このたびの自転車自損事故は本当に反省しております。
結果的にシフトに穴を開けたり、みなさまにご迷惑をおかけしたわけですから、
クビになっても仕方がないと思っていました。しかし、会社からは寛大な措置。
これが底辺会社なら肋骨が折れた? 鼻くそでもつけていたら治るだろ!
ガタガタ言わず働け! 動き遅せえな! 右の肋骨もへし折ってやろうか?
これが当たり前だと思いますが、大会社はそういうことをしないのですね。
いまこじらせるとあとあとになってから来るから、いま治しておきましょう。
これでなにかして怪我をして労災になったら困るなんていう打算はまるで見られません。
怪我をしたのは仕方がないからしっかり治しましょう、
と上司おふたりともがおしゃってくださる。
わたし、正直ひねくれているので大会社とか体質的に合わないものを感じていました。
けれど、考えを変えた。やっぱり大会社は大会社だけのことはある。
きちんとしているし、末端の労働者のことを考えている。
就活学生が大企業を目指す理由が40歳になってわかりました。
いまの会社にはとても強く恩義を感じています。
しっかり鼻骨と肋骨を治してから、可能なかぎり恩返しできたらと思っています。
そんなことを労働者に思わせる会社がどれほどあるでしょうか。
前非を悔いるような思いがありまして、
今朝かつてご迷惑をかけたかもしれない人たちに謝罪の電話をかけました。
5、6年ぶりにお話する人も何人もいました。
いま本当に前非を悔いていて、
まっとうに生きている人たちにおのれのなした失礼を思うと
いくらあたまを下げても下げすぎということはないでしょう。
毎回高額なレントゲンを撮ってくださる善良な好人物のお医者さまは
肉体労働をするにはあと1ヶ月半、骨がくっつくまでには2ヶ月半とのご診断。
なんとか気力で骨をくっつけて8月までには、
いや7月の最終週くらいには職場復帰したいと思っております。
気合で肋骨を治して見せます。
いまの同僚の方には本当にあたまが上がりません。
そして、込み上げてくるのがいままでお世話になった人へのご恩。
みなさま、ありがとうごいました。
「宮本輝 流転の歳月」(NHK/知るを楽しむ 人生の歩き方)

→天下の公器、NHKで放送された人生の大勝利者の体験発表である。
大勢の人のまえでの大勝利の体験発表を目的に生きている人って大勢いそう。
閻魔(えんま)さまのまえでの体験発表では、
「これこれこういうことがあって大勝利しましたが、結局死んでしまいました」
になるのが人生の矛盾でありおかしみであり哀しさだろう。
うちの父もそうだが、どうして庶民ってみんなNHKが好きなんだろう。
NHKで勝利者として体験発表するのが、あるいは日本人のゴールなのかもしれない。
選考委員の宮本輝が嫌っていたのに芥川賞を取った西村賢太もそのコースを歩んだ。

創価学会の宮本輝氏が信じているものとおなじものをわたしは信じている。
宮本輝氏は創価学会だから、いちおうは日蓮大聖人の南無妙法蓮華経だろう。
わたしは南無妙法蓮華経も信じているし、
(法然や親鸞のではない)踊り念仏の一遍の南無阿弥陀仏も信じている。
どうして南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏という違う言葉を信じてもいいのかって?
それは要するに南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も「自分」だからである。
宮本輝が自分(南無妙法蓮華経)を信じているように、
わたしも自分(南無阿弥陀仏)を信じている。
すべてが自分のなかに眠っているのだろう。
男も女も、聖と俗も、貴と賤も、賢も愚も、有も無も、生と死も――。
それを信じるしかない。自分を信じるしかない。
それが南無妙法蓮華経であり南無阿弥陀仏であり南無釈迦牟尼仏である。
生きる目的も苦しむ目的も死ぬ目的も「自分」である。
つまり、南無妙法蓮華経であり南無阿弥陀仏であり南無釈迦牟尼仏。
昨日は目のまえで飛び降り自殺をした母の命日で父と逢った。
自分とは父と母である。自分とは父と母の「愛」である。
自分とは祖父と祖母の縁であり性欲であり関係性であり複雑性である。
それはどうなっているか人間にはわからないが、
かりに言葉にするならば南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏が
それなりに適当で妥当なのかもしれない。

ぜんぶ「自分」の奥深くに眠っていると信じることが、
南無妙法蓮華経であり南無阿弥陀仏であり南無釈迦牟尼仏ではないか。
創価学会の芥川賞作家の宮本輝氏と、
無宗教で非正規雇用アルバイトのわたしはおなじものを信じている。「自分」――。
突き詰めるものは「自分」しかないのだろう。
宮本輝先生は大勝利人生の体験発表として以下のようなことをおっしゃる。
成功者ほど過去に対して雄弁であるが、それはそんなもので、
わざわざそんな意地悪な指摘をしたら皮肉がすぎるのでよくない。

「子ども時代に住んだ土地を取材して訪ね、
僕の中にある親父の記憶を辿(たど)っていくと、
親父に関する思い出だけでなく、
さまざまな人や、さまざまな出来事が蘇(よみがえ)ってくるんです。
そこには生きる歓(よろこ)びや哀しみ、
憎悪や愛情が複雑に絡(から)み合った「とてつもない人間の世界」がある。
そして、そこにはいつも偶然ではない何か、うまく説明できないけど、
人間の業(ごう)だとか宿命だとか、
人知の働きを超えた不思議な力が常に作用していたような気がするんですよ」(P138)


わかるなあ。宮本輝氏の述懐はわたしにとっての真実真理でもある。
40年も生きていると、いやでも浮き沈みというものを見る。
40年という時間が自分にものを考えさせる。血縁を考えさせる。
宿命を運命を事件をご縁を、そのどうしようもなさを。
とてもとてもすべて偶然だったとは思えないのである。
おそらくすべては偶然なのだろうが、そうだとは思わせないのが「時間」である。
わたしはまえに南無妙法蓮華経の意味は「自分」だと書いた。
南無阿弥陀仏の意味も「自分」だと思っている。
言葉はいろいろな意味を持つ。言葉は伝わらないところに意味があるのかもしれない。
「時間」もあるのではないか。
南無妙法蓮華経の意味は「時間」で、南無阿弥陀仏の意味も「時間」。
「自分」と「時間」はおなじ意味で、いいかえたら南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏。
「自分」を信じるとは「時間」を信じること。
どうして「自分」が生まれてきたかといえば、両親の営みが関係している。
両親がこの世に生まれてきた因縁も、祖父母のそれによる。
「時間」経過とともに両親にも「自分」が生まれ結ばれ、
いまの「自分」がどうしようもなく存在している。
どうしてこうなったかはわからないが、その「わからない」は信じてもいいのではないか。
「自分」の正体はわからない。「時間」の本質はわからない。
その「自分」や「時間」のことを仏教では南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏という。
わたしは自分も時間も宮本輝も信じている。
なぜなら宮本輝から自分と時間を信じることを教わったからである。
悪名高いがわたしは嫌いではない創価学会の隠れ作家、宮本輝氏はNHKでいう。

「大豆が醗酵(はっこう)して味噌になるにはある程度の時間が必要ですが、
それと同じで一つの思い出や経験が、
僕の中で化学変化や醗酵を起こして、別のものになるのには
三年かかる場合もあれば、三十年かかる場合もある。
今釣り上げたばかりの魚を三枚におろして刺身にして
「さぁどうぞ」ってわけにはいかないのが、
小説の難しいところなんですよ」(P158)


おそらく小説のみならず人生でもおなじことがいえるのではないか。
わたしは生きようと思う。
母の眼前投身自殺体験が今後どのように醗酵するのか興味がある。
生きよう、生きよう、生きよう。
16年まえのあの日からわたしは宮本輝に生かされている。
偉大な庶民派作家である。自分と時間を知ろうとしている稀有な人気作家である。

もう40歳になったので好きなことを書いちゃうよ。
肋骨も折れて、心も折れて、人生終わりかもしれないし、好き放題書いちゃうよ。
庶民ってどういう恋愛をしているのかなあ。
平成の文豪、西村賢太氏は中華料理屋で働く彼女を見初めたと。
でも、なーんか、嘘っぽいんだなあ。
シナそば屋の女給ふぜいが、
はたして傲慢な男の文学趣味を理解してくれるのかしらん。
女を好きになるってどういうことなんだろう。
男たる自分の価値を接待やら贈物で金銭的に教えしらしめ、
かつ肉体的にも征服して自分を尊敬させる。これが男の恋なのか?
恋愛は金がかかるのがめんどうくさいよねえ。
絶対におかしいと世界に向けて公言したいのは、金は男が払うという世界的風潮。
女の人に奢ってもらったことのほうが多いとぶっちゃけたら、
今年の正月だったか、派遣仲間のスギさんにあきれられたけれど。
どうしたらいいの?
この女はいいと思ったら、高いメシを食わせたらいいの?
高額なメシはいくらでもあるけれど、どのレベルを選べばいいの?
良質かつ高額なエサを与えたら心や股を開く女って家畜じゃん?
いや、それがいいのでしょうけれど、そういうものでしょうけれど。
つくづく思うのは男と女がかりそめに愛しあい子づくりするのってすごいよなあ。
女にメシをゴチしてもいいのよ。
金銭価値の高いものをプレゼントしてもいい。
でもそれって買春売春じゃん。みんな思っていることだろうけれども。
買春売春でもいいから、春が来ないかなあ、いてて肋骨骨折。
人生これからどうなるんだろうなあ。
肋骨折れているし、痛いし、こりゃまずいけど、とりあえず歩けるし、
やれっていわれたらおそらくなんでもできるだろうし。
けっこう本音ではこのくらい痛み止めで乗り切れるような気がする。
いまの職場は決して嫌いではないし。
シノブさんやヒロミさんにもお逢いできるし。
医者からは「2ヶ月は肉体労働絶対禁止」といわれた。
やってもいいが、やった結果、
なにが起こっても北赤羽整形外科は責任を持たない。
どうして北赤羽整形外科を選んだかといったら19時までやっているから。
あそこはケチなのか善良的なのか、痛み止めをちょっとしか出してくれない。
個人的には痛み止めを大量に服用してごまかしながら働くのが最良かと。
生きているのって、働くのって、そういうことかという錯覚が。
生きるってどういうことなんだろう。
もう40歳になったし、どうなってもいいんだあねえ。
「宮城まり子 こどもたちへ伝言」(NHK/知るを楽しむ 人生の歩き方)

→イケメンの文壇人事課長・吉行淳之介の愛人で、
慈善家・人権屋・新聞文化人のテレビ放送版、勝利人生体験発表の書籍化。
読んでいてすごくいやあな気分になった。
文壇随一ともいわれるイケメンの若手作家と不倫略奪愛をした元お嬢さんはいう。
彼女はむかし女優だったことがあるらしい。

「女優さんをやってると、
まわりにハンサムな俳優さんなんてたくさんいらっしゃって見慣れてるの。
私は、[吉行淳之介が]ハンサムであることなんかまったく関心がなかった。
男の人の魅力は才能だと信じていたから」(P31)


美男子を正規配偶者から略奪して、
自分は顔を好きになったんじゃないっていい子ぶりがすぎやしないか?
おれみたいなわけありの傷物を好きになってくれて、おなじことをいうのなら本物だが、
当時芥川賞作家で肩書もあり妻もいた東大出の吉行淳之介だぞ。
そりゃあ、おかしいよ。
有名老人が権力で若い美女と結婚して、
おれは彼女の顔や身体に関心がなかったっていったところでだれも信じないけれど、
性別女性ならば反対が許されるのかあ。
もてない男は顔のせいでも収入のせいでも肩書のせいでもなく、
それはあなたに魅力がないからよってずいぶん残酷なセリフの気がする。

障害児施設を運営していたインテリ文化人の宮城まり子女史は、
「いい人」に見られたい願望が強いのだろう。
わざわざ障害児等弱者支援施設を開いて、
自分を「お母さん」とこどもたちに呼ばせる女性権力者。
彼女は口うるさくいちいちお茶の味までチェックして、
自分が気に入らないとヒステリックに独裁者的に変えさせたという。
インテリ文化人の宮城まり子女史は新聞テレビ的には「いい人」としかいえない。
マスコミ美談の象徴的存在が宮城まり子女史である。
こいつ大嫌いとか思うからおれはもてないのかなあ。

ぼくもぼくの才能であるぼくの魅力に気づいてくれる女性と出逢いたいなあ。
ぼくぼくぼく――。

「私たちはなぜ狂わずにいるのか」(春日武彦/新潮OH!文庫)

→先日、精神科医の春日武彦の本の感想をブログに書いたら、
それが著者の目にとまりお気に召さなかったらしく、
先生のご友人とされる漫画家の自殺説を書いたせいもあるだろう。
春日先生から脅迫めいたコメントをいただいたものである。

・言霊があなたにろくでもない運命を呼び寄せると思うなあ



そうしたらそれが的中。その後、当方は自転車事故で鼻骨と肋骨を折る。
むかしは呪術家が精神科医もかねていたような気もするが、
春日先生の怨念パワー、呪術のちからに恐れをなしたものである。
春日先生の自己イメージはこうらしい。

・わたしは「不謹慎」などという言葉とは無縁の人間です



ところが、第二作の本書を読むと、
むかしから春日先生は不謹慎というそしりを受けているのである。
分裂病患者の妄想はパターンがあっておもしろくないという本音についてだ(P50)。
わたしは春日先生の不謹慎な発言がおもしろいのだが、
ご自分は不謹慎とは無縁の存在だという。
著名な精神科医の春日先生によると、うちのブログ記事は――。

・軽薄かつ侮辱同然の作品コメント



わたしという人間は――。

・もうちょっとマトモな人物かと思っていた
・あなたは予想以上に品性下劣だと思いますね。



これはわたしが否定してもどうしようもなく、
立場が上の医師国家資格までお持ちの春日武彦先生のご診断のほうが正しい。
反論するつもりもない。

本書もたいへんおもしろかったが、変なことを書くとまた侮辱だと怒られてしまう。
この本の主要なテーマは、人は人為的に狂うことはできるのか?
つまり、人は自分から狂うことができるか?
あるいは人をたとえば拷問などで苦しめることで狂わせることができるか?
これはすごいおもしろいテーマだと思う。
よく精神病(分裂病・躁うつ病)を発症した人は、あのせいで自分は狂ったという。
16年まえの今日、わたしの目のまえで飛び降り自殺をした母も
しきりに自分の病気の原因めいたものを口走っていたようだ。
病名は「非定型精神病/躁うつ病」くらいだったか。妄想もあった。
さて、母に言わせると自分が精神病になった原因は――。
最初は夫が悪いで、次は親も悪くなり、最後は子どもまで悪くなったようだ。
そうして最後は子どもの目のまえで見せつけるように飛び降り自殺をした。
わたしは一時期、気が狂う直前まで苦しんだ。
しかし、本書を読んで長年の誤解のようなものが解けた。
母が精神病になったとき対人要因(だれかが悪い)のようなものはとくになく、
脳器質異常とでもしか解釈できぬものだったのだろう。
わたしも気が狂うかと思ったが、もとから素因のないものは狂おうとしても狂えない。
せいぜい「マトモではない品性下劣」(春日武彦診断)どまりであった。

本書のサブタイトルをつけるのなら「オフィーリアの嘘」がいいのでは?
オフィーリアはハムレット王子の婚約者で、
父をあろうことか最愛の婚約者であるハムレットに殺され発狂する。
オフィーリアは最後は狂乱のすえ自殺する。
劇としては自然に鑑賞できるが、精神医学的にはあれは嘘なんだなあ。
苦しい環境に置かれたからといって人は発狂するものではない。
精神科医の春日先生に診断をお願いしたいのは、ハムレットのほうである。
オフィーリアは心神耗弱、ノイローゼ、精神錯乱くらいだろう。
ハムレットはあれは狂っているのかどうかである。
ハムレットは途中で狂ったふりをすると言って狂気を演じるが、
あれは精神病か、それとも正常なのか。
ハムレット劇は見ようによってはぜんぶハムレットの妄想とも解釈できるわけでしょう?
父親を叔父に殺されたという病的妄想。
途中、現在の王の懺悔(ざんげ)を聞いているが(盗み聞き)、
あれは幻聴かもしれないわけだから。
観客が聞いたのは集団ヒステリーというか、妄想に巻き込まれたというか。
ハムレットって狂いながら楽しそうだよねえ。
「犯人を突き止める正義の王子」なんて気取っちゃってさ。
少なくとも「淡々と生きる」よりは、
劇を起こしたほうが本人にはいい人生だったと言えるのではないか?
ハムレットのまわりは死屍累々(ししるいるい)だけれど。
あんがい死んだ人たちも退屈な人生を送るより、
パーッと桜のように散れておもしろかったんじゃないかなあ。
境界性人格障害とか美男美女が多くて、下半身もスーパーフリーなんでしょ?
それはいっぱい三流恋愛ドラマめいたものを繰り広げているってわけで、
本人や相手としたら「淡々と生きる」よりも生きがいがあるんじゃないかなあ。

「マトモではない品性下劣」な当方は若かりし春日先生に共感する。

「私は苛立っていたのである。
なぜ自分はこんな退屈な日常に甘んじていなければならないのか、
なぜ自分には狂気という選択肢がなかったのか、と。
私にとって狂気とは、世の中に蔓延する精神的な怠惰とか傲慢さ、
狭量、ステレオタイプな価値観といったものへの
アンチテーゼのような色彩を帯びていた。
それならば私は狂気と親和性が高い筈である。そう思った。
にもかかわらう、私はこうして月並みな生活を続けている。
私には狂気となる権利があるのではないか」(P4)


しかし、若き精神科医は狂えなかった。
長年の臨床体験でいまや精神病患者を上手に演じることさえできる。

「私が分裂病のふりをしようとしたら、
おそらくかなり上手に演じることが出来ると思う。
あんまり暴れたり騒いだりせずに、
ちょっとした仕種や言葉にヒントを織りまぜつつ、渋い演技をしてみせられると思う。
だが、全体の雰囲気とかトーンで、
恐らく担当医に疑惑を抱かせることにはなりそうである。
そうなると、あとは「治療は診断を兼ねる」といったプロセスに組み入れられるだろう。
病気でもないのに服薬などするのは私としても嫌だから、
その時点でギブアップということになろう」(P190)


「私たちはなぜ狂わずにいるのか」――答えはそもそも素因がないからなのか。
むかしはハムレットみたいに華々しく散りたかったけれども、
もうおっさんで分裂病発症年齢はとっくに超えている。
むかしは明らかにビョーキっぽい人から長文メールがよく来たけれど、
最近はぜんぜん。でも、まだ有名な精神科医の先生から
コメントをもらえるくらいだから大丈夫か(なにが?)。
春日先生にはシェイクスピア劇を精神科臨床的に分析した本を書いてほしい。
今回も「軽薄かつ侮辱同然の作品コメント」たいへん失礼しました。
もう人生逃げ切りモードにお入りになったでしょうが、
先生も言霊パワーにはくれぐれもご注意くださいませ。

「「がんばらない」お稽古」(ひろさちや/PHP)

→お酒が好きで宮澤賢治が嫌いな肩書のない仏教ライターの本をまーた読んじゃったよ。
もしかしたらぼくはひろさちや先生の一番弟子じゃないかなあ。
新刊で本を一度も買ったことはないし(お布施ゼロ)、講演会に参加したこともないけれど。
むろん、ひろさちや先生へのリスペクトはあるけれど、
ひろさんがこのブログを読んだらバカにされたと感じて怒るんじゃないかって、
先日友人から電話で言われたけれど、どうなんだろう。
あの宗教評論家は本当に意地でもネットを見なさそうだからなあ。
弟子をつくりたがって先生と呼ばれて喜ぶような人よりよほどひろ先生のほうがいい。
著書多数のあの人、友人も少なそうだし受賞歴ゼロだし弟子もいないし、
(かわいく)どーしょもねえなあ。
本当に彼岸から世の中をバカにしているのかもしれない。

みなさん真理を求めておられるでしょう? とくに宗教関係の人は。
「真理はわからない」
これが真理だとしたら矛盾しているよねえ。
真理は「真理はわからない」だってわかっているじゃないかって話
でも、わたしなんかは「真理はわからない」が真理じゃないかと思っている。
矛盾を追及されたら矛盾していない人間はいないとさらりとかわす。
「真理は言葉では伝達できない」も矛盾でしょう?
「真理は言葉では伝達できない」という真理を言葉で伝えているわけだから。
このあたりの真理の真理性をじつにうまく描いたのが「歎異抄」の有名部分なのである。
偏差値40の女子高生でもわかるように、ひろ先生の訳もつけておきます。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、
たゞ念仏のみぞまことにておはします」
[わたしたちは煩悩にまみれた凡夫であり、この世界は無常の火宅であって、
すべてが嘘いつわり、真実は何一つない。
そのなかで、ただお念仏だけが真実である](P34)


要するに、俗世間の価値観はすべて嘘である。
そのことを証明するために真実なるものが必要とされる。
その真実は念仏である。念仏以外はみな嘘いつわりなのは念仏が真実だからである。
そして、念仏の意味は人間にはわからない。
念仏の本当の意味は仏さまにしかわからない。このロジックすごいよなあ。
つまり「真理はわからない」が真理であると上記の文章は主張しているわけ。
ヘルメットをかぶったおっさんにスコップで殴られそうな論理だが、
きちんと剃髪して袈裟(けさ)をまとった坊主に言われたら、
ああ、そういうものなのかと納得したような気になってしまうのかもしれない。
でもさ、20代くらいまでは「真理はわからない」が真理はずるいって怒りそう。
唯一の真理があって、しかしそれはわからないという論理はずるいといえばずるい。

ひろさちや先生は人間関係の助言もありがたくもなさってくださっている。
むかしからよく言われている「自分が変わると、相手も変わる」
とかいう箴言(しんげん/名言)めいたものがあるじゃないですか。
この対人方法のポイントは「相手を変える」ことではないとのこと。
相手を変えようと思って、自分を変えようとすると逆にいらいらしてくる。
自分がこんなに変わっているのに相手が変わらないのはおかしいと。
では、「自分が変わると、相手も変わる」は嘘なのかというとそうではなくて、
「相手は変わらない」と深々とあきらめることが「自分が変わる」の意味。
いままでは変わってくれないかな、と少々は相手に期待していた、
その自分の態度を変えて、「相手は変わらないもの」と心底から断念する。
相手に期待することをやめる。これが「自分が変える」の本当の意味で、
自分が相手にまったく期待しなくなると相手が変わったように見えてくる。

「だから、「自分が変われば、相手が変わる」ということは、
自分が変われば、相手を見る自分の見方が変わる、ということです。
相手そのものが変わるのではなしに、
自分の見方が変わるのです」(P187)


部下を変えようとか会社を変えようとか、
毎日思っている熱烈社員のストレスってすごそう。
部下は脅えるだけだし、会社は集合体だからひとりの働きかけでは変わらない。
でも、それは部下が悪いせいだ、会社が悪いせいだと思って、
さらに部下や会社を変えようとする。
いつかストレスでダウンしてしまうのではないのだろうか。
部下は変わらないし、会社はこんなもんだとあきらめたら、
少しはリラックスできるのだろうが、
むかしから仕事についてある種の職人的洗脳をほどこされてきたものは、
毎日しんどいことばかりだろう。
部下を変えよう、会社を変えようと思うが、部下も会社も変わらない。
それどころか部下は自分から離れていく。
自分の休みの日には部下全員がニコニコして自分の悪口を言っていたりしたら、
自分の努力や情熱はなんだったという絶望に襲われかねない。
「相手は自分の思う通りには変わらない」と気づくことが、
「相手に対する自分の見方」を変える適切な方法なのだろうが、
それがわからないとつらい。

はあ、やれやれ。
人生、どう生きたらいいんだろう。たとえばABふたつの選択肢があったとする。
ひろさちや先生はAでもBでもどっちでもいいのでは? という方針らしい。
サイコロでも投げて決めたらいいという。
理由はAとBのどちらがいいかは、いまの段階ではわからないからである。
要点を整理すると、たしかにそうなんだよなあ。
1.未来がどうなるか、われわれには分からない。
2.したがって、欲得計算にもとづいて未来を設計しても無意味である。
3.AとBのどちらがいい(=得)かは不明。ならばA、Bどっちでもいい。
わたしだって1週間まえはいま自分が鼻と肋骨を折っているとは思ってもいなかった。
それにしても肋骨が痛いぜ。
いったいこれから人生どうなるのかしら。
どのみち、なるようにしかならないのだろう。

「縁は異なもの」(白洲正子・河合隼雄/光文社知恵の森文庫) *再読

→文化人の白洲正子は西行のみならず鎌倉時代のマイナー僧侶の明恵も研究していた。
明恵は当時としてはめずらしく自分の夢の記録を残していた人である。
明恵といえばユング心理学者の河合隼雄ということで、
今回の対談本ができあがったわけだ。
ある程度、量を読むとこのような縁に驚くことも少なくない。
西行は一遍も井上靖も好きだし、こうして河合隼雄ともつながると不思議なものである。
河合隼雄は白洲正子の名著(とされる)「西行」の解説を書いている。
その解説文からいささか言葉を引く。

「西行こそ明恵が仏道の修行によって成し得たことを歌によって成し得た人であった。
そして、この『西行』のなかで白洲正子の指摘しているとおり、
両者の類似点は実に多いのである」(P155)


ひとつは西行も明恵も女からもてたということらしい。
西行は、ただ恋の歌らしきものを創作しているというだけで、
実際にもてたかどうかはわからない。
明恵は1回女犯(にょぼん/性交)の危機(好機?)が
あったという記録が残っているだけで、
これまた西行同様で実際にもてたという証拠はない。
女性インテリ文化人は、
どうして女性は男性の本質を見抜く目があるという錯覚におかしなこだわりを見せるのか。
インテリの女というものは「女は賢い」「女は男を見る目がある」
などと自画自賛を書いて恥ずかしくならないのだろうか。
さてインテリ女性文化人によると、
西行と明恵に共通しているのは数奇心(すきごころ/風流心/ものずき)だという。
河合隼雄の解説を聞こう。

「「数奇心」とはいったい何であろうか。
「心の数奇(すき)たる人の中に、目出度(めでた)き」仏法者は、
昔も今も出来(いでく)るなり。」とは明恵の遺訓のなかの言葉である。
明恵の一生は、言うなれば、「お釈迦(しゃか)さまが好きで、好きで」
通した人と言えるだろう。
西行は「歌が好きで、好きで」たまらなかった人ではなかろうか。
その「数奇」の極まるところに、深く烈しい宗教性が存在する。
ここに言う宗教性は、
別に何宗の教義を極めるとかいうのとは関係がないことだ」(P156)


河合、白洲、両者の意見が一致を見るのは、
西行も明恵も「一人っきり」の「一人の宗教」をつらぬいたところがいいと言う。
白洲正子は言う。
「歴史的にみると、教団を造った人たちは、その本人はいいけど、
あとでちょっと宗教とも呼べないようなものになってしまう。
西行もそうでしたが。明恵が一人っきりというところがいいですね。
本来、宗教ってそういうものではありませんか」
河合隼雄は同意する。

「俗化することによって、教団ができる。群れをつくらず、一人というのはすごいですよ。
(……) 教団を作ると、どうしても世間と接触するわけだし、
それから教団を維持するということも、大変な仕事ですよね。
宗教的でない仕事にすごいエネルギーを使わないけませんからね。
それから僕がすごく感激したことは、明恵は法然を烈しく批判するんですが、
あの時代、日本人で論理的な批判ができるというのが、
そもそも珍しいんですよ」(P187)


河合隼雄は明恵が好きで好きでたまらないんだろうなあ。
おそらく西行のことはあまりよくわかっていない。
なにしろ「ぼくは実は和歌は苦手中の苦手でしてね」(P78)
と正直に白状しているくらいである。
「何見ても一緒くらいの感じ」とか口が悪すぎるぜ、河合先生!
しかし、河合隼雄はあたまがいいから和歌が苦手な理由も自己分析しているのだ。
和歌は――。

「結局、いろいろな知識とか経験を全部背景にもっているなかで和歌が出てくるんで、
俳句でもそうですが、
それだけを鑑賞するのはほとんど不可能なんじゃないでしょうか」(P79)


わかるわかる、わたし河合隼雄先生のおっしゃることわかります。
和歌ってさあ、あの本歌を元にしているとか、漢籍の逸話がどうの、とか、
わずか31字の裏側の世界が広大すぎるんだ。
ひとつの歌に3つくらいの歌の影響が入っていて、
それを知らないとこの和歌の本当の味わいはわからないよ、みたいなさ。
あれって妙に高尚ぶった博識自慢になって、
その知的過剰な貴族趣味が好きになれない。まあ勝手にやってろよと。
しかし、人づきあいのいい河合隼雄は西行もすばらしいと調子を合わせる
大人になるとは、本当は大嫌いなものをそうではないふりをできるようになることだ。
本当のことはめったに言っちゃいかん。
表面上の好き嫌いとはべつの「かくれ里」のようなものを作ることを
心理療法家の河合隼雄はすすめている。

「それはしかし、本当にぼくのやってる仕事[カウンセリング]とそっくりですねえ。
各人が自分のかくれ里を各人の方法で見つけるのを助けてるわけですから」(P89)


「とにかく、文章の中に自分を全部出したらだめなんです。
言わないことがあって、その上にできてるから、すごいものになるわけです」(P96)


「本当のことを本物にいうっていうのが案外難しいんですね。
いえる人はすぐいえるんですけど。
で、あの男性のほうはやっぱりついついいろんな繋がりがあって遠慮するんですよ。
(……) で、本当のことをいえないんです。
本当のことをズバッといえるちゅうのは、これ女性の特権ですわ」(P212)


そういえば西行もプライベートのことを意図的に隠しているという説もあった。
河合隼雄も最後の最後まで本当のことを言わないで死んでしまった。
河合が最後まで口をつぐんだことは、
「カウンセリングはかぎりなくインチキに近い」だったのではないかとわたしは思う。
むしろ、インチキだからカウンセリングで人はよくなることもあるというか。

和歌はわからないと言っていた河合隼雄だが、
晩年には少しずつ興味を持ち始めたようだ。
本書の後半でも自作の和歌を披露している。
在原業平の有名な歌に以下のようなものがある。

「つひにいく道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを」

いつか死ぬとはむかしからわかっていたが、まさか昨日今日とは思っていなかった。
河合隼雄はビジネスマン相手の講演会でこの歌を紹介したという。
みなさん毎日ビジネスでお忙しいでしょうけれど、
下の句をここにいらっしゃるみなさまがつくるとしたらどうなさいますか?
おなじことを対談で作家の大庭みな子に聞かれて河合隼雄がつくった歌は――。

「つひにいく道とはかねて聞きしかど 聞きしにまさるこの花道ぞ」

河合隼雄が「わたしの死」を「消滅」や「断絶」ではなく、
「移行」あるいは「完成」と思っていたことがよくわかる。
もしかしたら本文にあるようにそうであってほしいと願っていただけかもしれないが、
それは社交上手の男の謙遜と受け取るほうが正しいような気がしてならない。

「西行物語」(全訳注:桑原博史/講談社学術文庫)

→「西行物語」は西行の没後50年ごろできたとされる作者不詳の物語である。
西行がこんな人だったらいいなあ、という多数派が夢を託した物語だろう。
西行のプライベートはほとんど記録が残っていないという。
「西行物語」のようなものが生まれる下地にはこのような事情があった。
わたしはファンである踊り念仏の一遍が好きだったからという理由で、
この齢になってふたたび西行ワールドに分け入った。

むかしからみんな組織(会社/出世)や家族(親愛)を求めてきたけれど、
それは見方を変えれば(彼岸から見たら)現世(この世)に執着しているとも言えよう。
会社に依存しているからこそ同僚の何気ないひと言が許せなかったりする。
尊敬していた上司が左遷されて悔しい思いをするのも、
嫌いだった同僚が出世して自分をあごで使うのも、みな会社にいるがためである。
片方の家族は絶対楽園かといえばそうではなく、
家族がいるから宮仕え(会社通勤)を自由に辞めることができない。
家族は和気あいあいとしたものばかりではなく、お互いを縛り合う。
夫は妻にこうしてほしいと思うが、かならずしも妻は応じてくれるわけではない。
妻も妻で夫に期待をするけれど、夫は稼いだ金をすぐ酒でのんでしまう。
親は子の将来に期待をかけるけれど、望めば望めばグレるのが子どもである。
親を憎むようになる子どももわんさかいることだろう。
出世争い、家庭不和、サビ残、無給の早出、言うことを聞かない部下に息子
――もううんざりだ。もういやだ。限界よ。バカヤロウ。
おれはこんなことをするために生まれてきたんじゃない。
もっと人間らしい精神的な意味深い命を生きてみたい。
だがしかし、ところがだ。
エリートコースにいてあたたかい家族にも恵まれていた西行は、
こういう理由で出家したわけではない。
どうして西行が出家したかはだれにもわからない。
それは釈迦(しゃか)が出家した理由がよくわからないのとおなじである。
あるいは恵まれすぎていると人は強烈な不安に襲われるものなのかもしれない。
いったいなにに対する不安がいちばん恐ろしいのか。

おそらく古今、多くの人が出世競争の愚かさや家族団らんの嘘くささに気づいていた。
しかし、宮仕えでもしないと家族でもつくらないと、いったいなにをしたらいいんだ?
家を出て会社に行かなくてもいいと言われたら、さあどこに行くところがあるというのだ?
夕暮れ、みなが帰途についているとき、帰る家がなければどこへ行けばいいんだよ。
公園のベンチに座ってなにもしないでいると、考えることは決まっている。
「死」である。出世競争や家族のことであたまを悩ませているかぎり、
人は「死」を直視しないでいられる。
しかし、考えれば考えるほど「わたしの死」のほうが会社や家族よりも重要である。
なんのために生きているのか? 
おれは会社のために生きているのか?
おれは家族のために生きているのか? ――それのなにが悪いもんか?
おれは悪くないね。しかし、会社はいつどうなるかわからない。
だから、がんばるんだろう。毎日せっせと働くんだろう。
たとえ会社を定年退職してもおれには家族がいる。家族?
おれには家族なんてものがいるか? 妻との関係は冷え切っている。
息子は高校のころにバイク事故であっけなく死んでしまった。
いまでも息子のことを思うと胸をかきむしられる思いがするが、
いくら願っても生き返ってこないし、
こんなに苦しむのならいっそのこと生まれてこなければとさえ思うこともある。
妻はいまでもおれをちくちく批判する。
仕事仕事で息子の相手をする時間が惜しいから、
気前のいい父親ぶりたくてほいほいバイクを買ってやったんでしょうと。
そういえば死んだ息子はどこに行ったんだろう。
おれもじきに死ぬだろうが、死ぬための準備をなにもしてこなかった。
たしかに仕事はしたし(部長まで行けた)家族もいるけれど(マイホームだってある)、
しかし、もっともたいせつな仕事(わたしの死)には、
これまでまったく手を触れてこなかったのではないか。

しかし、いいか、いいかよく聞け、人生そんなものだとも言いうる。
むかしから人間はそのように生きてきて、わけのわからないままに死んでいった。
人間なんざ、そんなもんだ。
しかし、なかには西行のような生き方をするものもいた。
西行は25歳で出世確実のエリートコースとかわいい妻子を捨てている。
西行のように生きたいという人は多かろうが、現実がそれを許さない。
このために古今西行の歌は愛され、
歌人の死後には「西行物語」のようなものもできたのではないかと思う。

「あの世」などあるかどうかもわからないが、もしかしたら
「この世」よりも「あの世」のほうがはるかに重要かもしれないのである。
「あの世」は「この世」の百万倍でも少ないくらいの永遠にも近い時間があるかもしれない。
かもしれないという推測ではなく、そう記載された仏典はいくらだってある。
そして、「この世」から「あの世」へは珍宝も妻子も家来もなにも持っていけない。
せいぜい持っていけそうなのは「この世」で養った「たましい」くらいである。
しかし、「たましい」をどうすれば上等にできるかはわからない。
いや、いちおうは仏道修行をすれば「たましい」は磨かれることになっている。
西行は25歳で出家しておのれの「たましい」を磨こうとしたのではないかと思う。
どうしたら「たましい」を磨くことができるか。
「わたしの死」を見ることだ。「わたしの死」を考え尽くしたらなにをすべきか。
仏道修行をすることだ。西行にとっては和歌創作が仏道修行であった。

「遁(のが)れなくつひに行くべき道をさは 知らではいかが過ぐすべからむ」
「いつ嘆きいつ思ふべきことなれば のちの世知らで人の過ぐらむ」


西行の願いはなんだったのか?

「臨終正念 往生極楽」(P83)

正しい念(おも)いのうちにわが臨終(死)に立ち会って、極楽に往生することである。
出家したものにとって目標は自然まかせの美しい死なのである。
「この世」のことは捨てて「あの世」のために生きるのが仏僧。
「あの世」のことを強く念じたら「この世」のことは捨てられる。
そのためには孤独に生きなければいけない。
うわさ話を聞くと、ついつい人と自分を比較してしまうからである。
本当の出家者は死を待つ人と言えよう。
死(極楽往生)を待っていたら桜の季節が来てしまう。
西行の住むあばら家にも花見と称してかつての仲間がやってきていろいろ駄弁る。
ついむかしの縁者の盛衰のことなど耳にしてしまい心が曇る思いがする。
花が咲くのはいいけれど、こういう花見がなければもっといいのにと西行は思う。
むろん西行とて花見が嫌いなはずがないのである。
桜の花と同様に人間が好きでたまらないのに人間嫌いのふりをする西行が好きだ。
おそらく自分もまたそういう屈折した人間だからだろう。

「柴の編戸(あみど)の明け暮れは、仏の御迎えいつならむと待ち奉(たてまつ)るに、
さもあらぬ昔の友、「花見に」とて集まるついでにも、何となき昔語りにも、
心の乱るる方もありければ、「よしなし」と思ひ、
  花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」(P87)


西行にとって出家とはひとりのよろしさを、
深々と噛みしめ味わう行為であったことと思う。
当時は(いまはこればかり)
寺院という群れのなかでの出世を求めて出家するものも多かったが、
西行はそうではなかった。
ひとりでなければ、孤独でなければ「わたし」を正面から見据えることはできない。
「わたし」を孤独でひとりぼっちでずっと見つめていると、
そこに「わたしの死」が浮かび上がる。
みなみな「わたしの死」と極力向き合わないようにお仲間と群れている。
それでいいのであって「わたし」ほど怖いものはないし、
「わたしの死」は神仏が寄り添わないとグロテスクすぎる。
「わたしの死」よりもあるいはやばいのは「愛するものの死」である。
「愛するものの死」には仏教世界のすべてが込められていよう。
死とはなにか? 愛するとはなにか?
かつて彼を愛さなければ、いまの苦しみはなかったのではないか?
それなのになぜどうしようもなく過去の自分は彼を愛したのか?
最愛の彼が亡くなったいま、自分にどのような生きようがあるのか?
人を愛するから愛するものを失う苦しみを味わわなければならない。
ならば愛とはなにか? 
自分はなにに迷っているのか? この苦しみに救いはあるのか?
こういう問いへの答えは「考えよ」しかない。
ひとりぼっちになって孤独に考えて考えて、そうして自分だけの答えを見つけるしかない。
その答えは万民には通用しないかもしれないが、あなたにとっては100%の正解だ。
ひとりで考えよ。孤独に苦悶せよ。泣け叫べ呻け。その先に自分の答えがある。
西行が知り合いの家に行ったら、旦那は死んで奥方は泣き暮らしていた。
仏僧の西行はこの未亡人を救ってはいない。
西行が示した道のりは、ひとりぼっちで考えてみましょうという険しく厳しいものだった。

「年頃知りけりたる人のもとへ尋ね行きたりけるに、
「男ははや失せにけり」とて、女房ばかり泣きゐたりければ、
西行出(い)でざまに、障子(しょうじ)に書きつけけり。
  亡き跡の面影をのみ身に添へて さこそは人の恋しかるらめ
京中も、何となく匆々(そうそう)なる事のみありて、心乱れければ、
  遥(はる)かなる岩の狭間(はざま)に一人ゐて 人目思はで物思はばや
  あはれとて問ふ人などなかるらむ 物思ふ宿の萩(おぎ)の上風(うはかぜ)
  枝折(しをり/帰途の準備)せでなほ山深く分け入らむ 憂き事聞かぬところありやと」(P172)


みんな「この世」をどうしようもなく生きている。
出家するとは甘えとか逃げとか責任回避とか、
そういう「この世」の言葉をすべて捨て、「あの世」に生きることではないか。
礼儀や常識は「この世」の言葉の象徴である。
「あの世」は礼儀、常識どころか善悪も正否も上下も苦楽も男女も生死も、
そして悲喜さえも存在しない。
愛するわが子が死んだ悲しみさえ存在しないのが「あの世」である。
「この世」を捨て出家するということは「あの世」を生きるということ。
仏教で人が救われるのは「この世」ならぬ「あの世」を説いているからだと思う。
「あの世」はあべこべの論理なのである。
「この世」ではきれいなおねえちゃんを口説いてモノにする瞬間に
逃げられたらそれはアンラッキー。
しかし「あの世」の論理ではそれはまたとない僥倖(ぎょうこう)になる。
据膳のナイスボディーのおねえちゃんに逃げられたのも、
仏さまのおかげで姦通という罪を犯さずにすんだことになる。

「昔、阿南尊者[もてない仏僧]、摩登伽女という外道の娘[ヤリマン美女]に逢ひ、
すでに禁戒を犯さむとし給ひしを[よっしゃあ、やれるぞと股間をパンパンにしたとき]、
仏、神通を以て見給ひて、文殊に仰せて[仏さまが文殊菩薩に指令をくだして]、
仏頂心呪を充(み)て給ひしかば、欲心やうやう失せて、戒を破り給ふ事なし。
[難しいことをすべてはしょると男は女とやれなかった]
これ一世二世の契りにあらず。五百生の縁なりと、仏説き給ひき
[こういうことは前世とか前々世の話ではなく「五千回の生死」の影響かもね]」(P68)


宗教団体に入らないで、つまり群れないで、
孤独、ひとりぼっち、ひとりひとりひとり考えていたらそういう発想も生まれるということだ、
たとえば、名誉や称賛というものは「この世」への執着を残す「魔」。
若いころに変に有名な賞でも取って脚光を浴びたら死ぬに死にきれないだろうなあ、

「名聞・利養は悪道の因縁、妻子・所従は生死の絆」(P39)

おさない自分の娘はかわいいが、そのらうたげなる有様、
よにいとけなき、類なき姿こそ「あの世」への障害物である。
「あの世」からみたらかわいいわが娘の笑顔こそ成仏への最難関かもしれない。
かわいい娘から微笑まれたら、だれが出家(冒険)なんてできるものか。
男という男はみんなどこか出家(脱会社/脱家族)を願っているが、
「この世」のルールに縛られているためそれができない。
西行のような「あの世」を生きる出家者にはそうそうなれるものではない。
あの西行もまたそうであったのだ。

「過ぎにし方、出家の思ひをとどまりしも、この娘ゆゑなり。
されば第六天の魔王は、一切衆生の仏にならむことを障へむがために、
妻子という絆(きづな)を付け置き、出離の道を防ぐといへり。
これを知りながら、いかで愛着の心をなさむや。
これこそ陣の前の敵、煩悩の絆を防ぐといへり。
これを知りながら、いかで愛着の心をなさむや。
これこそ陣の前の敵、煩悩の絆を切る初めなり」(P63)


西行がどうして「この世」にアッカンベー(出家)できたのかはわからない。
ただアッカンベー(出家)の意味は西行の句からわからないことはない。
「この世」の不幸は「あの世」の幸福である。
「この世」でかりそめ死んでも「あの世」でかならずよみがえる。
「あの世」から見たら「この世」のことなどなんだっていい。
「この世」の人間の目的は死んで「あの世」に行くことである。
「この世」の自殺は「あの世」では勇気ある名誉あふれた輝かしい行為である。
「この世」のプラスは「あの世」でマイナスになり、
どれほど嘆かわしい「この世」のマイナスでも「あの世」ではそれ以上のプラスになる。
西行が悟った真理を言語化すればこのようになるとわたしは思う。

「願はくは花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ」(=自然に死にたい)

「西行・山家集」(井上靖/学研M文庫) *再読

→西行は自分が和歌をつくるのは、
仏師が木から仏像を彫り出すのとおなじと言ったという伝承が残っているが、
このエピソードはとても意味深いものがあるのではないか。
一本の木は木に過ぎないが、そこに仏のすがたを見て彫り出すものがいる。
いっぽうで世界というものは言葉であると言ってもよかろう。
宇宙も太陽も月も星々も草花も畜生も人間もそれぞれ名前がついた言葉である。
世界は言葉に満ちている。
西行は仏師が木から仏像を彫るように、
世界の無数の言葉から厳選した31文字を彫琢(ちょうたく/磨き出す)する。
五七五七七の31文字では一見するとなにも伝わらないように思えるが、
31文字を読むわれわれも
(人によって語彙(ごい/ボキャブラリー)は異なるにせよ)、
それぞれが独特の言語世界を生きている。

話を脱線するが、西行を思慕していたのが踊り念仏の一遍である。
一遍は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれた札を、
全国を旅しながら貴賤を問わず配って布教していた。
長らく、どうしてそんなことを一遍がしていたのかよくわからなかった。
紙切れを配ってそれで布教が終了というのは理解しがたいと思う。
しかし、当時一遍が布教対象としていたのは無学な文盲の人たちだったのである。
変なことを書くと、セレブという言葉を知るから、
いまの庶民もセレブでないことに苦しむのである。
幸福という言葉を知るから、自分たちの家族は幸福か? と問うようになる。
反対も言えて、地獄という言葉を知らなければ地獄に堕ちる苦しみを考えないでいられる。
不幸という言葉を知らなければ、虫けらのような貧農もつつがなく淡々と生活できる。
さて、踊り念仏の一遍が配った札は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」。
「六十万人」というのは人数が多いことの意味で、「みんな」と解釈してよい。
南無阿弥陀仏と唱えたら全員、死後に極楽浄土に往生することが決定しているよ。
一遍の配った札の意味はこうであった。
虫けらのように生きる無学で文盲のあぶれものたちは、この言葉にどれほど救われたか。
「迷い」「生きづらさ」という言葉を知らなければ楽なのと同様に、
「救い」「救済」という言葉を知らないものは
未来永劫(みらいえいごう)救われることがない。
とするならば、一遍は旅をしながら
救いの言葉を全国の苦悩者に配ってまわっていたことになる。
毎日虫けらのようにこき使われて、死んでハイ終わりじゃ、それではあんまりではないか?
しかし、そうではない。「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」である。
おそらく貧しい言語世界しか持たぬ当時の貧民が、
一遍からこの札(言葉)を受け取ったときの歓喜はいかほどであっただろうか。

「救い」というのは「言葉」なのである。
なにかが「救い」なのではなく「言葉」そのものが「救い」の実体であり機能である。
踊り念仏の一遍が配ってまわった言葉「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」は、
いまでたとえるならば「フロー状態」や「マインドフルネス」、
ちょいと古いが「臨死体験」も似たような機能を持つ言葉だろう。
だれがいちばん救われているかといったら、最初に救いの言葉を発明したものだ。
南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも密教の真言(呪文)でも、
フロー状態でもマインドフルネスでも無為自然でも則天去私でもおなじこと。
そう考えると、出家した仏僧の西行が、
わが歌こそ救済の真言であると言語作品を仏像に比した理由もわかるのではないか。
いま苦しんでいる人は大勢いるだろう。
その苦しみは「言葉」である。うまく「言葉」で説明できないから苦しいのかもしれないが、
苦しみの本質は「言葉」だと思う。
苦しみを理解するにはその苦しみをなるべく適切な「言葉」にしてみるのが第一歩である。
世界は「言葉」であるし、ならばその世界での苦しみが「言葉」でないはずがない。
あたまのいいものは苦しみを「言葉」で書き出しているうちに、
なんと陳腐なものかとわれながらあきれるだろう。
そこまでの自覚ができたら苦しみを対象化したことになるのだが、
あんがいそこに行くまでがいちばんの難路なのかもしれない。
そうして人は自然に「言葉」そのものが「救い」であることに気づくときがくる。
言葉によらない抱擁(ハグ)、性交(セックス)のような「救い」もあるだろうが、
それは一時しのぎの面があり(そこがいいのだろうが)、
その「救い」も説明するためには結局のところ「言葉」を必要とする。

人生は苦しみに満ちているが、
通俗仏教的に説明すればその苦しみの原因は「契り(前世の因縁)」になろう。
いくら「契(ちぎ)り」の意味が「前世からの因縁」と教わっても人は救われない。
自分で自分から自分の言葉で深々と「契り」を認めたとき、
ときに「救い」のようなものがもたらされることもあるのだろう。

「苦しみにかはる契りのなきままに ほのを(炎)とともにたちかへるかな」

前世で善根を積まなかったから、いま苦しんでいるのだろう。
いまいい思いをしているやつらは前世からの契りによるのだから嫉妬をしても詮ない。
とはいえ、恵まれた人を見ると、つい黒々とした感情が身を焦(こ)がす。
パンダのように白になったり黒になったりする心だが、
この心は前世よりの契りでいかんともしたがく、
はてまあ、さてさて終(つい/死)のときには、
いざ臨終にいたったらどんなことを思うのか。

「おろかなる心のひくにまかせても さてさはいかにつひ(終)のおもひは」

契り(前世の因縁)は悪いばかりではない。
むしろ、この契りこそ「命なりけり」なのではないか。命とは契りのことではないか。
ある人の死に際したときの西行の有名な和歌がある。
酒豪で文豪だった井上靖がとても好きな歌だという。

「今宵こそおもひ知らるれあさからぬ 君に契りのある身なりけり」

これはせんえつながらわたしも大好きな歌だ。
正直に白状すると、10年まえはこの歌の意味がよくわからなかった。
人との出逢い別れには「契り」がかかわっているというのが世俗仏教の真理だと思う。
なぜある人とある人が出逢うのかは「たまたま」だが、
それを「契り」と見るのが日本仏教ではないか。
みなさんもそうでしょうが、わたしにはことに多く、お世話になった人というのがいる。
1回きりの出逢いでも、むしろそれだからこそ「契り」を深く感じることがある。
親子関係、きょうだい関係は「契り」の最たるものでしょう。
最近のことで言えば、いまの職場のバイト面接で最初に工場長にお逢いしたとき
「契り」のようなものを深く感じたもの。
副工場長から飲みに誘われて
(上司から飲みに誘われるなんて人生初で、まさかわが人生で、と最高幸福体験でした)、
このカタギの口うるさいマジメな、
しかし不良がかったところもある善人にも非常に強く「契り」を感じたものである。
たぶん言ってもわかってもらえないだろう、
不思議な関係の親友との電話を終えて受話器を置くときも感じる。

「今宵こそおもひ知らるれあさからぬ 君に契りのある身なりけり」

どうして人と人は出逢いそして別れるのか。
出逢いの意味は? 別れの意味は? おそらく答えのひとつが「契り」になるのだろう。
もしかしたら偶然やたまたまなど存在しなくて、すべてが「契り」なのかもしれない。
「契り」はどこにでもある。
たとえばいまあなたの家のまえに立つ松とあなたの関係も「契り」である。
自宅のまえの松よ、おれが死んだあとはどうなっているんだろう。

「ひさに経てわが後の世を問へよ松 跡(あと)しのぶべき人も無き身ぞ」

仏教的な「契り」に思いをはせれば、庭の松も友だろう。
ペットの犬や猫も、庭の草花草木も、たとえ置物やぬいぐるみでさえ友になるだろう。
このあばら家を離れたら長年の我が友だった松が孤独になってしまう。

「ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば 松は独りにならむとすらむ」

社会的大成功者の文豪、しかし酒豪で孤独だった井上靖は、
西行の魅力をとてもわかりやすく言葉で表現している。

「西行は花鳥風月の歌人ではない。
こうした何を信じていいか判(わか)らぬ時代にも、
なお変わるものがあるかも知れない。もしあるなら、自然であれ、人情であれ、
それを見届けたいと思ったことであろう。
反対にないならないで、またそれを見届けたいと思ったに違いない。
もうしそうでなかったら、西行は西行ではないのである。
西行の生涯を通じてのその仕事(和歌)から、
人間というものを、人間の孤独というものを、
その孤独な人間が生きる現世というものを見極めようとする」(P138)


井上靖は日本文学史上にまれな大成功者であった。
40歳を過ぎてから出世して、それだけ人の世の浮き沈みがよく見えたことだろう。
若くして華々しく出世したはいいが、その後泣かず飛ばずで終わった人。
終生努力など報われることなく終わった人も文豪の井上靖はたくさん知っていた。
井上靖の好きな西行もまた、激動の歴史のなかを生きた人であった。
正義や悪などというまやかしの言葉では理解しきれぬ現世を見た。
見ただけではなく、これがこの世であると西行は詠った。

「かかるよ[世]に影[光]もかはらず澄む月を 見る我が身さへうらめしきかな」

正義の人が破れ、悪徳な人が栄えるこのこの世で輝く真如の月とはなにか?
その月をこうして見ている自分とはどういう存在なのか?
いったいなにを目指して生きていけばいいのか?
西行は奥州の平泉を目的として旅したことがあった。
もっとも西行が見たかったのは古戦場である衣川(ころもがわ)である。
苦難の連続の旅で目的地に到達した西行の心境はいかなるものか。
これは人生でおよそ人が望むあらゆるものを
手に入れた文豪の井上靖の老境にも通じるものだろう。
最終目的地に着くことにいちおうは成功した西行は、その味気ない心境を言葉にする。

「とりわけて心も凍(し)みて冴えぞわたる 衣川見に来たる今日しも」

もしかしたら古人が多く来訪を望んでいた死後の世界は、
阿弥陀経に書かれている金ぴかの世界ではなく、
西行が描いたところのさみしいわびしい世界なのかもしれない。
しかし、そこを目指して多くの日本文化人は生きてきた。
おのれの見たことを、おのれの心が見たことを西行はおのれの言葉で書いた。
西行の境地を目標とするものは多いが、それは踊り念仏の一遍であり井上靖であり、
恐れ多くもこの文章のつたない書き手もそのひとりかもしれない。

「西行 魂の旅路」(西澤美仁/ビギナーズ・クラシックス日本の古典/角川ソフィア文庫)

→西行は平安~鎌倉時代の歌人。出家した僧の身分でいろいろ和歌をつくった。
もとはいいところの武士出身だったらしい。出世も確実視されていたとのこと。
文盲の貧民がロックミュージックで一発当てたとか、そういう話ではない。
きちんと文化資本のあるところに生まれたいいとこの坊ちゃんが、
世を捨てて(これを出家という)坊主になり仏教的な和歌をつくりまくった。
けどさ、出家しているんなら表現欲や、
他人の評価を期待する煩悩(ぼんのう)はどうなってんだって話は当然あるだろう。
そこのところを西行は、自分にとっては和歌創作が仏道修行だと言い放っている。
自分の創作した和歌のひとつひとつはそれぞれが仏像なのであると。
これは「明恵上人伝記」に記載されているエピソードで、
ところが、学問的には明恵と西行が出逢い語り合ったことは事実ではない、
と否定されている。
しかし、和歌創作こそ仏道修行という西行のポリシーの真偽はわからない。
むしろ、「明恵上人伝記」に書かれるくらい有名で、
一般にも流布していた真実だったという可能性もなきにしもあらずではないか。
具体的には「伝記」で西行は年下の明恵にこう言ったことになっている。

「此(こ)の歌、即(すなは)ち是(こ)れ、
如来[にょらい/仏さま]の真(まこと)の形体なり。
されば一首読み出でては、一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては、秘密の真言[呪文]を唱(とな)ふるに同じ。
我れ此の歌によりて法を得ることあり」(「明恵上人伝記」講談社学術文庫P167)


自分のつくる歌こそほんものの仏さまである。
であるからして一首自分が和歌をつくるというのは一体の仏像を彫るのとおなじで、
この一句を考えて考えて言葉の海から創作するのは、
仏教の秘密の呪文を唱えるのと意味的には等しい。
自分は和歌を創作することで奥深き仏法を学んでいる。
この姿勢を文化人の白洲正子は、
「西行は、究極のところ、自分の歌しか信じていなかった」と評しているそうだ。
仏さまは自分の奥深くに鎮座ましまして、
ならばこの口から出てくる言葉こそが本当の真言(呪文)だという確信である。
西行はお経(の文句)ではなく自分の口から出てくる言葉を信じた。
その心境(信心)を表現したものとされる有名な歌がある。
表面の文意は、いくら山奥のことを知っているといっても、
実際に住んでみなければその奥深い味わいはわからないよ、とでもいおうか。

「山深くさこそ心は通ふとも 住まであはれを知らんものかは」

いくら自分の奥深いところに到達したといっても、
本当にそこに言ったものしかその境地はわからないし言葉にもならない。
そこに行かないとわからないよという言語不信の歌になるのかもしれない。
いくら西行の和歌をお勉強で読んでも、
そういう心境はおのおのが体験していないならば理解できないだろう。
個人的にはどんな秀才でも、
大学生の時期に西行がわかるものは極めて少ない気がする。
では、西行の信心(心境)とはどのようなものだったのか。
これは西行の歌ではないという学説もあるそうだが、本当のことはだれにもわからない。
そして、西行の歌ならよくて、ほかの人の歌ならダメというのは単なる権威主義。
出家した仏僧の歌人が神道の伊勢神宮を参拝したときの歌だという。

「何事のおはしますを知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

若い人はわからないだろうけれど、わかんないかなあ、この感覚。
世界の裏側になんか神仏のようなものがいるんじゃないかっていう感覚のことさ。
もう書いちゃおう。今年の2月、いろいろと因縁のある父が脳内出血で倒れたのよ。
半身不随で一時期はやばくて、仕事もなにもかも辞めて同居介護生活の可能性もあった。
ところが奇跡的に持ち直し、なんとか独居生活ができるまで父は復活した。
おめでたいなあと父と逢ったその日にわたしが自転車事故を起こして鼻と肋骨を折る。
昨日とおとといにあったことである。これは絶対になにかあるっしょ?
一生公開することはないかもしれないが、わたしの人生ではこういうことがけっこうある。
プラスもマイナスもいろいろ不可思議なことが人生である。
学問としては、お勉強としては神道と仏教は違うわけでしょう?
でも、西行の心のなかでは神も仏もおなじだった。わたしもおなじような信心を持っている。
出家した仏教徒の西行は神木(しんぼく)にタオルをかけるという、
伝統行事の神事をして一句つくる。

「榊葉(さかきば)に心をかけん木綿垂(ゆふしで)て 思へば神も仏なりけり」

うちは無宗教だけれど、実家が仏教の人でも神社に初詣に行くのではありませんか?
「初詣大凶に今日恐々し 思へば神も仏なりけり」
いま即興で遊び心でつくったけれども、こういう和歌でもぜんぜん構わないわけ。
意味はだれもわからないだろうけれど、創作者の心情は、
おみくじで大凶が出ちゃったけれども神さまは仏さまとおなじなんだから、
まさか罰をくだすようなことはないだろうから安心くらいかしら。
これが真理がどうかはわからないけれど、自分でそう信じていたらいいとも言えよう。
けれどさ、神さまと仏さまは違うなんてだれが証明したわけ?
どんな偉い学者が神と仏は違うと言っても、それは絶対的真理ではないでしょう?
いうなれば、その人の(権威的)真理っていうか。

いきなりだが、真理とはなにか?
真理とは、ある人が真理だと信じていること。
真理とは、みなを喜ばせること。
真理とは、絶対に虚偽であると証明できないこと。
だとしたら、西行の言葉は仏法の真理であろう。
その意味で、わたしの言葉もあなたの言葉もそれぞれ真理である。
西行の歌は西行作だから真理なのではなく、
西行がこれこそ仏法の真理だと信じていただろうから、
その確信が西行の和歌に意味を与えているといえるのではないか。
西行の真理は西行にしかわからない。
しかし、それは西行が真理と信じているからどこまでも真理である。
もしかしたら西行ではない人にはわからない真理なのかもしれない。

「山深くさこそ心は通ふとも 住まであはれを知らんものかは」
「何事のおはしますを知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
「榊葉(さかきば)に心をかけん木綿垂(ゆふしで)て 思へば神も仏なりけり」


おととい鼻骨と肋骨を骨折して病気療養中。
たしかにいま鼻と胸の下(肋骨)が昨日よりもはるかに痛い。
身もふたもない話をすると、病院に行くまでは鼻も肋骨も大丈夫だと思っていた。
このくらいならなんとかなるんじゃないかと甘く見ていた。
しかし、「鼻骨骨折」「肋骨骨折」という医学的診断(=言葉!)が加わるとたまらない。
診断された直後から痛みが倍増し、三倍増しになったものなあ。
へたに動くと肋骨が肺に刺さるとか医療者から
助言(=脅迫=言葉)されるとガクブルだって。
「痛み」も「あはれ」も、
うまく言葉の大海から適宜(てきぎ)言葉を拾って接続しないと伝わらない。
相手の言語能力にも言葉の伝達は大きく依存している。
必要なのは自分の言葉のみならず、相手の言語海の深さである。
発信者と対話相手の、その言葉の接続仕様が言語芸術のかなめだろう。
しかしながら究極的に言葉はその人の「痛み」や「あはれ」を伝えることはできない。
相手の広大(あるいは偏狭)な言語海のなかから、
こちらの「痛み」や「あはれ」を想像(妄想)してもらうことしか言葉にはできない。
それでも人は言葉に頼ろうとする。いまわたしがこうしているように。

いまそうとうにやばいのではないだろうか?
非正規雇用。自転車自損事故。鼻骨肋骨骨折。ひと言でいえばいまもいま「痛い」。
しかし、人には言葉があるということを西行から学ぶ。
こういうマイナス経験をしていなかったら西行の言葉をよくわからなかったかもしれない。
しかし、西行の言葉など理解したからどうだという庶民的損得勘定もまた真理である。
「お大事に」は「お気の毒さま」とならぶ「対岸の火事」的な表現だと思う。
そういう言葉があるから救いなのだが、
そういう手あかのついた言葉では救われないものが
西行の和歌を愛誦するのかもしれない。

出家とはどういうことか?
公式的な意味では、世間と縁を切ることだが、
むかしは名家のご子息さまが宗教界での出世目的で出家することも少なくなかったという。
西行がどういう理由で出家したのかは(客観)学問的には判明していない。
おそらく永遠に学問ではわからないことだろう。
出家とはおそらくいまの言葉でいえば、会社を捨てる、家族を捨てるということ。
今日も今日、有給休暇をいただいたわたしが会社を捨てるなんてとても言えない。
しかし、そういう生き方もあると思うと矛盾しているが救われるところがある。
会社や家族を捨てると自由だけど、しみじみ言うけど、孤独でさみしいよねえ。
肋骨を骨折して上司と携帯電話で話してどれだけ安心したか。
どこかの共同体(組織)につながっているということがどれだけ慰めになるか。
しかし、孤独もまたいいものだと出世エリートコースから脱落した西行はいう。
以下はただの和歌ではなく、仏教の真言(秘密の呪文)である。
孤独になるには世を捨てるしかない。

「鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん」

いったいおれどうなっちゃうの? という孤独者の叫びだろう
学問的には鈴鹿山の「鈴」と「振り」「なり」「なる」が言語世界の意味宇宙を象徴している。
でもさ、鈴鹿山って言われてもどこかわからんよねえ。
わかればそれだけこの言葉の意味は増すのだろう。
西行のいちばんの名句はおそらく、
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さや)の中山」だろう。
意味はどうでもよく、まあ「命なりけり」、つまり宿命だなあ、運命だなあと思うこと。
またこういう経験をするとは思わなかったけれども、これも「命なりけり」なんだなあ。
「中山」は地名で、お学問的には和歌の名所らしい。
そのことを知っていてはじめてこの和歌がわかるとか。
でもでもでもさ、そんなことはない。
わたしは中山さんという時給850円のバイト先で出逢った50男の先輩を知っている。
当方の偏った主観では、たいへんな人格者であった。
中山という言葉には学者には学者の意味があろうが、生活者には生活者の意味がある。
学者が感じる「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さや)の中山」と、
わたしが味わっている歌は言葉のうえではおなじだが、いったいどちらが深いのか。

数日まえ会社や家族など捨ててもいいと平気のへいさで思っていた。
だって、社会関係とか家族関係とか捨てたら楽になれるじゃない。それはさみしいけれど。
しかし、会社の人と毎日逢うことでどれほど救われているところがあるか、とも言いうる。

「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けれめ」

社会関係(職業関係・家族関係)を捨てたほうがかえって身を助けるぞという意味だ。
最初のほうの言葉はふたつの解釈がある。
「どうしようもなく捨てられない世間の価値観だが」というのがひとつ。
もうひとつはエリートの西行の本音をかんがみて、
「世を捨てようと思っても世間のほうがわたしを捨ててくれないが」という解釈。
どちらとでも解釈できるし、どちらも「正しい」し、どちらの言葉も人を救うと思う。
しかしまったく世を捨てるとさみしい。だから人は職や家族を求めるのかもしれない。

「古畑の岨(そば)に立つ木に居る鳩の 友呼ぶ声のすごき夕暮」
「谷の間にひとりぞ松も立てりける 我のみ友はなきかと思へば」
「淋しさに堪へたる人もまたあれな 庵(いおり/小屋)並べむ冬の山里」


どうしたら壮絶な孤独感に辛抱できるかといえば、
どれほど浄土(来世/死後の世界)を信じているかだろう。
もうこの世はいいじゃないかと、どれだけポップなミヤコをあきらめられるか。
いまは東京というミヤコにあるテレビから垂れ流される浮き世の
毀誉褒貶(きよほうへん/賞賛や罵倒)などこの世のことはどうでもいいではないか。
いつまでもこの世に住むものでもあるまい。

「長らへて終(つひ)に住むべき都(ミヤコ)かは この世はよしやとてもかくても」

「この世はよしやとてもかくても」って言葉はいいよなあ。
世を捨てたつもりでいる世から捨てられた(=惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは?)
当方には「この世はよしやとてもかくても」という言葉ほど救われるものはない。
いくら肋骨が痛くても鼻骨がうずいても、しょせんは「この世はよしやとてもかくても」。
人はいったいなんのために生きるのだろう。
10年くらいまえだったか、
インドのガンジス河を最下流から源流の河口までさかのぼる長期個人旅行をしたことがある。
死んでもまあいっかと思っていたあの旅で無事故、無怪我、
会社に迷惑をかけるので怪我はやだなあと思っていたら鼻骨骨折、肋骨骨折、絶対安静。
いったい人生の裏側ってどうなっているのでしょうか?
ガンジス河の源流(河口)はガンゴートリー、ゴームク。
ガンゴートリーで月を見たかは覚えていないが、月を見たような気がしなくもない。
月もツキも偶然もたまたま見たような錯覚がある。
あの月(ツキ/運命)を見ていなかったとしたら、
いったいわたしの人生はなんだったのだろう。
中学を卒業したら知っていることになっている、「せば/まし」の反実仮想の法則の和歌。

「深き山に澄みける月を見ざりせば 思い出もなき我が身ならまし」

母親に目のまえで自殺されて生き迷って死のうとしてインドへ行き、
ガンジス河の源流まで個人旅行で行った晩に見た月が真理でなかったらどうなる?
真理とはそういう個人的理由で生み出されるそれぞれの言い訳ではないか。
それぞれがそれぞれ自分あてに出す処方箋が
真理というような可能性を考えてみるのも一興かもしれない。
どのみち言葉はなにも伝えられないのだろう。
きのう骨折と医学判断がくだったいまのわたしの鼻や肋骨の痛みは言葉にならない。
しかし、言葉にしようと思うものが言語表現をするのだろう。
あたかも西行のように、そしてこの記事を痛みに耐えながら書いた当方のように。
とはいえ、言葉はなにをも伝えられないという可能性も大である。
大げさなことを書くと、
きのうのレントゲン技師さんには当方の感覚が伝わったと思ったもの。
医学的な意味はわからないが3、4回レントゲンを撮影していただいたような気がする。
西行の作歌のみならず、言葉はすべて当人の現実を伝えない嘘なのかもしれない。
だがしかし、人は嘘かもしれないと疑いながら言葉を使用するしかない。
いちばんの罪悪は言葉なのかもしれない。

「身につもることばの罪もあらはれて 心澄みぬる三重(みかさね)の滝」

いまクリーニング関係のお仕事をありがたくもさせていただいているが、
わが身につもる言葉の罪も少しは洗濯して心身ともにキレイキレイにならないものか。
まずは仕事復帰しなければなりません。
そのためには安静。安静とはなにもしないこと。
散歩もしちゃダメ。まさに本でも読んでろってことで……。
この記事は「命なりけり」の気概で書いた駄文であります。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
結論はたしかに肋骨は痛いけれど、
これは「肋骨骨折」という医学的診断(=言葉)のためかもしれない。

*そうそうそうだ、学問的悪臭が強く、本書は決して初心者向けの本ではありません。

20日夜自転車事故を起こしてしまいました。
対人被害はない自損事故であります。
救急車で運ばれ顔面出血多量のため鼻を縫合。8400円。
翌日は傷だらけの顔で出社。周囲を騒然とさせました。
仕事帰りに近所の整形外科へ行くと鼻骨と左肋骨(ろっこつ)の骨折が判明。
1週間は絶対安静。
数週間は様子を見たほうがいい。
個人差はあるものの、おおむね痛みが取れるのは1ヶ月後。
骨がくっつくのは3ヶ月くらい後ではないかとのこと。
鼻が曲がっているかもしれないとのことで詳細な検査をしたいのなら、
と帝京大学病院耳鼻科への紹介状を書いてもらう。5600円なり。
日曜日に友人に電話でふざけて「人生ちょろいかも」などと口走った罰か。
精神科医の春日武彦先生の言うよう言霊の裁きがくだったのか。
会社は、正直クビになってもしょうがないと思っていました。
しかしながらありがたくも有給休暇で1週間様子を見ましょうと。
緊張しながらトップの工場長ともお電話させていただく。
一部始終をつたない言葉遣いで報告する。
最後におっしゃっていただいたのは、
「まあ、好きな本でもたくさん読んでいてくださいよ」
この会社には一生あたまが上がらないような気がします。
実際、肋骨の骨折の場合は待つしか治療法がない模様。
そのうえいまの仕事は思いきり肋骨に負担がかかるもの。
安静が治療だから開き直って本でも読んでいるしかないのかもしれません。
都民共済に入っていたら毎日1500円もらえたのか。
40歳の誕生日をさかいに入ろうが迷ったがめんどうなので放置していました。
まさか自分が肋骨(&鼻骨)骨折の憂き目に遭うとは思いもしませんでした。
人生で骨折したのははじめでだと思います。
運命の骨組みのようなものもポキッと折れて、
(笑われるかもしれませんが)これを機に人生が好転するかもしれません。

レントゲン写真↓
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↑鼻骨、左肋骨骨折 安静固定要
たまにならポジティブなことを書いてもバチは当たらないだろう。
「人生終わった」ようなことをネガティブに書き散らしてきたが、
昨日8年来の友人と電話で話してみて思い直した。
これからのわが人生は、あんがい春秋に富んでいるのではないだろうか?
40歳、非正規のアルバイト、独身、友人は2人、親類とは縁を切った。
ふつうに考えたら人生が積んでいるだろうが、
ふつうに考えなかったら春秋に富んでいるという見方もできることに気づく。
まあ、シニカルに言えば妄想の一種。
今年に入ってからプライベートでいろいろたいへんだったのよ。
そういうのは絶対に書かないけれど、運の落ち目かとも思ったもの。
それもどうにか一件落着を見せ、
どこまで当てになるか不明だが当方の健康状況も診断結果的には良好の模様。
職場にはパワハラ寸前の口うるさい上司がいるけれど、
悪い人ではないし、こういうおもしろい人に逢ったことがないので人生勉強になる。
会社自体は完全にホワイト。ブラックの「ブ」さえない。
今月26日に有給休暇をいただき母の墓参りに行く。
1年ぶりに逢う母になにを話そうかといまから考えている。
あれから16年経ったのか。不思議なことがぎょうさん起こりました。

40歳になって人生の目標は「自分を知る」「自分を深める」「自分を味わう」――。
「隣の芝生は青く見える」けれど、わたしには自分の庭しかない。
正確には庭もなく、ベランダしかない。しかし、そこから月が見られるのではないか。
窓のない独房以外ならば、お月さまが見られる。
隣の芝生を見るのもいいが、ときに窓を開けて月をながめるのもいいのだろう。
庭があるのなら、自分の狭い庭を耕すほかない。
人間はそれぞれの足下を掘るしかなく、そこにすべての宝が眠っているのかもしれない。
みすぼらしい石ころでも、
それがその人のかけがえのない宝物になることも絶対にないとは言えまい。。
本当の宝物とは価格はつかないけれど(売れない/買えない)、
本人がどうしても手放したくないもののことのような気がする。
ほしいものがないことが悩みのわたしの、いまほしいものはそれである。
ルールを破るには、ルールを知らなければならない。
ルールをよく知るものだけが、ルールを破ることができる。
ルールの仕組(いんちき)を深く知れば知るほどルールを無視することが可能になる。
チャリ暴走おばちゃんのなにが怖いかと言ったら、交通法規を知らないから。
もっと直接的に言えば、運転免許を取得していないから。
怖いのは、交通ルールを学習していないから。
みんなが基本のルールを知っていたら、
危ない動きはしないからクルマと違い、のろい自転車の事故はそうそう起きない。
左折とか右折とか、クルマにはルールがあるでしょう?
あれを知らないチャリがいるからドライバーは怖いのだと思う。
それに「弱者最強の法則」で、
チャリとクルマがぶつかると、どうしてかクルマが悪いことにされるし。
前回の運転免許の更新で、
最近は痴呆老人や泥酔者が道路に寝そべっていることがあるので注意しましょう、
と教室指導されて吹き出しそうになったけれど(笑ったかも)、
それはペーパードライバーでも
路上のどうしようもない障害物は避けられないことがわかるからだ。
上司は偉い、先輩は偉い、先生は偉い、権威者は偉い、
というのも交通法規のようなルール。
守らないと事故が起きるが、ルールをよく知っていたら破ってもよい。
かりにルールを学ぼうとするものがいたとしたら、
その暗黙裡の(無意識的な)目的は決まりを破ることではないかと思う。
たとえば「健康のために」というルールはあるが、知っていて破るのもおもしろい。
ルールを破ってもうまくいくことがあることを経験的に実感するからである。
しかし、そもそもルールを知らなかったら平気でルールを破ることができる。
最初に書いたことと矛盾するが、やっぱりルールを知らないバカが最強なのかなあ。
ルールを知らない人って怖いよねえ。しかし強い。
せめて知っていて破っているのか、本当のバカなのかわかれば対応ができるのだが。
わたしはどっちなんだろう? えへっ、えへへ♪
効率という考え方は、目的地(目標)を設定して、
そこに速やかに到達しようとする。
ということは、効率ばかり考えていると目的地にまでしか行けないわけわけだ。
なにを当たり前のことを言われるかもしれないが、効率は目標主義である。
世の中の人は出世とか結婚とか豊かな老後とか、
ある目的地を設定して効率的に「正しい」努力をしようとする。
どういうことかと言うと、行けるのはマックスでも目的地でしかない。
知っているところまでしか行けない。
知らない場所へは効率思考では行くことが難しいだろう。

むかし神保町の古本屋をぶらぶらして楽しかったのは目的がなかったからである。
ほしい本がほしいというよりも、ほしい本がわからないからぶらぶらするのが楽しかった。
「知らないものは存在しない」という法則がある。
しつこく繰り返すと、知らないものは知るまで世界に存在しない。
知らないところへ行きたい場合は、目的地を設定してはいけないということになる。
目的地は知っているところで定めるしかないわけだから。
旅でたとえるならば、とりあえずタイのバンコクまで行って、
そこから行きたいところを決める、
みたいな個人旅行がいちばん思い出深いものになろう。
どこに行きたいのか自分でもわからない旅こそおもしろい。
たとえばネットを使えば効率よくAに関する情報は集まるけれども、
目的ではないX(エックス)に興味を持つことはめずらしいだろう。
まあ、ネットサーフィンは人をどこに導くかはまだ未知の領域だろうが、
それでも古本屋のワゴンをあさるほどの楽しみはないような気がする。

いまわたしはほしいものがない。人生の目的もまるでない。
どうせみんな最後は死ぬんだし(死は人間の終着地でしょ?)、
効率やスピードアップばかり考えている人は早くお陀仏すればいいのに、
と思わないこともないが、それではひねくれが過ぎるだろう。
あんがい死の先にあるもののほうがよほど重要で、
この世のことは大したことがないのかもしれない。
本当の人間の目的地は死の先にあると考えるのが宗教とも言いうる。
ということは、なにもしなくてもいいのかもしれない。
なにもしなくても人間はいつか死んで、その先がなんなのかわかる。
そこまで達観しちゃいけないのかもしれない。

出世とか結婚とか健康とか名声とか、
とりあえずの目標があると死を直視しないで済むから便利なのだろう。
行けるものなら、いまのわたしがよく知らない世界に分け入ってみたい。
いま現在のわたしが知らない知覚を味わってみたい。
そんなものはセブンイレブンの新商品でごまかせるものという意見もまた「正しい」。
人間はどのみち行けるところまでしか行けないというのも「正しい」だろう。
運命的に宿命的に、あるいはご縁にしたがって。
あんまり力むと疲れちゃうよねえ。
著名な精神科医の春日武彦先生からありがたくもおコメントをいただいたので、
今晩は酒をやめて積んであった脱力系医師の先生のご本の1冊を読もうと思う。
はい深呼吸して、リラックス、リラックス。
お互い失敗してもいいから思うようにならないことに対して辛抱する練習をしてみよう。
最後にこころの名医の名言を紹介する。

「相手を自分と同じと思うから、
オレだったらあんなことはしないのにと呆(あき)れたり怒ったりすることになるんですよ。
あなたと違う考えや価値観の持ち主だっているんだから、
いちいち反応していたら疲れちゃいますよ」
徒歩20分(自転車10分)圏内ですべてを済ませられるのはネットのおかげ。
職場もスーパーもご近所さんなので、都心に出るということがめったにない。
本当に都心に出ることがなくなった。
これはネットのブックオフ(本)、カクヤス(酒)、ユニクロ(衣服)のおかげである。
最近はアマゾン(本)やドラッグストアぱぱす(飲料品)もひいきにしている。
ぱぱすは重い荷物(ゼロカロリー飲料)を、
わずか百円ちょっとで配送してくれるので大感謝。
むかしはチャリで二度往復したりしていたけれど、
時間効率を考えたら配送をお願いしたほうがはるかにいい。
安い配送料を考えるとこころ苦しいが、
そのぶん世の中にお金をまわしているとも言えなくもないわけだから。

今年の3月、楽天カードに入った。
楽天だったらいまの会社に入るまえも取れただろうから後悔しきり。
楽天カードは迷惑メールが半端ない数くるので要注意。
こちらの手続きがまずかったのか、
いまだけ7千(5千?)ポイントプレゼント(?)もなかったし。
クレカがあると気楽にアマゾンを使える。
ぶっちゃけもう神保町の古本屋とか終わったんじゃないかと思う。
ネットを知らないご老人をだます、
いかがわしい場所にかつての故郷はなりつつあるのではないか。
先日アマゾンで古本を安価で買う愉楽を知ってしまった。
むかしは神保町に週に二度は行っていた(今年は一度も参拝していない)。
ユニクロほど感謝しているものはない。
むかしから洋服屋が嫌いでさあ。本当に大嫌いだった。
鏡が嫌いな醜形恐怖症気味傾向が拍車をかけたのだった。
しかし、ネットのユニクロなら酒をのみながら服を選ぶことも可能。
今日のヤフーニュースによると、ユニクロの配送が大幅スピードアップする模様。
いまでも十分早いのに、これ以上があるなんて、関係労働者は大丈夫なの?

おっと、ピンポーンだ。佐川急便からだ。不在配達票があったので。
どうやら会社がしてくれた健康診断結果の模様。
当日受付は18時までなのに、ドライバーさんに電話したらそれ以降でも来てもらえる。
ピンポンだ。イケメンの佐川男子でした。さて、いまから健康診断の封を開こう。
いま昼休み中に自宅に帰って用意しておいたサラダと冷ややっこでビールもどきを少々。
無頼を気取っていた時期もあったが(いまもこころは無頼派だが)、
封を開けるのが怖い……。
さっき自転車置き場に見にいったら、やはりタイヤはパンクしていた。
会社帰りに自転車屋に行かないと。
アンラッキーでげんなりするけれど、
妄想するとこれが世界の裏側でなにとどう関係しているのかわからない。
あんがいこのおかげで幼児との自転車加害事故から逃れたのかもしれないし。
被害にせよ加害にせよ事故に遭う人は運が悪いというひと言に尽きようが、
その運の仕組がどうなっているのかわからないんだなあ。
自転車タイヤのパンクなんか、もうかなり運の世界だと思う。
ひとつ運に貸しをつくったとでも思えばいいのだろう。
目先の損得にとらわれないこと。
全体は死ぬまでわからないけれど、死ぬときわたしはなにを考えるのだろう。
いや、死とは意識が途切れるだけだから、死は存在しないとも言いうるが。
いまの悩みはほしいものがないこと。
考えてみたら、上司に理不尽に叱責されるとかプライスレスのおいしさかなあ。
お金をいくら払ったって、そういう経験はできないわけだから。
あとで振り返ったら、そういうマイナスがいい想い出になっているのかもしれない。
そうやって自分をだまして、さあ一時しのぎで空気を入れたチャリで出勤だ。
知り合いの知り合いの知り合いくらいから遠いむかし聞いた話だったか。
わたしとなんの縁もゆかりもない人の話。
なんでも当方の記憶はおぼろげだが、
知り合いの知り合いがむかし交通事故で婚約者を亡くしたらしい。
どうして交通事故が起こるのかはだれにもわからないが、
だれかが急がせたり焦ったりするのが関係している可能性もなくはない。
スピード重視。早ければ早いほどいい。速度のためなら多少の犠牲はいとわず。
そういう世間風潮からかつて婚約者を交通事故で亡くした人がいまもいま、
急げ急げ急げ1分たりとも10秒たりとも無駄にするなと、
狭い場所で怒鳴りながら走り回っていたら、これは自業自得かどうか。
たしかに早いのはいい。
わたしはのんびりしているからレジで多少待たされてもぜんぜんOKだが、
スピードが遅いとヒステリックに切れる人というものがいる。
もっと早くしろ、スピードを上げろ、もっともっともっと、もっとできるだろう!
もっとだ、もっと! 人間に限界はないから、もっと!
彼(女)のご子息が交通事故に遭って死んだら、部下のいく人が戸惑うだろう。
不謹慎にもザマアミヤガレと思う人はいないはずだが。
人生経験上、たとえばヒステリックなほどにスピード狂のお子さまは
交通事故のようなものに遭遇する危険性が高いような気がする。
しかし、愛する人が交通事故で死ぬまではだれもがスピードこそ正義と思っているもの。
なかには婚約者が交通事故で死んだのに、
スピードきちがいでいつもイライラ暴走族状態で、
カリカリ周囲を威圧しているものもいるのだろう。
それはおまえが彼女を殺したんだな。なかにはそう思う人もいなくないだろう。
急げ、急げ、もっと早く、早く、1分でも1秒でも1コンマでもスピードを上げろ。
いいか、それが正義だ。正義は正義だ。
正義の人の愛するものは交通事故ではけっして死なない。正義はスピードだ。
急げ、もっと早くしろ、もっとだ、もっともっと!
まず今日の仕事を大過なくやり遂げられたらそれだけでいい。
帰宅したら自炊、洗濯。食材は家にあるのでスーパーに寄らない。
スーパーに足を踏み入れると、ついつい散財してしまうため。
先週とおなじで火曜、水曜、木曜は酒をのまないようにする。
のみたかったらのむけれど、そこらへんはいいかげん。
しかし、読むのだ、「西行物語」を読むのだ。
先週から10年ぶりに西行を読み返している。
踊り念仏の一遍が好きだったということを知ったら読まねばなるまい。
つくづく読書は裏切らない趣味だと思う。
こちらは10年の言葉の積み重ねがあるから、むかしとは味わいが違う。
どうして過去の感想がわかるかといえば「本の山」の過去ログにある。
西行の歌を読み返していると、この10年のことをいろいろ思い出す。
きっとそういう梅雨のひとりぼっちの夜もそれほど悪くないだろう。
四十男の孤独な生活は文学と相性がいいようだ。
むかしの2ちゃんねる文学板仲間、
工藤伸一さん、白石昇さん、ごはん、ころにゃん、ムー大陸はいまなにをしているのだろう。
このうち工藤伸一氏以外とは実際にみなみな対面して対話した。
むかしの文学板はムネアツだったのかも。
おれなんかも逢いたいって言われたらむしろ感謝感激で全員OKありがとうだった。
わたしの人生で最初にできた親友がムーちゃんで、
はじめて絶交されたのも彼だったなあ。
ごはんとは旅先の中国で逢ったんだから、これほど劇的なことがあろうか?
もう時効だからばらすと、ごはんは女の子だったんだなあ。
いつだったか新宿のうらびれた風鈴がうるさい焼き鳥屋でキミと飲んだね。
酔っぱらったキミにコブラツイストをかけられたのだったか。
ただただ嬉しかった。
くいーん♪ って思ったよ。
あやふやな記憶をたどると、あれはムーちゃんと知り合うまえかなあ。
ごはん(うどん)大好きって思ったものだなあ。
中国では泥酔してごはんに大迷惑をかけたけれど、
ぜんぜん気にしていない不動のわたし。
ムーちゃんにも大失礼をしたけれど、いまは遠いむかしのこと。
みなさん、お元気ですか?
いまわたしはどうにか生きております。とりあえずトントンくらいで。
いつか2ちゃん文学板、同窓会を開こうじゃないか。
わたし美香QNWが幹事をしてもいい。
もう40歳になり夢も希望もなくなりましたが、わたしにも青春がありました。
美香はわたしの青春でした、あはっ。ぐすん。フォーエバー美香、わたしわたしわたし♪

「観音経 奇蹟の経典」(ひろさちや/大蔵出版)

→打つ手がないときってあるじゃないですか?
そういうときにあれこれ対策を考えると、
なにがなんだかわからなくなって逆に泥沼にはまってしまうということはありませんか?
打つ手打つ手が裏目に出るというか、
なにをしても「ああ、やっぱり」と悪い結果になり自縄自縛の状態におちいっている。
そのことをうすうすはわかっているのだけれど、なにかせずにはいられない。
イライラして立場が弱いものに当たり散らすと、脅えた部下はさらにミスを繰り返す。
本当はなにもしなければいいのかもしれないが、なにかせずにはいられない。
よく知らないが、株式投資なんていうのもそうではないか。
株価の上下に一喜一憂して売買の取引を繰り返すから損をしてしまう。
わずかにプラスになったとしても手数料を差し引いたらトントンという。
だったら、なにもしないでゆっくり好きな漫画でも読んでいたほうがましだったという話。
ことほどさように、われわれはなにもしないことに耐えられないようにできている。
職場でも仕事をしていないと見られたくないから、
やる必要もないことをことさらオーバーアクションでして熱心な労働者を演ずる。
そういうことをしていると、なんだか自分はとても有能な労働者のような気がして、
なにもすることがないときにふらふらしている部下を怒鳴りたくなる。
結果、多くの部下から嫌われ、以後のチームワークのまとまりが悪くなる。
しかし、なにかせずにはいられず、いつもイライラすることになる。
人間の行為と結果の関係はシンプルに表示するとこうなっている。

☆行為→?→結果

善とされるプラス行為をしたら、
おなじくプラスめいた結果が出るとわれわれは盲信している。
しかし、実際はいわゆる善なる行為をして悪い結果になることも多々ある。
長生きすればわかるはずだが(あんまり大きな声では言えないけれど)、
悪いとされることをしても結果がうまくいくことはいくらだってあるわけだわさ。
そもそも善とか悪とか、そんなものは相対的価値観で、
つまり主観(ものの見方)によっていくらでも善悪は様相を変えるものとも言える。
そして、われわれは結果からものごとを判断するというひどい悪癖をみな有している。
世間的にプラスとされている結果がいま出ている人や組織は(将来はさて?)、
みな事前にプラスの行為をしたからいまよくなっているのだと考えがちだ。
これは科学的真理というよりも、そうであってほしいという大衆の願望だろう。
だって、悪いことをしても恵まれている人がいくらでもいるじゃないですか?
毎日汗水流して働いた人が小さな夢ひとつかなわず病魔に襲われ苦しむのが人生。
だとしたら、行為と結果の関係はあるいはこうなっているという可能性も考えられないか。

☆行為→(たまたま/偶然/わからない)→結果
☆行為→(不思議/神仏/運の強弱)→結果


人はうまくいったときドヤ顔(得意顔)で自慢話をするけれど、あれは眉唾(まゆつば)よ。
失敗したときやミスをしたとき、人は深刻な顔で反省するが、
そこまで思いつめなくてもいいような気がしなくもない(わたしはもっと反省すべきだが)。
さて、ここまできてようやく観音経なのである。
観音経は法華経の一部で、現世利益(げんぜりやく)を説いたお釈迦さまの教えである。
内容は困ったとき観音さまを念じればかの菩薩(ぼさつ)が助けてくれるというもの。
最初に戻って打つ手がないときは観音経でも唱えていたらいいのではないか。
むろん、観音経ではなく般若心経でも法華経でもなんでもいいのだろう。
しかし、現世利益をうたっている観音経がいちばん適当な処方薬のような気がする。
観音経を唱えていたら少なくとも悪手は打たないだろう。
さらにヘマをやって事態を悪化させるということはなくなる。
これは思った以上の功徳だとは思えないだろうか?
観音経の内容は、観音菩薩にお祈りしろ。観音菩薩に南無(なむ/お任せ)せよ。
心理療法家の河合隼雄の晩年行き着いた境地は「なにもしない」だったが、
権威ゼロの仏教フリーライターひろさちやも似たようなことを言う。

「船乗りの人から教わったが、海で遭難したときは、泳いでは駄目だそうだ。
泳げる人は「ともかくも……」と思って、がむしゃらに泳ぎはじめ、
たいていが力尽きて海の藻屑(もくず)になるという。
船が転覆するような嵐の海である。プールで泳ぐのと、わけがちがう。
いくら水泳に自信があっても、どだい泳げるものではないそうだ。
それに海は広い。所詮、島まで泳ぎつけるはずがないのである。
それよりは、浮木(うき)にでもつかまって、じっと救助を待っているほうがよい。
そのほうが、助かる率は多いそうだ。
そうだとすれば、南無観世音菩薩」の称名が、
たしかに奇蹟をもたらしてくれるのである。
『観音経』の言う通りではないか。
そして、――。
浮木につかまって水に漂いながら、彼が「南無観世音菩薩、なむかんぜおんぼさ」
と称名している、そのときの心境はあきらめではければならない
――と、わたしは思うのだ」(P61)


選択肢が1~5まであったとする。受験教育の弊害で、
われわれは1から5までの選択肢のうちに正しい答えがあると信じきっている。
しかし、現実では1、2、3、4、5のすべてが間違いという可能性もあるのではないか。
ペーパーテストを無視する、受験を拒否するという選択肢を忘れてはいないか。
これはたいへん勇気ある決断だが、理論的にそこまで大誤答かはわからない。
なぜなら行為と結果のあいだにあるものは不思議で運とも言うべき、
人間には把握できないものである。神仏の世界と言い換えてもいいだろう。
だとしたら、そういう神仏ワールドには神仏ワードで立ち向かうのもありではないか。
南無観世音菩薩(称名)でも南無釈迦牟尼仏(称名)でも、
南無阿弥陀仏(念仏)でも南無妙法蓮華経で(唱題)もいい。

☆称名→(偶然?神仏の世界?たまたま)→結果

やってみてうまくいくかどうかはおのおの実験してみるしかない。
現代人はそういうことを非科学的だとバカにして行動に移せないのかもしれない。
その点、毎日唱題している創価学会の善男善女はとても親しく好ましく感じられる。
わたしのケースで他人には当てはまらないのだろうが、
もしかしたらわたしは観音経のおかげで、
健康診断まえの禁酒を1週間もできたのかもしれない。
念仏も称えたし、題目も数度なら唱えたから、なにが功を奏したのかはわからない。
人によっては仏教ではなく、聖書を読むことが人生の安定剤になるものもいよう。
ひろさんの実家は薬屋さんだったというが、あらゆる宗教は薬なのだと思う。
たまたま薬が効きすぎたのか、そもそもが劇薬なのか、イスラームのほうはヒャッハーだ。
観音経はその典型だが、宗教は効く薬で、しかし成分はメリケン粉なのだと思う。
観音経はかなりよく効く偽薬(プラシーボ)ではないか。

「さらに薬に関しても、こんな話がある。
〝プラシーボ”という薬(?)がある。
もとはラテン語で、「わたしは満足するだろう」の意味だそうだ。
この薬はぜんぜん薬効がない。メリケン粉を固めてつくった薬だと思えばよいだろう。
なにも薬効はないが、患者は薬をのんだと思って安心する。
そういった役目の薬である。
辞書を引くと、「気休め薬」「偽薬」といった訳語が出ている。
薬ではない薬である。変な薬だ」(P14)


胃潰瘍(いかいよう)の患者にこの〝プラシーボ”をのませたという。
だが、ナースからの手渡しである。これでも25パーセントの胃潰瘍が治った。
つぎに白衣を来た医者がこの偽薬を患者に与えると、どうなったか。
ご想像の通り、治癒率はさらに高まった。
つぎに町医者ではなく大学教授にこの薬を処方させたらどうなったか。
そのときに「これは新薬で保険のきかないとても高価なものだが、
特別にあなただけに処方しましょう」と患者に伝えたら、そのときの結果はどうなるか。
その医師が名医として掲載された雑誌のコピーを見せておいてもいいだろう。
胃潰瘍レベルなら放置しても治るだろうが、〝プラシーボ”をのむのも悪くない。
ただし、この〝プラシーボ”を偽薬なのに百万円とかじゃ売っちゃいかん。
それをやるのが悪質な新興宗教だが、あんがい治ったらそれでもいいのかもしれない。
たくさん金を巻き上げる新興宗教も病気を治しているのだから。
百万円を払ったことで病気が治った人も大勢いることだろう。
高額を払わないと効かないということは〝プラシーボ”の性質上、避けられない。
ほかに〝プラシーボ”の使い道は、自分だけの薬をつくることも可能だ。
手間暇をかけていろいろ宗教のことを勉強して、
自分だけの〝プラシーボ”を常備薬にするのも精神衛生上よいだろう。
しかし、本物の薬と偽物の薬の違いとは、いったいなんになるのだろう。
結果から判断するならば、事態が好転したのなら(病状が改善したのなら)、
結果的にあらゆる〝プラシーボ”が本物だったということにならないか?

お勉強タイム。以下、本書で学んだことをメモメモ。
仏教にご興味がない方は飛ばしてくださいませ。
仏教には、仏法僧を三宝として考え敬えっていう三宝帰依の教えがあるでしょう。
「往生要集」を書いた源信がおもしろいことを言っていたという。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏という「仏」に帰依している。
南無妙法蓮華経は法華経という「法」に帰依している。
南無観世音菩薩は観音という菩薩(修行者)、つまり「僧」に帰依している。
だから、3つは違うようでみなひとつのおなじことを言っている。
あるいはどれかひとつでは不十分で3つそろって完全になる。
いんやいやいや、そこまでは源信もひろさちや先生も書いていなかったかしら。
さあ、どうだったか。わたしはそんなことが書いてあったような気がするなあ、イヒッ。

観音経のキーワードは「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」だが、
これには3つの解釈があるらしい。
観音経は「念彼観音力」でものごとがうまくいくと主張しているが、
その「念彼観音力」をどのように解釈するかである。
1.「彼の[偉大なる]観音力を念ずれば」
2.「彼の観音を念ずる[自分の]力」
3.「念ずる彼の[自分のなかにある]観音の力」
一般的に(禅の世界の話じゃないかな?)3>2>1の順で浅くなるという。
いちばん偉いのは3で、つぎに偉いのは努力主義の2、
神仏頼みの1はもっとも程度が低いと偉い坊さんたちは思っているらしい。
ひろさちや先生は1の解釈を選択しておられる。
2とか3とか、人間中心にものごとを考えていて傲慢というほかない。
自分ではどうしようもないから観音さまにおすがりするのであって、
自力でどうにかなるんなら仏門なんかにそもそも足を運ばないではないか。

本書は怒りっぽいひろさちやさんがおよそ35年まえに書いた本である。
結局、ひろ氏はうまくこのまま人生から逃げ切られそうだが、
勉強家の氏に効果があったお経はいったいなんだったのだろう。
若かりし宗教ライターの説法を拝聴しようではないか。
先生、称名しても現世利益なんかちっともないけど、どういうこったい?

「称名そのものが、いちばん大きな利益なのです。
たとえば、他人からひどい仕打ちをうけたとき、
たいていの人は「こん畜生!」とか「あの野郎、ぶっ殺してやりたい」と思い、
そういうことばを吐きます。にもかかわらず、
そのとき静かに称名できる人がおれば、その人はすでにもう救われているのです。
称名そのものが、その人にとって救いの証となっています。
称名によってほかに何か得られるのではなく(ほかに利益があるかもしれませんが)、
称名できたそのことがほかならぬ〝現世利益”ではないでしょうか」(P4)


まあ、あきらめが肝心ってことさね。
他人に期待しない、人生全般に期待しなければ、こんなもんかとおさまりがつく。
なにか災難に巻き込まれてもこれは前世の報いとあきらめ、
来世にこそちょっとは慶事もあるのではないかとささやかな希望をつなぐ。
他人に期待すると怒ってばかりでストレスがたまり生きていて楽しくない。
阿修羅(あしゅら)のような人って怖い。

「阿修羅は、ほんらいは正義の神であった。
しかし彼は、正義にこだわりすぎたのである。
正義にこだわって、彼は怒りを燃やした。他人の不正を許せなかったのである。
そのため、彼は神々の座から追放されて、ついに魔類とされた。
しかも、魔類となりながらも、彼はなおも正義の怒りを燃やし続けている。
阿修羅はそういう存在である」(P150)


小声でつぶやくと、正義は「魔」なのだと思う。
人間がもっともおちいりやすい口当たりのやさしい「魔」が正義のこころ。
他人の不正を許せなくて、イライラカリカリする。
他人の不正を許せない反動で自分は正しい生き方をしようと窮屈になっていく。
正しい社員になって正しい生活をして他人の不正にいつも怒っていて、
はてまあ、そんな人生がおもろいでっか? って話。
ぶっちゃけ、舛添都知事に怒る気持とか、さっぱり理解できない。
おれが都知事に就いたらもっとひどいことをやるんじゃないかなあ。
基本的に舛添さんが辞めようが続けようが、こちらの生活に変わりはなし。
どうでもいい話なんだなあ。なんでみんな舛添さんに怒っているのかわからん。

だれも読んでいないだろうし、最後に不謹慎なことを書いちゃおっと。
町をぶらぶら歩いていると(我輩よりはましだが)
どうしょうもねえオジン、オバンの夫婦とかいるじゃないですか?
あれ、わっかんねえんだ。あいつらも恋愛の真似事をやったわけ?
こういう東大の入試よりも難しい問題の解決へのヒントを仏教は与えてくれる。

「たとえば、一枚の映画スターのブロマイドをもって美人を論ずれば、
かえって底が浅くなるようなものだ。
むしろ、読者の心のうちにある〝美人像”――
〝奇蹟像”を大事にしていただいたほうがよい」(P216)


なーんか、わかったような気になるぜ。
わたしが好きな女は「わたしが好きな女」ってことか。
わかりやすく書いたら、わたしが好きな女は「わたしを好きな女」っていうか。
相手が自分を好きかもしれないと思うと、それだけで見かけが変わるのだろう。
「A子ちゃんがあなたを好きって言っていたわよ」
なんて言われたら男は想像力でがんじがらめになりよけいな発情をするだろう。
仏教は深いなあ。

(関連記事)
「愛と救いの観音経」(瀬戸内寂聴/嶋中書店)
「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

「臨床の詩学」(春日武彦/医学書院)

→資格も人脈も財産も目に見えるものはなにもないが(配偶者も恩師も支援者もいない)、
唯一たくわえてきたのは言葉である。小金持ちならぬ、少量の言葉持ちだ。
よく読んできたなあ、よくだれも読んでくれないのに書いてきたなあ、と思う。言葉を。
大ファンである精神科医の春日武彦さんもご同意くださるはずだが結局、言葉なのだ思う。
春日武彦は山頭火を大嫌いと表明しているが、
わたしは山頭火の俳句が好きで、
むしろ山頭火よりも「偉い」ことになっている芭蕉の俳句のよさがわからない。
古典和歌集におさめられた貴族の歌も
まるでさらさらこちらのこころに響いてくるものがない。
詩もそうだ。難解平易を問わず、現代詩もよくわからない。
詩によって開眼したということがない。しかし、本は好きである。言葉が好きだ。
本書で言葉フェチ、言葉収集家の春日武彦が好きな詩を引用しているが、
わたしはその言語表現のよさがわからない。だが、言葉を好きになる理屈はわかる。
「私」とは言葉でできているのだと思う。「私」は錯綜(さくそう)する言葉のシステムだ。
その配線のこんがらがった言語システムであるところの自我、
つまり「私」が新たな言葉を取り入れることで
(あるいは旧知の言葉の価値を再認識することで)、「私」の「世界」は変わりうる。

朝日賞作家で小林秀雄賞作家の山田太一氏の、
映像(動画)よりも脚本(シナリオ=言葉)のほうがはるかに好きなのもこのためか。
山田太一ドラマのセリフ(言葉)から立ち上がってくるリアリティは
パネエ(半端ない)のである。山田太一ドラマは庶民の詩劇だとわたしは思っている。
詩とはなにか? わたしが大好きな言葉提供元の春日武彦はいう。
AだとされているものをAだといわないでBというのが詩ではないか。
AだとされているものをAだと思わないでBと思うのが詩ではないか。
AもBも言葉である。詩は現実Aの解釈例である言葉Bだ。

「いずれにせよ、どちらかといえば「どうでもいい」「必要不可欠ではない」
「ものの弾み」「たまたま発せられた」「本人でさえ十分に意識していない」言葉が、
ある種のリアリティをもたらすといったことがあるだろう」(P34)


それが詩だと精神科医の春日武彦はいっているのである。
どこまでもつまらない「終わりなき日常」(宮台真司/首都大学教授)を
「ありふれた奇跡」と詩的解釈したのが山田太一(朝日賞/小林秀雄賞)である。
宮台真司も山田太一も、両者ともに、両先生ともに根は詩人だと思う。
いままでありきたりなAと解釈されていたものを、
Bという言葉で新しく表現することが詩的行為だ。
Bという詩(言語表現)を読んでCという連想を勝手にもして救われるのが人間だ。
Bという言葉を誤読してCではないかと詩的に思念するから人は生きられる。
そもそも言葉は正しく伝わらないのではないか。
Bという言葉は決してBとしてBそのままに伝わることはあるまい。
なぜなら相手には相手の言語システムがあるため、
自分にとってのBは相手にとってのBではないからである。
具体例をあげれば、老人にならないと老人の気持ち(発する言葉)はわからない。
結婚しないと夫婦生活という言葉の意味がわからない。
しかし、その「わからない」「伝わらない」ところが「救い」で、
現実Aを言葉Bと表現したものに接して、
さらに異なるCなる妄念を連想(誤読)することが人間が生きている証拠の、
みなさまも経験したことがおありだろう、
あの生き生きとした生命の味わいの本質であるのだろう。

万葉集と古今集、新古今集には学者によると違いがあるそうだが、
わたしは万葉集も古今集も新古今集もまるで意味がわからない。
わかりやすくいえば、まったく感動しない(こころ動かされない)。
源氏物語は嫌いだが、平家物語の言葉はせつせつとこちらを揺り動かす。
言葉はジャンプする。その「言葉のジャンプ」こそが生きている救いではないかしら。
受賞経験はひとつもなく、持つのはただ医師国家資格だけの春日武彦は、
臨床体験(患者の記憶)や読書経験(好きな詩)から
「言葉のジャンプ(=連想=誤読?)」をしてこの名著を書き上げた。
そこからさらに「言葉のジャンプ」をしてわたしがいまこの記事を書いているわけである。
現実Aを解釈した言語表現B(=詩)を読んで、
当人はさらに新たなその人なりのCを思念(言語化/創価/誤読)することができる。
そこが精神の救いではないかと言葉フェチの春日武彦は指摘する。
われわれはみな現実Aを生きている。現実Aは生きづらいことこのうえない。
その生きづらさの正体は、われわれがしているところの解釈Bだ。
ところが、そのクソみたいな現実Aを詩的Bと解釈する詩人がいたとする。
そのB(言葉)と接することで、
言葉Cを連想(妄想/誤読)することで人は救われうるのではないか。
もしやビジネス書も自己啓発書も詩のひとつではないか。
現実の多様な解釈例のひとつが詩であるならば、
詩をこちらの都合でどのように解釈してもよろしい。
ある言語表現=詩のBがあるとする。読んだとする。

「この詩は、たんに思い過ごし、
早とちりについて綴(つづ)ったものだと解説されたら、まあ同意するしかない。
だが、この作品に出合ったときのわたしは、
もっと豊かなものを感じ取っていたのである。
すなわち、とっさの連想によって世界はいくらでも容貌を変化させる。
危うげでただならぬ世界として迫ってくることもあれば、
のどかで平和な世界としての顔を見せることもある。
そしてとっさの連想が自分自身の心のありように左右されるとしたら、
自分の暮らしている世界は、本当はすべてあらかじめ
自分の心の中に仕舞い込まれているということにならないか。
いささか大仰に言うなら、自分と世界の関係性について
この詩は語っているように思えたのであった」(P42)


これは抹香くさい仏教でいうところの唯心論や唯識説に極めて近い。
ところが、摩訶不思議というべきか、当然というべきか。
著書多数のエリート成功者のお医者さん、春日武彦先生の感動した詩を
わたしが読んだところでなんにもおもしろくないし「ふーん」である。
そんなもんなんだなあ、現実は。
わたしがいま書いている文章はわたしにとっては深い意味があるけれど、
環境が異なるみなさまにはどうでもいいことではないでしょうか?
わたしとしては春日武彦氏から啓発されていま書いている、
わたしのこの文章からみなさまがさらに連想(誤読)して、
さらにおもしろい人生を送っていただけたらという偽善的な期待もなくはない。
詩(言葉)を読んで感動(言語化/創価)するというのはこういうことである。
わたしは春日武彦の好きな詩にまったくこころ揺さぶられなかったが、
以下はある言葉にわたしという言語システムが揺さぶられる過程を描写した名文である。
著者は小長谷清美(だれそれ?)という詩人の書いた
「ピクニック」と題された詩の一節にほろほろしたという。

「  みんな遠くに行ってしまった ばらばらと
   たんぽぽを摘む人 動物ビスケット囓(かじ)る人 黒ビールを抱えて眠る人

わたしはなぜかこの一節に、以前から妙に心を動かされるのである。
オレはピクニックへ行っても(きっと)たんぽぽは摘まないけれど、
黒ビールを抱えて原っぱで眠ることはあるかもしれないな。
だけど、いい年をして動物ビスケットなんかを囓(かじ)っている姿が
いちばん自分らしいな、などと思いつつなぜか感傷的な気分になってくるのである。
いずれにせよ、そんな調子で想像力[連想/誤読]をつなぎ合わせているうちに、
世界の奥行きというか豊かさが3Dのように立ち上がってくる。
もちろん錯覚[妄想]だけど。
いま引用した文章や俳句や詩は、それだけでは呪文のように《救いの言葉》
として働きかけてくるほどの力は発揮しない。
連想というべきか記憶というべきかイマジネーションというべきか、
とにかくそうしたものが与(あずか)って言葉が統合され、
するとそれを契機となって
わたしはどうにか気力を取り戻すことになるわけである。
ではわたしの前に座っている患者たちにも、その事実を助言してあげたらどうなのか。
残念なことに、その助言を参考にできるだけの心の余裕がないからこそ、
彼らはわたしの前に登場しているのであった。
彼らには、もっと即効性のある言葉が必要だというのに、
当方は呑気(のんき)にも文学が人が救えるなどと思っているのであった」(P153)


自分が感動した詩を人に教えてもほとんど意味はないけれど、
本人がこれは自分の言葉だと信じきれるような詩と
邂逅(かいこう/出会う)することは奇跡的体験だ。
めったにないことだがそれでも即効性のある言葉もあるのである。
本書で春日武彦は守秘義務などものともせず、おのれの臨床体験を公開している。
二十歳そこそこで統合失調症(精神分裂病)になった男性を診たことがある。
青年は発症時、意味不明のひとりごとをつぶやいていた。
どういうわけか、めったにないことだが、分裂病の青年は奇跡的な復調をする。
寛解(かんかい/治癒?)といってもいいレベルだ。
この症例を紹介したら薬品会社が大喜びするくらいのレアなケースだ。
なにが功を奏したかはわからない。
春日武彦医師は分裂病の青年に質問する。あのときなにをつぶやいていたのか?
答えはブッシャリ。さらに問うとやはり仏舎利(仏の骨)のブッシャリらしい。
かといって、本人は仏教とは無縁だし、
ことさら仏教を意識してブッシャリとつぶやいていたわけではない。
しいていうならブッシャリという言葉の音韻が、まるで鈴が鳴るようで安心したという。

ここまで、だ。春日医師はここまで。いいかえれば、ここまではいける。
矛盾した精神(言葉)の深み(浅薄さ)と危うさ(凡庸性)を
知る優秀な精神科医はこれ以上は患者に問わない(そこが偉い)。
どちらかといえば医師より患者のほうに近いわたしが飛躍すれば、
混乱状態である精神病の救いになった彼の言葉ブッシャリは、
人によっては南無妙法蓮華や南無阿弥陀といいかえられうるような気がしている。
南無阿弥陀仏はナムアミダで「ア」の音が基調だから楽である。
人によっては南無妙法蓮華経の「ウ」音(スネ夫の口)が合っているのだろう。
南無妙法蓮華経は唱えると接吻(チュウ/キス)をするときの口になる。

言葉が好きだ。精神科医の春日武彦の言葉が好きだ。
彼からメールをもらったブロガーがいたら天にも昇る気がしたことだろう。
わたしはそういう人をひとり知っている。
みなさん、もっと言葉を愛しましょう。
現実(事象)Aは言葉(解釈)Bにも言葉(解釈)Cにもなりうる。
現実はAではなくBやCかもしれないことを教えてくれるのが自分や他人の言葉だ。
苦しみが言葉ならば、救いも言葉だろう。
言葉っていいよなあ。言葉をどう愛するかを以下で春日先生は教えてくださる。
春日武彦は柿沼徹(だれそれ?)の詩を読んで妄想する。
精神科医は詩人の言葉を誤読(曲解)する。それが生きる味わいではないかと。

「  私たちが木々を眺めるのは
   木々が好きだからではなく
   眺めることが好きだからだ

   ぜんぶ地表の下に隠したまま
   木々は花を咲かせる
   私たちの視野のなかで
   おどけるために

なるほどねえ、と思う。身につまされる。
わたしは基本的に人間嫌いで、よほど気が合わねばつきあいたくない。
協調性は乏しいし、友人も少ない。
友人なんてたくさんいたらメインテナンスが面倒だから、少なくて十分なのである。
電話で喋るのもメールを交わすのも億劫(おっくう)だから、
携帯電話すら持ち歩かない。
人間と一緒にいるよりは、不愛想な猫といるほうが心が休まる。
だが、プライベートに踏み込まれない範囲では、他人を観察するのは好きである。
人間嫌いであっても、あえて他人が不幸になればいいと思ってもいない。
他人に何も期待していないから、彼らの心の中に押し隠された「おぞましいもの」
と向き合うのも、むしろ醍醐味である。
ゆえに、心を病んだ人を診察し、援助するのは苦痛ではない。
診察室や病室でしか関わりを持たないで済むのだから、気が楽である。
だからさきほどの詩において、
木々を患者と置き換え、わたしたちを「わたし」と置き換えれば、
それがそのまま当方の立場ということになる。
「木々が好きだからではなく/眺めることが好きだから」と」(P135)


人間どもを好きになれなくても、人間観察を趣味にすることはできる。
今日は休みで朝から酒をのみながら、
だらだらこんなだれにも読まれない駄文を無報酬で書きあぐんでいた。
明日は仕事だ。「ダメじゃないですか!」が口癖の口うるさい上司がいるんだ。
その「ダメ」の基準がわからないので怖い。
どうやら自分が思ったように他人が行動しないと相手を「ダメ」と認識するらしい。
正解はないのである。
上司がそのときその場で「ダメ」と思ったことは厳しく叱責される。
他人(上司)の考えていることなんてわかるはずはないのに上司はそうは思わない。
自分の考えていることが正しく、
がために正義の自分が思ったように行動しない相手は「ダメ」でイライラするようだ。
最近の上司はいつも怒っているように見えるが、
きっと上司から見たわたしもろくなものではないのだろう。
わたしは上司のほうがあらゆる面でわたしなんかより偉いことをよく知っているもの。
わたしがなにをしても、なにをしなくても明日もまた上司に怒られるだろう。
自分が変わらないように他人も変わらない。
そんなものだし、こんなものだ。自分も他人も、人間というものは。
――そんなに自分は偉い存在ではないことを知っているので春日武彦は信頼できる。
精神科には一生かかりたくないけれど。

「誰かに立腹している患者へ向かって、ときおりアドバイスをすることがある。
「相手を自分と同じと思うから、
オレだったらあんなことはしないのにと呆(あき)れたり怒ったりすることになるんですよ。
あなたと違う考えや価値観の持ち主だっているんだから、
いちいち反応していたら疲れちゃいますよ」と。
それなのにわたしはあの[患者]三人を(人間として尊重するのとは違う意味で)
自分と同じと考え、それどころか
自分自身の不快な要素を見つけ出して苛立っていた。まさに自分を投影していた。
ゆえに非はすべて自分にあるかというと、必ずしもそうとは思わない。
露出狂が露出するものは我々自身も備えているもの(性器や裸体)であるが、
だからといって露出狂に問題があるといった話にはなるまい」(P276)


まったくまったく精神の露出狂たる稀有な詩的精神科医の言葉には救われている。
おかげで一見するとヒステリックな上司も、
自分を思ってくれている人生の指導者と誤解(詩的解釈)できないこともない。
こうして明日も自分をごまかしながら、
淡々と妥協を繰り返し日々の生活をやり過ごすしかないのだろう。
それが生きるということだ。精神的に健康に生きるということ――を本書から学ぶ。
そのためには妄想(詩的解釈/誤解)が必要だ。
わたしは上司を嫌いではなく、あちらがこちらを嫌いでもないことはわかるのだが、
この関係はうまく言葉にできないなあ。
なんて書いていたら明日クビになったりするのかも。
仕事の人間関係ほど人の心を病ますものはないのだろう。
同時に救いをもたらすのも、おそらく同地にあろう。めんどくせえなあ。
いつかクルクルパーになって
精神病院にイエローピーポーで入って生活保護申請をできたら。
いい本だった。本当に救われるいい本でした。