やっぱ会社を辞めるのってすごいストレスなんだろうな。
風邪を引いてしまったようだ。吐き気がすごく戻したことさえあったくらいだ。
いまの保険証が使えるのは今月いっぱい。
あわてていちばん近所の病院に飛び込んだ。
これでもかという典型的な町医者のおじさんで、処方箋も手書きで(たぶん)ドイツ語だぜ。
しっかり患者心理をわかっていて5種類もの薬を出してくれる。
「絶対効きますよ」とか言っていたから名医なのだろう(この嘘を言えるかが判断基準)。
明日は新しい1ヶ月短期バイトの面接だし、治ってくれないと困るなあ。
いやね、怨念と呪詛を込めてクリスマスケーキでもつくろうかと思ってさ。
おれがクリスマスケーキをつくるとか(実物を知っているものには)シュールでは?
どうせ男はケーキなんてつくらせてもらえず力仕事にまわされるんだろうけれど。
保険証を国保に代えるには、
「職場の健康保険をやめた証明書(健康保険資格喪失証明書)」が必要とのこと。
それはまだうちに届いていないなあ。大会社なんだからしっかりしてほしい。
ということは、無保険の期間ができちゃうわけじゃん。それは怖いし危ないよ。
コカ氏に相談したほうがいいのかなあ。

先ほど副工場長のコカ氏から携帯にメールが入る。
ひとつまえの記事で、当方のいいかげんな記憶で書いた人権標語を訂正される。
×「磨けば光る障害者 日増し汚れる健常者」
○「障害者磨けば光る純粋さ 健常者磨けば欠ける素直な気持ち」
会社を辞めたあとの人間関係ってどうなるんだろう?
日本軍とかだと戦後も上下関係は引き継がれたって聞くよね。
とりあえずは明日のバイト面接だな。
みんなもそうでしょうけれど、わたしも履歴書を書くのが大嫌いなんだ。
最終学歴をコカ氏の情報高校にしちゃおうかなあ(覚えていないけれど)。
バイト面接で落とされたらむかつくんだろうなあ。
しかし、風邪で酒は大して飲めないし(ゆえに)酔えないし「うつ」コース決定だ。
いまでも失業保険はねらっているけれど(大した額ではない)、
みんながみんな絶対に大会社とは争うなっていうね。
はああ、いまから明日履歴書を書くことを考えて憂うつである。

「障害者磨けば光る純粋さ 健常者磨けば欠ける素直な気持ち」(作:コカ氏)
おれも「素直な気持ち」とやらが欠けた健常者と思われていたのかなあ。
わたしがいまの職場で学んだのは人権の王者である知的障害者がいかに意地悪かだ。
それはおまえのこころが汚れているからだっていわれたら反論のしようがないけれど。
まあ、おもしろいといえなくもない8ヶ月間でした。
会社で副工場長から人権標語を提出しろと言われたことがあったなあ。
それもすごい話で、わたしが書いたものを彼が診断・推敲して、
彼のおめがねにかなえばエントリーできるらしい。
きっと上司は東大文学部教授レベルの文章力と読書量を持っているのだと思った。
そのとき彼がつくった人権標語を聞かされたが、もう忘れている。
こちらで少し推敲してやったものをあやふやながら紹介すれば、
「磨けば光る障害者 日増し汚れる健常者」みたいなようなものだったと思う。
彼にとっては知的障害者ほど善良なこころの持ち主はなく、
健常者はみなみなおのれを追い落とすことを狙っている悪人に見えたのだろう。
知的障害者と半年以上働いたが、彼らに改善のきざしはなにひとつ見られなかった。
人権の世界では知的障害者は健常者よりもはるかに偉く、
(上層はそんなことを思っていないが)そう信じられる末端の軍曹が
お上(かみ)からかわいがられるのだろう。

「磨けば光る障害者 日増し汚れる健常者」
「「行き場」を探す日本人」(下川裕治/平凡社新書)

→ぼくらのタナシンが西村賢太との対話で、自分に職歴がないことを誇っていたが、
サラリーマン体験というものは、こころを壊さない程度ならしても悪くない気がする。
最前の職場はバイトにも社員たれと期待する、見ようによってはいい会社だった。
部下には常時「こうしろ!」と言っていた人がさ、
さらなる上司がそうではないと調子に乗った部下の顔をつぶすために言い放ったとき、
「それはごもっともでございます」と以降手のひらを変えるような上司とかおもしろいぜ。
職場のまえの先輩(1歳年下)は上司のそういう人間味をいちいち愚弄していたが、
わたしは「なるほど」と処世というものを実地で学ばせていただいている感激に震えた。
まあ、そのわたしも先輩とおなじようにあわれ追放されて無職孤独零落、
いまごろみなさまの悪口のいいサカナになっているのでしょうが、
それはまあそんなものよ。つぎはだれがターゲットになるのかな。
わたしもようやく日本のサラリーマンの味わう理不尽さを実体験した。
以下の文章は本当によくわかる。

「理不尽さが募ること――。
会社勤めを続けていれば、それはしばしば起こることだ。
先日も、ひとりのサラリーマンの愚痴を聞いていた。
「いちばん頭にくるのは、上司の『言っただろ』なんだよ。
上司の意図を汲んでいない見積もりなんかを出すと、
『言っただろッ』と怒る上司がいる。
しかし断じていうけど、自分は絶対に聞いていない。
しかしそれをいうと『いった、いわない』の争いになっちゃう。
結局、こっちが黙るしかない」
そんなことは日常茶飯事だという人は多いだろう。
僕はサラリーマンを辞めて三十年近くになる。
しかし、理不尽さへの記憶はしっかりと残っている」(P33)


今月でクビになった工場はトップの方針でミーティングをやらないんだ。
そのことによるマイナス面だけではなく、プラス面もたぶんにあったと思っている。
上司は一対一の口伝えで部下に指示を出す。
上司はそれをみんなに言ったものと思ってしまうが、現実はむろんそうではない。
3人もいらっしゃる知的障害者が伝言ゲームにさらなる妨害を加える。
もうひっちゃかめっちゃかで、
いまでもリネン工場として成り立っているのが不思議なくらいだ。
毎日のように「それは違う」と言われ、言っただろう、聞いていませんの繰り返し。
知的障害者が独自の判断(なんて無理っしょ?)で指令をだすときもあるから現場は修羅。
ぜんぜん楽しくない。いつもピリピリ、セカセカしていて、
みんながおのれのミスを指摘されることを過剰に恐れている。
獰猛に他人のミスを探し回っている企業人としては優秀な上司もいる
(彼の人間くささを社会見学気分で高評価する当方以外のバイトは、
ひとりもらさずみなみな男を嫌っていた。彼の顔を見るとメシがまずくなる等々。
当方がいまの職場に勤務している際にどれほど副工場長の悪評、悪口を聞いたか。
そういうのはすべて自分に密告してくれと頼まれたが、
先生に気に入られる優等生みたいなことはしたくない、
とあいまいにしておいたらこちらがいきなりクビさ)。

さてさて、話を窮屈な日本からアジアに移すと、
本書によるとたとえばタイの工場では女性のみならず男性までが、
会社を辞める理由に友人の退職をあげることが多いらしい。
あの子がいなくなっちゃうと、もうここで働く楽しみがないから辞めるという考え方。
これには多くの日本人が「なにしに会社に来ているんだ?」と怒るという。
かつての長期間アジア放浪でアジア汚染されたわたしはあるまじき暴論を言い放つ。
えええ、毎日の1/3以上を過ごす会社が楽しくなかったら生きている意味がないじゃん。
いまの職場だっておしゃべりをフリー化(自由化/推奨)して、
もっと和気あいあいとやれば(見かけは悪くても)結果的に生産性は上がるのではないか。
人間関係が悪いとどれほど効率性や生産性は落ちるか。
そして、重要なのは人間関係は生産性や効率性のように決して数値化できぬということ。

アジアにはまだ日本に比べたら一発逆転のようなドリームが残っていそう。
しかし、本書にはひとつとしてそういう成功事例は報告されていなかったからリアル。
結局、日本でパッとしないやつがアジアに行ったところでパッとしない。
しかし、アジアにはことさらパッとしなくてもいいという共通認識があるから生きるのが楽。
家族や仲間、友人とそれなりにわいわいやっていれば、人生それでいいじゃん、みたいな。
海外移住は大量の書籍、医療薬品(個人輸入可能か?)が問題となっている。
海外でだらしない居酒屋でもやって、ダメな日本客相手と傷をなめあいたい。
そ、そ、そんなことを考えられるくらい我輩様はワールドワイドな視点を持っているのでR♪

「薄明鬼語 西村賢太対談集」(扶桑社)

→なんかもう疲れちゃった。
さっき会社からメールがあって、おまえの思い通りにはさせないぞ、と。
わたしは密室で工場長から「退職勧奨」されて退職届を書いたのよ。
しかし、本社の人事部によるとそれは違う。おまえは間違っている、と。
おまえは自分で退職届を書いたんだから自己都合退職だろう。
「退職勧奨」がなかったことは会社に3人の証人がいるって(だから密室だったんだよ!)。
そのうえ、その3人の証人はいずれも会社の一定のポストにある人でしょう?
それは会社の味方をするわけで、うちには3人の証人がいるって言われてもさあ。
いまの職場に入ったころ5歳年上の副工場長におのれの人間不信を白状した。
そうしたら、「土屋さんはダメだ。もっと人間を信じなきゃ」と指導された。
その結果がこれでしょう。
わたしの自己都合退職の証人3人にちゃっかり副工場長も入っている。
きっとあの人はこうして世を渡ってきたし、これからもこうして出世していくのだろう。

芥川賞作家の西村賢太の書くのは身のまわりのことを題材にした私小説といわれるもの。
世の中にはふたつの目があって、それは「世間の目」と「わたしの目」である。
徹底的に「わたしの目」「わたしの言葉」にこだわるのが私小説である。
たとえ高級スーツを着用した10人がノーといっても、
しかし「わたしはイエスと思う」と言えるのがほんものの私小説作家。
それにしても世の中は厳しいなあ。
契約期間が来年3月まであるのにクビにして、
おまえが勝手に辞めたんだろうとやるのが大人の社会というものか。
そうしてかの男もあの男も偉くなり、高級スーツを着て、愛人を持ったのだろう。
「わたし」をいかに消すかがおそらく実社会を生きるコツである。
「わたし」の思いを捨ててスーツとネクタイに身をまかせる。
そのつらさやかなしさも十分に文学たりえるだろうが、それは私小説ではない。
今日わたしを路頭に迷わせた社会上層部の証人3人にはこころの痛みはないのだろうか。
まあ、世の中、こんなもんさとわたしのことなど明日には忘れ去っているのか。
石原元都知事に妙にかわいがられている私小説作家の西村賢太はいう。
ある若手美人作家との対談で――。

「あんまり編集者の言うことを聞かないことですな。
「ここをこうしたら」とか「もう一回書いたら」とか、言われませんか。(……)
僕はもう編集者に手を入れられることに対してすごい神経質ですよ。
それをされちゃうと、自分の文章じゃなくなっちゃいますからね」(P82)


わたしは文章にはこだわりやプライドといっためんどうくさいものがあるけれど、
ことお給料のためにやっている賃仕事についてはまったくもって上のいいなりであった。
「直せ」「ダメ」と言われたらいくらでも何度でもやり直したものである。
まえの先輩もそうだったがおれについてきたら正社員だと上司はみんなに口にしていた。
それでもこうして突然クビになって、しかし自己都合退職扱い(失業給付ゼロ)。
バイトを自他の勘気でクビにしておきながら、勝手に辞めたんでしょう、
となるのが世間常識。
せめて西村賢太くらいには「わたしの目」「わたしの言葉」をたいせつにしてもらいたい。
成功者の西村賢太中年による人生アドバイスはこうだ。
人間、どう生きるべきか。

「いや、人の意見は無視することです。
無論、僕のいかにも成功者気取りの、この勘違い意見もね(笑)」(P83)


世間の真実は多数決。世間の真実は肩書勝負。
しかし、「本当の真実」はわたしが決めるということ。西村賢太とわたしが共有する秘密だ。

「西村賢太対話集」(新潮社)

→これを読んでいたころちょうどうちのパソコンが壊れて修理に出していて、
すると賃労働より家へ戻って来てからすることがないのである。
パソコンがあれば安酒を飲みながら、
今日の職場であった些事笑事を底意地悪く思い返しつつ陰気に笑い、
ネットをロケットニュース24や2ちゃんねるの孤独な男性板に接続したものだ。
それがパソコンがオシャカになってしまったため、帰宅後にすることがなにもない。
仕事は年齢にふさわぬ肉体労働だから疲れもひどく難しい本を読むことはできない。
結句、山のように積まれている本のなかから、
芥川賞作家の西村賢太の対話集を引き抜きそこね、
あやうく「本の山」で遭難するところであった。
当時はバイトながら大会社の安定した職に就いていたため、
ついぞ経験したことのない安定という公明虚妄に身も心もやられ、
無頼派として知られる西村賢太の対話集を斜め上から、
ときおり憫笑を浮かべさえしながら他人事として読み散らかしたものであった。
が、その後いきなり「退職勧奨」を受けることと相成り、はや来月には無職の身である。
どうで自分にはこのような人生しか送れないのかと世を呪いながらも、
変質者的に次はなにをやらかしてやろうかなどと悪夢想している。

もしかしたらバブルが西村秋恵文学を育てたのかもしれない。
本書にバブル当時の日雇い賃金の月収計算が書かれているが、
あろうことかいまの我輩よりも高い収入を健太青年は得ながら、
文学陶酔および私小説漁色および優雅な買春遊戯をしていたのである。
西村賢太といえば中卒で文学理論もまるで知らず、
Fとかいう野垂れ死にした行き倒れ病死作家を師匠として仰いでいると聞く。
西村賢太は文学修行の経験はなく、ただただFにのめりこんだだけだという。
西村賢太は文芸誌でのさばっているやつらに言いたいことがあるという。
いいことを言うじゃないか、このやろう!

「そうじゃなくて[文学理論じゃなくて]、あなた方も、
どんな大学を出たにしても、やっぱりのめりこむほど好きな作家っているでしょう?
と、その模倣から入ってませんか? と、お聞きしたいんですがね。
しかしその連中に言わせると、自分たちはそういう好きな作家、敬愛する作家がいても、
それとは別個に自分独自の才能で小説を書いて、
文芸誌に載っているんだというえらそうなスタンスにいるもんですから。
僕はそれとは明らかに違って、
本当に骨董趣味から入ったような書き手だと自分で思ってますので」(P30)


ここ数日へんな咳がして、吐き気も著しく、あるいは結核やもしれぬ。
気が狂うほどの年月おれを認めてくれなかった世間に対する吐き気も重なり、
病床において安酒を薬とごまかしながら飲用し現在、
いままで当方を虐待してきた人間をひとりずつ妄想のなかで焼き殺しているところだ。
妄想のなかでなら現実をどうでも再構成することができる。
ノンフィクション作家のFが西村賢太に小説は事実かどうかを問うている。
「西村さんの小説に書かれている出来事は、ほぼ事実なんですか?」

「いや、僕の場合はそれを尋ねられた媒体や場所により、
「ほとんど事実です」と言ったり、「ほとんど嘘です」と言ったりで、バラバラにしています。
一概に言えないんですよ。「私小説」の中にも小説という言葉が入っている通り、
あくまでフィクションが前提ですから、ノンフィクション的な部分を強調しすぎて、
読者に単なるフィクションと捉(とら)えられてしまうと、
小説としては失敗作ということになります。
努めて、虚構と事実の狭間(はざま)を曖昧(あいまい)にするよう心がけています」(P168)


やってやろうじゃないかと思うた。
もはや芥川賞作家でタレントの西村賢太が落ちぶれることはなかろう。
ならば、わたしが冬空の下、無職無収入、公園のベンチで凍死するのもありであろう。
なにものにもなれなかった文士以下の敗残者の醜悪な亡骸を満天下にさらすのも悪くない。
絶命寸前、わたしは文学という魔の正体を知ることになろう。

「ヒトラーのウィーン」(中島義道/新潮社)

→ヒトラーにはさして興味はないが哲学者の著者や
「法華経を唱えるヒトラー」(命名者:田中角栄)に
深い関心を持っているので、著者にはめずらしいこの評伝めいたものを読んでみた。
「法華経を唱えるヒトラー」とはあの人のことだが、
日本最大の権力者であり勝利者について
実名でうんぬんするという勇気は筆者にはない。
ヒトラーや「法華経を唱えるヒトラー」の才能とはなにか?

「どうも、ヒトラーには「特別の才能」があったようである。
それは、自分にそう思われることがすなわち客観的事実であるとみなすことに対して
なんの抵抗もないということである」(P63)


わたしから言わせたら、これは「特別の才能」でもなんでもない。
ほとんどの場合、客観的事実など存在しない。
世間では通常「多数派の意見」「立場が上のものの意見」が客観的事実とみなされる。
「みんながそう言っているよ」「あの人のあの人も、そう先生もこう言っている」――。
これが客観的事実の実相ではないかと思われる。
肩書が上の人間が3人集まって、目下のものに意見を言えばそれが客観的事実になる。
おそらくヒトラーも「法華経を唱えるヒトラー」も
客観的事実の嘘くささを知っていたのではないか。
一般的に客観的事実とされているものも、じつのところは嘘ばかりである。
では、なにが本当でなにが嘘なのか? もしやすべて嘘で、
本当のことがあるとすればそれは自分が本当だと思ったことではないか。
真実の追求者で嘘を嫌う中島義道は言う。

「彼(ヒトラー)にとっては(とりわけ目撃者と証拠のないところでは)、
「そうありたい」と強く願ったことが、そのまま真実なのだ。
それは、自分でも本当にそうであったと思い込めるほど
「自信に満ちた嘘」なのであるから、他人はあっさり騙されてしまうのだ」(P187)


成功者で勝利者の中島義道はおのれの真実(「自信に満ちた嘘」!)で、
どれほどの青少年を破滅に追いやったことか。
なかには自殺にまで追い込んだものもいると聞くではないか。
あんがい「法華経を唱えるヒトラー」よりも、
中島義道のほうがよほどヒトラー的存在かもしれない。
たとえば中島「愛唱の句」である「どうせ死んでしまう」や「生きる意味はない」は、
真実というよりもむしろ中島が「そうであってほしい」と願っていることではないか。
しかし、それは自分でも本当にそうであったと思い込めるほど
「自信に満ちた嘘」なのであるから、他人はあっさり騙されてしまうのだ。
自死の是非はわからぬが、中島義道の愛読者である若者はどんどん自殺していく。

客観など存在しないかもしれないのに(客観って証明できますか?)、
みんながみんな客観的(とされる)評価に敗れ去っていく。
成績がそこそこの平凡な少女は自分のことをイチバンだともキレイだとも思えない。
わが娘でさえキレイともイチバンとも思えない母親のなんと多いことか。
存在するかもわからぬ客観ってそんなに重要かなあ。
もしかしたら世の中は主観(妄想)しかないと考えられはしないか。
そう考えられたら、ものの見方は一変しないか。それはそこまで悪いことか。
たとえあなたが偏差値40の高校出身でも、
自分で自分のことをイチバンと思えたらいいではないか。
ヒトラーはそれができる男だったと中島義道は言っている。
客観的評価を常に重んじてきた男、中島義道はよほど自分に自信がないのか、
客観的評価の高いサルトルという醜男の「形而上学的自負心」という言葉を
わざわざもっともらしく権威ぶって借用しているのが老醜の息吹を感じさせる。

「……ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で)「無」にできること、
それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである。
世界の構図をすべて逆転してでも自分を救うことは「義務」なのだ。
そのために必要なものなら何でも利用する。たとえ真っ赤な嘘でも。
これまでの人生において度重なる負け札を引いてきた自分が、
このまま終わるわけがない。
この推理にさしたる理由はない。あえて言えば「自分だから」だ。
ここには、サルトルの言葉を使えば、「形而上学的自負心」
(自分が何であるか、何をしたかによる自負心ではなく、
ほかならぬ自分だからという自負心)が唸り声を上げている。
ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。
それが、究極的には、彼の異様なほどの「成功」の原因でもあり
異様なほどの「失敗」の原因である」(P164)


ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。
おそらく「法華経を唱えるヒトラー」も、うるさい「闘う哲学者」の中島義道も、
そしてそして、いまこの文章を書いているわたしも、あるいはもしかしたら。
客観的評価なんてくだらなくねえか、と思うなら、そう思うなら、きっとあなたも。

「病む女はなぜ村上春樹を読むか」(小谷野敦/ベスト新書)

→知る人ぞ知る日本最高の文芸評論家の鋭書を遅ればせながら拝読する。
大学時代に好きだった女の子が村上春樹を好きだったので、
好きな子が好きな本を読むという傾向はありがちだと思うけれど、
2000年までのノーベル賞候補作家・村上春樹氏の本はほとんど読んでいる。
大学卒業直後に家族のリアルな不幸があり、
それ以降はフィクションの春樹はどうでもよくなった。
おなじ大学だったので文学部キャンパスの描写にはウフフンと思った記憶がある。
とはいえ、いまとなったら村上春樹の小説はほとんど覚えていない。
文キャン女子のハルキスト率は高く、
ライフコース教授にもハルキストを公言しているО先生もいたくらいだ。
小谷野敦御大は珍説(最新の学説?)をご披露なさっている。

1.村上春樹の小説にはフェラチオ(口淫/チン棒おしゃぶり)をする女が頻出する。
2.じつのところ東大のおれ(小谷野)もフェラチオが好きだ。
3.セックスよりも好きなくらいだ。
4.しかし、東大のおれは、女サイドはフェラチオを嫌っていると長らく思っていた。
5.だが、出会い系で会った女にこころの底からフェラチオが好きだという変態女がいた。
6.その女は春樹小説登場女性レベル以上にこころが壊れ病んでおり恐怖だった。
7.東大のおれはこのバカ女は嫌いだが、早大の春樹はこういうバカ女が好きなのではないか。
8.おれが春樹の小説を嫌いな理由がわかった。
9.春樹はフェラ好き女が好きな俗物で、おれはもっと文化的に高尚なのだ。
10.春樹ファンの女はフェラチオが好きに違いない。
11.そういう変態女からおれは嫌われるので、自著読者の男女比率は男が非常に高い。
12.しょせん春樹を愛読している女なんて1日中でもペニスをしゃぶっていたいバカ女っしょ?
13.春樹はせいぜい変態女をカモにしてくださいね。春樹ファンの女は最低だなあ。
(以上は本書の68~70ページを独自に要約[意訳/妄想])したものです)

そんなにバカな女ってダメかなあ。
バカな女は言い方を変えれば、情が深い女にもなるような気がするけれど。
日本最高の評論家である小谷野敦氏の現在の奥さまは葵さんだったか?
いつ彼女との秘め事(房事/夜の営み/おセックス)が公開されるのかと思うと、
会社をクビになり生活はギリギリながらもおちおち死にきれないではないか。
西村賢太さえ凌駕(りょうが)する現在日本一の私小説作家の小谷野氏は言う。

「私小説作家は、周囲の人びとを犠牲にし、作家は友達をなくす。
私小説でなくても、作家は周囲の人をモデルにするから、
相手が気づけば関係が悪化するかもしれない。
もちろん、谷崎潤一郎の『細雪(さめゆき)』のように、
妻松子の姉妹を美しく描いて成功することもあるが、
作家の周囲は死屍累々(ししるいるい)である」(P32)


そういえば当方も氏の私小説のモデルになるという偉大な栄誉を頂戴したことがある..
現代日本最高の文芸評論家であり私小説作家の氏は、
どうして三浦哲朗には言及しないのだろう。
高井有一が死んだのは最近になってようやく耳にした。
訃報拡散人としても高い評価をお持ちの氏にはブログできちんと仕事をしてほしかった。
なんにせよ本書の著者はいまわたしが日本でいちばん期待している文学者である。
そう村上春樹なんかよりもはるかに、である。


「きみと地球を幸せにする方法」(植島啓司/集英社インターナショナル)

→東大卒でモテモテ、自称宗教人類学者でじつはフリーライターのオジンの本を読む。
2015年刊行だから新刊といっても言いだろう。
東大卒でモテモテのオジンは,
最盛期にまさにバブリーというほかないリッチライフを送った模様。
いまはプチプチ貧困っぽいが、そういうところをみじんも見せないで、
リッチでしかもインテリななオジンを気取っているところがまたいいではないか(いい?)。
「きみと地球を幸せにする方法」ってなにさ? 
そういう考え方が、ある意味ベリーにヘビーにバブリーなんだが。
「きみと地球を幸せにする方法」を教えたがる人って、
切羽詰まった新興宗教の人っぽくね? 
「きみを幸せにする」はまだいいけれど
「地球を幸せにする」ってどこぞの教祖さまっでっか?
で、その全世界を幸せにする方法は「得る」より「与える」ほうがいい。
「与える」ってお布施のことですか?
我慢してバリバリがんばるよりも好きなことをしたほうがいいというのは、
なんとなくわかる(「得る」よりも「与える」!)。
どうして人間って晩年になると幸福論や人生指南をしたがるのだろう。
植島元教授の、好きなことをしていればいいという指導も、
一見スーパーフリーのようだがよくある人生指南のひとつ。
バブルの快楽を骨の髄まで味わい尽くした元大学教授で、
現在は貧困ライターの植島啓司は言う。

「生きる目的は、せんじつめて考えると「楽しむ」ことしかないというのである。
つまり、彼[リーナス/ネット開拓者のひとりらしい]が
リナックス[ネットのシステムみたい]を開発したのは
自分の楽しみのためであって、お金のためではないというのだ。
まさにハッカー[ネットのいたずらっ子]の面目躍如といったところではないか。
リーナスは一〇億円ほどのお金を積まれても
けっして自分の意志を曲げることはなかった。
彼はいま何に価値があるのかわかっていたのだ。
金銭にとらわれず、「好きなこと」しかやらない、
それが彼の生き方だったのである」(P76)


「好きなこと」しかやらない

「好きなこと」しかやらない? 、「好きなこと」しかやらないだと? ふざけんなって話だ。
しかし、いまはダメライターに分類されるだろう遊び人の
植島啓司の言うことのほうが「正しい」可能性も考えられなくはないか。
そのように考えられる柔軟性を持ってもそこまで悪くないのではないか。
真実とは(おそらく)人がそうであってほしいと望む虚妄である。
生まれたときからいままでモテモテでお金にも女にも不自由したことがない男は言う。
イケメン中年男はいまや大学教授でもなんでもなく、そこいらのオジンである。
しかし、自称モテモテ。女が切れない。
熟女からも少女からも愛され尽くした。快楽のかぎりを味わった。それが植島啓司。
肩書に惑わされずスーパーフリーな植島啓司の恋愛論、人間観、教育論を
(こころを無にして)ぜひぜひご拝聴されたし。

「たしかにモテるためのもっともすぐれた技術に、
相手と同じようにふるまえばいいという指南書があった。
なぜなら、だれもが自分を一番愛しているわけだから、
そういう相手の特徴を真似ていると、
相手はいつのまにか恋に落ちてしまうというものだ。
子どもの頃のことを思い出してほしい。
お互いに向き合って、たわいないしぐさを同時にくりかえしているうちに、
笑いがこみあげてきて、
ものすごくなかのいい遊び友だちになったという経験があっただろう。(……)
教育とは、相手が知らない知識を教えこむことではなく、
他人がどうふるまうかを見る機会なのである。
それによってなぜそういうことをするのか考えられるようになる」(P106)


今日 東川口の脳外科へ行った(顔面神経麻痺の治療)。
その後、近くのけっこう大きな公園でポッカポカのなか孤独な、
しかしそれなりに快適な昼飲みを敢行。
本当に小さな子同士って初対面でも仲良くなっちゃうんだよねえ。
相手の肩書とか、相手の夫の生活レベルとか気にすることなく、仲良くなっちゃう。
次回の診察日はクリスマスイブ。なんだかこのへんに仕事をしそうなんだけれど。
ラインでクリスマスケーキにえんえんとイチゴを載せる短期の仕事とか。
このくらいだったらいくらおれでも採用されるっしょ(もうダメかも)。
そうそうモテる方法か。40年生きてきた経験から話すと、モテる人はモテるよ。それだけ。
モテる人が開陳するモテる方法なんて、
蓄財に成功した人の財テク技術みたいでうさんくさい。
植島元教授がおれの風貌でおれ程度の知性しかなかったらモテるか? 
はいはい、論破、論破。

ラオスが大好きだという植島元教授は(「観光」ならぬ)「旅」のよさを熱弁している。

「しかも、一見似ているようだけれど「旅」と「観光」とは
むしろ正反対の概念のようにも思われる。
「観光」はすでに知られた土地を周遊すること。
それに対して、「旅」とは未知の領域に足を踏み入れることを意味している。
もちろん空間的な意味だけではない。
自分の心や感情の動きについても未知な部分に入り込めたら、
それだけで「旅」を成立させることができる。
また、スケジュールがあって、それにしたがって移動するのが「観光」で、
明日のこともよくわからないまま移動するのを、旅という定義も可能だろう。
一方はどこに行こうがすべてが日常の延長であり(だから怖くない)、
一方はどこにいても非日常で、自分でも予想しないことが次々と起こる」(P153)


いつだったか上海経由の中国東方航空(←悪名高い)でビエンチャンと成田を往復した、
成田の職員がラオスの首都、ビエンチャンを知らないのでそのマイナーさに驚いた。
行きと帰りは上海でも違う空港に着陸した、
上海で一泊して翌朝、目的地(ビエンチャン、成田)の飛行機に乗れというのである。
こういうめんどうくさい事情があったから、航空券が格安だったのだと思う。
植島啓司さんではないが、あえて上海の情報を調べずに飛行機に飛び乗った。
現地に行けばなんとかなるだろうと。
結果としては、現地の屋台で(なまの日本人なんてほとんど知らないだろう)
上海庶民と安い串焼きを平らげながらビールを鯨飲するという忘れられない一夜になった。
たまたま中国語を大学で履修していたのも功を奏したのだろう。
(上海のみならず)ラオスもまた観光ツアーで行くよりも、
ひとりでこうして飛び込んでいったほうが絶対おもしろい。
モテモテの植島啓司さんと反対の当方が唯一同感して両手で握手できるところだろう。

「好きなこと」しかやらない

それっていいの? ダメなの? まあ、やってみないとわからないのだろう。
そもそも「好きなこと」がない人のほうが圧倒的に多いというかなしい事実がある。

「自己愛な人たち」(春日武彦/講談社現代新書)

→東大の和田さんにはかなわないだろうが、
いまもっとも人気のある精神科医ライターのひとりである春日武彦さんの本を読む。
自己愛はたしかに生きるうえで必要なんだけれど、
他人の自己愛ってめんどくさいよねえって話だと思う。
だれでもできる単純作業とかでもさ、妙なこだわりを持っている人っているんだ。
そんなのどっちだっていいじゃん、というところで自分のやり方にこだわる。
いるでしょ? 他人が置いたものを、
いちいち自分流に置きなおさないと気が済まないタイプって。あれうざいよねえ。
自己愛はプライベートで発揮してくれればいいのに(だれも読まないブログとかさ)、
だれでもできる単純作業に妙な自己愛を持ち出されるとたまったもんじゃない。
台車にラップを巻くとき、上から巻こうが下から巻こうがどっちだっていいじゃん。
それなのに、そういうちまちましたところにこだわり自己愛を表出するタイプがいるんだ。
しかし、自己愛はなければいけず、
自己愛があるから人は生きていけるし、他人を尊重することもできる。
まったく自己愛ってやつは――。

「自惚(うぬぼ)れとか自画自賛といった側面もあれば、
出しゃばりで目立ちたがりで称賛を求めてやまないといった側面もあるし、
世の中は自分が中心で他人の気持ちなんか
どうだって構わないといった勝手な側面もある。
そのいっぽう、自己肯定には自己愛が必要だし、
他人を思い遣る余裕だって結局は自己愛を基盤にしているのではないか。
自分を大切にできない人物は、あまり信用する気になれない」(P4)


精神科医の春日先生とわたしには共通点があって自分の写真が嫌いなのである。
自分の写真をパシャパシャ撮ってブログに載せる神経とか信じられない。
見方を変えれば、ああいうのは自己愛が比較的に弱いからできるのであって、
春日先生やわたしは自己愛が強すぎるから
写真にうつった自分を認められないのかもしれない。
芸術家以外は仕事であまり自己愛を出さないほうがいいと思うけれど、
どうなんだろう。どこの職場でも以下のようなタイプの上司はいるのかな。

「自己愛の強い人たちは「小競り合い」にのめり込むことが普通である。
鷹揚(おうよう)さや泰然(たいぜん)さとは正反対の傾向を備えている。
けちくさいライバル視、いじましい支配欲、
相手の欠点や弱点を見つけ出すことへの執念、
どこか論点のずれた自己正当化、他者を蔑(さげす)もうとする欲望の激しさ」(P105)


「そんなことも知らないの?」というのがなによりの喜びって人はいるよねえ。
人がミスをしたとき、歓喜で目が踊っているやつとかいるじゃん。
「あーあ、やっちゃった」と全身で小躍りしている不謹慎な上司とかいないかい?
本当はクルクル回転して喜びを表現したいんじゃないか、とか思ってしまうくらい。
そういう複数の自己愛の小競り合いが多発している職場っていやだよねえ。
まあ、どこもそんなものかもしれないけれど。いや、そうでもないんだろうな。
「おれ、優秀じゃん」とかちっぽけな勝利に大喜びする大人のリトル自己愛。
しかし、あんがい生きがいって、そういうところにあるのかもしれないなあ。
当方は大した生きがいもないし、生き生きしていない。これは「うつ」かしら。
びっくりされるかもしれないけれど、
人生で一度も精神科や心療内科を受診したことがない。
しかし、「やる気」が出ないし自滅願望はあるし、これは「うつ」かなあ。
たとえば「うつ」といったような言葉の問題性を精神科医の春日武彦は指摘する。

「言葉は、何らかの事象を後付けで表現するのが普通であるが、
おしなべて流行語や仲間内でのスラングは
似て非なる事象をも同じ言葉で単色に染め上げてしまう性質を持つ。
ニュアンスなど消し飛んでしまう。
そこが便利なところであり、困ったところでもある。
ただし世間から置き去りにされていないといった安心感は
もたらしてくれるだろう」(P150)


「絆(きずな)」とか、そうだよねえ。ニートとか引きこもりという言葉も、
多くの若者のさまざまなニュアンスを一挙に消し去ったことだろう。
貧困女子という言葉もそれぞれのさまざまな思いを単色で塗りつぶしたことだろう。
パワハラもそうだろうし、セクハラもそうに違いない。
けれど、ストーカーとか名前をつけないと被害者が困ってしまう現象もあるからなあ。
ある現象はそれ「そのまんま」でしかなく、いまそうであるようにそうなのだが、
それでは人は不安になるので名前を求めてしまうものなのかもしれない。
その専門家が春日武彦のような精神科医なのだろう。
お世話になってもいいけれど自己愛性人格障害とか言われると単純にむかつくし。

「「あいまい」の知」(河合隼雄・中沢新一編/岩波書店)

→本書は1999年に国際文化研究センターで行なわれたシンポジウムの書籍化。
冒頭、当センター所長の河合隼雄はあいまいは絶対善とか、
そういうものではないことを断っている。
あいまいとはものすごくかんたんに説明すれば、
イエスともノーとも言えないことである。
あいまいだなあ、とはつまりイエスかノーかわからないということであろう。
しかし同時に、あいまいではなく本来なら言葉で説明可能なことを、
怠惰にあいまいにごまかしているケースもあるのではないかと河合は指摘する。
しかし、本当に言語では伝達不可能なこと、
記号化や数字化できないことがあることも丁寧に示唆している。
そして、日本人が好むあいまいさは責任の所在を不明確にするという有害性を
たぶんに持っていることをはっきりと切り出している。

アルバイト、契約社員、正社員、係長、課長、部長……
と職位が上がっていくということは、それだけ責任が増してくるということである。
しかし、あいまいを好む日本人はあいまいなままなかなか責任を取ろうとしない。
今月でわたしは会社をクビになるが、だれが責任者なのかよくわからない。
たぶんだれかがが工場長に「あいつが職場をダメにしていますよ」
と讒言(ざんげん/密告)したのだと思う(違うのかもしれないが)。
工場長もそう言われたら責任者として、なんとかしなければならない。
だが、そもそも工場長とわたしはろくに話したこともないから、
工場長がよくわからないわたしという人間をクビにしていいのかわからない。
しかし、本人が自分から退職届を書いてくれたら、それは本人の自己責任になる。
わたしはだれがわたしのクビを決めたのかわからないので問いただす。
すると、あなたは自分で勝手に辞めたんでしょうとやられる。
さらに異議を申すと、本社のより責任が重い役員がやって来て、
我われが辞めさせたのではなく、あなたが自分で辞めたんでしょうと言われてしまう。
結局、あいまいなまま責任がどこにあるかよくわからなくなってしまうのである。
あいまいにはこういう欠点、短所がある。
大きな話をすれば、たとえば太平洋戦争中に
大将がミッドウェイ海戦の敗北の責任を取らないという事態になる。
しかし、本当に責任の所在者などいるのだろうかとまた河合はひっくり返す。
わたしの退職にも責任者(犯人)などもしかしたらいないのではないか。
答えは、わからないまま、言うなればあいまいというのが本当に近いのではないか。
同僚の総意もあり、上司の思惑もあり、かつ当方の無意識的願望もあって、
このたびのクビになったのではないか。
それは責任の所在を追求しないあいまいな日本的思考法だが、
かならずしも西欧的思考法に劣っているとばかり言い切れないのではないか。
当時、国際文化研究センター所長(責任者)だった河合隼雄は言う。
河合隼雄はつねに「私だったら」という視点から話を始める。

「では私としてはどう生きればいいのか。心の敗戦を認めて、
もっと「Yes」「No」を明確にするような
「明確さの世界」というものを選択したほうがいいのか、
あるいはやはりそこは明確にせずに、その中に何かあるといったほうがいいのか。
ところが、私自身の事として考える場合、
日本的曖昧(あいまい)さというほうを引きずっていきますと、
責任はどうしても曖昧(あいまい)になるんです。
というのもミッドウェイの海戦を分析すると確かに大将は判断は間違っている。
しかし、これは[西欧]近代科学的な方法で分析するから
大将が間違っているのであって、
もっと日本的な考えによるとそのときのお月さんの出かたとか、波の揺れかた、
それから星の輝きとか全部責任をもっているわけですから、
そのときその大将だけを追求することは絶対に間違っているわけなんです。
さらにいえば、ミッドウェイの海戦でアメリカは勝って日本は負けた、
だから日本はだめだなんていうのだけれど、
人生は無常だということを知っている人にとっては、
勝っても負けてもそんなに大して違わないんですよ。
もっと大事なことは死んだ方々がどこへお行きになったかで、
その海戦で死んだ方々の魂が今どこにいるかということの方が
そうした見方からすると非常に大事な問題です。
私はそうした考えも何か正しいように思うんですよ」(P10)


「責任はこの人にこそある」はイエスかノーかではなく、
全体との連関で事態がそうなってしまったという、
はっきりしないあいまいなものの見方である。
これは全体責任とも無責任とも言われかねない危ない考え方である。
それでも河合隼雄は言う。
組織の責任者、国際文化研究センター所長の河合隼雄はこう言っている。
おっと河合隼雄は心理療法家(臨床心理士/カウンセラー)のボス猿でもある。

「たとえば私が誰か[相談者]と向き合っているときに、
だれかが「死ぬ」と言った場合はその範囲内において
私は明確な態度を取らなければならない。曖昧(あいまい)さは許されない。
あるいは私は所長という役割でこの国際日本文化研究所センター内の
ことをやっている限りは、絶対に明確な態度を取らねばならない時がある。
それは限定された範囲内においてとっている。
しかしそれは、それが正しいとか、それは唯一の策であるというのではなくて、
その範囲を広げてみれば、非常に多義的なものである。
たとえば先ほどもミッドウェイの話をしましたが、
勝つか負けるかということは絶対的に大事なように思っているけれど、
ひょっとしたらこれは大事ではないかもしれない。
つまり私はここ[国際文化研究センター]の所長として
ここが継続するということは大事なことのように思っているけれど、
全然大事なことじゃないかもしれない。
そういう多義性というものをもっているほうが
自分の生活が非常に豊かになるんじゃないか。
だから、[国際文化研究センター所長で心理療法家の]私は
何かを自分の意志で操作するというよりは、むしろ何かを鑑賞している、
appreciateしているという態度の方が強いのではないかとさえ思っております」(P14)


責任者はものごとを正しくoperate(操作、支配、コントロール)すべしとされている。
しかし、本当に正しい客観対象などあるのか。
宇宙物理学と計算学が専門のピート・ハット教授はいう。

「日常生活においてさえ、この[あいまいな]中間点はいたるところに見出せる。
同じ一つのリンゴが、農家の人にとって経済的価値をもつものとなり、
化学者にとっては化学成分として分析可能な対象となり。
画家にとっては絵になるものになり、
また誰にとっても、味わい、食べることのできるものとなる。
現実世界の一部として見るとき、リンゴはリンゴである。
しかし、画家はそのリンゴを、農家の人や化学者とは異なるテリトリーに入れるのである」(P60)


立場によっておなじものでもさまざまな見え方をするよねえって話。
かといって、なんでもないことをあいまいと思っているという可能性もある。
比較宗教学が専門の町田宗鳳は言う。

「物事が曖昧(あいまい)であるかどうかの判定は、
きわめて主観的かつ相対的なもので、
ある人間にとってはどこまでも曖昧に見えることでも、また別の人間にとっては、
明晰きわまりないというようなことも大いにあり得るのである。
たとえば日本語で誰かが「それはちょっと……」といえば、
その返答が意味するところに日本人なら疑いをさしはさむ余地はない。
ところが日本語を学習してまもない外国人なら、
その曖昧な返答がいったいイエスなのかノーなのか判断しかね、
大いに戸惑いを覚えるであろう」(P123)


「あなたにこの給料は払えない」
「どんどん悪くなっている」
「いつかよくなると思っていたが、もう我慢の限界だ」
「あなたの代わりはいくらでもいるんだ」
「あなたはみんなから評判が悪い」
「あなたと話しているとイライラする。あー、腹が立ってきた」
「ほかの仕事が向いているんじゃないか?」
「最近入ったIさんはあなたなんかよりよほど優秀だ」
――これは日本人なら「辞めろ」と解釈するのがふつうでしょう?
でも、密室での会話だし録音もとっていないから
真実のようなものはあいまいなままである。
で、退職届を準備してあったかのようにさっとまえに出されればふつうはサインする。
退職理由の欄で迷っていたら「これ以上会社に迷惑をかける気か?」と言われる。
わたしは「辞めろ」と言われたと思ったが、
立場が上の相手は「辞めろ」とは言ってないといくらでも言い張ることができる。
結局、真実というのはなんなのか?
科学哲学、科学史が専門のエヴリン・フォックス・ケラーは、
精神分析医のミルナーという人の言葉を引く。

「人間や出来事の真実を見るというということは、想像するという行為を必要とする。
なぜなら真実は、どれか特定の時刻に、
まるごとの全体としてわれわれの感覚に提示されることは決してないからである。
直接的な感覚体験は常に断片的であり、
創造的な想像力によってひとつの全体へと組み上げられなければならない」(P107)


わかりやすく言い換えたら、まあ、みんなそれぞれの妄想を生きているよねって話。
みんなそれぞれの断片的な妄想を真実だと思っていて、全体図はつかみようがない。
人間にとって世界とはあいまいなままでしか認知できないものである。
我われはせめて数学くらい明晰なものだと思いたいが、
数学にもまたグレーゾーン(白黒つかない世界)があるらしい。
それはゲーデルという人が発見した「証明不可能性」の問題である。
なんでもこの数式は平易な言葉に言い換えることができるらしい。

「誰かが「私は嘘をついている」と述べたとして、
その人物は真実を語っているのだろうか、それとも嘘をついているのだろうか?
この問題に答えようとすると、われわれは難問にぶつかるのである。
実際、もしもその人物が真実を述べているなら、発言内容は嘘でなければならない。
一方、もしもこの人物が嘘をついているなら、発言内容は真実ということになる。
いったいどちらが正しいのだろうか?
これに関してわれわれには何とも言えず、どちらも正しくはない。
この人物が述べたことは簡単明瞭であるにもかかわらず、白か黒か、
イエスかノーかという単純な分類の境界を飛び越えているのである」(P56)


河合隼雄さんはよく「私は嘘つきです」と言っていたらしいけれど、これなんだよねえ。
河合隼雄の本はだいぶ読んだが、どこが本当でどこが嘘かよくわからないのである。
しかし、そのわからないというのが本当かもしれないわけだから。
本当か嘘かはよくわからず結局あいまいなままというのが真実なのかもしれない。
わたしだってなんでいまの会社を辞めることになったのかよくわからないのである。
会社サイドは「おまえが辞めるって退職届を書いたんだろう」と言うだろう。
わたしからしたらあの密室の会話は「退職勧奨」のほかのなにものでもなく、
ああいうことを言われてなお会社に残ることは日本人には無理だと言いたくなる。
しかし、無意識まで考えてしまうと、
無意識では会社を辞めたかったのかなと思うことが絶対にないわけではない。
辞めたがっているのを周囲がお察ししてくれて(しかし条件面では辞められない)、
わたしのことを考えて退職させてくれたのかもしれない、と言ったら人がよすぎか。
だれが悪いとも思えないし(自分もふくめて)、
こうなった経緯(いきさつ)はよくわからないし、言うなればあいまいである。
本書はあいまい(=よくわからん)の価値を見直そうという本である。
自称嘘つきの河合隼雄さんの以下の言葉は本当なのか、それとも嘘なのか。

「こうやって自分の力の及ぶかぎりあいまいさを保持していると、
自ずから解決が見えてくることが割とある。
それはその人の内的体験として自然に生じるからうまくゆく。
そういうこともあって、あいまいさを尊重するという態度は、
僕にすごく身についてきたと思うんです」(P273)

「なにもかも明確にやれば答えが得られるという考え方ではなくて、
わからないけれど、そのままで待っていようとか、もっていようということから、
さっきの日曜大工的知恵が生まれてくる」(P303)


だれが犯人かと考えても詮(せん)ないし、
自責や後悔もいまさらあまり意味がないから、
あいまいなままにしておくほかないのだろう。
考えてみたら生きている意味も、あいまいと言えばあいまいと言えなくもなく……。

ドラマの感想が書けなくてだいぶ困ったなあ。
山田太一スペシャルドラマ「五年目のひとり」。
正直、退職騒動でドラマを見るのもめんどくせっ、
というくらいの精神状況に追い込まれていたくらいだからね。
ドラマどころじゃないよみたいな。
こっちはこっちでたいへんでそれどころじゃないっていうか。
いざドラマを見ても、たましいが枯渇しているのか、なにも言葉が出てこない。
2回見ても3回見ても自分の言葉が出てこないくらい社会人化していたのだろう。

ロリコンかもしれないけれど、いちばんかわいいのは14歳の女の子だよねえ。
大人と子供のボーダーラインにいる14歳の少女っていちばんかわいいと思う。
でも、それはこちらの妄想上のヨタばなしで、いざ話したら、
14歳の女の子なんてあたまがパッパラパーで自分の言葉を持っておらず、
ただただひたすらひたぶるにつまらない退屈だという話になるのだろうけれど。
40歳を過ぎると女子高生や女子中学生の
いきいきとした輝きに参るってことがなくもない。
征服したいとかいう野蛮な感情ではなく(通報されちゃうからね♪)、
ただ稀有なる生命力、生命感の光輝に打ち震えるというか。

ギバ(柳葉)ちゃんの工員ぶりがものすごい絵になっていた。
ああいうところで働いていたからわかるけれど、あのギバはすんごいリアル。
こんなおれでも頼ってくれる人がいるんだと作業着姿で出ていくところもリアル。
2ちゃんのドラマ実況スレはぜんぶ読んでいる。
工員レベルがあの家に住めるのはおかしいという指摘はリアルで正しいが、
中小零細ではなく親会社が大企業ならあの生活レベルは不自然ではない。
わたしがクビになったいまの工場だって社員はそうとうな給料をもらっている。
にしても、それにしても、
ギバの生活者ぶったひたいにしわを寄せた演技、すばらしかったなあ。

役目は終わったのかしらん。
うちのブログの読者さまなんて山田太一ファンが4割、宮本輝のアンチファンが2割、
小谷野敦のストーカーが1割、あとはわたくしがどう落ちぶれるかへの興味でしょう。
朝日賞作家の山田太一さんのドラマ「五年目のひとり」感想は書き終わった。
宮本輝先生の創価学会的視点からは大敗北した。
仕事をクビになったにもかかわらず自己都合退職あつかいで失業保険もない。
人の不幸が大好きな小谷野敦一派は、いまこちらの零落を大笑いしているかもしれない。
そもそも関心がないというのが本当のところかもしれないが。

もうなにもない。本当になんにもない。
明日でも下校中の女子中学生に
「きみはキレイだ。イチバンだ」とでも言って逮捕されるか。
でも、明日それをやっちゃうと、
まだいちおう会社に籍があるらしいから迷惑をかけてしまうのか。
いまのわたしは謙虚だから14歳の蒔田彩珠はいらない。
ただ困っていて、いろいろ家政婦として見てきた市原悦子のような女性が必要である。
本当は市原悦子がかわいい女の子でも紹介してくれたらいちばんいいのだが。
なんにもないパン屋の売り子さえも務まらない中年男は、
そばにかわいい女の子でもいないと無理っすよ。
被災者はおのれの不幸を隠そうとするらしいけれど(ドラマによると)、
おれはさ、もうそういうプライドもなくて、だれか助けてSOSって感じ。
「がんばれ」「がんばって」とかいうコメントではなく、直接おれにかかわってくれよ。
ボランティアをするとまさかまさかのいいことがあるというのは、
山田太一ドラマ「五年目のひとり」で証明されているではないか。
11月19日にテレビ朝日で放送された朝日賞作家であられる、
朝日新聞に登場することも多いと聞く、
脚本家・山田太一の新作ドラマ「五年目のひとり」を視聴する。
いずれも酒を飲みながらだが、5回も視聴したものである。
それでも飽きなかったのはドラマがじつによくできていたからだと思う。
山田太一ドラマはいつもそういうことが多いが、このドラマにも悪役がいない。
このドラマのすごいのは悪役ばかりではなく明確な善人も存在しないことだ。
みんなそれぞれ自分勝手な自分の都合で行動して、
結果として自然にうまくまとまりを見せる世界観を山田太一は見事にドラマ化している。

5年まえの津波で妻や娘、息子をふくむ家族8人を亡くした中年男(渡辺謙)。
3年後にどっと悲しみが押し寄せ自分から精神病院に入った。
いま病院から出てきて薬とも遠のいた。
してはいけない話なのだが、家族が大勢自然災害で死んだのなら賠償金も出ていよう。
すぐに生活に困るという懐(ふところ)事情ではない。
しかし、いったいこれからどうしたらいいんだ? なにをしたらいいのか?
ここで同郷の世話焼きババアの市原悦子の選択が偉い。
いま住んでいるアパートの近所に「ここだけのパン屋」というベーカリーがある。
そこの奥さんが急性のすい炎で倒れて、いま人がいないという。
社会復帰の一環としてそこでリハビリをしてみたらどうか?
リハビリなんだからお金をいっさいもらわないボランティア。
またまあボランティアでもなければ、いかつい50過ぎの男をパン屋で雇ってはくれまい。
わたしもこのドラマを見てパン屋でバイトしたいと思ったが、
東京都最低時給でも当方を
パン屋の売り子として採用してくれるマスターはいないだろう。
市原悦子は先がどうなるかをなにも読まずに、
「なるようになるさ」「なるようになれ」と(いわば重症の)渡辺謙を
町の小さなパン屋に放り込んだのである。
「先の先は読めない」ことをわかっているこの世話焼きおばさんの知恵の深さと言ったら!
そこを描けるもはや80歳を超えた山田太一の筆力もまたどうだ!

「ここだけのパン屋」マスター(高橋克実)の自分勝手ぶり、
自己都合優先の態度がとても好ましい。
たとえばかつて被災地に善意からボランティアに行ったものたちと、
まるで正反対の生活者意識をマスターは有している。
他人を助けるのたいせつだが、しかしそのまえにまず自分を守らなければならない。
ただ働きをしてくれる渡辺謙相手に、
パン作りのノウハウは教えないとすごむところに(17年のノウハウを教えられっかよ!)
生活者の根本にある自己防衛本能を見たと言ってもよい。
それを書いてしまえる庶民派作家、山田太一に朝日賞を与えたのは悪ふざけかなにか?
なにかをかかえてリハビリ中の渡辺謙にマスターは、
「(女房が入院して、また近隣の商店が閉店して)こっちもこっちでたいへんなんだ、
あんたをいたわっている暇はない」と言い放つ。
ありがとうと言われたがるボランティアより、よほど本音のマスターに好感をいだく。

なにが渡辺謙を救うのか? だれが家族8人を津波で亡くした渡辺謙を救うのか?
ドラマを5回を見ると、渡辺謙を救っているのは自分なのである。
渡辺謙のしいて言うならば無意識が渡辺謙を救済している。
50過ぎの渡辺謙は散歩がてら近所の中学校の文化祭に立ち寄った。
そこである女子中学生(蒔田彩珠)に目を奪われ、
胸をわしづかみにされるような思いをする。
少女は大勢の一員として(AKB48のような)ユニットダンスを踊っていた。
あるいは、ここまでならよくある話かもしれない。
待ち伏せしていたのかもしれないし、たんにぶらぶらしていたのかもしれない。
別の日たまたま学校の近くにいた渡辺謙は下校時の女子中学生を見かけ、
あの子だと思い、歩道橋で声をかけてしまう。
歩道橋というのがいい。ふつう人と人とはめぐりあえないようになっている。
歩道と歩道は車道があるため、歩道橋や横断歩道がなければ向こう側には行けない。
渡辺謙はどうして自分がそれをするのかも、それがいいのか悪いのかもわからず、
ただただこみ上げる思いのままに女子中学生の蒔田彩珠に声をかけてしまう。
「あのダンスできみがイチバンだった。きみがイチバン、キレイだった」
ドラマ「五年目のひとり」を動かしたものは渡辺謙の口から出たこのひと声である。
何度見返してもドラマ力学的な動因は、
この渡辺謙の自然に思わず出てしまったセリフである。
渡辺謙も言おうとねらっていたわけではなく、思わず言ってしまった、
しかし言わずにはいられなかったひと言である。
「きみはキレイだ。イチバンだった」

平凡な一家の凡庸な娘がそういわれたと聞けば、母親は警察に通報してしまう。
そうすると家に警察までやってくる大騒ぎになる。
自分がありきたりなつまらない女子中学生だと思っていた蒔田彩珠は、
「キレイ、イチバン」と言われたことが天にも昇るほど嬉しかっただけなのに、
それを大人に言うとこういう警察沙汰になってしまう。
50過ぎの中年男と女子中学生。
最初こそアプローチをかけたのは中年男だが、
以降ほとんどは女子中学生からアタックをかけることになる。
あたしがキレイってどういうこと? あたしがイチバンってどういうこと?
あたしはテレビで踊っているような美少女じゃないし、
父親は工員、母親はパート、兄は筋トレバカ。あたしなんてなんにもない。
どうしてあたしがキレイなの? あたしがイチバンってどういう意味?

個人情報保護なんていう建前が幅を利かせるくらい日本人はオフレコ話が大好きなのだ。
「これは秘密だけれどね」
とだれかから聞いた秘密を他人に話すことほど楽しいことはない。
人生で辛酸をなめてきた苦労人は、
「これは秘密よ」
と伝えることで個人情報が拡散できることをよく知っているものとも言えよう。
わたしは苦労人でもなんでもないが、
職場で同僚に話した秘密はまず広まるだろうという人間不信的前提を根に持っている。
5年まえの津波で家族を8人亡くしたというのが、イケメン中年の渡辺謙の秘密である。
まずはどこか家政婦の香りがする(家政婦は見た!)
市原悦子がマスターに秘密をばらす。
こういう守秘義務違反はいちおう悪になっているが、
最終結果的には(悪とされるものが)善になっていることに注目したい。
渡辺謙が心底から市原悦子に秘密を守ってほしかったのかどうかもよくわからない。
今度は渡辺謙をただ働きさせてウハウハのパン屋のマスターが
女子中学生の蒔田彩珠に秘密のみならず個人情報である住所まで教えてしまう。
ほとんど善意や法令順守といった建前が見当たらず、
自分勝手とも言いうる個人的好奇心や
いいかげんさがドラマを動かしているのがおもしろい。
女子中学生は単身行動し、
孤独な「五年目のひとり」を生きる渡辺謙の部屋のドアを開け広げ中に分け入る。
これはもう女子中学生にしかできない仕事であろう。
ふつうの大人は、津波でどうこうという孤独な人には、
さすがに5年も経つと手を出しようがない。
「お気の毒様です」とか「ご愁傷様です」とか、そんな陳腐な言葉しか出てこない。
言葉ですら出て来ないのに行動に移すなんてもってのほかで、
こういうのは小学生も高校生も持ち合わせぬ、
大人と子供の境界にいる女子中学生ならではのパワーなのだろう。
あたしがキレイ? あたしがイチバン? それどういうこと? この中年男はなんなの?
世間のことをまだよく知らないある意味では無垢の
別の意味では意地悪な女子中学生が、
上級ボランティアでも不可能なことを意図せずやり遂げた過程を描いたのがこの物語だ。

あたしをキレイ、イチバンと言ってくれた人が家族を大量に亡くした被災者で、
いまも狭い部屋で段ボールに囲まれ片づけられないで生きている。
なにかせずにはいられないではないか?
蒔田彩珠とその友人、イッコと雪菜は掃除をするため、
女子中学生ならではの純粋さと無神経さを振りかざして
「五年目のひとり」を生きる孤独な中年男の狭い部屋にズカズカ入っていく。
市原悦子も高橋克実もできないことでも、女子中学生3人ならばすることができる。
蒔田彩珠は掃除中、
開けてはならないと言われた押し入れから秘密のバッグを見つけてしまう。
ここが問題なのだが、渡辺謙は秘密のバッグの中身を見てほしくて、
あえて蒔田彩珠に押し入れを開けないでくれとお願いした可能性も考えられるからだ。
女子高生なら秘密を見ただろうが、
中学生の蒔田彩珠は押し入れこそ開けたが秘密までは見なかった。
しかし、多感な少女の勘をなめてはならない。
平凡な少女は悲惨な被災者の中年男に問いただす。
「あたしはキレイでもイチバンでもない」
「あたしのことをそんなふうにほめてくれたのは、
死んだ人のひとりにわたしが似ていたからではないですか?」
イケメン中年男で被災によりさらに黒光りした渡辺謙は少女にイエスと答えてしまう。
それどころか別れ際、本名は亜美という少女を礼子と呼んでしまう。
礼子は中年男の亡くした実子の名前である。

しかし、本当に本当に本当は本当なのだろうか?
蒔田彩珠は友人のイッコと雪菜とともにまたもや中年男の牙城に分け入る。
実際にお嬢さんの写真を見せてください。
そうしないと本当に亜美(蒔田彩珠)と似ているかどうかわからないじゃないですか?
これも大人ならナアナアにすませることで、
こういう訪問は女子中学生にしかできないだろう。
このドラマでこのシーンがいちばんおもしろかった。
人間の自己同一性(アイデンティティ/私であること)って、どういうことなんだろう?
もし死んだ礼子の写真と亜美(蒔田彩珠)が似ていなかったら
渡辺謙はロリコンのキチガイ。
かりに礼子と亜美が似ていたら、どうしてか渡辺謙は正常という判断が世間から下される。
わたしもふくめて、違う人をそっくりだと思うことってけっこうあるんじゃないかなあ。
かなりのところそのあいまいさ(あいまいな感覚)は
生きる上での救いになっていないか?
しかし、テレビ朝日の放送するドラマでは
礼子と亜美が似ていなかったら渡辺謙は精神病。
わたしが直前まで期待したのは、キャメラが最後まで礼子の写真をうつさないことである。
しかし、キャメラは死んだ礼子の写真をうつした。それは亜美とそっくりだった。
ならば国際的映画スターの渡辺謙はキチガイでもロリコンでもない正常な被災者である。
このテレビドラマは朝日賞作家の書いたまこと芸術的なご作品ということになろう。

人びとのもやもやした感情に言葉を与えるのが小説やドラマ、精神医療の役割である。
ドラマの最後で被災者で精神病院入院患者だった渡辺謙は独白する。
ふるさとの福島に帰るときである。
とにもかくにも渡辺謙はご両親に蒔田彩珠(亜美)とはもう逢わないと約束した。
しかし、それでは、あんまりではないか――。

「亜美さん、むかし日本人は逢えないときは手紙を書きました。
いまおじさんはそうしています。
次の土曜日の午後3時、おたくの近くの、あの歩道橋の下まで来てくれませんか?
のぼらなくていいんです。
道路のこっち側からひと目逢いたい。手を振りたい。
約束違反だけど、そのくらいは破らせてもらいます。逢わずに福島へは行けない。
振り返ると亜美さんは、はじめて見たときから(礼子ではなく)亜美さんだった。
亜美さんとしてすばらしかった。
娘の代わりなんかじゃなかった。ただ娘が引き合わせてくれたと思っています。
そして、娘の生きられなかった人生をいま、
亜美さんが生きてくれていると勝手ながら思っています。
死んだ人はそれで終わりじゃないと思っています」


東京(?)を離れ福島に戻る約束の日時に少女は来てくれる。
車道を挟んで渡辺謙は蒔田彩珠に言う。「ありがとう」
車の騒音で男の声が聞こえない少女は聞き返す。「え?」
中年男は相手が聞こえないのをわかったうえで、
あえてゆっくりと繰り返す。「どうも、ありがとう」
「こんなのいや」と少女は返す。「行きます。そっちに行きます」――。
長い歩道橋を渡るとそこにはだれもいない。少女はもらす「かっこつけんなよ」――。
少女は男のことを5年も経てば忘れるだろうが、
中年男は死ぬまで彼女のことを忘れないだろう。
礼子としてではなく、たまたま亜美という少女と出会ったことを男は忘れないだろう。
人間は車道をこえて、たとえば歩道橋を乗りこえて向こう岸に行くことはできない。
(他人のことはどこまでもわからない)
しかし、歩道橋の上でなら一瞬なら瞬間的になら逢えるのではないか。
善意やボランティアもいいが、
あるいはそれよりも無視放置、自分勝手、
(不謹慎ともいうべき)下世話な好奇心、(キレイやイチバンという)虚栄心のほうが
苦しんでいる他人を意図せずして救うこともあるのではあるまいか。
そういうかなり難しい問題を、学術論文ではなく、庶民にもわかるように
かみ砕いて描写して見せた山田太一のドラマ手腕には本当に降参した。
「五年目のひとり」はキレイでイチバンだった。
ひどい二日酔いで今日の脳神経外科(顔面神経麻痺)の予約を変更してもらった。
いまから東川口まで行くのは体力的にしんどすぎる。
お薬は月曜日のかかりつけ医にお願いしたら1週間分くらい出してくれるだろう。
しょせんメチコバールなんていう毒にも薬にもならないような(?)ビタミン剤だし。
どうせ人生なんてなんにもないよと思っていたが、
昨日はめったにない劇的な1日でした。
最後だからやらかしてしまおうと思ったわけではないけれど、
身体が自然に動いて芥川賞作家の西村賢太的なやんちゃを少しばかり致した。
部下の分際で上司と本気で言い争うなんて、おれって社会人のクズだよなあ。
しかし、それが悪いばかりではなく、ひとつの誤解が解消した。
なんにもやらないでいまの職場を去っていたら、
のちのち被害妄想から変な恨みが生じていたかもしれない。
その怨恨がうまく熟成されると、
いわゆる文学作品のようなものができることもあるのだが。

いまの上司にはけっこう腹を割って本当のことを話していた。
・大学卒業直後、母から目のまえで飛び降り自殺をされたこと。結果履歴が狂った事情。
・吃音(きつおん)もち、まあ、どもりのため電話は苦手なこと。
・いまや人生に目標のようなものはなく、惰性でだらだら生きていること。
おまえ、なんでそんなふつうなら隠すべきことを上司に話すのかっていう理由だが、
それはわたしが世間知らずのバカであることと、
ヨイショするようだが上司の包容力ゆえであろう。
昨日は「学会員なんですか?」というやばいことも聞いてしまったし、
じつは本名で言いたい放題のブログをやっていることも白状した(ご興味ないでしょうが)。

結局、仕事というのは、かなりのところそれまでの蓄積が勝負のところがある。
たとえば物流会社でバリバリやっていた人は、
基本的にどこの会社もシステムはおなじだから転職してもゼロからのスタートではない。
いままでわたしが蓄積してきたのは、大量の言葉しかない。
なんとか言葉をわずかでもお金に代えられる道を
探すのが過去を生かす方法かもしれない。
でもいまは無料でも書きたがるライターもどきが多数いる時代だから難関中の最難関。
好きなものは言葉。得意なものも言葉。
昨日なんか上司から生き生きとした言葉を多数採取できて、
本当にすばらしい退職日であった。
いつかため込んできた言葉を、
たとえお金にならなくても内からこみ上げるままに噴き出すように自然に書きたい。
ぜいたくなことを言うが、そういう言葉を採取できる仕事や、
いままで培ってきた言語力を生かせる仕事をしてみたい。
むろん、それは自己認識が甘く、
もう旗振り(警備員)のような仕事しか残っていないのかもしれないけれど。
それさえありつくのは難しいのかもしれない。

わたしは妄想のかたまりだが、
社会の上層にツッチー番がいるような気がしてならない。
昨日休憩時間に長らくご無沙汰であった派遣会社さまから電話があった。
ありがたくも月曜日の単発仕事をご紹介くださった。
しかし、いまはまだ副業禁止の会社に所属している身だし、
月曜はべつの病院に行かなければならないので辞退した。
それでも来月も仕事を世話してくれるとおっしゃる。
え? あたかもわたしが今月で仕事を辞めることを知っているみたいじゃん。
(たしかに当方が先に申告しましたが、
しかし偶然の重なりが不自然というか、いやいやこれが自然なのか)
それに月曜日が休みとご存じなのも不思議(過去に申し上げたかもですけど)。
そうそう、そうそう。スポット単発派遣って不安定だが一期一会で、
お金をもらいながらまったく知らない世界を1日でも社会見学できるところがいい。
去年時給850円職場を辞めてから派遣放浪していた時期があった。
またあれを繰り返してもいいけれど、おなじことをしていていいのかはわからない。
「やる気」ってなんだろう。
このおれがだよ、肩書も評価もゼロの無能読書中年がさ、
なにくそと思って、仕事に興味をもって、
職場に仕事のマニュアルを作成して(休日労働!)提出したんだ。
おれが新人としていまの職場に入ったとき、
こういうマニュアルがあれば
よかったのにという手書きのブツ(パソコンが壊れていた時期ゆえ)。
そして、まさにその日に「退職勧奨」をされるという、この摩訶不思議。
ある人いわく、それはヨンダさんがまともな社会人になることを
危惧した神さまの思し召しとのこと。

いまの職場の上司と来月10日以降に再会し、また飲むことを約束した。
なんでおれなんかに興味や関心を持ってくれるのかわからない。
そのとき自分はなにか仕事をしているか、失業保険をもらいながら求職中か、
失業保険もなにもなく自暴自棄で酒びたりになっているのか。
なんでみんなおれなんかに親切にしてくれるのかわからない。
わたしは書くために、書く蓄積を求めて、しかしもう四十男だから、
人生どうなってもいいやと投げやりに生きているダメ中年に過ぎない、にもかかわらず。
今日は山田太一の新作ドラマ「五年目のひとり」の放送日。
いまから録画予約をする。おそらくライブでも見るけれども。
あと4時間後に職場に行き8時間働き、
「お世話になりましたあ」とか一部の人にあいつさつして帰ってくる。
なにも起こらないし、人生そんなものなのだろう。
この8ヶ月間、会社のあたたかさとか冷たさとか、
いろんなことを凝縮して味わわせてもらったのかもしれない。
10年近く勤めた会社でも、職場を離れたら同僚とまるで縁がなくなると聞くしね。
いい人ぶるようだけれど、だれかを恨んじゃいけないな。
すべてはわたしの無意識が設定したのかもしれないし。
なんだかなあ。しかし、これが人生というものか。
「退職勧奨」されてから毎日職場に行くのがきつかった。これで終わりか。
まあ、わが人生のなかでいちばんいい時期だったと言えるのかもしれない。
かりそめの安定みたいなものを味わえた。
いったいこれからどうなるんだろう。
「土屋さんが悪い」――。
上司から何度この言葉を聞かされたことか。
まあ、わたしが悪いでいいや。
悪い人がいなくなったら、みんな幸せになるだろう。
よくあることをよくあるふうにこのわたしも体験することができた。
むかしはさあ、けっこうな頻度で変なメールが来ていたわけ。
匿名で一代記を書いたようなものが多かったなあ。
ありがたくも逢いたいというメールもしばしばいただいていた(匿名)。
いまはそういうメールがぜんぜん来なくなったのでほんとうにさみしい。
狂った妄想のようなことを書いた字面ぎっしりのメールとかとても懐かしい。
逢いたいといわれ素性もわからぬ人と逢う興奮がたまらなく恋しい。
逢ってみたら男だったり、女だったり、美人だったり、あらあら、あらあ~。
どうしてここ数年、そういうメールが来ないのだろう。
おれ、職業カウンセラーじゃないから、匿名でどんなメールも無料対応よ。
危ないやつ、おれに近づいてこい、
と思いながらブログ更新しているけれど、ホイホイにはゴキブリすら応じない。
わたしはだれとでも会話できるし、
怖いものも守るものもないからだれとでも逢えるのだが。
そして、文面をよく読めばわかると思うが、
基本、育ちがいいのでいきなり乱暴なことはしない。
というか、きもい礼儀の正しさはあると思っている。
なんかさあ、もうどうでもいいんだよねえ。
羽目をはずしてパーッとやって花びらのように散りたいというかさ。
わかっているよ。おまえもさみしいんだろう。さみしいくせに。
いっしょにめちゃくちゃやらないか。
おそらくすべては自業自得なのだろうが今月で職を失い、
収入ゼロ、失業者、友なし、仲間なし、信仰なし、夢も野心も希望なもしで、
血縁も薄いひとり、ひとり、わたしひとり、だがしかしけれども、
今年いっぱいでも40年間生きられたことに感謝すべきだろう。
コホン、風邪でもひいたのか、咳をしてもひとり。
クリスマスもひとり、大みそかもひとり、お正月もひとり。
もう20年近くだれとも年賀状を交換していない……ひとり。
ひとりで今年いっぱい。職も友も金も、もうなにもない、
……なんてまるでテレビドラマ「高校教師」のイケメン真田広之みたいだな、あはっ。
このへんでなーんか笑っちゃうのがおれのいけない癖だと思う。
しかし、本当に最後に羽目をはずしたい。パーッとやりたい。
悪い女に引っかかって銀行強盗でもして、最後はひとりレンタカーごと崖下に転落したい。
希望は片思い。異性から好かれることは無理でも、
こちらが盲目的に片輪熱愛することならば
可能ではないかという病的妄想がまだ脳内一部に偏って残存している。
四十男の耳に年齢不相応のトカトントンという幻聴がうるさく、もう限界かもしれません。
「退職勧奨」のさい、こんな20人くらいの工場をまわすのなんてかんたんでしょう?
と言われ、知的障害者が言うことを聞いてくれません、
と答えたら、工場長から「それは土屋さんの人間の器が小さいからでは?」
と言われた気がする(証拠=録音はない)。
まったくそうだと思う。当方は器が小さい。
具体的に言えば、小さな飼い犬にもなぜか吠えられるのがわたしという小男だ。
職場に知的障害者になつかれているおっさんバイトがいるけれど、なるほどなあ。
男はナナコという名の犬を飼っている。
犬がわたしに吠えたてるときの目と、
知的障害者が当方に歯向かうときの目がそっくりおなじなのだから。
わたしという人間の劣悪さを見破る純真な目を犬と知的障害者は持っているのだろう。
こちらがなにかお願いすると怒って、
逆に意味不明の指示をしてくる知的障害を持つ古年兵のような青年が職場にいる。
肩書が上の副工場長からなにか言われたときは直立平伏イエスマン。
後輩年上のわたしからお願いをされると脅えた子犬のように睨みつけてくる。
むかしの日本兵を想像したものである。
おおむかし大陸に繰り出した日本兵は彼のような男が多く、
さも当たり前のように現地で上司の命令どおり現地民に乱暴狼藉を繰り返したのだろう。
学のない一兵卒は上官の言うことは絶対服従でなんでもやる。
こういう兵隊の群れほど怖いものはない。
戦後GHQが日本の教育制度に干渉したのはこのためかと思われる。
犬がかわいいように知的障害者も見ようによってはとても愛らしいのだろう。
あと4日で永遠に会わなくなるが、
たとえ会ったとしても彼らはわたしのことを覚えていないだろう。
犬はしつけられたことは覚えるが、
対話を求められると相手に吠えかかることしかできない。
そして、だれのこともすぐに忘れてしまう。
怨恨も後悔もない、幸福な愛すべき我らが仲間たちだ。
すべて忘れてしまう。だからいつもケラケラ、ヘラヘラ笑っているが、
いま笑っている理由もわからないし、笑ったこともすぐに忘れてしまう。
ああ、純真な知的障害者、この世に舞い降りた天使たちの輝きと言ったら!
よくわからないけれど、副工場長と女性チーフ、工場長が合議のすえ
当方の「退職勧奨」を決めたような気がする(違う可能性も大いにあり)。
それも絶対に(失業保険のもらえる)会社都合退職は与えるな。
うまく退職届を書かせて、自己都合退職あつかいにしてやろうぜ。
そんな結託はあったのか、なかったのか。
わたしはだれを悪人とも思っておらず、まあ「人間そんなもの」だろうと。
副工場長も工場長も女性チーフも話した感じ、絶対わたしよりもいい人だもん。
わたしの場合、わずか1年にも満たない勤務でこうなった。
しかし、世の中には会社のために5年10年尽くして尽くして、
その結果わたしとおなじように「退職勧奨」されながら
自己都合退職なされた方もいっぱいいるわけでしょう。
そういう御仁の無力感や絶望感は当方には理解が及ばないところがある。
それ以上にわからないのは「退職勧奨」をしたサイド。
それは仕事だから仕方がないのはわかるけれど、
クビにした相手って基本的に屈辱感にまみれ、収入もなくなり、
絶望して自殺する人も少なくないだろう。
そういう他人の不幸ってふつうの人のメンタルでたえられるものなのだろうか。
わたしだって年越しはぎりぎりなんとかできそうだが、今冬の自滅を考えなくもない。
来春は迎えられないというあきらめもいま感じている。
「退職勧奨」ってそういうことでしょう? 
そういうタフな仕事をして生き残ってきたのが、
いまは老いた企業戦士たちなのかもしれない。
わ、わたくし、お国の役に立てなかった40歳の初老一兵卒は消え去るのみであります。
上官たちにご武勇あれ!
今日は休みだけど、ダメだあ、終わりだあ。
ちょいと難しい本の感想文を書こうとしたら、途中で書けなくなっちゃうの。
これは先週の土曜日から取り組んでいたこと。
うん、うんうんうん、どう考えてもわたしはむかしよりバカになっている。
めんどくさっ、って気分かなあ、言うなれば。
稼いで飲んで食って寝て、それでいいじゃんっていう生活スタイル、思考スタンス。
いま疲れきっている。いまの職場、ストレス度が高すぎ。
なにかお願いするとわざと逆らう知的障害者とか、
意味不明の指示をいきなり出して周囲を混乱させる知的障害者とか
(本人は自分を健常者で職場の雄大なリーダーと思っているふしがうかがえる)、
どちらもまだ若い青年で(あたかも学会員のように)
腰に両手を当てて(王者のポーズ)威張っているけれど、もう限界さ。
いくら時給がよくてもこのストレスはきっつい。

そうそう改善は造悪だって話。
つねに改善を求めている組織や集団があったとする。
だが、善とはなにか? 善とは、悪ではないことである。
そうだとしたら、改善するというのは悪を造るということ。
つねに改善している集団組織は、悪人を常時造成し放逐追放しなければならない。
改善するということは、どういうことか?
改善するとは新しい悪(犯人)を設定し、そいつを追い出すことである。
職場の(1歳年下の)先輩のヤマザキさんは悲惨だったなあ。
最初は意地悪なところがあったけれど、
基本的に人柄がよくイケメンで仕事もわたしなんかよりよほどできた気がする。
それが改善造悪のため、極悪人として職場から追放されてしまった。
笑えたのは雄大な知的障害者。
ヤマザキさんとその健常者ぶった知的障害者は
職場ではさも親友のような交際をしていたのだが、
ザキさんが辞めたあとの知的障害者は親友のことを覚えていないのである。
それどころか、あの人は無断欠勤したよくない人だとリーダーは宣言する。
ザキさんも最後のほうでは先輩ベテランぶった知的障害者の知的障害者ぶり
(あいつの言うことわっかんねえ)をわたしにもらすようになっていたのだが。

知的障害者は善。そうだとしたら健常者は悪。
改善するには造悪しなければならない。
かような理由でいまの職場は
人権レベルが上の知的障害者ばかり居残り(3人もおられる!)、
健常者バイトはつねに追放されるという循環が成立しているような気がする。
健常者の指示(お願い)に逆らい、
勝手なおかしな指示を出す知的障害者が3人もいたら通常会社はまわりません。
だから、いまの現場トップの副工場長は偉いと思う。
けれど、必然として複数の知的障害者と恒常的に接していると精神が少しばかり痛む。
なんでみんな知的障害者は聖人とか賢人とか、
インテリよりも虐げられた障害者は人格的にすぐれているとか思いたがるのだろう。
どうしてみんな改善の意味が造悪だと気づかないのだろう。
集団力学的に自分が悪にならないために(改善のためと称して)
悪人(犯人)を造成することが仕事になっている人も少なからずいよう。
わたしは悪たるわたしが消えることで、
しばしいまの職場に平安がもたらされるならばそれでいい。
退職は損得上わたしにっとって悪だけれど、悪人の追放はみなにとって善なのだから、
今月いっぱいでいまの職場を去ることは悪とも善とも言えない。
むしろ多数決で言えば善だろう。ならば、わたしも善事をなしたと気分がよくもなろう。
おれの常識を書くと、有給なんてありえないよねえ。
休んでいてお金をもらえるなんて、それはどこの天国かよって話。
法律が「正しい」根拠なんてどこにあるんだい?
またおれの常識ばなしだが、上がクビと言ったら下は即クビでいいと思う。
解雇前通告とか必要なく、クビはクビ。
トップの癇癪(かんしゃく)に触れたら、その場でクビ。それがおれの常識。
だから、先月末トップが「いままで我慢をしてきたが」
と切り出してきたとき、ああ、そういうものかと即日退職しようかと思った。
先輩のヤマザキさんも、おなじことを言われてバックレたのかと。
バックレみたいな即日解雇、即日退職はいいんですか?
と聞いたら、「一身上の都合」で退職届を書いたら構わないとのこと。

でもでも、おれってクズだなあ人間のクズ。
退職届にはハンコが必要と聞いて、
チャリで5分の自宅と職場を往復しているときに、よこしまな考えが。
まだ有給が残っているのではないかと。
それを帰社後に上に申し上げたら、「来月まで働けばいいじゃん」。
いまの上司たちと人情でつながっているのか契約でつながっているのか
わからなくなった瞬間である。
契約ならいきなり辞めろとは言わないだろうし、
そう言いながらも、病院通いをしているなら保険証は必要でしょうと
おっしゃってくださるのは人情としか思えない。
おれの常識なら肋骨骨折時にクビになってもおかしくなかった。
復帰したときの顔面神経麻痺も十分解雇理由になる。
いまの大会社はバイトでさえ楽々とクビにはできないのかなあ。

わたしは勝手に(上司もふくめて)職場のみなさんに人情を感じていたが、
あれらは契約のたまものだったのかもしれない。
けれど、契約なら契約期間中の「退職勧奨」はできないんだよねえ。
わたしは契約とか法律とか、そういう「正しい」ことは好きではないから、
このために人情として、お世話になったから受け入れたけれども。
嫌いな言葉は正義。好きな言葉は(うさんくさい)人情。
いまでもどうしてわたしがいきなりクビになったかわからない。
クビではなく会社によると自己都合退職なのだが(自分で退職届を書いたから)。

理由は――。
1.古株女性パートを怒らせたから?
2.本社からの通達があった(いちバイトにそんな関心はないない自意識過剰)?
明日からカウントダウンを始めよう。
職を失うまでのカウントダウン。
自殺カウントダウンとか書いたら通報されちゃうけれど、終わりがあるっていいよねえ。
カウントダウン。職場用語に「これで終わり」があるけれど、終わりまであと6日。
終わりが来たらもうだれとも会わないのだろうか。
けっこうご近所さんもいるみたいだけれど。
おれの常識では「人生こんなもん」で、ことさら不服を申し立てたいわけではない。
あと6日で終わる。これで終わり。
今月いっぱいでいまの職場を退職することになっている。
先月末に決まったことだ。だれが決めたかは「わからない」――。
そもそも事実は存在するのかが「わからない」とも言いうる。
事実は存在せず、無数の解釈のみがあまた乱立しているのかもしれない。
わたしの解釈としては、「退職勧奨(この仕事を辞めてくれ)」を受けて、
いままでこの会社にはお世話になったので、
みんなからの評判が悪いということも聞いたうえで、
お世話になった会社のために退職届を書いたという思いもある。
いちおう契約期間は来年の3月までだ。
退職届の退職理由を書く欄でかなりの時間、筆(ボールペン)がとまったものである。
「上司から辞めてくれと言われたから……?」と小声でつぶやいたら、
「これ以上、会社に迷惑をかけるのか」と言われ、
あれがあるだろうと目配せされ、「一身上の都合により」と書いた。
わたしは世間知らずだから、契約期間中の解雇ゆえ
会社都合退職でとりあえずの失業保険がもらえるという安心もあった。
しかし、離職票をいただくと退職理由は「一身上の都合」。
これだと自己都合退職になってしまう。
わたしは会社の「退職勧奨」を受け入れ、同僚のことを考えて退職届を書いたつもりだが、
さらに法律上は契約期間も残っているのだが、それが自己都合退職になる。
そりゃないよと生意気にも異議申し立てをしたら、
本社のお偉いさんが「トラブル」を解決しにわざわざいらしてくださった。
工場長のお言葉は「退職勧奨」ではなく、わたしの「仕事への評価」。
だれが退職届を書いたの? あなたが退職届を書いたんでしょ?
だったら、自己都合退職。それが一般常識ってもんだよ。
え? え? え? そういうもんなんだあ。

退職届を書いてからもう2週間近く経過している。
会社の温情で1ヶ月よぶんに働かせてもらい、有給をぜんぶ消化させてもらえる。
しかし、解雇1ヶ月前の通告と有給消化はコンプライアンス的には温情ではない。
しかし、有給をもらえるアルバイトなんかふつうはないだろうというくらいには、
当方も世間を知っているつもりである。
「退職勧奨」を受け入れて退職届を書いたら自己都合退職かよ!
お偉いさんから「退職勧奨」の証拠(録音)はあるのかと問いただされた。
そんなもん、あるわけないっしょ。
だがしかしけれども、わたしはいまの上司たちが好きである。
嫌いとは言い切れない。
工場長にも副工場長にもチーフにも役員さまにも、好意をいだいている。
みんなどっかでどっかで芝居がかっていたような気がする。
「退職勧奨」のシーンも、役員からの説得のシーンも、
「ふーん」とながめている自分がいた。お芝居をながめているようなさ。
「退職勧奨」のさい、工場長は「おれもこんなこと本当はしたくないんだよ」
と仰せになった。「わかります」と思った。そう申し上げた。
だまし討ちのようなことはだれもしたくない。

事実は存在しない。解釈のみ無数に存在する。
「退職勧奨」のとき言われたことはたくさん記憶しているけれど(証拠はない)、
そのひとつをあげるとすれば「土屋さんは、この仕事が向いていない」。
ありきたりな言葉だが、
こちらの思い込みひとつで親の愛情めいたものを感じられなくもない。
たしかにいまの仕事にわたしが向いているとはとても思えない。
近場で時給もいいから惰性で働いているに過ぎない。
働いて食っちゃ寝の生活で、どんどんたましいが枯渇しているという思いもある。
こういうふうに人間はまっとうに(ダメに)なっていくのかという諦観もあった。
クビにでもならなければだらだらいまの職場に居残ったことだろう。
そうだとしたら(そう解釈したら)いまの職場からの「退職勧奨」は親心ではないか。
「土屋さんにはこの仕事は向いていないんじゃないか」は慈愛の言葉ではないか。
総員20人程度のファクトリーである。ファミリーのようなものとも言えよう。
工場長は父親、副工場長は兄貴、チーフは偏屈なオジキだったとも思える。
「かわいい子には旅をさせよ」と強引に解釈できなくないこともない。
さあ、土屋さん、新たな旅へ出よと。
わたしは今月でいまの職を失う。退職日は今月18日。
来月からは無職失業者となり収入が途絶える。
ハローワークの認定しだいという話もあるが失業保険もない。
たとえ失業保険をもらえても本当に微々たるものである。
「旅立ちの日」は1週間後。
翌日には山田太一ドラマ「五年目のひとり」が放送される。
ひとりになる、わたしも。いや、むかしからひとりだった。学校でもひとり、職場でもひとり。
わたしもふくめてとかく人というものは善悪にとらわれている。
相手が悪いのか、自分が悪いのか?
たいてい自分は善で、相手は悪となるものだが、
万事そんなもんで、どうしょーもねえなクスクス。
かといって自分が悪いと謙虚に思うのがかならずしも善ではない。
だって、うつ病になったり、
無気力になってしまうわけだから(むろん、それが悪かはわかりませんけれど)。
たとえば恋人や配偶者(夫や妻)と別れたとき、どっちが悪いかという話になるだろう。
これは理想形の夢物語だが(ありえない?)、
どっちも悪くなく、これは自然の成り行きだと思えたらどんなにいいことか。
会社が悪いとか上司が悪いとか同僚が悪いとか部下が悪いとか、
政治が悪い経済が悪い日本が悪い――ではなく、
自然にこうなってしまった、そう思えたらどんなにいいことか。
謙虚に自分が悪いと思うと生きづらいうつ病になって自殺してしまうから
(自殺が悪かは断じてわからない!)、腰を低くしろという話ではない。
けれども、相手を悪とばかり断ずるのもどこか自然に反していると思えなくもないか。
これは理想形の夢物語で、
こんなことを書いている当方がいまだ善悪にこだわっているのではありますけれど。
訴訟とか裁判とかコンプライアンスとか善悪抜きに、別れるときは自然に別れたいもの。
どっちが悪い、だれが悪いで人は生きがいを得ているのかもしれないけれど。
それでいいし、そんなものかもしれなく、それこそ人の生き方かもしれないけれど。
おれが悪いのかって考えるのもいやだし、
あいつが悪いと考えるのもいやだって「とき」はときにないかなあ。