奈良方面からお声がかかり、これはどうやら六波羅蜜寺に行けそうな雰囲気。
六波羅蜜寺は空也上人像で有名らしい。
わたしは山田太一の小説「空也上人がいた」で六波羅蜜寺の存在を知った。
大げさだが長い旅が終わるのかなあ、という感傷めいたものに浸っている。
仏教のブの字も知らない29歳のとき、
どうせインドに3ヶ月もいるんだからと仏教八大聖地をひとりめぐった。
あれはツアーで行くのでさえけっこうしんどいと思う。
とにかく若かったんだなあ。
釈迦が生まれたというルンビニー(これはネパール)とか、
入滅したクシナーガルとか当時はよく意味もわからず行ったものである。
いまになってみると現地を見ていることが仏典理解にどれだけ役立ったか。
まあ、ぶっちゃけ最澄も空海も法然も日蓮大聖人さまもインドへ行っていないんだよね。
大勝利みたいな、うふっ♪

中国までならけっこう行ったやつ(とか言っちゃ失礼か)がいる。
でも、法然、親鸞、日蓮大聖人さまでさえ中国へも行けていない。
そのくせ中国人の善導がどうの智顗(ちぎ)がどうのと日本で騒いでいる。
なぜか当方は仏縁があるようで、
中国のマイナーな香積寺(浄土宗発祥の地)にも
草堂寺(鳩摩羅什/くまらじゅうの聖地=日蓮系)にもひとりで行っている。
あれはもう10年まえになるのか。
当時は親鸞や日蓮大聖人さまのやばさも、
一遍にいたっては存在さえもなかば知らなかった。

とりあえず仏教は韓国から伝来しているよね? 
ってことで4月に韓国仏教にもあいさつしてきた。アニョハセヨってさ。
そういえば、いままでどうして奈良や京都とは縁がなかったのだろう。
修学旅行の退屈なイメージしかなかったからか。
とはいえ、いま調べても行きたいのは六波羅蜜寺しかないなあ。
空也上人は、いま当方がはまっている一遍上人が尊敬していた坊さんである。
いちおう山田太一ファンなら
六波羅蜜寺くらい参詣していないといけないような気がするしさ。
思えば、12年まえのインドから、よく仏教を勉強したなあ。
六波羅蜜寺でひとめぐりするのではないかという感慨がある。
結局、インドでも中国でも韓国でも仏教は消滅しているんだよね。
タイでは(仏さまは)生きていたが、カンボジアやベトナムでは死んでいた。
ラオスは微妙なところだけれど、まあ観光仏教ってところかな。
それを言えば奈良や京都だって、あれは日本観光仏教でしょう?
ばあちゃん死んじゃったから、
しょうがねえから坊さん呼ぶかっていうのが日本土俗仏教なわけで(笑)。
いまはもうだれも知らない丹羽文雄の世界っていうか。

あと残っているのはネパール、ミャンマー、スリランカくらいかな。
行きたいけれど金と時間と、あまり遊ぶなよという世間さまの問題があり。
宗教人類学者とか自称したら、旅行がフィールドワークになり、
ぶっちゃけこれが重要なんだけれど、旅費が確定申告で経費あつかいになるの?
学者っていったいなんなのだろう? お坊さんってなに?
先輩後輩のじめじめした人間関係を通過しないと、
学者や坊主にはなれないのかなあ。あと布教ってなんだろう?
わたしは山田太一作品が好きだけれど、いまは人にすすめたいとは思わないし、
いまは(むかしから?)氏を人格的な教祖のように慕っているわけではない。
ファンレターを書いてお返事をもらって、それを周囲に自慢したいとも思わない。
でも宗教の根本ってここだよね。
自分はどれだけ教祖から認められたか自慢したいという。きんもっ♪

一遍の南無阿弥陀仏だって、わたしは好きだけれど、
人におすすめしたいかって聞かれたら、うーん。
ただ苦しいときに南無阿弥陀仏(善悪も損得もわからない/自然にまかせよう)と
思うと楽じゃないかなあ、くらいのことは小声で申し上げることならできる。
一遍は教団など残す気はなかったのだが、
いまでも一遍の時宗という浄土教団は細々と続いており、
その時宗のボスもいるらしいけれど、彼に認められたいとか、
あわよくば秘伝を授かりたい(そんなもんないっしょ!)とか、そういう願望はない。
自分の葬式は無宗教でいいと、それだけは近親者に伝えてある。
どうせ呼ぶ人、来る人はいないから、葬式は不要で、
可能なかぎり安い値段で焼いて骨にしてくださいと。
骨はガラクタといっしょに押し入れにでもポイでOK。あれ捨てると罪になるんでしょ?
べつに生ゴミとまぜて捨てられてもいいんだけれど、だってわかんないっしょ?
今日、有名女性が死んだらしいけれど鬼女も喪女もさぞメシがうまいことだろう。
女性のそういうところって正直で好きよ♪
「運は実力を超える」(植島啓司/角川新書)

→人生は運なんだよ、とかたくなに信じている植島啓司が好きだ。
わたしも「運・ツキ・偶然」の在野の研究家である。
学者やインテリはいろいろ難しいことを言うが、
人生とは結局以下の構図で説明されうるのではないか。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

人生とは行為(選択)の連続であり、遅かれ早かれその結果が現われる。
プラスと言われている行為(選択)をしたのに、マイナス結果が出ることもあろう。
マイナスとしか思えない選択をした結果、どうしてかプラスの事態が舞い込むこともある。
宗教的に突っ込むと、なにがプラスでなにがマイナスかはわからない。
選択のプラスマイナスもわからないし、結果のプラスマイナスもわからない。
いちおう世間上の善悪や損得といったプラスマイナスはあるが、
そんなものはころころ変わりうる。
家族の自殺や障害児誕生といったマイナスが出た場合、
人は本当にわからない気持になる。
自分はそこまで悪い行為(選択)をしたのだろうかと人によっては発狂しかねない。
いまの医者はエビデンス(統計データ)で治療方針を決めることが多いようだが、
エビデンスにしたがった「正しい」医療行為を選択してもマイナスの結果が出ることがある。
このへんが究極の問題で、
果たして「死」はプラスマイナスで測定できるのかという問題もある。
何度でも書きたいが人生は突き詰めれば以下の構図である。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

努力すれば報われる、報われていない人は努力していないから、
と信じている人の人生観はどうなっているかというと――。

☆人生=行為(選択)→「努力の質量」→結果(善悪/損得)

しかし、いくら努力をしても報われないことはございますでしょう?
わたしは自分よりも努力しているがんばり屋さんが不遇なケースをいくつも知っている。
あきらかに自分よりも怠けていそうなやつがキラキラしているのも知っている。
あれ? 人生って努力(自力)よりも運の力(他力)のほうが大きいのではないか?
もしかしたらかなりのところが運で決まっているのではないか?
そうだとしたら運をよくするためにはどうしたらいいか?
宗教人類学者の植島啓司や当方が関心を持つのはここの領域である。

人生=行為(選択)→「運」→結果(善悪/損得)

どうしたら運がよくなるかは本当にわからない神仏の領域である。
だから、わたしは人生はかなり運であると認めながら、
「運」という言葉の弱さを嫌って、
たとえば(一遍上人の)南無阿弥陀仏(念仏)にまかせたくなる。
南無阿弥陀仏の意味は、人間には「わからない」である

人生=行為(念仏)→「自然」→結果(念仏)

結果のプラスマイナスなんかじつはわからないわけ。
交通事故に遭って病院にかつぎこまれたら、
そこで運命の女性たるナースとの出逢いを果たすかもしれないわけだから。
株で10億稼いでも、うつ病になったらなにも楽しめない地獄になる。
わたしは個人的に一遍の南無阿弥陀仏に興味を持って独学しているが、
一般の人は「行為選択→(?)→結果」の「?」は運にしておいたほうがいいと思う。
どうしたら運がよくなるのか。
わたしが20年近く考えてきたことであり、
植島啓司氏にいたっては40年以上賭場という実地で試行実験してきたことではないか。
いままでわが国において「運・ツキ・偶然」を、
実地で学問してきたのは植島啓司と河合隼雄だけだと思う。

みなさまが知りたいのは、どうしたら運がよくなるかだけでしょう?
わたしだって学問なんかどうでもよく、運命の女神との勝負に興味があるのだ。
果たしていま勝ったと言えるのかわからない(←意地悪)、
植島の答えを先に箇条書きにしておこう。

1.人に「お願い」をしない。
2.チャンスが来るのを待つ。
3.手の内を明かさない。
4.相手がミスをするのを待つ。
5.損得や善悪など、どうでもいい境地にまでいたる。
6.忘我・無我・恍惚こそ勝負の醍醐味よ。
7.いつも旅しているように生きよう。

1の他人にお願いをしないようにしようというのは間違いだろう。
だって、だれもが植島のようにひっきりなしに美女が寄ってくるわけではない。
デートをお願いしなかったらつきあってくれない女性がいる。
以下は、まあ正しいと思うので、
本書を購入するのがめんどうな読者のために原文で紹介します。

「人間の思考はすぐ頑(かたく)なで硬直したものになってしまうので、
負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。
何か新しいヒントが見つかるまでは大きく賭けないことである。
負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることになるだろう。
わざわざ言うまでもないが、
ここぞというときに大きく賭けられるのがギャンブラーであり、
普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。
ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである」(P62)


植島は待てと言う。それから隠せと言う。
話は飛ぶが、AVに出てしまうと女性は運がひどく落ちるのではないか?
おまんこクパァとか見せてしまったら、それだけで運は激減すると思う。
手の内は見せるな。隠すべきものは隠せ。秘密は口にするな。

「もしあなたが大きな勝負をするとしたら、そのときは誰にもしゃべってはいけない。
運はしゃべることによって逃げていってしまうからである。
もちろん大した勝負ではないと思えば、みんなにしゃべってもよろしい。
そのほうが、結果がいいことも多いかもしれない。
しかし、ちょっと手のひらに汗をかくような勝負となれば、
誰にも話さないほうが賢明である」(P65)


人間の器量って、どれだけ自他の秘密を守れるかにあるような気がする。
その意味で、河合隼雄は偉大で、みんなから怖がられ、おそらく孤独だったと思う。
耳にした真実をペラペラ拡散するようなものはいざという勝負で勝てない。
しかし、秘密を守るのはつらいわなあ。
麻雀やパチンコで裏で見ている人がいると負けるというのは、
下品だがうまいたとえではないか。
勝負というのは勝ち負けである。どっちも勝ってなかよしこよしなんてありえない。
相手を負かすのが勝負であり、ギャンブルであり、おそらく人生なのである。

「よく先手必勝というが、[ギャンブルの]名人クラスになると、
相手のミスを導き出して、それを咎(とが)めるというのが本来の形であって、
それも相手に「自分がミスをした」と印象づけることが必要となってくる。
そうした結果、相手が動揺して悪手を打ったり、
まちがったりしてくれるというわけである。
運を自分の手で直接につかむことは想像以上に難しい。
すべてを相手側に委(ゆだ)ねることが大切だと知るべきだ」(P72)


結局のところ著者とわたしの共通認識としてあるのは、
勝敗なんかどうだっていいじゃないか? 勝負そのものが楽しいだろう?
勝敗を決める絶対者(運、神、仏)と対峙している昂揚ほどの悦楽が人生にあろうか?
勝ちや負けがどうでもよくなったものが勝つのである。
負けたってなんだよ。勝ったってそれがなんだって言うんだ。
勝負にはもっと危ないあの忘我の陶酔があるではないか?

「社会がどうだとか、なにが合法だとかいうことなど、どうだっていい。
ちゃんちゃらおかしい。善悪など関係ない。人はいつか死ぬし、馬も死ぬ」(P84)


植島啓司は東大の宗教学科の出身らしいが、当時は食えないことで有名だったらしい。
わかりやすく言うと東大の宗教学科を出ても就職先がない。
そうまでして植島が入った東大の宗教学科にはろくな学者がいなかったという。
いまだから言えるのだろうが、植島は東大の宗教学者はクソばかりだとシャウトしている。
そして、それはおそらく正しいとわたしも思う。
植島啓司青年がなぜ宗教学の門徒になったか本書に書かれており、
この箇所にいちばん感銘を受けた。植島はなぜ宗教学を志したのか?

「人間の心が通常とは違ってとんでもない歓喜に満ちた瞬間であるとか、
自分が自分じゃないように思える瞬間とか、
自分の心が相手に乗り移ってしまう瞬間とか、
どうしようもなくやりきれない瞬間とか、
いわゆる「神がかり」と呼ばれる状態についても、できるだけ
宗教のヴォキャブラリー[専門用語]をつかわずに説明したいと思ったのだ」(P112)


ちまちま善悪や損得を考えるのは我執に過ぎず、
そんな我執では勝負に勝つどころか、勝負の本質さえ見えないのではないか?
善悪や損得を越えた超我・無我の視点から大勝負をしてみてえぜ!

「ぼくらはギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。
別に清廉潔白であってもいいが、
そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。
だから、ギャンブルにおいては、
ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、
あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、
「奇抜だったり」する必要があったりする。
ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。
それほど自由でなければならないということである」(P173)


わたしはむかし(美香時代)から「人生は3G」と主張している。
人生なんて、ギャンブル、ゲーム、ギャグだから笑っちゃおうぜ。
いま当方は安酒をのみながら駄文を書いているが、
2017年の自分がこうなっているなんてまさかまさかで、ぜんぜんわからなかった。
その「わからない」が「運」であり、人によっては神仏になるのだろう。
どこまで旅のように人生を生きられるか。
いままで逢った人、別れた人、再会した人、この歳になるとみんな懐かしい。
そして、これからだれと出逢うのだろう。

「考えるべきはただひとつ。
いま自分がどういう状態にあるかをぼんやりと理解しておくべきだろう。
そして、他人にわかられないように生きること。
それによって起こることの意味も変わってくる。
いつも旅しているような生き方こそが必要なのだ。
明日はどこにいるのかわからない。
それなのに勝負となれば相手を一撃で仕留めてしまう」(P163)


わたしは植島啓司とおなじように「運」の存在を信じている。