コメント欄で議論をふっかけられるとか、たたかおうぜ、みたいのはいやいや。
「本の山」は釣り堀なんだよ。
おれは男なんてどうでもよくて、国籍問わず、
既婚とかバツイチとかバツニとか風俗歴とかそういう過去も問わず、
(わがはいより)若くてかわいい女の子といちゃいちゃしたいんだよ。
若ければ若いほどいいし、
かわいければかわいいほどいい(当方の好みはグラビアとマッパ=正反対だが)。
おれはね、女性に尊敬されたいとか思ってブログを更新しているわけではない。
尊敬なんかいらない。かわいがって、遊んで、いっしょに遊ぼう、いちゃいちゃしよう。
いっしょにバトミントンをしたり、料理をつくったり、ニコプン喧嘩をしたり――。
男根で女陰を屈服したいとかじゃなくて、
おれは女とにゃんにゃんわんわんぱんぱんしたいの。くいーん♪ って鳴きたいの。
だから、女にべつの主人や彼氏がいても立派な旦那さんがいらしてもいいの、
その日だけでもおれとわいわいきゃっきゃ遊んでくれるならば。
男とは遊ぼうとしもすぐに喧嘩になっちゃうから、女がいいの、亭主持ちでもいいの。
いまほしいのはキャアキャア遊びながら、
自動車運転技術を教えてくれるクルマ持ちの女性かなあ。
そんなほしいものを書いたって手に入るはずはないだろうって、
あのさ、そんな常識、この年齢になる男が知らないわけないっしょ? 
でも、もう男社会はいやなの。
わいわいきゃっきゃしたいの。バカをしたいの。バカになりたいの。もうどうでもいいの。
「明るいニヒリズム」(中島義道/PHP文庫)

→平易な一般書かと思って買ったら、難解な哲学書だったので当惑した。
ネット書店の楽天やアマゾンで買うと、
立ち読みができないのでこういう事態に遭遇することがある。
やたら西洋の有名哲学者の名前や、
庶民には流布していない哲学用語が散見されるPHP文庫である。
「明るいニヒリズム」――とてもいいタイトルだと思う。
基本的に山田太一さんは明るいニヒリストだし、わたしもそうでありたいと願っているし。
祖をたずねれば鎌倉時代のカルト僧、
踊り念仏の一遍上人に行き当たるのではないかと思う。
本書は難解度がアップしただけで、主張はいままでの類書とおなじである。
著者の本を何冊か読んでいなかったら、本書の購入は金銭と時間の無駄に終わると思う。

本書の内容は――。
1.客観的世界は存在しない。
2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。

だからなんだっていう見方もできるわけだ。
わたしは長らく底辺時給帯で下級労働にぎりぎりでいそしんできたが、
同僚に1~3のことを説明はできるが、説明してもさっぱり理解してもらえないと思う。
客観がなんだと言われようが、
この1杯のカップラーメンを食ったら腹がふくれるだろう?
そうしたら昼休み後もまた働くことができるだろう? 
そう言われたら、なんの反論もできない。
存在がどうのや、観念がどうのよりも、
同僚の噂話のほうがはるかにおもしろいのもわかる。
じゃあ、どうしてこんな話をするのかというと、
結局この人はインテリじゃんってもてたいからかもしれないなあ。
とにかく同僚の悪口も大好きだけれど、おいら、こういうことにも興味があるんだ~よ。

1.客観的世界は存在しない。
これはもう鎌倉時代の一遍上人からして主張していることだが、
わかる人はすっとわかるだろうが、わからない人はたとえ東大を出ていてもわからない。
たとえば、事件(事象/現象)Xがあったとするじゃないですか?
それを目撃した証人のA、B、C、D、Eがいる。
この場合、客観事象(事件)Xは、
主観A、主観B、主観C、主観D、主観Eとしか存在しえない。
たいがいは主観A~Eが一致するだろうから、それが客観的事実と仮称(命名)される。
まれに5つの主観が一致しない場合は多数決で客観的事実なるものが決められる。
このように考えると、真なる客観事象(事件)Xは厳密には存在しないことになろう。
こういうことを書くと、証拠があるじゃないかと反論してくるものが現われよう。
たとえば客観証拠の写真Xがあるとする。このXは絶対客観と言えないか?
答えは、言えない。なぜなら写真Xを人はそれぞれの主観で見るからである。
たとえば男性が女性をラブホテルに連れ込もうとうする写真Xがあったとする。
それは客観的事実ではないかと主張する人がいるかもしれない。
しかし、主観者Aは男が好みのタイプだったため女に反感を持つかもしれない。
主観者Bはラブホテルに行ったことがないので、公園を楽しくデートするふたりに見える。
主観者Cはいまとにかく金がないのでプレイボーイに怒りをおぼえる。
主観者Dは写真の女性が好みのタイプなので、自分もこういう体験をしたいとあこがれる。
主観者Eは同性愛者なので、写真の意味するところがいまひとつ理解できない。

以上のような弁舌で客観的世界が存在しない(かもしれない)ことは主張できるが、
大半の生活者にとってそんなことはどうでもいいことを、
ここ数年の低賃金労働で身体がボロボロのこの書き手が知らないわけではない。

2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
これもまたわかりにくいし、
わかってもお金がもうかるわけでもなく、異性にもてるわけでもない。
だったら、そんなの意味はないじゃん、というのは正しく、
中島哲学はまったく意味がない暇つぶしなのだが、
時間に追われる大勢の人間がいるいっぽうで、
世の中には中島哲学で苦しんでいるふりをすることで
(あのなによりも恐ろしい)退屈という「魔」から逃れたい人もおられるのである。
「世界は観念である」という定義の「観念」がよくない。
「観念」ってなに? と高卒の庶民は思ってしまう。「観念」というのは、つまり言葉のこと。
「世界は言葉である」と言われたら、
少しはなるほどと思うかたもいらっしゃるのではありませんか?
なーに、こんなことは最新学説でもなんでもなく、西洋ではデリダだっけ?
わが日本でも西洋哲学よりはるかむかしに踊り念仏の一遍上人が言っておられる。
われわれはいつも悩み苦しんでいるところがある。
金がほしい。美人になりたい。イケメンだったらなあ。あのトラウマさえなかったら。
けどさ、そういうのはすべて言葉なわけじゃないですか?
貧富、美醜、賢愚、苦楽、快不快、幸不幸、現在過去、善悪――。
すべてが「言葉」に過ぎないでしょう?
それは客観的事象ではなく主観的言語と考えることができるのではないか?
いくらそんなことを言われたって、現実の貧窮や不幸が消えないのは、
当方も実感として理解している。
しかし、それは「言葉」に過ぎないという見方もできるでしょう?
言語構造の根本にあるのは貧富、美醜、善悪といったような「A/反A」という対比構造。
苦楽だって、いまを苦しいと思うから楽という言葉(観念)が出現するわけでしょう?
だったら、すべて「言葉」に過ぎないわけではないかとは考えられませんか?
(まあ、ご無理でしょうけれど)

ここで「明るいニヒリスト」だった踊り念仏の一遍を持ち出すと説明が容易になる。
一遍仏法において最高真理は南無阿弥陀仏である。
そして、この南無阿弥陀仏は言語道断、言葉では説明できないと説く。
最高真理X(南無阿弥陀仏)は存在するけれど、
Xは善悪、貧富、美醜、賢愚といった相対言語では説明できない究極的真実である。
X(南無阿弥陀仏)は言葉(相対言語)では説き明かせない不可思議真理。
このX(南無阿弥陀仏)のまえでは言葉(世界)は意味をなさない。
X(南無阿弥陀仏)という光明のまえでは、
男女も不幸もトラウマも怨恨も意味をなさない。
なぜならX(南無阿弥陀仏)自体が言葉(相対言語/世界)を超越しているからである。
わかってもらえないかなあ。無理だよなあ。
わたしだって昨日、愛する人を亡くした人にこの論理を説明して救えるとは思えない。
しかし、「死」や「不幸」「苦悩」、「教授」「社長」「成功」なんかすべて「言葉」に過ぎず、
「世界」など無数のそれぞれ主観的な「言葉」が仮構している虚妄(こもう)で、
さらさらつゆつゆ客観的な確固とした建造物たる「世界」など、どこにもありえなく、
ならば「死」も「不安」も「不幸」も主観的言語ゆえ恐れるに足るものではなく、
毎日「明るいニヒリスト」として、ときに世の浮き沈みでもながめて、
ニヤニヤしながら「やんなっちゃうなあ」とでもつぶやいていたらいい、
という可能性もなくはなくなるわけであるが、
ひとりでもご納得していただけた人はおられますか?
「明るいニヒリスト」になりきってギンギラギンに踊っちゃってもかまへん♪

3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。
「過去」も「未来」も「死」も主観的な「言葉」に過ぎないでしょう?
だから「過去」「未来」「死」は客観的に存在しているわけではない。
以上で解説は終わりなんだけれど、
ここまでお読みくださったかたにそれはあんまりだよねえ。
というわけで、最後にくだけたちょっとばかりわかりやすい説明をいたしたく存じます。
「過去」って本当に「(主観的)言葉」なんだよねえ。
「本の山」にも「アジア漫遊記」というカテゴリーを掲載している。
あれは10年近くまえタイ、カンボジア、ベトナム、中国と
3ヶ月半かけて旅したときの記憶をつづったものだ。
アクセスなんたらを見ると、あんなものをいまだに読んでくださるかたもいるので嬉しい。
自己愛にもほどがすぎるが、自分で読み返すこともあり、
そうすると「過去」とは「言葉」であるということがつくづくよくわかる。
言葉として書き残していなかったら、あの7割近くは忘却していたのではないか?
そのうえあの旅行記には読者に楽しんでいただく目的で、
フィクションをところどころに混ぜている。
いまとなるとどれがフィクションでどれがリアルか判定できないところもある。
そうなってはじめて、
みなさまがこだわっていらっしゃる「過去」や「履歴」「経歴」「トラウマ」
なんてそう大したものではないのではないかということがおのずからわかる。

これは中島哲学博士の言い分だが、
「過去」とは「現在」から想起された「言葉」で実体はないに等しい。
いま生きるこの「現在」も「未来」によって「過去」として想起されうるのではないか、
という発想から未来という「観念(言葉)」が発生する。
博士が言いたいのは「過去」「未来」「死」――すべてが主観的な「言葉」で実体はない。
鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍上人が50歳にならぬうちに早々と悟った真理らしきものを、
西洋かぶれのマスコミ学者、老権力者、
中島義道哲学博士はいまごろようやく気づいたとも言えるし、
いまの日本に生きているとこういう真理に、
はなはだ到達しにくいという時代風潮に対してさまざまな感想をいだくのも自由であろう。
まあ、一般読者はわが解説がなかったらこの本の意味がわからないだろう。
とうてい担当編集者が本書の意味を理解していたとは思えないが、
それでも原本のまま世間さまに公開するのは老権力者への尊敬からか、
損得勘定からか、(本書を理解したと思いたい)おのれの知的虚栄心からか?
いまは学者や作家よりも権力があるとばれてしまった編集者の石井高弘さんに聞いてみたい。

*文章は一般読者には理解不能なので本書からの引用はあえてしませんでした。

これはもうインターネット社会の弊害としか申し上げようがなく……。
ツチヤと土屋、わたしがふたりいるわけである。
当方のなかでは、どっちもおなじ人格破綻者なのだが、外見はそうではないらしい。
履歴書上の土屋はとにかくまじめそうで実際に正直で勤勉で、
世渡りは下手そうだが応援したくなるような放っておけない中年男性らしい。
もうひとりのツチヤは、精神がブラボーしていて、
明日のことなんか知ったこっちゃねえよという。
明日ベトナム人やネパール人と結婚して、あっちに行っちゃうよというやばさがある。
先のことなんか知ったこっちゃねえという無頼を生きがいにしているというか。
ネットのツチヤしか知らない人はかたぎの土屋に困惑するだろうし、
社会底辺としてうずもれている土屋しか知らない人はスーパーフリーなツチヤにビビる。
東南アジアの女性にだまされて……という定型コースを送りたいけれど、
そういう定番コースを知っているから真似はしたくないが、
あえてルートをたどればのちに回想として書く(表現する)麻薬的快楽が
あるのではないかとも期待する。
しかし、わたしをそこまで夢中にできる中国人でもベトナム人でもいらっしゃるかと。
世の中を、男女関係を舐めている不遜な自分を一蹴されたい。
大損したい。騙されたい。絶壁に追い込まれたい。死の一歩直前まで追い込まれたい。
つまり、生きる高揚を味わいたい。せっかく生まれてきたのだから。