日本最高第一の観光スポットは京都でも沖縄でも北海道でもなく築地だと思う。
日本というのは、築地(つきじ)市場に尽きるのではないか。
なまのさかながうまいということを発見したのが日本人だ。
築地市場の移転なんか現実問題としてありえないと思っていた。
そんなことをしたら、すべてがつぶれてしまうのだろう。
やれないだろうが、やれるのか、やれるのか、またぐなよ、おいこらええ。
そして今日、築地市場移転延期。まさか国家組織がそのドタキャンをやれるとは。
今日の結果でくびをつった人や海や川へ飛び込んだ人も少なくないのではないか。
それをやっちゃいけないし、それをやられたらたまんないなあ。
しかし、延期は正式決定。都民2、3割の投票行動で(投票率&当選率)。
最初からこの結果をわかっていた人はさぞニヤニヤしたことだろう。
わたしは日本の築地市場は築地にそのままで(コネコネねちねち)
存在しているのが最良だと思います。
昨日は今年はじめてさんまの刺身をスーパー半額品で買いました。
さんまの刺身なんてさんま一匹を買ってきて三枚おろしできる腕があれば高すぎる。
技術料の絶対性をいちばん感じるのがさんまの刺身だと思う。
さんまを一匹買ってきて刺身におろせる人は偉いなあ。
さんまの塩焼きだって、じつのところ家では難しい。
ぶっちゃけ、ひとり暮らしのわたしはそんなめんどうくさいことをできない。
なまのさかなで知られる築地市場の移転延期。
ここだけの話、現場ではみんな知っていたような気がする。
だって、億単位どころか千億レベルの金が動いているはずなのだから。
築地のみなさんは今日までみなさんニヤニヤしていて、
さっき喝采(かっさい)をあげたのではないかしら。
好物はサーモン、うに、あんきも、しらこ、さんまの刺身。
夏が終わり、豊饒(ほうじょう)の秋が始まる。いちばん好きなのが秋であります。
父とわたしの関係を現段階で整理すれば「好きにすれば」ではないかと思う。
あの年代の男性はみなそうでしょうが仕事人間。
むかしから逢ってもわたしの年齢を正確に言い当てられるときのほうが少なかったし、
それよりも仕事、仕事、仕事。
言い換えたら「好きにすれば」で育てられたのが当方なのだが、それがこの結果だ。
おかげもあり好きなことをかなり好きほうだいやったなあ。
いま父があたまをやって(倒れて)見ようによっては少しおかしいとも言えなくはないが、
わたしが彼に申し上げることがあるとすれば「好きにすれば」。
いままでどおりお好きなようにやってください。
どうせなんか言っても(わたし同様に=似たもの親子だなあ)
聞く耳を持たないだろうし。
一般に「好きにすれば」は絶縁のことばになるのではないか。
そうでもないような気もするんだけれど、うーん。
もしこのブログに主張のようなものがあるとすれば、みなさん「好きにやれば」。
わたしはあなたを否定も批判もしないし、もっとお好きなようにおやりになってください。
性犯罪とかふつうの人はやろうと思ってもできないから、
できる人はある意味で才能があるとも言えましょう。
性犯罪をできる人を仰ぎ見るようなところがある――なんて書いたら不謹慎かしら。
しかし、「好きにすれば」と言われると人はさみしくなる。
だから、あれこれ言いたくなる、がみがみ口うるさくなる。
相手のために、自分のために。
「好きにすれば」はパンダ語にしたらスーパーフリー。スーパーフリーは超絶孤独の意。
やたら疲れていて本当は外に出たくないのだが、
痛み止めがもうないのでひと駅ばかり離れた整形外科へおもむく。
ここ2週間ほどまた肋骨が痛み始めたのでレントゲン結果も知りたかった。
かつて2時間以上も待ったことのある繁盛医院が今日は天気のためかガラガラ。
すぐにレントゲン撮影に呼ばれ、院長先生の診察を受ける。
男性50代半ばか。
レントゲン結果はだんだん骨がくっつき始めているとのこと。よくなっている。
え? まだ骨はくっついていないのかと内心ひるむ。
また肋骨の痛みがぶり返してきたことを伝えると、
レントゲン的にはよくなっていると再度繰り返される。

わたし「そういうことはあるんですか?」
院長先生「ある」
わたし「レントゲンで見てもよくなっているのに?」
院長先生「週2、3回リハビリ(電気治療?)に来てください」
わたし「時間的余裕がないので無理です」
院長先生「いつまでもよくならないよ」
わたし「ほかにもいまたくさん病院に行っているので余裕が(ない)」
院長先生「うちだって病院だよ」
わたし「……」
院長先生「選ぶのは土屋さん。
リハビリに来て病気(怪我では?)を自分で治していくか、
いつまでも痛み止めでごまかして様子を見るか」
わたし「……(脳内で損得計算ING)」
院長先生「そんな仕事で肋骨を使っているといつまで経っても(治らないよ)」
わたし「……(先生が労働開始OKと言ったのでは?)」
院長先生「どっちを選ぶ?」
わたし「痛み止めでもうしばらく様子を見ようかと」
院長先生「そう。痛み止めは弱くするからね」
わたし「え? おなじのにしてください。
(だって痛み止めを服用していても痛いときがあるのですから)」
院長先生「2週間ぶんでいいね」
わたし「3週間ぶんください(前回も3週間ぶんくれたじゃないですか!)」

院長先生「好きなようにしろよ!(怒鳴る)」

わたし「(恐れをなして)では、2週間でいいです」
院長先生「こっちだって困るんだよ。
いつまでも痛いって言ってきて、そのくせこっちの言うことはまったく聞かない。
こっちにはこっちのやり方があるんだ。うちの責任問題になる。
2週間ごとに経過を見るのがうちの方針なんだ」
わたし「……(怒鳴ることはないじゃないですか)」
院長先生「お大事に」

会計で処方せんを見ると、1週間ぶんしか痛み止めが記載されていない。
わざと? いやがらせ? たまたまの偶然?
事務員に「先生は2週間ぶんくれるって言っていましたよ」と指摘する。
「先生に確認してみます」
約束どおり2週間ぶんの痛み止めをくれる。
「次回の診察は2週間後に」
「あれだけ大声で怒鳴られたら、もう来れませんよ」

医者から大声で怒鳴られたのははじめてだが、
むかしの医者はそういう存在だったのかもしれない。
そういえば2、3年まえべつの近所の整形外科でも叱られたことがあった。
あの先生は痛み止めさえ出してくれなかったから、
まだ院長先生のほうがましなのかも。
いまちょっぴり反省モードなので自分が「正しい」と主張したいわけではない。
あんがい整形外科の院長先生のほうが「正しい」のかもしれない。
世間的な評価形態では、医師の診察のほうがほぼ絶対的に「正しい」のだろう。
あの整形外科医院は人件費をたくさん使っているから、
今日は閑古鳥で院長先生のご機嫌が悪かったという特別な事情もあるのだろう。
7、8年まえのわたしだったら病院名を書いていたかもしれないが、
いまはあの医院の従業員さんたちの生活雇用のことを考えてしまい、
とてでもそんな独善的かつ暴力的なことはできない。
あの院長先生も悪い人ではなく、肋骨骨折を発見してくれた恩人とも言える。
本来は3千円の診断書を二度も(無料の)手書きコピーで書いてくださった、
言うなれば現代の赤ひげ先生である。
こう書いているうちに自分が間違っているような気がしてきた。
でもさ、本当にリハビリに通う時間的な余裕がないんだ。
とりあえず対症療法をしてもらい、自然治癒を待つというのが当方の好むスタンス。
しかし、あの先生からあんなに大声で怒鳴られるとは思わなかった。
きっとひでえ患者なのだろう。

これからいったいどうしたらいいのか。
いちおう2週間ぶん痛み止めはゲットしたが、
時期的には直観的にはこのくらいで痛みもある程度のおさまりを見せそうだが。
また違う整形外科に行くとなると、
以前のレントゲン写真はないし、初診料(?)やらなにやらめんどうくさい。
そうそう、今日レントゲン写真を見せられながら、
「ほうら肋骨4本がおかしくなっている」と言われたような記憶がある。
最初は肋骨1本が折れているという話だったのだが。
レントゲンも一度やったあとになぜか再度撮り直しをされたし、
疑心暗鬼に「本当のこと」を疑うとそこは地獄の一丁目。
院長先生の「好きなようにしろよ!」は名言である。
受けたことはないが、
カウンセラーが不満ばかり口にするお客さんに言いたいことはこれだろう。

「好きなようにしろよ!」

相談とか言ったって、どうせあなたはこちらの言うことを聞かないんでしょ?
だったら、好きなようにして! 好きなようにしろよ!
「あなたの好きなようにしてほしい」と心のなかで願いながら、
最後までその禁断のひと言を口にしないのが、
ほんもののカウンセラーなのかもしれない。
今日はみなさまに価値ある名言を披露したい。
わたしの言葉ではなく繁盛医院の権威ある名医のお言葉である。いいか?

「好きなようにしろよ!」
また肋骨が痛く、へたをしたら再度骨折しているのではないかという不安をかかえている。
今日は休みだし、もう痛み止めも残り少ないので受診する予定がこの台風さ。
埼京線もとまっているらしいし、ひと駅離れたあの整形外科へ今日行くのは無理と判断。
立ちくらみやめまいがあり、さらにこの強風に大雨。すべりやすい道。
ふたたび転倒するようなことがあったら、
すでに舗装路の崩れた人生がさらにデコボコ道になってしまう。
痛み止めはかつておおむかし頭痛やらなにやらでもらったものをかき集めて、
当座をしのぐしかあるまい。
痛み止めがなくなっているのに痛いなんておかしいだろうと医者に思われるのかなあ。
仕事をしていて台風とかあったら、そうそう医者にはかかれないのだが。
肋骨はどうなっているのだろう。また折れていたら、いろいろな意味でどうしよう。
しかし、また折れていたとしても医者が「本当のこと」を言ってくれるのかどうか。
かつてもう肉体労働をしても肋骨は大丈夫と保証をしてくれたのがあの医者。
また肋骨が折れているというレントゲン結果が出ても意地でも認めたくないだろう。
こんなことを考えるのは、こちらが強度の人間不信だからでしょうか。

台風のなか近所の循環器科を受診。
先月の受診ではじめて異常(顔面神経麻痺)を指摘されたのだった。
「いますぐ総合病院の脳神経外科に救急枠で行ってください」と言われたもの。
「今日はこのあと人と逢う予定があるので明日行きます」
「それどころではありません。いますぐ行ってください」
いきおいに負けて「はい」と答えたけれど、
その日に逢わなかったらもう再会できないかもしれないと思っていた、
旧友であり恩人であり、とてもたいせつな人だったので医者の指示に逆らった。
いまでもあの日に逢わなかったら、もう一生逢うことはなかったのかもしれないと思う。
もちろん、翌日にはきちんと帝京大学病院に朝から行っている。
先ほど循環器科を受診すると、
あのときの顔を知っているナースさんから「よくなっていますよ」とお声をかけていただく。
わたしは人間不信だからリップサービスではないかと思うが、それでもありがたい。
ということは1ヶ月まえどんなひどい顔をして5、6年ぶりにあの人と再会したのだろう。
笑っちゃうね。いかにもおれって感じで、かの女も受けたことであろう。
「ツチヤさん、変わってないなあ」とかサイゼリヤで言われた記憶が。
むかしはだいぶバカをしたし、いまでもバカなのだろう。

ふたりでむかしだいぶバカをやったと思っていたが、それはわたしの感傷で、
むかしもいまもバカなのはわたしだけなのかもしれない。
「また逢いたい」なんていうバカのバカぶりにかの女は困惑したのではないか。
しかし、1ヶ月まえの今日、
医師の指示を無視して総合病院の脳神経外科に行かず、
旧友と再会したことはいまでも後悔していないし、
あの日がわがつまらぬ人生のハイライトだったとさえ思う。
結局、バカなんだよなあ。
バカのほうが高学歴のインテリよりも偉いという、
大してめずらしくもないありがちなゆがんだ価値観を持っている。
わたしのバカの定義は、
損得やプラスマイナスの常識的基準を知ったうえで、
あえて損やマイナス、けものみちを選ぶというようなことかもしれない。
本当におれはいまもバカかなあ。
損得勘定でいまの会社にしがみついているまっとうなところがある。
もうあこがれのバカではないのかもしれない。
しかし、あの子は言った。「ツチヤさんは変わってないなあ」
わが重度顔面神経麻痺のひでえ顔を見ながらである。
バカにされたくないと思う人がいる。
バカになりたいと願う人がいる。
バカといわれて怒る人と喜ぶ人がいる、このふしぎはなんとふしぎなことか。
東川口にある総合病院の脳神経外科を受診。
武蔵浦和で乗り換え、遠い遠い、まさに遠路はるばる。
最初に火曜日にかかった帝京の脳外科の医師が、土曜はここしかいないというので。
月曜の帝京大学病院にかかりたいと申し上げたら、月曜は専門医がいないというので。
いちばん最初に顔面神経麻痺を診てもらったのが、このお医者さん。
2週間ぶりの診察。少しよくなっているんじゃないかな、とのご診断。
帝京の顔面神経麻痺の権威から受診していただいたことを話す。
まあ、実際は帝京の耳鼻科からリハビリ科に、
たらい回しされただけという可能性もなくはないのだが。
おなじ帝京大学病院の顔面神経麻痺の権威といっても、脳外科の先生は知らない。
この脳外科の先生はふしぎな威厳がある。
神経内科の漢方医から、
外傷性ではなくふつうの顔面神経麻痺(ベル麻痺)の可能性もあること。
そのように言われたことを告げると、
かりにそうだとしてもおなじ治療法しかないとのお答え。
まったくそうなんだよなあ。
当方がネットでゲットした、外傷性(顔面神経麻痺)は事故直後ではなく、
数日後に麻痺が出たら予後は良好という希望的知識を披露したら「それはウソ」。
目を閉じたときに左目が完全に閉じていないらしい。
黒目は閉じているが、白目はまだひらいている(顔面神経麻痺の影響で)。
このため目が乾燥あるいは傷ついて、左目が見えにくいのではないかと。
これがいまのところいちばんわかりやすい左目が見えない理由ではないかしら。
めまいや立ちくらみが激しいことを告げる。
しかし、どうしようもないのは患者の当方もわかる。
外傷性顔面神経麻痺は(ベル麻痺とは異なり)レア(めずらしい)らしい。
神ならぬ医者には予後(今後)がどうなるかはわからない。
処方薬は以前とおなじメチコバール(まあ、有名なビタミン剤)。
1ヶ月後のMRIを予約して今日の診察は終了。

なーんか、あたまを打ってから世界存在感が希薄で困る。
立ちくらみやめまいって、言葉にすれば世界がくらくらしているっていうこと。
じつのところ骨折した肋骨の痛みもぶり返している。
痛み止めをのんでも痛いので困ってしまう。
次回、整形外科に行ったとき、レントゲンでまた骨が折れていたらどうしよう。
会社サイドは医者がOKを出すのなら労働OK。
で、医者が大丈夫と言っていたから職場復帰したのだが、
これでまた肋骨が折れていたら
プライドがかなり高そうな医者のご尊顔をつぶすし会社に迷惑をかけてしまう。
肋骨骨折くらいなんでもないという可能性もある。
いまホワイト企業で勤務しているからそんな心配をしてもらえるので、
通常なら肋骨骨折くらいつばをつけておけば治るが社会常識なのかもしれない。
このところバイトと病院の往復ばかり。
世界は本当にどこかに存在しているのか疑問が増してくる。
やっぱりおまえはそういうやつだとバカにされるだろうが、
いまオリンピックをやっているらしいがまったく興味がないこともございまして。
世界って存在しているのかなあ。おい、おまえ、いくつだ?
朝8時半まえに板橋区十条にある大学病院に到着。
顔面神経麻痺の権威と言われるリハビリ科の医師の診察を受けるため。
とても人気のあるカリスマ医師らしく、いつも予約はいっぱい。
わたしは同大学病院耳鼻科からの紹介ということで、
特別フリー枠で入れてもらえたのかもしれない。
その大学病院の診察は朝9時からだが、
カリスマ医師はいつも8時半には来ているらしい。
このため朝8時半に来ると早く受診できますよと前回受付で教えてもらった。
以下、冗談半分の記事ではなく、こちらの一生問題なので、
可能なかぎり客観的に本日の事実のみ記す。
こういう記録を残しておくことも、
いわば患者側のカルテとして重要かもしれないと思うからだ。

8時半まえに到着すると受付のおねえさんから医学雑誌のコピーを渡される。
いかにそのカリスマ医師が偉いかという記事のコピー。
内容は「リハビリは発症後すぐ」というもの。
リハビリの重要点も書かれている。
1.顔の表情を大きく動かさない。
2.顔を柔らかくもみほぐすようにマッサージしよう。
30分待ち診察室に呼ばれる。
わたしのまえに診察を受けたのは老人3人。3人とも顔面神経麻痺ではなかった。
ひとりの老人患者の診察はなぜかドアを開いて行なわれ、
内容を聞いているとカリスマ医師と信者の美しい光景がイメージされた。

わたしが診療室に入ると、なぜか居酒屋ののれんのようなカーテンがかかっていて、
それをくぐり抜けて顔面神経麻痺の権威であるリハビリ科の先生とご対面。
最初にいまの顔のビデオ(?)と写真を撮影される。
これは受付で渡された同意書にサインしている。
ネットでこういうことがあることを事前に調べて知っていたので驚かない。
その後、仕事で水曜日はなかなか休めないことを告げる。
すると本来なら次回するはずのことを今回やってくれることに。
「保険点数がつかなくなるかもしれないので、やらないほうがいいんだが」
「リアルな話っすねえ」
「本当のこと」を言う医者なのかと好感を持つ。

ベットに横になり、顔に針をさされ、口笛を吹くようにと指示される。
それから両目を強くつぶってみてください、とのこと。
針を刺されたのは2箇所。口の左と目の下。
本来ならこの検査の最中に聞くべきではなかったのかもしれないが、
不安なので検査中にいろいろ質問してしまい、医者の気分を害したのかもしれない。
今日1回かぎりの患者ということも医師の心証を悪くしたことだろう。
決して当方が優良な患者というわけではない。
わたしは外傷性顔面神経麻痺かふつうの顔面神経麻痺か聞くと、
外傷性顔面神経麻痺と断定される。
いま聞けばよかったと後悔しているが、
外傷性顔面神経麻痺の診断の根拠はいったいなんなのだろう。
左目が非常に見えにくいが、
そういう外傷性顔面神経麻痺はあるのか聞くと「ない」とのこと。
眼科で調べてもらったら目に異常はないけれども、目が見えないことを告げる。
いったいどういうことなんでしょう?
医師の答えは、目に異常がないならばそのうちよくなるだろう。
左耳が聞こえにくいのはどういうことなんでしょう?
それは耳鼻科で聞いてくれ、とのお答え。

顔に針を刺され、なにがなんだかわからない検査をされている。
せめて事前になんの検査をするのか説明してくれたらよかったのにと思う。
目の下に針を刺されたときは本当に怖かった。
あとでわかったが、これがほんもの(?)の筋電図検査とのこと。
わたしはこのリハビリ科を受診するまえにべつの筋電図検査も受けている。
カリスマ医師じきじきの顔に針を刺す筋電図検査の結果はかんばしくないらしい。
何度も何度もやり直しを命じられ、最後は熱血先生のように大声で応援される。
これを怖いと思う患者もいれば、頼りになる医師だと思う患者もいるだろう。
結果はなんとかギリギリOKが出たようで、「治る」とのひと言。
しかし、ここから先がわからない。
リハビリの仕方を教えてもらったのだが、
「ああ~」「いい~」「うう~」と発声し、口を大きく動かす訓練をするといいらしい。
それから両目を強くつむる。もっといいのは、
いまはできない左目のウインクをする訓練をすること。
受付で渡されたコピーでは、
リハビリで顔を大きく動かしてはいけない、と先生は指示しているが、
この矛盾はいったいどういうことだろう。

リハビリを一生懸命したら早く後遺症が出ると言われる。
リハビリをしないといまのままだととも。
後遺症とはどういうことかと尋ねると、「ひょっとこ顔」になるという。
「ひょっとこ」ってどういう意味ですか? と聞くがよくわからない。
リハビリをしたら後遺症が出るなら、しないほうがいいような気もするが。
その旨の質問をすると、こちらの聞き方が悪いのだろう。
納得するお答えをいただけない。
いまでもわからない。
「リハビリをすると早く後遺症が出て「ひょっとこ顔」になる」とはどういうことだろう。
その後に治るのかと聞くと、そういうものでもないらしい。わけがわからない。

その後、ベッドから起き上がり、ふたたび顔を突き合わせての問答。
このときひどい立ちくらみ、めまいがする。
あたまを打ってから立ちくらみ、めまいはひんぱんにしているが、
ここまでひどいのははじめて。
そのことを伝えると、
三半規管がおかしくなっているのだから、そういうことは十分ありうるとのこと。
なにがなんだかわからない。
このまえ受けた今日とは違う筋電図検査の結果もまだ教えてもらっていない。
前回の筋電図検査の結果は「回復不能」とのこと。
「手術はしたほうがいいんでしょうか?」
この質問がカリスマ医師のご気分を害した模様。
聞き方が悪かったのかもしれない。
「さっき言ったでしょう。手術は必要ないんだ」
どうやらさっき顔に針を刺した検査の結果が、手術不要のようだ。
自分が手術するかどうかを決める権限があるんだという、
権力者ぶったことを言われうんざりするが、
大学病院の権威はそもそもこんなものかもしれなく、
なにかを期待しているわたしのほうがおかしいのかもしれない。

結論は「耳鼻科に戻す」。
事前に受付でカリスマ医者がいかに偉いかのコピーを渡され、
内容は「リハビリでは顔を大きく動かすな」。
診察で言われたのは「顔を大きく動かすのがリハビリだ」――。
「リハビリをすると早く後遺症が出て「ひょっとこ顔に」なる」
本当にわけがわからないので困ってしまう。
この後にリハビリルームでリハビリのやり方を専門職の女性に教えてもらう。
まず以上の疑問点を質問すると、リハビリの女性も困った顔を見せる。
こういうことを書いたら、あの女性のご迷惑になるのかもしれないが、
わけがわからなかったことを記録しておく。
リハビリ技師(?)はそもそもできないウインクをしたり、
両目を強くつむるのは意味がないというご意見。
顔面マッサージはどの顔面神経麻痺にも効果があるリハビリとのこと。
顔を大きく動かすリハビリは、
毎朝「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ……」
と50音大きく発声すればいいのではないか。
どうして医師とリハビリ専門職の言うことが違うのだろう。
わたしはカリスマ医師よりもこの女性のほうに好感を持ったので、
権威的には下のこのリハビリさんの指示に従いたい。

みなさまにはつまらないでしょうが、顔のマッサージの仕方を忘れないよう記しておく。
顔のマッサージの基本は指でグリグリまわすように。
いちおう順番としては額(ひたい)から、
額の下をグリグリ。それから額の上をグリグリ指をまわすようにする。
そのつぎは目の周辺。注意するのは決して眼球を押さないこと。
グリグリ、グリグリ。
鼻のマッサージはグリグリまわすのではなく、縦々横々(たてたてよこよこ)。
つぎは頬(ほお)のマッサージ、これはグリグリでよく、まわすようにグリグリ。
こめかみのほうのグリグリも忘れないこと。
口周辺のマッサージは、口の筋肉のつき方を考え、外に引っ張るようにやる。
基本はグリグリまわすようにだから、忘れたらすべてグリグリでもよい。
マッサージはすればするほどよく、仕事中でも手が空いたときはしたほうがいい。
つぎは手袋をつけかえ、口のなかのマッサージ。
いくら仕事とはいえ、おれみたいなおっさんの口のなかに手を入れるなんていやだろう。
申し訳なく思う。口のなかのマッサージは基本、上から下。
まわすようにマッサージしてもよい。
以上でマッサージ教習は終了。
なにやらこの大学病院の顔面神経麻痺リハビリ教習は1回だけとのことで(?)、
そのことに同意する書類にサインをして終わり。
ぼくは純情だから人の役に立つ仕事はすばらしいと素直に感動して、
女性にそのことを伝えると、いえいえと恐縮される。
このリハビリ教習のとき、鏡で自分の顔を見せられたが、
自分の顔面神経麻痺のひどさをはじめて実感する。
大きく口を開いて発声すると、口の曲がり方が異常だ。
リハビリは鏡を見ながらするのがふつうだが、
そこまで自分の顔を見るのが嫌いなら、鏡を見ないでやってもいいとのこと。

顔面神経麻痺は耳鼻科でやるのが通常とのこと。
この大学病院に来ることができないなら、
近所の(顔面神経麻痺をあつかっている)耳鼻科でもいい。
あれ? 脳神経外科や脳神経内科は? と質問すると、そこでも診てもらえるとのこと。
わたしがいま定期的に受診している漢方クリニックの専門が神経内科なんだよなあ。
その医師は外傷性顔面神経麻痺ではなく、
ふつうの顔面神経麻痺(ベル麻痺)の可能性も考えてはどうかと言っていた。
今日の1回だけの顔面神経麻痺の権威の診察によると、当方は外傷性顔面神経麻痺。
いちばん最初に診察してもらい、
今後の受診予定もある脳神経外科医の診断もたぶん外傷性顔面神経麻痺。
この医師に自分がやれることはなにかありますか? 
と聞いたら、なにもないとのお答え。とくにリハビリをやれとも言われなかった。
いちばん説明のわかりやすかった漢方医(神経内科)はリハビリ推進派だった。
内科と外科の違いなのだろう。耳鼻科と眼科も、リハビリ科もみんな違う。

いったいこれからどうしたらいいのだろう。
どの医師の言うことを信じて、どう治療していけばいいのか。
どう治療しても「治らない」という可能性を示唆する医師もいて、
それが「本当のこと」ならどうしようもないのだろう。
顔面神経麻痺の権威がいるなら、最初の受診でそちらにまわすべきとも思うが、
はじめて行ったのが脳神経外科なら、そういうわけにはいかないのかもしれない。
本来はこの大学病院を受診するのは月曜日だったのである。
それがまさか再会はないと思っていた旧友・恩人が風邪を引き、
逢うのが月曜になり、受診が火曜日になってしまった。
もし月曜日に受診していたら、
今年脳内出血で倒れた父をいまも診ている医師(脳神経内科)
とおなじ先生にかかっていたのかもしれない。

いったいこれからどうなるんだろう。どうしたらいいのだろう。
リハビリってさ、あれは宗教みたいなものだと思う。
リハビリをやってよかったというエビデンス(症例報告)があったとしても、
その人がリハビリをやっていなかったときの結果がわからないわけだから。
リハビリをやらなくてもおなじ良好な予後(経過)だったかもしれず、
それを自分のリハビリ(努力)の成果と勘違いしている可能性もないとは言えないだろう。
今日の顔面神経麻痺の権威医師(リハビリ科)のお言葉で、
いちばん笑えたのは「だいぶマッサージをやりましたねえ。よくなっている」――。
わたしは顔面マッサージをいままで一度もしていないのだが。
それはおなじ大学病院の脳神経外科医師が
「いまやれることはない」と言っていたことを素直に信じたためだ。
それにわたしの感覚では顔面神経麻痺はよくなっているどころか、
時間経過とともに悪くなっているような思いもある。

とにもかくにも醜い顔がさらに醜くなってしまった。
今日、顔面神経麻痺のカリスマの診察を受けて、
さらになにがなんだかわからなくなり混乱が増した。
どの医師も悪くないと思う。どの医療者も「正しい」のだろう。
みなさん、こんなわたしのためによくしてくださっている。
しかし、言うことはバラバラ。
宗教にでも入ってなにかただひとつの「正しい」ことを信じたい。
わたしのいちばん好きな仏僧、踊り念仏の一遍によるならば――。
この顔面神経麻痺になったのは前世の宿業(宿命)。
これからどうなるかは自然(天)に任せるしかない。
この苦しみも死ねば終わるのだから、極楽往生(成仏=死)を願おう。
「早く死にたい」とか書いちゃうと不穏だけれど、
これは歴史教科書にも載っている有名な
一遍上人の言葉である(「とく死なんこそ本意なれ」)。
新興宗教に入りたいと書いたら、
コメント欄で新興のものではなく既存のものに入れと怒られちゃった。
どうしてみんな自分の意見は「正しい」と信じることができるのだろう。
もちろん、わたしも人一倍そういうところがあるのかもしれないけれど。
「正しいことはない」ことを「正しい」と盲目的に狂信しているようなところがある。
それにしてもひでえ顔だ。ろくでもない顔がさらに人目に出せないものに相成った。

※誤字脱字失礼。混乱中の自己用カルテなのでご容赦ください。
某大学病院の顔面神経麻痺の権威の先生に診察していただき帰宅する。
いままでさんざんおまえはよくないと多方面で批判されてきたが、
ついにそのバチが当たったという感じ。
いまは混乱しているので詳細はまたあとで書くが今日は地獄であった。
詳細は(だれもご興味ないでしょうが)私的記録用として別途に書くが、
顔面神経麻痺の権威のおっしゃっていることがまったくわからなかった。
何度も聞き返したら、「それはまえに言ったでしょう」と怒鳴られるしまつ。
医者から叱られたのは初めてですが、わたしが悪いのかもしれない。
医師の言葉によると、そうとう重度の顔面神経麻痺らしい。
いままで大病も大怪我もしたことがなかったが、そういうのがついに来たか。
いまは混乱しているので言葉にできないが、いまもいまかなり苦しい。
ずっと鏡を見ないで通してきたが、
リハビリ科でリハビリの仕方を教えてもらうときついに鏡を見る。
自分から見てもわたしの顔面神経麻痺は話すと口が曲がり、これはひどい。

先日旧友(女性)と再会したとき、この恥ずかしい顔を見られたのか。
いままでこんなひどい顔で他人と接してきたかと思うとゾッとする。
またまたパーセンテージ(確率)の低いアクシデントである。
こういう宿命を持って生まれたのだろうか。
いまめまいがあるのでふらふらしながらリハビリ室を出たとき、ばったり父と対面する。
父がおなじ大学病院に通っていたことは知っていたが、こんな偶然があるんだなあ。
わが人生のケチのつきはじめは、
大学卒業直後に母が目のまえで飛び降り自殺をしてくださったこと。
その母を結婚相手に選びはらませてくださったのがお父さまである。
父は脳内出血からいちおう復帰して大勝利顔。
今日のガン検診結果でも異常はなかったからだろう。
わたしは今日の権威先生によるお言葉が意味不明で、
そのうえ予後に希望があるようなことを言ってもらえず、絶望テイスト。

父に問う。
「おれもう新興宗教に入ろうかと」
「いいんじゃないかな」
「家族(妻子)もいないし、ほしいものもないし、人の役に立ちたいとも思わないし、
これからどうしたらいいんだろう……」
「それは自分で決めるしかないだろう」
さんざんな想い出ぶかい今日のことはまた書きます。
どうして医者はそれぞれ言うことが違うのだろうかと思うが、
人間はそんなものなのでしょう。わが重度顔面神経麻痺はどうなるのか。
今日の権威先生のご診断によると、
後遺症が出てもっとひどい「ひょっとこ顔」になるらしい。
希望はないというご診断を権威先生からありがたくもいただきました。
2ヶ月に1度くらい通院している某大学病院の漢方クリニックへ。
もしかしたらこの顔面神経麻痺(まひ)も漢方でならなんとかなるのではないか。
ぶっちゃけ、べつの某大学病院では
「たらい回し」(工場長のご指摘)されているような気もするわけ。
顔面麻痺、難聴、左目が見えないで、それぞれの科を受診して今度はリハビリ科。
わたしの好きな漢方医は内科医でもあるからか、
ああ、そういうこともあるのかとお話をうかがいたいへん勉強になった。
わたしの顔面神経麻痺はあたまを打ったのと関係なく、
たまたまその同時期に発症したふつうの顔面神経麻痺(ベル麻痺)ではないか。
工場長からアドバイスされたようにネットで調べたら、
顔面神経麻痺といえばふつうはベル麻痺と呼ばれるもので
(罹患率はそうとう低いぞお!)、
外傷性顔面神経麻痺はさらにレアケースとされている。
わたしはてっきり外傷性顔面神経麻痺かと思っていたが、
もしかしたら偶然ベル麻痺がシンクロ的に同時発生したという可能性もあろう。

たしかにわたしの症状はベル麻痺(よく知られた顔面神経麻痺)とも近似している。
左の口から水がこぼれるし、笑えないし、
かなりうまいと自信があった口笛も吹けなくなった。
しかし、ベル麻痺では難聴ではなく、
反対にささいな音が騒音に聞こえるという過敏反応のような症状が出ることが多いらしい。
わたしはその反対で左耳がかなり聞こえづらくなっている。
左目が非常に見えにくいが、これもまたベル麻痺にはない症状である。
こういう患者が現われたら板橋区の大学病院であるあそこの
脳神経外科、耳鼻科、眼科が困ったのもよくわかる。
たぶん前例がほとんどないケースなのではないか。
前例がない場合、エビデンス(過去の症例)を尊重して治療する西洋医学は困ってしまう。
いつ顔面神経麻痺が発生したかという問題に希望をいだく。
外傷性顔面神経麻痺の場合、直後に麻痺が出た場合、
予後(あとの経過)がよくないらしい。
しかし、あたまを打って3~7日後に麻痺が出た場合、自然治癒することが多い。
わたしは顔面神経麻痺を意識したのは、あたまを打ってからかなりあとである。
もしベル麻痺ではなく外傷性顔面神経麻痺で、
このパターンだとしたら自然によくなるのか。

だが、左目が見えないというのはどういうことによるのだろう?
眼科的には視野検査までしたが、異常はないというのである。
にもかかわらず左目は非常に見えにくく、階段を下りるときがいちばん怖い。
その眼科は……(NG)……というようなことを漢方医からもほかの人からも言われた。
たしかにたくさんの医師の診察を受けたがいちばん生意気で偉そうな小僧であったが、
相性が合わない患者を診察しなければならないストレスを考えると彼を憎めない。
眼科医はとりあえずベル麻痺の教科書的なマニュアルに基づき、
こちらはまばたきは自由にできるのだが、目薬を大量に処方された。
「これは教授に診てもらわないと」と若き眼科医はおっしゃっていた。
べつにわたしは目がよくなれば町医者でも新米医師でも格は問わないのだが。
あさってはまた会社を休ませていただき(勝手を言って申し訳ありません)、
某大学病院の顔面神経麻痺の権威であられる先生に診察していただく。

もう書いちゃおう。いま顔面神経麻痺、視神経障害で通院しているのは帝京大学病院。
漢方クリニックを受診しているのは慶應大学病院。
ネットで調べたら慶應大学病院には顔面神経麻痺の専門チームがあるらしい。
近所だからという理由で帝京を選んだのは正解だったのか。
初診時のCTとかとてもたいせつだから、いまさら病院をかえるのはお得ではない。
そして、わたしは帝京大学と慶應大学のどちらが好きかと言われたら……。
慶應大学文学部に落とされた過去を持つ当方は、
慶應よりもラグビーレイプで有名なスパーフリーな帝京大学のほうが(以下略)。
いえいえ、慶應大学病院は大好きなんですよ。
今日の漢方医(内科医)のご説明ほどわかりやすいものはなく、さすがと思ったもの。
帝京大学病院は底辺地区のため患者も低知能と思っているのか、
どうせ説明してもわからないだろうと(外来は時間もないし、それは当然だが)
説明を省くところがないとは言えない。
当面、慶應大学病院漢方クリニックでは顔面神経麻痺にできることはないと、
前回とおなじ投薬であった。
かえって「なにもしない」ほうがいいことを知っているこの医師とは
勝手に相性がいいと信じている。

鏡を見るのが大嫌いなわたしは自分の顔面神経麻痺の状態を知らないが
(それがいいのか悪いのかはわからない)、
この日の医師の言葉、顔つき(同情視線)からすると、
わが顔面神経麻痺はそうとうにひどい症状のようだ。
シナセン友人にいますげえ顔面麻痺で変な顔らしいからおもしろいぞ、逢わない?
とメールしたら忙しいらしくまたお断りであった。
いま鏡を見たら死にたくなるような、他人からあわれまれるような顔をしているのかも。
しかし、わたしは自分の顔を見ない。これから先、どうなるのだろう。
だれが言ってもあまり周囲に信じてもらえなそうな言葉は、
「わたしは幸福である」ではないかと思う。
そんなことを言っても、いくら幸福を装っていても、
本当はそうではないという、どうやら真理くさいことにわれわれの鼻は気づいている。
ならば、こう言ったらどうだろうか。いまわたしは不幸ではない。
金額を書いたら笑われそうだが、もっと下の世界もあることを肌で知っているため、
わたしはいまの職場に入ることができ(いろいろ悩みはあるが)
恵まれていると思っている。
クソ暑い職場だが、そのぶん仕事後にのむビールもどきもうまく、
終了数時間まえになるとあの液体のことしか考えていない。
職場の同僚にも恵まれているといってよく、
もっと意地悪な人がたくさんいる仕事はいくらだってあると思う。
けがをして休んでクビになってもおかしくないのに、
先日半年ごとの契約を更新してもらえた。
ということは、今年は食べていけるし、安いものなら酒ものめるし、
仕事がない人やふたつもみっつも仕事をしている人のことを考えると、
当方が不幸なんてとんでもない話だ。
さいわいなことにこころを打ち明けられる友人もいる。
顔面神経麻痺だが最貧国の国民ではないので、最先端の医療を受けることができる。
あんがいなにも医療的外圧行為をしないほうが治るのかもしれないが、
医者にもかかれない国の人のことを考えると日本に生まれてよかった。
いま人生に不満なんてあるのだろうか。
けっこう好きなことをやって生きてきたのに、
まだまあなんとかなっていると言えなくもない。
社会的な評価とは縁がなかったが、おかげでそういう欲望も薄まったような気がする。
好きな本をおなかいっぱい好きなだけ読むことができた。
そのくせいま仕事があり食べ(ら)れて安酒ならのめて医療サービスを受けられる。
孤独でさみしくてひとりぼっちだが、言い換えたらわずらわしい人間関係がない。
豊かな人間関係の想い出はあり、このまえは再会を果たした。
苦しみ抜いた肉親の不幸の記憶は年々薄まって、
人生そんなものという諦観に達しつつある。
いまほしいものはないが、これはすべてを持っているということなのかもしれない。
うん、わたしは不幸ではないな、うんうん、うんうんうん。
だれも信じてくれないでしょうが、不幸ではない。
偉大な仏教革命団体、創価学会では仏法は現証に現われると教えている。
信じている仏法が正しいか間違えているは現証(現在の証拠)として目に見える。
まことに真実というほかない威厳なる真理の教説ではないか。
創価学会に対して批判めいたことを書いた過去のあるわたしはどうなっているか?
重度の顔面神経麻痺。
左耳が聞こえないどころか、左目も見えず大好きだった本まで読めないという仏罰。
生活も裕福とはいえず一流とは縁もなく、これもまた謗法の罪であろう。
いっぽうでわたしが毛嫌いしていたほうはどうか?
たとえばシナリオ・センターはいまでも大繁盛していて、
経営者一族はみなの尊敬を集めていると聞く。
わたしが批判したものはみなみな大勝利。当方のみ大敗北の絶望孤独、落ちぶれ人生。
だれにも相手にされず、さみしい孤独な人生を安酒をのみながらさらにこじらせている。
ほうら、現証が出ているではないか!
創価学会は正しい。法華経は正しい。シナリオ・センターは正しい。
わたしを否定批判してくる指導者たちは全員完全無敵の、
大勝利的な正しさを持っていたのである。
「本の山」に書かれていることは誤謬(ごびゅう/間違い)であることは、
しっかりと現証に出ている。いまの苦しみは仏罰だからひたすら苦しみあえごう。
むかしは権力に屈するものかと思っていたけれど、いまは既存権力には逆らうな。
これは老若男女が知る常識でしょうが、既存権力はもう固まっていて、
彼(女)たちは絶対的に偉いんだから逆らうなんてとんでもないこと。
有名権力組織、シナリオ・センターさまを批判したのは若気の至りでばかげていたと思う。
偉い人は偉い。偉いことになっている人は偉い。偉い親の子は偉い。
善悪とはおそらく損得関係のことなのだから、権力に逆らうなんて非常識にもほどがある。
いまでは反権力をうたうマスコミがそもそも権力団体なのだから。
それも逆らったら村八分にされるいちばん怖い権力団体。
むかしシナリオ・センターの社長先生から何度も大声で怒鳴られたが、
あの人はほんものの教育者であり権力者だったのだろう。
いまでもシナセン記事のアクセス数は多く、批判コメントさえ来るが、
既存権力のシナセンこそ正義でわたしが間違っていたと思う。
それもいまではどうでもいいこと。
いまはもう映画にもテレビドラマにも小説にも関心を失っている。
「終わっちゃった」という形容がふさしいだろう。わたしが終わっちゃった。
いまでは権力に屈しまくっている。
創価学会板橋区のお偉いさんを自称する指導者先生の鍵コメントを拝読して、
ブログ記事をいくつも削除した。
わたしもようやく40歳になり権力者の偉さと怖さを知りました。
若い人に言いたいのは既存権力には逆らうな。先生の言うことには従え。
成功者の勝利体験報告より失敗者のざんげのほうが真実味があるのではないかと思う。
いいか、わこうどよ、既存権力、お偉いさんの言うことにはハイハイだ。
お偉いさんにおもねるにはもう齢を取りすぎたが、人生はこういうものだから仕方がない。
つまらないさみしいひとりぼっちの人生でした。
宝くじで3億円当たったらなにをしたいかと質問したら、
その人の正体がわかるのかもしれない。
わたしは3億円をゲットしても、いまと変わらぬ生活を送るような気がする。
いまとおなじ職場でバイトをする。
仕事を辞めちゃうと朝から酒をのんでしまいそうで怖い。
本を読むっていってもいま左目が悪く、小さな活字は読めない。
仏典などをふくめて自分の読める分量は読んでしまったような気もする。
酒もべつにエビスではなく発泡酒以下の第3のビールでいい。
ぶっちゃけ、そんなに味は変わらないと思う。
一流ホテルや高級寿司屋をハシゴしたいとも思わない。
おおむかし一時期うちがバブルなときがあったようで、
父からそういうところに連れていかれたが、感想はこれしきのものかであった。
父の人生にバブルはあったが、氷河期世代の当方の人生はさみしいものだが、
人生はそんなものだし、それが人生というものだろう。
3億円当たってバブルになっても、ほしいものがないのだから、どうでもいい。
いい服を買いたいとも思わないし、ペーパーだから車もいらない。
いまの借り部屋でさえ当方にはぜいたくすぎるのに引っ越しなんかとんでもない。

海外旅行に行けるじゃないかと言われるかもしれないが、
集団行動が苦手なわたしはパックツアーに参加できない。
アラサーならともかく40歳にもなると海外一人旅はめんどうくさくて、
よほどのハプニング的なきっかけがないとする気にならない。
人にメシでもおごればいいじゃないかという意見もあろうが、
そもそも友人はほとんどいないし、経済的に貧窮しているお方とは縁がない。
40歳にもなれば金で買えないものがわかる。
3億円あれば小さな文学賞くらい買えるだろうけれど、
いまはもうそういう俗的名誉に興味がない。
3億円で人の役に立ちたいとも人から感謝されたいとも思わない。
好きな人にお金を上げるのもいいのだろうが、
そういう金銭関係はかならずトラブルを引き起こすことだろう。
貧困国に学校を建ててそれがどうなる?
3億円あったら安楽死コーディネーターに永眠させてもらえるならいいが、
それはいまの日本では違法行為だから不可能だろう。
3億円あってもいまとおなじ生活を送るだろうと思われるゆえんである。
ほしいものがある人っていいよなあ。
それが希望になって生きがいにもなるわけだから。
わたしは3億円が当たっても安酒をのむし、ぜいたく全般を嫌うだろう。
なにしろサイゼリヤが最高というくらいの貧乏舌。
そうかそうか、3億円あれば毎日サイゼリヤに通えるのか。
でも、サイゼリヤは近所にないし、毎日食べたらあきるでしょう?
高級車も高級時計も高級淫売にも関心がない。
お金を払ってもできない経験がしたくて生きているようなところがあるわたしに、
3億円はどんな意味を持つのだろう。
3億円はいらない。
なんのために生きるのかの答えは多様で人それぞれだろう。
「なぜなしに生きる」(河合隼雄)でもいいし「どうせ死んでしまう」(中島義道)でもいい。
もう中年になったいま思うのは、人生は想い出づくりではないかということ。
ちょっとまえ、まさかもう逢うことはないだろうと
思っていた旧友であり恩人でもある人とほんとうに久しぶりの再会を果たした。
むかしあんなこともあったね、こんなこともあったよと、
サイゼリヤで学生のように安ワインをのみながらバカ話をして大笑いした。
それから多摩川の土手で缶チューハイをのみながら、またふたりの想い出を語り合った。
「むかし荒川クルーズをしたよね」「クルーズってなんだよそれ、アハハ」
帰途、今晩も忘れられない想い出になるだろうと思った。
センチメンタルで恥ずかしいが、
生きていたらこんな夜もあるのかと感傷におぼれるようなところがあった。
生産性や効率を求めて懸命に励むのもいいだろうが、その時間は消えてしまう。
バカなこと、無駄なこと、アホな喧嘩のようなことがかえって想い出になる。
むかしふたりでバカをやったよなあ。
その夜は言い争うこともなく、ただむかしを懐かしみ、笑い、時間の経過を味わった。
わたしはいま未来(夢、希望)でも現在でもなく、過去(懐旧)に生きているのかもしれない。
70歳の老人でも将来の夢を語るいま、
こんなに老いてしまっていいのかどうかはわからない。
「神田川」はほんとうにいい歌だと思う。
名誉毀損で訴訟という話がちらちら耳に入ってくるが、
正しいことはだれが決めるのだろう。
それが生活上必要なのはわかるが、民事裁判は正しいことを裁判官に決めてもらう。
ならば、いったいどうして裁判官は正しいのだろう?
高学歴だから? 高収入だから? 国家資格保持者だから? インテリだから?
裁判官の判決が正しい理由は「正しいから正しい」という繰り返しではないか。
まあ、だれかが裁きをしなければならないのは生活上必要なのはわかるので、
恐れ多くも司法さまに対して物申したいわけでは断じてございません。
正しいことは高学歴エリートの裁判官が決めるのではなく、
自分が決めると考えたらどうだろう。
民事裁判だって結局和解に終わることも少なくないわけだし、
そんなことなら裁判なんかで弁護士を儲けさせるよりもさっさと和解したほうがいい。
いま弁護士が食えないってけっこう本当らしいぞ。
自分が正しいならば、相手も自分は正しいと思っている。
だとしたら、落としどころを見つける、着地点を探す、
折り合いをつけるしかないことになろう。
だが、人は平和や和解よりも闘争や勝負の高揚感を求めるものという考えもできよう。
食えない弁護士ほどうんざりする職業はないだろう。
履歴書の資格欄に司法試験合格とか書いてコンビニでバイトはできないわけだから。
リアルではなんて周囲の人が自分に対して親切で寛容で、
そしてみな明るく勤勉なんだろうと驚くことが多い。
しかし反対に、ネットではなんでみんなこんなくだらぬわたしに、
牙(きば)を向けてくるのだろうと批判コメントを何度も読んで苦々しく思う。
匿名の言いっぱなしの批判コメントは卑怯だと思うが、それが正しいのかはわからない。
わかるのは批判コメントは脳全体、身体全体にこちらを落ち込ませるということ。
こっちは批判するくらいなら読まなきゃいいじゃんと思う。
あっちはそんなくだらないことを書くなと思っているのだろう。
おそらく正しいのは後者であろう。
リアルで人に接するたびにその誠実さや相手思いであることにびっくりする。
ただたんに世間知らずで、人のおもての顔しか知らないだけという可能性もあるけれど。
だとしたら、ネットではこちらを悪罵する人たちがリアルでは善良で親切なのかもしれない。
あたまを打って脳神経外科にいっているわけだから、要はあたまがおかしいということ。
このまえ十条の千円床屋での会話。
「今日はお休み?」
「ええまあ。というか病院」
「どこが悪いの?」
「あたま」
「……(絶句)」
「えーとその、あたまを打って脳神経外科」

わたしはいまあたまが悪いのである。あたまがおかしいと言ってよい。
だから、自分は正常という自信がなく、批判コメントが来るとものすごいビビる。
あっちが正しくてこっちが間違いだと思ってすぐにブログ記事を削除してしまう。
このまえ私事であるとんでもない計算間違いをしたし、自分のあたまに自信がない。
わたしはあたまが悪い。あたまがおかしい。
批判コメントがついた記事は削除しましたので、どうか批判者さま、お許しください。
わたしは公明党支持者ですし(政策は知らないけれど)、
SGI創価学会はすばらしい団体だと思っていますのでいろいろご容赦ください。
なにしろいまあたまが悪く、あたまがおかしいので、どうか病者弱者にあわれみを。
もう8、9年まえか、東南アジアをぐるりとめぐり、中国まで分け入った。
いまから考えれば、あの3ヶ月半だけが、わが人生だったような気がする。
いつそんな旅行をしただろう。10年近いむかしだったのかもしれない
あれがなければ、わたしの人生はなんにもなかった。
タイ、カンボジア、ベトナムをわたりめぐり、
最後には予定になかった中国へまで行くことができた。
いま自分が幸福か不幸かはわからないけれど、
あの時期だけは本気で生きていたような気がする。まあ、錯覚だろうけれど。
ブログにも現地から体験記を書いたんだなあ。
いま調べたら2007年だから9年もまえか、
あのときの想い出がいまのわたしを生かしているのかもしれない。

「アジア漫遊記」の最初ページ↓
http://yondance.blog25.fc2.com/category35-12.html

いつかイタリアでも行きたいなあ、
とサイゼリヤでワインのマグナムをのんで先日思いました。
ユーロなんでしょ? 高すぎて不可能だろうけれど。
イタリア人男性ってタイ人やラオス人のように、
働かないで昼から酒ばかりのんでいるイメージがある。
いまいちばん好きなのは上野の「たきおか」ではなくサイゼリアですから。
サイゼリヤでマグナムワイン。相手がいれば神秘的幸福。
学生みたいだけれど、サイゼリヤほど安くてうまくて酔っぱらえる店をほかに知らない。
わたしはかつて旅をしました。
芥川龍之介を教祖とするクエマラ教の末端構成員として申し上げれば、
やっぱりいちばんうまいのは日本料理だよね。年齢のせいかもしれないけれど。
むかしバイト先でベトナム人の女の子からベトナム料理はおいしいでしょ?
と、さも当たり前のように言われたけれど、
ベトナム料理でうまいのはバインミー(フランスパンのサンドイッチ)だけだろう。
雨の日にフエだったかで12ドルもする越南高級料理も実験的にためしてみたが、
量が多いだけで、味はどうかと言われたら、個性がないと言わざるをえない。
アンコールワットで有名なカンボジアだが、たぶん世界一メシがまずいのはこの国。
白石昇先生で有名なタイは1週間くらいしか滞在しなかったのでよくわからない。
まあ、なんでも辛くするお国柄だよねえ。
個性がある、しっかりとした味がある料理を出すのはインドと中国。
わたしはインドメシは大好物だが、あれが嫌いな人は絶対受けつけないだろう。
しかし、インドのメシは濃くてうまいぞお。
中国のメシはなんでもうまいな。さすが華僑が全国に進出していることはある。
あぶらっこいものばかりだけれど、当方のつたない旅行経験からいえば、
中国のメシはどんな安い食堂でもまずいということがなかった。
インドと中国はすごいが、タイ、カンボジア、ベトナムはわからん。
香港は大学時代に行ったけれど、さすがに料理の味はおぼえていない。
おれさ、むかしさ香港でね、
インドで知り合った同年代の美少女の家に招待され、
現地の本物の香港料理と香港家庭を味わったことがあるんだぜ。
ジャネット・ユエンさんだっけなあ。
最後のメールでは報道関係でバリバリ働いていると聞いた。

おれさ、英国留学経験のある美少女、ジャネットに英語を教わったようなもんだもん。
ジャネットと英語でメール文通するためにどれだけ英語辞書を引いたことか。
もう時効で書いてもいいだろうけれど、
ジャネットと逢ったのはインドの悪質観光都市アーグラ。
おれってむかしからカウンセラー的存在なのか、
はじめて逢ったジャネットからぼくの部屋でさんざん自分語りをされたなあ。
なんでも留学中につきあっていたイギリス人の彼との失恋が忘れられなくて
インドに来たとか。写真も見せてもらったがチョーイケメン美男子であたまもよさそう。、
当方がイケメンではないこと、英語ができないことにすごいコンプレックスを感じたなあ。
第二外国語は中国語を選んだのだが、
それは北京語でホンコンピーポーの彼女にはまったく通じなかった。
こうしてだれにも読まれないブログを書いているうちに
思い出したむかしの香港美少女(現在は美女なのかなあ)、
ジャネット・ユエンはいまなにをしているのだろう。

思い返せば、あの子にも恩を返していないなあ。
いま逢ったらあっちのほうが絶対収入が多いからサイゼリアに連れていって笑われそう。
ジャネットはちっこくて少年のような性別不明的な美少女で、
くりくりっとした目がとてもかわいかった記憶がある。
写真もあるのでいちおう嘘ではない証明は可能。
わたしはアジア圏の外国人に恩がいっぱいあるのでいつか返さなければと思っている。
けれど、「ガイドブックではわからない本当の日本が見たい」とか言われると困る。
そもそも日本食ってなに?
刺身、寿司、天ぷら、トンカツ、コロッケ、ラーメン、焼き肉、キムチ?
ぶっちゃけるとガチの日本食は関西人が嫌いな納豆だと思う。
いつだったかアジアの日本料理屋で
日本よりも安い(自家製らしい)納豆を食べたけれど、あれは泣くほどうまかった。
東西問わずいちばんびっくりする日本食はお好み焼きでもモンジャでもなく、
嫌いな人も非常に多い納豆かもしれない。
一般的なことをいえば、牛丼屋かてん屋だが、それっぽいのは海外にもあるだろうし。
ひょっとしたら自分、むかしからアジアの女の子が好きなのかなあ。

白人女はお人形さんのようできれいだとは思うけれど、
まったく話したいとは思わない(←うそこけ。英会話ができないだけだろう)。
アジアの子の話す英語はおなじアジアだからかとてもわかりやすい。
正直、会話なんか単語の羅列で、過去形も現在形も未来形も、どうでもいいんじゃないか。
アイ、フューイアーズ、アゴー、リアリー、アンハッピー。
バット、ナウ、ベリーベリー、ハッピー。ホワイ? アイドンノ。
ジャネットはいま香港でバリバリ活躍しているんだろうなあ。
こっちはようやく食べていけるくらいになったのレベル。
どうしてぼくたちはインドのアーグラで出逢ったかわからないが、
もしかしたらなにもかもわからないのかもしれない。気が強い女の子でした。
もう老人だし、あたまを打って顔面神経麻痺だし、
かろうじて覚えているむかしの記憶を思い返すしか楽しみはない。さみしい。
いまの日本はさ、異常なほどおいしいものを求めすぎているのではないだろうが。
これは酒のみにしかわからないだろうが、
うまいものもいいが、まずいものもつまみになる。
いまの日本のように美味ばかりだと、
むしろその固有のまずさが新鮮でつまみになるって、これわからないかなあ。
まずいものはほんとうはおいしいのである。
おおむかし東南アジアのどこの国だったか、
小さな料理店でメニューに「スキヤキ」とあるので好奇心から注文してみた。
これがまたぜんぜんスキヤキではなく、
白滝ラーメンで、そして特筆すべきはその異様なまずさである。
名前がスキヤキで、このまずさはおいしいぜ、
と腹の底で大笑いしながら、
東南アジアの味の薄いビールをがぼがぼのんだ記憶がある。

いまあえて想像以上にまずいものを食べたい人っていないのかなあ。
どこも美食ばかりグルメになってしまったわが国で、
いまいちばん求められているのは想像以上のまずさではないか。
とはいえ、さすがにわたしも某社の「チョコ焼きそば」には手が出なかったけれど。
おいしいものやうまいものはみな似通っているが、
まずいものはそれぞれまずいじゃないですか?
できる社会人はみなおなじような顔で、
おなじようなトーンでおなじことを話すみたいなさあ。
いま一時期のビートたけしのような顔面破壊状態らしい。
たでくう虫も好き好きで、
まずい顔のよさに気づいくれる女の子も0.1%くらいいるのではないか?
ぎょっとするほどの固有のまずさを持つつまみは新鮮で、
口にするたびに味(感想)が変わるため、
じつのところ酒のみにとっていちばんいい酒肴品は、
どぎついまずさを持つ想像外のものと言っても完全な100%の間違いとは言えまい。
いまおれの顔、やばすぎるし、まずすぎるのかもしれん。
自分の顔が嫌いだから、鏡をめったに見ないのはプラスなのかマイナスなのか。
もし明日死ぬとして後悔することがあるとすれば、
人生で一度もハッパ(大麻=マリファナ)をやったことがないことかもしれない。
やる機会はタバコ以上に多かったのにくだらぬ日本的常識からまじめに断った。
タバコの煙はむかしは大嫌いだったが、いまはとなりで大量喫煙されても大丈夫。
さすがに室内で吸われるのは、うーん、だけど、
そこまで立派な借り部屋でもないから人によってはOKかな。
OKを出した人はいないけれど。
タバコは酔っぱらったときすすめられて二度吸ったけれど、
あれ、なにがいいんですか?
人によっては酔っぱらえないらしいから、それとおなじか。
ああ、ハッパをやってハッピーを一瞬でも知っておけばよかった。
日本でも医療用大麻があって、ある意味では合法なわけだから。
個人的にはハッパは酒や精神医療薬よりはるかに依存性がないような気がしている。
まあ、やったことはないけれど。
ハッパはすすめてくる人があたま悪そうだからダメだったのか。
海外でハッパをやっている邦人ってあれな感じのする人が多そうだし(よく知らん)。
ハッパを吸わなかったわが人生は本当にくだらないものだと思っている。
この齢になって未経験なら、いまさら若者ぶってためすことはできない。
ラリピーことノリピーは超絶ハッピーを味わったのだろうな。
覚醒剤とかハッパとか比較にならないくらいイイんでしょ?
覚醒剤もタバコよりも経験可能なチャンスが多かったけれどやらなかった。
そういう面では本当につまらない人生を送ったと思う。
いまは若い人ばかりである(わたしよりもという意味合いで)。
もし若い人に失敗者の申し上げたいことがあるとすれば、なんでもやれ!
なんでもやっておけ! バカをたくさんしたほうがあとあと後悔しないから。
まあ、意味はおっさんの言うことになど耳を貸すなということだから、
なにもしないニートでもぜんぜん構わない。
ハッパニートでも本人がハッピーならばいい。
こういうことを書けるのは、明日尿検査をされても絶対大丈夫なハッパ知らずだからだ。
結局、よくない意味で育ちがよかったのかもしれない。
悪いことをぜんぜん知らない。人生でパーッとやったことがないさみしい一生でした。
まだなーにこれから! と思いたい。いまさらハッパはやらないけれど。
ながらくファラン(白人/欧米人)のことは嫌いだったけれど、
ファラン連中はものすげえやつらではないだろうか。
ロックもパンクもジャズも考えだしたのはファラン。
平等や民主主義、社会主義、共産主義、人権、幸福、
そしてそして自由という観念もファラン起源。
ずっとファランが嫌いだったのは、
ひとえにこちらのあたまがわるいため英会話ができないせいなのかも。
ファランはこちらが10年近く教わった英語を、
居住圏、生育地ゆえにそれほど苦労せず話せるじゃないですか。
ずるいという見方もあると思う。
それでずっとわたしはファランを憎んでいるようなところがあった。
わたしが大嫌いな哲学も経済も生産性も効率もファランの発明品。
しかし、労働者の権利や自由という観念もファランさまが考案したものだ。
もっともスーパーフリーという観念をご存じなのはファランなのだろう。
いつかバンビエンに行って、ファランのようにハッパを決めて、
スーパーフリーな状態で川流れでもしたいぜ。
これがいまのおれの夢かもしれない。
ハッパ経験はないが、したらきっと酒ほど効かなそうなので、
あえて夢は夢としておきたいのは東洋人のドリームゆえか。
こいつら↓スーパーフリーでハッピーって感じでチューしたくなるぜ。ブチュウ♪

いまどこでもいいから新興宗教に入りたいんだよねえ。
現代医療からも先行きが見えないと言われる難病の顔面神経麻痺に罹患。
相性がいい脳神経外科医に聞いたもん。
「運まかせということでしょうか」「(ひとりごとで)神だのみするしかないのか」
どちらにも脳神経外科医はご反論、ご異論をおっしゃらなかった。
じゃあ、もう新興宗教しかないじゃん。だれかどこでもいいから新興宗教に誘ってよ。
「どこでもいい」というのは、わたしはご縁(偶然性)を強く信じているから。
こうなったらもう新興宗教しかないっしょ?
いくら媚態を示しても絶対勧誘してくれない創価学会さんもいまならどうですか?
数ヶ月くらいなら実験的にご本尊に向かってお題目を朝晩数分唱えられます。
月2千円の聖教新聞代金もためしに払ってみてもいいかと。
有名な悪口座談会というのは聖教新聞掲載ですか? 
あれ目的になら拝読させていただくご価値がございますです。
どうしてわたしは新興宗教から勧誘されないのだろう。
ドアピンポンでもまったく来ない。
やはり金がないことを見破られているためだろうか。
しかし、そういう貧困病者を救う(騙す)のが新興宗教の社会的役割ではないか?
いまひとりぼっちで孤独でさみしく重病なので、新興宗教を求めています。
勧誘員のかた、どうかよろしくお願い申し上げます。
ご面倒でしょうがメールアドレスはプロフィール欄に記載しております。
これでいい新興宗教にめぐりあえたら、このマイナスはプラスになる。
創価学会のような大手もいいけれど、場末の新興宗教もおもしろいのだろう。
無駄に宗教関連の本はたくさん読んでいますから、
偉そうでごめんなさいですがアドバイザーのようなものになれるかもしれません。
教団(教線)拡大に使える存在かもしれませんであります。
わたしはどの神もどの仏も信じていますから、どの新興宗教でもお仲間に入れます。
こんなお願いを書いても、とにかくアクセス数の少ない、
影響力皆無のブログだからなあ。
だれかあわれな弱者病者貧困孤独者にあたたかいお手を差し出してくれぬものか。
「戦闘、開始」(太宰治「斜陽」)ではなく、「闘病、開始」。
これからしばらく「本の山」は闘病記になるかもしれません。病名は顔面神経麻痺(まひ)。
本を読めって言われても、実際左目がおかしくなっていて小さい字が読めないわけでさ。
今日も某大学病院に行ってきたけれど、いったいこれからどうなるんだろう。
他人の健康なんてどうでもいい話だから、闘病記ほどつまらないものはないと思う。
そのうえ闘病記といっても、わたしは病気と闘おうとか思っているわけではないしね。
治るものなら治るだろうし、治らないものだったら一生このままだろう。
じゃあ、どうして病院に行くのかといったら、うーん、不安かなあ。
見ず知らずの人の闘病記ほどつまらないものはないけれど、
フェイスブックやツイッターの幸福自慢よりはまだましでしょう?
わたしのことを嫌いな人は、たまにでもブログをご覧いただければ、
ほほう、あいつはいまあんなに苦しんでいるのか、
ザマアミロ、仏罰だ、天罰だとすっきり爽快感を味わえるのではないかと思う。

左顔面麻痺とはどういうことかというと、要するに「変な顔」ってこったね。
左顔面がうまく動かないからしゃべると口が曲がってしまう。
笑えないし、笑っても顔面が異様な変容を見せ気味悪がられる。
これは長所かもしれないけれど、顔がうまく動かないから怒れないってこともある。
怒っている顔をつくることができない。
「もとから変な顔っすから、いまさらどうでもいいとも言えますよねえ?」
と言ったら、脳神経外科医は笑ってくれず無言で固まっていた。
わたしの顔面神経麻痺の個別病状は左目が非常に見えにくくなっている。
しかし、大学病院で視野検査までやったが、眼科的には異常はないらしい。
それなのに、どうしてか左目が見づらくなっている。
左耳上の神経が損傷しているから、というのが脳神経外科医による診断。
それから左耳も聞こえにくい。
これは目とは異なり聴力検査ではっきりと聴力の低下が現われている。
どうして左耳が聞こえにくいのかはよくわからない。
左耳の上部が骨折していると脳神経外科の教授は診断したが、
今日のとても感じがいい同大学病院の耳鼻科医によると、
CTでは耳上部は骨折していないように見えるという。
このへんは教授とそうではない医師の力関係があってゴニョゴニョなのだろう。
顔面神経麻痺と聴力はべつにわけて考えるのも一手かとご指摘を受ける。
耳の手術もできるが、手術をしてもよくなるかはわからず、
本人がそれでいいのならこのままにしておくという手もある。
手術をするなら2週間の入院が必要。

今日耳鼻科医に言われたのは、その大学病院には顔面神経麻痺の権威がいるらしい。
まずその診断を受けて、当方の顔面神経麻痺がどのレベルか見てもらえばいいのでは?
医者からそう言われたら、さすがに断わるわけにはいかない。
リハビリ科に顔面神経麻痺の権威でいらっしゃる大先生がいるとのこと。
そういう権威的なものはあまり好きではなかったが、
偶然の流れに身を任せるしか術はない。
そのまえに筋電図検査というものをする必要がある(金曜日)。
その顔面神経麻痺の権威の先生が外来診察しているのは水曜日オンリー。
月曜と土曜が休みのわたしは2日も会社に休みをお願いしないといけないことになる。
いまの会社はホワイトだから許可してくれるだろうし、
むしろ絶対行きなさいとおっしゃってくれそうだが、
なにかに対して申し訳なさでいっぱいだ。
同僚から理不尽に怒鳴られたくらいで不平を言うには大恩がありすぎる。
12日(金)筋電図検査、17日(水)顔面神経麻痺権威、20日(土)脳神経外科。
脳神経外科の先生にはこの日までに顔面神経麻痺がよくならなかったら、
ずっとこのままの可能性もありえると言われている。

いったいこれからどうなるのだろう。
脳神経外科、眼科、耳鼻科を受診した感想は、
どこもなにがどうなっているのかわかっていないのではないかということ。
これからどうなるのかは医者でさえ占い師程度の存在なのかもしれない
とはいえ、このたびかかわった医療関係者はみな好人物で本当に感謝している。
医療従事者ほど敬意に値する職業はなく、もっと給料をアップしてもいい仕事なのだろう。
一時期、薬を20種類以上服用していたが、効いていたのかどうだったのか。
それは薬をのんでいなかった場合の自分というものを測定できないからわからない。
いちばんおもしろかったのは眼科的には目に異常がないのに、
わたしとしてはとても左目が見えにくいという不思議な現象である。
いま困っている。苦しんでいる。
甘えであることは十分に承知しているが、こういうときに愛妻がいたらどんなにいいことか。
病院で周囲を見ていると夫婦で来ている人がたくさんいるので驚く。
ひとりぼっちだなあ。あんまりいじめないでくださいね。
忍(しのぶ)は女性名だが、いまそんな古風な名前の持ち主はいるのだろうか。
いたらお話してみたいなあ。
わたしは忍耐や我慢、辛抱をもっとおぼえなければならないのだろう、
昨日バイト同僚のおっさんに意味不明なことで大声で怒鳴られたが、
いちいちカッカしていてはダメなのだろう。
いばりたがり屋、仕切り屋、ボス猿体質人間というのはどこの集団にもいるもので、
そういう人にうまく調子を合わせて、
相手をおだててヨイショするような処世術をそろそろおぼえてもいい年齢だ。
自分の思うようにならないと大声で怒鳴る人はどこにでもいるのだから、
人間なんてそんなもの、人生これ理不尽よ、と苦笑して受け流すしかなかろう。

どうして人はある人を好きになったり嫌いになったりするのだろう。
これを日本語では相性というけれど。
わたしはよく怒鳴ってくるおっさんを嫌いなわけではないが、
向こうはこちらが許せないらしい。
人間関係の難しさである。
こちらが相手を好いていても、向こうからは毛嫌いされることがある。
一般に人の気持になれという。思いやれを持てという。
あの人はわたしのことが気に食わないようだから、
わたしがいまの職場を辞めたらば彼の幸福に直結することになる。
しかし、経済上の理由でいまこの仕事を辞めるわけにはいかない。
どうしてあのおっさんはわたしにだけ大声で怒鳴ってくるのだろう。
これはありきたりな職場の人間関係の悩みで古今ありふれた問題である。

解決策は三つしかない。
1.辞める。
2.上司に相談する。
3.我慢(忍耐/辛抱)する。
いま仕事を辞めることはできないし、
罵声おっさんは上司よりもなんらかの事情で偉いようなので、
選択肢としては辛抱するしかない。
ストレスを解消できる変態性欲でもあったらいいのだが(え?)、
いまのところそういうものは持ち合わせていない(未開発なだけかも←え?)。
しみじみと思うのは、生きていくってこういうことなんだなあ。
そのうちあの男性への見方が変わるかもしれないし、
あちらがこちらを見なおしてくれるのかもしれないが、
こういうことはあまり期待しないほうがいいことを知っている当方は忍耐の一択だ。
明日からまた怒鳴られ、怒鳴られ、怒鳴られ、しかし我慢して辛抱して忍耐しよう。

おれってギャグ的存在で、こいつ笑えるよと思うと見方が変わるのだろうけれど、
マジメな四角四面の人からはいちばん嫌われる適当人間なのかもしれない。
いちおう育ちはそこまで悪くなく、あいさつはちゃんとするし、
一般常識や社会上の礼儀は知っているつもりだが。我慢、忍耐、辛抱。
人生経験上いちばんおもしろいことは「地図のない町」を歩くことだと思う。
かりに地図があったとしても、そんなものはあえて見ないで無視して、
自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分のあたまで考える。
これほどおもしろいことがありましょうか?
具体的にはスマホを手放せ。スマホにはすべて書いてあるだろう?
あれを見て旅をしても人生を歩んでも、
それはあなたの生命ではなく、他人の借り物。
スマホを見ればこう生きたらお得だという情報にあふれている。
しかし、どうして損をしてはいけないのだろう?
どうしてマイナスはいけないのだろう?
他人が行ったところに他人の意見を参考にして参観し、
他人のことばで感想を語るのもいいが、それだけだろうか?
それだけでもぜいたくなのは知っているつもりだが、それだけでいいのでありましょうか?
なぜ働くかの答えのひとつとして「さみしいから」という本音はあるのではないか?
さみしいから働く。共同作業をしていたら人と関わらざるをえなく、
おかげさまでさみしさからある程度逃れることができる。
わたしも白状するとさみしいから働いているところがけっこうあるのかもしれない。
自分は孤独にだれよりも強いと思うときがあれば、
だれよりもさみしがりやでひとりぼっちだとも同時に思う。
いま左顔面麻痺で現代医療ではどうしようもない、運しだいと言われているので、
こんなときに労働NGで家に引きこもっていたら発狂してしまうような恐怖がある。
ある善良な整形外科医が労働可能のメモを書いてくれたので(診断書だと3千円)
本当にありがたいことだと感謝している。
お金のために働くというのはリアルだが、どっかしらリアリティに欠けている気もしなくない。
本当にお金がほしかったら財テク(死語?)とか違法ギリギリの投資とか、
そういうことを孤独や破産をおそれずにするような気がする。
わたしは大金をもらってもやりたくないことはできないだろうし、
無料でも自分がしたいことならいくらでも時間をそれにあてるだろう。
さみしいなあ。「ともだち」がほしいなあ。
(いま同名の山田太一ドラマがCSで放送中だが)
さみしいから働いているのかもしれない。
さみしいのに、さみしくないふりをしているのかもしれない。
さみしいくせに――。
だれにも読んでもらえないブログなんて書いてさみしくないふりをしているのかもしれない。
うちのブログは批判コメントも削除やアクセス禁止にめったにしないのは、
わたしがとてもさみしい孤独な人間だからだろう。
さみしいくせに、さみしいのに、さみしさから、
さみしくないふりをするのがわたしという人間の正体なのかもしれない。
さみしい人とさみしい人が出逢えたら、どんなにいいことだろう。
山田太一ドラマのテーマのひとつである。
「さみしい」を難解な言葉に変換したら「近代的自我」となる。
Aが作業している最中に電話が入ったのでその場を抜けた。
Bは気をきかせてAの作業を途中からやった。
CがBのことを考えてBが作業している途中のものを移動させた。
この作業物にラベルがついていないというミスがあったとき、いったいだれのせいか?
最初のAもつけ忘れているし、
Bはまさか上司のAがそんな初歩的なミスをしていると思わないし、
ラベルがついていないことに気づかないで持って行ってしまったCのミスでは
絶対ないとも言い切れない。
上司のAは部下のBにミスを指摘し注意する。
あれ? 最初にミスをしたのはAではないか?
こういうときおとなは「本当のこと」を言ったりしないであやまる。
そうしてことを丸くおさめる。それが働くということだ。働いて金をもらうということだ。
みんなで仕事をしているとき、あんがいこういうことは起こるのではないかと思う。
同僚のSさんから今日はよく眠れるよお、
久しぶりに身体を動かして働いたんだから、と言われてなんだか嬉しくなった。
いつかこの先輩にビールでもなんでもご馳走したいが、
四半世紀もの若輩がどうしてそんなことができよう。
65歳のSさんは帰宅後(第三の)ビールを1缶。
それからなにかで割るための焼酎をあえて水で薄めて、
夕餉(ゆうげ)とともに味わい就寝するらしい。
麦でも米でも芋でもない、
例のダメな焼酎の水割りは当方もSさんの影響で試したが、
残念ながら口が受けつけなかった。
上司の副工場長から教わったのは冷たい水道水のうまさで、
チーフのSさんから伝授されたのはダメ焼酎の水割り。
噂によると、いきで人気のある工場長もなかなかいける口らしい。
そういう方からあんまり酒を飲み過ぎるなよと忠告されると、まったくその通りだと思う。

しかし、眠れないなあ。
昨日は勤務時間中、ほぼ立ちどまる暇もなく身体を動かしていた気もするが。
もちろん、某大型をなさってくださっているTさんに比べたら
労働量は半分ないしそれ以下だろう。
わたしは若手陣のなかではTさん
(年齢的にはTくんと言いたいが労働量を考えるとTさんと呼ばざるをえない)
がいちばん好きだ。
そういう気持は伝わるのか、
昨日は久々の再会なのに少しコミュニケーションが取れて嬉しい。
あの子はよすぎる。びっくりするほどよく働くので驚く。
毎晩ぐっすり眠れるのかなあ。うらやましい。
当方はどれだけ肉体労働をしても眠れないだろうというおかしな自信がある。
ふつう1ヶ月以上も休んでいるやつが帰ってきたら、
みんな白々とした目で見るものだが、昨日はまったくそんなことがなかった。
いいやつがいるいい会社というのはたしかに存在するのかもしれない。
1.おかねをもらっておいしいものをさがす(たべる)。
2.しゃかいべんきょう。
3.じんせいの、りふじんをしる。
4.じんせいの、しんさんをわがしたであじわうため。
5.にんげんのやさしさとこわさをまなぶ。
6.なぜいきるのか。なぜしぬのか。という、こんぽんのもんだいからのがれるため。
7.はたらいていたら、せけんていがいい。
8.はたらいていたら、きそくただしいせいかつをおくることができる。
9.ほかになんのやることがあるというんだ?
10.なぜはたらくかをかんがえないために、ひとははたらく。
書類上の必要があって日曜日にも行った近所の大人気整形外科へふたたび。
ストレートに聞いたら、明日から仕事復帰してもまあ大丈夫とのこと。
それならそういうことならと、書類提出に行った際に、
会社へ明日から働かせていただきたい旨を申し上げる。
ニート時期もあるわたしが「働きたい」って熱心にアピールするって、
それどういうことだわさ。
どうせ数日後には「働くのやだなあ」とか思うのだろうけれど、そんなもんなのさ。
いま人が辞めちゃって新しいバイトを募集しているらしいので、
こんなわたしでも少しくらいはお役に立てるのかもしれない。
左顔面(神経)麻痺に関しては、働くとか安静とかより、
規則正しい服薬と運不運が勝敗を分ける(なにが勝利で敗北かはわかりません)。
よーし、明朝8時からまた労働だぜい。
また上役や先輩から叱られ、コンチクショーとか思って酒をのむんだろうなあ。
その悔し酒のうまさを考えると舌なめずりするが、
療養中ゆえさすがにほどほどにしなければ。
いちおうあたまを打っているんだ。
脳神経外科の医師に聞いたが、
あたまが悪くなっている可能性もなくはないらしい(記憶力、判断力)。
1ヶ月ぶりの職場とか怖くないこともないけれど、とりあえずは偶然に任せる。