今日聞いたところによると、どうやらがんではない模様。がんではないっぽい。
先月末とか41年生きてきていちばん体調が悪かった。もうすぐ死ぬかと思うくらい。
ここで重大な問題に突き当たる。
痛いや苦しいは主観(自己申告)で、決して客観化(数値化)されるものではない。
痛苦、苦痛に強い人と弱い人というのがございますでしょう?
強い人は本当に強くて、
麻酔なんか不要とばかりにガリガリ、ギリギリ、ジキジキをばっさりやり過ごす。
ほら、すぐに痛み止めをのむ人と、薬嫌いの頑丈な人にわかれるじゃないですか。
ぼくは平均的にみなが1くらいに感じる苦痛や不調を、
あろうことか9くらいまでレベルアップして泣きながらジタバタする弱性男子だから。
今月は、もうこれはがんだろうとガクブル、不安のかたまりであった。
がんならばどうか末期で見つかってくれと。
確率的にはわが年齢におけるがん罹患率は低いが、
ぼくの周囲では確率的にありえないことがプラスもマイナスもどちらとも多発しております。

がんほど怖い病気はない。
こちらは、ひろさちや&近藤誠のがん放置派閥にいちおう所属しているつもり。
がんにならない唯一の方法は、がんが見つかる検査をしないこと。
願いはきつい闘病なんてしないで、
ある日末期がんを宣告されぼんやり死んでいけたら――。
胃カメラ(内視鏡)とかCT検査を受けたら、
へたをするとがんが見つかるではありませんか?
いきなり初期のがんだと言われても、保険にも入っていないし独り身だし、
どうしたらいいかわからないので困っちゃう泣いちゃう。うえーん。ぐすん。
胃カメラ(内視鏡)のなにがいやかといったら、とんでもなく苦しそうなところ。
CTのなにがいやかといったら、きちがいめいた高額なところ。
どちらとも、がんが見つかりかねないところがいやいやいんや。
どうして高額料金を支払って、
知らなければいい情報(がん)と向き合わなければならぬのか。

結果を簡潔に書く。
異様なほど苦痛に弱いぼくだが、胃カメラはまったくしんどくなかった。
かえって鎮静剤(ぶっちゃけ医療用麻薬っしょ?)のおかげで、
かつて経験したことのない至福の状態でしばらく天国にいた。
まあ、これは天下の慶応大学病院だったからだと思う。
慶應病院の胃カメラ(内視鏡検査)は超優秀で、臆病で痛がりなぼくでも楽ちんだった。
金額は7250円で、想像していたよりも高かった。
しかし、慶應病院の胃カメラはバッチグウ。
はじめてで不安と脅えから泣きそうになっていたぼくの肩をさすってくれたナースさんには、
暖かな医療(遠藤周作!)ここにありといまでも感謝している。
ぶっちゃけ町医者の胃カメラ5千円と慶應の7千円なら、
いまでは迷いなく大学病院を選択する(KOはGOOD)。
慶應大学病院の胃カメラは苦しみや痛みに弱いぼくでも大丈夫でした。
白状すると、胃カメラだけでよく、CT(検査)は不要と思っていた。
だって、CTは高いし、うっかり小さながんでも見つかったらどうすればいいの?

ぼくは基本的にチキンというか、パンダのごとしで弱いから。
1の痛みを8や9まで盛り上げて悲壮な顔で体感するのがぼくぼくぼく。
CT検査は逃げようか(キャンセルしようか)だいぶ迷った。
というのも、高いお金を支払って、がん闘病に追い込まれるなんていやじゃないですか?
詳細を聞くのはあさってだが、どうやらCTも大丈夫っぽい。
意外だったのは高いと思っていたCTが胃カメラ(7250円)よりも安かったこと(5250円)。
はいはい、ええそうです、医者をなめていました、どこかで。
しかし、こうなってみるとお医者さんやナースさんにあたまが上がりません。
今月のはじめは死ぬかと思うほど苦しゅうございました。
酒なんか一滴も体内に入れたくない状態は人生初の感覚で驚いたしだいであります。
「空也上人がいた」(山田太一/朝日新聞出版) *再読

→人はなぜ自分が「それ」をするのか本当にわかっているのだろうか?
行為(選択)の理由はあとからぼんやりわかるもので、
「それ」さえも絶対解とは言えまい。なんとなく「それ」をしてしまう。
まず孤独なわたしがどうして携帯電話番号をブログに公開したのかわからない。
孤独だからという理由が一般解だろうが、わたしは心を許せる親友がふたりもいる。
山田太一さんも講演会でぽろりとおっしゃっていたが、
親友なんて人生の一時期にでもひとりでもできたら稀有なる僥倖だろう。
わたしが孤独だから携帯電話番号を公開したのかは結局のところわからない。
奈良のお医者さんから電話が来た。
おりかえし電話したら、逢わないかという。交通費を出してくれるという。
一泊したいなら宿泊費を出してもいい。山田太一の話でもしようではないか。
別途にお小遣いのようなものを支払ってもいい。
世間の常識からしたら、こんなの嘘に決まっているではないか。
こんな話は小説で書いてもルポで書いても本当っぽくない。ありえない話である。

山田太一の小説「空也上人がいた」もありえない話である。
金持を自称する81歳の老人が、
心に傷をかかえた28歳の介護職青年にいろいろしてやる。
具体的には高い衣服をプレゼントし京都まで新幹線グリーン車で行かせる。
そこでタクシーで「六道の辻」まで行かせ、六波羅蜜寺まで歩かせる。
そこで六波羅蜜寺の宝物館にある空也上人像を見ろという。
おそらく老人もなぜ自分が「それ」をしたのかはわかっていない。
青年は「それ」の意味をいろいろ解釈するが(老人の偽善、色ボケ等々)、
結局は解釈どまりでなにが「本当のこと」かはわからない。

むかしブログのコメント欄に山田太一名義の批判コメントが来た。
いまは修正されて「山田犬一」になっている(そういう修正はブログ上可能)。
真剣に1週間以上苦しんだものである。
そのときのわたしにとって山田太一さんは神や仏以上の存在であった。
結局、どうしたかというと山田太一さんの家に電話してしまったのである。
何時ごろがいいかだいぶ迷ったが、朝9時過ぎにしたような気がする。
おそるおそる電話すると一発で山田太一さんが出てくれたのである。
事情を説明したら、芸人にも同名の人がいるじゃないですか? と言われた。
そうではないんです。そうではなくてと、どもりどもり説明したら――。
「ぼくはインターネットにそんな書き込みはしません。別人です」
「そうですか。ありがとうございます、失礼しました」
わたしは巨匠の貴重なお時間を3分も奪っていないはずである。
これも初公開の嘘みたいな話だけれど、「本当のこと」なのである。
親友からは、え? あれ山田さん本人じゃないの? と言われたが、わからない。

わたしは介護職も務まらないような(糞尿世話は無理っす)クズのおっさんである。
しかし、こちらは宿命のようなものとして、
ありえない「本当のこと」をいくつも経験している。
そういうことはどうせ書いても信じてもらえないし、
そういう秘密こそ自分であるという理由から(「それ」もわからないが)、
ブログには一字一句いっさい書いていないことがいくらでもある。
たとえばさ、こんなこと本当にあると思う?
かなりむかしの話だが(10年?)、人妻からメールが来て池袋で飲んで、
別れ際、今日はホテルまで行くつもりだったと言われるとか。
だったら最初に言ってよという話だが、
なぜ彼女が最後に「それ」を言ったかは本人もわからないだろう。
「本当のこと」はからかわれていただけかもしれない。

人間はなぜ自分が「それ」をするのか本当はわかっていないのかもしれない。
(これを仏教用語で「自力」ならぬ「他力」というのやもしれぬ)
わたしもなぜ自分がいきなり携帯電話番号をブログに公開したのかわからない。
奈良の開業医といったら地元の名士みたいなもんでしょう?
そんな世間一般尺度からしたら「偉い」人が、
なぜ当方なんかにお電話をくださったのかもわからない。
逢いたいって、おれなんかに、どうして? 
もしかしたら「それ」の原因のようなものはだれにもわからないのかもしれない。
ネットで調べたら京都経由で奈良のそこへ行くのだとわかる。
片道1万4千円以上でしょう? おれにそんな価値はないよ。
一泊したかったら宿泊費もくださるという。え? 奈良、京都?
京都には一ヶ所だけ行きたい場所があって、
それは山田太一の小説「空也上人がいた」に登場する六波羅蜜寺である。
いま空也を師とあおぐ一遍の全集を精読していたが、この偶然はなんだろう?
どうして「それ」は起こったのだろう?

介護職なんてたいへんなお仕事をできる青年への敬意への裏返しだろうが、
「空也上人がいた」に登場する青年よりも、
こちらのおっさんのほうがましな気もしなくはない。
いや、ましというのではなく、貧乏くさいというか、用心深いというか。
介護中の老婆を車椅子から放り投げて殺した介護青年は、
どうせ金は老人が出すんだからと「ひかり」か「のぞみ」のグリーン車に乗っている。
こちらはとても自分にそんな価値があるとは思えなく、
おそらく相手が出すと言っているのだから
「ひかり」「のぞみ」くらいは許されるだろうと思いながらも「こだま」。
それでさえ遠慮があって深夜バスでもいいけれど、
いま41歳だからそれはきついと内心で弁解しながらである。
それもネットでいろいろ調べて宿泊パックの時間限定「こだま」往復、格安ビジネスホテル、
往復23330円(宿泊費込み)まで費用を落とすことに成功した。
それでもまだ高いくらいで人様に払わせていい金額かわからない。
最終的に万が一にもトラブルになったとき、
自腹でも払えるよう最安値にしたという可能性もありうる。
自分でもどうして「それ」をしたのか「本当のこと」はよくわからない。

クレジットカードの決済ボタンを押すときは勇気がいった。
というのも、本当にその日にそこにそのお医者さんがいるのかわからないからである。
相手はこちらを多少ブログで知っていようが、こちらはまったくの無知である。
いきなり囲まれて宗教勧誘されるかもしれないし、
ブログ記事のことで非難を受けるかもしれない。
そういえばかのお医者さんは、
有名精神科医の春日武彦氏と同世代(ただし精神科ではない)。
春日さんからはメールやブログのコメント欄でだいぶ厳しいご批判を受けている。
もしかしたら春日先生のつながりではないだろうかと妄想をふくらます。
そういうのが退屈かといったら反対で、どこか劇的でおもしろい、……疲れるが。
「本当のこと」ってなんだろう?
身分の違うふたりはこうして逢ってお互い「本当のこと」を少しばかり話した。
何度も書いているが、ブログには決して書けない「本当のこと」はかなりある。
医者はちっとも権威的ではなかった。
自宅兼職場の談話室でスイカと桃をごちそうになった。どちらも甘かった。
ふたつ封筒をいただき、ひとつには交通費宿泊費。
もうひとつの封筒には、ここに書いても信じてもらえないだろう金額が入っていた。
そんな仕事をしていないやと思って、いま必死でこうして文章をつづっている。
「それ」はどうして起こったのか、「本当のこと」なのだが、だれにもわからない。
「こんな文章を書ける人は応援したい」とおっしゃってくださった。
むろん、それも「本当のこと」だろうが、
山田太一ファン的な意地悪な解釈をすれば、富裕層の好奇心の好餌になっただけで、
そんな自分に自信を持つなよ、と反省したくもなる。調子に乗るな。いい気になるな。

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(飲み放題1400円と激安なイタリア料理店。500円のピザがうまかった)

翌日、六道の辻から六波羅蜜寺に参詣。
平日だからかほとんど観光客もおらず空也上人像を長時間、拝謁させていただいた。
六波羅蜜寺は京都駅から歩いて行ける。タクシーを使うな。歩け。
知恩院でぶらぶらしていたタクシーのドライバーさんのひとりに道を聞いたら、
とてもいやそうな顔でいいかげんな道を教えられた。
それは聞くくらいならタクシーに乗れよって話なのだから、
無理もなく、人間味がありよかった。

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(六道の辻)
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(アリバイ証明:六波羅蜜寺)
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「左へ行くと回廊がある。その脇は小さな墓場だ。(……)
澄ました石庭なんかよりずっといいじゃないか」(P61)


山田太一の小説「空也上人がいた」で老人、中年女性、青年は、
それぞれ行為(選択)をするが、
どうして自分が「それ」をするのかよくわからない仕掛けになっている。
どうして老人が青年に親切にしたのか「それ」は究極的にはよくわからない。
中年女性が青年に本当に恋をしていたのかもわからない。
81歳の老人が本当に47歳の女性に恋をしていたのかどうかも、
「それ」はわからない。
最後にどうして老人は自殺したのかもわからないし、
なぜ遺体のまえでいままで処女だった47歳と28歳の青年がセックスしたのかも、
「それ」にはいったいどういうちからが働いているのかもわからない。
わかるのは「空也上人がいた」には「本当のこと」が書かれているということ。
小説は嘘なんだけれども、しかし本当以上に「本当のこと」が書かれている。
たとえば、こんなわたしがいきなり見知らぬ奈良のお医者さんから招待されて、
けっこうな金額のお小遣いをいただき、翌日には六波羅蜜寺で空也上人と逢った。
ひとりぼっちで空也を尊敬していた一遍のことを独学していたら、
こういうことが起こった。
これを書いている当方だって、どこまで「本当のこと」か信じてもらえる自信がない。
しかし、これは「本当のこと」なのである。
だからして「空也上人がいた」も「本当のこと」をうまく嘘にした小説なのである。

妻を亡くし、まともに話せるような友人も、
いまはひとりもいない81歳の老人(吉崎)はいう。

「「金はあるんだ」と吉崎さんはいった。
「無論この先どれだけ生きるやも知れない。
どんな費用のかかる病気になるやも知れない。
極端なインフレで百万円が一円にもならない暴落があるやも知れない。
戦争だって大地震だってあるだろう。
事態の用心はね、いまの家のバリアフリーを見れば分るように、
ほっとけば抜け目なくしようとするのが私の性分なんだ。
しかしそれだけに用心のむなしさにも散々懲りている。
それはもうこの世には人智の及ばないことだらけでね。
[自分はもう]八十一だよ、中津さん」(P42)


そんな81歳の吉崎老人が最後に到達したのが空也上人への妄想である。

「[空也上人は]善人も悪人もいない。
善悪なんか突きぬけて、誰もが持ってる生きてるかなしさ、
死んじまうことの平等さ、
そういうことを分ってくれてる人って思いが湧いたんだ。
こういう人がいると助かるなあというくらいのことだ。
私は[空也上人像を見て]、泣いたんだ。
他に人がいないこともあってね」(P82)


わたしも思い入れが強いから空也上人像を見てわんわん泣いた。
男のくせに、わんわん泣いた。ひとりだったけれど、ひとりではないような気がした。

(関連記事)
「空也上人がいた」(山田太一/朝日新聞出版)



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「捨てた夢プレイバック 「ふぞろいの林檎たち」より」(山田太一/飛鳥新社) *再読

→山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」1~3までから選び抜かれた名セリフ集。
ふぞろいの林檎(りんご)たちってすごいよね。
高く売られる林檎として生まれなかったから、もうどうしようもないのに、
ふぞろいはふぞろいながら林檎のかたちをキープしながら世に自分を売り出していく。
埼京線の通勤ラッシュに乗り合わせると自殺したくなる。
この人たちはみんな「いい」を目指して、こんなに毎日苦労しているんだなあと。
学生はいい学校、社会人はよりいい会社、
いい配偶者、いい子ども、いい老後、いい人生。
よくバカらしくなんないなあと。
どうしてふぞろいの林檎たちは埼京線にダイブしてジュースにならないんだろう。
こういうことを駅から工場まで車で送ってくれる派遣会社の社員に言っちゃうおれが、
そこまで偉いのか、正しいのか、すごいのか、
むしろふぞろいの林檎たちにさえなりきれていないじゃないか。
派遣会社の部長さんなんかほぼ365日間働いているわけよ。
小さな会社で部長と呼ばれて38歳で結婚していて共働きで新婚旅行はイタリアで。
派遣先会社の社員からも(わたしもふくめて)派遣さんからも評判がいい。
貫禄がある、なんていう評価を聞いたことがある、小さな会社の部長さん。

去年勤務していたところの副工場長45歳もふぞろいの林檎たちだよなあ。
すっげえあたまの悪い高校を出ていて、
同級生の女子と10年近くてんやわんやがあって結局、結婚。
お坊ちゃんがふたりで、
そのうちひとりが高校を出て専門に行きたいというんでまたローンだとヒイヒイいってた。
それなのに人情家を気取っていて大卒の部下(バイト/わたし)を
クビになった日にフィリピンパブに連れて行ってくれたりしちゃう(完全奢り)。
そこでまたでかいことを吹かすんだけれど、そういうのってとてもいとおしいよねえ。
大物ぶってちまちま不倫して、
高校時代からつきあいのある妻にばれていることを知っている。
最初に書いた派遣会社の部長さんも副工場長も、
そのふぞろいの林檎たちっぷりにほれぼれとした。
そういうふうに同性を見られるのは、
まさしく山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」の強い影響による。
彼らの共通点は仲間がいること。友達が多いこと。
しかし、ふぞろいの林檎たちの友情関係はあまり健全なものではない。
だれかが有名になったり、たまのこしに乗ったりしたら、すぐに切れる類のもの。
とはいえ、相手が失速したり落下したらすぐに友情復活で慰めてくれる。
いつもわいわいがやがややっていて、
そんなに人のために自分の時間や交際費を使っているから、
いつまで経っても貯金できないんだぞという。
でも、そういうのっていいよね。
少なくとも合理的に効率的に生産的に生きようとするよりカッカしている。
美しい恋人がいる東大卒の孤独なエリートイケメン修一(国広富之)は、
ふぞろいの林檎たちをこう評する。

修一「いいね。友だちが、店手伝ったり、ドンドン上がってったり。
  そういうつき合い、おかしいだろうけれど、本当に縁がなかった。
  一人っ子だし。フフ、いま、とっても、なんだか、よかったなあ。フフ」(P10)


だれもが感じているのが孤独であり、ひとりぼっちという感覚だろう。
あんがい人間はいい学校やいい会社、いい配偶者、いい子、いい老後を
目指して毎朝通勤ラッシュにもまれているのではないのかもしれない。
本人はそう思っているかもしれないけれど、そう強弁に言い張るかもしれないけれど。
東大出身の孤独なイケメンエリートは口にする。
あんなに多くの人がそれぞれ釣り合いを保ちながら結婚して、
どうして家庭めいたものをつくって幸福ぶりたがるのだろう。

修一「まったく、人と深くつき合わないで暮せたら、とてもいいんだけど。
  厄介なもんだね。それじゃあ淋しくてたまらなくなる。
  人間の不幸は、家でじっとしていられないことからはじまるって、
  誰かがいったけど、本当だね」(P45)


わたしはふぞろいの林檎たちにもなりきれない、
ほとんどジュースみたいなクズ野郎だけれども同感だなあ。
東大卒でもないし、イケメンでもないし、美しい恋人もいないけれど、
なんにもないけれど、ひとりぼっちだけれども。
なんでみんなそんなにまじめに生きていけるんだろう?
いい結婚をして、いい家庭をつくり、少しでもいい会社で働き、いつか唐突に死んでいく。
去年、上司である副工場長と激安酒場でかなりのんだとき(わたしも払っている)、
工場長の悪口をこれでもかというくらい聞かされた。
おお、これこそおれの求めている「ふぞろいの林檎たち」の世界ではないかと、
ビールは口にしながらも覚醒しきった目でわたしは男を観察していた。
別れるとき副工場長は路上でたちしょん(立ち小便)をして叫んだものである。

「ああ、羽目をはずしたい!」

山田太一ドラマに頻出するセリフであるバカヤロウとおなじだろう。
いい夫がなんだ、いい家庭がなんだ、いい学校がいい会社がなんだ、バカヤロウ!
東大卒の修一とふぞろいの林檎たちのなかでもクズな実(柳沢慎吾)が話している。
人と話すとき、なにが楽しいかといったら共通の知人の噂話(悪口)である。
良雄(中井貴一)はどうして結婚しないのか?

実「[良雄は]真面目だし、係長だし、いまのあいつなら、
  いくらだっていい嫁さんつかまるんだから」
修一「どっかで、そうしたくないんだろうな」
実「そうしたくないって」
修一「いい嫁さん貰っていい家庭つくって、いい子供うんで、いいパパになって」
実「ええ」
修一「そうしたくない。手堅くは行きたくない。
  人妻を好きになって、めちゃくちゃになりたい」
実「あいつが?」
修一「フフ、考えすぎかもしれないけど、人間は厄介だからね。
  した方がいいことばっかりするとは限らない」(P129)


「めちゃくちゃになりたい!」

修一の恋人でのちに結婚するインテリ美女役の夏恵(高橋ひとみ)はいう。
ドラマで唯一おっぱいを見せてくれた女優である。

夏恵「ちょっと手が触っただけで、ドキドキしたり、
  このあたり(胸の上)みせただけで、男の人の目が、痛いようだったり、
  そういうこと、なくなっちゃったら、
  なんかひどい人生みたいな――そういう気がするの」(P82)


しかし、ふぞろいの林檎たちは今日も満員の通勤電車に乗り、
よき社会人を演じ、人の噂話(悪口)に花を咲かせ、
仕事が終わったら安月給(安いお小遣い)をものともせず居酒屋に行き駄弁る。
そして家に帰ったらよきパパやよきママになり、
子どもたちには少なくとも自分以上の存在になってほしいと期待して苦しめる。
どんなにがんばったって、
ふぞろいの林檎たちの遺伝子は変わらず継承されるのだが。
そして日本は個人がどう正義を主張しようが結局のところ、
まあまあ、まあまあのなあなあな世界で、それを言っちゃうとあんまりだけど、
どうしようもなくどうにもならない世の中なのだが。
そのことをわかっている、にもかかわらずふぞろいの林檎たちは――。
男3人のなかでいちばん押し出しがよく男らしいのは健一(時任三郎)。
多少は世間を知った健一、良雄(中井貴一)、実(柳沢慎吾)はつるみ駄弁る。

実「世の中、そんなもんよ。建築だって、
  設計士が業者に発注すりゃあ、業者は設計士に礼金を払う。
良雄「みんながみんなそうじゃないだろ」
実「そりゃそうだけど、世の中見た目のようには動いてないのよ。
  裏へ回りゃあ、リベートだコネクションだって」
健一「もうよせ」
実「なんだよ?」
健一「世の中そうだから、なんだっていうんだ? 嬉しそうにしゃべるなッ」(P58)


リベートやコネクションでいい思いをしているやつはいっぱいいるのに、
今日もふぞろいの林檎たちは地獄のような満員通勤電車に身体を押し込む。
よき社会人を演じ、よき上司やよき部下を演じ、帰宅したらよき家庭人を演じる。
羽目をはずしたいけれど、めちゃくちゃになりたいけれど、
そういうことをできる器ではないのは自覚しており、
周囲にそういう道を踏み外したやつがいたら執念ぶかく攻撃する。
しかし、ときには叫びたい。バカヤロウと。

「バカヤロウ!」

(関連記事)
「ふぞろいの林檎たち」(山田太一/新潮文庫)
「ふぞろいの林檎たちⅡ」(山田太一/新潮文庫)
「ふぞろいの林檎たちⅢ」(山田太一/マガジンハウス)
「ふぞろいの林檎たちⅣ」(山田太一/マガジンハウス)