「ナイフの行方」(山田太一/KADOKAWA)

→2014年の12月にNHKで放送されたのが山田太一ドラマ「ナイフの行方」。
そのシナリオ本をいまごろになって読む。
放送当時の感想としてかなり辛らつなことを書いたら、コメント欄に批判がいっぱい来た。
匿名さんにわたしは「万事が軽い」とか言われちゃったよ、トホホ。
いまシナリオとして読んでみると、現代の世相をうまく描いたドラマになっていると思う。
現代の「老人天国、若者地獄」の状況を巧みに描いていると言えなくもない。
彼女に振られて無職の中卒青年(今井翼)が、
秋葉原事件の加藤のようにナイフを振り回そうとしたら、
そこに金持で喧嘩が異常なほど強い老人(松本幸四郎)が現われ、
ナイフを取り上げ彼を警察から見つからないように自宅にかくまってやる。
わざと青年の足を骨折させて動けないようにさせ、
見ず知らずの青年を自宅で食わしてやる。
で、なーんかこの富裕老人は詳細こそわからないが、
むかし左翼の海外活動家だったらしく、
若者をどうにか救ってやりたいが自分に確信が持てずどうしたらいいかわからない。
いま富裕層は老人に集中していると聞くが、
これは老人の関心にどんぴしゃりだったのではないか?
松本幸四郎の演じる根本拓自は古い知り合いの堀田にもらす。

拓自「思わぬことで二十代の青年と知り合うことになった」
堀田「はい」
拓自「これが分らない」
堀田「何人もですか?」
拓自「ひとり」
堀田「訳あってすぐ縁を切るわけにはいかない」
堀田「はい」
拓自「絶望していたかと思うと、ケロリとしている」
堀田「躁鬱――ですか?」
拓自「躁鬱?」
堀田「はしゃいでいたかと思うと、ドッと落ち込んでしまう、躁鬱病――」
拓自「病気か?」
堀田「この節はそんなのも――」
拓自「病気じゃつまらんね」
堀田「つまりませんか」
拓自「薬をのめば治るんじゃつまらないだろう」
堀田「はい」
拓自「この世に絶望している青年を、老いた私が叱咤して希望を持たせようと
   接触したのに、薬をのめば治るのなら世話はない」
堀田「その青年が病気かどうかは分りません」
拓自「そうだ。分らない」
堀田「はい」
拓自「いや、分らないのは私だ」
拓自「私如きが、どうやって青年を叱りつけて、この世はすばらしい、
   生きるに値いすると励ませるんだ」(P72)


この節は躁鬱病が増えているわけではなく、いつの時代も罹患率はほぼ一定で、
そのうえ躁鬱病は薬で抑えられるだけで治ることはないのだが、
老人ふたりの精神病への無知は、まあ、こんなものだろうというリアルがある。
たぶんナイフを振り回した青年を精神科に連れて行けば、
ボーダー(ライン人格障害)あたりの病名がつくような気がするけれど、
むろんのことそんなことはドラマに関係ない。
わたしが山田太一のよさだと思うのは「分らない」ことを理解しているところだ。
これがたとえば宮本輝の小説世界だったら、
えんえんと老人は若者に説教して、おまえは努力が足らない。
中卒だって365日休まず限界まで働けば絶対に道は拓けると、
喧嘩の強い老人が若者を鉄拳制裁しつづけることだろう。
努力すればなんでもできる。要はやる気の問題。
なぜなら無宗教の山田太一とは異なり、
宮本輝には絶対正義を標榜する創価学会への信心があるからである。
(まさにそのワールドを描いたのは宮本輝「三十光年の星たち」)。

無宗教の山田太一ワールドの老人は、絶望した若者をどうしたらいいのか「分らない」。
とりあえず寝場所と食料を提供したうえで、なにもしないで待っている。
するとそこに30年ぶりというむかしの活動家の同志(津川雅彦)がやってくる。
おそらく、人生はそういうふうに自然に事が運ぶことを山田太一はよく知っている。
松本幸四郎は人生に絶望した青年である今井翼に努力も信心も説かない。
では、なにをするか。
自分がむかし正義感に燃えてやったあげく(海外の独裁政権打破!)、
結果としては大勢の現地人を死なせてしまった体験を懺悔(ざんげ)する。
正義がなにかわからない。努力が本当に正義かはわからない。
自分は正義のために多くの人を殺したようなもんだ。
正義っていったいなんだ? なにが正義だ?
おそらくだから、松本幸四郎は、
いわゆる正義に反して殺人未遂犯の今井翼を警察(国家権力)から守ったのだろう。

老人が人生に絶望した青年になにをしてやるか。
まず相談できる人(津川雅彦夫婦)をつくってやる。
それから一時しのぎの仕事の紹介もする(津川夫婦のスナック店)。
そして、これが「ナイフの行方」のいちばんのおもしろさだと思うが、
松本幸四郎は今井翼に女をあてがうというか仲介しようとするのである。
相手の女性は老人の家に来ていたバツイチ子持ちの家事ヘルパー(相武紗季)。
シナリオの設定では青年は26歳で、バツイチ女性のほうは30歳になっている。
山田太一さんはよくわかっているなあ、と思う。
孤独な男なんか生活のリアリティがないから、
そこに子持ちの姉さん女房をくっつけたらうまくいきそうだというのは、
この人はどれだけ生活者のリアルに詳しいのかと笑ってしまう。
秋葉原の加藤になりそこねた青年は次男という。家事ヘルパーは香。
ドラマがひと段落ついたあと香(相武紗季)と拓自(松本幸四郎)が話している。

香「その次男くんをスナックのお二人に押しつけていいんですか」
拓自「知り合いができればいいんだ。すぐあいつは帰って来る」
香「帰って来るんですか」
拓自「あなたと緑ちゃん[香の4歳の娘]が会いたがっているといえばやって来るさ」
香「会わせたくないんじゃないんですか」
拓自「会わせたいさ。だから、会うなといった。そういえば燃えるだろう。
香「呆れた。それも計算のうちですか?」
拓自「仲人はそういうもんだ」
香「仲人ってなんですか?」
拓自「次男と似合いじゃないか」
香「なんてこというんですか」(P164)


山田太一の絶妙な生活者感覚からしたら中卒無職26歳(ただしイケメン)と、
30歳子持ち家事ヘルパーは釣り合いが取れるということなのだろう。
ドラマにはいろいろな解釈があってよいので書くが、
このドラマが老人視聴者へ向けたメッセージは、
老人は若者にありきたりな説教(死ぬ気で努力しろ! 努力はかならず報われる!)
をしないで男女の仲を取り持ってやれ。
老人のやるべきことはアンチエイジング(若者ぶること)ではなく、
若い男女の世話を焼くことだ。
若い孤独な青年の薄っぺらい絶望感など、
女性のリアリティとぶつかったらひとたまりもないぞ。
中卒の貧困青年はお金持のお嬢さまと経歴をいつわって交際していた。
なんでも自分は慶應の経済の大学院にいる御曹司なのだとか。
その嘘がばれて女から殴られたのが直接のナイフ事件の動機らしいが、
おい、若者も若者で身の程を知れよ。
26歳中卒無職は、4歳上の子持ちバツイチくらいで手を打て。
山田太一ドラマのリアリティはおもしろすぎるぜ。
もうすぐ40歳無職になる当方には、どのくらいの相手が釣り合うのだろうか?
45歳の子持ちふたりバツニあたりだろうか?
なんかその娘さんに惚れちゃいそうなわたしだが、それはなんかやばくはないか?
むかしからある結婚という制度は、たしかに自由を束縛するものだが、
伝統には伝統になるだけの意義のようなものがあるのだろう。

人を救うものは正義ではなく男女交際ではないか?

いったい本当と嘘ってなんだろう?
青年だって慶應経済大学院御曹司というのが本当だったら、
そのまま美人お嬢さまとの交際を続けられたわけでしょう?
嘘がばれないうちは本当は本当である。
わたしだってもしかしたらブログに書いているわたしと違うかもしれないわけでしょう?
過去の不幸自慢をする次男に拓自は言う。

「しゃべりすぎるな。別のしゃべり方があるかもしれないだろ」(P89)

また別の老人に不幸自慢をしそうになった次男は思いとどまる。
なぜかというと拓自からとめられたからだという。
なぜ拓自は次男にしゃべるなと言ったか。

「しゃべるとそれが本当になるからって」(P125)

本当にあったことなどしゃべり方しだいでいくらでも変わるのかもしれない。
もしかしたら本当のことなど存在せず、
さまざまなしゃべり方(解釈)があるだけなのかもしれない。
しかし、しゃべるというのは言語化するという意味で、とてもたいせつなこと。
しかし、安易に言語化することで失われるものもあるのではないか。
職業革命家だった老人の拓自は、人生に絶望した中卒の次男に言う。

「いくらしゃべっても、誰彼かまわず刺そうとした気持なんか私には届かない。
(……) ただ、あの時のあんたの目に、しゃべったって人には通じない、
わめいたって人には分らない、
そういう気持がふくらんで切れそうになっているのを感じたんだ。(……)
それは私の、まったくちがう事情だが、
かつての――いや、今でもいくらか、私の気持だった。(……)
(そんな気持は)勝手だね」(P90)


言葉にならない思いというものがあるのだろう。
このため、人によっては絵画や音楽、純粋映像表現に救われたと思うことがある。
わたしの場合は徹底的に「言葉、言葉、言葉」(ハムレット)に向き合った。
NHKさまの放送映像から「ナイフの行方」を見ると、え? そりゃないよと思った。
しかし、言葉しかないシナリオから同作品を見たら、また意見が変わる。
本書の巻末に山田太一ロングインタビュー
「正義がどこにあるのか、分からない時代に」がおまけのようなものとしてついている。
朝日賞作家の山田太一さんは、
デモに行かないなんて信じられないというマルキシズム全盛の時代に、
左翼活動のことを「アホみたいだし、胡散臭いし、ダサい」と思っていたらしい。
しかし、正義の時代にはロマンというよさがあったことも的確に指摘している。
たとえインチキでも正義のようなものがあれば、ロマンチックな恋愛ができる。
いまはマルキシズムも廃(すた)れ、資本主義の限界も見えている。
正義はもしかしたらどこにもないという状況のなかで、なにを信じたらいいのか。
山田太一は毎回、終わりを決めないでドラマを書いている。
作者は書きながらどのような結論にいたったのか。

「根本[松本幸四郎]のやり方は非常に姑息でずるいけれど、
ひとりで解決するよりはいいと思った。
自分のところにも帰ってきてほしいから、家政婦さんと子どもで釣っている。
この次男のラストは最初から決まっていたわけではなくて、
どうしたらいいんだろうと迷いながら、これしかないと思えてきたのでした。
すっきり気持ちのいい終わり方にはなりませんでした。
具体的な解決策ではあるけれども、人々を感心させるほどのものではない。
ただ、やっぱり頼れるのは「人情」と思いました。
認知症の人に最後まで通じるのは言葉ではなくて「笑顔」だと聞きます。
誰が誰だか見分けがつかなくなっている人に対して、
的確にケアするよりも、情で笑顔を向けたほうがホッとすると。
そういう、「情で救われる」ということを、
もう少し積極的に考えてもいいんじゃないかと思う。
いや情なんかあてにできない。
施設やシステムがきちんと整うことが大事とも聞きますし、システムはその通りですが、
僕は最終的には「情」が人間の心の芯に残ると思う」(P183)


山田太一は最後の最後まで人情を描いているのである。
いくら運よくだれをも傷つけなかったとはいえナイフを振り回したら殺人未遂だ。
松本幸四郎にははっきりとナイフを突き出しているのだから、
あれは法律的に考えたら刑法に問われ罰せられなければならない。
実際、110番されパトカーも出動しているではないか。
しかし、孤独な青年の犯罪行為は人情によってもみ消されている。
人を刺そうとなどからきし思っていなくて、
だが相手の持っていたナイフでいわば正当防衛のようなかたちで相手を刺しても、
国家はそれを犯罪としてみなし当事者を刑務所に入れてしまう。
それが正義かよ、と思う。本当に法律やコンプライアンスは正義だろうか。
そして、果たして本当に正義なんていうものが人を救うことはあるのか。
山田太一が孤独な中卒青年を、
たとえフィクションのうえでもどう救われるかを考え尽くしていたった結論は――。

人を救うものは正義ではなく人情ではないか?

(関連記事)
放送時の感想↓
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