あいつは世間を知っている、あいつは世間を知らない、という言葉があるじゃないですか。
まあ、山田太一ドラマでひんぱつされるセリフだ。
このときの世間というのが、まさに世間知らずにはへたをすると一生わからないで終わる。
世間を知るとは、具体的にどういうことか?
地名をよく知っている不動産屋とドライバーは世間を知っているといえよう。
それから会社名をよく知っているのも世知長けた人になる。
身もふたもないことをいうと、住んでいる地域はブランドみたいなもの。
生活保護受給者が多いA区とかは嫌う人が多いでしょう。
いまはほぼ一家途絶えたが(みんな短命すぎるぜ、ブラボー!)
母方の実家のようなものはここにあった(最後は叔父が孤独死、腐乱死体)。
わたしは自分が地名を知らなすぎるので恥ずかしい。
どこの職場でも同僚から地名を聞くとネット検索して、ほほうと思うもの。
不動産屋なんか世間を知りまくっているわけでしょう。

わたしはなぜか不動産屋のかたと縁があり、
あまり公言できない身もふたもない裏を耳にしたことが何度かございます。
それは裏だから秘密だから、書くわけにはいかないけれど。
それから会社名をよく知っているのがいちばんの世渡り上手(世間知らずの反意語?)。
自分がとにかく世間知らずだと恥ずかしく思うのは会社名をまったく知らないこと。
みんなが知っているブランドの会社名をまるでさらさら知らない。
むかし小谷野敦ファンの男が得意げに名刺をくれたが、その会社を知らなかった。
親は北海道の不動産屋。
一橋大学卒でエリート社員の同世代男性はわたしをあきれたように見たものだ。
地名よりも不動産価格よりも、
あるいは会社名をよく知っているほうが世間に通じている。
いまありがたくも働かせていただいている会社の名前も知らなかった。
関連会社等も知らなかった。
人に聞いたら有名な会社なようで、またまた無知を恥じた。
わたしの(あるとすれば)長所は、自分から調べることである。
知らないことがあったら自分から裏表やらなにやらを知ろうとする。

会社から支給された道徳教本なんて関係者の8割が読まないでしょうが、
わたしはまじめにも熟読した。
上から(言葉ではなく)ニュアンスで「読まなくても、まあ」
みたいなことをいわれたからか、
うっかりいろいろ調べながら読んでしまった。
逆にいろいろ、そうかそうか、と勉強になって感謝しているくらいである。
その本の読書感想文をここに書いたりしないのは、
わたしがまじめな社会人に近づこうと思っているからだと思う。
ものごとには作用、反作用というものがあって、
あれだけいじけたぐれた根性が悪いわたしがこれだけ変わったのだから、
まじめ人間も少しいいかげんになるようなことも世界全体ではないともいえまい。
土日勤務OKで履歴書を出したのに、
土曜日に休ませていただけるなんてどれほど恵まれているのだろう。
仕事はテキパキとこなすものなのだと思う。
ぼくはプライベートにだらだらのんべんだらりんするのが大好きなんだなあ。
ふつうの人が1時間で終わらせる掃除を3時間かけでだらだらしたり。
あいまにバックナンバーがたまった「週刊スピリッツ」を読んだり。
お酒を飲みながらてきとうにいいかげんなその日だけの料理をするのも大好き。
今晩はおでん。翌日になるとうまく感じるおでん。
どうやら経済がいささか安定しそうなので最近は30%引きでも購入している。
むかしは半額オンリーだったけれど変わったなあ。
うーん、いひひっ、ぼくぼくぼく経済をまわしているううう♪

ちくわぶが大好物でついつい2本買ってしまった。
ちくわぶを見ながらふと思いつく。なんとなく、ちくわぶをちょー薄切りにした。
冷蔵庫にあった長ねぎを1/3から半分ほどみじん切り。
フライパンに油を引き、長ねぎと薄切りちくわぶを炒め、
キッコーマンの特選丸大豆しょうゆで味付けしたら泣くほどうまい酒の肴になった。
基本は焼うどんの原理といえよう。
わたしのちくわぶ好きの関係もあるだろう(もっともこれは人の影響ですが)。
どうしてちくわぶと長ねぎをしょうゆで炒めただけのものがこれほどうまいのか。
自画自賛すれば、店でも出せるレベルだと思う。
ただしキッコーマンではなく「当店秘伝の味」とメニューに書かなくてはならないけれど。
「当店手づくり オリジナル荒川焼き」とか書いたら人気メニューになったりしてね。
こげめがつくほど焼いたらうまくなった。
いろいろごちゃごちゃ混ぜるより、シンプルそのままのほうがうまいことがあるのかなあ。
まあ、見かけがよくないから商売品にはならないのかもしれない。
契約の反意語は人情ではないかと思う。
ならば契約が正義なら、人情は不正となろう。
わたしは契約というものがあまり好きになれず人情のほうがおもしろいと思っている。
正義がどうのこうの言うよりも、
さっさと和解して人情レベルで解決したほうがいいわけでしょう?
裁判とか好む人はなにかに洗脳されているのではないかと怖くなる。
裁判で白黒つけようじゃないかという人がいる。
え? どうして裁判官の判決が「正しい」ことになるの?
裁判官が高学歴だから? 高収入だから? 最高権力者だから?
「正しい」ことはだれか偉い人に決めてもらうのではなく、
あなたが「正しい」と思ったことが「正しい」とも言えるのではないか?
下世話なことをいえば、裁判は実利的に意味がない。
たとえば民事裁判で勝訴したところで、
相手から金銭を強制的に徴収できるかといえばそうではない。
相手が裁判にも出廷せず、負けても無視して金を払わなければそれで終わり。
だったら裁判なんかで時間と金銭を無駄遣いして、わざわざ精神的ストレスをかかえ、
どちらが「正しい」かお上(かみ)に決めてもらうよりも臨機応変に対処したほうがいい。

交通事故をふくめ事故というものは確率的にかならず起こる。
そのときどっちが「正しい」「悪い」かもたしかに重要だが、
しかしもっともたいせつなのは現実問題でしょう?
なにが悪い、かにが悪いとお互い主張するよりも、現実を見るしかない。
一度生じてしまった事故(ミス/エラー)は元に戻せないのだから。
わざわざ弁護士(正義)に稼がせてやるよりも、
実質レベルの損得(人情)で手打ちにしたほうがいい。
いくら「あいつのほうが悪い」と言い張ったところで、
どうせ相手もおなじように思っていることだろう。
責任や善悪を決定するよりも、現実的な対処を双方で講じたほうがいい。
「正しい」と「正しい」が喧嘩になると高学歴エリートの裁判官が「正しい」ほうを決める。
しかし、負けたほうだって絶対に自分が間違っているとは思わないものなのだ。
なんで裁判官の決定が「正しい」のかわからない。
これは法律がなぜ「正しい」のかわからないということだ。
「正しい」ことをいう職業がしんどいのもわかる。
末端の教員や警官、区役所職員はときおりやりきれなくなるのではないかと思う。
ミスというか誤字はもうどうしようもないんだよね。
「本の山」ほど誤字が多いブログはないのではないか?
自己愛性人格障害の危険性があり、自分で自分の書いた記事を読み返すことがある。
誤字脱字が多すぎて、自分でも笑っちゃうもん。
びっくりなされるかたも多いでしょうが、
誤字を発見してもどうせだれにも読まれないだろうと放置することもある。
こういう誤字をする人ってかわいいとか思われるんじゃないかな(←バーカ!)。
本当に本当で誤字を見つけてもめんどうくさくなって直さないことがある。
さっきかつて縁のあった企業のHPを拝見したらふたつとも誤字があった。
客相手の商売で誤字があると信用をなくすと思うのだが……。
しかし、あからさまにミス(誤字)を指摘すると相手のプライドを傷つけちゃうでしょう。
わたしのいまの方針では個人ブログで誤字脱字はあきらめている。
校正に発注していないし、わたしの仕事は校正ではないから。
まあ、校正は専門職の人にお任せすればいいのだろう。
いまはそこをケチるようになったのかなあ。
そういえば、おおむかし校正の資格を取ったらどうかとおすすめされたことがある。
こちらを選んで正解だったのかはだれにもわからない。
ミス(誤字)を探す仕事って、最後の自分がミスをできないからけっこうしんどいかも。
なんで人ってそんなに誤字(ミス)を恐れるのだろう。かかか、かわいいじゃん♪
宗教ライターのひろさちやさんの本で誤字を山ほど見つけたことがあるが、
「いいかげん」をすすめている著者らしいと好ましく思った。文意は伝わったし。
勝利と敗北っていったいなんだろう?
わたしは負け続けてきたとも勝ち続けてきたともいえる。
非常に生意気な発言であることは知っているが、
当方にとって学歴の早稲田一文は敗北である。
しかし、それは浪人時代に東大文三を目標としていたからだ。
もし東大医学部を目標としていた人がいたら、文三でも敗北だろう。
わたしは高校受験の経験があり、そのときの目標は早稲田学院だった。
けれど、落ちてしまい都立高しか入れなかった。
小学生時代は成績も最悪で児童相談所に行かされるような情緒不安定児童であった。
当時の担任はわたしを知的障害児あつかいしていたのをよく覚えている。
どうして成績が急激に上がったかというと中学に入り好きな女の子ができたからだ。
成績が上がったらあの子に認められるのではと思ってはじめて勉強する意欲が出た。
東大レベルならいざ知らず、それ以外の勉強は基本的に覚えるだけなのねえ。
わたしは中学時代、記憶力は神仏レベルだったから(いまはぜんぜん)。
プリントとか一文一句完全に記憶することができた(それってアスペルガー?)。
公立中学に入ったときの成績は平均以下というか、
小学校の担任(こいつはいまでも大嫌い!)から知的障害を疑われるほどあれだったが、
中学3年生のときには内申点(通知表の合計)で学校トップになっていた。
都立高校なんてもんは内申点だから、落ちるわけがない。
しかし、早稲田学院高校には落ちたので高校生のわたしは敗北者意識を持っていた。

結局、勝利も敗北も目標設定の問題のような気がする。
東大を目指していたら早稲田は敗北。
早稲田を目指していたら二文でも人間科学部でも大勝利。
早稲田を目指していて明治なら敗北。
明治を目指していて明治に入れたら、それは大勝利。
娘が立教に入ったことでも高卒の母親からしたら大勝利なわけでしょう。
いまの話をしましょう。
最近のわたしは本当に目標というものを喪失してしまった。
死んでもいいけれど、とりあえず生きていようかなという感覚まで落ちた。
そうしたら、どうしてか当方のこれまでの感覚からしたら信じられないほど
好待遇の職場に行き着いてしまった。
人によってはバカにするレベルかもしれないが、
わたしにとってはありがたすぎる。
いまのわたしの環境は人によっては大敗北で人によっては大勝利である。
わたしとしては、ただもうありがたくて、ありがたくて。
これはきっとかつて時給850円で、
にもかかわらず4時間程度で強制帰宅もある会社でバイトをしていた経験ゆえだろう。
いまの会社は大好きだが、
かといってむかしの会社は嫌いかといったらとんでもなく、大恩があるといえよう。
目標を「生きていたらいい(死んでもいい)←無目標じゃん」にしたら、
なんでも大勝利になる。べつに大勝利したいわけではない。
世の中には起業成功者が大勝利の人もいれば、公務員就職が大勝利の人もいる。
大臣になっても大敗北の人生もあれば、病弱で若死にしても大勝利の人生もあろう。
いちおう大学は出ている。
ちょっとまえ会社に提出する書類の関係上、大学の卒業証書を見直した。
2000年の3月15日に、わたしはあの運がよければだれでも入れ、
だれでも出られる大学をたまたますいすい卒業した。
そこを嘘ではないかと疑われる人がいらしたら、卒業証書の画像をアップしてもいい。
いま視聴している山田太一ドラマ「沿線地図」はわたしの生まれたころのテレビ番組。
「いい大学、いい会社、いい人生(いい結婚、いい子ども)」
という「幸福方程式」に逆らいたいと思った成績のいい男女高校生の人間革命ドラマだ。
どちらの親も「大学くらい出ておけ」という。
(娘は短大卒くらいのほうが結婚条件のいい時代だった)
ファースト・ペンギン(開拓者)になるべく革命カップルは、
成績がいいのに高校を中退してしまう。
このまま「いい大学」に入ったら、「いい会社」にそのまま入ってしまいそうで、
そうしたらつまらない人生になってしまいそうで、それはありきたりで心底いやだ。
大学教授のように安定した高身分から社会の理想を説くのではなく、
青年たちは自分から行動を起こした。空理空論を説くのでなく実践してみた。
東大も確実とされる(父親はエリート銀行員の)ガリ勉のイケメンが
人生をわざと踏み外したのだ。高校中退。
青果市場で怒鳴られながらの肉体労働を始めた(ただし美少女の同棲相手あり)。

こんなドラマを放送してそこそこ視聴率が取れるなんていまでは信じられない。
この山田太一ドラマを真に受けた視聴者はどのくらいいたのだろう。
いつだったか派遣先の仲間におなじ高校(都立名門校)の大先輩がいらした。
東大をねらえるほど成績がよかったのにどうしてか高卒で家業に就いたという。
わたしはいわゆるいい高校を出て、いい大学を出ている。
エリートコースを踏み外したのは、自分からというよりもなんとなくだ。
恩師の影響や家族の不幸があり、なんとなくレールを外れてしまった。
わたしは自分からわざわざ正規のレールからはみ出す必要はないと思う。
どうせどのみち人生は思うようにならず、外的偶然でかなりすべてが決まるから。
当方の人生体験からいえば、入れる知力と経済力があれば、
大学くらいは入っておいたほうがいいと思う(中退でもいい)。
わたしなんか出身大学のおかげでいままでどれだけ色眼鏡をかけられたことだろう。
いい思いもいっぱいしているのだろうが、
「あいつは早稲田なのに使えねえよ」と嘲笑の対象にもなっただろう。
それでも人様のお役に立っているのだから悪い気分はしない。

本人が言うのだからかなり真実性が高いだろうが、早稲田はバカが多いよ。
わたしなんか今日たったいまネット検索して国民の三大義務と三大権利とやらを知った。
義務と権利の意味がわからず、これまた辞書を引かずにネット検索した。
どうして日本国憲法って「正しい」のかわからなかった。
まあ、早稲田なんてこのレベルよ。
学歴にこだわりがゼロかといえばそうではなく、二文と一文は違う。
いまは文化構想部(?)となり村上春樹も卒業した早稲田文学部は消えてしまった。
文学部だという名前だとよほどいいコネでもないと就職できないからかなあ。
むかし派遣仲間に聞いたけれど、高校でわたしの一学年うえに有名作家がいるらしい。
イケメンで山田太一の大ファンで売れっ子ミステリー作家。
一度、山田太一講演会でご尊顔を拝見したことがある。
イケメン作家が質問挙手すると編集者も書店員もみなさん一斉にあたまを下げたものだ。
世間知らずな当方はそのときはじめて直木賞作家の彼を知った(直木賞は圏外ゆえ)。
あはっ、彼とわたしはいったいどこで差がついたのだろう。
けれど、この齢になると正直、うらやましいとかあこがれとかほとんどない。
彼は彼の人生を送り、わたしはどうしようもなくわたしなんだろうなあ。
まあ、国民の義務と権利をいまごろ知り、
しかしどうしてそれが「正しい」のかわからないバカが
人生に多くを望んではいけないのだろう。
負け惜しみかもしれないが、あんがいこちらのほうが幸福かもしれなくて。
ぼくは「セイシンショウガイシャ」や「チテキショウガイシャ」と
むかしからよくいわれることがありました。
どちらの言葉の意味もわかりませんので、ほめられているのだと思っています。
お父さんに聞いても、お母さんに聞いても、
「セイシンショウガイシャ」「チテキショウガイシャ」は「いい人」という意味だと。
ぼく、そんなに「いい人」ではないけれど、困っちゃうなもう。

ぼくぼくぼく――。
国民の義務みたいのがいろいろあったみたいなので最近驚いています。
ぼくはあたまが悪いから義務という言葉の意味がわかりません。
インターネットというもので「義務 意味」を検索してみました。
そもそも義務をなんと入力すればいいのかバカなので困りました。
義はなんと読むのでしょう? 務はなんと読めばいいのか?
義はそういえば近所のぼくの大好きなおじさんがよく口にするギリの義かなあ。
務はなんと読めばいいのか。

ぼくの働く工場で大好きな人がそういえばツトムさんだった。
「ギツトム」で変換したけれど「義理」は出ないなあ。
会社で勤務評定という漢字を目にしたことがある。
さりげないふりを装ってぼくよりちょっとあたまのいい仲間に聞く。
「キンムヒョウサダ」と読むらしい。
なら、あの字は「ギム」なのかと予測して入力したら、大当たりで「義務」。
ぼくの先生であるインターネットによると義務の意味は、
「法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと」。

どうして義務という言葉に興味を持ったかというと、
「コクミンノギム」という言葉を最近勉強してメモに書きとめたからだ。
「コクミンノギム」ってどういう意味だろう。
国民として、法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、
また、してはならないこと。
お父さんやお母さん、むかし好きだった学校の先生によると、
ぼくはちょっとあたまがゆっくりしているが、だから、えへっ、かわいいって。

「コクミンノギム」を知らなかったら、それをしていないのも仕方がないと思う。
それは「コクミンノギム」だといわれても、そのことを知らなかったら仕方がない。
ぼくはむかし先生から、がんばっていればいいことがあると教わりました。
あれは正しいことでした。先生は正しいのです。
来月から立派な「シャカイジン」というものになり、みなさんの役に立ちます。
ぼくはみなさんがぼくにやさしくしてくれるので驚いています。
ありがとうございます。立派な「シャカイジン」になりたいです。
でもまだ「シャカイジン」の意味はわかりません。またインターネットで検索して勉強します。

ぼくはいま「コウフク」です。ぼくが「コウフク」というと、まわりのみなさんが喜んでくれます。
だから、ぼくは「コウフク」です。「コウフク」の意味はわかりません。
でも、ぼくは本当に「コウフク」で困ってしまいます。みなさんのおかげです。
いまのところに引っ越してきたのはたまたまで、
まだ居ついて5年くらいだという部外者意識があった。
ところが、会社へ提出する書類の関係上調べたら、
もう8年半もこの地域のお世話になっているのか。
わたしはいま住んでいるこの地域が大好きと言ってよい。
非常に山田太一ドラマ的な場所だ。
すぐそばに土手があり川を越えて鉄橋を走る電車が見られるのである。
いま洗濯物を干しているベランダからは工場の煙突(?)とともに、
2月とはいえそれでも春の気配を感じながらしばらく待っていれば、
生活者をたくさん乗せている電車が通過する遠景も見ることができる。
昨日酒を飲みながら山田太一ドラマ「沿線地図」を5話見たが、
まさしく山田太一先生の大好きな風景とともにわたしは生きているのを知り、
おかしな符合というか偶然にびっくりしたものである。
むかしはけっこうな不動産的グッドプレイスに住んでいたが、
いまではよほどあそこに比べたら家賃が安いこの界隈のほうが好きである。
さて、知らないものは存在しない。しつこく、繰り返すが――。

知らないものは存在しない。

去年バイト先でとても近所に生まれ育った同年代の好青年に出逢った。
あれほど気のいいやつがいるんだなあ、
と人生捨てたものばかりではないと思ったくらいだ。
あまりに近所なのでいつ再会するかドキドキしているが、
いまだラッキーかアンラッキーかばったり対面するようなことはない。
おなじマルエツを利用しているから、いつかかならず再会するような気がするのだが。
その好感度最高の彼から教わったのが近所の肉屋の弁当である。
そこに肉屋があるくらいのことはなんとなく知っていたが、
その肉屋の昼に出す弁当が激安かつ激ウマで行列ができるほどだったとは!
知らないものは存在しないとはこういうことを言うのであろう。
いざ買って食べてみたらたしかにコンビニ弁当と比較にならぬほど、
価格も勉強しているし味もいいし多彩だしボリュームもある。ひと言、うまい!
わたしは夜の酒をうまくするため昼は食べないことが多いけれど、
ごくごくたまに昼から酒を飲むときはここの弁当は泣くほど感謝しながら買う。
冬ならば昼買っておいて夜に食べるのもいい(作り手の本意ではないでしょうけれど)。
そのくらいレベルが高いのだ。
どうして8年近くも近所に住みながら、この肉屋のお弁当を長らく買わなかったのだろう。
ふたたび――。

知らないものは存在しない。

知るにはふたつの方法がある。他人から教えてもらうか、自分から調べるか。
いまはセブンイレブンのファンだが、おすすめされても買わなかった。
ちょっとしたきっかけがあり(知り合い関連)、
セブンのものを実験的に食べてみたらおいしものがたくさんあるので驚いた。
セブンのあれやあれの味や妥当な価格を知ってしまうと食べてしまう。
知らなければ存在しなかったのに、知ってしまったら魅力にあらがえない。
長いことコマーシャルや広告、宣伝などマーケティング全般を意味がないと思っていた。
だって、CM(広告)を見て買ったことがほとんどないから。
そもそも現在では(宣伝媒体である)テレビも新聞も雑誌もほとんど目にすることがない。
おおやけの「正しい」(とされる)世間(社会)と通じているのはほぼネットだけだ。
ネットで個人的にすすめられているものは、
宣伝臭がしないので買うこともなきにしもあらず。
かといって、ブログのコメント欄で「あれはいいよ(買え)」と言われたら、
9割方その助言のあったがために買わないだろうけれど。

いま暇のある読書家がもっとも書籍を安価に効率的に迅速に買う手段は、
ブックオフオンラインだろう。
アマゾンは知っていても、ブックオフオンラインを知らない人は多い。
むかしは暇にまかせてブックオフ実店舗めぐりをしていたが、
(散歩気分の趣味としてはいいけれど)効率や経済を考えたらブックオフオンライン一択。
いやねえ、ブックオフめぐりや古本屋巡回をして、
ボウズ(収穫ゼロ)なのもそれもまたそれで味のあるいい想い出になるのではありますが。
ブックオフオンラインは安い、早い、きれい。しかし、本を売ると無料同然。
本来は書籍なんてゴミなんだから、
取りに来てくれる手間を考えると無料でも安いくらいとも言えなくはない。
新刊で本を買うと、
既得権益を持つ大手出版社や高学歴高収入の編集者のアガリ(収益)になる。
むろん、作者にも著作権料は行くだろうが、
そんなものは編集者先生に比べたら微々たるもの。
10年以上ブログに駄文を記しているが、
出版社さまや編集者さまにお声をかけられたことは一度もない。
ぶっちゃけ、小林拓矢レベルでも講談社から本を出せるらしい、のにもかかわらず。
うちよりもはるかに(主観では)レベルの低いブログ作者が
出版社から何冊も新刊を献本(プレゼント)されているという。

知らないものは存在しない。

三度もおなじことを粘着質にしつこいけれど、そのように自分をだましたい。
知られていないから、存在してもいない同様の存在なのだ。
ふらふら人生放浪をしながら時給850円の書籍倉庫にたどりついたとき、
そこにいる人たちの美しさに参ったものである。
美しいとは、かならずしも勤勉を意味しない。
勤勉な人も多かったが、そんな世間的基準を超えて、彼ら彼女らはそれぞれ輝いていた。
ベトナム人の留学生の子とおしゃべりをして、そんな世界があるのかと知った。
ネパールのあの人と対話をすることでわたしはどれほどのことを学んだだろうか。
わたしよりもよほど優秀な人たちがたくさん時給850円の書籍倉庫にいたのである。
決して数をかぞえ間違わない女性とか恐怖に近く驚いた。
1年半いていつか雑談したいと思ったが、かなわなかった。
辞める直前に高校生のお嬢さんがいるという噂話を耳にした。
リアルだなあ。なにもかもがリアルだった。近所の書籍倉庫は学校でした、大学でした。
あの職場で百人以上の人と人生交差したけれど、
百以上のことをわたしは学んだと思う。
彼ら彼女らが存在していることは、この目で見るまでは知らなかった。
最近、痛切にあの人たちと再会したいと思うけれど、
川を越えてあの職場を再訪してはならないのだろう。二度と逢えないからいい。
逢えなくても百人以上の人たちはわたしのなかに存在している。知ってしまった。
中年男にしてはセンチメンタルすぎるかもしれないが、
あの人たちのことを忘れることができない。
もう一度逢いたいけれど、逢えないのがいいのだろう。

あの書籍倉庫は新刊書籍および雑誌の流通が減少したせいか、
年々物量が落ちていたそうだ(=管理職以外の社員やバイトの稼ぎも激減)。
ブックオフオンラインやアマゾンもいいけれど、新刊を本屋で買うことも必要だ。
高身分の人にはぜひぜひお願いしますが、
スポーツクラブで身体の汗を流しながら新刊読書で脳の汗を流していただきたいです。
体験から知っているけれど、時給850円だと新刊で本を買えないのである。
そのせいか本を読む人はそんなにいなかったような気がする(よく知らないが)。
読書のおもしろさは知るまで存在しない。
おなじことが酒、ギャンブル、麻薬、男色、贅沢、貧困にも言えるのかもしれない。
わたしは煙草も競馬もパチンコも知っているが、おもしろくないと思った。
インドなんて麻薬天国だが、むかし3ヶ月旅をしたとき、
どうしてか麻薬よりも高額かつ希少な酒ばかり飲んでいた。
(国によって合法か違法か、
なにが「正しい」のかは異なろうが麻薬的な違法薬物体験は皆無)
大麻とか覚醒剤とか、ほとんどの人は知らない。知ればいいのかもわからない。
精神障害者も身体障害者も知的障害者も、知らないと存在しない。
知らないほうがいいこともあろうし、人生で知ることができることなどわずかである。
キャバクラは行ったこともないし、無料でも行きたくないけれど(時給500円でもいや)、
いざ強引に連れていかれたら夢中になる人もいるのかもしれない。
わたしがそうかもしれない。そうではないかもしれない。わからないってことさ。
朝日賞作家の山田太一氏が大好きだった笠智衆ではないけれど、わかりゃせん――。
なれるものならまっとうな社会人に近づくのもいいかなあ。
あんがい夢みたいなものから離れたほうが、夢に近づくのかもしれない。
夢なんてころころ変わるものだというのがおそらく「正しい」。
子どものころはプロ野球選手になるのが夢でも、
年齢とともに夢のようなものは変わっていくわけでしょう。
30過ぎたおばさんが夢はアイドルみたいなことを言っているのもかわいいけれど。
だれも読まないだれも買わない文芸誌に、
さんざん編集者に書き直しを命じられた作品を発表するのもいいいでしょうが、
そういう権威や名誉よりも経済面はギリギリでもしっかりしておいて、
ネットで表現したいことを書くというのもいまはありなのかもしれない。
どうせどっちにしろだれにもほとんど読まれないのだから。
むしろネットのほうが無料だし自由だからそちらのほうが影響力が高くなることもあろう。
資格っていったいなんだろう。
先日の二次面接で本社のお偉方から聞かれました。
「車は持っていますか?」
「いえ。ペーパー(ドライバー)です。でも(だから)ゴールド(免許)です」
そういえば履歴書には免許を所持していることを書かなかった。
これって嘘になるのだろうか? ともあれ――。
どうせペーパーだし、一字一句書くのもめんどうくさいという社会人失格だった。
運転免許なんたらAT限定でも、うっかり書き間違えたら、
履歴書は最初から書き直しでしょ?
履歴書を書きたくないから、いまの職場にとどまっているという人はあんがい多そう。

さっきまでメンバー申告書みたいなものを書いていた。
明朝やろうと思っていたけれど、今晩書いているところが社会人として一歩前進。
そこに趣味欄があり、レベルというのもあるのよ。
模範例には「趣味:剣道/レベル:二段」と書かれていた。
ここでわたしは社会人失格な遊びごころが出てきてしまう。
「趣味:読書/レベル:神」とか書いちゃったもん。いーけないんだ、いけないんだ。
もうひとつくらい書きたくなった。趣味は仏教。さて、レベルをどう書くか。
最初は菩薩(ぼさつ)と書こうかなと思った。
いやいや、いちばん下の地獄と書くのが「正しい」のか。
でも、いまの職場に雇ってもらえたのだから地獄はないだろう。
自分を正義と称して闘ってばかりいる阿修羅の境涯(レベル)ではない。
結局のところ「趣味:仏教/レベル:餓鬼」と書いた。
まあ、ガキだしねえ実際。正直者と言えなくもないだろう。
ひょっとしたらここで働きつづけていたらクレジットカードが取れるかな。
いまは社会的信用がゼロの人がよく持っているデビットカードしかない。
ネット通販はクレカでしょう? 
デビットカードだといちいちセブン銀行に入金しに行かなくちゃならなくて。

趣味はセブンイレブンも変わっていない。
池袋の西武にセブンのアンテナショップができたんだね。
名前は忘れたが、メロンパンのスティックみたいなものを買ったら、ほほうこれは。
500円もする「レンジで簡単 豚モツ鍋」も購入。
セブンの野菜ってどうしてこんなにおいしいのだろう。
新発売(では?)の「海老チリソース」はいま冷蔵庫で冷えている。
日本ハム製造だから、あるいはあるいは。
睡眠欲、性欲、食欲、飲酒嗜好、賭博趣味は履歴書めいたものには書けないよねえ。
いまそのなかで唯一市民権を得たのは食欲で、
「趣味はグルメ」は社会人としてOKではないか。
履歴書やそのたぐいの公式文書に
「趣味はSM」「趣味はパチンコ」とか書いたらどうなるんだろう?
個性的な人って評価されるのだろうか? 
まだまだ「趣味は仏教」くらいかわいいもんだ。そう思いたい。
ああ、こう書けばよかったのかな。「趣味:仏教/レベル:無宗教」――。
どこの宗教団体にも属していないくらいのレベル。
これが高レベルか低レベルかは見る人によって変わるだろう。
いまから修正液を使って書き直そうかな。
多くの人は勘違いしているけれど、矛盾しているほうが人間の「正しい」姿だと思う。
思想や信条が一貫している人間がすばらしいとみなされることが多いようだ。
でもさ、それは言い方を変えたらまったく成長や成熟をしていない人間ってことじゃん。
人間って年単位どころか月単位、
小さなことでは週単位、1日ごとに考えが変わるものだし、
むしろそれが人間味というか、そんなものというか、それが豊かであるというか。
どういうことかと言うと、
意見がころころ変わるのは嘘つきではなく、反対にそちらのほうが正直ってこと。
家族関係にはよくあるけれど、ある人を好きで嫌いというのはよくあること。
日によって好きになったり嫌いになったりする。
そういうふうにして関係性が深まっていくということもありうるだろう。

わたしだってむかしは親鸞をあがめていたけれど、
いまは親鸞は唯円あってのもので、あれは黒い子孫がつくった虚像だと思っている。
最初読んだとき法華経は大嫌いだったけれど、いまはおもしろいお経だと思っている。
法華経は嘘だらけの教えで嘘をついてもいいが主内容だが、
ああ、ここにはたしかに真理めいたものが書かれているというような気がする。
「真理なんてないこと」が真理という真理を法華経はうまく描いているとも言えよう。
この先、法華経を嫌いになるかもしれないし、それはだれにもわからない。
宗教がらみで言えば、創価学会は矛盾だらけだが、だから正義なのではないか。
世の中は無常でつねに変化するのだから、
教えも臨機応変に変わるのが「正しい」と言えなくもない。
「正しいことなんてない」という「正しい」真理を
いちばんわかっているのが学会かもしれない。
結果がよければそれは「正しい」。勝てば官軍。
「正しい」ことは行為をするまえにはわからず、結果がよかったらそれが「正しい」。
まあ、なにが「正しい」かなんかわからないのだから、ある意味でなにをしてもいい。
勝てばいいと言うがなにが勝利かは本人しだいという面もある。
創価学会のネットCMではないが、交通事故に遭って苦しみうめいたとしても、
本人が死ななかったのは信心のおかげで自分は勝利したと思えば、それは大勝利。

人間は矛盾していてもいいのではないか?
むしろその矛盾の激しさが器量の大きさというか、人間味に通じるというか。
ぶっちゃけ、いつもおなじことを言っている変わらない人とかつまらないじゃん。
「古いものはいい」というのも「新しものはいい」というのも、
どちらも「正しい」わけでしょう?
われわれは日によって古いものを買ったり、新しいものを買ったりする。
「古いもの好き」とか「新しいもの好き」とか、そういう傾向はあるでしょうけれど。
ひとつの「正しい」ことをがあると決めてかかる矛盾のない一貫性が、
あるいはマイナスになっているところもあるのではないか(プラス面もあろうが)。
うちのブログの過去ログを読む人なんかいないでしょうが、矛盾だらけてある。
だから信用できないというのも「正しい」が、
「本当のこと」を書いたらこうなるのではないか。

わたしは書いたことが顔に出るのではないかと恐れている。
空気が読めないというかアホやんかというか、
よくもまあ新しい職場に行く前日に指導者不要、
コーチ無意味のような愚かなことを書いたもんだと。
新しい仕事なんて先輩の同僚から教えてもらうしかないんだから。
コーチ不要とかこころのどこかで思っていたら、仕事なんてうまくいくはずはない。
やはり指導者やコーチのような存在は貴重で、やさしい先輩はありがたいものである。
まえに書いたことと矛盾していると言われても、体験を通じて考えが変わったのだから。
1日働いただけだが、なまじスポーツクラブに通うよりもカロリー消費が高そうな仕事。
もっともこれ以上身体的にきつく、賃金の安い仕事がいくらでもあることを知っている。
3月契約開始だと有休は年1日しか取れないが、
1年経つと年11日も有休を取れるのか。
休んでいてお金をもらえるなんてありなんだ。
ありがたい、ありがたい、この仕事を早く覚えて続けたいといまは心底から思っている。

おなじ師匠に30年尽くしていると言うと、その一貫性が怖くならないか?
いや、矛盾した師匠だったら30年、40年と指導に従えるのかもしれない。
今日書いたことも、今日のいまの真実で、
今後変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。わからない。
先のことは絶対にわからないというのは絶対的真理のひとつだと思う。
明日、東京大震災が起こるかなんてだれにもわからないことでしょう?
明日、だれかがかならず交通事故に遭遇するが、
その人は今日の段階でだれかはだれにも予測することはできない。
あんがい当人は「自分は絶対に事故なんか起こさない」
といまごろ湯船につかりながらのん気に思っているかもしれない。
「交通事故を起こすやつは注意力散漫で自己責任」
そう信じているかもしれないけれど、いざ起こしたら考えが変わることもあろう。
それが矛盾しているのかどうかは、あなたの体験した真実によって変わろう。
「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 心理学」(堀井俊章/PHP)

→メスってさあ、なんでアニマルなのに心理学なんかに興味を持つわけ?
一般的にオスのほうがアニマルとされているけれど、
学者の性別比率を見たら一目瞭然、メスのほうがアニマ~ルなわけ。
アニマルなメスは人間さま、
オスのことを知りたくて心理学に答えを求めるのかもしれない。
しかーし、心理学は役に立たない。
なぜならあれは通俗心理学というか、大衆心理学というか、多数派心理学というか、
一般的なオスの傾向はわかっても、あなたが知りたいオスのこころはわからへんがな。
人間は欲求で動くという説を打ち出したのはマズローだが、
どうしてこんなものが「正しい」かもわからずひたすらマズロー、
まずいまずいまずいのメス思考と言えなくもない。
マズローの妄想がいまでも大学(院)では真実として教えられているのかと思うと、
それはマズロー、マズロー、マズロー、いくらマズローでもまずかろー♪
まずったマズローによると人間の欲求は5段階のピラミッドになっているらしい。
下から順にそれはマズローと笑おう。
最底辺:生理的欲求→当方は三大欲すべてがぶち壊れております。
底辺:安全。安定の欲求→やばい経験をしたいから当方は生きているところがある。
平民:所属と愛情の欲求→女から愛され尽くされるのは楽しそうだが、所属欲求は……。
上等民:承認の欲求→小さな地方文学賞とか誇っている人は恥ずかしいっしょ。
貴人(奇人?):自己実現欲求→こういうのを目指すから落ちこぼれる下層民が出る。

オスといってもぜんぜん猛々しく雄々しい生命体ではないが、
明日からごやっかいになる新しい職場にはメスさまが複数おられる模様。
ああーん、いじめられたらどうしよう。
ぶっちゃけ、オスよりもメスのほうが怖いよーん。
なんて気持からメスが好きな通俗心理学の一般書を1時間で速読したしだい。
これでもう怖いものはないエッヘン。

「世捨て人のすすめ」(ひろさちや/実業之日本社)

→仏教ライターのひろさちやさんにわたしほど影響を受けている人がいるのかどうか。
ひろ氏の本を参考書として、長年仏教を独学してきた当方の結論を書いてしまおう。
最終回のようなものは必要でしょう? 翌週からパート2が放送されるとしても。
毎日、閉店セールをやっているような店を好む感情が
氏と我輩様に共通する感情かもしれぬ。
仏教の究極結論とはなにか? それは――本当にこれを書いてしまっていいのだろうか。
知らないほうがいいこともあるので、
やばい空気を察知なされた敏感なかたはここでストップを。
仏教の最高真理とは――。

☆    ☆    ☆    ☆

師匠よりも弟子のほうが偉いということ。
仏教の真髄は、師匠よりも弟子のほうが偉いことにある。わからないかなあ。
法然よりも親鸞のほうが偉いでしょ?
法然は理論で肉食や妻帯を肯定したけれど、死ぬまで清浄だったわけだから。
親鸞は法然の教えを実践化して、たぶん女も肉も食いまくったはず。
その親鸞なんかより千倍以上偉いとわたしが思っているのは唯円。
唯円は親鸞の弟子で国民的ベストセラー、わが国の聖書「歎異抄」の著者だ。
「歎異抄」の著者の唯円は師匠とされる親鸞に、
若いころ短期間おそばについただけ。直接会話したのも10回未満かもしれない。
唯円がこれが唯円の考えていることだと書いても世間は認めてくれないのだ。
世の中でもっともたいせつなのは権威(肩書、血筋、家柄、学歴)。
唯円は自分の信心を書いてもだれからも見向きもされないことを知っていた。
だから、権威のない唯円はこれは親鸞の教えだとうそぶいて「歎異抄」を書いたのだ。
しかし、それは親鸞の真っ黒い家系からは完全無視され、
それどころかおいしい部分だけ横取りされてしまうという悲惨な結果になる。
わたしは全人生体験を賭けて言うが、
弟子の唯円のほうが師匠の親鸞などよりはるかに偉かった――。

しかし、そんな本当のことを言っても始まらないというのは事実だ。
弟子のほうが師匠よりも偉いというのは、なかなかご理解いただけない発想だと思う。
繰り返すが、法然よりも親鸞は偉い。
なぜならタブーの肉食も女漁りも親鸞は平気の平左でしたからである。
イエスなんかも弟子の妄想だけでできあがった想像上の人物とも言えなくもない。
どうしたらわかっていただけるのか。
ユングよりも河合隼雄のほうが偉い、と申し上げてもダメだよなあ。
ユングの偉さを発見して真似をしないで、
自分が日本のユングになったのが河合隼雄だが。
これならおわかりいただけるか。
創価学会二代目会長でアル中だった戸田城聖よりも、
どっから見ても池田大作さんのほうが偉いでしょう?
じつのところ師匠を偉くしているのは弟子なのだが、
弟子はどうして自分が師匠よりも偉いと思えないのか。
わたしから見たら創価学会の上層部よりもはるかに末端の信者さんのほうが偉い。
弟子のほうが本当は師匠よりも偉いのに、
どうしてか弟子はある人を師匠としてあがめたがる。

個人的な具体例を身もふたもなく書いてしまえば、
売れっ子仏教ライターのひろさちや先生よりもわたしのほうが偉いでしょう?
だって、ひろさんは口だけだもん。口では「で・あ・い」とか言っている。
人生はデタラメだから、あきらめて、いいかげんに生きよう。
「デタラメ・あきらめ・いいかげん」の頭文字を取って「で・あ・い」。
けどさ、ひろ先生の人生を見たら、堅実というほかない、ちょーマジメな計画的人生航路。
本人はほとんど「で・あ・い」を実行していないのに、
読者にはおかしなことをすすめている。
わたしはバカ正直にもひろさちや先生の教えを信じて、
人生はデタラメだと悟り、
おかしな夢はあきらめて、
ほどほどいいかげんの人生を終えられたら、
という「世捨て人」体勢に入った。
そうしたら、どうしてか人生が少し上向いてきたような錯覚があるのだから。

そもそもお釈迦さまはひと言も書き記していないわけ。
ぜんぶがぜんぶ、弟子の聞き書き。
師匠がこう言っていたような気がするなあ、という。
いや、師匠がこう言っていたからおれは絶対に「正しい」みたいな。
仏教ってきっとそんなもんなのである。
どんなものなのかと言うと、「弟子のほうが師匠よりも偉く正しい」。
それぞれがそれぞれに釈迦の弟子を自称するとき「正しい」人になる。
ひろさんなんかより弟子の我輩のほうがよほど偉いのだが、
いちおう師匠めいた人の言葉を引用しておこう。
言うまでもなく、わたしなんかよりもこのブログの読者の解釈のほうが偉くて「正しい」。
「正しい」意見は弟子の数だけある。
どの意見もみなみな絶対的に完全に「正しい」。

「仏教は、決して教条主義の教えではありません。
それぞれの人が、それぞれに自分の生き方を見つける。
それが大事なことなんです。
釈迦世尊は、きっとそれを望んでおられます」(P6)


なんでみんなイチローが好きなんだろう?
わたしはイチローよりも清原のほうが百倍以上好きである。
あはっ、ひろ師匠の教えに逆らっちゃったかも。

「いま、アメリカの大リーグで活躍しているイチロー選手は、
日本のプロ野球のき球団に入ったとき、
その打法を変えるようにコーチ[師匠]から言われました。
コーチというのは専門家で、
専門家[師匠先生]は選手を弄(いじ)くり回すことを飯(めし)の種にしています。
しかし、[弟子の]イチロー選手は強い信念を持って、
そのコーチ[師匠]のアドバイス[指導]を拒否しました。
普通であれば、彼はそのまま消えてしまったでしょうが、
[運がよく]幸いに監督が彼を支持してくれたので、今日のイチロー選手があるのです。
われわれも、主体性・強い信念なしに専門家[師匠/指導者]に頼ってばかりいると、
専門家[名誉会長/幹部]に弄くり回されることになりかねません」(P42)


これをお読みになられた瞬間、
いや私は師匠に絶対服従すると誓いを新たになされた貴殿は、
当方と意見が異なるがゆえにそれもまた、
その個性的な意見ゆえに、とてもとてもどこまでも「正しい」ことこのうえない。
あなたはあなたのままでいい。

「プロ野球選手のうちには、監督[師匠]やコーチ[指導者]の
「期待」に応えようとするまじめな選手もいます。
しかし、まじめな選手は、監督[会長]やコーチ[幹部]が変わると、
新しい指導者の「期待」に応えようとして、個性を失うことが多いのです。
むしろ自分の欠点を売り物にした選手が、大物に育つそうです」(P199)


なら、おれはひろさちや先生の「期待」に徹底的に逆らってやる。
明日から社会人として世間常識には盲目的に従い、
決して夢をあきらめることなく、
いいかげんな手抜きなどいっさいしない人生を送ってやる。
ほうら、師匠よりも弟子のほうが偉い(え? え? え?)。

94年にNHKで放送された単発ドラマを視聴したのは去年だった。
シナリオで二度読み、どちらも感想を書いているから、
いまさら書くことは……と思っていたが、人は変わるから感想も変わる。
つまり、おなじものを見ても新しい感想は生まれうるわけだ。
「校則は校則だ」が口癖の「人情劇が嫌い」で「人間味あふれる先生なんて大嫌い」
な中年男性高校教諭がちょっと変わる話である。
既婚子持ちの人生に退屈した堅物の女子高教師が、
受け持ちの女子生徒の(校則では禁じられた)不純異性交遊(=デート)を認める話。
男の子とデートしているところを見つかった女子生徒は厳格な教師に言う。
「知らん顔してください」
「本当のこと言って、騒ぎにしなくても」
これに対して「校則は校則だ」と考えている中年教師は例外を認めようか迷う。

山田太一ドラマは海外で大々的に評価されることはないだろう。
なぜなら、氏のドラマは日本人以外にはわかりにくい人情を描いているからである。
人情を英訳するのは無理だと思う。
人情を欧米人に完全に理解してもらうのは不可能ではないだろうか。
これはこのドラマを見て、1ヶ月以上も考え続けた結果わかったことだが、
人情とはいわゆる「不正」のことだからである。
そのときの感情に動かされて「正しい」とされることを破るのが人情である。
「正しい」とされる「本当のこと」をあえて言わないのが人情だ。
損よりも得を選択するのが人間としては「正しい」が、
あえて損とも見える親切をすることが人情ということである。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

不正を描くのが山田太一の人情ドラマと定義されても困ると思う。
ちょっとした体験を語りたい。
先日、派遣でゴミを排出する仕事をさせていただいたのである。
人間味あふれる素敵な担当者さまから
ガラスを積んだ台車を建物から外に出してくれと指示がくだる。
わたしは大台車にガラスを積んだが平台車に積み直されている。
「絶対に割るなよ」とのお言葉をいただいた。
へえ、ガラスは大台車ではなく平台車に積むのが「正しい」のかと思いながら動かす。
道路には段差というものが存在する。車椅子が嫌うあれである。
段差でガラスが止まってしまう。ガラスの山積みが動かなくなってしまう。
そこで社員と思しき人が親切にも助けに来てくれる。
ありがてえと感謝。人間ってええなあ。
ふたりでガラスを動かそうとしているときに、どういうわけかガラスが割れてしまう。
社員さんはパッといなくなった。そこに先ほどの担当者さまが現われる。
「ほうら、だから割るなって言ったのにやっぱり割った」
とこれでもかというほど叱られた。
わたしは人情からうなだれ、無言でお説教を拝聴していた。

「正しい」ことを言えば、そうではないのである。「本当のこと」はそうではない。
ガラスはふたりで割ってしまったのである。
もしあのとき社員さんが来なかったら、わたしひとりでうまく動かせていたかもしれない。
ひとりでやっていても、どのみちガラスを割っていたかもしれない。
そんなことを言えば、担当者さまがやっていても割ったかもしれない。
大台車のまま運んでいたらガラスを割らなかったかもしれない。
「正しい」ことをあえて言うならばこうなる。
しかし、事実としてはわたしひとりが悪いことになり手厳しいお叱りを受けた。
人情として「本当のこと」は言えない。
わざわざ親切から助けに来てくれた社員さんがいたとは言えない。
彼がその場から離れたのも悪くなく、わたしが彼でも「逃げた」であろう。
あとで「ごめんなさい」とアイコンタクトを取って来てくれたし恨みもなにもない。
あの人は善人っぽいからあとで「本当のこと」を担当者さまに白状したかもしれない。

このいわゆる失敗体験が山田太一ドラマを理解するうえで大きなとっかかりとなった。
人情とは「不正」のこと。「正しい」ことをわざわざ言わないのが人情。
派遣先で昼食代を出されることなどありえないが(絶対にないと思う)、
担当者さまのご好意でその日も(2回目だった)わたしはお昼代をいただいていた。
その日かぎりの派遣に契約にない昼食代を払うのは、「正しい」ことではない。
損得で考えたら損になる、こういうことを人情と言うような気がする。
それを言えば賄賂(わいろ)も人情だが、わたしは賄賂こそ人情だと思う。
「正しい」ことではないけれど、「正しい」ことばかりでは生きていけない。
「不正」は人情として必要悪というか、
むしろ生きる方便というか、そこに人間味があるというか。
「正しい」ことならロボットでもコンピュータでも識別できるのである。
あえて「正しい」とはみなされないことをやるのが人間味であり人情だ。

この日、わたしだって「正しい」ことを言えばいくらでも言えたのである。
あのガラスを割ったのはふたりで作業しているときだった。
そこまで怒られる理由はないのではないか、等々。
しかし「正しい」ことをわたしは言わなかった。
なぜならそのMさんという担当者のことがなにより好きだったからだ。
思わず激怒してしまったのが、こちらにもわかるのである。
怒ったことを後悔していることが見て取れて当方も気まずい。
あんがいあの社員さんが正直にふたりで割りましたと報告したのかもしれない。
「正しい」ことがなんになろう? 「本当のこと」がなんになろう?
わたしのこの日の日給は8千円程度だったが、
反対に社会勉強代金を支払ってもいいとさえ思ったくらい大発見をした1日であった。

「人情=不正」

人情を描くのが山田太一ドラマなら、アンチ人情=正義も登場させなければならない。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

末端の教員や警察官のような
職務として「正しい」ことを言わなければならない立場はしんどいのである。
このドラマでも言われていたが、
温泉場に行って暴れたりタオルを持って行ったりするのは、
決まって先生と言われる商売や警察官のグループなのである。
あんがい「不正」とされるヤクザ集団のほうが温泉宿ではおとなしい。
「正しい」ことを言うのは辛いが、だれかが「正しい」ことを言わなければならない。
だれも「正しい」ことを言わなかったら、グダグダになってしまう。
世の中が不正天国、賄賂饗宴になってしまう。
しかし、「正しい」ことばかり言っていると「生きとってもつまらん」と思うようになる。
けれども、「正しい」ことを言う人は必要だ。
山田太一ドラマ「なんだか人が恋しくて」はこの矛盾をうまく描いていたように思う。

わたし個人としては「不正」はありだと思う。矛盾したことを書くが、
集団の「正義」なんかよりも個人の「不正」のほうがよほど「正しい」と思っている。
わたしは「不正」を発見しても自分の巨額の損にならないならば見て見ぬふりをする。
社会的に「正しい」ことをなるべくなら言いたくないという気持が強い。
正義派ぶって徒党を組んだりしているやつらを見ると虫唾が走る。
ここまで書くと精神病を疑われかねないが、
被害者が自分の周囲の人間ではないのなら犯罪者さえそこまで悪いとは思わない。
犯罪者の「不正」を正義派ぶって断罪する人だって、
いざその人とおなじ生育環境、社会的立場に追い込まれたら、
おなじことをやっているのではないかと思う。
わたしが犯罪者のような劣悪な社会的環境に置かれたら、
もっとひどい犯罪をしていたのではないかとさえ思うくらいである。
どうしてそういう不適正な思考をするようになったかと言えば、山田太一ドラマの影響だ。
氏のドラマには「人間なんてそんなもん」「世の中そんなもの」というセリフが頻出する。
「正しい」ことばかりしていたら生きていけない人がいるわけでしょう。
勇気がないばかりにいわゆる「悪いこと」をできない人たちが、
善良な人のふりをしてクソにもならねえ「正しい」ことを言っているような気がしてならない。

「山田太一ドラマ=世の中も人間も、そんなもんだって」

しかし、わたしは世の中がそんなものではないことを知っている。
しかし、わたしは人間がそこまで堕落していないことを知っている。
これは山田太一ドラマに教わったというよりも、
いろいろな人をこの目で見た当方のリアリティである。
山田太一ドラマも描いていることだが、世の中も人間もそこまで腐っているわけではない。
むしろ根性が腐っているのは山田太一氏やわたしのほうなのかもしれない。
いやいや、正義の朝日賞作家を自分などと同列に置いてはならない。
たましいが腐っているのがわたしという人間なのだろう。
ゆがんでいる当方だから
気づいた「人情=不正」という真実を最後に繰り返し強調しておく。
「校則ではそうなっているけれど、今回だけ見なかったことにする」のどこが悪いのか。
「それは法律ではいけないけれど、人としては許される」行為はいくらだってあると思う。
なんで校則や法律がそこまで「正しい」のかそもそもからしてわからない。
しかし、わたしも表面上は社会人としては「正しい」ふりをする。
そうしないと食っていけないからだが、この「正しい」素振りを「不正」と言われると困る。
個人的な真実としてはケースバイケースで「正しい」ことは変わると思う。
臨機応変にそのときその場の「正しい」ことを判断できるのが「正しい」社会人だろう。
上司は立場上ミスは報告しろと部下に言うが、報告されたら困るミスもあるのである。
このあんばいをうまく判断できるものが上司から気に入られるのではないか。
山田太一ドラマは本当に奥深い。
「光と影を映す だからドラマはおもしろい」(山田太一/PHP研究所)

→NHKのBSで放送された2時間インタビューの書籍化とのこと。
いったいNHKとPHP研究所、パナソニック、経済上層部、
それから表には出にくい各種宗教業界の裏の関係はどうなっているのだろう。
いまのテレビというのはほぼ利権だから(番組に商品を出したら売れる)、
あれは見れば見るほどうっとりした気分になれる幸福製造機と言ってもいいだろう。
いまは有名人や富裕層の子息しか入れないとも言われるテレビ業界だが、
むかしはそうではなかった。むしろ、映画業界から鼻で笑われていた。
業界の大御所で小林秀雄賞作家、朝日賞作家、
お子さまふたりもおなじ映像業界で華々しく活躍する人格者の著者はこう証言する。
テレビ業界のゴッドファーザーとも言うべき存在のお言葉は重たい。

「テレビ界に入っていったときは、局の人たちが「映画とは違うことをやろう」
という意気込みにあふれていて、ものすごく活気がありました。
局の人といっても、局の生え抜きというより、
映画畑にいた人が引き抜かれたりしていましたね。
しかも、映画みたいに時間がかからずに一本の作品がつくれるから、
少々実験的だったとしても、あまり文句を言われず、
とにかく、みんなが「なんかやれる! なんかやれる!」って、
テレビの可能性を切り開いていった時期だと思いますね」(P16)


いまテレビ局に入るのはブランド目当ての成功者の子どもが多いと聞く。
本人は自力で入社したと思っても、そうとうにコネが働く業界というものがある。
それが悪いというわけではなく、世の中そんなものなのである。
さてさて、そういういまのテレビ局に果たして活気なんてあるものだろうか?
製作した自分たちも軽蔑するようなものを垂れ流しているだけではないか?
そもそも製作さえほとんど外注しているのが現在のテレビかもしれない。
批判しているわけではなく、それが視聴者の求めるものなのだから悪くない。
既得権益で窒息寸前のテレビで
いまさら「なんかやれる!」と思っている人は少ないだろう。
ただし、見かけのうえでおいしい思いはできるだろうから
テレビはラジオのようにはならない。
テレビは永遠に下層の幸福製造機としての意味を持つと予測する。
むかしのテレビに匹敵するのがいまのインターネットである。
山田先生のお言葉を少々書き換えたら――、
「いまのネットはテレビみたいに時間も金もかからず、
口うるさいスポンサーにもあれこれ言われず一本の作品がつくれるから、
少々実験的だったとしても、あまり文句を言われず、
とにかく、みんなが「なんかやれる! なんかやれる!」って、
業界の可能性を切り開いていっている時期だと思いますね」――。

じつのところ、この新刊ははじめてアマゾンで買ってみた。
むかしから新刊は立ち読みしてから買うと決めていたが方針を変えたのである。
おなじシリーズの「井上ひさし」を読んでいたから(このシリーズは内容が薄い!)、
立ち読みしたらその場で30分もかからず読了してしまうことに気づいていたこともある。
リアル本屋でこの本を手に取ったらその場で読んでしまい買わなかっただろう。
むかしアマゾンで古本を買ったときの200円クーポン券を使いたかったので、
生れてはじめて外資のアマゾンから日本の新刊を買うにいたった理由である。
欠品はないし郵送は速いし郵便ポストに入れてくれるので便利。
一度アマゾンを利用したものなら、
近所の小型書店で本を注文したりはしなくなるだろう。
この「一度」が肝心で、しつこいがこの「一度」の習慣を変えさせることに
どの業界も必死になっているのだろう。

むかしの山田太一ドラマを一度でも見たら(好き嫌いはわかれようが)、
さすがにいまのテレビは見(ら)れなくなってしまう。
当方だってそうで、ネットしか知らないで気味悪がっている人もいるでしょうが、
実際に対面してみたらちょっと世の中を舐めたところのある老け顔のおっさんだ。
「一度」の習慣を変えさせるのがどれほど難しいか?
テレビ局といった大企業は
むかしから高学歴者や有名人の子息を優先的に採用してきたから、
慣習を「一度」壊したらすべてがボロボロになってしまいそうで
最初の一歩に踏み出せない。
うちは実名ブログだが、社会上層はネットの匿名性とか無検閲とか怖すぎるでしょう?
いちバイトがたとえ匿名でも知りえた大企業の裏の秘密を公開したら、
株価の関連で日本経済どころか世界経済が瞬間的に動くわけ。
一夜にして大損害やトップ交代、それどころか最悪の倒産もありうる。
書くなと言っても世間を知らないバカバイトは本能的につぶやいてしまうわけだから。
新聞も出版もテレビも検閲できるが、インターネットはいまだ無法地帯である。

いまの時代に山田太一が青年として生きていたら、
絶対にテレビではなくネットに行くような気がする。
いま若僧がテレビの世界に行っても、よほど強烈な支持者がいないとなにもできない。
とはいえ、あまり知られていないが、
山田太一成功の秘密はバックに木下恵介という映画監督がいたことなのだが。
世間はバック(ケツ持ち)が勝負を決めると言ってもいい。
世の中には裏というものがあるが、
著述業者は裏のことは知っても最後までは書かないのが流儀だろう
(書いてもどうせ校閲および編集で消されるのを知っているからみなそもそも書かない)。
テレビライターの山田太一さんは世の中の裏という裏を知り尽くしているだろう。
芸能界なんてヤクザそのままの世界だから山田太一が口を割ったら地獄絵図になる。
みんなの「夢(笑)」が台なしになってしまう。
しかし、山田太一は本当のことは絶対に書かない。秘密は墓場まで持っていく。
オフレコもほとんどやらない。なぜそんな難業ができるのか? 
嘘を書いているからである。
ドラマ、芝居、小説といったかたちで嘘を書いているから山田太一は本当につぶされない。
本当のことでも嘘として書いてしまえば人に迷惑もかけないし社会的制裁も受けない。
以下は世の中の裏表、本当のことを知り尽くした作家のフィクション論だ。

「フィクション、つまり、嘘だから描けるというものがあるんです。
嘘なら殺人でも描ける。本当は自分のことであっても、
「隣の旦那はね」と言うと、話しやすいじゃないですか。
そういうふうに、嘘が必要なんです。
つまり、真実を書いてしまったら身も蓋(ふた)もないのであって、
本当のことを言うために「嘘の装置」が必要なんです。
フィクションは、「モデルはいませんよ。誰のことでもありませんよ」
という前提があるから、孤独な心でも、悪意でも、嫉妬でも、
[大企業の悪事といった社会不正も]かなり立ち入ったところまで描ける」(P126)


大作家の山田太一氏と自分を比較するのは非常に恐縮だが、
わたしも意外と秘密は書いていない。
宗教ネタとか、いろいろやばいことを書いているように見えて秘密は保守しているつもり。
わたしと実際に逢った人は想像以上に(ネットの)口が堅いので驚かれると思う。
かといって本当のことを書いていないかといえばそうではなく、
べつの(嘘とも言われかねない)かたちで知りえた本当のことを書いているつもりだ。
シナリオ・センターのあれは人生で一度しかできない博打(ばくち)だから。
あれは書かなければ気が済まず、社会的に死んでもいいと思って書いた本当のこと。
あんなことを人生で何度もやれるほど体力も精神力もない(と書いたら舐められる?)。
書いたらある企業が大ダメージを受ける秘密などいくらでもあるのである。
そのうちひとつふたつならばわたしでさえ知っているくらいなのだから。
そういう本当のことを書きたくなったら嘘の形式で表現すればいい。
山田太一ドラマが嘘にもかかわらず本当よりもリアリティがあるのは、
こういう事情があるからだろう。
嘘(ドラマ)に書かずにはいられないほど本当のこと(世間の裏)を知ってしまった。
ヤクザなことを言えば血縁が映像業界にいたら、へたなことを言ったら親子共倒れになる。
業界の掟(おきて)を破ったら1%の確率で大変革が起こるが、
99%は一族郎党全滅に終わるのが現実というものだろう。
最近、山田太一先生の息子さんのお顔やらなにやらをネットで知った。
「恥かきっ子」なんて言葉はいまの若い人は知らないだろうが、
業界の大御所の息子さんはわたしのたった2歳上なのである。
無名の当方は76年生まれで、イケメンで業界実績多数の石坂拓郎氏は74年生まれ。
なにもかも負けたと思った。完敗である。
おのれの人生の失敗を深々と思い知らされた。
しかし、そういうマイナス体験も悪くない、
と撮影監督の石坂拓郎氏のお父さまはおっしゃる。
イケメンの業界人を息子として持つ社会的成功者はマイナスもまたいいと言う。
本当のことを知り尽くした有名人が、
名もなき下層民を慰めるためにこういう嘘をおっしゃってくださっていると思うと涙が出る。

「ぼくらは、マイナスなことにずいぶん気持ちを育てられていると思うんですね。
だから、失敗も、それは「一個いただき!」と思ってもいいくらいなんです」(P131)


これは嘘くさいが本当のことだとわたしも人生経験から思う。
失敗は「一個いただき!」というプラスの体験と言えなくもない。
成功したって後にはなんにも残らないわけ。
ミスをすると、ガガーッと人生がわかるようなところがある。
社会勉強とかいうけれど、言い換えたら失敗をするってことでしょう?
社会的大成功者でお子さんも成功させた山田太一氏は、
いまのご自分に満足しておられるのか。
危ない本当とも思えないことを氏は口にしているのである。
破綻のない成功者として老年を終えようとしている国民的ドラマ作家は言う。

「老年になってから、自分がめざしたものを誤解していたとか、
自分がめざしていたものが嫌いだったんだって気がつく人だっている(笑)」(P90)


人は変わるからねえ。
若いころは名声や富、権力にあこがれていても、
老年になったら逆にそういうプラスのものにうんざりすることもあろう。
高級懐石料理なんかよりも若いときの空腹のカツ丼いっぱいのほうがうまいわけでしょう。
有名人になって周囲から本音か追従かわからぬ賞賛をあまたされるよりも、
無名時代に「あなたの書くものはおもしろい」とほめられた感動のほうがよほど深いだろう。
権力なんて持ったら持ったで、実相は人に恨まれる要因と言えなくもない。
権力者がだれかを――たとえば俳優でも――持ち上げたら、
無視されたほうはかならず(抜擢された役者よりも)権力者を執念深く恨むものなのだから。

本屋で立ち読みしていたら、こうまで怨念のこもった感想は書けなかったと思う。
アマゾンで本を買うのもまたいいものである。
本書は20分でも読めそうな薄手ながらじつにいい本であった。
上のほうのお子さまはテレビをつくるがわにまわり、
下のほうのガキンチョはテレビにだまされるがわにまわる。
とはいえ、どちらが幸福かは本当のところわからないのだろう。
いくら当方が実名でメールをしても絶対に返信をくださらない、
ネットでは有名らしい山田太一信者の自称弟子みたいな匿名の老人がいるけれど、
毎日テレビばかり見ているようで彼こそいろいろな意味で幸福な人だと思う。
いつか再会したらお名前と処世術、テレビの見方をうかがいたいと思っている。

「物語と科学」(河合隼雄/「河合隼雄著作集12」/岩波書店)

→本日まさに人生の大きな(ちっぽけな?)転機を迎えたが、
河合隼雄の言(げん)を借りるならばすべてがアレンジメントされていたとしか思えない。
ここ15年以上のことがすべてアレンジされていたという病的妄想をいだく。
アレンジメントとは、フラワーアレンジメントという言葉で
イメージするのがいちばん日本人にはわかりやすいのでは?
アレンジメント――美しく飾られている、荘厳されている――
配列、配色、手配、準備――第三者(神仏)によるおはからい――
ドラマでいうならば脚色、翻案、ドキュメンタリーでいうならば仕掛け、ヤラセ。
本日手取りにしたら15、6万(詳細不明)の常勤の職を得た。
これだけ読むと、大したことはないでしょう?
うちのブログ読者には当方の2、3倍の手取り収入を得ながら不満顔のものも多いはず。
わたしは今日このアルバイトに採ってもらえて大喜びしたけれども。

河合隼雄は魚を釣ったときの報告で物語論をわかりやすく解説する。
「海へ行きました。体長23センチのタイを釣りました」
これは事実には違いないが、まったく人のこころを動かす報告ではない。
それがこういったらどうなるか。
「もう年中暇なし、1ヶ月ぶりの休み。その日は絶対釣りに行くんだと決めていた。
そうしたら天気予報は大雨。泣く泣く当日を迎えたら、これがどうしたことか快晴。
魚? 釣れたよ。こーんなに大きな(手で示す)タイが釣れた」
これはおなじ事実を報告していても、人のこころを揺り動かすわけでしょう?
物語学者の河合隼雄は、このような形式で事実と真実の相違を説明している。
一部、読者さまの便宜のためにわかりやすく改変したが、
物語とはそういうものだという実践をしたまでだ。
上記のわが説明のほうがわかりやすいという気もするが、
物語学者の河合隼雄先生の証文も引いておこう。

「……私はよく言うのですが、私は釣りが趣味でものすごい大きな魚を釣った。
体長何センチの魚を釣ったという事実ではなく、私の心のなかの感動を語りたい、
私の気持を語りたいという場合に、
魚の長さをどのくらいに表現するかは非常にむずかしいことです。
「海へ行きまして、体長二三センチの鯛を釣りました」と言えば、
「ああ、そうですか」と終わりになります。
ところが「こんなん釣った」とか、ちょっと手で示した幅を動かしたりすると、
向こうの心もそれにつれて動いてきて、
おれも釣りに行こうかとその人が思ったりする。
ただし、このぐらいの魚を釣って、とあまり大きすぎる話をすると、
相手は「かたられた」ということがわかってきます。
その場合は「だまし」になりますね。
つまり「語り」にはつねに「だまし」がどこかに入り込んでいるところがおもしろいのです」(P10)


事実報告は数字的実証的なものもあるけれど、
「語り」や「だまし」になることも少なくはない。
わたしは個人的に仏教を独学してすべては嘘ではないかという気がしている。
とはいえ、現実社会を生きるうえではやはり本当か嘘かは見分けられたほうがいい。
天才的なうそつきの河合隼雄は本当と嘘の見分け方をこう教えている。
詐欺師が教える秘伝テクニックのようなものだから、
これはあるいは正真正銘の本当かもしれない。
ぶっちゃけ、こんなことを読者に無料で教えるブログなんてほかにないと思う。
まあ、わたしも他人からいろいろ無料でお世話になっているから、
ぜーんぜんもったいなくない。

「その人が言うことが本当か嘘かをどうして見分けるかはむずかしいですが、
ある程度見分ける方法があります。
それは一対一で聞くと、本当に体験した人のほうが何か迫力があります。
腹にずっしり応えるものがあります。
つくり話のほうは、そこいらで見てきたようなことを言うので、あまり腹に応えてこない。
そういうことが言えるのではないかと思います」(P117)


そうだとしたら、もし河合隼雄のいうことが「正しい」のならば、こういうことがいえる。
嘘でも本当のことを書くことができる。
いまはコンプライアンス(法令順守)やプライバシーの問題があって、
なかなか本当のことはおおやけには表立って書けないでしょう?
いや、明日死んでもいいと思えば、いくらでも本当のことを書けるが、
みながみなそういう無鉄砲な人種ではない。
やはりお世話になった人にご迷惑をかけるようなことはできない。
そういうことは黙して語らずでいいのか? いな、嘘で書けばいい。
嘘のかたちで書いたとしても、
それが本当に裏打ちされているならば読者はそこにかならず真実を読み取ってくださる。
事実そのままではないのだろうが、これは作者の本当の体験が入っていると通じる。
この意味において「本の山」は嘘ばかりだが(ごめんなさい)、
本当に本当のことを書いているという自負もなくはない。

河合隼雄はユング研究所の卒業試験でノートを忘れたことに気づく。
試験官は大嫌いな女性分析家のJ女史でノートそのままに答えようと思っていた。
どうしてノートを忘れたのか河合隼雄は考えるようなことをしない。ただ感じる。
「これは何か意味のあることが起こるぞという予感のようなもの」をいだく。
案の定、卒業試験では試験官のJ女史と大喧嘩をしてしまう。
女史のみならず周囲もふたりを円満に解決させようと尽力したが、どうにもならなかった。
弟子であるはずの河合は師匠身分のJ女史に逆らいつづける。
河合を合格にするか落第にするかで上もだいぶもめたらしい。
中年以降の河合教授は計算高く、だれとも喧嘩をしなかったが、
ユング研究所の資格を得られなかったらなにものでもない無名の河合青年は異なる。

「自分は自分としての生き方があるので、それを認めるのではなく、
単なるお情けで資格を呉(く)れるなら、そんな資格は要らない、と言った」(P206)


生意気な自信はあるが、わたしが河合青年だったら折れていたかもしれない。
当時海外留学を1年のばすといったら日本円にしていくらかかったのか。
河合には妻子もいたし、そもそも上に逆らったら研究所から追放されかねない。
結局、どうなったか。ユング研究所が折れたのである。
敗戦国で島国の無名のカワイという青年の主張もまた「正しい」ことを認めた。
最後にJ女史と河合隼雄は和解したという。
河合隼雄の卒業記念パーティーにJ女史からこころのこもった贈る言葉が届いた。
河合はこれらすべてがなにものかに巧妙に仕組まれたものではないかと思う。
すべてのことがあまりにもうまく「出来ている」からだ。
河合はユング研究所の恩師にこのことを報告する。
師はいう。「まったくうまく出来ているね」
「ところで、そのすべてをアレンジしたのはだれなんだろう」
「私でもないしおまえでもない。
ましてJでもなく研究所が仕組んだものでもない」
河合が答えられないと、先生は自問するかのように繰り返した。
「いったいこれをアレンジしたのはだれなんだろう」
ふたりは無言で微笑しあった。

「これに何と答えるかはあまり重要でないかも知れない。
大切なことはこのようなアレンジメントが存在すること。
そして、それにかかわった人たちがアレンジするものとしてではなく、
渦中のなかで精一杯自己を主張し、正直に行動することによってのみ、
そこにひとつのアレンジメントが構成され、
その「意味」を行為を通じて把握し得るということであろう。
このことを体験に根ざして知ることが、
分析家になるための条件のひとつででもあったのであろう」(P208)


どうして日本からの留学生、河合青年がその日にノートを忘れたのかはわからない。
いったいどういうわけであれだけ調子のよい八方美人的な河合隼雄が
卒業検定で上と大喧嘩したかもわからない。
だれにもわからないけれども、本人になら少しばかりわかっていることがある。
河合隼雄は西洋帰りのハイカラ学者のようにカタカナは偉いとは言っていないことだ。
ほうれと水戸黄門のように
カントやニーチェ、アドラー、ラカンという印籠を差し出したわけではない。

「ところで、一九六五年にスイスより帰国以来、
私はもっぱら日本人としての自分の生き方、
およびクライエントの人たちのそれにかかわってきて、
なかば意図的に外国との接触を断ってきた。
ユングの述べたことを「正しい」こととして日本人に適用するのではなく、
ユングが生きたように、自分の無意識を大切にし、
それとの関係から生まれてくる自分の物語を生きようとしたのである」(ix)


かりに卒業検定で河合がユングという当時の西欧権威に負けていたら、
氏はユングの教説を絶対正義のように日本で説いたことだろう。
河合隼雄が八方美人をやらなかったら、日本文化はどれほど破壊されていたか。
しかし、これをアレンジメントしたのはだれかはわからない。
小さな近所のアルバイトにひとつ受かったくらいだが、
今日アレンジメントということを強く感じた。
あのときあの人と逢っていなかったら、
こうなっていなかったという裏側に恐怖さえおぼえる。
去年大好きな書籍倉庫バイトで古株のおじさまパートを当方の不手際から怒らせ、
胸倉をつかまれるようなことがあった。
これはいったいどういうアレンジメントなんだろうと河合隼雄信者は当時思った。
そのおかげで派遣放浪に出ることができ、
遺品整理屋というレアな仕事をしている人とわずかながら対話をすることができた。
小売業界の裏側ようなものも垣間見ることができた。
そのときの派遣仲間からは書物ではわからぬことをいろいろ教えていただいた。
あのときのスギさんはわたしの師匠といってよい(あっちは認めないだろうが)。

その後もなにかにアレンジメントされたかのように、
本人は「ゴミ屋」と自嘲していたが、
派遣先で廃棄物産廃業者のかたと対話して学んだことも多い。
そして今日また新たな転機があったわけだが、
いったいこれらをアレンジしたのはだれなのだろう?
むかしは日蓮系巨大団体を疑ったこともあったが、それも少しはあろうが、
この偶然の荘厳な配列を考えるとかならずしもそればかりではないはずである。
病的妄想に近いが、逢う人、別れる人すべてが
アレンジメントされているような気がしてならない。
人生は自力でもなく他力でもなく、いや自力でもあり他力でもあり、
結局のところアレンジメントというカタカナがかなり本当に近いのかもしれない。
恋愛や結婚にあこがれている人も少なからずいようが、
アレンジメントを考えてみるのも一興だろう。
どうしてこんなやつを好きになっちゃったの? というのはアレンジメント。
出逢いのないことに悩んでも仕方もなく、それはアレンジメント。
そういうさみしい人のまえにいきなり魅力ある異性が現われることもあるが、
それもまたアレンジメントというほかなく、自力とも他力ともいえようが、
「正しい」表現をしようと思ったらアレンジメント。
恋愛のアレンジメントは強烈だが、別れるときにそのぶん苦しむのかもしれない。
河合隼雄は女性クライエント(相談者)からもてただろうけれど、
感情転移だと理解していたから嬉しいどころか迷惑さえ感じていた可能性がある。
それでも河合隼雄は恋愛を否定していない。

「事実、皆さんは自分の体験を思い出していただくとわかりますが、
異性の誰かを好きになった場合には、確かに全く普通と違う感じになりますね。
あの人に会えると思うと、二時間や三時間ぐらい待っていてもいいとか、
あるいはあの人がにっこり笑うかもしれないと思えば、
いままで嫌いだった数学でもやってみようとか、そういうことが起こると思います。
高等学校のときに、いままで歴史が嫌いだったけれども、
ハンサムな先生が出てきた途端に歴史ばかり勉強したとか、
つまりその人が喜ぶということが自分にとってすごい感動を与えるわけです。
そして、自分でも途方もないことをようやったなというほどやったときというのは、
大体恋愛のときだと思われませんか」(P143)


河合隼雄は書いていないが、恋愛というのは両想いではなく片想いでもいいのである。
いったい幾人の女性クライエントが河合隼雄に片想いをして治っていったことか。
何人の男性クライエントが実績もない若い女性カウンセラーに恋をして発奮したことか。
本当のことを書くと、恋愛的要素はカウンセリングには不可欠だが、
どちらがいいのかはわからないということである。
クライエントはカウンセラーに片想いをしたほうが先生のためにがんばろうとなろう。
しかし、カウンセラーに恋をしてしまうと、ある段階で自分から回復を止めてしまう。
なぜなら完全に治ってしまったら、
もう片想い相手のカウンセラーに逢いに行けないからである。
じつのところ、河合隼雄にはヤブ疑惑がある。5年も10年も治らない患者が大勢いた。
それがいいのかよくないのかわからないのである。
河合隼雄くらいの有名人なら、客(相談者)の回転を速くしたいだろう(予約待ち行列)。
しかし、町の開業カウンセラーの場合、あまり早く治られると商売にならない。
河合隼雄も書いているが、たまに一発で治るクライエントもいるらしい。
そういう奇跡が起こることもなくはない。
異性に恋をしてその勢いで行動化して(いわゆる治癒にいたり)、
そのこと(片想い)を理解したうえで、
相手の迷惑を考えうまく異性から離れるクライエントは天才だろう。
こうなったらカウンセラーが天才なのかクライエントが天才なのか、
もうなにがなんだかわからない。
わたしは河合隼雄は好きだが、カウンセラーにかかったことも逢ったことも一度もない。
カウンセラーの真似事をできるともさらさら思っていない。
ただし一瞬の恋心を瞬発力にしてポンと浮かび上がることはありうるような気がする。
まあ、われわれにそういうことがあるかどうかはアレンジメントしだいだろう。
河合が日本の師匠と尊敬する明恵上人の好きだった言葉、
「あるべきようは?」の意味は「アレンジメントはどうなっているか?」だと思う。

自利と利他という言葉がございます。
浅学の身ですから間違っていることもございましょうが、
自利は自分のため、利他は他人のため、という仏教用語であります。
利他(他人のため)は偉いという社会通念、世間常識がございます。
自利行為は利他行為よりも価値が低いという世間一般の見方でございます。
この風潮にかすかな疑問を愚かな当方は感じてしまいます。
利他は善ではなく偽善ではございませんでしょうか?
他人のことは徹底的にパーフェクトに完膚なきまでにわかりません。
他人のことはわからない。それなのにどうして利他なんて可能なのでしょうか?
なにが他人にとって利であるかなんかわからないのが本当ではありませんでしょうか?
自利(自分のため)はカタカナではエゴイズムなどと言われ嫌われることが多いです。
どうして自利はこうまで大乗仏教的に嫌われるのでしょうか?
戦後混乱期に多くの奇人が自利を求めて投機的経済活動をしたから、
いまの日本の繁栄があるのでしょう。
企業の目的は利他(社会貢献、お客様の笑顔)ではなく、
自利(収益アップ、ライバル企業の倒産)ではございませんでしょうか?
利他のなにがいけないと言ったら恨みがましくなること。
おれはあいつにこんなだけしてやったのに、やつときたら忘恩の徒だ。
利他を利他と意識してひんぱんに利他行為をしていると人を恨むようになりましょう。
ブログ「本の山」は99%自利行為です。自分のために書いています。
けれども、「本の山」に助けられた学生さん、社会人さんは数知れないでしょう。
ブログを利他でやっていたら恩返しを求め、
それが得られなかったら不遇感をいだくのですが、
こちらは自利ですから他者からの利他行為はほぼ期待していません。
こういう自利的利他行為がラッキーにつながるような気も最近はしています。
演劇は自利と利他の複雑な関係を象徴しています。
お芝居は自利のためにしているのに(自分たちが楽しみたい)、
あたかも利他行為(お客さまのために)のようなふるまいをするでしょう。
あんがい利他ぶる行為ほど自利で、
自利でした行為ほど利他になるのかもしれません。よくわかりませんけれど。

このブログは自利(自分のため)99.99%で書いています。
ですから、わたしにとって利益と一般に思われるような利他的リアクションは大歓迎です。
なぜなら、うちはめったにない自利追及のブログだからであります。
おなじものをどう見るかで「正しい」解釈がわかれよう。
どちらも経験はないのでよくわからないが、
SMプレイとDV行為はおなじような気がしてならない。
双方が納得してうまくいっている主従関係は良好なSM。
どちらかがノーと言ってしまったら、それがDVになるのかもしれない。
相手方はいまだにSMをしているつもりで、
片方はDV被害だと訴えるケースもなかにはあるような気がする。
創価学会が好きな師弟不二って、あれはいまで言うパワハラでしょう?
師匠からいじめられて快感に打ち震える被虐嗜好体質のものも少なくないのだ。
パワハラをしている当人は好意から相手を鍛えているつもりかもしれない。
本人もやりたくない師弟不二を相手のためを思って実践していたら、
いきなり愛弟子からパワハラで訴えられたらたまらない気持がするだろう。
いじめられている羞恥にまみれた美少女は世界一かわいいと思うけれど、
自分はいじめたくない(自分の手は汚したくない卑怯者ゆえ)。
タカビーな女子に振り回されたら快感だろうと妄想するが、
いざ現実にされたら無視するような気がする(殴るまで相手に情熱を持てるかよ)。
DVとかSMみたいな濃い男女関係は、
万事が薄い現代社会において必然的に求められているのかもしれない。
だれかをいじめて相手の困った顔を高みから見るのも、
いじめられたと被害者、受難者ぶるのもどちらも生きている味わいだと思う。
一度大冒険するつもりでセブンイレブンの生野菜サラダを食ったらこれがうまかった。
生野菜スティックも、これが野菜かというほどうまかった。
しかし、生野菜サラダなんて自炊でいくらでもできるでしょう。
決して野菜は口にしないという植島啓司元教授の真似をしていた時期もあった
とにもかくにも、いまもいま、生野菜サラダを山盛りで腹いっぱい食べたくなったわけ。
マルエツで買いましたよ、レタス、アスパラ、乾燥ワカメ、ハム。
セブンと比べたら品目も分量も比較にならぬほどのぜいたくな生野菜サラダをつくった。
そもそもサラダなんて切って盛り合わせるだけだからつくるというのもおこがましいが。
ところが、食べてみたら金銭も手間暇も投入しているのに、
セブンの生野菜サラダよりもうまくない。これはいったいどういうことなんだろう。
いったいセブンは生野菜サラダにどんな加工をしているの?
大盛り生野菜ハムサラダを4つ自作したけれど、
金銭や手間賃、なにより味を考えるとセブンで買ったほうがいいような気がしてしまう。
たかが生野菜サラダなのに、どうしてセブンのはあんなにいきいきとしてうまいのか。
一定程度の収入があったらセブンで総菜やらサラダを買うほうがよほどいい。
ひとりでいろいろな材料を買い集めてひとつのものをつくるより、
大勢で大量生産的にひとつのものを料理したほうがよほど効率がいい。
ひとり暮らしなら自炊は経済的に最悪なのかもしれない。
子どもがいない夫婦ふたりでも、あるいはおなじことが言えるのかもしれない。
けれど、いくらお金があっても家族が
それぞれ違うコンビニ飯を食べているのは寒々とする。
――というのは老害的な社会的通念にすぎなく、
近い将来それが当たり前になるのかもしれない。
外食や中食にマイナスイメージを持つのは「正しい」わけではなく、
それは国によって異なり、たとえばタイでは外食が当たり前の行為である。
もしかしたら「おふくろの味」こそ虚妄の最たるものかもしれない。
こんなわかったようなことを書いているわたしだが、
高級懐石料理が大嫌いでカップラーメンが好きな味盲ゆえ、
話半分でお受け取り下さいませ。
「カンの正体」(桜井章一/知的発見BOOKS/イーストプレス)

→孔子は「四十にして惑わず」と言ったらしいけれど、
もうすぐ40の大台の乗るのに惑いまくり、迷いまくり、わからない、わからない。
いったいどういう基準で人生の選択をしていったらいいのか。
教えて自称伝説の最強雀鬼さま。
いまは過去のハッタリ(?)履歴で食べている麻雀屋経営のおやっさん。
肩書ゼロの自称最強の雀荘のオヤジは言う。
人生の選択肢はなにが「正しい」のか人間にはわからない。

「社会の常識という看板を下ろしたとき、何を基準に選ぶか。
それは「おもしろいかどうか」である。
「おもしろいな」「楽しいな」「笑えるな」ということを基準に選んでいけば、
自然と笑顔が出てくるようになる。
そういうものを基準にして、良いこと、悪いことを自分で感じていけばいい」(P43)


わたしも基本的に人生を「おもしろい/おもしろくない」で選択してきた。
けれども、雀鬼の千分の一ほどもおいしい思いをしていない。
つねにはずれくじを引いてきたというような誤った被害者意識に拘泥している。
あのときあの人の助言にしたがって仏教大学院に行って、
「正しい」とされる学問をしていたら、これほどみじめな境遇にはならなかったのか。
いまはもう死語だが、ちょいワルおやじの雀鬼はとにかく学校がお嫌いなようである。

「何度も言っているが学校で教わる学問はマニュアルだ。
答えがわかっていることを勉強しているにすぎない。
答えが先にありきなのだから、時間を使って勉強すれば、誰にでもできる。
そんなもんは、ウソだ。
本当の学問というのは、答えが定まっていないことを見つけに行くことだ。
定まっていることを学ぶことは、学問でもなんでもない。
定まっていないものを感じたり、
知りに行ったりするのが本当の学問の世界なんだと私は思う。
逆に言えば、定まっていることは、それ自体が大したことではないということ。
先ほど述べた「良いこと、悪いこと」というのも、誰かが定めたことである」(P37)


世間的にいえば、「正しい」答えは社会上層部の権力者が決めており、
新参者が生意気千番にも既存の「正しい」答えを疑うようなことをしたら、
冷遇されるならまだしもよくて完全無視どころか
下手をすると迫害さえされかねないのだが、そこは成功者にはわからないこと。
雀鬼はいちおうのところ金持だし、心酔者も弟子も多いし、成功者と言っていいのでは?
成功者の著者は成功者の話など聞くなという。
なぜなら自慢話が好きな成功者はインチキのケースが多い。本当のことを言わない。

「また成功者は自分が苦労した話や、うまくいった話しかしない。
簡単に言えば、いいことしか話さないのだ。
同業他社を蹴落として倒産させた話、下請け会社を切り捨てた話、
辞めていった社員の話などはいっさいしない。
そもそも世の中の成功法則というものが、すべての人に共通であれば、
すべての人(もしくは、それを学んだすべての人)が成功しているはずである。
そういう現実を目にすると、成功とは十人十色であり
そのための方法も十人十色だということだ」(P127)


要するに、世間ならぬ自分を信じろってことだと思う。
でもでもでもさ、ひとりじゃ自分のことなんか信じられないよ。
異性からの愛のようなものがほしい。
そういうのがあれば自信を持てるのかもしれない。
しかし、雀鬼に愛を語らせるとこうなる。
これは「正しい」とわたしは思うが、むろんのこと普遍的な絶対真理ではない。
雀鬼いわく、愛など損得勘定にすぎない。

「利用できる間は「愛」だと言って。利用できなくなったら「愛が薄れた」と言う。
みんな「愛がすべてだ」みたいなことを言うけど、
結局、愛も損得勘定でしかない」(P30)


わたしが言っているのではなく雀鬼の主張だが、愛は損得勘定。
出世や成功をした男のところには女が集まるでしょう。
「他人の評価」が高い男女はもてる。
それはぜんぜん悪くもなんともなく愛は損得勘定なのだから、
得ができそうな男の周辺に女が集まるのは自然にかなっている。
肩書と金さえあればゴキブリのように女が寄ってくる。
すべては「他人の評価」で決まる。
成功者や有名人は「他人の評価」を得ている。
この世で「他人の評価」ほど尊いものはなく、
高い「他人の評価」を持っている人に男女ともにひれ伏す。
「他人の評価」を得たいならばすでに「他人の評価」を得ている人に奉仕するしかない。
「他人の評価」をお持ちの方が、さらなるいい思いをできるのはこのためだ。
肩書とは、おれはこれだけ「他人の評価」を得ているという看板のようなもの。
「他人の評価」=肩書さえあれば、かなり好き勝手なことをできる。
繰り返すが「他人の評価」を得たかったら、
いま「他人の評価」を多く所持している方におこぼれをいただくほかない。
この「他人の評価」のことを権力という人もいる。

でもでもでもさ、けどけどけどね、本当の愛は違うよね、と雀鬼は言う。
愛なんて難しいことではなく、いっしょにいて楽しいかどうかじゃん。
まるで世間知らずの女子高生のようなことを言う雀鬼を嫌いになれない。

「異性で考えたらわかりやすい。
好きな人が隣にいたら、すごくうれしいだろうし、
お茶一杯だけであっても、何時間でも楽しい時間を過ごせる。
逆に、イヤな人が隣にいたら、
どんなにおいしい料理を出されても、苦痛の時間でしかない」(P43)


たしかにどんな美人でもいっしょにいて不快だったら楽しくない。
いくら高給の大企業でも毎日不愉快事の連続だったら、そんな職場は辞めたほうがいい。
どれほど肩書が高い偉人でも嫌いだったらパンダキックを食らわせてやれ。
まったく世間を知らない雀鬼の言葉が同類かもしれぬ当方には心地よい。

「美少年」(団鬼六/新潮文庫)

→大御所SM作家の短編小説集を読む。
いったい現実と妄想ってどういう関係にあるんだろう?
現実というのはいわゆる客観で、妄想は主観と言うこともできなくはないだろう。
わたしは現実はつまらないので妄想しているほうが好きだ。
いっぱんに小説や映画といったフィクションは現実(客観)ではなく妄想(主観)だろう。
しかし、なにが現実かという問題提起もやろうと思えばできる。
本当に客観的なもの(=現実)など存在するのだろうか?
写真は証拠にも使われ客観的なものとされるが、
賞を取ったような有名写真にはつねにヤラセ疑惑がつきまとう。
文章でいえば、現実を正確にとらえる客観的な文章など存在しうるのか?
フレームで現実を切り取っている写真もそうだけれど、
文章もどこを書いてどこを書かないという取捨選択があるわけだ。
一瞬に起ったことの外面や内面を言葉で書き尽くすことは、
1万ページを費やしても不可能という考え方もまったくの間違いではないだろう。
これは唯心論(唯識説)と言われているものだが、すべては主観(妄想)とも言えよう。
すなわち、客観は存在しない。多数派の主観が客観として現実的に採用される。
客観的なものは存在しているように見えてじつは存在しない。
客観的な現実は多数決で決まるもので、多数派の妄想(主観)が現実的とされる。
このときリアリティ(現実性、真実性)とはなんだろうか?
当人にとってもっとも現実的と信じられる妄想がリアリティがあると評価される。
わたしは最近めっきり小説や映画といったフィクションから離れている。
他人の妄想をあまりおもしろいと思わなくなっているのかもしれない。
小説よりも自分が目にした現実のほうがおもしろくなってきている。
しかし、客観的現実など存在しないとしたら、
わたしが現実として受容しているものはわたしの妄想(主観)に過ぎないだろう。
現実などないのだとしたら、都合のいい妄想をしたほうがいいことになる。
けれど、あんまりおかしな妄想をいだいていると人に迷惑をかけてしまう。
異性が自分を好いているという妄想にかられて行動したらストーカーになる。
妄想ではなにを思い浮かべてもいいが、実際に行動化したら性犯罪者になる。
妄想では憎いやつを殺しても構わないが、現実化したら殺人者である。
わたしは妄想が好きだが、最近はあまり他人の妄想に興味がなく、
現実といわれている自分の妄想にリアリティを感じておもしろがっている。
以上、書いてきたことをご理解くださる人はおられますか?
団鬼六の以下の文章を何度も読んで、さらに考えに考えた結果がこの記事だ。

「私は観念的には嗜虐趣味を持つのだが、実践派ではなかった。
絵空事としてSM小説を書き、それに耽溺(たんでき)する事ができたが、
これを空想の域から離れて現実に実行するとなると
何よりも自分の不器用さ加減にうんざりし、
つまり女体を満足に縛る事も出来ず、暴力実行者としては落第であった。
現実に直面するとまず自分の気持が先にしらけてしまうのだからどうしようもない。
[愛人契約した女子大生の]相沢京子とセックスする時も
ロープなぞ使って嗜虐趣味を発揮したことは一度もなかった。
ノーマルな正常位で私は充分に満足した。
嗜虐的幻想図が頭に浮かぶ時は妄想の中に自分を溶けこませ、
京子と正常な肉体行為を営みつつ、
京子を暴力的に凌辱(りょうじょく)しているような妄想を自分の内に掻(か)き立てる
――これだけで私は充分に満足した。
一つの対象を相手にしてノーマルな行為を演じつつ、
アブノーマルな妄想によって自慰行為に浸っているようなもので、
これは妻と演じる性行為の場合も同じパターンなのである」(P23)


おおむかしブルセラ学者の宮台真司がどこかで言っていたのを
よくもまあいまでも覚えていると自分でも驚くが、
自分は女の子の気持になることで性的興奮を掻き立てられるタイプだと。
でも、現実問題、女の子の気持はわからないから、それは妄想だよね。
他者(異性)は客観的現実的に存在していないとも言えなくはないわけで、
自分の心のなかの女や男が現実場面でも重要になってくるような気がする。
現実があったとして、現実よりも妄想のほうが楽しいわけだ。
しかし、自分を圧倒する現実感覚(リアリティ)というのもあろう。
現実と妄想、正常と異常、客観と主観――この二辺を接続させる言葉がリアリティである。
変なことを言うようだけれども、現実にレイプをできる人はすごいと思う。
妄想のレイプは楽しいけれど、現実にそれはできないという人が多いのではないか。
いや、そうでもないのかな。
よく知らないけれど、女も妄想ならばレイプを楽しめる人もいるような気がする。
実際、されるなんて冗談じゃないと思うけれども。
しかし、確率はものすごい低いだろうが現実に凌辱されて興奮する女性もいよう。
そういう女の内面を妄想すると楽しくて仕方がない。
現実にそういう女性と対面したら逃げ腰になってしまうかもしれないけれど。
なにが現実なんだろう? なにが妄想なんだろう? 
リアリティって本当のところどういう意味なんだろう?

「宗教と日本人 司馬遼太郎対話選集8」(司馬遼太郎/文春文庫)

→このところ自分のことばかり考えていたので、
歴史や日本といった大きな視座もあることを知り、新鮮な思いにひたる。
自分は歴史に名を残すとまでは言わないけれど、日本に小さな一撃くらい
あたえられるのではないかという誇大妄想を持っていた時期もあった。
結局、40間近になっても鳴かず飛ばす。この程度だったのかなあ。
宗教学者の山崎哲雄が言っていたが、
最澄は桓武天皇の看病僧で、健康診断や病気直しをしていたらしい。
むかしは僧侶が医師も兼ねている部分があったのだろう。
で、空海は嵯峨天皇の看病僧ということで引きたてられた。
いまでも新興宗教入信動機のトップ1は病気なのではないだろうか?
考えてみたら、どうして病気になるのかはわからないと言えよう。
医者はなんだかんだ言うかもしれないけれど、それは後付けで。
働き過ぎのせいで病気になったという説明をする医者がいるかもしれないが、
おなじように、いやそれ以上に働いていても病気にならない人はならないから。
もし医者が正直ならば、その病気になる確率は何%としか「正しい」ことは言えない。
結局、ある人がどうしてある病気になるのかはわからない。
この世界の目に見えない部分をあつかっているのが仏教と考えられたわけだ。
いまでも病気から宗教に入る人は山のようにいることだろう。

最澄や空海は偉かったから天皇の寵愛を得たのか。
それとも天皇から取りたてられたから最澄や空海は偉くなったのか。
「偉い」というのは、どこまでも「他人の評価」に依存しているんだなあ。
だれかから認められないと出世できない。
時給850円のバイトだって面接官の評価がなければ採用されない。
わたしは「他人の評価」とどう向き合うべきなのか。
「他人の評価」ばかり気にするようになると自分がなくなってしまうけれど、
「他人の評価」がないと一生下積みで終わる。
じつのところ、人生で2回チャンスがあったんだよな。
一度目はある分野のパイオニアから日給2万で誘われた。
二度目は無名だったのに映画シナリオを依頼された。
どちらも先方を怒らしてしまいチャンスを自分でつぶしてしまったのだが。
果たして三度目はあるのだろうか?
さすがに世間を知ったから、今度はあまり生意気を言わないぞと誓っているが。

いまってやたらキャリアを重んじるような気がする。
これまでどういうことをしてきたかという肩書履歴である。
著者プロフィールが長い人って多いけれど、読者はそこを見て本を買うのかな?
わたしはパラパラ立ち読みして買うかどうかをむかしは決めていた。
いまはネットで買うから、どうしてもアマゾンのレビューを見てしまう。
あんな「他人の評価」なんて当てにならないのはわかっているにもかかわらず。
本書によると、夏目漱石が小説を書き始めたきっかけは依頼されたからなんだって。
大学の先生をしていたが、その講義がえらく評判が悪い。
漱石もこんなことやってられるかと思っていたら、朝日新聞の人が現われた。
それまで小説なんて書いたことのない漱石に、うちで小説を書かないかと。
井上ひさしは言う。

「当時の人口はいまの半分以上でしょうから同日には論じられませんが、
かつての人間には人を直観的に把握し理解する力があったんでしょうね、
つまり[朝日新聞の]池辺三山なら池辺三山が、
漱石の書く作品はわからないけれども、
漱石を見てこれは何かありそうだと感じて、その直観を信じることができた」(P126)


明治時代、朝日新聞が日本の独創的思想家を探すということをやったらしい。
やっぱり新聞なんだな。新聞こそ「他人の評価」の最たるもの。
コンプレックス過剰な恩師がいて、むかし崇拝していたことがあるけれど、
自分が紹介された新聞記事を後生大事に抱えているようなところがあり、
ちょっとげんなりしたという記憶がある。しかし、世間はそういうものか。
わたしは新聞が嫌いだが、これではいけないのかもしれない。
聖教新聞でも取ろうかな。もっとまじめなものを取れって?
聖教新聞でも新聞に取り上げられたら庶民は舞い上がるほど嬉しいのだろう。
司馬遼太郎によると、明治時代に大阪朝日が発掘した独創的思想家は――。

「その一人は富永仲基という醤油問屋の若旦那です。
三十歳で亡くなるんですが、近代的な文献学そのもので仏典を調査して、
四世紀、五世紀ぐらいにできたものだということを明らかにした。
それで本願寺の大谷光瑞が震え上がって、
のちに大谷探検隊を敦煌(とんこう)に派遣することになるんです」(P119)


阿弥陀経が後世の創作だと知って、慌てふためく大谷光瑞っておもしろい。
まあ、敦煌を調査しても阿弥陀経が釈迦の説だという証拠は出てこない。
このとき、いったいどのように自分をごまかしたのだろう。
いまの浄土宗や浄土真宗の坊さんだって、
阿弥陀経は後世の創作だと知っているわけでしょう。
それでありながら坊さんとしてメシを食うというのはどんな気持なんだろう。
学会員さんとかも法華経は釈迦の真説とか本気で思っているのだろうか?
たしかに法華経や阿弥陀経を釈迦が説かなかったことは証明できないのだが。

最澄や空海はお経を釈迦の真説と思っていたのだろうか?
空海の真言密教は、釈迦崇拝ではなく、大日如来信仰だから、
あの時代にしてある意味では釈迦を凌駕(りょうが)していたのかもしれない。
最澄は純粋そうだから、法華経や阿弥陀経を釈迦の真説と信じていたのではないか。
真理は言葉で伝達できるとするのが顕教で、
真理は言葉にならないと考えるのが密教である。
ご存じのように最澄は後輩で格下の空海にあたまを下げて密教を学んだ。
具体的には、密教経典を貸してくれと依頼した。
ふたりの関係は破綻してしまう。作家の立花隆は言う。

「つまり言葉というのはものすごく貧しいということでしょうね。
司馬さんのご本の中で、空海がなぜ最澄に対して、
最後に蹴飛ばすような関係になったかというと、最澄というのは、
言葉を通じた真理の伝達を信じたということでしょう。(……)
空海はそれを信じないわけですよね。
語ってくれなきゃ困るって言われても、それは語れないんだと思うな。
語れば分かると思う側はそれをけしからんという。
そういう感じなんじゃないでしょうか」(P187)


きっと言葉では教えられないものがあるのだろう。
いまはこうしたら人生がうまくいくと言葉にして教えるコーチ的存在が多い。
こうしたら老後は安心だとか、40代からはこれをしろとか、
そういうコーチ情報ってネットにも書籍にもあふれているじゃないですか。
コーチの言うことを聞くのも重要だが、無視する人もいてもいい。
井上ひさしによると、
イチローはコーチの助言を無視したからうまくいったとのこと。

「イチローは非常に個性的な打ち方をすると思っていたら、
実は球がよく見える人にとって、あれはいちばん合理的な打ち方らしい。
あのイチローの打ち方を、コーチはきっと何かいろいろ言ったと思うんです。
「それじゃプロで打てないよ」とか。
でも、イチローは頑固に自分のスタイルを守った」(P133)


むかしシナリオ学校の女性社長が、
イチローはだれよりもコーチの言うことを聞いてだれよりも努力したから
イチローとして成功することができた、とどこかで書いているのを見た記憶がある。
だからみんなも先生の言うことをしっかり聞いて人一倍努力しましょうねって。
いったいどちらが「正しい」のかはわからない。
習う、倣(なら)う、真似をするというのはお稽古事の基本なのはわかる。
むかしお経は音楽として町民に親しまれていたという珍説を司馬は口にしている。
学者がそれを否定したって、司馬遼太郎のほうが影響力が強いから、
おそらく司馬の言うことは「正しい」と見て間違いない。

「しかし、いま芸術から宗教に入るというのは面白い話だと思ったのは、
さかのぼって平安期には、
お経の「声明(しょうみょう)」というのはたいへん音楽的だというので――
いまとなれば、お経はもう退屈なだけなのですけれども、
平安期の人にとっては、あのお経はもう素晴らしいものだった。
だから町住まいの声明の師匠さん――
お坊さんであるのかないのかわからないですけれども――
声明師たちが町の人のお弟子をとっていた。
町のひとびとは「声明」を習いに行っていたのです。
この「声明」が日本の民謡の原形のひとつとなっているようです。
たとえば江戸の「木遣(きやり)」のように、
これはほとんど仏教音楽の「声明」が源流です。
ですから、これが日本の民謡の始まりになるのだということは、
皆さんがおっしゃる通りだと思うのです。
芸術から入るということにつながります。
それで「声明」を称(とな)えているうちに、やはり阿弥陀さんはいいな、
尊いな、ありがたいなという気持ちをもつようになってくるのですね」(P65)


人気作家や人気学者(大衆作家、大衆学者ともいう)の対話は、
どうしてこんなにおもしろいのだろう。
専門学者の論文めいた学術書などちっともおもしろくないが、この差はなにゆえか。
もしかしたら書き言葉と話し言葉の違いになるのかもしれない。
話し言葉は、話を飛ばしやすいのである。
書き言葉は論理性みたいのに縛られて、言葉が飛ばない。いきいきしない。

わたしの名前は土屋だがツッチーでいいが、
社会の上のほうにツッチー番(担当)がいるような病的妄想を捨て切れない。
なーんかさ、人生の転機にありがたくもいつもお電話くださる派遣会社があるわけよ。
基本的に常に生き迷っているけれど、いまの迷いは深い。
そうすると一度もそこ経由で仕事をしたことがない派遣会社がお電話くださる。
もう何回目だろう。1年まえくらいにある仕事を落とされた派遣会社。
どうしてこの会社は使えないわたしなんかに何度も電話をくださるのだろう。
昨日の電話。
「いまの就労状態はどうですか?」
「いわゆる無職です。仕事を探しています」
「ご希望の職種はありますか?」
「こだわりはありません」
「待遇(給料)のご希望はありますか?」
「こだわりはありません」
すると親切にもある職場を紹介してくださるというのである。
ああ、こういうふうに人生が決まっていくんだろうなあ。
これが本筋なのかなと思う。通帳もやばいし。
さすがに向こうが紹介すると言っている以上、落とすことはないだろう。
そうしたら今朝また電話があって来社しろと言う。
新宿まで往復600円近くかかるし、
聞いたら選考があって落とされることもあるという。
なんか行ってみたらやたら景気のよさそうな大きな派遣会社だった。
わたしの態度は最悪よ。時間ギリギリだったし。
しかし、あれは埼京線が遅れたからで、それは調べたらわかる。
変な性格検査のようなものをやらされたが、そんなものに本当のことを書くバカはいない。
とはいえ、バカだから、
「常に自分は悪くないと思う」みたいのにわざと丸をしてしまったが(笑)。
若い女子社員に面談みたいのをされる。
えええ、日給8千円の仕事で、こんなにこまごまキャリアを調べられるのと驚いた。
そんな大した人間じゃないって見たらわかるでしょうが。
わたし、本人確認書類の運転免許証を思わず投げてしまったが、
印象最悪だろうな。わたしは愛嬌だと思っているけれど。
「このお仕事を希望した理由を教えてください」
そ、そ、それは昨日、御社がお電話くださったからですよ。
わたしが希望したわけではなく、そちらがお声をかけてくださったんでしょう。
かろうじて残っているひとかけらの社会常識が本音を言わせない。
「あ、はい、座り仕事みたいなので、え、あはっ、そういうのも経験したくて」
「……」
「こんな志望動機ではいけないんでしょうか?」
「……いえ」
合否は金曜日までに連絡するとのこと。
おい、そっちが仕事しないかと言ってきたんでしょう?
これで落とされたら逆恨みするが、しかし、それは間違っている。
ふつうわたしに逢ったら落とす。
いやいや、声をかけておいて誘っておいて落とすのはどうだか。
でもでも、それが世間ってものかな。
いままで好きなことばかりしてきたし、もう週5で日給8千円の人生でいいか。
もう本を読むのも感想を書くのもやめて、これでしのいでいくのもいいのかも。
落とされたらむかつくが、しかし採用されても申し訳がない。
これはほかにも応募者がいたはずで、
わたしが通ったことで落ちる人がひとりかならず出るわけだから。
そのひとりは当方よりも社会人として優秀だという確信がある。
とはいえ、どう悩んでもどうしようもない。
決めるのはわたしではないのだから。なるようにしかならないと思うしかないさ。
あと数ヶ月で40歳になるが、長らく40歳まで生きるのはいやだと思ってきた。
人生、うまい話ってないなあ。
いや、これはうまい話だろう。わたしなんかに日給8千円をくれるっていうんだから。
こいつを放置しておいたら、なにをするかわからんし。
まえの短期派遣のときに10歳年下の派遣仲間の若い衆から聞かれたもん。
「ツチヤさんはこれが終わったら今度はなにをやらかすつもりなんですか?」
「……今度はって?」
「いえ、それは言葉のあやで」
……いろいろばれているのかなあ。
わたしってババ抜きのジョーカーみたいなようなものだと思う。
ジョーカーが来るとドキッとして一瞬楽しいが、だれかに札を押しつけなければならない。
ツッチーはジョーカーだよなあ。
やべえツッチーどうしよ、とか上のほうは思っているのかしらん。
もう生きているのがめんどうくさい、とか書いちゃうやつだしツッチーは。
人生、いったいどうしたらいいのだろう。
だが、人生の決定権はわたしにはないとも言いうるから、
考えるだけ無駄というのが「正しい」のかもしれない。
いままで人生いろいろ楽しかったから、もうどうなってもいいや、わーい、わーい♪
「医学部の大罪」(和田秀樹/ディスカヴァー携書)

→いちおうは医師の国家資格をお持ちの東大の和田さんの医療批判本を読む。
東大ならぬ早稲田のほうのスーパーフリーな和田さん(性犯罪者)は、
まだ出所していないのかなあ。
東大の和田さんも早稲田同様、発言がスーパーフリーでよろしい。
本書で知ったが、スーパーフリーな発言をするとたいがい干されるらしい。
独特なガン治療理論で有名な近藤誠医師っているじゃないですか。
本書で知ったが、あの医師は慶應の医学部を首席で卒業。若くして留学。
スーパーエリートコースを歩んでいたらしい。
それが88年「文藝春秋」に「乳ガンは切らずに治る」を発表したことで大転落。
医学部教授たちににらまれ、結局ずっと講師のまま出世できずに終わったらしい。
当時の教授たちが引退した15年後、
近藤誠医師の乳ガンへの考えは「正しい」ことが認められ、
医療現場でも乳房を切らない手術が主流になったという。
どうしてこういうことが起こるのか?

「五〇歳で教授になった人は、その時点では知識も技術も一流なのでしょう。
その一流の知識と技術を認められて教授になったのでしょう。
ところが、年々医学は進歩する。一五年もたてば、当然古くなります。
それまでの常識が覆されたり、
自分が名を上げた技術が否定されたりすることもあるでしょう。
ところが、教授になった人のほとんどは、それを認めないのです。
そりゃそうでしょう、自分の医療、自分の手術の正当性が覆されたりしたら、
おまんまの食い上げ、メンツも潰れます」(P79)


若かりし近藤誠医師は「もてない男」の小谷野敦塾長とおなじで、
世間というものを知らなかったんだなあ。
でもまあ、後年「正しい」ことが証明されたのだから恵まれているとも言えよう。
近藤誠氏のようなケースもあることを考えると、
著述家としては売れっ子だが、
医者としての腕は定かならぬ東大の和田さんの主張も「正しい」のかもしれない。
なるほど、と思ったところがある。
血液検査でわかるコレステロールというものがあって、
さらに善玉コレステロール(LDL)と悪玉コレステロール(HDL)に分かれる。
善玉が低くて悪玉が高いと
動脈硬化になりやすいというエビデンス(統計結果)も出ている。
しかし、最近になって悪玉コレステロールにも別の価値が見いだされるようになる。
悪玉コレステロールが高い人は動脈硬化になりやすいがガンにはなりにくい。
著者の専門の精神科領域でも、
悪玉コレステロールが多いとセロトニンが脳に運ばれやすく
「うつ」になりにくい傾向があることがわかってきた。

「つまり、LDLコレステロールは、血管とか心臓にとっては「悪玉」でも、
免疫とか脳には「善玉」らしいのです。
これは、じつは非常に示唆に富んだ発見です。
すなわち、総合診療医の発想から言えば、これは本当に悪玉か善玉かという判断は、
全部プラスマイナスしたときにはじめて決まるわけであって、
循環器の医者だけに決めさせることはできない、ということだからです。
コレステロールに限ったことではありません。
どの臓器の検査データも、じつは、一筋縄でいくものではありません。
たとえば、GOTは、一般には、肝機能を見るために用いられるわけですが、
心筋梗塞のときも値は上がります。
肝臓の専門医が、「このデータがこんな値だから、まずい」と、
肝臓だけに限って言うべきことではないのです。ひょっとしたら、
この値が高いほうがよい別の身体の部分もあるかもしれないのですから」(P56)


これはものすごい革新的な「正しい」ことのような気がしてならない。
なにかの数値が悪い(?=標準値から逸脱している)おかげで、
身体の別の部分がよくなっていて、全体としてうまくいっていることは多いのではないか。
変に一部を治療する(=標準値に戻す)とかえって全体が狂ってしまうというか。
作家の三浦哲郎はものすごい高血圧だったらしいけれど、
そのおかげでハイテンションで創作ができたかもしれないわけだから。
最新の薬で血圧を下げていたら、フラフラしてなにも書けなくなっていたかもしれない。
わたしも薬で血圧を下げているけれど、
エビデンスとしては脳卒中になる確率が10%から6%になるくらいらしい(132頁)。
薬で血圧を下げていても脳卒中になる人は6%なる。
痛風と関係しているとされる尿酸値を下げる薬は絶対に服用したほうがいいが、
降圧剤は人それぞれでいいのだろう。
わたしは塩辛いものを気にせずがんがん食べたいし、
薬をたくさん飲むとかえって早死にできるっていうから(これはマジみたいよ)、
それにせっかく国保も払っているので血圧を下げるジェネリック薬品をのんでいる。
けっこう長く血圧とはつきあってきたが、血圧管理は意味がないのひと言。
塩分をたくさん取っても低いときは低いし、
どんな運動を日々していても高いときは高く、
そしてこれが重要なのだが血圧が高くても低くても自覚症状も痛みもなにもない。
三浦哲郎くらいの高血圧(200近い)になると頭痛が出るらしいけれど。
しっかしさあ標準血圧の基準だって年々、根拠もなく変わっているんだ。
まあ、高血圧(基準値以上)を増やせば薬が多く売れるから、そのへんはゴニョゴニョ。

治せば(標準=平均に戻せば)いいってもんではないのだろう。
うつ病なんかも下手をすると、
治したらかえって動脈硬化を起こし心筋梗塞になってしまうかもしれないわけで。
脳梗塞で半身不随になるのとうつ病はどちらがいいのかわからない。
うつ病を治しても心筋梗塞で死んでしまったら、どちらがいいのかって話。
部分と全体という話をすれば、うつ病というのは全体としてどうなのだろう。
だれかがうつ病になって社会から落ちこぼれるから、
その空いた枠に出世できた人もいるわけでしょう。
いままで夫が仕事中毒でうんざりしていた妻が、
配偶者のうつ病のおかげでいっしょにいる時間が増えて嬉しいということもありうる。
説教が好きながんばり屋のお父さんのことを大嫌いだった息子が、
父のうつ病をきっかけに発奮することだって絶対にないとは言えない。
これまでふんぞり返っていた父親がうつ病で寝たきりになったら笑っちゃうよねえ。
子どもの人格障害とか迷惑きわまりないけれど、
それで夫婦仲がうまくいっている可能性もある。
東大の和田さんの意見を拡大化してまとめると、
悪玉といわれる要素があるからよくなっている部分もあり、
そして悪玉が存在するおかげで全体としてプラスマイナスがゼロになっている、
という見方もできなくはないということだ。
先日、近藤誠医師のいた慶應大学病院で血液検査をしてもらった。
GOT(肝機能)が基準値よりもちょっと高かったけれど、
どうしろとも慶應大学病院の医師は言わなかった。
GOTが高いせいでもしかしたら全体としてバランスが取れているのかもしれない。
まさかお医者さんがそこまで当方のことを考えてくださったわけではないでしょうが、
あるいはあの先生は相当の名医ということもありうる。
前回の投薬のおかげかどうか悩んでいた異様な吐き気も取れたし。
そのぶん悪くなっているところもあるんだろうけれど(それがGOTとは言わないが)。

東大の和田さんのみならず、いろんな医者がぶっちゃけトークで言っているが、
長生きしたいなら医者にかかるなっていうのは真実のような気がしてならない。
わたしは長生きしたくないから医者にかかっているところがある。
それともうひとつの通院している理由は、苦しみがいやだから。
痛いとか吐き気がするとか眠れないとか、
そういう生活レベルの苦痛を除去するために医者にかかるのはいいのではないか?
本当のことを言えば、そういう苦痛も放置しておけばどうにかなる。
そこで軟弱にも医者にかかって薬を飲むと早死にする確率が高まる。
しかし、当方にとって早死には望むところなのでお医者さんもお薬も大好き。
苦痛なんかさ人生修行とか思わないで、さっさと薬で取っちゃえばいいじゃん。
20代のころ頭痛で心底苦しんでいたが
ロキソニン(痛み止め)をのんだらその瞬間に痛みが消えたのには悲しくなった。
おれの頭痛ってもっと重いものであってほしかった、みたいなさあ。
いまは頭痛は治ったが、ほかに悪いところが出てしまっている。
きっと本当のところ、そういうものなんだろうな。
パーフェクトはありえないというか、パーフェクトを目指したら死ぬっていうか。
健康のことなどいっさい考えないのがいちばん健康なのだと思う。
「そういうことですよね?」と東大の和田さんに聞いたら、イエスと答えてくれるはず。
身もふたもない実験結果を著者は本書で公開している。
なんでも「フィンランド症候群」とかいう名前がついているらしい。

「「フィンランド症候群」についても同様です。
これは、一九七四年から一九八九年までの一五年間にわたって、
フィンランド保険局が行った大規模な調査研究のことで、
循環器系の弱い四〇歳から四五歳の男性一二〇〇人を選び、
しっかり健康管理をする介入群と何もしない放置群に、
六〇〇人ずつ分けて、健康状態の追跡調査を行ったものです。
最初の五年間、介入群は四ヵ月ごとに健康診断を受け、
数値が高い者にはさまざまな薬剤が与えられ、
アルコール、砂糖、塩分の節制をはじめとする食事指導も行われましたが、
一方、放置群のほうは、定期的に健康調査票に記入するだけで、
調査の目標も知らされず、まさに放置されました。
そして、六年目から一二年目は、両グループとも健康管理を自己責任に任せ、
一五年後に、健康診断を行いました。
その結果は衝撃的なもので、
ガンなどの死亡率、自殺者数、心血管性系の病気の疾病率や死亡率などにおいて、
介入群のほうが放置群より高かったのです。
とくに介入群には何人かいた自殺者が、
放置群にはほぼ皆無に等しかったそうです」(P129)


いま書き写していて気づいたが、どうして自殺者はゼロと書けないのだろう。
「皆無に等しかった」というのは文学的表現で統計的数値ではない。
「何人かいた」というのも文学的表現で、
医者なら何人という数値を明らかにしたほうがいいのでは?
このあたりが「フィンランド症候群」の怪しさだが、
真実はそうであってほしいとわれわれが願うことなのだから、
この調査結果はおそらく真実に違いない。
結局さあ、よほどのことがないかぎり医者になんかかからず
「知らぬが仏」を決め込むのがいちばんなのかもしれない。
ある数値が悪いと知っても放置しておいたら自然によくなることもある。
だったら、そんな数値のことは知らなかったほうがよかったとなるわけで。
日本人がいまもっとも恐れているのはガンでしょう。
ガンに対して最適な態度は、和田さんもこれだと賛成している。

「というわけで、結局、ガン検診ではガンが減らせません。
少なくとも、ガンの死亡者は減らせない。
見つけたところで助からないガンを検診で見つけても、
あまり意味がないわけですから。
それどころか、かえってよくない結果になるかもしれません。
ひょっとしたら知らぬが仏の人生を送っていたほうがよかった、
ということになるかもしれません」(P86)


まあ、確率1%でガンが治る人がいれば、
おなじ1%で難病にかかる人もいるってこと。
そこはもう毎年ころころ変わる医学ごときの分け入られる領域ではないのだろう。
南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無釈迦牟尼仏、南無南無な~む。

「「昔はワルだった」と自慢するバカ」」(小谷野敦/ベスト新書)

→ワルっていうのは持って生まれた才能のようなものだと思う。
平気でワルをできるモラルの壊れたテンネンの人とかすごくねえ?
権威あるシナリオ・センターの講師をブログでボロクソに書く早稲田のやつとか、
自分を慕っている愛読者夫婦をモデルに私小説を書いて満天下に恥をかかせる、
もてるくせに「もてない男」のふりをする東大卒の愛煙家とかさあ。
自分はワルではないと思ってナチュラルにワルができる人ってすげえなあ。
それに比べたら「昔はワルだった」なんて反省できる人は、
まだまっとうな善悪観念を失っていないから本当のワルの足元にもおよばない。
「もてない男」の著者は哲学者の中島義道氏が「もてる男」だと知り嫌いになる。
「もてない男」小谷野敦氏による「もてる男」中島義道氏の分析がおもしろい。

「七人の女性から求愛・求婚されたというのも、
中島が女性嫌悪者だったからだと、私は思う。
というのは、日本の女は多く女性嫌悪者であって、
やはり女性嫌悪者である三島由紀夫に、女の読者が多いのも、そのせいである。
女は、女好きの男を嫌うし、母親と仲のいい男を嫌う。
だから、母親を嫌っている中島は、もてたのである」(P81)


この説が「正しい」ならば逆もまた真なのかどうかは、
論理学を勉強したことがないのでわからないけれど、いちおう書いてみよう。
小谷野が七人の女性から求愛・求婚されたことがないのは、
彼が女性嫌悪者ではないからである。
小谷野が三島由紀夫を嫌いなのは、三島が女性嫌悪者のせいだ。
女性嫌悪者ではないから小谷野に女の読者は少ない。
女は、女好きの男を嫌うし、母親と仲のいい男を嫌う。
だから、母親が大好きだった小谷野は、もてなかったのである。
以上は「正しい」のかなあ、どうなのかなあ。

経験から言うと、「もてる男」って男から見てもいいやつが多いよねえ。
「もてる男」なんて表面がいいだけだろうと「もてない男」は思いたいけれど、
接してみると「もてる男」は内面も「もてる男」がゆえにひねくれておらず、よい。
「もてない男」は「もてない男」ゆえに外見同様、内面も汚らしいという。
中島義道さんとかワルどころか、絶対にだれかさんよりもいい人だもん。
中島さんとか障害者を目にしただけで申し訳なくなって涙にむせぶこともあるんしょ?
なにより反省するってことを知っていそうだしね。
自分はワルかどうかなんて反省もしないのが本物のワルで、
本物は本物だから「昔もいまも自分はワルではない」と正面切って言えるのである。
誤解されると困るが小谷野さんはワルなどという範疇におさまる小物ではない。
小谷野と名前は「小」がついているが大コヤノである。
先生はモノホンでいらっしゃるのである。

「実のところ、私は人が死ぬのを望むのを悪いことだとは思っていない。(……)
私は、自分が恨みをもっている者はもちろん、老いてなお権力を握り続けるような人は、
早く死なないかなあと思っているのだが、善人に限って早死にするのである」(P127)


あれ、小谷野さんってもう死んでいたっけ?
くれぐれも健康診断を怠らないでください、
とひとかけらもワルの部分がない小谷野先生のご健康を心配してしまう。
それにしても痛快な本音でまったく同感する。早く死ねっていうやつが多すぎ。
自殺は利他行為という以下のご発言も間違っていない。

「個人だってそうであって、もしあくまで利他的に振舞おうとしたら、
死ぬのが一番ということになってしまう。
大学受験に受かったら、その分落ちた人がいるし、
何かの職を得たら、やはりその分職を失っている人がいるわけである」(P128)


ひとつの勝利(成功)は無数の敗北のうえに成り立っているのだから(高校野球!)、
人生で大勝利をおさめた人というのは大勢を泣かせたワルなのかもしれない。
大勝利した人にかぎって、なかなか死なないんだよなあ。
人生で大敗北した人は、それだけ多くの人を勝利させたのだからワルではない。
小谷野師匠のご本はいろいろ考えさせられ勉強になる。
もうすぐ、ちくま新書から師匠の最新刊「宗教に関心がなければいけないのか」が出る。
あのときのメールで住所を書いていたら献本してもらえたのかなあ。
世の中そんなに甘くはないか。

「図説 お経の本」(洋泉社MOOK)

→オールカラーで仏像や仏画がうまくレイアウトされたじつにいい本だった。
しかし、初学者がいきなりこの本を読んだら、
お経がわかるようになるかといったらむろんそういうわけではない。
こちらにそれなりの蓄積があるから、この本のすばらしさに気づくのだろう。
お経は読むたびに発見があるようなところがある。
読み手は日々変化しているのだが、その無常をお経によって発見するのかもしれない。
この本では維摩経が気になった。
どうでもいい豆知識だが、維摩経は創価学会の教学部が大好きなお経でもある。
内容は豪商の維摩(ゆいま)っておっさんが出家した仏弟子を叱りつける話だ。
出家した仏弟子よりも、世間をよく知った金持の中年男のほうが偉いんだよという。
お経では、維摩が仏弟子をこき下ろしたり、在家のぶんざいで出家者に説教したりする。
お経の中心に「不二に入れ(入不二)」というメッセージがあり、そこが抜粋されている。
ちゃんと漢文も掲載されているののがよかった。
不二(ふに)とはなにか?
本書によると不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」らしい。
そういう考え方を不二という。
対立する二つが「異ならないこと」「差別のないこと」という解釈もある。
本書で維摩経は、「二辺を離れる「不二思想」の金字塔」と紹介されている。
実際にお経を見てみよう。
維摩経は二度違う訳で読んだことがあるけれど、
この本の訳がいちばんわかりやすい(意訳らしいけれど)。
不二に入るとはどういうことか。楽実(らくじつ)菩薩はこう言った。

「真実と虚偽とが二である。
真実に達した者は、真実を見ているわけではない。
いわんや虚偽を見ているわけではない。
なぜなら真実は、肉眼で見るのではなく、智慧の眼で見るからだ。
智慧の眼は、見るのでもなく、見ないのでもない。
これが不二に入るということだ」(P42)


繰り返すと、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
善悪、賢愚、損得、美醜、生死――「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
智慧の象徴である文殊(もんじゅ)菩薩が、
「おれがいちばん賢いんだ」と言いたげに以下のような説明をしている。

「あなたがたの説はもっともだが、それもまた二[相対]なのである。
何も言わず、何も説かず、何も示さず、説かないということも言わない。
これが不二[絶対]に入るということだ」(P42)


この経でもっとも偉いのは豪商の維摩だから文殊菩薩もおうかがいを立てる。
「維摩先生、あなたもなんか言ってやってください」
このとき維摩は黙して語らなかった。「維摩の一黙、雷の如し」である。
文殊菩薩は(金になびいたのか)維摩の態度を絶賛する。

「よろしい、よろしい。文字もなく、語る言葉もない。
これこそ、不二に入るということなのだ」(P42)


言葉で語るということは、世界を言葉で分けているということだから、
言語に頼っているかぎりいつまでも「二(相対)」のレベルでしかなく、
「不二(絶対)」のレベルには到達できないということである。
わかりやすい話をしたら、どんな慰めの言葉をかけてもらうよりも、
そばにいて「おまえの気持はわかるよ」
と肩をポンとたたいてもらうほうが絶対体験に近いということだろう。
女の子から大丈夫だよとギュってしてもらったら男の子はがんばれる。
こういうところから言語を否定した密教に入っていくんだろうけれど。
音楽や絵画は言葉にならない不二(絶対)を表現しているとも言えよう。

いつごろからか創価学会が師弟不二ということを強く打ち出している。
これは師匠の言うことには絶対に従えよという偏った意味だと思う。
しかし本来、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
ならば、師弟不二とは、師匠や弟子という差別はないということになるのではないか?
師匠は弟子である、弟子は師匠である、というのが本当の師弟不二。
人になにかを教えようとうすると本当に理解していないと教えられない。
このため、教えているほうは弟子のことを師匠のように思うだろう。
弟子は師匠から教わっているが、本当は弟子こそ師匠の師匠なのである。
わたしもブログにいろいろ書いているけれど、
これは教えているに近い行為だが、教えているという感覚はなく、
ブログ記事を書くことでいろいろ教わっているという実感がある。
弟子は師匠の師匠なんだからもっと威張っていいわけ。
師匠は弟子から教わっているんだからもっと謙虚になるべし。
軍隊のように厳しい師弟の上下関係を否定したのが、本来の師弟不二の意味合い。
師弟不二を理解したら、
座談会で池田先生の悪口が飛び交うようにならなくちゃいけないわけさ。

きっと「学ぶ」ってことは「教わる」ことではなく「教える」ことなのだろう。
だれかに教えようとしてみたら、自分がそれを理解できているかどうかわかる。
いい弟子というのは「ここがわからない」といい質問をしてくれる師匠のこと。
本当のいい弟子というのは師匠の教えていないことまで自分で発見してしまう。
いい師匠というのは自分はなにも言わないで、
弟子の言うことを「ふんふん」と聞いているカウンセラーのような存在かもしれない。
本物の師匠は弟子に指導などせず、弟子の言うことを傾聴するのかもしれない。
というのも、そのほうが弟子にいろいろ教えられるのだから。
維摩経で、維摩が多数の菩薩の(不二に対する)説明を聞いて、
自分は沈黙したままひと言も発しなかったという光景こそ本物の指導なのかもしれない。
大声で「池田先生はこう言った」なんて叫ぶのは指導ではなく命令なのかもね。
そういう軍隊のノリが好きな人は一定数いるだろうから、それもいいのだろうが。

本書で薬師経と金光明経をはじめて目にした。
どちらもおもしろそうでさあ。薬師経で、こういう一節がリピートされる。
「来世で自分が悟ったら(菩薩になったら)~~(功徳)~~」
おいおい、来世かよと笑ってしまった。
現世で悟ろうとしない、そういうところ、まるでおれみたいでよろしい。
わたしの今年の目標は「来年はがんばる」だから。
今日の目標は「明日から本気を出す」。
いま生きている目標は「来世でイケメンになって、あれこれする」。
本音を言えば、ゲイではないが、来世では女の子になってみたいんだなあ。
もちろん、かわいい子限定だが。
「目標依存症」で疲れ切っている人は来世に目標を置くといいと思うよ。
来世というのは死のその先にあるものだから、死への恐怖もやわらぐしグウ。
薬師経に本当にそんなこと書いてあるのかって? 書いてありますって。

「願わくば我、来世に悟りを得たなら」
「願我来世、得菩提時」(P60)


金光明経もおもしろそうで読んでみたいのだが6千円もして高い。
いっぱい働いて金を稼げって言われるかもしれないけれど、
働いたら自分の時間がなくなるし、疲れて本を読む気力もなくなる。
まあ、金光明経を読むのも来世にまわしてしまおう。
もう一定年齢を過ぎたら、来世にすべてを投げ込んじゃうのも一手だから。
結婚も家族も正社員も出世も成功も来世に放り込んでしまうと現世が楽になる。
「それは、うーん、来世でがんばりますので」ってふざけすぎかな?
創価学会に入って壮年部の怖いおじさんに
厳しい指導をしてもらったほうがいいのかもしれない。
学会って男子部と女子部に分かれて活動するんだってね。
ガチガチの師弟不二なんかやめて、これからは男女不二を強く打ちだしたら、
創価学会もさらなる大躍進をするような気がしてならないが、
いかがなものでしょう。
維摩経にも男女の性別にこだわっている仏弟子を天女がからかうシーンがある。
言っとくけど、本当にあるからね。
お経には西洋哲学の持ち合わせぬ怪しさとユーモアがあるので好きである。

(関連記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)
「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)