「あの世と日本人」(梅原猛/NHKライブラリー)

→学問は真理を追究するとされているが、しかし真理の定義が難しい。
ひねくれ者のわたしは真理とは以下のようなものだと思っている。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
日本有数の大物学者である梅原猛は本書で、
日本人は「あの世」をどう見てきたかわれわれの精神史を古代から丹念に追っている。
本書出版時も高齢だった大成功者の梅原猛は、死後のことが不安なようで、
「あの世」でわれわれは死んだ父母に逢えるという説を語っている。
なおかつ「あの世」は行ったきりではなく、たとえばお盆のように戻ってくることも可能。
なんでも梅原猛は孫と遊ぶのが好きらしく、死んでからも孫に逢いに来たいらしい。
ならば、だとしたら「あの世」はそういうところでなければならぬ。
本書で梅原は仏教以前の神道の「あの世」はそういうところであったと論じている。

この本ではなく別の本だが、梅原は親鸞の説く浄土(「あの世」)も
そういうところだと見てきたようなことを書いている。
果たして梅原猛のいう「あの世」は真理なのか? わたしは真理だと思う。
なぜなら最初に持ち出した真理の定義に当てはめてみよう。
死んで「あの世」に行けばわれわれは死んだ血縁者と再会することができ、
なおかつ一度死んでもわれわれは「あの世」から戻ってくることができる。
繰り返しになるが真理とはなにか?
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
逐一検証すると、そういう「あの世」があれば人びとは喜ぶからこれは真理だ。
「あの世」がどうなっているか科学的に検証できないため虚偽の証明も不可能。
梅原猛は「あの世」がそういうところだと信じている(信じたいと強く思っている)ので、
これもまた真理の条件に適合するだろう。

わたしは梅原猛とひろさちやの一般書で仏教の基礎を学んだ。
仏教を勉強するとは、どういうことか?
結局、いくら知識を増やしてもそれが信心(信仰)につながらなければ意味がないのだ。
学問は役に立たないが、宗教は生きるうえで役立つこともあるのである。
逆に言えば、役に立つ見込みがないのに宗教を勉強している人の気が知れない。
人は生きているとどうしても孤独感や不安感(このふたつが最大の迷いでは?)、
倦怠感、無力感、絶望感、劣等感にさいなまれるものだ。
そういうときにたとえばうまく仏教で自分をだますと精神科のお世話にならずに済む。
仏教信心とは、それぞれの「私」が、
広範囲の意味における「仏」と関係する物語を創作し、安心感を得ることである。
自分は仏に守られているとか、死は終わりではないとか信じられたら安心しますよね?
ものごとに実体はないとか信じられたら、苦手な上司や同僚と折り合いをつけられる。
自分はどこにでもいるつまらない目立たない人間だけれど、
自分の心の奥底に仏がいるとか信じられたら慰めがあるじゃないですか?
毎日の生活における何気ないささいなことが全宇宙と連動していると信じられたら、
味気ない生活にも多少のうるおいのようなものがもたらされるのではないか?

仏教を信じるとどこまでも退屈でやりきれない単色の日常が、
わずかながら色めくというか生き生きしてくることもないことはないとも言えよう。
けれど、よほどの単細胞バカでないかぎり、だれかから仏説を教わって、
他人の仏教物語を、はい、それではそれをそのまま信じましょう、とはならない。
仏教の醍醐味というのは、それぞれがそれぞれの物語を創作できるところだと思う。
本書で梅原猛が自分の「あの世」を創ったように、
みんなもそれぞれの「あの世」や自分の「仏さま」を創造するのがいちばんいい。
まったくゼロから妄想(物語)は創れないから、
信心を得たくて大しておもしろくもない仏典を読む人もなかにはいるのである。
ふつうの生活者は仏典など読めないだろうから、
インテリが嫌う瀬戸内寂聴や五木寛之の本を読んで、
おのれの信心めいたものを創造してもいいだろう。
これは放言とも思われかねないが、もし好きなアニメがあるのであれば、
そのヒロインと観音菩薩を同一視してマイストーリー(信心)を創作してもよろしい。

それは仏教信仰ではないとお叱りを受けるかもしれない。
反論として考えられるのは、仏教とは、
開祖の釈迦(しゃか)の言った言葉を学び、それを実践することだと。
とはいえ、釈迦に著書はなく、なにが釈迦の教えかわからないのにどうしろと?
仏教は釈迦の教えがよくわからないところがいいのである。
このために、それぞれがそれぞれの価値ある人生を生きるための、
新しい仏教物語(釈迦妄想)を創作することが可能になる。
そもそも日本は大乗仏教の国だが、大乗は釈迦の教えを否定した仏教なのだから。
日本の最高権威学者のひとり、梅原猛の言葉を聞け。

「このように大乗仏教では、釈迦仏教を否定して新しい、
はなはだ現世肯定的な仏教をつくったのですが、興味深いことは
大乗仏教が釈迦の名でもって次々に新しい経典をつくったことです。
それは現在、徳川家康の著書が出るようなもので、そういうことが
何の疑いもなく行われたというのはインドというお国柄のせいでしょうが、
こうして大乗仏教が発展するにつれ、
釈迦も釈迦という歴史的人格を離れて、超歴史的存在になります」(P104)


だとしたら、「幸福の科学」の大川総裁のしている霊視・霊言が
いまの日本におけるもっとも「正しい」大乗仏教なのかもしれないわけだ。
創価学会はなんかわかるけれど、大川総裁は得体の知れない気味悪さがある。
しかし、あれも大乗仏教というか、もしかしたら大乗仏教精神を
もっとも正統的に継承しているのが幸福の科学という説も成り立つだろう。

いまの大川総裁よりは偉いことになっている歴史上人物の法然も変な男だ。
ご存じのように、法然は、
ただ南無阿弥陀仏と口で称(とな)えたら救われると説いた坊さんである。
法然が出るまえの仏教で主流だったのは南都六宗と呼ばれる学問仏教。
具体的な主だった宗派としては三論宗、法相宗、華厳宗。
三論宗は、万物に実体はないという「空(くう)」を説いた、いわばニーチェのニヒリズム。
法相宗は、いまでいえばユングの深層心理学みたいなもんだ。
華厳宗は、強引に現代風にいえばアインシュタインの宇宙論のようなもの。
庶民はニーチェ(三論宗)とかユング(法相宗)とかアインシュタイン(華厳宗)とか、
そんなことを言われても「馬の耳に念仏」(笑)。
そこで法然はニーチェやユング、アインシュタインを勉強したうえで、
しかしこれらではまず自分が救われないことを深々と悟り、
その結果として自他を救う(だます)ために
南無阿弥陀仏オンリーの救済(物語/妄想)を説いた。
法然がなんの天才かというと、ミスをするところが常人離れしていたのである。
法然は誤読の天才、別解の達人、
つまり慣例にとらわれない自由な独創的(仏典)解釈者であった。
いままでだれも読んだことのなかった視点から仏典を解釈したのが法然である。

わたしは法然の南無阿弥陀仏もまた真理であると確信している。
なぜならば、真理とは、みたびの繰り返しになるが――。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
口で称える念仏オンリーで救済されるという教えは無学な下層民を喜ばせる。
念仏は浄土三部経によっているが、
これら仏典を釈迦が説いていないことは永遠に証明できない。
法然や親鸞がそれぞれ念仏は絶対真理だと信じているから、
このため、しがるがゆえに南無阿弥陀仏は真理だ。
真理とはおそらくある人が熱心に信じている解釈例のことなのだろう。
他人の解釈(世間常識/社会風潮)もたいせつだが、
自分なりに娑婆(しゃば)世界を解釈(妄想/誤読/創価)するのも
生きづらさをかかえるものには有効な手段となりうるのだと思う。
法然はいろいろな本を自由に新しく解釈(誤読?)することによって、
自他を救う物語(妄想?)を創作するにいたった。
誤読、誤読というが、言葉はいかようにも解釈可能なため、
受験現代文のような「正しい」読解はそもそも存在しないのかもしれない。
こちらも妄想過剰な梅原猛いわく、間違える天才のような法然は――。
ちなみに西方浄土を説いた有名なお経は「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」。

「『観無量寿経』と『大無量寿経』を比較すると、
同じように極楽浄土往生の思想を説いているのですが、
その態度は正反対といえます。
『観無量寿経』は美的芸術的経典です。
『大無量寿経』はそれに対してはなはだ倫理的論理的経典です。
法然は、倫理的論理的な人間です。
それで彼は『大無量寿経』に語られる本願の思想を中心に浄土教を新しく考え、
口称念仏中心の浄土教をたてたわけです。
そうすると、『観無量寿経』もそういう本願中心、念仏中心に法然は読みかえます。
つまり『観無量寿経』も表には観仏[イメージ]をすすめているように見えるけれど、
実際は称名[コール/ソング/カラオケ]をすすめたのだ。
表の意味と裏の意味は別だ、そういう解釈をするのです。
同じように『往生要集』を法然はまた読みかえるのですが、
『往生要集』も表に観仏をすすめているようだが、
ほんとうは称名をすすめたのだという解釈をとるのです」(P220)


しかし、法然とはいえ、完全な自由から独自妄想を創価創立したわけではない。
いままでだれからもさほど重要視されなかった中国の善導という坊さんの本を
読んで感動して、法然は善導の没後弟子になることで口称念仏の確信を得た。
逢ったこともない異国の僧を師匠とあおぎ、独自の信仰を打ち立てた。
まったくのオリジナルの思想など存在しないのだろう。
人はどうしたらおのれの導き手に出逢えるかはわからないが、
確率的には多くの本を読むことが重要で、
それから人生的には本との出逢いは偶然でたまたまだから
機縁が熟すのを待つしかないという面もあろう。
法然のはじめた南無阿弥陀仏は「あの世」信仰にほかならない。

「法然の理論はどうしてできたのでしょうか。
彼にとって決定的なものは善導との出会いです。
それを法然は「偏依善導(へんいぜんどう)」、
つまり「ひとえに善導に依る」というふうに言っています。
彼が『観無量寿経』の注釈書である善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで、
たいへん感動したところから彼の新しい浄土教は出発するのです。
善導はたいへんな詩人で、実に美しい文章を書きます。
絵もたいへん上手だったといいますが、
そしてこの世のはかなさ、苦しさ、麗しさを説き、
あの世の美しさ、苦しさ、変わりなさを語った。
私は若き日にはじめて『観経疏』を読みましたが、
何かボードレールの詩を読むような、そんな感じがしました。
そういう一種のロマン的な宗教家で、最期は木から飛び降りて死ぬのです。
そういうところもロマン派の宗教家らしい。
その善導が魂を注いで書いたのがこの『観経疏』です。
それを法然もまた全身全霊で読みました。
そして彼はそこから大きな思想のヒントを受けました」(P215)


「観経疏」を読んでみようと思ってネット検索したが書店に在庫がない。
そういえばむかし神保町の古本屋で4千円くらいで見かけたことがあったなあ。
実際に読んでみたらあんがい大したことがないのだろう。
善導は法然が自分で発見したから、彼にとって強い意味を持った。
わたしが後追いで善導を読んでも、さして新鮮な感動は味わえないような気がする。
さて、師匠の問題である。
他者に影響を受ける人と書物から刺激を受ける人とふたつのタイプがいるのだろう。
しかし、どうして書物が他者ではないと言い切れようか。
実際の著者よりも書物を通して対面したその人のほうが魅力的ということもあろう。
法然に逢ったことのない梅原猛は、法然の人間像を決めつける。
上記した真理の定義に従うなら、この梅原の描く法然は真理であろう。
不幸への哀しみが法然の人格形成を大きく左右した。

「父は殺され、一家離散の運命にあった法然一家に、
母もまた安穏な人生を送れたとは考えられないのです。
この法然の生まれ、および九歳のときの父の悲惨な死、
そして十三歳のときの何か由緒ありげな母の死、
これが法然の心の奥にある深い傷ではないかと私は思うのです。
私は、宗教者というものは心の奥に深い傷を負っていて、
その傷ゆえに彼はこの世に対して絶望し、
この世ならぬ美しい世界を求めるのではないかと思うのです」(P192)


法然の弟子といえば親鸞が知られているが、この男はうさんくさい。
法然の高弟で当時有名だったのは弁長と証空なのである。
梅原によると、ふたりとも親鸞にはまったくふれていないという。
親鸞サイドが弁長の悪口を書いているのなら、むかし読んだことがある。
わたしはいまでは親鸞およびその一族郎党は食わせ者ぞろいで、
本当に偉かったのは「歎異抄」で親鸞を描写した唯円だけではないかと思っている。
親鸞の主著「教行信証」はむかし読んだが、さっぱり意味がわからなかった。
梅原いわく、親鸞も法然の誤読傾向はしっかり継承しているとのことである。
親鸞の意味不明な仏教哲学論文「教行信証」は引用ばかりである。

「九十パーセントも経典の引用があると、あまり独自性がないのではないか、
独創性が欠如するのではないかというふうに一見思われますが、
だいたい昔の人は、そういう経典に対する尊敬の心が厚かったのです。
自分の説を述べるのにもやはり経典を通じて述べる。
しかし、この経典の集め方、選び方において彼の独自の思想が入っている。
だから『教行信証』が九十パーセントは経典の引用だからといって、
この本の独創性が少ないとはけっして言えません。
そればかりではなく、彼はここで引用された経典に対して
独自な読み方[誤読?]をしているのです」(P253)


だんじて田舎坊主の親鸞先生と現代非正規雇用の自分を比べるわけではないが、
当方も引用は嫌いではない。
あえてわざと意図的に文意とは異なるかたちでそこだけを引用で取ることがある。
全体を読まないで部分だけ証拠引用として取るのはおもしろい読書だ。
著者が訴えたいだろうところを無視して、あえて些末(さまつ/どうでもいい)な
箇所にスポットを浴びせるスーパーフリーな独自解釈的読書もまた魅惑的だ。
対象はひとつでも解釈(見方)はさまざまになしうる。
たとえ事実のようなものがひとつあったとしても、
想像力(創造力/妄想力)豊かな人はそこから複数の真実を見て取ることができる。
そもそもからして事実のようなものが存在するのかも考えてみるとよくわからない。
ミスというのは創造性、独創性と大きく関係しているような気がしてならない。
どれだけ大きく間違えるかが、
その人の(ロボットならぬ)人間性(独創性)の証(あかし)とも言えなくはないだろう。
書物に人生の師匠のようなものを発見したものは幸いだ。
書き手が死んでいたらもっといい。
生きている師匠は身勝手にも気分次第で好きなことを言うが故人はそうではない。
法然にとっての善導のような存在が、わたしにとっての一遍である。
一遍は法然や親鸞と比べたらはるかにマイナーな、
しかし当時あるいは先輩念仏者ふたりよりも世間的にはメジャーだったかもしれぬ、
踊り念仏の創始者として知られる(一遍は空也を開祖とするが)カリスマ坊主だ。
梅原猛は法然や親鸞ほど心惹かれる存在ではないらしいが、
それでもわが一遍にありがたくも言及してくださっている。

「一遍は西行をたいへん慕っていますが、一遍の歌は西行の歌とは違います。
西行の歌はよく考えられたものですが、一遍の歌は自然のもの、
西行にもないような自然の味があるような気がします。

をのづから相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり

私はこの歌が大好きです。
自然に人と別れるときもまた相合うときもあるが、
人間は結局ひとりだということですが、
「ひとりはいつもひとりなりけり」という言葉がよい。
これは一遍の心の底に存在する深い孤独をうたったものだと思いますが、
種田山頭火の歌のような感じがします。

こゝろよりこゝろをえんと意得(こころえ)て心にまよふこゝ成(なり)けり

「こころ」が五つありますが、こういう歌が一遍には多いのです。
これは先ほど述べたように、心にとらわれるかぎりは悟りは得られない。
心なんてことをいろいろ考えずに、「南無阿弥陀仏」に徹しろという歌でしょうが、
意味はよくわかりません。
こころという言葉を五つならべて結局は心に迷う心をうたい、
そういう心を捨てよというのでしょう」(P292)


仏教は現実的に役に立つからおもしろいのである。
働きながら一遍の歌の、
「相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」が思い浮かぶ。
そのまえの言葉がどうしても思い出せない。
ふと「おのづから」という言葉が出てくる。この「おのづから」の深さよ。
この上司と人生で出逢ったのも「おのづから」で、
もしかしたら明日「おのづから」別れてしまうのかもしれない。
いまひと言「辞める」と口にしたらもう一生逢うこともないのだろう。
そう考えたら、きついことを言われても「おのづから」にまかせようと思える。
一遍の「心より~」の歌はまったくそうで、いろいろ考えるから悩むのだろう。
どうせ人は死ぬのだし、死んだら旅先の思い出とおなじで、
あんがいマイナスの出来事を懐かしく思い返すのではないか。
死という絶対の彼岸である「あの世」からいまの自分を考えるとどれだけ救われるか。
わたしが仏教を趣味として学んでいるのは、
研究のためでも威張るためでも知的好奇心でもなく、
ただただ当方が生きづらい変質者だからなのだと思う。
仏教はマイストーリー(わが妄想)を創るうえで一生ものの玩具たりえる気がしている。

「河合隼雄全対話10 心の科学と宗教」(河合隼雄/第三文明社)

→河合隼雄さんの本が好きなのは、本当のことを語っているからである。
河合隼雄は臨床(心理療法)体験で知りえた本当のことを
職務上の守秘義務ゆえ語れないから、
本当のことをウソというかたちで公開している。
実際現実問題、本当に本当のことは言葉にできない。言葉にしたらウソになる。
しかし、そのウソを見たら本当のことを語っているかどうかがわかるともいえよう。
河合隼雄が本当のことをウソとして語っているとわかるのは、
わたしもまた一生語ることがない本当のことを秘密としてキープしているからだろう。
本当のことは秘密にするほかなく、あえて言語化するならウソとして語るしかない。
わたしが人生で体験した本当のことを書いてもだれも信じてくれないはず。
そんなことはありえないという言葉でばっさり断裁されることだろう。
結局「本当のこと」とは多数派庶民がマスメディアから洗脳され信じていることだ。
本当はそうではないということは、
庶民それぞれが実験して結果を検証してみるほかない。
禅ではこのことを冷暖自知(れいだんじち)というらしい。
なんのために生きるのかという青臭い問いがある。
40歳の老いぼれのわたしがいまのところ行き着いたと思っている解答例は実験だ。
人生は実験かもしれない。
本当はどうかそれぞれ実験(冷暖自知)するのが人生の実相ではないか?
さあ、だれもしたことのない実験をして、その結果を自分の目で観察してみよう。
他人の実験結果を妄信するのではなく、
自分で実験してみたら結果は自分の目にどう映るか?
日本におけるユング学問研究の最高権威であられた、
京都大学の科学者で高名な心理学者の河合隼雄氏はおっしゃる。
人生は実験だが、しかし――。

「対象から自分を切り離した自我が自然なりモノなりを観察する。
そういう態度によって、自然科学はその頂点に来てしまうと、
人間はものすごく孤独になります。
自分一人だけになってどうして連なっていくのか分からなくなってしまいます。
そういうことを考えたとき、一つは理論物理学がすごく進歩しました。
そして理論物理学が進歩すればするほど、
いままでの合理的体系で矛盾のない言い方をしても掴(つか)まえられない。
よく言われることですが、
光を粒子としてみれば粒子としてもみれるし、波動としてみれば波動としてみれる。
観察者の存在と自然現象は切っても切れない関係に
あるということが自然科学の最先端の理論物理学で分かってきました。
また片方は、心理学の方で、
初め人間を対象として扱って成り立っていたわけですが、
われわれの心理療法の立場で考えると、
人間の心を単純に観察するというのではなくて、
こちらの心の動きと相手の心の動きと関係していたり、
またこちらが意識していなくても、
相手の心に影響を持っていたりということが分かってきます。
つまり、こちらの見方によって相手の心が変わってきます。
不思議なことに、心の理論とモノの最先端の理論が
だんだん歩みよっていくところが出てきた」(P6)


通俗成功哲学の本はいっぱいあるが、現実で実験したらあれらは誤りかもしれない。
あなたやわたしがいまする人生実験は、
過去にだれもしたことのない一回かぎりのトライで結果はどうなるかわからない。
絶対にしてはいけないとされていることをして、うまくいくことだってわんさかある。
通俗権威にしたがい(彼ら群盲の象徴として)、
居丈高に怒っている上司に逆に正反対にも怒鳴り返したらどうなるか?
そんなことをやった人はいないから、結果どうなるかはわからない。
河合隼雄の本を読めば読むほどわかるのは、「わからない」ということである。
なにをどうしたらどうなるのかは、実際問題だれにもわからない。
みんなわかったふりをしている。
わかったふりをして自分は「正しい」とこしゃくにも思っている。
こざかしいプチ正義のやからがじつのところいちばん迷惑なのかもしれない。
わたしがもっとも嫌いなタイプの人だ。河合隼雄もそうだったのではないかしら。
なぜなら、まさにまさしく、わたくしこそがそのタイプの人なのかもしれないのだから。

「僕はよく言うんですが、交通法規を完全に守って運転する人があるでしょう。
そうすると周囲がみな事故を起こすわけですよ、いらいらしたりなんかして。
本人は、
「私はちゃんと交通法規を守っていますから無事故です」と威張っているけど、
実はあっちこっちに事故を起こしていて、本人は気がついていないわけですね。
そういうタイプの人もおられます」(P103)


赤信号を渡らない人が正しくて偉いことになっている。
赤信号を渡った人を注意する人が正義ぶって偉ぶっている。
わたしは赤信号を渡っている人を見てもなにもいわないだろう。
だれも一歩ふみださない自動車往来のない横断歩道の赤信号を、
まずいちばんはじめに前進するのがわたしの使命のようなものかもしれない。
それは勇気のせいでも愚昧のせいでもなく、
ただただ永遠(死)から見たらそんなちっぽけなことはどうでもいいからである。
ためしに赤信号を胸をはって渡ってみよう。威風堂々と。

「河合隼雄全対話10 心の科学と宗教」(河合隼雄/第三文明社)

→わたしは16年まえの6月26日に母親から目のまえで飛び降り自殺された。
自殺しているところを見たとかそういうたまたまの話ではなく、
母はわたしがしたにいることを知ってねらって、
わざわざ意図的に9階うえから飛び降り自殺をして死んだ。
16年まえの6月26日、午前4時すぎか。路上。
母の声でわたしの名前を呼ばれて(顕史=ケンジ)うえを向いたら、
母が9階から落ちてきて死んだ。
シャレにならない現実だ。
しかし、16年後のいま考えてみると、この事実を証明すべき証拠がなにもない。
目撃したのはわたしひとりである。
警察署の書類に記録が残っているかもしれないが、どのみち証言者はわたしひとり。
わたしのほかだれも見ていない「本当のこと」である。
いまから思えばの話をするとその後5年くらい苦悩の地獄であった。
10年まで夢にひんぱんに出てきた。15年経つと、なにがなんだかわからなくなった。
どうして「母親」から目のまえで「自殺」をされると人は「苦しい」のだろう?
それは、母親は子どもを愛すべしという一般通念があるからではないか?
自殺はしてはいけないという一般通念=言葉(言語)が
わたしを苦しませていただけではないか?
そもそも自殺は「悪」なのだろうか?
「来世」や「あの世」が「浄土(天国)」ならば、早く死ぬのは「正しい」ことになる。
断食して死んだ坊さんは聖(ひじり/聖者)になるが、だれもあれを自殺とはいわない。
河合隼雄はいう。「死後の世界」があるとするならば――。

「極端に言うと、早く向こうに行きたいというようになりますからね。
しかし、それは難しい問題で、
たとえば、昔の坊さんに断食して亡くなられた方がおられますね。
あれは、自殺だから病(やまい)だなんて決して言えない。
彼らは本当にちゃんと向こうに行ったんだ、
゛自分になる”最高の形態の一つとして、
ああいうこと[自殺]はあり得るのではないか……
というふうにも考えられるわけです」(P67)


ある現象(事件)を「自殺」と見るのも「極楽往生」と見るのも、
その人の主観(言語構造)である。
その人が「それ」を「自殺」という言葉にしたら「苦しい」(これも言葉)し、
「極楽往生」という言葉で事象をとらえたら「楽(らく)」になる。
ある体験があるとする。たとえば、わたしでいえば自死遺族としての体験。
体験そのものはなにものでもない。
体験に言葉を与えるから、それはプラスやマイナスの属性を帯びる。
おなじ体験をしても、人によって感想(体験談)が異なるのは、
そもそもの当人の持っている言葉(言語構造)がそれぞれ違うからとは考えられないか? 
すべては言葉かもしれない。河合隼雄はいう。

「極端にいうと、たとえば、ほとんど似た経験をしても
私は日本語で言わなくてはならないし、ある人は英語で言わなくてはならない。
(……) ということは、
私の言語構造というものが私の体験の認識に影響してくるわけです。
宗教にしても、ことばで語る段階になってくると
もう違ってくるのは当然ではないかという気がします」(P196)


ある近似した神秘体験X(エックス/それ)をしたとしても、
西欧人はキリスト教世界の言葉で「それ」を語り、
東洋人は仏教世界の言葉で「それ」を語るため、言葉のうえでは違ったように見える。
「それ」は本来言葉にできないが、人は「それ」を言葉で語ろうとするものである。
「それ」はX(エックス)で言語化不能なのだが、
しいて言葉にしたら「前世」のような仏教用語になることもある。
結局、母のこと(神秘体験X)をどのようにわたしが腹におさめたかといえば、
「前世(過去世)」という言葉によるところが大きい。
どんなトラウマも不幸体験も、そのものはX(エックス)だろう。
X(エックス/それ)を言葉にできないから人は苦しみ、
そして同時にXを手あかのついた安易な言葉(トラウマ/心の傷)
で代替することで人は苦しむ。「苦しい」もまた言葉だ。
92年段階で週に13人のクライエント相手に心理商売をしていた河合隼雄はいう。

「これはまったく僕の解釈ですが、意識のレベルを深くしていきます。
非常に深いところをXとします。
それを表現する時に、意識が上へ昇ってこないといけないわけです。
たとえば僕だったら、
日本語のシステムを表現形態として、僕の意識にあてはめる。
体験Xあるいは深い意識のXそのものの表現というのは不可能なわけです。
つまり僕の言語システムを濾過(ろか)して出ていく。
そしてその時、言語システムで表現した場合に、
前世の事として表現するのがぴったりのことであると、そんなふうに思っています。
前世がその人にあったかどうかということは、
まだ僕は保留にしています。
しかし、前世の話をし、その話がその人にとって真実であり、
その人が癒(いや)されるということと深い関係がある、
そのことは肯定します」(P75)


「前世」なんて妄想だろうという批判があるかもしれない。
しかし、なにが「妄想」で、だとしたらなにが「現実」なのだろう?
すべては「言葉」なのだとしたら、そうしたらすべてが「妄想」ではないか?
「母親」から目のまえで自殺されて「不幸」だというのは「言葉」で「妄想」だ!
――ああ~ん、離人症全開のおキチおっさんの言葉(妄想)におつきあいくださり、
本当に本当にありがとうごぜえますだ。
「私」という言葉も、「言葉」だから証拠および根拠のない「妄想」かもしれない。
以下の言葉は「自分(=私)を生きろ」と主張する河合隼雄先生の口から出た。
すべては「妄想」かもしれない。「私」も「僕」も「俺」も「あたし」も「自分」も――。
「妄想」かもしれないところの、
いやおそらく「私」の「妄想」のはずである「河合隼雄」はいう。
河合隼雄は「私」を生きろというが、そもそも「私」も「僕」もないのかもしれない。

「よく言うんですが、考えてみたら僕という人間は、
過去にもいなかったし、未来にもいないし、
今の世界にも自分しかいないと思っているけれど、
これは確かめようがないでしょう。
しかし、非常にたくさんの人がそう思って生きていますよね。
妄想というより、むしろ確信というべきでしょうが、
それは、考えたらおかしなことです」(P145)


「私」も、「私」の「母」も、「母」の「自殺」も言葉ゆえにみなみな妄想かもしれない。
あんがい妄想だろう。妄想に違いない。
「自殺」が妄想(言葉)ならば、「善」も「悪」も妄想ということになろう。
すべてが妄想かもしれないとしたら、あえて妄想を生きるという作法もなくはない。
めんどうくさいことをすべて
「前世」という言葉(=妄想)で片づけることもできるのではないか?
X(エックス)はそのままXで「善」も「悪」もないのかもしれない。
卑俗な世界の話に立ち戻ると、たとえば社会人にとって仕事の悩みとは、
おそらく人間関係がいちばんだろうが、だれも悪くない可能性もある。
現実的に役に立つ学問を志した河合隼雄はいう。

「ぼくは、こういうことをよく冗談に言うんです。
「あんな嫌いな人はおらへん」とか、
「いったいなんでこんなことになるんや」とか言うでしょう。そしたら
「それはもう、前世であんたら喧嘩(けんか)しとったんやからしょうがない」
って言うと、なんかそのほうがすっきりするときがあるんですね。
あいつに悪いところがあるんだろうかとか、自分はどこが悪いんだろうとか、
反省なんてしなくてもいいですよ。
「前世で喧嘩しとった」と言えば、
非常にすっきりして、また次のやり方ができてくるんです。
それを非常に狭い範囲内に限定して考えるから、しなくてもいい反省をしてみたり、
あるいはものすごく相手を攻撃したりするわけです。
相手もあんたも何も悪くないと言ったら、
ほんまにそうでしょう、と安心する」(P248)


だれかが「原因」でなにかが悪くなっているとわれわれは考えるのを好む。
しかし、それは「善悪」や「因果関係」という言葉に長らく縛られていたせいだ、
とも考えられるのではないだろうか?
見たものX(エックス/それ)をどのように言語化するかでそれは様相を変える。
「善悪」や「原因」という言語構造にとらわれていると見えないものがあると河合隼雄はいう。

「見たものをどういう言葉で我々の意識に統合するかということは、
その人がそれまで生きてきた意識体系が、もんすごく影響しますからね」(P24)


なぜ「それ(神秘体験X/エックス)」は起こったのか?
わたしの話をすれば、なぜ母は息子の目のまえで飛び降り自殺をしたか?
みなさまにもどうにも納得できない「それ」がかならずやあることでしょう。
「それ」を因果的にどう解釈したらいいのか? 
いいかえたら、「それ」はどう解釈する余地が言語的にあるのか?
西欧のシェイクスピアが
「きれいはきたない、きたないはきれい“Fair is foul, and foul is fair.”」(「マクベス」)
と「それ」を表現したところのパラドックス(矛盾)を、
学問として取り扱おうとした日本人のユング学者である河合隼雄はいう。
ふたたび、なぜ「それ」は起こったのか?

「人生を因果的に完結した体系として、理解しようと思うと、
「輪廻転生(りんねてんしょう)」ということを考えざるを得ない――
と私は思っています。悪いことをしていないのに、災難が降ってきたり、
悪いことをしているのに、栄えたり……。
自分や他人の人生を見ていても、だいたい辻褄(つじつま)が合わないことが多い。
その時に前世とか来世とかいうのを考えると、非常に筋が通ってくる。
こういう考え方が人間の世界観の中に入ってくる必然性は、
ものすごく高いと思いますね。輪廻転生を抜きで、
人間の人生を腹の底から「うん、そうだ」と納得するのは大変ですよ」(P62)


「それ」はなにかわからないが、
たとえば「輪廻転生」という言葉をあてはめるとしっくりする。
「それ」は究極的にはわからない、わけられない、言葉で区分できないものだが、
「それ」ではなにがなんだか落ち着かないので、
深いところの「それ」を「無意識」だの「神」だの「仏」だのとわれわれは言葉にする。
「それ」は本来的に善悪も因果もないものだが、それでは話にならないので、
たとえばわたしの話をすれば、「それ」は南無阿弥陀仏と命名すると安心する。
人によっては「それ」は南無妙法蓮華経かもしれないし、それはそれでいいと思う。
アーメンでもザーメンでもラーメンでもいいのだろう。
生きがいのようなもの、つまり「それ」がザーメンでもラーメンでもぜんぜん構わない。
実存の不安をラーメンを追求することでごまかしている人も大勢いよう。
「それ」とは人それぞれの、しかし人それぞれが信じている究極真理のことである。
「それ」はなんなのか人間にはわからないが、「それ」はたしかに存在している。
「それ」は言語化できないから「それ」なのだが、
「それ」を学問(言語化)しようという絶対矛盾に取り組んだのが河合隼雄である。
絶対体験の「それ」は言語化を拒(こば)んでいるがために絶対たりえている。
「それ」は見方によって、いかようにも語られうるX(エックス)である。
今年の6月26日は有給休暇をいただいて母の墓参りにでも行こうかと思う。

いまさっきようやく読了した本の感想をすべて書き終わった。
じつは数ヶ月まえに読んだ本なのだけれど。
図書館は行かないが借りていた本をすべて返した解放感のようなものもなくはない。
いまはいつしか本を読まなくなっている。
積んでいるのは山ほどあるんだけれど、モチベーションがねえ。
なんかもうなにもかもどうでもよくなっちゃったっていうかさ。
本を読む時間や精神的余裕をうまくつくりだすことができない。
いや、もう自分が自分の人生で読む本は読み終わったという自覚のせいか。
あと数週間で40歳。もういいかなと思う気持はある。もうやることはやった。
ブログ「本の山」も10年以上やっているのではないか。
打ち明け話をすると、ブログのアクセス数は減るばかりだった。
よく覚えていないが、いまは4、5年まえの半分くらいになっているのではないかしら。
いや、べつにそれで構わないのだが。
終わりだなあと感じる。
各方面で評判の高いテレビドラマ「出版重来」の初回をためしに視聴してみたが、
まったく時代についていけなかった。
しかし、正しいのは世間のほうだと高齢の身ゆえ存じあげている。
これからはもうひとつの終わりまで凡事徹底で
「ありふれた奇跡」を生きるのもいいのかもしれない。
明日から40歳までのカウントダウン日記でも始めようかなあ。
こんな悲観的なことを書いていると、明日女の子を好きになって、
彼女を振り向かせたくていきなりがんばるというのが人生なのだけれど。
現実は、宮本輝文学や山田太一ドラマではないのだから、
「そんなことはない、そんなことはない」のでしょうが、うんうん、
ともあれ今日ひとつの季節が終わった。なんかないかなあ。
人間はコントロールしたり、
コントロールされたりするのを生来的に望む生き物ではないか。
人間は支配や被支配のために生きている。
恋愛とか結婚とか、
つまり男女ともに相手をコントロールしたいし、コントロールされたいわけでしょう?
子育てのおもしろさは、
サルを赤子から自分の思うようにコントロールできるという錯覚にある気がする。
社会人の楽しみはあるとすれば、他人をコントロールすることでしょう。
他人を自分に屈服させ言うことを聞かせることほど社会人の楽しみはない。
また上司からコントロールされるのもときに楽しいものである。
人生ってコントロールしていると思っているほうが
コントロールされていることがけっこう多いような気がする。
親は子どもをコントロールしているつもりだろうけれど、
逆にコントロールされているわけでしょう。
恋人同士だって夫婦だってそう。それが創価学会のいう「リアルな絆」なわけで。
学会員は池田先生にマインドコントロールされているなんてまったくの盲見で、
じつは多数派たる庶民の学会員が描き出した偶像が、
かのSGI会長だったのかもしれない。
あらゆる教団のトップは手下を支配していたのではなく、
子分たちからコントロールされていたのかもしれない。
あるいはそうなのかもしれない。
人は期待されている役割をついつい演じてしまうもの。
イエスを殺したのはイエスを崇拝しイエスに期待する群盲の弟子たちという可能性もある。
「「頭がいい」とはどういうことか」(米山公啓/プレイブックス・インテリジェンス)

→著者は医師の国家資格をお持ちのフリー(サイエンス)ライター。
大学病院の研究者から雑文屋になったのだから、そうとうな変わり種だろう。
「頭がいい」とは、いったいどういうことなんだろう?
わたしは経験的に「おまえは自分が頭がいいと思っているんだろう」
とからまれることが非常に多い。
当方よりもよほど肩書が上の人間からも、そういう対応をされることがある。
わたしは自分が「頭がいい」と思ったことはほとんどない。
読書スピードも理解力も上の人にはかなわないし、
対人能力にいたってはカスとかホコリに比すのが正しいと思っている。
とにかく世事わからないことが多すぎる。
たとえば、どうして人は自分のことを「頭がいい」と他人に思われたがるの、とかさ。
わたしはバカに見られたいと思ってバカにもわかっていただけそうな文章を書いている。
正しい偉そうな秀才の文章の書き方は知っているけれど、あれ、おもしろくないじゃん。
やたら紋切型の四字熟語や意味不明の外国語を使う手口。

この記事を書いていて気づいたが、このあたりのわざとバカっぽくふるまっているところが、
人から「おまえは頭がいい人ぶっている」と叱責される原因なのかもしれない。
いまはテレビから消えたらしい、お笑い芸人の鳥居みゆきとか絶対に「頭がいい」けれど、
バカっぽくふるまっていたよねえ。
だから、嫌われたというようなところもあるのかもしれない。
もちろん、わたしは頭もよくなく、あるいはいまもいま、
計算してバカっぽくふるまっているのかもしれないけれど。無意識で。
無意識ってなに? え? わかんなーい、いえーい、やっほう♪
わたしがいちばん「頭がいい」と見上げるのは携帯(電話)ショップの店員さん。
あれだけころころ変わる機種情報を覚えられ接客もできるって天才だよ。
しかし、その「頭がいい人」からかつてバイト先で
「ツチヤさんは頭がいいから」と言われたことがある。
えええ、よっぽどそっちのほうが頭がいいじゃんと言い返したものである。
もしかしたら「頭がいい」人というのは、
他人の「頭のいい」ことに気づく人なのかもしれない。
著者は著者の定義によると「頭がいい」けれど、わたしはバカのようなのでホッとした。
本当にまったく世の中で活躍するということが人生でなかったや、いひっ。

「世の中で活躍するということを「頭のよさ」のひとつの定義として見るなら、
学歴はまったく関係なくなってくるし、
むしろ、常識の範疇(はんちゅう)からずれている人にこそ、
本当の能力があるように思える。
特に芸術や音楽の分野では、IQだけでは測りきれない能力があり、
それを見いだすシステムやチャンスが必要であろう。
しかし、日本ではいまや芸術すら権威的になってしまい、
特に美術の世界では公募展に入選するには、
それを審査する派閥に所属して絵を習わねばならない。
オリジナル性の高い芸術作品を作ることが本来の芸術家であろうが、
日本ではそれができにくい側面があるのも事実だ。
残念ながら、現実社会では広い意味での頭のいい人を的確に評価できていないのだ。
それは芸術だけでなく、科学研究分野でも同じことである。
突然ノーベル賞を受賞したことで、
日本にもこれほど優秀な人がいたと初めて、気がつく社会である。
頭のよさを偏差値やIQだけで評価する社会は、
それだけ未熟な社会であり、それが現在の日本なのであろう」(P155)


しかし、おかげで恩恵を受けている著者やわたしのようなものもいるのかもしれない。
結局、日本のみならず白人社会もブランドじゃないかなあ。
著者は非常に「頭がいい人」だと思うが、
主張の根拠はどう考えても医師の国家資格なのである。
著者が高校中退だったら、だれも耳を貸すものはいないのではないか。
結果がすべてというか、そんなものなのだろうなあ。
頭のよさは結果(学歴)でしか証明できないようなところがあるのかもしれない。
生活能力の極めて低いわたしはお金を稼げる人は「頭がいい人」だと思う。
自分がバカで頭がよくないことを心底から認知したとき、
その痴呆的態度が周囲には「頭がいい人」のように錯覚されるのかもしれない。
いちばん「頭がいい人」はすべてを秘密にしてなにも語らない完全犯罪者だろう。

「立派になりましたか?」(大道珠貴 /双葉文庫)

→今年読んだ小説のなかで最高傑作(うん? 何冊読んでる?)。
へらへら笑っている特別学級の子たちの内面ってわからないじゃないですか。
健常者には特殊学級の人たちのへらへら笑いほど怖いものはない。
なにかすごい深遠なことを考えているのではないかと思ったりして。
大道珠貴(だいどうたまき/女性)は特殊な「聖者の行進」をすれすれのラインで描く。
こんな小説を書いてしまったら、それは天才だが天罰が当たるのではというレベル。
何度も読み返して大笑いしたけれど、
この小説で笑ったのがばれたら社会的に罰を受けそうな気がする。
でも、みんな本なんて読まないから大丈夫だと思いたい。
あたまがゆっくりしたへらへら笑っている人たちの内面を、
だれにでもわかる平易な言葉でこれほど軽快に描写できる著者の才能には脱帽。
小説のテーマを問うのは現代文の悪しき習慣だが、
「立派になりましたか?」の主題はおそらく「へらへら笑う」。
へらへら笑っている特殊な聖者たちはもしかしたら最強ではないだろうか?
どんな不幸も不遇も災難もへらへら笑っているのがいちばん賢いのではないか?
健常者の男性が1学年上のトッキュウ(特殊学級)を評した文章がテーマと直結している。
もっとおもしろい描写はいくらでもあるのだが、
著者とは違って無駄な学歴のようなものがあるため、
どうしても深刻にマーカーを引くところを選んでしまう。
わたしもあちら側に行って、へらへら笑いたい。もうめんどうくさいことはいやいや。

「あなたたちは特別なクラスで、狭い世界で、そこだけで生きておられましたもんね。
遅刻しても怒られない、学校に来なけりゃ先生が迎えに行ってやる、
成績はたいして問題じゃない。
まるでおなかいっぱい食べればとりあえずほめられる幼稚園くらいのガキです。
あなたたちは、生きているだけでいい、みたいな保護のされかたで、
ある意味、役立たずなんですけど、
それで学校全体からはほとんど無視されていたわけなんですけど、
いや無視じゃなく、あたたかいようなつめたいような、
哀れみとも軽蔑ともつかないような視線で見られてはいたね。
あなたたちのいるクラスだけぽっかり異次元空間。
でも、見つめていると、ふしぎと、あなたたちって、やっぱり生きているだけでいい、
と思えてくるもんです。
そしてあなたたちを見つめていたら、ぼく自身は死にたくなった。
あなたたちのほうに行きたいなあ、とうらやましかったです。
最初からあなたたちの側にいたら、ぼくも、友達のことで悩んだり、成績を気にしたり、
将来なんになるか考えこんだりしなくても済むんじゃないかなあ。
まわりからも、生きていればいい、
ってなふうに大目に見られるんじゃないかなあ、と。
でもぼくは一応、成績はよかった。よくもないな。中の下だな。
トッキュウには入れてもらえないくらいは、よい成績だった」(P158)


トッキュウ出身の子たちって本当に深みのない薄っぺらいへらへら笑いをするよねえ。
純真とかピュアとも言えるんだけれど、そうではない見方もあっていいだろう。
大道珠貴は知的障害者文学の最高傑作をこっそり書き上げていたのかもしれない。
本当に怖い小説を読んだ。

「地域リハビリテーション」(長谷川幹/岩波アクティブ新書)

→パンダ的視線で言わせていただくと、
人間ってどうして人様の役に立ちたがるんだろう。
パンダなんて放っておけば自然消滅するくらい無能なのに、
みんなから愛されて役に立っているじゃないですか?
リハビリ病院に入るような患者さんは、
自分が役に立たなくなったことに最大のショックを受けることが多いらしい。
たしかにそれまで人を「役に立つ/役に立たない」でしか見てこなかった、
いわゆる有能な企業人が要介護状態になったときの動揺を想像すると笑え、
いやいやいや、笑うなど、と、と、とんでもなく同情いたします。
どうしてかと言うと、そういう人がいちばん嫌いなのは人から同情されることだからね、
なんちゃって、アハハ、ジョークっすよ。
べつに役に立たなくてもいいって思うけどなあ。
だれかが自力で用を足せなくなるから介助するものが必要となり、
その相手の人の役に立つことができる――そう考えるならば。わかりますか?
役に立たない存在が、人の役に立ちたがるだれかの役に立っている。
「ご迷惑をおかけして」は人の役に立ちたい人の役に立っているとも言えるわけ。
これは屁理屈で開き直りが過ぎるかもしれない。

ふたたびパンダ目線でものを言うと、
どうして人間って一般的に人の世話にはなりたくないのに人の世話を焼きたがるの?
わたしはパンダなので、けっこう人のお世話になっても平気な野獣メンタルがある。
おかげさまで生きているようなところがあり、
かといって人間様にお辞儀するわけでもなく、
パンダのようにのほほんとナチュラルにテンネンに生きているけれど。
それでも人間の部分が残っており、いろいろ考える。
どうして人は人の役に立つことを善だと考えるようになったのだろう。
この考えのせいで、人の役に立たないリハビリ病院患者は悪となってしまう。
もちろん、これは理念のうえの話で、実務介護なんて当方には想像も及ばぬ世界。
リハビリ病院に勤務している人はただただ尊敬するし、給料を上げてやれと思う。
みなみなとても美しい彼(女)らの心中に人の役に立つ喜びがあるのなら、
金の話にしてしまうのはよくないのかもしれない。
ペットの犬や猫って飼い主の役に立っていないのに(高額品ならブログで自慢できるか)、
しかしその役に立っていない無能性が役に立っているところがあるように思う。
わたしは犬も猫も嫌いだけれど。
要介護患者は犬や猫ではなく、わがままを言う人間だから話は別次元なのはわかる。

どうして人間って人に役に立ちたがり、自分がいかに役立つかを誇るのだろう。
その思考で突き進めば、要介護状態のやつは死ねっていう理屈になる。
でも、現代日本は(むかしは姥捨て山の)役に立たない老人が多く生かされている。
いまの日本って奇跡的な助け合い社会なんじゃないかなあ。
いったい役に立つ社会的有能な人はそんなに偉いのだろうか?
役に立たない人も「役に立たない人」の役をすることで
人様の役に立っているのではないか?
「おまえは役立たずだ」と言われたときに、こんな言い訳をしたら殴られるからご注意あれ。
「ぼくはパンダなんだも~ん」という回答のほうがまだましだろう(いや蹴られるぞ)。
リハビリとは役立たずを少しでも役立つように変える医療行為。
でもさ、ヤクザが悪人の役をやっているように
患者も被介護者という役を演じていると考えたら、それほど役立たずでもあるまい。
「役立たず」は「役立たず」の役を演じているのかもしれない。
わたしはどうしてかあまり人の役に立ちたいという願望がないことの
言い訳をだらだらしてみました。
全国の医療従事者のみなさん、とくにリハビリ病院ご勤務者、ご苦労様であります。
あなたたちは偉い。
――うん? 人の役に立つことが偉いのか? という堂々巡り。

さて、本書を読んで知ったがリハビリは医者のすることがほとんどないらしい。
リハビリ医療では医者が役立たずなのがおもしろい。
権威として存在しているだけでいいんじゃないですか?

「かつて結核などの感染症には薬が効果を発揮して
治癒することができた時代に中心的な役割を担ってきた医師は、
診断、治療(治癒)は得意な分野であるが、
治癒せず障害が残った場合にどうするのかという方法論は、
残念ながら未だ未整備である。
そのため、リハビリテーションに関わる医師は少ないのが実情である」(P16)


「リハビリテーション 新しい生き方を創る医学」(上田敏/講談社ブルーバックス)

→明日だれが倒れて半身麻痺(まひ)になるかわからないのである。
健康診断の結果がぜんぶOKでも脳卒中で半身麻痺になる人はいくらだっている。
そこで入るのがリハビリ病院というやつである
果たしてリハビリって医学なんだろうか?
だって行った人ならわかるでしょうが、リハビリ病院に医者はほとんどいないでしょう。
リハビリってどこか宗教めいたところがある。
まあ、そもそも医学がそうだから、だとしたらリハビリも医学になるんだろうなあ。
本書でリハビリの権威がばらしていた。
脳卒中で半身麻痺になっても数ヶ月で急速に回復することがある。
本人は自分ががんばったからと言うものだが、
医学的にはそれはそれだけ脳の故障個所が少なかったというだけであると。
たしかに身体をいくらリハビリしたって結局は脳なんだから……。

知人が脳神経外科の先生に聞いたことがあるという。
脳がダメージを受けた場合、本人は病識(病気だという自覚)があるんですか?
「そこらへんが境い目なんですよね」と言われたという。
リハビリしても完全回復はしないが、しかし機能がかなり回復することもある。
それはリハビリの成果なのか、それとも脳のダメージが少なかったからなのか?
でも、リハビリしたらよくなるというのは病者の希望である。
無理だって言われたら絶望しちゃうもんねえ。
結局、医学ってそういうことじゃないのかしら。
患者にとりあえず当面の行動規範を示すというか、まあ時を待ちましょうというか。
リハビリ病院でよくなったらそれはリハビリの効果のような気がするけれど、
もともと脳がそこまでダメージを受けていなかったという解釈もできるわけで。
そりゃあ、なにもしてないよりはリハビリをしているほうが精神衛生上いいだろう。
以上、人生リハビリ中の脳に欠陥があるという病識を持つ、
国家非公認の自称障害者のメモでした。
障害を持つ子どもには引っぱたいてリハビリさせるのが愛なのか、
やさしく見守っているのが愛なのかは自己愛ともからむ問題で難しい。
わたしが子どもだったら後者の親のほうがいいなあ。

医者はどれだけ自然にさらりと嘘=希望を言えるかが手腕である。
著者はけっこうな名医ではないかと思う。

「私はこれまで、障害による深刻な心の悩みから立ち直った人をたくさん見ているが、
そのような苦しみから立ち直った人は、
人間的に実に立派な、尊敬すべき人になる。
ベートーヴェンではないけれども、「苦難を突き抜けて歓喜へ」
というのはリハビリテーションでも真実だと思うことがある」(P193)


おいおい、あんた名医だなあ。

「創価学会財務部の内幕」(「学会マネー研究会」/小学館文庫)

→おーい、みんな、創価学会って知っているかい?
あんがい意外と街の人は創価学会のことを知らないような気がする。
わたしだって創価学会の存在を知ったのは20代半ばだから。
芥川賞作家の宮本輝さんの小説が好きで好きで、
ネット検索したらそのときはじめて創価学会という巨大宗教団体の存在を知った。
だから、少なくとも大学を卒業するまでは創価学会のことをまったく知らなかった。
だって、学校でも予備校でも教えてくれなかったもん。
河合塾の日本史の桑山先生が日蓮の話をするときに、ちょっとにおわせたくらい。
史実は史実ですから、とかさ、うふっ。
けれど、人口比率を考えると絶対にわたしも小中高、大学で学会員と遭遇しているわけ。
なのにどうして創価のことを知らなかったかというと学会員が隠していたからだと思う。
宮本輝先生も内部機関誌ではばらしているが、公的エッセイではいっさい触れていない。
どうして学会員って創価学会員であることを隠すのだろう?
答えは偏見があるから、差別があるから、恥ずかしいから。
このため、隣人が隠れ学会員かもしれないという一般人の恐怖をときに誘う。
この1年のわたしなんて逢う人逢う人が学会員に見えてしようがなくて、
それほとんどビョーキだよって話。

わたしは創価学会のことが自分と正反対だからかなり好きである。
学会員って要するに高校の体育祭とかで夢中になる熱いイイやつなんだなあ。
そういうのが嫌いな高校生の当方は体育祭も文化祭もわざわざ欠席したから。
あのときなにも言わなかった担任の地学N先生は偉大っすよ。
欠席したけれど人一倍、
そういう熱い輪にあこがれているようなところがわたしにはある。
学会員だってスリープ(未活/非活)7割、ほどほど2割、バリ活1割くらいっしょ?
みんなバリバリ生きたいけれど、そういうのは疲れちゃう。
けれど、やっぱ、バリバリ活動しているものへの憧憬のようなものはある。
けどけど、文化祭の練習に来ない? とか誘われるとうざい人はうざく感じる。
あいつに役割を与えて仲間に入れなきゃとか思うのがおそらく学会員メンタル。
で、それが嫌いというのではなく、とってもいいんじゃないかなあと。
創価学会以外にも学会的なものって世の中にたくさんあるじゃないですか?
社訓を毎朝大声で叫ぶ会社とか、あれですよあれ。
いまは存在するのか知らないけれど社員旅行ってキモいけれど、
それはそれで美しいじゃん。
社員旅行を取り仕切っているリーダーが裏では陰口をたたかれていたり……。
そういう、なんちゅうか、人間くさいのって、つまり学会的で日本的で、
あっていいんじゃないかな……というか、むしろそれが「リアルな絆」みたいな。
濃い人間関係とかいまは創価学会くらいしかないんじゃないかしら。
高校時代にしか存在しないような、
ピュアでなまの人間の愛憎劇を味わえるのが学会。

本書によると、経済的には創価学会は税金を納めていない全国規模の大会社。
この本ではそれが悪いような書かれ方をしているけれど、
節税はどこの会社もやっているっしょ?
まったく無意味の選挙投票チケット1枚と引きかえに強制徴収される税金ほど
アホらしいものはないわけだから。
税金を払うくらいだったら創価学会に寄付してわずかでも見返りをもらったほうがいい。
脱税か節税かなんてよくわからないのよ。
合法ギリギリの税金対策なんていくらだってあるはずである。
税務署が黒といったら黒、白といったら白になる世界。
いったいなにが「正しい」っていうの? いったいなにが不正なの? 本書より。

「ここまで創価学会と大手都市銀行の〝関係”をつぶさに観察してきた。
そこには、話し合いで双方が妥協点を見いだし、共に利益を得ようではないか、
という〝癒着(ゆちゃく)”の構図が見えた。同じ「輪」(円)の中で、
「宴(うたげ)」を盛り上げる、それも持てる同士で……。
そんな両者の関係もあらわになった」(P60)


え? 癒着のどこがいけないの?
みんなひいきにしているものには、いい思いをしてもらいたいと思うでしょう?
自分の親族、血縁は厚遇するというのが歴史上、人間の本性ではないか?
それを癒着っていわれても、おまえはどこかと癒着していないのかって話。
創価学会はひとつのファミリーだと解釈すればいちばんわかりやすいと思う。
ファミリー企業がいっぱいあって、お互い助け合っている。
そうはいってもファミリーはいいときばかりではなく、
ファミリーゆえに争うとドライにはいかず、とことんヤクザに近くなる。
私見では、いま創価学会は誕生以来、いちばん健全でいい時代なのではないか。
というのも、ビックダディでゴッドファーザーの池田先生がゴニョゴニョになってしまい、
おかげで学会員がそれぞれ自分のあたまで考え意見し行動するようになっている。
いつ勲章マニアの池田先生があれになったかは諸説あるが、
わたしは芥川賞作家の宮本輝先生が紫綬褒章を取るまえだと思う。
池田先生がお元気だったら宮本先生は絶対に紫綬褒章を怖くて取れなかった。
現実をよく知らなかった若輩のわたしは宮本輝の小説にリアリティを感じていたが、
もういいおっさんになったこちらからするとあれは病的妄想だ。
創価学会に入れば宮本輝の小説世界を生きられるのかなあ。
山田太一ドラマの庶民はとにかく本を読まないけれど、
宮本輝の小説の庶民は見栄をはって源氏物語とか読もうとするんだ。
作者の宮本輝だって読んだことがないくせに、笑っちゃう。
学会員のすばらしさと恥ずかしさは庶民が源氏物語を読もうとするところにある。
わたしは権威主義(勲章! 古典! ゲーテ!)で、
なおかつ反権威的(価値創造! 創価ルネサンス!)であるという、
矛盾した面をあわせもつ創価学会という人間くさい秘密組織が、
どこか自分とおなじうさんくささがあるため、しかるがゆえにおもしろくて好きだ。

本書ではいろいろと裏の金の儲け方を知ることができ非常に有益だった。
そういう手があるのかと、ふむふむ。
匿名のライター集団もみんな本当は創価学会のことを憎からず思っているんだろうなあ。
創価学会はおもしろすぎる。

やべえ、あと1ヶ月もしないうちに40歳になってしまう。
まさか40まで生きられるとも、40まで生きても無名のままだとは思わなかった。
40歳まで生きても、なんの世間的評価がないって本当の人間のクズじゃん、あはっ。
たしかにむかしはそう思っていたが、いまは少しばかり異なる。
40歳まで生きてきたのに無冠って、かえってすごくないか?
ふつう40くらいまで生きたら、だれでも小さな賞をひとつくらい取っているものでしょ?
それを誇りにして見苦しい自己愛を発揮したりする。
おれ、ホントーになんにもない。世間から1回も評価されたことがない。
これはマイナスではなく、むしろおいしいのではないか?
経歴に「すばる文学賞佳作」とか誇らしく語っている人ってみっともないじゃん。
ぼくは文芸誌に応募したことはないが、シナリオ賞には何度も応募したことがある。
箸にも棒にもかからなかった。
いまではシナリオへの関心をまったくと言っていいほど失っている。
いまのテレビもいまの映画も興味がなく、なにも知らない。
人間って変わるもんだなあ。かつて好きだったものもどうでもよくなるのが人間。
過去を回想して唯一、追求(?)してきたと思えるのはおいしさかなあ。
おいしいものを食べたい。
でも、それって食欲という最底辺の欲望なわけだから、
本当に最低なわたしわたしわたし――。
スーパーやセブンで新しくかつ安価なおいしさを求めるだけでも人生いいのでは?
いや、そりゃ、やばいっしょ! もっとなにかを求めないといけません。
人が本当に金や女を求めたら、するのは犯罪近似行為のような気がする。
そういうことができるガツガツした人がうらやましい。
本当に大金がほしかったら、わたしはどんな悪だくみをするのだろう。
しかし、どうせ死んでしまう。
「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という自由律(スーパーフリー)俳句を
つくったのは、いまでは国語便覧にも載っている偉人の種田山頭火だ。
どうしようもない。人生はどうしようもない。
さて、人生はどうしようもないとはどういうことか?
他人はどうしようもない、コントロールできないということだ。
他人はそれぞれ自分の好き勝手な理由でそれぞれ好きなことを言う。
他人を変えようと思っても決して変わらない。
それは他人が自分を変えようと意図しているのに、
こちらは屁の河童の論理とおなじ。
てめえだって他人の意見で変わらないのに、自分は他人を変えようとする愚かしさよ。
ブログのコメント欄とか最近ちょーぜつにうざいねえ。
匿名の分際で言いたい放題で、それはよいストレス発散法を見つけましたねえ。
おめでとうございます。
わたしは「他人はどうしようもない」と気づいたから、いまは基本的にコメント欄は放置。
どうしても返答がほしければ、メールをくださいとしか言えない。
むろん、なにも期待していない。
わたしがこういう記事を書いても、
他人というものは当方に批判的なコメントを
卑怯にも守られた匿名の立場から書いてくることだろう。
そしてそれはかぎりなく「正しい」行為だと思う。
どうして人間って他人を自分好みに変えようという支配願望が強いのだろう。
他人なんてどうしようもないじゃん。
いくらわたしがこういう記事を書いてもどうせ伝わらず、また匿名の批判コメントが並ぶ。
彼らは正義の人たちなのだ。正義とは自分以外のだれかが間違っているということ。
数字は高ければ高いほどいいというわけではない(血圧しかり)。
一般的に高学歴(高偏差値)のほうがいいとされているが、さあどうだか?
女性の場合、東大医学部に入れる偏差値があっても、
フェリスとかお嬢さま女子大にいくほうが賢い場合もあるわけでしょう?
勤務医になって命を削りながら訴訟リスクにおびえ働くよりも、
セレブ妻になったほうがはるかに楽しい人生だ、という解釈もあるわけだから。
一般的に男性は自分よりも身長や学歴、
収入が高い女性を嫌うとされているから、
もし経済的にお得な結婚をしたいのなら、女性はあえて学歴は下げておいたほうがいい。
しかし、これは社会的通念に過ぎず、特例的に高学歴美女が大好きな
「もてない男」の小谷野先生のような低身長ながら高収入の男性もおられる。

なんで男って自分よりも高収入の女を嫌う傾向にあるのかね?
わたしだったら高収入女性ほど魅力的だけれど
(ヒモがむかしの夢でした←どの顔で言うかバカヤロウ!)。
いまの当方は女性の学歴や収入、身長、年齢にこだわりはない。
わたくしごときを相手にしてくださるならだれでもOKって感じっす。

この記事で言いたいのは、だから学歴リスク。
早稲田なんて運がよければだれでも入れる大学なんだけれど、
「(早稲田なのに)こんなことも知らないのっ?」と過剰反応されるとめんどくさい。
おなじことを知的障害者がしたら「まあ、いいから、いいから」になるのに。
庶民の学歴フィルターってありませんか?
知的障害者は汚れを知らぬ善人で、高学歴者はずる賢いうそつきみたいな。
そういう面もあるのだろうが、そうとも完全には言い切れないのではないかしら。
あいつは○○だからと言うまえに、
その人のことを自分はわかっていないという前提から始めるといいのかもしれない。
少しずつわかっていけばいいのかもしれない。
あなたが苦手だった人の顔が少しずつ変わっていくようなこともあるのかもしれない。
いったい学歴ってなんなのだろう。

学歴が低いということは、そこまで自分にコンプレックスを感じるものなのか?
むかしは容貌へのコンプレックスがかなりあったが、
外見は数値化できないオーラのようなものがあることを知り、だいぶ楽になった。
いまむかしと比べてだいぶ生きているのが楽だなあ。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
バイオリニストの石川綾子を
いままで知らなかったといったら笑われるのかもしれないけれど、
新聞はおろか地上波テレビすらろくに見ていないんだから仕方がないじゃん。
きょうはずうっと石川綾子のバイオリン演奏をネットで聴いていた。
天才っているんだなあ。ぶるぶるってするくらいの天才。
デビあや怖い。この子なんなの?


そういえば3歳のときから10年以上、鈴木メソッドでバイオリンを習っていたなあ。