英語のビー動詞ってすごいよね。レットイットビーのビー。
あんなビーは日本語に訳せない。存在のビー。アイアムのアム。ワズ。ビーン。
チャイ語(中国語)では、
たしか現在(しえんざい)とか了(ら)とか想(しあん)で時制を表現していたような気がする。
20年もまえ学生時代にいやいや勉強したことだから間違いでも怒らないでね。
わたしって存在するのだろうか? 世界は存在するのか?
ほんとうにみなみなビーしているのか?
ラオスなんて国は存在も知られていない。ならば、ビーしていないのではないか?
今日は定休日だが、病院帰りにふと不安になり、いまの職場に立ち寄る。
たしかにれっきと社会はそこにビーしていた。
ビー動詞がわからなくなるのが、ある種の精神病なのかもしれない。
ビー(存在)するとは、どういうことなのだろう。

このこのう、酔っぱらっちゃって!
またまた土屋さんたら!
「因果にこだわるな」(ひろさちや/春秋社)

→やっぱり受賞歴ゼロの売れっ子仏教ライターひろさちやさんの本はいいなあ。
われわれはなにか起こるとすぐに原因を探そうとするじゃない。
ぶっちゃけ、原因がなにかなんてわからないし、
わかっても道は後悔しかないのだけれど。
いつだったか職場で機械の調子が悪く雰囲気が最悪だったときがある。
その最悪のタイミングでわたしが結束機を壊してしまった。
正確には、当方が壊したのかどうかよくわからない。
とにかくよく壊れる年代物の結束機で、長らくだましだまし使っているのである。
しかし、買い替えると百万円を超えるらしく、だましだましのほうがいいらしい。
わたしの言い分としては、わたしが壊したのではない。
たまたま最後に使ったのがわたしだと言いたいわけ。
ひろさちやさんがよく使うたとえだけれど、
満員のエレベータに最後に乗ってピーと鳴らしちゃう人は原因ではないでしょう?
たまたま最後になったから原因のように思われるだけで。
いまの職場がすごいと思ったのは、
結束機に関してだれからもなにも言われなかったこと。
最後に使ったのはわたしだと知っている人も多かったが、
みんなわたしが原因だとは言わなかった。
あの状態だとだれが「わたし」になってもおかしくなかった。
というか、いつ壊れるかわからないオンボロだから、
最後に使った人を原因とみなす風習がむかしからなかったのかもしれない。

原因を考えないって、かなり老賢者のたたずまいを感じさせる態度だと思う。
どうしてわれわれはなにか起こると原因を考えたがるのだろう。
それは「間違った因果論」ではないか。

「「間違った因果論」というのは、
――物事が起きる背後には、必ず原因がある――
というものです。あるいは少し表現を変えるなら、
――原因なくして結果はない――
となります。
このような「間違った因果論」に
われわれは毒されているのです」(P107)


なにが真の原因かなんて人間にはわからないのかもしれない。
そういう世界への畏怖を持とうと、老賢者っぽい仏教ライターはライトに語る。
では、問題が起きたときにどうしたらいいのか。
われわれは原因を考え、原因をめった刺しにするほか道はないように思っている。
しかし――。

「原因なんか追究しないほうがよろしい。
で、原因追及をやめて、どうしますか……?
――縁が悪かった――
と思えばいいのです。どちらが悪いのでもない。
ただ縁の行き違いによってトラブルが生じるのです。(……)
<相手が悪いわけではない。
相手だって一生懸命やってくれているのだ。
しかし、行き違いになった。ただ、縁が悪かったのだ>」(P50)


なにかを悪者にするならば、たとえるなら縁が悪かった。だれも悪くない。
わたしはいま重度の顔面神経麻痺で複数のお医者にかかっている。
こういう「不幸」のただなかで原因探しを始めちゃうと鬱(うつ)の闇へ入っていく。
あいつが悪いとか、自分が悪かったのだとか。
ちなみに苦しさは比較できるものではないが、
犯罪被害者遺族よりも自死遺族のほうが苦悩することが多いような気がする。
犯罪被害者遺族は犯人を原因として恨めるけれど、
自死遺族は自分が悪かったのではないかと死ぬまで苦しむわけだから。

「でも、もう、そういう苦しみ・悩みはやめにしませんか。
原因なんて、いくら考えたって分からない。
すべては因縁によって生じたのだ。
そして、その因縁を過去に遡(さかのぼ)って変えるわけにはいかないのだから、
わたしたちはいまある状態をそっくりそのまま受け取ればいいのです。
それが仏教の教えです。
要するに、仏教の教えはくよくよ考えるな! ということです」(P132)


顔面神経麻痺というのは悩む人はかなり苦しむと思う。
なにせ顔は自分の看板のようなものなのだから。
でも、いくら苦悩しても状態に影響しないし、
原因がわかっても急性期を過ぎたら打つ手がない。
わたしは自死遺族で、そのほかいろいろなマイナスも経験した。
だからか、このたび「また来た」顔面神経麻痺には
それなりにうまく対応している気がする。
いんちき(だからほんものの)仏教ライターひろさちやの愛読者だしね、こちとら。
治るときは治るだろうし、治らなければ治らないと最初からあきらめていた。
いま発症から2ヶ月以上経ったが、
左目のウインクがわずかにできるようになったし、
口笛は吹けないけれど少し音は出るまで自然復活している。
これはなにが原因なのかわからないのね。過去に山のように薬を飲んでいるし。
もしかしたら、医者にかからなかったら、いまもっと回復しているのかもしれない。
いやいや、やはり医者にかかったのがよかったのかもしれない。
けれど、処方薬は無難なものしか出されていないし、なにが効いたのかはわからない。
そもそもどうして顔面神経麻痺になったのかも、究極をいえばわからない。
わたしは外傷性だと思っていたが、そうではないかもしれないという医者もいるし、
さらにおもしろいのは原因はなんだとしても取るべき医療はおなじなのである。
まあ、メチコバールという有名なビタミン剤を処方するしかないという。

「災難にあって、災難から逃れようとしてもがけばもがくほど、
よけいに苦しみが大きくなります」(P97)


顔面神経麻痺でネット検索するといろいろヒットするが、
そういうところに通えば通うほど苦しみが増すような気がする。
具体的には金と時間がかかり、さらに顔面神経麻痺が気になってしようがなくなる。
もしかしたら世界の裏側は「わからない」のかもしれない。
どうして顔面神経麻痺になったのかも「わからない」し、
どうしたらよくなるのかも「わからない」し、
果たしてよくなることがいいことなのかも突き詰めると「わからない」。
みんな「わからない」ということをわかるのが仏教なのかもしれない。
どうして「大風が吹けば桶屋が儲かる」のかは「わからない」が、
現実にそういうことはれっきとしてあるのだから、そういうこともあると認めること。

「ところが、最近は自然科学のほうで、
――北京で蝶が翅(はね)を展げるとニューヨークで大風が吹く――
といったような理論(バタフライ理論と呼ばれています)があるそうです。
自然界の仕組みは、何が何とどう関連し合っているのかは分かりません。
まったく関係がないと思っていたことにもあんがい関係があるものです。
そうすると、大風が吹いたために桶屋が儲かることも絶対にないとは言えなくなります。
しかし、かといって、大風が吹くと必ず桶屋が儲かるかといえば、
これも絶対にそうなるとは断言できません」(P198)


あんがいものごとは因果的に生起しているのではなく、
共時的にあらゆる現象がシンクロ的に連鎖発生しているという華厳的宇宙観のほうが
現実にうまく対応できるのかもしれない。
ひろさちやさんの愛読者だったおかげで
重度の顔面神経麻痺にそこまでもがきあがき苦しむことがなかったような気がする。
まえは大きな活字も読めないほど左目が悪かったが、
いまはこうしてひろさちやや河合隼雄程度の活字の大きい本なら読めている。
あたまを打ったからあたまが悪くなっている可能性は、読者諸賢にご判断をゆだねる。
まあ、むかしからひろさちやとか河合隼雄とか、
そういうあたまの悪い人が読むようなものばかり読んでいたしなあ。
どうしてあたまが悪いのかって、そこは「因果にこだわるな」って話で――。

よおし、いまから土砂降りのなか、
ひとりでナマステインディア2016にゴーゴーだ。
雨のためブツも安くなっているかもしれないし。
日本のインドを満喫してくるぜ、孤独に。
「聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人」(河合隼雄・ヨゼフ・ピタウ/藤原書店)

→いろいろな利権関係がからまりなされた河合隼雄最晩年の対談の書籍化。
本書に河合隼雄の顔写真が何枚か掲載されているが、どれも疲労困憊といった印象。
本当に死ぬ直前のような疲れた顔をしているのでかわいそうになってしまう。
実際、倒れたのはこの対話をしてからそう間もないころだったはずである。

なんで人間って「正しい」ことにこだわるんだろう。
自分のことを長らく社会不適応者だと信じてきたが、
いまの職場に半年もいることを考えると(それは周囲の寛大に支えられてのことだが)、
あんがい自分で思っているよりは社会適応能力がわずかばかりあるのかもしれない。
たとえば職場で上司のKさんの言うことが日によってけっこう変わるのである。
「正しい」ことがころころ変わる。
そしてKさんと現場チーフのSさんの言うことも、これまた違う。
後輩の50代後半のバイト、Iさんは自分は絶対に「正しい」と信じているようで、
何度も意味不明なことで怒鳴りつけてくるので本当に困っている。
どうやら実勢権力的にはバイトのIさんがいちばん偉いらしい(なにをしても注意されない)。
会社役職上はKさんがいちばん偉く、次にチーフのSさんが続く。
年齢的には65歳の現場チーフSさんがもっとも偉いのだろうが身分はアルバイトだ。
それぞれ自分は「正しい」と信じているので困ってしまうが、
人間なんてそんなものとも言えよう。
「正しい」ことがこのようにいくつもある現場に耐えられないで、
先輩のバイトYさんはいきなりバックレてしまったものと思われる。
わたしはそのへんは河合隼雄の影響かどっちも「正しい」ことがあることを知っている。
だから、いまのところ少なくとも昨日までは職場に通いつづけることができている。

「正しい」と「正しい」がぶつかっちゃうと、そこから先がないのね。
わたしはKさんとSさんがどちらも「正しい」ことを知っている。
どちらにもそれぞれの言い分があるのである。
半年も勤めていれば、当方にも当方が思う「正しい」やり方がある。
それをやっちゃうとダメだよ、と思うことがある。
問題を起こしたくないから、よほどのことがないと指摘しないけれど。
それに相手は自分が「正しい」と信じているのだから、
こちらがなにを言っても言葉が通じるはずがないではないか。
こういう身近な問題は、世界的な宗教問題とも通じている。
あらゆる「正しい」意見の調整役となった当時文化庁長官だった河合隼雄は言う。

「ずっと昔であれば、自分たちの宗教は正しいから、
ほかの人たちも自分たちと同じような宗教に改宗すべきである、
あるいはそれを願おうということでおちついていたのだが、
そうは言えなくなってきたと」(P133)


しかし、人間はわかりあえない。
どうしようもなく自分(たち)が「正しい」ことにこだわってしまい、
相手(の人たち)もまた「正しい」ことを認められない。白黒をつけたくなってしまう。
おそらく対話で白黒がつくことがないだろう。
いくら対話を継続してもどちらも決して白旗をあげることはないだろう。
では、人間関係に救いはないのか。
おそらく対話ごときで軽々と救われるほど対人関係問題は単純ではないが、
根が深いどちらも「正しい」意見の衝突に対して、
われわれのなしうることもないわけではないと最晩年の河合隼雄は語る。

「ダライ・ラマ[チベット仏教の高僧・生き仏]が
ロンドンでカトリックの人たちに話をした記録『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店)
という本があります。それを読んだときに感激したのは、
やはり考えが違いますから、カトリック側もダライ・ラマもそれぞれの意見を述べる。
そしていろいろディスカッションしたあとで、最後はどうなるかというと、
「では、ともしびを消して祈りましょう」と。
それでずっとみんな祈る。それが私はすごいと思う。
それははじめからの約束だったんです。
議論して、結論をむりやりだすとかいうよりも、
ある時間がきたらみんなで祈りましょうと。
それで終わりにするというのは、非常にすばらしいと思いました。
それをやっていけばいいんだけれど、
どっちが正しいかで答えを出そうとすると、どうしてもけんかになる」(P157)


祈るというのは善悪や正誤(正しいか否か)を超えた存在を認めるということ。
もしかしたら人間は本当に「正しい」ことを知りえないかもしれない。
そんな謙虚な気持で、人間を超える大きなものに思いを寄せること。
それが祈るということ。祈る。
人間が自力でなしうることは少なく、他力も思うようにならないけれど、祈る――。
祈るとは、われわれ人間の無力を認めること。
人が祈っている光景を見たら、なぜ努力をしないんだと怒る人もいるだろう。
しかし、祈るしかないという難問が人生ではけっこう発生するものである。
口を閉ざして祈っているかぎりにおいて、どの宗教もしていることはおなじである。
祈っている。見かけはなにもしていない。しかし、希望している。

「熱い心が人間力を産む 複眼経営者「石橋信夫」に学ぶ」(樋口武男/文藝春秋)

→大和ハウス会長の樋口武男氏と各界の成功者が
「週刊文春」で対談したものを再編集したオヤジ臭ただよう1冊である。
おーい、大和ハウス社員諸君、ちゃんと樋口会長の本を読んでいるかい?
なに? 時間がないって。そりゃそうだ。
じゃあ、このブログ記事を読めばいいさ。

思ったのは、それぞれ人の器があるんじゃないかっていうこと。
大和ハウスの樋口会長が俳優になろうとしたり、
力士を目指していたら失敗していたでしょう。
作家を目指しても漫画家を目指してもうまくいかなかったことと思う。
適職と出逢うことがいかに大事かってこと。
けれど、適職を得て「正しい」努力をしても運の要素が入ってくるわけだから、
かならずしも大和ハウス会長のようになれるものではない。
一般的に若者はバンドや画家などの夢をあきらめてサラリーマンになるとされているが、
そういう現実的になった若者に最後に残された夢が、
たとえば大和ハウス会長のような栄光の大勝利なのかもしれない。
おれもああなって見せるぞと早朝から深夜まで働き、休日出勤も辞さない。
万が一(実際は100万人にひとりだが)大企業の社長になって、
それがなんになるのだろうと彼が気づくのは、
モーレツ社員が激務でバーンアウトして(燃え尽きて)灰になったときだろう。

会社で地位が上がれば上がるほど人は孤独になっていく。
最高峰の樋口武男会長レベルになったら、その孤独は果てしないのではないか。
その地位に登りつめるために多くの恨みを買っただろうし、
自分にあたまを下げるものは多いと言えど、
内心はどうだかということをなにより自分がいちばん知っている。
いや、自分は成功した人生の大勝利者だ。私は幸福な勝利者で孤独でもない。
そういうことを証明したくて経済人は偉くなると、
もっと権威のはっきりした学者や女優と対談をしたがるのだろう。
われわれ一般庶民はこういう対談をするのは友人同士と思ってしまうが。
実際は対談をしてもその日だけで後日連絡を取り合うことはめったにないという。
大勝利者はわれわれしもじものものより
実際ははるかに孤独感にさいなまれているのかもしれない。
その孤独感をごまかすためには生涯現役でなおかつ健康でいなければならない。

樋口会長は食事ごとに大量の健康サプリメントを服用しているらしい。
いやあ、どれか効いてくれているから、きっといま元気なんしょって感覚。
こういう庶民感覚を持った樋口会長って人間味があって素敵だなあ。
運よくお逢いする機会があったら、その魅力に参ってしまうのかもしれない。
あなたがいま健康だとして、どうして健康かという理由は「わからない」のね。
そこに宗教や健康食品産業がつけこんでくる。
いまあなたはこの宗教(あるいはサプリメント)のおかげで元気なんですよ。
週に2回スポーツクラブに通っているから元気なんですよ、もおなじレベル。
本書の対談で醗酵(はっこう)が専門のマスコミ学者、小泉武夫が
自分は発酵食品ばかり食べてきたと鼻息が荒い。
醗酵マニアの農学博士は怪しげな自説をとうとうと述べる。

「だから、私自身、六十八歳の今まで病気一つしたことがありませんし、
身体も全然悪いところなし。
太っているのは、これ、しようがないんで。
醗酵食品はほんとに、私にとって究極の食べ物で、薬みたいなものですね」(P64)


一見するとこれは「正しい」真実っぽいけれど賢明なみなさまは嘘を見破れるはず。
というのも、小泉武夫が醗酵食品を食べていなかったときのデータがないわけ。
かならずしも発酵食品を食べた「から」、いま健康であるとはかぎらない。
もともとそういう体質なのかもしれない。
醗酵食品をほとんど食べていなかったら、あんがいもっと健康で、
いまよりもっとほっそりとしたダンディーさんだったのかもしれない。
成功した人生の大勝利者はマスコミで得意げに自分が成功した理由を語るけれど、
それらはもしかしたら小泉武夫博士と醗酵食品のような関係かもしれない。
努力すると成功に近づくという一般論は、じつのところ努力が功を奏したのではなく、
自分はこんなに努力をしたという自信を持てることがいちばん重要なのかもしれない。
自信を持っていると、けっこうすいすいうまくいくものなのではないか。
宗教に入れば、自分は神さまや仏さまに守られているという自信が生まれるから、
そこまで努力をしなくてもなんらかのプラスの結果が出やすくなるのかもしれない。

大和ハウス会長の樋口武男氏がなぜ偉いのかと言われたら、
大企業の創業者から認められたということによるだろう。
どうしたら偉くなれるかの答えは、いい師匠を探し、先生を信じることなのかもしれない。
「自分は偉い」というのは自慢に思われてしまうから常識人はいわない。
では、どうしたら自分の偉さを証明できるのか?
自分の師匠の偉さをこれでもかと声高に主張すればするほど、
その弟子たる自分の格(偉さ)も上がるのである。
新約聖書は、イエスが偉いという弟子たちによる報告文章だが、
皮肉をいえば、あれは本当にイエスが偉かったというよりも、
弟子が自分の偉さを証明したいがために師匠をまつりあげた結果とも読めよう。
「歎異抄」の唯円は「自分は偉い」と書きたかったが、
それを書いても信じてもらえないので、
自分の師匠の親鸞はこれだけ偉く、自分はその弟子なのだと周囲に訴えた。
会長就任時、創価学会の池田大作氏が
前会長の戸田城聖をヨイショしたのもおなじ理由とは考えられないか。
末端の学会員は池田大作名誉会長の偉さを語れば語るほど、
自分の偉さを納得かつ証明できるようなシステムになっている。
サラリーマンも自社のトップを誇れば、それだけ自分に自信のようなものが生まれる。

みなさまもご存じでしょうが、とかく男は「話を盛る」ものである。
大和ハウス創業者はシベリアで苦労したようだが、
逆にそのマイナスとされる辛い出来事を「盛る」ことで自分に自信が持てた。
(わたしをふくめ)男は「話を盛る」ものであり、
なによりその武勇伝の聞き手を求めるものである。
売れっ子のホステスやキャバクラ嬢は、このことを熟知していると思われる。
男なんて「すごいですね」と言ってもらいたがるために生きている哀しい動物さ。
樋口武男会長は創業者の武勇伝を何度も聞き、それを信じることができた。
それどころかその武勇伝を周囲に吹聴までしてくれた。
創業者にとって樋口武男氏ほどかわいい部下はいなかったことだろう。
女性はリアリストだからそういう男性的武勇伝にだまされないが、
賢女は男のそういう愚かさをよく知っている。
樋口会長から創業者の武勇伝、苦労話を聞いた富司純子という
紫綬褒章女優の反応がおもしろい。
どうでもいいが純子は「じゅんこ」ではなく「すみこ」と読むこともあるのか。
紫綬褒章(←国家勲章)女優の富司純子さんのリップサービスがいい。

「[大和ハウス創業者の]石橋信夫さんが主人公の映画を撮ったら、
すっごいおもしろい映画になるなあって。
満州で九死に一生を得た後、ソ連軍の捕虜になってシベリアへ。
二十三歳で千ぐらいの兵を連れてあんな寒いところへ。
それは収容所の待遇が劣悪だと、軍刀を手に乗り込んでいったという。
あれはもう任侠映画の世界ですよね。(……)
それで、要求が容れられなければここで切腹すると。
石橋信夫さんの戦争体験から会社を興し、樋口さんにバトンタッチするまでを、
ぜひ映画で観たくなってしまいました。
義侠心に厚くて、生き方が道徳そのものですよね」(P85)


この女優のあたまのよさには感心する。
どんなことをいえば男が喜ぶかを本当によく理解している女優である。
女優だって「上」から使ってもらえなければ失業者のようなもの。
日本社会で「上」とは男性社会のことだから、
富司純子のような女優が大成功や大勝利をおさめるのだろう。
結局、偉くなるには上から認められるしかないのか。
上から認められて偉くなるのはサラリーマン方式で、樋口会長の選んだ王道だ。
もうひとつ日蓮大聖人さまがお取りになった方法がある。
日蓮は生涯、上から一度も認められたことがない。しかし、偉くなっている。
これは自分に狂人的なまでの強烈な自信を持つことで可能になる。
大和ハウス創業者の石橋信夫氏は日蓮タイプであったと思われる。
よく男がやるポーズがあるじゃない。
両手を腰に当てて胸を張り「おれは偉いんだぞ」と周囲にアピールするしぐさ。
あれは勝手に「威風堂々のポーズ」と名づけている。
わたしは「威風堂々のポーズ」が恥ずかしくてどうしてもできない。
あのポーズをしている人って恥ずかしいとか思わないで無意識にしちゃうのかな?
女は「威風堂々のポーズ」をやらない気がする。

大企業のトップになるとどんないいことがあるのだろう。
・多くの人から表面上の尊敬を得られる。
・お金はあるが忙しくて使う暇がない。しかし、瞬間的なぜいたくは可能。
・本を読む時間はないけれど、各界の偉人から耳学問でいろいろ学べる。
・時間はないが、女にもてる。愛人の3、4人は囲めるのではないか。
・ほぼパーフェクトな衣食住を満喫し、最高クラスの医療サービスを受けることができる。
・子どもや孫に割のいい仕事をあっせん(紹介)してあげることができる。
・いつも仕事に追いまくられ、「生きる意味」とか深刻に考えずに済む。
・たとえば当方のような末端非正規から感謝されて、
ごくたまに著作の感想文を書いてもらえることもなくはない

課長という役職につき、その肩書をアイデンティティにしてしまうと
(その肩書を自分そのものだと思ってしまうと)、
部長や社長が怖くてたまらなくなるような気がする。
大和ハウスとは縁もゆかりもないが、サラリーマン社会を知りたくて、
好奇心からいまだに成長を続けている大企業の会長のご本を読んだ。
じつに実りのある読書であった。
わたしはいまバイトで雇ってもらっている企業の会長には感謝しているが、
きっと大和ハウスにも会長に感謝している末端雇用者がいることだろう。
大和ハウスの創業者の石橋信夫氏も樋口武男会長もとても偉い人だと思った。
いい本にたまたまめぐりあえたおのれの幸運をなにものかに感謝したい。

インサイダー取引とは、内部機密情報を得たうえでその会社の株を売買すること。
「インサイダー取引をすると懲役刑もある」
これは正しいか、正しくないか。
いちおう法律上は5年以内の懲役はありうるということになっているけれど、
実際問題としてインサイダー取引の初犯で懲役刑を受けるものなどいるのだろうか。
現実に懲役者がいないのならば、
「インサイダー取引をすると懲役刑もある」は間違いということになる。
話は変わるが、ある会社がべつの会社を買収するってどういうこと?
わたしのつたない知識では、
買収とは相手会社の株を買い占めて影響力を最大限に高めること。
だったら、買収なんてインサイダー取引のようなものがなければできないじゃん。
企業は利益を追求するものだから、だれも倒産する会社の株(紙くず)は買わない。
信用できる(インサイダー)情報がなければ、だれもリスクは負わない。

むかし大衆向けの経済本を読んで知ったことだが(このため誤りかも)、
日本は資本主義がきちんと機能していないんでしょう?
大企業同士がお互いの株を持ち合って支え合っている、とか。
インサイダー取引なんかみんなやっているんじゃないかなあ。
インサイダー取引でさえ外れる(損をする)ことがあるのだから株は怖い。
素人が株に手を出すなんて、赤子がライオンに立ち向かうようなものなのだと思う。
本当のことを言うと、1万円札も100ドル紙幣も紙くずだよね。
みんなの信頼があるから1万円札は1万円ぶんの役割を果たすことができる。
企業ブランドというのは(その発行する株券は)、紙幣のようなものなのかもしれない。
ある日、紙くずになる危険性を持っているのが紙幣であり株券。
戦前と戦後で、ハイパーインフレのようなものが起こったんでしょ。
いま百円で買えるものが5年後には1万円払わないと入手できなくなるかもしれない。
ラオスなんかインフレなのかなんなのか、お金の単位がすごいことになっている。
だから、円預金とドル預金をダブルでしても、究極的には安心できない。
株や不動産ならば貨幣価値とともに価格も変わるだろうから、
併用するものもいるのだろう。

いちばん安心なのはサラリーマンで、物価が上がったらかならず給与も増える。
いまの日本経済はハイパーインフレを起こす(万札をばんばん刷っちゃう)しか
先行きはないのだろうが、そんなことをしたら資産家が大損をしてしまう。
資産家は権力者ばかりだから、彼らを怒らせるようなことはできない。
しかし、資産家は財産をいろいろ分散しているから大丈夫という説もある。
結局、国家の発行する紙幣の価値がなんによっているのかといえば、
(金本位制の)金(ゴールド)なのである。
どうしてかわからないが金(メダル)は銀や銅よりも価値が高い。
とはいえ、だれも金(ゴールド)の価値がどうして高いかを証明することができない。
金(ゴールド)なんて自分でつくってしまえばいいのではないか、というのが錬金術。
錬金術(れんきんじゅつ)こそ天才の思想であろう。
わたしが崇拝するスウェーデンの文豪ストリンドベリは、
執筆活動などバカらしくなって錬金術に夢中になっていた時期があった。
ストリンドベリはとにかく疑う人であった。だれも精神鑑定できない奇人である。
三度結婚して三度離婚したバツ3のストリンドベリ。
わたしは彼から多くのことを学んだ。
ちなみにわたしは日本におけるストリンドベリ研究(笑)の権威のひとり。
というか、だれも知らない、だれからも相手にされない作家だから。

(関連カテゴリー)
「ストリンドベリ」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-category-26.html
職人上がりの人は言葉に対してどういう認識を持っているのだろう。
「あれをこれして」「それをそれ」「あれあれ、あれをそうして」「これをあれね」
ご本人はなにかを言ったつもりなのでしょうが、それは伝わっていません。
「わかりません」というと、
「いまだにそんなこともわからないのか」と怒られちゃう世界。
いまどき老夫婦でも「あれをあれして」じゃ、言葉が通じないような気がするけれど。
「あれ」となにかを指されてわかるときもあるが、わからないことが多い。
「わかりません」と答えたら、「だから、あれだよ」と言われる。
それが立派な職人というものだろうが、こちらは参ってしまう。
「あれをあれ」で指示をわかってもらえると思う職人根性はほんとうにたまげる。
これをブログに言い換えるなら、
わたしの書いたこともほとんど
「あれはあれ」状態で意味が伝わっていないのかもしれない。
言葉なんかよりも音楽のほうが当方のメッセージを伝えるのかもしれない。
わたしはみにくいおっさんで、こんな歌がいまだに好きだ。

「Mi-Ke 想い出の九十九里浜」
https://www.youtube.com/watch?v=2jf5qfZTrrw

「後藤久美子 初恋に気づいて」
http://nicogachan.net/watch.php?v=nm23317200

バブル、ぶるぶる、経験したい。
おれをインテリだって思うなよ。
好きな曲、私的ベスト5。
1.今井美樹「プライド」
2.中島みゆきの「糸」とかいろいろ野島伸司ドラマの主題歌
3.だれが歌ったものでも「神田川」
4.武田鉄矢「贈る言葉」
5.AKB48「ヘビロテ」「ビギナー」
くそったれ、アッカンベーなんて四十男がもう……かわいくね? お子さま♪
レットイットビーというのは改めてすごい曲だよなあ。
どっちも悪くないのだが、
ピリピリしていたSさんとの関係がラジオから流れるレットイットビーで溶けた。
この曲が流れたとき、わたしのこころはとても柔らかくなり、作業効率も上がった。
だれかが感動したら、それが伝染するのはお芝居の世界の常識。
世界って、こういうことがあるんだなあ。
正直、いまの「上」の言葉がよくわからない。
なにを言っているのかわからないことも少なくない。
聞き返したら怒られるときもあるから、
健常者バイトが長続きしないのもしょうがないだろう。
そういう言語未開通の両岸のこころを溶かすのが、たとえばレットイットビー。
意味はそれをそのまんまにしろ。なるようになるさ。
こういう「ありふれた奇跡」にいちいち感動しないと希死念慮の強い当方はやばいからね。
ビートルズのレットイットビーは65歳にも40歳にも通じる。
秋だあなあ。いちばん好きな果物は梨(なし)。
思えば1年まえと比べたら、食費の出る金額が違う。
去年とは比較にならないほど、おかげさまでいまうまいものを口にしている。
シーズン商品っていいよねえ。
秋味の第三のビールもどきから、モノホンのさんままで本当にシーズンものはいい。
いちばん好きな果物は梨(なし)。あれは柔らかい極楽のような味がする。
先日スーパーで買ったのが1リットル7、80円レベルの梨水とやら。
これを焼酎で割ったらどうなるかと思ったのだ。
こういうチャレンジ精神がいまの職場の上司と当方の共通項かなあ。
焼酎の梨水割りは秋だなあ、うまいなあ。
帰途、台風に脅えながらマルエツで半額購入したスイーツは、
ブルーベリーパフェのようなもの。
甘味でも酒をぐいぐいいけるのがほんもののアル中もとい酒好き。
そうしたらそこにフレッシュな梨が入っていたのである。何切れもだ。
梨は大好きだったが皮をむけないので(りんごもNG)、
ここ10年以上口にしたことがなかった。
梨はうまいなあ。秋はいいなあ。生きているのも悪くないなあ。
こんなおれ、台風でふっ飛ばされたらいいのにねえ。
自炊は漫画「クッキングパパ」でいろいろ学んだが、
最後までりんごの皮をむけるようにはならなかった。
いま重度の顔面神経麻痺で顔がとにかくおかしいわたしは梨一個で落ちよう。
落として、拾って、食べて。皮をむいて食べて。
いつか書く日のために、いま元手を稼いでいるという感覚が強い。
むかしいっぱいコンクールに応募落選していた時期があったが元手が切れてしまった。
書物は偉大だが、書籍から得られるものなどたかが知れているというのも実相。
言葉が好きで、宗教、演劇、文学と言葉にこだわりつづけて生きてきた。
言葉ひとすじの人生である。
結局、おれなんか言葉に頼るしかないような気がする。
言葉は人を平気で裏切るからおもしろい。
花開くのは来世かもしれないが、いま元手を稼いでいるつもりで自分をごまかしている。
職場で15歳以上も年下の知的障害者から
怒鳴られた経験を持つアラフォーなんかいないっしょ?
そんなことをされたらよほど後のない高齢者や障害者以外の健常者は、
通常は職を変えようと思うものである。
しかし、元手を稼ぐことを考えていると、そういう実体験も「おいしい」わけだ。
多くの常識人、社会人が知的障害者と接することなく人権問題を語っている。
そういうインチキは見る人が見たらすぐにばれる。
元手を稼いでいると、文章にこいつは本物だという気迫が現われるのである。
いまは出版社から声をかけられなくてもネット上でいくらでも発声(発言)できる。
職場で、明日は来週があれなのでブツを1・5倍発注してくださいとのこと。
今年もあと3ヶ月かあ。
もう明日で今年が終わってもいいくらい激動の1年であった。
いやいや、まだまだいろいろ稼ぐぜ。いつか(来世や来々世かも)書く日のために。
あんがい年内に死んでしまって
没後10年に伝説のブロガーあつかいされるのかもしれないけれど、
なにがどうなるかはだれにもわからない。
最近、あんまり過激なことは書けなくなったなあ、と思う。齢かしら。
40歳になっても芽が出ない自称表現者は、
いつ死んでもまあ構わないという諦観がございます、まあまあ。
「先の先を読め 複眼経営者「石橋信夫」という生き方」(樋口武男/文春新書)

→大和ハウス現会長の樋口武男氏が、
師匠であり大和ハウス創業者の石橋信夫氏について語ったビジネス本である。
あまたある自己啓発書のなかの一冊とも言えよう。
ところで大和ハウスの樋口武男や石橋信夫は「偉い」のだろうか?
ご両人が「偉い」とされる根拠はなにか?
そりゃあ、大企業の創業者やトップなんだから
「偉い」に決まっているという反応があるかもしれない。
しかし、どうして大企業の創業者やトップは「偉い」のだろうか?
1.お金持ちだから。
2.勲章をもらっているから。
3.権力があり、部下を動かしてかなりのことができるから。

変な話をすると、ユージン・オニールは「偉い」のだろうか?
と書いても、みなさんはユージン・オニールのことを知らないと思われる。
それも当たり前で、いま演劇でメシを食っている人も、
かのアメリカ人男性のことを知らない割合のほうが高いと思う。
答えは、ユージン・オニールはテネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーに先行する、
「アメリカ演劇の父」ともいわれる偉大な実験演劇および古典演劇、近代演劇の巨匠。
どうしてそんな毛唐(けとう/異人/外人)が「偉い」のか?
そう思われた方はある種のクリエイティブな能力を持っていると誇ってよいと思う。
わたしはユージン・オニールが大好きで邦訳戯曲はぜんぶ読んで心酔しているが、
一般庶民のみなさんは
芝居台本を読む習慣はないだろうし(そもそも読み方がわからないだろうし)、
ウィリアムズもミラーも知らないのにオニールといわれても困るだけだろう。
ウィリアムズの「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」
くらいならタイトルくらい目にしたことのある人もおられるかもしれない。
わたしはユージン・オニールがだれよりも「偉い」ことを身をもって(目をもって?)
知っているが、そのことを他人に共感してもらうことが非常に難しい。
しかし、ノーベル文学賞を取った人だといえば、みなさんふんふんとうなずいてくれるはず。
ノーベル賞を取ったのなら、それは「偉い」だろうと。
ちなみにノーベル賞作家のユージン・オニールが師匠と目(もく)したのは
スウェーデンのストリンドベリなのだが、
かの天才奇人(いや狂人か)はなにも世間に知られた勲章をもらっていないので、
かの作家もまたわたしは大好きだがどこが「偉い」のかを説明することができない。

そういうことなのである。
わたしはユージン・オニールが「偉い」ことはわかるけれど、
大和ハウス創業者や現会長が「偉い」ことはいまいちわからない。
これは当方の興味が高等遊民的な演劇、宗教、文学にあるからで、
10円の金も惜しむような(表現者ならぬ)生活者意識が乏しいからなのかもしれない。
サラリーマンの悲喜こもごもを経験しないと、
大和ハウス創業者や現会長がどうして「偉い」のかわからないのかもしれない。
しかし、わかるのである。ちゃぶ台をひっくり返すようなことを書くと、
わたしは大和ハウス創業者や現会長のどこが「偉い」かを明確に指摘することができる。
わたしが思うに、石橋信夫氏や樋口武男会長は「運がいい」ところが「偉い」。
会長によると創業者の口癖は「人生は運しだい」だったとのこと。
わたしは創業者の先見の明よりも運のよさを「偉い(すげえ)」と思う。
樋口武男会長は師匠であり大企業の創業者でもある巨人の言葉を振り返る。

「創業者は、自身の人並みはずれた努力のことはおいて、
「人間、つまるところは運やで」
と晩年まで口癖のように言っていたものだが、
このとき[創業時]もたしかに〝運”としかいいようのない出来事が待っていた」(P19)


日本軍隊戦争経験やシベリア捕虜体験の持ち主ならではの人生観であろう。
「人間、つまるところは運やで」――。
運がないやつはダメだ。石橋信夫も樋口会長もとりわけ運がよかった。
石橋から運のよさを見出された大和ハウス会長は証言する。

「創業者はよく、
「わしは運がよかった」としみじみ述懐し、
「樋口くん、人間つまるところ運やで。キミも運のいい人間とつき合え」
と言い聞かされたものだ」(P176)


戦場はわずかな判断ミスが生き死にをわけるからある面でとても人間を鍛える。
銃弾が飛び交っているところできれいごとをいくらいっても通用しない。
明日死んでしまうかもしれないという外地戦場体験をした創業者は強い。
自分が死ぬくらいだったら相手を殺せというのが戦場の絶対ルールである。
自分が生き抜くためならなにをしてもいいというのが旧日本軍の精神だ。
やられるまえにやれ。飛び交う銃弾を避けるためなら運でもなんでも使え。
大和ハウス創業者の石橋信夫氏の人の使い方は、まるっきし旧日本軍のそれであろう。
というかむしろ、日本軍の将校がみな石橋信夫のような部下采配をしていたら、
あそこまで日本は大負けすることがなかったのかもしれない。
シベリアで草を口にして食いしのいだという伝説を持つ石橋信夫の人間観は非情である。
「人間、つまるところは運やで」――。
部下はそいつに運があるかどうかを見定めるしかない。
運がないやつは枯れろ。運がないやつは死ね。
弱肉強食、勝てば官軍、勝ったものが「偉い」。
そうして勝ち残ったいちばん弟子を自称する大和ハウス軍兵統率者の会長はいう。
人間など大根とおなじである。
荒れ地にその大根を植えてみて、そいつが大きく育ったら本物である。
枯れてしまったらそんな大根はいらない。枯れろ。死ね。消えろ。目障りだ。
大和ハウス創業者がよく言っていたことである。

「大きな大根は、次々とあたらしい土地に移しかえていく。
そこはまだ開墾されていない荒れ地であるかもしれない。
しかし、その試練に耐えた大根は、さらにたくましく成長していくはずだ。
(……) ……創業者の晩年、
いつものように二人で経営をめぐる対話をしていたある時、
「それにしても、荒れ地に耐えかねる大根もありますやろな」
とたずねてみると、創業者の答えが凄かった。
「枯れたら、それまでや」」(P67)


「人間、つまるところは運やで」
人間なんて、つまるところ大根とおなじで運やで。
「枯れたら、それまでや」
大軍の将軍になるような人物はこのような非情な複眼視線を持っていなければならない。
人権、人権いうけど、あれは嘘や。人間なんて大根とおなじで、人権なんてあらへん。
外地戦争体験ほど男を鍛えるものはないだろう。
いくら鬼軍曹として威張っていても、交戦中に部下から銃で撃たれたらそれまで。
大企業といわれるところはどこも旧日本軍を参考にしているところがあるのではないか。
戦争は負けたら死んでしまうのだから、絶対に負けてはならない。
企業活動も戦争のようなものだろう。
主婦のバイトならともかく、家庭をかかえるサラリーマンは企業戦士である。
おのれの城(自企業)が壊されたら、なんの肩書もない二等兵以下になってしまう。
大和ハウスの大将である創業者は口を酸っぱくして言っていた。

「闘いには百戦百勝、ぜったい勝たないかん。
経営でも人生でもそうや」(P150)


勝利絶対主義である。小気味いいではないか。負けるな、勝て勝て、絶対に勝て。
大和ハウス会長の名前でググろうとすると(グーグル検索しようとすると)、
大勝利という言葉で有名なある巨大新興宗教団体の名前が同時検索(?)で
現われるが、そんなことはグーグル先生のご指摘を待つまでもなくわかっている。
あそこの紫綬褒章作家、宮本輝氏の書いた「三千枚の金貨」は
大和ハウスがモデルのひとつになっているような気がしてならない。
日本男子に歴史上友情のようなものはなく、
あるのは上下関係(主従関係/師弟関係)だけなのかもしれない。
日本の大企業は(中小企業もおそらく)旧日本軍以外の組織スタイルを持っていない。
だから悪いというのではなく、日本軍はアジアでいちばん強かったのである。
植民地化された中国や韓国の軍隊よりも日本戦時体制は銃後もふくめ強かった。
日本で組織をつくるとなったら、旧日本軍のようなあれしかないのだろう。
繰り返すが、それが悪いわけではなく、むしろ他国には真似できない最強軍隊である。
愛国精神、愛社精神のためなら神風特攻隊に志願することも辞さない。
だれもあまり大きな声でいわないがいまの日本は天国のような世界ともいえよう。
こんな便利で微笑みにあふれた国はほかにないだろう。
微笑みの国といえばタイやラオスだが、
たとえばラオスなんか日本の足元にもおよばない。

戦後日本の急激な経済成長は旧日本軍のモデルで経済活動をした成果ともいえよう。
ニッポンがんばれ! 日本人がんばれ! 大和ハウスがんばれ!
いま大和ハウスは多角経営を推し進めているらしい。
常識にとらわれないとてもいい見識のある経済活動だと思う。
多角経営とはファミリーをつくること。
たとえばさ、なにか商品を製造しても運送を外注したらそれだけ摩擦(まさつ)は高まる。
運送会社もおなじファミリー企業でまかなってしまえば、
おなじファミリーに対してそうそう悪いことはできないだろう。
華僑(かきょう)がやっていることだが、血縁関係(ファミリー)ほど信頼できるものはない。
よその人に外注したらだまされる危険性もあるが、ファミリーならば安心できる。
経済活動は契約関係、金銭関係だが、ファミリーはもっと強い絆(きずな)がある。
企業同士がファミリーになってしまえばこんなに強いものはないのである。
巨大企業の創価学会にはファミリーが多いと聞くが、
あれは世界史的に初の試みとなる革新的な経済活動なのではないか。
社会主義(共産主義)もダメ。資本主義もボロボロ。
しかし、第三の道があるではないか。「第三文明」があるではないか。
仏教と資本主義をミックスしてしまえばいいのである。
ラオスもベトナムも社会主義と仏教を併用しているが、
あっちのは小乗仏教だからどこかゆがんでいる。
大乗仏教と資本主義を併用した創価学会や大和ハウスのような
ファミリー主義がいちばんいいのではないか。
大和ハウスはいま多角経営を進めていると聞く。
この企業はいまどこに目をつけているのか。いわば希望の星である。

また同年[2004年]、[大和ハウスは]日本体育施設運営(NAS)を買収した。
同社は全国で四十七ヵ所のフィットネスクラブを展開するが、
健康への関心が高まる中、
大和ハウスはNASを拠点の一つとし、人・街・暮らしの
価値共創グループとして挑戦を続けているところである」(P192)


スポーツクラブNASなら世間知らずのわたしも耳にしたことがある。
まえに友人が通い始めたと聞いた(結局、忙しくて辞めてしまったようだが)。
スポーツクラブNASはとにかく居心地がいいらしい。
とくにいいのはレンタルのタオルで一流ホテルを凌駕するふっくら感があるという。
一流のスポーツクラブはタオルのようなところにまで気を配るのかと
一生そんな高級施設とは縁がないだろう当方は新鮮に感じたものである。
わたしがもし高給取りの大和ハウス社員に来世でもなれたら、
迷わずファミリーのスポーツクラブNASに通い汗を流し、
帰宅後は軽く国産ビールで喉をうるおしながら樋口会長のご本を読むだろう。
1時間半で読んだ本だが感想を書くまで1週間以上の思考を要した。
毎晩、仕事から帰って来てこの本の重要箇所を読み直したが、
なかなか感想が書けなかった。
それだけいまのわたしには難しい本でありました。

「大和ハウス工業」(長谷川誠二・池上博史/出版文化社新書)

→どうして男って人の上に立ちたがるんだろう?
社会というものはひとりでは動かせない。
だから、人は集団をつくり経済活動を営むのだが、
だれかが責任者となり指揮しないと個人ならぬ集団は動くことができない。
トップが5人直属の部下を持ち、その5人がまたそれぞれ10人ずつ部下を持ち……、
といったピラミッドのようなかたちで企業の指揮系統は形成されている。
なにより得がたいのは尊敬できる上司と信頼できる部下であろう。
大企業「大和ハウス工業」は、石橋信夫氏が株で当てた資金を元手に創業した。
創業者・石橋氏のどこが偉いかといったら、
現会長の樋口武男氏という部下から崇拝されたことによるところが大きい。
石橋信夫氏とてひとりではおそらくなにもできなかったことだろう。
樋口武男会長を代表とするあまたの腹心がいて、
大企業「大和ハウス工業」はここまで現在のように躍進することができた。

さて、原点に戻り男はどうして人の上に立ちたがるのだろうか?
人に使われるのがいやだから男は人の上に立ちたがるという答えがあろう。
それもたしかにそうだが、
人の上に立って人を使うことほど難しいことはないとも言えよう。
若者は(いまだ気づかない中年も少なくないけれど)単純に立場上、
人の上に立てば部下たちは自分の指示に従ってくれると思う。
けれども集団経済活動の難しいところは、部下が言うことを聞いてくれないところだ。
部下は上司の命令通り動くだろうと思っているのは世間知らずの甘ちゃんになる。
部下というものは、おそらく思っている以上に上司の言うことを聞かない。
部下のほうにも言い分はもちろんあって、上司の指示がよくわからないということがある。
上司の指示が毎週どころか毎日のように変わり、
知的障害者の青年ならならまだしも、
まともな健常者ならば混乱必至という職場も少なくないだろう。
人に使われるのも難しいし、人を使うのもこれでもかと難しい。
得がたいものは尊敬できる上司と、信頼できる部下というのはこのためである。

「大和ハウス工業」の樋口武男会長は創業者に心酔することができた。
これが会長のひとつの才能であろう。
それから樋口武男会長は創業者と馬が合った。
こいつは使えるなと創業者から信頼される人間性を持っていた。
じつのところ「仕事ができる」うんぬんは
ビジネス(経済活動/労働)とあまり関係がないのかもしれない。
「仕事ができる」ものは上から(自分の地位[ポスト]を奪われるのではないかと)
警戒されることも多く、かえってリスキーである。
あいつはそこまで仕事はできないけれど
(指導の余地がある/上司の威厳を保てる/成長を見守ることができる)、
おれの言うことを聞いてくれるという、
いわゆる馬が合う部下が上司から引き立てられ出世するのである(かわいい部下)。

「大和ハウス工業」の樋口武男会長は、
創業者から引き立てられたから大企業のトップに立つことができた。
これは断じて悪いことではない。
優秀な人が企業トップになると、従業員の多くのものがうるおうというメリットがある。
聞いた話だが、大和ハウスは末端の雇用者までファミリーは守るスピリッツ(精神)
を持っている優良ホワイト企業とのこと。
大和ハウス本社は大阪にあるが、
西に足を向けて眠ることができない東京人も多いだろう。
どうでもいいが、この記事の筆者もまた、
足を(大和ハウスのある)西に向けて寝ころばないように注意している。
上司は信頼できる部下と出逢いたいと思う。
自分の言うことを聞いてくれる部下である。どいつが自分の腹心かはわからない。
上司がいないときには部下全員が上司の悪口を言っている可能性は高い。
ここで問題になるのが、いわゆる「人間力」であろう。
仁義、人情、忠誠と言ってもよかろう。
いくら人の上に立ちたい男がリーダーになっても、
腹心の部下がいなければ彼は失墜確実だろう。
「仕事ができる」うんぬん以前に腹を割って話せる部下がいかに上司にとって重要か。
腹を割って話したことを周囲にもらさないという(墓場まで持っていく覚悟がある!)、
上級カウンセラーのような秘密保持力のある部下がいたら、彼は信頼されるだろう。
繰り返すが、大和ハウス創業者にとって樋口武男会長はそういう存在であった。

ビジネス界のトップに君臨する崇拝者も多い樋口会長は
本書でインタビューにこう答えている。
いまは経済界の重鎮の樋口武男会長にも若かりし野心に燃えた青春時代があった。
樋口武男青年は36歳でリーダーの難しさを知る。
人を使う難しさを青年は36歳で実体験する。
このとき樋口青年は多くの人を使っている創業者の偉大さを身をもって知ったのだろう。
大和ハウス会長は口にする。人を使うにはどうしたらいいか?

「相手のやる気が出るようにすること。
それを促すためのコミュニケーションをしっかりとることです。
実はこれには苦い経験がありましてね。
一九七四(昭和四十九)年に山口支店長に赴任した時、私は三十六歳と若いこともあり、
先頭に立って支店を引っ張る気概で最初から馬力をかけて頑張った。
張り切っているからこちらの気持ちが通じない社員には大声で怒鳴り、
時にはビンタも辞さなかった。
ところがそれが逆効果となって社員を委縮させ、気がついたら誰もついてこない。
四面楚歌でした。周りとのコミュニケーションを忘れていたんですね。
そこで発想を切り替えて、社員の一人一人と徹底的に対話することにしました。
お客様から支持を得るにはどうしたらいいか、顧客サービスとは何か、
今日・今月・今期における仕事の目標を持つことの意味とは…
そんなことをじっくりと腹を割って話し合いました」(P17)


おそらく大和ハウスの樋口武男会長がリーダーになったのはこのときだろう。
青年が部下から人を使うリーダー(上司)になったのは36歳のときだ。
上司は肩書という権威で恐怖政治をすることができ、
それは即効性がなくもないけれど、長期的に見たらろくな部下が育たない。
本当のところはなにを考えているかわからない、
いつも重度の知的障害者のようにニヤニヤしている部下は信頼できない。
いくらいまのところ仕事が多少できて使えるとしても、
いつ寝返るかわからない部下には警戒しなくてはならない。
数回、酒をのんで腹を割って話した部下のほうが育てがいがある。
基本的に年上の部下は使いづらいから、加齢によって人は求職が難しくなる。
60歳以上なんて仕事がないから、使いづらいとも使いやすいとも言えよう。
いまの職を守るためになら、アラフォーにはできない、
いろいろなことを(いいことも悪いことも)アラカンや還暦以上はするだろう。

指示されたからと職務上いやいや働く部下は(それでも動いてくれるならまだましだが)
なかなかあつかいづらいのである。
この人を男にしてやりたい、仁義上この人には逆らえないな、
と働いてくれる部下が上司にとってもっとも好ましい。
多少仕事ができたところで、部下連中を取り仕切って、
いつ上司に反旗をひるがえすともわからない部下とはおちおち安心して仕事もできない。
大企業「大和ハウス工業」の樋口武男会長が出世できたのは、
創業者をだれよりも心酔することができ、
同時に創業者からの絶大な信頼を得ることができたからと思われる。
いまわたしは職場の上司を指導者として崇拝しているわけではないが、
当方とは正反対(几帳面・メモ魔・手作業や整理整頓がうまい)なので、
年長者に対しておこがましいがそれなりの魅力を感じている。
人間味があっておもしろい人だなあ、といまだに感心している。
うちの職場はバックレ率が9割を超えているのである。
ここ5年の男性バイトでちゃんと退職届を出して退社した人がひとりしかいない。
みんなある日、突然来なくなり、連絡がつかなくなってそれで終わり。99%がそう。
8月にもひとり男がバイトで入ったが1日で辞めてしまった。
わたしはもしいまの職場を辞めるならば、円満にきれいに、ことを運びたいと思っている。
それはいまの職場の上司ふたり、三人に恩義があるからでもあり、
人情のようなものを感じているからでもあり、つまるところ、
こういうメンタルでのリスペクトを大和ハウスは重んじているのではないかと思う。

大金を得るようなチャンスがあったら、ほしいものがないので、
きっと大和ハウスの株を買うことになるだろう。株の買い方は知らないけれど。
むかし5、6年まえ戯曲を書いたことがある。
当方の最高の自信作だったが、どこのコンクールからも落とされた。
インド、ベナレス(ヴァーラーナシー)の日本人宿を舞台にした芝居だ。
そのゲストハウスの名前を「クミコハウス」のもじりで
「大和(やまと)ハウス」としたような気がする。
ということは、本当かと疑われそうだが、
当時は大企業の大和(だいわ)ハウスのことを知らなかったのだと思われる。
いまは大和ハウスも創業者のことも、樋口会長のお顔もよく存じあげている。
大和ハウスすげえよ。言いたいのは、言えるのは、それだけ。

「大学病院の不健康な医者たち」(米山公啓/新潮OH!文庫)

→大学病院の助教授医師から売れっ子ライターに転身した著者の自伝めいたもの。
自分がいかに有能な神経内科医で、
しかし上からにらまれ、いかに大学病院から追い出されたかを、
多少被害妄想過剰とも言えなくもない視点からつづったルポである。
とはいえ、完全に医師国家資格を捨てるわけではなく、
細々と診療はつづけ医師という世間的高身分は
ちゃっかりキープしている世渡り上手の作家で医師の先生さまによる内情暴露本。
いかに自分が「仕事ができる」やつかを強烈にアピールしているのが、
あるいは読者によっては鼻につく著書かもしれない。
禁煙ファシズムの先駆者でもあるので喫煙者には「敵」として存在をご認識いただきたい。

病気を治すっていったいどういうことなんだろう。
病気のなかには医者が勝手に病気をつくって大騒ぎして、
治さなければとんでもないことになると投薬治療しているものも多いのではないか。
個人的には患者に自覚症状がない病気は、果たして病気なのかという疑問がある。
高血圧とか高脂血症は、ぶっちゃけ自覚症状なんてほとんどないでしょう?
あれらは数字のうえでの異常にすぎず、
その異常というのも医者のお偉いさんが勝手に決めた基準値からもれているだけである。
頭痛とか痛風とかぜん息とか、実際に苦痛のある病気とそうでないものがある。
わたしなんかも高血圧で薬を飲んでいるが、
高血圧で痛いとか苦しいとかそういう自覚症状はまったくなく
(もっとも文豪の三浦哲郎レベルの高血圧になると明確な自覚症状があるらしい)、
「薬は身体に毒で早く死ねる」という裏情報をどこか信じて服薬している。
一度痛風をやったことがあり(あれは死ぬほど痛いぞお)、
尿酸値を下げる薬は降圧剤とは異なり、ありがたく服用している。
血圧を下げる薬は飲み忘れても気にしないが、
尿酸値の薬はそういうあつかいではない。

いま重度の顔面神経麻痺でメチコバールを処方されているが、
現在の希望はこの定番薬しかなく、絶対に飲み忘れないぞと誓いながら、
効いてくれと祈りながら1日3回体内に摂取している。
あんがい飲んでも飲まなくても変わらないのかもしれないけれど、
そう考えてしまうとあまりにも「あんまり」なので。
医者サイドもメチコバールがもしなかったら困ることだろう。
重度の顔面神経麻痺患者をまえにして、
「治らないことも多いです」と本当のことを言って、なにも薬を出せなかったら、
医療者としての無力感におそわれ、
善良な医師ならこころを病むこともあるのではないかと思う。
ちなみにわたしはまだギリギリで高脂血症とは診断されていないが、
それでも(血液検査でわかる)コレステロールは高めである。
高脂血症も患者サイドに自覚症状がない医者がつくった病気だが、
いざ高脂血症と言われたらいまさらこだわりはなく薬をもらうつもりである。
著者は精神科医の春日武彦氏とは異なり、積極的に投薬治療を行なう医者の模様。
以下はまったくの正論だと思う。
医者の健康指導は意味がなく、そんなことをする暇があったら投薬しろよ!

「高脂血症の治療はどんな方法でもいいから、
とにかくコレステロールを正常値まで下げることなどといくら言っても、
実際に正常値にならなければなんの意味もない。
だから[大学病院の]健康管理部で薬を出してしまおうということになった。
コレステロールを下げるには、一日一錠薬を飲めばいい。
しかしそのために大学病院のあの混んだ外来で、
三時間も待たされ通院するのはばかげている。
近くの医者を紹介しても、「まずは運動とダイエットです」という、
また振り出しに戻るような指導しかしてくれない」(P127)


薬が嫌いな人って思いのほか多いような気がする。
「薬は毒」というのは、かなり本当のことなのだろう。
長生きなんて絶対にしたくない当方はこれからもせっせと医者に通い、
大量服薬に励もうと決意を新たにしたしだいである。
しろうとくさい文章が不快なところもあったが人は肩書だから、
大学病院助教授まで登りつめた著者の本を批判するつもりはない。
著者の本は数冊読んでいたようで、
以下にリンクをはった本のほうが数段おもしろかった。

(関連記事)
「医学は科学ではない」(米山公啓/ちくま新書)←名著!
「「頭がいい」とはどういうことか」(米山公啓/プレイブックス・インテリジェンス)

「患者さんには絶対言えない 大学病院の掟」(中原英臣/青春新書)

→暴露本は好きだから、どれほど唖然とすることが暴かれているかと思いきや。
そもそもおのれの医師国家資格をキープしたままで書かれた本だから、そんなもんか。
医師資格を持ってない人がなにを言おうと大して聞こうとしないのが大衆。
だから、医師の資格は手放すことはできない。
しかし、自分も医師の群れのなかにいると村八分にされるような暴露は書けない。
「医師なんてやーめた」と資格を捨てたハグレものが暴露をしたらおもしろいのだろう。
それはいままでの人間関係(師弟同僚関係)をすべて捨てるということだから、
たいがいの医者には無理な注文なのだろう。

一般的に町医者よりも大学病院のほうが権威がある。
もっと言えば、町医者よりも大学病院の医師のほうが医療の腕は高いと思われている。
わたしはそうは思わないが(町医者への蔑視はないつもりだが)、
そもそも町医者自身が難しそうな病気や怪我にめぐりあうと大学病院をすすめてくる。
医者業界における、この大学病院偏重主義はどういう理由によるのか。

「この国では、医学生を教育するのも、若い医者を養成するのも、
医学の研究をするのも、新薬の効果をチェックするのも、新薬の認可を審査するのも、
大学病院の権威ある医者に任されています。
さらに、最新の医療機器を導入するのも、いろいろな検査の正常値を決めるのも、
すべて大学病院が中心となって行なっているのです」(P4)


そうは言っても、これはどうしようもないのである。
いくら民間で治療者を育成しても、彼(女)らは祈祷師、占い師あつかいだろう。
わたしは医者も正体は祈祷師や占い師のたぐいだと思っているが、
世間的評価はお医者さまのほうが民間治療者よりも桁違いに偉いことになっている。
では、どうして医者にかかるかといったら、国民皆保険のおかげだろう。
ケチな話をすると3割負担ではなく、全額負担ならかなりの病人が減るはずである。
よく知らないが高齢者は1割負担なんでしょ?
そりゃあ、計算高いばあさんは高い占い師のところに行くよりも、
安い医者に通って病気なのかなんなのかわからない愚痴をぶちまけるだろうよ。

庶民の名医信仰というのもいまのわかしにはわからない。
医者なんてみんなおんなじじゃないかという思いがある。
名医は混むから新米のフレッシュ医師(女医ならなお可)に診てもらい、
そのビキナーズラックのようなものにあやかりたいと思っている。
どうして老いた庶民って肩書信仰、名医信仰のようなものが激しいのだろう。
うちの父の口癖は、「おれは大学病院の教授に診てもらっているから絶対大丈夫」。
息子からしたら、わけがわからない。
「おまえはな、ものを知らない。大学病院の教授だぞ。
その教授先生が結果を見て、土屋さん、これは大丈夫。安心できますと言ったんだ」
定期的に大学病院教授の健康お墨付きをもらっている父は、
にもかかわらずどうしてか今年の2月に脳内出血で倒れた。
病室で父にさんざん嫌味を言ったものだが、
先日聞いたらあのころのことは覚えていないらしい。
教授先生医師に定期的に診てもらっていても、病気は事前にわからないのである。
祈祷師や新興宗教でさえ「教授」のようなポストがあり、
そのほうが信用を集められるというのはふしぎ極まりない。
「みんなの名医」にすがるより「わたしの名医」に賭けるほうがおもしろいし、
実効的だ(現実に効果がある)と思うけれども、世間は肩書依存症である。
マスコミ医者、タレント医者の著者は言う。

「……教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がありません。
大学病院のなかで内科や外科といった診療科目の最高の地位である教授という
ポストについた医者は、腕がいいことよりも
学内政治や調整能力にたけているというこtが少なくありません。
それこそ『白い巨塔』の財前五郎ではありませんが、
一癖も二癖もある医者がたくさんいる医学部の教授会で
多くのライバルたちに勝たなくては教授にもなれないのです。
腕よりも政治力と経済力ということになるわけです。
そして、もう一つの問題が、
医学部の教授になるには腕よりも大切なものがあります。
それは「業績」という名前の論文です。
しかも、論文の中身ではなく、論文の数がなによりも重要な評価の対象になるのです。
教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がないといったのは、
医学部の教授選では、臨床の腕がいい候補よりも
論文の数が多い候補のほうが有利になることが多いからなのです」(P185)


著者はまさか自分のことを「腕がいい」医者だと思っているのだろうか?
いやいや、そもそもの話、
医者で自分のことを「腕がいい」と思っていない人のほうが少ないだろう。
「腕のいい」医者とは、ヤブ医者の反意語だろう。
わたしはたとえ世間ではヤブ医者とされる評判の悪い医者でも、
わたしの病気を治してくれるのならば彼(女)を名医だと思う。
いくら世間から名医と名高い教授先生でも、
当方の苦しみを軽減させてくれなかったらそいつはヤブ。
名医としての評価の基準をどこにおくかである。
世間(多数派)の評価を気にするか、
自分との相性や実利性を重んじるかの違いといってよい。
どれだけヤブ医者と後ろ指をさされる人でも、少数の患者ならきっと救っているのである。
自戒を込めて最後に書くが、「みんなの名医」を探すよりも「わたしの名医」と出逢いたい。

その後、顔面神経麻痺はどうなったのか?
なーんか、めんどーくさくなっちゃってさ。
べつによくなったとかそういうことじゃなくて、打つ手がないようで。
おそらく発症から約2ヶ月経っていると思われる現段階では改善のきざしなし。
というか、鏡を見るのが嫌いだから、自分でもいつ発症したのか正確にはわからない。

最後にT大学病院に行ったのは先月、8月29日。
T大学病院とか書くと東京大学かと思われちゃうから、帝京大学病院と書いておく。
帝京大学病院眼科に3週間ぶりの診察。
また視力検査をされる(保険点数がつくらしい=お金を取れる)。
ちなみに視力検査は(視野検査とは異なる)「C」を言い当てるおなじみのあれね。
朝急いでいたため仕事用の壊れてもいいメガネをかけていってしまう。
検査のうえではこのメガネでもよく見えているとのこと。
お若い男性眼科医とは3回目の対面。
すげえ偉そうで、ふんぞりかえった医師で、こういうやつがいるんだなあ、
と過去2回は思ったが、どうしてか今回は低姿勢。
前回、視野検査の結果は異状なしと言われた記憶があるが、
今回は画像を見せられ左の視野が狭くなっていると言われる。
これって問題にする人がいたら大問題になるんじゃないかなあ。
わざわざ視野検査のために来院させて、結果は異状なしといったんは言ったが、
その次の診察では左の視野が狭くなっているって、それなに?
まあ、板橋区の帝京大学だからこんなものか。
帝京大学の若い講師が庶民を見下していいかげんなことを言うって、
それがまあ世の中だという認識がこちらにあり、ことさら怒る気にもならない。

同大学病院耳鼻科で1ヶ月以上ぶりの聴力検査を受ける。
その後に耳鼻科を受診。
リハビリ科の顔面神経麻痺の権威に「たらい回し」にしてくださったのは、
この若き耳鼻科医でしたか。「どうでしたか?」とか聞かれてもねえ。
むしろ、こっちが電子カルテにどう書かれているか聞きたいくらいなのに。
「希望はないって言われました。
リハビリをすると早く後遺症が出ると言われましたが、どういうことなんですか?」
「そういうことなんでしょう」
「治らないと言われましたが、いくら本当のことでもそんなことを言われたら……」
「医者は本当のことを言わなきゃならないでしょう?」
たしかにそうですけれど、いくら権威だからって未来を言い当てられるの?

聴力検査の結果は、うーん、とうなった。
約1ヶ月まえと比べて左の聴力はほぼ完全に検査上は復活しているらしい。
モスキートレベルの実際の聴力と無関係レベルの聞こえは悪いが、
帝京大学病院耳鼻科としては左耳聴力は正常とのこと。
そうは言われても当方の感覚では左耳はまだ聞こえにくいのだが、
聴力検査の結果は正常。
もう1回、例の顔面神経麻痺の権威の診察を受けてみてはどうかと言われる。
相性がよくないのでいやです、と答える。
顔面神経麻痺のレベル(数値化)は以前と対して変わりなしとの診断。
いちおう顔面神経麻痺の手術はできることになっているけれど、
帝京大学病院耳鼻科では事例が少なく実際的には無理らしい。
めまいと立ちくらみが依然激しいことを伝えると薬を変えられる。
耳鼻科受診を継続したほうがいいのかたずねると、それはそうでしょうとのお答え。
4週間後の受診を予約したが、なんのためかはよくわからない。
当方の庶民的感覚としては、
1ヶ月の変化を医療者の目で見てもらうとどうなるか知りたいというくらい。
受付で眼科の受診日も4週間後に変えてもらう。

他人に期待していないところがある。人生にも人間にもあまり期待していない。
医者に治してもらおうという気持があまりない。
治るものは治るのだろうし、治らないものは治らないだろうとあきらめている。
今日は9月10日。
いちおう発症とされている日から約2ヶ月経過したことになる。
重度の顔面神経麻痺がどうなっているのかはよくわからない。
というのも、相変わらず鏡で自分の顔を見るのが嫌いでよく見ていないからである。
職場で同僚に話しかけたときの相手の顔つきから、
ほとんどよくなっていないことがうかがえる。
きっと話すときひどく口が曲がっているのだろう。まさしく顔面障害者。
鏡をよく見ていないのでわからないが、ちょーポーカーフェイスのような気がする。
左顔面が動かないから笑いや怒りといった表情をつくることができない。
うら若き女性が顔面神経麻痺になったら苦しみは激しいのだと思う。
こちらはむかしから自分の顔が大嫌いだった醜男(ぶおとこ)でよかったとも言えよう。
いまの段階でこの状態だと、もう一生表情を失った顔面障害者なのかもしれない。
けどさ、一生っていってもあと数年くらいかもしれないし、
かりに顔面神経麻痺が治ったからといって、それはそれでたいへん望ましいことだが、
かといって人生に希望が芽生えるという年齢でもない。
リハビリは気づいたときに慰め程度にやっているが、そこまで熱心ではない。
権威先生からやればやるほど
「早く後遺症が出る」とかわけわかんないことを言われているしね。

来週の今日、土曜日、東川口病院の脳神経外科を受診する。
はじめて顔面神経麻痺を診てもらったのが、この帝京の脳外科の先生であった。
来週の段階であまりよくなっていなかったら、
一生そのままかもしれないと以前から言われている。
わたしの感覚ではよくなっているようなきざしは見られない。
相変わらず左目のウインクはできないし、
むかし得意だった口笛もまったく吹けない。
まあさ、これが人生というものかって感じやね。
ひとつの手として医療いっさいを変えるという方法もあるのだろう。
たとえば慶應大学病院には顔面神経麻痺の専門チームがあるらしいので、
そちらへ行って顔面手術をしてもらうことに希望をつなげる。
いざ手術するとなったら2週間以上の入院が必要な模様。
そのまえにも検査、検査、検査で信濃町への通院を求められるであろう。
経済的にはたぶん大丈夫なんだろうけれど(問い合わせてみないとわからない)、
そこまでむかしの自分の顔に執着できないというか。
そもそも鏡を見るのが大嫌いだから、むかしの自分の顔をよく知らないんだなあ。

いったいこれからどうなるんだろう。
いまだに今年の終わりごろには、
自然回復しているのではないかというおかしな希望を持っている。
おのれの運の強さへのこの自信はいったいなにゆえなのか自分でも怖い。
ユング的には(ユングってだれそれ?)、いんや、河合隼雄ふうに考えたら、
ある旧態のペルソナ(仮面=顔面)が自然に壊れて、
べつの顔を持つ過程という意味解釈も可能。
結果が「変な顔」というこちらの精神障害に見合った顔面障害かもしれなくて。
けっ、どうせおれの顔なんかにだれも興味がないだろ!?
そういう人生への深いあきらめと他人への醒めた嘲笑は相変わらずである。
顔面神経麻痺になって悩めるのは、
多くの友人や愛する家族に恵まれたものの特権ではないかと思う。
なにかに対する反省がまだ足りないのかもしれない。
いまのおれって左顔面がまったく動かないスーパーポーカーフェイスだから、
毎日わがはいさまと接する人は怖いのかもしれない。ごめんちょ。
いい医者はどういうものか愚見を書いてみよう。
従来の世間常識とは異なるかもしれないが、あえて書く。
わたしにとって名医とはお薬をいっぱい出してくれる国家資格保持者。
医者とわれわれの相違はなにかを突き詰めて考えると、
要するにドラッグストアでは買えない薬を仕入れることができるかどうか、
と言えなくもないような気がする(絶対的正答では断じてありませんけれど)。
10年くらいむかしは若い女医がとにかく目障りで嫌悪していた。
いまは180度くるりと回転して若い女医先生ほど名医だと思っている。
いまの主治医のジュンコ先生もすばらしいし、
そのまえの担当だったユウコ先生のお若い女医っぷりには惚れたものである。
若い女医先生のどこがいいのか?
まず男と違って権威や伝統にそれほどこだわりを持たない。
ジジイの医師が出してくれない新しい薬も偏見なく出してくれる。
(その新しい薬の効くこと、効くこと!)
若い女医は年配者のこちらの事情を察してくれ、努力、努力と言わない。
そういう健康努力をできないから病院に来ているのに、
薬を出してくれない老医者は宗教家にでもなったつもりなのだろうか?
医者とわれわれ一般人の違いはお薬を出せるかどうかでしかない。
数分の面談で病気を診断治療するって、それは神さまでも仏さまでも無理なこと。
自分がいくら健康指導をされても美食や飲酒、喫煙をやめられないのに、
そのくせ患者にはふんぞりかえって説教する医者は早くくたばれ。
本当に人生で参考になるアドバイスをはじめてブログに書くのかもしれない。
名医とはマスコミで有名な老いた権威者ではなく(行列、行列、大行列)、
どこにでもいるようなガツガツしていない良家出身の若い女の先生である。
「ユウコ」や「ジュンコ」といった「子」がつく名前ならほぼ確実であろう。
バイト感覚でやっている若い女医のほうがよほど院長先生より信じられる。
ここまで申し上げると暴論かもしれないけれど、
いばった老医師よりよほどナースの助言のほうが信用できるとわたしは思う。
しつこいが繰り返す。薬を出してくれるのが名医。
薬を出さないで偉そうな説教指導をしてくるのは医師ではなく新興宗教の手合い。
効かない薬も多いが、それでも医師の健康指導よりは確率的に効果があろう。
学校でいじめが起きるのは先生が見ていないときである。
部活の顧問がいないときに、先輩は後輩をいびる、いじめる。
教師のあいだでもいじめはあるだろう。
古参職員が新米先生をねちねちいびりたおす。
こういうこともその場にいちばん偉い(とされる)校長先生がいたら起こらない。
校長がいないときを見計らって古株は新米をいじめる。
なにか事件が起こったときに校長先生が
「なにも知らなかった」というのはおそらく真実であろう。
上役がいないときに人は自分が上になったような錯覚をいだき下をいびる。
そうして加虐の自己満足的快感を得て人生に満足する。おれは偉いと。
社会的上位者に従順な人ほどいわゆる下に対してひどい振る舞いをするのではないか。
もちろん、お偉いさんの見ていないところで、
そして、こっそりおのれの正義(権力)を誇りながら――。
出勤まえにバカなことを書くと、ふたつの仕事があるんだろうなあ。
1.お客さんの笑顔が見える仕事。
2.お客さんの反応がわからず、反応といえばクレームしか来ない仕事。
ナースとか激務で仕事に比したら給料も安いのだろうが、やりがいはあるのだろう。
2の仕事を明るく楽しくこなすためにはどうしたらいいのだろう。
そもそも仕事は明るく楽しくするものではなく、
罵声を浴びせられながら歯を食いしばってするものかもしれないけれど。
お互いのミスを目を皿のようにして探しながらイライラしているとこころが病むぜ。
ふつうってどういうことかわからないけれど、
ふつうの人はドラマを見て、自分の体験したことの意味を再確認するわけでしょ?
恋愛ドラマを見て、
ああ、自分の男性関係もそうだったと納得(錯覚)したいのが高齢女子。
家族愛あふれるホームドラマを見て、うちもそうだと盲目的に信じたい。
わたしの場合、ベクトルが正反対なのである。
たとえばバイト先でパワハラ的な行為を受けたとする。
そのとき感動するのは、
ああ、山田太一ドラマのあのシーンで描かれていたのはこういうことだったのか!
そういう新発見の感動なのだから。
要は現実より先にドラマを知っているのだが、
わたしにかぎらず当方より若い世代もみなみなそうかもしれない。
しかし、若者は往年の山田太一ドラマを知らないだろう。
ドラマを現実に似ているという文脈ではなく、
いまのわたしの現実を、
ほほう、これは山田太一ドラマにクリソツ(そっくり)だと離人症気味に思ってしまう。
ある意味では幸せな毎日なのかもしれない。
いつだったか勤めていた会社で上から人権標語を応募してはどうかと言われた。
社会的弱者といわれる女性や障害者を、
過剰にたたえる(偽善的な)標語(道徳短文)をつくるのもおもしろいのではないかと。
採用されたら粗品が出るらしい。
期限は1週間以内と言われた気もするが、
仕事大好き会社人間であるアルバイトのわたしは即刻即日その晩、
人権標語をふたつも上司に提出した。
酔っぱらって思いついたふざけたものである。
「パワハラは絶対禁止とパワハラ上司」
「セクハラはらはら初恋でした」

こんなサラリーマン川柳のようなものを酔った勢いでつくってしまい、
翌日はとても気恥ずかしかったものである。
「パワハラは絶対禁止とパワハラ上司」
自画自賛がすぎるのだろうけれど、
会社組織の矛盾はすべてこの標語に象徴されているような気がする。
「セクハラはらはら初恋でした」
セクハラなんてさ(ほかのハラスメントもおなじだが)、
すべて自称被害者の自己申告にすぎないと言えなくもないだろう。
世間的には恋愛は好ましいものとされているが、
そういう純なる善なる美なる恋愛精神からなされる行為もセクハラなのか。
ぶっちゃけ、メール送信1通でさえセクハラ認定されかねない。
もてない中年男がちょっときれいな子の仕事を、
当人によかれと思って手伝ったらセクハラ指定されてしまうこともありうる。

パワハラをする人っておもしろいよねえ。
どうしておまえはそんなにエス(SMのエス)なのかってスゲエと思う。
どれだけパワハラされたら、そんなに下にパワハラをできるのかって話。
人間ってやられたことはやりかえすよねえ。
後輩をいじめる先輩は、
かならずと言っていいほどかつて先輩から理不尽なしごきを受けている。
教授からいじめられた講師はほとんど絶対、
教授になったらそれが権利だといわんばかりに目下のものをこれでもかといじめぬく。
で、講師に「私の指導教授は人格者でした」と言わせたがる。
パワハラがうまい人は本当にうまくてこちらが舌を巻くほどである。
男ってみんなパワハラやセクハラをしたくて偉くなりたがるんでしょ?
――そんなことを、ある女性が言っていた。
世界は言葉でできているから、
言葉についてあれこれ考えることが世界理解と近しい行為になる。
たとえば「男にする」「女になる」という日本語がある。
「あの人を男にしてあげたい」「妙子は19歳のとき女になった」
こんな具合で使われる言葉だ。
「男になる」「女にする」という言葉の使われかたはめったにしないのではないか。
男は周囲から男にしてもらうものであり、
女は男から女にされるのではなく、
どういうわけか「女になる」ものなのかもしれない。
わたしは生まれ変わったら意地の悪い美しい女になりたい。
女で、女でこう思っているものはいるのだろうか?
女で、生まれ変わったら醜くてもいいから社長(男)になって威張りたい、
とか妄想しているご婦人――。
いまの日本は男であることがとにかく辛いような気がする。
ああ、女になりたいが男は「女になる」ことができない。
ならば、男になるしかないのだが、男は女が「女になる」ようにはいかず、
周囲の人たちの協力を得て、
こいつを「男にする」ぞと持ち上げられてはじめて男になることができるのだから、
協調性の乏しい当方にはかなりの難業と思われる。
たまたま行きがかり上、世間話をした中国人旅行者からこういうことを言われる。
「私、日本好きよ。沖縄にも北海道にも行った」
さも日本を知っているといったような顔で、実際そうかもしれないとさえ思った。
わたしは沖縄にも北海道にも四国にも行ったことがない。
小声でつぶやくと行きたいとも思わない。
出張とか他人の金で行くならいいが、自費ではちょっと……。
東京名物スカイツリーにも興味がないし、築地には一度しか行ったことがない。
築地はなにもかもが高く、いかにもな観光地でうんざりした。
こういうことってあるよねえ。
29歳のときビザぎりぎりの89日かけてインド全土を暇にまかせて旅した。
デリーから入って南のカンニャクマリから北のゴームク、
および仏教観光地のほとんどは足を運んだような気がする。
日本滞在のインド人だってカルカッタ(コルカタ)以外知らない人もいるのにさ。
けれど、わたしはインド人よりもインドのことを知っているとはさらさら思えない。
社会主義国ベトナムもむかし若いころ1ヶ月ビザを取って、
カンボジア(南)から入って中国(北)へ抜けた。
ベトナムにかぎっては、
偏向教育を受けているハノイ出身のベトナム人青年よりは
ベトナムに詳しいのではないかというおごりめいたものを持っていた時期があった。
ハノイから出たことのないベトナム人の若い男子女子とわたくし。
はたしてかの国を知っているのはどちらかと。
先日もう飲むことはないだろうと思っていたキングフィッシャー(インドの有名ビール)を
11年ぶりに口にした。うふっ、青春の味がしたなあ。
キングフィッシャーなんかインドを知らない日本人が飲んでもまずいだけだろう。
「想い出補正」が味を変える。
ビアホイもビアラオも青島麦酒も浴びるほど飲んだ。いい青春でした……と思いたい。
わたしの青春は終わった。もうとてもインド個人旅行をできる年齢ではない。
いま日本にいる若い外国人が将来懐かしく思い返すビールはなにか?
あんがい「ジョッキ生」だったりするのかもしれない。
バカな味がする若者向けの酒だ。若い人、がんばれ!(←いいかげんなまとめ)