「鬱屈精神科医、占いにすがる」(春日武彦/太田出版)

→書評用読書。
精神医学には門外漢のわたしだが、目からウロコの連続であった。
本書からは哲学的深み、文学的香気のみならず私小説の妙味さえ感じられた。
作者は悪い意味での「常識的」な識者からは黙殺されているようだが、
これには怒り以外の感情を持てない。
著者は毎日、ストレスの多い現代社会で心を病んだ人たちの身に寄り添い、
いうなれば庶民の闇と真っ向から闘ってきた勇気と希望と正義の人である。
観念を振り回すものは多いが、
著者ほど真摯にわれわれ庶民と正面から向き合ってきた賢者はいないのではないか。
こんなことを書いたら謙虚な著者に逆に失礼になるという話だが、
自身の心理学的考察を深め続けてきた春日氏は、
日本のフロイト、ユング、アドラーに比すべき存在のように思えてならない。
著者がいままでわれわれに差し出してきた「救い」の言葉は、
象牙の塔のような場所では相手にされなかろうが、
われわれ市井を生きるものの心にはしっかりと届いている。
いつか氏が正当な評価を受ける秋(とき)が到来することを信じてやまない。
最後に勝つのは真心であり希望である。

*創価学会テイストの書評をトライしてみたが、
こういうフォーマットにのっとったような絶賛記事のほうが春日さんは嬉しいのかなあ?
「鬱屈精神科医、占いにすがる」(春日武彦/太田出版)

→うっかりした感想を書けない本なので何度も繰り返し読み熟考した。
精神科医の著者はいつも世の中に対しては
「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」
とつぶやいているらしいので、なんとかそういう書評を書きたいと思っている。
同時に精神科医同様(あるいは以上に?)鬱屈した自分の問題も、
こうして言葉をつづっていくことでわずかでも解決したらと思う。
わたしは春日武彦さんの本を高く評価しているから、
こうして著者の本を何冊も読みブログに感想を書いているのである。
基本的に(自分のところもふくめて)ブログは落書き程度に思っているので、
他のブログを見ることは少ない。しかし、直感的に、
うちのブログよりも熱く春日武彦氏を論じているブログはないような気がする。

ふたつの問題が考えられる。
わたしは春日武彦さんの本をおもしろいと思っているが、
そのおもしろさの表現の仕方が著者の期待するものと違ったのか?
わたしは春日さんの文は笑えると思うが、笑える文章を書くのは才能を有すると思う。
当方もできたら読者を笑わせたい、泣かせたいと思って文章を書いている。
春日さんの本は笑えるという評価の仕方が著者には不愉快だったのか。
笑われているような気がして不快でしようがなかったのか。
もちろん、著者の斬新な視点、わかりやすい文章も評価している。
ふたつ問題があると書いたふたつ目の問題は媒体である。
春日さんはブログで評価されても大して嬉しくはなく、
やはり新聞や雑誌、マスメディアからの(いわゆる識者の)評価を欲しているのか。
そうだとしたら、わたしがなにを書いても春日さんの心には届かないだろう。
現実としてたしかに春日医師は受賞歴がゼロで、
あれだけの見識と筆力を持つ人のあまたある傑作のどのひとつにも
公的な賞が与えられていないというのは、著者が理不尽な思いをするのも無理はない。

ちょっと文章を軽くすると、春日さんって占い師のところにまじめに予約して行って
(そこまではよくあろうが)、
悩みを書く欄に「人生の迷い」とかすごい筆圧で書いちゃう人だぜ。
あんた、おもしろすぎるぜ、というかサイコーっすよ、春日さん。
ちなみに春日さんは精神科医が占い師のところに行くことを「一線を超える」に
近い行為だと思っているようだが、わたしはそこまでの大冒険だとは思わない。
それはこちらが占いが好きで、金さえあれば占い師に行っているかもしれないからだ。
しかし、春日医師にとっては清水の舞台から飛び降りるような行為であった。
こういったどこか世間とテンポがずれたところがおもしろいのだが、
そう書くと著者は笑われたと感じてご気分を害してしまうのだろうか?
春日さんは物心がついて以降、心の底から笑ったことが一度もないとのこと。
そんな春日医師の本を読んで心の底から笑っているわたしは、
神の定めた罪を犯したような犯罪者以上のひどい人間なのかもしれない。

わたしは安っぽい感傷家だからすぐに泣いてしまう。
春日先生は池袋のおばさん占い師のまえで泣いたのだが、
それは30年ぶりくらいのことだったという。
どういう過程で精神科医の春日武彦さんは占い師のまえで号泣したか。
まず「人生の迷い」とは具体的にはなにをさすのかと占い師から聞かれた。
それに対し春日医師は、力作がまっとうに評価されない、黙殺される悔しさを述べる。
それから嫉妬心が強く、他人の幸福を素直に喜べないことを白状する。
そして読書家で言葉マニア、頭脳明晰な春日医師は、
自分で自分の最奥の問題に気ついてしまうのである。
おのれの絶え間のない孤独感、不全感、不安感の根源は母の問題にあった。
精神科医は同業者ともいうべきカウンセラーにはかかりたくなく占い師に頼った。
そこでカウンセラーと占い師に共通する方法を明確に発見(言語化)する。
これはじつのところ春日さんが精神科医として、
患者の悩みを聞くときにやっていたことでもあった。

「聴き手に向かって患者(相談者、クライアント)は本音をしみじみと語る――
その行為そのものに、重大な意味がある。
なぜなら聴き手=他人にきちんと分かるように語るためには、
状況や背景や経緯を頭の中で分かりやすく整理し全体を俯瞰(ふかん)し、
そのうえで適切な言葉を与えて(言語化して)喋らねばならないからだ」(P108)


そうすることで患者はなにを得られるか。
1.冷静になる。
2.語ることによって問題点が明確化し対応策に気づく。
3.悩みを共有したという錯覚(?)のため孤独感が消える。
4.悩みを語ることで生理的なカタルシスを得る(せいせいする)。
5.自分を客観視できるようになる。
セッション(話し合い)の着地点は――。
「よくぞ胸の内を話して下さいましたね。
これであなたは解決への第一歩を踏み出したのです」
精神科医もカウンセラーも占い師も、まあ、やっていることはおなじであると。
さて、精神科医の春日さんは占い師のまえで号泣してなにに気づいたのか。
自分を悩ませていたもの(孤独感、不安感、不全感)の正体は母であった。
春日さんの文章のおもしろさのひとつはカタカナの使い方がうまいのである。
それだ! というカタカナを的確に春日医師は用いる。
春日先生は占い師のまえで30年ぶりに泣き、
おのれのミッション(使命、任務、宿題)に気づく。春日さんのミッションは――。

「自分は、(美しく、聡明な)母に愛されるに値する息子にならなければならない。
そのためにはルックスの良さが絶対条件であり、
さらに誰もが感心するような業績を上げてみせねばならない」(P119)


これを春日医師は絶望的なミッションと書いているが実際、絶望的なところがある。
持って生まれたルックスは整形手術をする以外には変えられない。
そして、他人からの評価は自分ではコントロールできないから
(本当はコネや裏金で少々はできなくもないのだが)、業績もどうにもならない。
著者は読者に自分のミッションが理解されにくいだろうことをよくわかっている。
わたしも正直申し上げて、そんなミッションは捨ててしまえと言いたくなる。
しかし、春日医師は反論する。こういう神経症的ミッションがいかにたいせつであるかを。
自分のミッション(問題点、急所)がわかっても、
春日医師やわたしのような皮肉屋はかえってミッションに自縄自縛されてしまう。
そして、この長年抱えているミッション(悩み)がもはや趣味のようなものになってしまう。
神経症は自己嫌悪的なものが多いが、
自分のことを考えるのは楽しいとも言いうるわけだ。
春日先生はここまで苦悩を言語化してしまう言葉の熟練職人なのである。
苦悩が趣味になるというのはわからなくもない。
そうすると春日さんのいうミッションのようなものを自分に当てはめて考えてみたくなる。
春日さんは母への復讐のために母が軽蔑している産婦人科に最初入局したという。
ナースと結婚したのも、
看護師という職業を軽んじていた母への意趣返しの面があったという。
もしかしたらわたしは春日医師と正反対のミッションを持っているのかもしれない。
わたしは17年まえに母から目のまえで飛び降り自殺されている。
母は朝日新聞が大好きだったから、わたしは朝日新聞的な権威が大嫌いである。
母への復讐のために、
これまでわずかながらあったチャンスを棒に振ってきたのかもしれない。
母の願望していた息子になりたくないから、いい齢(とし)をして独身で、
なおかつ派遣などという社会的評価の低い仕事をしている可能性もある。

いままでさんざんほかの読者からも言われたことだろうから、
いまさらわたしがそれを繰り返しても意味はないが、
春日医師は恵まれているのである。
「妻がいる」医師の国家資格所有」「著書多数」「(少なくともわたしよりは)高収入」――。
春日先生はわたしが持っていないものをすべて持っている果報者なのである。
しかし、幸福も不幸も自己申告だから、
精神科医は不幸と申告するかぎりにおいて不幸だし、
趣味と化しているという自覚はあるようだが、
強い孤独感、不安感、不全感はどうにもならない。
言っちゃあ悪いが、こういう人がカウンセリングに行くんだろうなあという典型に見える。
しかし、著者はもっと娑婆(しゃば)っ気(山っ気)があって、
運勢を好転させたいと考えている。
だったら、わたしのように現世利益を願う創価学会を目指せと言いたくなるが、
さすがに孤独な精神科医としては占い、お祓(はら)いまでは行けても、
まがまがしい因縁話を好む仏教にまでは手を染められない。
わたしは占いを突き抜けて仏教の世界に分け入ってしまった。
だって、どう考えても人生は努力というよりも無力で運でしょう。
運を司るような神仏がいるとしか考えられない。
そこにアクセスする手段としてわたしは素人ながらお経を読み込んだのである。
お経を読めば人力を超えた運の世界、神仏の世界へアクセスできるのではないかと。
春日さんは本書で自身の経験したみみっちい(ごめんなさい!)「救い」を詳述しているが、
わたしも不思議な「救い」のようなことを経験したことがないわけではない。
しかし、それはちょっとおおやけにできない話で、
ごくごく一部の人にしか「本当のこと」は伝えていない。
話を本書の占い師に戻すと、
占い師はカウンセラーよりも実効的な面があるのではないかと
精神科医の春日武彦氏は指摘する。

「九割はパラノイアめいた冗談として聞いていただきたいのだが、ひょっとしたら、
占ってもらうことによって不確定性原理――ある現象を観察すると、
その観察行為自体が現象に影響を及ぼしてしまい、
完全に客観的な観察などありえない――と同じ事態が、
占いの場にも生じるような気がしているのである。
もしかすると占いという営みそのものが運命に揺さぶりをかけ、
運命に変化を生じさせる可能性があるのではないか、と」(P204)


わたしはこれをパラノイアめいた冗談ではなく、
ある種の真実を語っているのではないかと思う。
世界の裏側がどうなっていて、どうしてだれにスポットライトが浴びせられ、
どういうわけである人がある日に不幸のどん底に落とされるのかはわからない。
これに対処するには占いやお祓い、山伏、仏典も悪くはないのではないかと。
わたしも今日は勝負どころと思う朝には法華経やら観音経、般若心経を読誦する。
こんな非科学的なことをしているものが、
占いにすがった精神科医をバカにできるはずがなかろう。

とはいえ、苦悩への現実的な対策は占い、お祓い、仏教もいいが、
結局のところ自信を持って「時を待つ」しかないのだろう。
精神科医の春日先生も臨床経験上それはよくわかっているのである。
わかっていても自分では実行できないという因果な状況もわかっているのが、
頭脳明晰な春日武彦医師の悲劇と言えなくもない。
以下は受賞歴多数の心理療法家、河合隼雄の主張とおなじであろう。

「長年精神科医として仕事をしてきて知ったことのひとつに、
自信や確信の効用といったものがある。
同じアプローチをしても、自信を持ってそれを行うか否かで結果はまるで違う。
ただしそれは「必ず成功する」といった確信ではない。
すぐに望んだ結果は出なくてもそれは必ず将来への布石になる、という確信である。
遠からぬ未来に成功するかもしれないし、
もしかすると状況が変わってもっと別な結果を迎えるかもしれないが
いずれにせよ現状維持よりはマシになるだろうという確信である。
いや、むしろ「状況が変わって、もっと別な結果を迎える」ことを漠然と想定して
それがどんな形で実現するかを楽しみに待てるだけの心の余裕、
と言い換えても良いかもしれない」(P114)


この自信や確信、心の余裕が持てないから、
人は孤独感、不安感、不全感に押しつぶされないように
精神科医、カウンセラー、占い師、お祓い、宗教、自己啓発セミナーに
「救い」を求めるのであろう。「単純労働」もときには「救い」になる。
春日武彦医師には庶民コンプレックスのようなものがあるようだ。

「私小説を書きたい意向が若い頃からあり、
しかし自分には小説の材料となるような奥行きを持った体験などなかった。
マクドナルドで接客をするとか、工場でラインに立ってみるとか、
ティッシュを配るとか、運送会社で荷物の積み下ろしをするとか、
そういったアルバイト経験すらない。
主観的には決して気楽ではなかったものの
客観的には「ぬるい」人生しか送ってきていない。
家庭が健全であったとはまったく考えていないが、
崩壊家庭とか修羅場であったわけではない。
借金なんてしたことがないし、不治の病に苦しんだこともない。
人間関係のトラブルだってせいぜい小競り合いのレベルに過ぎない。
語るに足る人生なんか(幸か不幸か)送ってこなかった」(P26)


春日先生に提案したいのは、いっしょにスポット派遣をしませんか?
世の中にはシールを貼るだけとか、ものを数えるだけという底辺仕事があるんだ。
そういうのは派遣でまかなわれていることが多く1日だけの就業も可能である。
派遣は高齢者が多く65歳なんてめずらしくもなく、74歳までいると先日耳にした。
しかし、はじめて派遣を経験するのが不安というのも理解できる。
わたしがご同行いたしましょう。
いまの派遣会社にいい案件がないか聞いてもいいし(そこは高齢者がいっぱい)、
派遣会社なんて腐るほどあるので、
派遣登録からいっしょに行くのも経験として悪くないでしょう?
完全にお金目当てではないから、時給900円でも950円でもいいじゃないですか。
ああいう派遣で単純作業をしている人はおよそ精神科とは縁がない人たちだから、
春日先生の「詩的発見」につながることも少なくない気がする。
ひとりで行くのは怖いでしょうが、わたしがいっしょだったら大丈夫。
次作は「鬱屈精神科医、派遣をやってみる」なんていかがでしょうか?
おもしろいと思うけれどなあ(九割はパラノイアめいた冗談)。
どうしてこんな一見すると馴れ馴れしいとも思われかねない記事を書くのかというと、
じつはこの本は8月半ばに春日先生からプレゼントされているのである。
サインまで入れてもらっちゃったよ、あはっ。
人からいただいた本の感想を書くのは、
素人の手料理の感想を口にするのと似た難しさがある。
もしよろしければお目についたときでも、この感想を100点満点で採点してください。
人生にも他人にも期待しないよう心がけているので無視でもぜんぜんOKです。
最後に春日先生のシャウト(叫び)をファンのわたしも真似ておく。

☆「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」

こんな本当のことを書いてもいいのかな。消せと言われたら消すからね。
宮本輝は20年近くまえから、気持の悪い狂信者ファンクラブに関わっている。
自称「てつやぁ」が主催するネットの極めて閉鎖的なファンクラブだ。
15年くらいまえだったか、
ここでわたしはテルニストのひとりから宮本輝が学会員だという証拠をいただいた。
当時は(いまも?)テルニストなため、律儀にお礼を返した記憶がある。
テルニスト掲示板でわたしは宮本輝の本当の姿を知ったような気がする。
自身が賞の選考委員をしている三島由紀夫の作品をガラス細工だとこき下ろした直後に、
掲示板管理人に処世を考えたのか削除させている。
古株編集者に裏切られたと、いい老年が泣き言を書いているのには微苦笑した。
いつしか宮本輝ファンクラブのテルニスト集団は閉鎖化した。
会員にならないと宮本輝師匠や古株先生たちの記事を読めないようにした。
宮本輝は師匠の奴隷になれとしきりに小説に書いている。
そのためには自称師匠の宮本輝の言葉を知らなくてはならない。
テルニストになるには「てつやぁ」さまに住所氏名電話番号職業を伝える必要がある。
もうなにも怖くない。
わたしは9月22日に宮本輝ファンクラブの会員登録をした。
ネットに記載されているところでは数分後にパスワードが送られてくるとのこと。
しかし、宮本輝軍団は住所氏名電話番号職業まで公開したこちらを完全無視。
責任のある有限会社テルプランニング(072-781-5667)に
何度電話してもいつも留守番電話。
留守番電話に吃音のわたしがどもりどもり2回メッセージを残したが返信はない。
宮本輝とかその狂信者ってこういういいかげんなやつなんだなあ。
いや、紫綬褒章作家の宮本輝氏はご健全で、
側近がなにやら不正を働いているのかもしれない。
会員登録をした。氏名住所電話番号職業を伝えたらパスワードが来る。
それが宮本輝の決めたルールでしょう?
もう1週間も経つのに宮本輝および狂信者グループからは連絡がない。
そんなやつらが正義を語っていいのか? テルニスト、おまえらなにさまだよって話。
おそらく宮本輝先生はこの話を聞いて、即刻わたしにパスワードをくださるはずである。
先生は師匠だからそういう人であるとわたしは思っている。
きのうわたしが派遣で行った東村山は、
考えてみたら信濃町みたいなアノ、アレな場所だったのか。
朝木明代とかいう市議が創価学会に殺されたという(?)、いわく因縁がある。
よく知らないが(興味もないが)、いまは娘が市議(権力者)なんでしょう?
派遣をひとり東村山にぶっこむのに政治も宗教もないだろうが、
わたしは創価的にはどういうあつかいなわけ?
創価学会の味方? それとも敵というあつかい?
なーんか、創価学会批判サイトから同志としてリンクをはられているけれど、
わたしってアンチなの? 創価学会の泥臭い善人主義、全員主義、軍団根性は好きよ。
生まれたときから創価に洗脳された美少女に毎日「きちんとしましょう」
とか教育されないかぎりわたしの人生は終わりだと思う。
まじめに生きるべきかと悩みは深いが年齢も年齢だし、
それとは関係なく明日は創価学会の聖地、信濃町にある慶応大学病院に行く。
予約は14時だったかな。学会員さんさあ、施設の案内をしてくれませんか?
あのへんのあれは学会員でしか入れないけれど、紹介者がいればOKなんでしょう?
見てみたい。創価内部の世界を知りたい。
死にかかっている携帯電話にだれかかけてくれないかなあ、学会員さん。
創価学会本部に電話すると氏名、住所を聞かれ、お役所的な対応しかされない。
電話相手は名前さえ名乗らないし、
名前を聞いても高圧的に答える必要はないと拒否される。
でもさ、それが本当の創価学会ではないでしょう?
派遣仲間だったAさんから、ツッチーの目は死んでいないねと言われたことがある。
同年齢の派遣男性と比較しての話である。
たしかに同年代の男性を見ると、目が死んでいる人が少なくない。
蓄積された長年の労働疲弊で凝り固まった世界観が目を殺している。
そのぶんわたしは世間知らずだが、目が死んでいないフレッシュなところがあるのだろう。
何度書いても理解してもらえないがYonda?とリアルなツッチーは別人。
なまのツッチーをひと目見てもらえばわかると思うが、
わたしは老け顔らしいがそこらの41歳よりよほど目がいきいきしているのではないか?
昨日なんかも全身スポンジ吸収身体だったから。
社員が交わす携帯電話の言葉、倉庫のほかの場所の若者たちの動き。
そういうものを実際のわが目で見ることでいろいろ吸収している。
むかし副工場長のコカから給料分以上に働けと言われた(サービス早出をしろと)。
苦労した高卒の彼は師匠からそう教え込まれたのだという。
わたしのモットーは給料分以上のもとを仕事から取る。
世間知みたいなものは働くことでしか得られない。
それが下層労働世界であればあるほどリアルなそれが得られる。世界の構造がわかる。

Aさんと最後に逢ったのはパチンコ仕事が終わったあとのインド料理屋。
浮間舟渡の「ダリヤ」という店の食べ放題、飲み放題だった。
3500円だがこちらは10パーセント引きのチラシがある。
聞いたら食べ飲み放題では350円は割引できないという。
だったらキングフィッシャー(インドビール)でも2本つけてよとお願い。
うちにはネパールのビールしかないとのことで、だったらそれを2本。
経験したことのない味って興味しんしんでおもしろいよねえ。
ところが、57歳のAさんはネパールのビールなんか飲みたくないと。
そういう考えだと目が死んじゃうぞ、あはっ。
ひさびさの(ネパール人がつくった)インド料理を満喫した。
インドカレーはマトンの肉がうまかったが、総じてインドやネパールではなく日本の味。
本場のものを出してしまうと日本人の客が来なくなると聞いた。
バターチキンカレーとかインドで食ったものはもっとうまかった記憶が。
しかし、そういうものなのだろう。

Aさんはもう2週間ごとに夜勤、昼勤のシフトが変わるという、あの工場で働き始めたのか。
こういう気持から早く携帯をかえなきゃいかんとか思うわけで。
時給900円でも給料分以上のもとを取れる仕事ならしてみたい。
えへへ、もうどこも雇ってくれないかもだけどさ。
コージーコーナーはさすがにあれだったけれど(金銭的時間的に納得できない)、
こうしてAさんと知り合えて給料分以上のもとはもしかしたら取っているのかもしれない。
会社のために働くな。自分のために働け。世界の輝きにそのとき気づくだろう。
うわっ、おれ、なにさま? 嫁のキテもない底辺下級派遣労働者の分際で。サイテーだ。
いまは人口比率的にむかしのように△ではなく逆ピラミッド▽。
偉ぶった古参の古株的な老権力者が、
むかしなら死んでいるのにいまは元気で大勢生きてアンチエイジングだかなんだか、
長老ぶって高い給料を取りながら尊大にも若者に説教をしている。
社会を変えようとは思わない。だって、社会は個人のちからでは変わらないから。
うまいこと長老権力者にかわいがられて底辺から引き上げてもらえないかなあ。
おそらくそういう願望をいだいている青年や中年は大勢いる。
彼らはみんな長老に対して口先だけのヨイショをするだろう。
ありきたりだ。どこにでもいる。
長老権力者に喧嘩を売ってみたら、こいつは見どころがあると思ってくれないかなあ。
どの業界でも上からの「引き(コネ)」が肝心なのは男社会の真実だろう。
わたしは恩を裏切らない。しかし、非道なことをされたら忘れず復讐を努める。
これってまるで学会員メンタリティーじゃないですか?
選挙では毎回公明党に入れて、
ブログでラブコールを送っているのに連絡がないとはどういうことか?
勧誘は白ゆり部隊というか、
婦人部ではなく女子部の、妙なる白蓮華を生意気ながら希望します。
テレビや新聞は見ないから社会情勢といったものに疎い。
昨今評判なのは「貧困女子」。なーんか、違うんだなあと思うことがある。
「貧困女子」をメディアで紹介しても、社会問題として論じても意味がない。
そんなことをするより個人として「貧困女性」のひとりにどう親切にできるかが問題では?
しかし、他人に親切をするのは難しいぞ。.逆に恨まれることさえ多々ある。
だから、みんな個人問題であるところの「貧困女子」に個人としてかかわらないで、
社会問題として論じることで善事をしたいい気分になるのだろう。
「貧困中年」「老後破綻」「ワーキングプア―」という社会問題はテレビや新聞の話で、
そこに逃げることで個人のそれぞれの問題から目を背けている面もあるのだろう。
しかし、社会問題を語っているうちは自分はよき社会人だとご満悦。
むかしから言い尽くされた話をなにをいまさらって言われそうだが、やっぱりそうじゃない?
男はこのくらいいいやってアバウトになるときが多いよね。
女は生活感覚が鋭くて10円だろうが1円だろうがこだわりを見せる。
だから、どこも男社会なんだとか、女はめんどうくさいとか言ったら差別になるのだろう。
男って仕事にも夢のようなものを求めるじゃない?
去年働いていたリネン工場のコカは、
いっしょに酒をのむごとに「いまビックなプロジェクトか動いている」とか、
「おれは有能だからほかの事業所からもスカウトされている」とか、
「工場長が無能でおれがいないと仕事が回らないから手放そうとしない」とか。
わたしから見れば(現実ではない)夢のようなものを熱く語っていた。
そういう体験をできたことは、
意味不明に突如退職勧奨されたけれど、あそこのいい想い出。
男ってそうなんだなあという。
男よりも女のほうがどちらかと言えば現実を見ている。
なぜなら女は男から買われるところの商品という面もあるからである。
女は加齢とともに値段が下がるという身もふたもない現実に、
子どものうちから気づく。男の視線から自分の商品価値を知ることも多かろう。
男はそういう現実感覚に乏しいから20代で結婚してしまい、身動きできない状態になる。
夢を追う若いシンガーに奉仕しても、結婚するのは正社員というのがほぼ女というもの。
わたしはおふるの修理不能なほど壊れたさんざん遊ばれた中年女性でも大歓迎だが、
それすらも得られないのが夢を見てきた男の現実というものである。
昨日の話。
スポット派遣とか世間的な「格」としては最低だけれど、いい人生体験になるんだ。
日雇い派遣はおもしろいよお。やったことがない人を誘ってみたいくらい。
だって、いきなりどこに飛ばされるかわからないんだよう。
どんな作業をさせられるのかもわからない。
それって見方しだいではわくわくどきどきじゃん。
お金をもらえる海外個人旅行みたいなもん。
昨日の東村山は携帯のバッテリーがどうのという仕事と
派遣のイケメン社員からは聞いたが、実際はカイロの仕事。
カイロの封入間違えが1件あったらしく、
なら出荷まえにぜんぶそれを再チェックしようという。
4人グループでやったのだが(社員1、派遣3)わたし以外はみんな顔見知りのお仲間。
困ったのがランチ。わたしは働いているときはランチを取らないことが多い。
そもそも空腹を感じないし、過敏性大腸炎の気(け)もあるからだ。
どうやら吉野家に行こうという話になっている。
わたしは吉野家のみならず牛丼屋にはこの30年近く行ったことがない。
なんか牛丼屋でメシを食うってライン作業みたいじゃないですか?
しかし、もうわたしだって大人だし、みんなと合わせようと。それが大人でしょ?
みんなが牛丼を注文していたので、和を以て貴しとなす。
わたしもおなじように牛丼並盛のサラダ味噌汁つきを注文。

ここで正義について深い考察を得ることになる。
みんながテキパキと口に入れている、吉野家の牛丼がまずくて食えないのである。
本当に吉野家の牛丼は当方の口に合わなくて3/4以上残した。
吉牛から正義の話をするなと叱られそうだが、正義ってなんだろう?
吉野家の牛丼は大勢の人たちから評価されている食べ物なわけでしょう?
それをまずくて食えないというわたしの舌が正義なわけがない。
吉牛が食えないなんて書いたら、日本人男性の半分以上を敵に回してしまうのか?
でも、女性読者がひとりでもいればいいもん、ぼくぼくぼく♪
サラダと味噌汁は完食するがとくにめぼしい感慨はない。
困ったことは、お若い社員さんがランチ代金をぜんぶ持ってくれちゃったこと。
あとで「部長」に払ってもらうと言っていたから、
彼のふところは痛まないのかもしれないけれど。
わたしがなによりも嫌いなのは、食べ物を残したり捨てたりすることだ。
罪悪感で胃がきりきりよ。
その我輩が半分すら食べられない吉野家の牛丼は、いったいなに? どうなってんの?
もちろん、間違っているのはわたしで、
正しいのは多くのお客さんから評価を得ている吉野家だろう。
大げさだが、正義っていったいなんだろうか?
携帯電話(ガラケー)が虫の息である。通話もままならないって、それゴミじゃん?
ワンコインワーカー(日雇い派遣、スポット派遣)が携帯を失ったら餓死が近い。
さいわいにも携帯をかえるくらいの余力はまだあるようだが、めんどうくさい。
おれさ、芥川賞作家の柳美里以上(以下?)に生活能力がないんだ。
携帯をかえるってどの機種にしたらいいの? どのプランがいいの?
おれ、人生でスマホなんて使ったことないよ。
こういうときに生活能力あふれる女性が現われて、
これ、これにしなさい、このほうがお得だからとか指示してくれたら惚れちゃう。
おれの理想はそういうタイプなんだなあ。
昨日なんか派遣仕事後の連絡で携帯が使えなくて公衆電話を利用したから。
長らく相棒だった携帯電話の死亡とシンクロしておれも消滅してもいいか――。
なんて書いても誰も助けてくれない秋の空。秋が来たら冬は近い。
今日は山田太一の「3人家族」の感想を書いて、それからそれから――。
といろいろ計画していたけれど、身体が疲れていてこれは無理かと。
ワタミのあの人のように「無理と言わない」でやろうと思えばできるのだろうが、
いいかげんなごまかしをブログに書きたくない。
昨日はちょろいと思っていた肉体労働だが、馴れない動きがよくないのだろう。
今日はあちこちが筋肉痛で尻(に筋肉なんてあったか?)までなぜか痛い。
もう齢(とし)なんだろうなあ。

読者さまに質問しているわけではないが、作品感想と雑記のどちらがおもしろいのだろう。
書き手としては雑記は楽勝で、なにも考えなくてもぽんぽん書ける。
しかし、作品感想を書くのは相当なエネルギーを要する。
でも、数少ない読者さまのなかには、
稚拙な感想文よりもまだ雑記のほうが読めるという人が割合的に多そうで、
そうだとしてもそういう事実は知りたくない。
おもしろいかつまらんかは作者にはわからんが、
身辺雑記めいたものを書くのはチョー楽よ。
身辺雑記レベルのブログさえ更新できないブログはよく見かけるが、
どれだけお疲れなのか?
わたしが聞き書きでゴースト差し上げますから、どうかお雇いくださいと。
むろん著作権放棄でOK。

意味不明なブログって多いよね。
匿名で無名なのに、作家きどりで1ヶ月更新しないで、だれも読んでいないのに、
長らくブログ更新をしないでごめんなさいとか書いているブロガー。
だれもおまえやおれの身辺に興味なんかないんだぜ。
もうみんなからばれていると思うけれど、あたいたぶん精神病ばってん。
だんから、これから書くのはきちがいの妄想だと思ってくれてけっこうじゃけん。
もしかしたら我輩さまはけっこうポテンシャルが高いんじゃないかなあ。
本気を出したらかなりのことがやれるのではないか?
というのも、基本的におれは運がいいし、育ちも悪くないし、悪質ではないから。
だれかおれを本気にさせてくれよって話だが、
自分で本気になれと匿名から説教されるだろう。
いちばんいいのは悪い女にだまされることなんだなあ。
1.女を好きなったら本気を出す。
2.悪い女にだまされすっからかんになったら火事場の馬鹿力を出すだろう。
うまく女に惚れたいんだなあ。
どうしてそこらの赤ら顔のおっさんでも結婚しているの? うちのかあちゃんがとかさあ。
だれかおれを本気にさせてくれ。
そんなことを見透かされ,
高島平の優秀なホシノさんからナンパをしろとけしかけられたのだろう。
でもさ、ナンパって法律的にはセクハラでしょう、わっはっは。
いま電話があって明日8時半に東村山に来いってさ。「駅探」で調べたら――。
これは明朝起きて、さっと確認するために書いている。
浮間舟渡7:19発埼京線。
池袋到着は7:34で、7:47発の西武池袋線(急行) [飯能行き] に乗る。
所沢に着くのは8:14で、今度は8:19発の西武新宿線(準急) [西武新宿行き] に乗る。
そうすると8:23に東村山に着くらしい。交通費は片道510円か。
ほら、わかったでしょ? わたしは電話1本でどこにでも行く底辺労働者。
飯能はピクニック目的でむかしよく行ったなあ。
明朝は6時起きで大丈夫かしら。
そのぶん読んだ本の感想が遅れて、
ある新刊をプレゼントしてくださった先生には本当に申し訳なく思っています。
なぜか一部では広まっているわたしの真夏パチンコ会社肉体労働。
わたしは1Fの物流だったけれど、聞いた話だとみんな1Fから逃げていったとのこと。
なぜなら1Fはとにかく暑いから。
クソ暑い1Fからエアコンの効いた2F、3Fに上がっていった人たちがけっこういたらしい。
わたしはといえば1Fもそう嫌いではなかった(そもそも上階を知らないからか)。
なんといっても1歳年上のホシノさんのおかげだろう。
ホシノさんは仕事を教えたり、指示したりするのがうまいのよ。
的確に感情を交えずバカなわたしにも納得できるようテキパキ仕事を指示してくれる。
ああ、この人は優秀なんだなあ、と思ったものである。
おなじセクションにいたイワマという冴えないおっさんは底辺の見本のようだった。
どこの職場に行っても黙々と底辺で働いているんだろうなあ、という。
コミュニケーションができないおっさんとは仕事ができないっしょ?
なにかを聞いても無視されるとか何度もあったけれど、
だからおまえは一生底辺なんだって。
その田舎くさい顔、古株にはペコペコする土俗性、いきなり東北弁でぶち切れる。
イワマはキングオブ底辺という感じで、じつにいいサンプル(標本体)になった。
仕事最終日に今回がはじめてという打ち上げがあり、
新参のわたしも参加させていただいた。
会社が金を出してくれたといううわさ話だったか、
通常3千円の飲み放題食べ放題が2千円ポッキリ。
そのうえお会計をしたときなぜか5百円をもらったから、
あれは社員さんが多めに出していたのではないか。
赤羽の鳥貴族は金曜日だからか大繁盛していた。
鳥貴族でいっときの師匠、高島平のホシノさんから出されたミッションはナンパ。
近くの席にいる美人OL4人組をナンパして来い。
もちろん、酔ったうえでの冗談だろう。
ナンパはなにかいまのミッションのようにも思えて、
別の派遣同僚に結婚したきっかけを聞いたら(仕事中にそんな立ち入ったことを聞くなよ)
ナンパだったらしい。いまは協議離婚したらしく、ほらあの健康食品販売の好人物。
ナンパかあ。新たなミッションだなあ。
万が一、ナンパに成功しても
わたしと一緒に短時間でも過ごすのは不愉快じゃないかなあ。
ナンパって顔と雰囲気だけで選んでいるわけだから、
収入や肩書は不可視なため、そのぶん本物っぽいところがあるのかもしれない。
逆ナンされたら99%
ほいほいどこまでも創価学会文化会館までもついていくんだけれどなあ。
おとといだったかなあ。
山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」一挙放送全12時間半をジェイコムでライブ視聴。
だってもう録画する余裕がないし、録画できてもそんな長時間見(ら)れないもん。
一気に見た感想は疲れた。
いきなりトイレにも行けないから食品摂取どころか水分補給でさえ抑えた。
ドラマの感想はって12時間半、飽きっぽいわたしが見続けたのだからわかるっしょ。
何度も何度も大笑いして大泣きした。若いころの栗原小巻って美人だあね。
しかし、釣り合ってもんがあって、
相手は一流商事会社のエリートと一流カメラマンだったか。
冥途の土産に恋愛とかしてみたいけれど、
いまのおれのスペックでは売れなくて本番風俗でさえクビになった四十女くらいでも、
持って瞑すべしというか大感謝しなければならないのだろう。
どんなわけありな女でもわたしには充分すぎるが子持ちだけは勘弁して。
殴っちゃいそう、蹴っちゃいそう。オスガキではなく美少女だったらむしろ大歓迎。
そうそう40オーバーのしわくちゃばばあだったら14、5歳の娘がいてもおかしくないのか。
そういう子からパパとか呼ばれるってどんな体験なんだろう。
いま携帯電話が本当にやばい。
さっき受信さえまともにできなかった。
買い替えなきゃなんないのはわかるけれども、めんどうくさくて。
電話は派遣会社で明朝東村山に行ってくれないかだって。
身体もなまっているし、力仕事だっていうし、お世話になった人だしOK、OK。
でも、うちから東村山だと1時間以上かかり交通費は片道550円。
1日だけのスポット派遣だと社会見学のようなもので人生経験値が増えるのでいい。
自分の目で見ないとわからないものってあるじゃないですか?
わたしは自分の目であるかなきかの「現実」を見たい。
精神病だった母は自殺するまで「ケンジはおかしい」と言っていた。
精神病なのは自分ではなくケンジであると。
そう言われている苦しみを別居している父に訴えたら、「おれには仕事がある」。
母がわたしの目のまえで飛び降り自殺をして、ぐちゃぐちゃになって死んだ。
その後は父が「ケンジはおかしい」と言うのである、
なにかにつけて、「ケンジはおかしい」。
読売新聞とテレビを見ている自分は間違っているはずがなく、「ケンジがおかしい」。
おれは間違っちゃいないね。おかしいのはケンジのほうだ。
母と父からおかしいと言われ続けた人生でした。ブログのコメント欄でもそう。
もういいよ。お疲れさまでしたおれさまでした。
全方位に謝罪する。おかしいのはぼくぼくぼく、わたしわたしわたし。
わかったよ母よ父よ。あんたらは偉い。早く死にたいなあ。
わたしは精神科や心療内科に一度も行ったことはないが、母は精神病だった。
精神病だった母はわたしのことを精神病と診断し、
秋葉原の四宮医師もわたしを精神病と診断していると声高らかに笑った。
わたしは母の死後、四宮医師と面会したが善良な職業人であった。
母の死後、日記を見るとわたしの悪口ばかり書かれているのである。
母は勝ったと思う。いまのわたしは社会的評価といっさい縁なく、
孤独で虚無的な最低の四十男になっている。
母は勝った。わたしは負けた。それだけの話。母の呪縛は怖いという話。
――みんな死んだら終わり。
むかしは街中で美男美女のカップルとか見るとムカついたけれど、
いまはほのぼのええなあ、ええなあと。
高校生の美男美女カップルとか見ると最高に幸せな気分になるねえ。
美しいものはよろしいでがす。
未来や青春や希望の香りがするものはよろしいでんがな。
この子たちはどれほど幸福なんだろうと妄想するとこちらも楽しくなってくる。
なぜなら、来世への希望が生まれるからである。
まあ、いまはハズレ籤(くじ)を引いちゃったけれど、いわば籤はハズレが当たり前。
人生こんなもんだし、そんなもんだし、まあ、そういうことよ。
どうせ死んでも生まれ変わってくるんだから(当方の妄想=信念)、
来世でああいう思いができたらなあ。できなくてもそのまた来世で。
若い美男美女のカップルは本当にいい。ほれぼれする。
母が自分のいろいろな問題をそのまま放り投げて投身自殺をした。
父はその問題から逃亡したから、
必然として当方が地獄絵図のようなアルバムを継承した。
おれは百歳まで生きて仕事をすると言っていた父も去年脳内出血。
当方は母からも母の主治医だった秋葉原のS先生からも精神病診断を受け自滅寸前。
父が死ぬのと私が死ぬのとどちらが先か。
父に先に死なれてしまうと後処理がめんどうくさいなあと。
しかし、もうすぐどちらも死ぬだろう。そうしてはじめてこの重い問題は消える。
父からは「土屋の血を絶やすな」と言われているが、不幸を連鎖させてどうする?
もし私が運よく偽善女をだまして家庭をつくったら
(それが当方の容貌、収入ゆえに困難なことは救済)、また不幸が継承されるわけだ。
いろいろ調べたが、もとから父の実家も母の実家もいろいろ難題をかかえており、
その結晶として父と母が結婚して私が生まれた。
母はもうとっくのむかしに私の目のまえで、なにかへの復讐のように死んだ。
父も私も、おそらくもうすぐ死ぬだろう。これですべて消滅する。それでいい。それがいい。
まったくまったくめんどうくさいうんざりげんなりな鬱陶(うっとう)しい人生でした。
陰鬱で孤独で絶望的な日曜日を無為にだらだら時が過ぎるのをぼんやり眺めている。
ケチのつきはじめは母の発狂で10年以上、精神不安定、精神異常の母の相手で困った。
そのあげくが目のまえで自殺されて、死後発見された日記には悪口がぎっしり。
だれも自分の気持をわかってくれないだろうとすべての知り合い親戚と縁を切った。
友人はひとりもいなかったから、まあ、わたしも精神病なのだろう。
母は重いものをすべてわたしに押しつけてひとりで極楽浄土にいってしまった。
父は母からは逃げ続けで、母のことはすべてわたしに任せるといって仕事に逃げた。
ヘビーなお荷物をかかえながら、なんとか踏みこたえて一線は超えなかった。
宮本輝の小説のような「救い」があると信じていた時期もあったが現実は違った。
少年時代からわたしは父と母のダブルスパイをやらされていたようなものだ。
早くから別居していた両親だが、ふたりの交渉人の役をなぜか押しつけられた。
繰り返すが、そのあげく母から復讐のように目のまえで飛び降り自殺をされ、
血まみれ死体を見させられ、死体処理をいやいやながらせざるをえなかった。
父の携帯に電話したら、いまから仕事に行くからで、男は通夜にも葬式にも来なかった。
母はむかし一時期ナースをしていたようで、そのときの友人がいたと聞いた。
わけもわからずお葬式に呼んだら、そのいまは偉くなったナースは香典をくれた。
香典返しはいらないと言われたし、ほとんど人の集まらない葬式だったから、
そういうお返しをしなかったら、かの母の友人は怒ったようだ。
母に目のまえで自殺されてどうしたらいいかわからないわたしがナースに電話して、
せめて母の若いころの話を聞きたいとお願いしたらけんもほろろに拒否された。
あとで別から聞いた話だが、ナースは母のことを友人ともなんとも思っていなくて、
ただの迷惑なきちがいと避けていたらしく、わたしもきちがいあつかいだったとのこと。
母は精神科に通っていたが、自分はうつ病だと言っていた。
死後知ったが、実際は妄想のある躁うつ病(非定形精神病)であった。
母はよく言っていた。ケンジ(わたし)のほうが精神病よ。
S先生(母の主治医)もケンジは精神病と言っているわよ。
一度、診てあげるから連れてきなさいよって。
父にいくら問題の重さを訴えても、「おれには仕事がある」「それはケンジに任せた」――。
父とわたしの関係がいいはずもない。
いままで父からは年に2、3度電話が来る程度だった。
数年間、一度も逢わない時期もあった。
去年父が脳出血で倒れ半身麻痺になる。
いまは父からひんぱんに電話が来る。逢いたいという。
なぜと聞いたら、おまえを心配している。
お人よしにも逢ったら逢ったで言われるのは、
「おまえは息子なんだからもっと父親の心配をしろ」。
新聞とテレビが大好きな父は、おまえは世間を知らないという。
両親の墓のことでもゴチャゴチャがあって、
これはネタとしておもしろすぎるので、ここに書くのはもったいない。
先日、また父から電話が来て墓をどうしろこうしろと、
まるで部下にするように指示してくるので、わたしは電話で大声で怒鳴った。
父はシュンとした。父相手に大声で怒鳴ったのはたぶんはじめてだろう。
それからラッキーなことに電話が来ない。

母が自殺したころ、香港の美少女とメール文通(英語)していた。
香港美少女とはインドのアーグラでめぐりあった。
香港へ彼女に逢いに行き、家族と対面したこともあった。
母がわたしの目のまえで飛び降り自殺をしたとき、
そのいきさつをまたまた和英辞典、英和辞典にかかりきりで書いた。
その返答は、ものごとをプラスかマイナスかどう見るかは、
その人の視点による――であった。
なにもわかってくれないとわたしは彼女との縁を切った。
というよりも、メールの返信をどうしても書けなかった。
その5、6年後に今度、大阪に取材に行くが逢えないかとメールがあった。
彼女はジャーナリストになっていた。わたしはなにものでもなかった。
またもやメールには返信しなかった。
母の死後、17年が経ち、いまは彼女の言い分もわかる。
なにが言いたいのか。
このブログ記事は当方のマイナスではなくプラスを書いている。
当時は友人と言えば香港の女の子ひとりしかいなかったが、
いまはこのマイナス記事がプラスでもあることを
(おそらく)わかってくれる友達がふたりいる。ひとりからふたり。
17年でそれだけかよと笑われそうだが、見方によっては倍増したのである。
「人生の道しるべ」(宮本輝・吉本ばなな/集英社)

→対話集だが、これはとくに宮本輝に言えるのだが、
作家というのはうまい(売れる)小説を書ける人というだけなのに、
どうして人さまの人生指南をしたくなってしまうのだろう。
やはり宗教が関係しているのかなと遠藤周作もそうだったなあと思う。
15年くらいむかしのわたしにとって宮本輝は絶対的な師匠ともいうべき存在で、
とにかく逢いたかったけれど師匠が池田大作を畏怖するのとおなじで、
わたしも宮本輝がとても怖い師匠に思えて逢うなどとんでもないと思っていた。
それがいまでは宮本輝にことさら逢いたくもないし、
怖い人どころか師匠とさえ思っていない。
これは紫綬褒章作家の宮本輝の成熟、老成の深みに、
わたしがついていけなくなったからだろう。
氏はわたしなんぞが理解するには及ばぬほどの文学的高みへお登りになられた。
宮本輝が堕落したのではなく、わたしの劣化が著しいのだろう。
氏は苦労自慢(不幸自慢)を好んでするが、
いまから見たら若干30歳で華々しく世に出て、
32歳の若さで軽井沢に別荘を購入している。
それから40年近く文壇の第一線で成功者として大勝利人生を歩まれておられる。
もう充分に人生のもとは取ったであろうが、その自信が宮本輝に説教をさせる。
おまえら、なんか文句があったらおれのように大勝利してから言えよ!

「いまは「あしたの千円よりもきょうの百円」でしょうから、
あしたのことまで考えてられるか、まして三十年後のことなんて、と。
「十年一剣を磨く」という言葉がありますが、
たとえば剣道なら十年竹刀を振り続ける。
最初の一日目なんてへろへろになるけれども、これを十年やることで、
ものすごい大きな結果へ至るようになる」(P48)


もう40年も富裕層として大勝利人生を満喫していらっしゃる氏は、
いまの社会底辺に埋もれている人のことをなにも知らないのだろう。
そもそも逢うことがないだろうし、逢っても通り一遍の励ましをするだけで、
胸襟を開いて話すということがない。
わたしはまだギリギリそこまで行っていないが本当の貧困中年にとっては、
「あしたの千円よりもきょうの百円」なのである。
その百円がなかったらあした派遣先の職場に行けないという感じで暮している。
それも彼の努力が足らないからというのではなく、
同身分ゆえ厚かましくも人生来歴を聞いてみると、よほどわたしよりがんばっている。
宮本輝は小説のなかで恵まれていないものを努力が足らない、
それは修業しなかったからだと老いた富裕層に批判させるが、
てめえの目でものを見てから言えと申し上げたくなるが、聞く耳を持たないだろう、
「10年やれ」というのは宮本輝だけではなく、多くの成功者が好むフレーズのようだが、
ブログ「本の山」はもう今年で12年になるが、まったく世間からは評価されず、
それどころかアクセス数は下がるいっぽうで、
むかしはよく来ていたメールもぱたりと来なくなった。
それが当方の人品の卑しさ、心根の悪さの「現証(結果)」なのだろうが、
こうまでだれからも相手にされず黙殺されると
無力感、不全感、孤独感に押しつぶされそうになる。ひとりでさみしい。
宮本輝はよく30年後を見据えて生きろと説教しているが、
どのみちこちらは不健康な生活をしているのでそんな長生きはできそうもなく、
30年後の1千万よりもいまの100万円がほしい。インフレだってないとはいえない。
いくら職人が30年腕を磨こうが技術革新で全部パア。
かなしくも熟練職人が失業者になってしまうのが進歩のやたら早くなった現代社会である。

売れなくなった老作家は(それでも過去の印税収入があるんだからいいだろう?)、
かならずといっていいほどいまの売れている作家を批判する。
本人は師匠先生きどりで若僧を叱っているつもりなのだろうが実際はパワハラだ。

「ぼくは、死生観が根底にない物書きは、ぐらぐらすると思います。
最近の作家たちでせっかくいい才能があるのに伸び悩んでいる人の脆弱さは、
ここに原因があるのと違うかな。
作家は生とはなにか、死とはなにかの問いに入らざるを得ない。
死という不可視なものを描くからこそ、
自分の生死に関する哲学や思想の立ち位置がものをいうと思う」(P111)


宮本輝の死生観は自分で考え尽くしたものではなく、
創価学会で教わった借りものだが、それでもないよりはいいのだろう。
だったら、わたしも創価学会に入りたいと思ってブログでアピールしても、
いまの創価学会さまはお偉くなったようで当方ごとき下層民は相手にしてくれない。
宮本輝の死生観は池田大作に教わったものらしいが、
宮本輝はそれにうまくだまされることで、
本当に自分のあたまで死を考えることから逃げている。
しかし、それが賢い生き方とも言えて、
なぜなら紫綬褒章作家の氏はいま大勝利という現証が出ているからである。
大勝利作家である宮本輝(池田大作)の死生観を拝聴しよう。
宮本輝は池田大作のことを創価学会機関紙(誌)以外では「ある人」「その人」という。
やはり自分が学会員であることを隠したい気持が働いているのだろう。

「その人は、人間一人一人の命を万年筆のなかのインクに譬(たと)えていました。
命が尽き、臨終を迎えたとき、このインクの一滴というあなたの命は、
海にぽとんと落ちると。落ちた瞬間はまだインクは青い。
でも、たちまち広がって、もうインクの色などなくなる。
しかしインクは消滅したのではないよね。そのインクは、
海水に溶けた状態で厳然と存在しているのだ、というのです。
海そのものになることが、死なのだと。(……)
海、あるいは大宇宙そのものに溶け込んでいくことで、
なんらかの縁が重なり合い、また別の存在として再び生まれてくると。(……)
これは輪廻転生ともまた違う捉(とら)えかたですよね。
そのまま戻ってくるんじゃなくて、また別のものになるわけです。
ともあれ、死を宇宙とまじっていくと考えると、なんか楽しいよね」(P116)


どのみち死後の世界はだれにもわからないのだから、
無になると考えるのも悪くないが、
氏のように楽しい死後の世界を思い描くのもよかろう。
わたしはまた別の物語を持っているが、これは優劣を競うたぐいのものではない。
いまもいま来世待ちというか、
いまもいま「死後の世界」を生きているようなところがある。
このため職場で東北弁のイワマとかいういかにも冴えないおっさんから
ラックを故意にぶつけられ意味不明なことを大声で怒鳴られようが、
それをどこか離人症的に「死後の世界」からながめることができて、
そこまでムカつくということはないし、だからだろう、明るくいられる。
ああ、こいつ、ある精神科医の書いた小説に出て来たアズマくんそっくりだ、
なんて思いながら。少しは大人になったのかもしれない。
明るい大人に少しだけ近づいたのかもしれない。
宮本輝いわく、大人とは――。

「自分の実人生と、自分が読んださまざまな小説が、
あるとき歯車のようにガチャッとはまるときが必ず来ます。
それが大人になるということかもしれませんよね」(P143)


宮本輝も吉本ばななも大人である。
たぶんおそらくいやかならずや宮本輝は吉本ばななの小説を理解できない。
同様に吉本ばななも宮本輝の描く通俗世界観に抵抗があるだろう。
しかし、ご両人とも大人だから、お互いの作品をこれでもかとべた褒めする。
大人、かっこいい♪
しかし、まだ吉本ばななは大人になり切れていないようで、
すぐ(学会員ゆえ)大声で怒鳴りそうな宮本輝を
あやうく着火させかねないひと言を口にしている。

「それでいえば、輝先生の小説を読んで、結婚に夢を抱き、
堅実であたたかい暮らしが永続することを、
ひとつの理想と感じる読者は多いかもしれません。
そこは意識されていますか?」(P143)


しょせん宮本輝の小説なんて通俗幸福家庭をなぞっているだけではないかと。
新しいものがなんにもないじゃないかと。
吉本ばななだけではなく、宮本輝も大人げない発言をしている。
気が小さい繊細な自信家である宮本輝は、
ネットで自作の感想のチェックを怠らないらしい。

「『水のかたち』は、ぼくにしてはちょっと荒唐無稽な夢物語に仕上げています。
だから、アマゾンのカスタマーレビューで「ただの夢物語」なんて、
みそくそに書いたやつがいたよ。(……)
正体がわかったら首絞めたるねん(笑)」(P24)


わたしもネットに似たような感想を書いているが著者には申し訳ないことをした、
首を絞めたかったら首を絞めに来い。お電話いただければ住所を教える。
土屋顕史(080-5188-7357)
どうせ専属秘書やテルニストと呼ばれる狂信者(愛読者)が来るのだろうが、
当方もはや現世にさほど執着はなくいつ絞殺死体になっても構わない。
武闘派学会員とうまく連携すれば首つり自殺に見せかけることなど朝飯まえだろう。
かつて宮本輝はわたしの師匠であった。
どうしたらあんなにすばらしい短編小説を書けるのか不思議でしようがなかった。
それを知りたくて調べていたら創価学会まで行き着いてしまったわけである。
そう、わたしは創価学会から仏教という広い海に分け入ったのである。
宮本輝はもう一度若いころのような作為のない短編を書きたいといっている。

「三十枚の短編の依頼を受けて、一日五枚、適当に書いとったら六日間でできる、
というような計算って、ちょっと違うと思うんです。そこには作為がついてまわる。
作為を自分で意識しないで、気がついたら完成しているって、
なかなかすごいものですよ。いずれにせよ、その「作為」にまつわる問題は、
重要なポイントになる気がします」(P64)


いまの宮本輝の長編小説って作為が見えまくりだもんね。
ああ、創価学会のあの教学で書いているんだと底の浅い設計図が透けて見える。
もう宮本輝がかつてのような珠玉の短編を書けなくなったのは、
あながち作者ばかりが悪いというわけではないのだろう。

「『泥の河』にしても『螢川』(新潮社)にしても、
全部自分の中に残っている風景の郷愁として書いてきたんです。
風景に触発されるところが多かった。
ところが、ある時期から風景に触発されなくなったんです。
それは日本のどこへ行っても同じ町ばかりになってしまったから。
いちど行きたいと思っていた地方の町へ足を踏み入れても、
ぼくのいま住んでいる伊丹とたいして変わらん。
大きな街道沿いに量販店があり、コンビニ、パチンコ店、モールがあって。
がっかりするんやね。そうすると、だんだん旅に行かなくなった。(……)
ぼくはなんと言うのかな。風景の中の一瞬を切り取った「部分の風景」が、
自分の心のものとかちっと合ったときに、物語が生まれると考えていたんですよ。
でもよほどの山里に行かなかきゃ固有の景色などない。
そんなとこ、人間も住んでないしね。
人間がいないと小説は生まれないから困る」(P133)


それもたしかにあるのだろうが、いま泥臭い世界の物語は受けないよねえ。
泥臭い世界に咲いている花じゃないと映(は)えないというところがある。
とすると、小説の舞台を現代ではなく、少し戻さなくてはならなくなる。
暗い時代のほうが一輪の花、一番星の輝きは目立つような気がする。
いまはなんでもオープンになってしまった、真っ白でフラットな公明世界だから。
このため宮本輝がネットで自作の感想を読んで殺意を燃え立たせるという。
わたしもむかしは暗かったけれど、いまはかなり明るくなっちゃった。
相変わらず強くはなく弱いままで、幸福がなにかなんてさっぱりわからないけれど。
最後は大勝利者である宮本輝師匠の人生指南でしめよう。

「ぼく、楽観主義というのは、その人の天性のものではなく、
自己訓練の結果だとつねづね考えているんですよ。
自分の力では、いまはどうにもできないと覚悟して、ばたばたせず、
もうちょっとどっちへ行くかわからん小舟に乗っていられるかどうか。
こういうことは実人生においても、たくさんありますから。
そのとき幸福を求めている限りにおいて、人間は強くいられる」(P51)


わたしが「明るいニヒリスト」になったのには、
やはりいくばくかかつて師匠であった宮本輝氏の影響があるのかなあ。

「水のかたち(上)(下)」(宮本輝/集英社文庫)

→50を過ぎた志乃子とかいう、
もう子育ても終わりかけた閉経寸前の専業主婦のババアが、
ただでもらってきた骨董が3千万で売れ「わっはっは」と下品で無教養な大笑いをして、
さらにさしたる努力も信心もしていないのに次々に金が入ってきて、
最後には長年の夢だった骨董高級喫茶店を居抜きで任されるという夢物語である。
このババアは長年聖教新聞でも読んでいるのか、子どもには一丁前の説教をするのだ。
むかしの横綱は兄弟子からしごかれ、いじめられたが辛抱して努力して、
師匠の言葉を支えにして出世したんだから、おまえらも精進せえよみたいなさ。
実際に志乃子の息子は一人前の美容師を目指して師匠の先生について修業中である。
息子は師匠の美容師先生から毎日のように叱られ殴られ、
まずサービス早出を始めて、次にはサービス残業までするようになる。
ところが、母親の志乃子は厳しい修業をしないのである。
たまたま運よくいい食材(水、茶、コーヒー)の仕入れ先を紹介してもらい、
厚かましくも繁盛している喫茶店のマスターに仕事の仕方を無料で教えてもらう。
志乃子に次々と慶事が舞い込む理由を、
作者はこの中年女性の人柄のよさと運のよさに因縁づけている。
これはかなり「本当のこと」を描いているとも言えよう。

ほとんどあらゆる業界で先輩は新人に仕事を教えないで、
それどころかいじめて辞めさせようとうする。
というのも、新人はライバルなんだから、ほいほい仕事を教えてしまったら、
自分の優位性を保てなくなるし後輩や弟子から尊敬してもらえなくなる。
毎日大声で怒鳴るような師匠の先生は本当はインチキで、
たんに仕事を教えるのが下手な偏狭で意地悪な男なのかもしれない。
仕事を弟子に効率的に教えて自分より上手くなられてしまったら困るのは師匠。
弟子が仕事をおぼえないうちは師匠は自分を神秘化できるのである。
いったん師匠になれば弟子を殴っても蹴ってもいいし、
無給で何時間もただ働きさせることができる。
師匠とはいかに仕事を教えないで暴君として振る舞えるかが勝負なのだろう。
自分だって師匠になるまでは師匠からいじめ抜かれたのだから、
ひとたび師匠の座に着いたらどうして弟子をこれでもかといびらない手はあろうか?
創価学会の池田大作名誉会長は二代目会長の戸田城聖に奴隷あつかいされたから、
戸田が死んで自分が会長になったあとはおなじことを側近の部下にやり返した。
やられたことはやり返せ。人をいじめるほど楽しいことはない。
宮本輝も古株編集者や先輩作家から
「育てる」と称した陰湿な意地悪を数知れず経験したので、
自分が古株の芥川賞選考委員になったら新人の小説をクソミソにこきおろすのだ。
たぶん寿司をにぎる技術はけっこうかんたんに学校等で教えられるのだろうが、
どこどこで何年修業しましたとか苦労自慢をしないと箔(はく)がつかない。
飲食店経営は仕事の段取りと仕入れ先が勝負だろうが、
それは親切に教えようと思ったらこの小説のようにすいすい行くと思う。
しかし、庶民の苦労人は意地悪だから「鍛える」などといって相手をいじめようとする。

師匠や先生は弟子を奴隷あつかいでき、
かつ尊敬・崇拝してもらえるおいしいボジションなのである。
師匠や先生になったら弟子からいくらでも搾取することができる。
師匠や先生の役割は仕事を教えないで弟子をいじめることである。
師匠は絶対だとしたら目下のどんな仕事にもNGを出せる。
自分を超えそうな弟子がいたら早めに芽を摘み取るのも師匠の仕事のひとつだ。

小説のなかで、ブティックを経営する女社長は百パーセント創価学会員だろう。
女は気持の悪い学会的な指導を喜々として饒舌に語る。
彼女は南原というこれまた社長から鉄と鋼(はがね)の違いを教わったという。
いいか、気持悪いぞお。

「鉄の塊を真っ赤に熱して、それを大きな金槌(かなづち)で叩いて叩いて鍛えて、
鋼が出来あがっていくっていう喩(たと)えを引いて、
人間もまったく同じなんだって教えてくれました。
鉄を叩いて鍛えると、いろんな不純物が表に出て来るんですって。
それがあるあいだは、鉄は鋼にはならない。そんな鉄で刀を造っても、ナマクラだ。
鋼となった鉄でないと名刀にはならないって。
経済苦、病苦、人間関係における苦労。
それが出て来たとき、人も鋼になるチャンスが訪れたんだ。
それが出て来ないと永遠に鉄のままなんだ。
だから、人は死を意識するような病気も経験しなければならない。
商売に失敗して塗炭(とたん)の苦しみにのたうつときも必要だ。
何もかもがうまくいかず、悲嘆に沈む時期も大切だ。
だから、人間には、厳しく叱ってくれる師匠が必要なのだ。
師匠は厳しく叱ることで、弟子のなかの不純物を叩き出してくれる」(上巻P229)


何度読み返しても意味がわからない。人間は鉄ではないだろう?
「だから、人間には、厳しく叱ってくれる師匠が必要なのだ」は、
論理的に意味が通っていない。
「だから」で前後の文がうまく接続できていない。作者はもう一度、
師匠で世界一の名文家であられるいまもお元気な池田大作先生に、
震えが起きるほど厳しく叱られたほうがいいのではないか。
まさか自分はもう師匠格に成り上がったと慢心しているのだろうか。
無宗教の井上靖は名作「あすなろ物語」で人間を
永遠にヒノキにはなれないアスナロという樹木にたとえた。
学会員の宮本輝はアマゾンで絶賛されている名作「水のかたち」で人間を鉄にたとえ、
師匠から「焼き」を入れてもらうべしと指導・説教する。
師匠からの指導をパワハラだのなんだのというやつは根性が腐っている。
師匠から叱られたくらいでうつ病になるのは気合が足らねえんだよ。
これまた隠れ学会員かと思われる美容師見習いの青年は獅子吼する。

「パワハラなんて、オレの業界じゃあ伝統的な儀式みたいなもんだよ。
それが修業なんだ。
いじめられてへこたれて、いじけちゃうやつは、一人前になれないんだ」(下巻P12)


わたしは散髪はいつも千円カットだから一流の美容師がどういうものかはわからない。
しかし、高い散髪代を支払うお客がついている美容師は本物だろう。
この小説でもネタの使い回しというか、著者の俗物趣味である骨董の話がよく出て来る。
この感動的大作である啓蒙娯楽小説を何度も繰り返し読んで、
わたしは本物と偽物を見分ける眼を宮本輝先生から教わったような気がする。
身もふたもないことを言うと、本物とは高値がつくもののことである。
なんの修業も教養も必要なく、本物とは高額で売れるもののことである。
ある骨董品が本物か偽物かは、それがいくらで売れるかで判明する。
本物だから高値で売れるのではない。
高値で売れたことが当面それが本物であることを証明するのである。
結果(売値)が真贋(本物か偽物か)を証明するというのは、
創価学会の教える「現証」主義とおなじと言ってよかろう。
結果の出ない隠れた努力など意味はなく、現証(結果)がすべてである。
大勝利、大フィーバーしているものは金があるからその人物は本物ということになる。
商売の基本はいかに安くものを仕入れて、それをいかに高く売るかである。
ある人から健康食品業界の内幕めいたものを聞く機会があったがひどいものだ。
1円で仕入れてきたものになんやかんやと付加価値をつけて高額販売している。
新たな価値を創造するとはそういうことだ。
価値創造――創価するのは詐欺師めいた手腕を必要とする。

「水のかたち」で無学な主婦の志乃子は慢心して高笑いをしながら舌を出す。
「私には詐欺師の才能もあるかも」と(下巻127ページ)。
実際、志乃子はよく嘘をつくのである。
仕入れ先に転売額を正直に言うのはバカである。
バカ正直に本当のことなど口にするものではない。
志乃子はこざかしくも業者に裏金を何度かこっそり渡しているが、
商売とはそういうものなのである。キックバックは商売の基本と言ってよい。
志乃子という学会婦人部の教養のないババアは金を儲けたから本物なのである。
宮本輝も高収入で売れる作家だから本物である。
どうでもいいがこの文章の書き手は稼ぎが悪いから偽物である。
繰り返すが、宮本輝の定義では、本物とは高く売れるもののことだ。
ひっくり返せば、高く売られているものは本物ということになろう。
創価学会は日蓮正宗のコピーだが、
創価学会はコピー元より桁違いに金を持っているから本物なのである。
これが創価学会のいうところの「現証を見よ」だ。
愚かなものたちよ、現在の証拠――現証をしかと眼を見開いてご覧になられよ。

志乃子というどこにでいるような屑鉄めいたババアは、
ただでもらった骨董をまんまと3千万で売り飛ばすことに成功する。
ちゃっかり税金対策もしてもらい入金は千五百万ずつ2回に分割してだ。
金を手に入れたときの志乃子の描写が、
まったく品性のかけらもなく正直でとてもいい。
この小説でもっとも気に入ったところなので紹介したい。

「志乃子は銀行のATMで記帳をし、周りを窺いながら、八桁の数字を見た。
残高は一千五百十八万三千二百二十二円になっていた。
いままた財津ホームの横で自転車から降りたら、
早苗からのプレゼントらしいものの感想を述べて、
お礼を言わなくてはならないが、そんな心の余裕はない。
「虎よしパーラー」でフルーツみつ豆フロートを食べよう。
自分ひとりでお祝いをしながら、1518322という数字に浸るのだ」(上巻P287)


早苗というのは知り合いの若い娘で、
河原で拾ったとかいう一銭にもならない石ころをなんのつもりかプレゼントしてくれた。
なにかをもらったらお礼をするのが処世であり、庶民の習性である。
こういう庶民のゲスな習慣を宮本輝および学会員はことさら重んじて、
お礼を返してこないようなやつを世間を知らないとあざ笑うのが彼らの特徴だ。

「志乃子は自分の携帯電話で財津ホームに電話をかけ、フルーツみつ豆フロートを
ご馳走するから門前仲町の虎よしパーラーに来ないかと土屋早苗を誘った。
「虎よしパーラーって高いのよ」
そう早苗は言い、高いといってもたかが千二百円よと志乃子はつぶやき、
「わっはっは」
と声に出して笑った。
フルーツみつ豆フロートを運んで来たウェイトレスが、
志乃子と目を合わさないようにしてレジのほうへと戻って行った」(上巻P289)


「わっはっは」

なんの努力もせずにうまうまと千五百万を手に入れ「わっはっは」と高笑いする志乃子。
さすがにこれでは品がなさすぎると宮本輝も気づいたのだろう。
唐突に宮本輝はロダンの言葉を挿入して作品の下品なインチキくささをごまかしている、
なんでも早苗という女の子がくれた河原の石ころにカードがついていた。
そこに早苗がインターネットで調べた名言を書き込んでくれたのだという。
――石に一滴一滴と喰い込む水の遅い静かな力を待たねばなりません。
ロダン(高村光太郎訳)――
ロダンの意味ありげな言葉を挿入すると偽物が本物っぽくなることを、
よき詐欺師(小説家)である宮本輝はしっかり計算しているのである。
ロダンだけではまだ知的アクセサリーが足りないと大衆作家は判断したのか、
直後に今度はホイットマンの詩を持ち出して来て、
おのれと志乃子の無教養ぶりを隠匿(いんとく)しようと画策する。
ここは妙にツボにはまって笑いがとまらなくなったところである。
宮本輝の下品さと教養への劣等感がおかしなミックスを見せており、
そこが言うなればフルーツみつ豆フロート的な独特な味わいとなっている。
創価学会もたとえるなら抹茶というよりはフルーツみつ豆フロートである。

「お金があるというのはいいものだと志乃子は思った。
精神的安定、それも大きなところでの安定が得られるのだ。
夫の表情にそれがあらわれているし、茜[娘]も、
年齢特有の軽くてあぶなっかしいところが消えた。
あの一千五百万のお陰だ。
そして来年の三月には、さらに一千五百万円が入るのだ。
そう思いながら、夫と娘の朝昼兼用の食事を作り始めると、
突然、脳味噌の襞(ひだ)の奥から湧き出るようにして、
「大地、それだけで充分である」という言葉が甦(よみがえ)った」(上巻P305)


棚からぼた餅のような感じで三千万円の大金を手に入れた無学な主婦が、
「わっはっは」と大笑いしたあとで、
もっともらしく「大地、それだけで充分である」などとのたまうのは、
なんかバランスが狂っていて、
その不均衡なところがいかにも創価学会というごちゃ混ぜの、
フルーツみつ豆フロートな感じがして笑えるのである。
たぶん読者はここで感動すると作者は本気で思っていそうなところも笑える。
宮本輝はひと財産を築いたあとで金ぴかの真理を描くのがうまくなったと思う。
金さえあれば「大地、それだけで充分である」のは金ぴかの真理と言ってよかろう。
金ぴかでもなんでも、真理は真理である。お金ほどたいせつなものはない。
あるものを本物か偽物か見分けるのはお金という物差しがいちばん有効である。

「水のかたち」は宮本輝のこれまでの小説と色彩がいささか異なる。
なんの努力もしていない女としても終わった屑鉄のような50過ぎのババアが、
次々とおいしい思い(フルーツみつ豆フロート!)をしていくのである。
理由は、運がいいから、である。
いっぽうで精一杯努力をしてきたのに報われていない同年齢の女性が登場する。
売れないジャズシンガーをしている木本沙知代である。
現証(結果)が出ていないのにジャズシンガーは、
一人前ぶって一丁前のようなことを言う。

「しかし、どんな歌も、喋ろうと企んだら途端にいんちき臭くなる。
だから私は喋らない。
いんちきがばれないために、学んだとおりに懸命に歌う。
先生に言われたとおりにする。
先生を超えて、自分の歌を確立しようなどとは考えない。
これから歌うのは、私の先生の教えどおりに歌う歌だ……」(上巻P231)


先生のコピーをするだけなら、先生がふたりできるだけで、
ちっとも創価(価値創造)していないではないか?
そもそも英語を母国語としていない日本人がいくら外人にジャズを習っても、
正確に模倣することさえできないのではないか?
宮本輝は池田大作になろうと思っても宮本輝だし、
どれだけ井上靖にあこがれようと宮本輝は宮本輝でしかないし、
結局「桜梅桃李(おうばいとうり)。桜は桜、梅は梅だよ」(下巻188ページ)――。
50を過ぎたおばさんに運がいいというだけで大金が舞い込み夢がかなう物語は、
アマゾンレビューによると無学な中年女性読者の好評を勝ち得ている。
売れないジャズシンガーだが、
運よくも金には困っていないモアイというあだ名のババアは、
またまた金ぴかの真理を語り出す。これはわたしも真理だと思う。

「私だって、若いときからいろんな商売をしてきたのよ。
商売の難しさは、いやってくらいわかってるわよ。でもね、これだけは言えるわ。
運のいい人は何があろうと結局はうまくいく。志乃ちゃんは運がいい。
だけど、自分の運の良さを過小評価したら、その途端に運は逃げていく」(下巻P159)


宮本輝は古株学会員らしく、
人の不幸をせせら笑う下品な正直さを隠し持っているところが庶民らしくていい。
やたら籤(くじ)の運がよく、
宝くじで百万を当てたことがあるという松子といういまは死んだ老女を、
志乃子の母がバカにするのだが、
それがあたかも脱会者の不幸を仏罰だとあざ笑う学会員のような語り口でとてもいい。

「世の中にはこんなに籤運(くじうん)の強い人がいるんだって、
私、感心するよりも、なんか恐ろしかったわ。
でもねェ、松子さんの人生は、籤運が悪かったわねェ。
亭主は大酒飲みのギャンブル狂。あげく女をつくって家には寄りつかない。
息子は名うての不良で借金まみれ。
娘は高校を中途で辞めて品のないチンピラとかけおち。
五年後にふたりの子供をつれて帰って来たときには、
まだ二十二なのに四十女に見えたわよ。
まともだったのは、いちばん下の息子だけ。
それなのにその息子の嫁と憎しみ合いつづけて……。
上ふたりの子供のことで悩んで悩んで、
やっと下の息子が酒屋と海雛[居酒屋]の商売に精を出すようになったと思ったら、
癌で死んじゃった。松子さんのあの籤運の強さは、
あの人の人生に何ひとつ役立たなかった……」(上巻P92)


むかしの創価学会の座談会(会合)って、こんな話ばっかりだったんでしょう?
わたしは創価学会も宮本輝も、こういうところが好きなのである。
無学な主婦がロダンだのホイットマンだの背伸びするところがかわいらしいじゃないか。
創価学会も宮本輝も詐欺師めいていてインチキくさくて金ぴかで、
しかし、ではなく、であるがゆえに本物なところが非常によろしい。

「売られたケンカは買おうじゃないか。買ったかぎりは勝とうじゃないか。
その言葉が、自分のなかから即興で出たものなのか、
どこかで聞いたか読んだかして心に残っていたものなのか、
志乃子にはわからなかった」(下巻P294)


志乃子、おまえ学会員だろ!?

「わっはっは」「わっはっは」「わっはっは」

今日行って明日で終わりだが、なにを言われても怪我だけはしないようにしたい。
それからおかしな問題に巻き込まれず、まあまあ、なあなあの精神を忘れない。
問題を顕在化して改善しようとしたって、もう今日を入れてあと2日なんだから。
概して職場の人はこんなわたしに対して寛大で親切であったと感謝している。
とりあえず怪我をしないで「生産」の予定をクリアすればそれでよし。
欠勤もしなかったし遅刻もゼロで、まあ、こんなものでしょう。
最後の最後で油断して怪我をしちゃうと最悪だから気を引き締めるためにこの記事を書く。
今日もヒヤリハット(危険報告)の紙がなかったので(ボールペンもないし)書かなかった。
ヒヤリハットといえばいまわたしがしている青パレットを折りたたむ作業はかなり危ない。
あとはフォークリフトとの衝突ね。派遣に派遣への指示権利はないでしょう?
青パレットを折りたたむのは本当に危ない。あれはうっかりするとビッコになる。
以前、それまでも早いのにもっとペースアップしろとし指示してきた若いおなじ派遣から、
今度はもっと丁寧にしろと叱られる。「会社のものをもっと大切にしろ」だってさ。
鋼鉄重厚な青パレットを折りたたむのは当方のような長身のほうが有利だが、
最後に投げないとこちらの腰を痛めるのである。
たしかに投げると大きな音を立ててしまうが、最後は自分の身体ではないか?
今日、社員がやっているのを見たが、完全無音ではなかった。
派遣なのに社畜精神というか、学級委員きどりというか、
そんなに優等生ぶって搾取されるから派遣でこき使われているんじゃないかという。
当方にも優秀チェッカーという機能が備わっている。
数日一緒に働けば、どの人が(自分よりこの仕事において)優秀かどうかくらいわかる。
わたしの優秀チェッカーがピカピカ光ったHさんは物流会社への就職が
「ほぼほぼ」決まったらしい。
わたしは派遣で優等生ぶりたがるのはいやだが、
おなじ働く仲間としてフォークリフトのIさんの意思を重んじたく、
もうあと2日だが彼の動きをよく見てコミュニケーションを取ろうと努めている。
ものがないのは「段取り」が悪いというのは間違いで、
「段取り」が目で一生懸命会話しているフォークさんもいっぱいいっぱいなのである。
青パレットはペースアップしてたたむのも丁寧にたたむのもヒヤリハット(危険)。
一生懸命に優等生ぶらなくても結果がよければいいとも言えよう。
派遣で優等生ぶって模範的労働者ぶって、その先になにがあるんだろう?
派遣のわたしは会社の都合なんかより、
おなじ同僚がどうしてほしいかを考えて行動したい。
まあ、それを教えてくれたのがホシノさんなのだが。あの人、できるなあ。
やはり家庭を持つとやる気が違うのだろう。
今日職場でべつの人から2回「好きな(女性の)タイプは?」と聞かれる。
「いないです。いません」
「芸能人でいえば?」
「テレビを見ないのでわかりません」
「AV女優では?」
「名前を知りません」

好みのタイプなんて男はみんなあるのかなあ。
わたしなんて、わたしに少しでも関心を持ってくださるのならだれでもOK。
しかし、その女性にストーカーを仕掛けるかといったら、そうでもなく。
振り向かれなくても女にストーカーとかしてみたいけれど。

髪はショートカットが好きか? ロングが好きか?
――どっちでもい。
 10代のころはショートカットの子を好きになったことも、
 ロングの子を好きになったこともある。
メガネは? ――どちらかといえば、かけていないほうが。
メンヘラは大丈夫? ――ダメ。だって、わたしが、えとあのその。
学歴は? ――不問。インテリ女はめんどうくさい。議論とかしたくない。
巨乳派? ――ノンノン。人並みのお手頃感やよし。むしろデカよりはちっぱい。
年齢は? ――JCから同年齢まで。年上でも若く見えれば。
 未婚既婚、彼氏の有無は不問。
職業は? ――相手が高収入なほうが、それはいいっしょ? 
 お金は大事。無職でも資産家のお嬢さんや金持と愛人契約している女性なら。

結局、好みのタイプなんて自分にはわからないような気がする。
当方なんかとつきあってくれるなら、だれでもいいというか。
けれど、わたしは言葉を読みたいし、
言葉を書きたいから拘束がきついのはめんどうくさい。
そのめんどうくさいを忘れさせて夢中にさせてくれる人と出逢いたいけれど、
それは運の問題。
こちらを本気にさせてくれるのなら貧困バツ3の女でも。
精神病的妄想だけれど、本気になったらまだまだやれそうだという錯覚がある。
断わっておくけれど、わたしと一定時間一緒に過ごすのはとても不愉快だよ。
それに耐えられる人は才能があるなあと思う。
昼飯の牛タンカレー(250円)はハズレだった。
なぜハズレがわかったかといえば、
同僚のAさんとMさんが当たりでけっこうなサイズの牛タンが入っていたからである。
1Fのわたしの休憩は11::30からで2Fの人は11:45からが多い。
最初は要注意で上澄みだけすくって、
下のほうに残った牛タンは遅れてきたものに与えられるのだろう。
わたしの牛タンカレーなんか小指の先ほどの肉が数切れだったのに、
AさんやMさんのそれにはかたまりが入っていて、くそおと思った。負けたと大敗北。

今日社員のUさんからお声をかけていただいたが、1Fで打ち上げをやるのでと。
こんなことはいままでしなかったが、打上げをしてみる。
今週金曜日で「生産」はとりあえず終わるが、最後にみんなで飲もうではないか?
まったく強制ではないが、参加したかったらどうぞ。
おもしろすぎるぜ。人生で会社関係の宴会に参加したことは一度もない。
そもそも宴会めいたものに参加するのは20年ぶりといってよい。
しかし、金曜はAさんとの先約があるので即答はしなかった。
帰りに2FのAさんにいう。1Fで打上げをやるらしく、
わたしはそういうものを経験したことがないので、できたら参加したい。
とはいえ、Aさんとの先約があるので困っている。
Aさんは寛大にも、どうぞどうぞ行っていらっしゃいとのこと。
うちらはいつでも逢えるから。
よおし、ヤッター、人生初の会社宴会を経験できる。

15日で仕事は終わりだが、しばらくはつつましく暮らそうかなあ。
読んだ本の感想がたまっている。
さすがにファンである著者からプレゼントされた本の感想を遅らすのはまずい。
歯医者もあるし、家の墓の問題も(よくわからないが)あるっぽい。
来月になれば、もしかしたらN本部長からお声がかり、
またあそこに5日通うのかもしれない。
いまの職場は本当にいろいろな派遣会社からさまざまな人が集まっている。
みんなで協力してひとつの「生産」を仕上げた。

みんなこれからバラバラになり、もう逢うことがないかもしれない。ないだろう。
しかし、われわれはおなじひとつの体験をした。
容貌や身分、収入は異なれど、みなで一定期間働き、みなでひとつの「仕事」を終えた。
こういうみんなで最後に乾杯することがあってもいいのではないか?
もう身分も年齢も収入も行く先も関係なくなった状態で、
一時期の「生産」を終えたそれぞれの男たちが酒を飲みいたわりあう。
そんなことはテレビのいんちきドキュメンタリーの世界の話だろうが、
現実にそううことがあってもいいのではないか?
わたしは1Fの男だけの打ち上げに参加したいと思う。
明日は社食でスタミナ丼でも食ってみようか。

ちなみに、ここからはいわゆる文学的な話だが、
バラバラのところから集まったそれぞれのひとびとが、
みんなでひとつのこと(たとえば移動)を成し遂げる美しさを描いた作家に、
(実家が創価学会の)「深夜特急」で有名な沢木耕太郎がいる。
みんなこれからバラバラになり、一期一会で、もう一生再会しないかもしれないが、
このクソ暑い2017年の夏にわれわれはみなで協力してひとつの「生産」を終えた。
それは宝物のような経験ともいえなくはないのではないか?
うーん、われながらセンチメンタルだなあ。感傷的だ。感傷だ。感傷のどこが悪いのか?

(関連記事)
「深夜特急」(沢木耕太郎/新潮文庫)
「オン・ザ・ボーダー」(沢木耕太郎/文藝春秋)
派遣仲間のAさん57歳との会話。
わたし「Cメールを見ましたが、いちばんいいのはインド料理屋です」
Aさん「インド料理なんかよりも金の蔵ほうがいい」
わたし「ネットで調べましたが、あんなものすべてインスタント」
Aさん「インスタントでもおいしければいいじゃないか」
わたし「Aさんはインド料理を食べたことある?(上から目線)」
Aさん「(バカにすんなよ)食べたことはいくらでもある」
わたし「インド料理はダメですか?」
Aさん「うん」
わたし「インドカレーはおいしいんですよ。あそこはベトナム風生春巻きもありますし」
Aさん「きんくら(金の蔵)がいい」
わたし「交通費を考えたらインド飯屋と変わらないじゃないですか?」
Aさん「きんくらがいい」

Aさんが定期検診でコレステロールの異常を指摘されたらしい。
悪玉コレステロール199くらいが異常かなあ。
なんでも強制的に薬品を処方され、価格が2千円近くしたという。
ジェネリック医薬品にしたらと言ったら、後発品でも1ヶ月でその金額とのこと。
わたしもむかしから血液検査をすると、
コレステロールが基準値より10~20高いことがあったが、
どの医者にもなにも言われなかった。
かえって長生きするよ(うげっ、めんどくせっ)と言われたこともある。
いまのかかりつけ医(?)の若い女医さんが、
たかが10程度の異常を問題視したはじめての人。
運動や食事制限をしてください。半年待って効果が見られなかったら投薬します。
ぶっちゃけ、めんどくせっ。
いままでずっとコレステロール値はおなじくらいだったが、
どの医者からも健康指導どころか投薬示唆もされなかった。
血液検査をすると金がかかるじゃない。
大学病院でもないかぎり結果は即日出ないでしょう?
1回コレステロールとか気にすると、毎月血液検査をされ、
そうおうの医療費を支払い、結果に毎日びくびくすることになる。
若い女医「コレステロールが高いと心筋梗塞とかになりますよ」
わたし「べつにもう死んでもいいので。むしろぽっくりは理想で」
若い女医「なら病院なんていらないじゃないですか?」
わたし「はい」
若い女医「――(こいつ、きんもっ)」

またまた職場に話を戻す。
やはり配置転換されてよかった。いまのほうがいろいろな人と話せる。
わたしより2歳上、43歳の派遣男性Nさんとの会話。
Nさんは池袋の風呂なし家賃2万8千円のアパートに住んでいるらしい。
小柄な好人物の肌黒のイケメン。
わたし「ほしいものがないのが悩みで」
Nさん「え?」
わたし「Nさんはほしいものがありますか?」
Nさん「プレステ4」
わたし「プレステ4っていくらするんですか?」
Nさん「3万円」
わたし「3万円?」
Nさん「くれるの?」
わたし「たった3万円でNさんは幸せになれるんですか?」
Nさん「――(絶句)」
わたし「3万円か」
Nさん「そう言われたら安い金額だな」

Nさん「ほしいものがないと生きていてつまらなくない?」
わたし「はい」
Nさん「休日はなにをしているの?」
わたし「本を読んだり、その感想をネットに書き込んだり」
Nさん「おもしろい?」
わたし「そう言われたら――」
Nさん「ほしいものがないとなにがおもしろくて生きているの?」
わたし「はい?」
Nさん「生きているのがいやにならない?」
わたし「はい――」
Nさん「――」
わたし「まあ、いざとなったら自殺してもいいかと(笑顔)」

なんでこういうタイミングでこういうお方と出逢うのであろう。
シンクロニシティなんかギャグだと思っているけれど。
派遣同僚、Nさん50歳。これまた好人物。
本業は自営でネットの健康食品販売をしているらしい。
この人も運がよくいま家賃5万5千円にして駅チカのかなりいいところに住んでいる。
当方は楽天の大ファンだが、Hさんも楽天でご商売をなさっていると聞いた。
わたし「健康食品って効くんですか?」
Hさん「効きますよ」
わたし「――(意地悪な笑い)」
Hさん「それまである成分を取っていなかった。それを取ったら効くでしょう?」
わたし「オルニチンとかあるじゃないですか? 肝臓にいいという」
Hさん「はい(自信満々専門分野)」
わたし「あれ効くんですか?」
Hさん「それまでしじみを取っていなかった人が摂取したら効きます」
わたし「しじみ3百個とか3千個なんて必要なんですか?」
Hさん「――(絶句)」
以上、昼休み。Hさんはおいしい。おもしろい。

午後の中休みでまた質問する。
わたし「おすすめのサプリメントはありますか?」
Hさん「いくらだってあります」
わたし「教えてください。楽天のHさんのところから買います」
Hさん「お金は大事ですよ。そんな役に立たないことに使わないほうがいいですよ」
わたし「――(絶句)」

仕事が終わったあとでの話。
ここは仕事が早く終わっても早く帰されないのがいい。お給料は保証。
わたし「Hさんのサイトでいちばん売れているのはなにですか?」
Hさん「――」
わたし「秘密でしょうね」
Hさん「○○○○です」
わたし「健康食品なんか買うのはジジイかババアでしょう?」
Hさん「そんなことはないですよ」
わたし「だれが買います?」
Hさん「若い女性が美容を気にして買いますね」
わたし「若い男性は買わない?」
Hさん「うーん、はい」
……
わたし「健康食品とか売っている人は本当にそれを信じているんですか?」
Hさん「――(絶句)」
わたし「――(世間知らずだったと反省)」
Hさん「健康食品は3割効いても優秀だと言われているんですよ」
わたし「医薬品でも5割効いたらOKと聞いたことがあります」
Hさん「アメリカでは医薬品として認可されているものも、日本では健康食品ということも」
わたし「厚生省ですか」
Hさん「まだ自営は立ち上げたばかりなので、これからです」
わたし「一手で販売しているのですか?」
Hさん「違います」
わたし「そうなると価格競争になりませんか?」
Hさん「価格落ちはしていません。そこは(広告の)切り口の問題で。
 これで食べていこうとしているわけだから」
わたし「すごいじゃないですか。わたしはHP作成なんてダメダメ」
Hさん「――」
わたし「Hさんはそのお歳でよほどがんばっておられる」
Hさん「これが商売です」
わたし「(広告では)やっぱり不安をあおったりするんですか?」
Hさん「そういうところもありますが、
 うちは実際にこういう効果があったということを具体的に」
わたし「へえ――」

いまHさんのご商売の売れ筋商品を楽天で検索したらいろいろわかったような気になった。
コレステロールって書いたら薬事法違反だから「塊」と表記するんだね。サラサラとか。
「肝臓」と書いたら薬事法違反だから「肝心かなめのところ」と書くのか。
また明日Hさんとお逢いして裏事情を聞くのが生きる楽しみである。
28歳がモテモテでいまのところ人生のピークだったというNさんと逢うのも楽しみ。
「43歳ならまだ再出発できるんじゃないですか」と聞いたら「もうやる気がない」――。
「親から定職に就け」とか「結婚しろ」とか言われませんかと聞いたら
「もう何年も親とは連絡を取っていない」――。明るいシャレのわかるいい男なのである。
わたしなんかより10歳は若く見えるだろう。
こういうことは、たとえば新聞記者の名刺を差し出しても聞けないのである。
おなじ千円ちょっとの短期派遣という身分だから聞き出すことができる。
この人たちとはあと4日でもう永遠に逢わないのだろう。まさに一期一会。
もう逢わないとお互い思っているから相手もわたしも本当のことを話す。
あと4日で終わり。いまわたしのなかでは最高潮に盛り上がっている。
みなさん、おもしろすぎるぜ! 給料分以上のもとを今日は取ったような気がする。

ちなみにわたし、やっぱり変なオーラが出ているのかなあ。
派遣仲間からいままで呼ばれた名前を列記すると――。
「バカ」「カイチョウ」「センセイ」「ツチヤサマ」
むろんからかわれているのだろうが、そんなことでいちいちムカつくわたしではない。
「カイチョウ」とか「センセイ」とか、
おなじ派遣仲間から(おふざけで)呼ばれるおれさまはなにさま? ちょー笑えるでしょう!
明日の社食のスペシャルメニューはタンカレー250円なので食べるつもり。
通常メニューのカレーはあんまりだったが、スペシャルメニューだから期待している。
明日は今日よりもパチンコ台が7、80台多い。
そうするとあの重くて危険な青パレットを今日よりも10以上多く、
折りたたまなければならないのか? OK! OK! 
ラストスパートでゴーゴー大フィーバー、暑いサマーをフィニッシュするつもりだ。
まさかタンカレーはレトルトやインスタントじゃないよね?(たとえそうでも250円なら)
とにかくこのサマーはビールもどきがうまかった。
暑い夏こそ肉体労働かもですよん。もうあと4日で全員とさようなら♪
昨日さあ、長らく痛かった歯があるので近所の医者に行ってきた。
こちらの想像以上に悪かったようである。
治療してくれたのだが、痛いのである。とんでもなく痛い。
痛みにチョー敏感な当方が言うとまったく説得力がないだろうが、
人生でいちばん痛い。
「痛かったら左手を上げてください」
と言われていたのですぐに挙手するが、麻酔を再追加されても死ぬほど痛い。
笑っちゃうほど痛いのである。
人生でこんな痛苦があるとは知らなかったと言えばおおげさすぎるのでしょうが。
なにが劇痛を耐えさせたかといった、インチキめいた信頼関係のような気がする。
この歯科医院にはむかしから何度も通っている。
さらにむかしはネットで評判のいいメージャーなところの
若い女性勤務歯科医にかかっていたが、
宣伝・広告ハガキがめんどうくさくなってさらに近所の個人経営歯科医院にかえた。

いま歯医者はコンビニよりも多いと聞く。結局、信頼関係なんだなあ。
わたしがあんな激烈な痛苦(もっともこれは主観=妄想)に辛抱できたのは、
むかし診てもらったことがあり院長医師を信頼していたから。
これが飛び込みで入った歯医者だったら変な被害妄想におちいっていたかもしれない。
歯医者の(ほかの医者も)巧拙はお客さんをいかに安心させるか、と言ってもいいだろう。
言葉のはしばしに「大丈夫」という念を込めながら治療したら、
かなり悪い歯をかかえためんどうくさい患者も我慢してくれる。
そういうところで、いまの歯科医はうまいと思うし安心して任せられる。
かなりひどい虫歯らしく、あと5、6回治療が必要らしいが、
わたしは治療者を信頼している。
若い女医が歯を治療するのは、
ある面で難しいと言えるのかもしれない(精神科医もカウンセラーも)。

結局なんてまとめたくなってしまうのはオジン(ふるっ)なのだろうが、
人間関係は時間ではなかろうか?
家族ほどめんどうくさいものはないが、
家族は自分が生まれたときから関係性のつながり、蓄積があるわけでしょう?
わたしはひどく友人知人が少ないが、そういう交友関係も時間。
関係が7、8年になる友人がふたりいるが、
最初のころかなり接近して腹を割って話しているので、
いまはもうしばらく話さなくても安心していられる。
いきなり今日逢った人とは仲間や同志にはなれても、なかなか友達にはなれない。
なぜなら時間の積み重ねがないからである。
家族が重たくて鬱陶しくてときにありがたいのは時間が関係しているのだろう。
いま携帯電話いわゆるガラケーの調子がおかしい。半死半生である。
電話の受信はできるようだが、発信はたまにできないことがある。
メールの受信はできているような気がする(できていないのは送られてこないけれど)。
メール送信をしようとすると、いきなり携帯の電源が落ちる。
もう8年も使っている(途中1回修理)ガラケーだし、そろそろ寿命かと。
私的解釈では(これを精神医学では妄想という)、
最近ブログになにか言いたいことがあるなら携帯電話にかけてこいと、
携帯所有者が狂人めいたことを書いているからプレッシャーでガラケーが壊れたのかと。

まったくまったく携帯電話が壊れると生活がストップしてしまう。
いまの派遣先で働いているのは、
コージーコーナーの派遣仲間Aさん57歳がここにいるのを知ったからだ。
今回の派遣が終わるのはAさんもぼくも来週いっぱい。
じゃあ、打ち上げをしようか(酒でも飲もうか)という話になっている。
今日Aさんから候補の3店がCメールで送られてきたが、
ガラケー故障のため返信できないのである。
まあ、またどうせ明日逢うから口頭で伝えればいいと思っている。
携帯でメールの送受信ができないのは、たぶんかなりピンチ。

Aさんおすすめの店ぼひとつはY(営業妨害はできないからイニシャル)。
ここは飲み放題、食べ放題3480円をうたっているが金曜日はプラス3百円。
飲み放題にビールが入っているのはいいが、
食べ放題メニューがしょぼいのである。

先出しメニュー
肉プレート3種盛り
サラダ
バーニャカウダー
フライドポテト



酒を飲むだけなら割り切ってもいいが、場所もわかりにくいし交通費もかかるし。
つぎのAさんおすすめはK。ここはもうメジャーだから金の蔵と書いてしまおう。
いちおう2500円で食べ放題、飲み放題となっているが、驚くのはそのメニュー。
金の蔵食べ放題メニューはすべてインスタントの香りがして食べたいものがないのだ。
で、結局はインド料理店Dの食べ放題、飲み放題3150円がいいかと(チラシクーポンで)。
ここは会社からいちばん近いし交通費もかからないし。
チェーン居酒屋のインスタントメニューは中食でも自炊でも、
まあ食べられるじゃないですか?
しかし、インド飯屋の料理は自宅で出来立てを食うのは難しい。
インド料理店Dはタイのメニューも入っているから、
おそらくインド人経営ではなくネパール人経営だろう。

ちなみにDは打ち上げ候補としてわたしが最初にAさんに提案した店である。
いつかここの飲み放題・食べ放題を試したかったが、ひとりでは不可能。
問題なのは、Aさん57歳渡航歴ゼロの舌。
わたしは運よくたまたま29歳のときインド全土を3ヶ月かけて旅したから、
インド料理のうまさもまずさも、人によって好き嫌いがわかれることも知っている。
バターチキンもガーリックナンも本場のものは半端なくうまいのである。
思えば、12年まえはいまほど日本でバターチキンは知られていなかった。
あれをカレーだと思ってはじめてインドで注文したときの感動は忘れられない。
パコラ(インドてんぷら)もパパド(インドせんべい)もうまいのだが、
それはこちらの想い出補正(むかしはよかった!)があるからかもしれない。
しかし、57歳がなにがなんだかわからない、
そのうえ西欧のものではない、
怪しげなインドのカタカナの料理を食うのは冒険だよなあ。

さてさて――。
けっこうひんぱんに行っている毎年行なわれる代々木公園インド祭り。
ナマステ・インディア2017は今年、9月23、24日に行われる模様。
代々木公園のナマステ・インディアにはいつもひとりで行っている。
今年はどうしようが迷っているが、
去年買ったインドレトルトカレーも余っているし、今年はパスしてもいいかなあ。
あそこは多くの人が酒を持ち込んでいるし(現地はけっこうする)、
むろんのこと当方も行くときは毎回酒は用意して行っている。
そうしたら雨が降って生ビールが百円とか2百円になることもあったのだが。
今年はだれかに誘われたら行くことにしよう。
映画美学校のみなさまでも創価学会の同志さまでも。
20年ぶりくらいにリア充的宴会めいたものを経験してもいいかなあと。
サシでもいいが、むしろサシのほうが囲まれないので安心。

このインド祭りもそうだったか、花火大会やなにやかにやでネット縁を求めたことがある。
ぶっちゃけさあ、おれの人徳のなさが文面に現われているのかだれからも連絡はない。
これは繰り返し繰り返し書いてきているが、
ブログ作者のわたしとリアルなツッチーはまったくの別人だから。
むかしはどうだったか覚えていないが、いまのツッチーはまあ明るいし陽気だし楽天的。
では、半死半生のガラケーにではなくメールにてご連絡をお待ちしています。
どうせだれからも連絡が来ないのだろうが、
こういうオープン・マインド姿勢は悪くないでしょう?
少なくとも自殺カウントダウンをブログでするよりはいいとも言えなくはなかろう。
自殺カウントダウンをしたほうがネットのエンターテイメントとしては良質なのはわかっている。

あーあ。ガラケーともお別れかあ。さようなら、さようなら、さようなら。
さようなら、このガラケーで話した数少ない人たち。
しかし、大丈夫。忘れられない人たちの電話番号は、
とっくのとうに手書きで保存している(昭和の老人かよ!)。
働くことに社会勉強や人間観察の価値を加えてみると、
あるいは低賃金でも納得できるのかもしれない。
広い社食で周囲を見回していると、男はみんな異常なほど早食い。
女はじめじめとした仲間に気を遣いながら、
世間話をしつつゆっくりランチを食べている。男は黙々と早食い。
ある人があるものを食べるのを見ていたらわずか3分で食べているの。
なんでそんなに急ぐのよ。
食事にはそれぞれのペースがある。わたしは食べるのが遅いほうだ。
外食はめったにしないが(高いから!)、
わたしのやり方はまず酒で気持を高めてからようやく食事に入る。
宴会(なんて20年近く行ったことはないが)でこれをやっちゃうと、
ようやく食欲が出てきたころには、食べるものがすべてなくなっているはずである。
このまえ社食でアジ南蛮B定食をいただいたときにおのれの異常に気がついた。
男性陣が5~10分で食べ終わっているランチを、
わたしは25~30分かけてちんたら優雅にも味わっていたのである。
早食いといえば、思い出すのは父である。
子どものころから父と外食すると、
こちらが望んでもいないメニューを大量に注文され、
「おれには時間がない」「速く食え、もっと速く食え」と迫られた。
おそらく父は家族サービスをしているつもりで、いい気分になっていたのだろう。
そういうふうに強制的に高速で詰め込まれる料理がうまいはずはなかろう。