「お経のひみつ」(島田裕巳/光文社新書)

→京都へ行く新幹線「こだま」車内で読了。
なーんて書くと、創価学会の人気ライター某氏みたいじゃないですか?
だれにも相手にされていないふうを装っているけれど、だれだろう?
わたしの才能を最初に見抜いてくれたのは、
むかしからの読者さまでいらっしゃる某氏かそれとも別の古株読者さまか。
なんでこんな話をするかっていうと、
たとえば山田太一信者なら信者で自分のほうが古株だとか、
バカみたいなことで威張ったりするじゃないですか?
だれにも認められていない孤高を気取りたいけれど、
そこまで悲惨ではないが大谷光淳とかと自分を比べちゃうとうんざりげんなりする。
「大谷光淳むかつく」とかブログに書いたら、
解釈次第で殺人予告とみなされ逮捕されちゃうの(笑)?
おれのほうが絶対に親鸞のやばさを理解しているのに、
年下の大谷光淳先生は子孫ってだけでええ思いをしてはるなあ。
親鸞の他力思想によるならば、
わたしが大谷光淳をねたみから殺してもぜんぜんOKなわけでしょう?
罪悪どころかむしろそれは前世からのご縁でまったき他力の完全成就。
大谷光淳を殺したら日本史に名前が残るのかしら。
こういうことを書いたら警察が来るのかという人生実験。報道してみろ。

島田裕巳さんは創価学会批判をしながら、SGI恩恵を受けているひとり。
いまぱっと思いついたから書くだけだけど、
梅原猛も柳美里もいまは創価学会に落とされているから、それが世間というものよ。
おれだってこれだけ創価学会シンパを表明しているんだから、
ちょっとはいい思いをさせてくれよ。
おおむかし学会員のキャバ嬢(当時の彼氏はゴミ収集員)
に池袋でつけ麺を奢ってもらったけれど、もうとっくのとうに賄賂期限は切れている。
島田裕巳は「釈迦不在説」信者みたい。釈迦は歴史上存在しなかったという。
ここらへんに創価学会からも一目置かれる勉強家の島田先生の限界がある気がする。
何度も繰り返し書いてきたことだが、あえて大声で言いたいのは、
釈迦が実在しなくてもいいではないか?
釈迦が実在したとして釈迦とやらが「正しい」証拠はどこにある?
しょせん多数決(支持者が多い!)と伝統(古株ほど偉い!)でしょう?
お釈迦さまなんて、そんなもの。仏教なんて、そんなもの。
折伏する元気がある若いもんはかかってこいや。
希望としたら若いおねえちゃんがええなあ。

土屋顕史(080-5188-7357)

本書で島田先生は善導も怪しいと言っておられる。
善導ちゅうのは南無阿弥陀仏の根拠理論となった中国人の自称思想家。
念仏はとにかく理論の「正しい」ゆえんを善導とやらの中国人によっているのだ。
わたしの大好きな踊り念仏の一遍上人も善導の権威に平伏している。
著者の主張は、善導って本当は中国でぜんぜん偉くなかったんじゃね?
人の偉さは多数決と古株性で決まる。
善導なんて古臭い外国人だから、法然、親鸞、一遍は慕ったんじゃねえの?
いまで言えば、たとえばユング。
ユングなんて中国、東南アジアではだれそれ? の世界でしょう?
西欧、米国でさえそもそもアカデミックな存在ではなく、観音さまみたいなもの。
しかし、ユングや善導のような存在は必要なのである。
たとえば、いまは日本の有名文化人となった河合隼雄だが、
河合先生だってユングという西欧権威がなかったら、
なにも言えなかったし、だれも話なんか耳にしなかった。
法然とか一遍の、善導による南無阿弥陀仏は、河合隼雄とユングの関係とおなじかと。
「正しい」ことってそんなものだよねえ、
という認識を島田裕巳氏がどこまでお持ちなのかはわからない。
自著で自著を宣伝していらしたが、あまり先生のご著作を読んでおりませんので。
絶対的真理はない――。
ひろさちや先生も河合隼雄先生も基底にあるのはたぶんこの信念であった。



観無量寿経の作者はインド人ではないという中国人説をお書きになっていたが、
大乗仏典なんてそもそもぜんぶ、
存在したかわからないと先生がご主張の釈迦と関係ないではありませんか?
そんな「本当のこと」を言ったら、日本でどのレベルの失業者が発生するか?
島田さんも仏教に食わせてもらっているんだから、そこはなあなあでいこうぜ♪
若い女とつきあってみたいなあ、と希望を書いてみるね、お釈迦さま♪
1969~70年放送の山田太一脚本のドラマをユーチューブで違法視聴。
木下恵介アワー。ユーチューブは個人編集短縮バージョン。
「兄弟」がジェイコムで放送されたとき、
わたしは加入していたから見ていないのはおかしいとご指摘を受けそうだが、
自分が生まれる5、6年まえの長い連続ドラマはそうそう見られるものではない。
「兄弟」が放送されるひとつまえの山田太一ドラマ(「二人の世界」?)が
3、4話くらいでギブアップしてしまったので「兄弟」は録画予約もしなかったのではないか。

ある人から見てください、感想を書いてください、ユーチューブで見られます。
そう言われたら、翌々日には速攻で仕事(遊び?)をこなす律儀な人間である。
こんなドラマを20代付近で本気で見てしまったせいで、
結婚するのが恐怖になった男性が当時は大勢いたのではないか。
いつもの山田太一ドラマでありていに言えば、おもしろくて感動して泣いた。
フルバージョンを見ていないで感想を書くのは気が引けるが、
若い男女が通俗恋愛を経て結婚するまでの話である。
一流大学を出て一流会社に入ったイケメンが、
おなじ会社の社長秘書の美女をめとるまでの話。
ただし女の家は大工で父親は高卒と家柄は一流とは言いがたい。
イケメンと美人が恋愛して結婚するまでの話なんて凡庸に思われるかもしれない。
しかし、山田太一はそれを丁寧に描きあげて、
庶民の凡俗性をじつにうまくエンターテイメントとして昇華している。

恋愛結婚ってこういうものなのかなあ、と思ってしまうと結婚できなくなるのではないか。
当時はどうだか知らないが(いひっ、本当はいまの結婚事情も知らん)、
結婚はみんながしているし親もうるさいし世間の目も厳しいし税制上も得だし、
なによりあの恐ろしい孤独感や退屈感からするものではありませんか?
そんなに相手にカッカして、この人じゃなきゃいけないなんて思ってするものかなあ?
デートはやたら金のかかるメシや娯楽を共有するのではなく、
ただふたりでいるだけでも幸福と感じられるのが本当の恋愛、そして結婚ではないか?
正論だよなあ正論。打算で結婚なんかするなよ。世間体で恋愛するのかよ。
いまの時代でも十分に通用するメッセージであろう。
ふたりで川辺の土手に座って無言でいて、それでも幸福と思えるなら結婚しろ。

しかし、そう単純にはいかない現実の事情がある。
このブログで何度も書いてきたことだが、
山田太一ドラマは「金、肩書、顔」を描いているとも言えなくはないだろう。
いくら最高の純愛をして結婚しても、食えなかったら話にならない。
ひとりで生きていくことは坊主ならぬわれわれには無理だから、
「人の目」(肩書、顔)を気にせざるをえない。
このドラマの美女は仕事熱心な(カッカした)大工見習ではなく、
一流大卒一流会社員のイケメンと恋愛経歴する。
イケメンのほうだって迷いがないわけではない。
いくら美女でも結婚したら自由がきかなくなる。自分の運命が決まってしまう。
25歳のイケメン一流は新入社員から聞かれる。
この会社に「生きがい」はありますか?
そんなものはないのである。大企業の総務なんておなじことの繰り返し。
せめて恋愛結婚くらいがいまの「生きがい」かもしれない。
なんにもないからひとりぼっちだから自分は恋愛もどきをしているのかもしれない。
この先になにがあるって言うんだ?
こういう醒めた視線は山田太一が愛読していた福田恆存の影響かもしれない。
(福田恆存には「生き甲斐といふこと」という本がある)

リアリティっていうのは3K「金、肩書、顔」なんだ。
人間はいくら金を持っているか、肩書はなにか、顔の程度でおしはかられると言ってよい。
身もふたもないことを言うと、結婚は「金、肩書、顔」の釣り合いでしょう?
恋愛洗脳をドラマや映画から受けた大衆は、
自分は「金、肩書、顔」で結婚を決めたわけではないと言いたがる気持はわかるが、
しかしお金は大事だし、
相手が無職より一流会社員のほうが見栄えもするし(開業医ならなおさら)、
男はブスよりも美人のほうがいいし、若い子がいいし、
女もイケメンのほうがいいのではありませんか?
このへんが難しいところで、
山田太一はその微妙なところを数々のドラマで描いているのだが、
金があって、肩書もあって、顔もいいと男の場合なかなか恋愛結婚ができなくなると思う。
女に言いたくなると思う。おまえさ、おれのなにがいいの。
お金目当てか。歌舞伎役者の夫人という地位が目当てか。
顔が好きって、そんなのはおれより上のイケメンはいくらでもいるだろう?

山田太一ドラマは当時文壇の権威者だった山口瞳からの評価も受けている。
このドラマ「兄弟」にいかにも山口瞳的なパパ世代のセリフがある。
何度も動画を繰り返して聞いた当方の耳にしたがい紹介する。
むろんのこと引用は発話を一語も変えていない。
恋愛結婚する両家が一同面会する場面でのパパのセリフだ。
まず娘をやる大工のパパから(高卒で学歴劣等感情あり)。

「しかしまあ、ひとりの人間がふたりになり三人になり、
ひとつの家族をつくるってことはだれもがやっているようで、
ひとつひとつ尊いもんですよね。
まあ、わたしみたいに女房を亡くしてみると、
どいつと結婚したって大して変わりはねえような気でいたのが、
やっぱりわたしにとって、かけがえのない女房だったと、
しみじみ身にしみますよ」


これを受けて嫁をもらう側のパパはこう返す(夜学で苦労して大学を卒業した部長さん)。

「いやあ、わたしなんかあこがれながらおよばないわけですが、
ひとつの家庭を、その人間[配偶者?]のためにつくりあげることのできないものに、
『本当の生活』はないんじゃないかと、おりにふれてそう思いますな」


仮定の話として、よしんば、かつての共産党員なら、
おいおいおい、結婚して家庭円満ならばそれがそれだけで「本当の生活」か? 
と怒鳴りだしたくなるのではないか。
わたしにもバカヤロウと大声で叫びたくなるイビツな精神がある。
それが、そんなものが、その程度が、生きがいのある「本当の生活」かバカヤロウ!
むろん、作者の山田太一にもあったことだろう。
しかし、学友の寺山修司のような生き方は「本当の生活」をバカにしている。
みんながみんなそんなことはできない。

木下恵介アワー山田太一脚本の「兄弟」が放送された時期は昭和44~45年。
くだらぬ私事を書くと、両親が恋愛結婚した時期でもある。
わたしは17年まえ母親から目のまえで飛び降り自殺をされた。
なんでこうなったのか知りたくて両親の青年時代の日記までさかのぼって探索した。
ドラマ「兄弟」を見て、両親の恋愛結婚のことを思い返した。
若いころの父は本当にもてなさそうな「九州の片田舎」から出てきた平凡人。
法政大学を出たのだけが誇りくらいの吃音その他コンプレックス満載の小男。
長所と言えば、くそまじめで手に職がないからという理由で、
家にも帰らず食堂で寝泊りしながら限りなく24時間近く働く仕事人間。
母と出逢ったのは職場の同僚としてである。
母の実家は、父があいさつに行ったときにひるんだというくらい貧乏。
祖父はうさんくさい健康食品を開発販売していたが、あれは赤字だったのではないか。
祖母が保険のセールスがうまく、それで綱渡りのような生計を立てていたようだ。
貧乏家庭出身の母は当時、ドラマ「兄弟」のように婚約予定者がふたりいたようだ。
母は結婚相手を自分で決めず、敬慕していた富裕事業家の叔母に決めてもらう。
「男は大学を出ていないとね」「男は働き者がいい」
こういう理由から母と父は結婚にいたったらしい。
結婚式から婚姻届を出すまで1年かかっているという不穏な事実もある。
(母がコピーしておいた)若いころの父の日記は恥ずかしくて哀しくておもしろい。
本当に真心こめて昭和の働き者の青年は母のことを熱愛しているのである。
こんな恥ずかしいものを読んじゃっていいのかよと当時(母自殺時)は思ったが、
昭和44年放送の恋愛ドラマ「兄弟」を見ると、みんなけっこうふつうに
あんな恥ずかしい恋愛感情を異性にいだいていたのかもしれない。
ありがちだが家族トラブルの端緒は嫁姑問題で、
そこからはガタガタ落下の一途。

母が父を選択しなかったら、いまのわたしは生まれなかった。
父が母に恋愛感情のようなもの(錯覚?)をいだかなかったら、
この文章は書かれなかった。
山田太一ドラマの影響で結婚したものも、独身をつらぬいたものもいるだろう。
このドラマ「兄弟」に感動した奈良のお医者さんから逢いたいと言われた。
みんな知らない人と逢うのは怖いと思うが、恐怖よりも好奇心が勝った。
お医者さんもわたしなんかと逢うのだから、それをどれほどリスクと感じられたことか。
山田太一ドラマの影響力は計り知れない。
氏のドラマのテーマのひとつは――。

一流は本当に一流か?

まさかはじめてお逢いする年上のお医者さんとあんなに気軽に話せるとは思わなかった。
わたしなんて母の自殺以降、人生ガタ落ちで四流、五流、それ以下の人間である。
交通費宿泊費はくださるという話だったが(それだけでも感謝涙喜、万歳三唱)、
別途にお金までいただいた。
いつ封筒をあけるべきかだいぶ迷ったが、
すすめられたように5百円高い特急に乗り、そこで紙幣を数える手が震えた。
「応援している」の意味がわかった。応援されていると感じた。
こんな文章を書ける人は応援したいと言われた。応援されている。
「本の山」に何度も書いたが、このブログ記事の最初にも書いているが、
人生をリアルに描く山田太一ドラマは冷たく見れば「金、肩書、顔」である。
しかし、みんな「金、肩書、顔」だけでいいのかと思っている。
「金、肩書、顔」と目に見えるものに逆らうのは人情であり熱情だ。
むかし山田太一ドラマ=「金、肩書、顔」と定義したことがある。
このたび定義を改める。

山田太一ドラマ=「金、肩書、顔」vs「人情(熱情)」

一流大学を出て、一流会社に入った男から求婚された大工の娘が不満顔で言う。
相手からカッカしたものを感じない。1回きりの人生。カッカしたいではないか?
それが「生きがい」というものではないか?
きっと昭和44年は母も父もカッカしていたのだろう。
カッカしたい。いきいきしたい。でも、どうしたらいいかわからない。
カッカしたいよ。いきいきしたいよ。だれかと逢いたいよ。
ユーチューブで「兄弟」を違法視聴。
お金をいただきながら山田太一ドラマへの理解が深まり、こんなことがあるんだなあ。
本当に人生はなにが起きるかわからない。
もしかしたら平凡で退屈な日常のなかにも、
よく見れば注意を払えば「ありふれた奇跡」が満ちているのかもしれない。
いやいや、大丈夫よ。人間は意外と頑丈。だから大丈夫だって。
いま人生最悪の調子の悪さというか。今朝も大量に戻し(吐い)ちゃったし。
むかしは朝食カップラーメンくらい平気のへいさだったけれど(中国仕込みの担々麺)、
いまは健康スープやヨーグルトでさえオエッと来る。
吐き気のみならず疲労感や集中力の低下もはなはだしい。
まあ、はたから見れば元気なんだから、それが客観という事実だから大丈夫。
あと数日くらいなら絶対にいままでのような超絶元気が持つ自信がある。
おなじ早稲田卒のN本部長に誘われたのに悪いけれど、
来月冒頭の短期派遣はキャンセルした。
あれは貴重なペーパーをあつかう仕事で、
万が一にも仕事中に吐いてしまったりしたら取り返しのつかない大問題になるから。
こうなると健康って大事だったんだよなあ。
まあ、40歳まで生きようなんてまったく思わず、
めちゃくちゃやってきたし、どうして自分が? という不服みたいなものはない。
肝硬変、肝臓がん、胃がん、脳腫瘍、
なんでも受け入れる度量の深さがある(しんどい闘病のない末期ならば)。
自力でやりたいことで宿命的になしうることはかなりやったと思うし、まあこんなもんかと。

もちろん、医者にかからないというわけではなく(現在も通院中)、
今後は高額で無駄に思える検査もかなりの笑顔でお願いしたいと思う。
あんがい1ヶ月くらい禁酒療養したら、わが若さと幸運から完全復活するかもしれない。
漫画家サイバラの元旦那の鴨志田穣だって42歳で死んでいるんだから、
もういいよという気はしなくもないけれども。
あんなやつでもいちおう作家ぶって結婚して子どもまでもうけているんだよなあ。
しかし、そういう怨念みたいなものは一遍の南無阿弥陀仏でかなり解決した。
最後の旅として山田太一の小説「空也上人がいた」に
登場する六波羅蜜寺に行けるのは嬉しいなあ。
(さっき再読したけれど、山田太一さんも寝取られ好きなんじゃないかしら……)
最後と書いたがあんがい、六波羅蜜寺参詣が「終わり」ではなく
新しい「始まり」になるのかもしれないけれど、まさかね。
購入したガイドブック「はんなり京都さんぽ」(600円)に六波羅蜜寺が載っていなくてさ。
まあ、京都駅の観光案内所で大きな地図をくれるでしょう、たぶん。
頼むから明朝、埼京線上りでだれも自殺しないでくださいませ。それをされたら終わる。
29日予定。
→京都プラザホテルにて起床。朝食つき。寝坊したいよお。
西本願寺(可能なら東本願寺も)=親鸞
知恩院法然
六道珍皇寺(六道の辻)←山田太一がこっから入れと(笑)
六波羅蜜寺空也
一遍上人念仏賦算遺跡(中京区新京極通四条上る西側/染殿地蔵前)
→(時間があれば)大徳寺一休
→京都駅で「今日のおばんざい弁当」を購入(山田太一指定)。
→19:08新幹線「こだま」乗車

*タクシーは使わない。
明日は忙しくなりそうだ。
体力低下が異常なほど自覚されるいまぜんぶ消化できるか。
まず朝起きたらJRのチケットがいつ来るかのチェック。
ゆうパックだから来るときに在宅していないといけない(28日に生駒に行けない)。
それからもう覚悟を決めて特別な日たるこの日に国保と住民税を払ってしまおう。
コンビニで楽天カードで支払ったらポイントがつくのだろうか?
あれだけの大金(当方にとっては)を支払っても、
お国さまがくださるのは選挙投票チケット1枚でしょう。バッカみたい。
従来通り公明党へ入れる予定(なお公明党の政策は知らない)。
いざにっちもさっちもいかなくなったら創価学会に頼るから、
そのときは都営住宅枠やらいろいろお願いしますという保険のつもりである。
共産党でもいいのだが、いまの共産党は武力革命を捨てたらしいので、期待できない。
この程度の年収でこんな税金を取る国家なんてほろんだほうがましだろう。

その後、新宿へ行く予定。紀伊国屋書店で京都のガイドブックを買わないと。
スマホ1台あれば、こんな無駄金は必要ないのだろうが、最後の活字世代としては。
でもさ、ガイドブックで(実物より)きれいな写真を見ちゃうと行く意味がないんだよね。
ガイドブック購入後はエーユーショップへ。
あ、このまえ携帯番号をブログにさらしたけれど、あれはエーユーだから。
いまエーユー同士なら5分以内限定、何回かけても無料なんでしょう?
いやがらせの電話とかかけるのならエーユーからね。
わたしは基本的に知らない番号からでも非通知でも出る。
でも、着信を忘れることも多くかけなおすときに躊躇(ちゅうちょ)する。
ガラケーだし携帯から携帯へかけると、死ぬほど高い通信料を取られるから。
エーユーショップに行く目的はエーユーポイント。
なんでもいま1万2千ポイントたまっていて、そのほとんどが今月で消えちゃうとか。
エーユーなんとかカードのポイントに換えられるそうだけれど、
わたしはそういう操作を自力ではできない人間ゆえ、しかしケチなのでショップへ。
1万いくらって大きいよねえ。わたしが1日働いても稼げる額ではない。

エーユーショップは混んでいるときは待たされるから、これは運と思うしかない。
エーユー処理が終わったら、新宿から早稲田まで歩こうかと。
なんでも早稲田大学演劇博物館で山田太一特別展が開催されているとのこと。
どうせショボいんだから行かなくてもいっかと思っていたが、まあ行ってもいいかと。
演劇博物館は大学生時代、一度も行ったことはない。
わたしが演劇に興味を持ち始めたのは、大学を卒業して5、6年後である。
そして、いまはほとんど(現代)演劇には関心を失っている。
テレビライターだった山田太一さんも朝日賞を取ると、演劇博物館で見世物にされるのか。
わたしが講演会、著作、映像作品から山田太一さんより学んだことのだいいちは――。
他人は自分なんかに興味を持っちゃくれないよってこと。
ほとんどの人間が自分のことに手いっぱいで他人になんか関心を持てない。
だから、人は孤独になる。いっときでもだれかとわかりあえたらなあと思う。
これがあまたの山田太一ドラマの基底としてある孤独なトーン(音調)である。
自分になんか関心を持ってくれるのは家族くらいしかいないのが本当で、
家族からも見捨てられることはあるし、反面、家族ならではのわずらわしさもある。
他人は自分なんかに関心を持っちゃくれないって本当に本当よ。
携帯番号をブログにさらしたっていたずら電話ひとつかかってこないのだから。
1件だけお電話くださった人があり、これはありふれていない奇跡だと思う。
いまでもだれでもいいからかけてこいよっていう思いはあるよね。
そうしたら家電(の番号)を教えるから、いくらでも話そうじゃないかっていう。
山田太一ドラマの根本思想は孤独で、
そのさみしいひとりぼっちだという孤独感に多くの視聴者が共感したのかもしれない。

山田太一さんはもう最後の小説も最後のドラマも書いてしまっている。
いつどのようなかたちでお亡くなりになるのだろう。
そのとき自分はなにを思うのだろうか。
博物館、月曜日は17時閉館というから、早く行かないとおちおち感傷にも浸れない。
帰りにババ歩きしながら古書店を冷やかせるほどの体力は当方にはもうないと思う。
そもそも17時を過ぎたらほとんどの店は閉店しているような気がする。
すっかり日が沈むのも遅くなった。
明日は曇りらしいから早稲田の夕暮れも見られないだろう。
今月の国保とか住民税とか、自殺宣告かというレベル。
たったあれだけの年収に、
あの国保と住民税を課してくる為政者は政治をなんと心得ておる?
板橋区役所に減免をお願いしたく電話してもそれは絶対無理。
なら稼ごうと板橋区東京都議選期日前投票短期バイトに応募してもなぜか落ちる。
おそらくコネで決まっていたのだと思われる。
だれか都政とヒューマントラストの闇をぶっちゃけてしまえばといいとは思うが、
今後いつ人材派遣会社大手のヒューマントラストのお世話にならないともかぎらぬ、
40過ぎのうすらぼけたおっさんはなんにも強い主張ができない。

奈良時代の仏僧である行基は、いわばルールを破った公務員だ。
当時の僧はみなみな国家公務員で、ひたすら国家の安泰を仏法で願っていた。
ところが、行基は貴族(インテリ)相手にしか教えてはならないとされていた仏教を、
民衆のなかに分け入って教えた。
教員資格を持つ先生があえて安定を捨ててカリスマ予備校講師になったようなもの。
行基集団は国家から弾圧されたらしいが、
理由は行基の弟子たち(私度僧)から(宗教税法上理由で)税金を取れないから。
だから、行基を取り締まれ。

晩年の行基は奈良東大寺の大仏の勧進(寄付金集め)をしたことで知られている。
行基には大衆からの人気があった。
庶民がなぜ税金を払えないかといったら、それに見合った報酬の仕事がないからである。
国家は宗教家の行基に大仏の企画・収支・運営をすべてまかせた。
行基は仏心から労働者を集め、大仏を製作し、報酬を払い彼らを食わせた。
行基は日本経済学の原初ゴッドファーザーと言えるかもしれないのである。
仕事をつくる、労働者をつどう、働かせる、報酬を払い税を強制的に徴収する。
むかしから国家が庶民にやってきたことであり、
だが誕生以降わけもわからず先輩顔をする国家なぞをバカにするのが宗教なのだろう。
仏教を独学した大学者の梅原猛が「漂泊の伝統」ということを言っている。
いわく、伝統のはじめは奈良時代の行基ではないかと。
民衆にはじめて分け入って仏法を説いたのが行基であると。
そのつぎが平安時代の空也。空也を尊敬して真似たのが鎌倉時代の一遍である。
行基は「日本霊異記」を読んだとき、たいへん目立つ存在だった。
行基が説法中に騒ぐうるさい障害児を殺せとか言った話があるんだ。
実際に母親がわが子を殺したら、その後はホラーの世界である。
来週、奈良県の生駒(いこま)に行くことになっているが、
あそこは行基の寺(墓)で有名なところだったといま調べて知る。
で、京都に戻って一遍好きのわたしが六波羅蜜寺の空也像を見る。
どうしていま奈良、京都なのかようやく少しわかった。
嫌いな人の多い俳人の山頭火も「漂泊の伝統」の末裔(まつえい)だろう。
ふらふら呼ばれたらどこにでも行くわたしもあるいはそうかもしれない。
人間は自分でもどうしてかわからずに「それ」をすることがある。
これを神仏のおはからいなどと言ったら前時代的すぎるのだろう。

(関連記事)←クソ長いので、むろんのことお読みにならなくてけっこうです。
「日本霊異記」(景戒/小泉道校注/新潮日本古典集成)
奈良方面からお声がかかり、これはどうやら六波羅蜜寺に行けそうな雰囲気。
六波羅蜜寺は空也上人像で有名らしい。
わたしは山田太一の小説「空也上人がいた」で六波羅蜜寺の存在を知った。
大げさだが長い旅が終わるのかなあ、という感傷めいたものに浸っている。
仏教のブの字も知らない29歳のとき、
どうせインドに3ヶ月もいるんだからと仏教八大聖地をひとりめぐった。
あれはツアーで行くのでさえけっこうしんどいと思う。
とにかく若かったんだなあ。
釈迦が生まれたというルンビニー(これはネパール)とか、
入滅したクシナーガルとか当時はよく意味もわからず行ったものである。
いまになってみると現地を見ていることが仏典理解にどれだけ役立ったか。
まあ、ぶっちゃけ最澄も空海も法然も日蓮大聖人さまもインドへ行っていないんだよね。
大勝利みたいな、うふっ♪

中国までならけっこう行ったやつ(とか言っちゃ失礼か)がいる。
でも、法然、親鸞、日蓮大聖人さまでさえ中国へも行けていない。
そのくせ中国人の善導がどうの智顗(ちぎ)がどうのと日本で騒いでいる。
なぜか当方は仏縁があるようで、
中国のマイナーな香積寺(浄土宗発祥の地)にも
草堂寺(鳩摩羅什/くまらじゅうの聖地=日蓮系)にもひとりで行っている。
あれはもう10年まえになるのか。
当時は親鸞や日蓮大聖人さまのやばさも、
一遍にいたっては存在さえもなかば知らなかった。

とりあえず仏教は韓国から伝来しているよね? 
ってことで4月に韓国仏教にもあいさつしてきた。アニョハセヨってさ。
そういえば、いままでどうして奈良や京都とは縁がなかったのだろう。
修学旅行の退屈なイメージしかなかったからか。
とはいえ、いま調べても行きたいのは六波羅蜜寺しかないなあ。
空也上人は、いま当方がはまっている一遍上人が尊敬していた坊さんである。
いちおう山田太一ファンなら
六波羅蜜寺くらい参詣していないといけないような気がするしさ。
思えば、12年まえのインドから、よく仏教を勉強したなあ。
六波羅蜜寺でひとめぐりするのではないかという感慨がある。
結局、インドでも中国でも韓国でも仏教は消滅しているんだよね。
タイでは(仏さまは)生きていたが、カンボジアやベトナムでは死んでいた。
ラオスは微妙なところだけれど、まあ観光仏教ってところかな。
それを言えば奈良や京都だって、あれは日本観光仏教でしょう?
ばあちゃん死んじゃったから、
しょうがねえから坊さん呼ぶかっていうのが日本土俗仏教なわけで(笑)。
いまはもうだれも知らない丹羽文雄の世界っていうか。

あと残っているのはネパール、ミャンマー、スリランカくらいかな。
行きたいけれど金と時間と、あまり遊ぶなよという世間さまの問題があり。
宗教人類学者とか自称したら、旅行がフィールドワークになり、
ぶっちゃけこれが重要なんだけれど、旅費が確定申告で経費あつかいになるの?
学者っていったいなんなのだろう? お坊さんってなに?
先輩後輩のじめじめした人間関係を通過しないと、
学者や坊主にはなれないのかなあ。あと布教ってなんだろう?
わたしは山田太一作品が好きだけれど、いまは人にすすめたいとは思わないし、
いまは(むかしから?)氏を人格的な教祖のように慕っているわけではない。
ファンレターを書いてお返事をもらって、それを周囲に自慢したいとも思わない。
でも宗教の根本ってここだよね。
自分はどれだけ教祖から認められたか自慢したいという。きんもっ♪

一遍の南無阿弥陀仏だって、わたしは好きだけれど、
人におすすめしたいかって聞かれたら、うーん。
ただ苦しいときに南無阿弥陀仏(善悪も損得もわからない/自然にまかせよう)と
思うと楽じゃないかなあ、くらいのことは小声で申し上げることならできる。
一遍は教団など残す気はなかったのだが、
いまでも一遍の時宗という浄土教団は細々と続いており、
その時宗のボスもいるらしいけれど、彼に認められたいとか、
あわよくば秘伝を授かりたい(そんなもんないっしょ!)とか、そういう願望はない。
自分の葬式は無宗教でいいと、それだけは近親者に伝えてある。
どうせ呼ぶ人、来る人はいないから、葬式は不要で、
可能なかぎり安い値段で焼いて骨にしてくださいと。
骨はガラクタといっしょに押し入れにでもポイでOK。あれ捨てると罪になるんでしょ?
べつに生ゴミとまぜて捨てられてもいいんだけれど、だってわかんないっしょ?
今日、有名女性が死んだらしいけれど鬼女も喪女もさぞメシがうまいことだろう。
女性のそういうところって正直で好きよ♪
「運は実力を超える」(植島啓司/角川新書)

→人生は運なんだよ、とかたくなに信じている植島啓司が好きだ。
わたしも「運・ツキ・偶然」の在野の研究家である。
学者やインテリはいろいろ難しいことを言うが、
人生とは結局以下の構図で説明されうるのではないか。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

人生とは行為(選択)の連続であり、遅かれ早かれその結果が現われる。
プラスと言われている行為(選択)をしたのに、マイナス結果が出ることもあろう。
マイナスとしか思えない選択をした結果、どうしてかプラスの事態が舞い込むこともある。
宗教的に突っ込むと、なにがプラスでなにがマイナスかはわからない。
選択のプラスマイナスもわからないし、結果のプラスマイナスもわからない。
いちおう世間上の善悪や損得といったプラスマイナスはあるが、
そんなものはころころ変わりうる。
家族の自殺や障害児誕生といったマイナスが出た場合、
人は本当にわからない気持になる。
自分はそこまで悪い行為(選択)をしたのだろうかと人によっては発狂しかねない。
いまの医者はエビデンス(統計データ)で治療方針を決めることが多いようだが、
エビデンスにしたがった「正しい」医療行為を選択してもマイナスの結果が出ることがある。
このへんが究極の問題で、
果たして「死」はプラスマイナスで測定できるのかという問題もある。
何度でも書きたいが人生は突き詰めれば以下の構図である。

人生=行為(選択)→「?」→結果(善悪/損得)

努力すれば報われる、報われていない人は努力していないから、
と信じている人の人生観はどうなっているかというと――。

☆人生=行為(選択)→「努力の質量」→結果(善悪/損得)

しかし、いくら努力をしても報われないことはございますでしょう?
わたしは自分よりも努力しているがんばり屋さんが不遇なケースをいくつも知っている。
あきらかに自分よりも怠けていそうなやつがキラキラしているのも知っている。
あれ? 人生って努力(自力)よりも運の力(他力)のほうが大きいのではないか?
もしかしたらかなりのところが運で決まっているのではないか?
そうだとしたら運をよくするためにはどうしたらいいか?
宗教人類学者の植島啓司や当方が関心を持つのはここの領域である。

人生=行為(選択)→「運」→結果(善悪/損得)

どうしたら運がよくなるかは本当にわからない神仏の領域である。
だから、わたしは人生はかなり運であると認めながら、
「運」という言葉の弱さを嫌って、
たとえば(一遍上人の)南無阿弥陀仏(念仏)にまかせたくなる。
南無阿弥陀仏の意味は、人間には「わからない」である

人生=行為(念仏)→「自然」→結果(念仏)

結果のプラスマイナスなんかじつはわからないわけ。
交通事故に遭って病院にかつぎこまれたら、
そこで運命の女性たるナースとの出逢いを果たすかもしれないわけだから。
株で10億稼いでも、うつ病になったらなにも楽しめない地獄になる。
わたしは個人的に一遍の南無阿弥陀仏に興味を持って独学しているが、
一般の人は「行為選択→(?)→結果」の「?」は運にしておいたほうがいいと思う。
どうしたら運がよくなるのか。
わたしが20年近く考えてきたことであり、
植島啓司氏にいたっては40年以上賭場という実地で試行実験してきたことではないか。
いままでわが国において「運・ツキ・偶然」を、
実地で学問してきたのは植島啓司と河合隼雄だけだと思う。

みなさまが知りたいのは、どうしたら運がよくなるかだけでしょう?
わたしだって学問なんかどうでもよく、運命の女神との勝負に興味があるのだ。
果たしていま勝ったと言えるのかわからない(←意地悪)、
植島の答えを先に箇条書きにしておこう。

1.人に「お願い」をしない。
2.チャンスが来るのを待つ。
3.手の内を明かさない。
4.相手がミスをするのを待つ。
5.損得や善悪など、どうでもいい境地にまでいたる。
6.忘我・無我・恍惚こそ勝負の醍醐味よ。
7.いつも旅しているように生きよう。

1の他人にお願いをしないようにしようというのは間違いだろう。
だって、だれもが植島のようにひっきりなしに美女が寄ってくるわけではない。
デートをお願いしなかったらつきあってくれない女性がいる。
以下は、まあ正しいと思うので、
本書を購入するのがめんどうな読者のために原文で紹介します。

「人間の思考はすぐ頑(かたく)なで硬直したものになってしまうので、
負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。
何か新しいヒントが見つかるまでは大きく賭けないことである。
負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることになるだろう。
わざわざ言うまでもないが、
ここぞというときに大きく賭けられるのがギャンブラーであり、
普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。
ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである」(P62)


植島は待てと言う。それから隠せと言う。
話は飛ぶが、AVに出てしまうと女性は運がひどく落ちるのではないか?
おまんこクパァとか見せてしまったら、それだけで運は激減すると思う。
手の内は見せるな。隠すべきものは隠せ。秘密は口にするな。

「もしあなたが大きな勝負をするとしたら、そのときは誰にもしゃべってはいけない。
運はしゃべることによって逃げていってしまうからである。
もちろん大した勝負ではないと思えば、みんなにしゃべってもよろしい。
そのほうが、結果がいいことも多いかもしれない。
しかし、ちょっと手のひらに汗をかくような勝負となれば、
誰にも話さないほうが賢明である」(P65)


人間の器量って、どれだけ自他の秘密を守れるかにあるような気がする。
その意味で、河合隼雄は偉大で、みんなから怖がられ、おそらく孤独だったと思う。
耳にした真実をペラペラ拡散するようなものはいざという勝負で勝てない。
しかし、秘密を守るのはつらいわなあ。
麻雀やパチンコで裏で見ている人がいると負けるというのは、
下品だがうまいたとえではないか。
勝負というのは勝ち負けである。どっちも勝ってなかよしこよしなんてありえない。
相手を負かすのが勝負であり、ギャンブルであり、おそらく人生なのである。

「よく先手必勝というが、[ギャンブルの]名人クラスになると、
相手のミスを導き出して、それを咎(とが)めるというのが本来の形であって、
それも相手に「自分がミスをした」と印象づけることが必要となってくる。
そうした結果、相手が動揺して悪手を打ったり、
まちがったりしてくれるというわけである。
運を自分の手で直接につかむことは想像以上に難しい。
すべてを相手側に委(ゆだ)ねることが大切だと知るべきだ」(P72)


結局のところ著者とわたしの共通認識としてあるのは、
勝敗なんかどうだっていいじゃないか? 勝負そのものが楽しいだろう?
勝敗を決める絶対者(運、神、仏)と対峙している昂揚ほどの悦楽が人生にあろうか?
勝ちや負けがどうでもよくなったものが勝つのである。
負けたってなんだよ。勝ったってそれがなんだって言うんだ。
勝負にはもっと危ないあの忘我の陶酔があるではないか?

「社会がどうだとか、なにが合法だとかいうことなど、どうだっていい。
ちゃんちゃらおかしい。善悪など関係ない。人はいつか死ぬし、馬も死ぬ」(P84)


植島啓司は東大の宗教学科の出身らしいが、当時は食えないことで有名だったらしい。
わかりやすく言うと東大の宗教学科を出ても就職先がない。
そうまでして植島が入った東大の宗教学科にはろくな学者がいなかったという。
いまだから言えるのだろうが、植島は東大の宗教学者はクソばかりだとシャウトしている。
そして、それはおそらく正しいとわたしも思う。
植島啓司青年がなぜ宗教学の門徒になったか本書に書かれており、
この箇所にいちばん感銘を受けた。植島はなぜ宗教学を志したのか?

「人間の心が通常とは違ってとんでもない歓喜に満ちた瞬間であるとか、
自分が自分じゃないように思える瞬間とか、
自分の心が相手に乗り移ってしまう瞬間とか、
どうしようもなくやりきれない瞬間とか、
いわゆる「神がかり」と呼ばれる状態についても、できるだけ
宗教のヴォキャブラリー[専門用語]をつかわずに説明したいと思ったのだ」(P112)


ちまちま善悪や損得を考えるのは我執に過ぎず、
そんな我執では勝負に勝つどころか、勝負の本質さえ見えないのではないか?
善悪や損得を越えた超我・無我の視点から大勝負をしてみてえぜ!

「ぼくらはギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。
別に清廉潔白であってもいいが、
そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。
だから、ギャンブルにおいては、
ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、
あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、
「奇抜だったり」する必要があったりする。
ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。
それほど自由でなければならないということである」(P173)


わたしはむかし(美香時代)から「人生は3G」と主張している。
人生なんて、ギャンブル、ゲーム、ギャグだから笑っちゃおうぜ。
いま当方は安酒をのみながら駄文を書いているが、
2017年の自分がこうなっているなんてまさかまさかで、ぜんぜんわからなかった。
その「わからない」が「運」であり、人によっては神仏になるのだろう。
どこまで旅のように人生を生きられるか。
いままで逢った人、別れた人、再会した人、この歳になるとみんな懐かしい。
そして、これからだれと出逢うのだろう。

「考えるべきはただひとつ。
いま自分がどういう状態にあるかをぼんやりと理解しておくべきだろう。
そして、他人にわかられないように生きること。
それによって起こることの意味も変わってくる。
いつも旅しているような生き方こそが必要なのだ。
明日はどこにいるのかわからない。
それなのに勝負となれば相手を一撃で仕留めてしまう」(P163)


わたしは植島啓司とおなじように「運」の存在を信じている。

おれだってそこらへんの社会常識はあるつもりよ。
おれごとき蛆虫が携帯の番号をさらしたってなにも起きないことくらいさ。
いたずら電話でも来たら、それだけでも感謝感激に値するって。
だって、人は他人に関心を持たないもの。
昨日23時に着信があって、就寝していたため出られなかった。
なんだよ、この着信は、おいおい、とかドキドキもんよ。
このくらいなら常識時間かなと思って、今朝9時過ぎに見知らぬ電話番号にこわごわ。
どこまで相手のことを書いてもいいのかわからないので最小限。
奈良のお医者さん。どうやら夜勤明けのようで(?)声が聞き取りにくい。
山田太一ドラマのファンのようで、当方なんかとその話をしたいとのこと。
こちら今月はヒューマントラストの都議選期日前投票受付バイトに落とされて暇、暇、暇。
28日が休みらしく奈良に来てくれないかとのこと。
うん、目標ができた。その日までに一遍研究と並行して、
録画してある未視聴の山田太一ドラマを可能なかぎり消化しよう。
なんか奈良の地名とかよくわからんのでメールお願いします。
ニートとかひきこもりとか自死遺族とか、
そういうマイナス分野では、
おれは実体験込みの日本唯一のプロフェッショナルだと思う。
お金持の方でご子息、お嬢さんのニートひきこもりに悩んでいる方は多いでしょう。
なかには権威のある「先生」さまのご治療に何百万と費やした方もおられるかと。
当方も耳目を引く程度の(やべえっしょ!)のニートひきこもり経験がございます。
自死遺族という面でもこれでもかと厳しい立場に追い込まれました。
もしかしたらお客さまのご家族のニートやひきこもりを改善するきっかけを、
せんえつながら当方が提供できる可能性があります。
料金は初回交通費のみ。継続の場合は「言い値」でけっこうでございます。
当方はニートやひきこもりのベテランでございますから、奇跡が起きないとも限りません。
ご依頼はメールあるいは携帯電話からお願いします。匿名でのご依頼も可能です。
ニートとかひきこもりなんて病気じゃないっしょ?
という当方の非常識的価値観がございます。
お客さまからのメールをお待ち申し上げております。

土屋顕史
yondance1976@gmail.com
080-5188‐7357
東京都板橋区在住
ヤマギシ会をあつかった自主映画に「アヒルの子」がある。
ドキュメンタリー映画の先達、原一男先生の門下生の作品だった気がする。
作者はきれいな小野さやかという女性らしい。
じつのところ、わたしは小野さやかさんと逢ったような逢っていないような記憶がある。
むかし池袋のジュンク堂書店で行なわれた山田太一トークショーで、
うん? あれはあれは小野さやかさんではないかという顔を目撃した。
原一男教授はおもしろい人だったけれど、もう権力サイドの人でしょう?
わたしもふくめて原一男門下で一丁なにかぶっ放せないか。
ここで問題なのが、わたしこそ原一男の非公認一番弟子という矜持があることなのだが。
もう原先生とは15年近く年賀状も交わしていない。
しかし、原一男門下生としてなにかできないだろうか? 
いきいきできないだろうか? かりそめの自由を味わえないだろうか?
どうせは聞いてもらえないだろうが、バカヤロウと世間に向かって叫びたくないか?
3年単純作業系の仕事をやったでしょう。
もうあっち系はここらでいいかというね。
ああいうのはわたしよりうまい人がたくさんいるし、
身もふたもないことを言えば、50歳でも60歳でも就業可能だから。
赤羽のおねえちゃんがいる店のキャッチの仕事とかどうしたらなれるんだろう。
最初は無報酬からでいいから、ああいう仕事に就いてみたい。
じつのところ、おれはさ、人と話すのが嫌いじゃないんだよね。
偶然の一発性の強さみたいなものにも強い自信がある。
いまだに見知らぬ人から
話しかけられる頻度の高い好人物いんちきカウンセラータイプだし。
言っとくけど、こちら、運は聞いたらびっくりするくらいいいからね。
そういうプラスの話は書かないだけで。
周囲でわたしと逢ってから運が上がった人が大勢いるから。
そりゃあ収入はほしいけれど、収入は最初はなくてもいい。
だれかそういう新しい道に、未知の世界に手引きしてくれないかなあ。
長所→運がいい。偶然性に強い。人の真贋をパッと見破れる。
短所→恨み深い。ケチ。肩書で威張っているやつが大嫌い。まあバカ。
だれか新しい世界に誘ってくださいよ~。
長らくもう引退したプロレスラー天龍源一郎の大ファンだった。
天龍は負けるのがうまいのよ。負けっぷりがいい。
それはレスラーだって人間だから、勝っていいポーズをしたいに決まっている。
人一倍そういう負けん気が強い人がプロレスラーになると言っても過言ではなかろう。
プロレスは勝敗のあらかじめ決まった即興演劇(ジャズ的エンターテイメントショー)。
東スポで年間ベスト試合というものが年末発表されるが、
天龍が負け役になったベスト試合はかなり多いのではないか?
天龍源一郎は本当に強いから、いざとなったら負け役ものめるのである。
プロレスでは強いやつが勝つとはかぎらず、
本当に強いこころを持った漢(おとこ)が相手を光らす負け役を正々堂々演じるのである。
人生負けてばっかりなのは10歳のころから天龍源一郎のファンだったせいだろうか?
大敗はシナリオ・センターであろう。
いまひさびさに2ちゃんねるのスレッドを見てみたら実名個人攻撃がすごい。
既得権益団体、新井三代シナリオ・センター集団に大敗していたことに気づいた。
寄らば大樹の陰。そう考えるのが常識というものだろう。
願わくば、わたしの負けっぷりのよさをご評価くださるかたがひとりでもいらしたら。
思えば人生で大勝利(@創価学会)どころか小さな勝利でさえおさめたことはない。
大勝利したシナリオ・センター経営陣はいまなにを思うか。
小さな勝利さえ知らぬ男には想像もできぬことだ。
シナセンはもう8年もむかしのことなのに、
いまだに負け役、悪役を無償で引き受けている。
わたしは正義のシナリオ・センターを引き立てるブラック・レジェンドと
言えなくもないのだろう。
「あんたはなにをしても絶対にダメよ」
そう言って高笑いしたシナリオ・センター二代目社長のお言葉の正しいことと言ったら!
儲け話でも宗教でもおんなでも、なんでもいいからだまされたい。
というのも、そういうだましにはファンタジーめいたものがあるじゃないですか。
あやしげな塾とか主催している自称塾長にだまされてうっとりしたかばってん。
悪いおなごにだまされて闇金にまで手を出して銀行強盗とかできたらサイコー。
身もこころもボロボロになるくらいだまされたい。つまり、夢を見たい。
現実だけでは味気なくて、だから夢を見たくて、もう散ってしまった桜をいま見たくて。
だまされてこの世ならぬものを見られるのなら明日東京湾に沈んでもいい。
夢がほしくて、夢を見たくて、だまされたくて、梅雨。

*以上は法華経の精髄であるぞよ。
むかしは議論は嫌いと表明していたが、
いまならリアルでなら一対一の折伏合戦をしてもいい。
そのくらい退屈。顔の見えないネットのコメント欄ではやめてね。
きのう月曜日はまいったよなあ。
前日の20時半にいきなり派遣会社のSさんから電話があり、
あすコージーコーナーの川口工場へ行ってくれないかと。
派遣仲間に聞いたら同意見が多かったけれど、川口コージーコーナーの評判は悪い。
わたしも3度行かされて、そのたびになんだこの会社はと思った。
もう川口へは行きません、と派遣のぶんざいでありながらSさんに伝えたものである。
もう川口へは行かないと申し上げているのに、
前日の夜8時過ぎにあす早朝川口に行ってくれませんかという電話が。
いま一遍の独自研究をしていて、
それを早く終わらせて、つぎに行きたいという思いが強い。
結局、リアルのわたしは「いい人」なんだろうなあ。
「いままでたくさんの人にお世話になってきたから、(それを返すという思いで)いいです」
OKしちゃうんだなあ。
で、きのう。約束時間に遅れたら申し訳ないと朝6時に起床。
9時から仕事に入る。14時半に仕事が終わったから帰れと言われる。
交通費を抜いたら4千円よ。日給4千円。ふざけるんじゃねえよ。
そこまでおれは安いのか。
わたしは基本、ものすごくケチなのだが怒りのあまり某所で1万円近く散財してしまう。
リアルのケチなわたしを知っている人が1万円の散財内容を知ったら驚くだろう。
帰宅したらヒューマントラストからの連絡はなし。
じつは都議選の期日前投票の受付に応募していた。
ネットで募集が始まった瞬間に応募したから(早い者勝ちみたいな記載もあり)、
落とされる理由がわからない。
都議選期日前投票受付とかやってみたいじゃないですか。
なんか政治の裏がわかりそうだし。だけんどヒューマントラストに落とされたよ、けっ。

基本的にどこの会社にもアラはあるのよ(ヒューマンもねえ)。
川口コージーコーナーのアラはひどく、しかし最後の良心が書くことを許さない。
あれで生計を立てている人もいるわけだから。
インド帰りとしてはあの程度の不衛生ならば、今後もあそこでケーキを買える。
N本部長がわざわざメールを送ってきてくださったこともあり、
いま来月初旬のDNP短期派遣に応募した。
あの会社は応募者全員採用だから、少々こころの安定を取り戻した。
踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏で損得や善悪を捨てたと思っていたが、
まだまだだなあ。それは絶望ではなく、希望かもしれない。
いま違う方向に行きたいという願望が強い。
どうしたら行けるのかもわからないが、
その「わからない」こそが南無阿弥陀仏なわけで――。
本当に最近、知らない人からのメールが来ない。
唯一来たのが派遣先で知り合ったN本部長という従来とは逆パターン。
こだわりがないのが一遍の南無阿弥陀仏だから、
わたしは南無妙法蓮華経の人にもエルカンターレの人にも偏見はない。
むしろ同志よ、と思うくらいである。
「学ぶ力」(河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤佐千夫/岩波書店)

→いま鎌倉時代の踊り念仏の開祖、一遍のことを独自に学んでいる。
学ぶとはどういうことか? 河合隼雄によると、学ぶとは知りたいと思うこと。
対象を好きになること。そして、これが肝心らしく、楽しむこと。
河合隼雄いわく、以上は孔子の「論語」に書いてあることらしい。

「学ぶということで、まず私が思い浮かべるのは孔子の言葉で、
『論語』の中にある僕の非常に好きな言葉です。
「之(こ)れを知る者は、之れを好む者に如かず。
之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず」。
学んでいる者よりも、好きだと思っている者がいい。
好きだと思っている者より楽しむ者が一番上だということを、
孔子さんが言っておられるんです」(P3)


わたしなんかとくにそうだけれども、
興味がないことを学べと言われてもあたまに入ってこないでしょう?
派遣同僚の爺さんから資格の勉強をしろとしきりに言われていた時期があったけれど、
そんな好きでもないことを学ぶことはできません。
ブルセラ学者・宮台真司の岳父(妻の父)である東大名誉教授の佐伯胖も言っている。

「自分が好きでのめり込んでいたときの学び方と
「さあ、これを覚えなさい、勉強しなさい」と言われたときのギャップはすごく大きい。
別世界みたいな感じで、これはちょっとやってられないなという気がして、
それははっきり言ってだめでしたね。
それを我慢してやろうという気はしませんでしたね」(P60)


踊り念仏の一遍がしていた布教というのは賦算(ふさん)と呼ばれ、
遊行(旅)をしながら対面したものに(有縁者に)ただ念仏札を配るというものだった。
なんでそれが布教なのかわからない時期もあったが、こういう解釈もできよう。
念仏は易行というけれど、歴史的学問背景をふくめるとかなり難解なのである。
熱心に教えてもわかってもらえるかどうかわからない世界なのである。
河合隼雄の出発点は数学高校教師で、
最初は全力で教えたがあまり効果がなかったという。
そして、晩年は「無為」の境地に行き着いた氏は青年期にはやばやと悟る。

「なるほど、先生が必死になって教えまくっても、生徒はそう伸びないんだ。
教えない先生がいると、生徒は自分でものすごく勉強するんです。
あんなもの頼りにならんというので、その子たちは必死になって勉強している」(P15)


一遍もおなじように思ったのではないか?
とりあえず最高真理の南無阿弥陀仏だけ教えておいて、
あとは相手の機根やら学習能力やら自然(他力=南無阿弥陀仏)にまかせよう。
自分が相手に伝えるのは南無阿弥陀仏の一語でいい。
あとは相手が興味を持ったら勉強するだろうし、
ことさら学ばなくても救われるのが念仏の教えの特徴である。
あるがままでどうしようもなく、いまある状態はあるがまま善でも悪でもなく、
しかしそれでも自然として
すべてがうまくいっているというのが南無阿弥陀仏の世界観である。
自分もあるがままの自然と一体でいよう、
自然体でいようという決意表明が南無阿弥陀仏だ。
これはいくら説得しても相手にNOと言われたら終わりで、
相手が自然に南無阿弥陀仏を納得するまで
こちらは無為と言われようが自然にまかせ「待つ」しかない。
南無阿弥陀仏は説得できるものではなく、相手が自然に納得するまで待つのみである。
数学者の森毅に河合隼雄はからかわれている。
お互い老人だから許されるゆるやかな関係性ゆえだろう。
「河合さんは納得の修業をしているわけで、説得の修業なんかしてない。
ええ加減なことを言いながら納得さすのがうまい。
うそつきクラブ会長やからね(笑)」――。
相手を説得しても意味がない。相手が納得してくれることが重要である。
ユングの伝道師(@小谷野敦)である河合隼雄は言う。

「おっしゃるとおりで、僕らは来られた人[クライエント/有料相談者]を
説得しても何の意味もないですよ。そうでしょう。
森さんに「たばこは不健康だからやめなさい」と言うたら、
説得されるけど、絶対に納得しないから。なんぼでも吸うからね。
だから、やめよかという納得が起こることが一番大事なことなんです」(P79)


あることを納得しようと思ったら自分で学ぶしかない。
たとえば一遍仏法を学ぶのなら、一遍を好きになるしかない。
そして、鎌倉時代に存在したという一遍の存在を
楽しむ境地にまでいたらなければならない。
そこまで行くには苦しむようなこともたくさんあるが、
それは学ぶためには必須だと河合隼雄は言う。
一遍の南無阿弥陀仏は要約すれば「死=絶対」である。人は絶対に死ぬ。
絶対たる死者の目から見たら、
相対(言語)世界のあらゆるもの(美醜・貧富・賢愚・善悪)が空(むな)しい。
本書が発刊されたのは河合隼雄が亡くなる3年まえである。
以下は河合隼雄の最後の説法とも信者には解釈できる。
ユング心理学の河合隼雄と踊り念仏の一遍の見ていたものはおなじであった。
最晩年の河合隼雄の見ていたもの――。

「最後に孔子の言葉を読んでいて気がついたのですが、
いろいろなことを学んできたし、いまでも学ぶつもりですが、
考えたら、死ぬということをあまり学んでいないという気がして、
このごろだいぶ学んでいます。
死ぬことをずっと学んでいるうちに、
死ぬことを好むほうになってきて、
最後に死ぬを楽しむところまでいったら最高じゃないかと思いますが、
これはそうはいかんのじゃないかなと思っています。
私の学びの最後の目標はそのへんにあるというところで、
[講演を]終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました」(P17)


「最後に死ぬを楽しむところまでいった」のが踊り念仏の一遍上人であった。
男は仏法を問われたら答えもしたが、布教は基本は念仏札を配るだけであった。
最高真理、絶対真理の死=南無阿弥陀仏を相対世界を生きる衆生にさりげなく伝えた。
聞かれたら答えたが、自分から教えたがるタイプではなかったと思われる。
いま踊り念仏の一遍を学んでいるが予想以上に難物で終わりが見えないので苦しい。
苦しいが、楽しい。いま一遍を苦しみながら、楽しみながら踊るように学んでいる。

「心に突き刺さるショーペンハウアーの言葉 人生、孤独、悩み、恋愛ほか」(金森誠也:編訳)

→金と時間がたっぷり使われたショーペンハウアー好きの書いたいい本を読んだ。
わかりやすい解説のついたショーペンハウアーのアフォリズム(箴言集/名言集)。
結局、金と時間なんだよなあ。
莫大な金と膨大な時間をつぎ込まないと商品から作品、
思想、哲学まで本当にいいものはできない。結局、人生とは金と時間なのではないか?
多くの人びとは金と時間に追われてあくせくしている。苦しんでいる。
しかし、それは本当の恐怖である退屈と孤独を
見ないための最良の方策なのかもしれない。
金と時間がごまんとあったショーペンハウアーは、
そういう真実を直視し表現する強さがあった。
彼は生活苦にさいなむ庶民から八つ裂きにされかねないことを口にしているが、
彼の言葉の真実性を切実に身をもって感じうるのは庶民のほかにはいないだろう。

「すべての苦しみを地獄のなかに移し替えたあとでは、天国には退屈しか残らなくなる。
このことは私たちの生は苦しみと退屈以外のものからは
成り立っていないことを証明している」(P90)


仏教では天国を天界というが、
すべてにおいて不足や苦労のない金も時間もあるこの境涯は、
退屈という地獄界に落とされているとも言いうる。
いつも「忙しい」が口癖のおじさんやおばさんに大金を与え職を奪って暇にしたら、
かなりのパーセンテージで彼(女)らは発狂するだろう。
ニートなんて病気でもなんでもなく、できるほうが天才なのである。
ニートはニート状態に苦しむらしいが、
これで苦しまず平穏でいられるものがむかしは悟った坊さんとされていたのだ。
時間がない、金がない、と口走っているうちが華で、
いざ生活苦から解放されたら人間は退屈と孤独につぶされ発狂しかねない。
ニートの神さまショーペンハウアーは言う。

「富豪や貴族の生活は実際には退屈に対し、持続的で、
しかも絶望的な戦(いくさ)をいどんでいるだけのことである。
他方下層階級の民衆の生活は困窮に対する絶えざる戦いである。
幸福な中産階級よ!」(P91)


適度に金がなく時間もなく、
しかしそこそこは金も時間もある中産階級がもっとも幸福なのである。
金持は退屈と孤独に苦しみ、
貧乏人は貧窮困窮に苦しみながらも借金等で濃密な絆に縛られる。
ならば、いちばんいいのは中産階級ということになろう。
まったく本当にショーペンハウアーの言うように人生は、
苦しみか退屈かのどちらかである。

「人間の幸福の二つの敵は苦しみと退屈だということは明らかである。
これにつけ加えて注目すべきなのは、
私たちが二つの敵の一つから遠ざかることに成功すると、
もう一つの敵が近づいてくることだ。そしてその逆もまた正しい。
したがって私たちの生活は、この両者の間を強さ弱さの違いはあれ、
振動している状況にほかならない」(P111)


貧乏人が宝くじを高額当選したって、困るだけでしょう?
仕事をしないでいいとなったら、やることがなくなってしまうんだから。
朝から酒を飲んでテレビを見ていても、さほどおもしろいとは思えない。
高額当選が貧乏仲間にばれないか冷や冷やドキドキである。
投資をしようと思っても仕組みがわからないし、
銀座で豪遊しようと思い立っても慣れていないからうまく楽しめない。
結局、孤独になり退屈な時間を持て余すようになる。
金があるやつに寄ってくるのは宗教の連中である。
(どうでもいいが、わたしは人生で一度でさえ宗教勧誘されたことがないってどんだけ?)
ショーペンハウアーは宗教もまた暇つぶしとして悪くないといった不穏なことを書く。
宗教は退屈対策のいい暇つぶしである。

「神々や霊への奉仕はいたるところで現実の生活と入り交じっているばかりか、
現実の生活を曖昧(あいまい)なものにしてしまう。
さらに生活のなかに現れるすべての事件は、
実は神々や霊の作用であると見なされる。
これらの超地上的存在との交渉は生活のなかの重要な要素であり、
絶えず希望を抱かせる。そして幻想の魅力によって
現実世界の事物以上に関心と興味の的となることもしばしばである。
これらの存在は一方で援助と救いを求め、
他方では雑事とひまつぶしを求める人間の二重の欲求の現れである」(P43)


なーんか、とんでもなく身もふたもないことを、
ショーペンハウアーとかいうおっさんは言っているなあ。
お金持とかで変な宗教にはまる人ってたまにいるよねえ。
あの資産家もあの政治家も(……ごにょごにょ)。
そして退屈や孤独に苦しむと、人は幸福アピールを始めるようになる。
いまならフェイスブックやツイッターに、
高級グルメ写真や有名人と一緒写真をあげるようなものか?
しかし、それは本当に幸福かしらとショーペンハウアーは問う。

「自分が他人の目にどのように映っているということではなく、
自分自身に内蔵されているものの価値を正しく評価することこそ、
私たちの幸福に大いに寄与するのだ」(P139)


まあ、それは金も時間もあり、そして才能にも恵まれた男だから言えることなのだが。
一見すると、孤独は苦しみのように思われがちだが、
孤独は自分という宝庫へ分け入る抜け穴ではないか。
すべてが自身のうちに詰まっているのではないか。
宝物や宝石は外にあるのではなく、ほかならぬ自身のうちにひそんでいるのではないか。

「だれしもおのれ自身の本性を維持し、
おのれ自身のために物事を行うのが最善のすぐれた道である。
人はおのれ自身であればあるほど、
したがっておのれの楽しみの源泉を
おのれ自身のなかに見出すことが多ければ多いほど、
それだけますます幸福になる」(P120)


乱交するよりも孤独な自慰行為のほうは豊かではないかという主張であろう。
変態的なことを書くと、
女性の自慰中の妄想こそエロの源泉のような気がしてほかならない。
どんな過激なプレイよりも、おとなしい女性の自慰妄想の中身のほうがエロいと思う。
こういう発想をできるのは、男たる自分のなかに少女も熟女もいるからなのだが。
自分のなかにすべてが詰まっているのではないかというのは、
大乗仏教とショーペンハウアーに共通する思想である。
いまいちばん金がかかるのは交際費でしょう?
このまえバーミヤンのまえで若い男女がワリカンにするかどうかで喧嘩をしていた。
顔面偏差値40程度の醜い男の言い分はバーミヤンでワリカン。
顔面偏差値50程度の女の言い分はワリカンなら帰る。すごい修羅場を見た気がした。
しかし、これが現実で交際費ほど金のかかるものはなく比して孤独は金がかからない。

「おのれのなかに多くの富をたくわえ、
おのれの本質保持のために外部からごく少量の財貨の流入しか必要としない者、
あるいは何の流入も必要としない者は最も幸福である。
なぜなら外部から何物かを受け入れることは費用もたくさんかかるし、
束縛されいやな気持ちになる危険もあるからだ」(P119)


「考えるな!」というのは、おそらく正しい。
踊り念仏の一遍上人もしきりに「考えるな!」と言っている。考えるより念仏せよ。
金と時間を持て余した人間が考えることと言ったら、
他人との比較や孤独感、そして死への不安と相場が決まっている。
ショーペンハウアーのような哲人にしか金と時間を与えるな。
考える人はショーペンハウアーのような天才だけでいい。
凡人は金がない、時間がない、といつもあくせくしているのがむしろさいわいなのだ。
あり余る金と時間ほど怖いものはないことをショーペンハウアーは知っていた。
しかし、彼は金と時間がもたらす退屈にも孤独にも打ち克ったと自称する。

「親ゆずりの財産はそれが高尚な種類の精神的能力を備え、
金儲けとはおよそ縁がないような物事に取り組んでいる人々の手に渡ったとき、
はじめて最高の価値をもつようになる。
なぜならそうなるとこの種の人々ははじめて運命によって二重に恵まれることになり、
おのれの素質を十分に発揮できるようになるからである。
彼らは他人のできないことをなしとげ、人類全体の利益となり、
名誉となるような何物かをつくり出すことによって、
おのれの人類への債務を何百倍にもしてお返しすることができよう」(P129)


ショーペンハウアーは学者を自称していたが、
大学に所属していたのは32歳からの13年間だけである。
それもずっと講師という身分で、彼を慕う学生はほとんどいなかったという。
ショーペンハウアーが世間から認められたのは還暦(60歳)を過ぎてからである。
それを見越したかのように男は皮肉めいたことをそれ以前に書いている。

「名声は長つづきするものであればあるほどそれだけ遅くやってくる。
なぜならすべてすぐれたものは、
ゆっくりと育ってゆくのと同じ事情にあるからだ。
後世までとどろくような名声は、
種子から始まってゆっくりと成長してゆく樫の木に似ている。
一方、はかない名声は一年間ですぐ成長する植物であり、
誤った名声にいたってはすばやく伸びて見せるものの、
いち早くほろび去る雑草のたぐいである」(P154)


名声っていったいどんなものなのだろう?
手弁当で書いた記事をアップすれば毎回のごとく批判愚弄嘲笑コメントが舞い込み、
ネットのみならずプライベートでも
孤独や寂寥感、倦怠感にさいなまされている当方には想像もつかない。
こんな長文記事、だれも最後まで読んでいないだろうから書くけれど、
書籍購入費と労賃(都最低時給換算)だけでも、
ブログ「本の山」には1千万どころではない投資金額がかかっている。
広告報酬なんて月々数百円だから、
なんのためにこんなブログを10年以上しているか自分でもわからない。
ショーペンハウアーの本を読むといつかわかる日が来るような錯覚にとらわれてしまう。

「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」(下川裕治/新潮文庫)

→「世界最悪の鉄道旅行」だからいいのである。
これが「天国の鉄道旅行」だったら、だれがそんなものを読みたがるものか。
他人が快適効率的合理的経済的に旅をした記録なんておもしろくもなんともない。
「世界最悪の鉄道旅行」だからおもしろい読み物になるのである。
いまの旅行者は、どれだけ快適に効率的かつ合理的かつ経済的に
観光地をまわることしか考えていないと言ってもよい。
そんなもんは旅じゃねえぜ、
というベテラン旅行作家のたましいの叫びが聞こえてくる。
どうやらユーラシア大陸を横断する最適な方法は古臭い鉄道ではなく、
ところどころでバスを織り交ぜたほうが時間節約にもなるし経済的らしい。
にもかかわらず著者は「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」を敢行する。
あっぱれ57歳である。
たしかこの本の見込み収入は百万くらいだと書いていた気がしますが、
41歳はとても真似できません。

しかし、これは旅ならぬ人生にもおなじことが当てはまる。
自分をふくめていまの日本人は快適かどうか、効率的合理的かどうか、
経済的かどうか(お得かどうか、損はしていないか)ばかりを考えて生きている気がする。
それってつまらないんじゃな~いという思いが読後、胸の底からこみ上げてくる。
大して役にも立たない無駄なことを無理と知りつつムラがあっても仕上げるおもしろさ。
そういうことのたいせつさもベテラン作家の旅行記から学ぶ。

ほかにもいろいろ本書を読みながら思ったことがある。
むかしから知っていたが著者はとにかく中国人が嫌いなんだなあと。
それは中国人からされたことを読めば了解可能範囲内なのだが、
わたしは1ヶ月半の中国旅行で親切にしてもらったことのほうが多いので、
人相というか身にまとったオーラは思いのほか重要なのかもしれない。
なお、むろんのこと著者の風貌をおとしめているわけではない。
本書でいちばんおもしろかったのは、飛行機に乗り遅れたところである。
このためビザなしの不法滞在になってしまい、
カメラマンとふたり売春宿に身をひそめることになる。
このあたりの記述がとてもおもしろいのだ。
下川裕治氏といえば旅のプロのなかのプロと言ってもよい。
そんな人が飛行機の搭乗時間を間違えるはずはないと思うが、
おそらく旅行作家である著者の無意識が反乱を起こしたのだと思う。
このままではつまらない旅行記になってしまうので、ここらでトラブルを起こそうと、
著者の意識がたくらんだのではなく、
無意識がこの事態を設定したと考えると納得がいく。
自分語りは迷惑だろうが、去年社会の正規レールに乗りかかったのである。
このまま正社員になっちゃうんじゃないかという思いさえあった。
なんだかんだとレールからは振り落とされ、いま社会的信用はゼロに近い状態。
しかし、これも自分の無意識が設定したのだと思うと、自他をふくめ人を恨まずに済む。

旅行作家の著者もとにかく決まったレールに乗るのがいやなようだ。
親切な現地人が旅行の手配をしてくれたが――。

「彼には申し訳ないが、こういう旅が苦手だった。
手配されたレールに乗ってしまうと楽なのだが、どこか居心地の悪さを感じてしまう。
ぼられているのではないか……と心が揺れてしまう。
なにかというと法外な金をむしりとろうとするエリアを歩きすぎたのかもしれない。
ひねくれた旅行者だった」(P316)


「ひねくれた旅行者」である著者は賄賂(わいろ)にも肯定的である。
ここは通過できないというのは国の決めたルールだが、
そんなものはその場のトップのご機嫌いかんで、
なんとでもなることを世界旅行者の著者が知らないわけがない。
賄賂を支払えば不法入国、ビザ期限切れのみならず、
ときに秘境へ分け入ることまで可能になる。
金でなんとかなるのなら、なんとかしたほうがいいに決まっている。
この道のプロでもある作家によると、賄賂の授受にはタイミングが重要らしい。
本書でも窮地に追い込まれた著者は賄賂で乗り切れないかと考える。

「僕はタイミングをはかっていた。
賄賂のやりとりがあるときは、必ず相手からサインが出る。
意味のないバインダーを渡されることもある。
それを返すとき、裏に金を挟めという合図である。
物陰に呼ばれるときも、賄賂の要求である。
僕はそんな国ばかり歩いているので、
その種のサインには敏感なほうかもしれない」(P237)


結局、このときは賄賂ではどうにもならなかったけれど、
のちのちまで著者は賄賂のサインを見逃していたのではないかと自省する。
国家ルールなんてそんなものなのである。
どうしてこの場所から旅行者を国境通過させてはいけないという理由に、
根拠のようなものはあまりないことが多い。
ならばお互いの得失が合致するならば賄賂で解決するのが、
国際法というか宇宙法なのだろう。うるさいやつにはうまく金をつかませろ。
これがおもしろい旅(および人生)を送るための秘訣なのかもしれない。

しかし、あまり知りすぎないほうがいいことも旅(人生)ではある。
プロ旅行作家の著者は、過去の体験から、万が一の場合を想定して、
国境通過のときの残金報告偽装をかなり入念にたくらんだそうだ。
だが、現実はいっさい残金は調べられず取り越し苦労に終わったという。
この著者の旅行体験も、われわれ読者に貴重な人生の知恵を与えてくれる。
早くから老後の心配をしていても、老後なんて来ないかもしれない(早死に)。
安定した生活のために資格取得の勉強をしても、
別のところで道が拓かれるかもしれない。
法律のことを細かく勉強して法的に完全なものを世に出しても、
違法不法なライバル商品に負けてしまうかもしれない。
なんにも知らないで、知らないがゆえに一発勝負で切り抜けられることもあろう。
若い人が成功するのはこのパターンがけっこうあるのではないか。
過去の慣習なんてまったく知らずに思ったようにやったら、
それが世の中に受け入れられてしまう――。

無理とも思われかねない無謀で無駄な旅を、
多少のムラを気にせず終えると旅人は学ぶことが多いのだろう。
みんながみんな長期旅行に出られるわけではないから、
本書のような旅行記はおもしろい。
旅から学ぶことは多い。それがたとえ他人の旅であっても。

いったいこれからどうしたらいいのか? 
それは「わからない」ことなんだよね。その「わからない」が一遍の南無阿弥陀仏というか。
「なるようになるさ」「なるようにしかならんけ」「どうにかなるさ」「どうにでもなれ」
――踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏の意味である。
常識的に考えたら、少しでも安定度の高い有社会保険の職場を求め、
そこでちまちまと言ったら語弊があるけれど堅実にやっていくしかない。
いまの当方のレベルを考えると、
どんな経歴の醜女(しこめ)でも所帯を持てたらさいわいなのだろう。
でもさ、そのくらしか道はないとわかっていても、
そのコース目指してがんばるのはいやだよお。
がんばらないでそうなるのはよしとしても、それを生きる目標とするのはごめん。
ぜいたくを言うなって話なのはわかる。
ああ、これが人生というものか。こんなにさみしいものだったのか。
明日でもめちゃくちゃに蕩尽自滅したいが、
わたしがそれをできないタイプなのはお逢いしたみながご存じなことだろう。
リスクが高い仕事について殉職したい。もういいよ。お疲れだ。
働きたくないってわけじゃない。いや、それは働きたくないよ。
でも、精神疾患による理由で働けないわけじゃない。
今日だって、これはおもしろそうだっていうのが短期であったから、
急いで登録会に参加してきたもの。
見つけたのは昨日でふつうはウェブ上で登録して向こうからの電話連絡を待つのだが、
吃音のため電話が嫌いなわたしがその場で電話してしまったくらいのレアバイト。
新宿は東口はわかるのだが、西口は魔界。
こういうときだけスマホがあったらなあ、と思う。
人に聞いたら間違った場所を教えられたけれど、あっちは善意なんだから恨まない。
数分遅刻してしまったが、ヒューマントラストさんを怒らせちゃったかなあ。
お願いしますから、あの仕事を振ってくださいよ。
エントリーシートに学歴欄があったから、遅刻数分をなぞの修正液で消せないか。
合否結果がシビアでさあ、OKのものしか連絡が来ないって言うの。
しかも服装を聞いたら、かなりドレスコード(笑)が厳しいらしい。
決まったら即ユニクロに注文するが発送時間との勝負になってくるから、
取ってくれるならなるべくお早めにご連絡をいただきたい。
その仕事はわたしも「お客」として行ったことがあり、
ある程度の服装規定が必要なのはわかる。

住民税がこっちで計算していたよりも多かったんだよね。
確定申告をしていたら下がっていたのかな。
でも、確定申告の用紙が郵送されてこなかったし。
それとは関係なく天下の国税さまだってミスをしているわけよ。書かないけれど。
書いたら当時の責任者が厳しく追及されると思うが、
こちらも国税を敵に回したくないから、そこはなあなあで。
矢野さんの「創価 vs 国税」の本は積ん読している。
まさか日本の国税が、創価には甘いのにわたしのような末端貧弱国民には冷たいような、
そんな極悪機構だとは思いたくない。きのう電話したときも丁寧な対応をしてくれたし。
矢野さんの本を読むまでは死ねないな。
わたしからそんなに税金を取るんなら、あっちからも取れよというあれもある。
あれはいったいどうなっているんだという裏がらみのあれも知っている。
まあ、書かないよ。他人の不正は気にならないほうだし、というか、

嫌いな言葉は正義!

今日だっておもしろくなかったといえば、そんなこともないわけで。
このヒューマントラストのおねえちゃんは内心では、どんなことを考えているのだろう?
けっこうかわいいけれど、あの作り笑いの裏にはなにがあるんだろう?
いろいろ妄想して楽しかったけれど、あんがいふつうの人なのかもしれない。
生きる目的、働く目的として、いろんな人と逢いたいというのがあるなあ。
いつもおなじ薄笑いを浮かべた知的障害者と働くとか、
時給はよくても人生の無駄遣いのような気がしてならない。
国籍性別問わずいろんな人に逢って、人それぞれのリアルを聞きたいなあ。
精神科医、カウンセラー、占い師、タクシードライバー、床屋、ビジネスコーチ(笑)。
いまからなれそうなものはないなあ。
呑み屋の大将くらいならって思う人もいるだろうけれど、
あれは精神科医よりも難しい生活(金銭面)を余儀なくされるという気がする。
いろいろな人に逢って、さまざまそれぞれの、なまの言葉を採取したい。
あと裏を知りたいよねえ。世間の裏側がどうなっているのか。
火葬場とか死に関係するところで働きたいんだけれど(うちの近所にもある)、
ああいうのの求人ってどこに出ているんだろう? やはりコネなのか?
コネを求めるならば創価学会がいちばんだから、
ラブビームを長らく送りつづけているのだがしかし、南無妙法蓮華経♪
もうさ男でも女でも好きになりたいというか、現世への執着がほしいというか。
いったいあれはなんだったのだろうか。妄想? と思うことがある。
むかし時給850円の埼玉県の書籍倉庫でバイトしていたときユーミがいた、
年齢はわたしとおなじか、それより上か。
まだお子さんは小さいとうわさ話で聞いた。やにくさい喫煙者でありました。
なーんか、いいのよ。
ブログにユーミいいなあ、みたいなことを書いたら、偶然偶然、妄想妄想。
ユーミがツンとしたかわいい表情をしてくるわけ。
職場で半勃起するとはまさか思わなかった。
年末の寒い時期だったか、デートに誘おっかな、というより、
とにかく話しかけたいという思いで近づいていったら、向こうが逃げちゃった。
そっから先も、妄想妄想。ユーミがすげえかわいくなったのよ。
「ツチヤさん、あたしのことを好きなんでしょう?」
という挑発的視線を投げかけてくるわけ。
ああ、その目、いいよ、ぞくぞくすると思った。
そのうち古参バイトのユーミは消えたが、
わたしは職場で孤独だったので事情はなにもわからなかった。

当方が職場を去る直前に、あれは当方がよくなかったのだが、
軽いいじめのような事件に遭遇した。
その翌日か2日後くらいにわざわざユーミが来てくれて、
わたしに向かってではなくミッカ―相手に
「なんだかツチヤさんと逢いたくなっちゃって」と大声で言ってくれた。
いまは昼の仕事をしているらしいことも。
あれはいったいなんだったのだろう。
創価学会という妄想装置を利用すると解決するのだが、いまだによくわからない。
わたしがいちばん好きな女の顔は
「あんた、あたしのことが好きなんでしょう?」
という自信あふれた顔だ。

それにしてもあの時給850円書籍倉庫は人生大学でありました。
わたしは客観的な「かわいい」がよくわからない。
ユーミもふつうのおばさんだったろうし、
次に書くSさんも客観的には「かわいい」ほうではない。
というか、いつもおなじような黒い胸のあいた服を着ている女性だ。
ピッキングをしていると胸の谷間がくっきりとよく見える。
この人も好きだったなあ。
相当な古参バイトらしかったけれど、時給850円で長期間働ける人の魅力にひるんだ。
話しかけたら健気にも相手をしてくれるのである。
聞いたら独身らしく、おっぱい目当てにデートに誘ったら応じてくれたのだろうか?
でも、この人は知的障害者ではないか? プライベートには持ち込めなかった。
プライベートで逢ってもなにを話したらいいか当時はわからなかった。
あの退廃した無防備な時給850円の胸の谷間には底知れぬエロスを感じた。

ベトナム人女子の気高さにも感動した。
まえにも書いたがGさんに勤務中に(おいおい!)携帯番号を聞いたら、
即座にそのうわさ話がベトナム女子に広がったようでヒューヒューとからかわれた。
うわっ、これ、おれが失っていた青春じゃんと果てしなく感動したものである。
Gさんは電話番号を教えてくれなかったが、聞いても電話しなかったと思う。
笑顔がすてきで(ええはい、人生で彼女ほど笑顔のうまい人を知りません)
日本語がびっくりするくらいうまかった。日本アニメで学んだという。
ベトナム女子でいちばんかわいかったのはほとんど日本語ができないFさんで、
これまたまえにも書いたことだ。
おまえよくやるよと思われるかもしれないが、勤務中にFさんに無意識からだろう。
この職場であなたがいちばん美少女。美少女? わからない? かわいいってことだよ。
と働きながら伝えたら、なにこいつう、ふざけんなよ、みたいな顔をされて、
うわっ、かわいい、かわいい、今日のお給料いらないもう、と思ったものである。
「あんた、あたしのことを好きなの?」という女子の顔は万国問わずいいよねえ。
それから自分の魅力をおそらく知らないだろう黒服の胸の谷間も。
そこらへんに今後、生きていく可能性があるのかなと思う。
いや、ことさら生きていたくもないのだが。

ネパール女子のス○タは最後のころ、
毎回ピッキングのとなりに入れられ、いつもこっちがきつくあっちは楽勝。
ス○タはインド人顔だし愛想もよくないから、
ずっと「ふーん」だったのだが、
最後はあいつの笑顔かわいいじゃんとか思うようになっていた。
まあ、以上の勤務場所はNTSロジ戸田だが、
無給でけっこうなので1日でもいいのであの人たちに再会したいという思いがある。
それは法律上まかりとおらないのだが、なぜ法律が「正しい」のかわたしはわからない。
明日、死んでもいいので恥ずかしいことを書いた。
いや、死ぬまで本当のことを書かないのがある種の人間である。
今日、板橋区の税務課に電話したら、結局昨年のトラブルが後を引いている。
実名で書いてもいいが、あのO工場長がわたしに「退職勧奨」したにもかかわらず、
失業保険が出ない自主都合退職に捻じ曲げた。
日蓮大聖人を尊敬する副工場長のKもOにしたがった。
なぜこれが「正しい」のかというと、わたしよりもOやKの社会的身分が高いからである。
勤務時においてはO工場長とわたしは上司と底辺アルバイトという関係であった。
K副工場長ともおなじ関係にあった。
いまはどうか? いまやわたしを「退職勧奨」に追い込み、
とっくに還暦を越えているのに
仕事にしがみついているOとわたしは法律的に人間として平等(笑)ではないか?
かつての職場は歩いて10分もかからない。
いま暇だからわたしを「退職勧奨」しながら自己都合退職と内部調整して、
いまもいまのわたしを住民税で苦しませているO工場長に
お礼を申し上げてもいいのではないか?
O工場長は一流企業の役員にまでなり、大富豪のとてもお幸せなおかたでいらっしゃる。
ここまで近所に住んでいる苦役者としては、
O工場長に昨年のお礼を申し上げに行ったほうが常識というものではないか。
社会人としてはご恩を受けたらお礼を返すのが礼儀である。
お役所関係からは、わたしのO工場長への常識的態度(敬意)をかなり責められた。
そんなふうにしなかったらもっと労働者の権利を主張できたのに(失業保険、税金ほか)。
うまいこと生きてきたんだなあ、練馬区在住のO工場長。
いつかお礼をしなくてはいけないと思う。というか、いつでも明日でも可能。
うまいメシをうまうまと食いながら最後までうまく死ねるのかしら。
お医者さんもナースさんも薬剤師さんも医療関係者は大好きだ。
というか、本当に感謝している。
なぜなら抜苦与楽(苦しみを抜いて、楽を与える)してくれるからだ。
医者の存在理由は、健康指導でも社会保障費節減でもなく、ただただ抜苦与楽。
わたしがお医者さんに求めているのも、健康指導や生活改善命令ではなく抜苦与楽。
いまもいまこの苦しみがあるから、それを抜いて少しでも楽にしてほしい。
これは当方だけだろうが根本治療も病名診断も必要とはしておらず、
求めているのはただただ抜苦与楽。苦しいのはいやだ。楽になりたい。
しかし、ドラッグストアで買う薬は高いし効用も非常に低い。
だから、時間を空けてお医者のところへ行き抜苦与楽の薬をいただく(買う)のだ。
ドラッグストアでは抜苦与楽できないから医者を頼るのだ、
これはわたしだけだろうが医者に自分の長命長寿は託していない。
抜苦与楽の結果、寿命が縮んだところで、
そのぶん苦しみが消えるのだから担当医には死後もあの世から感謝するだろう。
またそういう医師こそ福徳がついて患者治療率が上がるのではないかとも思う。
なかにはお迷いのお医者さんもいらっしゃるようだが、
「正しい」治療をしようと懸命になるよりも患者の抜苦与楽を目指したほうが
本人のためにも患者のためにもなるのではないか?
医者の存在理由は(患者の長寿長命ではなく)抜苦与楽――だとわたしは思います。
みなさんお気づきになっていないかたもおられるでしょうが、
世界はもうとっくに終焉を迎えているのでございますよ。終わっている。
少なくとも、わたくしのなかではもう世界は終焉しております。
いつワールドがクローズしたかと申しますと、
それはさかのぼること2013年の10月のことでございます。どどーん。
みなさまお忘れのふりをなさっているでしょうが、三鷹ストーカー事件。
あれがわたくしめの信じる末法世界でさえ滅亡させたのでございます。どどーん。
あんなにかわいいふつうの女子高生が、
あろうことかおまんこをクパァした写真を偉人愛棒(異人相棒)に何枚も何枚も、
ええもう、この話はなみだ抜きにはできませぬ。おお、おお、どどーん。
われらが男子の高校時代など狂女売女(ばいた)の宝唇でさえ秘せられておりました。
それがそれが、ああ、神よ、全能の神アマテラスよ、だれもお裁きたもうな。
ふつうのかわいい女子高生が笑顔でおまんこクパァしている画像が、
47都道府県どころか全米を突き抜けワールドワイドに未来永劫永久に、どどーん。
ふつうの女子高生のおまんこ――これは最後まで隠さねばならぬもの南無南無本宝。
世界終焉の日まで公開してはならなかった桃色秘仏が満天下にさらされてしまったいま、
生きていることになんの意味がございましょうか、ご聴衆のみなさまがた。どどーん。
もはや、見るべきほどのことは見つ。どどーん。
黒き深海のそのまた底、奥深いところまで堕ちていくしかもうございませぬ。
まったく聞くもなみだ、語るはさらに尋常あらざる滂沱(ぼうだ)のなみだ、
なみだなみだ南無阿弥陀仏の事件がかつてありましたのでございました。
南無妙法蓮華経、忘(わす)るなよ、忘るな忘るなフクスマ東北、三鷹女子高生。
な~む、な~む、どどーん、どーどん、あと聞こえてくるのは波の音ばかりでございまする。
おれだってさあ、コメント欄で読者さまと馴れあいたいのよ。
どっからどう見てもそれは正解で、孤独でさみしい中年男性なのだから。
むかし(10~7年まえ)はこのブログのファンです♪ ファンになりました♪
とかいうお友だち申請コメントめいたものがけっこう来ていたわけ。
いまはいったいどうなってしまったの?
来るコメントといえば、「膣屋ケンジ」とか、こちらを嘲弄愚弄するものばかり。
それもおかしな話で、おなじHNでもホストIPがみんな別々なのよ。
ここで精神医学を知らない人は、創価学会の陰謀か?
とか思ってしまうのだろうけれど、わたしは精神科医の春日武彦仕込みの
屈折人間だから(先生の本はほとんど読んでいる)大丈夫。
おかしいよ。なんでこんなにバカにしたコメントしかつかないの?
むかしはもっとみんなでわいわきゃっきゃやっていたではないか?
いまの殺伐としたコメント欄って一見(いちげん)さんが、
気軽に書き込める雰囲気ではないでしょう?
おれはね、かわいいOLさんと知り合って国立で飲んだりしたいの(実体験)。

そうそう、むかしのブログのコメント欄で「承認していない」みたいのがけっこうあるじゃん。
あれはFC2ブログのミスで、あるときなんでかそういうふうになっちゃったの。
あれらはぜんぶ本当は公開していたけれど、なにかシステム上のミスがあったのだろう。
しょせん無料で使わせてもらっているものだし、まあ、そんくらいは許そうかと。
あとそうだ、コメント欄にメールアドレスを記入してくる人がおられますよね。
メールがほしいのかなあ、と思う。
でも、ごめんなさい。うちのパソコン仕様であのコメント欄のメールアドレスは開けません。
可能ならば鍵コメントにしてメールアドレスを直(じか)に書いてください。
手っ取り早いのはそちらからメールを送ってくださいよ。
どうしてコメント欄のメアドが開けないのかというと、gooメール問題よ。
パスワード設定をgooメールにしていたから、gooメール閉鎖後は利用できない。
gooメールのときはっこうな頻度で読者メールが来ていたのよ。
いまのアドレスに変えてからはぜんぜん。
ホットメールにしてもいいのだが、
あれは派遣仕事関係でも使っているから
紐づけされそうで(実名ブログがなにを恐れるか!)。

読者さまとわきあいあいとむかしのようにやりたいのに、どうしてこうなってしまったのか。
コメント欄すごいでしょう? 似たような嘲弄愚弄コメントがえんえんと続くという。
おれ、言っとくけれど、むかしよりはるかにいわゆる「いい人」に
(ネットならぬ)リアルではなっているよ。
怒る回数なんて高く見積もっても1/10程度までに変化している。
理由は、なーんかさ、どうでもよくなっちゃったっていうか。
いまは騒音(ご専門は中島義道先生)も、受動喫煙(ご専門は小谷野敦先生)も、
イヌのノーリードも、美男美女の街中における仲睦まじさ(いちゃいちゃ)も
まったくと言っていいほど気にならない。
リアルでおかしいときはネットにファンがついて、
リアルで多少(!)まともになったら薄気味悪いコメントしかつかない。
どうなってんじゃ、こりゃあ。答えは、わからない。
なにがどうなっているのか世の中の裏側はだれにもわからない。
それを踊り念仏の一遍上人は南無阿弥陀仏と言いましたとさ。
早く死にたい。しかし、周囲に迷惑がかかるから自殺はしたくない。
去年くらいからずっと吐き気が続いていて、
胃もたれというか胸やけというか、とにかく体調が悪い。非常に疲れやすい。
わたしが「お酒をあまりおいしく感じない」なんてもう末期だろう。
なんのために生きりゃあ、いいんだよ。希望は末期ガン。
胃ガンでも肝臓ガンでも、末期で発見されて余命を告知されたい。
初期で見つかっちゃうと闘病とかめんどうくさいからその手の検査は絶対しない。
ガン保険にも入っていないし、そういう闘病みたいのがいやなのよ。
あっさりこの世からおさらばしたいというか。
病気だったらば、みんなもかわいそうだと同情してくれるでしょう?
これは実体験から強調したいが、自殺をされると周囲が大迷惑する。
救えたんじゃないかとか。
あとこれは確率的にはもっとレアになるが、うまく事故で死ねないか。
世の中にはかわいそうにも(?)確率統計的な問題で死んでしまう人がいるのよ。
そういう枠があるのなら、ぼくを入れてよ神さまみたいな思いがある。
でも、事故で死ぬと責任者を世間は欲したがるから、その人に迷惑をかける。
だから、自然災害で死ぬのがいちばんよろしいという結論になるのか?
落雷で死ぬ人なんて1年でひとりふたりらしいけれど、あの枠に入れないか。
生きている希望とかとんとない。夢は「自殺ではない早死に」。

わたしが創価学会へ入りたいのは、
お題目を唱えるときに仏壇に願いの紙を置くんでしょう?
そこに「痛くない早死に」と書いて1日数時間お題目をあげたらどうなるか確かめたいから。
踊り念仏の一遍の悪影響だと思うが、本当にこの世への執着がなくなってきた。
むかしは賞を取りたいとか、山田太一さんに認められたいとか、
そういった世俗的願望があったけれど、
41歳にもなると、結局は才能がなかったということか。
まあ現世は無理だろうが、来世でなら少なくとも現世でよりは出世できるかもしれない。
ならば現世を早くおさらばしたいと思ってしまう。
というか、生きているのがめんどうくさい。
踊り念仏の一遍は死ねば浄土へ往けると言っているのだから、
その言葉に賭けたくなる。
とにかくわからないのは、どうして長生きしたがる人がああまで多いのか。
50歳を過ぎたらあとは余生みたいなもんでいつ死んでもいいじゃないか。
41歳のわたしだって、明日死んだって「べつに~♪」と思っているのである。
死ぬかもしれない危ない裏の仕事とかないかな。
鉄砲玉みたいに人を殺すのはいやだけれど、
一遍の他力思想からしたらわたしから殺される人も過去世の宿縁なのだから、
そこはもう仏さまのおはからいと言うほかないな。

もうなんにもないんだよ。
親鸞はスケベだったようでおのれの愛欲の強さを自慢(卑下)していたが、
わたしだってだれかをストーカーするくらい(しないけれど)
好きになりたいのに(片思いなら自由)、どのアイドルを見てもこころときめかない。
むしろおれは親鸞が恥じている愛欲(執着)がほしいのだ。
なんでみんなそんなに長生きしたいんだ? 生きていてなにがおもしろいんだ?
わたしはせめて酒くらいしかないと思っていたが、このところ酒がまずい。
とすべてを絶望しきったら、いまウイスキーのロックがうまいのだけれど。
これは当方の場合だけかもしれないが、
絶望状態のときほどアルコール度の高いウイスキー(40度)をぐいぐいいける。
ううん? もしかしたらいまなら中国の白酒(52度)もいけるのか。
言っとくけれど、自殺はしたくない。自殺をするとしたら、それは宿命だろう。
自分で死んだわけではなく、自殺は他力によって自然に寿命として死んでいる。
ああ、そうだ。東大卒美女の高橋まつりの自殺問題だが、原因は電通ではない。
それが宿命だったんだよ。おふくろさんよあまり目立って騒ぐなよと本音を言いたい。
早く終わりが来ないかなあ。
おれ、逢いたい芸能人(タレント)とか作家はひとりもいない。
精神科医の春日武彦氏と診察室以外でふたりきりで雑談OKならば興味はあるが、
白衣を着ないと(肩書なしでは)あの人は他人とおしゃべりもできないだろう。
危ない裏仕事とかないかなあ。
毎朝、早起きして妻のそそう健康しじみ味噌汁をズルズルすいながら、
テレビニュースの音声はものともせず朝日新聞のような大新聞を読んでいるふりをし、
死にそうな満員電車をいつものメンバーと乗り切り出社したら、
毎日ほとんど変わらぬルーティンの仕事をさも有意義であるかのごとくにこなし、
休憩時間はタバコを1本も吸わず、昼食は300円以内で野菜多めが望ましく、
いつものように上司に叱られ昨日とおなじように部下を叱り、
なにかに洗脳されたかのごとく、
いまは仕事があるだけでありがたいと残業を無報酬でものともせずやり過ごし、、
またもやおなじ電車で帰宅して酒も飲まず妻の配置した冷凍食品をチンして食う。
いったいこれが人生かよ? 
なんていう時代は古く、これさえあこがれる若者がいる生活形態である。
これだけ奉仕しているのにお国は税金を払えと言ってくる。
どうしてみんなストライキをしないんだろう? 好きなことを1日だけでもしないのだろう?
公務員だってストライキしちゃえ。政治家も大臣も首相も天皇もストライキしろ。
いったいどうしてみんな、そんなにやりたくないことをしているんだ?
働けば働くほど税金は増え、ちょっとの節税も見逃してもらえないのに、いったいどうして?
やめちゃおう。みんなやめちゃおう。好き放題しよう。いきいきしよう。

なーんちゃって♪
いままで困っているごとに純子さんから助けられたという記憶がある。
あの純子さん、あの純子さん、そしてあの純子さん。
今日ひとりの純子さんとお別れしたが、あの女医さんは調べたら30歳くらいだったのか。
J大学の助手だから栄転なのかな。
医学社会もなにもかもぶっちゃけ、
日本のみならずどこも男社会だから純子先生にはがんばってほしい。
しかし、講師、准教授、教授と出世してそれがいったいなんだ?
純子先生は最初関西弁がきついと思ったが、あれは鹿児島弁だったのか。
じつに耳障りのいい新鮮なお医者さんの新しいお言葉であった。
こういうことを書くと精神病を疑われそうだが、
純子先生とはじめて逢ったのは別の恩人の純子先生と逢う約束をしている日だった。
なにこれ? と思ったものである。
わたしには純子先生と呼びたい人が3人いる。
こういう偶然ってなんだろう? いったいなんだろう? 
それを知るためにも生きていかなくちゃと思うけれど、
異常に疲れやすい吐き気がする現世に執着がない。
はたして4人目の純子さんは現われるのか。
本当にいままで純子さんにはお世話になりました。ありがとうございます。
生意気にも有料放送ジェイコムに加入してるので、
新日本プロレス大阪城ホール大会をライブ視聴する。
まさかふたたびプロレスに感激するとは思わなかった。今日のあれはやべえ、事件だ。
30年以上まえからプロレスは見ているので、わかるものはわかる。
まず本当に痛がっているのか、演戯で痛がっているのか。
本当にやばい事態になっているのか、それとも演出なのか。
レフリーやセコンド、カメラマンの表情を瞬間的に見逃さないのがポイントだ。

プロレスはスポーツではなく、ヤクザ的エンターテイメントだからおもしろい面もある。
プロレス技なんか敵味方ふたりで協力しないとかからないものが多いし(いまはとくに)、
かけたほうが痛い技なんかたくさんある(リング外に飛ぶやつ)。
リング内は先輩後輩の日本的濃ゆい人間関係の修羅場である。
鈴木みのるなんて見るからにヨボヨボで
若い衆が本気になったらひとたまりもないだろうが、
日本的権威(おれは業界の先輩!)が後輩レスラーを委縮させる。
だれかモヤシみのるを場外へ向けてポイっと投げてやればおもしろいのだが、
それは業界の暗黙のルールに反する。
いまはヨボヨボでシワシワの鈴木みのるもかつては若くて強い時期が(きっとたぶん)あり、
しかしそういうときに先輩の顔を立ててきたからいまだに業界で生き残っているのである。

30年以上も見てきて、プロレスに似た下のほうの実社会経験も経ると、
あのいんちき格闘技商売のおもしろさも怖さも、そこらの新参ファンよりはわかる。
いま新日本プロレスがブームといわれて久しいが、
いやいや見てきた(ジェイコムを見ないと損)感想はどこがおもしろいの?
優等生みたいなあんちゃんがポンポン飛び跳ねているだけじゃないか。
劣等生キャラも茶髪ロン毛イケメン風ばかりでだれがだれだか区別がつかない。
わたしは馬場猪木世代には乗り遅れ、天龍革命世代だから、闘魂三銃士以降の、
ヒョードル.をまえに亀になったキリストの永田さんやチショー疑惑のある中西選手でも、
(ファンとしては新人時代から見てきているので)どこか後輩のような気がしている。
みんなあの永田や中西、テンコジよりも個性が弱くなって、
ここまでプロレスも(演者の人間味のようなものが)
薄まったかという感慨のようなものがあった。

今日、新日本プロレスの大阪城ホール大会をライブ視聴して、
たしかに新日本ブームは起こるべくして起こっているような気がした。
考えを改めた。要するに、めちゃくちゃおもしろかったのだ。
KUSHIDAとかいうちっこい若いジュニアのあんちゃんがいるじゃないですか(34歳か)。
あの優等生キャラというか、模範社員キャラがいかにもいまふうで嫌いで仕方がなかった。
今日、KUSHIDAを見て、生きのいい若い衆がいるとたいへん好ましく思った。
ライブ視聴のまえに急いで録画していてまだ見ていない、
スーパージュニアの決勝戦を見たが、KUSHIDAにはなにかが降りていた。
ふつう相手レスラーのことを考えて、あまりきつい技はかけられないのだ。
自分がされたらいやなことは他人にできないだろう?
だが、試合終盤、KUSHIDAは相手外人レスラーの腕を変なかたちで決めていた。
相手がタップ(ギブアップ)しているのに、技をとかないのである。
海野レフリーもあわてていたのがおもしろかった。

こうやってプロレスラーは格の差を相手に身体で教えるんだ。
あと相手を威嚇する方法は(男くさい話だが)、
相手の危ない技をあえて逃げないで正面から受けること。
プロレスの技なんて格闘技ではないから逃げようと思ったらいくらでも逃げられる。
しかし、そこで男を魅(み)せてあえて相手の見せ場のために危ない技を受けてやる。
これは当事者間の一瞬の呼吸がうまくハーモニーしないと大事故になる。
相手と自分を信頼していたら、驚くような危ない技も観客に披露できる。
これが抜群にうまいのが、いまは引退した天龍源一郎というレスラーだった。
あの人は相撲あがりで身体が頑丈だから相手の危ない技を正面から受けることができた。
プロレスの技は逃げ腰ではなく、堂々と正面から受けるとかえって怪我をしないもの。
自分が相手の技を正面から受けてやれば信頼関係が生まれ、
相手にも自分の危ない技を受けてもらえ観客は盛り上がってくれる。

いまの若きKUSHIDAに話を戻そう。
今日、KUSHIDAは場外へのリング内からのパワーボムみたいな技を受けていた。
一度は受けるのを拒否したが、二度目ではきちんと自分から受けていた。
あんな危ない技は日本国憲法で禁止してもいいくらいなのだ。
しかもあれは自分から飛ばなければ成立しないボランティア技である。
こぶたグリーンの故・三沢さんが一発でも受けたら何回でも死んでいたという技。
そのうえKUSHIDAは4月におなじ技を受け、脳異常を起こしていたというではないか。
ああいう技を受けるまえにKUSHIDAは相手に腕ひしぎ逆十字を完全に決めている。
ありえない角度に相手の腕が曲がっていた。社会人ならやってはいけないことだ。
そういうことをあえてやり、しかも自分も場外パワーボムを受けてやる。
KUSHIDAは今後カリスマ化するような気がしてならない。
むろん足のひっぱりあいがあり、どこで失速するかわからないが。
プロレスラーはどこまで観客を熱くさせる試合をしても、
一試合いくらのファイトマネーの金額は変わらないのである。
にもかかわらず、お客さまのためにどこまでやるかだ。

天龍の引退試合の相手、オカダ・カズチカも今日給料以上の仕事をしていた。
調べてみたらオカダ・カズチカは29歳か。
いまだからあんな無謀をやれるのだろうが、
あんなにあたまを打っていると将来どんな後遺症が出るか恐ろしい。
相手外人レスラーも、あの試合に見合うだけのギャラはもらっていないだろう。
激しい試合をして評価されると、観客もレスラーもさらなる進化を求めてしまうのである。
同料金でもっと危険な試合をするようにという暗黙のプレッシャーがかかる。
何度もあたまを打つって怖いことだぜ。
なんでもオカダは4月、先輩レスラーの柴田を硬膜下血腫に追い込んでいるとのこと。
開頭手術をしたらしいが、柴田は40歳近いだろう。
怪我をして欠場して、どこまでギャラをもらえるものか。
控え室のオカダを見たら真っ当な社会人っぽかった。
そこまで客の期待にこたえなくていいんだぞ。
オカダ青年、死ぬなよ、殺すなよ、と思った。
しかし、見ているサイドとしてはより危険度の高い試合のほうがおもしろいという矛盾。

いまのプロレスは2、30年まえと比べて段違いに危険度が増している。
だから、おもしろいと今日思ったが、
むかしのプロレスはそれほど実質的危険度が高くなくても、
危ない空気はあったし、いまよりおもしろいレスラーが何人もいた。
在日とか貧困とか吃音とか、そういう負の部分がレスラーを輝かせているところがあった。
前田が長州の顔面を後ろから思いっきりチョン蹴り(朝鮮キック)とか
やばすぎる世界なわけで。
プロレスのおもしろさは、グーパンチとかヤクザキックという命名にあるのだろう。
ヤクザキックをする蝶野さんがじつはとてもいい人で奥さんにあたまが上がらないとか。
そういえば今日、蝶野さんは新幹線の終電に間に合わないとか、
そういうとびきりセコイ経済的理由で試合途中解説席から抜け出していた。
あれだけ熱い大会はつぎいつあるかわからないんだから、
早朝新幹線でも飛行機でも自腹を切れば男が上がったのに、
まったくヤクザキックの蝶野は……。
オカダ・カズチカもKUSHIDAもヤクザキックの蝶野を見習えよ。
死ぬな、殺すな。以上、古参プロレスファンからのアドバイスでありエールである。
いや、いや、違う。そうではない。そんなことはない、そんなことはない。
もっと、やれ。もっと危ないことを。もっと過激に、もっと自由に疾走そして飛翔せよ!