「いのちの対話」(河合隼雄/潮出版社)

→最近、やたらテレビや雑誌、および周辺で師匠という言葉を目にしたり
耳にしたりする機会が多いけれど、あれは創価学会のマーケティングなの?
師匠っていったいなんなのだろう? ああいうふうになりたいってこと?
でも、あなたはあなたでしかないんだから他人にはなれないでしょう?
まったく世間から認められずおっさんになったものの意見ゆえ
信憑性はほぼゼロなのだろうが、人間の最大の誤りは
自分以外のだれかのようになりたいという自己否定ではないか?
イチローはイチローだからイチローになったんだと認めること。
あなたもイチローになれるという人はいかがわしい詐欺師の可能性が高い。
自分だってイチローじゃないのに、
イチローが成功した理由は……とか訳知り顔に語る人っていっぱいいそうじゃん。
あんたはどうしようもなくあんたでしかない。
わたしはどうしようもなくわたし以外の存在にはなりえない。
このことを認めるのが、いまや手あかのついた言葉だが自己実現なのではないか?
自分とはなにかといったら、あなたが好きなものが自分の証である。
偏差値40のあなたが好きなものは間違っておらず、とてもそれは「正しい」。
河合隼雄はわたしの師匠でもなんでもないが、例によって言葉を引く。
ちとばかしいまでは権威があるらしいしね、くすっ(河合隼雄賞!)。

「私は高校の教師をやったことがあります。
当時成績が悪くても威張ってた子がたくさんいましたね。
そういう子が二十年、三十年たってみるとけっこう面白いんです。
誰か教育学者がやらないかなあ、
小学校で一番だった人が三十年後どうなっているかを調べてくれないかなあ(笑)。
勉強なんかできなくても、好きなことをやっていた子は、
好きな人生を楽しんでるんじゃないですか。
そういうのが本当の幸福だと、みんなが考えてくれるといいんですが」(P69)


成績が悪いのに威張るなんてとんでもないといまは思われやすい。
成績というのは、学校だけではなく会社での成績もある。
社長の血縁でもないのに、会社の成績も悪いのに、
威張っているお子さまな社会人が将来、大化けするのかもしれない。
しかし、威張らなくてもいい。あなたはあなたなのだから、というのが自己実現だ。
自己実現の理想像(池田大作SGI会長!)のようなものを仮構するのもいいが、
しょせん自己実現の意味はあんたはあんたでしかないよということだ。
ゴミなあんたはゴミなままでそのまんまであんただけの輝きを放っている。
あなたはあなたのままでよく、あなたを突き詰めるのがあなたの自己実現だ。

「最近、自己実現という言葉がしきりに使われますね。
だが、実態は自分の好きなことをやって
何事かを成し遂げるのが自己実現だと思われている。
そんなのは自己実現やない。自我実現だと私は言うんです。
人も自分もあまりやりたくないことをやる。奉公し、犠牲を払い、献身する。
それによって何事かを成し遂げるのが、本当の意味での自己実現ですよ。
奉公や犠牲や献身を再評価して世界に発信していくのは、
これからの日本人の重要な役割ですね」(P93)


これはまったくそういう見方もまた「正しい」とわたしは思う。
奉公、犠牲、献身というのは身勝手な当方とは正反対な生き方である。
にもかかわらず、ではなく、しかるがゆえに奉公、犠牲、献身の価値を
いまもいま再認識しているところがある。
奉公、犠牲、献身もまた自己実現のいち形態である。
YouTubeでさ、創価学会員の一糸乱れぬ動きとか見ると感動するもの。
自分は絶対にできない、自分とは正反対の奉公、犠牲、献身ゆえ、
何度も何度も繰り返し視聴して見惚れてしまうところがある。
どうしてあそこまで自分を消して全体に同一化できるのだろうと感動さえおぼえる。
自我を消すというかたちでの自己実現もきっとあるのだろう。
会社にまじめに奉公している社員さんとか、
よく見てみれば当方などにはないその人だけの自己犠牲の輝きがあるもの。
一生懸命スピードをあげたらかえって給料が減るのにがんばる非正規雇用者を、
無知とあなどるばかりではなく、
彼らの奉公、犠牲、献身を彼らなりの自己実現とみなすのもまた「正しい」と思う。
わたしの意見としては、日本人女性は奉公、犠牲、献身の精神を忘れないでほしい。
女性の権利を訴えるよりも、奉公、犠牲、献身で自己実現しよう。
奉公、犠牲、献身のお相手をお探しの女性がいらしたら、
あなたの自己実現のためにわたしが相方を務めましょう(笑)。

しっかし、河合隼雄さんも矛盾しているよなあ。
好きなことをしている人生は幸福とか言いながら、
べつのところでは奉公、犠牲、献身こそ自己実現と言い放つ。
これは矛盾しているが、矛盾しているから、一貫していないから「正しい」。
意見が一貫しているほうがおかしいというのは河合隼雄から学んだことのひとつ。
というのも、人間というのはさしたる理由もなく年々どころか日々変わるじゃないですか?
むかし嫌いだった食べ物が好きになることなんてよくあることで、
ずっとおなじものばかりを好きで食べているなんてほうが精神異常者になるのでは?
転向したり退転するのは敗北ではなく、その自己矛盾こそが人間味であり、
人情とはこの自己矛盾によってもたらされる人間のふるさとのような気がする。
人情というのは、正規には矛盾したことをあえて受け入れるときにいだく人間の優しさだ。
Aも「正しい」しBも「正しい」し、
どちらも「正しい」から困っちゃう……とその場の気分まかせで行動するのが人情だ。
西欧人には「正しい」親切や「正しい」微笑があるだろう。
しかし、日本人固有の矛盾に対したときの人情やはにかみはないような気がする。
本当はダメなんだよ、と言いながら矛盾を許すのが日本人の人情ではないか。
それはルール上は間違っているのだが、その矛盾を人情で許してしまう。
この人情を、キリスト教国の人民が持ち合わせぬ日本人の美徳だと河合隼雄は語る。
一国や一人民の正義のために世界と喧嘩をするのもいいが、
だれかが世界とうまく付き合わなくてはいけないのではないか。

「どうしても世界と付き合わないと、しようがない。
だから、ダブルスタンダードというかね。それこそ心の問題も関係してくるけど、
これからの人間というのは、自分の内部に矛盾があることをはっきり認めることです。
矛盾のないシステムというと、一神教の世界は矛盾なしで、
それが明確な都市文明の考え方ですね。
それに対抗するためには、われわれは、
人間が生きているということは矛盾してるんだ、
という考え方をしていったほうがいいんじゃないかと思ってるんですけどね」(P168)


戦争というのは敵と味方に分かれてするわけでしょう?
しかし、その敵と味方という区分をやめないかと河合隼雄は言っているのだと思う。
あの人は敵でも味方でもない。あの人は敵でもあり、味方でもある。
こういう主張は矛盾しているけれど、日本人の人情はそもそもこういうものだ。
どうしてある種の人は他人を「敵/味方」と区分したがるのだろう?
ブログ読者さまのなかには当方を敵と思っている方も味方と認識しておられる方もいよう。
だが、わたしは敵でも味方でもなく、土屋顕史という名前を持つひとりの日本人男性だ。
同様に考えたらどうだろう。
あの人は経営者だから労働者を搾取している敵と見るのも、
気前がいいから味方と見るのも、どちらも偏(かたよ)っているとは考えられないか?
ある人は敵でも味方でもなく、
ある名前を持った世界にひとりしかいないその人でしかない。
自己実現はわたしはこんなわたしでしかないと認めることだが、
相手を「敵/味方」と区分せず、なるべくそのまま見ようとするのが、
造語だが他者実現(相手を伸ばすこと)になるような気がしてならない。
他人は善人でも悪人でも敵でも味方でもなく、
ある名前を持ったかけがえのない(代替のきかない)ひとりの人間である。
名前を覚えるのが肝心だと河合隼雄は語る。

「暴れている子に言わせると、せっかく中学に入ったのに
誰も名前を覚えてくれないし、いつも馬鹿とかコラとか言われるだけだと。
つまり、個人として認めろと言っているのです。
ですから名前で呼ぶだけで暴れる子は減ります。
さきほどの学校でも、校長先生に
「◯◯君、廊下を自転車で走ってはだめだ」と言われれば、やめますよ。
これは僕自身の経験から言えることです。
僕が京大の教授をしていた当時は学生運動が盛んな時代でした。
そこで、僕はリーダー格の学生の名前を全部覚えました。
そして彼らが何かを言うたびに名前を呼び、個人的に接していると、
だんだんと彼らの態度が変わっていきました。
はじめは「河合、貴様」と言っていた学生たちが、
最後には「河合先生、そうおっしゃいますが」などと、
自発的に全員が敬語を使うようになったのです。
つまり、人間と人間が名前を知って個人的につながっていると、
そんなに馬鹿なことはできないものです」(P124)


わたしは新しい職場に入ったらなにより全力で同僚の名前を覚えるけれど、
あまりいじめのようなことを経験しないのは、そのおかげなのかどうか。
名前を覚えても、なかなかその人を名前で呼ぶのには勇気が必要なのである。
名前を知っていても、一度も名前で呼べなかった人などいくらでもいる。
けれど、名前を知っているかどうかで気分の安定が変わるのだ。
あの人は意地悪な派遣社員Aはなく、
◯◯さんだとわかっていれば、こちらも安心するところがたぶんにあるのである。
敵とか味方とか、中国人とか韓国人とか、分類するまえに、
◯◯さんという世界でひとりしかいない人と思って、
相手と対話をすることで拓(ひら)けてくる世界もあろう。
それが河合隼雄の心理療法だったのだろう。
あなたはあなたなんだから、あなたなりの生き方をしたらいいのではないでしょうか?
あなたではないからあなたのあなたらしい生き方がなにかはわかりませんが、
あなたにはあなたらしい生き方があることを当方は確信している。
これが河合隼雄のカウンセリングであったような気がしてならない。
結果としてクライアント(相談者)がたとえば創価学会に入り、
「奉公、犠牲、献身」の人生をいっときは歩み始めたとしても、
それはそのときその場ではいちばん「正しい」ことだと河合隼雄は思ったことだろう。
わたしがわたしでしかないように、あなたはあなたでしかない。
しかし、あなたはわたしになれないのだから、わたしもまたそこまで悪いものではない。
わたしはあなたには絶対になれないのだから、あなたはあなたとして価値がある。
これが晩年の河合隼雄の考える自己実現ではなかったかと思う。

「ガイドブック 法華経展」(東洋哲学研究所)

→昨年、信濃町の博文堂書店で買ったカラー図録を繰り返し読む。
信濃町の博文堂書店は、ここでしか買えないような学会関連書籍の在庫が豊富でいい。
日蓮の「種種御振舞御書」はいまアマゾンで定価以上の価格がついているが、
博文堂書店ではふつうに平積みされているのが怖いとも凄いとも。
先日も信濃町の博文堂書店に行ったらおもしろかった。
ちょー原稿料が高いと噂される学会機関誌「第三文明」を立ち読みしたら、
最近学会シンパになったらしい柳美里が出ていたのは予想どおりだったが、
去年引退した元プロレスラーの天龍源一郎が
6ページもインタビュー記事に出ていたのは意外だった。
いま創価学会の内部っていったいどうなっているのだろう?

本書はぜいたくな総カラーでわかりやすい解説もつき、
そのうえ価格も手ごろで心底から創価学会グッジョブと言えよう。
法華経のきれいな白いところだけをこれでもかとわかりやすく楽しく解説している。
読めばわかるが(ふつうの人はあんなものをぜんぶ読めないが)、
法華経は根拠のない空疎な自己喧伝や自分勝手な迫害妄想のみならず、
脅迫的な仏罰や堕地獄をちらつかせる黒々としたヤクザキック的なお経。
しかし、「知らぬが仏」の姿勢でいくら白々しいとバカにされようが、
ものごとのプラス面を見るのはそれほど悪いことではないだろう。
本書を何度も読んで法華経の凄さ、怖さに改めて気づかされた。
なーんか、法華経ってフィクションの仏典らしからぬ「本当のこと」が
書かれているような気がする。

以前は思い至らなかった法華経の妙味を紹介したい。
あるものがうまいということは、
そのうまさを発見する人がいないと気づかれないで終わってしまうことがある。
本当はおいしいものでも、だれもその美味に気づかないと宝の持ち腐れだ。
ご存じでしょうが、法華経には七譬(しちひ)といわれる7つのたとえ話がある。
そのいちいちが、もうおっさんになったいまの目で見るとやばいのだ。

「三車火宅」のたとえとかもう狂ってるんじゃないかってくらい怖い。
ほら、あれだよ。家が火事で3人子どもが残っている。
子どもたちは火事に気づかないで楽しく遊んでいる。
で、父親は「火事だ!」と叫ぶが楽しく遊んでいる子どもたちは気がつかない。
まずここで第一の問題があって、本当に火事なのかどうかという謎がある。
ひょっとしたら中庭で楽しくバーベキューをやっていたかもしれないわけだから。
火宅で遊ぶ子どもは、この世で欲望にまみれているわれわれなんでしょ?
そのままでもいいじゃないかという考えもなくはないだろうか?
しかし、子どもを自分の思いどおりに動かしたい父親は一計を案じる。
3人の子どもたちの物欲を利用するのである。
彼らがほしがっていた「羊車」「鹿車」「牛車」をあげると言って家からおびき出す。
そりゃあ、子どもは出てくるわな。しかし、これっていいのかって話だ。
だって、思いっきり物欲で釣っているわけだから、
それは清浄な無欲悟達世界への勧誘ではなく、
煩悩熾盛の世界へのいざないにならないか?
そのうえ父親は子どもたちに約束のものを与えないのである。
このへんの解釈は学者でも分かれるが、
創価学会は立派な「大白牛車」を子どもたちにあげたという説を採択しているようだ。

さて、この話のどこが怖いのか。
「三車火宅」のたとえは、むかしの創価学会そのままのような気がするからだ。
むかしの学会は貧乏人や病人の集まりだったわけでしょう。
庶民の金がほしい、健康になりたい、
そういう欲望につけこんで家から引っ張り出すわけだ。
いい家がほしいだろ、いい車がほしいだろ、いい時計がほしいだろ!
よおし、「いい家をあげよう」「いい車をあげよう」「いい時計をあげよう」――
創価学会はそう大声で言って人を家(伝統仏教)からおびき寄せる。
そうして家も車も時計もあげないで、バリバリ無料で宗教活動させてしまうわけだ。
その無料奉仕こそ「大白牛車」なんだと信じ込まされる。
べつにむかしの創価学会を批判しているわけではなく、これは商売の基本という話。
相手の物欲を刺激して、うまい話だと思わせたうえで、相手のほしいものは与えず、
こちらが相手に売りたいものを買わせるというのは商売(営業)の基本だから。
不動産屋の表に出ている物件って、たいてい客寄せで実際は存在しないっていうじゃん。
スーパーだって特売品でお客を釣るけれど、ほかのものも買ってほしいわけでしょう。
大企業も「やりがい」「ブランドイメージ」「高収入」で大学4年生を釣って、
釣ったあとには企業内で洗脳のようなものをほどこすわけだ。

もうめちゃくちゃを書くと、結婚なんかもそうでしょ?
女子は美貌や優しさで相手を釣るけれど、結婚したらすっぴんのおばさんになる。
で、夫婦というものになっていくわけである。
男子だって金や包容力で女子を釣るけれど、釣った魚に餌をやるバカは少ない(笑)。
「三車火宅」のたとえだけで法華経というのは「本当のこと」を説いた教えだとわかる。
この世っていうものは、「三車火宅」と思っていたほうがいいと。
なにかをプレゼントすると嘘をついて人をだましてもいいと法華経で釈迦が説いている。
人を動かすには物欲を刺激するのがいちばんだよ、と教えてくれる仏典がほかにあるか?
大声で「火事だ~!」と叫ぶことも大事なのかもしれない。
相手をパニックにさせて考える隙を与えず、さらに物欲を直接的に刺激する。
相手のほしいものをうまく読み取るのがマインド・コントロールの初歩になるのだろう。
いやあ、法華経はフィクションだが「本当のこと」が巧みに描かれている。

法華経は、結局は金という人生の真理を何度もしつこいほど繰り返す。
「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」のたとえだって、あれは遺産相続問題でしょう。
ゆがんだ解釈をすれば、金持の父親が
財産のちからで子どもをコントロールしているように思えなくもない。
貧困者が(本当は父とは知らず)富豪に仕えるのは彼の財力ゆえなんだから。
人生ではお金がもっともたいせつだという真理を法華経は説いているのである。
父親も最初から自分が親だとばらしたら、
子どもに怠け癖がつくからと嘘をついている。
この長者(富豪)は嘘をつく汚い大人なんだけれど、
彼が釈迦という話なんだから法華経は――。

「衣裏珠(えりしゅ)」のたとえも生々しい。
あれは貧乏な友人には絶対に金を貸すなって話でしょう。
金を貸したら友人ではなくなってしまう。しかし、友人になにかしてやりたい。
この答えのない問いへのひとつの回答例が、衣服の裏に宝を縫いつけておけ。
貧窮する友人はあるとき衣服の裏を見て、宝を自分で発見するだろう。
これは彼にとっては奇跡のようなものだろう。
道ばたで百万円を拾ったとか、その手のラッキーである。
友人に借金したわけではないから負い目を持たないで済む。
仏さまのようなものに素直にこうべを垂れることができよう。
法華経のなかではそうはいかず、この貧乏人が愚かすぎたのである。
衣服の裏の宝にいつまでも気づかず、
友人に再会して教えてもらうまで苦しみ続けたという。
これも要約しちゃえば、結局は金という話と言えなくもない。
お金というのは貸す(あげる)のも借りる(もらう)のもなかなか難しい。
相手が偶然自分で発見するように仕組んだ釈迦の交友術は巧妙である。
いいおっさんがなにウブなことを言うかって話だが、
「衣裏珠」のたとえに本当の友情のようなものが描かれている気がしてならない。

「髻中明珠(けちゅうみょうしゅ)」のたとえも世間の実相を教えてくれるものだ。
王さまが頭部にしている髪飾りの宝石なんて、
べつに価値があるわけではないでしょ?
しかし、それをほしがる兵隊さんがたくさんいるわけである。
兵隊さんは王さまのために心身をボロボロにしてまで闘い続ける。
で、いちばん功績のあったものが王さまの髪飾りをおしいただくわけだ。
創価学会員が自分の時間を投げ打って活動するのは池田先生のためでしょう?
池田先生や先生の権威を帯びたものからの賞賛を求めて兵隊さんはがんばる。
学会員さんにとっては高い役職が「髻中明珠」になろう。
わたしはかりに入りたいと言ってもたぶん拒絶されるだろうが、
学会に入ったとしても役職にだけは絶対につきたくないと思っている。
ヒラでいい。ヒラがいちばんいい。
兵隊になって先生のために命がけで勝負するなんて無理。
「髻中明珠」は創価学会だけの話ではなく、あらゆる組織に通用するものだろう。
「社長賞」とかその会社の内部の人はみんなあこがれるんだろうけれど、
外部の人にとってはそんな「社長賞」なんて大した興味がないわけでしょう?
「社長賞」よりも現金10万円のほうが嬉しいって話で。
しかし、組織に入ると人は「髻中明珠(社長賞)」を求めて兵隊になってしまう。
たくさんいた仏弟子とかだって、絶対みんな仲良かったわけがないんだから。
あいつがトップ(釈迦)にほめられたと聞けば、嫉妬するのが人間というもの。
そういう集団心理をうまく操作して競争させ利益を上げるのが経営者の手腕だ。
棒グラフのノルマ達成とか、学会一部ではまだやっているらしいけれど、法華経だなあ。
「髻中明珠」はオヤジの頭皮脂分がしみ込んでいそうで汚いから不要。それゴミじゃん。
このように部下の兵隊に思われないようにするのが重要と釈迦は法華経で説く。
「人間・池田大作」は新しく創造された価値(権威)で(東大は旧権威の象徴)、
外部の人には池田先生直筆の色紙とかゴミになってしまうところがおもしろい。
いや、宝はゴミで、ゴミは宝というのが法華経の世界観だから、
池田名誉会長の色紙が所持者当人にとっては1千万以上の価値があるというのも、
絶対的に「正しい」ところの法華経的真理のひとつとなろう。
東大と創価大がどちらが「上」かなんて人それぞれでしょう?
わたしは出身大学の野暮ったい校歌は大嫌いで覚えてもおらず、
いっぽう創価大学の校歌は大好きである(たまにYouTubeで聞くもん)。

「三木二草(さんもくにそう)」のたとえも世の中の真実を暴露している。
法華経の釈迦は「人間は平等」とは言っていないわけである。
釈迦の教えは天から降る雨のように平等に「三木二草」の民草をうるおす。
教えは平等に与えられるが、教えを受けるほうは「三木二草」とさまざまである。
これは身もふたもない人間の能力差をテーマとしていると言えなくもない。
人間は「三木二草」で容姿も身体能力も知力もまったくもって不平等、不公平だ。
だが、釈迦の教えはそれぞれの上にかならず降りかかるから、それぞれ伸びていけ。
とはいえ、雑草は桜やバラになろうと思ってもなれないという真理を説いている。
無理なものは無理。夢はあきらめなければかならずかなうは嘘。
いくら南無妙法蓮華経と唱えても、能力差があるから全員大勝利はできない。
可能なのは、それぞれが能力の範囲内でそれぞれの伸びを見せるくらいだ。
人間には能力差がれっきとして存在するという事実は、
なにやらむごたらしくて目をそむけたくなるが、それでも真理であろう。
後世の大乗仏教徒による創作である、いわば釈迦の嘘の教えである法華経は、
にもかかわらず「本当のこと」を説いている。

「化城宝処(けじょうほうしょ)」のたとえは人生の真理を描いているとさえ思える。
宝を求めて旅をする隊商の群れがいる。
険しい旅路にみんな疲労困憊している。
いったいどこに宝があるのか、そもそもなにが宝なのかもわからなくなっている。
そこで指導者が神通力で蜃気楼(しんきろう)のようなお城を創り出す。
とりあえず、あそこまで行って一息つくのを目標にしようじゃないかと仲間を励ます。
仮の(嘘の)お城(目的地)でしばらく休息したら隊商はまた宝を求めて旅に出る。
このたとえって人生そのものを描いていると思いませんか?
本当のところわれわれの人生航路の行くところは決まっていて、それは死である。
しかし、われわれは一般的に「自分の死」というものをあまり意識したくない。
このため「化城宝処(仮の目的地)」を常に必要としている。
いい学校という「化城宝処」。いい会社という「化城宝処」。独立起業という「化城宝処」。
結婚という「化城宝処」。子育てという「化城宝処」。世界平和という「化城宝処」。
ある種の群盲にとってはなにもしないで立ちどまっているのは耐えきれないのだろう。
なにか目標のようなものがないと無意識から死への不安が立ち込めてくる。
常に世間マスコミから与えられた目標を目指していないと落ち着かない人たちがいる。
なにかしないではいられない人たちにとってノルマを与えられる新興宗教は天国だろう。

広宣流布(こうせんるふ/布教)は限りがないから永遠の「化城宝処」として存在しうる。
人間はたとえいい会社に入っても、いい女と結婚しても、
それで満足するということがない。
どうせ死んでしまうのだが、そこは見ずに、
いやむしろ見ないようにするために「化城宝処」を求める。
自分で「化城宝処」を創造しているつもりの人も、
じつは指導者が神通力で描き出しただけの蜃気楼を夢見ているところがおもしろい。
就職、出世、結婚、健康といった世間的に評価されるものが「化城宝処」たりうる。
人間ってまったく本当に死ぬまで「化城宝処」を追い求めるものなのだろう。
「本当のこと」である死を見ないために嘘の宝物、嘘の目的地、嘘の夢を求める。
きっと人それぞれの「正義」なんかもそれぞれの「化城宝処」なのだろう。
変わるのが正義の人もいようし、人のために役立つことが正義の人もいよう。
「化城宝処」のようなものがないと、
酒びたりのアル中になってしまうような弱さが人間にはそなわっている。
たえずいまの状態では満足できず、
目的依存症の人たちに法華経が示す「化城宝処」は弘教(広宣流布)である。
どこまでも世界の嘘を見破った人たちが法華経で「本当のこと」ことを説いている。
法華経では、この世の中などどこまでも嘘(化城宝処)にすぎない、
と偽物の釈迦が「本当のこと」を説いているのだから矛盾しているとも言えるが、
この矛盾構造を持つがゆえに法華経は「正しい」のであろう。

有名な「良医病子(りょういびょうし)」のたとえも危ない問題を内包している。
帰宅した父親は子どもたちが毒を飲んで狂っていると判断するが、
子どもたちには病識(病気という自覚)がない。
これは精神病の問題とも相通じるのではないだろうか?
この場合、子どもたちは複数で父親はひとりだから、
世間の論理ではおかしいのは父のほうで精神病薬を飲むべきなのは父だ。
無宗教の人たちにとっては、
新興宗教に夢中になっている信者は狂っているとしか思えない。
反対にたとえば学会員さんからしてみたら、
こんないい薬(法華経)を毒だと思って飲まない一般人はおかしいと思うだろう。
法華経は毒にも薬にもなりうる副作用たっぷりの危ない麻薬と言えよう。
法華経では、父が外国に行き、自分が死んだという嘘の電報を打つ。
死んだらなぜか嫌いだった人も偲ばれてくるのが人情というもの。
その人情にほだされて父がすすめていた毒薬を飲んで、
子どもたちは父親の期待するような「いい子」になる。
どんな嘘をついてもいいから人情を刺激しろというのが法華経の教えであろう。
ボーダーライン人格障害のような迷惑な人間がいたとしよう。
そういう人はある種の魅力があるから自殺したら悲しむ人も少なからずいよう。
しかし、悲しんでいる最中に当人が息を吹き返したら一瞬「うげっ」と思わないだろうか?
いや、釈迦くらいになったらそんなことはないのだろう。
創価学会の池田先生の死が公開されたら悲しむ人が多いだろうけれど、
かえってこのとき「良医病子」のたとえの「正しい」ことが証明され、
いままで無宗教だった人たちも故人がすすめていた法華経という薬を服用し、
予想に反して創価学会という組織が再活性化してしまう可能性もゼロではないだろう。
そこで池田先生がよみがえったら、ふざけんな! と袋叩きにされるだろうが。
あんがい池田大作氏の死は巨大利権団体が新しくよみがえる好機なのかもしれない。
法華経の教えは「嘘も方便」である。
医者はいかにうまく嘘をついて患者を「知らぬが仏」にさせるかが腕の見せどころ。
宗教者はたましいの医者なのだからどのくらいの嘘をつけるかで器が決まろう。
自分が死んだという倫理的にはギリギリの嘘をついた法華経の仏は大物である。
これはまあ、結果がよければ方便(手段)は問わない(嘘でもいい)という
法華経の実利主義の現われとも言えよう。

いい本だったので、ほかにも思ったことをつらつら。
法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)関係で西安の草堂寺の写真が掲載されていた。
行ったことがあるので懐かしいと胸にこみ上げてくるものがあった。
思い返してみたら、あれは9年もまえのことなんだなあ。
まさかここまで仏教を勉強するようになるとは当時思わなかったが、
あるいは決められた道を歩んでいるだけなのかもしれない。
本書で敦煌莫高窟のわかりやすい解説があるけれど、
現地で見るよりもこういうガイドブックで見るほうがよほどおもしろいと思う。
そういえば敦煌に池田大作氏の石碑みたいのがあって、
日本人としてなにかやましいような気まずい思いをした記憶がある。
敦煌の宝物の発見者は、その価値がわからず西洋人に安く買いたたかれたとか。
そういう白人に比べたら敦煌に膨大な資金提供している池田先生は
どこも恥ずかしいところはないのだが、
なぜか金ぴかの池田先生は恥ずかしいというのが海外に出た日本人に
かなりのところ共通する心象のような気がしてならない。
しかし、ものの価値を知らないと安く買いたたかれてしまうのは残酷な現実である。
あなたの本当の価値は自分にしかわからないというのが恋愛感情らしいが、
学会員による池田名誉会長への心酔と恋愛感情はどのような関係にあるのか。
女子部の活動家は結婚できない、とか言われているらしいが。
本書の平家納経(平氏が奉納した法華経)は美しくてとてもよかったけれど、
このあとに平家が滅亡していることを考えると法華経の功徳が怪しまれてならない。
もっとも阿弥陀経も般若心経も納経したらしいから、
そのせいだと言い張ることもできよう。
さて、なんのために長々と法華経の紹介をしたかといえば、
わたしの場合は(学会員とは異なり)人のためではなく、
どこまでも自分の現世利益のためである。
これだけ法華経の危なさ怪しさを饒舌に語り尽くしたのだから、
明日以降どんなプラスの現証が泉のように噴き出してくるか楽しみでならない(笑)。

(関連記事)
「法華経現代語訳(上中下)」(三枝充悳/レグルス文庫/第三文明社)

2016年1月5日にウェブには否定的だった創価学会が画期的なネットCMを出した。
日を改めて何度も繰り返し視聴しているが、あの創価学会が変わったなあ。
こんなことを書くとインテリからはバカにされそうだが、感激して涙しながら見ているのだ。
それはきっと酔っぱらっているからで、
酔いがさめたときに思い返したら大爆笑なのだが。
笑いや泣きのあるところが、その人間くささが創価学会のよさであろう。
創価学会にとってあのネットCMを公開するのは大冒険だったのではないか?
しかし、あれを公開できる宗教団体なら、まだ健全で大丈夫なような気がする。
今回発表されたのは青年男子が主人公の「夢のその先に」と、
うら若き女子OLが主人公の「リアルな絆」である。どちらともゾッとするほどよかった。
創価学会がおおやけにこういうことを発表してもいいのかと恐ろしくなったところもある。
映像は創価学会公式サイトでご覧になれますから、
もしご興味をお持ちになりましたらそちらでお願いします(笑えて泣ける!)。

創価学会のネットCMのすごいところは、
信心強盛(内部でいわれるバリ活≒狂信者)のおばさんが交通事故に遭い、
死線をさまようところである。
むかしの学会なら交通事故に遭うようなものは、
信心が足らないからと嘲笑の対象になったのである。
それが最新のネットCMでは、創価学会で
最強といわれる婦人部の古株おばさんがどういうわけか交通事故に遭遇してしまう。
さらに現世利益を求めて「夢がかなう」宗教に新しく入った、
創価学会員の路上ミュージシャン青年もまったく報われない。
メジャーデビューを夢みる彼は「夢がかなう」といわれ学会に入ったのだろう。
しかし、青年が一生懸命に題目(南無妙法蓮華経)をあげたにもかかわらず、
近所の学会員が大勢でご祈念の題目を送ったのにそれでも、
ありがちなメジャーデビューを夢みる青年の安っぽい夢はかなわない。
具体的には、オーディションで箸にも棒にもかからず落とされる。

リアリティがありすぎて怖いと思った。
若い路上ミュージシャンを応援している創価夫婦の勤行が映し出される。
勤行とは仏壇に向かい南無妙法蓮華経と唱えることである。
その仏壇のご祈念の紙に、「一家和楽、無事故」と書かれているが、
モザイクでうすぼんやりと消されているのがまこと創価学会的でおもしろい。
現実はいくら題目をあげても交通事故に遭うときは遭う。
実際におなじようなご祈念をあげていた婦人部のおばさんも
交通事故で死ぬほどの苦しみを味わっているのである。
このネットCMを見るかぎり、創価学会に入ると交通事故に遭う確率が高まる。
創価学会に入ろうが、いくら題目をあげようが、
無理なものは無理で、青年の夢はかなわない――そういう誤解をされる危険性がある。
というか、まさにそれが創価学会のリアリティなのだが。
創価学会に入ったら交通事故に遭う。
創価学会に入ったら夢がかなわなくなる。

このたびの斬新な感涙的なネットCMを視聴して、そう解釈する人も少なからずいよう。
現実は、リアリティをいえば、
創価学会に入っても入らなくても、事故に遭う人は遭うし、
信心とはなんの関係もなく若くしてメジャーデビューする人もいるのだろう。
しかし、そんな現実には耐えられないから人は宗教に救いを求めるのだが、
創価学会はネットCMで恐ろしいまでのリアリティを公開してしまったのである。
このネットCMを企画、進行、発表したのはだれなのだろう?
おそらく異様なほどの反発が内部からあったと思われる。
それを強引におさえて今回のネットCM公開まで実行した責任者は、
本当の創価だましいの持ち主で革新者であろう。
交通事故に遭っても、夢がかなわなくても、リアルな絆があれば人は救われる。
たしかにこれこそ創価学会のもっともすばらしいところだとわたしも思う。
いま世界的に大きな変革が起きているような気がしてならない。
見た人にしかわからないが、
あの創価学会があんな革命的なネットCMを打ち出すとは――。

(創価学会公式サイト)
http://www.sokanet.jp/

創価学会CMドラマより――。

「(学会員は)いい人なんだけれど、うざい」

「(学会員の親切は)ありがためいわく(なところもある)」

「あなたが変わればまわりもかならず変わるから」

「ご本尊さまは(カラーコピーではなく)どこか遠いところにあるのではなく、
自分の心のなかにある……」

「題目をしっかりあげて! かならずいい結果が出るから!」


創価学会ってもしかしたら本物の宗教に近づきつつあるのではないか?
「いい結果」がもしかしたら交通事故遭遇やオーディション落選かもしれないわけだ。
交通事故に遭ったせいで、人のあたたかみや健康のすばらしさがわかることもあろう。
オーディションに落ちたことで、そういう芸能関係のコネの薄汚さに気づき、
華やかな人生よりもまじめに堅実に生きている人のよさがわかることもあるはずだ。
「夢はかなわない」「交通事故に遭う」――。
こんなネットCMを視聴して創価学会に入る人なんているのかとも思うが、
いまはそういう時代で、
このリアリティに満ちた創価CMはかならずや功を奏するような気がしてならない。
近所の医療品ピッキングの派遣仕事に
応募しようとしたら募集が締め切られていた。
掲載期間は1/28~29だったのだが……。
まえにも募集が出ていたことがあって気になっていた。
こういう一瞬の差で、人生いろいろなことが決まっていくんだろうなあ。
まあ、そこに応募しても落とされていたかもしれないわけだから。
受かって入ってもおかしないじめに遭っていたかもしれない。
大けがをする羽目になったのかもしれない。
反対に、そこに行くことになったら、
行かなかったことでこれから逢う予定の人たちと逢えなくなる。
どっちがいいのかなんてだれにもわからず、
ならば、そうだとしたらいま、この状態でうまくいっていると思うのが
精神衛生上好ましい心がけなのかもしれない。

自分も社会的に成功して子どもも成功寸前で
激安バスのスキーツアーに行ったら……
というのがおそらく人生の実相というやつだろう。
人生の選択肢はどちらが「正しい」という答えがない。
なぜならAを選んだら、
Bを選んでいたときのことは絶対にわからないからである。
同様、Bを選択したらAの人生航路は決して味わうことができなくなる。
この人生を決める「一瞬の差」の別名は偶然である。
わたしは偶然を信じているところがある。
偶然こそ「正しい」ような気がしてならない。
どのくらい偶然を信じているかというと、
偶然(という真実)のために死んでもいいくらいである。
これからもなるべく偶然にまかせて生きたいと思っている。
師匠といえば特殊映画監督の原一男教授だが、
こちらは名もなき弟子であり、
おそらく先生もこちらのことなど覚えておられないだろうから、
あまりおおっぴらに公開していいものではないと思う。
あんなゴミの弟子がいるようでは、
師匠のレベルもたかが知れていると思われたら恩師に申し訳が立たない。
大学で師匠に出逢ったが、
高卒(高校中退?)の大学教授がしきりにあおっていたのは
(当方の記憶違いかもしれないが)、就職なんかやめちまえ、である。
安定した仕事なんかより夢を取れ!
クラス(ゼミ?)で師匠の言葉を真に受けたのはわたしだけだったのではないか?

今日派遣先でいっしょになった大学生4年生の彼はとりあえず安定を選択したようだ。
バンドでメジャーデビューしたいという夢があるが、
社会人をしながら夢をあきらめないとのこと。
自分は功利的に自分の時間を比較的に持てる職場を選んだとのこと。
どっちに転んでもいいようにどちらにも保険をかけたようだ。
優秀な彼にとってはバンドのために給料の少ない仕事をあえて選び、
いちおうリスクは取ったという理屈になるらしい。
就職して社会人になったらみんないっしょになってしまうのが真実かもしれないが。
うさんくさいわたしは大学生にも「です・ます」調の丁寧語で話すからね。
おっさん、思わず言っちゃったよ。
「就職なんて辞めて、夢を追いかけましょうよ!」
そのあとすぐさま彼のシラーっとした視線に気づき言い直す。
「わたし、大卒後就職よりも夢を選んだから、こうなったんです。
ごめんなさい。ぜったいちゃんと就職して結婚したほうがいいです」

国学院大学生でバンドマンでイケメンの彼から言われたなあ。
「家族はいるんですか?」
「いません」
「すっかりお子さんとかいると思っていました」
最初に対面したときも強烈だった。
「ツチヤさんはふだんなにをしているんですか?」
「なにもしていません」
大好きな派遣社員さんがやばい空気を読んで助け舟を出してくれましたが。
「ツチヤさんはフリーなんですよ」
思えば、師匠の原一男先生もスーパーフリーな人だった。
師匠は選ぶべきである。わが選択の正誤は死ぬまでわからない。
今日も元気でいられることのありがたさよ。
じつのところ今月25日に死ぬつもりで人生計画を立てていた。
めちゃくちゃ不健康な生活をこの日に向けてしていたところがある。
なんのことはない、病院での血液検査である。
しかし、結果、たしかに標準値は超えているが、
善悪の判断は医者それぞれのレベルの模様。
やべっ、まだ大丈夫だったの? みたいな。
39歳なら死んでもおかしくない年齢なのに、なんで今日も元気でいられるのか?
わっかんねえな人生って。
で、ありがたくも単発派遣のお仕事をいただいて、今日も元気で。
「職場放浪記」ではないけれど、働いてみないとわからないことってあるよね?
今日の派遣先で学んだ価値を考えたらセミナーで1万円払ってもいいくらいだが、
逆に社会のお勉強をさせていただきながら
8千円もいただけちゃうこのラッキーはなにゆえ?
今日、そうかそうか、そうだったのかとわからなかったいくつかのことがわかった。
本ばかり読んでいては気づかない、学べないことがやっぱりあるのかもしれない。

今日の派遣を目的として昨日今日と大掃除をした。
区切りがなかったら大掃除なんかできません。
ピッカピカ(自称)になったが、だれも来てくれないが、それは構わないが。
さてさて、ときに貴重な社会見学をさせていただきながら、
謝礼を払うのではなく反対にお金をもらえちゃうのが働くことのよさと言えなくもない。
身の回りで巨大なエラー(ヒット?)が起きている気がしなくもない。
今日の埼京線はきちがいめいていたよねえ。
わたしが通勤するとき、最寄り駅の線路に人が入ってダイヤの乱れ。
帰宅するときもエラー(トラブル)があって、15分以上ダイヤが遅れていた。
ひとつまえのブログ記事は壮絶なエラー(ヒット?)と勝手に思っている。
あれ、酒を飲みながらノンストップで10時間以上かけて書いたんだよね。
一銭にもならないのに。
だから、今日のように本来はお金を払うべきところで金銭を得ても、
まあいっか、みんな「今日も元気で」あったから、まあいいじゃんと許して。
今日は本当に幸福な1日でした。
わかる人は若くてかわいい歯並びのいい女の子ひとりかもしれないが、
大宮はとてもとても想い出深い町であります。
「種種御振舞御書」(日蓮/御書講義録刊行会編/聖教文庫)

→決して存世中は成功したとはいえない不遇な仏教革命家の自伝的エッセイ。
日蓮は悪口の天才だったと思うんだ。
日蓮の目標は法華経をひろめることによって多数派になり、
要は偉くなりたかったのである。
とはいえ、いつの世も、とくに鎌倉時代のような身分社会では家柄が重視された。
小坊主の日蓮は、家柄がよく出世した坊主がうらやましくてたまらなかったのである。
どうしてあの坊さんたちはみんなから尊敬されているんだろう?
おそらく一生うだつが上がらないだろう自分と高僧たちとの違いはなんだ?
本当は出世するためには上から気に入られるための処世や裏工作が必要なのだ。
まあ、日蓮ほどサービス業に向いていない男はいないだろうから、
男がそういう難しい人事工作をすることは無理だった。
ふたたび、悩む。どうしてあの坊さんたちは偉いんだろう。
いちおう「正しい」ことを知っているから偉いってことになっているんだろうな。
では、彼ら高僧よりも「正しい」ことを主張してやつらを打ち負かせば、
今度は自分が偉くなれるのではないか?
坊主も勝者と敗者に分かれる。
弟子がいっぱいいてちやほやされる坊さんのほうが勝ちだろう。
論争になったときには「正しい」ほうが勝ちとなる。
ならば、「正しい」ことをひたすら研鑽しようと誓ったのが日蓮だったように思う。

日蓮は他宗の悪口を言いまくったのである。
まあ、最初はだれからも相手にされなかっただろう。
そうしたときに日蓮一派は相手が逃げたと吹聴し、
勝った勝ったと凱歌をあげたと思われる。人間は他人の悪口が大好きなのである。
とくに庶民は人の悪口が三度の飯の代わりになるくらい好きだ。
隣近所の悪口もおもしろいが、高い地位にある人の悪口ほど盛り上がるものはない。
(いまの週刊誌、ワイドショーなんかもそうでしょう?)
日蓮は権威を恐れない(死んでもいいという)「無敵の人」だったから、
どんな高位にある聖職者の悪口も口汚く言いたい放題だったのではないか。
悪口のなにがいいかといったら、悪口を聞いていっしょに笑ったら、
自分までその高い身分にある聖職者よりも偉くなったような気がするじゃないですか?
偉い人を見下した悪口を聞いて笑うのは、優越感が満たされ気分がよくなるのである。
日蓮の信者になったものは、日蓮の命を捨てた悪口ショーに魅せられたのだと思う。
あんな偉い人たちの悪口を言える日蓮って人はすごいんじゃないか、
と信者たちが思い始めたのを見透かして
日蓮も「おれは日本の柱だ」なんてハッタリをかます。
いやあ、本人は本気でそう思っていただろうから正確にはビョーキというべきで、
ハッタリと表現するのは不適切であったので謝罪する。

日蓮のデマを織り交ぜた下世話な他宗批判は、
下級武士や庶民には大いに受けた。
悪口ばかり言って世間を騒がす日蓮の身柄を抑えようと武士集団がやってくる。
(これは当時の警察のようなものと思ってよい=世間的に「正しい」集団)
さすがの日蓮も驚くだろうと思っていたら本人はいっさい動じず、
自信満々に「とのばら[おまえら]但今日本国の柱をたをす」と宣言するのだから、
自分たちが「正しい」と思っていた武士連中もあわてふためいたという。
この人、本物なのか、もしかして本物のあれなのか、
という恐怖感を逆に「正しい」武士団にいだかせてしまうのが日蓮のすごさである。
そこでまた他宗批判の悪口メドレーを日蓮はやったらしいのだが、
「或(あるい)はどっとわらひ(笑い)、或はいかり(怒り)なんど」した模様だ。
悪口で人を「どっとわらひ」の状態にさせることができたのが日蓮の才能だったと思う。
その場では怒り狂ったものも、家に戻って思い出したら、
まことクリティカルな悪口で笑いがとまらなくなったものもいたであろう。
理由はわからないけれど、
この人はすごいと一度対面した人に思わせるカリスマ性を日蓮は持っていたはずである。
思わず拝んでしまいたくなるような風貌が日蓮にはそなわっていたに違いない。
みんながみんな口ではきれいごとを言いながら打算(損得)を考えているなかで、
日蓮は狂人なのかテンネンなのか身の危険を毛ほどもかえりみず、
タブー破りに近いまでの「正しい」悪口をよどみなく威風堂々と話すのだから。

「おれはなんの権威にも屈さない」「死ぬのが怖くない」と口で言うのはかんたんだが、
本心からそう思っていないとすぐに底を見透かされてしまう。
日蓮は正真正銘に自分以外の権威を信じず、
法華経のために命を捨ててもいいと思っていたのではないか?
その存在感はいかほどであったことか。
「和を以て貴しとなす」の国で「正しい」ことを言うと悪目立ちして危険視される。
執行サイドにどれほど計画性があったがわからないけれど、
日蓮は死刑の宣告を受け首切り役人の手に渡される。
おそらく、世間を騒がしたくらいでは公的には死刑にはならないような気がする。
どこか冗談半分の意味合いもあり、
「あの日蓮とかいうクソ坊主は法華経のためなら命を捨てられる」
なんてほざいているが、本当かよ? ちょっと脅してみようぜ。
いざ死刑場に連れていかれたら小便をちびらせて泣きを入れるんじゃないか。
あの偉そうな悪口ばかりの坊さんに土下座させて命乞いさせるのは見ものだなあ。
そんな周囲の邪(よこしま)な期待もあっての、
相手の顔色をうかがうような悪戯めいた死刑執行だったような気がする。

悪口を言ったくらいでは死刑にはならないっしょ。
というか、悪口を言われた高僧とていちおう人格者なのだから、
(日蓮とは異なり)他人の批判を受け入れられる度量を持っているのではないか。
当時、鎌倉で出世していたのが良観(忍性)という坊さんで、
慈善家としてたいへん世間の評判がよかったらしい。
だが、日蓮があることないことでっち上げて良観の悪口デマを流したそうだ。
権力者とつるむためには、きれいごとばかりではいられない。
日蓮に流されたデマのうち真実のものもひとつやふたつあったことだろう。
日蓮サイドはこの暗殺(死刑執行寸劇)を裏で画策したのは良観だと断定している。
さんざん日蓮は良観にひどいことをしているから罪悪感のようなものがあったのだろう。
なんの後ろ盾もない日蓮が、
当時鎌倉仏教界トップの良観に雨乞い勝負を挑んだのである。
いま日蓮は大聖人だが、当時の日蓮はなんの肩書もない独善的なカルト僧である。
良観としては勝負を受けてやりたくても立場としてできなかったと思う。
良観と日蓮ではあまりにも世間的に格(肩書)が違いすぎるのである。
良観は「おもしろい坊さんが出てきたな」とあんがい好意的に思ったかもしれない。
そうしたらその日蓮というやつは、
勝手に雨乞い勝負の日にちを自分に有利なように決めて、
良観が無視しているのに勝手に勝負をしたことにして、
「日蓮は良観に勝ったぞ!」と弟子集団が町でふれまわっている。
世間の裏表を知り尽くした良観は苦笑いしたくらいだったであろうが、
良観の弟子が今度は大騒ぎしたのであろう。あの日蓮グループはいったいなんだ?
勝手に勝負を挑んできて、相手にしなかったら、勝った勝ったとデマを流している。
「あの日蓮とやらをぶち殺してやりましょうよ」という話は良観の弟子から出たと思う。
世の中の酸いも甘いも噛み分けた良観は弟子や周囲の意見におされて、
死刑の真似事くらいならという気持で、
いわゆる「竜の口の法難」をみんなのために演出したのかもしれない。
死刑場におもむくときの日蓮の心中はどうだったか。

(今夜首を切られに行く。この数年ずっと願っていたことはこれである。
この娑婆(しゃば)世界にいったい何度生まれ変わりして、
そうそう――弱いキジとなったときは強いタカにむさぼり喰われ、
弱いネズミとして生まれてきたときには強いネコにもてあそばれ喰われた。
人間として生まれ妻子のために心身をすり減らすだけで没したことは数知れない。
しかし、法華経のために死んだことは一度もなかった。
このため日蓮は貧乏人の子として生まれ、親孝行も十分にできず、
せっかく日本という国にありがたくも生を得たのに恩を返すことはなかった。
いまもいまわが首を法華経にささげて、その功徳を父母に回向(えこう)しよう。
余ったぶんの功徳は弟子や檀那(在家信者)に回してくれ)

「今夜頸(くび)切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。
此(こ)の娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、
ねずみ(鼠)となりし時はねこにくらわれき。
或はめこ(妻子)のかたき(敵)に身を失いし事、大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度だも失うことなし。
されば日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度頸(くび)を法華経に奉りて其(そ)の功徳を父母に回向(えこう)せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べし」(P104)


当時の警察ともいうべき武士集団は、
死刑場に連行したら日蓮が泣いて詫びを入れるとたかをくくっていたのである。
そうしたら死刑直前まで日蓮の態度はじつに威風堂々とした自信あふれたものだった。
もしかしたらこの日蓮というお騒がせ野郎は本物ではないか?
これほど死に際してそれでも堂々としていられるということは、
彼の教えは本当に「正しい」のではないか?
われわれはみんな自分が「正しい」と思っているが、もしかしたらそれは間違いで、
いま法華経のために使命感あふれていさぎよく首を差し出す
肩書ゼロのこのインチキ革命坊主の言うことのほうが「正しい」のではないか?
いったい「正しい」ってどういうことだろう?
そのとき巨大な流星が落ち、深夜にもかかわらずあたりは閃光に照らされたようになる。
敵方はみんながみんなこの共時的現象を目の当たりにして、
日蓮に恐れをなして逃げていったという。
非科学的かもしれないが、人生は科学では解明できないから、
こういう奇跡のようなことが1回きりなら十分に起こりうるのである。
言葉にしても人には信じてもらえないということが起きるのが1回きりの実人生である。
日蓮のこのとき見たものは、言葉にしたら嘘くさいが本当に起ったことなのだと思う。
本当に起きたことは言葉にすると嘘になってしまうことがある。
首切り役人たちは日蓮に恐れをなして、
職務を投げ出しその場からみな逃げ出してしまった。
日蓮が夜が明けたらみっともないから早く殺してくれと主張しているのに、
幕府の役人はひとり残らずその場から逃げ出している。
それほど日蓮はいっしょにいるだけで共時的に「怖い人」であったのだろう。
もはや日蓮を管理するものはだれもいない。
幕府上層部も日蓮の恐ろしさを実際に見聞きして、職務放棄したのだろう。
もはやだれも悪口ばかり言う「正しい」日蓮をどうしたらいいのかわからない。
日蓮としてもどこに行けばいいのでわからないので、
周囲に聞くとこの道を行けばいいと言われる。
お昼にようやく依智(えち)というところの本間六郎左衛門の家にたどり着いた。

(日蓮がそのお宅にお邪魔し、下級武士のために酒を取り寄せて飲ませてやると、
それぞれ帰るということになったらしく、
彼ら下級役人はいままで居丈高だったのとは正反対に低頭して、
さらにいま現代接客サービスでは常識のヘソのうえで手を交差させるポーズをして
偉そうだった公務員が言うことには――。
日蓮大聖人がこれほどの人だとはまったく思ってもいませんでした。
ぼくたちが信じている阿弥陀仏の悪口をおひろめされているとうかがい、
ずっと憎んでおりましたが、こうして目の当たりにお姿を拝見させていただき、
そのもうただただありがたき高貴なご様子に長年信じていた念仏を捨てることにしました、
と火打ち袋から数珠(じゅず)を取りだして捨てるものがいた。
今後はいっさい念仏を唱えないと文面にて誓うものも現われた)

「さけ(酒)とりよせて、もののふどもにの(飲)ませてありしかば、
各かへるとてかうべをうなたれ(低頭)、手をあさ(叉)へて申すやう、
このほどはいかなる人にてやをはすらん、
我等がたのみて候(そうろう)阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給われば、
にくみまいらせて候いつるに、
まのあたりをが(拝)みまいらせ候いつる事どもを見て候へば、
たうとさ(貴さ/尊さ)にとしごろ申しつる念仏はすて候いぬとて、
ひうちぶくろ(火打袋)よりすず(数珠)とりいだしてすつる者あり。
今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり」(P106)


結局、これが本当の布教のような気がしてならない。
布教は言葉や親切で相手を変えようとするものではなく、
自分のたたずまいを見て相手が自然に信仰を変えるのが
本物の折伏(しゃくぶく/宗教勧誘)だろう。
こざかしい末端の折伏なんかよりも、トップのカリスマ性(人間的魅力)が大きい。
池田大作さんも戸田城聖さんも、日蓮大聖人同様にカリスマ的魅力があったのだろう。
それはもう言葉にならない圧倒的なちからを持っているのである。
こればかりは経験してみないとわからない。
わたしがカリスマ性を感じたのは去年引退したプロレスラーの天龍源一郎。
ヨボヨボになった晩年はお愛嬌というもので、
全盛期に業界大手の新日本プロレスに喧嘩を売っているときの輝きはすさまじかった。
天龍をなまで見るだけで鳥肌が立ったものである。
タレントのライブでそういう高揚感を得たことのある人もいよう。
師匠としては、大学時代に出逢った恩師の特殊映画監督、原一男先生にもそれがあった。
おかげで人生を狂わされてしまったが(こちらの勝手な被害妄想だとはわかっている)、
いまは大学教授がすっかり板についた成功者先生にいまさら抗議するつもりはない。
「自分は絶対に正しい」と信じている人から発せられるカリスマ性というものがある。
天龍のように無勢で多勢に立ち向かっていく姿にも人は魅せられるだろう。
いまの創価学会は巨大組織だから、いまもいま日蓮が日本に生まれ変わったら
真っ先に池田名誉会長のことをこき下ろすに違いない。
(そのまえに精神病院に強制入院させられる可能性のほうが高いけれどさ)

で、日蓮はどういうコネかこの依智の本間六郎左衛門宅にしばらく滞在するのだが、
そのあいだに鎌倉でおかしなことがたくさん起こったという。
具体的には、放火や殺人が頻発したとのこと。
日蓮は自分を軽んじたら国が乱れると主張しているでしょう。
そう言っている日蓮を捕まえて、未遂に終わったが首を切ろうとした。
ここで鎌倉で放火や殺人が連続するというのは、なにやら創価学会的でおもしろい。
こんなものだれだって日蓮狂信者による自作自演を疑うわけでしょう?
心酔する師匠の予言を当たらせるために自作自演で鎌倉を荒廃させる。
たとえ捕まったって自分は念仏者ですと申し開きをすればいいのだから。
そうしたらそれは念仏者の犯行になってしまうのである。
いきおい念仏者が日蓮を追いこむために信者をよそおって犯罪行為をしたことになる。
ため息をつきつき思うのは、むかしから日蓮関係はやばかったんだなあ。
創価学会シンパながら念仏ファンであるわたしの個人的な思いでは、
念仏者は信仰のために放火や殺人まではできないような気がする。
念仏グループは弱いからそこまで教祖に思い入れを持てないのではないかと思うのだが。
むかしからなにか(=お経や教祖)を絶対的に「正しい」と信じるということは、
勇気が満ちあふれる楽しいことであると同時に怖ろしいことでもあったのだろう。

このあと日蓮は流罪として佐渡へ行かされる。
日蓮は、これまた悪人の良観を中心とした権力者集団による陰謀だと決めつけている。
わたしのわずかな人生体験や読書体験から思うのは、
良観はそこまで悪くないのではないか?
良観はたまたま家柄もよく師匠にも恵まれ、権力者ともお近づきになった。
なんとかして困った人を救いたいという利他精神から貧民救済事業までした人である。
権力者からしたら、
わあわあうるさいお騒がせ野郎の日蓮を殺すのなどたやすいことだった。
そうしたほうがいいと意見する人も常識から考えれば大勢いたと思われる。
これに反対して日蓮を守ったのが、
ほかならぬ日蓮その人が敵対視していた良観という世俗的意味での善人だと思うのだ。
日蓮は良観のせいで佐渡に流されたというけれど、
あのまま鎌倉に置いておいたら、
あんな物騒な坊主は絶対だれかに殺されていたでしょう?
教祖が狂騒的なのは新興宗教らしくていいのだが、
日蓮関係は弟子も狂信的に自分たちは絶対に「正しい」と言い張るのだから、はあ~。
あんな過激な教えだが、それでも教祖に救われている信者のことを考えると、
あの日蓮を殺すわけにはいかないが、
しかしこのまま鎌倉にいられたら政治も治安もなにもかもメチャクチャになる。
当時は精神病院がないのだから措置入院も無理。
ここでしばらく佐渡にでも行ってもらおうと考えた良観派閥はそこまで悪人なのか?
本書を読むと佐渡に流された日蓮は決して孤独ではなかったという。
他宗派の人々が日蓮のご機嫌を取りに日参していたとのこと。
それが被害妄想過剰な日蓮に言わせると、
みんながグルになって自分を改宗させようとしてきたとなってしまう。
ある無学な念仏者がおずおずお偉い日蓮大聖人さまに進言したという。
念仏の法然は法華経を捨てろとなんか言っていませんよ。
日蓮先生がお好きな法華経はたしかにいいんでしょうが、
われわれ愚民は念仏でないと救われませんので。
自分は絶対に「正しい」と信じている(そこが魅力なのだが)
日蓮は明らかに学のない念仏者を相手にせずけんもほろろに一蹴したという。

日蓮はわずか3年で佐渡流罪から赦免されるが
(身の回りの世話をするお弟子さん付きの労役なし三食昼寝完備の懲役3年!)、
この幕府の寛大な処置にも日蓮が敵視していた良観のちから添えがあったとされる。
雨乞いもできない無能坊主と日蓮がバカにした良観(忍性)こそ、
意外にも日蓮の隠れた恩人であったという歴史書が残っている。
ネットで知ったことだから、どこまで本当かわからないけれど、
仏教界の天皇陛下、中村元博士のご著作にこのような記述があるという。
博士によると、「本朝高僧伝」という歴史書に以下の記載があるそうだ。

「池上の日蓮、しばしば悪言を出して (忍)性[良観]を謗りて以って律国賊と為す。
(忍)性は意に介せず、
其 (=日蓮)の罪に陥るに及んで却って宥[許し]を平師(北条時宗)に乞う」


これが事実かどうかは永遠にだれにもわからぬが、
本書で日蓮ときたら大恩人の良観の首をはねよとさかんに主張していたとのこと。
それどころか良観のいる極楽寺を焼き払えとも言ったとか。
大恩ある良観を地獄に堕ちると決めつけたのがわれらが日蓮大聖人さまである。
こういうことをできる人ってレアだから、やはり日蓮はすごくて「怖い人」なのだと思う。
佐渡に流された日蓮は自己憐憫たっぷりに以下のようなことを書いている。
しかし、ここがいちばんいいのだ。
不幸(マイナス)を幸福(プラス)に代える宿命転換の実相を日蓮は巧みに描写する。
どうして「正しい」ことを言って「正しい」ことをしてきたのに、
(本来ならば幕府中枢で重んじられるべき)自分が
こんなクソ寒い日本の辺境、佐渡ヶ島のあばら家に流れ着いたのか。
いや、この不幸こそ幸福であると日蓮は佐渡で法華経の諸法実相を悟る。

(いま日蓮はこんな時代に生まれて南無妙法蓮華経というオリジナル呪文を
ひろめたせいで、佐渡流罪という困難に遭遇しているのである。
[あまりにも寒いので熱燗を一杯やって」考えてみると、これは不幸だろうか?
めったにないラッキーと考えることもできるのではないか?
あの中国高僧のチギでさえ法華経に書いてあるこの苦境を味わったことがないのだ。
法華経に書かれている本当の困難に向き合ったのは自分だけではないか?
法華経で仏さまがあなたこそ成仏できると名指ししてくれたのは、
まさしくわたくし日蓮ひとりである。
ならば前人未踏の究極の悟りに突入したのは疑いえない。
自分を迫害した北条時宗こそよき指導者であった。
日蓮を死刑寸前まで追い込んだ平左衛門はダイバダッタのようなもので、いわば恩人。
ぶっ殺してやりたいくらい大嫌いだった念仏者もいまでは尊敬できる。
ちまちまうるさいルールばかり主張する坊さんも生きていていいんだ。
みんなみんなそれぞれそのままでいいんだ。
だれも悪くないし、それぞれがそれぞれのカラーで輝いているではないか!
仏さまはいま生きているこの世にたしかにいて、あの人もこの人も仏さまだ!
法華経の肝心かなめは諸法実相という究極智識と言われているが、
それはこのことであったか! 
悪役がいてもよろしい。
あなたは日蓮にとっては悪役だが、あなたにとっては日蓮が悪役なんだね。
いまのままで芝居としてはすべてがうまくいっていたのか!)

「今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘(ひろ)めてかかるせ(責)めにあへり。
仏滅度後二千二百余年が間、
恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。
数数見擯出の明文は但日蓮一人なり。
一句一偈我皆与授記は我なり。
阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし。
相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。
念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘なり。
在世は今にあり今は在世なり。
法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等との(宣)べられて候は是なり」(P135)


日本史上、良観も日蓮もいなければならなかったのである。
恵まれた良観もきっと自分に喧嘩を売ってくる日蓮を見て思ったんじゃないかなあ。
おお、この小僧は肩書こそないが自分よりも純粋な本物の信心を持っている。
いったいどうしてやるのが日蓮のためになるのだろう?
佐渡に3年くらい流してやれば人生の理不尽を知り、
そこは自分にはわからない境地だが、さらなる深みある信心に到達するのではないか?
日蓮はいじめられっ子ぶっているが、
みんな日蓮に注目していて大好きだったのかもしれない。
なんか気になる目立つ存在ってかわいがりたくなるよねえって話で。
そして、日蓮がそんなに不遇だったかどうかもわからないのである。
日蓮は佐渡なんかに流しやがってと思ったかもしれないが、
その佐渡には食うや食わずで妻子ともども労働しながら
浄土信仰(極楽往生)だけを頼りに生きていた貧民もたくさんいたはずなのである。
果たして日蓮大聖人はそんな無学な貧民の、
わらにもすがるような阿弥陀仏信仰まで否定する完全正義の人だったのだろうか?

ブログ記事冒頭、日蓮は悪口の天才と書いた。日蓮はさあ、悪口がうまいんだ。
下品な決めつけというか、じつに庶民の心をよくわかっている。
低俗な庶民は、人の死に顔を見たいっていう黒々とした願望があるわけだ。
あの人、生きているあいだはブイブイいわせていたけれど、
晩年はガンで死ぬほど苦しんだらしいわよ(ザマアミロ)みたいな。
いくら成功者になって恵まれた人生を送っても、お嬢さんが交通事故で、
ごにょごにょ、死体はどんなだったのかしら?
ちなみにわたしの母は当方の目のまえで飛び降り自殺。
叔父は昨年、孤独死してぐちゃぐちゃの腐乱死体として発見された。
わたしの行く末も推してはかられようが、
これも謗法の罪を犯したせいだとあきらめている(こんな記事を書いているし、あはっ)。
さて、人の死に顔の善悪をことさら強調した日蓮の浅ましさに打ち震えるところがある。
あいつは現世ではうまいことやっていたけれど、
来世ではどうなんだかねという庶民の怨恨感情をじつに見事に満足させる観点だ。
くっくっく、あいつは成功したそうだけれど、ありゃあ後生が悪いぞ、ザマア!
こういう大衆心理を日蓮大聖人はよく知っていた。
法然が専修念仏を主張するきっかけになったのは中国高僧の善導の言葉である。
日蓮によると、善導は晩年発狂して柳の木から飛び降りて自殺しようとしたらしい。
しかし、死ねずに14日間苦しみに苦しんで絶命したとのことである。
こんなことはデマというほかなく証文はどこにもないのである。
だが、こういうデマを耳にすると念仏者はじつにいやな気分になる。
日蓮はそういうところがうまかったのである。
私見では、善導はもしそうだったとしても感動しながら死んでいったと思う。
浄土信仰があるならば自殺しないほうがおかしいのである(法然、親鸞はインチキ)。
善導は浄土信仰の究極的行為である自殺に気づいて敢行したのがよかった。
にもかかわらず、死ねなかったことにも善導は感激したと思う。
なぜなら人生は自力ではなく他力であることを身をもって
人生の幕引きで悟ることができたのだから。もし日蓮のデマが本当でも、
それは善導の価値をいっさい下落させるものではないとわたしは思う。

日蓮は庶民から慕われている弘法大師(空海)が大嫌いだったようで、
こんな悪口をよく言っていたという。日蓮の悪口でこれがいちばん冴えている。

(弘法大師(空海)の真言密教が「正しい」わけなんかないだろう?
だったらさ、後鳥羽院が承久の乱で負けて隠岐に流されるかって話だ。
空海の手下たちが大勢天皇家の勝利を祈願していたのになんだこのざまは!
弘法大師とか大笑いで泣けてくるぜ。民間人に負ける天皇家って情けねえ。
みんな隠岐に流された後鳥羽院を「隠岐法皇」とからかって言っているが、
あれを最初に言い始めたのはおれさま日蓮なんだなあ。
天皇家でかわいがられていた幼児も首を切られて血だらけになって死んだわけだ。
弘法大師の密教なんか嘘八百の詐欺行為だとまだわからぬのか愚か者よ!)

「日蓮が申すやうは、しばしまて、
弘法大師の悪義まことにて国の御いの(祈)りとなるべくば、
隠岐法皇こそいくさ(軍)にかち給はめ。
をむろ(御室)最愛の児(ちご)せいたか(勢多迦)も頸(くび)をきられざるらん」(P199)


日蓮が「真言亡国」と弘法大師の真言密教を批判しているのは目にしたことがあったが、
創価学会教学部が編集した本書で、そういう解釈もできるかと手をたたいたところがある。
たしかに教学部の言うように、インドで密教(仏教の土着化)が起ってきたころ、
イスラームに攻められて本場では仏教が消滅しているのである。
インドもボロボロになった。「真言亡国」とは日蓮大聖人もよく言ったもんだ。
日蓮はよほど権威的なエリートインテリ密教が嫌いだったのか、
弘法大師(空海)のみならず、
尊敬する伝教大師(最澄)の弟子の慈覚(円仁)のひでえ悪口を書いている。
空海も円仁も死に様が最悪だったというのである。

(みんなが慕っている弘法大師も慈覚大師も悲惨な死に方をしたのだが、
これが情報操作というものか、意外と知られていないので驚くばかりである。
弘法大師も慈覚大師もうめき苦しみながら阿修羅のような形相で息を引き取った。
そうではあるけれども、どちらのケースも大勢いる弟子どもが隠したから、
公家(貴族さま)の知るところにはならなかった。
しかるがゆえに、いまも弘法だ慈覚だのと崇拝する無知な愚か者がいるのだよ。
真実というものは暴露するものがいないと、
未来永劫まで嘘が本当としてまかり通ることになるんだから怖いものだなあ)

「弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、
弟子ども隠せしかば、公家にもしらせ給はず。
末の代は・いよいよあをぐ(仰ぐ)なり。
あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし」(P222)


きっと「正しい」真実というのは最後まで本当のことを隠し通した嘘になるのだろう。
日蓮の御書は悪の教科書とまで言ったら大げさだが、処世の智恵にあふれている。
「正しい」ことを言い張ると迫害されるが、それでも拾う神はいるとか。
「おれは悪くない」で最後まで押し通したら結局それが善になってしまうとか。
日蓮の仏教界における最大の功績は、難解な仏教世界を大衆娯楽化したところだろう。
あいつは善で、あいつは悪。
少数の善が大勢の悪をバッタバッタなぎ倒したら爽快だよね――
みたいに日蓮は仏教を
庶民にわかりやすいエンターテイメント世界に移植した偉人なのだと思う。
映画でもテレビドラマでも大衆小説でも、善が悪を倒すというところだけは変更不可。
悪が勝っちゃうと、人の心におかしなもたれが生じてしまう。
まあ、善が悪を倒すというけれども、
その倒される悪もいちおうは善を自称しているのだが、
そういう複雑な世界観は庶民には受け入れられず、
南無妙法蓮華経で仏敵と勝負しているのがドラマチックで刺激的な生き方なのだろう。
一箇所、日蓮大聖人の名文を読んで(名文がゆえに)おかしな発見をしてしまった。
たとえば、創価学会員さんにはいい人が多くて、
本心から人の役に立とうとしたり、社会の役に立とうとしているよねえ。
わたしのような使えない役立たずには、とてもありがたい存在でお世話になることも多い。
さて、日蓮大聖人はこう言っている(←なーんか学会員っぽいでしょ。違うんだけれど)。

(道理を考えてみたら、鹿は肉がうまいから人に殺され喰われ、
亀は貴重な油を有しているがためにこれまた殺され命を失することになるわけだ。
女性は美人でスタイルがよいほど、おなじ女性から嫉妬されて苦しむ羽目になる。
一見すると恵まれているように思える政治家は、
常に他国からの攻撃を恐れて夜に安心して熟睡する暇(いとま)もないのではないか。
金持や富裕層は財産があるがために命をねらわれることも少なくないだろう。
法華経を信じるものは精神の富裕層のようなもので、かならず成仏する。
このために悪魔が嫉妬して、
成仏決定の法華経の行者をわざわざ選んでいろいろな意地悪を仕掛けてくる)

「されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。
女人はみめ形よければ嫉(ねた)む者多し。
国を治る者は他国の恐れあり。財有る者は命危(あやう)し。
法華経を持つ者は必ず成仏し候(そうろう)。
故に第六天の魔王と申す三界の主、
此(こ)の経を持つ人をば強(あながち)に嫉み候なり」(P241)


もし日蓮の言うことが本当なら法華経なんて信じないほうがいいことにならないか?
というのも、法華経を信じると悪魔から嫉妬されてかならず魔が生じるというのだから。
命をねらわれるくらいなら金持になんかなりたくないという意見も出よう。
おかしな嫉妬をされるくらいならほどほどの容貌の女性のほうがいいことになる。
それでも、にもかかわらず、日蓮がこう教え諭してくれているのに、
われわれは金持になりたいとか、さまざまな邪心をいだくのではあるけれど。
法華経を信じると自分は「正しい」とか思っちゃうから、
周囲と衝突するのは必定といってよい。
しかし、その困難のなかにこそ
生きる味わいがあると日蓮は言いたかったのではなかろうか。
南無妙法蓮華経。おれは絶対に「正しい」から敵はかならずや打ち倒してみせるぜ。
なんちゃって、うっそぴょーん♪

*本文引用は創価学会公式サイトからコピーさせていだだきました。大感謝っす。
ネットCMを見たら、学会も変わろう変わろうとしているみたいですね。
近づいてくる学会員のような親切な人はたくさんいらっしゃるのですが、
だれも座談会に誘ってくれません。役に立たないからなんでしょうけれど。
学会員は大好き。南無妙法蓮華経。

縁あってセブンイレブンの商品を試食するようになったが、
これはすごいことなのである。
だって、この傲慢で尊大なわたしを変えたのだから。
かつてのわたしにはコンビニになんか行かないという
腐った矜持(きょうじ)のようなものがあった。
セブンイレブンをよく知らないのに、セブンを嫌っているようなところがあった。
たまたま偶然セブンの食品を大量購入、試食したのは臨時の高収入が入ったからだ。
なんだかなにかに申し訳なくなって思わずセブンイレブンに入ってしまった。
そこで、うげっ、たけえ、と思いながら購入した食品のいくつかがうまかったのである。
新世界を発見したような気がした。
結局、こういうことなんだよね。
安くてまずいものを二品食うよりも、多少高くてもうまいものを一品食うほうがイイ♪
一昨日だったか、深夜の3時、4時に酔っぱらってセブンに行ったけれど、
いままで口にしたことがない目新しい食品がたしかにあり、
食べてみたらもう一度買うかはわからないけれど、いまのいまは満足したもの。
くわっ、この味があったかみたいな感動があった。おいしいは正義。
スーパーの惣菜って味が予想できてその通りでいいのだが、つまらないとも言える。
新しい味覚を体験したいという本能が人間にはあると思う。
えええ、こんな味があったのかという、それは生きる喜びだ。
セブンの存在理由だ。おそらくセブン大躍進の秘密だ。おいしいは正義。
太鼓持ちではないので本音を書くと、
セブンの「金のビーフカレー」はこのひと月で6、7度食べたがそろそろ飽きた。
「スモークタンスティック七種のチーズ入り」は10本以上購入。
あれはいまでも、まあ飽きてはいない。
いまもいま麻薬のようにとりこになっているのは、
300円と高いけれど脳みそがいかれてしまうくらいうまい「ひとくちスモークチーズ」。
いったいこれはなに? と疑ってしまうくらいうまいので困る。
どうやら近所のセブンで顔を覚えられ危険視(?←大げさやねん♪)されたので、
最近は他店舗を放浪している。
セブンって店舗によって売っている商品が違うんだねえ。
知る人ぞ知る「本の山」創設者の2ちゃんねらームー大陸氏おすすめの
生野菜スティックがいまだに某店で売っていたので冒険的に買ってみた。
高い、高いアルよ。でもまあ、食ってみたら、クウウ、うまいぜ。
ムーちゃんくらいの収入があったら、毎日これを食えるんだなと思った。
結論めいたものを書かないといけないのが文章作法の定めでいやなところだが、
安いものにばかりこだわるのをやめて、
高くてもおいしいものにチャレンジするのも一興かもしれない。
むろん、そのためにはお金がいちばん大事という身もふたもない話になるのだが。
通俗的でつまんないね、ごめんちょ♪
「佐渡御書」(日蓮/池田大作監修/聖教文庫)

→御書(ごしょ)とは日蓮が信者に送った手紙のこと。
本書は表題の「佐渡御書」以外にも「祈祷抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」を収録。
気が狂うほど繰り返し読んだ結果、もうなんだか吹っ切れてしまい、
いまから安酒をかっくらいながら思ったことを好き勝手に書かせてもらう。
文句があるならいくらでも論争してやるから、
匿名でこそこそコメント欄に書き込むような卑怯なことはせず直接逢いに来やがれ。
ただし一対一だからな。多勢に無勢のだまし討ちはごめんこうむる。
このたび日蓮大聖人の御書をボロボロになるまで読んで、
自分が絶対に「正しい」ことに気づいた。

日蓮はあらゆる仏僧のなかでもっとも「正しい」という結論に行き着いた。
いったい「正しい」とはなにか?
なぜセンター試験には「正しい」答えがあるのか?
その「正しい」理由はなにか? 答えは、権威である。
多くの大学教授がその答えを「正しい」と支持しているから、その選択肢は「正しい」。
あるときまでは地球が自転しているのは間違いであった。
なぜならキリスト教の権威者の言うことが「正しい」ことになっていたからだ。
あらゆる「正しい」ことは既存の権威によっている。
日本でいちばんの大学は東大だから、かの大学の教授の発言は「正しい」。
庶民の意見と東大教授の意見が食い違ったら「正しい」のは教授になる。
末端のおまわりさんのどこが「正しい」のかは一見わかりにくいが、
彼は国家権力たる警察に所属しており、
この集団のトップには東大が大勢いるため、その威光で彼もまた「正しい」。
「正しい」とは権威でありブランドである。
仏教の開祖とされる釈迦が「正しい」理由は権威があるからだ。
古今多くの権力者(権威者)が釈迦を「正しい」とみなしたから彼は「正しい」。

けどさ、みんな薄々は気づいているだろうけれどブランド(権威)ってうさんくさい。
いま奮発して高価なイタリア直輸入の生ハム三種を食べている(半額購入)。
なんかパサパサしていてまずいのよ。
よほど昨日定価で買った国産のビアハムのほうがうまかったと思う。
(ちなみにイタリアハムは半額でも400円、国産ビアハムは定価で200円)
おそらく「正しい」味覚は、本場のイタリア産生ハムをうまいと感じる舌であろう。
ここで二派に分かれる。イタリアのブランドに屈するものと、わが舌を信じるものと。
大半の庶民階層は自分の舌を信じられないのである。
ブランドが上のほうのものを「正しい」「おいしい」「価値がある」と思ってしまう。
グルメのみならず人生全般でブランド(権威)に右往左往し死んでいくのが庶民だ。
どうして自分の感覚を「正しい」と思えないかというと自信がないためである。
自分に大したブランドがない庶民は自信を持って自分が本当に思ったことを言えない。
自分のことを自信を持って「正しい」と思えない。
どうしても世間の目を気にしてしまう。主君にはヘイコラしてしまう。

しかし、日蓮はそうではなかった。日蓮は自分こそ「正しい」ことを知っていた。
「正しい」というのは権威でも多数決でもなく自己の主観のなかにある。
自分が「正しい」と思ったことが「正しい」。
どれだけそれを「正しい」と信じることができるかが「正しい」ことの証明になる。
日蓮の論理はこうである。日蓮は絶対に「正しい」。
なぜならもっとも「正しい」法華経を信仰しているからである。
なにゆえ法華経がもっとも「正しい」のかというと法華経にそう書いてあるからである。
釈迦はいろいろな時期にさまざまな教えを説き、それがお経となって残っているが、
最晩年の8年に説いた法華経が優劣でいえばもっとも勝っている。
というのも、釈迦自身が法華経のなかでそう説いているからである。
だから、南無妙法蓮華経こそ絶対に「正しい」。

とはいえ、である。日蓮の師匠は念仏者で、
日蓮も南無阿弥陀仏を唱えていた時期があったのである。

(日蓮もむかしはバカ者で正しい仏法を批判するようなことをしたもんだ。
若かりしころは師匠から教わった南無阿弥陀仏を信じていて、
「師弟不二(していふに)」は絶対だと自分のあたまで考えようとせず、
法華経を信じているものを見かけたら、念仏者の仲間と群れながら
「あいつらは絶対に成仏できねえよ」などとせせら笑っていた。
ところがいま謗法(ほうぼう/正法批判)の酔いからさめてみたら、
まるでさながら酔っぱらいが恩義ある両親をぶん殴って喜んでいたが、
酔いがさめたあとに後悔して嘆いているようなものである)

「日蓮も過去の種子、已(すで)に謗法(ほうぼう)の者なれば、
今生に念仏者にて数年が間、
法華経の行者を見ては「未有一人得者・千中無一」等と笑しなり。
今謗法(ほうぼう)の酔(よい)さめて見れば、
酒に酔える者父母を打ちて悦びしが、
酔さめて後(のち)歎きしが如し」(P16「佐渡御書」)


この日蓮が書き残したとされる一節はいろいろ意味深い問題をはらんでいる。
日蓮は念仏者の師匠を裏切ったことになるがこれはいいのだろうか?
日蓮系仏教利権団体、創価学会では「師弟不二」をことさら重んじている。
「師弟不二」とは師匠は弟子のことを心配して、弟子は弟子で師匠を敬えという、
美しい師弟愛を推奨するスローガンといえようか。
だが、親分の日蓮がさらさら「師弟不二」の観念を持っていないのである。
もうひとつの問題は、人間の変化に関することだ。
日蓮は既成の南無阿弥陀仏を完全否定して(念仏者は地獄に堕ちる!)、
オリジナルの南無妙法蓮華経こそ「正しい」という姿勢に転向した。
日蓮が開眼したのは32歳だったとされているが、
ということは31歳の日蓮は南無阿弥陀仏を「正しい」と思っていたということだ。
これはどうしてかというと、人間は変化(成長/老化)するからだろう。
そうだとしたら、ならば、さらに日蓮は変化する可能性もなくはないことになる。
もしかしたら弟子が隠しているだけで、
死期が迫った日蓮は病床で念仏もまた「正しい」と言ったかもしれないのだ。
「正しい」ことは変わりうることを身をもって知ったのが日蓮ではなかったか。
それなのにどうして南無妙法蓮華経こそ絶対正義と言い放つことができたのだろう。

歴史的には否定されている五時八教という中国高僧のチギが唱えた説がある。
釈迦は最初に悟ったときに華厳経を説いたがだれにも理解できなかったので、
はじめは小乗仏教から説いていったという物語である。
華厳経や法華経は後世の創作だから
このフィクションを批判するのはおかしいのかもしれないが、
釈迦が35歳ですべてを悟ったと考えるところが間違いなのではないか。
釈迦も生きているうちに少しずつ思想が深まっていき、
布教内容も年ごとに変わっていったのではないか。
で、般若経や浄土教典、法華経などを順次説いていったと考えたらどうか。
そもそも大乗仏典は釈迦とは無関係の後世の創作だが、しかしである。

日蓮の言葉に戻ろう。
日蓮は信心(信仰)を酒の酔いにたとえているが、これは本当におもしろい。
このたとえができるということは日蓮は泥酔した経験があったはずだ。
人が酒を飲んでおかしなことをしてしまうのは善悪や損得の観念がゆるむからである。
そして、酔っぱらいの特徴は自分はまだ酔っていないと言い張るところだ。
酒に酔っているかどうかは当人にはなかなか自覚できない。
「おれは酔っていない」なんて言い始めたらかなりの泥酔状態なんてことはよくある。
日蓮もむかしは念仏者で法華経の行者を軽んじてあざ笑いさえした。
しかし、あれは酔っぱらっての行動だったといまは嘆いているのである。
酔いからさめたいまのあたまで考えたら、とんでもないことをしてしまった。
だが、どうしていまの日蓮が酔いからさめているという証拠があろうか。
日蓮の酔いはさらに深まり、いまは泣き上戸(じょうご)になっているとは考えられないか。
過去の小さな失敗を大失敗をしたと思い込んでくよくよ嘆くのが泣き上戸である。
人を狂わせるという意味で、宗教はまったく酒のようなものという日蓮の指摘は「正しい」。
人はなぜ酒を飲み酔おうとするのか? そのほうが楽しいからである。
精神的にも身体的にも酔っぱらうのは快楽である。
新興宗教に夢中になるのは常時軽躁状態でいられるようなものでとても心地よい。
酔い心地のまま人生を終わられたら幸(さいわ)いなのだが、
あるとき酔いがさめてしまうとおのれが巻き起こした災(わざわ)いに卒倒してしまう。
おそらく日蓮の好きな言葉ベスト3に入るのが「地獄に堕ちるぞ」だから、
生まれたときから創価(洗脳)教育を受けて育った二世や三世はいいときはいいが、
あるとき創価学会に疑いを持ってしまったら真の地獄が始まるだろう。
わたしは外部だからか地獄への恐怖感というのがいまいちわからない。

さて、日蓮の主張というのは「おれは絶対に正しい!」である。
だから、幕府(権力者)は「おれを重んじよ」「おれの言うことを聞け」――。
「おれに逆らったら大難が来るから覚えとけ」とまで日蓮は言っているのである。
果たしてこれは素面(しらふ)の人の発言か、それとも泥酔者の暴言か。
日蓮自身は「いま自分はようやく酔いからさめた」と言っているのである。
いままで日蓮のことがどうしても好きになれなかった。
なんなんだ、こいつ、というような意味不明なものへの不快感さえあった。
こうしてブログ記事を書きながらいま気づいたが、日蓮は大酔人なのではないか!
日蓮は大聖人であるが、同時に大酔人(大虎/おおとら/泥酔者)でもあられる。
いやいや、大酔人(大虎)であるからこそ大聖人であられる。
酔っぱらうとみなさん、本音が出るでしょう。
人格円満な平凡な会社員が酒席で叫ぶじゃありませんか。
「おれは間違っていない(=正しい)」
「今度会ったら(その場にはいない)社長をぶん殴ってやる」とかさ。
自分の話をしないといけないなあ。
わたしもさ、素面のときにはかなりさばけた常識人に近づいているわけ。
悪い人はいない。みんなそれぞれの立場というものがある。
人の欠点をどうこういうよりも、自分にも悪質な点が多分にあることを認めよう。
いまでは天敵のシナリオ・センターのほうが善であったと反省しているくらいだ。
でもさ、あはっ、酔っぱらうと話は別よ。「おれは悪くない」モードに入る(笑)。
自分は「正しい」という信念が込みあげてきて、
むかしちょっと意地悪をされたくらいのことを
被害妄想過剰にも針小棒大に拡大化して、この恨みをいつ晴らしてやろうか、
などとウキウキしながら邪(よこしま)で
どこまでも自分勝手な正義心を奮い立たせる(おお、こわっ!)。
いままで日蓮が嫌いだった理由がようやくわかった。
日蓮はまるで自分のようだから自己嫌悪のようにかの大聖人、大酔人を敬遠していた。
わたしはふつうの人よりも日蓮と同質性が高いから同族嫌悪していただけだったのか。

ぶっちゃけ、日蓮のようなハチャメチャをできる人なんていないっしょ?
生まれも大してよくなく、師匠は田舎寺の風見鶏の無能念仏坊主に過ぎなかった。
日蓮なんかどう客観的に見たところで歴史上に名を残すような器ではなかったのである。
いまもむかしも生まれの貴賤がいちばんたいせつというのは変わらない。
みんな本当のことを言わないけれど、
「人生は親で決まる」はかなり真実に近いといってよい。
ところが、日蓮はやらかしたのである。
家柄もよくなく師匠にも恵まれず、
このためまったく世間というものからさらさら評価されていなかった日蓮がなにをしたか。
「自分は絶対に正しい」と主張して既存の権力者を批判しまくったのである。
悪口を言うだけではなく、南無阿弥陀仏の改良版ともいうべき、
いままで世界でだれも口にしたことがない最新の南無妙法蓮華経を声高らかに唱えた。
南無阿弥陀仏は法然が創った言葉ではなくむかしからあった発想である。
いっぽうで南無妙法蓮華経は完全に日蓮が新しく創り価値を与えた言葉である。
それまで世界のどこにもなかった南無妙法蓮華経という言葉(=世界)を日蓮は創った。
新しい言葉ができるごとに新しい世界(体験)は生まれるのである。
底辺坊主に過ぎなかった日蓮が
すべての既存権威を否定して南無妙法蓮華経を創価した。
既存の権威のどれほどが「正しい」というのか?
しょせん「正しい」ことなど客観的な基準はなく、主観オンリーだろう?
主観とは信仰、信念、信心のことである。
あなたが「正しい」と思ったことは絶対に「正しい」。
わたしが「正しい」ことは客観的に評価されるべきことではなく、自分が決めることだ。
自分が「正しい」とゆるぎなく信じているものは、その信心のぶんだけ「正しい」。
日蓮が依拠したのは法華経の正統性(正しさ)である。
世間ではどっちが「正しい」かで裁判沙汰や夫婦喧嘩、対人トラブルが日々起こっている。
しかしと日蓮は言う。本当に絶対的に「正しい」のは法華経である。

(世間でもひとたび人様からご恩を受けたら命がけで返せと言われている。
実際、主君のために命を捨てる人は、少ないようでその実数はかなり多い。
男は生き恥をさらすまいと命を捨て、女は惚れた男のために命を捨てるもの。
人ならぬ畜生はどうかといえば、
魚は命を惜しむがゆえに池の浅さを嘆き、さらには池の底に穴を掘るものもいる。
そうまでしても釣り人の餌(えさ)にばかされて命を失ってしまう。
鳥は木に住んでいる。
木が低いことにおびえて、少しでも木の上に住みかをつくろうとする。
にもかかわらず、人にだまされて網にかかってしまい食われるのが鳥というもの。
人間もまたおなじようなものである。
世間の浅いこと、つまり損得や惚れた腫れた捨てられた程度で命を台なしにするが、
いちばん重要な真実である「正しい」法華経のために命をみずから捨てるものはいない。
このため仏になるものもいないのである)

「世間の法にも重恩(じゅうおん)をば命を捨て報ずるなるべし。
又主君の為に命を捨つる人は、すくなきやうなれども其(そ)の数多し。
男子ははぢ(恥)に命をすて女人は男の為に命をすつ。
魚は命を惜しむ故に、池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。
しかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つりばり)をのむ。
鳥は木にすむ。木のひき(低)き事をおじて、木の上枝(ほつえ)にすむ。
しかれどもゑにばかされて網にかかる。
人も又是(か)くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、
大事の仏法なんどには捨つる事難(かた)し。
故に仏になる人もなかるべし」(P9「佐渡御書」)


日蓮が「正しい」理由は法華経が「正しい」からである。
正確には、日蓮が「正しい」のは彼が法華経を絶対的に「正しい」と信じていたから。
どのくらい「正しい」かと信心していたかといえば、
そのために(法華経のため)に命を捨ててもいいと思っていたくらいである。
わが命というのはおそらく人間にとってかなり重要度の高いものだろう。
それを法華経のためにあえて捨てたいと思っていたのが大酔人の日蓮である。
実際、いわゆる「竜の口の法難」で
日蓮は法華経のために死んでもいいと思ったわけでしょ?
むしろ法華経(=真実、正しいこと)のために死ぬことを喜びとさえ感じていた。
自分の命よりも法華経は「正しい」と日蓮は信じていたから法華経は「正しい」。
しかるがゆえに法華経を信仰する日蓮もまた絶対的に「正しい」。
本当に「正しい」ことのためになら命を捨てられる、つまり自殺できるのである。
絶対に「正しい」ことの証明は命を捨てる――
自殺でしかできない面があるのかもしれない。
日蓮が「正しい」のは、
命を捨てられるほど(自殺できるほど)「法華経」を「正しい」と信じていたからだ。
南無妙法蓮華経と言えば死刑、
言わなければ延命という二者択一であえて唱題するのは自殺といっていいと思う。
あえて命を捨ててまでも日蓮は南無妙法蓮華経と言ってやる!
おれが信じたものが「正しい」ならば命を捨てても構わねえ!
ここまで信心が定まったからこそ、日蓮死刑執行直前に奇跡が起こったのだろう。
死刑直前に流星が落ちてきたかというあれである。
わたしはあの奇跡は実際に起こったことだとわが人生経験から信じられる。
あれは「時の一致」の問題で一回しか起きないことだが、一回はかならず起こるのである。
創価学会の宮本輝という骨董品や美食を好む大御所富裕作家が
人は自殺をすると地獄に堕ちると得意げに書いていたが(「錦繍」)、
日蓮大聖人のこの自殺志向には気づかなかったのだろうか?
昭和には親鸞という田舎坊主がインテリには人気があった模様だが、
親鸞なんて「死にたくねえ」とぼやいていた俗物だって弟子にばらされているんだがなあ。
わが身命ほど大事なものはないと90近くまで生きた親鸞なんかクソだろ。
いまこの瞬間に死んでもいいと思っていたのは日蓮と踊り念仏の一遍である。
こういう怖い人が「正しい」ことは対面した瞬間にみんな気づくのである。

日蓮は自分が絶対的に「正しい」と信じていたから「正しい」のであって、
こまごまとしたミスをあげつらっても意味がないとわかっている。
これから書くことは日蓮のチョイミスだが、
そのようなミスをする人は人間味があっていいではないか。
怖いことを書くと、このミスが日蓮の信心の要(かなめ)かもしれないのだが。
もしかしたらこの誤りを指摘したら日蓮は崩れていたかもしれない。
日蓮が「正しい」根拠は法華経が「正しい」ゆえだと書いた。
法華経が「正しい」ゆえんは法華経にそう書いてあるから。
「正しいから正しい」が「正しい」の理由なのだが、
日蓮のみならず現代人でさえ、あることが「正しい」ことの絶対的証明はできない。
ある人が当人が「自分は絶対に正しい」と主張していることが、
彼の「正しい」ことの証明になるというのは、世間常識的にはおかしな論理なわけで。

日蓮の「祈祷抄」に法華経が「正しい」理由は
涅槃経にもそう書いてあるからというくだりがある。
絶対正義を叫ぶひとりの証人を信じていいかの問題に日蓮も行き着いたのだろう。
そこで涅槃経にも法華経こそ最勝と記載されていると主張した。
一般人はここで降参する。なぜなら涅槃経など読んだことがないからである。
書いてあると言われたら、そうなのか、そうかそうかと思うしかない。
大乗仏典の涅槃経はかなり長いお経だから、
かりに既読だとしても一言一句記憶しているものはいないだろう。
日蓮のような自信家から、
涅槃経も法華経最勝を認めていると断言されると、そうかそうかと思ってしまう。
こちらは涅槃経には興味があり読んだけれど抄訳で、
絶対に涅槃経には法華経への言及がないとは言い切れない。
ところが「祈祷抄」には涅槃経のことが二度書かれているが、
弘法大師(空海)批判の箇所で日蓮のミスに気づく。
ねえねえ、みなさん、日蓮が庶民から慕われている弘法大師(空海)を
口汚くののしっていたというのはご存じでしたか?
恥ずかしながら、わたくしめはこの本ではじめて知りました。
日蓮は当時の仏教界の天皇陛下とも池田名誉会長ともおぼしき弘法大師を
めったくそにけちょんけちょんに批判しているんだ。
当時の弘法大師といったら、いまの池田名誉会長以上の権威があったことだろう。
池田先生を批判したら創価学会から仏罰をくだされ、
たとえ自殺に見せかけられて殺されても文句は言えないが(「創価学会ドラキュラ論」)、
当時の空海を批判しようものなら
一族郎党皆殺しにあってもおかしくなかったのではないか?
貴賤問わずみんなが信じて畏敬している対象である弘法大師を
日蓮はやっつけたのである。

貧乏人のせがれに過ぎない低学歴の日蓮が
どのようにして国民的偉人である弘法大師(空海)をやっつけたのか。
こういうことをしたから日蓮は庶民の支持を得たのだと思う。
空海なんて底辺の庶民からしたら恵まれたインテリに過ぎないわけで。
中国語が話せるというだけで、恐れ多いというか、ごめんなさいというか。
しかし、おなじ底辺階層出身を自称する日蓮が空海をやっつけてくれたのである。
こんなに気分のいいことはないではないか!
しかし、その空海批判でミスをしてしまう日蓮の脇の甘さはいったいなにゆえか。
日蓮の空海批判の根拠は、
弘法大師が「1.大日経、2.華厳経、3.法華経」と書いていたことである。
いんや、それは違うだろう、ナンバー1は法華経に決まっておるがや。
なにせ法華経にそう書いてあるし、涅槃経にも法華経は醍醐(だいご)と書いてある。
ここで日蓮のミスに気づいてしまった。
そもそもミスの指摘以前に、そもそもからして子どもっぽい喧嘩でしょう?
法華経よりも華厳経や大日経が勝っているというのは間違えているって、
どんなお子さま? 勝つとか負けるとかお経にも偏差値や年収みたいのがあるんでっか?
まるでさながら巨人ファンと阪神ファンの論争みたいではありませんか?
無関心な人には、
どっちだっていいと言うしかないようなみみっちい正誤を日蓮は問題にした。
で、涅槃経に法華経こそ
醍醐(だいご/究極のヨーグルト、妙味美味)と書いてあると論戦を張った。
ここなら記憶しており、読書感想文も書いている。
この記載は「大般涅槃経」の「聖行品第七、巻十四」のことだ。
要約すると、最高級ヨーグルト(醍醐)は
さかのぼれば牛の乳からつくられるが(釈迦の教え)、いろいろ加工していくことで
味が精練(せいれん)されたものになっていく(初期仏教→大乗仏教)。
このため、もっとも「正しい」のは法華経――
とは日蓮の記憶違いで涅槃経には書いていないのである。
醍醐(だいご/ヨーグルト)の例からわかるように、
もっともおいしくそして「正しい」のはわが涅槃経である、と大般涅槃経に書いてある。
涅槃経は法華経よりもかなり成立したのが遅いとされる後期大乗仏典だ。
ここを日蓮は読み間違えて法華経や自分は絶対に「正しい」と思い込んだのだろう。

とはいえ、こんな記憶ミスを指摘したところで日蓮が「正しい」ことはゆるがない。
その人が「正しい」と信じていることこそ「正しい」ことなのである。
生まれも学歴もさほどではない日蓮は、
にもかかわらずわずかなコネともいうべき師匠を裏切り、
ひとりでオリジナルブランドの南無妙法蓮華経を創価(=価値創造)した。
酔っぱらって「おれは間違っちゃいない」と吠えている人にはだれもかなわないのである。
いいか、「おれは絶対に正しい」――。

(せっかく日本の棟梁(とうりょう/親分)であるわたくし日蓮を信じるようになったものが、
日蓮が国家権力に嫌われ佐渡に流されたからといって、
ほうら現証が出た(仏罰が当たった)とせせら笑い正義の法華経を捨てるのみならず、
それどころかあろうことか生意気千番、
いまの日蓮は負け犬だからなんとでも言えると偉そうに説教してくるバカども、
えせ人生指導者連中はかならず地獄に堕ちるからいまに見ていろ!)

「日蓮を信ずるやうなりし者どもが、
日蓮がか(斯)くなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず、
かへりて日蓮を教訓して我賢(かしこ)しと思はん僻人(びゃくにん)等が、
念仏者よりも久く阿鼻(あび)地獄にあらん事、
不便とも申す計(ばか)りなし」(P22「佐渡御書」)


おれが間違っている? 悪いのはおまえのほうだ!

(わたくしの言葉はめくらには傲慢な大言壮語に見えるだろうけれど、
これは仏さまの教説にかなっており「本当のこと」を暴露するためなのだからやむをえぬ。
我輩だっていくらでも謙虚ぶることならできるが、
いまの日本で日蓮以外に真実、法華経のために命を捨てられるものがいようか?
おまえが日蓮の悪口を言うってことは、仏さまの顔に泥を塗っているようなもの。
おれを批判するおまえこそ稀代の大悪人でかならず地獄に堕ちるから覚えておけ!)

「我が言(ことば)は大慢(だいまん)に似たれども、
仏記を扶(たす)け如来の実語を顕(あらわ)さんが為なり。
然(しか)りと雖(いえど)も日本国中に日蓮を除いては
誰人を取出(とりいだ)して法華経の行者と為(な)さん。
汝(なんじ)日蓮を謗(そし)らんとして仏記を虚妄(こもう)にす。
豈(あに)大悪人に非(あら)ずや」(P84「顕仏未来記」)


創価学会では教えてくれない日蓮の本当の教えを以下にまとめてみる。
1.自分は絶対に「正しい」。「正しい」から「正しい」。自分を信じよう。
2.既存権力に逆らえ! 師匠への裏切りが新たな第一歩! 「師弟不二」は虚偽。
3.オリジナルブランドを創れ! 新しい価値を創造せよ! ひとりで創価しよう!

派遣先休憩室のテレビで知ったけれど、14人がバス事故で死んだんだって?
ひとつまえのブログ記事は事故前に書いたものだが、なんだか怖くなった。
べつに予想的中したわけではなく、その反対なのだが。
14人も死んでしまうと、世論は非科学的な原因探しを必死でする。
原因がわかれば、今後このような事故がふせげると信じているからだろう。
科学のなかで「正しい」割合が多いとされる数学的(確率的)に見ると、
交通事故というのは統計的事象なのである。
交通事故は確率的には非常にまれだが、統計的には絶対的に起こるものだ。
難病罹患率や自殺率とおなじで、いくら原因を探しても一定程度は発生する。
いくらみなが最大限の注意を払っても交通事故は絶対にゼロにはならない。
だれも悪くないし、自動車メーカーも悪くないし、
いわば世の流れというか、便利な社会が統計的に生み出したミス。
みんなが自動車の恩恵をこうむっている以上、
だれかが確率的かつ統計的に事故の加害者や被害者にならなくてはならない。
ドライバーは統計的にある割合でかならず事故を起こすともいえよう。
人身事故を起こしたくなかったら、ドライバーにならないのが最良の選択肢。
ペーパー歴17年のゴールド免許保持者だが、ドライバーになるのは絶対無理。
事故で人を殺すくらいなら、事故で苦しみながら死んだほうがまし。

今回の事故にも遺族がおられるわけである。
お子さんが死んじゃった親はたまらないだろう。
自分は「正しい」人生を送ってきたと思っていた人が大半ではないか。
世間的に「正しい」人生を送っている自分にレアな不幸は舞い込まないだろう。
しかし、今回このような事件にランダムに遭遇してしまった。
だれかのせい(あいつが悪い!)にしなければ気が済まないだろう。
断言はできないが、本当のところだれのせいでもないのかもしれないけれど。
しいていえば、統計的にかならず起こる事象って感じで。
たまたまの偶然であの事故バスに乗らなかった人もたくさんいたわけだ。
そのたまたまの偶然はいったいどういうわけだろう。

わたしが長らく大好きなマルエツのTカードに入らなかったのは
(明らかにそのほうがお得なのだが)、
小さな損をすることで大きな不幸をふせごうという計算があったのである。
あまり利益や得ばかり求めると、どこかでたまたまの大きな不幸が降りかかってくる。
すべての事象の原因も本質も実際も人間にはわからないのかもしれない。
いくら交通事故でお金が入ろうと大半の遺族は地獄に堕ちるわけ。
なかには儲けたという人もひとりくらいいるのだろうが、それが現実ってもの。
いまネットニュースを見たら健康診断がどうのと書いてあるが、
健康診断をしていたらバス運転手は絶対に事故を起こさないとかそういうものではない。
飲酒運転を千回しても事故を起こさない人がいる一方で、
下戸(げこ/酒NG)なのに運悪くも人身事故を起こしてしまうドライバーもいるのだ。
目先の経済的金銭的な損失によって
将来的な人生的決定的な大損を回避していると思えば、
その日のマイナスにそこまで負の感情をいだかなくて済むのではないか。
損得、利害、なにがどう関係しているのかわからないというのが真実かもしれない。

あと残り2日だが、いまの派遣先職場の人はだれも悪くないし(いい人ばかりだし)、
とてもいい「想い出づくり」になった。本当にありがとうございました。
つくづく善悪はわからない。
不謹慎なことを書くと交通事故で即死できたら、
わたしにとってこんなラッキーはないのだから。
わたしがこのブログ記事を書くことで不愉快になった人がいらしたら謝罪します。
ごめんなさい。死んだほうがいいやつということは自覚しておりますので。
休みの今日も丸一日、
日蓮大聖人の「佐渡御書」「種種御振舞御書」を繰り返し読んでいた。
なんのために読むかといったら、ブログに感想を書くためである。
これが自分のためか他人のためかはわからない。
お金にならないのに自分のために書くというのもおかしいだろうし、
数人くらいは読んでくださる人もおられるだろうから他人のためというのも嘘ではなかろう。
全力を尽くしても無理なことってあるんだなあ。
とはいえ、感想を書けないことがプラスかマイナスかもわからない。
日蓮大聖人関係はあれでやばいから、
うっかりたまたま目にしたドライバーさんが不安にかられて人身事故を起こしたら、
むしろそのほうがはるかに大問題で、
かえってブログ記事など書かないほうがよかったことになる。
日蓮御書を読むと、わが人生の問題と深いかかわりがあることに気づく。
「正しい」っていったいどういうことだろう?
参ったことに今日さあ、日蓮のミスを発見してしまった。
わたしは日蓮みたいに他人のミスを指摘して、
おのれが「正しい」ことを誇るのはどうしてだか恥ずかしいと思ってしまう。
おそらく、ミスばかりの人生だからだろう。ミスだらけ。ミスミスミス。
若いミスに囲まれたいなあ。
よしんば、テレビドラマ「スチュワーデス物語」の風間杜夫のように若いミスに囲まれても、
ドジでノロマなカメを選んでしまうのが男というものかもしれない。
人って相手の不完全なところを好きになるような気がしてならない。
仕事も家事も完璧な高学歴の美女なんて愛せないのが男では?
女もさあ、仕事も家事もできない、
ろくに人の目を見て話せないようなぼくのような男の価値に気づかないかなあ。
ダメなところがいいんだよ。そのダメな部分のよさが見えるのはあなただけって話で。
女嫌いなところがありますが、女性から尽くされるのは嫌いではない。
そういえば、日蓮大聖人も男のために命を捨てるのこそ女性の正しき姿と、
記憶はあいまいだが、そのようなことを恐れ多くも拝読した気がしている。

「スチュワーデス物語」↓
唯一、習慣の惰性(?)から買っている雑誌が「週刊スピリッツ」である。
ドジでノロマなカメのわたしは、いま去年の11月号を読んでいる。遅れているなあ。
その漫画雑誌のグラビアに出ていたのが新井愛瞳という女子高生アイドルで、
ちょっと気になった。
いまのわたしは若いアイドルの顔をまったくといっていいほど識別できない。
どれもおなじ顔に見えてしまう。
昨日か一昨日、派遣先の休憩室テレビで堀北真希を見たが、
失礼になるのだろうけれど、この顔は千人以上いるのではないかと思った。
口にするのも優等生発言ばかりで、
おなじアイドルの石神国子のように恵まれた人生を歩んできたのだろう。
しかし、不幸と幸福はわからない。
他人の評価に運よく過剰に恵まれてしまうと、自分というものがわからなくなる。
そうそう、どうせすぐ消えるだろう女子高生アイドル新井愛瞳の話をしよう。
女性性をどこか否定したショートカットで巨乳、
さらに歯並びが悪いという「ふぞろい」な感じがもしかしたら
一発屋アイドルくらいにはなれるのではないか(それさえ万が一の確率)。
よく知らないけれど、いまはAV女優でさえ歯並びを気にするんでしょう?
どうしてみんながみんな、そこまで「正しい」規格品に近づこうとするのだろう?
そんなことをしたら、みんないっしょになってつまらないじゃありませんか?
「欠点こそ美点である」という裏の真実を忘れて、
みながみな外見的および精神的な美容矯正を気にするようになったから、
いまの世の中は画一化され人間味もなくなったという仮説もありうるだろう。
わたしは人を欠点から好きになる。完全無欠な人間は敬遠してしまう。
マイナスがどれほどのプラスを現証しているか!
人間はいつから過去のデータ(結果)から未来を予想できるという、
共同幻想のようなものをいだくようになったのか。
言い換えれば、集団催眠のようなものにかかったのか。
過去をいくら見ても未来はわからないのに、
人はその「わからない(一寸先は闇)」を見ようとせずに過去を見てわかった気になる。

過去は未来ではない。

これは紫綬褒章作家の宮本輝氏の小説の名言である(「夢見通りの人々」)。
競馬に夢中になるのは楽しそうだが、自分には無理だと思う。
だって、過去のデータから未来を当てるなんて不可能っしょ。
過去に重大なミスを犯した商売人に資本投下したら大成功するのが、
われわれの生きているこの「わからない」世界かもしれない。
そもそも過去の勝利や敗北がなんになろう(成育歴、学歴、職歴)。
過去など気にせずいま自分がいいと思うものを選べば、
それがいちばんいまもいま、いまという瞬間に「正しい」可能性もなくはない。
知らないほうがいいことってたくさんある。情報化社会なんて嘘八百。
知らなければ、「知らぬが仏」でいられたのにさあ。
いまスポット(短期)派遣で、ほとんど役に立たないのにお金をいただいてる。
物流関係はどこもそういうものだろうが、1月になったら仕事量は減る。
いまの職場にはレギュラー(常時)派遣さんがいらっしゃるのである。
スポットは14~23時契約。レギュラーは15~24時契約。
うすうす気づいていたが、知らぬが仏を決め込むのも大人かと、うーん、わからない。
レギュラー派遣さんのなかには15~21時で帰されている人もいるようなのだ。
そういう仕事ができるレギュラーさんからしたら、
14~23時まで居座るスポット派遣ほど腹が立つものはないだろう。
だがしかし、そういうレギュラーさんがスポットにきつく当たるかといえば
(ぶっちゃけ、いじめるのがふつうだが)、みなさんそういうことをなさらない。
このスポット派遣はあと4日だが、いったいどうしたらいいのだろう?
本当のところは、当方がもう辞めますと言えばすべてがうまくまわるのだろう。
けんどさ、お金もほしいし困っちゃう。
こういうときに使えるのが、仏さまにお任せするという南無阿弥陀仏。
明日は早く帰れと言われたら早く帰るし、
なんとなーく残ってもいい雰囲気なら残る。
南無妙法蓮華経ならば(よく知らないけれど)契約の正しさを求めて
あくまでも定時まで居座るのだろうが、そこまでするのはいやで。
「正しい」ことを主張しても、あんまりお得じゃないよねえ。
今日はネパールグループが活気があってよかった。ネパールは好き。
いまのスポット派遣に入ったとき、かわいいベトナム人の女の子がひとりいたなあ。
いまは見ないけれど、わたしが彼女の仕事を奪ったとなんか思いたくはない。
あと4日。そりゃあ、お金はほしいけれど、
早く帰れと言われても休めと言われてもしたがうつもりであり、
もしかしたらそれが南無阿弥陀仏(おてんとさまにおまかせよっ♪)なのかもねって話。
「休みの日はなにをしているの?」
「え? まあその、本を読んだり」
「どんな本を?」
「(仏教と言いたいがそこは隠し)いろいろと……」
趣味は仏教とか白状したら引かれるだろうなあ。
このところ日蓮大聖人の「佐渡御書」「種種御振舞御書」(ともに聖教文庫)
を繰り返し読んでいるが(だれもご興味ないでしょうけれど)感想が書けない。
まだ自分の言葉で表現するまで理解できていないような気がする。

履歴書に趣味は仏教とか書いたら、どこの会社も雇ってくれなさそう。
いまは流行らなくなったらしいけれど、
合コンで趣味は仏教とか小声で言ったら場の空気を盛り下げるだろう。
ちなみに合コンは一度も経験したことがない。
家にひきこもってないで趣味のサークルとか入れば、
とわたしに助言したくなる人もいるはず。
仏教のサークルって、それは新興宗教ということになってしまうから、あはっ。

我流に仏教をちょーかんたんに説明したら以下の3点になる。
この3つがわかれば、仏教理解はOK。
1.「知らぬが仏」
2.「嘘も方便」
3.「後生が悪い」
変わったのである。近所のマルエツのピザが変わった。格段にうまくなった。
ベジタブルピザもシーフードピザも、この価格帯では信じられないほどおいしい。
半額で買っておいて、価格帯もなにもないのだけれども。
それにしても変わったなあ。
むかしからマルエツのピザはこの程度の味だろうとあきらめて、
それ相応のものとして買っていたが、まさか変わるとは。
わたしも変わろう。もうTカードに入りますよ。
いやね、むかしはブックオフ関連でTカードを持っていたのよ。
それがある時期、使えなくなって、Tカードもどこかに行って。
考えてみれば、近所のスーパー、
カズン、コモディティーイイダ、ライフ、オーケー、すべてカードを持っているのだ。
いままでひねくれていたが、そろそろTカードの再発行手続きをしよう。
わたしがTカードをこばんでいたのは、
再発行をお願いすると店員さんの負担が増えるのではないかと考えたからだ。
しかし、いま考えたら、いちいち「Tカードはありますか?」
と聞く店員さんのめんどうくささに思いがいたらなかった。
病的妄想だが、近所のマルエツやセブンで
おかしな顔バレをしているのではないかなどと、
ひとりくすくす自分の妄想を笑っている。よっしゃあ、Tカードに再加入するぞお。
個別に食品名を書かないけれど、いま近所のマルエツがおいしくなっている。
おいしいってなんだろうとセブンイレブンの食品で考えさせられたから、
いまのマルエツの変化にも気づいたのだろう。
変わるのが絶対善ではないけれど、変わらないのが絶対悪でもない。
マルエツのピザ担当者さん、あなたが創ったおいしさにわたしは気づきましたよ。
ほんのすこしまえセブンのPB「豚角煮」がうまいと書いた。
こんなうまい「豚角煮」は食ったことがないとも。
これをつくったセブンも日本ハムも偉いと思ったものである。
2回目にセブン「豚角煮」を食ったときは、なんだか違和感を感じたものである。
当然のように自分の舌が間違っているという結論に行き着いた。
セブンの「豚角煮」を三度食いました。
セブンのファミリー企業で働いている知り合いに聞いたら、
「豚角煮」は日本ハムからプリマハムにいまもいま変わったとのこと。
どうしてかなにゆえか。
エーエムピーエムのようにわたしが好きなものは消えるという法則がある。
このたび大好きだったセブンイレブン=日本ハムの「豚角煮」は消えた。
あれほどうまいものはもうだれも口にできない。
プリマハムはセブン担当者に
どれだけキックバック(裏金)を渡したかと疑うのは間違いで、
セブンのすすめるプリマハムの「豚角煮」のほうが
わたしの感動した日本ハムの「豚角煮」よりもうまいのだろう。
間違えてばかりである。
企業トップはあんがい目の前にいるお客様に気づいていないのかもしれない。
「お客様の立場で考える」のお客様はどこにもいない見えない存在ではないか。
お客様はだれかといったら自分がまず第一のお客様なのである。
「お客様の立場で考えろ」は「自分のあたまで考えろ」と同義であろう。
企業上層部は数字として現われてくる見えないお客様に気を遣うのもいいが、
自社やファミリー企業の下層で働く人もお客様ということを忘れているのではないか。
企業風土を知りたいと思ったら、休憩室に潜入すればいいのかもしれない。
どのくらいの社員や非正規がその企業の食品を口にしているか。
職場までもぐりこめば、その企業が、
どのくらいお客様になりうる自社の労働者をたいせつにしているかがわかろう。
テレビ番組なんかもさ、見えないお客様(数字/視聴率)のことなんて考えずに、
自分たちこそお客様(視聴者)だと開き直って、
自分の見たい番組をどんどん制作していけばいいのにどうしてかそうならない。
セブンイレブンはお金を持っていそうだから、一社提供のスポンサーになって、
上質の番組制作を応援してあげればさらに企業イメージはあがることだろう。
むかしあった東芝日曜劇場はそれだったのだろう。
あの東芝がクレーマー騒動に巻き込まれ、二転三転、
いまのいま経営が危なくなっているというのはファンとしてはかなしい。
うちのパソコンは東芝製で無料電話サービスにどれだけお世話になったことか。
自分こそがお客様の代表だと信じて、
みんながみんな少しでも自分の食べたいもの、見たいもの、読みたいものを
創るようになったら、多様性のようなものが現われ、
世の中が少しばかりおもしろくなるのかもしれない。
お客様は「正しい」のならば、自分もお客様なのだから自分もまた「正しい」のである。
「セブン-イレブンの正体」(古川琢也+週刊金曜日取材班/金曜日)

→著者は昭和51年生まれでわたしとおなじだ。出身大学学部までいっしょ。
キャンパスで顔を合わせたことも一度ならずあったことだろう。
けっ、このやろう、出世したんだなあ。
古川琢也氏はベストセラー作家、ジャーナリスト、権威あるブラック企業大賞選考委員。
本人は絶対に口を割らないと思うが、実際どうなんだろう?
ブラック企業大賞は古川琢也氏が中心になって行なっているイベントだ。
ブラック大賞なんていう企業イメージがついたら
資本主義の競争社会ではたまったものではない。
そんなことをいち個人(いちグループ)が勝手にしていいのか。
企業としてはそんなことをされたらいくらCM料を払っても取り返しがつかない。
現実として以前、ブラック企業と古川琢也氏から命名されたワタミは危ないという。
あんがい裏では古川琢也氏の家には、
大企業から付け届けがいっぱい送られているのではないか?
それともそういう賄賂はいっさい受け取らず(じゃあ、どうやって食ってんの?)、
著者はジャーナリストとして正義の告発でもしているつもりなのだろうか?
ワタミでもセブンイレブンでもそうだけれど、
自社に誇りを持って楽しく明るく働いている人はたくさんいるわけである。
そういう労働者を、ブラック企業大賞は
高みから見下ろしているような部外者感覚がある。
ブラックユーモアのつもりなのはわかるが、ちとばかしお寒くないかと思う。

本書はフィクション(小説、映画)ではなくノンフィクションだから指摘する。
セブンイレブン暴露本とされる本書にはリアリティが欠如しているようなところがある。
というのも、著者が取材したというセブン関係者のほとんどが実名を名乗らない。
ほとんどすべてが仮名のため、それぞれの発言の責任があいまいなのである。
実名で本に出るのでなければ、
かりに著者に発言を針小棒大に書き換えられても取材者は抗議しないだろう。
それどころか基本的にセブン憎しの人たちだろうから、それを歓迎する。
本書はセブンイレブンという巨悪があって、
それに立ち向かっている正義のジャーナリストの古川琢也――といった、
著者の妄想のように読めなくもないのである。
著者にとっての真実はそうなのだろうが、またべつの真実もあるような気がしてならない。
いったい正義のジャーナリストの古川琢也氏はなにがしたいのだろう?
セブンイレブンがつぶれたら関係雇用者がみなみな路頭に迷うことを知らないのか?

本書で知った古川氏の心中にある「セブン-イレブンの正体」を紹介する。
氏によると、セブンはずいぶんあくどいブラックな企業なようだ。
フランチャイズ店のオーナーは本部にではなく、
個々のベンダー(セブン協力企業)に商品を発注しているが、
オーナーのもとには企業から請求書が来ないという。
つまり、本部が中抜きしているというわけだ。
これを著者は社会不正だと怒っているけれど、
コンビニのフランチャイズなんてそんなものでしょう?
たぶんセブンだけではなく、ローソンもファミマーもそうだって思うし。
慈善事業をやっているわけではないのだから。
よくセブンイレブン会長が、うちの日販(売り上げ)は業界一位だと自慢している。
しかし、オーナーたちのあいだでささやかれていることは、
「売り上げはあがって赤字は増える」という秘密のこと。
セブン本部は廃棄食品もその店の売り上げとして計算しているという。
廃棄食品からもチャージ(お金)を取り上げる。
そうなるといくら毎月売り上げが上昇したとしても、
本部に払うチャージ、人件費、光熱費を差し引くと赤字になることも多いらしい。
とくにおでんは儲からないという。
おでんのための人件費や廃棄ロスを考えると、
おでんはひたすら本部だけが儲かる商品とのこと。
おでんには虫が入ることも多く、とはいえこれは避けようのないことらしい。
マニュアルでは虫が入ったらスープを変えることになっているが、
いちいちそんなことをしていたら人件費も廃棄ロスもふくれあがるばかり。
さらにおでんは本部からノルマ(目標)を課せられるから、
売れないぶんは自腹で買わなければならない。

かといって、セブン本部の社員がいい思いをしているわけではない。
セブンに新入社員として入ったら何年も店長をやらされる。
店長は管理職あつかいだから、いくら残業しても手当はつかない。
急なシフトの空きに対応できるのは、若いセブン社員くらいなのだろう。
店長から店舗指導員(OFC)に出世しても忙しいのは相変わらず。
朝から晩まで働いてほとんど休みも取らず、
ノルマがきついのかいろいろな自社商品を自腹で購入する。
ジャーナリストの古川琢也氏は以上のような現実を取材して
セブンを「蟹工船」のようなブラック企業だといいたいのだろう。
しかし、見方を変えれば、
これはセブンの社員さんは愛社精神に富んでいるともいえよう。
セブン会長は「仕事が趣味」のようだが、
おなじように「仕事が趣味」のような社員がいてもべつにいいのではないか?
わたしはそんなのはいやだし、同世代の著者もそうなのだろう。
だが、いろいろな価値観の人がいてもいいような気がする。
どうして著者は自分の価値観と合わないものを「悪」としてしまうのか?
自分の所属している会社が好きで、
自社で長い時間働き、いただいたお金で自社の新商品を買うのが楽しみだ。
こういう人たちは洗脳されているわけではなく、
自分で好きでそのようなことをしているのだから、不幸なのではなく、
むしろいまは日本にめったにいない幸福な会社員ともいえるのではないか。
赤字経営しているオーナーのなかにも、
あるいはサラリーマン時代よりもいまのほうが目標があって充実している。
そう考えている人だって少なからずいると思うのである。

セブンイレブンでは隔週で1回、全国の店舗指導員(OFC)を集めて、
鈴木会長の講演会が開かれているという。
その講演会に参加したことのある元社員はこう証言している。
その鈴木会長講演会では――。

「「……鈴木会長から、『前年比率二〇〇パーセント達成』などという
『目標額』という名のものすごいノルマを課せられるんです。
各店おでん一〇〇〇個とか、特にクリスマス、おせち、節分の恵方巻き……
といった季節ごとのイベント商品は酷(ひど)い。
しかも、会長の指示は絶対で皆、『ました!』と答えなければならないのです。
本部に集まった一〇〇〇人以上の社員全員で、不気味な光景ですよ。
宗教みたいです。ほかにも鈴木会長にちなんだ著書が出版された際、
半強制的に購入させられたりしました」
「ました!」というのは、「わかりました」の略語で
本家のイトーヨーカ堂で使用されていたそうだ。
業務を円滑化するためだという」(P62)


こういう企業文化がセブンイレブンのおいしさの秘密なのだろう。
隠し味といってもいいような気がする。
経営者は、大勢の社員にいかに自社を愛させ、競争させるかを考える。
社員が勝手に競争して消耗してくれるぶんだけ企業は儲けることができる。
とはいえ、鈴木会長の趣味は仕事のようだから、それほどお金はいらないはず。
はてまあ、セブンの社員さんやオーナーさんの血と涙の結晶とも言うべきお金は、
いったいどこへ行っているのだろう? 株主のところ?
いやいや、コマーシャル料に化けている金額が多いのかもしれない。
いまの派遣先にテレビがあるけれど、セブンのCMってやたら多いし。
わたしは感覚が合わず、最近はめっきり地上波テレビは見なくなった。
しかし、いまもテレビを愛する庶民は少なくないだろう。
ということは、セブンはテレビ番組のスポンサーとなることで社会貢献していたのか。

話が脱線したので、元に戻す。
セブンの会長が自著でかならず自慢している赤飯開発の手柄話がある。
自分の鶴の一声で赤飯が劇的にうまくなり爆発的に売れたという成功譚だ。
真否は不明だが、その裏側は本書によるとこうである。
この本でいちばん笑ったところであり、ああ、世の中ってそうなっているんだなあ。
セブン元社員が著者にこう暴露した。

「一〇年ほど前、『絶対に売れる、売れないはずがない』
という鈴木会長の強い意向で赤飯を販売したんです。
ところが、思ったほどヒットしなかった。
何とか売り上げを伸ばせという指示のもと、
私の地区のほとんどの社員は毎日この赤飯を買わせられました。
とは言っても、『自腹買い』にも限界があって、
時間が経つにつれて売り上げは下がりますが、
いつのまにか誰も何も言わなくなって、うやむやになりました。
会長が出したアイディア[仮説]の『成果』を検証することなど、
絶対に不可能ですから」(P79)


ヒット商品はこのように人為的につくることができるのか。
そうかそうか、自分たちで買い支えれば、それはヒット商品ということになろう。
創価学会でも池田名誉会長の本をひとりで百冊買う幹部もいるし、
こういう戦略は知らない人がいない常識なのだろう。
あんがいカリスマ的トップは現場で起こっている本当のことを知らないのかもしれない。
というのも、トップが来店するとなると、みんなかしこまって演技するでしょう?
取り巻きもトップを怒らせたくないから本当のことは伝えない。
赤飯は鈴木会長のアイディアで大ヒットしたということにしておけば、
みんながみんなうるおうともいえなくはない。
会長から叱責される社員も出ず、オーナーは赤飯の売り上げがあがり、
食品工場では大量発注のおかげでパートさんも稼げたはずである。
わたしは食べ物を捨てるのがとにかくいやで、
このため(なれるはずもないけれど)コンビニのオーナーにはなりたくない。
しかし、セブンのような大量生産、大量廃棄はもっとも経済的なのではないか?
人口が減っている。大食いできる若者も減っている。
こうなると提供する食物も少なくなるのが道理である。
しかし、そうなったら社会下層部の食品工場労働者の賃金が下がってしまう。
ならば、たくさんつくって、つくったものを捨ててしまうというのは経済的に賢い。
ジャーナリストの古川琢也氏は果敢にも、
セブンの弁当工場にパートとして潜入取材している。
このため鈴木会長よりは著者のほうが現場に詳しいということはできよう。

「先輩従業員に教えてもらいながらスタートしたが、すぐに怒られた。
自分では急いでいるつもりでも、周囲の作業スピードには全く追いつかない。
先輩からは、「遅すぎる」「それじゃ仕事にならない」
「片手でやるな。左手が死んでるだろ!」
といった具合に容赦なくダメ出しを食らう」(P114)


わたしはいまだによくわからないのだが、社会下層部の労働者というのは、
どうしてお互いを助け合わないで競争することが多いのだろう。
労働者は連帯して上役と交渉すればいいのに、
どうしてかおなじ労働者同士で監視しあい競争をおっぱじめる。
そういう低賃金労働者には「あいつよりも仕事ができる」というような優越感が、
生きるうえでとても大事なよりどころにでもなっているのだろうか?
仕事を早くしたら早く終わり金が稼げなくなるのに、
経営者でもないのにお互いを「早くしろ!」
と監視しあい競争する日本下層労働者の勤勉性(あるいは蒙昧)は
いったいなにゆえなのか、
これだけは自分のあたまでいくら考えてもわからないので、だれかに教えてほしい。
セブンはファミリー企業もベンダーも一斉に競争しているようなイメージがある。
そんな競争して、だれがいい思いをしているのか?
なんのために競争しているのか?
結局は、お客様の「便利」のためということになるのではないかと思う。
客として思うのは、もうこれ以上便利にならなくてもいいのではないかということ。
しかし、それはこちらがおっさんでむかしを知っているからか。
2000年代生まれは、いまの便利な世の中が当たり前になっているのか。
いま知り合いがセブンのファミリー企業で働いているそうだが、
そこには「おまえ、ぶっ殺されてえのか!」とか威圧してくる先輩もおらず、
和気あいあいとまでいったら大げさだが、
彼はけっこう楽しんで連日会社に自転車で行っているらしい。
ブラックかと聞いたら、「ぜんぜん」と否定された。

「勝ち続ける7つの理由 強さの法則 セブン-イレブン by AERA」(朝日新聞出版)

→世の中の裏側がわかるおかしな意味でとてもいい本だった。
2013年刊行の本書は、
朝日新聞とセブンイレブンがつるんでいる(結託している)証拠物件である。
どちらが古いかといえば朝日新聞のほうだから、
一見するとこの構図はセブンが朝日に借りをつくったようにもとられかねない。
しかし、それは視野が狭いというもので、
セブンが自社でこの本を大量購入したら朝日への貸しになるため、
実際のところこれは新勢力のセブンによる朝日への「みかじめ料」になろう。
朝日はこういう本を出して利益を上げてしまった以上、
新聞や雑誌、出版局の本でセブン批判の記事を出したら恩知らずになってしまう。
40間近になってようやくわかったのは、
上のほうはおそらく損得利害でかなりのところつながっているということ。
朝日新聞の「正義」なんていまどき信じているほうがクルクルパーかもしれない。
むかしは得になるから戦争礼賛記事を出していたけれど、
いまはそういうことを書くと経済的に損になるから
あたかも平和絶対主義をよそおっているという話。

こんな宣伝本、コマーシャルブックはだれも実際には読んでいないと思う。
わたしはブックオフオンラインからこのアエラムックを買ったが、
スリップ(売上票)が挟まれたままであった。
おそらく本書はセブンが朝日に発注して、
できたものをセブン関係者がほとんどすべて買い上げたのだろう。
食品開発でよく知られているセブンイレブンのお家芸である。
正義派ぶって批判したいわけではない。
こういう処世をうまくしたらセブンも朝日も共存共栄をたもつことができるのだから、
それはそれでいいのではないか。

このたび、だれも読まないような宣伝ブックを当方は何回も繰り返し読んだ。
なぜなら、いまのわたしにはこの本がおもしろいからである。
本などいつ読むかによって感想はいくらでも変わるのだろう。
1ヶ月まえにはさらさら興味をいだかなかった本がいまはとてもおもしろく感じる。
大成功者で大勝利者のセブンイレブン鈴木会長はこの真理を熟知なさっている。

「世の中は必ず変化すると思って日常を過ごしているだけです」(P6)

セブン会長がおっしゃるように世の中における常識も正義も真理も、
かならずといっていいほど変化するのである。
「変化」こそ常識、正義、真理といっていいのかもしれない。
過去と現在との「矛盾」こそが世間常識、社会正義、絶対真理。
一貫した行動を取る人のほうがおかしく、
人間とは矛盾しているものだという見方のほうがどちらかといえば「正しい」。
人間は矛盾しているということをどれほど知っているかが勝負を分けるのだろう。
本書にセブンイレブン取締役常務執行役員にして、
商品本部長でもあられるK氏のインタビュー記事が掲載されている。
写真を拝見すると、とてもお人柄がよさそうだ。
本書で会長のご子息以外でこれほど重んじられているのはK氏だけである。
おそらくセブンイレブンの出世頭なのではないか。
「自分のあたまで考えよう」「人真似はするな」の会長発言で知られるセブンの、
商品本部長のいうことはまったく鈴木敏文氏とおなじ口真似といってもよい。
だれからも好かれそうなセブンの出世頭はこういっている。

「例えば、1工場で弁当を一日3000個ほど作りますが、お客様が手にするのは1個。
万一、その1個がたまたま出来が悪ければ、
そのお客様はもう二度と来店してはくださらないでしょう」(P27)


これはセブンイレブン会長の本にかならずといっていいほど書いてあることだが、
少しでも自分のあたまで考えられる人が読んだらこれは嘘でしょう?
書いていないけれど、セブン弁当がまずくても当方は再訪しているし。
いちばん残念だったのは、ものすごい期待をしていた「金のビーフシチュー」。
4百円も取るってなにさまよと思いながら購入、試食してみたら、これはないだろう。
開発者には本当に申し訳ないが、見かけがいいだけで味はクズと思った。
むろん、この感想が「正しい」わけではなく、売れているのならそちらが正義だろう。
わたしは「金のビーフシチュー」で立腹したにもかかわらず、
しかしけれどもだが、セブンが好きだからまた行く。
まずいものが一食でもあったらもうその店には行かないなんてありえないでしょう?
むしろ、まずくて当たり前というか。
わたしの買うものなんて安いものばかりだから、うまいものがあったら例外的に感動する。
買った食品の6割うまければそこの店は上質といえるのではないだろうか。

本当のことをちょろっといえば、まずいのも楽しいよねえ。
えええ、こんなに高いのがこんなにまずいのという発見も楽しい。
おれの舌はここまで世間とずれているの? と笑う楽しみがまずい食品にはある。
だって、そのまずいものをうまいと思った企業重役が絶対にいるのだから。
「外れ」があるから「当たり」の感激があるっていうかさ。
「当たり」ばっかだったらつまらないじゃありませんか?
セブンイレブンの重役さんは優秀だから、みなさんこのくらいわかっておられるのである。
お金を払ってまずかったらもうその店には絶対に行かないなんて、ないない、ありえない。
しかし、セブン会長は建前上、そう発言しているから追従しないと出世できない。
「自分のあたまで考えろ」なんていうトップの発言を真に受けて
鈴木会長を批判しようものなら、その瞬間にセブンイレブンから追放されることだろう。
そしてそして、この矛盾が正しく、まさに人生の真実なのだろう。
上役の言葉を真に受けず、いかに真意をお察しできるかが勝負の分かれ目。
いやね、べつに勝負で負けるのも味があると当方は思うけれど。

ここだけの話、「自分のあたまで考えろ」という指導は、
上役にとって都合がいいのかもしれない。
社会人にとってミスほど恐ろしいものはないのである。
もし自分がこうしろといって部下がその通りにしてミスをしたら、それは自分の責任になる。
部下になにも指導を出さず「自分のあたまで考えろ」といっておけば自己責任。
そんなことはまさかないだろうが、たとえセブンの店主が激務で自殺しても、
それは自分のあたまで考えた結果なのだから自己責任だ
と創業者は罪悪感をいだかないでいられる。
会長が「自分のあたまで考えろ」と毎回口を酸っぱくしていっているのだから、
セブン関係者で病気、発狂、借金苦で自殺したものは全員自己責任。
会長の言葉をそのままオーナーに伝えた本部の店舗指導者も
罪悪感などいだかないで済む。
トップの「自分のあたまで考えろ」ということは、
自分のあたまで考えた結果として自己主張は消してトップに従えということだ。
本当に自分のあたまで考えたら、上には逆らうなという結論に行き着くはずである。
会長さまのご発言「自分のあたまで考えろ」の意味は「会長に逆らうな」ということ。

セブンイレブン食品はたしかにおいしいような気がするけれど、
はてまあ、さてさておいしいってどういう意味だろう。
上役がおいしいというものは、絶対においしいのだろうか。
おいしいってどういうこと? 
この疑問にセブンほど誠実に向き合った企業はないのではないか?
以下はセブン関係者の発言の引用だが、だれの言葉だかはわからない。
いや、正確にはわかりにくい。
よく見てみたら、吉岡秀子という(お抱え)ライターの書いたことのようだ。
セブンイレブンのおいしさとは――。
以前、セブン会長がたまたま自分の口に合わなかった冷やし中華があったらしく、
コンビニ接客経験ゼロの創業者はその一件で大騒ぎをしたという。
「おいしさ」とはなにか?

「めんに限ったことではないが、人によって「おいしさ」はあいまいなため、
セブンの開発では糖度や粘度など、味を数値化するという手法を取っている」(P71)


引用文のあとを読んだら、結局は数字ではなく会長の舌が絶対とのこと。
「会長プレゼン」ですべてが決まる。これが真実であろう。
大げさだがわたしは全人生試食経験をかけて
「金のビーフシチュー」は価格と釣り合わない、つまりまずいと思うけれど、
いまや朝日新聞社も支配下に入れた鈴木氏の味覚のほうが「正しい」。
会長はセブンに一食でもまずいものがあれば、もうその客は来なくなると主張しているが、
そんなことはなく、どれだけまずいものがあっても生きているかぎり、
これからセブンに行くことは(興味を持ったため)おそらくこれまで以上にあるだろう。

お客様は矛盾していると考えたらどうだろう。
あるいは、もっといえば人間は矛盾している。
しかるがゆえに、もっとも矛盾している企業トップこそお客様人気ナンバー1の
フランチャイズを運営できるのかもしれない。
矛盾しきったことを書くと、古いものほど新しいし、新しいものほど早く古くなる。
セブンの鈴木会長は、おいしいものほど飽きるとよく書いてるけれどあれは本当?
実際は新しい食べ物ほど飽きるのが早くなるのではないか?
だって、うなぎとかうにとかあんきもとか、素材そのものは飽きないもの。
飽きられるのはおいしいからではなく、その場しのぎの新しさのせいかもしれない。
よしんば、こう書いたとしてもセブンの鈴木会長は偉いのである。
いちばん最初にコンビニでおにぎりを出そうと考えたのも、
当時はゲテモノだったツナマヨおにぎりを商品化したのもセブン会長なのだから。
ツナマヨおにぎりは新しかったにもかかわらず、古典的定番商品になっている。

セブンの商品は1年で70%変わるという。
もしかしたらそれこそ真実なのかもしれない。
その場その場で、かりにあるとすれば商売の正法なるものは変わりうる。
人は新しいものを好む。だが、新しいものほど早く古くなる。
古いものほど新しいと評価されることがある。
矛盾していると怒るのはおかしくて、その矛盾こそ世間的常識的に「正しい」。
人は矛盾したおのれの「真実」のようなものを生きるしかないのかもしれない。



*そうそう、セブンの「ひとくちスモークチーズ」は泣くほどうまかったっす。
「売る力 心をつかむ仕事術」 (鈴木敏文/文春新書)

→日本初のコンビニ、セブンイレブンの創業者にして会長のベストセラーを読む。
もっともセブンイレブンだけでパートやアルバイトをふくめると30万人。
関連物流会社やベンダー(商品協力会社)関係まで数に入れたら
少なく見積もっても百万人、
正確に計算したら数百万人レベルの労働者がセブン周辺にはいるのではないか。
セブンに食わせてもらっているのなら会長の本くらい読めよと思うけれど、
本書はベストセラーとはいえ、それほど売れてはなさそうなので、
信者に本を買わせるという面では創価学会の池田名誉会長のほうが
セブンの鈴木会長よりも上になろう(それがいいのか悪いのかはわからない)。
おっさんのわたしは少しまえまでコンビニは高くてまずくて危なくて、
スーパーのほうがよほどいいと思い込んでいた。
ところが、いま当方にとってはかなりの高給が運よく舞い込んできたので
セブンの商品を買ったら意外や意外、
これが想像以上にうまいのだから世の中はわからないことだらけである。
個人商店ファン(商店街が好き)はスーパーができたとき、
あいつらは人間味がないと嘆いたことだろう。
その商店街が消え、スーパーの時代が来る。親の洗脳かわたしはスーパー派閥だった。
スーパー好きは、コンビニなんて便利なだけで高くてまずいと思っている。
実際はそれほどコンビニ購買経験がないのにもかかわらずだ。
行ってみたら買ってみたら食べてみたら、
スーパー程度の安さでスーパーよりもうまい商品はいくらでもあったのである。
むろん得手不得手はあり、
コンビニがなにをしてもかなわないのが生モノの魚介類だろう(刺身)。生肉もそう。
コンビニ(セブンイレブン)のよさを発見したのは、この齢でさえ新鮮だった。
日本ではじめてコンビニを創った人は
どのようなことを考えているのか興味を持ち本書を読む。
ローソンもファミリーマートもセブンイレブンの真似といえば、
そういえなくもないのかもしれない
(実際は経済界は不勉強ゆえどうだかわかりませんけれど)。
コンビニ業界「ひとり勝ち」の鈴木会長はどうしてこんなに運がいいのですか?

「既存の常識や過去の経験にとらわれない行動が、
普通だったらなかなか出あえない幸運に結びつく。
多くの人が妥協するところを妥協せずにきわめようとする行動が、
そう簡単には手の届かない運を引きつける。
自分のビジネス人生を振り返ってみると、その連続だったようにも思います。
ビジネスは能力や努力だけではなく、運にも左右されます。
その運は偶然の部分がかなりあります。
しかし、過去の経験や既存の常識を超えた挑戦や努力をすることで、
普通に行動していたらめぐりあえないような
幸運も引き寄せることができるのです。
世のなかを見渡すと、大きな成功をなし遂げた人たちはたいてい、
「運がよかった」といいます」(P241)


日本に一店もコンビニがなかった時代には、
この国でセブンイレブン(コンビニ)を開業して成功する確率はゼロパーセントだったのだ。
言い換えたら、未知数。わからない。
本当に新しいことは過去の統計がないから確率も期待値も計算できない。
いまコンビニとフランチャイズ契約してどうなるかは、
ある程度の情報で推測できるともいえるが
(正確にはこれまたやってみないとわからない)、
鈴木会長がセブンを開業したときの成功確率はおそらくゼロパーセントであった。
みんながみんな、過去のパターン(いまでいう統計←これがわたしは大嫌い)から
どうせコンビニなんかやったってこの国では成功しないと批判的だったことであろう。
日本コンビニエンストストアのパイオニア(開拓者)である鈴木会長はいう。

「経験的に[統計的に]「いい」と思われることはみんながやるから、
結局、競合になってしまい、ますます厳しい状況になる。
みんなが「いい」と思うことなどやる必要はなくて、
むしろ、「そんなのだめだろう」と思うようなことに意味がある。
みんなが賛成することはたいてい失敗し、反対されることはなぜか成功する。
それはわたしの経験に限ったことではないようで、
これまでお会いした[成功者の]方々も同様の経験をお持ちのようでした」(P88)


演劇が主流だったときには、映画なんてだめだろうと思われていた。
日本でも映画業界が斜陽になったとき、
映画人はそれでもテレビには行きたくないと多くのものが思っていたという。
いまはテレビも雑誌も斜陽だが、
そういうマスコミ人はあれをバカにするがパイオニアの鈴木会長はそうではない。

「本格的なネット時代の到来するなかで、確実にいえることは、
「ネットを制したものがリアルも制する」ということです。
ネットとリアル、両方の動きを見ると、
それがすでに現実のものとなろうとしています」(P186)


ネットとはひと言でいえば、無料文化である。
わたしだって一銭にもならないのに、このような駄文をそうと知りながら書いている。
断じてまったくゆめゆめお金がほしくないわけではないが、
それほど物欲がないというのもこっそり白状する秘密である。
ほしいものがない。これってみなさまのかなりの本音ではありませんか?
繰り返すと、ほしいものがない。
商売人がいちばん恐ろしい、この「ほしいものがない」は大チャンスなのかもしれない。
自分が本当にあればいいと思うものを、
自分のあたまで考え周囲に提供したらどうなるか?
おにぎりを最初にコンビニで売り出したのもセブンなら、
高価格帯(200円以上!)おにぎりをはじめて売ってみたのもセブンだそうだ。
どちらも売れに売れた。同業他社からさんざん真似をされた。

「このようにセブン-イレブンには数々のヒット商品がありますが、
もし発売前にアンケート調査などを行い、
「こんな商品が出たら買うか」と質問していたら、
「買わない」と[お客様が]答えたであろう商品も少なくありません。
それが、商品となって店頭に並んだ途端、お客様は手を伸ばすのです。
消費が飽和したいまの時代は、消費者は商品の現物を目の前に提示されて、
初めてこんなものがほしかったと潜在的なニーズに気づき、答えが逆転します。
現代の消費者は「いうこと」と「行うこと」が必ずしも一致しない。
消費者自身にも具体的なイメージをもって
「こういう商品がほしい」という意見がない時代なのです」(P117)


このたび偶然にたまたまセブンイレブンに興味を持って商品を食してみた。
これがうまい。この価格帯でこれほどうまいものがあることを知った。
そうなると、ほかのものを食べてみたくなる。
しかし、そのためにはコンビニ食品は高いから金が必要だ。
どうしたらお金を得られるのか大金持の鈴木会長に聞いてみよう。
各分野の成功者との交流もひんぱんにしているセブン会長はいう。

「「目先の百万円の売り上げのために、将来の一億円を失うことがあってはならない。
その点はこだわりをもってやってきました」
目先の百万円のために、将来の一億円を失ってはならない。
Francfrace[←なにこれ?]が便座カバーを置かないという話はとても教訓的です。
人間は、得られるはずの長期的な利益が多くても[1億円!]、
実感できるまでに時間がかかった場合[5年、10年、15年!]、
その[目先の]時間によって大きさが割り引かれてしまい、
目先の短絡的な利益[先々の1億円よりもいまの百万円!]のほうを
大きく感じてしまう傾向があります」(P205)


この鈴木会長の教えを信じて預貯金をすべて溶かすどころか
借金さえするであろうセブンオーナーがいるいっぽうで、
本当に実際に儲けている店主もいるのだから(いるいる!)、
まったくまったく本当にセブンイレブン創業者のいうことは「正しい」。
なにより運や偶然の存在を深々と認めているところが鈴木会長の偉いところだ。

さっき知ったが、セブンイレブンが2015年のブラック企業大賞を取ったらしい。
運営は左翼なのだが、左翼のこういうところが大嫌いである。
左翼の、すぐに白黒をつけようとする(ブラック! ホワイト!)単純思考には参る。
世の中を白黒で割り切れると思っている自称正義の左翼が嫌いだ。
左翼に比べたら右翼のほうがまだいい。
右翼は天皇制を認めているわけでしょ?
天皇制支持者は、人間の不平等を正しくあるがままに肯定していることになる。
人って生まれも身分も貧富も異なり、それはほとんど絶対的真実のようなもの。
なんだかんだきれいごとを言っても、有名人の子は偉くていい思いができる。
それが現実ってもんで、右翼は左翼よりも現実を正確に見定めているのではないか。
もっとも本当に右翼なんているのかも疑問である。
右翼は左翼が自作自演しているのではないか。
右翼の街宣車を迷惑と思わない人は少ないでしょう?
ああいうばかばかしい右翼をつくっておけば、左翼の正しさみたいなものの証となる。
あんがい右翼は左翼が資金提供してつくっているのではないかとさえ思う。
セブンイレブンが左翼の創設したブラック企業大賞を取ったというのは、
逆にセブンイレブンの正しさの証明になるのではないか?
セブンイレブンは権力があるので都合の悪い情報は揉み消せるという都市伝説がある。
はからずもブラック企業認定をされたことで、
セブンの善良さは証明されたとも言えるのではないか?
本当にセブンが悪質で排他的なら、
金のちからでブラックなんたら賞は消せたわけでしょう?
消せなくて左翼に屈したということは、セブンはそこまで悪質ではない。
むしろブラック認定をして企業を恫喝している左翼グループのほうがワルではないか?
左翼は絶対にひとりで活動しないで群れるよね。
群れてつるんで正義を標榜して、気に入らない企業をブラックだと決めつける。
わたしはセブンよりも左翼集団のほうがブラックに思えてならない。
これはもし善悪や白黒の二分法で判断するのならの話。
そうそう、本当のところは左翼の群れが白でも黒でもないのと同様に、
セブンもブラックでもないしホワイトでもない。
あんがい左翼の群盲は自分たちを絶対ホワイトだと盲信したいがために、
人気のあるセブンイレブンのような大企業をブラック認定しているのかもしれない。
いま知り合いがセブンイレブンのファミリー企業で働いているが、
そこにはピリピリとヒステリックに派遣を叱りつける現場責任者も、
わざと大きな音を立て周囲を威嚇しながら殺伐とした職場環境をつくるような、
例外的に無帽の赤い服を来た嫌われものもいないそうだ。
これは運がいいのか、いままでの努力が報われたのか、
わたしは前者だと思うけれど、とても恵まれているのである。
短期の派遣のお仕事をさせていただいている。
短期派遣仲間がみなさんおもしろいのである。
どの人も少なくとも当方よりも世間的肩書は上だし世慣れしている。
こんなタイプの人たちとはいままで逢ったことがなかったので、
影響を受けること大である。
それぞれ人間味があり、人間くさく、それぞれおもしろい。
いろいろな処世術のようなものを仲間から教えていただいている。
世間というものをお金をいただきながら学べるなんて最高にラッキー。
去年、大好きだった書籍倉庫を自然の流れで辞めたが、
そういう自然に任せる態度がもしかしたらいちばんいいのかもしれない。
あの書籍倉庫でもだいぶ勉強させていただいたが、
いまの派遣先ではまたべつのことを教わっている。
ああ、そうなのか、そうかそうか、という発見がある。
異分野との対話みたいなものは緊張感がありとてもおもしろい。
いまの職場から当方が多大な影響を与えられているということは、
もしかしたらこちらも周囲にわずかながら影響を与えているのかもしれない。
「鈴木敏文 考える原則」(緒方知行=編著/日経ビジネス文庫)

→日本初のコンビニ、セブンイレブンの創業者にして会長でもある、
経済界のトップリーダーともいうべき鈴木敏文氏のご著作を拝読する。
腰ぎんちゃくの書いた本だが、これは鈴木氏の本と思っていいだだろう。
氏はいまでは経済界の重鎮でもあられる。崇拝する人も少なくないと聞く。
どんなことでもいちばん最初にチャレンジした人が偉いような気がしている。
いまでは日本全国を制覇したコンビニの産みの親である鈴木会長を
わたしはとても偉い人だと思う。
他人がいままでしていないことをするのはものすごく怖いのである。
なぜなら前例がないことをするのは、周囲から猛反対されるのだから。
鈴木会長のポリシーはなにか? 会長の心酔者である手下が簡潔に説明する。

「「人のマネを絶対にしてはならない」
ということを一貫していい続けている鈴木敏文氏の人育ての根本は、
「自ら考えることのできる能力」をどう育てるかというところに置かれている。
あらかじめ用意された答えのない時代といわれる今日、
ビジネスに携わる者にとって求められる最大の能力要件とは、
自身で考え、そして自分で答えを導き出していけるということである。
そのためには自身の課題設定ができること、
そして、その課題を自分の手で解いて、
自分なりの答えを導き出していけることである」(P5「まえがき」より)


鈴木会長のご発言の真意を理解できるものがどれほど少ないことか。
「人のマネを絶対にしてはならない」のなら、
セブンイレブンとフランチャイズ契約を交わしオーナーになるという選択肢は
鈴木会長がもっとも毛嫌いする行為になろう。
セブンのオーナーの地獄生活は広く知れ渡っているけれど、
鈴木会長の本も読まないで契約を交わすようなものは残酷な物言いだが、
そういう処遇を本部から受けるのは仕方がないことだとも言えよう。
他人の真似を好むのがフランチャイズに加盟するオーナーと言えなくもない。
自分のあたまで考えようとせず、
セブンのブランドにだまされたオーナーからいくら搾取(さくしゅ)しても
鈴木会長はいっかな罪悪感のようなものをいだかないであろう。
そして、それはとても「正しい」と思う。
チェーン店になるなど完全な人真似で、
自分のあたまで考えられないものの象徴的行為とも言えるのではないか。
大企業に入りたがったり、大規模チェーン店とフランチャイズ契約を交わすものは、
「寄らば大樹の影」と言うほかなく、
鈴木会長からしたら愚行のひと言で片づけられてしまうことだろう。
会長がおおやけにこう発言しているのに、セブンのオーナーになって
被害者気取りで本部への不満を言うのは根本的に誤っているような気がしてならない。

いまのわたしはビジネスで成功することなど絶対にありえないが、
それでも鈴木会長の本を読んでわかることがある。
会長のビジネス成功は、人真似をしなかったことによるところがおそらく大きい。
会長は成功者のビジネス本を読んで、それを実践したわけではないのである。
ビジネス本に啓発されて行動するのは、猿真似のようなもの。
以下の発言をできるセブンの鈴木会長は、
創価学会の池田名誉会長よりもなにか深いことを知っていると思えなくもない。

「私の場合でいえば、いろいろな要素に考慮して間違いないという確信を持って、
幹部や社員に対して話をしています。
しかし、私がいったことはすべて正しいということは決してないのです。
部分的には正しいとしても、半分は違う。
三割は正しくて、七割は間違っているという結果になるかもしれません」(P29)


これを言えちゃう人というのは、相当な人物ではないかと思う。
自分の主張の7割は間違いかもしれないという自覚のある人は稀有ではないか。
鈴木会長がこう言っているにもかかわらず、
会長の命令は絶対だと思い、それを疑わない子分が多いような気がする。
実際は鈴木会長も池田名誉会長とおなじくワンマンの独裁者気質で、
上記の引用はきれいごとなのかもしれないが、
それでも、そこを差し引いても鈴木会長の発言は重みがある。
他人の成功談を真に受けるなよ、と言えるのはよほどの人物に思えてならない。
自分の成功体験を模倣しても自分のようにはなれない。
そこはおまえが自分で考えろ! こう言える鈴木会長は本物の教育者かもしれない。

実際、わたしの感覚からすれば本書の7割とは言わないが半分は誤りとも思える。

「私がずっといい続けていることがあります。
世の中の変化のなかでは、イノベーション[革新/変革]を怠った企業は、
必ず没落していく。そのイノベーションとは、
お客様がどんどん要求をし、わがままになっていくのに対して、
自分を変えることによって、その要求を合理的に受け入られるようにする――。
これこそが変化対応において、もっとも重要な考え方であると信じています」(P86)


なんの肩書もないわたしだが、これは間違いのような気がしてならない。
お客様をそこまで神聖視するのはいかがなものか?
もちろん、鈴木会長ともなれば、本音ではそのことをわかっていると思う。
とはいえ、企業トップとしては決して口にできない本音がある。

お客様ってバカだよね!

これは大企業のみなさんの本音ではありませんか?
テレビなんか露骨にお客様をバカにしているわけでしょう。
客(視聴者)をバカだと思ってバカ向けの番組をつくったほうがヒットする。
鈴木会長は、客のわがままを受け入れろと言っている。
それほどお客様は偉くないっしょ? 客をわがままにしたら、みんなが苦しむことになる。
わがままな客に困らされている接客業やクレーム担当者がどれほどいるか。
そして、そういうストレスをかかえたものが一転してお客様になったとき、
どれほどのわがままを言うことか。
お客様第一主義は、世の中のストレスを増やすだけのように思えてならない。
わたしは客(消費者)としての実感からお客様はそこまで賢くも偉くもないと思う。
だが、鈴木会長はお客様はとにかく偉く賢いと繰り返す。

「かつてのような売り手市場時代は、
たとえ梅干のおにぎりを買いたいときにそれがなければ、
代替商品で我慢してくれました。
だから、機会ロス[客の買いたい商品がなかったときの店側の損失]のことなど
考えなくてもよかったのです。
しかし、いまのお客様は欲しい商品以外は買いません。(……)
自分の好みに合わないものは、たとえ安くても買いませんし、
気に入ったその商品が切れていたときに、
似たようなものを買うということは、まずありません」(P137)


これもまた本当かどうか我が身を照らして考えるといかがわしい。
スーパーやコンビニにこれが買いたいと思って行く人ってそんなにいるの?
わたしは食べたいものがわからないからスーパーやコンビニに行く。
そうして、ほほう、いまはこれが安いのかと思って買っている。
目当てのものがなかったとしても、それはべつのものを買ういいチャンスだと思っている。
だって、もっとほかにおいしくて安いものがあるのかもしれないのだから。
いまはとことんまで飽食の時代のような気がしてならない。
明確に食べたいものがあってスーパーやコンビニに行く人などそれほど多いか?
自分がなにを食べたいのかわからないし、
そのときその場の在庫と価格の偶然性を楽しみたいから、
わたしはスーパーめぐりを趣味のようにしているところがある。

最近、セブンのファンになったけれど、
コンビニ愛好者も店になにがあるか(新商品!)わからないのが楽しくて
しばしば通うのではないかしら。
お目当ての「金のビーフカレー」がなかったら
ためしに「金のビーフシチュー」を買ってみようと思うのが、
変人かもしれないけれどわたしという「お客様」である。
鈴木会長が口を酸っぱくして主張する機会ロスはそれほど恐れなくていいのではないか?
そりゃあさ、会長様が機会ロスという損を強調したら、
加盟店は大量発注して本部は儲かるだろうけれど(結果、大量廃棄)。
売りたいものはフェイス(売場面積)を取って並べろという説もどうだか。
わたしにかぎって言えば、大量に残っている店が売りたい商品よりも、
ひとつ残っているものを好んで買いたがる傾向がある。
希少性のようなものに惹かれるのだろう。
たくさん並べられている商品は売れ残りのような気がして敬遠してしまうところがある。
これはお客様の一般傾向ではなく、当方の偏向的購買嗜好かもしれないけれど。

それから鈴木会長の指摘に、ひんぱんに陳列を変えろというものがある。
わたしだけかもしれないが、これは客としては迷惑。
陳列がいつも変わっていると、買いたい商品がどこにあるのか探すのがめんどくさい。
店が売りたい商品よりも、わたしはわたしが買いたいものを買いたい。
以上、書きたいことを書いてきたが、これは断じて絶対的に「正しい」わけではない。
1割くらいは正当性があるのかもしれないが、9割は間違いだと思う。
ぶっちゃけ、企業はお客様の言うことなんかあまり気にしないでいいのではないか?

そういえば、最近大好きなセブンとは4、5日ご無沙汰している。
さすがに買ったものを投げられちゃうと、どれほど嫌われているのか怖くて行けない。
セブンのPB「豚の角煮」は食べて感動した。
これほどうまい角煮は食べたことがないとさえ思ったくらいだ。
「金のハンバーグ」は正直、それほどでもなかった。
コメント欄ですすめられた「とろっと卵黄の半熟煮たまご」はぞくっとするほどうまかった。
しかし、150円は高い。
いま派遣先で早く帰されるようになったので(収入ダウン)、
いくらおいしくてもそうそうセブングルメを口にできなくなるのかもしれない。
セブン(日本ハム?)のとろけるような豚角煮を食べたら、
いくら半額でも近場スーパーの焼き豚煮は買えなかった(金額的におなじだし)。
むろんのこと、いくら客とはいえわが味覚が絶対に「正しい」わけではない。
むしろこんな貧乏舌の感想を無視したほうが商売はうまくいくと思う。
最後にいちばん言いたいことを客の立場から繰り返し言う。

お客様ってバカだから!

新年の目標みたいのはない。
というのも、目標を立ててしまうと目標に縛られてしまうじゃない。
たとえば敦煌(とんこう)を目的地として10日間の旅行計画を立てるとする。
そうしたら、行けても敦煌までなわけでしょう?
敦煌以外のところには、この旅では行くことができないことになる。
前人未踏の地に足を踏み入れたいと思ったら目的地を決めてはいけない。
だって、そこは前人未踏だとしたら、まだ名前がついていないはずなんだから。
敦煌へ行きたいと目標を立ててしまうと敦煌にしか行けない。
だれも行ったことのない世界に最初に行きたいのなら目標は言葉にならない。
自分が名前をつける処女地に行きたい場合、目的地の名前はまだわからない。
あえて目標を立てないことでしか到達できない世界があるような気がする。
敦煌、敦煌ってうるさいけれど、
あそこはメジャーな観光地でそれなりに目的達成の満足はあるだろうけれど、
だれかの旅を真似しているだけともいえなくもない。
ガイドブックのあるところに行ってもおもしろくないわけよ。
そういうところへ行っても自分なりの発見があるというのもまた事実ではあるが。
1年単位で考えると、
去年のお正月に来年の自分がいまのようになっているとは想像もしなかった。
いまの自分が来年の正月の自分を予想できるというのがおかしい。
旅の話でも人生の話でもあるけれど、
結局のところ人ってさ、行けるところまでしか行けないような気がする。
そこに行きたいというか、そこまで行けたらというか、
そこまで行くのがどれほど難業か。
ブログ「本の山」を始めて10年。今年から11年目に入る。
とりあえず、さらにおもしろいものを書きたい。いろいろおもしろい体験をしたい。
これをお読みのみなさまもそろそろ重い腰を上げてご協力くださらないかなあ。
え? もうしているって? もう一歩近づいてきてくださいよ。