「河合隼雄 全対話5 人間、この不思議なるもの」(第三文明社)

→大学時代から河合隼雄は好きだったから、もう20年近くの関係になるのか。
河合隼雄はなにもしてくれない。
こっちが勝手に本を誤読して影響を受けるというイビツな関係。
どこを分け入っても河合隼雄に行き当たるので困ってしまう。
シェイクスピアを読み込んでいたときも、行き着いたのは河合隼雄。
日本古典文学を読んでいってもどうしてか河合隼雄が現われる。
仏教世界はかなり本気で分け入ったが、
河合隼雄がいちばんわかっているような気がしてならない。
精神ストリッパーの小谷野敦さんふくめ、
みんなが嫌いなノーベル賞寸前作家の村上春樹も河合隼雄とは手を組んでいるし。

河合隼雄の本職はカウンセラー。
きっといろんな成功者、有名人の秘密を聞いたのだろうな。
地元の名士みたいな開業医が、
くだらない中学生が悩むようなことを深刻に悩んでいたり。
父親にすすめられて歯科医になったけれど、自分は本当は
売れなくてもいいから好きな音楽を続けたかったとかさ(中坊っぽいっしょ?)。
地位や財産が人の満足に直接的に結びつかないことを、
カウンセラーほど聞かされる職業はないのかもしれない。
地位や財産よりももっとおもしろいものがある。それは自分という未知の世界だ。
なぜか運よく世界遺産は若いときにまわったほうだが、
どこに行ってもぶっちゃけ、ここだけの話をするとつまらないわけ。
ああ、ガイドブックとおなじだねっていつも思っていた。
おそらく世界を知るというのは名所旧跡をまわることではないのだろう。
世界を知りたかったら世界遺産よりもおのれの心に分け入れ。

「つまり、心とか世界とか分けてるということがそもそも近代的な分割法ですね。
ところが、究極の存在のほうへいきますと、心イコール世界とか、
そういうところへ近づいていくんじゃないでしょうか。
そうなってくると、心の中を探っているのか、世界を探っているのか、もう分からない。
その主客[主観/客観]の分離する以前のところですね。
それといろいろな言葉で言ってるのは、むしろ仏教でしょう、と私は思いますけれど」(P196)


地位や勲章、肩書、財産は客観的存在と言えよう。
貯金1億円は客観的存在でしょう。事故保険金100万円は客観的存在である。
和解金1千万は客観的な数字である。数字というのは客観的世界の象徴かもしれない。
札束のみならずコップひとつとっても客観存在ではあるけれども、
同時に(札束や勲章のみならず)コップもまた主観存在であると言うことができる。

「だから、そのコップの深いところまで見えたときに、それを物語る言葉を失って、
そして通常の言葉で言おうとしますね。
そうすると、私がどう言うかというと、「このコップは神さんです」とか、
あるいは「このコップは一億円で売れるんだ」とか、
そう言うよりしかたがないでしょう。そんな言い方をすると、
みんな「あいつは狂ってる」と、こういうふうになるわけです」(P196)


河合隼雄の言う「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
そこから見たらコップが神さんにも1億円の価値を持つとも言えるわけでしょう?
もしかしたら自宅の小さな庭が世界遺産以上に美しく見えるかもしれない。
仏教修行者がたまに到達できる「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
それは誕生以前の世界であり、死後の世界のこと、つまり「たましい」の世界である。
赤子は客観として誕生して、しだいに主観を持っていくでしょう?
ご老人は死が近づくにつれ、
しだいに主観を失い(意識もうろう)客観存在(死体)におなりになるわけでしょう?
死後の世界=誕生以前の世界=たましいの世界から見たら、
ひとつのコップを形容する言葉でさえ(具象する絵画でさえ)さまざまなものになる。
主客分離以前のたましいの世界から世間を見てみたらどうなるか?
計算できない、数字に表象できない、たましいの世界のことをときに考えたらどうだろう?
アハハ、なーんかうさんくさい宗教指導者みたいでしょう、おれおれ詐欺(笑)。
しかし、インテリのみならず、みんなたましいの眼を持っているような気がする。
まえの職場で最後までどうしてもダメだったパートのおばさんとかいたけれど、
そういう人にも旦那さんやお子さんがいらっしゃるわけでしょう?
たましいのことでも考えなければ、あのおばさんの夫や子どもは想像つかないもの(笑)。
ある程度みなさん、たましいの眼を持っているから、
そうそう美男美女ばかりでもないのにポンポン結婚する男女が現われるとも言えよう。
なんか、おれ、ひどいことを書いている気がする、やべっ。
インテリぶってまじめにユング心理学のなかでも難しいとされる元型の話をしよう。
元型(アーキタイプ)とは、物語の原初形とでも言ったらいいのか。
人間の心の内奥にひそんでいるとされる物語(ストーリー)の種類(タイプ)である。
パートの口うるさい無学なおばさんの心理的奥底にも、
難解なユングの言う元型が働いているのかもしれない。それはどういうことか?
日本ユング心理学のボスでありカウンセラーの親玉、
河合隼雄が難解な元型について遠藤周作相手にめずらしくわかりやすく語っている。

「ものすごく簡単な言い方をしますとね、
たとえば[カウンセラーの]私は、
人間としてのAさんならAさんという人に会ってますね。
ところが、Aさんの背後に、非常に単純な言い方をしますと、
女神とか神とかが立っているわけです。
それによってその人が動いているわけです。
それがユングに言わすと元型みたいなものでして。
だから、私がたとえばゼウス[ギリシアの神]ならゼウスというものに似通っておったら、
どうしてもいっちょう大きいことをやりたくなってくるし、
美しい女性がおったらふらふらと行きたくなるし、
そういうふうに動いているときに、その人だけじゃなくて、
その背後にいるものも込みで見ていこうと。
そして、その背後にいるものの働きというものがその人を癒すであろう。
私が癒すんじゃなくてね、というふうな考え方をしているわけです」(P168)


これでもわかりにくいっしょ? 間違っているかもしれないことを覚悟で、
わたしがリライトすることを許されるならば、
たとえば(いまはあるのか知らんが)ヤクザ映画。
ヤクザ映画が好きで何度も見ていると、
ついつい(実際のヤクザではなく)ヤクザ映画的な物語に飲み込まれちゃうよねってこと。
俳優の高倉健が好きだと、
ついつい(その実像ではなく)その役者ぶりを実人生で真似てしまうというか。
難解なユングの元型思想をここまで噛み砕いていいのかわからないけれど、
しかし、そんなことをできるのは学者でもなんでもない当方だけだろうから許して。
物語のパターンってあるじゃないですか? 
あれを念頭に置いていると、おもしろいってことだと思う。
カウンセラーは古今東西の物語のパターンをたくさん知っていなければならない。
なぜならクライエント(有料相談者)がどう動くか見立てのようなものがつくからである。
これは小説家が登場人物をどう動かそうかと考えるのとおなじの模様。
権威主義の西欧かぶれ作家の遠藤周作は言う。
(たとえば聖書のような)基本的物語(元型)から逃れることは容易ではない。

「だから、われわれ小説家の場合は、作中人物がひとりでに動き始めたら、
その小説が成功すると言われます。
こっちの操り人形で、右向け右って言って、作中人物が
ぼくの初めのプランどおりにいっちゃうと、これはもうだめになる。
だから、作者の意思に抗して向こうが自由に動き始めたら、
生きた人間になるとは言われますけどね」(P166)


年下の天才的世渡り上手、河合隼雄はこう返す。

「同じだと思いますね。ただそこで、
私の考え、私のアイデアというのはやっぱりあるわけですね。
だいたいこういくんじゃないかとか[元型!]、
この人はこういう解決法にいくんじゃないかと思ってるけど、
向こうの自由にしているわけでしょう。
そうすると、私の考えと向こうの流れとがぶつかるわけですね。
このぶつかりというのはものすごく大事だと思いますけど。
(遠藤「そう。そのとき、えも言われぬ快感があるでしょう。ぶつかったときに」)
そうそう。そして、ぼくの知恵を超えた答えを向こうが出すわけですから、
それはもう感動しますね。しかし、だいたいは相手の知恵のほうが深いです、
われわれよりは」(P167)


一部の人にしかわからないことを書くと、紫綬褒章作家で大勝利者の宮本輝。
宮本輝の若いころの小説は創価学会の物語(教学)に寄り添いながら、
登場人物が作者の筆に逆らっていきいきとしていた。
ところが、いまの氏の小説は「師弟不二」とか創価学会の物語をそのままなぞっている。
だから、つまらないという意見もあるだろうし、
老人富裕読者の大勝利意識を満足させる傑作になっているという見方もできなくはない。
物語というのは、偶然をどう解釈するかだと思う。
自他の人生を物語的に見ていると、小さな偶然に気づきやすくなる。
あなたやわたしがあなただけの物語(人生)をつくりたかったら、
あなたの周囲に起こっている偶然に目配りして即座に反応するしかない。
カウンセラーというのは、クライエントの物語を創作する助手のような仕事ではないか?
なんでもない事象(ささいな事件)を、
意味のある偶然と認識できる優秀な視力を持つカウンセラーが、
いわゆる河合隼雄的な心理療法をできるのだろう(それが効率的かはわからない)。
河合隼雄は自分の職業を「偶然屋さん」とべつの本で呼んでいる。
「偶然屋さん」いわく――。

「だいたい現実というものは、その人がそう思っているだけであって、
いろいろに見えるわけです。現実は偶然に満ちている。
たとえばぼくのところへ相談に来られた人の話をそのまま書いたら、
偶然だらけですよ。途方もない偶然でパーッとよくなったりするわけです。
ところが、ぼくのところへ来られた人のお話ですよということで書いたら、
みんなフーンと思うかもしらぬけれども、
それをぼくが小説にそのまま書いたら、こんな偶然はあるはずがないと言われる。
リアリズム自身ものすごく難しい問題ですね」(P146))


偶然を信じているというのは、自分は仏や神を信仰しているというのと同義だろう。
河合隼雄は元型(物語)の偶然をよく知っていたから、
元型的偶然のみならず元型ではない偶然をも直観することができた。
おそらく、氏のクライエントを癒したのは後者の偶然であっただろう。
偶然は主観的には強い意味があるけれど、客観的には確率的事象に過ぎぬ。
「主客の分離する以前のところ」=たましいの世界から偶然はやってくる。
わたしは河合隼雄にならって偶然に任せて生きていこうといまのところは思っている。
明日から5日間、近所で短期派遣バイトをさせていただくことがさっき決まった。
そこでいただくお金は4万円だが、あるいはたましいの領域では300万円かもしれない。
単純労働世界のようだが、あるいはそこで、
最前突発的におもむいた1週間の韓国旅行よりも
はるかにおもしろい経験ができるのかもしれない。
わたしは偶然を深く信じていた「偶然屋さん」の河合隼雄さんの本に、
いままでどれだけ助けられてきたことか。20年近く見守られてきたという錯覚がある。