある。

「世の中なんてね、
大半の事実をいわないから保(も)ってるようなもんなのよ」(2-13)


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