メンタルが弱いのかなあ。
来月「供給」をわずかでもすると思ったら、あたまのなかが真っ白になった。
「供給」にまつわる危ない話をある人から吹き込まれたからかもしれない。
昨日なんか降りる駅を乗り過ごしちゃったもんね。
今日もあたまがポワポワしていていったい何度チョコクッキーを箱に入れ忘れたか。
むかし(前職の)コカから「土屋さんは知的障害者以下」と指摘されたけれど、
たしかにそういう面もあるのだろう。
ふたつの作業をいっときに同時にできない障害者めいたところがなくもない。
箱を開けながら菓子を入れるとか。思わず箱開けに没頭してしまう。
まあ、それもこれも「供給」への過剰な恐怖心と尋常ならざる不安ゆえなのだが。
3歳年上のメイト(ってなんだろう?)の大先輩(男性)に仕事中相談する。
「供給」でお菓子の入れる向きとかかんたんにわかる方法はないですか?
というのも、お菓子の入れ方を間違うとラインのおねえさまがたから、
ありえない白い目と女性ならではのきつい言葉が飛んでくると聞いている。
「わたし、1回しか『供給』をやったことがないんですよ。来週どうしたらいいのか」
3歳年上のメイトさんのお答えは「もう銃弾を浴びるしかないんですよ」。
いくら口頭で説明されてもあれはすぐ理解できるというものではなく、
おのおのがおねえさまがたからの厳しい銃弾をそれぞれに受けとめるしかない。
そうやって覚えていくしか方法がないと3歳年上のメイトさんはおっしゃる。
自分も銃弾は受けたし、いまいるみんなも少なからず銃弾を受けている。
どこかで腹がすわった。銃弾を受けて血まみれになってやろうじゃないか。
そうこちらが思えたのはメイトさんの人徳ゆえだろう。

いまの職場に入ったときにパッと目についたのが、
このメイトさんの好人物オーラである。
今日もいっしょに仕事をさせていただいたが、
さすがベテランメイトだけあってすごいのだ。
ライン中になにか不都合があるとふつうはあせるのだが、大先輩は落ち着いている。
現状を的確に判断して、その場でもっとも必要だと思われる指示をしてくださる。
メイトさんの偉いところは決して大声を出さないこと、
落ち着いて問題に対処できることだと思う。
怒ったりしたらかえって問題が複雑化することを身体全体で知っているような気がする。
おそらく多くの女性パートに鍛えられていまの彼ができあがったのだと思われる。
この人はすごいよ。おれとは正反対のものを持っていると思った。
押しが弱いぶん、いろいろなケースで苦悩してきたのではないか。
そのくせ髪の毛は真っ黒でふさふさだけれど。
彼の雑談を耳にしたことがあるけれど、
最近サワーを飲んだらまったく酔わなかったとのこと。
日本酒くらいじゃないと酔わないとか、職場の女の子に言っていたような気がする。
あの立場は酒のちからを借りずにはいられないほど難しいと思う。
会社はもうそろそろあの偉人をメイトから正社員に昇格させてやれ。
見た感じ、あの方はめったにいない逸材だぞ。
わたしも今日、彼から言葉で助けられた。
「供給」の日はあらゆるところから銃弾を受けて血まみれになる覚悟を決めた。
血まみれになって死ぬか生き返るかはそのときの運だろう。
銃弾を受けて血を流しながら苦しむしか道はない。
女性の銃弾を受け続けてきた偉大な先輩にお逢いできたおのれの幸運に感謝する。
効率性や生産性ばかりを重んじて人を遊ばせておかない会社はどうなるか?
労働者は遊ばされている暇な時間に同僚とおしゃべりしていろいろ知るわけでしょう?
いまの職場は仕事を教える体制が
まったく成り立っていないけれど(どこもそうでしょうが)、
労働者を遊ばせるのを禁じて効率的に使うことばかり考えているからだと思う。
そのうち労働者自身が自分は遊んでいては(=なにもしないでいては)
いけないと思うようになる。
しかし、遊んでいるあいだに労働者は同僚と雑談して仕事を教わるのでしょう?
いまの職場は仕事を教わろうにもみんな遊んでおらず(=働いているふりをしたがるので)
1ヶ月経過したいまもまったく仕事のことがわからない。
なにか質問したくてもその人はなにか仕事をしている最中なのだから聞きづらい。
おしゃべりや雑談って仕事のうえで大事よ。
相手の事情を知っていたら、
多少無理な仕事でもあいつのためにがんばろうってなるじゃない。
新人にとって仕事がわからないの第一は、どこになにがあるのかわからないだと思う。
しかし、みんな遊んでいないとだれにも教えてもらえず、
それどころかなにをしたらいいのかわからないのに「遊ぶな」と怒られるはめにおちいる。
まあ、大半の会社はそんなものだろうけれど。
いまの職場に1ヶ月いるわたしでさえ、
あれがなんという名前でどこにあるのかわからないものがたくさんある。
聞きたくてもみんな遊んでいないで働いているから聞けないのである。
効率性や生産性を最大限に追求した結果がこれだろう。
仕事がわからないままに派遣がひとり辞めても代わりはいくらでもいるから、
効率的経済的にはいまのままがいちばんなのだろう。
これは皮肉でもなんでもなく、いまのわたしの代わりはいくらでもいることが安心のタネ。
だって、いつでも辞められるんだから。
仕事を教えないでやらせて、
相手がミスをしたらきつく叱るというのが作法の職場も少なくないのだろう。
先輩は自分はそうして仕事を覚えたから後輩にもおなじ態度で向き合っていいと思う。
「わからないことは聞いてよ」と鷹揚ぶる先輩もいるが、
本当の新人はわからないことでさえわからないくらいわからないのである。
最後にひとつだけ強調しておくと、これは当方だけかもしれないが、
わたしは職場の同僚が遊んでいてもなにもしていなくても大して気にならない。
来月の予定が今日30日にならないとわからないわけよ。
どうしてかというと来月のシフト表が配布されたのが今日だから。
それもおかしな話で配布しているならみなにそう伝えればいいのに、
そういうことは聞かなかった。持っている人がいるので聞いたら配っているとのこと。
まあ、そういう会社もあるんだろうねえ。
派遣のわたしは来月の休み希望を20日に2日だけ提出できる。
来月は4日と13日を希望した。
だから、今日まで来月の予定が立てられるのは4日と13日のみ。
あらゆる予定(通院、給湯器交換等)をとりあえずこの二日に詰め込んだものである。

来月のシフト表を見ると魔の「供給」担当日が入っている。
日にちも少ないし、おまえだって男なんだから、このくらい我慢しろよということなのだろう。
ツッチーにも「供給」をさせろという声も多く上がっていたのではないか。
逆にまったく「供給」の日がゼロだったらわたしがいたたまれなかった。
いまのシフト表にも文句を言いたがるものは大勢いるのかもしれない。
「供給」というのは、ラインの人にお菓子の詰まった重いバンジュウを渡す役割。
「供給」のなにがしんどいのかというと、まず身体的な問題で腰を壊す。
人のよさそうなTさんはこの「供給」で腰を痛めて職場を去ったという。
それから「供給」は、やり方が複雑でそうとうに理解しにくい。
5回やってもやり方がわからないと言っている人がいる。
あれは数をこなさないとわからないが、連日やると腰を壊すという魔の仕事である。
わたしは今年の仕事はじめ1月4日に1回だけ研修としてやらされただけである。
あれはすてきなお年玉だった。
仕組みのわけがわからず肉体的にもきつく今日で仕事を辞めようかと思った。
「明日も供給ですか?」と女性社員に涙目で聞いたものである。
明日は違うと言われて「明日も来ます」とつぶやいたものである。
どうやらわたしはお菓子の詰まっているバンジュウをうまく重ねるのが苦手なようだ。
10回以上契約社員さまから怒られたものである。
この1日でベルトがひとつぶんしまるようになったくらいである。

おいおい、こんなわたしを会社はいきなり来月「供給」にぶち込むのかよ。
4週間まえに聞いたことなんてほとんど覚えていないし、実際思い出せないから、
ほぼ絶対と言っていいほどミスをするぞ。
「供給」はラインのすてきなミセスさまたちからこれでもかときんきん声で叱られ、
シナのおじさまから何度も大声で怒鳴られるきつい仕事なんでしょう。
明日「供給」だから休みたい、
いっそのこと辞めちゃおうかという同僚の話を耳にしたこともある。
しかし、男でわたしだけが「供給」をしないわけにはいかないという事情もわかる。
だから、やるしかない。とはいえ、無理なものは無理。
わたしがアイドルの美少女と結婚したいと言っても無理でしょう。
交通事故死者数や自殺者数をゼロにしたいといくらがんばっても無理なものは無理。
まあ、つぎの「供給」でわたしはミスをいろいろやらかし、白い目で見られるのだろう。
ギブアップ! 辞めるという選択肢があるから、それだけで安心できる。
無理なものは無理なら、無理なものにはギブアップして負けるのも生きる知恵のひとつ。
お菓子をぜんぶ床にぶちまけるかもしれないし、
バンジュウでラインの人を怪我させてしまうかもしれない。
その責任はわたしにもあるが、いきなり「供給」にわたしをぶち込んだ人物にもあろう。
わたしはしょせん派遣だから辞めてしまえば、それで終わり。
もうだれひとりとも再会することはないだろう。あとは野となれ山となれ。
しかし、経験上、人生は思ったようにはならないということを知っている。
いまの職場同僚男性にも(むろん女性にも)いい連中は多いから、
あんがいうまく助けてくれて教えてくれて、それほどの地獄にはならないのかもしれない。

いまの職場には3月で終わりとなっている人がけっこういるのだが、
どうしてか大して仕事もできないわたしがそうなっていないのである。
ぶっちゃけ、わたしも3月で終わりでも構わない。
仲良くしてくださる65歳のおっちゃんも去っちゃうし、
経済的時間効率的に考えたらそこまで割りがいい仕事とは思えないところもあり。
あはは、おれを雇ってくれるところなんてほかにないかもしれないけれど、
そのときはそのとき。
おなじ派遣会社の、大学受験の息子さんがいらっしゃるあの女性なんか、
わたしよりもはるかにラインがうまく早いのだから、
わたしを消して彼女を残したほうがよほど派遣先会社のためである。
まあ、わたしが来月や再来月で辞めたらそうなるのかもしれないけれど。
こちらも3月くらいにならないとわからない、とある経済事情があり、
いざそうなったらなにがなんでもこの派遣先にしがみつきたいと思うかもしれない。
でもさ、わたし、そこまで使えるやつではないしね。
スポット派遣よりはちょっぴり使える程度のゴミ中年だという自覚は持っている。
来月はいったいどうなるんだろうなあ。
2月7日にわたしが無職になる可能性はどのくらいなのだろう。
いま見てみたら、そのあとかなりしばらく「供給」は振られていないのか。
なら続けちゃうのかな。でも、やらないと忘れちゃうじゃん。
としたら2月20日が無職記念日になるのかなあ。
この日は3月のシフトを出す期限ではないか。
派遣会社にはスポットのベテランさんが大勢いらっしゃるような気がするから、
いざわたしが穴をあけてもそこは大丈夫だと思う。
いったいこれからわが人生はどうなるのだろう。来月の予定は未定。
職場の同僚に畏敬の思いをおぼえたとか殊勝なことを書いたが、
むろんそんなきれいごとの話ばかりではない。
目標がない、欲望が消えたとつねづね書いていたが昨日目覚めた。
働きたくないよお。本が読みたいよお。本の感想を書きたいよお。
ぶっちゃけ昨日なんか休みたくて仕方がなかったけれど、
そこで休んじゃう人もいるのだろうけれど、わたしはダメだった。
早朝時間が来ると約束を優先してしまい、どうしても身体が動いてしまう。
今日は働きたくないなあ、と思いながら定時に電車に乗ってしまう。
本当は働かせていただけるだけで感謝なのだろうが、
ぜんぜん本を読む時間も思考する(感想を書く)余裕もないのでもういやいや。
新人はどこへ行ってもこれが当たり前なんだろうけれど、
そういう試練を乗りこえなきゃいけないのは理解しているが、
新人に厳しく当たる苦労人顔の古株さんがいらっしゃるわけだ~よ。
そこまできつい注意の仕方をしなくてもいいんじゃないか。
そういう注意の仕方をすると逆に相手を委縮させてミスを連発させるのではないか。
自分はミスをしないのか。何回もその人のミスを見たけどなあ。
そんなことを思うけれど、どこの職場に言ってもこういう先輩はいるだろうし、
いまの職場なんて激甘と言ってもいいのだろうことはわかっている。
ラインに箱を出す単純作業をしているでしょう。
最初の箱がたくさんおかしかったのである。
これはわたしの責任ではなく、箱をつくっている別会社の大量ミスである。
そのミスをわたしが高速で直していくのだが、
それでも経験不足やあまりの速さゆえに直せなかったことがあったのだろう。
「見ればわかるじゃないか。こんなこともできないのか」
そういうことを怒鳴られるわけ。もっとマイルドに言えよ。
最初の箱製作会社が大量欠陥品を送ってきているわけだから、
こちらは怒りの矛先がない。
ミスに過剰に怒る人がいるけれど、ミスが発見されたのなら、
誤出荷を防げたということなのだからそれでいいのではないか。
現にそのミスを見つける検品という役割があるわけだから。

朝から働きたくないと思っていたのに加えて、毎度毎度の罵倒。
なんかもういいやという気になってしまってね。
レジェンドにでもなるかとあたまのなかで考えていた。
つぎあいつがなんか言ってきたらその場で相手をぶん殴って辞めてやろうか。
できるかどうかわからないよ。あたまのなかで考えていただけ。
あたまのなかでどんなことを考えるのもいちおうは自由。
しかし、そんな辞め方をしたらつぎの仕事は来ないし、
変な噂が学会メンバーたちに広がるかもかもしれない。
でもでも、そうなったらそうなったらでいいのではとも思う。
そうしたらマイナスかプラスかは究極的にはわからないわけだから。
わたしはいちおう表面上は温和になにごともそつなくこなしていきたいと、
いまはどちらかというと思っているほうだが、
そんな優等生ぶった生き方をしてきたわけでもなく、
いきなりぶち切れてすべてを投げ捨てるのもありだと思っている。
だって、レジェンドになるじゃない。すげえ辞め方をした人がいるって。
けれど、人情というか、こちらの妄想かもしれないが、
たまたまいろいろなご縁がありいまの職場にたどりつき、
そして内部でいろいろな人のお世話になっているのである。
そういう人たちの温情への感謝の念を、つまり恩を裏切るようなことはなかなかできない。
したっていいと思うのよ。なにが善か悪かなんてわからないわけだから。
口うるさい先輩にぶち切れてその場でばっくれるとかふつうの人にはできないじゃん。
おれはできると思うけれど、やったことはない。
だったら、やってみて結果をつくるのもいいのではないか。
いまはそういう豪傑は西村賢太しかいないけれど、
むかしの文学者(自称ふくむ)はそんな壊れたやつばかりだったわけでしょう。
いまおれに欠けているのは、そういう空元気、蛮勇、男性性ではないかとも思うわけ。
ブログでは好き勝手なことを書いているけれど、
実際のわたしは比較的に常識を重んじたいと思っている、
妙に腰の低いダメ中年だが、そういうところを変える必要があるのではないか。
働きたくない。好きなことをしたい。好きなことを好きなだけしたい。
けれど、やっぱり人の迷惑や約束、
つまり世間体を重んじて明日もわたしは早起きするのだろう。

四半世紀(25歳)も年上の同僚から聞かれる。
「どうして自転車で来ないの?」
自転車で通えなくもないが、45分くらいかかるような気がする。
当方の回答は――。
「自転車だと疲れるじゃないですか。楽をしたいんですよ」
「朝、女子高生ウォッチングをできるのが楽しいんですよ」
職場の横にはやたら女子比率の高い偏差値53の高校がある。
おっさんになったからだろうが、女子高生というだけでみんなかわいく見える。
みんな「どうせ大した未来はない」(「早春スケッチブック」)のだろうが、
彼女たちのいまもいま生きているという輝きには降参してしまう。
通学中の女子高生の会話を盗み聞くと、ポエムに近いくらい感動するのねえ。
かといって、これは偽善でも世間体を気にしているわけでもなく、
女子高生をどうこうしたいとか、そういう欲望はさすがにないと思う。
いつだったかテストの日だったのか、
なかには参考書(教科書?)を読みながら通学している女子高生もいる。
そんなことをいくらおぼえたって、どうせ役に立たないしすぐ忘れるのに、
と思いながらも、とても彼女たちを好ましく思う。
土曜日、おれよりも若々しい65歳のおっさんに休憩時間、小声でつぶやく。
「正直、働きたくないっすよ」
さすが還暦オーバーの男性は動じない。
「そういうことを思ったこと、ないっすか?」と質問したら、ないらしい。
すげえぜ九州男児は。生涯現役とかいつか言っていたしねえ。

明日また早起きしたくないなあ。働きたくないよもう。
でも、なんとなく自分は無断欠勤のようなことができないタイプのような気がする。
明日も早起きしてけっこうな通勤時間をかけてあそこに行き、
そうして新人ゆえびくびく周囲におびえながらミスをして、
またまたまたまたあいつから怒鳴られるのだろう。
うんざりげんなりだが、それが生きるってもんかさねえ。
有名作家の沢木耕太郎は初出勤日に会社を辞めたというが、
おれにはそんな勇気はないのか。
いまの職場に悪い人はいないのよ。
だれが悪いかと言えば、おそらくわたしがいちばんだもの。
ぜんぶめちゃくちゃにしてすべての縁を断ち切って世間とおさらばしたいという欲望がある。
あいつの胸ぐらをつかんでつばを吐きかけ、タイムカードを床にたたきつけ、
クッキーの数百枚も床にばらまいて「あばよ!」と消え去ったら、
そのとき自分はどんなことを考えるのだろう?
あるいはそうしてはじめて「文学の眼」といったものが開かれるのかもしれない。
わたしはやれると思っているけれど、やったことはない。
やれるのか、やれないのか。やるのがいいことなのか悪いことなのか。
たくさんの人たちからのご恩を裏切ることほど難しいことはないが、
あえてそれをやってしまえるような人間がほんものの文学者なのかもしれない。
働かないで本を読みたい。
そういまのわたしは思っているが、明日のわたしは異なるのだろう。
これを書籍(活字世界)では諸行無常と言っているようだ。
友人の友人(つまり赤の他人)が肺がんになったってさ。
友人も肺がんになったその友人(赤の他人)も女性。
肺がんの女性はわたしとおなじ40歳らしい。
若年(え? 40歳が?)のがんは進行が早いらしいから、
残念ながら寿命もおしはかられよう。
その肺がん女性がめちゃくちゃ動物性でもてもて、恋愛遍歴多数とのこと。
男のハートをとらえるのがとにかくうまい。
友人のだんなでも平気で寝取っちゃう。
略奪愛のプロフェッショナル的「いい女」40歳、肺がん。
いまの彼女の同棲相手(内縁の夫)は大富豪。資産は4億円。
好奇心から詳細をすべて聞いたが、なるほどそういうこともあるのかと思った。
ちなみに4億円大富豪の彼はうつ病で、彼女は肺がんが判明。
わけわかんなくね? 40歳で肺がんとか、4億円の資産とか。
そんな嘘のような本当の世界が現実にはある。
書かないけれど、もっと嘘のような本当のことをわたしはたまたま知っている。
現実の理不尽、不平等には笑うしか対処がないような気がする。
笑っちゃおう。アハハ、イヒヒ、ウフフ、エヘヘ、オホホ♪
ちなみにこの記事は情報提供者(友人)の許可を得て書いています。
わたしの周囲では、たとえ書いても信じていただけないことがよく起こるが、
それは嘘だろうということが本当だったりするのだから困っちゃうよ。
人をほめるとのけなすのとどちらが難しいのだろう。
人の悪口はだれもができる、みんな(わたしも)大好きな退屈解消娯楽である。
意外なほど人を適切にほめるのは難しいのではないか。
見当違いなところでほめられても、はあ? こいつわかっていないなと思ってしまう。
今日のわたしのライン横にいた女性は文句なく偉い。
わたしはあんなことできないもん。
担当(責任者)も偉い。
わたしはへたをすると当人から恨まれかねないきつい仕事を人に振れないもん。
彼はわたしにはたぶん無理な「供給」も楽々とこなすしね。
人をほめたい。なんだかとても人をほめたい。
前職の上司コカ氏は偉いよ。わたしなんかとつきあってくれたわけだから。
いま毎朝通っているところの人たちはみんな偉いような気がしてならない。
エゴサーチをしているようなので書いておくと、
わたしはロケットニュース24(ネットのワイドショー?)の佐藤英典記者が好きだ。
自分でネットをやっているくせにネット情報があまり好きではない当方が、
どうしてかロケットニュース24だけは定期的に閲覧している。
とくに佐藤英典記者の記事が笑えるという意味で非常におもしろい。
大新聞の記者よりも彼のほうがよほど偉い(=おもしろい)と思う。
かといって、このブログの数少ない読者さまに
ロケットニュース24を見ていただきたいというわけではない。
たまたまわたしは好きだけれど、
あんなサイト、彼の記事は最低だと思う人が大勢いるような気がする。
佐藤英典記者のおもしろさは、まじめにバカをやっているところ。
もっとバカをやれ。バカになれ。
だから、おいコラ、またぐなよ。社会人の柵(さく)をまたぐなよ、佐藤!
もっと過激に、もっと自由に! スーパーフリーたれ♪
舐めたことを書くと、みんなよくやるよなあ。
子どもは子どもで毎日学校へ行って、
たいていの子は好きでもない勉強をするんでしょ?
大人になったって毎朝早起きするのは変わりなく、学校へ行くように職場へ行って、
たいしておもしろくもない仕事を毎日おなじように繰り返す。
子どもは先生や親に叱られながら、
大人は上役、先輩、部下、同僚の白い目におびえながら。
そりゃあ、いじめもしたくなるわ。
偉い人も言っているかもしれないけれど、不登校やニートひきこもりになるのが、
あんがいそっちのほうが正常な感覚の持ち主かもしれない。
学校に行っていい子ぶるのや職場で勤勉ぶるのってすごい疲れない?
勉強ができなかった子ほど社会に出たら模範的な社会人ぶるのがおかしく、
同時にものがなしい。みんな、今日もお疲れさまと早朝から言ってみよう。
みなさん、わたくしは本当に存在するとお思いでいらっしゃいますか?
不人気過疎ブログ「本の山」でYonda?を名乗る、
土屋顕史を自称する40歳のかぎりなく無職に近い非正規、
自称早稲田卒のバカ男は存在するのか?
だって、ほとんどの人がわたくしをなまでご覧になったことはないでしょう?
土屋顕史なんか存在しないかもしれないじゃないですか?
かりに土屋顕史がいたとしても、中の人は別人かもしれないわけでしょう?
だれかが土屋顕史を偽装して、
このブログを書いているという可能性もあるじゃないですか?
このブログは、
老若男女複数で土屋顕史というペンネームのもと書いているとは思いませんか?
本当は土屋顕史など存在せず、
複数の人間の妄想の産物が土屋顕史の可能性は考えられませんか?
というのも、実名で好き勝手なことを書くなんてリスクがありすぎでしょう?
そんな危ない橋を渡る人がこの世に実在すると常識的に貴女(レディーファースト)や
そこの野郎(女尊男卑)はお考えになれますか?
土屋顕史はもう死んでいて、この男を悼(いた)み、
そのうえで彼の名前を借りて複数がこのブログを書いているとは思いませんか?
わたくしの書いていることはいくつか読めばおわかりになるはずですが、
まったく整合性がないし矛盾ばかりだし、なんだかおかしいでしょう?
あたまのいい人なら本当は土屋顕史なんか存在していないと気づくのかもしれない。
あるところで聞いたが免許証の偽造は2万5千円(スーパーカラーコピー)でOKだってさ。
わたくしは存在していないのかもしれませんでございますです。
おおっと、ひとつまえの記事で
創価学会ファン(自称研究家)としてはあるまじき南無阿弥陀仏を書いてしまった。
うっかりしていた。すぐさま打ち消さなければ。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。信濃町方面へ向けて。
カラーコピーのご本尊さまがほしいなあ。
でも、本物とされる日蓮正宗のあれもさ、日蓮直筆ではないんだから偽物では?
どっちもどっちというか、どっちでもいいじゃないかというか。
一遍は南無妙法蓮華経でもいいということをいっているから、
わたしは一遍ファンのままで創価学会にも顕正会にも入れるし、
名号が人を救うのだというのが一遍の教えだから、
浄土宗にも真宗にも親鸞会にも入れるし、
一遍の本当の教えを理解したらキリスト教にもイスラム教にも入ることができる。
ちなみにヒンドゥー教は入れない。
なぜならヒンドゥー教はヒンドゥー教徒の子どもとして生まれたものしかダメだから。
入りたいのならインド人やネパール人と結婚して出産に期待するしかない。
わたしは南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏もアーメンもおなじだと思う。
なぜなら、どれも意味は人間を超えるちからを認めようということだから。
南無というのは、人間にはできないことを認めるという意思表示。
わたしなんかも毎日南無妙法蓮華経を唱えた時期もあったけれど、
創価学会は決して入れてくれなかったしねえ。
まあ、折伏(勧誘)も財務(献金)もやる気がない学会員はいらないという理由はわかる。
池田先生の俗物根性は嫌いではなく、
今日は半額だったので先生のご好物であるてんぷらをひさびさに購入。
いま食しているが、わたしと池田先生の好物は似ているようだ。
基本、脂っこいものが好き。

人間を超える(名づけえぬ)大きなものってなんだろう。
来月のシフト表(休日希望)提出期限は明日なのだが、
明日しようと思っていたら同僚から今日やっといたほうがいいよといわれ、
そうしたら、帰途の電車で3回ドタキャン(約束を破る)をしたあげく、
顔合わせで落としてくれた派遣会社からありがたくもお電話をいただいた。
交通費とか時間調整とか、どのくらいこちらの負担があったか。
今日シフト表(休日希望)を出していたおかげで、
いまはダメですときっぱり答えることができた。迷わずに済んだ。
人として約束はあんまり破りたくないもの。
わたしなんかにお声をかけてくださる人は本当にありがたいし、
電話でも誠心誠意その旨を申し上げたけれど。
わたしはいまの派遣先をいきなりクビになっても、そんなもんだと思う。
大企業だって雇用者にそういうことを平気でするのだから(実体験)、
派遣の分際で雇用にまったく期待していない。
すぐ切れるし、めんどうくさいあれこれがないのが派遣雇用者の長所ゆえ。
人生に希望はほとんどない。
どうなってもいいし、どうにでもなれだし、だからどっちでもいい。
なんだっていいんですよね。
いまてんぷらはおいしいので、だから、そのため、そのゆえに。
まるで創価学会二代目親分の戸田城聖みたいなおのれの快楽主義に困っちゃうよもう。
今朝もだが定期的に人が飛び降り自殺をする夢を見る。
それが母であるときも別人であるときもある。
こればかりは10年経っても15年経っても治らないんだよなあ。
とくに治すたぐいの病気というわけでもないのだろうが。
しかし、朝からゆううつなもんだよ。
ほんと自死遺族はめんどくせっ。
きっと厭世観や人間不信は一生続くのだろう。まあ、それも死ねば終わりさ。
今年に入ってから一遍の語録を再読熟読しているけれど、
かれの南無阿弥陀仏は臨終を言葉にできない無比の悦楽とみなす信仰である。
死は不幸ではなく、むしろ正反対の至上の、
言語化できないほどの(言語道断!)絶対体験であることを真っ向から見据える。
鎌倉時代のハグレ坊主の一遍は、
「とく死なんこそ本意なれ」と主張した踊り念仏の開祖とされる。
どうせ死ぬんだから今日を楽しもうぜ。明日なんか来ないかもしれないんだから。
どうせ死ぬんだから女からもてるもてないなんてなんだ!?
お金や学歴、いまの身分なんてどうでもいいだろう南無阿弥陀仏。
どうせ死ぬんだから苦悩なんか捨てて今日を笑って過ごそうではないか。
今日また一遍の本がブックオフオンラインから届く。
帰宅したら不在通知が入っていることだろう。楽しみ、楽しみ。
よく知らんが、いまもいま日韓関係がやばいんしょ?
韓国へ行きたいなあ。だって、いまなら安そうだもの。
ぶっちゃけると、日本にとって重要な国は中国、インド、イタリア、韓国では?
日本食って結局、他国料理の日本化だと思うし。
で、日本料理とは中華料理でありカレーでありスパゲティであり焼肉キムチであると。
日本にフランス料理やタイ料理は根づいていないっしょ?
インドと中国の現地料理はたらふく腹に押し込んだ。飽き飽きするほどね。
行けるならば夢の話をするならば、
イタリアとか毎日昼から大人がワインを飲んでいるイメージがあるから行ってみたい。
韓国は近くて遠い国で、
わたしはどこの国へ行っても現地の酒飲みと意気投合して酒宴を繰り広げられるので、
民間レベルでの日韓友好にひと役買いたい。
今日思ったけれど、ロシアもウォッカがあるからおもしろいのかもしれない。
おれはロシア人とウォッカ勝負をしてもそうそう負けない自信がある。
でも、ロシア民謡、ロシア文学は日本に根づいたけれど、ロシア料理は――。
これは左翼料理の限界かもしれない。
おいしいとはどういうことか? おいしいとはいま楽しければいいってこと。
インド料理もおいしいし、中華料理はどんな下等食堂も美味だから、そのとき楽しい。
それでいいという意見と、それではいけないという反論もあるだろう。
まあ、アジアで有名な青島麦酒、ビアホイ、ビアラオを死ぬほど飲んだ男の感想は、
なんだかんだいっても日本のビールがいちばん。
たとえ今後の増税が決定した第3のビールでもさ。
いま生きていてサイコーにおもしろい。昨日も今日もおもしろかった。
現在、山田太一ドラマ「想い出づくり」の森昌子のようなところで働いている。
あそこはロッテの工場が舞台だったっけ。
おりしも、いまジェイコムで「想い出づくり」が毎週放送中。
これは「ありふれた奇跡」とおなじでリアルタイムで見ている。
わたしが山田太一ドラマのすごさに気づいたのは、
10年以上まえに新宿ツタヤで借りた「想い出づくりの」ビデオだった。
偶然といえば偶然なんだけれど、コンステレーションがおもしろすぎる。
さっきジェイコムで長いこと録画しておいた「早春スケッチブック」第1話を再視聴。
これも初回視聴はツタヤでのレンタルだったか。
高校3年生男子の受験をまつわる話ともいえよう。
春が来るまでなにが起こるのか。
今日のライン横のママさんの息子さんは大学に受かるのか。
人の話を聞くと、そのぶんだけ山田太一ドラマの理解も深まるのである。
読書だけではだめで耳学問も必要だと思う。
世間って冷たくてあったかくて、その冷暖がともにおかしくかなしく、
当方の貧困な語彙で表現するのなら「おもしろい」のだろう。
わたしはわたしの真実をつかみたい。みんな、ありがとよ。
学歴コンプレックスを持っている人は思いのほか多いような気がする。
たしかに学校時代のお勉強は、
成績と努力が正比例で結びついていると思われがちである(現実にそうとも言える)。
お勉強は努力のぶんだけ成果が見られる可能性が比較的に高い(絶対的ではない)。
しかし実際、社会に出たら努力よりも
コネ(生まれ、血縁、根回し)のほうが重要視されることにみなみな気づくのではないか。
そこで改めて学歴の価値を思い知る社会人も少なくないと思われる。
当方がたまたま運よく早稲田に拾ってもらったのは、
実力や努力をうんぬんするよりもはるかに浪人時代、
当時たまさかうちの家に金があったようで、
予備校(河合塾)に通わせてもらったおかげである。
ここまで恵まれたものでも予備校に行かないとなるとあれだが、
わたしはせっかく親が通わせてくれる河合塾にせっせと通った。
河合塾講師の講義は、比較するのもいやみだが、
どの早稲田大学教授のお話よりも刺激に満ちていておもしろかった。
だから、勉強して合格したというに過ぎない。学歴はお金のちからが大きい。
講義のちからというのは、いかにものを効率的にたたきこむかではないような気がする。
なんでもいいからおもしろいお話をして、
学生(塾生)に自分から勉強をしようという気になってもらうか。
わたしは河合塾の講師からなにも教わっていないのかもしれない。
ただただ彼(女)たちは魅力的だった。お話がおもしろかった。
このため自分で勉強する気になったのだと思う。
早稲田大学の先生でおもしろい話をしてくれたのは客員教授の原一男先生だけだった。
原先生は中卒ではないか。夜間高校くらい出ていたのだったか。
「正しい」先生よりも「おもしろい」先生のほうがよほど人を育てるような気がしてならない。
いま既存のアカデミズム(学問/大学)世界に分け入ってもなにもないわけ。
どの学問領域も細かく専門化され、それぞれ権威のような重鎮がおられる。
で、その権威先生さまのご方針に従わないと専門家としてはアウトになってしまう。
高卒の人とかコンプレックスがあるかもしれないけれど、
早稲田大学第一文学部の講義はどれも本当につまらなかった。
ほとんどつまらない講義を聞かず(退屈な聴講は時間の無駄!)に卒業できたから、
母校もそういう事情をわかっていたのかもしれない、あるいはね。
人が生きる、庶民が生活するというのは、全体でしょう?
生物学も医学も社会学も心理学も経済学も政治学も宗教学も法学も、
ぜーんぶ入っている。
むろんジェンダーも遺伝も統計も確率も偶然性もリスクも、すべてふくめて。
河合隼雄がおっぱじめたユング心理学や臨床心理学はそれまでの日本にはなかった。
河合先生は日本の年功序列社会を受け入れて、
晩年さまざまな学問分野をおのれの領域に取り込んだ。
かの高名な先達と自分を比べたいわけではないが、わたしも専門はない。
そもそもアカデミズム(大学/公的研究教育機関)とはまったく通じていない。
しかし、ブログ「本の山」のカテゴリー欄をご覧いただければおわかりになるはずだが、
当方の興味はまさに庶民的で多岐にわたっている。
専門領域がないからどの分野の権威にも恐れないで思ったことを言える(書ける)。
いまもっとも必要とされているのは、こういう全体的ないわば「庶民学」ではないか。
わたしが勝手に庶民学の師匠として仰いでいるのはテレビライター山田太一で、
先生のお言葉(セリフ)は宝の山である。。
庶民のなかに分け入るという前史には、うさんくさいものがたくさんある。
ドキュメンタリー映画監督がいくら庶民世界に分け入ろうと、それはおのれの表現のため。
ノンフィクション作家がどれほど庶民ぶって庶民世界に潜入しようと、それは取材のため。
末端の社会学者(社会学って学問か?)がよくやるフィールドワークも本籍地は大学だ。
山田太一ドラマが大好きな自死遺族で高学歴、読書家、
しかし非正規無所属なわたしは新たな庶民学を開拓したいと思っている。
どうしてショーペンハウエルの絶望が日本の陽気なパートおばさんより高貴なのか?
早起きは大嫌いだが、わが庶民学の追求のため明日も朝6時に起床したいと思う。
庶民学はみんなでつくるものなので意地悪や親切、
恫喝や慰撫でいろいろご協力いただけると嬉しい。求愛はないかなあ。
今年あるところでいまさら気づいたけれど、
われわれがいまいる場所は男社会なんだなあ。
社会上層部にいるのは歳を取った男ばかり。
たしかに「想い出づくり」(約35年まえの山田太一ドラマ)の時代から比べたら、
いまは女性の社会進出が進んでいるといえよう。
むかしとは異なりいまや女性の結婚は24歳で行き遅れではなく、
30でも40でもいくらでも口はあるだろう。
しかし、むかしもいまも相も変わらずわが国はマチズモ(男性優位社会/努力絶対主義)。
わたしはこのブログで長らく女嫌いを表明していたが、
実のところ男も嫌いで、なにより人間という生物全般が(自分をふくめて)嫌いなのである。
人も嫌い。男も嫌い。女も嫌い。
みんな嫌いだが(自分もふくめて)、男よりは女のほうが好きである。
いままで女性に助けられたおかげで生きてこれたと言ってもよい。
男性はありきたりで通俗的な説教をするばかりであまりお世話になったという意識がない。
イプセン(女権推進派)よりもストリンドベリ(女性蔑視者)が好きなわたしだが、
そしてこちらはわが国最高のストリンドベリ愛好者(研究者)を自称しているが、
加齢とともにそろそろ変節の時期を迎えてもいいのではないだろうかと思う。
女性と手を組んで小さなところから男性優位社会を変えていきたい。
これは正義とか人権は関係しておらず、
ただただわが人生で女性にお世話になってきたからである。
そして、にもかかわらず、現実を見れば、
社会上層部には古株ぶった男性老人ばかり幅を利かせている。

自分が女連中ともうまくやっていけると思うのは、独占欲がないからである。
あるひとりの女性を独占したいとかさらさら思わない。
そもそもこちらにそんな資格がないことを熟知しているからだろうけれど。
むかし偉くなった男は2人も3人も愛人をつくり、
彼女たちは2号、3号と呼ばれたそうだが、
わたしは女性の5号でも6号でもいっこうにかまわないというほど、
その方面でのプライドやこだわりはない。
おれなんか相手にしてくれるのなら、だれでも女神さまである。
女性を好きになることはなくないけれど、独占したいと思ったことはない。
かえってその当面好きな女性に恋人がいたほうが、
嫉妬心がかきたてられておいしいかなあと。寝取られ妄想みたいの、悪くない。
なんでこうなっちゃったのかわからないけれど、
少なからず16年まえ母から目のまえで飛び降り自殺されたことが
関係しているような気がしなくもない。
あんがい、これもある種の妄想かもしれない。
人が嫌いで女が嫌いで男も嫌いだが、このなかでまだ女はやさしくしてくれる。
だから好きだって、そりゃあ打算が過ぎやしないかと言われそうだが、
みーんなそんなものじゃないのかなあ。
最近ふとテレビを見たとき知ったのだが、いまの都知事はなんでも女性らしい。
ああ、マチズモ男になってひとりの女性に夢中になり身も心も滅ぼしてみたい。
あるいはこのたびの女性愛好宣言は、そういうマッチョ願望の裏返しなのかもしれない。
自分でも自分のことがわからない。
社会のことも世間のことも世界のことも、もう40歳になるというのになーんにもわからん。
去年、職場で休憩時間に自嘲しながら副工場長のコカへ、
「わたしなんか知的障害者みたいなもんですから」と言ったら、
上司から真顔で「いや、土屋さんは知的障害者以下だ」と叱られたことがある。
もちろん、録音もしていないし、本人は言ったことを否定するだろう。
で、それで、わたしが怒ったかというと、そういう話ではない。
ふーん、他人の目にはそう見えるのかと、
納得してしまったという謙虚なぼく話(ばなし)。
外面(そとづら)がいいというのか、わたしは異常なほど謙虚なところがある。
いいのか、悪いのか、うーん。
「土屋さんは知的障害者以下だ」
そのあとにコカから言われたのは「自分が土屋さんを育ててみせる」。
「おれは知られていないが人を育てる名人なんだ。
土屋さんをなんとか立派な正社員にまで育てたいと思っている」

――結果はというと、いきなり工場長から退職勧奨をされてクビ。
しかし、会社サイドは退職勧奨を否定して、自己都合退職あつかい。
当然、失業保険もゼロ。
会社によると、わたしが自己都合退職したという証人がなんでも3人いるらしい。
えええ、退職勧奨は工場長との一対一だったのだが。
で、その証人3人のひとりにコカが入っていたのである。
それが社会人のあるべきすがただが、
コカは当たり前のように部下よりもいま現在の自己の保身を選択した。
それを恨んでいるというわけではなく、まあ人間そんなものだろう。
しかし、コカからは無数の人格批判的なお叱りをいただいた。
「土屋さんは人間を信じていないと言うが、それはダメだ。
おれが土屋さんを変えてみせる。もっと人間を信じろ」とかさ――。
そういう熱血上司が部下をあっさり切り捨てて、お偉い工場長や本社には絶対服従。
よけい人間を信じられなくなったというか、
そもそも人間不信だったから確信を深めたというか。

コカが嫌いとかまえの職場に勤めなければよかったとか、そういう後悔ではない。
あるいはある時期が来たら(因縁時節!)、
コカやあのリネン工場には大感謝しなければならなくなるだろう。
コカからは叱られて叱られてそのあげくポイ捨てされたが、
彼を恩人だと思うときがくるのかもしれない。
いや、いまでもけっこう恩人だと思っているのだが。工場長も知的障害者連中も。
お金をいただきながら、いっぱい社会勉強をさせていただきました。
知的障害者以下の我輩は学ぶことがいくらでもあるのである。
思い込みを捨てたら自由になるが、それがいいのか悪いのかはわからない。
昨日の知的障害者への悪口記事にはまゆをひそめた人も多かったのかもしれない。
なーんて、うそぴょ~ん。うちのブログ、アクセス数はゼロに近いから。
だれも読んでいないと思うと、自分が本当に思ったこと、わが真実を書くことができる。
わたしもまえの職場に入るまでは知的障害者に対して好意的な感情を持っていた。
野島ドラマの「聖者の行進」を真に受けていたわけではないけれど、
知的障害者は純真で天使のような存在で、
周囲にまったく無害な、
それどころかにもかかわらず虐げられたかわいそうな人たちであると。
しかし、実際に知的障害を持つ3人の青年男性と働いてみたら、
現実はまるで思い込みと違うのだから。
仕事でいちばん困るのはミスである。
しかし、仕事とは複数でするもので、
あいだに知的障害者が入るとなにがなんだかわからなくなる。
伝言ゲームに知的障害者を入れたら最初の指示はどう変わるか。
で、ミスが発覚したときに叱られるのは、むろん障害者ではなく健常者である。
わたしは知的障害者に最高敬語のようなものを使って仕事をお願いしていたが、
それでも言うことを聞いてくれないこともあったし、
現場のチーフは知っているだろうが、
お願いを聞いてくれたときは大喜びするくらいだった。
そういう知的障害者でも工場長や副工場長、
つまり肩書が上の人の言うことは素直に聞くのである。
上司が去ったら言われたことをすぐに忘れ、そのフォローを健常者がすることもある。

まあ、わかりやすく知的障害者を説明すれば、
飲みかけの缶ジュースを横にして冷蔵庫に入れてしまうような人たちだよ。
ボランティアで激励や慰安をするにはいいのだろうが、
いっしょに仕事をするとなったらあたまがおかしくなる。
とくに上司が宗教がらみで知的障害者を神聖視していて、
健常者なんかよりも障害者のほうが「磨けば光る」とか盲信しているとねえ。
わたしがいちばん嫌いだった知的障害者の青年は、
ときおり「こんな仕事、辞めてやる」と口にしていた。
いまは健常者でさえそうそう仕事に就けないのに、
人権の王者である知的障害者さまは「枠」のようなものがあって、
いくらでも仕事が舞い込んでくるのであろうか。
「彼の知的障害は治った」と評判(どこで? 学会?)だと上司は言っていたが、
わたしの目を信じるならば彼はどうしようもなく知的障害者である。
最後に言っておく。知的障害は不幸ではない。
なぜなら本人は不幸という観念もわからないし、
たとえ叱られても意地悪をされてもたぶん殴られても1時間もすれば忘れるからだ。
知的障害者は本人はあんがい幸福で、周囲がたいへんな思いをするのである。
新聞もテレビも知的障害者の悪口を言えない。
ならば知的障害者は天皇陛下のような存在なのだろう。
断わっておくが、わたしがうんざりするのは男性知的障害者の青年で、
女性の知的障害者とは接したことがないからそれはわからない。
付け加えると、わたしは天皇陛下はなぜか好きだが、男性知的障害者は嫌いである。
まあ、最後に本音をぶっちゃけると、わたしも知的障害者のようなもので、
これは同族嫌悪に類することなのかもしれない、あはっ。
人(日本人?)を苦しみに追い込むものは「べき」のような気がする。
男性性(男はこうすべき)とか女性性(女はこうすべき)とか。
女性性といえばたとえばおっぱいだけれど、
男はみんな巨乳(デカパイ)が好きというのはあれは嘘で、
わたしはお手頃サイズ(ってなんなの? どのくらいなの?)が好きだ。
男も男で巨根(デカチン)願望(妄想)を持っているものが多いらしいけれど、
(女ではないからわからないが)女も女で
あれのサイズなんかそれほどの問題ではないのではないか。
「大」を求めるのが下級発想のように思えなくもない。
おのれの小ささにコンプレックスがあるから「大」を求めてしまう。
大韓民国とか大日本帝国とか大臣とか大勝利とか、「大」はいかがわしい。
はたして「大」であるべきか? 大家族や大恋愛はそんなにいいのか?
家族愛やら男女愛は世間がこうする「べき」と主張しているものだから、
孤独な人間は苦しまなければならないはめにおちいる。
働く「べき」とか、みな勤勉である「べき」とか、長生きす「べき」とか、
本当にそうかなあ。「べき」は国家的法律ではなく世間法である。
しかし、国家的法律でさえ「べき」に過ぎず絶対性はどこにも見出せまい。
人間はこうす「べき」というのは、疑ってみるのもあるいはよかろう。
悪いのかもしれないが、悪いことが悪いことである「べき」理由はどこにもなく、
それはそれでいいのだといまのわたしは思っている。
思えば、長いあいだ家族幻想、恋愛幻想、長寿幻想にマイッタしていた。
世間常識(=べき!)はたいせつだが、スーパーフリーもまたよろしい。
男ってどうして自分の優位を示したがり、
相手に勝ったとか負けたとかにこだわるのだろう。
女もそうかもしれないけれど、
男はとくに妙なこだわりやプライドを見せるのでうんざりする。
相手を屈服させたいとか、負かしてやりたいとか、勝ち誇りたいとか、
そういうマチズモ(マッチョ/男性的)なメンタリティー(精神性/感覚)のこと。
どうしてかの理由はわかっているのである。
サラリーマンの常識のひとつは、部下を叱るときは個別に呼び出してというものがある。
みんなのまえで恥をかかせてはいけないという、人間としての配慮でもある。
前職の上司、副工場長のコカはそんな社会常識も持ち合わせていないらしく、
女性パートが大勢いるなかで(彼のルールに逆らったらしい)わたしを面罵して
いかにも小勝(こかつ)したという満足げな表情を浮かべていた。
まあ、彼よりはるかに「上」の工場長がいない日だったからそういうことをするのだろう、
とひとつ社会勉強をさせていただいたという、いまではいい想い出だが。
知的障害者でさえ男は女のまえでは威張りたがるし、有能ぶるのだから笑ってしまう。
前職では知的障害者の男性青年でさえ、
女性パートが現われると意味不明の仕事ルールを大声で語り始めるんだから。
そのうえさらにたびたび健常者に大声で意味不明の命令をするんだから、
知的障害者とはいえ男の子は男なんだなあ。
いままで手を抜いていたのに妙にハッスルするとかバッカみたい(あ、知的障害者か)。
どうして男は男相手に見栄というか虚勢をはるのか?
答えは、かんたん。女から評価されたいからであろう。
わたしはそういうマッチョ主義が嫌いで、
前職では女性パートが下に降りてくるとわざと「やる気」をなくしたそぶりを見せたけれど。
まあ、それも女を意識してのことなのかもしれない。
というか、アホな知的障害者(重言?)とおなじことなんかしたくないじゃん。

男性性とかいやだねえ。
相手を征服したいという、最低の知的障害者さえ有している男の動物性。
なぜ男は戦争をするのか? 回答例のひとつは、女がいるからだろう。
男社会はいやだが、むろん女社会もそれほど平和ではないだろう。
男のように戦争ができないぶん、女社会は(よく知らないが)陰湿という可能性もある。
男の子っぽい女の子や、
女子くさい男の子(草食系?)のよさが評価されるゆえんであろう。
わたしは女の腐ったような女々しい男なので、われわれの新時代は来ないかなあ。
勝って損するよりも負けて得をしたほうがいいじゃん。
いまは上下関係がない例のコカがフィリピンパブを好きな理由は、
フィリピーナは「男を立てて」くれるからだという。
「男を立てる」というのは、ものすごい即物的で下品な日本語でとてもいい。
はたして「男を立たせる」女がいい女なのかはわからないけれども。
柔道経験がある女子とか本気を出したら寝技ではそこらの男に負けないのだが、
そういうガチをしたら男女関係が成り立たない不便な事情があるのだろう。
男の願望として気の強い女を屈服させたいというものがあるのだと思う。
しかし、その「気が強い」も「屈服」も演戯なのかもしれないのである。
いかに世間の定めた男性イメージ、女性イメージにわれわれはとらわれているか。
ウーマンリブが大勝利をおさめた新時代の賢い若者は恋愛も結婚もしないらしい。