「差別感情の哲学」(中島義道/講談社学術文庫)

→あらゆる誤解を恐れず言い放つと、わたしは差別が好きなわけ。
母とおなじように自殺すればその瞬間に終わりなのに、
わざわざ毎朝東京から埼玉まで人によって高低の(価値観は)わかれる賃金を求めて
作業をするために行っているのは、世間という差別構造を知りたいがためかもしれない。
いまの派遣先職場に入って、ものすごく興味を持ったのは上下関係(差別構造)だもの。
だれが上で、だれが下か。
だれが正社員か? だれが威張っている怖い古株か? メイトってなに?
それぞれの給料はどのくらいか? 年齢はいくつなのだろう?
かわいい女の子、きれいな女性はいないか? これって差別でしょう?
だから、わたしは誤解されるのを覚悟で書くが差別が好きなのである。
世間(差別構造)や言葉(これも差別構造)を知りたいから、
そういう好奇心ゆえに当面自殺しないで生きている。

とてもわかりやすく差別感情の本質を論じた本書を要約すると、差別とはなにか?
1.差別とは言葉である。
2.差別の原因は向上心である。

こんなことを書くと差別的だが、いやいま差別を論じているのだからそれでいいのだが、
埼玉は東京に比べて価値が低い言葉でしょう?
南浦和よりも表参道のほうが、上野よりも銀座のほうがどうしても上でしょう?
帝京よりも慶應のほうがどこか上に感じるじゃないですか?
ブロガーよりもライターは上。ライターよりも作家は上。東スポよりも朝日新聞は上。
言葉がそもそも差別(区別/わける)という機能を持っている。
がために向上心こそ差別の原因という中島義道氏の卓見に到達する。
やたら向上心が活発なメンバーがいるじゃありませんか。
そういうやつらが上とともに下をつくって、あからさまな差別構造(世間)を構成している。

わたしは言葉(わける/区別/差別)に興味がある。
この数年芽生えてきた世間への関心はなにゆえかと考えていたが、
本書によると、それは差別主義からだろうという結論にいたった。

言葉=差別=世界(世間)

わたしは言葉を好きでたまらないから、
必然として差別主義者で、世界(世間)を好奇心からながめざるをえないのだろう。
あのかわいい子はどういう言葉を使っているか(知的レベル)。
あの人はどのくらいの身分(収入)なのか(経済レベル)。
生活するとは差別するということで、差別を消滅させたら生きる味わいがなにもなくなる。
ぶっちゃけ底辺正社員よりも、大企業アルバイトのほうが待遇はいいでしょう。
それでも人は正社員を求めるし、社員を目指す短期アルバイトもニートを差別する。
ニートになったら終わりだとか。当方の夢は働かないニートなのだが。
大学や大企業という高貴身分のなかにいたら差別はわかりづらいという面があろう。
しもじもワールドに分け入ると世間(=言葉=差別)がよくわかる。
中島義道氏は比較的に恵まれた人生を送られているのに、
本書における差別感情への的確な論説には非常に感心いたしました。
東大卒のくせに、あたまがいい人っているんだなあ(え? え? え? 逆差別?)。

世界は言葉でできており、言葉(言語)は差別の源泉だと中島義道哲学博士はいう。

「言語には固有の社会的価値が付着しているのであり、
「官僚」や「医者」や「教授」の中にいかに劣悪な者がいようと、
それぞれの言葉は高い価値の響きを維持している。
同じように「ホームレス」や「中卒」や「水商売」という言葉は、
その中にいかに人格的に立派な人がいようと、
言葉としては価値の低い響きに留まっている。
とはいえ、価値の高低の響きは未来永劫不変なわけではない。
「韓国人」や「アジア人」という言葉から
価値の低さはほとんど消え去ったように思われるし、「ゲイ」という言葉は
ここ二十~三十年でずいぶん低さから脱したように思う
(ただし「ホモ」という言葉は依然として低い価値を担っている。
まして「オカマ」という強烈な意味合いをもった差別語は厳然として存在する)」(P40)


おっさんだがそれでも若い世代だからか、
当方は韓国人差別の理由がまったくわからない。
白人女よりもアジア女性が好きなのは、差別かもしれないなあと思う。
白人女に欲情するのなんて無理っしょ?
男は差別されている女ゆえに女に欲情して、恋のような錯覚をいだく。
男女平等の社会で自分よりも上の女上司に
欲情できる底辺男は生物学的には「正しい」のだろうけれど(けだもの!)、
人間科学的には異常とみなさなければならないのではないか。
いまあまりにも女性が強くなりすぎているような気がする。
社会問題にはからきし関心がないので、そんなことはどうでもいいのだが。
男女や貴賤、貧富という言葉が差別構造そのものである。
偏差値や年収、年齢、資産もみなみな(楽しい)差別。
生きる楽しみなど差別くらいしかないのかもしれない。

「……差別意識の強い人は、
一般的に人をランキングすることに情熱を燃やす人であろう。
より社会的に優位の人を尊敬し、
より下位の人を軽蔑する姿勢の強い人であろう。
人をさまざまな視点から見ることができず、おうおうにして
時代の風潮にぴったり一致した硬直した価値観から判断する人であろう。
上には媚(こ)びへつらい、下の者を足蹴にする人であろう。(……)
権威主義的性格の人は、ヒエラルキー[序列]を好み、上へ向かって
自らの属する社会における権威に盲従することに抵抗を感じないように、
下へ向かって社会的弱者を差別することに抵抗を感じない人である」(P86)


子どものころから植えつけられた向上心が差別の原因ではないかと著者は指摘する。
もっと上を目指せは、もっと下を差別せよと同義ではないか。
上を目指せば目指すほど上の反意語の下が意識され差別感情が芽生える。
生きるとは差別をするということなのかもしれない。
生きる楽しみは差別にしかないのかもしれない。
ひとりの人を愛するとは、その人と別の大勢を差別しているということでしょう?
家族愛は、家族とそれ以外を差別しているということ。
勉強しろ。いい学校に行け。いい会社に入れ。結婚しろ。家族はいいぞ。

「差別意識をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、
「よいこと」を目指すように教え込まれているからである。
清潔であること、規則正しくあること、勤勉であること、
傲慢であってはならないこと、弱いものを助けること、
……こうした価値[言葉]を教えられた子供が、
これらを目指していない者、
実現していないものを蔑むようになるのは自然である」(P154)


差別こそもしかしたら生きる最高の楽しみであり味わいであるのかもしれないのだから、
差別を撤廃するなどしてはいけないし、試みても無理なのだろうが、
差別が大好きな当方は差別克服方法を鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍というマイナーな坊さんから教わったような錯覚がなくもない。
世界は言葉であるならば、その相対的言語を絶した境地を得れば差別は消える。
善悪も美醜も貧富も貴賤も相対的言語である。
相対的な言葉を超える南無阿弥陀仏の
絶対的な無言語境地にいたったらダンス、ダンス、ダンス♪
というのが一遍上人の説いた教えである。
おそらくあらゆる賞を嫌う無位無冠の中島義道博士も、
目指す境地はそこなのかもしれない。
以下のようなことができたのが一遍という鎌倉時代の田舎乞食放浪坊主だ。
すべての価値観(言葉=差別)を捨てていたのが一遍である。

「社会的価値の高いものを自分より具えている人の前に出ても、
高邁[高貴]な人は卑屈にならないのに対して、
高慢[卑俗]な人はその人を憎んだり妬んだりする。
逆に、社会的価値の高いものを自分より具えていない人に対して、
高邁[高貴]な人は優越感を抱かないが、高慢[卑俗]な人はその人を蔑む。
高邁[高貴]な人が社会的価値[世間]に左右されないのは、
それよりも大切な価値[たとえば南無阿弥陀仏]を知っているからであり……」(P117)


差別感情とはなにか? とか考えられる時点で生活を無視しているのだろう。
生活するとは、食っていくとは差別するということだ。
偉いものにはペコペコして、目下のものには横柄にふるまうのが生きるということだ。
食べていくとは、そういうこと。差別とはなにか、なんて考えないこと。
著者もわたしも差別を考えている時点でどこか生活者を見下しているのかもしれない。
けれど、生活者が健気でまじめで勤勉で、
清く正しく生きるのに必死というのもどこまで本当だか。
これはアカデミズム(知的学問世界)をけっこう上手に世渡りしてきた著者の
知らないであろうわたしの現実=真実(錯覚)である。
しかし、著者とわたしはおなじように差別主義者である。
わたしは以前、知的障害を持つ青年3人と働いていたが、彼らがいまでも嫌いである。
疑いもなく、知的障害者をわたしは差別している、嫌っている。
中島哲学博士が本書で知的障害に言及していたのはこの一か所だけである。

「知的障害者ならば立派な(?)弱者、
被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。
しかし、単なる低学力者[低偏差値、バカ学校出身]はいかなる保護もされない。
この理不尽をまえにして仕方ないと諦めるほかないのである」(P130)


そういう理不尽や世界の矛盾を知ることが生きる楽しみなのかなあ。
いつ死んだっていいと思っていたら、どこまでも身を持ち崩せる。
書物だけではわからない、
たとえば中島哲学博士の知らない世界を味わいたくて、
わたしはいやいやながらも生きているようなところがございます。



仕組みはよくわからんが、
うちのアフェからなんでもいいのでものを買ってくだされ。
お金がこちらに入るらしいし。そして、コージーコーナーのマドレーヌを食べたし。



世を甘く見ているのかもしれないが、甘いものを食べて、甘やかされて、甘く生きたい。
死ぬまで甘く♪
「ヌエのいた家」(小谷野敦/文藝春秋)

→日本最高のよもやま学者、絶対知者の小谷野敦さんの
最後の芥川賞候補作をいまごろ読む。
40を過ぎるとさすがに小説を読むという気力は低下する。
いろいろな現実を知ってしまうと泣ける美談とかあまり読みたいと思わなくなる。
いや、本当に人生の辛酸をなめた苦労人こそ
甘い娯楽小説を読むものなのかもしれない(というか、いま小説を読むのは女性だよね)。
趣味は? と聞かれて読書と答えるとエロ本? 
という感想しか返ってこない当方の人相であり全身にまとった人柄というものだろう。

さて、本作は臨終間際の父に対する複雑な感情を、
著者の事実(これを主観という)に基づいて書いたところの傑作私小説である。
なかなか経験しないとものごとはわからないが、
わたしにも父親との葛藤やあつれきは長くあるので、
ところどころで著者のものの見方に自分の体験を照らし合わせた。
考えさせられるところの多い名作であったように思う。
父と息子の間柄はどうしても男の勝負(勝った負けた)になってしまうという関係性の
細かな綾(あや)を巧みに描写していたように思う。
文芸評論家でもある小谷野氏は本作が芥川賞にふさわしい小説であることを
作品内で説明してしまうのだが、
そういう物欲しげなお茶目なところがファンにはよく知られている著者の魅力だ。
著者は愛妻と実父をヌエ(妖怪の一種)と名づけて客体化している。

「私も古今東西の文学作品をいろいろ読んだが、
マクベスやら、カラマーゾフの父親のように、憎まれている登場人物があり、
ディケンズのミコーバーやドストエフスキーのマルメラードフ、
あるいはチェーホフのワーニャ伯父さんのように、
軽蔑されつつ哀れみを感じさせるという人物はいても、
ヌエ[父]のごとく、ただ憎まれかつ軽蔑されかつ哀れまれもしないという人物は、
見たことがない」(P50)


だから、世界文学史上まれなヌエ(わが父)を書いた本作は新しく、
芥川賞を受けるにふさわしいのではないかという著者の意気込みを感じさせる。
子を持ったことのない著者は(わたしもそうだが)父の気持がよくわからない。
このためどこにでもいるような父がヌエ(妖怪)に見えてしまうのかもしれない。
小谷野さんはヌエに「早く死ね」だの「苦しめ、もっと苦しめ」といった暴言を
死後になってから小説に心中表現として吐露しているが、
これは「死んだ人の悪口は言わない」「子は親を敬うべし」
といった社会通念を壊していて小気味がいい。
現代日本においてもなおいかに多くの親子が、
「親は子を愛すべし」「子たるもの親を敬うべし」といった社会規範に苦しんでいることか。
この傑作小説を読んでそれまでの思い込みから、
解放されたような思いを抱いた読者もいるのではないか。

小谷野さんはお父さまを嫌いだと公言し、男のひどさを描写するが、
かのヌエと呼ばれる小市民はどれだけ息子に貢献したか、という見方もできる。
第一にこの父がいなければ著者は小説「ヌエのいた家」を書けなかった。
第二にヌエのおかげで子のいない小谷野夫婦は結束が固まったのではないか。
著者はヌエとのめんどうくさいやり取りをすべて妻に任せていたというが、
子がいない夫婦はヌエを共通の敵とすることでどれだけ連帯感を持ったことか。
あんがい老後、子のいない小谷野夫婦が過去を回想したら、
ヌエの臨終騒動時期がいちばん懐かしく思い返されるのではないか。

父親と息子というのは似るか反るかのどちらかになりやすいのだろう。
わたしは以下のところに小谷野父子の好対照を見つけた。
ナースへの対し方である。
東大卒の作家である小谷野敦さんはナースを怒鳴りつけるらしい。
なんでもヌエ(お父さま)が道で転倒して病院に運ばれたそうだ。

「1週間くらい後に、脳のCTを撮って何か悪いところはないか調べるとのことだった。
とくに悪いところはない、という話だったが、その際私が病院へ電話して、
看護婦に質問していると、この看護婦が、いちいち「うん、うん」と相槌を打つのである。
別に私は偉い人でも何でもないが、遂に腹に据えかねて、
君、うんうん言うのやめなさい、失礼でしょう、と怒鳴りつけた。
腹立ちが収まらず、看護婦長に電話をして苦情を言った」(P32)


この後の宅急便ドライバーを怒鳴りつけたエピソードからもわかるよう、
小谷野敦さんは弱いものには強く出る正直な人なのである。
いっぽうのヌエ(お父君)はどうかと言えば、
ナースに子ども扱いされわいわいきゃっきゃと喜ぶようなところがあった。
まあ、見ようによってはナースにかわいがられていたのだろう。
ナースにかわいがられるヌエからは、どうしようもなく宿命のようなものとして、
ナースを叱り飛ばすような小谷野博士が生まれざるを得なかったのかもしれない。
当方も父とはそういう鏡のような関係にある。
父は権威的なものが好きでわたしは嫌いだが、
両方ともに権威に関心があるという点では似通っていると言えなくもない。
しかし、いまは息子のほうは権威もどうでもよくなって、それが困りのタネなのだが。
わたしの話はさておき、このように小説「ヌエのいた家」は、
男性読者におのれの父子関係を思い返させるといった点ですぐれた私小説である。
じついいい小説を読んだと思う。
本作が芥川賞を取れなかったのは残念でならない。



甘いお菓子とコーヒーと読書は、人生の小さな宝物。
会社が派遣を早く帰してもいいなら、
派遣が会社を自主的に早帰りしてもいいと思い(むろんこれは後付けの理由)、
もう限界という感じで職務放棄に近いかたちで早帰りしてしまった。
でも、人員的には足りていたから、
わたしが早く帰ったことで派遣先会社は利益を上げている。
派遣元会社は多少の損をしたかもしれないけれど、そのくらい許してよ。
「今日で辞める」とかたくさんの人に言ったなあ。

独特なルールを強弁に主張する職場派遣古株のMさんという好青年がいらっしゃる。
えらくむかしから働いているとのことで仕事にポリシーをお持ちである。
同僚もみな敬意をいだいているようなので、当方もおそれていた。
というか、Mさんはわたしなんかにやたら気を遣ってくださるので感謝していた。
しかし、独自ルールの持ち主。
たとえば箱は最初にぜんぶ開いて積まないほうがいいとか。
それはとても「正しい」ことで、ああいうふうに箱を積んでいると運ぶときに倒れる。
しかし、みんながそうしているし、現状のままでもいいと思う。
わたしはどっちでもいい。どちらもまあ、それぞれ「正しい」はず。
Mさんが「供給」をやっているときは、好青年に合わせて彼の作法でやっている。
彼がいないときはみんなに合わせて作業している。

いまの派遣先職場には「供給」という、
わたしからしたら時給1200円をもらってもできない男性用力仕事がある。
ちなみに当方のいまの時給は、おっとそれは書けないなあ。
いまの職場でいちばん難しい魔の作業は「供給」だ。
時給1500円でも「供給」はちょっとなあ、と思うほどわけがわからない。
しかし、肝心かなめの職務でここを怠ると女性陣の非難が集中する。
昨日新しくできたらしい「供給」のマニュアルを社員さまから口伝えで教わった。
最近好人物のHグループ長が新しい「供給」のわかりやすい表を作成してくださったようだ。
たしかにそれはとてもわかりやすいと思う。
しかし、派遣の古株好青年Mさんは、新しい表を見ないほうがわかりやすいという。
たしかにそれも一理あるのである。
従来の表を参考にしたほうが馴れればわかりやすいという面もある。

昨日公式マニュアルを読まされた。
今日派遣古株のMさんからマニュアルとは異なる実際的なご指導を受ける。
わたしは「供給」はまだ5回しかやっていないが指導者は同年齢のKさんだった。
Kさんの言うこととMさんの言うことが異なる。
MさんによるとKさんはフィーリングでやっていてよくないとのこと。
わたしはKさんの言うこともMさんの言い分もそれぞれ「正しい」と思う。
ただしご年齢のせいかKさんの教え方のほうが当方にはピンと来た。
かつては殴りたいとか書いたSさんは、
「供給」はけっこう「なんでもいい」派で、
わたしはSさんから一度も「供給」を教わったことがないけれど、
完全を目指さないSさんの「供給」方法がいちばん現実的な気もする。

当方は頭脳処理能力が低いから3つも「供給」方法を教わるとパニック。
(Kさん、マニュアル、Mさん)
今日はシフト表では「供給」に入っていなかったのに、いきなり研修だとか。
研修コーチは自分が絶対「正しい」という信念をお持ちの好青年のMさん。
みんな「供給」はいやなのよ。わけがわからないし、いちばん叱られる仕事だし。
明日もまた「供給」なので、もう今日で辞めてしまおうかと思った。
よくわからないことはできないじゃない。
どうしたらいいのか、だれに聞いたらいいのか、まるでわからない。
しょせん派遣。辞めればオールクリア。

本日何人の人にお別れの言葉を言っただろう。今日で辞めます。
大金をいただいているわけでもないのに、そこまでいやなことをする必要があるのか。
今日で終わりと思ったら、なんと職場や同僚の美しく見えることか。
もうここには来ない。だれとも逢わない。これで終わり。
無理なものは無理。「供給」はわからない。
次の仕掛け品の準備をしながら、残量が足りるかどうか計算するのなんて無理だから。
今日もフランポワーズが危ないような気がして、
指導者のMさんに報告したら大丈夫とのこと。だが、結局数枚足りなかった模様。
これはMさんが悪いというわけではなく、そこまで計算できないわけ現実的に。
それでも古株ならなあなあで済ませられるが、新人は責められることがある。
残量計算は現実的に実際問題として無理なのだと思う。

次の仕掛け品の置き方を今日Mルールで教わった。
いままで聞いていたものと違うが、そちらが「正しい」のかもしれない。
明日の「供給」をいったいどうしたらいいんだよ。辞めたい。
どうしたらいいかわからないんだから。
というか、こんなまちまちのルールがある会社で働くと自分が壊れる。
今日でさようならでもいいんじゃやないか。
重いバンジュウの「正しい」「供給」の仕方もMさんから今日教わったが、
わたしの場合、それでやるとやたら腕に負担がかかり落としそうになるのだ。
でも、Mさんの視線があるうちはそれでやらないと相手の気分を害してしまうだろう。
ご自分は古株ゆえそれが「正しい」と思っておられるのだから。

辞めちゃえばいい。
どうせ3月終わりだし、なら2月終わりでもそう変わらないではないか。
2月で終わりなら、べつに今日で終わりでもいいではないか。
まえの会社は退職勧奨を受けて辞職している。
上が下を自由に辞めさせることができるのなら、下が勝手に辞めるのも自由だろう。
社員さんにも今日で辞めると言いまくりました。
しょせんいつでも切れる派遣だもの。
女性社員さんからは「供給」なんてスポット派遣でもできると以前うかがったことがある。
辞めちまおう。帰っちゃおう。
もうあたまがパンクしていて1秒でもこの場にいるのがいやだった。
今日のお給金もいらないが、そういったら派遣会社にご迷惑がかかる。
これで明日からは破滅への道、自由の道になる。

派遣なんてすぐ辞められると思っていたが、そうではないらしい。
明日のシフトが決まっていると言われる。
えええ? でも「供給」なんてスポット派遣でもできる楽勝仕事なんでしょう、K原さん?
社会人としてそれはどうか、人間として即日バックレはどうかと当方もいろいろ考える。
あそこの現場と事務所は仲が悪いという説もあるけれど、
今度は事務所の女性にわざわざ話を聞いていただく。
めんどくさい派遣でごめんなさい。
現場のことは現場でしかわからない。
ツッチーもう辞めたらという視線もいくつか感じたような気がする。
ツッチー最高、そこで帰っちゃうの、おもしろすぎ! みたいな視線も。

ぶっちゃけ身もふたもないことを言うと、
わたしは明日派遣先会社に行ってわけがわからない「供給」をしたくないのである。
生活者としてはそういう行動は問題ありだが、
表現者としてはそちらのほうが見込みがあるともいえなくもないわけで。
生活者も表現者もどちらも「正しい」のである。
わたしは明日絶対会社に行くと派遣社員さんにも会社にも約束したから、
たぶんおそらくかならずや行くことだろう。
ここで不義理を働ける人をすごいと思うし、
尊敬するような危ないまなざしを当方は持っている。
おれは無断欠勤もできないようなつまらない男なのか。その結果は明日出る。
あんがいすべてを放棄して借金やらなにやら、
メチャの無頼生活を送ったほうがこの先希望のようなものがある可能性もなくはない。
さて、明日わたしは会社に行くのか行かないのか。
今日、自主的早帰りしたのは人員過剰を知っていたから、
決して派遣先会社に不義理はしていない。
そういうことにこだわるのがちっぽけな人間の証拠だろう。
もうすぐ漫画家のサイバラの元夫が死んだ年齢になる。
宮沢賢治も太宰治ももう死んでいる。
明日もまた朝6時に起き、今日さぼった洗濯物を取り込みたたみ、
くさいとかいわれるといやだから朝シャンして7時半に家を出るのか。
うんざりだなあ、げんなりだなあ。めんどうくさい。めんどくさっ。
派遣先職場に行ったら、毎度変わらぬ単純作業。
いくらお金のためとはいえ、
こんな作業を年単位でできるのはイエスブッダれべるの偉人。
酔ってうっかり登録したのか、
いま近所の求人があると自動的にメールが送信されてくる。
ぶっちゃけ、いまのところより高時給、近距離(短時間)、好待遇っぽい仕事も、
まあ、どんぐりの背比べレベルだが、けっこうあったわけ。すべてスルー。
11時出勤の近所とか最高じゃん。
じゃあ、どうしていまの職場に通っているかというと同僚かなあ。人間かしら。
こんなダメダメなわたしを相手にしてくれる、おもしれえ人間がけっこういるから。
時間経済効率的に考えたら毎朝ここに通うのはお得ではないが、
なにかそれを超えたものが見えるんだあな。
埼京線電車通勤とかひさびさにしたけれども新鮮。
毎朝、おなじ顔ぶれと出会うのだから。
しかし、みなとは縁がない。いや、縁があるからこうなったのか。
毎朝乗り合わせる長身イケメンの男子高校生がいる。
そこにおなじ時間帯に乗ってくる、
どこかハーフっぽいこれまた長身のかわいい女子高生がいる。
ふたりがくっついたらおもしろいなあ、なんて毎朝どこかで考えている。
そういうのも生きる楽しみのひとつだよね。
で、北戸田駅でおりたら女子高生がわんさか。みんなかわいく見える。
うちの高校は制服がなかったからかもしれない。
女子高生はかわいい。
わたしなんかを派遣でも雇ってくれる会社さまにあれこれいう権利はまったくない。
現実や世間を教えてもらっている学校のようなものでおもしろい。
タイムカードを通すまで着替えやらなにやらでけっこう時間を奪うのって、
いかにもなあれであれらしく、あれでいいよねえ。
経験から物流会社はどこもそうだが、
仕事を早くしろと言われて早くすれば早くするほど早く帰されて、
9割以上が時給換算の労働者は収入が減少する。
それでも早くしようとお互いを牽制して注意しあう労働者って美しいよねえ。
がんばればがんばるほどもらえるお金が減るのにお互い急かしあう労働世界。
早帰り指示書ってなに?
労働者を定時に反して早帰りさせるのは違法でしょ?
自分で早帰り指示書に記入させればOKかもってどこの悪徳弁護士が入れ知恵したの?
それもこれもここは、今日は安全パトロールが来るので、
いつもはやっているあれをやめましょうという派遣やパートばっかりの埼玉異世界。
いちばんの安全対策は急がせないことなのだが(あわてさせない、走らせない)、
そんなことさえわからないし、わかっていても口にできない無言圧力労働ワールド。
ラインをとめないのが絶対正義。
でも、きれいなミセスはいるし、かわいい女子もいるから、まあいっか。
あと1ヶ月で終わりだから、みんな許しちゃう。
明日も早起きして遅刻しないように、ぼくがんばるお。春が来るまでがんばるお。

↓疲れには甘いものがいちばん♪
「よくわかるお経読本」(瓜生中/角川ソフィア文庫)

→有名どころのお経をコンパクトにまとめた文庫本。
お経の意味は教わるものではなく、何度も読んで自分で気づくものだから、
初学者は(ああ、我輩もそうか)どの本を手にとってもいいのだろう。

仏教にはいろいろな宗派があるのだが、
しかしすべてを要約する魔法のような言葉がある。
それはお経の冒頭に使われていることの多い如是我聞(にょぜがもん)である。
意味は「(仏から)是(かく)の如(ごと)く我は聞く」。
イエスもそうだけれども、釈迦(しゃか)は教えを書き残していないでしょう。
仏教の宗派はあまたあれど、どれも如是我聞(おれはこう聞いた)なのだ。
この如是我聞で大乗非仏説(大乗仏教は仏の説いた教えにあらず)から、
あらゆる宗派における教義の相違まですべて乗りこえることがことができる。
原始仏教、初期仏教、小乗仏教というのは、
学問的にかなり釈迦の教えが入っているとされている。
しかし、それとてしょせんは如是我聞に過ぎないと言えなくもない。
日常生活をかえりみたら、だれもが如是我聞のうさんくささに気づくのではないか。
たとえば上司が部下に指示を出す。
上司は部下が指示に従わないので怒るが、部下は自分はこう言われたと思った、
つまり自分はこのように上司の話を聞いた(如是我聞)と答えるだろう。
そうかと思えば、きちんと上司の指示を守って仕事をするものもいよう。
たとえば母親が子供に雨が降ったら洗濯物を取り込んどいて、と言う。
母親が夜遅く帰宅したら洗濯物が干しっぱなしである。
子どもを叱ったら、だって雨が降らなかったもんと子どもはぐずる。
雨が降らなくても日が沈んだら洗濯物は取り込むベきでしょうと母親はあきれて言う。

たとえば、作家の講演会に行ったとする。
小林秀雄賞作家の山田太一のような有名人なら聴衆もたくさん集まろう。
後日、聞き手ひとりひとりに講演会の内容を書いてもらったらバラバラではないか。
おなじ話でも深く聞ける人と表面上の上っ面のことしか聞けない人にわかれる。
山田太一にうまく取り入って家で手作りのチャーハンをごちそうになったものがいる。
そこでいろいろ業界話を聞いたとする(これが原始仏教)。
山田太一とは一度も逢っていないが氏のシナリオ本を繰り返し読んだ男がいる。
男も書物を通して山田太一の話を聞いているのである(如是我聞)。
いまは山田太一を例に出して書いたが、だれの如是我聞も「正しい」でしょう?
なぜならどの人も山田太一の話を自分なりに聞いているわけだから。
あんがい山田太一の言っていないことまで聞いてしまった人がいて、
あとから氏がそれを読んでみたら話のすばらしさに感心するようなことも
まったくないとは限らないのではないか。
いくばくかの優劣はあるかもしれないが(その基準をどこに置くかは難しい)、
「正しい」という面ではどの如是我聞も間違いなく「正しい」――。

最初に仏教とは如是我聞だと書いた。
そもそも話し言葉も書き言葉も正確には伝わらないから、どの如是我聞も「正しい」。
わたしは釈迦の時代に近い小乗仏典をつまらなく感じ、
一方で大乗仏典は(小乗と比べたらという程度の話だが)おもしろいと思う。
しかし、釈迦の教えっぽい小乗的な如是我聞を好む人がいてもいい。
いくら怒るなって言われたって(小乗仏教の決まり)、
むかついたら人間は怒るだろう(大乗仏教の現実)とは思うけれど、それでもさ。
以上ですべての仏教宗派の壁を取り除いてしまったことになる。
どの仏教宗派もそれぞれの如是我聞なのだからそれぞれ「正しい」――。
新約聖書も如是我聞と言えなくもないだろう。
よくわからんが、イスラーム(イスラム教)は
ムハンマドとやらがアッラーの声を如是我聞したわけでしょう?
歎異抄は、優秀な唯円が田舎坊主の親鸞が(おそらく)言ってもいない深い内容を
天才的な耳で如是我聞をしたのち熟成させ完成させた記録と言えよう。
いまでも日蓮大聖人の肉声を如是我聞する人は大勢いるだろうし、
それはおのおの如是我聞という意味において優劣や正邪はないと言える。
創価学会の池田大作名誉会長のお言葉も、
信者さんはみんなそれぞれに如是我聞していると思う。

なぜ如是我聞でいいのかと言うと、人間は如是我聞しかできないからである。
自分の目や自分の耳でもってしか人の話を読めないし聞けない。
これはどういうことかと言うと、人間は自分の言葉(=体験)の限界をこえられない。
少しずつ体験(言葉)は増えるだろうが、
加齢とともに純粋さが失われるようなこともないとは言い切れない。
そもそも仏はそれぞれの心のなかにいるという説がある(仏性)。
そうだとしたら、如是我聞とは自分の心の深い声を聞くことなのかもしれない。
さらにそうだとしたら、釈迦とは無縁の大乗仏典も、
たしかに作者がおのれの心中でブッダと見(まみ)え聞いた話と言えよう。
だから、あなたやわたしも如是我聞の結果、自分だけのお経をつくることもできるのだ。
いつも前向きに明るく周囲を励ます指導者の口真似をする人生も立派だが、
それより劣るのかもしれないが自分の如是我聞を生きるのもおもしろかろう。
しかし、病的妄想のようなものを如是我聞してしまうと周囲は迷惑をこうむる。
いやいや、あんがい新興宗教の教祖になっておいしい思いができるのかもしれない。

ここから先は少しだけ専門的な話になるので、
わからなかったらそれは書き手が悪いのでどうかお読み飛ばしくださいませ。
大乗仏典に阿弥陀仏の教えを説いた大無量寿経というものがあるんだ。
なんでもおおむかしに法蔵菩薩(修行者)という人が誓願(誓い)を立てて、
数えきれない無数の生まれ変わりのあいだ修業を継続し、
結果として阿弥陀仏になったんだ~よ、というお話。
だからなんだと言うと、いま阿弥陀仏はいるだろう(え? 人によっては解釈が?)。
いま阿弥陀仏がいるんだから法蔵菩薩の誓願はかなっているという、
まあよくわからんお話である。
その法蔵菩薩の誓願はなにかというと、わかりにくいが原文を出そう。
いいか。わかりにくいからな。阿弥陀仏になるまえの法蔵菩薩はこう誓った。
(以下[カッコ]内は当方によるおせっかいな意味補充)

「わたし[法蔵菩薩]が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
わたしの国[仏国土/浄土/極楽]に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」
(「浄土三部経」本願寺出版社)


意味がわかりにくいでしょう? ロジックもなんだかいかがわしい。
むかし一回だけ藤沢にある時宗の寺で坊さんの話を聞いたときもわからなかった。
先日これがふいとわかったんだなあ。
要するにこれは、いまで言うところの成功者の言葉のようなものなんだ。
社会的成功者は若いときの苦労自慢のようなものをやたらアピールするじゃないか。
大無量寿経は、ゲスな言い方をすれば阿弥陀仏という成功者の苦労自慢だ。
おいおい、おらおら、おまえら、
成功者がむかしこう言ってるんだからこの教えは「正しい」んだよお、こらっ。
成功者はむかし貧乏なときにひとつしかないパンをさらなる貧者に恵んだ。
だから、彼は成功者になったし、彼の行為は「正しい」ことがわかるだろう。
成功者はむかし苦労人時代、
みんながおれさまの名前を読んだら(念仏)、
おれさまの国(浄土)へ呼んでやりたいと願った。
この願いがかなわなかったら、おれはさ、阿弥陀仏になんかならねえぞ。
大無量寿経というのは聖典というよりも、
俗っぽい元ワル(不良)の説いた尖(とん)がった成功哲学みたいなものなんだ。
おれさま阿弥陀仏さまの一代記みたいなさ、あはっ。
根本にある思想は、現在が過去を証明している。
もっとかみ砕けば、現在は過去の結果であるなのだが、
やはり「現在は過去を証明している」のほうがどちらかと言えば「正しい」だろう。

この教えのどこが救いなのかと言うと、ぶっちゃけこれ以上の救済はないのではないか。
釈迦が菩提樹のしたで悟ったとき、理解した内容もおなじである。
「現在は過去を証明している」――。
現在の状態はおのれの無限の過去世をあからさまに証明している。
現在、マイナスの状態にあるとしたら(貧困、病気、孤独、障害者、低学歴等々)、
それはあなたの努力が足らないというわけではなく、
無限ともいってよい過去世における結果としてそうなっているのだから、
それはもうどうしようもなく、しいてできることはマイナスをあきらめて、
アッハッハと笑い飛ばすことくらいである。
いまどんなにしんどくても苦しくても死後に浄土に往けるからいいじゃないか。
これはいくら人に教えても反発を買うだけで本人が心の底から納得しないと意味がない。
それにいまどき前世のみならず無限の過去世とかオカルトじゃんって話で。
そのうえ死んだら天国(極楽)に行くなんて、え? それ、科学的にどうよ?
しかし、過去世の存在の有無および死後の世界の有無は、
どちらも科学的計測の領域外で、科学的には「正しい」ことを著述できない。
これは法華経の最大メッセージになるが、
ある教えで救われる人がいるのなら、結果がよければ嘘をついてもよいではないか。
いや、結果がよければそれは嘘ではなく真実になる。
嘘ではない真実の教えを、本書から抜粋しよう。

「仏教では、人は遠い過去から輪廻転生を繰り返して現在に至っていると考える。
したがってここでいう悪業(あくごう)は、
人が生まれてから今までに犯した罪業だけではなく、前生での行いも含まれる。
因果応報といわれるように、前生の行いが原因になって今があり、
今生での行いを原因として未来に善悪の結果が生まれる」(P68)


まあ、現世はダメでも来世があるって思ったら(信じたら/騙されたら)、
いまは不遇でも、まあいっかという気分になるところが救いと言えば救いでは?
さてさて、話を変えると初期仏教では女性蔑視が激しかったが、あれは一理あるのだ。
というのも、苦の原因と言うのは明白に女性にあるからである。
仏教では生まれることは苦しみであると説く。
世の大半を占めるところの貧乏人の多産って不幸の大量再生産みたいなもんじゃん。
ここまで読んでくれている人は少ないだろうから自分の話を書くと、
去年大恩人の女性と5、6年ぶりに再会したのである。
どんなババアになっているかと思ったら、
むかしと変わらなく若くてきれいでチェッと思った(性格わるっ!)。
そのとき言われた言葉がいまでも脳裏を離れない。
「女って好きな男の子どもを産みたいって思うものなの」
これは真実の言葉で悪魔の言葉だと思ったものである。
生物学的に女性が子どもをほしがるという構造が、
あらゆる不幸を産出していると言えなくもない。

みなさんご興味がないでしょうが、観無量寿経っていう浄土経典があるんだ。
これがなかなか味のある話でさ。
むかしある国の王妃の不幸話。彼女は子どもがほしかったができない。
そこで占い師に相談したら、ある仙人が死んだのちに生まれるからそれまで待てと言う。
彼女は待ち切れずに王さまに相談して仙人を殺してしまう。
仙人は死ぬ間際、女を恨みのこもった目で見て呪いをかけたという。
おまえから生まれてくる子どもは長じて父王を殺すことになるだろう。
王妃はそれを聞いて生まれた男子を死にいたらしめようとするが、
赤子は運がよく小指を1本切り落としただけで死なずに済んだ。
青年になった四本指の王子は悪友から出生の秘密を聞いて激怒する。
王子は父王を餓死させようと牢屋にぶち込む。
王妃は夫のためにこっそり食物を持って面会に行っていたのだが、
それもばれて今度は四本指の王子は母親をも牢屋に閉じ込める。
どうしてこのようになってしまったのか。
すべては自分が悪いのだろうが、いくら過去を悔いてもどうしようもない。
いまもいまわが子は夫を殺そうとしている。
お釈迦さま、いったいこの苦しみをどうしたらいいのでしょうか?
ここに釈迦が飛んできて悩める女性に説いたのが観無量寿経である。
この女性に因果応報の話をしても聞く耳を持たないでしょう?
おまえがいま苦しいのは過去世の因縁のせいだと言われてもヒステリーを起こさせる。
釈迦は苦悩する女性に現実を見るなと教えた。
現実ならぬもの(仏や浄土)、不思議なものを観想すればそのとき救済される。
思弁的な話をすると、善とか悪とか幸福や不幸は相対的な言葉に過ぎないわけ。
絶対的な真実の不可思議光明(不思議な光)に照らされたら善悪も禍福も消え去る。
犯罪者的な考えと嫌われるかもしれないが、どうして子どもが親を殺してはいけないの?
どうして親子は愛し合わなくてはならないの?
どうして人が死ぬのは不幸なの? 子どもが生まれるとなぜおめでたいの?
本当のところはすべてわからないわけじゃない。
そういうスーパーフリーな境地にいるのは狂人か不思議ちゃんでしょう?
でも、その段階まで行けば例の悩める女性は救われるのである。
ちなみに本書では仏教用語の不思議をこう説明している。

「不思議――サンスクリット語でアチントヤといい、「不可思議」とも訳す。
言葉で言い表わしたり、心でおしはかったりすることができないこと。
ブッダの悟りの境地などを表わし、
『華厳経』や『維摩経』は『不可思議解脱経』と呼ばれ、
阿弥陀如来[阿弥陀仏とおなじ]は『不可思議光如来』とも呼ばれる」(P88)


当方は大学で仏教を学んでもいないし寺院での修業経験も皆無なのでわからないが、
たぶん仏教は善悪(プラスマイナス)の問題から入るのが一般的で、
善悪や生死の問題にとどまるのも人間味があって非常によろしいが、
仏典などを読みまくって狂人に近づくと善悪を捨てて、
(仏教で言うところの、言葉にならない)不思議な世界に入っていくものもなかには現われ、
彼はうまく弟子とめぐりあうと教祖的(開祖的)な偉人とみなされるような気がする。
リスカ(リストカット/手首ちょん切り)好きの不思議ちゃんが
高僧に近いのかと問われたら、それは違うとも、
あんがいそういう面もあるのかなあ、とも両方思う。

しかし、我われは不思議な世界にばかり生きてはいけず、
現実世界で生活していかなければならないという面がある。
善悪や禍福、損得、生死のない不思議な感覚では世を渡っていけない。
このとき非常に役立つ現実的かつ功利的な教えが、あの有名な法華経である。
おそらく生きる意味も、生まれてきた意味も、なにもないのだろう。
おそらく善悪もなく、殺人や自殺をしてもぜんぜん構わないのだろう。
けれども、そんなスーパーフリー状態を生活者は受容できない。
とりあえず勉強したらいい学校に入れるぞ(いい学校は本当に善かとか考えるな)。
いい学校に入ったらいい会社に就職できてお得だぞ(そういうことにしておこう)。
いい会社の正社員だったら、きれいで気立てのいいお嫁さんをもらえる(ほんとかよ?)。
こういうふうにごまかしながら最後の死を見ないで生きていくのが古今生活者の生き方だ。
こうしたら幸せになれるというのはみんな嘘だが、
その嘘を信じたら結果的に世間体はよくなり、ならばそれはそれでよく、
ならばそうだとしたら、結果的善のために嘘をついてもよく、
というか結果が善になれば、それは嘘ではなく真実になるのではないか。
勝てば官軍というのは、戦争では勝利したほうが「正しい」という論法だ。
法華経も結果至上主義で、結果が大勝利ならば、
そのひとり勝ちをもたらしたものがたとえ嘘であったとしても、
いまの大勝利が過去の嘘を真実に変えてしまうという妙なる教えである。
言葉は本来、真実や嘘という属性を持っておらず、
結果をよくする言葉ならばそれらは現在の勝利に支えられて真実の言葉となる。
現在こそが過去の言葉の真偽を決定する。
法華経を信じて読誦した結果、
快活な生きる高揚や快感に近い正義感(独善感覚)を味わえるのならば、
その結果をもってして法華経が「正しい」真実の法であることの証明となる。
ある言葉を真実か嘘かを決める基準を未来の結果にゆだねる。
いまなにかの言葉を真実かとか嘘かとか判定しない。
哲学や論理学には(にも!)まったくの無知だが、
法華経は学問を軽く凌駕(りょうが)したとんでもない教えなのではないだろうか。

たとえば創価学会員は毎朝、法華経のこの部分を読むことになっている。
「法華経 如来寿量品第十六(自我偈)」である。
悪質セールスマンの決意表明みたいでとてもおもしろい。本書から訳を書き写す。

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)医者が巧みな手段によって
本心を失った子どもを治すために、
(医者が)実際には生きているのに、自分はもう死んだのだと言って、
子どもの病気を治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」(P102)


法華経はやべえぞ。書き直す。
「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)セールスマンが巧みな手段によって
ものの価値を知らないお客さんに幸福になってもらうために、
(私が)実際にはまだ使える商品なのに、それはもう故障していると言って、
非常に使い勝手のいい新商品を買ってもらったとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)母親が巧みな手段によって
勉強嫌いの子どもを治すために、
(現実は)勉強してもいかんともしがたい能力差は存在するのに、
努力はかならず報われるのだと言って、
子どもの勉強嫌いを治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

いくらでもおなじパターンで真実の言葉を創価創造できそうなので震えが来る。
このブログにも繰り返し書いてきたが法華経は「嘘も方便」を巧みに説明している、
とびきり現実的で役に立つ最勝の妙法なのだと思う。
著者は誠実そうだから、
法華経の実効性および有害性には気づいていないのではないか。
いんや、著書多数のいうなれば成功者だから、あるいはとっくにお見通しかしら。

「嘘も方便。たしかに父は嘘をついたのだが、それは子どもを治すための嘘で、
よい結果をもたらしたのであり、決して嘘偽りを言ったことにはならないのだ」(P188)


こんなお経の本など読んでいる場合ではないのに、
どこまでわたしは不思議中年なのだろう。
3月いっぱいで賃仕事を失い、無職無収入になるのに、こんなことをしている場合か。
しかし、わたしには南無阿弥陀仏(念仏)と南無妙法蓮華経(題目)がある。
念仏も題目も肝心かなめは「南無」にあるから、
わたしはどちらも似たような意味だと思っている。

「帰命(きみょう)――サンスクリット語ではナマス。これを音写して「南無」という。
身命を投げ出して信心することで、いってみれば「命預けます」ということだ」(P222)


南無阿弥陀仏は精神的平安に効果があり、
南無妙法蓮華経は現実面生活面における実効性がすぐれているような気がする。
4月からも南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経があるから大丈夫。
どちらが強力かと問われたら、南無妙法蓮華経のほうではないか。
では、最後に声高らかに、南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!



読書のおともには紅茶とコージーコーナーのおいしいお菓子を♪

いまの派遣先にぶち込まれたとき(ご紹介いただいたとき)、詳細のご説明はなかった。
とりあえず年末年始だけかなあ、とわたしのなかでは思っていた。
しかし、1月も働いていいよということになり2月のシフト表。
けっこうな人に3E(3月でエンドという意味だと人から教わる)
のマークがついていたのに、なぜかわたしには3Eの表記がなかった。
当方なんかよりはるかに使える人材が3Eなのに、なぜわたしだけと不思議だった。
さっき帰宅前に職場の掲示板を見たら、来月のシフト表(仮)が出ていた。
それも出ているという告知はなく、女性メンバーが盛り上がっていたので気づいたしだい。
3月のシフト表には、わたしの名前の横にも3Eの表記があった。
どうやらここで働くのも3月いっぱいらしい。4月からはム・ショ・ク♪ ムシューニュー♪

いまの職場もあと1ヶ月強かと判明。
わたしが好感を持っている3Eだった純子さんがレギュラーになったらしいから、
派遣会社も派遣先会社もまことに適切なご判断をなさったように思う。
レギュラーになりたいと聞いていたから、人の夢がかなうのは嬉しい。
あの人、お菓子入れるの早いし、わたしなんかよりよほど勤勉だし嬉しい。
わたしも仲のよい3Eの人たちの仲間入りをできて嬉しくないこともない。
3Eの人たちとよく話していたのは、3月で終わりなら仕事を覚えたって意味がないじゃん。
このたび当方も3E派遣切りメンバーに加わり(仮)、
仕事に対する向き合い方をあるいはほんの少し変えるかもしれない。
しかし、それでもあと1ヶ月強とわかると、
ならよけいがんばろうという気になる(ほんと?)。

今日は多くの人が嫌がる魔の力仕事「供給」担当日だった。
一部で今日ツッチーは来ないのではないかといううわさもあったのではないか。
うわっ、きっちいぜ、と思いながらもどこかで自分の男性性に酔っていた。
これは絶対に女性にはできませんので。
気のいい若いあんちゃんたちがそれとなく(こちらに気づかせないような配慮をして)
大いにお助けくださったので、なんとか大過はなく「供給」をこなせたような気がする。
若いあんちゃんとか思っていた以上に、いいやつが多いんだなあ。
今日のシフトを組んだのはだれなのだろう。
いっしょのラインメンバーが悪気はないがつい大声で怒鳴ってしまうSさんと、
おそらく学会婦人部のお偉方で
おととい当方にヒステリックなお説教をかましてくれた派遣古株のM女史。
劇のようなものが起こらないかなあ、という意図をぷんぷん感じたものである。

劇を起こさないで(起こせないで)ごめんね。
でも、劇の予感だけでもみんなたっぷり退屈な日常をいっときでも忘れて、
今日1日だけはドキドキしたんじゃないかなあ。
みんなとか書いたけれども、観客は数人だけだったかもしれないけれど。
いちおう仕事は仕事だからたぶんきちんとすると思う。
意味不明に大声で怒鳴られたりヒステリックに叱られるのは、それでもいやだなあ。
3E(仮)が決定の模様。
ならばあと1ヶ月強を「想い出づくり」月間としてめいっぱい楽しむぞ。
いまでは職場仲間の顔と名前はほぼ一致している。
白衣を取ったときの女性はまだわからない人がいるけれども。
いまの職場仲間はみんな大好きだし、
正体不明の怪しいおれと逢うのも残りわずかで、
その後は一生顔を合わすことはないのだろうから、
あと35、6日をみんなでメイクドラマできたらいいと思う。
あれこれうわさ話をして独身男女をくっつけるようなことは難しいがシェイクスピア劇的だ。
4月からもきっとなんとかなる。これまでもなんとかなってきたから。
運はかなり強いというおかしな自信めいたものがございます。
「春までの祭」(山田太一)を生きている――。
人生最大のおもしろみは、わかった! と思うことかもしれない。
先ほど酔っぱらって去年読んだお経の本の感想を書けないかと考えていたら、
10年近く意味がわからなかった阿弥陀仏の誓願の、
いわんとするところがきれいさっぱりわかったのである。
菩薩(ぼさつ)がこう願ったら仏になった。いまは仏がいるから菩薩は正しい。
なんのこっちゃい? 
どう考えてもどの本を読んでもわからなかったことが今日いまもいまふいにわかった。
だれから教わったわけでもない。
いつか読書感想文を書くだろうが、正しく意味を伝えられるか自信はない。
ひとつまえの記事でハムレットの感想文を書いた。
また福田恆存にやられたか。
いま調べてみたらどうやら原文に「どうともなれ」はないような気もする。
いちおう原文は以下である。

O, that this too too solid flesh would melt,
Thaw and resolve itself into a dew!
Or that the Everlasting had not fix'd
His canon 'gainst self-slaughter! O God! God!
How weary, stale, flat and unprofitable,
Seem to me all the uses of this world!
Fie on't! ah fie!


福田恆存訳
「ああ、この穢(けが)らわしい体、どろどろに溶けて露になってしまえばよいのに。
せめて自殺を大罪とする神の掟(おきて)さえなければ。
ああ、どうしたらいいのだ、
この世の営みいっさいが、つくづく厭(いや)になった。
わずらわしい、味気ない、すべてかいなしだ!
ええい、どうともなれ」


木下順二訳
「ああ、この汚れに汚れた肉体よ、溶けて流れて露になってしまってくれ。
せめてあの永遠なる神が、自殺を禁じる
掟をきめずにおいてくれたら。ああ神よ、神よ、
何とわずらわしく色あせて味気なく無益に
この世の営みのすべてが見えることだ!
いやだ、ああいやだ」


小田島雄志訳
「ああ、このあまりに硬い肉体が
崩れ溶けて露と消えてはくれぬものか!
せめて自殺を罪と禁じたもう
神の掟がなければ。ああ、どうすればいい!
おれにはこの世のいとなみのいっさいが
わずらわしい、退屈な、むだなこととしか見えぬ。
いやだいやだ!」


松岡和子訳
「ああ、堅い堅いこの体、いっそ溶けて
崩れ露になってしまえばいい。
せめて全能の神の厳しいおきてが
自殺を禁じていなければ。ああ、神よ、神よ!
この世のいとなみの一切が
退屈で、陳腐で、凡庸で、無駄に思えてならない!
ああ、厭(いや)だ厭だ」


河合祥一郎訳
「ああ、この固い、あまりに固い肉体が、
溶けて崩れ、露と流れてくれぬものか。
せめて永遠の神の掟が、自殺を禁じたもうことがなければ。
ああ、神よ!神よ! この世のあらゆるものが、
この俺にはんんと疎(うと)ましく、腐った、つまらぬ、
くだらないものに見えることか!
許せん、ああ、許せない」


坪内逍遥訳
「おゝ、此(この)硬き豪(こは)き肉が、何とて溶け融解(とろ)けて露ともならぬぞ!
せめて自殺を大罪とする神の掟がなくばなァ!
おゝ! おゝ!
現世一切の業務(いとなみ)が悉(ことごと)く
厭(いと)はしうも、あさましうも、あぢけなうも、無益(むやく)しうも思はれるゝわい!
ちえッ、あさましい!」


おそらく原文の「O God! God!」をどう訳すかが問題なのだろう。
たぶん福田恆存訳の「ええい、どうともなれ」は、
多少順番を入れ替えての「O God! God!」の意味合いが入っている気がする。
ゴッドの劇を味わいたいと思ったのがハムレットという劇解釈がそこにはきっとある。
福田恆存はおかしな人だったのだろう。
わたしは「ハムレット」を読むなら福田恆存訳がいちばん好きだ。
観る(聴く)なら福田の秘書をしていたこともあるという松岡和子訳かな。
「正しい」ものよりも「おもしろい」ほうをわたしは好む。
「ハムレット」(シェイクスピア/福田恆存訳/新潮文庫)*再読

→ふたつの選択肢があるといえばあるのだろう。
安定は幸福か? 平和は幸福か?
なにごともなく平和に生きていければそれでいいのか? それだけでいいのか?
人間というものは劇を求めるものではないか? カッカしたいと思うものではないか?
食えていければそれだけでいいのか? もっと熱いものを求めたくはならないか?
こんなことを書いているわたしだが、
いまは四十男で、平穏無事の価値も知っているつもりだ。
しかし、ある女性からあおられる。我慢ばかりしていていいのか? 
なぜ本当のことを言わない。勇気がないのね。口だけなのね。
まるで山田太一ドラマじゃないかと思った。
わたしだってもう四十だし、多少は世間を知っているつもりで、
やたらめったら問題を起こしたいわけではない。
まあ、とりあえず1日がなにごともなく終わり、
家に帰って酒でも飲めればそれでOKみたいな怠惰な精神がないわけではない。
そこをガツンとやられるわけだ。それでいいの? 
本当は職場のSのことをいやなのではないか? いやなら行動に移すべきではないか?
自分の吐いた言葉に追い込まれるように行動せざるを得なく、
結果としていま職場でまずい立場にいるが、
これが劇的に生きるということなのかもしれない。明日会社に行くのが怖いよ~。

ハムレットは迷惑な男なのである。
ハムレットが世間を知っていれば劇のようなものは起こらないのである。
というのも、ハムレットは世間的価値観からしたら幸福なのだから。
まず食うに困っていない。身分は王子さま。次の王さまの身分も約束されている。
美しい恋人のオフィーリアもいて、これは解釈のわかれるところらしいが、
どうやらハムレットオフィーリアのけがれなき肉体を思うがままにもてあそんだようだ。
孤独というわけではなくホレイショーという親友がいる。
だったら、いまのままでいいではないか。そのままでも十分に幸福だろう。
恋人がいて親友がいて、地位も身分もありおそらく莫大な財産さえも有している。
しかし、それでもまだ現状に満足しないハムレットは劇を求める。
劇的なことを味わいたいという人間として生まれた根本の欲望に向き合うのである。
もっと生き生きしたい。もっとカッカしたい。もっとヒリヒリした生を味わいたい。
ハムレットの周囲の人間はだれもそんなことを考えていないので困惑してしまう。
ハムレットのまわりにいるのは世間的価値観からいえば善人ばかりなのである。
みんながみんなハムレットのことを心配して、
この悩める青年をまともな方向に引き戻したいと願っている。平和を求めている。
だが、ハムレットは劇を求めて、生きる昂揚や興奮を求めて、
放っておけば万事うまくいくものすべてをメチャクチャに破壊してしまう。
自殺願望(希死念慮)のあるハムレットは味気ないと思う。
恋人がいても味気ない。親友がいても味気ない。地位や身分があっても味気ない。
財産があって一生食うに困らない身分でも、
いやそういう身分だからこそもっと人生に烈しい味わいを求めてしまう。
食って寝ててきとうにテレビやネットでも見て、笑って、それだけでいいのか?
せっかく生まれてきたのだから、もっと烈しい喜怒哀楽、劇的昂揚を味わいたい。
味気ない人生にはうんざり。
もっと烈しいもの、喜怒哀楽、劇的昂揚――いうなれば不幸を身体全体で味わいたい。
シェイクスピアの「ハムレット」はわたしの原点でいちばん多く読み返した作品。
2017年2月「ハムレット」を再読して、ハムレットのやばさはここにあると気づく。
希死念慮、離人症、人格障害的悪魔性をもつハムレット王子はいう。

「ああ、この穢(けが)らわしい体、どろどろに溶けて露になってしまえばよいのに。
せめて自殺を大罪とする神の掟(おきて)さえなければ。
ああ、どうしたらいいのだ、
この世の営みいっさいが、つくづく厭(いや)になった。
わずらわしい、味気ない、すべてかいなしだ!
ええい、どうともなれ」(P22)


みんながみんなとりあえず平和に生きていければいい、
食っていければ万々歳じゃないかというところに、
ハムレットのような男が現われたら迷惑千万なのである。
ハムレットは味気ないというが、それが生活をするということだろう。
みんなそんなかんたんに死ねないから、
わずらわしいこの世の営みをいやいやながら繰り返しているのではないか。
それを「ええい、どうともなれ」とぶち壊そうとするハムレットはなんとはた迷惑で、
同時に彼こそ古今東西の観客および読者を魅惑してきた悪魔的劇人なのである。
それをいっちゃあ、おしめえよをハムレットは劇冒頭で口にしている。
味気ない。つまらない。人生なんにもない。

「ええい、どうともなれ」

いまは競争社会だから、
あちこちの会社がダンピング(格安売り)を行なっていることだろう。
安くものを消費者に届けるためには、生産費用を下げなければならない。
具体的には下請け会社に競争をさせると値段はどんどん下がっていく。
みんなが2千万でしかやれないと言っている仕事を、
うちは半額の1千万でやれると宣言すればいちおう仕事は取れるのである。
さあ、仕事を取ってからどうするか。
部下に丸投げする上司も少なからずいよう。
部下だってひとりではやれないから、
いろいろ外注(アウトソーシング)を頼ることになる。
そもそも新規業者が価格競争だけで取れるような仕事は怪しいものが多い。
どういうものを納品すればいいのか決まっていないものが発注される。
責任は担当者がしょい込まねばならなくなる。
担当者も納品物の意味もわからぬまま手当たりしだいに外注に仕事を振ることになる。
いちばんの下請けの外注ほど辛い立場はない。
格安の賃金でろくな作業マニュアルもないなか多くのストレスにさらされる。
つくってもつくってもダメ出しされることもあろう。
本当はなにがNGかの基準は担当者もよく理解していない。
なぜならこの仕事は上司から任されたものだからである。
その上司だってお世話になっている上役から仕事を意味不明なまま丸投げされている。
だれかがどこかの段階で言えればよいのだろうが、それが難しい。
なにが難しいかといえば、「それは無理です」である。

「無理なものは無理」
「いや、がんばればできるだろう!」
「無理なものは無理」
「そんなことを言っていると、おまえは成長しないぞ!」
「だから、無理なものは無理なんです」
「無理なんて言葉を口にするからダメなんだ。無理というな」
「無理なものは無理」
「おれが言っているのは、やる気の問題だ。やれるだろう?」
「無理なものは無理」
「いいから、やれ。これは命令だ」
「無理なものは無理です」
「がんばれば無理なことはない」
「無理なものは無理」
「無理かどうかはやってみなくちゃわからないではないか? がんばれ、努力しろ」
「やってみなくても、これは無理だから、無理なものは無理」
「努力しないと世界は変わらないぞ」
「無理なものは無理」
「無理でもいいからやれ。24時間死ぬまで働いても無理か?」
「無理なものは無理」
「無理を可能にするのが仕事だろう?」
「無理なものは無理」
「……いったいどうしたらいいんだよ。こっちだって責任が」
「(上司に向けて)自分でおやりになってくださいよ」
「いや、それはきみの役割だろう?」
「自分でそれをできますか?」
「そういう問題ではないだろう」
「自分ができることをやれと言うべきです」
「おれはきみに期待しているんだ」
「アンサーは、無理なものは無理」
「このやろう……」
「自分でおやりになってみてください」
「アウアウ」
「自分でほんとうにこの仕事をできるとお思いですか?」
「……無理なものは……無理かもしれない」
「幸福の科学 大川隆法★心の指針145 自由であるということ」(2017年1月)

→昨日ブログに幸福の科学のことを書いたら、
さっそく郵便ポストに小冊子が入っていた。
幸福の科学は「やる気」があるねえ。
わたしは創価学会は好きだから「悪口座談会」系の記事が掲載されているものなら、
無料でくださるならいくらでも拝読するのに、住所はばれているだろうに、
一度も創価学会機関紙(誌)がポストに入っていたことがないのでさみしい(え?)。
せっかくポストに投函してくれたのだからと即日読んでみた。
なーんか、幸福の科学と創価学会って似ていなくね?
どこがというと、前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味等々。
入口はどちらも不幸で、出口はこうしたら幸福になれるである。
いまわたしは不幸だけれど、同時にとびきり幸福なんだよねえ。
昨日なんかも生きているのっておもしろいと超絶に大笑いしたし。
そうしたら今日反動があって、職場の厄介者になっているらしい。
しかし、昨日のAさんの話を聞いたあとなら、なんでも許せちゃう。笑っちゃう。
四捨五入すると還暦の(派遣の)Aさんは25、6歳の彼女がいるというんだ。
ウッソでしょうと思うけれど、
わたしは人生経験から嘘のような本当が実際はたくさんあることを知っている。
どうせ書いても嘘だと思われるから本当のことは書かないけれど。
ダメダメなおれももう少し生きていたら尽くしてくれる彼女ができるのかもしれないぞ。
そんな春の目ざめが精神に生じて昨日は最高に幸福だった。
幸福とか不幸ってなによ?
職場のSさんから何度も大声で怒鳴られ殴りたいとか書いたけれど、
それは不幸ではなく幸福なのよ。
なんにもない人生よりもパチンコ依存症のジジイに怒鳴られるほうが楽しいじゃん。
いつかこいつを殴ってやろうなどと妄想するのはもっと楽しい。幸福だ。
なによりこんなみじめぶざまダメダメな
おれなことを心配してくれる人がいる人生って最高にすてきじゃないか。
いま不幸だけれど、同時に胸躍るほど幸福なんだなあ。
けれど、わたしは人を幸福にしたいとは思わない。
だって、それはそれぞれの人がそれぞれに気づく問題だと思うから。

幸福とは――前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味。
おれの場合。
前向き×過去をいつまでも忘れない粘着質な執着性を有す。
明るい×打ち解けたらおれの楽天性や明るさにはびびるぜ。
笑顔○変なところで笑ってしまうのが欠点か。
努力×努力は大嫌い。
勤勉×でたらめいいかげんでええやん。
目標×ありません。
生きる意味○いつか死ぬ日のために生きる。

まえから書いているけれど、悪い女に引っかかってボロボロになりたいんだよなあ。
創価学会や幸福の科学に入っても善男善女しかいないような気がする。
いやいや、そういうおのれの善や正義を誇るものこそじつは悪人なので、
だからわたしは幸福の科学や創価学会といった新興宗教にあこがれるのかもしれない。
わたしの正体はほんものの変質者(根性曲がり)なのに、
みんななかなか気づいてくれないので困ってしまう。ありゃありゃありゃや。
浮世のことに興味をほとんどなくしているので、
清水富美加のこともたまたま職場のテレビで見なかったら知らなかったことだろう。
きれいとかかわいいとかわからないけれど、
いまのきれいな子、かわいい子ってみんなおなじ顔をしているよね。彼女もまた。
これは証拠も調査もなにもなく、おれの直観だけれど、
清水富美加の家は創価学会だったのではないかしら。
どうしてか創価学会と幸福の科学は反目関係にあるらしい。
わたしは幸福の科学はバカバカしく、創価学会の人間味がどちらかといえば好きだ。
けれど、創価学会のうわさ好きおばちゃんのうざったさもわかる。
当方はべつに幸福の科学に入っても創価学会に入ってもいいと思っている。
ふたつの宗教に同時に所属するのもぜんぜんありというのがこちらの認識。
清水富美加は三姉妹の末っ子というでしょう。
学会員は「産めよ増やせよ」で子だくさんが多いことでも知られている。
根拠は当方の直観しかないが、清水富美加は学会文化に嫌気がさしたのではないか。
いやなことでも下積み(水着撮影)はこなせとか、
将来の「夢」のためにいまを辛抱しろとか(月給5万円)。
いまはさ、アイドルも使い捨て。どうせ数年ちやほやされてあとは終わり。
お笑い芸人もそう。いくらテレビに出ようが有名になろうが、たいしたもんじゃない。

幸福の科学は創価学会を敵対視する思想を
おそらく胚胎(はいたい/内に持つこと)しているのだろう。
幸福の科学による創価学会批判本を読めば、それはよくわかることだ。
ところが創価学会サイドが幸福の科学を批判しているという情報は、
こちらの無知が大きいのだろうが耳にしたことがない。
いまのぼくのスタンスは、おもしろいことを味わえるなら、
エルカンターレにも大川隆法にも名誉会長にも日蓮大聖人にも土下座できる。
どこの宗教にも入れる、どこでもいいから宗教に入りたい、
と長らく書いているのにどこからも勧誘メールは来ないのでさみしい。ひとり。
勧誘されたくてもひとり。信心が足りないのかひとり。愛を知らないひとり。
清水富美加はちっぱいアイドルなのか。
女性性の象徴のような巨乳は好きではないから、よきかなよきかな。
勧誘されたらどこの宗教にも入るのに、どうしてかひとりわたしわたしわたし。
今日はバレンタインデーだったらしいが、
人を好きになるとはどういうことなのだろう?
なにかプレゼント(チョコ、身体、金銭地位名誉等)をすればいいのだろうか?
むろんのこと、わたしも人から与えられれば多くは喜ぶだろう。
しかし、人並みにそれをほどこしと思い、負担つまり借りのように感じもしよう。
わたしはだれかを好きになったら、その人の好きなようにしてもらいたいと思う。
(わたしの)好きな人が本当に好きな人を見つけるのが(わたしの)幸福だ。
好きな人には好きにしてほしい。束縛なんかしたくない。
みんながみんな好きなように生きればいいと思う。
どうせ(わたしもふくめ)できないのだが、そのくらいの心構えくらいは持ちたい。
ここまで書いてきて気づいた。
わたしは人を好きになるということを本当には知らないのかもしれない。
好きな人にはその人の好きなように生きてほしい。
プランタニエは来ているのか?
今日は休みなのに朝5時半に起床。結局、直前までやらないんだなあ。
人間の根が腐っている。
昨日までにやっておけばいいことを今朝の期限朝9時までに必死でするか、
といったらそうではなく、だらだらときにマンガを読んだりしながら。
期限3分まえにゴミを捨てるために外に出たら、
給湯器を交換してくださるメンバーたちが全員集合している。
まったくおれは社会人としてなっちゃいねえ。
給湯器交換中にあの仕事(?)のメールを読み返し、あれの問い合わせをする。
いまのわたしには3万円は大きい。それから空いた時間に本を1冊読む。
給湯器交換が終わったらあれのためにちょっとチャリで外出。
そのまえにしっかり洗濯機を回しておくことを忘れない。
こういう効率的行動は大嫌いなのだが、つい直前になると身体が動く。
誇り高きライン作業員としての精神が固まってきているのだろうか。
あそこの美人先生の診察を定時に受ける。
ああ、先生と1ヶ月に1度逢うためだけに生きているのかもしれへん。
先生の関西弁はいまではまったく見られない。
医者だけではなく、患者もまた医師を診ている。きれいにおなりになりましたね。
それから高速で移動して、あそこに行く。
そこで「ふつうはそうなのか」と教えてもらう。まったく世間知らずで困る。
教えてもらったことを参考にして、直後にある会社に電話で問い合わせる。
吃音だから電話は大嫌いだけれど、もうそういうことを言っていられるあれではない。
よくわからないけれど、名前に「美」が入っている女性っていいよねえ。
せっかく都心に出たので、あそこに行く。
ロケットニュース24というネットワイドショーサイトが好きである。
とくにファンであるのはそこの敏腕記者、佐藤英典さん。
彼がおすすめしている新宿近くの某店へ行く。
いまは新聞テレビ情報ではなく、ネット情報で動く人もいることをわが身で実感する。

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ここはどこ? あたしはだれ?

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ビールつきで飲み放題10分100円は幸福の科学の陰謀かも。

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ひとり飲み放題でもぼくのするのは読書さ。タイトルは秘密。
どの店でどのくらい飲みいくら払ったかも忘れてしまった。
帰り新宿駅構内のコージーコーナーでお買い物。
プランタニエとジャンボシューとなんか特別なエクレア。
プランタニエの包装をといてみたら好物のさくらマドレーヌがたくさん入っていた。
ううん、プランタニエってどういう意味だろう?
このところ疑問に思っていたことだ。
プランタニエのリボンをしばるのはきつく、
指がつりそうで動かなくなるとはいつだったか同年齢男性から聞いたこと。

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いまようやく調べたらプランタニエとはフランス語で春という意味らしい。
えええ? 春(プランタニエ)って買えるの? それって買春では?
明日はバレンタインデー。
わが人生にプランタニエは来るのだろうか?
職場の四半世紀、年齢が上の同僚に聞いたら、
おれの人生はずっと春だとかのたまっていた。
彼と上がりが一緒になると、どうしてか連れだって駅まで歩く。
セブンイレブンで買い食いだ。
彼はコーヒーとピザまんを買い、我輩さまは第3のビールをどれか1本求める。
65歳と40歳が意地汚くも歩きながら飲食し、
ふたりとぼとぼ埼玉の田舎駅に向けて歩を進めるのである。
うーん、こんなプランタニエもありじゃないかとうっかり思ってしまう自分がいる。
ときにはうっかりにも、うっとりと。
あっ、いまの職場で東京から来ているのはぼくだけだと思う。
いまもいまプランタニエなのかもしれない。

(参考記事)ロケットニュース24
http://rocketnews24.com/2017/02/08/859954/
青春の輝きっていいなあ。
今日職場でライン横に入ったスポット派遣さんがかなり若そうなので、
聞いたら高校3年生。
こう書いてもわからないだろうけれど、
眼を隠すモザイクの反対のようなフクスマの防護服めいた白衣を着て作業している。
つまり、相手の顔がわからない。
年齢はおろか性別でさえわからないこともなくもない。
高校3年生の男子とかおいしすぎるじゃないか。
いったいいまの高校生ってどういうことを実際は考えているんだろう?
たしかにネットや漫画でいまの高校生が考えていそうなことはわかるけれど、
それはリアルとは言いがたい。
今春高校卒業後にパスタ屋に就職する、
いまどきの男子高校生はいったい世界をどんなふうに見ているのか。
わたしは進学校だったから、そもそもそういう高校生の事情はわからないし、
さらにいまどきの高校生といえばへたをしたら息子でもおかしくない。
プライバシーだから詳細は書かないが、いろんな話を聞いたなあ。
球技大会での高揚、家族への思い、体育祭、修学旅行――。
いまの彼女からどのように告白されたかまで。今度横浜へふたりで行くんだあ。
リアルだから最高におもしろいのである。
極上の青春映画や青春小説をお金をいただきながら鑑賞したという深い満足がある。
昼休みに休憩室で再会したら、やっぱり超イケメンというか、美少年18歳。
スマホでおなじクラスで女子高生(重言?)の恋人の写真も見せてもらった。
離人症気味だからか、現実ってリアルっておもしろすぎるぜ。
おなじ派遣同士でほとんど上下関係がないから、
こういうその日だけの交流が可能になるのかもしれない。
いまどきのイケメン男子高校生がどういう思いをいだき、
どのようなことに感動し、いまをどのように見ているのか非常に勉強になった。
こちらもとても感激した。今日はいい1日だった。
明日は魔の「供給」2回目である。
一部では明日わたしは途中で職務放棄をして帰るのではないかと噂とのこと。
明日どうなるかなんてわかりゃしねえ。でも、今日は最高に楽しかった。
いい話を聞いたと思う。
いい青春映画や青春小説を味わったかのような、とびきりの1日だった。
若い子はいいなあ。

破滅したいという願望が強力でつよいつよいので(重々言です)困っちゃう。
先日海浜幕張駅で49歳の自衛官が女性のコートの下を盗撮しようとしたとかで逮捕。
実名報道。おそらくたぶんかならずや人生フィニッシュ。
わっかんねえな。どうして女性のスカートのなかを撮影したら逮捕なの?
いったいだれが困っているの? 
おれがおんなだったらスカートのなかを盗撮されても、あはっ、
ちょっとそれは刺激的って感じるくらいで遂行者への罰則意識は持たないだろう。
さらにさらに自衛官が撮影したのはスカートのなかではなく、
コートのなかであるにもかかわらず。
非正規のわたしが49歳自衛官とおなじことをしても厳重注意で終わり。
むろんのこと実名報道もされないだろう。お気の毒さまだなあ。
はじめて行った海浜幕張はとにかく清潔健全思考のかたまりって感じの、
無味無臭潔癖合理的完全な町づくりの完成形って感じ。
休日わたしは朝からぶらぶら海浜幕張を歩き回り、その退屈さにあきあきとして、
しかしながらイオン入口の肉フェスがよかった。
イケメンの肉職人さんにたずねたら、イオンで買ってきた酒類をここで飲んでもいいらしい。
食べたのは塩肉丼600円だったか。
酒を持ち込んでなにか悪いので、160円のチーズトッピングを、
当方の感覚としては賄賂(わいろ)として支払った。
思い返せば、60円の温たまご(半熟卵)もまたつければ、
土曜真昼間の超絶孤独酒宴の華やぎが増したことだろう。
肉はこれまで食べたことがない味でうまく、酒も進んだ。
酔っぱらったかは自分ではわからない。とってもとっても破滅崩壊したかったのだが。
海浜幕張駅で警察に逮捕されるという非日常へのささやかな期待は、
しこうして裏切られた。
なんかのランキングで1位だとかいうイケメンの肉職人さんが新鮮だった。
いまは注文しないでとか、並べとか(場所は指示せず)、
けっこう若き指導者ぶっていたのである。
そんなお偉い職人先生がご料理くださる塩肉丼はたしかにうまかった。
写メを取り忘れたのが後悔しきりである。
本当にうまい肉を安いイオンの酒と平らげたければ海浜幕張へ行け!
期間限定、いまだけ、ナウオンリー!
以上、ロケットニュース24のグルメ記事のへたな真似をしてみました、うふっ♪
金がほしいのにアマゾン本アフェリエイトは儲からない。
うちの書籍アフェ収入なんぞひと月で数百円よ。お金がほしい。
だって働きたくないんだもーん。
お金があったら毎日早起きして電車で会社に通わなくてもいいでしょう。
えっへん、変更だ。今日からこのブログはグルメさいとにする。すべてはお金のため。
しかし、どうしたらいいのか世間知らずなのでまったくわからない。
とりあえずウーマンだろう。女性さまが好きなのはスイーツ。
けがらわしい男である当方が知っているスイーツは銀座コージーコーナーくらい。
ちなみに銀座は日本でいちばん嫌いな街。あそこは何度行っても道に迷うから大嫌い。
とはいえ、人の好き嫌いはいともかんたんに変わるので困ってしまう。

さて、おれさまが知っている唯一のスイーツ屋コージーコーナーでなにを買うか。
ここではシュークリームと
クリスマスのモンブランしか買ったことがない(奢ってもらったことしかない)ので、
異様な不安感に襲われキョドキョドしてしまう。
そういえばもうすぐ春が来るということで「桜マドレーヌ」なるものを購入80円。
これ1個しか買わないとコージーコーナーの美人店員さんから
白い目で見られるのではないかと病的妄想をして、
朝から残品ひとつだった「マドレーヌ オ ショコラ」150円も購入。
孤独な人だとばれたくないので、
いかにも仲の良い友人知人血縁がいるかのごとく、
店外にあったマドレーヌセット500円も見栄で買う。
いま日本酒熱燗のつまみとして、マドレーヌとやらを食している。

マドレーヌってなんなの? 思えば口にしたことがないガチで。
しっとりとしたカステラのようなものと味覚障害者は初体験を表現する。
おれさ、カステラはダメで、あれ水分を一緒に取らないとパサパサしてまずい。
そもそもうまいカステラを食べたことがないから、こう思うのかもしれない。
マドレーヌというのはしっとりとしたカステラか(おれのなかではね)。
これは寒い時期、日本酒の熱燗と合うと思う。
ビールともワインともウイスキーともNGだが電子レンジで温めた日本酒とはグーよ。
40歳でマドレーヌ初体験かあ。
遅れてる、遅れてる! 
しかし、「遅れてきた青年」(大江健三郎)というか、
遅刻したがゆえの新発見もあるのだろう。
コージーコーナーのマドレーヌは春まだきの寒い時期、
ホットな日本酒のまたとない、いいアテになることをこのたび新発見した。
新しい自分だけの食べ合わせを発見することが、ひとつの生きがいになることもある。

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↓コージーコーナーの商品はここから(お金目当て、イヒヒ)
今日帰宅したら昨日しこんでおいた、おでんが待っているし、
明日あさってと連休だから今日も遅刻しないように出かける。
みんなもそんな感じで生きているんだろうな。
なにかを待ちながら。
これまでのパターンだと待っていたら、かならずなにかがやってくるし、
ならば1年後はどうなっているかわからないので、とりあえず。
いったいみんななにが楽しくて生きているんだろう? 
これねこれ。最大関心事。
でも、なかなか人に聞けないよねえ。あなた、なにが楽しくて生きてるのなんてさ。
生まれてきたから楽しいのなんて、記憶にない小学校入学くらいまででは?
そっから先はしたくもない勉強をやらされる。まじめに勉強しろ!
中高付属のところへ入れば高校受験がないからがんばれ!
落ちたら今度は中学で好きでもない勉強をやらされる。
大学の付属高校に入れば大学受験で楽をできるぞ。
わたしには日大豊山中も高嶺の花だったし、
明大附属のどっかの高校にもたしか落ちている。
高校でも勉強しろ! 好きでもないことを覚えろ! あたまに詰め込め!
どうしてかって? どこの大学を出たかで将来がかなり決まるからだ。
出身大学によって入れる会社が変わるのも、出世に影響するのも、
わたしが現実世界で見聞きした情報だと、
山田太一ドラマ「早春スケッチブック」が放送されてから30年以上経過した、
いまでもどうやらおなじのようだ。
やりたくもないことばかりをして社会に出たら、
またこれでもかとおもしろくもないことをやらされる。
勉強は嫌いと言ってもいいが、仕事は好きなふりや「やる気」を見せなければならない。
なんのために正社員としてやりたくもないことをするのか。
おそらく老後にやりたいことするためだろう。
いざ定年になったらことさらどうしてもやりたいことはなく、
いつまでも仕事にしがみつこうとする。
いまの日本社会上層部は仕事人間の高齢者ばかりではないか。

なにか目新しいことを書いたという気はない。
上記のことは、わたしが大学時代の原一男ゼミで発表したシナリオの内容だ。
多数決で映像化するシナリオを決めるルールだったが、
わたしの作品にはひとつふたつしか票が入らなかった。
そのとき高評価を受け映像化されたのが、政治家秘書のお嬢さんのシナリオだ。
彼女は美人で育ちも性格もよく、上流社会を身をもって体現していた。
美しく貴い早稲女(わせじょ)はNHKに順風満帆に入社した。
ど底辺出身の映像作家、原一男教授は、
卒業後どこかで彼女と再会したことを嬉しそうに話してくださった記憶がある。
いまもそうだがわたしは大学時代もまた世間というものをまるで知らなかった。
おなじ早稲田でも政経学部や法学部が偉そうにしていた理由が最近わかった。
どうしてこんなあれなやつが早稲女とくっついているのか当時はわからなかったが、
いまでは出身階級の相違というやつだろうと焼鳥屋の息子の分際でもわかる。
ゼミには集英社に入ったイケメンもいて(超ミニスカの彼女ありき)、
おれが食い詰めたら仕事をくれと冗談半分で言ったら、
あっちも冗談半分困惑半分で「ああ、わかった」とおっしゃってくださった。
集英社の彼の名前もNHKの彼女の名前もいまではもう忘れてしまった。
みんな夢でありました。みんな夢でありました。
夢がないのが悩みだった。ようやく夢らしきものが沸き上がった。
専業主夫になりたい。とはいえ、家事が好きというわけではない。
掃除も洗濯もめんどくさい。
料理はときにおもしろくないこともなくはないが、後片づけはめんどい。
おれの手作り料理はまずいしね。
家事とかぜんぶやってくれる(あるいはメイドを雇える)
高収入の女性と結婚して(内縁の夫でもいい)専業主夫になりたい。
今朝も早起きしてつくづく思ったけれど、働きたくないのである。
毎朝早起きして、定時の電車に乗るって、それはなんの罰ゲーム?
ぜんぜん楽しくないじゃない。
わたしは読みたい本がいっぱいあるのに読めないじゃないか。
1年好きな本だけ読んでいたい。いや1月でも1週間でも。
こういう書き込みでばれただろうが、じつのところわたしは中学生の精神性しかない。
中二メンタルを持った唾棄(だき)すべき最低の存在である。
でもさ、みんな本音では働きたくないでしょう?
好きな本を好きなだけ読みたい。
もう十分好きな本は読んだでしょうと問われたらたしかにそうだけれど、
もっともっと好きな本を読みたい。好きなことを書きたい。
夢がたましいから沸き上がってきた。
働きたくない。好きなことをしたい。なにもしない専業主夫になりたい。
創価学会に入ってご本尊さまに向かってお題目を唱えたらこの夢はかなうのだろうか。
だれか夢のかなう方法を教えてくれ南無妙法蓮華経。
池田先生バンザイ\(^o^)/