「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもとてもいい本だったので、繰り返し何度も感想を書きたい。
西洋哲学とはなにかをひと言で要約したら、哲学は言葉になるだろう。
東洋哲学たる仏教の真理はおそらく無言語状態にあるが、
西洋は「言葉、言葉、言葉」(「ハムレット」)。
日本はいまでもまだ人情世界だが、西洋は契約つまり言葉である。
どちらがいいのかはわからない。
言葉にならない状態(病名がつかない段階)はモヤモヤしてイライラするが、
いざ言葉にされると本当にそれだけだろうかと敏感なものは違和感をおぼえよう。
西洋学問というのは、言葉って本当にすごいんですねえ、というひと言に尽きる。
たとえば、権利という言葉を知らなかったら、権利を求める人もいないでしょう?
平等という言葉を知らなかったら、平等を求める人もいないでしょう?
愛という言葉を知らなかったら、愛を求める人もいないでしょう?
幸福という言葉を知らなかったら、
その反対の境遇とされる不幸で悩むこともなくなる。
動物というのは快不快原則で生きていると思う。
本来ならそのほうが自然なのだろうが、人間は言葉で自然を区分けしたがる。
西洋哲学を象徴しているのはルサンチマンという言葉だろう。
ルサンチマンなんて言葉は知らないほうがいいのかもしれない。
上層部は庶民に祝福や大勝利という言葉だけ与えておけばよろしい。
なにが起こってもこれは神の祝福だ、大勝利だと思っている人間がいちばんイージー。
差別という言葉を知るから被差別者は差別に苦しまなければならなくなる。
おそらく大勝利オンリーがベストだろう。
交通事故に遭っても生きていれば死ななかったのだから大勝利と思っていればいい。

もしかしたら客観的世界は存在しないのかもしれない。
たしかに絵画は主観だが、写真は事実を伝えた客観だろうと反論されるかもしれない。
しかし、写真にもフレームを決定した撮影者の主観が大きく影響している。
そのうえ、ここが重要だが、1枚のおなじ写真を見ても人はいろいろなことを思う。
青と黄色と赤の看板がうつっている写真でも人によって見え方は変わる。
ある人はなにも思わない。べつの人は怖いと思う。
ある宗教団体に属する人は、とてもいい写真と思うかもしれない。
そして、そのどの感想もそれぞれ正しい。
日本の創価学会も西洋のルサンチマンとおなじような言葉だと思う。
繰り返すが、客観的な万民普遍の世界は存在しないのかもしれない。
なぜならば、人によって知っている言葉が異なるからである。
日本人とベトナム人とでは、
おなじ光景を見ても違うような言語解釈をするだろう。
本書のタイトルは「私の秘密」だが、「私」という観念(言葉)を知らなかったらどうだろう。
「秘密」という言葉(観念)を知らないものに世界はどう見えるだろう。
もしかしたら客観的世界など存在せず、
世界はそれぞれの言葉で色付けされたさまざまなものがあるだけなのかもしれない。
わたしはこのところ世界が以前と比べて、
とても生き生きとしたものに見えることがあり驚くことがある。
ながらく「死」のことばかり考えてきたわたしは、
いま目にうつっている世界は死んでい「ない」ことを敏感に察知しているのかもしれない。
「死」という言語を知ると、死んでいない世界が生き生きと見えるようなこともあるのか?
そんなことを有名哲学者の中島義道博士の名文を読んで考えた。
書籍は言語の集積である。
(例によって引用文中の[カッコ]は当方のお節介な意味補足)

「言語を習得した者のみが「……でない」
という否定的態度で世界に接することができます。
眼前のこの特定の色Fは赤くないと同時に、青くなく、黄色でもなく。茶色でもない。
ですが、このとき私の瞳孔(どうこう)を刺激するF[客観]には、
この否定[主観]は含まれていない。
刺激の対象としては、ただFが[客観的に]「ある」のであって、
ここに私はあらためて言語によって否定を到来させて
同じFを[主観的に]「赤くない色」であると同時に「青くない色」であると判断するのです。
「Fは赤くない」という[主観的な]判断によって、
[客観的な]知覚=刺激に何も付け加わるものはない。
知覚の対象としてのFのあり方が変わるわけではない。
ここに持ち込まれた否定[主観]は、
[客観的]知覚とはまったく異なった世界に対する私の態度に基づくからこそ、
知覚[客観的対象]に影響を及ぼすことはないのです」(P81)


ここから先が重要ですよ。

「その態度とはいかなるものでしょうか。
私が「赤いもの」を求めているという態度です。
私は、「赤いもの」を探している。その場合、さまざまな色は
私のこの態度によって「赤い色」と「赤くない色」とに分類される。
ここに、赤い色以外のさまざまな色はその固有な色を失うことなしに、
総じて「赤くない色」という性質をもつようになります。
知覚=刺激上は何一つ変化していない。
ただ、世界には忽然(こつぜん)と「赤くない色」という否定的色が登場したのです。
同じように、私が傘(かさ)を探しているとき、
突如として傘以外のすべての物はその固有のあり方を維持したまま
「傘でない物」という否定的物を「はらむ」ようになります」(P81)


正義を求めているものには、
他人のミスばかり目につくようになるだろう。
金銭を求めているものには、
他人の機能性(役に立つかどうか)ばかりが気になるようになるだろう。
よしんば死のようなものを求めているものがいたとしたら、
人間はおろか世界全体が輝いて見えるようなこともなくはないのかもしれない。
おなじ日本国民でも東京都民でも板橋区民でも人によって「住んでいる世界」は違う。

「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもいい本だったので、何度も繰り返し読んだ。
この本に費やした時間を考えると驚くくらいである。
ファンである、うるさい哲学者の中島義道先生の最高傑作ではないかと思う。
費用対効果のようなものはとくになく、金にもならないし女にもてるようにもならないが。
つくづく思ったのは、家族関係や職場の人間関係といった世俗のことのほうが
西洋哲学よりも何十倍も難しい。
これはわたしにとってはで、人によっては西洋哲学のほうが難解だろう。
わたしは中島義道の本をたくさん読んでいるから、おそらくこの本のおもしろさがわかる。
ひまにまかせていろいろな本を読み散らかしたせいもあろう。
40年、50年と働きづめできた人にはこの本の意味がよくわからないだろう。
その代わり、仕事のことはその人のほうがよくわかっているだろう。
おそらくたぶんそういうほうが現世的な意味では幸福だろう。

繰り返し読んだ本書の内容を要約すれば、「私」は存在しない。
「私」のみならず、過去もいまも未来も、それどころか世界も存在しない。
正しくは、存在しない、ではなく、存在しないのかもしれない。
いや、存在するのかもしれない。
かりに世界が存在するのだとしたら(本当は過去もいまも存在しないのかもしれないが)、
「私」とは過去をいまと結びつけている語り部としての機能だけかもしれない。

――と、こんなことを言われても、ふつうの人は意味がわからないっしょ?
わからないことを言われると庶民はすぐ怒る。
世界は存在しない? なーに、おまえ、インテリぶりやがって!
おまえは生意気だ。世界が存在しないはずないだろう。なに?
すぐおまえは歯向かってくる。おまえは間違っている。
おれがおまえを鍛えて現実世界を教え込んでやる。おまえを注意するぞ。
インテルぶるな。理屈を言うな。おまえ、おまえ、おまえ、おれを舐めるなよ!
――とこうなるのがオチである。

「世界は存在しない」には耐えきれない苦労人も、
「私」の怪しさならご理解いただけるかもしれない。
苦労人のおじいさんとか、自分探し(「私」探し)をしている若者が嫌いそうじゃん。
ここをとっかかりに進めないだろうかと思う。
「私」は存在しないのかもしれない。
「私」が存在するとしたら、それは過去といまを接続する接着点としてだけである。
いまの「私」は過去にこういうことをした(=しなかった)存在だ。
そう語るときにのみ「私」というものは存在する。
若者が自分探し(「私」探し)をするのは、過去になにもしていないからである。
「私」とは過去のことだから、過去が少ない若者ほど自分探しに熱中する。
いい歳をした大人が自分探しをやらなくなるのは、
「私(=過去)」がどうしようもなくできあがってしまったからだ。
苦労人が「あたまでっかち」を毛嫌いするのは、
苦労してきた(と「私」が思っている)過去ゆえである。
本当に本当に本当に苦労人っぽい人は中島義道的存在を憎悪する。
むかしの創価学会の対極に位置するのが西洋風大衆哲学者の中島義道だろう。

「私」とはなにか?
こういう青臭いことを書くと、またコメント欄でたたかれるんだろうなあ。
攻撃するなら金持で有名人の中島義道に矛先(ほこさき)を向けてください。
「私」とはなにか? 「私」とは過去を語る主体である。「私」は時間的存在だ。
(以下、引用文中の[カッコ]内の記述は当方のお節介の無駄な意味補足です)

「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、
過去の体験を「私は……した」と語る者なのです。
時間を捨象して[時間を考慮せず、私を]とらえようとするかぎり、
いかにしても「私というあり方」はとらえられないでしょう」(P16)


カウンセリング(心理療法)や精神科で患者は「私」のことを語るが、
それは過去を語るということに等しい。
ふたたび、「私」とはなにか? 「私」の正体はなにか?

「私はあらゆる時間的規定以前に「根源的に」存在するのでもなく、
<いま・ここ>の知覚の場面に絶対確実に存在するのでもなく、
むしろ過去という不在、無意識という不在、
[過去の]泥酔・錯覚・幻覚・夢想・思い違い・早とちり……という
「混濁(こんだく)した意識」を含んで
<いま・ここ>にかろうじて「ある」のです」(P17)


「私」は過去を言葉にする主体(存在)である。
過去にあったX(エックス)という事件をいま言葉にするときに「私」が立ち現われる。
その瞬間に起こったXそのものはなにものでもないのだろう。
Xをそれぞれに想起するとき(思い返すとき)、それぞれの「私」が立ち上がる。
セックスそれ自体はなにものでもないのかもしれない。
セックスを思い返すときに「私」が発生する。
ここにレイプされた過去(=「私」)を
「あたまでっかち」になら乗り越えられる哲学的抜け道がある。
一般的に女性は身体的で男性は理性的と言われるから無理かもしれない。
だが、レイプをした罪悪感に苦しんでいる男性への抜け道もここにあるのかもしれない。
Xがなんだったのかはだれにもわからないのかもしれない。
本当は誘われてことに及んだのに、どうしてかレイプ犯人にされた男もいるだろう。
Xがなにかはわからない。
Xを過去のこととして物語るときに「私」が生じる。
Xはなんだったのか? 気持よかったのか? 痛かったのか?

「「痛かった」と過去形で語る場合の痛みははじめから観念です。
しかし、現在形の場合、思わず「痛い!」と語るとき、
それは固有の刺激Xを語り尽くしてはいない。
Xは「痛い」という言葉では表せない独特の刺激です。
しかし、それにもかかわらず、われわれはその独特性を切り捨てて、
単に「痛い」と語ることを強制される。
そして、そのときわれわれは刺激の世界を離れて
それとはまったく異なった観念の世界に足を踏み入れるのです。
つまり、「痛い」という言葉を学ぶとは、
痛いという観念によって世界をとらえなおすことを学ぶことであり、
刺激が現存していても不在でも、
同じ「痛い」という言葉を使用することを学ぶことなのです。
このことによって、はじめて私は過去世界と現在世界とを
「一つの」世界として語ることができ、
現在形と過去形を「つなぐ」ことができるのです」(P106)


「私」も過去も現在も本当は存在しないのかもしれず、
もしそれらが存在するとしたら、
「私」はいま現在ここで過去のXを言葉にする存在というだけかもしれない。
ネガティブな「私」は過去にこだわり、ポジティブな「私」は未来を語るだろう。
暗い過去を振り捨てて明るい未来を語らせようとするのが創価学会である。
しかし、中島義道によると、過去も未来もおなじようにまやかしである。
過去も未来も現在(いま)も存在しない可能性がありうる。
過去の存在を「私」がいま語るとき、その同形態で未来という概念も発生する。
未来である老後の不安におびえていま必死に働いているような人は、
「未来は存在しない」などと言われたら相手を殴りたくなるだろう。
言っているのは、東大卒のインテリで新聞学者、子どももエリートの中島義道先生。

「先ほど少し触れたように、未来は厳密には時間ではありません。
未来と現在の関係は、現在と過去との関係をただ延ばしただけです。
われわれが「未来」と呼ぶものは、じつは時間ではなく概念[言葉]であるにすぎない。
未来が過去と並ぶ独特の時間であるというのは錯覚です。
未来とは、現在であるこの<いま>を一つ前の<いま>
すなわち過去へと仮想的に[あたまでっかちに]ずらしてみて、
その過去の時点に立ってあらためて
<いま>を見なおすときに出現する時なのです。(……)
[過去も未来も世界も]すべてがただの推量の産物であり、
このすべては現在を一つの時、
そして過去をそれとはまったく別の一つの時として
産出するという操作に基づいています。
想起できなければ[あたまで考えなければ]、
過去[後悔]のみならず未来[不安]を産出することもできず、
過去との対比でのみ意味をもつ現在も産出することはできず、
未来における過去である現在も、
未来における現在である未来を算出することもできない。
時間了解の全体は、現在と過去との両立不可能なあり方を原型としており、
あとの時間了解はそのヴァリエーションにすぎないのです」(P91)


明日食うコメがなくなる庶民に
未来は概念(言葉)にすぎず存在しないと言っても通じないだろうけれど、
そういう貧困経験をお持ちにならない中島義道は彼の真実を正直に述懐する。
西洋哲学的に思弁するならば(考えたら)、過去も未来も存在しない。
いまここにいるあやふやな「私」が過去も未来もつくりだしている。
「私」とはなにか? 「私」とは時間的存在である。
「私」とは過去を言葉にするものである。「私」とは未来の予測を言葉にするものである。
「私」とは過去を後悔して悩み苦しみ、同時に未来の不安におびえる概念(言葉)だ。

「私のみが、過去[未来]と現在とを「またぐ」ことができる。
想起を世界の中に取り戻すことは[要するに、あれこれ考え悩むことは]、
現在と過去[未来]という両立不可能な時間のあり方
(現在は過去ではなく、過去は現在ではない)を世界の中に取り戻すことであり、
想起[苦悩]を通じてそれら[過去→現在→未来]両立不可能なものを
接着する能力をもつ私を世界の中に取り戻すことなのです」(P62)


過去が原因で現在、いまのわたしがこうなっているのではないのかもしれない。
現在の行為が原因となって未来がどうこうなるのではないのかもしれない。
原因(過去)も結果(現在)もないのかもしれない。
現在(原因)も未来(結果)もないのかもしれない。
すべてはいまここにあるかどうかわからぬあやふやな「私」が
つくりだしたフィクションという可能性も思弁的になら(あまたでっかちになら)
考えられないだろうか?

「光景1[夕陽]が見えないことが、光景2[星空]を見えさせると語るとき、
光景1が見えないことが原因で、その結果として光景2が見えるわけではない。
光景1[過去]が光景2[いまの私]を「見えさせる」と語っていますが、
ここにはAがBを「ひきおこす」という因果関係は成立していない。
光景1[過去]に光景2[現在]をひきおこす力などありません。
ここに成立しているのは、同時成立的[共時的]な「すなわち」の関係であり、
眼前の微小な知覚風景が見えること、
それがすなわち残りの全世界が見えないことなのであり、
残りの全世界が見えないこと、
それがすなわち眼前の微小知覚風景が見えることなのです」(P50)


これは仏教でいう華厳的な思想だが、西洋哲学者は東洋の仏教に言及しない。
「私」とは過去の苦労をくどくど語るうざい老人である。
「私」とは起こりそうもない夢を語る世間知らずの若者である。
後悔(過去)も不安(未来)も「私」がつくりだしたフィクションかもしれない。
ならば、そうだとしたら、どうしたらやっかいな「私」を乗り越えられるのか。

「われを忘れて読書しているとき、
夢中になってボールを追いかけているとき、
音楽に聴きほれているとき、
そこには一つの世界の光景が生じているだけであり、私は登場していません。
私が世界に密着して何事かに勤(いそ)しんでいるとき、
私は登場してこないのです。
しかし、そのあとで、ふっと「われに返ってみれば」
私は読んだ本の内容をよく憶えており、
ボールを追いかけていた状況をよく憶えています。
私は、(明確に)知覚していないことをも(明確に)想起することができる。
この構図のうちに、「私というあり方」の秘密が隠されている」(P84)


なにかに夢中になっているときだけ人は「私(過去・未来)」から離れることができる。
いちばん手っ取り早く経済効率もいいのは、おそらく仕事だろう。
仕事に夢中になっていたら「私(過去・未来)」から逃げることができる。
読書に夢中になるのもいいが、それには言語能力が必要で、
そのくせ金銭にはならない無駄な行為である。
あんがい忘我という意味では
恋人とセックスするのもバトミントンをするのもおなじかもしれない。
鎌倉時代のマイナー坊主、一遍がやらかした踊り念仏のパフォーマンスもそうだろう。
ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)を唱えているといいのは、
そのあいだだけは「私」すなわち過去(後悔)と未来(不安)から逃れることができるから。
最大の忘我は「死」であろう。「私」が死ぬとはどういうことか?
「死」は夜に夢を見ているのとおなじかもしれない。
夢は目覚めてその夢を語った時点で夢になる。
ひっくり返せば、語る機会がなければ夢は原体験的な夢そのものである。

「ですから、私が明け方突然心臓麻痺(まひ)で死んでしまったとしても、
私が目覚めた瞬間に殺されて、
「夢であった」とかられる場面が永遠に訪れないとしても、
そのとき原体験していることは排除されません。
極彩色(ごくさいしき)の阿弥陀さまが来迎する夢であることも、
涼しい木陰のような天国にいる夢であることも排除されません。
同じように、死んでいる場合も、
私は(夢のようなもの)をみつづけているのかもしれない。
しかし、それは永遠に目覚めることのない夢です。
すべては「夢だった」と過去形で語ることがいつまでも訪れない夢なのです」(P183)


以下の引用文の「夢」を「人生」と置き換えて読んでみてください。
人生の喜怒哀楽を味わうのは夢を見ているようなものなのかもしれない。

「夢をみている最中、私は夢をみていることを意識していない。
あとから「夢をみていた」と意識するのです。
そのことをもって、はじめてその夢は私の夢として認知されるのです。
昨夜みた夢は、夢をみている最中すでに私の夢なのではなく、
単にあの夢にすぎない。
それを、目覚めて後に私が「あの夢をみていた」というかたちで承認するとき、
あの夢は私の夢になる。
いや、もっと正確に言えば、さかのぼって私の夢だったことになるのです。
ですから、もし私が濃厚な夢をみながら、永遠に目覚めることがない場合、
目覚めた瞬間に死んでしまう場合、
あの夢[苦楽=喜怒哀楽]が世界に登場したとしても、
それはさかのぼって私の夢[苦楽=喜怒哀楽]ではない。
私は夢をみなかったことになる[人生を生きなかったことになる]。
現在の知覚における場面ではなく、過去の対象を想起する場面で、
私はある表象[出来事]が私に属することを決めるのです」(P41)


わたしは本を読んでも感想文を書かなければ、
それは「私」の読書ではないと思う。
この本を読んでいろいろ考えたが、そのあいだとても「私」を楽しむことができた。
老人みたいだと言われることが多いけれど、最近むかしの回想をすることが多い。
後悔するのではなく、おもしろかったなあ、という文脈でだ。
人は信じてくれないだろうが、将来や死への不安もあまりない。
人は信じてくれないだろうが、
この本の著者の中島義道さんなら、ああこいつヤベッとお気づきになるかもしれない。
最後までお付き合いくださった読者さま、
リアリティのない離人症患者のようなことを書いて申し訳ありません。
中島義道の本なんか読まないほうがいいが、これは著者の最高傑作かもしれない。
役に立たないインテリの屁理屈と言われたらまったくその通りだと思う。

ふつうの人は危険なことはできないわけだ。
これは危ないかもしれないと、たとえば医学上言われていることはできない。
医薬サイドも、それが本当に危険かどうかは、
人体実験をしないとわからないので人道上、社会通念上できない。
個人がリスク覚悟で自己責任で危ないことをするしか新発見はないのかもしれない。
なんだっけなあ。
ど忘れしたが、ある革命的医薬品の発見者は、自分や家族で実験したとか。
世間一般常識的に危険と言われているリスクを実験的に取れる人は極めて少ない。
あるいは、わたしの存在意義はそんなところにあるのかもしれない。
危ないからとみんながみんなやれなかったことを、
リスクを覚悟のうえで破れかぶれでやる。
人体実験や人生実験はどうなるかわからないのでおもしろい。
だれもやっていないことは、いったいどうなるかだれにもわからない。
やってみなくちゃわからないことは多々あるが(統計がない新実験)、
大多数の人が社会一般常識(統計的多数派嗜好)にしばられているため、
本当の革命のようなことはなかなか起きない。
それが悪いと言いたいわけではなく、そのほうがむしろいいのかもしれない。
いるとしたら、神さまってかなり意地悪なひねくれものではないだろうか?
安定した生活を送りたいと思っている人の願いはかなえないで、
絶対に安定した生活など送れないだろうとあきらめている人に安定を与える。
お金にがつがつしている人を破産に追い込み、
金銭へあまり執着のない人へは思いがけないごほうびを贈る。
もてたいと思わなくなったらもてる。
人から嫌われてもいいとやけくそになったら、かえって人づきあいがうまくいく。
この理屈がもし「正しい」なら出世を断念したら出世するようなことがあるのかもしれない。
他人はコントロールできないとあきらめたら、職場の人間関係も改善する。
この会社をいつクビになってもいいと思っていたら、あんがい長続きする。
あえて損をしてみようかなと思っていたら反対にラッキーが舞い込む。
他人にだまされて大損してもいいと思ったら、
事態が思ったこととは反対に予想外にすいすい進む。
ひと言で要約すれば、期待しないことかもしれない。
「人間なんてそんなもの」と他人に期待しなくなればかえって人間関係がうまくいく。
「人生なんてそんなもの」と人生に期待しなくなればかえって人生がうまくいく。
こだわらない、しがみつかない、執着しない。
大勝利を求めないで、負けてもいいかと思うこと。あるいは負けたと思うこと。
人生は思うようにならないからおもしろいのだとしたら、
思うこと、希望すること、願うことはたいていかなわないことになる。
今年に入ってから世界全体が輝いて見えるので参っちゃう。
とくにいわゆる「ふつうの人」の輝きには参る。
ふつうに働きふつうに悩みふつうに喜怒哀楽することがどれほどすばらしいか。
ありきたりでありふれた繰り返しは退屈だが、そこにしかない輝きもあるのだろう。
ありふれたことは奇跡なのだが、しかしありきたりで凡庸というのも「正しい」。
いまからジェイコムで山田太一ドラマ「ありふれた奇跡」の再放送を視聴する。
あれから7年が経過したんだなあ。2009年はわたしの青春でした。
けれども、4月の給与明細を見て、人によっては少額とあきれられるかもしれないが、
これからわが人生の青春は始まるのかもしれないと思った。
これからなにかが起こるのかもしれない。「ありふれた奇跡」のようなことが。
「俺の日本史」(小谷野敦/新潮新書)

→東大卒で高収入ベストセラー作家の革命的な歴史啓蒙書を拝読する。
著者の奥さまも東大卒で作家をなさっており、
あのような美人さんに逢ったら小心者の当方など目も合わせられないだろうが、
被口淫がお好きな大先生が、
高学歴でたいへんお美しい奥さまから朝晩どのようなご奉仕を受けているかと思うと、
嫉妬もなにもなく、ただただもう本当に、
わたしが持たないものすべてを所有しておられる小谷野先生の足元にひざまずきたい。
小谷野先生は神さまか仏さまで、奥さまの神々しさはまるでマリアさまのよう。
一見書き飛ばしにも間違われかねない(そんなことはない、そんなことはない!)
新書も大歓迎でありますが、夜の奥さまを書いた私小説も読みたいなあ。

さてさて、ゴシップが大好きな小谷野さんの裏話はある事情でかなり目にも耳にもした。
それをめぐってのプチ騒動で、ある密告のようなものから、
ああ、出版関係はこうなっていたのかと内部事情に驚いたこともある。
わたしと親交のあったものなら気づくだろうが、当方の口はある面ではとてもかたい。
書かないものは絶対に書かない。書きたくないものは書かないというより書けない。
だれかのご迷惑になるからではなく(そういう事情のあることもある)、
「わたし」とは「わたしの秘密」のことだからである。
できるだけ、秘密は秘密のままにしておきたい。

どういうことか。
みんながみんな知りえた世の中の社会的マル秘情報を書き残すわけではないのだ。
これは墓場まで持って行こうという秘密をかかえたまま死んでいく人がいる。
それは公的な歴史にならない。
個人の秘密として文書化されなかったものは歴史化されない。
反対を言えば、それがたとえウソでも文書化されたら歴史的に正しいことになってしまう。
江戸時代以前の底辺庶民の歴史がよくわからないのは、
彼たちが言葉を持っていないなかったからではないか?
あるいは自分たちの真実(ってなに?)を表現する書き言葉を持っていなかった。
歴史というのは、
(文盲ではない)エリートが記録した(話し言葉ではなく)書き言葉によっている。
そうではない証拠記録のようなものがあっても歴史上、
権力者から存在を抹殺されていたらそれは歴史学上なかったことになる。
まあ、妄想ではない、
本当の事実だけで成り立っている歴史のようなものはないのかもしれないと言いたいが、
そこまで言っては大勢の歴史学者や歴史愛好家を怒らせてしまうので、
本当に起こった本当の歴史は、
人間にはわからない可能性もなきにしもあらずと言うにとどめる。
あるいはもしかしたら歴史は、
本当はどうだったかなんてだれにもわからないのかもしれない。
東大卒のエリートで博識、
信者も多い高収入のベストセラー作家も以下のようにお書きになっている。

「だいたい、奈良以前の政治史については、
記紀[古事記、日本書紀]以外の文書資料がほとんどないので、
記紀にこう書いてある、と思っていればいいので、本当かどうか、
本気になって考えたって分からないのである」(P28)


記紀に書いてあることが正しいのかどうかはわからないが、
それしか残っていないので
(あるいはほかの資料は歴史上権力者の都合で抹殺されたので)、
いまのところそれが世間的にはほぼ絶対的に正しく、
たとえば日本史の大学入試で記紀に書いていなかったことを書くと、まあ落とされる。
日本でいちばん偉い学問機関は東京大学で、
小谷野先生はそこの比較文学ご出身でいまはみながうらやむベストセラー作家。
わたしも見栄から先生の出た東大文3を受験したことがございます(むろん落ちた)。
体験から申し上げると東大日本史の過去問はおもしろいので、
いまはもうほとんど覚えていないが、
好奇心からかなり過去の問題と多様な解答例を読みこんだことがある。
東京大学は本当のことがばれるのが怖いのか、
ずる賢くも正しい(とされる)解答を世間に公表しない。
このため、東大日本史の本当に正しい百点満点の答えはだれにもわからない。
(現代文もまったくそうなので、東大現代文はきちがいめいた宗教の世界だと思う)
実際、東大日本史の解答例は予備校によって異なる。
わたしは河合塾生だったが、講師によっても正しい答えは異なっていた。
具体的には石川先生と桑山先生(故人←こちらが恩師かな)の答えは違っていた。
たしか駿台予備校出身(違ったらすみません)の「もてない男」、
現代日本が誇る最高峰の知性のおひとりであられるにもかかわらず、
しかし群れるのが好きなアカデミックの世界からはまったく認められない、
自称とびきり不遇な小谷野先生の東大日本史の思い出がおもしろい。

「内藤湖南[←この人が重要ですから、あとで正体を紹介いたします]は
「日本文化研究」で、
応仁の乱以前と以後の日本文化はまったく別物と考えて差支えがない、と言った。
実は私が最初に東大を受けた時の二次試験の日本史で、
この文章をさして、妥当かどうか論ぜよという問題が出た。
おそらく模範解答は、それ以前と以後の連続性を、和歌とか具体的な例をあげて、
湖南の論を否定するものだったのだろうが、私は本式にバカ、というか、
未だ受験技術というものが分かっていなくて、フロイトを持ち出して、
親から子に超自我というものが形成されるから云々と
まるで関係ないことを書いたのである。
あとで[一浪後]入学してからその話をしたら、
「そりゃ落ちるよ」とゲラゲラ笑われた」(P136)


当時の東大日本史のリード文で引かれた内藤湖南は京大派閥の重鎮なのだ。
彼は京都大学の古株権威研究者だ。
こういう本音を書くことにどれほど意味があるのかわからないが、
関東と関西は仲が悪い。東京(関東)と京都(関西)はいがみあっている。
学者や作家など、当人が東か西かで区別できると言えなくもない。
浪人時、河合塾東大コースの夏期講習をふだん通っている池袋校ではなく
名門とされる駒場校で受けたら、
石川先生がむかしの受験生は東大の先生の本を読んでいたとおっしゃっていた。
東大の問題は東大の先生がつくるのだから、
答えは東大の先生が正しいと思っている歴史解釈である。
池袋は駒場には勝てないと思ったものである。
受験生時代崇拝していた東大現代文の大川先生も、
池袋の東大浪人コースには出講しておられなかった。
わたしの日本史の先生は早慶コース主任の桑山先生だったが
(池袋では東大コース兼任)、
おかげなのかなんなのか受験科目が英語、国語、小論文だけの、
氏の出身である早稲田一文にまぐれで入ってしまった。

歴史は解釈であり、物語だと思う。
難関大学受験問題の正しい答えは、
そこの教授先生(権力者)が正しいと信じていることだ。
身もふたもないことを言えば普遍的な正しい答えはないかもしれず、
権力権威にそのとき恵まれている「上の人」のご意見が正しいことになる。
おそらくそれが高学歴で大企業に入る世渡り上手の考え方だろう。
本書で小谷野先生は、
破れかぶれにもそういう常識に反旗をひるがえしているのがおもしろい。
歴史学上Aの学説とBの学説が異なる場合がある。
いったいどちらが正しいのかと学校洗脳された人間は考えるだろう。
しかし、小谷野敦氏はそうではない。歴史は――。

「時代により、また事柄を見る位相[立ち位置]によって違ってくるものであり、
黒田[A]が正しいか佐藤[B]が正しいかと、
決めなくてもいいではないかということである」(P12)


なぜなら――。

「学者というのは、新説を出して自分の功績にしたいものだし、
学界としても、自分らの学問の存在意義を強調したいから、
次々と新説が出ているということにしたがる」(P10)


歴史の「なぜ」を問うのは楽しいが、最終的な答えはわからないのかもしれない。
当座の権力者が正しい歴史問題の答えを決めているだけかもしれない。
なぜ天皇制は続いたのか?
なぜ日本だけうまく西洋文化を取り入れ経済成長したのか?
なぜインドや中国では消滅した仏教が日本では生きのびたのか?
なぜ仏教革命家は鎌倉時代にしか現れなかったのか?
なぜベトナムが勝てたアメリカに日本は負けたのか?
なぜ資本主義は共産主義に勝ったとされているのか?
なぜ、なぜ、なぜ?

「「なぜ」という問いは教育の場などで重要だと思われているが、
歴史においては、確固たる答えがあるとは決まっていない。
問われること自体、分からないから問われるのだということだ。
問うこと自体は無意味ではないが、
最終的には、「分からない」ということも、少なからずあるのだ、
ということは心得ておくべきだろう」(P9)


本書では穴兄弟編とも言える、
おなじ新潮新書の「日本人のための世界史入門」の「偶然史観」が踏襲されていて、
そこがとてもおもしろかった。
われわれはいつも「なぜ(理由)」を考えるよう学校教育で洗脳されているが、
本当は「たまたま(偶然)」なんじゃないかなあ。
小谷野先生への期待は「分からない」を一歩先にすすめることであります。
うすうす気づいているのは本書からも十分察しますが、
もう一歩前進(退転)してくださったら、さらに世間に衝撃を与えることかと。
「分からない」のは歴史の「なぜ」のみならず「善悪」もそうではないか?
歴史上の為政者に善悪などあるのか?

「田沼[意次]は、賄賂(わいろ)政治をやったというので悪名高い。
しかし、賄賂はとったがいい政治をした政治家と、
清廉潔白だがダメな政治をした政治家とどちらがいいかというと、
前者のほうがいのである」(P204)


わたしも歴史好きによる善悪認定はうさんくさいとまったく同感である。
著者とおなじで賄賂好きの田沼意次は、
創価学会的とも言える現実的政治をした偉人だったのかもしれないと思う。
しかし、どんな政治をしても得をする人と損をする人にわかれるのだ。
得をした人たちにとってはトップの政治家は偉人で、
損をした人たちにとっては同人物が稀代の悪人になるという法則がある。
ヒトラーだって、ある時代のある国の人たちにはカリスマだったのだ。
あれだけネットでは非難されている池田SGI会長も、
将来の日本史ではわが国最高の偉人と評されている可能性もなくはない。
結局、サントリー学芸賞だけで終わりそうな、
酒が大嫌いな愛煙家の小谷野先生も、
百年後には日本最高峰の知性を持つとされる(国語便覧に掲載されるような)
河合隼雄レベルの学者になっているかもしれないではないか?
少なくともわたしのなかでは河合隼雄も梅原猛も小谷野敦も同列である。
とてもいい本を読んだと思う。

(関連記事)
「日本人のための世界史入門」(小谷野敦/新潮新書)

「「いかがわしさ」の精神療法」(春日武彦/日本評論社)

→精神分裂病を統合失調症と改名するのは、
埼玉市をさいたま市と表記するようでなんだかなあ、
とぼやく精神科医のわかりやすい医学エッセイを楽しみながら読む。
いまありがたくも働かせていただいている会社は従業員全員に道徳教本を配布している。
それを読んだうえで誓約書を提出するというのが勤務者のルールだ。
ちょうどその時期にこの名著を読んでいたので、
影響を受けておかしな誓約書を書いてしまった。
春日武彦は本書で「大人になるということ」を以下のように定義している。
1.相手の立場になり、自分を客観視すること。他人に迷惑をかけない。
2.矛盾や曖昧(あいまい)さに耐える。
3、現実的に妥協する。要するにおのれの分際をわきまえ、相手の顔を立てる。
やっぱり大きな会社の道徳教本には「きれいごと」ばかり書いてあるわけよ。
たしかに建前はその通りなんだろうけれど、本音はそれではやっていけんでしょという。
建前をあたかも本音のようにさらりと言うことが「大人になるということ」。

おのれのガキっぷりがいやで会社に提出する誓約書には、
春日武彦の文章を多少マイルドにしたものを書いた。
1.相手の立場になる。
2.矛盾に耐える。
3.現実的に妥協する。
そうしたら上の人から「これはちょっと勘弁して」と苦笑しながら言われた。
「これは親会社の人も見るから、ちょっとこれは……」
1の「相手の立場になる」はいいけれど、2と3が大人社会ではまずいらしい。
やべっ、やっちまったよ、と恥ずかしくなる。
「矛盾に耐える」と「現実的に妥協する」は本音でも、
建前では社会上その言葉は通用しないのか。
即座に「現実的に妥協する」ことに決め、その場で修正テープでぜんぶを消した。
そのうえから目標を「早く仕事を覚えること」と書き直してOKをいただいた。
精神科医の春日武彦がよく書いているけれど、
人間の精神のアキレス腱(急所)は「こだわり、プライド、被害者意識」。
よけいなこだわりやプライドがどれだけうざいかはいまの職場で学んだことでもある。
自分から率先してこだわりやプライドを捨ててみたつもりだ。

勘違いしている人も大勢いるだろうが、
基本的に精神科医の仕事はカウンセリングではなく病名診断と投薬治療である。
日本の保険報酬制度だと初診以外の患者に30分も時間を取れない。
3分診療が当たり前で、だからこそ、
ときたま現われる面倒くさい患者に時間を取ることができる。
春日医師は患者をまえにしてどのようなことを本音では考えているか。
たとえば、20歳を過ぎたばかりくらいのいかにもメンヘラ―の女性。
ありきたりな家族との確執をかかえていて、
それも家族が一方的に問題があるというわけではなく、
本人の性格のゆがみもありそうだ。
精神科医の春日武彦は、こういう女性を診察するとき、
どのようなことを心中で思っているのか。

「どこまで介入すべきなのか。
どこまで彼女の人生そのものへかかわるべきなのか、大いに迷わされた。
というよりも、面倒くさいなあというのが本音であった。
彼女の語る状況からは、「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
という感想しか出てこないのだが、そのことを伝えて終了というのも気が引ける。
わたしなりの意見をオブラートに包んでやんわりと伝え、
あとは本人と相談して安定剤を処方した」(P38)


赤の他人の悩み(愚痴)に対する職業人の本音の感想は、
「面倒くさいなあ」と「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」なのかもしれない。
仕事でやっかいごとが生じたとする。
違うセクションの人が不満いっぱいで従来のやり方を変えようと言いだしてきた。
「面倒くさいなあ」
「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
本音はそうだとしても社会人はそういうことを言ってはならない。
だから親身になって相手の相談を聞いているふりをして、
相手の立場に立って改善する旨を伝え、しかしそうしたらほかが困るのだが、
そういう矛盾もぐっとこらえ、現実的な着地点や折り合いを求めるしかない。
ありとあらゆる悩み(不満、愚痴)について、
もしかしたら改善策は存在しないかもしれなく、
できることは「当面は我慢する」しかないというのが現実や実際なのではないか。
どうしようもないものはどうしようもないのだから「当面は我慢する」しかない。
「それを言っちゃあ、おしめえ」だから、みんな春日武彦のように言わないだけで。
「当面は我慢する」の意味は膠着(こうちゃく)状態であり、現状維持である。
わたしが大好きな現実的な精神科医は言う。
「当面は我慢する」しかないのなら「当面は我慢する」しかないのではないか。

「なるほど、膠着状態が持続すれば悲観的にもなってこよう。
焦(あせ)りも出てこよう。
だが目覚ましい改善は見られなくとも、
現状維持であることは果たして敗北なのだろうか。
悪くならない、再燃しないという事実を「当たり前」と考えるか
「それなりに安定している」と捉えるかで、
評価は大きく違ってくるのではないだろうか」(P141)


春日武彦医師は、
精神科領域の疾病は完全に治ることがないと思っているのではないか。
春日医師はこと精神分裂病(統合失調症)にかぎっては完全治癒はないという、
患者や家族を絶望に落としかねない身もふたもない本音をあまたの著書に書いている。
しかし、希望がないわけではない。
精神科にかかるしかないような疾病にも先々の希望がまったくないわけではない。
患者や家族がうっとり聞きほれるような建前の「きれいごと」ではないが、
こういう本音の希望を書けるのもまた春日先生の偉いところである。
本音を言ったら、このくらいしか精神科医の希望はないのかもしれない。
春日さんのような精神科医の先生がたが診てくださっているから、
患者さんたちは現状維持でたもっていられるのではないか。

「現状維持をもっと評価せよと家族に言っても、
でも一生このままで終わってしまっては困ると反論されるかもしれない。
その反論はもっともである。昔、ある地方の病院で先輩の[精神科]医師が、
「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがあるんですよ。
それを期待しているだけですね」と、
諦(あきら)めきっているのか悟りに近い境地に達しているのか
わからないようなことを語っていたことを思い出す。
それをそのまま家族に伝えても、
おそらく何と頼りのない医師だろうと思われるだけであろうが」(P142)


パーソナリティ障害という精神科でつけられる病名がある。
むかしは人格障害と言っていたが、人格に障害があるって差別的すぎねえか。
というわけで埼玉市をさいたま市にするように、
人格障害はパーソナリティ障害になったわけだが、
どういう病気かというと精神病(統合失調症、双極性障害)でもないのに
「変な人」「迷惑な人」「面倒くさい人」の総称といったところだろうか?
こういう教科書的には多少逸脱した、
しかし「本当のこと」を教わったのは精神科医の春日武彦先生の本からである。
分裂病も躁うつ病も人格障害も基本的に完全には治らないと思っていたほうがいい。
医師の国家資格を持たない心理療法家の河合隼雄も、
ボーダー(=人格障害)は10年、15年かかると言っている。
ボーダーとは境界の意味で、ふつうの人と狂人の境界にいるというくらいの意味。
B級精神科医の春日武彦のみならず、
日本文化の最高権威者のひとりである河合隼雄もまた
人格障害はアレだと言っているわけである。面倒くさいなあ、に近いことを。
しかし、「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがある」――。
精神科医とカウンセラーは商売敵だが、あんがい両者の希望はおなじなのかもしれない。
もしかしたら精神病よりやっかいなのがパーソナリティ障害なのだろう。
本人もたぶんにその気(け)がある春日医師は、
パーソナリティ障害のゴールについて皮肉だが的確な意見を述べる。

「パーソナリティ障害者のゴールは、当人としては
「自分らしさを存分に発揮して輝き、周囲からも温かく見守られたい」
といったものが多かろうが、
これは底なし穴に延々と土を放り込んで埋めようとする作業に近い。
現実を弁(わきま)えるという意味で
プライドや他者に対する期待や被害感や自己嫌悪に一定の見切りをつけ、
淡々と生きていく方向にゴールを定めたいのだけれど
それが困難なことは言を俟(ま)たない」(P32)


わたしは自分のことをあるいは春日医師とおなじパーソナリティ障害ではないかと
疑いながら、うんざりげんなりと生きてきたが、
いまの時点で考えてみるとたしかに加齢とともにわずかながらではあるにせよ
「妙にいい感じにまとまって」きたような自覚がまったくないわけでもない。
「他者に対する期待」が少しずつなくなってきたような気もして、
そうするとなんて周囲の人が自分に親切なのだろうと不思議になった。
「被害感」は最近は弱くなって、むしろ「加害感」が芽生えてきたくらいだが、
この自責の念はうつ病の発端とも言われているから注意しなくてはなるまい。
「自己嫌悪」は相変わらず強いからパーソナリティ障害は治らない。
自分では尊大なプライドを持っているつもりだったが、
職場でやたら「もっと自信を持って」と言われることが多いので、
他人からはプライドがないように思われているのかもしれない。
断わっておくが、わたしは春日医師とおなじでパーソナリティ障害ではない。
なぜなら精神科や心療内科を受診したことが一度もないからである。
むかしある精神科医から長文メールをいただいたことがあるけれど、
そのメールにも当方がパーソナリティ障害だという診断は書かれていなかった。

数ヶ月まえから、わたしは精神病的な妄想をいだいていた。
それを書いたら精神病になってしまうからブログにはいっさい書かなかった。
むかしからの友人にこれも「前世の因縁」だからあきらめてくださいね、
と思いながらおのれの精神病的妄想をこっそり明かしただけである。
結局、現実と妄想の違いはなんなのだろう。
現実にその人が体験したことでも、周囲が納得してくれないと病的妄想になってしまう。
当人が現実には経験していないことでも、
それが社会的通念に適合するかぎり妄想でも現実的という評価を受ける。
精神病的妄想について精神科医の春日武彦氏は以下のように語る。

「病者が語る妄想は、どれもこれも似たようなテーマであり、似たような展開である。
およそ目新しさに欠ける。個性といったものが感じられない。
それは無個性ゆえにある種の普遍性を示しているのだろうか。
統合失調症の発病に伴い、病的不安や違和感、猜疑心や困惑、
漠然とした危機感や訝(いぶか)しさといったものが立ち上がってくる。
そうした不定形のものを曖昧(あいまい)にしたまま耐えていくことは容易ではない。
取り止めのない状態に対して、人間の耐性はきわめて低い。
そこで応急処置的に突飛(とっぴ)な物語(しかも多くは被害的なストーリー)
を持ち出して妄想気分へ具体的な形を与え、
事態の納得と対応を図ろうとするものの
その非現実さがかえって世間との軋轢(あつれき)を生じて、
ますます患者は追い込まれていく――
このようなあらましがすなわち妄想の出現であるとわたしは考えている」(P128)


曖昧(あいまい)さに耐えるとはどういうことか?
ある人が好きで嫌いというおのれの矛盾を言語化しないことだろう。
言葉にしてしまったら曖昧さは失われてしまう。
言葉は矛盾を許さないところがある。
ならば言語化不能の原体験的不安や原体験的畏怖が
立ち上がってきたらどうしたらいいのか。
それを言葉にしたら矛盾した整合性のないものになってしまう。
強引に合理的に言語で接着するとありふれた精神病的妄想になってしまう。
しかし、どうして矛盾していてはいけないのだろう。
ある人が大嫌いでありながら、同時に好きでたまらないというのは、
矛盾しているわけではなく、むしろそれが、それこそが内面の真実ではないか。
ある人を全面的に尊敬しているなんていう、
軽蔑感情の裏打ちがない心酔はもしかしたらニセモノとは考えられないか。
本音と建前は違うが、その矛盾したふたつのものが現実であり正義ではないか。
おのれのうちにひそむ矛盾に目をそむけるのではなく肯定したらどうか。

「いつも不思議に感じているのだけれど、
相反した二つの感情を同時に持つことを変であるとか間違っているなどと言う人がいる。
そんなことはあるまい。
愛しているけど憎い、むかつくけれど気になる、
痛いけど気持ちがよい、悔しいけれど気が晴れた、
鬱陶(うっとう)しいけれども嬉しい――そんな事象は枚挙に暇(いとま)がない。
大震災が起きたり猟奇事件が起きれば、胸を痛めたり眉を顰(ひそ)めると同時に、
どこか退屈な日常が揺さぶられたゆえの軽い高揚感が伴ったりする。
誠実さと不謹慎、優しさと残忍さが同居するのはむしろ普通だろう。
恥じることは何もない。そうしたこころのあり方を否定するのは息苦しい」(P216)


精神科医ってもしかしたらものすごくたいへんなお仕事ではないのだろうか。
長らく目のまえで飛び降り自殺をした母の主治医を恨んでいたことがあった。
いまでははっきりとそれは間違いであったと思う。
母が精神病を発症してからあの齢まで生きられたのは、
長年のあいだ主治医だった精神科医S先生ならではの、
ほかの医師にはできないすぐれた手腕のおかげだったのだろう。
むかしは恨んでいたが、いまでは感謝したい気分もなくはない。

「臨床心理学ノート」(河合隼雄/金剛出版)

→人は人にものを教えられないのかもしれない。
知識や情報、仕事のようなものは教えられるけれど、生き方は教えられない。
人は人を変えられない。人が変わるとしたら、それはおそらく自分からだ。
他人は変わらない。自分が他人を変えることはできない。
他人は救えないと思っていたほうがいい。めったに自分は他人を救うことができない。
もし他人が救われるとしたら、その人が自分で自分を救ったときになるだろう。
われわれは他人を変えたくて「あーしろ、こーしろ」と言う。
しかし、他人は変わらないものである。
あんがいなにも言わないのも一手なのかもしれない。
相手が言葉を発したときだけきちんと受けとめて、あとはなにも指示しない。
ほとんどなにも言わない。なにもしないことに全力をかける。
これがカウンセリング業界の親分の主張である。
人間関係を維持するくらいの意味はあるが、助言は根本的にあまり意味がない。
なにかするより、なにもしないほうが難しい。
助言するよりも、ただ聴いているだけのほうが疲れる。
聴くとは、相手から言葉を引き出すということ。
有料カウンセリングに来るようなそうとうな困難をかかえた他者はおそらく、
こちらの言葉では救われないだろう。
目のまえの人が救われるとしたら、それは相手が自分で発した言葉によってしかない。
だから、聴け。だから、助言するな。聴いて聴いて、相手に考えもらえ。
それがカウンセラーという聴く商売の役割。晩年の河合隼雄は言う。

「アドバイス[助言]の無効性や有害性が明瞭になった地点で、
心理療法について「聴く」ことの重要性が認識されるようになった。
ともかくクライエントの言うことに耳を傾けて聴く。
そうするとクライエントはひたすら話していくうちに、
治療者がアドバイスしたいようなことを、クライエントが自ら気づく。
このときは、本人自身が発見し納得したものなので、
その点を少し保証したり、後押しをすることによって有効な動きが生じる。
もちろん、実際に行なうと、それほど簡単なことではない。
いくら聴いていても、
クライエントが同じことばかり繰り返して言えばどうなるのか、
などということもある」(P128)


わたしはこの河合隼雄の意見はかなり「正しい」と経験的に思うけれど、
いまを生きるカウンセラーさんのブログを読んだりすると、そうではないらしい。
むかしはひたすら聴いていたら、自己改変する(自分から変わる)ものが多かった。
しかし、いまはどれだけ話を聴いても、どこまでも反省が見られないという。
リアリティがありすぎてぶっ飛んだものである。
河合隼雄の主張より、そちらのほうにリアリティを感じたものである。
よほど優秀なもの以外は、話を聴いてもらっているだけで、
「自分の言葉」で自分を変えることはできないのかもしれない。
上から降ってくる大勝利や使命、夢や絆といった言葉で救われるのもありだろう。
カウンセリングでたっぷりと時間と金をかけて「自分の言葉」を探すよりも、
「他人の言葉」で生きていくほうが楽なのは間違いない。

しかし、「他人の言葉」が効かないほどの苦しみを味わっている人がなかにはいる。
そういう人は「自分の言葉」を探すしかない。
一見すると「他人の言葉」と「自分の言葉」はおなじように見えることもあろう。
たとえば、「禍福(幸福と不幸)は過去世の宿業のため」――。
いま家族を亡くしたり、難病にかかっている不幸な人に、
「あなたの不幸は前世からの因縁のせいですよ」と助言したら怒られるでしょ?
「ふざけんな、おまえになにがわかるか!」って話になる。
けれども、本人が仏典を読み漁って、
腹の底から過去世の存在を確信したら、そこに救いのようなものも生まれるわけだ。
「不幸は過去世のせい」を「他人の言葉」として助言されたら腹が立つが、
「自分の言葉」として自分が納得して発するならば、その言葉は当人を生かす。
しかし、自分が救われた言葉だからといって、
苦しんでいる他人に「不幸は過去世のせい」と言っても無意味どころか逆効果だろう。
このことを河合隼雄は以下のように説明している。

「それは、思いがけない不幸に見まわれて抑うつ状態になっている人に、
「前世の因縁」などという「因果的」説明をし、その人がそれに納得することによって、
健康を回復するような場合である。
この場合は、クライエント[相談者]が主観的にその因果的説明を納得して
受けいれたことが治療への大切な要因になっている。
この際、日本語の「納得」という表現は便利である。
単なる知的理解をこえて、人間全体としてそれを受けいれている、
という感じがするからである。
この際も、この方法は一般化できない。
つまり、その因果的説明を納得しない人がいるからである。
このような類のものとして、たとえば、先祖の供養がされていない、墓相が悪い、
などというのがあり、その忠告に従って、供養をしたり、墓相を変えたりしても、
それは効果のあるときとないときがある。
近代科学の強みは、その条件に明確に当てはまるときは、その結果が確実にわかる。
あるいは、その確率がわかっている、ということであるし、
その説明は「普遍性」をもっていることである。
これに対して、上記のような場合[先祖供養や墓の問題]は、
結果については保証はない。しかし、成功する場合もあることは事実である」(P82)


宗教的な話になってしまった。
金や社会的地位、良好な人間関係は驚くほど人を救済するけれど、
人間の根源的な不安を解消するには宗教しかないようなところもなくはない。
打つ手がないという八方ふさがりの苦境に人生でおちいることがある。
わたしの場合は本ばかり読んで「自分の言葉」を見つけようとして、
結果的にある程度の落ち着きを得ることができたが、
これはほとんどわたしにしか効果のない方法だったと思う。
わたしは先祖供養などバカらしいと思っているし、同様に墓なんてどうでもいいが、
そういうことで救われる人たちがいることを非科学的と否定してはならないと思っている。
あらゆる宗教が人を救う可能性を持っているのだろう。どの宗教も「正しい」。
しかし、自分が創価学会に入って救われたからといって、
だれもがおなじように救われるとはかぎらない。
とはいえ、救われている人がいるのだから学会員さんをおとしめるのもおかしい。
――日蓮大聖人への信心を持たないのが「原因」で問題が生じている、
と言われたため、あるクライエントは思い切って創価学会に入信する――

「先祖の供養がされていないのが「原因」で問題が生じている、
と言われたため、あるクライエントは思い切って先祖の供養をする。
その席で長らくつき合いのなかった親類の人と話しあっているうちに、
自分の苦境を脱するいとぐちが見つかった。
このとき、その人は、「先祖の引き合わせ」によって解決の方法を見出せたと言うし、
やはり「先祖の供養をすることは、いいことである」という結論になる。
しかし、ここから結論として、
「先祖供養をすると、問題が解決する」という提言をすると誤りである。
ただ、この際に先祖供養したことが問題解決に役立ったことは事実である」(P86)


――「創価学会に入ると、問題が解決する」という提言をすると誤りである。
ただ、この際に入信したことが問題解決に役立ったことは事実である――
おそらく正しくは、先祖供養をしたら、「たまたま」問題が解決した。
創価学会に入った「から」問題が解決したというよりも、「たまたま」解決した。
いちばん身近な宗教団体が創価学会なので例としてあげさせてもらったが、
これはどの集まりやセミナーにも当てはまることだろう。
物騒なことを言うと、心理療法(カウンセリング)もおなじと言えるのではないか。
特定の心理療法を受けたことが「原因」となり因果的に問題が解決するわけではなく、
カウンセリングを受けたことがきっかけとなり
「たまたま」共時的に問題が解決することがある。
心理療法はクライエント(相談者)を、
それぞれひとりぼっちの「自分教」の教祖にする宗教的行為だと思う。
宗教的行為をするとき問題となるのは金銭面と危険性だろう。
仏典をひとりで読んでいるのは安価だが、社会適応障害を起こす危険性がある。
新興宗教に入ると人格が劇的に変わることもあるそうだが、大金を求められる。

よく知らないけれど、創価学会に入ると指導として上から怒鳴られるんでしょう?
カウンセリングの傾聴(相手の話を聴く)の正反対が創価学会の指導だろう。
カウンセリングはおなじ目線で相手と向き合うが、
上下関係が厳しい創価学会は軍隊式の指導で問題を解決しようとする。
傾聴でよくなる人がいる一方で軍隊式の指導でよくなる人もいるのだろう。
ストレスはふたつ解消方法があると思う。
ひとつはだれかにストレスのもととなっている話を聴いてもらう。
これは相手からいやがられる行為だからカウンセラーが必要とされるのだろう。
もうひとつのストレス解消法は抵抗できない格下のものを怒鳴りつけることだ。
「もっとも下劣」だが、もっとも即効性があるので、
これが楽しみで職場に行くものも少なからずいよう。
河合隼雄は怒ることをいいとも悪いとも言っていない。

「もっとも下劣なのは、権力に守られたり、
上下関係の制度によって守られたりしているなかで、
上から下に向かって怒る場面である。これは、自分は安全な立場に立って、
自分の感情のはけ口に他人を利用しているだけで、
何の意味もないし、害があるだけである。
[引用者注:怒った本人はスッキリするのではないかしら?]
しかし、怒りの感情の抑制ばかりしていては、頭と体が分離してきたり、
行き場のない感情のために、結局は知的な判断力まで狂わされてしまったりする。
そんなときに、あっさりと怒りを表出すると、怒った方も怒られた方も、
何だか心と体の間に一筋の線が通ったようですっきりとすることがある。
このようなときに「雷を落とす」という表現があるように、
それは「自然現象」に近い気がする。
自然現象的な怒りの表出は、さっぱりとした感じを残すものだ。
このような怒りの場合は、あまり人に嫌われることはない。
そうすると、怒りは表出すべきであろうか。
このような考えから「感情を発散させる」のはよいことだと言う人がいる。
これを考えるためには、先に述べた「自然現象」という比喩が役に立ってくれる。
すべての「自然現象」は歓迎すべきだろうか。
洪水、嵐、落雷による火事などなど、
人間にとっては恐ろしく、回避したい自然現象は沢山(たくさん)ある。
比喩的に言うなら、怒りの発散が洪水や落雷や、
もっとひどく地震のようなことにつながるのは困るのである。
あるいは、怒りの体験が、その人に動物や神の体験をさせるとしても、
その後で人間に戻って来られないと困る、とも言えるであろう。
怒りには、このような危険性が伴っている」(P179)


「どっちとも言えない」は河合隼雄を理解するうえで重要なキーワードだろう。
「どっちがいいとも悪いとも言えない」「どっちにもいい面と悪い面がある」
もしかしたら「どっちでもいい」のかもしれないが、そこまでは言い切らない。
感情は発散したほうがいいとも悪いとも「どっちとも言えない」――。

いんちき宗教家が金を儲けようと思ったら、思いのほかかんたんなのかもしれない。
パーフェクトな人間はいないから教祖はいくらでも信者を指導(叱責)することができる。
完全なクライエントはいないので、
いんちきセラピストはいくらでもセラピーを延長できる。

「心理療法の終結は、なかなかパラドキシカル[矛盾的]である。
よくなった、とか解決したという喜びとともに、大切な人と別れるという悲しさがある。
もちろん、喜びのほうだけ意識されることもあるが、そのようなときでも、
悲しさが潜在しているときもある。
治療者の方が逆転移が未解消で別れ難く感じることもある。
そのようなときは無意識のうちに引き伸ばそうとする気持ちがはたらいて、
クライエントの「未解決」の問題を指摘したりする。
言うなれば、人間は誰も「未解決」のことをかかえているのだから、
言おうと思えばいくらでも言える。
このような点については、セラピストは常によく自戒していなくてはならない」(P195)


問題をかかえた人にとって河合式のカウンセリング(=「自分の言葉」を育てる)と
新興宗教(=「他人の言葉」に従う)はどちらが効くのだろう?
両者を折衷(せっちゅう/いいとこどり)させた指示カウンセリングのようなものが
もっとも経済効率がいいのかもしれない。行動療法はそうだよねえ。
相手が「自分の言葉」を見つけるまで待つ河合式心理療法は
10年、15年かかるわけだから、とても一般庶民には高嶺の花だろう。
かといって新興宗教に夢中になるのは短期的にはいいのだろうが、
長期的に考えるといささか問題があるような気がしてならない。
カウンセリングと新興宗教のどちらがいいのかは、
まあ河合隼雄の真似をして「どっちとも言えない」くらいに結論づけておこう。
そもそもからしてカウンセリングを受けたことはないし、
新興宗教に入ったこともないのだから、「どっちとも言えない」のは当たり前か。

「捨ててこそ生きる 一遍 遊行上人」(栗田勇/NHK出版)

→2ヶ月以上まえに読んだ本で、いろいろ忙しくて本当に時間が取れなかった。
本書はとてもぜいたくな1冊で、国宝の絵巻物、一遍聖絵が丁寧にコピーされている。
いままでいろいろな関連書で一遍聖絵を鑑賞したがこの本がいちばんよい。
一遍聖絵に僧が入水自殺をするシーンがあることを本書で知った。
絵巻物の該当部分を拡大して、
あれは入水自殺だと教えてもらわないとふつうの人は気づかないのである。
一遍上人は踊り念仏を始めたとされる鎌倉時代のマイナーな坊さん。
日本全国を遊行(旅)して南無阿弥陀仏の札を配ってまわった。
後年は弟子(女もいた)が旅をともにすることになり自然発生的に踊り念仏が生まれた。
踊り念仏とは、いまで言えばAKB48のような集団ダンスである。
一遍につきしたがったのは、各地域で集団生活を送ることができないあぶれもの。
たとえば、チョーがつくほどの美少女は、
男たちの関心をひとり占めするから女連中から嫌われる。
あたまが少しおかしい人はおもしろいんだけれど輪を乱す存在とも言えよう。
そういうカタギには生きられないものが一遍の遊行(旅)につきしたがった。

一遍の踊り念仏はストリップショーに近かったという説があり、わたしもそうだったと思う。
べつの本で資料を見たが、踊り念仏をする女性は着物をミニにしているのである。
盆踊りの起源は踊り念仏とも言われているが、男女は高台のうえで踊る。
下から見上げる観衆からは踊るタレントの男根や女陰がちらちら見えたことだろう。
こういう興行をして一遍は貨幣を得たものと思われる。
そうでないと配る念仏札を製造する元金がどこから出ていたのかわからない。
一遍の布教は念仏札を配ることであった。
たいていの人には無料で配っただろうが、
一遍の威光に降参して寄付金を差し出したものも少なからずいたことだろう。
一遍は教団をつくる意図はなかったが、没後に弟子たちが群れて教団化した。
それが時宗(時衆)でいまでも本当に細々と神奈川の藤沢に残っている。
わたしは時宗の檀家ではなく、ただの一遍の心酔者だが、
むかし念仏札を無料でもらったことがあり、それは財布にたいせつにしまっている。
この念仏札は売ってくれと言われても困る。
かといって、いまもいまライターがあれば燃やしても構わない。

とまあ、一遍のかんたんなポップ(宣伝)を書いたけれど、
果たしてみなさまのご関心をキャッチ(捕獲)できたでしょうか?
歴史上にいたお坊さんのなかでいちばんわたしが好きなのは一遍上人だ。
むかし暇にまかせて岩波文庫の「一遍上人語録」を百回以上読んだことがある。
一遍上人の教えは、本書で栗田勇氏も指摘しているが「捨ててこそ」。
ひと言でわかりやすくまとめろと言われたら「善悪を捨てよう」になる。
あれは善(正しい)でこれは悪(正しくない)という考えを捨てる。
一遍は自分の言ったことも捨ててくれてけっこうとまで言っている男。
自分の教えが正しいわけではない。唯一絶対の真実は南無阿弥陀仏。
阿弥陀仏に南無(お任せ)する。
善も悪も自分で判断しないで南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
わたしは一遍の南無阿弥陀仏の熱狂的ファンだから、かなりフリーである。
一遍に刺激されて、善も悪もよくわからないんじゃないかと思っている。
このため、当方はどこの宗教団体にも入ることができる。
善悪を捨てたら、どの団体もそれぞれ正しいことに気づくわけだから。
どこの団体が正しいわけではなく、どの団体もそれぞれに正しいことがわかる。
ならば、創価学会、顕正会、浄土真宗、親鸞会――ぜんぶに入ることができる。
かわいい女の子に勧誘されたらキリスト教のどっかに入ってもいい。
いちおう新約聖書はむかし熟読したことがあるし、聖書も正しいと思うので。

一遍の魅力を広く紹介したのは栗田勇氏(「一遍上人 ~旅の思索者~」)。
わたしも氏の著書からだいぶ影響を受けたものである。
本書は氏の一遍論考エッセイの集大成と言ってよい。
わたしとは意見が違う部分もあるが、
作者が一遍を作者なりによく理解(咀嚼/そしゃく)しているのがよくわかった。
著者とわたしの一遍の見方のどちらが正しいというわけでもなく、
どちらも正しくないし、あるいはどちらも正しいのだろう。
おそらく一遍ファンの先達の著者はそのことに同意してくださるであろう。
わたしはブログ「本の山」にいままで一遍のことをたくさん書いてきた(好きだから)。
ブログのカテゴリーに「一遍上人」をつくってしまったほどである。
いったいこれからわたしはなにを書いたらいいのだろう?
というのも、わたしは個人的に一遍のファンというだけ。
べつにみなさまが一遍を好きになってくださらなくてもぜんぜん構わない。
日蓮大聖人のほうが何倍もいいと思われてもOK。
田舎坊主で子孫が腹黒い親鸞のほうが好きだと言われてもOK。
そう断ったうえで、一遍の教えをとことんわかりやすく紹介してみるか。
むかしは偏差値40の女子高生にでもわかる文章を目指していたのだが、
最近は知的障害者にもわかる文章を書けないかなと思っているが、うーん。

一遍はまあ、こう言ったわけである。
あれ? 善とか悪とかってあるっけ? 正解とか誤答とか、そんな違いはある?
東大生と知的障害者ってべつに変わらないじゃん。
社長も部長も工場長も正社員もバイトも、みんなおんなじなんじゃないかなあ。
このようなことを一遍は以下のように言っている。
このブログ記事のなかで一遍の言葉を引用するのはここだけだから、許して!

「念仏の行者は智恵をも愚痴(ぐち)をも捨(すて)、善悪の境界(きょうがい)をもすて、
貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、
又諸宗の悟(さとり)をもすて、一切のことをすてゝ申(もうす)念仏こそ、
弥陀超世の本願に尤(もっとも)かなひ候へ」(P18)


人間って善人ぶりたがるし、だれかを悪人だと決めつけたがる。
でも、一遍は善も悪も捨てようと言っているわけだ。
われわれは得(出世)を善だとみなし、損(病気)を悪だと思っている。
でもでも、一遍は善(得)も悪(損)も捨てようと言っている。
そんなもの机上の空論じゃないかと言われたら、たしかにそういう部分もあろう。
でもでもでも、一遍本人はかなりのところまで善悪を捨て切っていたと思う。
どうしたら善悪を捨てられるのか? どういう考えをしたら善悪を超えられるのか?
善悪というのは損得、貧富、美醜、賢愚、正否、貴賤のことと言ってよい。
どのようなロジック(論理/言葉の筋道)で善悪を捨てられるのか?
ここで一遍の持ち出してくるのが「死(極楽浄土)」である。
「死の世界(浄土/永遠/絶対)」からこの世を見たら「善悪(相対)」は捨てられる。
善人だと思われていた人が死んだら大悪人だとばれることってあるじゃん?
このたとえでもいいのだけれども、死から見たら善も悪もなくならないか?
善悪なんて口うるさい世間がギャアギャア言っているだけとは考えられないか?
損得勘定ばかりで生きていてもあの世まで財産は持っていけない。
美人東大生だって交通事故で死んでしまえば美醜も賢愚もないわけでしょう?
いくら大会社の会長だ社長だと威張っていても死後の世界でおなじように威張れるか?
あんがいこの世で威張った人は地獄の閻魔(えんま)さまから叱責されるのではないか?
死を身近なものとして念頭に置いていると善悪をある程度は捨てられるのである。
わかりやすくいえば、人間はいつ死ぬかわからないってこと。
そして、死んだらどうなるかはいくら科学が発達してもわからない。
死んだら無になると信じている人もいようが(それはそれでいいけれど)、
死んだら無になることを科学的に証明することはできない。

一遍の説いた教えは南無阿弥陀仏である。
南無妙法蓮華経でもいいが、自分は南無阿弥陀仏だと言っている。
南無阿弥陀仏と一遍でも唱えたら、みんな死後に極楽浄土に往ける。
これがどうして救いかというと、
いま難病で苦しんでいても死んだらすばらしい浄土に往けるわけだから。
そうであるならば、いまの苦しみも多少安らぎを見せることだろう。
いつ死ぬかはクヨクヨ悩まず南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
なにが善でなにが悪かも南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にお任せする)。
だとしたら、南無阿弥陀仏は「わからない」という意味とも言えよう。
南無阿弥陀仏と唱えるのは「わからない」と唱えているようなもの。
「死」も「死後の世界」も「善悪」も「わからない」ことの表明が南無阿弥陀仏。
一遍はどのようにしてこのような南無阿弥陀仏にたどり着いたのか。
一遍とて迷っていた時期があったのである。
一遍の布教は念仏札を旅の途中で配ることであった。
熊野本宮神社に向かっているときに参拝客のひとりから念仏札を拒否された。
「おれは信心がないから、その札はただでもいらねえ」と言われてしまった。
このとき一遍は迷う。
たしかに信心がない人に念仏札をすすめてもゴミを押しつけるようなもの。
賦算(ふさん/念仏札配布)は迷惑行為なのではないか?
なんのために自分は念仏札など配っているのだろう?
みんな救われていることを教えるためだが、それは自力で教えられるものか?
苦悩で悶々としていると夢に熊野権現(神さま)が現われたという。
熊野の神さまは仏僧の一遍に夢のなかでこう教えた。
栗田勇氏の名文を自分勝手な補足しながら引用する。

「すでに阿弥陀様が永劫の昔に[全員を]救うということを約束なさっている。
だから[個々の運命も往生もあらゆることが]すでに決まっている。
信、不信をえらばず、浄、不浄を嫌わず、その札を配るべしと。
一切選ぶ必要はない。これは革命的な考え方です。
つまり、自力か他力か、どこまでが阿弥陀仏にまかせられるのか、
ということを考えることそれ自体も捨ててしまう。信も念も捨てて、
ひたすら口に「南無阿弥陀仏」の名号を称えることだけだ、と」(P84)


自力(努力)か他力(運命)かというところであたまを悩ます人も多いだろう。
わたしもこれはそうとう考えたし、いまでよくわからないところである。
人生(仏道)は自力(努力)なのだろうか、他力(運)なのだろうか?
一遍はそういう「自力か他力か」という二項対立的な思考法を捨てろと言う。
自力も他力もどちらも捨てて南無阿弥陀仏と唱えていればよろしい。
人生は自力でもあるし他力でもあるし、自力でもないし他力でもないし、
しいてこの問題についてなにか言うとしたら南無阿弥陀仏(=わからない)。
人生の転機に選択肢のようなものが現われる。
そのような大ごとだけではなく、日々の生活が選択の繰り返しとも言えよう。
どちらが善か悪か、損か得かでわれわれは迷うのである。
しかし、一遍は南無阿弥陀仏で善悪も損得も捨てちまえと過激な主張をしている。

繰り返しになるが、南無阿弥陀仏とは死を身近に思うこと。
毎日、明日死んでしまうかもしれないと思うことが一遍の念仏である。
これは間違いではなく今日死んだ人は、
昨日まさか明日死ぬことになるとは思っていなかったのだから。
明日あなたが絶対に死なないとは言い切れない。そして人の死亡率は100%である。
明日死んでしまうかもしれないのなら、
今日の善悪や損得などどうでもよくならないか?
明日死んでしまうと思うと苦手な同僚のよい面にも気づき、
それどころか「死後の世界」から見たらひとりひとりがとても懐かしく感じられないか?
醜いと感じていた人の美しさにも気づくこともあろう。
愚かだと思っていた人の賢さに驚くようなこともないとはかぎらない。

世間常識(善悪・損得・貴賤・美醜・賢愚)というのは窮屈なものとも言えよう。
一遍の「捨ててこそ」の念仏を唱えると、毎日が自由になり楽しくなるのである。
目先の損得や世間の目(=善悪)、将来の不安など南無阿弥陀仏でぶっ飛ばせ!
そうしたら楽しくなる。笑顔も浮かぼう。ときに踊り出したくなることもあろう。
それがわたしの大好きな一遍という坊主の説いた踊り念仏である。
周囲の評判を気にして善人を気取って目先の損得のことばかり考え、
他人と自分を比べてばかりいたら毎日がストレスの連続で息苦しくないか?
あいつはおれよりも悪い。あいつはおれよりも偉いのが悔しい。
あいつはバカなのにおれよりも出世している。
あの子はあたしよりも美人でいいなあ。金持のボンボンはいいよなあ。
チクショー、今日1万円もパチンコですってしまった。
ヤバイ、会社でミスをして50万の損失を出してしまった。
たしかに生活していくというのはそういうことだが、
しかしそうではない、
善悪を超えた「捨ててこそ」の一遍踊り念仏世界もあるのである。

一遍というのは一度逢ったら一生忘れられないようなやつだったのではないか?
そういう人がたまさかいるものである。
われわれは毎日多くの人と交差して、なかにはもう一生逢わない人もいる。
けれども、あの人のことは忘れることができないという経験があるのではないか。
そういうことは旅先で起こることが多い。
旅をしたときバスや列車で同席して何気ない会話を交わした人のことが忘れられない。
妙にこちらの印象に残る人というのが旅先で登場する。
一遍は遊行上人とも言われたくらい旅をしつづけた坊さんだ。
いったいどれほどの人の記憶に強烈な印象を刻み込んだことだろうか。
一遍の教えは、「教えたよ→ハイわかりました」というものではない。
なぜなら「善悪を捨てよう」という言葉の意味ならだれでもわかるだろう。
しかし、実際に善悪を捨てるのがどれほど難しいか。
われわれは一遍の教えをあたまで理解していても、
どうしようもなく相手の肩書や商品の割引、相手の顔に左右されてしまう。
ならば、一遍の教えに意味がないと言われたらたしかにそうだろう。
だが、一遍の存在にものすごい意味があったのではないか。
「捨ててこそ」の念仏をする一遍の存在感はすさまじかったのではないか。
一遍は本当に善悪・損得・貧富・貴賤・美醜・賢愚を念仏で捨てていた。
そういう人に逢うと、自分もちょっと真似をしてみようかと思うものなのだ。
とはいえ、世間的善悪、家計簿的損得、社会的上下感覚を捨てたものは狂人である。
万引をしたら捕まるし、計算しなかったら破産するし、社長を敬わなかったらクビだ。
だから一遍は、新興宗教の教祖にはよくあることだが、狂ったやつだったのである。
踊り念仏の一遍上人はスーパーフリーなきちがいカリスマだったのだと思う。
実際、ある武士から「この僧は日本一の狂惑のものかな」と言われている。
酔っぱらった武士からきちがいあつかいされた一遍はどれほど本物だったのか。
一休禅師の本も出している栗田勇は(「一休 その破戒と風狂」)、
以下のような指摘をしている。

「考えてみると、この「狂惑」とは、
人間が自分のあり方にたいする深い反省を自覚するときに現われてくるものであって、
伝教大師最澄が入山のとき、
自分を最も狂にして最も愚かなるものであるといった話や
一休禅師などの「風狂」といったような姿も思い起こされてくる。
「狂」には確かにある種のモノマニアック[偏執狂的]な純粋性というものがあって、
その純粋性は日常生活から見ると、ときに「狂」に見えてしまう。
しかしある種の日常性を突き破ったエネルギーというもの、
それはやはり、人が人間を超えたものを見たときに、
その日常性の裂け目から噴き出してくる素顔というようなものであろうか。
醒めているということは俗に狂惑に見えるものなのである」(P114)


さすがに一遍ほどではないが、
わたしも自分が狂っているのではないかという恐怖感がある。
人はどうして狂うことをこうまで恐れるのだろうか?
わたしは最近「一(ささいな出来事)」のなかに「遍(普遍的なもの)」が見えるという、
統合失調症的(精神分裂病的)な妄想体験を多くしている。
なにを高僧ぶっているのか笑われそうだが、
「一(一瞬)」のうちにひそむ「遍(永遠)」が見えるような病的妄想にとらわれている。
著者の指摘で気づいたが、一遍上人の一遍という名前は意味があったのである。
一遍の――。

「この「一」と「遍」というのも「一」即「遍」ということで、
「遍」というのは普遍性とか「遍(あまね)し」の意味である。
この世に生きとし生けるもの、存在するすべてに共通する、普遍的なものと考えていい。
それを普遍していくと、現世にあるすべてのもの、現世そのものが、
この名号[南無阿弥陀仏]の力に抱きとられていて
御仏の本体そのものの現れと一致するというのである」(P70)


「一遍」つまり「一即遍」(これを華厳経では「一即多」という)ならば、
小さな「一」のなかに「(普)遍」を見てしまうのは決して病的妄想ではなく、
ひとつの仏教サングラスをかけて世界を見ていたようなものなのかもしれない。
当面はいまのところは精神科を受診しなくてもいいような気がして安心した。
こういう記事を書くとおまえはインテリぶっているとか、
また批判コメントがつくのだろうなあ。
そもそも最後までだれもお読みにならないから大丈夫かしら。
生活べったりの人には世間的善悪や金銭的損得を捨てるなど思いもよらないことだろう。
すると自称庶民らしい偏狭な「おれは間違っていないモード」が発動して、
このブログの書き手は精神病だ、犯罪者だ、悪人だとヒステリーを起こす。
あいつはインテリぶったわれわれ庶民の敵だみたいなさあ。
一遍みたいに尊敬されたいとは思わないけど、もう批判コメントはいやずら。
本音を言うと一遍の小指の先くらいでいいから、人から尊敬されてみたいかも。
貴重な休日に一銭にもならないこんな文章を書いてなにをやってんだか。
まあ、そういう無駄なことをするのが文化であり、宗教行為なのだろうけれど。
これから人生どうしたらいいのだろうといまだに思い悩んでいる。
しかし、どうしたらいいかというのも善悪の問題。
善悪など投げ捨てて南無阿弥陀仏でいいのかもしれない。よくないのかもしれない。
というのも、これもまた善悪の問題だから。

(関連記事)↓だれも読めない「本の山」最長記事(笑)
「一遍上人語録 付・播州法語集」(大橋俊雄:校注/岩波文庫)

数年まえまではみなさま(?)とおなじように1円でも損をしたくないと思っていた。
「1円を笑うものは1円に泣く」という信念めいたものをいだいていたような気がする。
いまでは1円くらい笑ってもいいと思っている。10円でも、100円でも――。
先日さあ、使っていたものの股間部分が切れたのでユニクロでジーンズを買ったんだ。
ネット通販。3980円を2着。
ユニクロのジーンズは特売期間2980円になるのを知っていたけれど、
そのときはいまもいま必要だったから仕方がなく購入した。
その後、やっぱり特売のメールが来て2980円になっていた。
2千円の損と考えられなくもない。
むかしはこういうときショックでかなり落ち込んだものである。いまはかなりヘーキ。

どうしてかというと、「わからない」ことがわかったから。
世界の裏側がどうなっているのか「わからない」ことがつくづく身に染みたから、
目先の損もまあヘーキ。1円を笑える。2千円もこわばった顔ながら笑える。
あんがいさあ、この2千円を損したから、ほかがうまくいっている可能性もあるわけ。
ここで2千円の損をしたから、将来にプラスのことがあるのかもしれない。
ここで2千円の損をしたから、いま事故や事件に巻き込まれていないのかもしれない。
難病になっていないのかもしれない。先々、だれかすてきな人と出逢うのかもしれない。
そもそもの話をしよう。身もふたもない話をしよう。
死んだら損も得もなくなる。死んだらプラスマイナスゼロ。
いくら貯金をしていても死んだらゼロ。いくら借金をしていても死んだらゼロ。
ここでの重要ポイントは愛する家族なのだろう。
結局のところ、いまあなたが損(マイナス)をすることで
家族が得(プラス)の状態になっているかもしれないということ。

いったいだれがどういうわけでプラス(得、勝利、成功、出世)になるのかは「わからない」。
39歳まで生きてわかったような錯覚をいだいたのは、
マイナス(損、敗北、失敗、落第)のおもしろさ、ありがたさ、かけがえのなさ。
あえてマイナスをねらうという生き方もあってもいいのかもしれない。
マイナスをねらったほうがプラスになるのかもしれない。
わざわざ意図的に損をしようとしたほうが将来的には得になるのかもしれない。
そもそも死をまえにしたら、
なにが得がなにが損かは「わからない」のだが、とりあえず――。
1円を笑ってみるのもいい気分転換になるのかもしれませんぞ(「わからない」けれど)。
もしかしたら主役は人間ではなく時間かもしれない。
歴史なんかもあれは人間が主役のように見えるけれども、
世界史を概観したら人間などみな使い捨てのコマで主役は時間(自然)でしょ?
病気を治すのも医者や患者本人というよりも、時間(自然)のような気がする。
あわれな孤独な中年男性なので洗濯物はもちろん自分でする。
洗濯物を乾かすのは人為ではなく自然(太陽熱、風力)だと思う。
いくら人間が乾け乾けと洗濯物をうちわであおいでもほとんど効果はない。
わたしは雨の日でも平気で洗濯するからね。
いちおうバルコニーにはひさしがついているから、
よほど強い風雨でもないかぎりはぬれない。まあ、ぬれてもいい。
今日洗濯して雨で、そのまま干しておいても、
明日が晴れなら明日乾くからいいではないか。
明日も雨ならそのまんま干しっぱなしにして明後日に乾くのを待つ。
だって、乾かないものは乾かないでしょう? どうしようもないものはどうしようもない。

うちにはむろんのことないけれど、いまは乾燥機というものがあるらしい。
これは知り合いから聞いたそのまた知り合いのセレブ夫婦の話。
その家には乾燥機というものがある。
奥さんがとても口うるさく、始終イライラしているので離婚寸前らしい。
たとえば休日に洗濯をする。乾燥機をまわす。
そこの奥さんはつねにイライラしているらしい。
何度も乾燥機を見に行っては乾いたかどうか確認して、
乾いていないと彼女のイライラが募(つの)り旦那にツンケンする。
ご主人が奥さまに言ったという。
「(乾燥機は)どうせ時間が来るまで乾かないんだから、のんびり待とうよ」
そうしたらご夫人はヒステリーを起こしたという。
「あなたはなんにもあたしの仕事をわかっていない。
主婦がどれほどたいへんか。あたしがどれだけ仕事をしているか!
いったいあたしの仕事をなんだと思っている? フザケンナ!」

ご主人はゾッとしたらしい。
だって、理屈で考えたら乾燥機はある程度(一定時間)まわさないと乾かない。
いくら妻がイライラしても、何回確認しても、洗濯物は乾くまでは乾かない。
そういう本音を口に出そうとした瞬間、妻から攻撃される。
「あなたが悪い。電機量販店でこの乾燥機を買うことを決めたのはあなたでしょ!
あなたが悪い。洗濯物が早く乾かないのはあなたが悪い!」
男の妻は高学歴で美しいのだが、あらゆる家事がこんな感じらしい。
電子レンジもオーブンレンジも時間まで待てない。
つねにセカセカ、イライラしている。まだ? まだ? と何度も確認する。
そのたびに自分の思うようになっていないので怒る。
なにか言うと、大声で怒鳴る。
「あたしの仕事(主婦)をあなたは舐めているの?」
言い返そうものなら――。
「仕事はどれも一緒よ。仕事はこういうものなの」
「でもさ、いくらきみががんばっても乾燥機は時間が来るまで乾かないでしょ?」
「あなたはわかっていない。あなたはあたしの仕事をわかっていない」
「仕事?」
「あたしはがんばっているの。努力しているの。あなたはもっとあたしを評価しなさい」
男は女のいきおいに負けて思わずあやまった。

そういう話をいつだったか聞いたことのあるような気がする。
待つしかないときに待つことができないでイライラして周囲をピリピリさせる人たちがいる。
あんがい、そういったイライラ、ピリピリした、周囲をギスギスさせる人のほうが、
社会的(職場的)評価は高いのかもしれない。
待つしかないときはどうしようもなく待つしかないが、
そういうときにイライラ、ピリピリして悪者を強引に捜そうとして場をギスギスさせる人が、
いわゆる世間でいうところの「できる人」なのかもしれない。
本当のことを言えば、どうしようもないものはどうしようもない。
できないものはできない。無理なものは無理。
イライラしたりピリピリするのが好きな人がいるのだろう。
ギスギスした空間で戦場にいるような興奮をおぼえる田舎下士官タイプが多いのかもしれぬ。
今日の目標は、今日をつつがなくやり過ごすことでもいいのか。
早朝より会社から支給された新年度の道徳教科書を熟読。
これ、うちの職場で読んだ人はどのくらいいるんだろう。
そしてそして、よくわからないけれど、「正しい」社員って、
みんな似たようなタイプになってしまいそうで怖い。
会社に出す誓約書の目標には――。
1.相手の立場になる。
2.矛盾に耐える。
3.現実的に妥協する。
これは精神科医の春日武彦氏の著作からの受け売りなんだけれど。
AさんもBさんもCさんも自分は「正しい」と思っている。
Aさんのやり方で仕事をしたらBさんから注意され、
Bさんの方法でやったらAさんから注意されるのが、
仕事をしてお金をもらうという意味。
こういう矛盾のほかにもAさんやBさん自身の矛盾もある。
以前言っていたことと異なることをいきなり言われる。
しかし、わたしも矛盾しているのだから相手の立場になり、そういう矛盾にも耐えよう。
Cさんがやっても注意されないことを当方がやったら注意されることもある。
とはいえ、人間はそんなものなのだから現実的に妥協しよう。
Aさんから言われた仕事をしているときに、
Bさんが違うことをしろと言って離れていくことがある。
こういうときは臨機応変にAさんとBさんの顔を立てて対処をするしかない。
いろいろ我慢するしかない。辛抱するしかない。
いまの会社に雇っていただいたとき本社のお偉いさんから、
「まあ楽しく働いてくださいよ」と言われたのがいまでも救いだなあ。
いまから軽く予習をして、さあ出勤だ。
だれも言わないことをおおまじめで言うコヤニストっぷりを発揮してみよう。
惣菜と弁当のおかしな関係。
たとえば唐揚げの惣菜が250円とするじゃないですか。
それにお新香とごはんをつけて唐揚げ弁当にするとなぜか500円になってしまう。
あれはおかしいと思う。米ってそんなに高くないような。
ひとり暮らしだとなかなか米は炊けないことを見透かしているのかなあ。
うちも炊飯器が壊れて、気づけば長らくごはんとは縁が薄くなっている。
チャーハン弁当やまぜごはん弁当ならわからなくもないが、
白米弁当の価格提示はごまかしがあるような気がしてならない。
いえ、ごはんが嫌いなわけではないんですよ。
でも豚角煮300円、角煮弁当550円は、うーん、どうなんだろうって話。
おまえさあ、ほかに考えることはないの? と言われたら、ごめんなさい。
言葉は伝わらないのかもしれない。
たとえば「女が嫌いな男」――。
この意味は一義(ひとつ)でしょうか?
1.女のことが嫌いな男
2.女から嫌われる男
二様に読めるわけ。
けれども、おなじことを言っているとも解釈できる。
たとえばの話、あいつは「女が嫌いな男」である。
意味は、あいつは女が嫌いだし、女からも嫌われている男。
言葉は伝わらないのかもしれないし、同時にいろんなことを伝えているのだろう。