人間は習慣を重んじるから、なじみの店ほど強いものはおそらくない。
新しい商売は顧客のおなじみを変えさせなければならないから失敗率が高い。
人にこれまでのクセのようなものを変えさせることほどの難関はそうはないと思う。
いまは変革、新価値創造、創価の季節なのでいろいろものを買いかえた。
でも、新しいところではなかなか買わないんだなあ。
職場でこれまでのメガネをひどく傷つけたので、プライベート用に新品を買い求めた。
どこに行くかとなれば、
小学生のころからお世話になっているメガネドラッグ池袋本店なのだ。
メガネは酔ってよく変形させたが、そのたびにお世話になったのがメガネドラッグ。
こうなるともう金額どうこうの話ではない。
電子レンジも壊れて困った。どこに行くか。
そうなるとむかしからおなじみのビックカメラに思わず足を運んでしまう。
たぶんヤマダ電機で買ったほうが安いのかもしれない。
どこのメーカーの電子レンジを買ったか。
家電量販店に行った人はみな思うでしょうが、選択肢が多すぎるのである。
いまこれを書いているパソコンは東芝製。
東芝にはパソコンのことで相当にお世話になっている(無料電話相談)。
わたしは東芝が好きだ。
若い人は知らないでしょうが、東芝日曜劇場の東芝というブランドに愛着がある。
そんな理由でいま非常に評判が悪いらしい東芝というメーカーの
電子レンジをビックカメラで購入。
言っておくけれど、これから東芝は絶対に復活するよ。
いま東芝の株って安いの? 買える環境にあったらいま買うのは東芝株である。
なぜならうちの東芝製パソコンもいまだ絶好調だからである。東芝はいい。応援したい。
メガネドラッグもビックカメラもいい。
これから2倍も3倍も上昇するのがベトナムの株ではないかと思う。
このブログをお読みになっている投資家さんにおすすめなのはベトナム株。
しかし、なにがいいのかはわからない。
ある人がベトナム株で大儲けしたら、その人の家族が大難に遭遇するというのが人生。
経済はわかりにくいが、あれはあえてわかりにくくしているのだろうか。
よしんばわたしがベトナム株を買いたくても、
そういう家で育っていないので、どうすればベトナム株を買えるのかわからないのである。
もちろん、ベトナム株にもいろいろあるだろう。
そういうことも、日本庶民階級出身の当方には理解しかねる。
ほとんど知的障害者のわたしはなにもかもわからない。
株がなんなのかもわからない。なんのためにみんなが株を買うのかもわからない。
ただベトナムが好き。ベトナム人と縁があった。応援したい。
ベトナムのよさをわたしほど知っている人はそうそういないだろう。
どうしたらベトナムの株を買えるのか、いくらから買えるのか。
知らないことばかりだ。けれど、これだけは言える。これからはベトナムの時代だ。
なにか問題が起こったときは原因を探して(あれが悪い!)
対策をこうじるのが適切だと信じられているが、果たしてそういうものなのか?
いったい事件の原因などあるのだろうか?
善後策などあるのだろうか?
本当のところはなにゆえその事象(事件)が起きたかはわからず、
どうすれば改善(善ってなに?)するのかもわからないのではありますまいか?
悪くなったのは「たまたま」でよくなる可能性も「たまたま」にあるのではないかしら。
どうしてこうなったのかわからないし、
これからどうしたらいいのかもよくわからないから、まあしばらく様子を見よう。
これはもっとも楽な対処法と見るむきもあろうが、じつのところいちばん苦しい。
問題になにもしないのがどれほど苦しいか。
大企業のリストラ部屋は社員になにもさせないというが、
日本人をよくわかっていると感心する。
多くの日本人にとっては仕事中になにもしないことほど苦しいことはない。
なにもしないとは、様子を見るということ。
どうしてこうなったのかわからないこと、どうすればよくなるのかわからないこと。
わからないことを深々とわかっていなければ様子を見ることはできない。
「様子を見る」を言い換えたら、「自然にまかせる」「流れにまかせる」になろうか。
1ヶ月様子を見てきたが、もうしばらく様子を見ようと思う。
へんにあれこれすると逆に事態が悪化することもなくはないのだから。
エロって生きている意味なのかもしれないなあ。
先日、帰途に見た地元の小学生女子のエロさに感動した。
あれは小学5年生か6年生だろう。
女子二人組が歩いていた。背の高いいかにもがり勉タイプな女子と、ちっこいほう。
道路に杭(くい)のようなものがある。
いかにもあたまのよさそうな背の高いランドセルを背負った女子。
彼女は歩きながら遊んでいるかのように道路の杭に股間を当てる。
ちょうどちょうど少女の背丈と道路の杭がぴったしのサイズであった。
え? こんな少女にも性欲があるのかと驚いた。
とてもあたまのよさそうな長身のメガネをかけたランドセル女子である。
アハハと思ってどうしようもなく少女に笑いかけたら、
とても恥ずかしそうに赤面して(当方の主観)すぐさまそれをやめた。
やめたことでかえって性的目的だったことが確定して、こちらも恥ずかしくなった。
みんなエロいんだなあ。それは悪いことではない。
どうして庶民を自称する人たちってあれほどインテリ(知識階級)が嫌いなのだろう。
うちのブログの批判コメントも、おまえはインテリぶっているが……というものが多い。
いったい庶民を自称している群盲連中はどれほどコンプレックスが強いのだろう。
インテリと庶民がどちらが強いかといったら、
圧倒的にあたまのいい少数派を感情的に憎悪する多数派のほうである。
インテリは少数派、庶民は多数派。
インテリなど庶民から囲まれたら百度でも千度でも土下座をするような気がしてならない。
中途半端なインテリほど庶民ぶるのが気に食わない。
中途半端な庶民がインテリぶって慣れない横文字を使うのは笑止。
いったいわたしは庶民なのかインテリなのか。
こういう二分法が人を迷わせる。
わたしはインテリでもあるし庶民でもある。
わたしはインテリでもないし庶民でもない。
しっかし、みなさんだってそうではありませんか?
二分法で片づけられない存在だと自分を認識することはございませんでしょうか?
すぐに相手を「敵/味方」で分類する二項対立的思考法は、
きっとそのうち変わるのではないかと思う。
でも、わかるわかる。
インテリぶる庶民とか、庶民ぶるインテリとか、うざいうざいうざい。
夢に向かって生きるというということは重要なんですよ。最重要。
しかし、夢というのは将来こと。未来のこと。
日本のサラリーマンの何割が定年後のことを夢見ながらそのまえに死んでしまうか。
いざ現実に定年して、
むかしからの夢(海外旅行等)をしてみたらちっともおもしろくないということもあろう。
夢はとてもたいせつだが、
夢のためにいまを限界まで犠牲にするのがいいかどうかはわからない。
将来の目標(夢)のためにいま苦しんでいる人が
事故や病気で急死することはいくらでもある。
これが不幸と言いたいわけではなく、
あるいはそれがいちばん幸福な生き方かもしれない。
それはそれとして、いまを楽しむという考えも持ったほうがいいのかもしれない。
人間としての幅ができるというか。
今日偶発的に死んだ人は、昨日の段階では明日死ぬことを知らなかったのである。
それが人間の生き方だが、そうでもない生き方に目配りするのも悪くない。
もしかしたら明日死んでしまうかもしれないと考えて、今日をいとおしく思うのはどうだろう。
今日を明日よりも未来よりも夢よりもちょこっと重んじる。
今日も今日、いまもいまお酒をのんでいい気分になるのもそこまで悪くはない。
明日死んでしまうかもしれないのなら、職場の腹が立つ同僚も許せよう。
むしろ、そういう相手がもっともありがたいと悟ることにもなるかもしれない。
うさんくさい悟りではありますでしょうが。
過去のトラウマに生きている人が大勢いらっしゃいますでしょう(わたしふくむ)。
将来の夢のために生きている人もかなりいらっしゃるはず(わたしはどうだか)。
それは人の生き方として非常に「正しい」のではありますが、
いまを生きるという多少快楽的な香りがする背徳的な生き方も
そこまではそこまでは悪いと言い切れるものではないような気も致しますが、
むろんのことなにが「正しい」のかを決めるのは読者諸兄諸姉でございます。
ブログの嘲笑的な批判コメントがいやでさあ。
なにを書いても批判はできるわけでしょう? 
批判されないためには、なんにも書かないで沈黙をつらぬくしかない。
たとえば「わたしは間違っている」と書いたとする。
これにも批判がくるわけね。おまえは間違っていないが、性格がうんぬんとか。
「わたしは間違っている」というのは壮大なパラドックス(矛盾)だよねえ。
「わたしは間違っている」が正しかったら、
わたしは間違っていないことになるでしょう? 意味、わかりますか?
わたしはブログの過去記事の相当数を間違っていたといま思っている。
けれどさ、過去の誤りを認めるいまの自分が果たして正しいのかって話。
過去の自分の間違いを現在の自分が正す。
ということは、いまの我見もいずれ過去のものとなるはずだから
未来永劫に正しいとは言えまい。
とすると、過去は間違えていたといういまの発言も将来的にはまた間違いになろう。
もしかしたら正しいことなどないのかもしれない。
みんなみなみなすべて間違いなのかもしれない。
過去の発言を責められたらとりあえず謝罪するのかもっとも現実的な手段ではないか。
繰り返すが、わたしは間違っている。この記事も間違っている。先に謝罪しておく。
この1ヶ月いろいろあったけれど、そんなことにみなさんはご興味を持たないでしょう。
テレビライターの山田太一さんのいちばんの名言は、
「他人は自分なんかに興味を持たないと思ったほうがいい」かなあ。
この言葉にどれほど救われたか。いま救われているか。
多くの人が気にしている肩書とか世間的評判とか、
もしかしたら本人以外はあまり関心がないのではないか。
そうだとしたら幸福も大勝利もどうでもよくなる、と言えなくもない。
要は自分が自分のやりかたで満足すれば人生はそれでいいのではないか。
科学的(医学的)なことを申し上げれば、結局は脳とも言えよう。
生きがいとか使命とか、そういう大義名分もいいけれど、
生物的には脳に忠実に生きるのもありだ。
世間的には好ましくないのかもしれないが、それでも脳に忠誠を誓うのもあり。
結局さあ、おいしいものを食べたり飲んだり、寝たりエロいことは脳的に快なんだ。
生きている意味をうじうじ考えるのも相当に楽しいけれど(経験あり)、
そういうことをみなみな放擲(ほうてき/捨てる)して脳神経に従うのもいい。
精神病だって心の問題というよりも科学的には脳神経なんでしょう?
心の整理や清掃をするよりも、脳のメンテナンスをしっかりしたほうがいいとも言えよう。
いまは科学(医学)が発達しているから、かなりの無茶ができる。
よく知らないけれど、高齢者だってあれを服用すれば女とあれをできるとか。
グルメを追求するとなるとされる痛風もいまでは薬で抑えられる。
重度の不眠症の人がいたとしても、お薬をがんがん入れればいちおうは眠れる。
生きる意味とかそういう哲学的・文学的・芸術的なこともいいでしょうが、
もっと即物的に脳科学的に生きるのもありなんじゃないかなあ。
結局、高学歴と低学歴の差なんて努力うんぬんではなく脳機能の問題っしょ?
勉強ができなくても仕事で大活躍する人はいるし、
そういう人もがんばり(の結果)というよりは科学的には脳。
脳を喜ばせることだけを目的に生きるアニマルが科学的、生物学的にもっとも「正しい」。
このように考えたら、
心の問題であれこれクヨクヨ悩んでいる人は少し身軽になれるのかもしれない。
これはネガティブではなくポジティブな人生観である。
もう「わたしの仕事」は終わったと言ってもいいような気がしてならない。
10年以上ブログに自分の意見(読書感想文)を手弁当(無料)で書いてきた。
仏教も演劇も独学では限界まで達したと言ってもいいのではないか。
文学史の有名人を思い返すと、40歳まで生きられなかった人もけっこういる。
10年ブログをやっても
「他人の評価」はほとんどまったく得られなかったが(ひとりふたりはいる)、
結局世間的にはまったく認められなかった。
書き仕事の依頼は二度あったけれど、こちらが傲慢なためどちらもポシャった。
あと2ヶ月で絶対になりたくなかった40歳になるが、ならもういいような気がする。
世間一般常識に逆らう生き方をしてきたが、ここらでもういいのかもしれない。
わたしがこの人生でする「わたしの仕事」はなし終えたという可能性もある。
これからは世間的に人並みに常識人として生活のために生きるのもいいかと。
もう「わたしの仕事」は終わったのだから、
残りの人生は人のための仕事をしてお給金をいただく。
これもまた悪くないのではないか。
いまの趣味のひとつは自分のブログ「本の山」を読むことだ。

自分が書いたにもかかわらず、
職場から帰宅して安酒をちびちびやりつつブログの過去ログを読むと、
なんだこいつ、おもしろすぎるぜと思う。
自分が書いたという気がいまではまったくしないのだから。
難しい表現をすれば「自分という他者」とでも言うべきなのだろうか。
しっかし、本当に世間からはこれでもかというほど認められなかったなあ。
このおかげで「わたしの仕事」と錯覚できるような、
極めて自分勝手な読書感想文ブログを運営してこれたのかもしれない。
まあ、アクセスは少ないし、コメントは厳しい批判ばかりなのだけれど。
このブログはわたしにしか書けない「わたしの仕事」でありました。
これからはわたしでもできるような仕事を温情でさせていただきながら
ありがたくもお給金をゲットして、
人並み以下でも自分の生活を細々と充実させるのもいいのかもしれない。
いえね、すべてを捨ててもいいんですよ。
そう思えるのは、まったく評価されなかったが、
わたしは「わたしの仕事」をしたという自己欺瞞があるからだ。
ブログ「本の山」のおもしろさをわたし以上にわかっている人はいないと思う。
けっこう本は読んできたつもりだが、
この齢になっても知らない言葉と出逢うから人生は勉強でおもしろい。
最近知ったのは内製化という言葉である。
内製化とは外注の反意語と言っておそらくよく、
ビジネスにおいて外注に頼ることなく、自社内でまかなうことである。
「外注をやめて内製化した」といった感じで使われる言葉だと思う。
わかりやすくいえば、外食や中食(惣菜)をやめて手料理をつくることか。
内製化という言葉を教えていただき考えたが、外注は諸悪の根源という見方もできる。
なぜなら外注をすると、品質を保てないからだ。
外注(外部の他社に注文)をすると、かならず競合他社が現われる。
うちならもっと安く早くできますよ、と営業してくる会社が登場するものだ。
そうなったら外注先は、それよりももっと安く早くできると主張するほかない。
経済の競争と言ったら経費を削るしかないのである。
人件費を下げるか材料費を抑えるか。そうなると必然として品質は劣化する。
下請けは競争に勝つためにはコストを抑えるしかないのだから。
10人でやっていた仕事を7人に減らしたら、どうしても品質は下がってしまう。
外注というのは品質にとってはマイナスに働くことが多いのではないか。
高価格帯の富裕層を相手にする品質勝負の商売というものがある。
世の中には多少高くても品質のいいものを求める顧客層が存在するのである。
しかし、この品質をアップさせるのほど難しいことはないとも言えよう。
外注に出したら、かならずといっていいほど競争がはじまり品質は下がる。

そこで内製化(自社内で製造化)なのだが、内製化もまた難しい。
内製化のメリットというのは、時間をかけて高品質なものを生産することである。
だが、内製化にたずさわる労働者は富裕層と縁のないことが多々ある。
結果として、急げ急げとお互いに発破をかけて内製化したのに品質を下げてしまうのだ。
あまり裕福ではない労働者は、これまでの人生でつねに急がされてきたので、
早いほどいいという価値観から脱却することができないのだ。
高品質なものはある程度、時間と金を無駄に使わないと生産することができない。
企業上層部は品質がよくなればいいと思っているにもかかわらず、
現場の人間が時間や経費を節約することばかり考えていたら品質のよいものはできない。
ふつうなら1日でできるものに1週間かけるから高品質なものが生まれるのだ。
ふつうなら5人でできる生産作業に7人かけたら職場に余裕が生まれ品質も高まる。
労働者が「なにもしない」時間に品質が高まると言ってもいいのかもしれない。
3分で完成するインスタントラーメンよりも、
1週間かけた店主こだわりラーメンのほうが世間では高品質と見なされることが多い。
わたしは外食ラーメンよりもカップ麺のほうが好きだが、
世の中には高品質なクオリティの高いラーメンを求めるものもいる。
高品質を求める顧客層を相手にする商売では製造過程に無駄をしないとダメだ。
高品質な商品はどれだけ無駄をしたかと言うこともできよう。
使わなくてもいいダシをどれほど使ったか。

牛にクラッシック音楽を聞かせるとうまい牛肉ができるというのは、
あながちまったくのデタラメでもないような気がする(絶対真理でもなかろうが)。
内製化(手づくり、外注に頼らない)というのは新しく創造された価値観である。
外注先に競争させたら価格は下がり速度も上がるが、品質は落ちざるをえない。
高品質なものを求める顧客相手の商売では外注は有害なことも多かろう。
内製化を考えた人や、それを実践した人は偉いよなあ。
ちなみに(人材)派遣は外注。バイトでもなんでも直接雇用は内製化と言えよう。
いったい派遣社員が派遣先の会社を愛するなんてことがどれほどあるのだろう。
しかし、外注したほうがよけいな手間暇がかからず効率的で生産性は高いのである。
けれども、下請けはたえず安さや速さを求められるから商品に愛情を持てない。
商品に愛情を持てない労働者の製造したものの品質が高まることはないだろう。
無駄を省くと効率はよくなり生産性も高まるが品質が劣化する。
一流企業が従業員に高額な給与を支払っているのは無駄だが、
この無駄のためにブランド視される高品質な商品ができているのかもしれない。
最近、公的サービスを利用する機会が多かったが、
驚くほどみんな親切だった(品質が高かった)。
公務員は数が多すぎて給与も高く無駄と思う人が多いだろうけれど、
あるいはそのおかげであのサービスを維持できているのかもしれない。
個人的意見では、
医者やナースにはもっと高給と休暇を与えたほうがいいような気がしてならない。
コストを下げたら品質も下がるのである。
精神病患者の特徴はおかしな妄想を語るところである。
おかしなことを言う人は狂人と見なされる。
いまわたしの周囲で起こっていることを語ればきちがいあつかいされるだろう。
本当に起こっていることなのだが、
それを書いたらそんなことはありえないと言われてしまう。
あげく、精神障害者のように思われることだろう。
繰り返すが、正気と狂気の境い目はおかしなことを語るかどうか。
だったらさ、異常な体験をしていても、それを口にしなければ狂人にならないことになる。
世界の秘密を知ってしまったと語るのは大半はきちがいだと思うが、
秘密を知っても知らないふりをすれば正常な人として遇される。
しかし、秘密は人を孤独にするから、たいがいはその孤独に耐えきれない。
結果として世界の秘密のようなものを言葉にしてしまい
周囲を困惑させ精神病院へゴーとなってしまう。
言わなきゃいいのだが、それを言わないのがかなり難しいのである。
たとえ「本当のこと」でも、周囲にそれを信じてもらえなかったらきちがいあつかいされる。
対策としては経験した「本当のこと」を決して口にしないことだ。
39年生きてきたが、ここに書いてもだれにも信じてもらえないことをけっこう体験している。
そんなことありえないということは、人によっては高頻度で起こるのである。
ところが、その現実を言葉にしたら精神病的な妄想に思われてしまう。
この1ヶ月に起こったことを書くことはできない。
書いたらわたしは精神病あつかいされることをわかっているから。
逆に言えば、書かないからこそわたしはまだ常識を失っていないそこそこ正常な人である。
「本当のこと」というのは「本当に思えること」なのかもしれない。
ある人が現実を語ったら妄想に思われるということは少なからずあるのだろう。
その人の現実ではない妄想を語ったほうが現実的と周囲から受け入られることもあろう。
世の中で精神病とされる人の数パーセントは「本当のこと」を体験したのではないか。
ただし、彼(女)は弱かった。
語ってはならないそれを秘密としてキープできるほど孤独に強くはなかった。
いや、ひとりその妄想を現実として信じてくれる人が不運にもいなかったとも言いうる。
わからないものを安直に言葉にせず、
わからないままにしておけるのが本物の精神力だろう。
現実を語ったら妄想になる。妄想を語ったら現実となる。世界にはそういうところがある。
いま山口組が分裂をはじめたようだけれど、ヤクザが怖い理由は社会的に弱いから。
かつてのヤクザは被差別者や欠損家庭出身が多かった。
そういうはぐれものは、捨てるものがない弱者だから逆に強く出られるのである。
ヤクザと大企業幹部が一対一で交渉したらどちらが勝つと思いますか?
ヤクザは守るものがほとんどないけれど、
エリートは守るもの、捨てられないものがあまたある。
結果として社会的には弱いほうのヤクザが強いはずのエリートに勝つのである。
この考えをすすめていくと、ヤクザよりも強いのは無職、ニート、ひきこもりだ。
いくらならずものの末端暴力団員とはいえ、どこかに所属しているわけでしょう?
守るべき友人、恋人、家族がいる恵まれたヤクザもいよう。
ヤクザなんかそこまで怖くはなく、
しょせん承認欲求の奴隷の組織人と言えなくもない。
無職、ニート、ひきこもり、孤独な片輪者が本気になったら、
ヤクザでさえ(群れの一員ゆえ)及び腰(ごし)になる。逃げ腰になる。
ヤクザにも勝てるのが(弱いとされる)無職、ニート、ひきこもり、障害者(身体知的精神)。
(社会的に)弱いほうが(現実的には)強い。
何度でも繰り返したいが――。

弱いほうが強い。

弱いほうが強いのならば障害や低身分、低収入、欠点、短所は強みになろう。
友人がいないのも恋人がいないのも、その人を強くする。
捨て子で友人恋人ともにゼロの軟弱無業者と、
家族持ちの富裕リア充ヤクザが生き死にレベルで喧嘩をしたら勝つのは前者だと思う。
守るものがないなにもかも捨て切った社会的弱者はヤクザよりも強い、
ある意味で「無敵の人」なのかもしれない。
社会常識には反するだろうが、あたまのすみにでも残しておいてください。
なにかって、それはしつこいが弱いほうが強い。
公務員と無職が生死をかけて喧嘩をしたらどちらが勝つかを考えてください。
この世への執着が少ないほうが無茶をできるから圧倒的に強い。
ヤクザの鉄砲玉だって、群れている人恋しい組織人と言えなくもない。
本当に怖いのはもはや失うものがない無所属な失業者、社会不適合者、落ちこぼれ。

ならば、社会的弱点こそむしろ強みではないか?
社会的に上に行けば上に行くほど守るものができて(捨てられない!)弱くなる。
強くなりたいがための上昇志向(権力志向)はあんがい矛盾しているのかもしれない。
「矛盾こそ正義」だからそれでいいのだが。
ヤクザがなぜ強いかといったら、守るものの少ない、人生を捨てた人だからだろう。
そのヤクザよりも強いのがじつは孤立無業者(スネップ)なのだ。
守るものがいっぱいある大学教授となんにもないフリーターは、
一見すると学者のほうが強いように思えるが(たしかに社会的にはそうだが)、
いざ一対一で対面したら社会的弱者のほうがはるかに強いのである。
だから、肩書のあるものは一対一の勝負に出てこないでつねに群れている。
なぜなら、矛盾するけれど――。

弱いほうが強い。

実際的には現実問題としては、
一対一(タイマン)に行けるものほど強いという理屈も通ろう。
弱いものほど群れて相手を囲もうとする傾向がないとは言えまい。
ぶっちゃけ、わたしと一対一で酒を飲むなんて怖いでしょう?
酒を飲まなくてもタイマンを張る(一対一で逢う)のでもビビる人が少なくない。
正直、勘弁してと思うけれど、
(一対一で)逢いたいと言われてドタキャンされることがけっこうある。
こういう論理を突きすすめれば、
男女ふくめてわたしと一対一で対面したことがある人は相当に強い。
わたしは弱いから強い。強い人は強いから弱い。
そうだとしたら、弱さを恥じて強くなろうとするばかりがいいとは限らないことになろう。
弱さを誇るという精神も生まれよう。正社員もいいが非正規もいい。
どっちもいい。どっちでもいい。なんでもいい、と言えなくもない。
死を怖がらない無鉄砲なテロリストほど強いものはいない。
チンピラもヤクザの組長になれば弱くなる(具体的には「憚りながら」のようにさ、あはっ)。