「河合隼雄 全対話7 物語と子どもの心」(第三文明社)

→当方を零落したネガティブな落ちこぼれだと文章を読むと思えるらしいが、
たしかにそうとも言えなくはないけれど、
それはこちらの文章意図にあまりにも乗せられすぎているんじゃないかなあ。
文章って書かれたものと書く人はぜんぜん違うからね。
先日、派遣でいっしょになった人からブログにコメントをもらったけれど、
あの人、ぶっ飛んだじゃないかなあ。
いまのわたしは基本的に明るいし陽気だし楽天的だから。
でもさ、不幸ぶりたいっていうか苦悩を演じたいというか、そういう部分があるわけ。
荒川でバーベキューやっちゃうやつじゃないよ、みたいな孤独ぶった強がり。
人間なんてころころ変わるもんだから。夢(目標)も関心もころころ変わる。
そうそう、著書多数の河合隼雄さんをひどく嫌っているのは、
どこか似たところのある現代日本最高の知識人とも言うべき小谷野敦さん。
むかし小谷野さんの「退屈論」を読んで、
感想として自分には退屈がわからないと書いた記憶がある。
いまは小谷野敦さんの言う退屈がわかりまくり。
退屈だなあ。つまらないなあ。それ、すげえわかる。

このまえショーペンハウアーのアフォリズムを読んでいたら、哲人が言っていた。
人生は苦悩か退屈のどちらかだって。
苦しんでいるうちは苦しいが、
苦しみがなくなったら今度はひでえ退屈が待っていると。
人は退屈を見ないように苦しんでいるふりをしているのかもしれない、
とまでショーペンハウアーが言っていたかは記憶定かではない。
人生なんざ、金がない、時間がない、子どもがどうしたといっているうちが華で、
それはじつのところうまい世渡りで、本当に怖いのは退屈かもしれない。
あまりにも退屈だと「事件」のひとつも起こしてやりたくなるっていうかさ。
そう考えると、河合隼雄のいちばんの才能は、
けっこうなんでも「おもしろがれる」ところだったように思う。
どうせつまらぬ人生、おもしろがっちゃおう。
なんのために生きるか? なんて深刻な顔をしていないで、おもしろがろう。
あんがい、おもしろいことしかしない、なんて決めるのもいいのかもしれない。
いちおう有名文化人の河合隼雄はこんなことを言っている。

「ぼくはおもしろいことしかしないのですよ(笑)。
やっぱりおもしろいというときが、人間が全人的に生きているときなんですね。
体もこめてワーッと動いている。
おもろないときはというのは頭だけで動いている場合が多いから、
頭だけでおぼえたやつは何も役に立たんですよ。
人間全体でおぼえないかんです」(P64)


かといって、歳を取ってくるとおもしろいものが減少するのも事実である。
まったく本当に海外旅行は若いうちが華だよ。
40過ぎてから海外に行っても、おもしろいことなんてないねえ。
まあ、それはそれで自分でおもしろくしちゃうという裏技もあるのだが、
生命の危険があるし、日本の信頼にもかかわるから万民にはおすすめできない。
けれど河合隼雄も繰り返しあちこちで言っているけれど、
危険のないところにおもしろいものはそうそうないねえ。
外野の安全地帯からわたしを嘲笑するのもいいのだろうけれど、
わたしがあなただったら危なさそうだけれど、
この文章の書き手に逢いたいと思うような気がする。
河合隼雄はおもしろいこと(危ないこと)ばかりしたらしいけれど、
どうして危険なことをできるかといったら、
おもしろいことはおもしろいからという理由のほかに、
82年(昭和57年)段階でもうすでに来世を信じていたからかもしれない。
わたしも河合隼雄とおなじで来世を信じている。
危ないことをして万が一死んでしまっても、そこは来世があるから安心。

「ぼくのおもろいいうのはインタレスティングなんかよりもっと下等なんです。
要するに「おもろい」ということ。(……)
関心があるというのとも違う。おもろてかなわんわぁちゅうのが好きなんでね。
考えたら、このごろは来世があるような気がしてきたんで変わってきたけど、
どうも今世だけやったらおもろいことをしな損やと思っています。(……)
このごろ思う存分やっても、来世まであるような気がして心配になってきて(笑)。
いまもおもろく、来世もおもろやろうと思ったら
ちょっとええこともしなあかんかなと思うて――」(P80)


うん? 来世があるなら犬に生まれたらかなわんから、ちょっとええこともせんとあかんか。
わたしは河合隼雄信者だから、おもろそうなことでないと腰があがりまへんがな。
あんがい人によっては退屈そうな単純作業がおもろいこともあるんやで。
まあ、5年、6年単純作業をやるのはいくら来世のためでも無理やけど。
関西弁ってガラが悪くてええのう。
なーんか、おもろいこと起きへんかなあ。いっちょ起こしてやっか。
みーんなお行儀正しくなって、いまはおもろない。
おもろいことを自分たちで制限するようなマジメが支配的でおもしろくねえな。
悪いこと、危ないこと、おもろいことをぎょうさん腹いっぱい味わいたいのう。
いざわたしと逢ったらそういうことができない人だと一発でひと目でばれるのだけど(笑)。
いやあ、やれる。前科があるがや。
シナセンのあれは見てるぶんにはゲラゲラ笑いがとまらんほどおもろかったんやないか?
いまはあんなエネルギーはないが、いやいやパートナーしだいではまだまだ!
ひとりであんなおもろいことをしでかしたわけではないんやでえ。

「家屋と妄想の精神病理」(春日武彦/河出書房新社)

→優秀な人気精神科医によるわかりやすく、かつ卓越した妄想論である。
精神病の診断基準のひとつは非現実的な妄想の有無といってよい。
著者は、屋根裏にだれかがいるという頻出する妄想パターンへの考察から論を進める。
著者ははっきりと書いてこそいないが、
医療者として妄想を取ったほうがいいのか(そもそも簡単に取れるものではないが)
という壁に何度もぶつかりながら本書を書いたことがうかがえる。
屋根裏にだれかがいるという妄想を持つのは、孤独な老女が多いらしい。
患者は迷惑すると同時に屋根裏の住人にどこか親しみを感じている気配さえある。
これは孤独で単調な生活を支える「生きるための知恵」ともいえるのではないかと思う。
それほど近所迷惑を起こさないものならば、
妄想はそのままにしておいてもいいのではないかと春日医師はいう。

「生活すべての面で支離滅裂になってしまうのならともかく、
低空飛行なりに生活を存続させつつ、
奇天烈な妄想を実生活に取り込んで充実した生活を送ろうとするその精神の働きに、
わたしは異常とか逸脱といった価値判断を越えた人間の「したたかさ」を
感じて驚嘆せずにはいられなかったのである」(P62)


たとえば還暦近い派遣労働者の男性が20代の婚約者がいるという。
これは現実的に考えたら、なかなか事実らしくはなく、
妄想といった範疇に入るのではないかと思うのがふつうである。
そのうえ今年になってから一度も逢っていないということを聞けばよけいだ、
しかし、それが妄想でもいいではないかという考え方もできるわけだ。
孤独な生活の慰めとして50代後半の独身男がそういう妄想を持っていてもいい。
むしろ、なんにもないよりは、
そういう「詩のようなもの」があったほうが生きる味わいになる。
これがわたしの悪いところなのだが本当のことを知りたくなってしまう。
どこかそういう嘘みたいなことが本当であってほしいという思いがある。
実際、嘘みたいな本当ってだいぶ見聞きしているし、
そういう妄想めいたものは味気ない生活のうるおいとなる。
で、男性に彼女の存在をしつこく問いただしてしまったのだが、メールが来なくなった。
むかしからの友人に相談したら、そういうことは聞いちゃダメなの、と社会常識を教わった。
友人は婚約者の話を妄想だと決めつけていたようだったが、
わたしはいまでも真相はわからないと思っている。
あるいは婚約者は存在したのではないかと。

「生きるための知恵」が人間にとって必要なことはたしかである。
仕事で自分は必要とされているというのは、なかば妄想なのだが、
それを妄想と決めつけてしまったら本当になんにもなくなってしまう。
「家族愛」もおそらく妄想だろうが、
それを生きがいに多くの人が生きているという現実がある以上、
「家族愛」のようなものを妄想と断じてしまったら、それは現実を正しくとらえていない。
「一億玉砕火の玉だ」のようなものが妄想ではなく現実であった時代もあるわけだ。
なにをもって現実と妄想を区別するかはそこまで容易ではないのかもしれない。
たとえば、いまはみんな百歳まで生きるようなことを言っているけれど、
あれは妄想だと思う。ちかぢか東京大地震が起き「ない」というのも、
そうであってほしいとみなが願う妄想のたぐいだと個人的には思う。
かといって、新興宗教団体の顕正会が主張している、
「日本滅亡が近い」というあれはどこか妄想的に聞こえてしまう。
だが、顕正会の信者さんはそれを本気で信じているわけだから、
あながち妄想ともいいきれないところもあるのが問題を難しくしている。

精神科医の春日武彦さんが本書でテーマにしているのが
氏の孤独な患者にひんぱんに見られる「屋根裏の窃視者(覗き屋)」という妄想である。
しかし、これは表現を変えれば「同行二人」ともいえるわけでしょう?
四国でお遍路さんは「同行二人」と書かれた笠やら白衣を着て巡礼する。
これは自分はひとりではなく弘法大師(空海)といっしょであるという意味。
孤独に苦しむよりも、それがたとえ妄想でも「同行二人」と思えたら楽じゃないですか?
人のことばかり話すのもあれなので自分のことを書くと、
わたしもまた大きなもの(超越者)がいるという妄想をいだいている。
守られているといったら選民的で、いけすかないやつに思われるかもしれないが、
まあ大丈夫という大きなものへの信頼めいたものをかすかに持っている。
わたしのはプラスに出ているわけでしょう?
これがマイナスに出たら集団ストーカーや監視されているという被害妄想になってしまう。
このへんは本当に紙一重だと思う。
被害妄想を見守られ妄想に変えるだけで
本人も周囲もだいぶ楽になるのだが、それが非常に難しい。
実際、ある種の宗教的超越(恍惚)体験と精神分裂病の妄想は似ているのである。
臨床体験豊富な専門医の見解をうかがおう。

「ところで狂気の中核とされている精神分裂病では、
やはり被害的な色彩の訴えが妄想の現像をなしている。
自分は世界を揺るがせるような大発明をしたとか、
実は天皇の隠し子であるとか、
宇宙の秘密を解き明かす方程式を発見したなどといった誇大妄想も珍しくはないが、
これはむしろ被害妄想から
二次的に導き出されたモチーフと考えたほうが適切なようである。
すなわち、私ガコンナニ酷イ目ニ遭ッタリ尾行サレタリ盗聴サレタリスルノハ、
ツマリ私ガ偉大ダカラデアリ高貴デアルカラナノダ、
といった論理に裏打ちされて作り出された物語だということである。
分裂病患者の被害妄想は、他の疾患による被害妄想と大きく異なるところがある。
下世話で世俗的なトーンはそのまま残しつつも、
超越的な存在が「木に竹を継いだように」登場することである。
超越的存在とはすなわち、
強大な力や影響力を持つらしいが正体のはっきりしないものを指し、
それはCIAだとかスパイ・ネットワーク、秘密警察、暴力団、
過激なカルト集団による地下組織、フリーメーソン、謎の政治結社等々である。
陰謀史観にはお馴染みの「闇の組織」であり、
まことにキッチュかつ便利至極な説明装置でもある」(P133)


春日さんは狡猾にも(編集者にとめられたのか?)診療室で何度も聞いたであろう、
あの団体のことを書いていないなあ。あまりにも精神病と近似しているあの団体だ。
みなさまはもうお気づきでしょうが、そう、それは創価学会である。
精神病患者の妄想のなかに創価学会が出てくる比率は異常に高いのではないか?
根っこの日蓮大聖人その人が危なっかしい。
日蓮大聖人は疑いもなく被害妄想や迫害妄想を持っていたでしょう。
そのうえ世界を揺るがす南無妙法蓮華経という大発明をしてしまった。
一休のように「天皇の隠し子」であるという妄想まではさすがに持っていなかったが、
日蓮大聖人の法華経的宇宙観(一念三千とかそういうの)は、
分裂病患者のいう「宇宙の秘密を解き明かす方程式」に極めて近い。
創価学会は実際に暴力団とのつながりがあることを暴露されているし、
尾行(集団ストーカー)や盗聴のプロ集団でもある(これは事実だと思う)。
創価学会と関係してしまうと、なにが現実でなにが妄想かわからなくなるのである。
わたしは創価学会のそういうキッチュで色彩豊かなところが好きで(三色旗!)、
もう長らくファンであると同時に公明党支持者でもある(政策は知らん)。

仏教でいう一念三千は、一念のなかに三千世界が織り込められているという考え方だ
ものすごくチャチにわかりやすく説明したら、一瞬は永遠だ、みたいな感じさ。
そこからうまくいくとブッダや観音さま、阿弥陀仏に見守られているという安心感が生まれ、
失敗すると巨大組織に監視されているだの、フリーメーソンがどうのの話になってしまう。
春日さんは精神科医だけあって、悪いほうにいっちゃった場合をうまく描写する。

「わたしが精神科の外来で出会う妄想患者たちの多くは、
僅かな気配や微細な変化、曖昧な「ほのめかし」や不明瞭な「当てつけ」、
相似や近似ないしは空似(そらに)、偶発的な一致や暗合といったものから、
たちまちのうちに侵入者やスパイ、
陰謀を企む一味や黒幕といったものの存在を直観的に確信してしまう。
あれよこれよという間に、心の奥底に埋め込まれた「物語の胚珠」は
発芽し、葉を繁らせ、陳腐な実を結ぶ。
あまりにも一直線に、疑惑は「断固たる事実」へ昇りつめる。
ためらいがない」(P120)


小さなひとつひとつの偶然に過剰な意味を与えて、
被害的な物語をつくってしまうと、それは精神病の妄想になってしまう。
偶然は偶然そのままにしておけばいいのである。
偶然を偶然のまま通過させるのは精神的には健康的だが味気ないともいいうる。
しかし、華厳経の「一即多・多即一」にしたがうならば、
小さな塵(ちり)ひとつのなかにも仏さまどころか全宇宙が宿っているのである。
これもいちいちシンクロニシティだのなんだのと考え始めたらクルクルパーへ一直線だが。
精神的に健康でいたいならば、偶然は笑い飛ばせと春日医師は主張する。
余裕がないから妄想を持ってしまうのだ。

「あらゆる偶然性の中に
特定のベクトルを持った「理由」や「意思」を読み取ろうとするとき、
背後に暗躍する黒幕の姿が察知されてくるということになる。
不幸にも患者には、「たまたま」「」図らずも」「事実は小説より奇なり」
といったようなことを笑って受け流すだけの余裕がないのである」(P136)


他人に適切な指示をするのは容易だが、
かくいう精神科医もおのれの不安定な精神を取り扱いかねて
占い師にすがったりしているのだから、おもしろいといったら失礼で因業な話だ。
「死後の世界がある」も「死んだら無」もどちらも妄想といえば妄想。
現実はどこまでも「わからない」に尽きて、それぞれ信じるかどうかの世界である。
「信心すれば病気は治る」「努力すれば夢がかなう」も妄想といえば妄想だが、
こちらの場合は一定数以上の賛同が得られれば妄想ではなく現実となる。

「妄想は、病んだ精神によってもたらされる現実の変容を、
「奇妙な憶測、異様な解釈」を以て説明し確信することによって
生まれ出てくるのであった。
妄想は他人へ語っても同意を得られることがない。
むしろ周囲の賛同を得られず病者が孤立していくことによって、
いよいよ妄想は病者にとって確固たるものとなっていくといった、
まことに矛盾した性格を持ち合わせている」(P167)


創価学会の座談会や会合に行って、
信心してもろくなことがないなんていおうものなら、その人は精神病あつかいでは?
しかし、春日医師によると孤独や孤立ほど、
ゆがんだ妄想を発生させるに適した土壌はないという。
ならば創価学会は孤立者を援助するという面で、
わが国の精神健康に多大な貢献をしているともいえよう。
いまは職業作家なんて絶滅危惧種に近いと思うが(食えない!)、
大衆に支持される、
いわゆる売れる妄想(物語)を描ける人がわずかなあいだ人気作家としてもてはやされる。
ありきたりな妄想ではない、個性的でおもしろい妄想(物語)を、
味気ない、なんにもない日常を生きるわれわれは切望しているところがある。
おそらく狂えるのならばいっそのこと狂ってしまったほうが、
当人は昂揚した充溢した生命を生きることができるのであろう。
その場しのぎではあるものの、近所迷惑はなはだしきことこの上ないけれど。