昨日でお菓子関連の派遣仕事はひと区切り。
事務所の方に来週の水、木も入りたければ、というありがたいお言葉をかけていただく。
「使える/使えない」レベルの話をすれば、まったく使えないにもかかわらず。
本当に事務所のYさんにもTさんにもお世話になったと思う。
一度辞めたいと言ったときにYさんとお話する機会があった。
この年齢の女性はこのような考え方で仕事をなさっているのかと勉強になった。
だからといって、いきなり職場放棄をしていい言い訳にはならないけれど。
最終日の帰りはいつものようにEさん(65歳)、Aさん(57歳)といっしょ。
なんでもEさんが来週も5日入れるようになったらしい。
Eさんはわたしが枠を放棄したせいだと言っていて、本当はどうかわからないが、
もしそうだとしたらわたしが辞めることで、
結果的にお世話になったEさんのお役に立てたことが嬉しい。
別れ際、Eさんからは「すぐ働いたほうがいいよ」と含み笑いをしながら言われた。
Aさんからは「しばらくぼんやりしていればいいんじゃないの。
ツッチーはツッチーでいいんだから。ツッチーがいなくなるとさみしいなあ」――。
そんなお言葉をかけていただく。
Aさんとは今月30日に再会して酒をのむ約束を交わしている。

最後までわからなかったのは、職場の人のどこまでブログがばれていたのか?
別のラインで大声でわたしのブログの話をしている声が聞こえてきたことがあるから、
だれも読んでいなかったということはありえないと思う。
しかし、文章を読むのが嫌いな人は多い。
読んでいる人はいるが当人がどのようにだれに口伝えしているかまではわからない。
そのうえ文章というものは読む人によって解釈がかなり異なるところがある。
話し言葉も書き言葉もほぼ正確には伝わらないと思っていたほうがいい。
わたしのブログを読んでいる人がいることは嬉しかった。
そりゃあ、自分たちの職場のことを書かれたら読まざるをえないのだが。
しかし、文学。たとえば、純文学。
かりにわたしが純文学作品を書いて万が一にも新人賞を取ったとしても、
あの職場にいるような人たちは読んでくれないでしょう?
そもそも新人賞作品なんて出版されなくてもおかしくないし、
たとえ書店に並んでも売れるのは2、3千部と聞く。
ブログだったら無料だからだれにも手軽に読んでいただける。
9割以上の日本人は本を読む習慣がないのだと思う。
しかし、無料のインターネットだったら、
という希望のようなものが活字世界にもあるのではないか。

かなりお若いNさんという、とても親切にしていただいた若者がいる。
「おれなんかヤンキーのようなもんだから」と別ラインから声が聞こえてきた。
そのNさんがわざわざわたしに近づいて声をかけてくれたのである。
もう仕事を辞める直前である。
そのとき当方はチョー楽勝な箱作りをけっこういいかげんにしていた。
「土屋さんはいまなにを考えているんですか?」
「いやあ、働く意味ってなんなのかなあって」
Nさんは大笑いして去っていった。わたしも笑った。
元ヤンキーだろうがなんだろうが、いましっかり働いているのなら立派だよ。
新米おじさん相手に威張ったりもしないところはとても心根がいい。
これはほかの同僚にも言えることだけれど、
私服を着ている通勤時に逢うとみんなどこか心細そうなのね(Aさん、Eさん以外は)。
しかし、いざあの変な白衣を着るとみんな別人のような凛々(りり)しい職業人の顔になる。
いちばんそれが激しかったのは、わたしと遺恨があったとされるSさんかしら。
通勤時のSさんはこう言ったら失礼だけれど、さえないおじさんといった感がある。
だが、ひとたび職場に入ったら本当に生き生きした男のなかの男という顔になる。
仕事をしているときだけ生き生きするという人がいるのだろう。
あっちゃんも食堂で顔の白衣を脱いでいるときはすごいかわいいけれど、
通勤時にすれ違ったときはどこにでもいる子という気がした。
ミッキーもとくにそういうところがあった。
職場ではとても頼りになるおねえさんだけれど、
通勤時にあいさつをするとふつうの女の子だなあっていう。
おそらくわたしは正反対だったと思う。
職場では自信がないし、どこか腰が引けた、やる気のない顔になってしまう。
一歩職場から出ると、素の自分に戻り、好き放題を言うようになる。
とくにセブンイレブンで第三のビールを買ってからは、生き生きとした本音の連発。
おとといだったか、「ツッチーはビールをのむと別の顔になるねえ」と言われた。
職場から出た瞬間に顔つきが変わるとも。Aさんからだったか、Eさんからだったか。

このあたりに「働く意味」のようなものがあるのではないか?
たとえ職場以外では、どこにでもいるような人間が、いざ働くと固有の顔を持てる。
プライベートの時間よりも、働いているほうが生き生きできる。
仕事をすると「役に立つ」というのは、むろん人の「役に立つ」こともそうだが、
自分という「役に立つ」ことができるのも「働く意味」のひとつではないか?
自分という役を職場で演じることで生き生きできる人がかなりの割合で存在する。
プライベートでは女性とろくろく会話を交わせないような男性も、
職場においてはやたら饒舌にペラペラとおしゃべりすることができる。
なぜなら、職場では役割がかなりのところまで固定しているからである。
役割においてコミュニケーションができるのだ。

調べてみたら去年の12/14から今年の4/14まで、
とあるお菓子会社で派遣として働いたことになる。
お給料はいくらもらったのか知らない(通帳を見ればわかるのだが)。
おとといだったか、
Eさんに聞いたら給与明細はネットで見(ら)れるようになっているとのこと。
わたしがいまの派遣会社に登録したのはずいぶんむかしだから、
そういうことは知らなかったし、給与明細とかどうでもいい。
基本的にそういうところでは人や会社を信じているところがある。
ちょうど4ヶ月働いたのかあ。
そのあいだにクリスマスがあり、お正月があり、バレンタイン、ホワイトデー、ひな祭り、
それからお菓子会社はそういうものらしく(事前に商品を準備する)、
一足お先に子どもの日や母の日まで経験させていただいた。
まえに何度も書いたが、この4ヶ月をひと言で要約すれば、とにかくおもしろかった――。
いやなことがなかったといえば嘘になるし、
むしろわたしのほうが周囲に迷惑をかけたケースが多いのだろうが、
そういうマイナス面がいまとなるとじつにいい想い出になっているのである。
そつなく仕事をこなしてみんなともうまくやって辞めた――だったら、
こうまでいい想い出にはなっていない気がする。

北戸田最終日の想い出。この日は朝からしんどかった。
前日にブログを大量更新して夜更かししたため。
最終日はいちばん楽な箱だし。
つぎの仕掛け品はいまだ苦手な(お菓子の袋)詰めかなと思っていたら、
それまで供給をしていたAさんがやってくれるとのことで、
またまたいちばん楽な段ボールをさせていただいた。
昼休みの話。Aさんにくっついて喫煙コーナーに行く。
天気は晴れでポッカポカ。春爛漫。
そこにいたのはHグループ長、因縁のあるSさん、Aさん、わたし、
それからむかし案内嬢で高給を取っていたという女性。
わたしはSさんとのことでHグループ長にご迷惑をおかけしたことがある。
HさんともSさんとも、ろくに話をできなかった。
わたしはHさんはむろんのこと、Sさんも独特のその味わいが好きなのである。
Hさんも、Sさんとわたしが同席していることから関係改善を見て取ったことだろう。
だれもなにもしゃべらなかった。春の日差しは暖かかった。
しかし、これはこちらの勝手な感傷だろうが春が来たという平和な幸福感に満ちていた。
わたしの勤務最終日はそういう日でありました。

この日は17:30勤務終了だったのだが終わり5分まえごろ、
おなじ派遣会社の顔なじみの女性から「お疲れさまでした」とお声をかけていただく。
まるで今日が最後だと知っているかのような口ぶりだったが、
深い意味はないのかもしれない。
きれいなお別れをできたのではないかと思う。
わたしは派遣先のお菓子会社にも同僚にも、
紹介してくださった派遣会社にも感謝している。
3回行かされた川口工場のほうではいろいろ知ってしまった面もあるが、
お世話になった以上、相手の不利益になることは書かない。
北戸田に入ったとき思ったのは、ここで自分は大量にお菓子を破損させるのではないか?
しかし、運よく最後までそういう大惨事は引き起こさなかった。
別れのどこがいかといったら再会があるからである。
いつかもう一度、北戸田のみなさまと再会したい。
たとえば今年のクリスマス付近の繁忙期(あるいは人がいない年末年始)に、
どの1日でも構いませんからスポットで入れてくださいと、
派遣会社のSさんに電話してお願いしたら、入れてくれないこともないと思う。
そのまえにどうしても人が足りない日が来ちゃうかもしれませんけれど。
ご存じでしょうが、中国語の「さようなら」は「再見」である。再び見(まみ)えよう。
北戸田よ、さようなら! ありがとう! 
「退職勧奨」されたのに失業保険をもらえないという憤懣を北戸田は消してくれた。
北戸田に救われたという面もなくはない。あばよ北戸田! 再見!

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秩序や決まり事というのはたいせつなんだなあ。
今日、職場に本社のお偉方が集まって説明会のようなものが開かれた。
これを経験するのは2回目。
スーツ姿のお偉方がわれわれ作業員と一堂に会する。いい職場ではありませんか。
ショックだったのは、作業員の同僚。
けっこう嬉しそうな顔をしていた人が多かったのである。
やっぱり全体の目標を達成するとか、
人の役に立っているという幻想みたいなものは人の生きがいなんだなあ。
というか、おれはもうダメダメ。ライン最後のGS25。これは想い出深い。
そういえばむかしこれをやったなあ。そのときの担当もお若いイケメンTさんだった。
わたし、この人のこと好きなんだけどね。
むかしもたしかGS25のあそこをやれなくてTさんに助けられたなあ。
「落ち着いて、あせらず」と言われたのをいまでもよく覚えている。
結局、成長していないのね。努力が足りないのかなあ。やる気がないのかなあ。
クッキー3枚×2とフィナンシェ2くらい入れられないダメなおれ。
いくらやっても成長しないおれおれ? おれおれ詐欺?
おれ、最後まで使えなかったな、というおのれの役立たずぶりが身に染みた。

もうラインをとめないためにメチャクチャでもとりあえず入れたから、
検品さんとあわせる顔がなかった。
できないことってあるんだなあ。努力が足らないんだろうなあ。
そこに救世主、あらわる。あせって横を見る余裕もなかったが、ちらっと見るとミッキー。
あれ? 今日はCラインの段取りではないのでは?
ああ、助けられたと思いましたですね。
むかしは困った女の子を男が助けるのが定番パターン(物語)だったけれど、
いまはいまは……。おれ、今日もまたミッキーに助けられちゃったよ。
記憶をさかのぼるといまの職場でいちばんお世話になったのはミッキー?

結局、ダメなままで終わったなあ。
でも、当日欠勤は一度もしなかったから、それでお許しください。
遅刻は1分一度して、事務所の方がお見逃しくださった。
なんかみんな偉いし、ありがとうっていうインチキくさい謙虚な気分。
一度も長時間ストップしなかった埼京線ありがとう。
北戸田の女子高生さまたち、ありがとうございます。少しだけ、やる気、出た。
みんな毎朝通学して、やりたくもないしやっても意味がない勉強をしているんだろうなあ。
きっと生きるってそういうことなんだろうなあ。
「今日からシナリオを書くという生き方」(小林幸恵/彩流社)

→わたしの本当の師匠はシナリオ・センター社長の小林幸恵先生かもしれないなあ。
この人には対面でも怒鳴られ、電話でも怒鳴られ、偉い人というものを知った。
世間というものを教えてくれたのがシナリオ・センター社長の小林幸恵先生とも言える。
この人、わたしにはものすごく偉そうなんだけれど、
肩書が上の人や社会上位者にはやたら愛想がいいんだ。
やたら人にシナリオを書け書けと言っているけれど、自分は書かない。
それを指摘したら大声で怒鳴る。あたしをなめるなよ、みたいなことを言う。
小林社長は営業経験もないのに、
営業マンに営業の仕方を教えていると本書で自慢している。
小林幸恵さんってどうしてこんなに偉いんだろう。
答えは、シナリオ・センター創設者の新井一の娘だから。
どうやら新井一とやらは三流商売脚本家でむかし売れっ子だったらしい。
で、シナリオ学校をつくった。新井一の娘は小林幸恵。
父親が死んだあと小林幸恵はシナリオ・センターの社長になる。
社長だから小林幸恵は偉い。人に説教できる。
最近、小林幸恵の息子の新井一樹が副社長になったらしい。
新井一樹もまたシナリオを書いたこともないのにシナリオを教えている。
ろくな社会人経験もないのに、ビジネスリーダーを気取って講師をしているとのこと。
わたしが小林幸恵社長を師匠ではないかと思うのは、そういう世間を教えてくれたから。
世の中、結局そういうもんじゃないですか。
天皇陛下のお子さまは天皇陛下におなりになるでしょう?
成功者のお子さまはかならずといっていいほど大企業に入社する。
小林幸恵先生の偉さがわかるのが、世間を知るってことなんだろうなあ。
いまのわたしは小林幸恵さんを人生の師匠のひとりだと思っている。
なぜなら成功者のお嬢さんで富裕層だから。
なぜなら既得権益を持つシナリオ・センターの社長さんだから。
なぜなら、なにより偉そうで、目下のものと判断すれば大声で怒鳴ってくるから。

師匠の名言をありがたく拝聴したい。

「相手の意見とか気持ちとかをきちんと聞く耳を持っている人は本当に少ないものです。
でも、これではいけないのです。
人間である限り、コミュニケーションをとる手段を持っているのですから、
それを生かさなければ、人間としての意味はないのでしょうか」(P49)


よく言うよ。あなた、わたしの声をいっさい聞かなかったでしょう?
電話しても怒鳴るばかり。
おたくの受講生がわたしの悪口を2ちゃんねるに匿名で書いているのですが、
責任者としてどうにかしてもらえませんか?
こう電話で聞いたときも無視されたなあ。
先日調べてみたら、いまも2ちゃんねるにおたくの生徒がわたしの悪口を書いている。
明日でもシナリオ・センターに電話したら社長は聞く耳を持っているの?
しかし、世の中とはそういうものなのである。
偉い人は偉い。偉い人のお子さんやお孫さんはお偉い。逆らっちゃいけない。
そういうことを師匠は教えてくれたんだなあ。

「人にはさまざまな意見や考え方、見方、感情があって、
また育ち方や環境によっても違ってきます。
そんな当たり前のことが、普段は気がつきにくいのですが、シナリオを書くことによって、
しっかり見えるようになるのです」(P82)


じゃあ、自分が書けばいいじゃん?
そんなことを言えるのはむかしのわたしくらいだが、言ったら怒鳴られる。
世の中は、本音と建前で成り立っているのである。
小林師匠からは、自分はすごいブログを毎日更新しているから読めと言われたなあ。
で、8年まえくらいに読んでみたら、すげえ金持なんだ。
食っているものが高級レストランで、桁がぜんぜん違う。
ふふふ、世の中ってさ、人間ってさ、そういうものなんだなあ。
いまのわたしは師匠の教えがよくわかる。あの人の偉さもよくわかる。
だって、地位も肩書もお金もコネもぜんぶあるんだから、そりゃあ偉いわなあ。
世の中ってそんなもんだぜ。あの人は世間をよく知っていたなあ。
師匠いわく、本音と建前をうまく使え。

「……ちょっと見方が違った人がいても。決して拒否はしない。
そういう見方もあるのねと、まず受け入れることです」(P94)


表ではきれいごとを言って、密室の裏では態度がぜんぜん異なる。
人間ってそんなものだし、そんなことも知らなかったむかしのわたしが恥ずかしい。
「あんた辞めなさい」とか社長先生から言われたもんなあ。
しかし、それが正しく、人間というにはそういうものである。裏表があるものである。
いまは小林幸恵社長を師と仰いでいるから、先生のまえで土下座もできる。
先生のほうが正しかったといまは認められる。過去を反省している。
小林幸恵先生のおっしゃることはなにもかも正しい。

「所詮、この世は男社会。
戦いの中に生きてきた男たちは、相変わらず肩書社会に生きています。(……)
女同士は井戸端会議と称しては、亭主のグチから人の噂話を、
生活の中でうまく取り入れて人間関係を築いていっています。
肩書きも何もかも取っ払い、その人自身で人の前に立つことができない男たち。
男性はきっと女が考える以上に不器用なのでしょう。
組織の中で弱みを出せず、グチもはけず、
ただ溜め込んで今に至るため、
いまだ自分を解放する方法を知らないまま来ているのです。
ですから、友達もできない」(P186)


言うことはいちいちごもっともだが、
小林さんは「新井一の娘」「社長」という肩書を取っ払ったらなにがあるの?
シナリオを書けないのに、シナリオを教えている変な人でしょう?
しかし、こういう方こそが本当の成功者で勝ち組で尊敬すべき偉人なのである。
いまのわたしはようやくそういう世間の事情に気がついた。
もしかしたらちかぢかシナリオ・センターに電話して、
尊敬している師匠先生に過去のお詫びをするかもしれない。
事務所のやつらはちゃんと取り次げよ。電話ガチャ切りはやめろ。
折り返し電話をするのが社会のルールだからな。
持つべきものは師匠である。
わたしの師匠のひとりは新井一のお嬢さんで社長の小林幸恵先生だ。
いまなら師匠の偉さがわかる。ありがとうございました。

「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社) *再読

→わたしの師匠といえば、
いやがおうにもドキュメンタリー映画監督の原一男先生しかいない。
師匠だなんていまは思いたくはないけれど、影響を受けすぎているのだから仕方がない。
なぜならいまわたしがこのブログでやっていることは、まるで師匠とおなじだもの。
違うものは持つもので、キャメラを持つか、ペンを持つか(キーボードを押すか)。
わたしの現実を書いていく。なぜなら、つまらないからである。
おもしろいことが起きないかなあ、
と思いながらふつうなら実名では書いてはいけないことを書く。
そうすると現実のほうから反応が返ってくる。
それがおもしろいからそのなかから書ける範囲ぎりぎりで書きたいものを書く。
そうするともっと世界もおもしろくなるというか、少なくとも退屈ではなくなる。
人の隠されたいろいろな面が見えてきて、まあ、おもしろいわけだ。
どうやら原一男先生もむかしは葛藤オタクだったようだ。
シナリオ・センターのアルバイト講師たちのようにドラマは葛藤だと思っていた。
むろん、ドラマは葛藤というのは正しい。
なんにもないよりはせめて葛藤(喧嘩)があったほうが非日常性を楽しめる。
どうしようもなくわたしは原一男の弟子なのだろう。

「アクションしていくなかで、そこで相手といろいろ葛藤が起きる。
その葛藤こそがまさに生きていく人生のドラマにほかならないだろうと。
僕らの映画はそのドラマを描きたい。
つまり、何々問題を描きたいということよりも、かかわっていくとき生じる劇的なもの、
ドラマにほかならないもの、そういうものこそ僕の求めているものなんです。
ある出会いがあって、相手に惚れて、キャメラを回したくなる。
だけど、キャメラを回す以前に、どうでもいい問題は全部処理しちゃいたい。
ここから先がおれたちわからないから、だから知りたいんだよ、
というところでキャメラを回す」(P122)


キャメラのみならず言葉で人をアジテート(刺激)することもできる。
むしろ、キャメラなんかよりも言葉のほうが人間の深層に突き刺さるであろう。
言葉の羅列――つまり文脈(=世界の見方)というのは、人から習うしかないのである。
それぞれの持ち分にしたがいそこそこうまく回転していた初期経済世界を、
労働者と資本家の対立(葛藤)と文脈づけたのはマルクスだ。
そういう文脈をおぼえると、それが影響力があればあるほど、世界が変わる。
みんなおなじような文脈で話すようになる。
だから、キャメラを回すのもいいが、
言葉をブログに公開するのも大げさなことを言えば世界革命につながっている。
オーバー過ぎてお笑いになる方が大勢いらっしゃると思いますけれど。
ネットは危ない。映画も出版も発声から公開まで時間がかかるが、
ツイッターやブログ等のSNSは現在進行形に影響を与える。

「キャメラ[言葉]を、過去がどうでしたかということじゃなくて、
現在進行形の中に過去の問題も全部ほうり込む。
現在進行形で起きるその中で何を見ていくかということでやろう、って意識。
そうすると何が起きるかわからない」(P123)


だから、おもしろい、本当におもしろい。
なにが起きるかわからないという状況は非常にとってもおもしろい。
おもしろいことはいいよなあ。
とりあえずのゴールのようなものは必要である。
原先生も映画を製作するとき、なんとなくはゴールを決めているという。

「そこ[ゴール]へ行くまでに何が起きるか、自分自身がどういうふうに変わっていくか。
自分自身がまさにそのゴールへ向けてアクションを起こしていくんだけれども、
自分自身もどういうアクションを起こしていくかわからない、
だからおもしろいんじゃないか、じゃあやってみようぜっていう、そういうノリですよ」(P124)


たとえば職場のことをブログに書く。
ブログに書きたいと思うと、なんらかのアクションを起こさざるえをえない。
そうするとアクションが返ってくる。それにどうアクションしていくか。
それは自分でもわからない。
とりあえず自分から出てきたアクションをたいせつにしよう。
アクションしないと世界の仕組みのようなものはわからないじゃないですか。
こういうアクションをすると会社では多くのものは上に告げ口するとわかる。
そういうことで女性社会は告げ口のようなもので回っているとわかるわけ。
告げ口されると上が飛んでくる。上のアクションでさらに世間というものがわかる。
目が点になっている上司とか見ると不謹慎だが、ごめんなさい。おもしろいっす。
女性労働者は告げ口が好きなんていうのも、
アクションを起こさないとわからないわけだ。
そういうことで世界や世間を知っていくことで、わくわくするっていうかなあ。
ああ、本当はこの人とこの人は仲が悪いとわかる。
そういうのっておもしろいじゃないですか。
それをおもしろいと思うのは、生活者としてどうかという問題は当然あるけれど。

原一男先生の本をひさびさに再読して、むかし(70年代)はよかったなあと思う。
むかしは世界を自分たちで変えられるという幻想がまだ濃厚に生きていた。
だからかどうかわからないが、人が人に逢いに行く時代であった。
原さんの若者時代というのは、おもしろそうだと思ったら、
すぐその人に逢いに行くのね。逢うというドラマがむかしはかなり強く存在した。
いまはなかなか人と人が逢わない。つまり、ドラマがない。
わたしが働くのは小金がほしいのもそうだけれど、
人との出逢いを求めているところがある。
いまは左翼活動みたいなものがないから、そうそう強烈な宗教活動もないし、
したがって人と出逢いたかったら働くしかない。
けれど、生活者ならぬ表現者は働くのがめんどうくさい。
わたしは原一男さんと学生と教授という立場で邂逅(かいこう)したが、
早稲田大学は度量が大きいというか、
よくこんな定時制高校卒のグウタラを雇ったものだと思う。
でも、わたしが人生で師と言えるのは原一男先生だけだから、
長らく早稲田は校歌もふくめて好きではなかったが、いいところもあるじゃないか。
働くのってめんどうくさいよねえ。早稲田新卒カードといえばかなり強いでしょう?
「就職なんかしないでフリーターでもして好きなことをしていけばいいんじゃないか?」
そんなことを言う教授も教授だが、真に受ける学生もクルクルパーだ。
わたしは原一男先生のアジテーション(扇動)に心底から揺り動かされたなあ。
いまは国家権力の象徴ともいうべき大学教授を
長らくお続けになっている原一男先生はいいかげんな若者だったのである。
なんでこんな人を師匠にしてしまったのかと、かなしゅうなるわい。

「働きに行くのもいやでね、とにかく金がなくなるまで働かない。
金がなくなったらまず質屋に行く。
キャメラがあったから、キャメラを質に入れるんです。
その金もなくなったらしょうがないから働きに行く。
それで二、三日働くと、現金でお金くれるから、
そのお金を使い果たすまでは働きに行かない。
それでも家賃を払わなきゃいけないとかなって、しょうがないからじゃあ働きに行くか、
ってな状態でまた働きに行く。お金もなるべく使わない。
下高井戸ってけっこう物価が安かったんだけど、
安いなかでもいちばん安い魚屋さんへ行ってアラか何か買ってきて、
ひっそりと食事をして、
それで暇なときには乳母車を押しながら近くをとことこ散歩していく、
そういう生活を数年してた。
小林[奥さま]も基本的には働いてなかったんだけど、
さすがに僕が働くのをいやがるもんだから、
「じゃあ私、アルバイトに」なんて、ときどき行ってた。
そういう生活をするなかで、やっぱり映画人の知り合いができた。
年齢的には僕とそんなに変わらない人、一つか二つぐらいしか。
そういう人がピンク映画をやってると。
そこで、「撮影助手を探してるけど、やるか」ってなもんで、
じゃあ生活費稼ぎもあるし、
まあ、映画の技術もやっぱり勉強したほうがいいかというふうに思ってたから、
声がかかれば仕事をする、というような感じでぽつぽつ仕事を始めたんです」(P145)


知り合いができるかどうかって運だよなあ。
むかしは知らない人からメールがけっこうひんぱんに来たけれど、いまはまったく。
自分からもっとアクションを起こしたほうがいいのはわかっているのだけれど、
そこはそれで、まあ、そういうわけで。
わたしなんかもうすぐちょーヒマになるからメールを1本くれれば、だれとでも逢う。
最近、メール来ないなあ。
だから、アクション。おもしろそうなところで働く。知ったことをブログに書く。
書かれたほうはたまったもんじゃないかと思うが、
こちらは基本的におもしろかったことしか書かないから、
基本的には書く行為には原さんとおなじように「愛」めいたものがある。
書かれたほうもおもしろいことをしはじめてくれるのである。
人から期待されると期待に応えたいとどこかで思うところってないかなあ。
悪役だったらもっと悪役に徹しようみたいな。
正義のヒーローは正義をアピールしたくなるというかさ。
実名ブログ表現はとても危険だが、しかしおもしろい。
むかしの原さんのドキュメンタリー映画のようにである。
どこかにキャメラ(視点)があると、敏感な人はオーバーアクションをするようになる。
先生の代表作「ゆきゆきて、神軍」の主役は奥崎謙三という犯罪者である。

「だから、奥崎さんも、最初は僕のキャメラワークをそんなに意識しなかった。
だんだん、どこでどういうふうに撮っているかというのを、
撮られる側が判断することはそんなに難しくない。
いまキャメラがどこにいて、どういうアクションを、
自分にキャメラを向けてねらっているかというのは、撮られてる側もわかってくる。
ああ、こういう場面をねらってるのかと、
それをずっと続けていくと、どういうふうに演じればこの人は回す、
というのもだいたいわかってくるんです。そういうもんですよ。
そんなに難しくない、隠し撮りしてるわけじゃなくて。
で、撮られる側がそれを計算できるようになる。
それはでも、そのことをいいとか悪いとかって、
そういうふうにいい・悪いのレベルで論じるんじゃなくて、
わかってくるもんだよということなんです。
で、わかってきちゃったらそのキャメラの前の人間はどうするかと。
わかてなおアクションを続けるんだから、やっぱりね、
演技しちゃうというのはこれはもう理の当然というか当たり前のことなんですよ」(P190)


そのようにして撮ったドキュメンタリー映画はすべてフィクションだと原さんは言う。
だって、日常風景を撮影してもつまらないじゃない?
会社の日常なんてどこも退屈でしょう。
「プロジェクトX」みたいなことなんてどこにもない。
毎日、毎日おなじことを繰り返して、つまらないなあ、
というのが本当のドキュメンタリー(記録映画)。
でも、それでは撮影しているほうも観客もつまらない。
このため、人はフィクションを志向する。
現実だけではたまらなくなった。嘘でもいいからドラマのようなものを希求したい。
これが原一男のアクションドキュメンタリーである。
映像作家も文章作家も現実がいやでフィクションを創造するのだろう。
原一男が奥崎謙三のつぎにキャメラを向けたのは作家の井上光晴である。

「奥崎謙三の場合はナマの部分はいくら出てもかまわない。
ところが、井上さんはやっぱり作家だからねえ。
これはあとで気づくんだけど、やっぱり虚構の人だから、
ナマの自分は絶対出したくないんですよ。
必ず虚構というフィルターを通さないと、
井上さんという人はナマの自分を出せない人なんですよ。
やっぱり作家なんですよ」(P233)


わたしは作家でもなんでもないが、ナマの自分は文章には出せない。
文章はぜんぶかくありたいというフィクションを求めてしまう。
いったい表現とはなにか?
大学時代、原一男ゼミの課題は「私にとって表現とは何か?」であった。
当方は課題を出せなかった。
いつか出そうと思っているうちに、あれから18年が経過してしまった。
原一男にとって表現するとは――生きること。
なんのために表現するかといえば、自由になるため。
おそらく本当の自分を出すことが表現することで、
本当に生きるということなのかもしれないなあ。
むろん、生活者はそんな悠長なことを言っていられないけれど。
自分を知りたい。自分を変えたい。表現をすると――。

「自分自身が変容する、変わったというふうに言っていいかどうか。
結局のところ、つまり、解放ということ、
自由であるということはどういうことかというふうになるけど、
やっぱり、何かを超えたから
それ以後はずっと自由でいられるということでは決してなくて、
非常に劇的な何かを通過して、通過した直後のある感覚っていうのかな、
そういう感覚というのは時間の軸からも、えらくこだわっていた空間の軸からも、
フッ、と解き放たれる瞬間というのがあるような実感がします。
(……) 人生において、そういうことが不断にあればいいんだけど、
不断になんか絶対にないからね。絶対にないんですよ、日常の中では。
だからより劇的なものを求めて、
じゃあ次の映画をつくろうかというようになっていくのであってね、
ないですよ、日常的には、そんなものは」(P283)


映画監督の原一男さんが日常にはないとおっしゃる、
日常における小さな劇をおもしろおかしく、
しかし真剣に描いたのがテレビライターの山田太一さんで、
わたしは氏のドラマが大好きなのだから困っちゃう。
原一男先生は人間としてとても魅力的で影響を受けたが、
師匠の映像作品は何度観てもどこがおもしろいのか弟子には理解できない。
大衆的な山田太一ドラマのほうがおもしろいよなあ。
突き抜けていない、もっと言えば不自由な、
市井(しせい)を生きる小市民の喜びや悲しみのほうがおもしろい。
しかし、山田太一ドラマにもそんなものはくだらんじゃないかという視点もあるから、
自分というものが中年になっても定まらない。
いつか原一男先生に課題を提出しなければならないとはいまでも思っている。
むろん、直接手渡しするとか、そういう形式ではなく。
表現とは自分の生き方ならば、とりあえず生きていくしかあるまい。

(関連記事)↓「原点回帰」←原先生との想い出を書いた10年以上まえの記事。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-541.html

あと2回、北戸田に行けば終わりかあ。
いましみじみ思うのは、別離のよろしさ。
もうあの人ともこの人とも逢うことはないと思うと、
どの人にもいまから懐かしい思いを抱ける。
この生別からわかるのは、死別も決してマイナスだけではないということ。
いつか死ぬんだと思うと、世界の小さな美しさに気づくよねえ。
なんかガンで余命を告知された患者のようなことを言っているけれど。
いままで自分のことを善人だと思ったことはない。
しかし、「土屋さんは人がいいから」と今年に入ってから何度か複数の人から言われた。
たしかに今後、電話で「北戸田に行ってください」と派遣の人からお願いされたら、
わたくしごときに(お願いなんて)という思いから断れない変な人のよさがある。
あさってからは自由の身。さて、なにをしよう。
長らくできなかった好きなことをしばらくしたいなあ。好きなことがあって本当によかった。
ああ、別れっていいなあ。そういえば卒業式の歌には好きなものが多い。
人が出逢う理由って別れるためかもね。人は死ぬために生まれてくる。
あはっ、日雇い派遣が哲学をしてみました。あと2日かあ。いいなあ、この感じ。
長いあいだおなじ職場で働いているとヌシになるわけだ。
一部のヌシにとってはヌシという身分が重要なのである(全員ではない)。
ほかに給料や待遇のいい仕事があっても、ヌシといういまの身分を手ばなしがたい。
ヌシにはかなりのことが許される。ヌシの特徴はヌシアピールである。
もうひとつの特徴は「人のミスには厳しく、自分のミスには甘い」。
わたしはいま現在は「人のミスにも甘く、自分のミスにも甘い」。
わたしがスポット派遣さんに厳しい注意をした報告例なんて一度もないでしょう?
なぜなら自分もミスをするから。このため人のミスにも甘い。
ヌシのミスもかなり見てきたが、みなさんご自分のミスには非常にお甘くいらっしゃる。
しかし、ヌシのなかには人のミスに異常なほど厳しく当たる人がいる。
ヌシたちだってほかの職場へ行けば、そこの(一部の)ヌシたちから総攻撃される。
それを無意識的にわかっているから、
経験年数から仕事に慣れたヌシさまはいわば給料外報酬として新米のミスを
見た瞬間に喜々としておのがアイデンティティの叫び声として偉ぶるのだろう。
世の中そんなもんだ。まったくまったくめんどうくさい。
今日は「目つきが悪い」とお叱りを受けたが、
ヌシさまはさぞかしいいお目をしていらっしゃるのでしょう。
このヌシからはもう4、5回からまれているので、
あさってが最後でわたしは消えるのでさぞかしお喜びのことでしょう。
いきなりぶつかってきて「女に暴力を振るうの!」と言われたのが最初だった。
もう疲れました。あとはお好きなようになさってください。
いちおうあと3日働いて、いまの職場はフィニッシュと聞いている。
12日(水)、13日(木)、14日(金)でお菓子倉庫は終わりと
いまはスポット派遣なのでシフト表をもらっていない。
このため、いつだれと最後のお別れとなるか当方にはわからない。
あんがい、そのほうが湿っぽくならないでいいのかもしれない。
去年の12月末に急に入れていただけると派遣会社からご連絡があり、
年末年始だけかと思っていたらいろいろなことがあり、
3月で終わりという話だったが、4月14日まで伸びた。
いま振り返ると、おもしろかったなあ。
まえの仕事より給与も待遇もダウンしたけれど、おもしろさはこちらのほうが上。
いま振り返ればまえの仕事の給与とか待遇(有給等)とか奇跡的ホワイトだったんだなあ。
いまの職場がブラックというわけでは断じてないけれど。
ちなみに疲労度も前職よりも、
なぜか軽作業しかしていないのにいまのほうが高い(疲れる)。
あと3日だからいえるのだが、
この3ヶ月強は金銭的にどうだかはわからないが(もらいすぎか安すぎか)、
とにかくいろいろな発見がありおもしろかった。
ここに10年勤めろと言われたら、うーん、だから(早起き辛いよ……)、
期間限定というのがよかったのだろう。
いやなこともあったけれど、そういうこともふくめて、新たな人生体験が増えてよかった。
パート女性の思考法、発話形式、行動様式などいくら本を読んでもわかるはずがない。

終わりだからいえることだが、本当にいまの職場で働いた期間はおもしろかった。
18歳男女とおしゃべりしたり、そのほかいろいろもろもろ。
あと3日かあ。わたしを嫌いな人もいただろうけれど、そこは消えるから許してよ。
わたしはいまの北戸田の職場には現在、なんの不満もない。
よくしてもらったと思うし、じつにいいタイミングでフィニッシュを迎えたと思う。
これは派遣切りとかではなくて、
単に職場の仕事量が時期によって変わるため、どうしようもないこと。
派遣会社さんにも派遣先会社さんにも不満はない。
ちょうどこのあたりで去りたかったという当方の事情もあり、
しかしそれを申し上げたわけではなく、自然に成り行きでそうなったのである。
かなり自然にうまくいったなあ、という感慨がある。
わたしみたいのといっしょに働くのがいやな人でも期間限定だったら許せるでしょう?
わたしだって聖者ではないから苦手な人もいるけれど、
それも終わりがあるならばむしろそのマイナスがいとおしくなるといえなくもない。
カウントダウン。あと3日かあ。みんな元気でね。
まだまだこの3日のうちにいろいろあるのかもしれないけれど。
とにかくおもしろかった。プランタニエでありました。
15日(土)からのことはまったく決めていない。完全な白紙。そのとき考える。
というか、母の突然の自殺以降ずっとそうなのだが、
わたしは明日自分が生きているという実感が希薄だ。
老後どころか1年後、3日後に生きている自分というのも想像できない。
本当に終わりの14日が来るのかおそらく当日まで信じられないだろう。

*まさかとは思うがスポットでまた呼ばれたら、どうするのかはわからない。
別れって劇的ですてきなところがございませんか?
すぐに再会するのもどうかなあと。いや、べつにそれでもいいのですが。
というか、15日以降、自分がなにをするかはいまのわたしにはわからない。
おなじ職場のAさん男性57歳はおもしろすぎる。
ほら、あのサイゼリヤでふたりでワイン3リットルをのんだというAさん。
彼女を紹介してくれるという。なんのことだかわからなかった。
これは以前にも書いたから書いてもいいと思うが、
Aさん57歳にはなぜか23、4歳の婚約者がいるというのである。
わたしは人生体験からどんな不思議なことでも起こりうることは知っている。
だから、そういうこともありうると思っている。
しかし、今年に入ってから一度も逢っていないという。
おなじ街に住んでいるのに、今年になってから一度も逢わない婚約者ってなんだ?
写真を見せてくださいとお願いしたら、
携帯電話で撮った隠し撮り動画のようなもので、顔が映っていない。
しかし、そういうこともありうると思うのである。
なぜなら、わたしは醜形恐怖症気味なところがあり、
写真を撮られるのがなにより嫌いだし、
当方以外にも写真撮影を異常なほど嫌う人を幾人か知っている。
果たしてAさんに20代前半の婚約者はいるのか?
わたしは本人がそう言っているのだから、それは真実だと思っている。
好奇心からその彼女と逢わせてください、ひと目見たいとずっと言っていた。
わざわざそのために大宮に行ってもいいくらい興味があります。

Aさんが彼女を紹介してくれるという。
てっきりその婚約者をひと目でも拝ませてくれるのかと思った。
昼休み中の話である。どうやらそうではないらしい。
喫煙所でAさんはしきりに携帯電話をいじっている。これがそうだという。
「飲みにいきませんか 笑」
と書かれたスパムメール(無差別大量送信迷惑メール)である。
この女性にメールをしてつきあえばいいのではないかと57歳のAさんはおっしゃるのだ。

わたし「だって、それは……」
Aさん「女性だよ」
わたし「え?」
Aさん「よくメールが来るんだよ」
わたし「変なアダルトサイトかなんかに登録したんじゃないんですか?」
Aさん「一度、アダルトサイトみたいのを見ちゃったけれど、それで?」
わたし「いえ、そのくらいで(携帯電話の)メールアドレスはばれないと思いますが」
Aさん「ものはためし。彼女とメールしてみたら?」
わたし「だって女じゃないかもしれないじゃないですか?」
Aさん「うん?」
わたし「どうせこの口座にお金を振り込んでくれとか言われるんでしょう」
Aさん「そんなことやってみなければ、わからないじゃないですか」
わたし「それはちょっと……」
Aさん「彼女は女性ですよ」
わたし「どうして?」
Aさん「まえに絵文字を使っていたから」
わたし「だから女だって?」
Aさん「うん」
わたし「わたし、むかしネットで女を装っていたことがありますよ」
Aさん「ツッチーが?」
わたし「はい。引っかかった男もいましたね」
Aさん「悪いなあ」
わたし「……はい(テヘヘ、舌ペロ♪)」

むかしネカマをやっていたというのは、ディープな「本の山」ファンならご存じでしょうが、
2ちゃんねる文学板の伝説くそコテハン「美香」のことである。
ちなみにネットにはデマが書き込まれているが、文学板以外の「美香」は別人である。
何度か情報を修正しようとしたが、即座に編集しなおされるのであきらめた。
それと文学板の「美香」は偽物も複数いたことを書いておく。
どれがわたしの書き込みかはライブでいた人しか識別できないだろう。
たしかに「美香」はわたしだったが、だれかに経済的損害を与えたことはない。
最後の最後まで「美香」は実在すると信じていたある関西大富豪の御曹司もいた。
わたしとしては、みんなの心のなかに「美香」はいるんだよ♪ と言うしかなかった。
「美香」は女よりも女らしいと、ある「美香」経由で逢った女性から言われたこともある。

ネカマ経験があるわたしは「飲みにいきませんか 笑」なんて書かれた、
自称女性からのメールはとてもとても信じられないのである。
わたし「なんで見ず知らずの人がAさんにそんなメールを送ってくるんですか?」
Aさん「……」
わたし「それ詐欺ですよ」
Aさん「やってみなくちゃわからないと思うんですが」
たしかにそれはそうだが、それは常識的にリスクが大きすぎる。
そこまで女に飢えているわけではないと強がった(のかしら?)。
これは非常におもしろい問題でAさんの婚約者は実在するのか、とおなじだ。
Aさんがいるという以上、本人のなかでは23、4際の美しい彼女は存在するのだ。
そのことが生きる励みになっているのなら、とてもいいことだと思う。
客観的に実在するかどうかではなく、主観的に存在すると思っているものは存在する。
57歳と20代前半の美しい婚約者は想像しにくいが、
現実にはどういうことも起こりうることを本当にわたしは人生体験から深く知っているのだ。
どうせ書いても信じてもらえないだろうから書かないけれど。

もう時効だと思ってひとつ書いちゃおうかな。
3年まえさあ、うちのブログの熱心なファンだという18、9歳の女子からメールが来た。
名前どころか顔写真も添付されていて、それがまたかわいいの。
友だちになってみてくださいみたいな感じ。
そんなことありえないって思うでしょう。わたしもありえないと思う。
その子の顔写真は去年のパソコン崩壊のときに消えてしまったから証拠はない。
わたしもあれは嘘ではないかと思っている。
このレベルでも本当だと信じてもらえないでしょう?
わたしはもっとレベルの高い嘘としか思えない本当のことをいくつも味わっている。
Aさんとは携帯番号も交換したから(おなじAUだからCメールが使える)、
今後どんなことが起こるのだろう。いちおうもう一度酒を飲む約束を交わしたけれど。
読者のみなさまとしたら、
そもそもこの話が本当かどうか信じられないのではありませんか?
わたしが本当にそういう職場で働いているのか?
Aさんのような57歳の男性が実在するのか? 
そのような方とわたくしごときが本当に仲良くペラペラしゃべっているのか?
Aさんいわく、「ぼくは本当のことしか言ったことがありません」。
ううう、それはかぎりなく詐欺師の発言に近い。
なんでこういうおもしろい人に人生で逢えるのだろう。運がいいとしか思えない。

※あれ、あの子の写真はどっかにあるから証明可能かな? べつに嘘でもいいけれど。
ちなみにその子がいちばん気に入ってくれたのがこの↓記事とのこと。
「方丈記」(鴨長明/浅見和彦 校訂・訳/ちくま学芸文庫)
クリックしたらお読みになれますから、どうかひと勉強なさってくださいよ。
これが若い女の子に顔写真を送る気にさせた読書感想文であります。
「ナイフの行方」(山田太一/KADOKAWA)

→2014年の12月にNHKで放送されたのが山田太一ドラマ「ナイフの行方」。
そのシナリオ本をいまごろになって読む。
放送当時の感想としてかなり辛らつなことを書いたら、コメント欄に批判がいっぱい来た。
匿名さんにわたしは「万事が軽い」とか言われちゃったよ、トホホ。
いまシナリオとして読んでみると、現代の世相をうまく描いたドラマになっていると思う。
現代の「老人天国、若者地獄」の状況を巧みに描いていると言えなくもない。
彼女に振られて無職の中卒青年(今井翼)が、
秋葉原事件の加藤のようにナイフを振り回そうとしたら、
そこに金持で喧嘩が異常なほど強い老人(松本幸四郎)が現われ、
ナイフを取り上げ彼を警察から見つからないように自宅にかくまってやる。
わざと青年の足を骨折させて動けないようにさせ、
見ず知らずの青年を自宅で食わしてやる。
で、なーんかこの富裕老人は詳細こそわからないが、
むかし左翼の海外活動家だったらしく、
若者をどうにか救ってやりたいが自分に確信が持てずどうしたらいいかわからない。
いま富裕層は老人に集中していると聞くが、
これは老人の関心にどんぴしゃりだったのではないか?
松本幸四郎の演じる根本拓自は古い知り合いの堀田にもらす。

拓自「思わぬことで二十代の青年と知り合うことになった」
堀田「はい」
拓自「これが分らない」
堀田「何人もですか?」
拓自「ひとり」
堀田「訳あってすぐ縁を切るわけにはいかない」
堀田「はい」
拓自「絶望していたかと思うと、ケロリとしている」
堀田「躁鬱――ですか?」
拓自「躁鬱?」
堀田「はしゃいでいたかと思うと、ドッと落ち込んでしまう、躁鬱病――」
拓自「病気か?」
堀田「この節はそんなのも――」
拓自「病気じゃつまらんね」
堀田「つまりませんか」
拓自「薬をのめば治るんじゃつまらないだろう」
堀田「はい」
拓自「この世に絶望している青年を、老いた私が叱咤して希望を持たせようと
   接触したのに、薬をのめば治るのなら世話はない」
堀田「その青年が病気かどうかは分りません」
拓自「そうだ。分らない」
堀田「はい」
拓自「いや、分らないのは私だ」
拓自「私如きが、どうやって青年を叱りつけて、この世はすばらしい、
   生きるに値いすると励ませるんだ」(P72)


この節は躁鬱病が増えているわけではなく、いつの時代も罹患率はほぼ一定で、
そのうえ躁鬱病は薬で抑えられるだけで治ることはないのだが、
老人ふたりの精神病への無知は、まあ、こんなものだろうというリアルがある。
たぶんナイフを振り回した青年を精神科に連れて行けば、
ボーダー(ライン人格障害)あたりの病名がつくような気がするけれど、
むろんのことそんなことはドラマに関係ない。
わたしが山田太一のよさだと思うのは「分らない」ことを理解しているところだ。
これがたとえば宮本輝の小説世界だったら、
えんえんと老人は若者に説教して、おまえは努力が足らない。
中卒だって365日休まず限界まで働けば絶対に道は拓けると、
喧嘩の強い老人が若者を鉄拳制裁しつづけることだろう。
努力すればなんでもできる。要はやる気の問題。
なぜなら無宗教の山田太一とは異なり、
宮本輝には絶対正義を標榜する創価学会への信心があるからである。
(まさにそのワールドを描いたのは宮本輝「三十光年の星たち」)。

無宗教の山田太一ワールドの老人は、絶望した若者をどうしたらいいのか「分らない」。
とりあえず寝場所と食料を提供したうえで、なにもしないで待っている。
するとそこに30年ぶりというむかしの活動家の同志(津川雅彦)がやってくる。
おそらく、人生はそういうふうに自然に事が運ぶことを山田太一はよく知っている。
松本幸四郎は人生に絶望した青年である今井翼に努力も信心も説かない。
では、なにをするか。
自分がむかし正義感に燃えてやったあげく(海外の独裁政権打破!)、
結果としては大勢の現地人を死なせてしまった体験を懺悔(ざんげ)する。
正義がなにかわからない。努力が本当に正義かはわからない。
自分は正義のために多くの人を殺したようなもんだ。
正義っていったいなんだ? なにが正義だ?
おそらくだから、松本幸四郎は、
いわゆる正義に反して殺人未遂犯の今井翼を警察(国家権力)から守ったのだろう。

老人が人生に絶望した青年になにをしてやるか。
まず相談できる人(津川雅彦夫婦)をつくってやる。
それから一時しのぎの仕事の紹介もする(津川夫婦のスナック店)。
そして、これが「ナイフの行方」のいちばんのおもしろさだと思うが、
松本幸四郎は今井翼に女をあてがうというか仲介しようとするのである。
相手の女性は老人の家に来ていたバツイチ子持ちの家事ヘルパー(相武紗季)。
シナリオの設定では青年は26歳で、バツイチ女性のほうは30歳になっている。
山田太一さんはよくわかっているなあ、と思う。
孤独な男なんか生活のリアリティがないから、
そこに子持ちの姉さん女房をくっつけたらうまくいきそうだというのは、
この人はどれだけ生活者のリアルに詳しいのかと笑ってしまう。
秋葉原の加藤になりそこねた青年は次男という。家事ヘルパーは香。
ドラマがひと段落ついたあと香(相武紗季)と拓自(松本幸四郎)が話している。

香「その次男くんをスナックのお二人に押しつけていいんですか」
拓自「知り合いができればいいんだ。すぐあいつは帰って来る」
香「帰って来るんですか」
拓自「あなたと緑ちゃん[香の4歳の娘]が会いたがっているといえばやって来るさ」
香「会わせたくないんじゃないんですか」
拓自「会わせたいさ。だから、会うなといった。そういえば燃えるだろう。
香「呆れた。それも計算のうちですか?」
拓自「仲人はそういうもんだ」
香「仲人ってなんですか?」
拓自「次男と似合いじゃないか」
香「なんてこというんですか」(P164)


山田太一の絶妙な生活者感覚からしたら中卒無職26歳(ただしイケメン)と、
30歳子持ち家事ヘルパーは釣り合いが取れるということなのだろう。
ドラマにはいろいろな解釈があってよいので書くが、
このドラマが老人視聴者へ向けたメッセージは、
老人は若者にありきたりな説教(死ぬ気で努力しろ! 努力はかならず報われる!)
をしないで男女の仲を取り持ってやれ。
老人のやるべきことはアンチエイジング(若者ぶること)ではなく、
若い男女の世話を焼くことだ。
若い孤独な青年の薄っぺらい絶望感など、
女性のリアリティとぶつかったらひとたまりもないぞ。
中卒の貧困青年はお金持のお嬢さまと経歴をいつわって交際していた。
なんでも自分は慶應の経済の大学院にいる御曹司なのだとか。
その嘘がばれて女から殴られたのが直接のナイフ事件の動機らしいが、
おい、若者も若者で身の程を知れよ。
26歳中卒無職は、4歳上の子持ちバツイチくらいで手を打て。
山田太一ドラマのリアリティはおもしろすぎるぜ。
もうすぐ40歳無職になる当方には、どのくらいの相手が釣り合うのだろうか?
45歳の子持ちふたりバツニあたりだろうか?
なんかその娘さんに惚れちゃいそうなわたしだが、それはなんかやばくはないか?
むかしからある結婚という制度は、たしかに自由を束縛するものだが、
伝統には伝統になるだけの意義のようなものがあるのだろう。

人を救うものは正義ではなく男女交際ではないか?

いったい本当と嘘ってなんだろう?
青年だって慶應経済大学院御曹司というのが本当だったら、
そのまま美人お嬢さまとの交際を続けられたわけでしょう?
嘘がばれないうちは本当は本当である。
わたしだってもしかしたらブログに書いているわたしと違うかもしれないわけでしょう?
過去の不幸自慢をする次男に拓自は言う。

「しゃべりすぎるな。別のしゃべり方があるかもしれないだろ」(P89)

また別の老人に不幸自慢をしそうになった次男は思いとどまる。
なぜかというと拓自からとめられたからだという。
なぜ拓自は次男にしゃべるなと言ったか。

「しゃべるとそれが本当になるからって」(P125)

本当にあったことなどしゃべり方しだいでいくらでも変わるのかもしれない。
もしかしたら本当のことなど存在せず、
さまざまなしゃべり方(解釈)があるだけなのかもしれない。
しかし、しゃべるというのは言語化するという意味で、とてもたいせつなこと。
しかし、安易に言語化することで失われるものもあるのではないか。
職業革命家だった老人の拓自は、人生に絶望した中卒の次男に言う。

「いくらしゃべっても、誰彼かまわず刺そうとした気持なんか私には届かない。
(……) ただ、あの時のあんたの目に、しゃべったって人には通じない、
わめいたって人には分らない、
そういう気持がふくらんで切れそうになっているのを感じたんだ。(……)
それは私の、まったくちがう事情だが、
かつての――いや、今でもいくらか、私の気持だった。(……)
(そんな気持は)勝手だね」(P90)


言葉にならない思いというものがあるのだろう。
このため、人によっては絵画や音楽、純粋映像表現に救われたと思うことがある。
わたしの場合は徹底的に「言葉、言葉、言葉」(ハムレット)に向き合った。
NHKさまの放送映像から「ナイフの行方」を見ると、え? そりゃないよと思った。
しかし、言葉しかないシナリオから同作品を見たら、また意見が変わる。
本書の巻末に山田太一ロングインタビュー
「正義がどこにあるのか、分からない時代に」がおまけのようなものとしてついている。
朝日賞作家の山田太一さんは、
デモに行かないなんて信じられないというマルキシズム全盛の時代に、
左翼活動のことを「アホみたいだし、胡散臭いし、ダサい」と思っていたらしい。
しかし、正義の時代にはロマンというよさがあったことも的確に指摘している。
たとえインチキでも正義のようなものがあれば、ロマンチックな恋愛ができる。
いまはマルキシズムも廃(すた)れ、資本主義の限界も見えている。
正義はもしかしたらどこにもないという状況のなかで、なにを信じたらいいのか。
山田太一は毎回、終わりを決めないでドラマを書いている。
作者は書きながらどのような結論にいたったのか。

「根本[松本幸四郎]のやり方は非常に姑息でずるいけれど、
ひとりで解決するよりはいいと思った。
自分のところにも帰ってきてほしいから、家政婦さんと子どもで釣っている。
この次男のラストは最初から決まっていたわけではなくて、
どうしたらいいんだろうと迷いながら、これしかないと思えてきたのでした。
すっきり気持ちのいい終わり方にはなりませんでした。
具体的な解決策ではあるけれども、人々を感心させるほどのものではない。
ただ、やっぱり頼れるのは「人情」と思いました。
認知症の人に最後まで通じるのは言葉ではなくて「笑顔」だと聞きます。
誰が誰だか見分けがつかなくなっている人に対して、
的確にケアするよりも、情で笑顔を向けたほうがホッとすると。
そういう、「情で救われる」ということを、
もう少し積極的に考えてもいいんじゃないかと思う。
いや情なんかあてにできない。
施設やシステムがきちんと整うことが大事とも聞きますし、システムはその通りですが、
僕は最終的には「情」が人間の心の芯に残ると思う」(P183)


山田太一は最後の最後まで人情を描いているのである。
いくら運よくだれをも傷つけなかったとはいえナイフを振り回したら殺人未遂だ。
松本幸四郎にははっきりとナイフを突き出しているのだから、
あれは法律的に考えたら刑法に問われ罰せられなければならない。
実際、110番されパトカーも出動しているではないか。
しかし、孤独な青年の犯罪行為は人情によってもみ消されている。
人を刺そうとなどからきし思っていなくて、
だが相手の持っていたナイフでいわば正当防衛のようなかたちで相手を刺しても、
国家はそれを犯罪としてみなし当事者を刑務所に入れてしまう。
それが正義かよ、と思う。本当に法律やコンプライアンスは正義だろうか。
そして、果たして本当に正義なんていうものが人を救うことはあるのか。
山田太一が孤独な中卒青年を、
たとえフィクションのうえでもどう救われるかを考え尽くしていたった結論は――。

人を救うものは正義ではなく人情ではないか?

(関連記事)
放送時の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3925.html

もうすぐ去っていく職場には同世代(アラフォー)男性が3人いる。
「俺たちの時代」ってあったのかなあ。
ぼくのおれのわたしのいちばん好きなテレビドラマは野島伸司の「高校教師」。
高校生のときにリアルタイムであれを見たからだろう。
山田太一ファンが野島伸司のドラマをほめてはいけないのかもしれないけれど。
同世代っていいいよねえ。
「高校教師」の想い出を語り合って、酔って、女の子のまえで泣いたこともある。
高校生のときはわからなかったが、
中年になったいまわかるのは、女子高生と堕ちていきたいというのは男の本能か。
べつに女子高生でなくても、異性とこの世間からグッバイおさらばしたい。
そういえばかつてはテレビドラマに夢やあこがれを持っていた時代もありました。

欲望がないのが悩み。欲望するものは、おのが欲望のわたしわたしわたし。
欲望がほしいというのは最高にぜいたくで不遜な欲望なのかもしれない。
わたしはわたしと縁あって関係をもった人たちに影響を受けたいし影響を与えたい。
あなたはどんな感性で人生を生きているのか知りたいなあ。
わたしはエゴのかたまりできちがいエゴイストだから、周囲はぞっとするわけでしょう?
なにをしたって許されるとどこかで思っているし、なにをされても根幹の部分では許せる。
自己を解放しろ! とか言っちゃうとむかしの変な人みたいだなあ。
寝た子を起こすのがいいのか悪いのかわからないけれど。
このまえスポット派遣さん(いまのわたしもそう)がラインで、
たかがクッキー1枚を落としてたいそう反省していたところに、
お若い社員さんが、いやいいんです、
といったようなことを言って床に落ちたクッキーを蹴っ飛ばしていたけれど、
それでいいし、むしろ見込みがあるし、なにかの希望を見たような気さえした。
クッキーがなんだ? マドレーヌがなんだ? それが人生かよ!?
しかし、それが、それこそが人生だという見方もできよう。
しかし、それでおもしろいか? もっとおもしろいことはわんさかあるんじゃないか?
いや、ないなあ。いまどこに熱っぽい世界があるんだろう。
いまは海外をバックパック旅行をしても、
日本人のみならず世界中の旅人がスマホみたいなものを案内図としている。
どこが安いか、どこがうまいか、どこが安全か、どこか観光スポットか。

11年まえ、30歳になるのがいやで、
ああ、もう終わりでいいやと思って3ヶ月インドを旅したことがある。
ガイドブックにない未知の街を歩くことがどれほどおもしろかったか。
しかし、いまはそういう旅ができないだろう。
ネットにすべて情報が出ている。不確実性が薄まっている。
もうすぐフリーの身になるけれど、極論をいえば、
いつ死んでもいいと思っているし、30どころか40まで生きられたのだから、
どこにでも行くことができる。けれど、いまさらインドを再訪してもなあ。
支持政党の言うように希望は安定ならば、
時給百円単位で少しでも高収入の安定性の高いところで黙々と働けばいいのか。
ミャンマー(ビルマ)にでも行って仏教レベルを高めて(下げて)こようかとも思うが、
どうしても行きたいわけではないし、そこまでの情熱はないし、
ネットによるとヤンゴンのホテルは非常に高額らしい。
経験から言うと、行ってみないとわからないことはわかっている。
もう7、8年まえになるのか。
タイ、カンボジアを経てベトナムから中国に入るとき、情報がなにもなかった。
いや、情報はあるにはあるのだが、
それによると中国では外国人は外国人専用の高額ホテルしか宿泊できない。
しかし、いざ中国に入ってみたら、
現実は外国人の泊まれる安い宿泊所がいくらでもあるのである。
一度昆明(クンミン)で別件で公安(ポリス)のがさ入れに遭遇したことがあるけれど、
恐るおそるパスポートを差し出したら無問題(メイウェンティ)だった。
昆明(クンミン)は懐かしい場所でいつだったか、
飛行機乗り換えで立ち寄ったときは胸躍った。
そのせいであやうく目的の飛行機に乗り遅れるところであった。

リスク許容度が高い。危ないところに飛び込んでいきたいところがある。
いままでも不思議となんとかなってきたのだから、これからもなんとかなるような気がする。
経験としてブラック企業に勤めてもみたいが、そもそも採用されないからなあ。
死という最大のリスクを受容できたら、けっこうどんな冒険もできるのだろうが、
いまはそんな雄々しい探索ができる未開拓地がないのかもしれない。
いや、いまもいまたとえばラインの横にいる人がいまのわたしにとって、
もっとも未知なる新世界なのかもしれない。つぎはどこへ行くのだろう。
40といえば、もうおっさんだよね。
わたしは一度死んでよみがえってきたようなところがあるから(自殺未遂とかじゃなくて)、
いまの若い子がなにを考えているのかとても興味がある。
少子化、老人天国(大国)のいまの日本で現在を生きる若い男の子には、
「どうせ大した未来はない」わけでしょう? いまの若い女の子もそうでしょうけれど。
一部のエリート以外、どこへ勤めたって手取りで20万もらえたら万々歳(これは当方も)。
大半はそこまでは届かず、正社員になるとこれでもかときつい環境が待っている。

「どうせ大した未来はない」

ということをいちばん実感しているのはいまの若者ではないか?
必死になって仕事にこだわりを持とうが、それほど評価されるわけでもない。
結婚するといっても、コミュ力のないものには、
その前段階の恋愛とやらがめんどうくさすぎるでしょう?
毎日働いてゲームをするくらいが人生なんだろうか?
あそこのラーメン屋はうまかったと満足することだけが生きる味わいなんだろうか?
寝た子を起こすなって話をしているのかもしれない。
日々の退屈、鬱屈、倦怠、鬱積をたとえばゲームで敵を殺すことで発散させる。
それがいまの若い男の子の生き方なのかもしれない。
余暇のゲームでレベルアップすれば、少しは「終わりなき日常」から変化を見いだせる。
未婚の女性とかもさ、
毎日おなじようにお菓子の箱を検品していてうんざりげんなりしないのかなあ?
かといって、どうしようもないのはわかる。
べつにやりたい仕事があるわけでもなく、特別な能力なんてあるはずないし、
資格の勉強をするのはめんどうくさいし、なにより疲れてそんな気にならないし、
資格を取っても実務経験がないと雇ってもらえないし、
いくら男女平等といっても女では出世できないから。
まじめに生きてもさほどいいこことはないのはわかっているが、
しかし周囲からの「白い目」が気になっていいかげんなことはできない。
そうして自分もだれかに「白い目」をする周囲のひとりにいつしかなっている。
いちばんわからない人たちは自分の経済と会社のそれを同一視している人。
会社のわずかな電気代でも必死になって節約しようとしている人ってなんなの?
たとえ会社の利益が電気代節約のおかげで数百円上がろうが、
あなたのお給料は変わりません。
どれだけ会社のためを考えて人から恨まれるようなことをしても、
あなたのお給料はおなじです。
おなじ職場で働く労働者(同僚)よりも会社を優先する人ってなんなのだろう?
どこでおかしな洗脳を受けて、どうしていまもってそれがとけないのかしら?
いったい労働者は会社の利益をあげることでだれが儲かるの?
大企業になると社長=経営者ではないでしょう?
派遣のぶんざいで「担当」という役職を任されているせいか、
やたら派遣先会社のことを考えている人がいるけれど、派遣は派遣でしょう?
有給も社会保障もなにもない派遣が会社のことを真剣に考えるって、
どれだけあれなの? 会社よりも自分ではありませんか?
会社よりも自分の周囲の人のほうがたいせつではありませんか?
正社員だからといって、非正規に無理難題を押しつけてくる人を見ると、
わかっていないなあと思う。会社の利益はあなたの利益ですか?
シナリオ・センターとかいうシナリオを書いたことがない親子ふたりが経営のみならず、
講義まで日本各地でしているおかしな学校がある。
そこでバカのひとつ覚えのように教えられたのは、ドラマは葛藤。
葛藤がないシナリオはダメ。
このドラマ(シナリオ)は葛藤があるからいい。
このシナリオはこうすれば葛藤が強くなりよくなる。もっと葛藤を強くしろ。
ドラマは葛藤だとアリストテレスも言っている(じつは言っていないのだが)。
山田太一作品が好きなわたしはドラマは葛藤だけではないと何度も主張したが、
アリストテレスが言っているんだぞ(だから言っていないって)、
お偉い新井親子三代が間違っているはずがない、と押し切られた。

シナリオ・センターの言い分も一理あるのである。
難しいことは理解できない労働で疲弊した多数の大衆は、
わかりやすい葛藤ドラマを求める。
ほら、「正義は勝つ」、みたいなさ。「犯人はだれか?」とか、そういうの。
生活の細かな味わいを描いた山田太一ドラマよりも、
そちらのほうが視聴率が取れてしまうという現実がある。
「ドラマは葛藤」を無意識的に実行しようとしたのか、
シナリオ・センターとは壮絶な大喧嘩をやらかして強制退学処分となった。
これはとてもわかりやすいドラマでしょう?
シナリオ・センターは正義で、悪魔の犯人は土屋で、そいつを追放してドラマ終了。

あれから10年近く経ったし、もうそういうドラマはいやなんだよねえ。
ちなみに創価学会へ入信すると、そういう大衆的なドラマを体験できるわけ。
学会は正義で、池田先生はヒーローで、裏切り者はたとえば矢野絢也。
われわれ善人みんなで連帯して悪人を打ち負かし大勝利した、みたいなあれよ。
最近の学会作家・宮本輝の小説のテーマは「善き人たちの連帯」らしいけれど。
「正義が悪を打ち負かし大勝利する物語」とか、もうそういうのは生きたくない。
わたしはもうすぐいまの職場を去るが、
葛藤(対立)とかわかりやすい大衆ドラマを味わいたいわけではない。
わたしが正義で職場が悪だとか、わたしが悪魔的犯人で、
当方が去ることにより職場が改善したとか。
先日、ロッカールームでダメ元で若僧が10歳以上年上のSさんにあいさつしたんだよ。
そうしたら「おはようございます」ってきちんとあいさつを返してくれて、
「えええ? Sさんからそんなあいさつをもらえるなんて!」
とふざけて言ったらその場にいた数人はみんな笑っていた。
こういうのも立派なドラマでしょう?

わたしとSさんはもう最初から相性がダメで、
おかげで数々のおもしろい体験をできたのだが。
いまでもSさんはダメだけれど、好きな部分もあるわけよ。
そういうのは無言でも伝わると思うけれど。
人間って善とか悪とか、好きとか嫌いとか、敵とか味方とか、単純に割り切れないよねえ。
長期間、ある人といっしょに働くと、
その人のびっくりするくらいのよさも発見することがあるのだろう。
いい人だと思っていた人の腹黒さを見てしまいがっかりすることもあるだろうが、
そういう生活の小さな発見を巧みに描いたのが山田太一ドラマであった。

ラブコメディーなんてどうだろう?
じつはツッチー(わたし)は職場の女性だれかにひそかな思いを寄せていた。
しかし、それを伝えられず失恋して職場を離れていくみたいなドラマ。
これは(たぶん)「男はつらいよ」パターンなのだが、あれもまた大衆ドラマでしょう?
わたしは申し訳ないが、(一作しか観ていないが))「男はつらいよ」シリーズは苦手。
でも、山田太一ドラマのシナリオは難しすぎて、名優ではないものには演じられない。
あれ? 考えてみれば、なんかおかしくない。
なんでわたしが通勤に1時間近くかかるところに毎朝7時半に家を出て行っているの?
そのあいだに近場の高時給アルバイトがいくつもあったのにどうしてスルーしたの?
もしかしたらわたしは無意識的にだれかに恋心をいだいているのではないだろうか?
小心者の当方は当人に声をかけられないのではないだろうか?

学会員とメンタリティが似ていて噂話とか大好きだから。
○○さんが○○さんのことを好きって言っていましたよ(これは事実)、
と当人に伝え、いまの職場でラブコメディーを起こそうとしたこともある。
いまの職場でいちばん感謝しているのは数々の噂話を供給してくれたAさんかもなあ。
職場に貼りだされたシフト表を見たら、わたしが抜けたあと、
Aさんに5日連続できつい力仕事の「供給」が入っていた。
いまの時期はゼリーが入ってくるらしい。
ゼリーの重さは今日冗談半分で持ってみて知ったが、あれは人を壊しかねない。
じつは先月でお別れだと思って、
Aさんと北戸田のサイゼリヤで赤ワインをふたりで3リットルのんだ。
そのときタイミングが悪く、当方のベルトが壊れたら、
Aさんが自分のしているものをくれた。
返さなくてもいいと言ってくれるので、いまでもたいせつに使っている。
葛藤ばかりがドラマではない。
「なぜ、あの人は運が良いのか?」(月行大道/経営者新書)

→40年生きていろいろ見聞した結果言えるのは人生は運じゃないか?
運と相反する態度は努力。人生は運ではなく努力しだいというもの。
占い師の著者も運やツキがテーマの本で努力を強調している。

「人生には努力が必要です。努力なしのツキは長続きしません」(P16)

あたかも自分が壮大な努力をしてきたみたいじゃないか、うふっ。
努力ってわかんない。
ある人が努力と感じることをべつの人は能力差ゆえに楽々とこなしてしまうわけだから。
たとえばこのブログ、「本の山」は努力か否か。
いちおう断っておくと、そこまで楽ではないんですよ。
ある本の感想を書けなくて数日、ときには1ヶ月寝かしておくなんてざらだし。
みなさん、真似できる? 無報酬だよ?
けれど、そこまで努力しているかというと、基本的に楽しんでいるからね。
なんだか少しずつ影響力が高まってきたという病的妄想も芽生えてきたし。

14日でいまの派遣仕事はひと区切り、
その後はどうするんですかと派遣会社の人から聞かれた。
「大丈夫です。わたしは運がいいから」と答えたものだ。
笑い話で、「もう父からも結婚や正社員を目指せと言われなくなりました」と。
実際、いまの状態だと無理でしょうし。
そうしたら派遣会社のSさんは慰めなのか本気なのか、
「そういうものは偶然やタイミングですから」とおっしゃってくださった。
まったくそうだよねえ。
本書から運をよくするコツをつかんで、みなさんもハッピーになってください。

「「自分を信じて楽しく生きる」ことこそ、
「運をつかむ」=「幸せになる」ための条件であり、
「自分を信じて、楽しく生きる」ことができれば、
運は自然と運ばれてくると教えています」(P32)


「教える」って占い師風情がずいぶん大きく出たなあ。
でも、ハッタリみたいなものって自由業の人にはいちばんたいせつなのかも。
成功とはなにを意味するかよくわからないけれど、
占い師の著者によると成功は――。

「そもそも成功は、その人を中心として「天地人」がすべて揃ったときにはじめて
手に入るものです。「天地人」とはすなわち、
時流(=天)、場所(=地)、自分自身と協力してくれる人々(=人)のことです。
その商品やアイデアが求められているちょうどいい時代に、
その商品を受け入れる土壌があって、
ふさわしい協力者を引き寄せると成功はつかめるのです」(P80)


成功なんかしなくても、その日が楽しければおいらはいいや。
明日は早いからもう寝るずら。あさってのことなんか知らねえさ。
なんかひさびさに職場のみなさまと会う気がしてどきどき、わくわく。
もうすぐお別れなのも、なーんか人生劇場を感じさせてくれ、よきかなよきかな。

「お釈迦さまが説いた、「おかね」ってなんだ?!」(ひろさちや/毎日新聞社)

→お金ほど難しい問題はないと思う。人生、お金っしょ?
だからこれは人生ほど難しい問題はないと言っているのとおなじ意味。
お金って稼げば稼ぐほど(たぶん)お金に縛られてお金を使う余裕がなくなる。
このため、世間で高価値とされるものを購入してかりそめの満足を味わって、
また翌日からはお金を稼ぐことに勤しむ。
お金を稼ぐ能力のない人は、時間的余裕はあるが元手がない。
で、結局激安店の行列みたいなものに加わって、これでいいのだという顔をしている。
お金は稼ぐのも使うのも本当に難しいと思う。
お金を稼ぐには労働するしかないが(いんちき詐欺に騙されちゃあかんよ)、
この労働というものがまたたいそうつまらない退屈なものになっている。
なかにはおもしろく楽しい労働商売もあるのだろう。
たとえば、価格交渉のある商売はお客さんとおしゃべりできて楽しいだろう。
若いころ暇に任せてアジア各地を旅したが、価格交渉はおもしろかった。
こちらがおもしろいということは店主も楽しんでいるのである。
受賞歴ゼロの自称宗教評論家のライターひろさちや氏は言う。

「デパートの正札[値札]も資本主義社会そのもので、
お客さんが誰であろうと正札どおりに売る。
そうすると、デパートの売り子さんは、生活がちっとも楽しくない。
労働時間八時間は、まさに労働・苦役になってしまう。
これは人間として喜びのない生活だ。だから、仕事が終わるとディスコに行ったり、
友達や恋人とグルメをしなければ、気がすまない。
しかし、トルコ人やインド人の商売は、お客さんとの話を楽しんでいる。
それが彼らの生活の楽しみだから、仕事が労働ではない」(P87)


いまはスーパーやコンビニの店員の会話はマニュアルで決められているでしょう。
あれ、つまらないよねえ。
わたしは大学時代、水道橋でコンビニ夜勤のバイトをしていたが、
そこのオーナーが(いい意味で)ものすごくいいかげんな人で、
本来あるはずのマニュアルもなにも見せてもらえなかった。
このためか、けっこうお客さんとおしゃべりすることもあったような記憶がある。
むろん、そんな店はわたしが辞めて5、6年後にはつぶれていたが。
いや、オーナーがちがうフランチャイズに乗り換えただけかもしれない。
お金が目的ではない商売とか、きっと思いのほか楽しいのだろう。
ならば、お金を目的と考えなければ、
あるいは単純作業労働も楽しいものになるかもしれない。
なんのために生きるのかって、それは楽しむためだあよ。楽しまなきゃ損損。

「薬をやめれば病気は治る」(岡本裕/幻冬舎新書)

→医者の著者がおかしなことを書いている。医者が出す薬をのむのはやめろとか。
薬はのめばのむほど寿命が縮むぞとか(早死にしたいおれはいい情報を聞いた)。
ならさ、岡本さんよお、もう医者を廃業したほうがいいんじゃないか?
そうなったら岡本さんは工場で若い外国人労働者といっしょに働けるかい?
患者がなにを求めて医者に行っているかといったら、薬だよ薬。
一般人は処方薬をお医者さまの許可なしには買えないから通院している。
なかにはこの先生に逢うと安心するという理由で医者にかかっているものもいようが、
岡本さんはそれほど大した人物なのかなあ。
だって、外科医以外はお薬を出すほか仕事がないでしょう?
そりゃあ、レントゲンやCTを見るとか、ないといえば怒られるだろうけれど。
結局著者は、たとえば肋骨を骨折した患者に痛み止めを出さず、
うちのリハビリに来いとかいう努力主義者なんだよねえ。
で、正義派ぶっているから始末が悪い。

「少なくとも医療界で生きていくには、薬のことを悪くいったり、
製薬会社を叩いたりするのはタブーです。
いくら正義を振りかざしてみたところで、
所詮は孤軍奮闘となるだけで、勝ち目はありません。
特に日本は、あまりにも国民がおとなしすぎて大きな声をあげないせいもあり、
正義感あふれるパイオニアはいつも討死にです。
日本という土壌では、正義はなかなか勝てないのかもしれません」(P48)


正義感あふれるパイオニア医師の岡本さんはアメリカで医者をやれよ!
けどさ、岡本先生、英語を話せるのかなあ、いひっ。
まったく薬のないアフリカの僻地とかで医者をやったらいいのかもなあ。
パイオニア医師の岡本裕氏が薬の代わりにすすめているものは努力である。
薬なんかに頼らず、もっと努力をしろ!
どうして限りある時間と持ち金を費やしてわれわれ患者がお医者にかかるのか?
それは国家資格保持者から「努力しろ! 努力が足らない!」と説教されるためなの?
正義のパイオニア医師は言う。

「薬をやめるというのは、むしろ正確ないい方ではなかったのかもしれません。
より正確にいうとすれば、自助努力によって、自己治癒力が高まれば、
薬が自然といらなくなるということなのです」(P161)


わたしは若くしてもう長らく降圧剤をのんでいるが、
そして降圧剤が大して意味のない可能性があることも本を読んで知っているが、
食事療法(しょっぱいもの大好きだもん!)や運動療法をしたくないし(時間がねえ!)、
さらに月に1回近所の美人先生にお逢いするのが
こちらの健康上必要だと信じるがために降圧剤もろもろを服用している。
ふん、早死に上等よ。とはいえ、正義に負ける悪役の自覚はなくもない。
おそらく「薬をやめれば病気は治る」ことも多々あるのだろう。
しかし、疾病利得みたいなものもあるんだから、完全正義の人にはちょっとなあ。

「嘘の見抜き方」(若狭勝/新潮新書)

→元東京地検特捜部検事が教える「嘘の見抜き方」のテクニック。
いやねえ、もうだらだらなおいらは嘘も本当もないんじゃないかと思うのさ。
昨日だったか、派遣会社のSさんからメールをいただき、
明日から5日間また例の北戸田の職場に入ってくださいと。
しょせん派遣なんだからシフトを教えてくれるのは前日かなあ、
と思っていたから、早くて驚き、即時感謝メールの返信。
そうしたら「よろしくお願いします」と。このへんどこが本当かわからないんだよなあ。
わたしはいまの職場でほとんど使えない存在である。
ぶっちゃけ、お菓子を入れるのがうまいわけでも早いわけでもない。
経験を積めば早くなるのかもしれないが、
最初にできないやつは他に回されるため修業ができない。
とはいえ今日はじめてのスポット派遣でも速い子はおれなんかよりはるかに速いから、
結局は能力差の問題に帰結するのかもしれない。
同僚の話を盗み聞きした感じだと、
おいらが明日から派遣で入ることで休まされる人が出るらしい。
もうどうしようって感じなんだよねえ。
派遣会社の人はたぶん温情やえこひいきで仕事を回してくれている。
ぶっちゃけ、派遣に登録したって仕事が来ない人は来ないし、
むしろそちらのほうが多い。
そういう現実を知ったうえで明日から、
どう派遣ばかりの同僚に顔を合わせたらいいか。

派遣会社の人と雇用者の関係はとにかく難しい。
いちおう形式上は派遣会社は雇用者に仕事をお願いする形式にはなっている。
しかし、雇用者はお声がかからないという状況がしばしばあるらしい。
そうなってくると、雇用者が派遣会社に
仕事をさせてくださいとお願いしなくてはならないわけでしょう。
けれども、そんな厚顔なことをできる派遣は(派遣は雇用の底辺ゆえ)皆無だろう。
派遣会社の社員から電話があったときがわからないのである。
1.本当に日本語の聞き取りができるというだけが長所の当方を必要としているのか。
2.経済的に困っているとご心配いただき、お仕事を回してもらっているのか。
ここで1か2のどちらが本当かを決めるのが国家権力(元検事の著者)で、
実際としては1も2も本当というか、1も2も嘘というか、
本当か嘘かよくわからないというのが、
現実に起こっているあらゆる事象に当てはまるのかもしれない。
たとえばだれかを刺したといっても、事実はAがBを刺したというだけで、
そのほかのことはなにもわからないわけでしょう。
いろいろな事情があってAはBを刺したわけだから、
そのへんの細かな感情や事情は法律的にはすくい取れない。
あんがい刺されたBのほうが世間的、法律的に悪かったということもありえよう。
本当のことなんてあるいはわかりゃしないのかもしれない。
本当だと思っていることが嘘で、嘘だとされていることが本当なんて、いくらだってありうる。
本当のことはわからないが、
とりあえず刑事裁判では犯人の自白がかりそめにも本当のこととみなされる。
自白といったって、言語能力は人それぞれなんだから、
法律的一律的に裁くことはできないと思うが、そんなことをいったら国家さまが機能しない。

わたしはすべて本当のことを言って嘘をつくことも、
すべて嘘をつきながら本当のことを相手に伝えることもできると考えている。
それはもう自他の言葉と汗だくになってつきあうしかない。
ヒントのようなものを有名大卒国家的エリートの書いた本から引かせていただく。

「皆さんからすると、ストーリーを完璧に組み立てた嘘のほうが
バレにくいように思われるかもしれません。
しかし、矛盾がないように綿密に準備を重ね、様々な質問を想定したとしても、
すべてに破綻のない嘘をつくのはとてもむずかしいものです。
一つに綻びが出れば、全て崩れてしまう可能性がある。
それを隠すための演技も必要となってきます。
しかし、真実と嘘をおりまぜれば、何が本当で何が嘘かわからなくなる。
特に、証明できる部分は真実を述べ、証明できない部分に虚偽をまぜれば、
煙(けむ)にまくことができるという訳です。
さらにこの手の嘘は、最初から最後まで嘘をつくより罪悪感が比較的弱く、
「嘘反応」も出にくいのです」(P130)


書き写して気づいたが、著者は本当と嘘の関係をまだまだわかっていないような。
なにが本当かというと、話し手が本当だと思っていることが本当なんだよ。
それをいくら嘘だと指摘しても話し手はおのれの非を認めないだろう。
いわゆる供述調書なるものは、調査官と被疑者が共同創作した物語で、
真実などというものからはもっとも遠いものなのだろう。
どうして国家権力はいわゆる被疑者の自白(物語)を本当と判断するのか、
そこがわからない――ということが本書を読んでわかった。

「確率的発想法」(小島寛之/NHKブックス)

→信頼している著者の机上の学問ではない実質的な経済本を読む。
著者は長い社会人経験を経て30半ばを過ぎてから大学院へ入学したとのこと。
このような多少異質な経歴が著者の本をおもしろくしているのだと思う。

この本は読めばためになるのだが、だから読んでとしか書かなかったら無責任。
それにわたしはいままで多くの人のお世話になってきたという勘違い、
あるいは妄想があり、少しでもそれをみなさまに返したいという思いから、
まあ、いくら一般書とはいえ
一般人にはなかなか読み通せないだろう(思った以上に難解な)本書を要約する。
いちばん衝撃だったのが一見正反対に思えるギャンブルと保険が、
おなじような確率計算のもとに成り立っているビジネスだと本書で知ったことである。
ギャンブルも保険も確率の上では損をする。
しかし、人はなにかを求めてギャンブルに走り、保険に頼りたくなってしまう。
そのなにかの正体とは――。
ギャンブルにはまる人は「確実よりも変動を好む性向」を持っており、
このために確率的にはお得とは言えない公的賭博行為に散財する。
言い換えれば、ギャンブル好きは「リスク愛好的」である。
保険に入る堅実な人は「変動を嫌う性向」を持っており、
このために確率的には損と言わざるをえない保険に加入する。
彼らは「リスク回避的」と言うことができよう。
ギャンブルが損だというのは確率計算上、わかっていたが、
賭け事の正反対ともいうべき保険も確率計算上はあまりお得ではないのか。
本書によると、たとえば火災保険。
火災なんて確率的にはめったに起こらないでしょう?
でも、ひとたび不運にも火災が起こったらその一軒は大損をする。
このために人は割高な火災保険に入り、たいていは確率的に火災など起こらないので、
その金をどぶに捨てることになり、
そのぶんの利ざやを保険会社が儲けることになるわけだ。
ギャンブルと保険はおなじ(確率計算上)仕組みで成り立っていると書いたが、
それでも競馬や宝くじなどの公営ギャンブルに比べたら保険会社は公益性があるらしい。
まあ、保険会社は競馬や宝くじなどをする胴元の国家よりもよほど良心的であると。
本書からその部分を引用するのは、
わたしも保険会社は人さまのお役に立つ(たとえるなら医者やナースとおなじ)
たいへん価値のある職種のひとつだと思っているからである。
経験から申すと、保険会社の人は驚くほど親切で、
公務員かそれ以上に人さまのお役に立っている。

「保険が成立する背景には、
人びとの内面的歪み[将来への不安]の利用だけでなく、
もう一つ秘密の仕組みがあります。
それは「大数の法則」の利用です。
[「大数の法則」とはサンプル数を増やせば、
そのぶん事象は確率上計算結果に近づくこと]
火災が、たとえば一万分の一の確率で起きる場合、
一万件程度の人々が結託して相互補助として火災見舞金制度を作ったとしても、
そこには大きなリスクが残ります。
それというのは、もし火災が一件ではなく、偶然二件、三件起こったら、
見舞金を互助会の会費から補償することはことは不可能になるからです。
加入件数が少ないと、大数の法則にはあずかることができず、
火災が確率通りではなく予想より多く起こってしまう可能性が少なくないのです。
けれども保険会社が一〇〇万件や一〇〇〇万件の契約を取ると、
そこには大数の法則が働き、出費額はほぼ予想通りになると想定できます。
これこそ大数の法則のご利益です、
このように保険制度というのは、
たんに人々の変動を嫌う性質を逆手(さかて)に取って稼ぐというだけのものではなく、
「個人の不確実性」を「集団の不確実性」に変質させる営為だといえるわけで、
ある種の「公益性」をもっていると考えられます」(P79)


お医者さんやナースさまも偉いが、

保険会社の人たちも偉い! とっても偉い!

みなさまは「リスク愛好的」でしょうか? それとも「リスク回避的」?
わたしはギャンブルはやらないから「リスク愛好的」ではないが、
生命保険にはひとつも入っていないから「リスク回避的」とも言えないだろう。
そろそろ「都民共済」くらい入ろうとは思っているけれども。
しかし、どちらかというと「リスク愛好的」と言えなくもないだろう。
基本的に日本人は「リスク回避的」な人が多いような気がする。
いい会社に入ってそこに長く居続け、
いつ来るかわかりゃしない老後の安泰を目指すというのはまさに「リスク回避的」。
異質な「リスク愛好的」な人がみんなと違うことをすることを見るたびに、
「リスク回避的」な保守的善人は、

危ない! と思うことだろう。

変な話をいつものようにすると、交通事故は確率的事象なのね。
どれだけパトカーがノルマのためか(本当にノルマなんてあるんですか?)
安全取り締まりをやっても(あれの罰金は高いんだってねえ)、
交通事故は毎年かならずある割合のもとに発生する確率的な悲劇である。
交通事故はもうどうしようもない世界で、いくら注意していても運転がうまくても、
相手がいきなり飛び出てきたらアウトの世界だから。
で、ひとたび交通事故で人を殺しちゃったらその後は賠償金やら罪悪感で地獄。
これは数学的に見たら、だれも悪くない、
自動車社会において確率上一定割合で起こらざるをえない悲しい出来事なのだが。
極論を言えば、交通死亡事故は自動車社会(ネット通販)の恩恵を受けている、
われわれのひとりひとりに罪があるということもできよう。
わたしはペーパードライバーだが、それでも研修を受ければ運転はできようが、
最後の最後までドライバー職はリスクが高すぎるので避けたいと思っている。
小さな子どもを轢(ひ)いちゃうとか、加害者はあるいは遺族以上に地獄だろう。

小島寛之さんは社会人経験がある経済学者だからよくものをわかっている。
この本は著者のべつのご著作同様たいへん勉強になりました。
マルクスが言ったとかいう、労働者は資本家に搾取されているとかいうあれは、
いまの経済学から見たら眉唾(まゆつば)なのかもしれない。
わたしは「リスク愛好的」なのか、いやたんに能力不足のせいだろう。
いま変動性が高く身分の低い派遣で小銭を稼いでいる。
いっぽうで「リスク回避的」な人はサラリーマン(正社員)として
「固定給与」得ていることが多いと思われる。
どうして労働者は安定した「固定給与」を求めながら、
なかにはマルクスに洗脳され資本家を憎むものが現われるのか。
以下は長文だが、尋常ならざる卓見だと思う。
お疲れでしょうが、どうか目薬をさしながらでもお読みください。

「一般の企業における「固定給与」のことを考えてみましょう。
会社の業績は景気やライバル会社との競争に依存して決まります。
したがって、売上は不確実に変動するのが一般的です。
にもかかわらず、多くの会社で従業員に対して
固定給与制度を採用しているのはどうしてでしょうか。
それは従業員と経営者の間の変動に対する態度の違いを
反映したものだと考えるのが自然でしょう。
従業員はリスク回避的性向が強く、収入の期待値が同じなら
変動給与より安定した収入のほうを望むと考えられます。
たとえば五分五分の確率で一〇〇万円かゼロ万円か、という給与と、
固定給与四〇万円というのでは、多くの従業員が固定給のほうを望むでしょう。
期待値は前者が五〇万円ですから、
平均的には前者のほうが高額であるにもかかわらず、
従業員は後者を選ぶものなのです。それは「変動を嫌う」性向のゆえです。
一方経営者は、従業員よりも多少変動に対して寛容なので、
売上の変動はすべて経営者が引き受けることになります。
すると平均的な差額の一〇万円は経営者の懐に収まる算段になるのです。
つまり、業績低迷のあおりはすべて引き受けるかわりに、
好成績の甘い蜜のほとんどを経営者がもっていく、
そういう構図になっていると考えられます。
従業員よりも経営者のほうがリスク回避の性向が小さいことは、
資産格差で説明されるのが一般的です。
従業員の多くは、蓄(たくわ)えがさほど大きくないため、
収入の変動は生活を直撃します。
彼らがそれを避けたいと思うのは不思議ではありません。
それに対して経営者のほうは、そもそも資産家だったり、
多角経営をしていたりするために、
収入の変動には蓄えを取り崩すなどして対応でき、
変動に強い性向をもっていると考えられます。
これが、会社における固定給与の背後に潜む社会性なのです。
このように現代の経済学では、固定給与性は、
資本家と労働者の対立関係からではなく、
変動に対する内面的な歪み[思い込み]の差異によって説明されるのが一般的です」(P80)


以上のように考えると、労働者は資本家からリスクを搾取しているとも言えよう。
まあ、決められた給与を支払わないような経営者は大いに問題ありだが。
サラリーマンでは儲からないから、投資家(資本家)になれという風潮があるようだ。
でもさ、いかにもいかがわしい投資本を読んでもさっぱり意味がわからないじゃない。
そのぶん、この名著は10年以上、
当方がわからなかったデリバティブ(金融派生商品)の意味をわかりやすく説明している。
本当に理解していないとものごとをうまく相手に伝わるよう説明できない。

「金融派生商品[デリバティブ]の開発で、
社会はリスクという実体のないものを商取引することになりました。
世の中には変動を怖がる性向の人がいます。
他方には、相対的に変動を嫌わない人もいます。
さらには、変動を利用して、稼ごうという人もいます。それが投機家です。
前者から後者にお金を払い、後者から前者に「確定性」が
引き渡される商取引の総体がデリバティブだと理解していいでしょう」(P82)


わかりやすいよなあ。著者は本当にあたまがいいのだろう。
だれだってリスクは怖い。
しかし、人生はリスクに満ちているとも言いうる。
著者は限りなく、天才学者に近いから、確率の嘘も見抜いているのである。
というのも、確率ってよく考えるとインチキとも言えるわけ。
なぜなら確率というのは、過去に起こったことを数値化して将来を予測している。
ならば、だとしたら過去に起こったことがないこと、前例がないことの確率計算はできない。
たとえばむかしはネットなんてなかったし、
無名人が実名ブログで好き勝手なことを書いたらどうなるかという過去の統計はない。
このため、今後当方の人生がどうなるかの確率計算はできない。
同様、まったくの新商売を始める場合、それは過去の統計(サンプル)がないから、
結果がどうなるかの確率は出てこない。
これは「リスク」という概念を発明したナイトという経済学者が、
「本当の不確実性」と(リスクから)区分したものである。
リスクは確率で計算できるが「本当の不確実性」は確率(数学、経済学)の領域外にある。

「ナイトの発想はこうです。世界で起きるできごとは、
複雑な要因に支配され、決して同一の環境からものごとが生起することはありえない。
したがって、独立試行を反復的に行うことによって
導かれる大数の法則を後ろ盾にした「数学的確率」は、
現実の不確実性を描写してはいない。
ナイトはこのような数学的確率(リスク)を「偶然ゲームの必然的確実性」と呼び、
現実への有効性を一蹴(いっしゅう/バカに)しました。
過去のデータから未来を予測することを無意味だとするのも同じ理由からです。
ビジネスの世界で重要になるのは、このような反復的観測ではなく、
しばしば「サプライズ(意外性)」であると彼はいいます。
実際、「サプライズ」という用語は現代の株式市場でもいまだにキーワードのひとつです」(P113)


「本当の不確実性」に対抗するにはふたつの方法がある。
ひとつは不確実性を減少させるために、とにかく情報を集めること。
うまい儲け話はないというけれど、あるところにはあるのだろう。
みんなが不確実性にびくびく脅えているところで確実な情報を持っていたら――。

「……9・11テロの直前に、
何者かが株式市場で大量の空売りをしたことがわかっています。
これは所有していない株を売っておいて、
世界中で株が暴落したあとに買い戻し、大儲けした例で、
テロを事前に知っていた人物ではないか、と疑われています」(P126)


もうひとつ不確実性に対処する方法は、こちらも不確実性に徹すること。
世界がデタラメ(不確実性)ならば、こちらもデタラメに生きれば五分五分にはなる。
どうせ投資なんか損をするのがほとんどなのだから五分五分でもおいしい話。
以下はそのことを書いている。

「また、確率現象というものを戦略として積極的に利用する場面もあります。
人は何かの勝負のとき、相手に手を読まれないようにするでしょう。
しかし、どうしても固有の癖があってそれを読まれてしまい、負けることがある。
そうならないために、サイコロを振ったり、乱数表を利用したりして、
相手を攪乱(かくらん)するのです。有名な例としては、
プロ野球のピッチャーが投げる球種を決めるのにグローブに貼った乱数表を利用する、
というのが流行ったことがありました。
後に試合時間の短縮のために禁じられましたが、これこそ確率の有効利用です。
別の例では、入試の試験問題の選択肢を乱数で作っている、というのがあります。
そうしないと、出題者の心理的な癖を受験生に読まれて
(あるいは統計をとって見抜かれて)、
勉強していないにもかかわらず高得点を取られてしまう可能性が否めないからです。
これをもっとも上手に利用したのが、
クイズ番組「クイズ・ミリオネア」(二〇〇四年の正月に放送)
に出演した新庄剛選手でした。
彼は、最後に出題された択一式の難問の答えを、鉛筆を転がして決めたのです。
それでみごと一〇〇〇万円を手にしました。
考えてみるとクイズ番組というのは、
いかにも取り違えそうな選択肢を混ぜるものでしょう。
だとすれば、考え悩んだあげく出題者の仕掛けた罠(わな)にはまるより、
むしろ完全な確率現象を利用するほうが有効なのかもしれません。
新庄選手の戦略は、
真の意味で有効な確率的発想法だったといっても過言はないのです」(P39)


わたしは「リスク愛好的」な性向を持ち、
世界はリスクの計算などできるものではなく、
「本当の不確実性」に満ちていると人生体験からも読書体験からも信じている。
これは「サプライズ」が起こることを信じているのと同義である。
確率計算できない「サプライズ」とは人との出会いであり別れだ。
計算式ではどうしようもなく表わせない人生における「救い」のようなものを
著者は本書に書いている。

「簡単なたとえ話で恐縮ですが、こんな経験が誰にも少なからずあるでしょう。
駅までの道のりを歩くとき、すべての道を試したわけではないのに、
一番いいと思い込んでいる道ばかり毎日毎日利用しがちです。
けれどもある日、誰かと偶然一緒に駅まで歩くことになって、
その人が使う別の道をいっしょに歩いてみると、
そちらの道のほうが(近さや安全さ快適さの意味で)より良好であると気がつく、
そんな感じのことです」(P202)


そういう学問では予測できないサプライズが起こるから、みんな絶望するなよ!
あわよくば自分がそういうサプライズを起こせたら、とみんなが思えたら。
わたしはサプライズを多く実体験しているから、
今後のサプライズにも微動だにせずむしろ喜々として向き合うことができよう。
小著から著者の意図するところ以上のものを読み取ってしまったのかもしれない。
(つまり、誤読したかもしれんスマンってことさ)

(関連図書)
「容疑者ケインズ」(小島寛之/ピンポイント選書/プレジデント社)
使える! 経済学の考え方 みんなをより幸せにするための論理」(小島寛之/ちくま新書)
「数学的思考の技術」(小島寛之/ベスト新書)
「文系のための数学教室」(小島寛之/講談社現代新書)
「使える!確率思考」(小島寛之/ちくま新書)

「反<絆>論」(中島義道/ちくま新書)

→2014年の12月に発行された新書らしいから、
ずいぶん遅れた東日本大震災の関連本になるのだろう。
ほうら、あのとき絆(きずな)、絆とやたら騒がれたじゃないですか!?
でもさ、絆はたいせつってみんな言うけれど、
絆とは言い換えれば人間関係のことなんだから、
家族をふくめて人間関係ってかならずしもプラス面ばかりではなく、
たっぷりふんだんにマイナス面も持っているよねえ、
といういかにもひねくれた著者らしい絆へのアッカンベエ本である。
絆の集積はたとえば創価学会で、あそこは噂話が飛び交っていそうだよねえ。
ある夫婦のある夜の営みを、なぜか全員が知っているみたいなさ。
狭い村落共同体とか、人間関係がめんどうくさそうでいやだよねえ。
会社を辞める理由の第一位ってたぶん人間関係=絆でしょう(笑)。
けれど、まったく人間関係がないと孤独になるから困っちゃう。
今日は4月1日エイプリールフールだから嘘を書くけれど、
いまは絶交したネットでの知り合いに14年ニートをしていたやつがいたなあ。
どうしておまえはそんなに孤独に強いんだってびっくりこいた。
いまその人がどうしているか知らない。
風の便りでは自殺に失敗して精神病院に入っているとか。

人間関係=絆のめんどうくさい理由を中島義道は的確に言語化している。

「人生の選択はほとんどその結果がわからないものである。
しかし、われわれは選択しなくてはならないことがある。
完全な善意から出たことでも、会社を倒産させるかもしれない。
恋人を自殺に追い込むかもしれない。
悪意から出たことでも、みんなから感謝されるかもしれない。
こうした状況に投げ込まれていること、
それがカントによれば原罪なのである」(P138)


よかれと思ってしたことが裏目に出るから人間関係=絆はやっかいだ。
自分勝手にした明らかな悪行が、すげえとか称賛の対象になることもある。
意地悪しようとしてやったことが、相手に感謝されることもあるでしょう?
親子関係なんてとくに難しいでございましょう?
親が子のためを思ってしてくれることの大半は子にとって迷惑。
成人した子が親孝行だと思ってすることも親には迷惑なことが多いと思う。
家でごろ寝していたいのに、わざわざ温泉なんか行かせるなよ。
ああ、行きたくもない海外旅行なんか連れて行かれて、
さも感謝しろと言いたげな子どもって、はああ、絆=人間関係めんどくせっ。
わたしは学校友人とか親戚関係はすべて切っているから、そのぶんラク。
まだ父は生きているらしいけれど、今年になってから一度も会っていない。
このように孤独だとさみしいけれど、うざい葬式とか結婚式とか免除されるからイイ。

中島義道がひどい本音を吐きやがっている。
それを言っちゃおしめえっていうか。

「他人との理想的な関係を言うと、「自分が必要なときには助力してもらいたいが、
それ以外のときには干渉しないでもらいたい」と簡単にまとめることができる」(P71)


おいおい、それを言っていいのかっていうガチンコ発言だよなあ。
母の自殺以降、父とはうまくいっていないと思っていたが、
中島義道の文章を読んで、
もしかしたら理想的な父子関係なのかもしれないとちょっとだけ思い直した。
昨年はパソコンの年賀状印刷の仕方を忘れたから教えに来いって言われて、
わたしは年賀状はだれにも送らないし、それにパソコンにも詳しくないので無理。
そう答えてもいいから来いよって。で、行ったら案の定、無理なものは無理。
こいつ使えねえなって顔をされてムカッと来た。
先約を優先して派遣仕事を断ってまで来てやったのに。
そのあと父はほかにやりたいことがあるらしく、もう帰れって感じなのね。
いやだねって思って冷蔵庫から勝手にビールを取り出して、ぐびぐび飲んだ。
父はそんな息子を無視して長々と風呂に入って、もういいだろうって顔で出てきたから、
しょうがねえ、こっちももういいかと思って早々と帰った。
1時間程度の滞在だったのではないか。ほとんど会話らしきものはなし。
うーん、中島義道に言わせるならば理想的な父子関係かもしれない。

本書で知ったがヒュームとかいう哲学者が自殺肯定者らしいね。
以下はエゲレスの哲学者のヒュームとやらの言葉。

「私が社会にとっての負担であると想定しよう。
私の生存が他の人に妨げとなり、
社会に対してはるかに有益であることを阻止していると想定しよう。
このような場合、私の人生放棄[自殺]は
単に無辜[むこ/なんの罪もないこと]であるばかりでなく
称賛に値するにちがいない」(P169)


母の自殺とか、いまではどうなんだろう。
むかしは母は子を愛すべきだとか、自殺はいけないとか、
そういう世間常識のせいで過剰に苦しんでいたところがあったのかもしれない。
でもそう言えるのは、いまだからで、あれは経験してみないとわからない苦しみね。
もちろん、嫌いな母が自殺してくれて、
せいせいしたって子も世の中にはいるんだろうけれど。
今日も朝方、夢にえんえんと母が出てきて、もういいかげんにしろと。
いったいどこまでわたしを苦しめるつもりなんだと。
いまはもう前世からの宿縁だろうとあきらめているから、あーあって感じ。
もう取り返しがつかないしさ。
そうそれから、自殺を自死と呼べっていう風潮はいやね。
なーんかコメント欄でしつこく当方を批判してくる匿名者がいるけれど、
わたしが自殺したら大喜びするわけでしょう。
だから、自殺はことさら悪でもないという気がする。
べつにいまさらする気も、機を逃したって感じがするから、さほど。
ほんと? そんなに生きたいか、おれ?
今日ってエイプリールフールとか呼ばれる日なんでしょう?

「創価学会 もうひとつのニッポン」(島田裕巳・矢野絢也/講談社)

→学会ウォッチャーの島田裕巳と元公明党委員長で古株学会員にして、
いまは脱会して「裏切り者」と相成った矢野絢也の対談本である。
どうしてこんなに(むかしの)創価学会にひかれるのか考えてみた。
おそらくいまおのれのバイタリティが消えかかっているからだろう。
欲望がないことが悩みである。ほしいものはギラギラした欲望。
いまの目標は、なにか欲望を持つこと。怒りでも反骨心でも復讐心でも構わない。
むかしは屈辱的な退学処分を受けたシナリオ・センターを見返してやりたいという、
炎のような怨恨ともいうべき熱情があったが、いまはすっかり消失してしまった。
そもそもいまの映画もテレビドラマもまったく関心がない。
ドラマどころか地上波テレビも見なくなってしまった。
政治への興味も世界経済への関心もない。
結婚したいとも正社員になりたいとも出世したいともほとんど思わない。
人生経験として(書くネタを求めて)結婚とか出世競争とかしてみたいという気はあるが、
とはいえそれほど熱烈なものでもない。
もう父からは結婚しろとも正社員になれ(正社員を目指せ)とも言われなくなった。
父より早く死ぬという親不孝はしたくないが、
父が死んだあとのめんどうくさい処理を考えると本音では父より先に逝きたい。
というか生命に執着がなく今月いっぱいの余命と医者からいきなり宣告されても、
「ああ、そうですか」と穏やかな微笑を浮かべられる廃人めいたところがなくもない。
かといって小金にはけっこう執着を失っていないのだから矛盾している。
女にボロボロになってみたいとか不埒(ふらち)なことを
まったく考えていないと言ったら嘘になる。
けれど、金儲けもそうだし女も出世もなにもかもめんどうくさい。

こういうわたしだからこそ創価学会のような反対の世界に興味をいだくのだろう。
というか、おそらくいまは休眠中だが、人一倍いわゆる学会根性を持っていると思う。
眠りから覚めたいのである。暑苦しい、しかし生き生きとした世界に帰還したい。
小さな相手の不手際に、このやろう、おれを舐めるなよ、いつか見てろよ!
と延々と些細なことを根に持つようなファイトがほしい。
いまは学会雑誌にも掲載される元プロレスラー天龍源一郎のように熱く生きたいのだ。
いまはすっかり学会に落とされた芥川賞作家・柳美里の、
それ以前の若いころのような破滅的な熱っぽい生き方をしてみたい。
口先だけではなく、むかしの学会員のような暴力的な違法行為を実践してみたい。
とはいえ、創価学会へ入信したいというわけではない(そもそも入れてくれないもん)。
かりに学会へ入れていただいても絶対役職にはつきたくないし活動家にはならない。
ただし公明党へは入れる。これはもういまでも入れている。
自分の得になる賄賂的な財務(寄付)をすることは
やぶさかではないが(これは後述する)、
純真な気持から財務をする気にはあまりならないだろう。
いまはもう悪口座談会がなくなったという聖教新聞はいらない。

いまの若い人は(たとえ学会員でも)知らないだろうけれど、
創価学会研究家のわたしはむかしのかの団体がえらくおもしろかったことを知っている。
矢野絢也は1957年に竹入義勝(元公明党委員長)と
初めて会ったときのことを以下のように回想している。
公明党の最初の参院選のとき、
関西の選挙活動の指揮を執ったのが(東京から来た)竹入だった。

「[竹入を]怖い人やなと思いました。選挙期間中、あまりぼろくそにしごかれたので、
選挙が終わって天満のレストランで送別会になったとき、
われわれ大阪の人間たちはみんな怒り心頭だったんですよ。
「よーし今日こそ、選挙終わったからぶんなぐったるねん」と、
それは竹入さんに対してだけではなかったんですが、えらい剣幕だった。
ところが竹入さん、挨拶する番になったら
「無理を言って申しわけなかった」みたいなことを言ったかと思うと、
「私、『夜霧のブルース』を歌いますと言って、
「男同志の相合傘でー」なんて歌うんですよ。それを聞いているうちに、
怒り狂っていた連中が感極まっておいおい泣いているんですな。
これはもう、信心でもなんでもない、浪花節の世界。
[むかしの?創価学会には]そういう感じってあるんですよ、竹入さんだけじゃなくてね。
(……) 殴るどころかね、抱き合って握手して別れたという、
それはね、池田[大作]さんにももっとそれがあると思うんです。
ぼろくそに怒ったあとで「元気かい」ってちょっと声をかける」(P52)


人間くさいドラマがあっていいよなあ。
むかしは大物が群雄割拠していたけれど、いまはなんだかなあ。
結局、戦争というのが人間を生き生きさせるという面もあるわけだ。
いまの男が男らしさを保てなくなったのは長らく戦争がないからという意見もあろう。
戦争といってもあの悲惨な戦争をイメージするのではなく、
国内の宗教戦争もまた人間をわくわくさせるのではないか。
そう考えると、現代において創価学会ほど宗教戦争を起こした団体はないのではないか。
他宗のみならず権威のよりどころであった日蓮正宗とも戦争をしている。
そのほとんどで勝っているともいえるんだから、創価学会は常勝の最強団体といえよう。
創価学会に骨の髄までしゃぶられつくされた矢野絢也は証言する。

「創価学会は、常に自分は正しいと勝手に思いこみ、
常に外に敵を想定して、それに襲いかかるのがバイタリティの源泉なんだから。
それは一面で離脱防止のミセシメになるのです」(P242)


過激派戦闘集団、創価学会の大将は池田大作先生である。
先生の裏も表も味わい尽くした矢野絢也は、
いまでも池田さんに惚れていることを隠さない。
池田大作先生は――。

「喧嘩上手ですよ。「攻撃が最大の防御」が池田さんのモットーです。
相手の出方によっては自分もダメージを受けるわけですよ。
ダメージを受けたときに、負けてなるかとハッパをかけられるかどうか。
池田さんのすごいところは、そこですよ。
負けても、負けたと認めない。
ましてや優勢となれば、それ行けどんどん」(P288)


かつての池田創価学会は、喧嘩上手、プロの戦闘集団だったのである。
いまの若い人は知らないだろうけれど、むかしは学会と共産党は犬猿の仲だった。
理由は、おなじお客さん(下層労働者)を相手にしていたからで、
いがみあわざるをえない。ところが1975年、創共協定が発表される。
これは作家の松本清張が創価学会と共産党の仲を取り持ったという。
ご存知のように、公明党は創価学会を母体としている。
当時公明党のトップだった竹入と矢野は、
創共協定のことを発表されるまで知らなかったという。
あまりのことに竹入は憤慨したが、創価本部から抑え込まれたという。
このように創価学会は巨大ゆえにトップの池田以下の指揮系統が
いろいろあり情報が錯綜することが多い。いまではもっとひどいだろう。
それにしても池田さんはすごいなあ。
いちばんの敵と手を組むようなことを平気でやるのだから。
これに関する裏事情を矢野絢也はばらしている。

「ところで、そもそも[創共]協定自体はどちらからもちかけたのかという問題ですが、
気になって野崎勲君に話を聞いたことがありました。
が、もごもご言ってるばかりではっきりしないんです。
ですが私の受け止め方としては、学会側からもちかけたということのようですね。
なぜそんな協定を結ぶ必要があったのかというと、
やはり対共産党対策を一〇年担保するためなんでしょう。
つまり、宗門戦争に備えて前門の虎を固めたということです。
そういう意味では、池田さんという人の発想は確かに奇想天外、
機略縦横[きりゃくじゅうおう/自由自在]だと言えるのかもしれません。
ものすごく大胆で、ドラスティック[過激・劇的]ですよ。
余人には思いもおよばないことをやりますわ。たいした戦略家ですよ。
実際そのあと共産党は、創価学会批判を完全にやめました。
律儀というか、生真面目に学会批判をストップしましたね。あの党は真面目ですわ。
もちろん創価学会のほうも「聖教新聞」では共産党批判はしませんでした。
しかし、僕は池田さんから言われたんです。
「おい、『公明新聞』で共産党を叩け」とね。大したお方ですよ。
ようおっしゃいますなと思って、つくづくお顔を眺めたことがあります。
つまり政教分離だから、[共産党の]宮本顕治さんとしても、
公明党のやったことに対して学会に文句を言うことはできないわけですね」(P167)


池田さんやるなあ。池田大作さんのこういうダークなところ、
デーモニッシュな部分がとても好きである。なにをやったっていいんだ。
常識や世間法なんて知ったことか! 
信心とは世間法など足元にも及ばぬ最勝の仏法、法華経と一体になること。
法華経精神とは勝利のためなら「嘘も方便」と命がけで思い切ること。
表面上は握手しておいて、裏では闇討ちを計画してもよい。
おれがおまえを育ててやると部下を徹底的にしごき、
自分の立場が危なくなったら、
その部下を平気で裏切りポイ捨てする精神がなければ男は世をのしていくことはできぬ。
創価学会は矢野絢也を裏切り者だと言うが、
矢野絢也からしたら池田大作さんに裏切られポイ捨てされたわけで、
これは矢野も認めていることだが、
残念ながら矢野は池田ほどの器ではなかったといえよう。
とはいえ、あれだけ池田に鍛えられたのだから有能な人物であることは疑いえない。

さて、戦争をするためには実弾がいる。実弾とは金のこと。札束のことである。
むかし創価の財務は寄付金控除の枠に入ると思っていたが、
どうやらそういうことではないらしい。
しかし、創価の財務は裏金の受け渡しに使われていた(使われている)のではないか。
わたしは賄賂(わいろ)というのは必要悪だと思う。
世間法では賄賂や癒着(ゆちゃく)は裁かれるが、
日蓮仏法や法華経から見たらそれほど大した問題ではない。
賄賂というとさも罪悪のような気がするが、庶民的には「おまけ」ともいえなくはない。
便宜をはかってもらった見返りになにもしないというのは、
法律的には正しくても人情の世界ではあまりよろしい態度ではなかろう。
相手になにかをお願いしたいときは「気持」をわずかでも差し出すのが心意気。
中小の会社がライバル会社から受注を奪いたかったら「誠意」を見せるしかない。
しかし、「気持」や「誠意」はよほど演技がうまい役者でも小道具なしには出せない。
そうはいっても難しいことはわからないが、
会社の経理で「気持」「誠意」という用語では金を落とせないだろう。
経済活動をしていくなかで裏金というのはどうしても必要なものなのだと思う。
大学時代、コンパのあとに先輩が酔っ払い運転する車に乗せてもらったことがあるが、
先輩はたとえ見つかっても
自分の親は都議会議員と通じているから大丈夫だと言っていた。
世の中というのはそういうもの。
世間法に縛られて窮屈に生きるよりも、池田先生のために自由に生きようよ。
自分のためではなく、池田先生のためにしているのだから、
広宣流布(布教)のためにしているのだから、小さいことにこだわるな。
創価学会の巨大財務の裏側が公開されたらみんな唖然とするに違いない。
国税庁は創価学会の財務の正体を暴こうとしたが、
正義の獅子たる矢野絢也は国家権力から多くの学会員を守った。
矢野絢也に足を向けて眠ることができない社会上層部の人たちは多いのではないか。
矢野絢也は学会のために国税庁と戦争をして、そして雄々しくも勝利した。
矢野は多くの苦労人学会員をエリート国家権力から守ったともいえよう。
国税庁は学会の財務のなにを問題にしてきたか。

「……公益の中でいちばん問題になったのが、
会員からの寄付、いわゆる財務ですね。
大口の財務の名簿を見たいと国税は言うわけです。
しかし、公平に見てこれは学会員のプライバシーなんですよ。
誰がいくら寄付をしたとか、私がいくら寄付をしたかということは、
国家権力なんかに知られたくない信仰の自由にかかわる重要な秘密であって、
プライバシーの問題なんだと突っぱねた。
しかし、国税庁からすれば、入りを調べなければ全体はわからないわけです。
寄付した人が本当は一〇〇万円しかしていないのに、
五〇〇万円したと言っているかもしれない。
逆に五〇〇万円しているのに、帳簿に一〇〇万しか入金記録がなければ、
四〇〇万円がどこかに消えていることになる。
そういうことを確認する必要があるから、
国税は財務の大口のリストを見せるように求めてくるんですね」(P198)


ここからいわゆる世間法でいうところの「不正」のさまざまな香りを、
嗅覚の鋭いものは感じ取らざるをえないだろう。
しかし、その「不正」が私利私欲のためではないのなら、それは本当に「不正」か。
世間の善悪なんていいかげんなものでうまくやれば合法で、
やりかたを知らなかったばかりに違法になることはいくらだってある。
とにかく最近、欲望が消えつつあるわたしが言いたいのは、
創価学会の欲望礼賛の教えがいかにすばらしいかである。
映画「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三ではないが、
人間の法を超えるものはあると思っている。
それは神の法かもしれないし、法華経かもしれないし、
池田さんの「おれルール」かもしれないし、
池田先生の影響を受けた学会員それぞれの「おれルール」かもしれない。
世間のルールにがんじがらめになり小さくまとまって生きているよりも、
おのれの欲望を肯定して「おれルール」で生きている人は、
ある面でとても人間くさく、見方によっては美しいともいえるのではないか。
全盛期の池田大作さんの魅力はそういうところにあったのではないかと思われる。
この人を男にしたい。ああいう男になりたい。
わたしは全盛期の池田大作名誉会長をなまで見たことがないから、
池田氏にそういう思いをいだくことはないが、
長らくプロレスラー天龍源一郎の大ファンだったので。
この人を男にしたい、ああいうおもしれえおっさんになりたいという気持は理解できる。
カリスマ性というのは体感しないとわからないが、
むかし後楽園ホールに天龍源一郎が登場するとそれだけで鳥肌が立ったものである。
おそらく学会員が池田大作氏に感じたであろうカリスマ的昂揚をわたしも知っている。
この人を応援したい、ああ、かなわねえ、けど、ああなりてえという気持のことだ。
この人をなにがなんでも守ってみせる、という気迫のことだ。

よい子の学会員さんは知らないほうがいい「ルノワール事件」という、
創価学会がらみのゴニョゴニョなあれがあった。
たぶん矢野絢也は本当のところを知っているのだろうが本書で吐き出していない。
いまだに池田大作氏への忠義心のようなものがあると思われる。
第一次国税調査は二十何億円かを納税することで国税と手打ちをした。
矢野絢也は過去をどこか懐かしく思い返す。

「これでやれやれと思っていたら、今度はルノワール事件です。
これは三菱商事が絡んでいて、またややこしい。
(島田「いまだに真相がよくわからない」)
だいたいはわかったんですけどもね。
とにかく約一五億円が行方不明金になっていて、
第二次国税調査になったんですが、陳情、お願いしまくりましてね。
このときは追徴課税はゼロですんだんですよ」(P238)


有能な人ほど裏を知りすぎてしまい結果としてトップから危険視され粛清される。
わたしは有能では断じてないが、
むかし上司からそのまた上司の悪口を酒の席で聞きすぎたせいで、
その直後に唐突に切り捨てられ会社から追放されたのかもしれない。
いま矢野絢也がヤクザから消されもせず、こうして書籍まで公刊できるのは、
まだまだ公開していない学会の秘密があるからだろう。
それはすでに記録しており、自分が不審死したら公開される仕掛けになっている。
こう言っておけばさすがに創価学会も矢野絢也に手を出せまい。

ここからはかなりマニアックな話になるが、
SGI(創価学会インタナショナル)なるものが存在する。
これはそもそも宗門対策としてつくられたことを本書で知った。
いまは喧嘩別れしてしまったが、創価学会はもともと日蓮正宗の門徒組織なのである。
権威は日蓮正宗の坊さんに依存して、金と権力は創価学会のほうが持っていた。
どう考えたって坊さんよりも池田大作のほうが「偉い」だろう?
ということで、創価学会は1975年にSGIの前身となる世界組織をつくり、
そこの会長を池田にして、
日蓮正宗の法主(ボス)はその下というあつかいにしようとたくらんだわけだ。
当然、日蓮正宗サイドは怒るわけで、これが第一次宗門戦争のきっかけになったらしい。
男って人の上に立ちたがるというか、
まあ出世くらいしか生きる楽しみがないのが男たるものの哀しさだよね。
男って本能的に威張りたがるようにできているのかしら。
相手の言葉尻をとらえて「上から目線」だとかいちいち声を荒らげたり、
学会員のコンプレックスは似たものをこちらも有しているからわからなくもない。

いまの二世、三世の学会員さんって、
本当に罰(バチ)とか功徳とか信じているのだろうか?
功徳は信じられないけれど、バチのほうは幼少時から教え込まれていると、
のちのちまでその人を縛るらしいね。
なにかよくないことがあるとこれはバチではないかって(笑)。
わたしは幸いにも(不幸にも?)家族や親せきに学会員がひとりもいなかったから、
バチへの恐怖感みたいなものはまったくない。
功徳とか言われても、いいことも悪いことも、すべては運やタイミングだと思っているから。
矢野絢也はうまく学会から抜け出すことができた。
いま脱会したい人は、突き詰めれば罰(バチ)が怖いのではないか?
このへんの心理メカニズムを優秀な矢野絢也氏はうまく言語化している。

「学会のいろいろな指導の影響もあるけれど、
自己洗脳という面が大きいと思うんですよ。
人に向かって功徳を説き、反対すれば罰を受けますよということを
日常的にやってきているわけですから。
折伏[しゃくぶく/勧誘]は、そういうことをやるわけです。(……)
自分のことを言うと恥ずかしいんですが、入信して功徳があるなんて、
そんなことあるわけないと内心では思っていたわけです。
ところが、人にそう言っているうちに、
「本当に私、功徳をいただきました。ありがとうございます」なんて言われると、
こっちが感激してしまうわけなんですよ。
えっ本当、なんてね。もちろん、そうは言えませんがね。
そういう現実を前にすると、功徳があるから信心しなさいと人に言っていることが、
逆に自分にインプットされる。一種の自己洗脳ですよ。
人に教えを説くことは、利他、他人のためですが、
同時に自分のためでもあるんですな。
そういうことがあると、もうその世界から抜けられなくなってくる」(P209)


今日はエイプリールフールだから話半分に聞いて(読んで)もらいたいが、
先日早朝法華経を読誦した日に驚くような功徳があったような気がしなくもない。
繰り返すけれども、今日はエープリールフールだからね。
世の中の裏側ってどうなっているかわからないわけ。
だれかのブログやツイッターのひと言が株価を変えることも実際あるわけだから。
だとしたら、法華経を読誦したら因果的にではなく、
共時的に幸運が舞い込むということも絶対にないとは言い切れないんだなあ。
わたしは南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両刀使い。
というか、なんでもOK! の人だから、創価学会にも顕正会にも偏見はない。
ある人たちにとっては学会活動はとても楽しいのだろう。
京大出のエリートの矢野絢也は指摘する。

「……選挙のときの学会員は本当に大変で、
足を向けては寝られないくらいありがたいんです。
が、その反面、意外に喜々としてやっていただいている面もあるんですね。
学会から選挙運動を除いたら、ガタがくるのではないかなどという人もいるくらいです。
財務の話もそうでしたが、選挙も一種の麻薬みたいなところがあるんです。
お金を出すこと、苦労して票を集めることに生きがいがある。
信仰というのはある意味で、
犠牲を払うことがいちばん高い境涯になるからなのでしょうか。
よくわからないのですよ」(P216)


わたしは選挙や財務に生きがいを見いだせないだろうが、
そういう人がいてもいいと思っているし、
あんがいそういう生きがいのある学会員さんのほうが、
いまや夢や目標を失い欲望さえ薄まった当方よりも幸福かもしれないではないか。
あの池田大作を育てたのは二代目会長の戸田城聖である。
矢野絢也も戸田城聖に落とされて学会に入っている。
酒なしでは説教のひとつもできなかったという戸田城聖はどのような男だったのか。
わたしは創価学会で「戸田に還れ」とまではいかないが、
努力主義の池田先生もいいが快楽主義の戸田先生も悪くないのではないか、
という一種のムーブメントが起きてもおかしくないような気がしている。
矢野絢也は戸田城聖と会ったときのことを以下のように回想している。
戸田城聖は――。

「存在感が大きい。それはこっちが小さいからでしょうけどね。
とにかく豪放磊落(ごうほうらいらく)っていうのと、
本当に牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけていたのが印象的でした。
(……) やさしい目、しておられたんですよ。
で、僕が紹介されたら、
「お前は京都大学の学生か、しっかり勉強せえ」と、こんな調子ですわ。
「親父がノイローゼだ? それはお前たちが狂っとるから親父が狂うんだ。
お前たちが狂わしてるんだ」と。
「どないしたらいいんですか」って聞いたら、
「放っておけば治るんだ」と、そんな調子ですね。
信心の話なんかしないんですよ。(……)
僕らは最初、新宗教の指導者なんてどうせ、
何でもかんでも拝めば治るって言うんだろうくらいに思っていた。
そういう先入観があったんですけど、
この先生はそうじゃないなと思いましてね」(P22)


ずいぶんむかしに宮本輝の小説から創価学会へ分け入ったが、
かなり奥深いところまで到達したのか、
それとも座談会へ潜入取材させてもらえないうちはまだまだ半人前なのか。
むかしの創価学会はおもしろい。
いまの学会がどうなっているかはお声がかからないからわからない。
顕正会だって黒服で挨拶に来る我輩さまを創価学会は無視するのでしょうか?
正義という言葉が嫌いなわたしは比較的に融通が利くほうだと思う。
ひょっとしたらいままでわたしはエフ(フレンド)として、
多くの学会員のお世話になったおかげで生きてこれたのかもしれないけどさ。
南無妙法蓮華経。

(関連名著)
「私が愛した池田大作」(矢野絢也/講談社)