今日、ふたつの派遣会社の人から電話がかかってきてびっくりしちゃったよ。
長生きしたいとか金儲けしたいとか本気で考えたら、
もっとべつな方法があるのにいまこうしてだらだら生きているわけだ。
イコール、長生きや効率的な金儲けにあまり興味がない。
20年近くまえから言っているように、
明日死んだとしてもどこかで別に~という感覚がある。
どこかでそれがおもしろそうだったら、
無給でどこでなんでもやれるという捨て鉢な感覚がある。
もう人生は目いっぱい楽しんだよ、ありがとう、みたいな。
電話のひとつは、精神病患者や痴呆患者の送り迎えドライバー。
おもしろそうだったが、いまペーパードライバーだから断らざるをえなかった。
おそらくお金でなんとかなるんだから免許証を復活させようかな。
ケチケチなことを言うけれど、だれか無償でボランティアでレッスンしてよ。
電話のふたつめは、隣駅で臨時の技術職。
本職が決まるまでのつなぎらしい。
10~16時。休憩30分。時給1100円。日給約6000円。
自分の金額って残酷だよねえ。これでも高いくらいなのはわかっております。
北戸田のコージーも可能かもとおっしゃっていたけれど、
再復活はみんながいやがるでしょう。
しかし、もう一度年末にでも北戸田に私的ドラマチックに帰還したいのは事実。
今日Sさんからお電話いただいたのは嬉しかった。
長寿や効率的安定収入を求めるのなら、
低空飛行と限定すれば、この年齢ならまだ道はあると思う。
そういうのはいやだなあ、と鎌倉時代の一遍とかいうカルト僧の本を読むと思っちゃう。
おれは本気で大金を求めようとしたことが一度もない。
「宗教に関心がなければいけないのか」(小谷野敦/ちくま新書)

→名著を読んでいろいろ考えさせられた。
本書を読んでからこの記事を書くまでだいぶ時間がかかっている。
それだけ考えているということだ。
小谷野敦のアカデミックな文学観を嘲弄した旧生活者(現大富豪の)宮本輝による
「24時間死ぬまで働け!」というメッセージは正しい(たとえば「三千光年の星たち」)。
三流私大、追手門学院大学出身の宮本輝芥川賞選考委員は、
娑婆(しゃば)におけるろくな労働体験がない東大出身エリートの
小谷野敦の筆なる超高偏差値的小説作品めいたものが許せなかった。
実社会および世間をまったく知らない東大の小谷野は後輩という身分をものともせず、
三流追手門卒のぶんざいで偉そうに文壇の大御所ぶっている大先輩の宮本に逆らった。
こうしたらもう芥川賞など取れるわけがない。
下品という意味で小谷野と宮本はとても似ている。
しかし、小谷野も宮本も病原のようなものはおなじで不安神経症なのである。
不安神経症(パニック障害)は死を異様に怖がることから発症するとされている。
死を真正面から見すえると人は孤独になる。
この孤独をどうあつかうかで人はわかれ、
大半は群れるという通俗手法に救われることになる。
名著を読んで考えに考え抜いて、結果としてひらめいたことだが、
あらゆる宗教は以下のような構図を持っているのではないか?

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」

人間はひとりきりで真剣に死に向き合うと、
とんでもない孤独に覆いつぶされそうになる。
にもかかわらず、そこでなかには才能を有する宗教家がいて、類型的精神病とは異なる、
独創的な宗教妄想を創作するにいたる。
大半の庶民や大半の大衆は死や孤独につぶされてしまうのである。
かろうじて妄想をいだくにいたっても、類型的なものにならざるをえない。
しかし、天才の天才というか、
キチガイのキチガイのようなものは確率を度外視して現われる。
死や孤独を忘れるために、彼の妄想にしたがう人たちが群れて教団を結成する。
教祖は教団を結成する意思などまったくなかったにもかかわらず、
信徒たちが死や孤独にたまらなくなって群れはじめ、
世間的必要ため教団の上下関係をつくるのはこのためであろう。
オウム真理教をつくったのは麻原ではなく熱心な信者でしょう?
おそらく麻原は世における美女へなど、もはや興味を失っていたと思う。
にもかかわらず、高弟が俗的価値観から美女を教祖の周囲に配置していた。
欲望は消えることなどあるのか?
こういった文章で自己顕示欲を発揮している当方が、
出世欲、名誉欲、金銭欲、性欲、食欲、睡眠欲、生命欲が消えたと書いても、
うそくさいことはなはだしいかぎりでなんの説得力もないのかもしれないだろう。
しかし、なかにはそういうものもいるのではないか?

もはや念願だった芥川賞を完全にあきらめた小谷野博士の発言を拝聴しよう。
30歳にもならぬうちに小谷野はブッダ(覚者)になっているのだ。

「その頃、かつて[少年期]感銘を受けた仏教についても、
どうもおかしいと思い始めていた。執着が不幸のもとだ、というのは分かる。
だが、だから執着を絶て、と言ったら、あらゆる人が出家するか、
自殺するかしなければならなくなるだろう。
現に仏僧では、行乞(ぎょうこつ/物乞い)する者もあれば、
かつては即身成仏してミイラになった人もいる。
「在家仏教」などというものがあるが、これはおかしいのではないか。
それどころか、現実の仏教の世界では、ちゃんと組織があって、
僧都(そうづ)とか僧正(そうじょう)とか階級があり、
その階段を昇って出世するのである。
こんな教えに背いた話はないではないか」(P22)


ベルリンの壁ならぬ世間の壁など、
背伸びをするか、下をくぐってみれば裏側にはなにもない。
世間という看板(ハリボテ)の裏側は無意味、孤独、死のほかになにがあろうか。
仏教ではそれを「空(くう)」というが、それではあまりにも虚しすぎやしないか?
青年期は甘い空虚感にひたるのもいいが、
中年期になったらフィクションでもいいから色彩を求めたくなる。
紫綬褒章にマジ顔で大喜びするのは幸せだ。
わたしは紫綬褒章は千円でもいらないが、
自分に尽くしてくれる大山妙子さんはほしいなあ。
フジテレビのヤングシナリオ大賞は1円でもいらないが、
坂本葵さんのような女性がいてくれたらなあ。
わたしの価値観がこのようにグチャグチャになったのは小谷野博士の影響でもある。
葵さんというご伴侶がいらっしゃる小谷野敦さんはいう。

「政治家の贈収賄にしても、清廉潔白で悪い政治をする政治家より、
贈収賄をしてもいい政治をする政治家のほうがいいのである。
徳川時代の田沼意次なども、海外貿易を勧めようとしたことなどと評価されているし、
ロッキード事件についても田中角栄をめぐってあれこれ論争があった。
贈収賄がなければ公正かというと、そんなことはないのである。
大学の人事でカネが動いたという話は聞いたことがない。
大学の人事で優先されるのは、まれに業績だが、
一番大きいのは、先にいる人たちの言うことを聞くかということであって、
特にある研究室で後継者選びをする場合には、優秀かどうかより、
教授に従順でかわいがられているということが優先されるのは言うまでもない。
中には、こいつは優秀だから、
採用すると俺が抜かれる、という嫉妬心で排除されることもある」(P139)


いま冥途の土産にちょっとほしいなと思っているのは小谷野賞。
なんでも優秀な無名ブログに与えられる賞だとか(よく調べていない)。
わたしはいっさい小谷野さんと人間関係を持っていないが、
ほしいと願えばいただけるのかしら。
本書とその著者には土屋賞をせんえつながらさしあげたい。
なぜなら以下の構図を平易な文でじつにわかりやすく説明しているからである。

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」