奈良方面からお声がかかり、これはどうやら六波羅蜜寺に行けそうな雰囲気。
六波羅蜜寺は空也上人像で有名らしい。
わたしは山田太一の小説「空也上人がいた」で六波羅蜜寺の存在を知った。
大げさだが長い旅が終わるのかなあ、という感傷めいたものに浸っている。
仏教のブの字も知らない29歳のとき、
どうせインドに3ヶ月もいるんだからと仏教八大聖地をひとりめぐった。
あれはツアーで行くのでさえけっこうしんどいと思う。
とにかく若かったんだなあ。
釈迦が生まれたというルンビニー(これはネパール)とか、
入滅したクシナーガルとか当時はよく意味もわからず行ったものである。
いまになってみると現地を見ていることが仏典理解にどれだけ役立ったか。
まあ、ぶっちゃけ最澄も空海も法然も日蓮大聖人さまもインドへ行っていないんだよね。
大勝利みたいな、うふっ♪

中国までならけっこう行ったやつ(とか言っちゃ失礼か)がいる。
でも、法然、親鸞、日蓮大聖人さまでさえ中国へも行けていない。
そのくせ中国人の善導がどうの智顗(ちぎ)がどうのと日本で騒いでいる。
なぜか当方は仏縁があるようで、
中国のマイナーな香積寺(浄土宗発祥の地)にも
草堂寺(鳩摩羅什/くまらじゅうの聖地=日蓮系)にもひとりで行っている。
あれはもう10年まえになるのか。
当時は親鸞や日蓮大聖人さまのやばさも、
一遍にいたっては存在さえもなかば知らなかった。

とりあえず仏教は韓国から伝来しているよね? 
ってことで4月に韓国仏教にもあいさつしてきた。アニョハセヨってさ。
そういえば、いままでどうして奈良や京都とは縁がなかったのだろう。
修学旅行の退屈なイメージしかなかったからか。
とはいえ、いま調べても行きたいのは六波羅蜜寺しかないなあ。
空也上人は、いま当方がはまっている一遍上人が尊敬していた坊さんである。
いちおう山田太一ファンなら
六波羅蜜寺くらい参詣していないといけないような気がするしさ。
思えば、12年まえのインドから、よく仏教を勉強したなあ。
六波羅蜜寺でひとめぐりするのではないかという感慨がある。
結局、インドでも中国でも韓国でも仏教は消滅しているんだよね。
タイでは(仏さまは)生きていたが、カンボジアやベトナムでは死んでいた。
ラオスは微妙なところだけれど、まあ観光仏教ってところかな。
それを言えば奈良や京都だって、あれは日本観光仏教でしょう?
ばあちゃん死んじゃったから、
しょうがねえから坊さん呼ぶかっていうのが日本土俗仏教なわけで(笑)。
いまはもうだれも知らない丹羽文雄の世界っていうか。

あと残っているのはネパール、ミャンマー、スリランカくらいかな。
行きたいけれど金と時間と、あまり遊ぶなよという世間さまの問題があり。
宗教人類学者とか自称したら、旅行がフィールドワークになり、
ぶっちゃけこれが重要なんだけれど、旅費が確定申告で経費あつかいになるの?
学者っていったいなんなのだろう? お坊さんってなに?
先輩後輩のじめじめした人間関係を通過しないと、
学者や坊主にはなれないのかなあ。あと布教ってなんだろう?
わたしは山田太一作品が好きだけれど、いまは人にすすめたいとは思わないし、
いまは(むかしから?)氏を人格的な教祖のように慕っているわけではない。
ファンレターを書いてお返事をもらって、それを周囲に自慢したいとも思わない。
でも宗教の根本ってここだよね。
自分はどれだけ教祖から認められたか自慢したいという。きんもっ♪

一遍の南無阿弥陀仏だって、わたしは好きだけれど、
人におすすめしたいかって聞かれたら、うーん。
ただ苦しいいときに南無阿弥陀仏(善悪も損得もわからない/自然にまかせよう)と
思うと楽じゃないかなあ、くらいのことは小声で申し上げることならできる。
一遍は教団など残す気はなかったのだが、
いまでも一遍の時宗という浄土教団は細々と続いており、
その時宗のボスもいるらしいけれど、彼に認められたいとか、
あわよくば秘伝を授かりたい(そんなもんないっしょ!)とか、そういう願望はない。
自分の葬式は無宗教でいいと、それだけは近親者に伝えてある。
どうせ呼ぶ人、来る人はいないから、葬式は不要で、
可能なかぎり安い値段で焼いて骨にしてくださいと。
骨はガラクタといっしょに押し入れにでもポイでOK。あれ捨てると罪になるんでしょ?
べつに生ゴミとまぜて捨てられてもいいんだけれど、だってわかんないっしょ?
今日、有名女性が死んだらしいけれど鬼女も喪女もさぞメシがうまいことだろう。
女性のそういうところって正直で好きよ♪
「運は実力を超える」(植島啓司/角川新書)

→人生は運なんだよ、とかたくなに信じている植島啓司が好きだ。
わたしも「運・ツキ・偶然」の在野の研究家である。
学者やインテリはいろいろ難しいことを言うが、
人生とは結局以下の構図で説明されうるのではないか。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

人生とは行為(選択)の連続であり、遅かれ早かれその結果が現われる。
プラスと言われている行為(選択)をしたのに、マイナス結果が出ることもあろう。
マイナスとしか思えない選択をした結果、どうしてかプラスの事態が舞い込むこともある。
宗教的に突っ込むと、なにがプラスでなにがマイナスかはわからない。
選択のプラスマイナスもわからないし、結果のプラスマイナスもわからない。
いちおう世間上の善悪や損得といったプラスマイナスはあるが、
そんなものはころころ変わりうる。
家族の自殺や障害児誕生といったマイナスが出た場合、
人は本当にわからない気持になる。
自分はそこまで悪い行為(選択)をしたのだろうかと人によっては発狂しかねない。
いまの医者はエビデンス(統計データ)で治療方針を決めることが多いようだが、
エビデンスにしたがった「正しい」医療行為を選択してもマイナスの結果が出ることがある。
このへんが究極の問題で、
果たして「死」はプラスマイナスで測定できるのかという問題もある。
何度でも書きたいが人生は突き詰めれば以下の構図である。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

努力すれば報われる、報われていない人は努力していないから、
と信じている人の人生観はどうなっているかというと――。

☆人生=行為(選択)→「努力の質量」→結果(善悪/損得)

しかし、いくら努力をしても報われないことはございますでしょう?
わたしは自分よりも努力しているがんばり屋さんが不遇なケースをいくつも知っている。
あきらかに自分よりも怠けていそうなやつがキラキラしているのも知っている。
あれ? 人生って努力(自力)よりも運の力(他力)のほうが大きいのではないか?
もしかしたらかなりのところが運で決まっているのではないか?
そうだとしたら運をよくするためにはどうしたらいいか?
宗教人類学者の植島啓司や当方が関心を持つのはここの領域である。

人生=行為(選択)→「運」→結果(善悪/損得)

どうしたら運がよくなるかは本当にわからない神仏の領域である。
だから、わたしは人生はかなり運であると認めながら、
「運」という言葉の弱さを嫌って、
たとえば(一遍上人の)南無阿弥陀仏(念仏)にまかせたくなる。
南無阿弥陀仏の意味は、人間には「わからない」である

人生=行為(念仏)→「自然」→結果(念仏)

結果のプラスマイナスなんかじつはわからないわけ。
交通事故に遭って病院にかつぎこまれたら、
そこで運命の女性たるナースとの出逢いを果たすかもしれないわけだから。
株で10億稼いでも、うつ病になったらなにも楽しめない地獄になる。
わたしは個人的に一遍の南無阿弥陀仏に興味を持って独学しているが、
一般の人は「行為選択→(?)→結果」の「?」は運にしておいたほうがいいと思う。
どうしたら運がよくなるのか。
わたしが20年近く考えてきたことであり、
植島啓司氏にいたっては40年以上賭場という実地で試行実験してきたことではないか。
いままでわが国において「運・ツキ・偶然」を、
実地で学問してきたのは植島啓司と河合隼雄だけだと思う。

みなさまが知りたいのは、どうしたら運がよくなるかだけでしょう?
わたしだって学問なんかどうでもよく、運命の女神との勝負に興味があるのだ。
果たしていま勝ったと言えるのかわからない(←意地悪)、
植島の答えを先に箇条書きにしておこう。

1.人に「お願い」をしない。
2.チャンスが来るのを待つ。
3.手の内を明かさない。
4.相手がミスをするのを待つ。
5.損得や善悪など、どうでもいい境地にまでいたる。
6.忘我・無我・恍惚こそ勝負の醍醐味よ。
7.いつも旅しているように生きよう。

1の他人にお願いをしないようにしようというのは間違いだろう。
だって、だれもが植島のようにひっきりなしに美女が寄ってくるわけではない。
デートをお願いしなかったらつきあってくれない女性がいる。
以下は、まあ正しいと思うので、
本書を購入するのがめんどうな読者のために原文で紹介します。

「人間の思考はすぐ頑(かたく)なで硬直したものになってしまうので、
負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。
何か新しいヒントが見つかるまでは大きく賭けないことである。
負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることになるだろう。
わざわざ言うまでもないが、
ここぞというときに大きく賭けられるのがギャンブラーであり、
普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。
ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである」(P62)


植島は待てと言う。それから隠せと言う。
話は飛ぶが、AVに出てしまうと女性は運がひどく落ちるのではないか?
おまんこクパァとか見せてしまったら、それだけで運は激減すると思う。
手の内は見せるな。隠すべきものは隠せ。秘密は口にするな。

「もしあなたが大きな勝負をするとしたら、そのときは誰にもしゃべってはいけない。
運はしゃべることによって逃げていってしまうからである。
もちろん大した勝負ではないと思えば、みんなにしゃべってもよろしい。
そのほうが、結果がいいことも多いかもしれない。
しかし、ちょっと手のひらに汗をかくような勝負となれば、
誰にも話さないほうが賢明である」(P65)


人間の器量って、どれだけ自他の秘密を守れるかにあるような気がする。
その意味で、河合隼雄は偉大で、みんなから怖がられ、おそらく孤独だったと思う。
耳にした真実をペラペラ拡散するようなものはいざという勝負で勝てない。
しかし、秘密を守るのはつらいわなあ。
麻雀やパチンコで裏で見ている人がいると負けるというのは、
下品だがうまいたとえではないか。
勝負というのは勝ち負けである。どっちも勝ってなかよしこよしなんてありえない。
相手を負かすのが勝負であり、ギャンブルであり、おそらく人生なのである。

「よく先手必勝というが、[ギャンブルの]名人クラスになると、
相手のミスを導き出して、それを咎(とが)めるというのが本来の形であって、
それも相手に「自分がミスをした」と印象づけることが必要となってくる。
そうした結果、相手が動揺して悪手を打ったり、
まちがったりしてくれるというわけである。
運を自分の手で直接につかむことは想像以上に難しい。
すべてを相手側に委(ゆだ)ねることが大切だと知るべきだ」(P72)


結局のところ著者とわたしの共通認識としてあるのは、
勝敗なんかどうだっていいじゃないか? 勝負そのものが楽しいだろう?
勝敗を決める絶対者(運、神、仏)と対峙している昂揚ほどの悦楽が人生にあろうか?
勝ちや負けがどうでもよくなったものが勝つのである。
負けたってなんだよ。勝ったってそれがなんだって言うんだ。
勝負にはもっと危ないあの忘我の陶酔があるではないか?

「社会がどうだとか、なにが合法だとかいうことなど、どうだっていい。
ちゃんちゃらおかしい。善悪など関係ない。人はいつか死ぬし、馬も死ぬ」(P84)


植島啓司は東大の宗教学科の出身らしいが、当時は食えないことで有名だったらしい。
わかりやすく言うと東大の宗教学科を出ても就職先がない。
そうまでして植島が入った東大の宗教学科にはろくな学者がいなかったという。
いまだから言えるのだろうが、植島は東大の宗教学者はクソばかりだとシャウトしている。
そして、それはおそらく正しいとわたしも思う。
植島啓司青年がなぜ宗教学の門徒になったか本書に書かれており、
この箇所にいちばん感銘を受けた。植島はなぜ宗教学を志したのか?

「人間の心が通常とは違ってとんでもない歓喜に満ちた瞬間であるとか、
自分が自分じゃないように思える瞬間とか、
自分の心が相手に乗り移ってしまう瞬間とか、
どうしようもなくやりきれない瞬間とか、
いわゆる「神がかり」と呼ばれる状態についても、できるだけ
宗教のヴォキャブラリー[専門用語]をつかわずに説明したいと思ったのだ」(P112)


ちまちま善悪や損得を考えるのは我執に過ぎず、
そんな我執では勝負に勝つどころか、勝負の本質さえ見えないのではないか?
善悪や損得を越えた超我・無我の視点から大勝負をしてみてえぜ!

「ぼくらはギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。
別に清廉潔白であってもいいが、
そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。
だから、ギャンブルにおいては、
ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、
あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、
「奇抜だったり」する必要があったりする。
ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。
それほど自由でなければならないということである」(P173)


わたしはむかし(美香時代)から「人生は3G」と主張している。
人生なんて、ギャンブル、ゲーム、ギャグだから笑っちゃおうぜ。
いま当方は安酒をのみながら駄文を書いているが、
2017年の自分がこうなっているなんてまさかまさかで、ぜんぜんわからなかった。
その「わからない」が「運」であり、人によっては神仏になるのだろう。
どこまで旅のように人生を生きられるか。
いままで逢った人、別れた人、再会した人、この歳になるとみんな懐かしい。
そして、これからだれと出逢うのだろう。

「考えるべきはただひとつ。
いま自分がどういう状態にあるかをぼんやりと理解しておくべきだろう。
そして、他人にわかられないように生きること。
それによって起こることの意味も変わってくる。
いつも旅しているような生き方こそが必要なのだ。
明日はどこにいるのかわからない。
それなのに勝負となれば相手を一撃で仕留めてしまう」(P163)


わたしは植島啓司とおなじように「運」の存在を信じている。

おれだってそこらへんの社会常識はあるつもりよ。
おれごとき蛆虫が携帯の番号をさらしたってなにも起きないことくらいさ。
いたずら電話でも来たら、それだけでも感謝感激に値するって。
だって、人は他人に関心を持たないもの。
昨日23時に着信があって、就寝していたため出られなかった。
なんだよ、この着信は、おいおい、とかドキドキもんよ。
このくらいなら常識時間かなと思って、今朝9時過ぎに見知らぬ電話番号にこわごわ。
どこまで相手のことを書いてもいいのかわからないので最小限。
奈良のお医者さん。どうやら夜勤明けのようで(?)声が聞き取りにくい。
山田太一ドラマのファンのようで、当方なんかとその話をしたいとのこと。
こちら今月はヒューマントラストの都議選期日前投票受付バイトに落とされて暇、暇、暇。
28日が休みらしく奈良に来てくれないかとのこと。
うん、目標ができた。その日までに一遍研究と並行して、
録画してある未視聴の山田太一ドラマを可能なかぎり消化しよう。
なんか奈良の地名とかよくわからんのでメールお願いします。
ニートとかひきこもりとか自死遺族とか、
そういうマイナス分野では、
おれは実体験込みの日本唯一のプロフェッショナルだと思う。
お金持の方でご子息、お嬢さんのニートひきこもりに悩んでいる方は多いでしょう。
なかには権威のある「先生」さまのご治療に何百万と費やした方もおられるかと。
当方も耳目を引く程度の(やべえっしょ!)のニートひきこもり経験がございます。
自死遺族という面でもこれでもかと厳しい立場に追い込まれました。
もしかしたらお客さまのご家族のニートやひきこもりを改善するきっかけを、
せんえつながら当方が提供できる可能性があります。
料金は初回交通費のみ。継続の場合は「言い値」でけっこうでございます。
当方はニートやひきこもりのベテランでございますから、奇跡が起きないとも限りません。
ご依頼はメールあるいは携帯電話からお願いします。匿名でのご依頼も可能です。
ニートとかひきこもりなんて病気じゃないっしょ?
という当方の非常識的価値観がございます。
お客さまからのメールをお待ち申し上げております。

土屋顕史
yondance1976@gmail.com
080-5188‐7357
東京都板橋区在住
ヤマギシ会をあつかった自主映画に「アヒルの子」がある。
ドキュメンタリー映画の先達、原一男先生の門下生の作品だった気がする。
作者はきれいな小野さやかという女性らしい。
じつのところ、わたしは小野さやかさんと逢ったような逢っていないような記憶がある。
むかし池袋のジュンク堂書店で行なわれた山田太一トークショーで、
うん? あれはあれは小野さやかさんではないかという顔を目撃した。
原一男教授はおもしろい人だったけれど、もう権力サイドの人でしょう?
わたしもふくめて原一男門下で一丁なにかぶっ放せないか。
ここで問題なのが、わたしこそ原一男の非公認一番弟子という矜持があることなのだが。
もう原先生とは15年近く年賀状も交わしていない。
しかし、原一男門下生としてなにかできないだろうか? 
いきいきできないだろうか? かりそめの自由を味わえないだろうか?
どうせは聞いてもらえないだろうが、バカヤロウと世間に向かって叫びたくないか?
3年単純作業系の仕事をやったでしょう。
もうあっち系はここらでいいかというね。
ああいうのはわたしよりうまい人がたくさんいるし、
身もふたもないことを言えば、50歳でも60歳でも就業可能だから。
赤羽のおねえちゃんがいる店のキャッチの仕事とかどうしたらなれるんだろう。
最初は無報酬からでいいから、ああいう仕事に就いてみたい。
じつのところ、おれはさ、人と話すのが嫌いじゃないんだよね。
偶然の一発性の強さみたいなものにも強い自信がある。
いまだに見知らぬ人から
話しかけられる頻度の高い好人物いんちきカウンセラータイプだし。
言っとくけど、こちら、運は聞いたらびっくりするくらいいいからね。
そういうプラスの話は書かないだけで。
周囲でわたしと逢ってから運が上がった人が大勢いるから。
そりゃあ収入はほしいけれど、収入は最初はなくてもいい。
だれかそういう新しい道に、未知の世界に手引きしてくれないかなあ。
長所→運がいい。偶然性に強い。人の真贋をパッと見破れる。
短所→恨み深い。ケチ。肩書で威張っているやつが大嫌い。まあバカ。
だれか新しい世界に誘ってくださいよ~。
長らくもう引退したプロレスラー天龍源一郎の大ファンだった。
天龍は負けるのがうまいのよ。負けっぷりがいい。
それはレスラーだって人間だから、勝っていいポーズをしたいに決まっている。
人一倍そういう負けん気が強い人がプロレスラーになると言っても過言ではなかろう。
プロレスは勝敗のあらかじめ決まった即興演劇(ジャズ的エンターテイメントショー)。
東スポで年間ベスト試合というものが年末発表されるが、
天龍が負け役になったベスト試合はかなり多いのではないか?
天龍源一郎は本当に強いから、いざとなったら負け役ものめるのである。
プロレスでは強いやつが勝つとはかぎらず、
本当に強いこころを持った漢(おとこ)が相手を光らす負け役を正々堂々演じるのである。
人生負けてばっかりなのは10歳のころから天龍源一郎のファンだったせいだろうか?
大敗はシナリオ・センターであろう。
いまひさびさに2ちゃんねるのスレッドを見てみたら実名個人攻撃がすごい。
既得権益団体、新井三代シナリオ・センター集団に大敗していたことに気づいた。
寄らば大樹の陰。そう考えるのが常識というものだろう。
願わくば、わたしの負けっぷりのよさをご評価くださるかたがひとりでもいらしたら。
思えば人生で大勝利(@創価学会)どころか小さな勝利でさえおさめたことはない。
大勝利したシナリオ・センター経営陣はいまなにを思うか。
小さな勝利さえ知らぬ男には想像もできぬことだ。
シナセンはもう8年もむかしのことなのに、
いまだに負け役、悪役を無償で引き受けている。
わたしは正義のシナリオ・センターを引き立てるブラック・レジェンドと
言えなくもないのだろう。
「あんたはなにをしても絶対にダメよ」
そう言って高笑いしたシナリオ・センター二代目社長のお言葉の正しいことと言ったら!
儲け話でも宗教でもおんなでも、なんでもいいからだまされたい。
というのも、そういうだましにはファンタジーめいたものがあるじゃないですか。
あやしげな塾とか主催している自称塾長にだまされてうっとりしたかばってん。
悪いおなごにだまされて闇金にまで手を出して銀行強盗とかできたらサイコー。
身もこころもボロボロになるくらいだまされたい。つまり、夢を見たい。
現実だけでは味気なくて、だから夢を見たくて、もう散ってしまった桜をいま見たくて。
だまされてこの世ならぬものを見られるのなら明日東京湾に沈んでもいい。
夢がほしくて、夢を見たくて、だまされたくて、梅雨。

*以上は法華経の精髄であるぞよ。
むかしは議論は嫌いと表明していたが、
いまならリアルでなら一対一の折伏合戦をしてもいい。
そのくらい退屈。顔の見えないネットのコメント欄ではやめてね。
きのう月曜日はまいったよなあ。
前日の20時半にいきなり派遣会社のSさんから電話があり、
あすコージーコーナーの川口工場へ行ってくれないかと。
派遣仲間に聞いたら同意見が多かったけれど、川口コージーコーナーの評判は悪い。
わたしも3度行かされて、そのたびになんだこの会社はと思った。
もう川口へは行きません、と派遣のぶんざいでありながらSさんに伝えたものである。
もう川口へは行かないと申し上げているのに、
前日の夜8時過ぎにあす早朝川口に行ってくれませんかという電話が。
いま一遍の独自研究をしていて、
それを早く終わらせて、つぎに行きたいという思いが強い。
結局、リアルのわたしは「いい人」なんだろうなあ。
「いままでたくさんの人にお世話になってきたから、(それを返すという思いで)いいです」
OKしちゃうんだなあ。
で、きのう。約束時間に遅れたら申し訳ないと朝6時に起床。
9時から仕事に入る。14時半に仕事が終わったから帰れと言われる。
交通費を抜いたら4千円よ。日給4千円。ふざけるんじゃねえよ。
そこまでおれは安いのか。
わたしは基本、ものすごくケチなのだが怒りのあまり某所で1万円近く散財してしまう。
リアルのケチなわたしを知っている人が1万円の散財内容を知ったら驚くだろう。
帰宅したらヒューマントラストからの連絡はなし。
じつは都議選の期日前投票の受付に応募していた。
ネットで募集が始まった瞬間に応募したから(早い者勝ちみたいな記載もあり)、
落とされる理由がわからない。
都議選期日前投票受付とかやってみたいじゃないですか。
なんか政治の裏がわかりそうだし。だけんどヒューマントラストに落とされたよ、けっ。

基本的にどこの会社にもアラはあるのよ(ヒューマンもねえ)。
川口コージーコーナーのアラはひどく、しかし最後の良心が書くことを許さない。
あれで生計を立てている人もいるわけだから。
インド帰りとしてはあの程度の不衛生ならば、今後もあそこでケーキを買える。
N本部長がわざわざメールを送ってきてくださったこともあり、
いま来月初旬のDNP短期派遣に応募した。
あの会社は応募者全員採用だから、少々こころの安定を取り戻した。
踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏で損得や善悪を捨てたと思っていたが、
まだまだだなあ。それは絶望ではなく、希望かもしれない。
いま違う方向に行きたいという願望が強い。
どうしたら行けるのかもわからないが、
その「わからない」こそが南無阿弥陀仏なわけで――。
本当に最近、知らない人からのメールが来ない。
唯一来たのが派遣先で知り合ったN本部長という従来とは逆パターン。
こだわりがないのが一遍の南無阿弥陀仏だから、
わたしは南無妙法蓮華経の人にもエルカンターレの人にも偏見はない。
むしろ同志よ、と思うくらいである。
「学ぶ力」(河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤佐千夫/岩波書店)

→いま鎌倉時代の踊り念仏の開祖、一遍のことを独自に学んでいる。
学ぶとはどういうことか? 河合隼雄によると、学ぶとは知りたいと思うこと。
対象を好きになること。そして、これが肝心らしく、楽しむこと。
河合隼雄いわく、以上は孔子の「論語」に書いてあることらしい。

「学ぶということで、まず私が思い浮かべるのは孔子の言葉で、
『論語』の中にある僕の非常に好きな言葉です。
「之(こ)れを知る者は、之れを好む者に如かず。
之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず」。
学んでいる者よりも、好きだと思っている者がいい。
好きだと思っている者より楽しむ者が一番上だということを、
孔子さんが言っておられるんです」(P3)


わたしなんかとくにそうだけれども、
興味がないことを学べと言われてもあたまに入ってこないでしょう?
派遣同僚の爺さんから資格の勉強をしろとしきりに言われていた時期があったけれど、
そんな好きでもないことを学ぶことはできません。
ブルセラ学者・宮台真司の岳父(妻の父)である東大名誉教授の佐伯胖も言っている。

「自分が好きでのめり込んでいたときの学び方と
「さあ、これを覚えなさい、勉強しなさい」と言われたときのギャップはすごく大きい。
別世界みたいな感じで、これはちょっとやってられないなという気がして、
それははっきり言ってだめでしたね。
それを我慢してやろうという気はしませんでしたね」(P60)


踊り念仏の一遍がしていた布教というのは賦算(ふさん)と呼ばれ、
遊行(旅)をしながら対面したものに(有縁者に)ただ念仏札を配るというものだった。
なんでそれが布教なのかわからない時期もあったが、こういう解釈もできよう。
念仏は易行というけれど、歴史的学問背景をふくめるとかなり難解なのである。
熱心に教えてもわかってもらえるかどうかわからない世界なのである。
河合隼雄の出発点は数学高校教師で、
最初は全力で教えたがあまり効果がなかったという。
そして、晩年は「無為」の境地に行き着いた氏は青年期にはやばやと悟る。

「なるほど、先生が必死になって教えまくっても、生徒はそう伸びないんだ。
教えない先生がいると、生徒は自分でものすごく勉強するんです。
あんなもの頼りにならんというので、その子たちは必死になって勉強している」(P15)


一遍もおなじように思ったのではないか?
とりあえず最高真理の南無阿弥陀仏だけ教えておいて、
あとは相手の機根やら学習能力やら自然(他力=南無阿弥陀仏)にまかせよう。
自分が相手に伝えるのは南無阿弥陀仏の一語でいい。
あとは相手が興味を持ったら勉強するだろうし、
ことさら学ばなくても救われるのが念仏の教えの特徴である。
あるがままでどうしようもなく、いまある状態はあるがまま善でも悪でもなく、
しかしそれでも自然として
すべてがうまくいっているというのが南無阿弥陀仏の世界観である。
自分もあるがままの自然と一体でいよう、
自然体でいようという決意表明が南無阿弥陀仏だ。
これはいくら説得しても相手にNOと言われたら終わりで、
相手が自然に南無阿弥陀仏を納得するまで
こちらは無為と言われようが自然にまかせ「待つ」しかない。
南無阿弥陀仏は説得できるものではなく、相手が自然に納得するまで待つのみである。
数学者の森毅に河合隼雄はからかわれている。
お互い老人だから許されるゆるやかな関係性ゆえだろう。
「河合さんは納得の修業をしているわけで、説得の修業なんかしてない。
ええ加減なことを言いながら納得さすのがうまい。
うそつきクラブ会長やからね(笑)」――。
相手を説得しても意味がない。相手が納得してくれることが重要である。
ユングの伝道師(@小谷野敦)である河合隼雄は言う。

「おっしゃるとおりで、僕らは来られた人[クライエント/有料相談者]を
説得しても何の意味もないですよ。そうでしょう。
森さんに「たばこは不健康だからやめなさい」と言うたら、
説得されるけど、絶対に納得しないから。なんぼでも吸うからね。
だから、やめよかという納得が起こることが一番大事なことなんです」(P79)


あることを納得しようと思ったら自分で学ぶしかない。
たとえば一遍仏法を学ぶのなら、一遍を好きになるしかない。
そして、鎌倉時代に存在したという一遍の存在を
楽しむ境地にまでいたらなければならない。
そこまで行くには苦しむようなこともたくさんあるが、
それは学ぶためには必須だと河合隼雄は言う。
一遍の南無阿弥陀仏は要約すれば「死=絶対」である。人は絶対に死ぬ。
絶対たる死者の目から見たら、
相対(言語)世界のあらゆるもの(美醜・貧富・賢愚・善悪)が空(むな)しい。
本書が発刊されたのは河合隼雄が亡くなる3年まえである。
以下は河合隼雄の最後の説法とも信者には解釈できる。
ユング心理学の河合隼雄と踊り念仏の一遍の見ていたものはおなじであった。
最晩年の河合隼雄の見ていたもの――。

「最後に孔子の言葉を読んでいて気がついたのですが、
いろいろなことを学んできたし、いまでも学ぶつもりですが、
考えたら、死ぬということをあまり学んでいないという気がして、
このごろだいぶ学んでいます。
死ぬことをずっと学んでいるうちに、
死ぬことを好むほうになってきて、
最後に死ぬを楽しむところまでいったら最高じゃないかと思いますが、
これはそうはいかんのじゃないかなと思っています。
私の学びの最後の目標はそのへんにあるというところで、
[講演を]終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました」(P17)


「最後に死ぬを楽しむところまでいった」のが踊り念仏の一遍上人であった。
男は仏法を問われたら答えもしたが、布教は基本は念仏札を配るだけであった。
最高真理、絶対真理の死=南無阿弥陀仏を相対世界を生きる衆生にさりげなく伝えた。
聞かれたら答えたが、自分から教えたがるタイプではなかったと思われる。
いま踊り念仏の一遍を学んでいるが予想以上に難物で終わりが見えないので苦しい。
苦しいが、楽しい。いま一遍を苦しみながら、楽しみながら踊るように学んでいる。

「心に突き刺さるショーペンハウアーの言葉 人生、孤独、悩み、恋愛ほか」(金森誠也:編訳)

→金と時間がたっぷり使われたショーペンハウアー好きの書いたいい本を読んだ。
わかりやすい解説のついたショーペンハウアーのアフォリズム(箴言集/名言集)。
結局、金と時間なんだよなあ。
莫大な金と膨大な時間をつぎ込まないと商品から作品、
思想、哲学まで本当にいいものはできない。結局、人生とは金と時間なのではないか?
多くの人びとは金と時間に追われてあくせくしている。苦しんでいる。
しかし、それは本当の恐怖である退屈と孤独を
見ないための最良の方策なのかもしれない。
金と時間がごまんとあったショーペンハウアーは、
そういう真実を直視し表現する強さがあった。
彼は生活苦にさいなむ庶民から八つ裂きにされかねないことを口にしているが、
彼の言葉の真実性を切実に身をもって感じうるのは庶民のほかにはいないだろう。

「すべての苦しみを地獄のなかに移し替えたあとでは、天国には退屈しか残らなくなる。
このことは私たちの生は苦しみと退屈以外のものからは
成り立っていないことを証明している」(P90)


仏教では天国を天界というが、
すべてにおいて不足や苦労のない金も時間もあるこの境涯は、
退屈という地獄界に落とされているとも言いうる。
いつも「忙しい」が口癖のおじさんやおばさんに大金を与え職を奪って暇にしたら、
かなりのパーセンテージで彼(女)らは発狂するだろう。
ニートなんて病気でもなんでもなく、できるほうが天才なのである。
ニートはニート状態に苦しむらしいが、
これで苦しまず平穏でいられるものがむかしは悟った坊さんとされていたのだ。
時間がない、金がない、と口走っているうちが華で、
いざ生活苦から解放されたら人間は退屈と孤独につぶされ発狂しかねない。
ニートの神さまショーペンハウアーは言う。

「富豪や貴族の生活は実際には退屈に対し、持続的で、
しかも絶望的な戦(いくさ)をいどんでいるだけのことである。
他方下層階級の民衆の生活は困窮に対する絶えざる戦いである。
幸福な中産階級よ!」(P91)


適度に金がなく時間もなく、
しかしそこそこは金も時間もある中産階級がもっとも幸福なのである。
金持は退屈と孤独に苦しみ、
貧乏人は貧窮困窮に苦しみながらも借金等で濃密な絆に縛られる。
ならば、いちばんいいのは中産階級ということになろう。
まったく本当にショーペンハウアーの言うように人生は、
苦しみか退屈かのどちらかである。

「人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈だということは明らかである。
これにつけ加えて注目すべきなのは、
私たちが二つの敵の一つから遠ざかることに成功すると、
もう一つの敵が近づいてくることだ。そしてその逆もまた正しい。
したがって私たちの生活は、この両者の間を強さ弱さの違いはあれ、
振動している状況にほかならない」(P111)


貧乏人が宝くじを高額当選したって、困るだけでしょう?
仕事をしないでいいとなったら、やることがなくなってしまうんだから。
朝から酒を飲んでテレビを見ていても、さほどおもしろいとは思えない。
高額当選が貧乏仲間にばれないか冷や冷やドキドキである。
投資をしようと思っても仕組みがわからないし、
銀座で豪遊しようと思い立っても慣れていないからうまく楽しめない。
結局、孤独になり退屈な時間を持て余すようになる。
金があるやつに寄ってくるのは宗教の連中である。
(どうでもいいが、わたしは人生で一度でさえ宗教勧誘されたことがないってどんだけ?)
ショーペンハウアーは宗教もまた暇つぶしとして悪くないといった不穏なことを書く。
宗教は退屈対策のいい暇つぶしである。

「神々や霊への奉仕はいたるところで現実の生活と入り交じっているばかりか、
現実の生活を曖昧(あいまい)なものにしてしまう。
さらに生活のなかに現れるすべての事件は、
実は神々や霊の作用であると見なされる。
これらの超地上的存在との交渉は生活のなかの重要な要素であり、
絶えず希望を抱かせる。そして幻想の魅力によって
現実世界の事物以上に関心と興味の的となることもしばしばである。
これらの存在は一方で援助と救いを求め、
他方では雑事とひまつぶしを求める人間の二重の欲求の現れである」(P43)


なーんか、とんでもなく身もふたもないことを、
ショーペンハウアーとかいうおっさんは言っているなあ。
お金持とかで変な宗教にはまる人ってたまにいるよねえ。
あの資産家もあの政治家も(……ごにょごにょ)。
そして退屈や孤独に苦しむと、人は幸福アピールを始めるようになる。
いまならフェイスブックやツイッターに、
高級グルメ写真や有名人と一緒写真をあげるようなものか?
しかし、それは本当に幸福かしらとショーペンハウアーは問う。

「自分が他人の目にどのように映っているということではなく、
自分自身に内蔵されているものの価値を正しく評価することこそ、
私たちの幸福に大いに寄与するのだ」(P139)


まあ、それは金も時間もあり、そして才能にも恵まれた男だから言えることなのだが。
一見すると、孤独は苦しみのように思われがちだが、
孤独は自分という宝庫へ分け入る抜け穴ではないか。
すべてが自身のうちに詰まっているのではないか。
宝物や宝石は外にあるのではなく、ほかならぬ自身のうちにひそんでいるのではないか。

「だれしもおのれ自身の本性を維持し、
おのれ自身のために物事を行うのが最善のすぐれた道である。
人はおのれ自身であればあるほど、
したがっておのれの楽しみの源泉を
おのれ自身のなかに見出すことが多ければ多いほど、
それだけますます幸福になる」(P120)


乱交するよりも孤独な自慰行為のほうは豊かではないかという主張であろう。
変態的なことを書くと、
女性の自慰中の妄想こそエロの源泉のような気がしてほかならない。
どんな過激なプレイよりも、おとなしい女性の自慰妄想の中身のほうがエロいと思う。
こういう発想をできるのは、男たる自分のなかに少女も熟女もいるからなのだが。
自分のなかにすべてが詰まっているのではないかというのは、
大乗仏教とショーペンハウアーに共通する思想である。
いまいちばん金がかかるのは交際費でしょう?
このまえバーミヤンのまえで若い男女がワリカンにするかどうかで喧嘩をしていた。
顔面偏差値40程度の醜い男の言い分はバーミヤンでワリカン。
顔面偏差値50程度の女の言い分はワリカンなら帰る。すごい修羅場を見た気がした。
しかし、これが現実で交際費ほど金のかかるものはなく比して孤独は金がかからない。

「おのれのなかに多くの富をたくわえ、
おのれの本質保持のために外部からごく少量の財貨の流入しか必要としない者、
あるいは何の流入も必要としない者は最も幸福である。
なぜなら外部から何物かを受け入れることは費用もたくさんかかるし、
束縛されいやな気持ちになる危険もあるからだ」(P119)


「考えるな!」というのは、おそらく正しい。
踊り念仏の一遍上人もしきりに「考えるな!」と言っている。考えるより念仏せよ。
金と時間を持て余した人間が考えることと言ったら、
他人との比較や孤独感、そして死への不安と相場が決まっている。
ショーペンハウアーのような哲人にしか金と時間を与えるな。
考える人はショーペンハウアーのような天才だけでいい。
凡人は金がない、時間がない、といつもあくせくしているのがむしろさいわいなのだ。
あり余る金と時間ほど怖いものはないことをショーペンハウアーは知っていた。
しかし、彼は金と時間がもたらす退屈にも孤独にも打ち克ったと自称する。

「親ゆずりの財産はそれが高尚な種類の精神的能力を備え、
金儲けとはおよそ縁がないような物事に取り組んでいる人々の手に渡ったとき、
はじめて最高の価値をもつようになる。
なぜならそうなるとこの種の人々ははじめて運命によって二重に恵まれることになり、
おのれの素質を十分に発揮できるようになるからである。
彼らは他人のできないことをなしとげ、人類全体の利益となり、
名誉となるような何物かをつくり出すことによって、
おのれの人類への債務を何百倍にもしてお返しすることができよう」(P129)


ショーペンハウアーは学者を自称していたが、
大学に所属していたのは32歳からの13年間だけである。
それもずっと講師という身分で、彼を慕う学生はほとんどいなかったという。
ショーペンハウアーが世間から認められたのは還暦(60歳)を過ぎてからである。
それを見越したかのように男は皮肉めいたことをそれ以前に書いている。

「名声は長つづきするものであればあるほどそれだけ遅くやってくる。
なぜならすべてすぐれたものは、
ゆっくりと育ってゆくのと同じ事情にあるからだ。
後世までとどろくような名声は、
種子から始まってゆっくりと成長してゆく樫の木に似ている。
一方、はかない名声は一年間ですぐ成長する植物であり、
誤った名声にいたってはすばやく伸びて見せるものの、
いち早くほろび去る雑草のたぐいである」(P154)


名声っていったいどんなものなのだろう?
手弁当で書いた記事をアップすれば毎回のごとく批判愚弄嘲笑コメントが舞い込み、
ネットのみならずプライベートでも
孤独や寂寥感、倦怠感にさいなまされている当方には想像もつかない。
こんな長文記事、だれも最後まで読んでいないだろうから書くけれど、
書籍購入費と労賃(都最低時給換算)だけでも、
ブログ「本の山」には1千万どころではない投資金額がかかっている。
広告報酬なんて月々数百円だから、
なんのためにこんなブログを10年以上しているか自分でもわからない。
ショーペンハウアーの本を読むといつかわかる日が来るような錯覚にとらわれてしまう。

「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」(下川裕治/新潮文庫)

→「世界最悪の鉄道旅行」だからいいのである。
これが「天国の鉄道旅行」だったら、だれがそんなものを読みたがるものか。
他人が快適効率的合理的経済的に旅をした記録なんておもしろくもなんともない。
「世界最悪の鉄道旅行」だからおもしろい読み物になるのである。
いまの旅行者は、どれだけ快適に効率的かつ合理的かつ経済的に
観光地をまわることしか考えていないと言ってもよい。
そんなもんは旅じゃねえぜ、
というベテラン旅行作家のたましいの叫びが聞こえてくる。
どうやらユーラシア大陸を横断する最適な方法は古臭い鉄道ではなく、
ところどころでバスを織り交ぜたほうが時間節約にもなるし経済的らしい。
にもかかわらず著者は「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」を敢行する。
あっぱれ57歳である。
たしかこの本の見込み収入は百万くらいだと書いていた気がしますが、
41歳はとても真似できません。

しかし、これは旅ならぬ人生にもおなじことが当てはまる。
自分をふくめていまの日本人は快適かどうか、効率的合理的かどうか、
経済的かどうか(お得かどうか、損はしていないか)ばかりを考えて生きている気がする。
それってつまらないんじゃな~いという思いが読後、胸の底からこみ上げてくる。
大して役にも立たない無駄なことを無理と知りつつムラがあっても仕上げるおもしろさ。
そういうことのたいせつさもベテラン作家の旅行記から学ぶ。

ほかにもいろいろ本書を読みながら思ったことがある。
むかしから知っていたが著者はとにかく中国人が嫌いなんだなあと。
それは中国人からされたことを読めば了解可能範囲内なのだが、
わたしは1ヶ月半の中国旅行で親切にしてもらったことのほうが多いので、
人相というか身にまとったオーラは思いのほか重要なのかもしれない。
なお、むろんのこと著者の風貌をおとしめているわけではない。
本書でいちばんおもしろかったのは、飛行機に乗り遅れたところである。
このためビザなしの不法滞在になってしまい、
カメラマンとふたり売春宿に身をひそめることになる。
このあたりの記述がとてもおもしろいのだ。
下川裕治氏といえば旅のプロのなかのプロと言ってもよい。
そんな人が飛行機の搭乗時間を間違えるはずはないと思うが、
おそらく旅行作家である著者の無意識が反乱を起こしたのだと思う。
このままではつまらない旅行記になってしまうので、ここらでトラブルを起こそうと、
著者の意識がたくらんだのではなく、
無意識がこの事態を設定したと考えると納得がいく。
自分語りは迷惑だろうが、去年社会の正規レールに乗りかかったのである。
このまま正社員になっちゃうんじゃないかという思いさえあった。
なんだかんだとレールからは振り落とされ、いま社会的信用はゼロに近い状態。
しかし、これも自分の無意識が設定したのだと思うと、自他をふくめ人を恨まずに済む。

旅行作家の著者もとにかく決まったレールに乗るのがいやなようだ。
親切な現地人が旅行の手配をしてくれたが――。

「彼には申し訳ないが、こういう旅が苦手だった。
手配されたレールに乗ってしまうと楽なのだが、どこか居心地の悪さを感じてしまう。
ぼられているのではないか……と心が揺れてしまう。
なにかというと法外な金をむしりとろうとするエリアを歩きすぎたのかもしれない。
ひねくれた旅行者だった」(P316)


「ひねくれた旅行者」である著者は賄賂(わいろ)にも肯定的である。
ここは通過できないというのは国の決めたルールだが、
そんなものはその場のトップのご機嫌いかんで、
なんとでもなることを世界旅行者の著者が知らないわけがない。
賄賂を支払えば不法入国、ビザ期限切れのみならず、
ときに秘境へ分け入ることまで可能になる。
金でなんとかなるのなら、なんとかしたほうがいいに決まっている。
この道のプロでもある作家によると、賄賂の授受にはタイミングが重要らしい。
本書でも窮地に追い込まれた著者は賄賂で乗り切れないかと考える。

「僕はタイミングをはかっていた。
賄賂のやりとりがあるときは、必ず相手からサインが出る。
意味のないバインダーを渡されることもある。
それを返すとき、裏に金を挟めという合図である。
物陰に呼ばれるときも、賄賂の要求である。
僕はそんな国ばかり歩いているので、
その種のサインには敏感なほうかもしれない」(P237)


結局、このときは賄賂ではどうにもならなかったけれど、
のちのちまで著者は賄賂のサインを見逃していたのではないかと自省する。
国家ルールなんてそんなものなのである。
どうしてこの場所から旅行者を国境通過させてはいけないという理由に、
根拠のようなものはあまりないことが多い。
ならばお互いの得失が合致するならば賄賂で解決するのが、
国際法というか宇宙法なのだろう。うるさいやつにはうまく金をつかませろ。
これがおもしろい旅(および人生)を送るための秘訣なのかもしれない。

しかし、あまり知りすぎないほうがいいことも旅(人生)ではある。
プロ旅行作家の著者は、過去の体験から、万が一の場合を想定して、
国境通過のときの残金報告偽装をかなり入念にたくらんだそうだ。
だが、現実はいっさい残金は調べられず取り越し苦労に終わったという。
この著者の旅行体験も、われわれ読者に貴重な人生の知恵を与えてくれる。
早くから老後の心配をしていても、老後なんて来ないかもしれない(早死に)。
安定した生活のために資格取得の勉強をしても、
別のところで道が拓かれるかもしれない。
法律のことを細かく勉強して法的に完全なものを世に出しても、
違法不法なライバル商品に負けてしまうかもしれない。
なんにも知らないで、知らないがゆえに一発勝負で切り抜けられることもあろう。
若い人が成功するのはこのパターンがけっこうあるのではないか。
過去の慣習なんてまったく知らずに思ったようにやったら、
それが世の中に受け入れられてしまう――。

無理とも思われかねない無謀で無駄な旅を、
多少のムラを気にせず終えると旅人は学ぶことが多いのだろう。
みんながみんな長期旅行に出られるわけではないから、
本書のような旅行記はおもしろい。
旅から学ぶことは多い。それがたとえ他人の旅であっても。

いったいこれからどうしたらいいのか? 
それは「わからない」ことなんだよね。その「わからない」が一遍の南無阿弥陀仏というか。
「なるようになるさ」「なるようにしかならんけ」「どうにかなるさ」「どうにでもなれ」
――踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏の意味である。
常識的に考えたら、少しでも安定度の高い有社会保険の職場を求め、
そこでちまちまと言ったら語弊があるけれど堅実にやっていくしかない。
いまの当方のレベルを考えると、
どんな経歴の醜女(しこめ)でも所帯を持てたらさいわいなのだろう。
でもさ、そのくらしか道はないとわかっていても、
そのコース目指してがんばるのはいやだよお。
がんばらないでそうなるのはよしとしても、それを生きる目標とするのはごめん。
ぜいたくを言うなって話なのはわかる。
ああ、これが人生というものか。こんなにさみしいものだったのか。
明日でもめちゃくちゃに蕩尽自滅したいが、
わたしがそれをできないタイプなのはお逢いしたみながご存じなことだろう。
リスクが高い仕事について殉職したい。もういいよ。お疲れだ。
働きたくないってわけじゃない。いや、それは働きたくないよ。
でも、精神疾患による理由で働けないわけじゃない。
今日だって、これはおもしろそうだっていうのが短期であったから、
急いで登録会に参加してきたもの。
見つけたのは昨日でふつうはウェブ上で登録して向こうからの電話連絡を待つのだが、
吃音のため電話が嫌いなわたしがその場で電話してしまったくらいのレアバイト。
新宿は東口はわかるのだが、西口は魔界。
こういうときだけスマホがあったらなあ、と思う。
人に聞いたら間違った場所を教えられたけれど、あっちは善意なんだから恨まない。
数分遅刻してしまったが、ヒューマントラストさんを怒らせちゃったかなあ。
お願いしますから、あの仕事を振ってくださいよ。
エントリーシートに学歴欄があったから、遅刻数分をなぞの修正液で消せないか。
合否結果がシビアでさあ、OKのものしか連絡が来ないって言うの。
しかも服装を聞いたら、かなりドレスコード(笑)が厳しいらしい。
決まったら即ユニクロに注文するが発送時間との勝負になってくるから、
取ってくれるならなるべくお早めにご連絡をいただきたい。
その仕事はわたしも「お客」として行ったことがあり、
ある程度の服装規定が必要なのはわかる。

住民税がこっちで計算していたよりも多かったんだよね。
確定申告をしていたら下がっていたのかな。
でも、確定申告の用紙が郵送されてこなかったし。
それとは関係なく天下の国税さまだってミスをしているわけよ。書かないけれど。
書いたら当時の責任者が厳しく追及されると思うが、
こちらも国税を敵に回したくないから、そこはなあなあで。
矢野さんの「創価 vs 国税」の本は積ん読している。
まさか日本の国税が、創価には甘いのにわたしのような末端貧弱国民には冷たいような、
そんな極悪機構だとは思いたくない。きのう電話したときも丁寧な対応をしてくれたし。
矢野さんの本を読むまでは死ねないな。
わたしからそんなに税金を取るんなら、あっちからも取れよというあれもある。
あれはいったいどうなっているんだという裏がらみのあれも知っている。
まあ、書かないよ。他人の不正は気にならないほうだし、というか、

嫌いな言葉は正義!

今日だっておもしろくなかったといえば、そんなこともないわけで。
このヒューマントラストのおねえちゃんは内心では、どんなことを考えているのだろう?
けっこうかわいいけれど、あの作り笑いの裏にはなにがあるんだろう?
いろいろ妄想して楽しかったけれど、あんがいふつうの人なのかもしれない。
生きる目的、働く目的として、いろんな人と逢いたいというのがあるなあ。
いつもおなじ薄笑いを浮かべた知的障害者と働くとか、
時給はよくても人生の無駄遣いのような気がしてならない。
国籍性別問わずいろんな人に逢って、人それぞれのリアルを聞きたいなあ。
精神科医、カウンセラー、占い師、タクシードライバー、床屋、ビジネスコーチ(笑)。
いまからなれそうなものはないなあ。
呑み屋の大将くらいならって思う人もいるだろうけれど、
あれは精神科医よりも難しい生活(金銭面)を余儀なくされるという気がする。
いろいろな人に逢って、さまざまそれぞれの、なまの言葉を採取したい。
あと裏を知りたいよねえ。世間の裏側がどうなっているのか。
火葬場とか死に関係するところで働きたいんだけれど(うちの近所にもある)、
ああいうのの求人ってどこに出ているんだろう? やはりコネなのか?
コネを求めるならば創価学会がいちばんだから、
ラブビームを長らく送りつづけているのだがしかし、南無妙法蓮華経♪
もうさ男でも女でも好きになりたいというか、現世への執着がほしいというか。
いったいあれはなんだったのだろうか。妄想? と思うことがある。
むかし時給850円の埼玉県の書籍倉庫でバイトしていたときユーミがいた、
年齢はわたしとおなじか、それより上か。
まだお子さんは小さいとうわさ話で聞いた。やにくさい喫煙者でありました。
なーんか、いいのよ。
ブログにユーミいいなあ、みたいなことを書いたら、偶然偶然、妄想妄想。
ユーミがツンとしたかわいい表情をしてくるわけ。
職場で半勃起するとはまさか思わなかった。
年末の寒い時期だったか、デートに誘おっかな、というより、
とにかく話しかけたいという思いで近づいていったら、向こうが逃げちゃった。
そっから先も、妄想妄想。ユーミがすげえかわいくなったのよ。
「ツチヤさん、あたしのことを好きなんでしょう?」
という挑発的視線を投げかけてくるわけ。
ああ、その目、いいよ、ぞくぞくすると思った。
そのうち古参バイトのユーミは消えたが、
わたしは職場で孤独だったので事情はなにもわからなかった。

当方が職場を去る直前に、あれは当方がよくなかったのだが、
軽いいじめのような事件に遭遇した。
その翌日か2日後くらいにわざわざユーミが来てくれて、
わたしに向かってではなくミッカ―相手に
「なんだかツチヤさんと逢いたくなっちゃって」と大声で言ってくれた。
いまは昼の仕事をしているらしいことも。
あれはいったいなんだったのだろう。
創価学会という妄想装置を利用すると解決するのだが、いまだによくわからない。
わたしがいちばん好きな女の顔は
「あんた、あたしのことが好きなんでしょう?」
という自信あふれた顔だ。

それにしてもあの時給850円書籍倉庫は人生大学でありました。
わたしは客観的な「かわいい」がよくわからない。
ユーミもふつうのおばさんだったろうし、
次に書くSさんも客観的には「かわいい」ほうではない。
というか、いつもおなじような黒い胸のあいた服を着ている女性だ。
ピッキングをしていると胸の谷間がくっきりとよく見える。
この人も好きだったなあ。
相当な古参バイトらしかったけれど、時給850円で長期間働ける人の魅力にひるんだ。
話しかけたら健気にも相手をしてくれるのである。
聞いたら独身らしく、おっぱい目当てにデートに誘ったら応じてくれたのだろうか?
でも、この人は知的障害者ではないか? プライベートには持ち込めなかった。
プライベートで逢ってもなにを話したらいいか当時はわからなかった。
あの退廃した無防備な時給850円の胸の谷間には底知れぬエロスを感じた。

ベトナム人女子の気高さにも感動した。
まえにも書いたがGさんに勤務中に(おいおい!)携帯番号を聞いたら、
即座にそのうわさ話がベトナム女子に広がったようでヒューヒューとからかわれた。
うわっ、これ、おれが失っていた青春じゃんと果てしなく感動したものである。
Gさんは電話番号を教えてくれなかったが、聞いても電話しなかったと思う。
笑顔がすてきで(ええはい、人生で彼女ほど笑顔のうまい人を知りません)
日本語がびっくりするくらいうまかった。日本アニメで学んだという。
ベトナム女子でいちばんかわいかったのはほとんど日本語ができないFさんで、
これまたまえにも書いたことだ。
おまえよくやるよと思われるかもしれないが、勤務中にFさんに無意識からだろう。
この職場であなたがいちばん美少女。美少女? わからない? かわいいってことだよ。
と働きながら伝えたら、なにこいつう、ふざけんなよ、みたいな顔をされて、
うわっ、かわいい、かわいい、今日のお給料いらないもう、と思ったものである。
「あんた、あたしのことを好きなの?」という女子の顔は万国問わずいいよねえ。
それから自分の魅力をおそらく知らないだろう黒服の胸の谷間も。
そこらへんに今後、生きていく可能性があるのかなと思う。
いや、ことさら生きていたくもないのだが。

ネパール女子のス○タは最後のころ、
毎回ピッキングのとなりに入れられ、いつもこっちがきつくあっちは楽勝。
ス○タはインド人顔だし愛想もよくないから、
ずっと「ふーん」だったのだが、
最後はあいつの笑顔かわいいじゃんとか思うようになっていた。
まあ、以上の勤務場所はNTSロジ戸田だが、
無給でけっこうなので1日でもいいのであの人たちに再会したいという思いがある。
それは法律上まかりとおらないのだが、なぜ法律が「正しい」のかわたしはわからない。
明日、死んでもいいので恥ずかしいことを書いた。
いや、死ぬまで本当のことを書かないのがある種の人間である。
今日、板橋区の税務課に電話したら、結局昨年のトラブルが後を引いている。
実名で書いてもいいが、あのO工場長がわたしに「退職勧奨」したにもかかわらず、
失業保険が出ない自主都合退職に捻じ曲げた。
日蓮大聖人を尊敬する副工場長のKもOにしたがった。
なぜこれが「正しい」のかというと、わたしよりもOやKの社会的身分が高いからである。
勤務時においてはO工場長とわたしは上司と底辺アルバイトという関係であった。
K副工場長ともおなじ関係にあった。
いまはどうか? いまやわたしを「退職勧奨」に追い込み、
とっくに還暦を越えているのに
仕事にしがみついているOとわたしは法律的に人間として平等(笑)ではないか?
かつての職場は歩いて10分もかからない。
いま暇だからわたしを「退職勧奨」しながら自己都合退職と内部調整して、
いまもいまのわたしを住民税で苦しませているO工場長に
お礼を申し上げてもいいのではないか?
O工場長は一流企業の役員にまでなり、大富豪のとてもお幸せなおかたでいらっしゃる。
ここまで近所に住んでいる苦役者としては、
O工場長に昨年のお礼を申し上げに行ったほうが常識というものではないか。
社会人としてはご恩を受けたらお礼を返すのが礼儀である。
お役所関係からは、わたしのO工場長への常識的態度(敬意)をかなり責められた。
そんなふうにしなかったらもっと労働者の権利を主張できたのに(失業保険、税金ほか)。
うまいこと生きてきたんだなあ、練馬区在住のO工場長。
いつかお礼をしなくてはいけないと思う。というか、いつでも明日でも可能。
うまいメシをうまうまと食いながら最後までうまく死ねるのかしら。
お医者さんもナースさんも薬剤師さんも医療関係者は大好きだ。
というか、本当に感謝している。
なぜなら抜苦与楽(苦しみを抜いて、楽を与える)してくれるからだ。
医者の存在理由は、健康指導でも社会保障費節減でもなく、ただただ抜苦与楽。
わたしがお医者さんに求めているのも、健康指導や生活改善命令ではなく抜苦与楽。
いまもいまこの苦しみがあるから、それを抜いて少しでも楽にしてほしい。
これは当方だけだろうが根本治療も病名診断も必要とはしておらず、
求めているのはただただ抜苦与楽。苦しいのはいやだ。楽になりたい。
しかし、ドラッグストアで買う薬は高いし効用も非常に低い。
だから、時間を空けてお医者のところへ行き抜苦与楽の薬をいただく(買う)のだ。
ドラッグストアでは抜苦与楽できないから医者を頼るのだ、
これはわたしだけだろうが医者に自分の長命長寿は託していない。
抜苦与楽の結果、寿命が縮んだところで、
そのぶん苦しみが消えるのだから担当医には死後もあの世から感謝するだろう。
またそういう医師こそ福徳がついて患者治療率が上がるのではないかとも思う。
なかにはお迷いのお医者さんもいらっしゃるようだが、
「正しい」治療をしようと懸命になるよりも患者の抜苦与楽を目指したほうが
本人のためにも患者のためにもなるのではないか?
医者の存在理由は(患者の長寿長命ではなく)抜苦与楽――だとわたしは思います。
みなさんお気づきになっていないかたもおられるでしょうが、
世界はもうとっくに終焉を迎えているのでございますよ。終わっている。
少なくとも、わたくしのなかではもう世界は終焉しております。
いつワールドがクローズしたかと申しますと、
それはさかのぼること2013年の10月のことでございます。どどーん。
みなさまお忘れのふりをなさっているでしょうが、三鷹ストーカー事件。
あれがわたくしめの信じる末法世界でさえ滅亡させたのでございます。どどーん。
あんなにかわいいふつうの女子高生が、
あろうことかおまんこをクパァした写真を偉人愛棒(異人相棒)に何枚も何枚も、
ええもう、この話はなみだ抜きにはできませぬ。おお、おお、どどーん。
われらが男子の高校時代など狂女売女(ばいた)の宝唇でさえ秘せられておりました。
それがそれが、ああ、神よ、全能の神アマテラスよ、だれもお裁きたもうな。
ふつうのかわいい女子高生が笑顔でおまんこクパァしている画像が、
47都道府県どころか全米を突き抜けワールドワイドに未来永劫永久に、どどーん。
ふつうの女子高生のおまんこ――これは最後まで隠さねばならぬもの南無南無本宝。
世界終焉の日まで公開してはならなかった桃色秘仏が満天下にさらされてしまったいま、
生きていることになんの意味がございましょうか、ご聴衆のみなさまがた。どどーん。
もはや、見るべきほどのことは見つ。どどーん。
黒き深海のそのまた底、奥深いところまで堕ちていくしかもうございませぬ。
まったく聞くもなみだ、語るはさらに尋常あらざる滂沱(ぼうだ)のなみだ、
なみだなみだ南無阿弥陀仏の事件がかつてありましたのでございました。
南無妙法蓮華経、忘(わす)るなよ、忘るな忘るなフクスマ東北、三鷹女子高生。
な~む、な~む、どどーん、どーどん、あと聞こえてくるのは波の音ばかりでございまする。
おれだってさあ、コメント欄で読者さまと馴れあいたいのよ。
どっからどう見てもそれは正解で、孤独でさみしい中年男性なのだから。
むかし(10~7年まえ)はこのブログのファンです♪ ファンになりました♪
とかいうお友だち申請コメントめいたものがけっこう来ていたわけ。
いまはいったいどうなってしまったの?
来るコメントといえば、「膣屋ケンジ」とか、こちらを嘲弄愚弄するものばかり。
それもおかしな話で、おなじHNでもホストIPがみんな別々なのよ。
ここで精神医学を知らない人は、創価学会の陰謀か?
とか思ってしまうのだろうけれど、わたしは精神科医の春日武彦仕込みの
屈折人間だから(先生の本はほとんど読んでいる)大丈夫。
おかしいよ。なんでこんなにバカにしたコメントしかつかないの?
むかしはもっとみんなでわいわきゃっきゃやっていたではないか?
いまの殺伐としたコメント欄って一見(いちげん)さんが、
気軽に書き込める雰囲気ではないでしょう?
おれはね、かわいいOLさんと知り合って国立で飲んだりしたいの(実体験)。

そうそう、むかしのブログのコメント欄で「承認していない」みたいのがけっこうあるじゃん。
あれはFC2ブログのミスで、あるときなんでかそういうふうになっちゃったの。
あれらはぜんぶ本当は公開していたけれど、なにかシステム上のミスがあったのだろう。
しょせん無料で使わせてもらっているものだし、まあ、そんくらいは許そうかと。
あとそうだ、コメント欄にメールアドレスを記入してくる人がおられますよね。
メールがほしいのかなあ、と思う。
でも、ごめんなさい。うちのパソコン仕様であのコメント欄のメールアドレスは開けません。
可能ならば鍵コメントにしてメールアドレスを直(じか)に書いてください。
手っ取り早いのはそちらからメールを送ってくださいよ。
どうしてコメント欄のメアドが開けないのかというと、gooメール問題よ。
パスワード設定をgooメールにしていたから、gooメール閉鎖後は利用できない。
gooメールのときはっこうな頻度で読者メールが来ていたのよ。
いまのアドレスに変えてからはぜんぜん。
ホットメールにしてもいいのだが、
あれは派遣仕事関係でも使っているから
紐づけされそうで(実名ブログがなにを恐れるか!)。

読者さまとわきあいあいとむかしのようにやりたいのに、どうしてこうなってしまったのか。
コメント欄すごいでしょう? 似たような嘲弄愚弄コメントがえんえんと続くという。
おれ、言っとくけれど、むかしよりはるかにいわゆる「いい人」に
(ネットならぬ)リアルではなっているよ。
怒る回数なんて高く見積もっても1/10程度までに変化している。
理由は、なーんかさ、どうでもよくなっちゃったっていうか。
いまは騒音(ご専門は中島義道先生)も、受動喫煙(ご専門は小谷野敦先生)も、
イヌのノーリードも、美男美女の街中における仲睦まじさ(いちゃいちゃ)も
まったくと言っていいほど気にならない。
リアルでおかしいときはネットにファンがついて、
リアルで多少(!)まともになったら薄気味悪いコメントしかつかない。
どうなってんじゃ、こりゃあ。答えは、わからない。
なにがどうなっているのか世の中の裏側はだれにもわからない。
それを踊り念仏の一遍上人は南無阿弥陀仏と言いましたとさ。
早く死にたい。しかし、周囲に迷惑がかかるから自殺はしたくない。
去年くらいからずっと吐き気が続いていて、
胃もたれというか胸やけというか、とにかく体調が悪い。非常に疲れやすい。
わたしが「お酒をあまりおいしく感じない」なんてもう末期だろう。
なんのために生きりゃあ、いいんだよ。希望は末期ガン。
胃ガンでも肝臓ガンでも、末期で発見されて余命を告知されたい。
初期で見つかっちゃうと闘病とかめんどうくさいからその手の検査は絶対しない。
ガン保険にも入っていないし、そういう闘病みたいのがいやなのよ。
あっさりこの世からおさらばしたいというか。
病気だったらば、みんなもかわいそうだと同情してくれるでしょう?
これは実体験から強調したいが、自殺をされると周囲が大迷惑する。
救えたんじゃないかとか。
あとこれは確率的にはもっとレアになるが、うまく事故で死ねないか。
世の中にはかわいそうにも(?)確率統計的な問題で死んでしまう人がいるのよ。
そういう枠があるのなら、ぼくを入れてよ神さまみたいな思いがある。
でも、事故で死ぬと責任者を世間は欲したがるから、その人に迷惑をかける。
だから、自然災害で死ぬのがいちばんよろしいという結論になるのか?
落雷で死ぬ人なんて1年でひとりふたりらしいけれど、あの枠に入れないか。
生きている希望とかとんとない。夢は「自殺ではない早死に」。

わたしが創価学会へ入りたいのは、
お題目を唱えるときに仏壇に願いの紙を置くんでしょう?
そこに「痛くない早死に」と書いて1日数時間お題目をあげたらどうなるか確かめたいから。
踊り念仏の一遍の悪影響だと思うが、本当にこの世への執着がなくなってきた。
むかしは賞を取りたいとか、山田太一さんに認められたいとか、
そういった世俗的願望があったけれど、
41歳にもなると、結局は才能がなかったということか。
まあ現世は無理だろうが、来世でなら少なくとも現世でよりは出世できるかもしれない。
ならば現世を早くおさらばしたいと思ってしまう。
というか、生きているのがめんどうくさい。
踊り念仏の一遍は死ねば浄土へ往けると言っているのだから、
その言葉に賭けたくなる。
とにかくわからないのは、どうして長生きしたがる人がああまで多いのか。
50歳を過ぎたらあとは余生みたいなもんでいつ死んでもいいじゃないか。
41歳のわたしだって、明日死んだって「べつに~♪」と思っているのである。
死ぬかもしれない危ない裏の仕事とかないかな。
鉄砲玉みたいに人を殺すのはいやだけれど、
一遍の他力思想からしたらわたしから殺される人も過去世の宿縁なのだから、
そこはもう仏さまのおはからいと言うほかないな。

もうなんにもないんだよ。
親鸞はスケベだったようでおのれの愛欲の強さを自慢(卑下)していたが、
わたしだってだれかをストーカーするくらい(しないけれど)
好きになりたいのに(片思いなら自由)、どのアイドルを見てもこころときめかない。
むしろおれは親鸞が恥じている愛欲(執着)がほしいのだ。
なんでみんなそんなに長生きしたいんだ? 生きていてなにがおもしろいんだ?
わたしはせめて酒くらいしかないと思っていたが、このところ酒がまずい。
とすべてを絶望しきったら、いまウイスキーのロックがうまいのだけれど。
これは当方の場合だけかもしれないが、
絶望状態のときほどアルコール度の高いウイスキー(40度)をぐいぐいいける。
ううん? もしかしたらいまなら中国の白酒(52度)もいけるのか。
言っとくけれど、自殺はしたくない。自殺をするとしたら、それは宿命だろう。
自分で死んだわけではなく、自殺は他力によって自然に寿命として死んでいる。
ああ、そうだ。東大卒美女の高橋まつりの自殺問題だが、原因は電通ではない。
それが宿命だったんだよ。おふくろさんよあまり目立って騒ぐなよと本音を言いたい。
早く終わりが来ないかなあ。
おれ、逢いたい芸能人(タレント)とか作家はひとりもいない。
精神科医の春日武彦氏と診察室以外でふたりきりで雑談OKならば興味はあるが、
白衣を着ないと(肩書なしでは)あの人は他人とおしゃべりもできないだろう。
危ない裏仕事とかないかなあ。
毎朝、早起きして妻のそそう健康しじみ味噌汁をズルズルすいながら、
テレビニュースの音声はものともせず朝日新聞のような大新聞を読んでいるふりをし、
死にそうな満員電車をいつものメンバーと乗り切り出社したら、
毎日ほとんど変わらぬルーティンの仕事をさも有意義であるかのごとくにこなし、
休憩時間はタバコを1本も吸わず、昼食は300円以内で野菜多めが望ましく、
いつものように上司に叱られ昨日とおなじように部下を叱り、
なにかに洗脳されたかのごとく、
いまは仕事があるだけでありがたいと残業を無報酬でものともせずやり過ごし、、
またもやおなじ電車で帰宅して酒も飲まず妻の配置した冷凍食品をチンして食う。
いったいこれが人生かよ? 
なんていう時代は古く、これさえあこがれる若者がいる生活形態である。
これだけ奉仕しているのにお国は税金を払えと言ってくる。
どうしてみんなストライキをしないんだろう? 好きなことを1日だけでもしないのだろう?
公務員だってストライキしちゃえ。政治家も大臣も首相も天皇もストライキしろ。
いったいどうしてみんな、そんなにやりたくないことをしているんだ?
働けば働くほど税金は増え、ちょっとの節税も見逃してもらえないのに、いったいどうして?
やめちゃおう。みんなやめちゃおう。好き放題しよう。いきいきしよう。

なーんちゃって♪
いままで困っているごとに純子さんから助けられたという記憶がある。
あの純子さん、あの純子さん、そしてあの純子さん。
今日ひとりの純子さんとお別れしたが、あの女医さんは調べたら30歳くらいだったのか。
J大学の助手だから栄転なのかな。
医学社会もなにもかもぶっちゃけ、
日本のみならずどこも男社会だから純子先生にはがんばってほしい。
しかし、講師、准教授、教授と出世してそれがいったいなんだ?
純子先生は最初関西弁がきついと思ったが、あれは鹿児島弁だったのか。
じつに耳障りのいい新鮮なお医者さんの新しいお言葉であった。
こういうことを書くと精神病を疑われそうだが、
純子先生とはじめて逢ったのは別の恩人の純子先生と逢う約束をしている日だった。
なにこれ? と思ったものである。
わたしには純子先生と呼びたい人が3人いる。
こういう偶然ってなんだろう? いったいなんだろう? 
それを知るためにも生きていかなくちゃと思うけれど、
異常に疲れやすい吐き気がする現世に執着がない。
はたして4人目の純子さんは現われるのか。
本当にいままで純子さんにはお世話になりました。ありがとうございます。
生意気にも有料放送ジェイコムに加入してるので、
新日本プロレス大阪城ホール大会をライブ視聴する。
まさかふたたびプロレスに感激するとは思わなかった。今日のあれはやべえ、事件だ。
30年以上まえからプロレスは見ているので、わかるものはわかる。
まず本当に痛がっているのか、演戯で痛がっているのか。
本当にやばい事態になっているのか、それとも演出なのか。
レフリーやセコンド、カメラマンの表情を瞬間的に見逃さないのがポイントだ。

プロレスはスポーツではなく、ヤクザ的エンターテイメントだからおもしろい面もある。
プロレス技なんか敵味方ふたりで協力しないとかからないものが多いし(いまはとくに)、
かけたほうが痛い技なんかたくさんある(リング外に飛ぶやつ)。
リング内は先輩後輩の日本的濃ゆい人間関係の修羅場である。
鈴木みのるなんて見るからにヨボヨボで
若い衆が本気になったらひとたまりもないだろうが、
日本的権威(おれは業界の先輩!)が後輩レスラーを委縮させる。
だれかモヤシみのるを場外へ向けてポイっと投げてやればおもしろいのだが、
それは業界の暗黙のルールに反する。
いまはヨボヨボでシワシワの鈴木みのるもかつては若くて強い時期が(きっとたぶん)あり、
しかしそういうときに先輩の顔を立ててきたからいまだに業界で生き残っているのである。

30年以上も見てきて、プロレスに似た下のほうの実社会経験も経ると、
あのいんちき格闘技商売のおもしろさも怖さも、そこらの新参ファンよりはわかる。
いま新日本プロレスがブームといわれて久しいが、
いやいや見てきた(ジェイコムを見ないと損)感想はどこがおもしろいの?
優等生みたいなあんちゃんがポンポン飛び跳ねているだけじゃないか。
劣等生キャラも茶髪ロン毛イケメン風ばかりでだれがだれだか区別がつかない。
わたしは馬場猪木世代には乗り遅れ、天龍革命世代だから、闘魂三銃士以降の、
ヒョードル.をまえに亀になったキリストの永田さんやチショー疑惑のある中西選手でも、
(ファンとしては新人時代から見てきているので)どこか後輩のような気がしている。
みんなあの永田や中西、テンコジよりも個性が弱くなって、
ここまでプロレスも(演者の人間味のようなものが)
薄まったかという感慨のようなものがあった。

今日、新日本プロレスの大阪城ホール大会をライブ視聴して、
たしかに新日本ブームは起こるべくして起こっているような気がした。
考えを改めた。要するに、めちゃくちゃおもしろかったのだ。
KUSHIDAとかいうちっこい若いジュニアのあんちゃんがいるじゃないですか(34歳か)。
あの優等生キャラというか、模範社員キャラがいかにもいまふうで嫌いで仕方がなかった。
今日、KUSHIDAを見て、生きのいい若い衆がいるとたいへん好ましく思った。
ライブ視聴のまえに急いで録画していてまだ見ていない、
スーパージュニアの決勝戦を見たが、KUSHIDAにはなにかが降りていた。
ふつう相手レスラーのことを考えて、あまりきつい技はかけられないのだ。
自分がされたらいやなことは他人にできないだろう?
だが、試合終盤、KUSHIDAは相手外人レスラーの腕を変なかたちで決めていた。
相手がタップ(ギブアップ)しているのに、技をとかないのである。
海野レフリーもあわてていたのがおもしろかった。

こうやってプロレスラーは格の差を相手に身体で教えるんだ。
あと相手を威嚇する方法は(男くさい話だが)、
相手の危ない技をあえて逃げないで正面から受けること。
プロレスの技なんて格闘技ではないから逃げようと思ったらいくらでも逃げられる。
しかし、そこで男を魅(み)せてあえて相手の見せ場のために危ない技を受けてやる。
これは当事者間の一瞬の呼吸がうまくハーモニーしないと大事故になる。
相手と自分を信頼していたら、驚くような危ない技も観客に披露できる。
これが抜群にうまいのが、いまは引退した天龍源一郎というレスラーだった。
あの人は相撲あがりで身体が頑丈だから相手の危ない技を正面から受けることができた。
プロレスの技は逃げ腰ではなく、堂々と正面から受けるとかえって怪我をしないもの。
自分が相手の技を正面から受けてやれば信頼関係が生まれ、
相手にも自分の危ない技を受けてもらえ観客は盛り上がってくれる。

いまの若きKUSHIDAに話を戻そう。
今日、KUSHIDAは場外へのリング内からのパワーボムみたいな技を受けていた。
一度は受けるのを拒否したが、二度目ではきちんと自分から受けていた。
あんな危ない技は日本国憲法で禁止してもいいくらいなのだ。
しかもあれは自分から飛ばなければ成立しないボランティア技である。
こぶたグリーンの故・三沢さんが一発でも受けたら何回でも死んでいたという技。
そのうえKUSHIDAは4月におなじ技を受け、脳異常を起こしていたというではないか。
ああいう技を受けるまえにKUSHIDAは相手に腕ひしぎ逆十字を完全に決めている。
ありえない角度に相手の腕が曲がっていた。社会人ならやってはいけないことだ。
そういうことをあえてやり、しかも自分も場外パワーボムを受けてやる。
KUSHIDAは今後カリスマ化するような気がしてならない。
むろん足のひっぱりあいがあり、どこで失速するかわからないが。
プロレスラーはどこまで観客を熱くさせる試合をしても、
一試合いくらのファイトマネーの金額は変わらないのである。
にもかかわらず、お客さまのためにどこまでやるかだ。

天龍の引退試合の相手、オカダ・カズチカも今日給料以上の仕事をしていた。
調べてみたらオカダ・カズチカは29歳か。
いまだからあんな無謀をやれるのだろうが、
あんなにあたまを打っていると将来どんな後遺症が出るか恐ろしい。
相手外人レスラーも、あの試合に見合うだけのギャラはもらっていないだろう。
激しい試合をして評価されると、観客もレスラーもさらなる進化を求めてしまうのである。
同料金でもっと危険な試合をするようにという暗黙のプレッシャーがかかる。
何度もあたまを打つって怖いことだぜ。
なんでもオカダは4月、先輩レスラーの柴田を硬膜下血腫に追い込んでいるとのこと。
開頭手術をしたらしいが、柴田は40歳近いだろう。
怪我をして欠場して、どこまでギャラをもらえるものか。
控え室のオカダを見たら真っ当な社会人っぽかった。
そこまで客の期待にこたえなくていいんだぞ。
オカダ青年、死ぬなよ、殺すなよ、と思った。
しかし、見ているサイドとしてはより危険度の高い試合のほうがおもしろいという矛盾。

いまのプロレスは2、30年まえと比べて段違いに危険度が増している。
だから、おもしろいと今日思ったが、
むかしのプロレスはそれほど実質的危険度が高くなくても、
危ない空気はあったし、いまよりおもしろいレスラーが何人もいた。
在日とか貧困とか吃音とか、そういう負の部分がレスラーを輝かせているところがあった。
前田が長州の顔面を後ろから思いっきりチョン蹴り(朝鮮キック)とか
やばすぎる世界なわけで。
プロレスのおもしろさは、グーパンチとかヤクザキックという命名にあるのだろう。
ヤクザキックをする蝶野さんがじつはとてもいい人で奥さんにあたまが上がらないとか。
そういえば今日、蝶野さんは新幹線の終電に間に合わないとか、
そういうとびきりセコイ経済的理由で試合途中解説席から抜け出していた。
あれだけ熱い大会はつぎいつあるかわからないんだから、
早朝新幹線でも飛行機でも自腹を切れば男が上がったのに、
まったくヤクザキックの蝶野は……。
オカダ・カズチカもKUSHIDAもヤクザキックの蝶野を見習えよ。
死ぬな、殺すな。以上、古参プロレスファンからのアドバイスでありエールである。
いや、いや、違う。そうではない。そんなことはない、そんなことはない。
もっと、やれ。もっと危ないことを。もっと過激に、もっと自由に疾走そして飛翔せよ!
いまひさびさに読書三昧生活をしている。
いまだむかしの感覚が取り戻せない。
たしか3つの読書があるのであった。1.主食、2.おやつ、3.酒肴
1は人生の読書というかいまでいえば一遍全集。老化したあたまにはきついきつい。
しかし、いまこれを損得勘定度外視でしておかないと、先に行けないような気がしている。
どうやらわたしの主軸は踊り念仏の一遍のようだ。
この思想(信心)をきちんとものにしたら、
あとは一生旗振り(警備員)でも生きていけるような気がする。
2のおやつの読書は、サイコーに楽しい。
小谷野敦とか中島義道とか春日武彦とか植島啓司とか河合隼雄とかひろさちやとか。
あまり栄養にはならないおやつをぱくぱく食べるのは楽しいよねえ。
3の酒肴は夜に酒を飲みながら読む本。
旅行記とか酒場放浪記とか、井上靖の大衆小説とか。
むかしはこれで読書数を稼いでいたが、いまはネットにこの時間を奪われてしまっている。

いちおう遊んでいるわけではなく、
踊り念仏の一遍の勉強を血まなこになってしているんだよ。
ただそれが将来、金になるかどうかわからないから、
遊んでいるとみなされるのでしょうけれど。
念仏とか学校教科書的には易行とか言われているけれど、
いざ勉強したら難しいのよこれが。
一銭にもなんねえのに、おれはなにをしているんだと思うけれど、
いま自身の一遍思想を確立しておかないと今後立ち行かなくなるような気がしてさ。
決して楽をしているわけではないのだが、人によっては怠け者に見られてしまう。
大学者の河合隼雄が明恵を発見したように、末端庶民の当方が一遍を発見した。

一遍はおもしろいよ。
いまでいう自死遺族や犯罪者遺族(加害被害ともに)が救われる道を、
鎌倉時代の一遍は提示しているように思えなくもない。
余命告知をされても一遍仏法があれば、ヨンダンスできるわさ♪
でも、こういう勉強は遊んでいるって言われちゃうんだよなあ……ぐすん。
バカ信仰っていうのは
むかしからあるんですよね(仏教業界人しか知らなかろうが「教信」とか)。
バカな下層民はインテリよりも偉い、みたいなさ。
インテリが謙虚ぶって、そういう低姿勢を見せるのはわからなくもないのだが、
庶民が開き直ってうちらがいちばん偉いとか言い出すとあたまが痛くなる。
たとえば、こんな感じ。
おれたちゃあ、インテリじゃないから、難しいことはわからんが、
実直に(←欲望にしたがいってことだろ動物的に)生きとるけん、
むしろ胸張っておるぞお、舐めるなくそインテリ!
わしら庶民は観念の話はわからんが、かえって人生の真実を知っちょるみたいな。
(東大卒のテレビライター倉本聰のように)インテリが下層民に
そういう憧憬(あこがれ)をいだくのならまだわかるのだが、
庶民がそういうアイデンティティー(自己認識)を持つのはちょっとどうかしら……。
とはいえ、テレビも新聞も雑誌も、そんな論調ばかりなのだが。
バカほど偉いみたいなさ。知的障害者は健常者よりもキレイキレイ。
でもさ、バカはバカでしょう? あたまがいい人はやっぱりすごいでしょう?
バカな庶民はそういう基準がわからないから、
学歴や経歴、所属会社に平伏やら反発をおぼえるのだが。
てめえの目で見ることがないって話では、庶民もインテリも似たようなもの。
むしろ、余裕があるぶんインテリのほうが現実をうまくとらえているのかもしれない。
いつからバカがバカたることを理由にして威張るようになったのだろう?
インテリが不遇なバカをもてはやすのはいいけれど、
バカ自身がバカを誇りにしてはいけないでしょう? 
知的障害者が群れて健常者をバカにするとか、あべこべ世界にもほどがある。
わたしはあたまがいい人を見るとすなおにすごいって思うし、
バカはいくら権力がある知的障害者でもバカだなあと軽蔑せざるをえない。
「日本の聖地ベスト100」(植島啓司/集英社新書)

→ぼくも聖地巡礼は好きなほうだよね。インドではよく聖地巡礼をしたなあ。
ガンジス河の河口とされるガンガーサーガルから
源流のゴームクまでの旅がいちばん想い出深い。
あれは29歳の男一匹だったからできたことで、
いまはあのころに比べたらネット情報も豊富だし、
おまけでガイドをつけてやるって言われてもちょっと行くのはいやだなあ。
きついのがわかっているもん。ああ、そうか。
あのころはなんの情報もなく、
そもそもしんどさがわからなかったからゴームクまでたどり着けたのか。
ガンゴードリーでインド人のあんちゃんと肩を組んで泣きながらブラボーしたなあ。

本書はイケメン人気学者が多数の女性の取り巻きと日本の観光地を巡った記録。
植島先生はだれが認めているのか知らないが(世間?)、
宗教人類学者らしく彼が多くの美女と日本の名所旧跡をたずねたら、
それは観光ではなくフィールドワーク(学術調査)というものになるらしい。
で、大尽旅行の感想文を書いたら、それは学術的調査報告みたいなさ。
いまはネットで調べれば即座にわかるのだからそれはそれでいいのだが、
ほとんどのところは行き方の詳細さえ書いていないのだから、
これでは(スマホを使えない)老人向けガイドブックにもならない紙くずレベル。
こんなものが植島フィールドワークの集大成って、
おまえ、いままでなにをして生きてきたんだい?
ああ、セックスとギャンブルかい。
くそお、おまえだけいい思いをしやがって、こんちくしょっ♪

日本の聖地巡礼は要は観光になってしまうような気がして、どうしても興味がわかない。
それにどこも宿泊費、入場料、飲食代が高いから。
インドや東南アジア、中国と比べると目新しさがないし、しょせんおなじ日本だし。
沖縄は裏側では宿泊費も泡盛もめっちゃ安いという話を聞くが、だれか誘ってくれない?
植島先生みたいなイケメンや高学歴といったバックボーンに
裏づけられた自信過剰的対人能力が欠如しているからこういうときに困る。
いつもどこに行くときもひとり。植島さんはいつも美女といっしょ。
嫉妬から攻撃してみよう。植島、おい、間違っているぞ。

「不思議なことに、熊野三山信仰が日本の宗教史上、
いかに大切な役割を果たしたといっても、
別にそこから天才的宗教指導者が排出されたというわけでもないし、
何かその信仰の核となる明確な宗教的イデオロギーが存在したわけでもない。
かといって、他の霊場でよく見かけるように、
そこに参拝すれば長生きできる、病気が治る、子どもが授かる、お金が儲かる、
といった現世利益のキャッチフレーズが熊野にあったわけではない」(P120)


熊野は踊り念仏の一遍上人が大悟をした場所であろう!?
踊り念仏の一遍が誕生した場所と言ってもいいくらいなのが熊野である。
植島さん、美女とまぐわってばかりいないで少しは勉強してくれよ。
美女とチューばかりしていないで、チューとばかりはなあ、おい、学者なんだろ?
あと後鳥羽上皇が現世利益を求めて何度も参拝しているぞ。
わたしは17年まえに1回行ったきりだが、観光客はみんな現世利益を祈っていたからな。
そういう現世利益商売も(世界遺産になるまえの)当時はたくさんあった記憶がある。

話をビューンと飛行機レベルで飛ばす。ビューン♪
このまえ、よおしおれが平成の一遍上人なっちゃると思って(ウソぴょーん)、
韓国第一の仏教世界遺産「仏国寺・石窟庵‎」までひとりで行ってきたけれど、
新幹線みたいのがあってソウルから日帰りでちょー楽勝で、
パーフェクトに計画通りに物事が進みちっとも聖地を巡礼したという気にならなかった。
いままで行った世界遺産、聖地でいちばんつまらなかったのは韓国の「仏国寺・石窟庵‎」。
韓国自体も退屈きわまりなかった。
現地で手引きをしてくれるような人がいたら、もっと違っていたのだろうが。
そうそう、わたしはあの子に恩を返していないな。
大学時代、インドのアーグラで知り合った香港人の美少女がいたのよ。
留学経験があり、英語ペラペラ。
彼女を頼って香港に行ってみたら、彼女は家に招待してくれて家族を紹介してくれた。
おい、おれたち結婚すんのかよって(笑)。

しかし、海外旅行は実際問題、そういうのがいちばんおもしろいとも言える。
日本に観光に来る外国人だって、いくらアメ横を歩いたっておもしろくないでしょう?
(上野の)アメ横なんて高いから、日本人はほとんど買い物しないんだから。
浅草寺に行ったって日本の仏教がわかるものではない。
むしろ創価学会の文化会館を見学させてもらったほうがよくわかる(おれも見たことないし)。
いままで海外旅行でどれほど現地人のお世話になったか。
それを考えると、いつか恩返しをしたいのだが、外国人の希望者はいますか?
ソウルはつまらなかったけれど、じゃあ、東京のどこがおもしろいのかと言われても……。
計画しないでぶらりとそのときとまっているバスに乗るのがいちばんいいのかもしれない。
お偉い宗教人類学者の植島啓司先生もおっしゃっておられる。

「だいたいどこへ出かけるにも何の準備もしないことが多い。
それにはぼくの怠惰な性格によるところも大きいのだが、
いろいろ調べて知ってから行くとソンするような気もするからだ。
見たいものを先に見てしまったら、それがたとえ写真だったとしても、
出会ったときの感動は確実に薄れることだろう。
何事も偶然が好ましい」(P155)


植島啓司さんの新刊「運は実力を超える」が出ているらしい。いいタイトルやねえ。
最近はすっかり楽天ファンなので、楽天ブックスで買おうかな。
楽天ブックスはすげえ。木曜日、男性限定で書籍全品10%割引。
そのうえ楽天カードで買うとポイントが4倍もつく。
正直、新刊書店の終わりは近づいているような気がしてならない。
まあ、終わったら終わったらで聖地になればいいじゃん(笑)。
「ここはかつて本屋の聖地とされていた(神田)神保町です」
って「はとバス」ガイドのお嬢さんに紹介される廃墟とかいまより美しいかも――。

(関連記事)
「日本の原郷 熊野」(梅原猛/とんぼの本/新潮社)


そんなにうちのブログの読者って男ばかりなのかなあ。
ぼく、感覚は徹底的に女の子でしょう?
さっき郵便ポストを見たら「幸福の科学」機関誌が入っていたので読む。
さみしい人なのよ。無料宗教雑誌さえ救いを求めて読んじゃうくらい。
むかしから明言しているけれど、女から勧誘されたらどこの宗教でも入る。
「幸福の科学」大川総裁の息子のひとりは東大法学部なんだ。
東大を受験したものにしか(過去問をやったものにしか)東大のすごさはわからない。
日大レベルで次期シナセン総裁決定の新井くんは少しは考えを改めろ。
な? そうだろ?
どうしたら女性読者が増えるのかしら。
女性愛読者なんてひとりでかまわん、と思っている偏屈ぶりがいけないのか?
でも、結局そうなんだよねえ。異性なんてひとりから好かれたらそれでいい。
みんなから好かれる必要なんて、ないない、ぜんぜん。
しょぼくれキャラやめよっかなあ。
とはいえ、おれは妹キャラは対応できないし、
どんなに若くても断固として女には甘えたい。
それは甘いと言われても、甘えたい。甘えるなと言われても甘える。
コメント欄で議論をふっかけられるとか、たたかおうぜ、みたいのはいやいや。
「本の山」は釣り堀なんだよ。
おれは男なんてどうでもよくて、国籍問わず、
既婚とかバツイチとかバツニとか風俗歴とかそういう過去も問わず、
(わがはいより)若くてかわいい女の子といちゃいちゃしたいんだよ。
若ければ若いほどいいし、
かわいければかわいいほどいい(当方の好みはグラビアとマッパ=正反対だが)。
おれはね、女性に尊敬されたいとか思ってブログを更新しているわけではない。
尊敬なんかいらない。かわいがって、遊んで、いっしょに遊ぼう、いちゃいちゃしよう。
いっしょにバトミントンをしたり、料理をつくったり、ニコプン喧嘩をしたり――。
男根で女陰を屈服したいとかじゃなくて、
おれは女とにゃんにゃんわんわんぱんぱんしたいの。くいーん♪ って鳴きたいの。
だから、女にべつの主人や彼氏がいても立派な旦那さんがいらしてもいいの、
その日だけでもおれとわいわいきゃっきゃ遊んでくれるならば。
男とは遊ぼうとしもすぐに喧嘩になっちゃうから、女がいいの、亭主持ちでもいいの。
いまほしいのはキャアキャア遊びながら、
自動車運転技術を教えてくれるクルマ持ちの女性かなあ。
そんなほしいものを書いたって手に入るはずはないだろうって、
あのさ、そんな常識、この年齢になる男が知らないわけないっしょ? 
でも、もう男社会はいやなの。
わいわいきゃっきゃしたいの。バカをしたいの。バカになりたいの。もうどうでもいいの。
「明るいニヒリズム」(中島義道/PHP文庫)

→平易な一般書かと思って買ったら、難解な哲学書だったので当惑した。
ネット書店の楽天やアマゾンで買うと、
立ち読みができないのでこういう事態に遭遇することがある。
やたら西洋の有名哲学者の名前や、
庶民には流布していない哲学用語が散見されるPHP文庫である。
「明るいニヒリズム」――とてもいいタイトルだと思う。
基本的に山田太一さんは明るいニヒリストだし、わたしもそうでありたいと願っているし。
祖をたずねれば鎌倉時代のカルト僧、
踊り念仏の一遍上人に行き当たるのではないかと思う。
本書は難解度がアップしただけで、主張はいままでの類書とおなじである。
著者の本を何冊か読んでいなかったら、本書の購入は金銭と時間の無駄に終わると思う。

本書の内容は――。
1.客観的世界は存在しない。
2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。

だからなんだっていう見方もできるわけだ。
わたしは長らく底辺時給帯で下級労働にぎりぎりでいそしんできたが、
同僚に1~3のことを説明はできるが、説明してもさっぱり理解してもらえないと思う。
客観がなんだと言われようが、
この1杯のカップラーメンを食ったら腹がふくれるだろう?
そうしたら昼休み後もまた働くことができるだろう? 
そう言われたら、なんの反論もできない。
存在がどうのや、観念がどうのよりも、
同僚の噂話のほうがはるかにおもしろいのもわかる。
じゃあ、どうしてこんな話をするのかというと、
結局この人はインテリじゃんってもてたいからかもしれないなあ。
とにかく同僚の悪口も大好きだけれど、おいら、こういうことにも興味があるんだ~よ。

1.客観的世界は存在しない。
これはもう鎌倉時代の一遍上人からして主張していることだが、
わかる人はすっとわかるだろうが、わからない人はたとえ東大を出ていてもわからない。
たとえば、事件(事象/現象)Xがあったとするじゃないですか?
それを目撃した証人のA、B、C、D、Eがいる。
この場合、客観事象(事件)Xは、
主観A、主観B、主観C、主観D、主観Eとしか存在しえない。
たいがいは主観A~Eが一致するだろうから、それが客観的事実と仮称(命名)される。
まれに5つの主観が一致しない場合は多数決で客観的事実なるものが決められる。
このように考えると、真なる客観事象(事件)Xは厳密には存在しないことになろう。
こういうことを書くと、証拠があるじゃないかと反論してくるものが現われよう。
たとえば客観証拠の写真Xがあるとする。このXは絶対客観と言えないか?
答えは、言えない。なぜなら写真Xを人はそれぞれの主観で見るからである。
たとえば男性が女性をラブホテルに連れ込もうとうする写真Xがあったとする。
それは客観的事実ではないかと主張する人がいるかもしれない。
しかし、主観者Aは男が好みのタイプだったため女に反感を持つかもしれない。
主観者Bはラブホテルに行ったことがないので、公園を楽しくデートするふたりに見える。
主観者Cはいまとにかく金がないのでプレイボーイに怒りをおぼえる。
主観者Dは写真の女性が好みのタイプなので、自分もこういう体験をしたいとあこがれる。
主観者Eは同性愛者なので、写真の意味するところがいまひとつ理解できない。

以上のような弁舌で客観的世界が存在しない(かもしれない)ことは主張できるが、
大半の生活者にとってそんなことはどうでもいいことを、
ここ数年の低賃金労働で身体がボロボロのこの書き手が知らないわけではない。

2.世界は観念(言葉)に過ぎない。
これもまたわかりにくいし、
わかってもお金がもうかるわけでもなく、異性にもてるわけでもない。
だったら、そんなの意味はないじゃん、というのは正しく、
中島哲学はまったく意味がない暇つぶしなのだが、
時間に追われる大勢の人間がいるいっぽうで、
世の中には中島哲学で苦しんでいるふりをすることで
(あのなによりも恐ろしい)退屈という「魔」から逃れたい人もおられるのである。
「世界は観念である」という定義の「観念」がよくない。
「観念」ってなに? と高卒の庶民は思ってしまう。「観念」というのは、つまり言葉のこと。
「世界は言葉である」と言われたら、
少しはなるほどと思うかたもいらっしゃるのではありませんか?
なーに、こんなことは最新学説でもなんでもなく、西洋ではデリダだっけ?
わが日本でも西洋哲学よりはるかむかしに踊り念仏の一遍上人が言っておられる。
われわれはいつも悩み苦しんでいるところがある。
金がほしい。美人になりたい。イケメンだったらなあ。あのトラウマさえなかったら。
けどさ、そういうのはすべて言葉なわけじゃないですか?
貧富、美醜、賢愚、苦楽、快不快、幸不幸、現在過去、善悪――。
すべてが「言葉」に過ぎないでしょう?
それは客観的事象ではなく主観的言語と考えることができるのではないか?
いくらそんなことを言われたって、現実の貧窮や不幸が消えないのは、
当方も実感として理解している。
しかし、それは「言葉」に過ぎないという見方もできるでしょう?
言語構造の根本にあるのは貧富、美醜、善悪といったような「A/反A」という対比構造。
苦楽だって、いまを苦しいと思うから楽という言葉(観念)が出現するわけでしょう?
だったら、すべて「言葉」に過ぎないわけではないかとは考えられませんか?
(まあ、ご無理でしょうけれど)

ここで「明るいニヒリスト」だった踊り念仏の一遍を持ち出すと説明が容易になる。
一遍仏法において最高真理は南無阿弥陀仏である。
そして、この南無阿弥陀仏は言語道断、言葉では説明できないと説く。
最高真理X(南無阿弥陀仏)は存在するけれど、
Xは善悪、貧富、美醜、賢愚といった相対言語では説明できない究極的真実である。
X(南無阿弥陀仏)は言葉(相対言語)では説き明かせない不可思議真理。
このX(南無阿弥陀仏)のまえでは言葉(世界)は意味をなさない。
X(南無阿弥陀仏)という光明のまえでは、
男女も不幸もトラウマも怨恨も意味をなさない。
なぜならX(南無阿弥陀仏)自体が言葉(相対言語/世界)を超越しているからである。
わかってもらえないかなあ。無理だよなあ。
わたしだって昨日、愛する人を亡くした人にこの論理を説明して救えるとは思えない。
しかし、「死」や「不幸」「苦悩」、「教授」「社長」「成功」なんかすべて「言葉」に過ぎず、
「世界」など無数のそれぞれ主観的な「言葉」が仮構している虚妄(こもう)で、
さらさらつゆつゆ客観的な確固とした建造物たる「世界」など、どこにもありえなく、
ならば「死」も「不安」も「不幸」も主観的言語ゆえ恐れるに足るものではなく、
毎日「明るいニヒリスト」として、ときに世の浮き沈みでもながめて、
ニヤニヤしながら「やんなっちゃうなあ」とでもつぶやいていたらいい、
という可能性もなくはなくなるわけであるが、
ひとりでもご納得していただけた人はおられますか?
「明るいニヒリスト」になりきってギンギラギンに踊っちゃってもかまへん♪

3.よって、過去も未来も存在しないし、死すらも存在しえない。
「過去」も「未来」も「死」も主観的な「言葉」に過ぎないでしょう?
だから「過去」「未来」「死」は客観的に存在しているわけではない。
以上で解説は終わりなんだけれど、
ここまでお読みくださったかたにそれはあんまりだよねえ。
というわけで、最後にくだけたちょっとばかりわかりやすい説明をいたしたく存じます。
「過去」って本当に「(主観的)言葉」なんだよねえ。
「本の山」にも「アジア漫遊記」というカテゴリーを掲載している。
あれは10年近くまえタイ、カンボジア、ベトナム、中国と
3ヶ月半かけて旅したときの記憶をつづったものだ。
アクセスなんたらを見ると、あんなものをいまだに読んでくださるかたもいるので嬉しい。
自己愛にもほどがすぎるが、自分で読み返すこともあり、
そうすると「過去」とは「言葉」であるということがつくづくよくわかる。
言葉として書き残していなかったら、あの7割近くは忘却していたのではないか?
そのうえあの旅行記には読者に楽しんでいただく目的で、
フィクションをところどころに混ぜている。
いまとなるとどれがフィクションでどれがリアルか判定できないところもある。
そうなってはじめて、
みなさまがこだわっていらっしゃる「過去」や「履歴」「経歴」「トラウマ」
なんてそう大したものではないのではないかということがおのずからわかる。

これは中島哲学博士の言い分だが、
「過去」とは「現在」から想起された「言葉」で実体はないに等しい。
いま生きるこの「現在」も「未来」によって「過去」として想起されうるのではないか、
という発想から未来という「観念(言葉)」が発生する。
博士が言いたいのは「過去」「未来」「死」――すべてが主観的な「言葉」で実体はない。
鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍上人が50歳にならぬうちに早々と悟った真理らしきものを、
西洋かぶれのマスコミ学者、老権力者、
中島義道哲学博士はいまごろようやく気づいたとも言えるし、
いまの日本に生きているとこういう真理に、
はなはだ到達しにくいという時代風潮に対してさまざまな感想をいだくのも自由であろう。
まあ、一般読者はわが解説がなかったらこの本の意味がわからないだろう。
とうてい担当編集者が本書の意味を理解していたとは思えないが、
それでも原本のまま世間さまに公開するのは老権力者への尊敬からか、
損得勘定からか、(本書を理解したと思いたい)おのれの知的虚栄心からか?
いまは学者や作家よりも権力があるとばれてしまった編集者の石井高弘さんに聞いてみたい。

*文章は一般読者には理解不能なので本書からの引用はあえてしませんでした。

これはもうインターネット社会の弊害としか申し上げようがなく……。
ツチヤと土屋、わたしがふたりいるわけである。
当方のなかでは、どっちもおなじ人格破綻者なのだが、外見はそうではないらしい。
履歴書上の土屋はとにかくまじめそうで実際に正直で勤勉で、
世渡りは下手そうだが応援したくなるような放っておけない中年男性らしい。
もうひとりのツチヤは、精神がブラボーしていて、
明日のことなんか知ったこっちゃねえよという。
明日ベトナム人やネパール人と結婚して、あっちに行っちゃうよというやばさがある。
先のことなんか知ったこっちゃねえという無頼を生きがいにしているというか。
ネットのツチヤしか知らない人はかたぎの土屋に困惑するだろうし、
社会底辺としてうずもれている土屋しか知らない人はスーパーフリーなツチヤにビビる。
東南アジアの女性にだまされて……という定型コースを送りたいけれど、
そういう定番コースを知っているから真似はしたくないが、
あえてルートをたどればのちに回想として書く(表現する)麻薬的快楽が
あるのではないかとも期待する。
しかし、わたしをそこまで夢中にできる中国人でもベトナム人でもいらっしゃるかと。
世の中を、男女関係を舐めている不遜な自分を一蹴されたい。
大損したい。騙されたい。絶壁に追い込まれたい。死の一歩直前まで追い込まれたい。
つまり、生きる高揚を味わいたい。せっかく生まれてきたのだから。