身をもって景気がよくなる秘訣がわかった!
大企業が人件費を惜しまず、
じゃんじゃん使えば結果として景気がよくなるのではないか?
わたしはいまセブンイレブンで買い物をできるくらい景気がいいのである。
とはいえ、ある人に金額を言ったら、もっともらっている人は山ほどいるのよ、
と鼻で笑われたけれど。お金が入ってきたら、そら使うわな。
貯め込んだっていつ死ぬかなんてだれにもわからないのだから。
当方は健康リスクをほとんど気にしないタイプだし(ちょっとは気にするよ)。
金が入ってくる。後先のことを考えず、目先だけを見て金を使ってしまう。
いつもはスーパー半額しか買わなかったものが定価コンビニグルメを味わうかもしれない。
まずいものもあるけれど、意外とこれはこの価格ならうまいじゃんということに気づく。
「うまい/まずい」というのは食べてみないとわからない。
当座の金が入ってこないと、新しい高価なものを食べてみるという実験ができないのだ。
食べてみてこれはうまいと思ったら、口コミで広がるわけだ。
いまはだれも正体がわからないインターネットという化け物がある。
ネットでの個人発信はアクセス数ではないのである。
だれが読んでいるか、なのだ。
わたしよりも影響力のはるかに高い人がお読みくださっている可能性がある。
基本、うちのブログのおもしろさがわかるのは賢い人だから少数派になる。
で、これがうまい、これがおもしろいという話が広がったら、
ほかの人もいままではきつく締めていた財布のヒモをゆるめてみるかって話になる。
おいしいものを食べたり、おもしろいものを見るのは気分がいい。
みんながみんなもっと寛大になり、ギスギスしなくなり、まあ幸せになるといえよう。

最初の一手は人件費なのである。
経営者がせこせこと損をすることばかり気にしているとダメ。
あはっ、こんな損をしたぜ、と笑っちゃうくらいがいい。
その損がまわりまわって結局は自企業のプラスになるのだから。
最初に損をする人がいないと絶対に景気はよくならないのである。
マイナス(損)はプラス(得)なのだが、
そこをわかっている大物が上のほうにいないと景気も経済も活気もなくなる。
おれはこんな散財をしたぜ、と自慢できるのが大物の証拠かもしれない。
わたしは小物なので、さっきセブンイレブンで2千円も使ったことしか自慢できない。
すげえんだなあ。たまたまの偶然だろうけれど、
あれだけ接客のよかったセブンがすごいことになっている。
わたし、買ったものをぽんぽん投げられて。
店員さんのポップ(手書き広告)がついていた「10種具材のミックスサラダ」199円を
わざわざ律儀にも買ったのに割りばしをつけてくれない。
サラダは朝に買うOLが多いそうだが、
割りばしがついてなかったらクレームが来ると思う。
しかしまあ、べつに家で食うからどうでもいいともいえる。
コンビニはせめて廃棄食品をバイトに無料で好きなだけ上げてほしいと思う。
大学時代バイトをしていたコンビニでは廃棄は持ち放題だった。

このたびわかったのはケチケチしないことの重要さ。
大企業は社員や派遣、パートもお客さまだということに早く気づくべし。
うちの近所のマルエツなんてトップが賢いのかさっそくそこに気づいたようで、
いつもは深夜は数人でまわしているのに今晩は大勢店員がいた。
そのためかいつもに比べて店内が活気にあふれ繁盛していた。
パートもお客さんなのに、そこでケチったらお客さんは投機的購買をできない。
すると、どんどん人生がおもしろくなくなる。表情もブスっとするだろう。
みんながみんな他人のミスばかり気にする、いやな他罰的な傾向になろう。
損をするのが得になる近道なのに、だれもが損をしまいとばかりするようになる。
ここは上のほうの人が思いきった損をするしかないのである。
それは結局、返ってくるようなところがあるのかもしれない。
うちの派遣会社もえぐいことをしていて大好きだ。
ご存じない人もいるかもしれませんが、企業は派遣会社にいくらの金を支払っているか。
派遣がもらっている給料のほぼ同額を派遣会社も得ているのである。
見えないちからで派遣をぶち込めばぶち込むほど派遣会社はもうかる。
いまのわが周辺はみんなおもしろいと思う。
派遣会社も人が余っているところに人材をばんばんぶち込むし、
どういう利害関係があるのか受け入れ先企業もそれを断わることができないようだ。
そして、一見損をしているように思えることが、のちのちの得になるのである。

近所のセブンイレブンでポップがついていた「10種具材もミックスサラダ」は
いま食べているがとてもうまい。生き生きした生命を食しているという感じがする。
まさかこのおれがコンビニで生野菜サラダを買うほどになるとは思わなかった。
2百円あれば半額あんきもだって買えてしまう場所に住んでいるのにもかかわらず。
食べてみないと味はわからないが、金が入ってこないとその実験ができないのだ。
「金のビーフカレー」の横にある「金のビーフシチュー」は日本ハムではないのか。
「金のハンバーグ」は日本ハムとセブンのコラボなので買ったけれど。
コンビニでチーズなんて一生買わないと思っていたが、
200円程度の価格帯の6Pチーズもよく見るとあるんだなあ。
本当に味のわかるバイヤーがマイナー企業からおいしいものを買いつけ、
それをセブンイレブンブランドで売りヒットさせれば、これほどいいことはないのではないか。
いまは無名の中小企業はどうやっても大手にかなわないのだが、
そこを大企業に目をつけてもらえたらって話。
あんがい日本ハムではない「金のビーフシチュー」こそ美味なのかもしれない。
高いけれど、いまだけいまだけちょっぴり景気がいいので、今度買ってみよう。
損(ってなに?)をしたほうが得(ってなに?)になるのかもしれないわけだから。

ある人おすすめの「うにせん」もさっきセブンイレブンで買った。
裏を見ると、たしかにこれはセブンでしか買えないんだな。
いま食べているが百円でこれなら、たしかにうまい。経済的でお得だ。
こんな商品がコンビニにあるなんて知らなかった。
コメント欄ですすめられた「たまご」を大したことがないと書いたが、
もしかしたら「ゆでたまご」ではなく
「とろっと卵黄の半熟煮たまご」かもしれないと思って、
今日ふたたび2個で150円近くする「たまご」を買ってみた。
お金があるっていいなあ。いろいろな損(実験)をすることができる。
もしかしたらその損こそ得になるかもしれず、
いまの得こそのちのちの損になるかもしれないのだが。
みんながあんまりマイナスを気にしないようになると、
世の中はプラスになるのかもしれない。
酔ったいきおいで書くと、いまは人生の花時という可能性もある。
去年もおもしろかったが、今年は最高にエキサイティングだった。
この調子だと来年はどうなるのだろう。
繰り返すが損(マイナス)は得(プラス)なのかもしれない。
プラス(得=善)はマイナス(損=悪)なのかもしれない。
プラスとかマイナスとか、真実はなにもわからないのかもしれない。
そこがおもしろく、「わからないことがわかる」と人は生き生きしてくる。
おなじものばかり食べていると飽きるから、
新しいチャレンジをするのも悪くないのかもしれない。
そのために必要なのは金だ。
やばいっす。いまセブンイレブンの「金のビーフカレー」が食べたくて仕方がない。
でも、このところ毎晩行っているから、覚えられているかと思うといやいやいんや。
わざわざ遠くのセブンに行くのもめんどい。
セブンと日本ハムのコラボは、すごいうまいのではないかという気がして。
おししいものを食べたいなんて俗っぽい欲望だが、
おいしいものはおいしいんだもん。
セブンゴールドシリーズをいろいろ食べてみたい。
著作を読んだらセブンの会長いわく、あれは多少高くてもいいから、
とにかくうまいものをお願いしますと専門メーカーに依頼したものらしい。
その代わり、全部買い取りますよ、という約束。
やっぱおいしいものっておいしいよねえ。
空腹こそ最高の調味料とはいうけれど、おいしいものはおいしいわけで。
尊敬する小林秀雄賞作家、朝日賞作家の山田太一氏は、
食べ物のうまいまずいをいうのはみっともないという価値観がおありのようだが、
それは戦争を経験した世代だからで、
そういう飢餓を経験していないと、どうしてもおいしいものを求めてしまう。
セブンの豚角煮とか金のハンバーグはいったいどんな味がするのだろう。
もう読書感想文ブログなんかやめて、
ありきたりなグルメブログに転向しちゃおうっかな♪ まーさかっ♪
むかしインドに行ったときさあ、屋外でビールをのんでいると虫が落ちてくるんだわさ。
いっしょにのんでいたフランス人が、これがインドさ、
みたいな感じで指で虫をすくい取りだし平気でそのビールをのんでいた。
インド旅行経験は2回しかないけれど、
これは大学生時代の1回目の経験で、郷に入ったら郷に従え。
ああ、そういう世界もあるんだと思った。
わたしのビールにも虫が落ちてきたけれど、真似をして気にせずぐびぐびのんだ。
この経験が二度目の3ヶ月インド徘徊をさせたのかもしれない。
インドでは、きれいとかきたないとかめちゃくちゃなんだよね。
口だけかもしれないが、わたしは虫が入っていた食べ物でも口にできる自信がある。
外食チェーンの厨房(キッチン)は、うっかり落としたものでも客に出しているでしょ?
べーつにさ、「3秒ルール」ではないけれど、
床に落としたものを食べたって健康に害はないし、味も変わらないわけだ~な。
それを言っちゃあ、おしめえだよ、という話なのだが。
台湾の屋台で不衛生な刺身を食っても大丈夫だったし、
食に関してはみみっちい武勇伝がけっこうあるのである。
虫が入ったカップ焼きそばだって、虫だけ捨ててお湯を入れて3分で完成させ、
そのことを知らない人に「はいよ!」と差し出したら、
味はいつもとおなじで健康被害もないというのは経験的な真実である。
さすがにそうと知っていたら、
よほどの空腹以外はいまの日本に生きているものとして口にできないけれど。
戦争中や敗戦直後の食糧難だったら、虫でも食ったわけでしょう。
虫混入事件があったらしいペヤング(カップ焼きそば)はあまり好きではない。
このジャンルなら明星の「一平ちゃん夜店の焼きそば」がいちばん好きかも。
正規のペヤングは苦手だけれど、赤い辛いやつはたまに食べたくなる。
小さいころ食べさせてもらえなかったせいか、
下品な身体に悪そうなものほどうまいよねえ(だがマックは嫌い)。
へんにかしこまった高級懐石料理みたいのも清く正しい政治家みたいで嫌い。
セブンイレブン会長の本を2冊読んだ。
またべつに読書感想文を書くが、読みたてほやほやの状態で思ったことを。
お客さまの立場からものごとを見るのが重要というのが
巨大成功者の最大メッセージだろう。
一度もレジに立って接客したことのないという(そういう告白をできるのはすごいが)、
エリートでウルトラ成功者の会長の書けなかったことに気づく。
お客さまの立場で考えるといっても、お客さまは百人百様なのである。
ある人はフレンドリーな接客を好むだろうし、べつの人は機械的な対応を好む。
まあ、そこらへんを臨機応変(対機説法的)にうまくできるのが
接客のプロなのだろうが、それはマニュアルやセミナーで教えられるものではなく、
持って生まれた資質によるところが大きいような気がする。
うまい人はうまいし、へたな人はへたなのだ。
わたしにかぎっていえば時給千円未満のパートさんに完全な接客を求めることはない。
それは好ましい接客をされたら気分がいいけれど、
それは今日は運がよかったと周囲に微笑の輪を連鎖させていくけれど。
バイトが客の悪口をいっているのなんて、
接客バイト経験があればだれでもわかることだから、
顔を覚えられる恐怖におびえてコンビニを転々とする客だっていることだろう。

わたしがお客さまの立場としていうならば、
コンビニは弁当や食品のカロリー表示をやめてほしい。
ぶっちゃけ、それほどカロリーは健康や肥満と影響していないのではないか。
いくら食べても太らない人がいる一方で、いくら減食してもやせない人はいるわけで。
800カロリーとか千カロリーとか書いてあると、
買うのも食べるのも躊躇(ちゅうちょ)してしまう。
そんなものはかえって知らないほうがいいし知りたくもないが、
書いてあったらつい見てしまう。
近所の肉屋の弁当はカロリー表示をしていないからいい、ともいえよう。
けれども、こういう客の意見は少数派でしょう?
わたしがお客さまの立場で考えたとしても、こういう限界があるのである。
そういえば、カロリーを表示しているものを買いたがらない傾向がある。
おいしくて安ければ(価格が妥当ならば)、客(わたし)はそれでいいのだが、
そうではない客(多数派?)もいるというこの問題は解決策がない。
「いやなら来るな!」と頑固ラーメン屋のように居直るしかない。

あまりにもチェーン店の接客がよくなりすぎたから、
頑固ラーメン屋のようなものが一部の層に支持されるのかもしれない。
1杯千円近くするラーメンを店主の命令通りに食うなんてまっぴらごめんだが、
そういうマゾ体質を持つお客さまもきっとたくさんいるはずなのである。
お客さまといっても人それぞれ。労働者といっても人ぞれぞれ。
セブンイレブン会長だってレジはできないわけで、
そしてかならず嗜好(しこう/好き嫌い)というものがあり、
会長の舌が断じてお客さまの舌を代表しているわけではないのだが、
氏のたまたま食べた自社の弁当が(そのときの体調もあるだろうに)
気に食わなかったら責任者は叱責され、
その場でその瞬間に全店から対象商品を撤去させるらしい。
そのとき、その食品をおいしいと思って
毎日のように買っていたお客さまは完全無視されるのだが、
世の中そんなもんだし、それでいいような気がする。
コメント欄ですすめられたので、セブンの「味付き半熟ゆでたまご」を食べてみた。
たまごは10個百円購入がつねの当方には、
この程度のゆでたまご2個で150円はないと思うけれど、
全店から撤去させる必要はさらさらございませんし、
そんなことをしたらこの食品が好きな人を困らせてしまうことを知っている。

そうそう、ペヤング(カップ焼きそば)に虫が入っていて全品回収したらしいけれど、
そこまでする必要があるか?
あんなものは飛行機事故に遭遇するレベルの稀有なめったにない事象ではないか?
全品回収したらほかのお客さまを困らせてしまうわけでしょう?
虫が入っていたらラッキーで、ペヤング100個交換券をプレゼントすればいい。
確率はわからないが、
あんなのは1億個(10億個?)にひとつくらいのレアケースのはず。
むかしはそういうことがたとえあっても新聞やテレビは報道しなかったけれど、
いまは新聞やテレビが手をこまねいているあれがあるからねえ。
ニュース報道なんてある意味詐欺で、ある事件を報道したということは、
べつのことを大衆に伝えない方便(言い訳)になるくらいなのだが、
それを悪いと批判しているわけではなく、
コンビニ弁当のカロリーのように知らなくてもいいことはたくさんあり、
むかしはよかったなどとおじいさんみたいなことをネットで発言してしまう。
シェイクスピアに「間違いの喜劇」という作品がある。
考えてみたら、劇というのは間違えることから生じているところがある。
むかしから劇が好きで、そのころは(いまも?)権威主義だったので、
シェイクスピアやギリシア悲劇を全作品ひまにまかせて読んだものである。
どうしてかわからないが、戯曲(芝居の台本)も山のように読んでいる。
単におもしろいものを読みたかっただけなのだが。
小説もいいけれど、戯曲のほうがおもしろいと長らく思っていた。
(そういえば最近、戯曲を読まなくなったなあ)
こういうわたしは劇的存在なのだろう。
劇的存在というと格好いいが(そうかしら?)、間違える天才のようなところがある。
よく間違えるんだなあ。今日も危なかった。
乗換駅で反対方面の電車に乗ってしまい、到着時間がギリギリになってしまった。

間違う、間が違う、とは空気が読めないということなのだろう。
でもさ、たしかにミスはいけないが間違いもまた笑えるでしょう?
わたしなんかパンダみたいなものだから、つまり希少動物なんだから、
もう笑って許してよって思うしかなく。
今年バイトを辞めた大好きだった書籍倉庫でも最初は最高記録(?)の
ミスをつくったような気もするけれど(わからないけれど)、
最後のほうは少々まともになっていたから、
もう知的障害者枠のようなものだと思って、そこはあきらめて、やれやれと。
ちょっとつぐないをできたかなと思ったのは、
今日帰宅したのは0時半とわたしがいちばん遅いのではないか。
帰りの電車賃がかかったのも当方だけだろうがあえて請求するつもりもないし。
おしゃべりタイムがあって楽しかったしなあ(←なんて書くのが空気が読めない証拠)。

けどさ、でもね、駅を降りてマルエツに入ったら
いつになくめずらしくレジ店員がおしゃべりをしていたけれど、
不愉快どころかかえって客のこちらもいい気分になったけれどな。
苦役のように押し黙って労働している人を見るより、接客業では(以外も?)
ひまなときは店員同士がおしゃべりしているくらいでもいいのでは?
見えないちからに動かされて、恒例のセブンイレブンチェックもしてしまった。
このブログに書いていることは間違いだらけだから。
消えたと書いていた「あじ南蛮漬け」がしっかりとあった。
在庫があれば礼儀上買ったが、売れ切れていたので購入せず。
代わりにここ10年(15年?)くらい食べたことのないコンビニ弁当を買ってしまった。
コンビニ弁当は高くてまずいというわたしの感覚が間違っているかもしれないわけだから。
いま思い出した。最後に買ったコンビニ弁当はエーエムピーエムの「とれたてキッチン」で、
だとしたら10年食べていないというのは大げさで6、7年くらいだろう。
いまもいま調べてみてエーエムピーエムが4年まえに消滅していたことを知る。
わたしが好きなものは消えてしまうという不思議な法則が、ここでもか!
今日も予備のために買ってしまったセブンイレブンの
「金のビーフカレー」もやばいかもですぞ、あはっ。
なくなるまえに味わえ、みなのもの♪
ただし、あなたがあれを高いと思ったりまずいと思っても、
それは間違いではなく絶対に「正しい」。
結局、「正しい」ことというのは、それぞれが心中で「正しい」と思ったことなのだから。
わたしにとってリアリティとは、いま目のまえにいる人のことである。
いま目のまえにいる人は、リアルでしょう。その人の発する言葉はリアルだ。
いまわたしの目のまえにいる人の言動は、
うそとかほんとうとかそういう言語レベルを超えた真実性がある。
まるで離人症のようだが、リアリティに飢えているところがあるのかもしれない。
リアリティというのはわたしの経験によって左右されるものでしょう?
「苦労人はやさしい」というテーゼ(題目)がほんとうかどうかは、
上の人は自分で下に降りて冷暖自知する(味わう)しかないようなところがある。
もしかしたら苦労人はぞっとするほど陰湿で意地悪なのかもしれない。
そうではないのかもしれない。
明るく現実を笑っちゃうような陽性な部分があり、好ましい人たちなのかもしれない。
いま目のまえにいる人のリアリティほど重いものはない。
現実っておもしろいし怖い。ひと目見て嫌いな人でも、
なかに踏み込んで行けば(行くか?)魅力的なケースも多々あるわけだ。
それが完全なるリアリティかといえば、そうでもなく、
その人のことはだれにもわからないのだろうけれど。
言語(言葉)はなまのリアリティからもっとも程遠いものでありながら、
リアリティを伝えるには言葉(言語)に頼るしかないという絶対矛盾がある。
困っちゃうなあ、もう。
いまあなたの目のまえで起こっていることが、おそらくもっとも「正しい」。
数年まえに放送された山田太一単発1時間ドラマ、
「よろしくな。息子」はコンビニを卒業して職人世界へ行く青年の物語という
解釈もできなくもない。
コンビニは人情ドラマとは正反対の世界だが、
べとべとした人情がうざいというのもまた真実。
商店街のごひいきさんとか、ほしくないものも買っているのではないか?
そのぶん、ほしいものを正直にロボットのような店員から買えるコンビニはいい。
プライベートに絶対に干渉されないのがコンビニ空間である。
コンドームを買ってもなにも思わない店員のいるところがコンビニの魅力だ。
スーパーの店員とコンビニの店員とどちらが人間味があるかといったら前者。
でもさ、そういう対面の会話は、
日々人間関係にあくせくしている平均以上収入の人にはうざいと思う。
だから、コンビニはいい。
しかし、コンビニ世界は人それぞれを描く山田太一ドラマ世界とは相いれない。
巨匠はドラマ「よろしくな。息子」でマニュアル主義を否定しながら、
同時にコンビニ店員にもこんな人がいるという現実感(リアリティ)を示した。
うまいなあと思う。他人のお金の重みを熟知した、
成功者の書いた名作1時間ドラマであったように思う。
コンビニは老人を取り込むことに成功したが、
ネットは老人から嫌われてばかりなのがおもしろいともおもしろくないとも。
ある作品をリアリティが欠如していると批判する人がいる。
わたしもかつて自死遺族としての経験から
山田太一ドラマ「本当と嘘とテキーラ」をリアリティがないという形式で批判したことがある。
のちにシナリオで読み返して、
リアリティの欠如という文脈で批判した自分は間違えていたと思い直した。
こういうドラマのようなこともあるかなと過去の自分を否定した。
リアリティとはいったいどういう意味の言葉なのだろう?
最近はまったく国語辞典を使わず知らない単語はネット検索しているが、
リアリティとは「現実、真実性、事実、本質などを意味する英単語」らしい。
しかし、リアリティという和製英語は、現実でも真実性でも事実でも本質でもない。
それはリアリティとしか言い表わせぬ言葉になろう。
このリアリティという言葉の使い方に、使い手のリアリティが大きく関係している。
なにが言いたいのかっていうと、リアリティというのは人それぞれではないか?

以前、同世代の女流作家が書いた少年小説を、
女性読者複数がリアリティがあるとネットで絶賛していた。
だが、かつて少年時代があった男のわたしからしたら、
その少年小説はまったくリアリティのないものだった。
こんな男の子はいるはずねえよっていう。
原爆ドラマをリアリティがないと批判するのもおなじこと。
そういう批判をしたあとに脚本家が原爆二世だと判明したら
リアリティはどちらにあるのか? くだらぬわたしの話をすると、
わたしが実際に経験したいろいろなことを書くとリアリティがない気がする。
そんなこと本当にあるわけないっしょ? というハプニングに多く遭遇している。
どうせ書いても本当のことだとだれにも信じてもらえないから書かない。

やはり同性愛者のリアリティはノンケ(異性愛者)にはわからないような気がする。
ひるがえって、なにかに強烈なリアリティを感じるとはどういうことだろう?
みんながリアリティを感じている高視聴率の犯罪ドラマがあったとする。
ひとりこのドラマは本当じゃないと批判するものがいた。
多数派はこいつはイカれているのではないかとこっそり思う。
しかし、じつは彼にこそリアリティがあり、男には人を殺した前科があった。
どちらがリアリティがあるかといえば、ひとりの男だろう。
だが、リアリティというのはそういうものではない。
「リアリティの欠如」とは、当方の経験からは受容できない物語だ、という意味になろうか。
わたしは多くの恋愛物語をリアリティが欠如しているため嫌っているが、
これは間違えているのは当方でリアリティは向こうにあるのである。

「おまえは被差別部落を差別するな、人間は平等だ」と怒鳴ったら、
相手が部落出身であることをニヤニヤしながら語り出したら、
まったくもう本当にこれはリアリティの恐怖と言うしかない現象である。
孤児院を舞台にした野島伸司ドラマ
「明日、ママがいない」は世間からさんざん叩かれた。
みなみな孤児院はそういうものではないと信じたかった。
たとえば朝日新聞読者のような善良な正義の人たちが、
こんなドラマにはリアリティがないと大騒ぎする。
いったい実体験を持つ孤児院出身の方は「明日、ママがいない」を見たらどう思うのか?
しかし、そういうリアリティ(実体験)よりも
多数派のリアリティ(妄想/未経験/実体験)のほうが
リアリティがあるとされてしまう恐ろしさがある。
ちまたで評判の高いセブンイレブンの金のカレーは、
レトルトではなくおつまみの横の冷蔵コーナーに置いているものらしい。
そんなことさえ「ふつうの人」は知らないわけだ~よ。
自称カレーマニアの当方がはじめてセブンの「金のビーフカレー」を口にしてみた。
350円くらいだったのかしら。
感想は、これは麻薬でも入っているんじゃないかというくらい中毒性がある。
はじめてグリコの「LEEカレー」を口にしたときの感動と似ている。
むかしは「LEEカレー」が大好きでよく食べていたが、
いまが嗜好が変わり家に常備もしていないくらいだ。
「金のビーフカレー」は含み味がすごいなあ。
これを350円で出されたら、世のカレー屋さんはどうなるのっていう話だ。
とはいえ、国内の外食はあまり好きではないので、レトルトカレーとの比較だが。
おそらく、こういう採算ぎりぎり食品の威光で、
他のセブンイレブン・ブランド食品が光っているのかもしれない。
製造元を見たら、また日本ハムなので、本当にすごいのはハムかセブンか。
日本ハムなんてプロ野球からも撤退しちゃったし、企業イメージがどうもねえ。
ああ、誤記を恐れて調べてみたら、まだ北海道に野球の日本ハムはあるのか。
というか、そのへん本当によくわからないほどの世間知らず。
日本ハムが日本ハムの名前で売っても売れないものが、
セブンイレブンなら売れるということがあるのかもしれない。
しっかし、全国どこでもおなじ味のカレーが食べられるというのは均一化、同一化。
いまは物流の発達で本物のご当地グルメなんかないとも言えるわけで。
その象徴がセブンイレブン(日本ハム)の「金のビーフカレー」なのかもしれない。
彼女がつくってくれたカレーやおふくろカレーと
セブン(ハム)カレーがどちらがうまいかはみなさまの味覚しだいだろう。

セブンイレブンのツナタマサンドは相変わらずおいしい。
あれは具をケチケチしていないところがいいような気がする。
菓子パンって貧乏くさいけれど、コンビニのサンドイッチはリッチ感がある。
スーパーのサンドイッチが絶対かなわないのがなぜかコンビニのサンドイッチ。
その最高峰がセブンイレブンのサンドイッチなのかもしれない。
ひとつのものが突出した美味であれば、それは自社ブランドになり、
ほかのものも多少高価でも買ってもらえるのかもしれない。
彼女や母親というブランドもありだが、セブンイレブンというブランドもあり。
コンビニは身近なデパートのようなものかもしれない。
デパ地下は半額にするけれど、コンビニは廃棄する。
その捨てるいさぎよさがコンビニの絶対的魅力であろう。この価格でしか買えない。
よおし、明日にはセブンイレブン関連書籍が複数冊届くようだ。
なにか見えないちからに動かされるようにセブンイレブンでたくさん食品を買ってしまう。
見えないちからって怖い。
当方は39歳で、おそらく世間的価値観からしたらあまり幸福には見えない男だ。
コンビニとは、正直あまり縁がなかった。
大学生時代にエーエムピーエム(いまもあるの?)で夜勤のバイトをしたことがあるくらい。
人ってご縁がないと変わらないじゃないですか?
ヤクザは悪い、政治家は悪いとか思い込んでいる庶民がたくさんいるけれど、
実際に食べて(接して)みないとわからないわけで。
その食べてみるって行為が難しいんだなあ。
たとえばインドにはリピーター旅行者が大勢いるけれど、
それは最初にインドに行く勇気みたいなもの(←大げさ)があったからでしょう。
ウニは大好物だが、あれを最初に口にした人はほぼ絶対キチガイでしょ?
あんなキモいものをよく食ってみようと思ったものだ。
いまは高額で取引されているが、最初に食べた人は食べ放題無料だったのである。
価値がある=金になる=おいしいっていったいどういうことなのだろう?
ウナギなんかいまべらぼうに高くなっていますよね?
ここ10年でいちばん高騰したのはウナギではないか?
ウナギは好物だが、長らく(といってもむかしの話)中国産半額ばかりだった。
一度機会があって国産高級ウナギを食べたらパサパサしていてまずいのである。
変なことをいっぱいされて飼育された中国産ウナギのほうが脂っこくてうまい。
いまはどっちもどっちで、国産のウナギのほうがうまいという意見もわかるし、
どちらかと言えばそちらの老人的グルメ観に与している。
あっちのほうが本当のおいしさなんだなという、どこかしら偽善っぽい味覚。

セブンイレブンでいかにもうさんくさいクリスマス特別料理の
「スモークサーモン明太ポテト」を買ってみた。
深夜に買ったから売れ残っているところが証拠なのかもしれないが
(あるいは大量発注?)、これに300円出せる人はすごいなと思う。
スモークサーモンを一度も食べたことのないお子さまなら大感動する味かもな。
うちの近所は貧民街(?)なので
スモークサーモン6、7枚がときに200円で買えるのだが。
わたしはサーモンが好物だからあれこれ食っているのだが、ううむ。
だれがこのメニューと価格にOKを出して、
いったい利益率と廃棄率はどのくらいだったのか。
売れないのはオーナーの販売努力が足らないからと本社では言っているのだろうか。
そもそもコンビニには公共料金支払い以外めったに行かない男だが、
このたび見えないちからに動かされるようにセブンイレブン食品を購入している。
今後もしばらく続くかもしれない。
考えてみたら、いつ死ぬかわからないのだから、
損得なんてどうなっているのかわからない。
セブンイレブンの「スモークタンスティック」もまた買ってみた。
どうしてセブンイレブンにこういうものが売っているのか知ったかと言えば、
それは見えないちからというほかなく当方も理由はわからない。
「スモークタンスティック」は強烈にうまいな。これで百円ちょっとは安い。
わたしが好きなものはすぐ消えるから、これは貴重価値が出るかもしれない。
百円ちょっとでこれが出せるのはすごいって調べたら、
つくったのは日本ハムでお問い合わせ先も日本ハムになっているのが
世の中の裏、裏、裏を感じさせておもしろい。

セブンの「金のカレー」は半端なくうまいという説をネットで読んで、
かなりまえ近所の店に行ったことがある。
「金のカレー」がどこにあるのかわからなくて
外国人の店員さんに聞いたらレトルトカレー棚を紹介された。
さほどうまくないという感想だった。
しかし、見えないちからで「金のカレー」とはレトルトカレーではないことを知る。
冷蔵コーナーで売っているあれを「金のカレー」というのか。
300円程度ならそこまで超高級というほどではない。はじめて買ってみた。
わたしはカレーが大好きで、どのくらい好きかというと、
インドのカレーもタイのカレーも日本のカレーも大好物と同語反復を繰り返したいくらい。
いまから湯煎して(お湯であっためて)食べてみるが、
わからないのは当方の感想が「正しい」のかどうかだ。
結局、売れたものが「正しい」となるのではありませんか?
あるいは権威のある銀座の寿司屋のウニはうまい、みたいな。
いや、一流のウニは半端なくうまいのだが、しかしどうしてそれはうまいのか?
セブンイレブンのツナタマサンドってまだあったんだね。
わたしがいまのところセブンイレブンでいちばん購入した回数が多いのは、
おそらくツナタマサンド。
なんでもセブンの食品はおなじに見えて少しずつ味を変えているそうだが、
消費者の舌も日々変化しているのだから「正しい」と思う。

いきなり話は変わるが――。
紫綬褒章作家で芥川賞選考委員の宮本輝氏は小説「三十光年の星たち」で
「ツッキッコのスパゲティ」という料理を登場させている。
それは庶民から愛され、そのレシピは秘伝で、絶対に「正しい(おいしい)」という。
そのレシピはとにかく絶対で、変えるなんて言語道断とんでもない。
しかし、氏の所属する庶民派団体の創価学会はころころ教義を変えているのである。
創価学会が「正しい」理由は教えをそのときどきで変えているからではないか?
むかしは日蓮正宗とべったりだったのに、いまは反目している。
いや、本当の現在は和解交渉が進んでいるのかもしれない。
そういうころころ意見を変えるタヌキなところが、創価学会の「正しい」理由ではないか?
みなさん、自分は首尾一貫していると考えているでしょう? そこが間違いだ。
矛盾してころころ考えを変えるところがおもしろくて、ある意味で「正しい」。
わたしは(西洋)哲学は嫌いだが、
むかし西田幾多郎という偉い人が「絶対矛盾的自己同一」という言葉をつくったらしい。
絶対に矛盾していることが自己のなかでは同一化しているという意味だろうか?
西田幾多郎なんて読んだこともないし、
一生読まないだろうから「正しい」意味はわからない。
テレビライターの山田太一氏は、
中学生時代に教師から「絶対矛盾的自己同一」という言葉を教わったという。
こんな言葉は中学生にはわからないから西田幾多郎など読まなくていい。
師の教えを守ったのか、山田太一さんは西田幾多郎を読んだことがないという。
ところが、社会に出てから、ふっと「絶対矛盾的自己同一」という言葉を思い出した。

「いつだったか忘れたが、急にあの「絶対矛盾的自己同一」って、
どういう意味なんだと昔の言葉が甦(よみがえ)ったのである。
そうなんだ、と思った。矛盾していいってことなんだ、
[映画の]キャラクターに矛盾があってもいい、物語に一貫性がなくてもいい、
いや矛盾はなければいけない、人間は矛盾しはみ出すものがなければいけない、
それらを豊かに抱合して一個の生命体であるような映画をつくれといってるんだ、
と西田さんの本は一行も読んでいないのだから無茶苦茶なのであるが、
これは詩だ、この一行で充分と、勝手ながら教訓を得た気持になった」(「月日の残像」)


あんがい人間っておなじものを食べても、あるときはうまい、
またべつのときはまずいと思うものなのではないだろうか?
おなじものをいくらで食べたかによっても感想は変わる。
だれがつくったかによって変わるのは言うまでもない。
スーパーで買ってきたものでも恋人が自分でつくったといえば味は変わるってこと。
それは矛盾しているじゃないかと言われたらその通りだが、
この矛盾こそ「正しい」ような気がしてならない。
もう矛盾だらけでボロボロで、
このブログ記事でなにを言いたいのかは自分でもわからない。
それはあなたさましだいということが言いたいことなのかもしれない。
善とはなにか? 悪とはなにか? 「正しい」とは? どう生きたらいいのか?
こういうことを突き詰めて考えると、発狂どころか身体にも変調をきたす。
1週間まえとか原因不明の吐き気がすごかったもん。
多くの人たちといっしょに本当に微力ながら働いていると、
そういう観念はどうでもよくなるのでとてもいい。
それぞれ内面にはいろいろ抱えているんだろうけれど、
「ふつうの人」にならなければ働けないわけで、
使えないながらもそういう人たちに混じって身体を動かしていると悩みが消える。
考えるまでもなく、
腰のちょっとした痛さのほうが善悪観念よりも重いと言えなくもないわけだから。
きっと結婚して子どもをつくっちゃったら男女ともに、
善悪や「正しい」ことを考える暇も余裕もなくなるような気がする。
いまの派遣先でどのくらいの人が結婚しているのかなあ。
もちろん、プライベートは聞けないけれど。
意外と多くの人が結婚していると思うと、それって「ありふれた奇跡」だよね。
えええ? この人が恋愛の真似事をして、プロポーズとかしちゃったの、って思うと。
こういうことを書くのは不謹慎かもしれない。

「いつも喧嘩ばかりしている肉屋の夫婦はどうして結婚したんだろう」
このアメリカテレビライターの言葉は、
青年時代の脚本家・山田太一氏に強い影響を与えたという。
いまの派遣先には以前にも行ったことがあり、複数の人たちと再会した。
前回なぜか座談会のような雰囲気になって、
それぞれの人のプライバシーを少しばかり知っていて、それは忘れられない。
この人のご主人はお病気なんだよなあ。
この人の旦那さんって気が荒くてたまに奥さんに手を上げるのか。
男はたしかあのイケメンだったよなあ。
前回の派遣仕事ではそういう日常光景の香りがとても新鮮で、
ふわふわ、わくわくしているところがなくもなかった。
働くってそういうことじゃないんだろうけれど、ごめんちょ。
反面、生活べったりの人にはうちのブログは、ただただ薄気味悪いのだろう。
派遣バイト先の仲間との会話。
わたし「へーえ、自転車で40分かかるんですか」
相手「車で来るとパーキング料6百円取られるんだよ」
わたし「深夜、自転車に乗っていると警察官から声をかけられません?」
相手「いまのところは」
わたし「(冗談っぽく)俺、怪しいんですかね?」
相手「うん、怪しいよ」
わたし「……」
相手「……」
相方は週6で入っている7歳年上の男性。
見かけは常識人っぽいだろうという自負があったが、
見る人が見たら一発で見破られてしまうのかもしれない。おお、こわっ。

よく知らないけれど、おおむかし、
作家みたいのは結核をやるといいという話があったと聞く。
結核は働かないでいいし(働けないし)、
いろいろなものへの感覚が鋭くなる(たとえば死について)。
このため、思考が深まり、人間としても深くなる(危なくなる?)という伝説だ。
うつは現代病らしいけれど、バリバリさんがうつになったらきつそう。
いままでなにも考えないで来た人が、闇に突き落とされるわけだから。
うつを一回やると人間が深まるみたいのは都市伝説の慰めで、
精神科医の春日武彦氏もやんわり指摘していたが、
心の病とやらにかかるとかならず社会的地位、収入はダウンするという。
バリバリやりすぎるといつかプチンと切れるからそういう人は要注意。
バリバリで一生逃げ切られる人も大勢いるだろうから、
あまり考えすぎないのがいいのだろう。
家族なんかだと父親があまりにバリバリだと影を引き受ける形で
奥さんやお子さんに問題が出てくることもあるらしい。
重いうつはそもそもなにも考えられなくなるけれど、
うつっぽくなって善悪や「正しい」ことを自分のあたまで考えるのは、
たしかに「魔」なのだが、毒ほどおいしいというか、
考えるのは辛いけれども「そうかそうか」という発見がおもしろいのも事実だ。
毒っておいしいよね。身体に毒なものほどおいしいところってない?
油なしの減塩ヘルシー料理なんてくそまずそうじゃん。
毒男もあんがい食べてみればおいしいのかもしれませんよ、女性のみなさま!
セブンイレブンに興味を持ち始めて、商売ってなんだろうと考えた。
今日の結論は、商売とは客の習慣を変えてしまうこと――になろうか。
むかしは商店街の個人商店で雑談しながら(値引きあり、おまけあり)
買うのが一般的だったが、
そういう習慣を変えさせ商店街をつぶしたのがスーパーである。
大衆が好むテレビドラマは習慣を変えさせる力があるとも、
大衆の変化のリアルを描くのがテレビドラマとも言えるから、
いまは巨匠になった脚本家の山田太一氏も
むかしスーパーをめぐる物語を書いている。
スーパーを利便性で超えようと考えたのがコンビニである。
そのコンビニを舞台にしたドラマもまた山田太一氏は書いている。
いまコンビニを超えるいきおいがあるのはネット通販だが、
さすがに長持ちの巨匠もこの世界にはお手上げのようだ。
いまの山田太一さんは、スーパーの安さやコンビニの便利さよりも、
職人のこだわりのようなものを愛しているのかもしれない。
むろんドラマを観ての感想で、ご本人に質問したわけではない。
ただ散歩がご趣味の山田先生はスーパーには立ち寄るが、
コンビニにはそれほど足しげく入店しないような気がする。
むかしのテレビドラマの放送権益(お金♪)って、どうなっているんだろう?
いまのドラマは再放送されても脚本家にはお金がほとんど(まったく?)
入らないシステムだが、むかしの慣習だと違ったという(野島伸司はちょーリッチ!)。

お金に不自由しない成功者はつまらないような気がする。
だから、カンボジアに学校をつくったり、
無料で講演会に行き、ときには「自分語り」のようなことをしてしまう。
成功者の周辺なんかイエスマンか、
「自分だけは正直ポーズ」を取った軽度批判者しかいないだろうから、
成功者になった彼(女)が本当に求めているのは本音のつきあいかもしれない。
人は成功してしまうと、他人と本音レベルの高いつきあいができなくなる。
「いま忙しいからちょっと」なんて言えるのは、本音のつきあいゆえである。
家族ならば許してもらえると踏んで人は本音を話す。家族はありがてえ。
その家族をテーマにしたホームドラマを描き続けたのも山田太一である。
いまは同性愛カップルやらもいるそうだが、それはそれでいいけれど、
家族という単位だけは八百屋のように古くはならない。
個人的な断言だが、いちばん強いのは口コミではないか。
近所にひいきにしている肉屋(の弁当)があるが、
それはアルバイト先で個人的に教えてもらったものである。
口コミの最強単位が家族で、さてまあ次は新聞かテレビかネットか。
コンビニ業界ひとり勝ちのセブンイレブンはネットの発展性に興味を持っているようだが、
新しいものに抵抗感がない人が商売上の勝利者になるのだろう。
言うまでもなく、勝てばいいのかどうかはわからない。
商売で勝っても家族が苦しむ羽目になったら、それでもいいという考えもあろうが、
それもまた「正しい」のだろうが、勝てばいいというほど人生は安っぽいものではない。
これはこちらがそう思いたいだけで、勝てばいいというのが人生の真実かもしれない。
いろいろ宗教偉人を調べてみると、みんな言葉には真実を託していない。
キリストでもブッダでも師匠がこう言ったという、
弟子による聞き書きで先生はなにも残していない。
本当の先生は、まあ「真理は人それぞれ」と思っていたのかもしれないよねえ。
弟子のパワーが師匠の格を決めると申しましょうか。
きっと信者ってそんなものなんだろうなあ。
自分の信じたものは偉大であってほしいという願望からあれこれヤンチャをする。
人生なんてどこまでも勝負がつかない引き分けゲームみたいなものだから、
勝敗をはっきりつけるような経済界に夢中になる人も多いのだろう。
信者になって「正しいこと」を言う妙味をわたしは知らない。
朝令暮改の意味がわからない人はそれはそれでとても幸福なのだから、
できたらそのままでいてほしい。
朝令暮改のトップダウン形式がもっともいいのかもしれない。
会議して多数決でものごとを決めるよりもトップの朝令暮改のほうがいい。
なぜなら会議(多数決)にはうさんくさい正義らしきものがあるけれど、
朝令暮改は矛盾というほかなく、しかしその矛盾がとてもいいのである。
今朝「正しい」ことと今晩「正しい」ことは無常の世の中、
違っていて当たり前とも言えよう。
ならば、そうだとしたら、矛盾こそ正義、
朝令暮改こそ「正しい」ということにならないか。
あの人の言うことは一貫性がないと批判するのは誤りで、
一貫性がなく朝令暮改だからうまくいき利益があがるのかもしれない。

ネットで調べたところセブンイレブンはトップからの朝令暮改だという。
朝令暮改がいやなら、おのれがトップになるしかない。
しかし、そこで本人が望むのもおなじく朝令暮改であることは疑いえない。
会議などで決めたことは意味がないとも言える。
チェーン店の新メニューにかける費用は相当だろうが、
メニューになるかを決定するのはトップの舌でしょう?
ならば、大衆の舌を気にするよりトップの嗜好を熟知しているほうが勝ちってなるわけ。
トップの舌がすべてを決めるわけだから。
失敗したらメニュー開発者の責任になるけれど、世の中はそういうものなのだろう。
いまは朝令暮改ができるセブンイレブン会長のようなトップが少なくなったのではないか。
みんな自分の舌ではなく、会議(多数決)の舌で決めようとする。
わたしは朝令暮改の矛盾こそ真実のような気がしてならない。
「A(真実)vsB(真実)」の世界よりも、
「矛盾(真実A=真実B」のほうが現実にうまく適応でき、
当面的に「正しい」のではないか。
セブンイレブンの会長が、
おれは人のやらなかったことをしたから成功したんだ(大意)
と繰り返しているのをネットで読み興味を持ち、
ブックオフオンラインから関連書籍を数冊注文。
もうアラフォーだからそもそも成功には縁がないし、
ぶっちゃけ変な本ばかり読んできたから「成功」の意味もわからないけれど。
今朝も妙な恩義を感じて日蓮の本を読んでいたけれど(ご迷惑かなあ)、
日蓮が批判されたのは(法然のような)権威もないのに新しいことを言ったからでしょ?
新しいことを言ったりしたりする人は、
狂っている、おかしい、間違っている、
許しちゃおけないと迫害(?)されることが多い。
日蓮は弟子ができたから「正しい」ことが証明された。
現代では利益が上がることが自説の「正しい」ことの証明になろう。
だが、いま日蓮に師事するのが新しいのかどうか。
日蓮は新しいことをしたけれど、
弟子が自分とは異なる新しい主張をしたら裏切り者と激怒したわけでしょう。
本当の革新者は、
自分がそれほど「正しい」わけではないことを知っていたような気がする。
セブンイレブンの会長の発言はおもしろい。

セブンイレブンを作った時も、銀行を始めた時も、業界内やマスコミから総スカンを食った。うまくいくなんて誰も言わなかった。でも私はそれをやってきた。人間は自分の頭の外のことは「無理」と思いがちだ。だが重要なのは世の中の矛盾に気づき、その壁に向かって挑戦できるかだ。成功体験にすがらなければ、人口減も成長の糧になる。それ以外の細かなやり方については、次のリーダーが私と違う手法でも構わない。
http://systemincome.com/45498



社会では禁忌(タブー)とされている宗教ネタを実名ブログでえんえんとやって、
厚顔にも社会に分け入ってくのもかつてだれもしたことがないことだ。
そんなことをしたらどうなるからわからないから怖い。
怖いけれど、いや、怖いから、おもしろい。けれど、やっぱり怖いよ。

きっと法然は親鸞が自分とは違う信仰を持ち始めたときに、
それでもいいと許したのだろう。
浄土宗の法然は浄土真宗の親鸞を裏切り者だとは思わなかった。
わたしの恩師のような存在は、だれも知らないマイナーな特殊映画監督だが、
先生もまた自分の真似をするようにしきりに生徒(弟子)をあおっていたが、
自主映画を撮ろうとしないわたしを否定するようなことは決してなく、
むしろおのれの道でがんばれと励ましてくれた。
今年も恩師には年賀状を書かない。
そもそも年賀状を書いても先生はこちらが勝手に恩を感じているだけで、
当方のことなど覚えていない可能性も高いのだから。
自分と違うことを言う弟子を許せないのが日蓮で、
まあいっか(=他力?)と許せたのが法然なのだろう。
親鸞は師匠の法然の威光によって、
うまいものを食い、いい女を抱き、長生きしたという見方もできなくはない。
ブログにコメントがつかないことを悩む初心者がいるかもしれないが、
名前も顔も知らない人からうっざい批判コメントが来るのとどちらがいいか?
コメント欄で対面のために実験的に対話する(馴れあう)のならいいけれど、
井戸端会議のようなコメントの応酬はむしろないほうがいい。
うちは10年選手の(それでも引退しない)過疎ブログだが、
むかしどこかでマニュアルを目にした記憶がある。
読者さまのコメントがほしいときは質問形式にするといい、というのがそれだ。

みなさまがお好きなコンビニはどこですか?
わたしはセブンイレブンですね。
とはいえ、家風(?)でコンビニは禁じられているようなところがありまして。
理由はコンビニはスーパーよりも高い。
コンビニに行くくらいだったらスーパーに行け。
だから、少年青年期のわたしにとってコンビニはある意味あこがれだった。

コンビニといえば食いもんだが、
あまりコンビニ飲食経験のない当方がご馳走と認識したのはセブンイレブン。
10年まえ近い話だが、セブンの「のり弁当」を美味に感じていた。
同時期「あじ南蛮」は大好物であれば買っていたが、
わたしが好きなものは多数派から嫌われることが多く、すぐに棚から消え去った。
とはいえ、いまでもいちばんコンビニでおいしいのはセブンという思い込みはある。
ヘビーユーザーではないので、セブンのおでんを食べたことさえないが。

好きなコンビニは好きな政党みたいなもんで、
大げさすぎるがその人の生き方がいくばくか関係するような気がしてならない。
わたしはセブンイレブンが好きだなあ。
いまもあるのか知らないが、セブンのツナタマサンドはおいしいよね。
身体に悪い添加物を使っていると反論されても、
こちらは健康など、もはやどうでもいと言えなくもない身なのだから。
それに不健康な添加物を摂取すると、
いくらか病気になるパーセンテージ(確率)が増えるという話だけでしょ?
わたしは運がいいと信じているので、確率に勝てると考えている。
いくら不健康なものばかり食しても健康な人は人口の数割はいるのだろうから。

うちのブログの読者さまは10人くらいと踏んでいますが、
みなさまの好きなコンビニはどこですか?
宗教ネタや政治ネタは喧嘩になりますが、コンビニネタなら人それぞれですから。
よろしければ好きなコンビニとその理由をコメント欄に書きつけてやってください。
うちのブログの影響力を過大視している人がいますけれど、
こうお願いしてもコメントがまったくないことでうちの過疎ぶりがおわかりになるかと。

最初期のコンビニを舞台にしたテレビドラマに山田太一作「深夜にようこそ」がある。
シナリオで読んで感動してかなり覚えているため、
ジェイコムで録画しているがいまだ観ていないのでよくない、よくない。
TBSで1986年に放送された山田太一ドラマ「深夜にようこそ」の
スポンサーはどこだったのか?
これは大して興味がある問題ではない。問題は小腹がすいたので、
久しぶりにセブンイレブングルメでも味わってみようかということだ。
うちの最寄りのスーパーはマルエツだが、スーパーは半額にする。
けれども、コンビニは割引しないので、その定額販売がいいとも悪いとも言えよう。
1回半額で買っちゃうと、
なかなか定額では買えないよねえっていう本音を最後にもらしておしまい。
社会にはルールがなければなりませんし、
ではルールとはなにかを考えると善悪の基準でありましょう。
いまの社会で善とされていることを列挙します。
1.速いこと。
2.ミスがないこと。
3.快適であること。
1~3がどうして善であるかを考えると、そのほうが我われがお得だからです。
我われというはだれか? 消費者です。もっとくだけた言い方をすればお客さま。
お客さまは「速いこと」「ミスがないこと」「快適であること」をお得だから好みます。
実際にブックオフオンラインは速いし、ミスはないし、本がきれいだから、
わたしもよく利用しています。

お客さまは同時に労働者であることが多いですから、我われは働くとき、
1.速いこと。
2.ミスがないこと。
3.快適であること(あいさつをしよう!)
の1~3を求められます。
労働者はスピードは善、ノーミスは善、マニュアルは善と教え込まれます。
考えるまでもなく、学校でもまったくおなじことを小さいころから仕込まれています。
とすると、いちばん偉いのは天皇陛下でも総理大臣でも名誉会長でもなく、
我われお客さまが最高位に位置していたのですね。
ううむ、これが資本主義社会というものの正体でしたか。
人は遅いと怒るし、ミスにも怒るし、不快だと怒る。
速いのが当たり前になると怒る基準がどんどん下がりますよね。
ノーミスが当たり前だとミスにより厳しく当たるようになります。
快適が当たり前だとちょっとした不快に声を荒らげます。
もし社会が以前よりもギスギスしているとしたら、
進歩(前進/スピード化/ノーミス主義/マニュアル接客)が
なにか関係しているのかもしれません。

いまは公明党支持者ですが、むかしは選挙なんか行きませんでしたね。
ふざけて行くときもありましたが、ふざけてマック赤坂のスマイル党に入れていましたもの。
世の中には変人がいるということを世間に思い知らせてやるためです。
スマイル、スマイル、スマイル!
ああいう変な人がいると思うとなごみます。
でも、あんな人ばかりだったら社会はまわっていかないことでしょう。
いったい正しい社会ってなんなのでしょうね?
世間を気にした庶民的な答えは、みんなが幸福になる社会です。
学問的には最大公約的多数が幸福になる社会です。
政党的には弱者が幸福になる社会でしょうか。
わたしにとって正しい社会はわたしが幸福になる社会ですが、
そういうことを言ったらみなさまから袋叩きにされるので前言撤回して、
正しい社会はなんなのだろうとそれぞれが考えていける社会が
正しい社会ということにしておきます。
2002年にテレビ東京で放送された
山田太一ドラマ「香港明星迷」をジェイコムにて再視聴する。
このくらいの時代になると、ライブで視聴した記憶はあるけれども、
内容はさらさらさっぱりあたまに残っていないから視聴するのが楽しみだった。
「山田太一ドラマは庶民を描いているから記憶に残らない」
こういうことをブログに書いたら、取り巻きや側近が密告したのか、
渋谷で行なわれた山田太一イベントで本人が
「どうせぼくのドラマはすぐに忘れられますから」とひねくれたことをおっしゃっていた。
山田太一さんもまた双極をお持ちの方だと思う。
ものすごく自作に自信があるけれど、
それは一撃でつぶされかねないとても弱い自信だからむしろ強い。

わたしの場合、山田太一ドラマはシナリオで読んでいると記憶に残っているのである。
このため、いまジェイコムに入っているため、
多数の山田太一ドラマを録画保存しているが、
シナリオですでに読んでいるためか
映像を観る元気が出ないという困ったことになっている。
作者としてはどっちが嬉しいのだろうか?
ドラマを観られることと、シナリオ段階で読まれることの、いったいどちらが?
シナリオで読んでいると人物像ができあがってしまうから、
映像を観てしまうと「自分のようなもの」を否定された気がするのかもしれない。
「ふぞろいの林檎たち」の未放送スペシャル番組版のシナリオが存在するらしいが
(だれか役者がごねたために企画がぽしゃった)、それこそ価値があるものだろう。
へたをすると1千万くらいの価値はある。
もしお持ちの方がコピーさせてくださったら、一生奴隷になってもいいくらいだ。

2002年に放送された「香港明星迷」の話をしよう。
「働く」という行為について深く考えさせられた。
主役の薬師丸ひろ子は、仕事にバリバリ生きがいを感じているアラフォー女性。
なんでみんなそんな仕事に夢中になるんだろう。
薬師丸ひろ子は、フランスの有名な靴ブランドの日本支社重役。
マーケティング統括部長だったっけかな。
わたしは女のことにもブランドのことにも詳しくないが、
ハイヒールは西洋起源らしい。
そして、ハイヒールなんかを履いているとかなり足が痛くなるという。
男と肩を並べたいという女の西洋的願望の象徴がハイヒールなのかもしれない。

有名西洋ブランド日本支社の薬師丸ひろ子は考えた。
もういまは西洋ブランドの時代ではないのではないか?
ハイヒールなどではなく、もっと履きやすい女性のための靴を製造すべきだ。
しかし、いくらアイディアを出してもフランスの本社は聞き入れてくれない。
「デザインはパリが全部」
「きみの仕事は営業なんだから、デザインに口を出すな」
「黙ってきみはフランスの靴を売っていればいい」

薬師丸ひろ子が注目したのは中国市場である。
ここでハイヒールではない、
しかし良質な中国デザイナーが企画した靴を売ればどれほどの仕事になるか。
仕事熱心な薬師丸ひろ子は香港の有名スターの追っかけを自称しながら、
会社のためもあり独立のためもあり、
自分が目をつけた中国人関係者と交流をつなげる。
わからなくて、わからないままに感銘を受けたのは、
薬師丸ひろ子の仕事への情熱である。
ハイヒールをどうしたって、中国市場がどうなろうと、
どうでもいいといえばどうでもいいわけだから。
プライベートな休日まで使って、どうしてそんなに仕事に一生懸命なの?
なにかに洗脳されているの? と不可解で仕方がなかった。

結局、彼女の情熱は会社への裏切りと判断され、
有名ブランド企業から薬師丸ひろ子は解雇される。
じつのところ、薬師丸ひろ子には常時、尾行がついていて、
行動は逐一本社に報告されていたのである。
薬師丸ひろ子が友人だと思っていた人も、探偵会社の敏腕調査員だった。
薬師丸ひろ子は、まあ現実を見誤っていたのである。
彼女が大企業を辞めたら、すぐに中国人デザイナーは相手にしてくれなくなった。
日本の女が一流企業をバックに持っていることを調べて、
デザイナーは彼女と交流していたのである。

現実ってこんなものなのかもしれないなあ。
多くの人が人間そのものよりもバックにあるブランドを見る。
ブランドに逆らったら社会から抹殺されてもおかしくない。
薬師丸ひろ子のおもしろさは、けっこう会社のためを思って、
会社のために新しいデザインを提案したり流通を広げようと(プライベートで)したら、
それが愛する会社からは裏切り行為とみなされ強制解雇されてしまうという。
会社(組織)のために必死で働いたら裏切り者あつかいされる――。

はっきり言って、いま経済界(大企業)の上層を
リアルに描けるのは山田太一だけなのである。
というのもライターはとにかく金にならないから、飛び込んでくる人材が低劣すぎる。
かえって、その質の低い複数ライターの書いたドラマが、
大衆から支持されるという矛盾がある。
上のほうの損得関係の秘密を知りえた山田太一の企業ドラマが、
秘密をそのままは出さずフィクションとしてうまく描いていることに
社会上層部はまさにいっぱい食わされた気分だったことだろう。
このドラマは、底辺庶民からの理解はあまり得られなかったようだが、
(傲慢でごめんなさい!)観る人が観たら、
これを地上波で書いてもいいのかというギリギリの傑作ドラマなのである。

ドラマ最後に薬師丸ひろ子と探偵所の捜査員が仲直りするのがよかった。
香港の中国人デザイナーが
バックもない無職の薬師丸ひろ子とビジネスを再会するのもよかった。
人間って「肩書」じゃないよねえ。
「肩書」ではなく、この人は信じられると自分が思った人を信じたほうがいい。
「肩書」で人を見るのは世間だが、そうではない自分の感覚を信じた見方があってもいい。
いまは小林秀雄賞作家、朝日賞作家とだいぶ出世なされたが、
そういう肩書以前にわたしは作者のことを
一度もお逢いしたことがないのにもかかわらず盲目的に信じているところがある。
人間というものは矛盾しているとは、
高名なB級精神科医の春日武彦先生の主張していることである。
ものすごく自信があるのに、同時に自信がまったくないというのもありえるわけ。
もっとも自信のある人が、もっとも自信のない人なのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長なんかもそうでしょ? 
あの人、確信があるけれど不信のかたまりだと思う。

現実はなにが「正しい」とか善悪を問題にするのではなく、
笑い飛ばすというのがもっとも賢い処世術なのかもしれない。
この3日間、ずっと不安だった。
もしかしたら派遣バイトに落ちたのかもと思っていたからだ。
わたしはある意味で自信があるけれど、別の意味では自信がない。
いわゆる単純肉体労働みたいのでは、
わたしより「上」な女子がいくらでもいる気がする。

電話が来ないから、落ちたのか、落ちたのか、落ちたのか。
この3日間ずっとそんなことばかり考えていた。
先ほど担当者さまからお電話があり、これはもう笑い飛ばすしかない。
どうやら当方はありがたくも無条件合格だった模様。
今日から仕事なのにどうして来ないのかと担当者さまが不思議がっていた。
よく考えたら、そうですよね。
向こうからお仕事を紹介してくださったのだから、絶対合格なのか。
いやはや、世間知らずでまたもや人様にご迷惑をおかけしてしまった。
昨日また父と会った。
以前の話だが「おれが創価学会に入ったらどう思う?」と聞いたら、
「うーん、それもいいんじゃないかな」とのたまった父である。
いま某派遣会社からご厚情でお給料のいい仕事を紹介してもらい、
年末年始は逢えないからという報告も兼ねて巣鴨で久々の対面。
わたしはじつの母親から目のまえで飛び降り自殺をされた人間だが、
そうそう、それはそういうことで、
しつこいが、そうそう、その母親をかつて愛した父親がいたがゆえに、
わたしのような変人(?←そうでもないという意見あり)が生まれたわけだ。
母が死んでから15年、父とも激闘史がわんさかあるが(数年逢わなかったことも)、
いまのいまはとりあえず落ち着いている。

いま父は要介護状態とかになっていないわけで、
そういうひどい状態の人のことを聞くと我が身の運のよさをなにものかに感謝したくなる。
一流会社を辞めて親を介護してる人もなかにはいるんっしょ?
そういう人生も死ぬまえに振り返ったら、
それはそれでかならずや味があるものになるに違いないが。
1ヶ月限定の派遣バイトだが、就職祝いとかいって昨日も父にご馳走になったしね。
あん肝や馬刺しは本当に久しぶりに食った。
「恩は二倍にして返せ」は世間をのしていくための常識とも聞くが、
原則として家族関係だけはこれが当てはまらないとも言える。
それは家族によって異なり、
いろいろきょうだいや家族で恩をめぐって争うものもいるだろうし、
またそれも味があってあとあとから考えたらいいのだろうが。

べつに罪悪感などさらさらないが、もし他人がわたしなら父に悪いと思うのかな。
貧乏人出身のくせに(いやそれだからか)、
やたら金をかけられて育てられた記憶がある。
3歳からバイオリンに通わされ、
8歳(だったか←記憶不鮮明)からは代々木の英才教育研究所に行かされている。
いったい親はわたしなんかになにを期待していたんだろうなあ。
昨日はじめて父がワタミオーナーの講演会に行ったことがあるという話を聞いた。
先ごろ自死遺族と和解した渡邉美樹さんである。
ブログ読者さまはご推察してくれるでしょうが、
わたしは渡邉美樹ほど嫌いな有名人はいなかったが、
このたびの自死遺族への謝罪で彼もなかなかの人物だと見直し感激したものである。
本当のことをいえば、自殺の原因などだれにもわからないのに、あそこまで謝罪するかと。
以前はワタミを崇拝(?)していた父は正反対である。
まあ、細々とながらおなじ業界に身を置いているからだろうか。
「あれではもうワタミは終わり。倒産するかも」と読売新聞愛読者は言っていた。
父と子というのは、概してこう意見が正反対になり衝突するものなのだろう。

わたしは人生はどちらかといえば運や偶然のほうが強いと思っているほうだが、
父はガチガチの努力信仰派閥の一員だし。
父が読んでいた読売新聞夕刊をもらい読んでみたが、
感想は、おいこれは聖教新聞かよ、である。
15年も新聞を読んでいないと、その大衆操作的うさんくささにげんなりする。

――なんか妙に働きたくなったのでクリスマスも年末年始もぜんぶ働くから。
そう言ったら努力礼賛派の父は、ううむとうなった。
考えてみたら、年末年始は家族と逢うというのもくだらない世間常識と言えなくもない。
今年はクリスマスも大晦日、正月三賀日も働きたい。
わたしなんかにお声をかけてくださった派遣会社さまへの恩義のためである。
基本的に数をかぞえるような作業はうまくないし早くもない。
ああいうのってうまい人はうまくて絶対にミスをしない人とかいるのだから恐ろしい。
昨日派遣仕事の説明会で言われたが「能力差」の問題というやつである。
それほどその手の能力は高くないのに、
お声をかけてくださった派遣会社さまには心底から感謝している。
そこの職場はまえにも行ったことがあり、お若いバイトリーダーさんと久々に再会した。
とても人柄のいい方である。
たまたま児童養護施設(孤児院)出身ということを耳にして、
彼に比べたら親がちゃんといるのに、このだらしない自分はいかん、いかん。
たいそう我が身を恥じたものである。
クリスマスも正月も嫌いだから、そういうときに働けるのは嬉しいなあ。
そもそも仕事をもらえる時点で大感謝なんだよね。
むかし時給850円職場で、
大好きだった60間近の小柄な男性からそう言われたとき(仕事があるだけで幸せ)、
この人は哲人だと思ってひそかに尊敬したことがある。

うふふ、クリスマス、正月ぜんぶOKのシフトを出したけれど、
もしかしたら落とされちゃったりするのかもしれないけれどさ。
本当にわたしにはクリスマスも正月も存在しないのだが。
2016年は大きな変化があるような気がしてならない。
父はあれな人だから、たぶんわたしより長生きするだろう。
こちらは東京オリンピックを見ないで終わってもいいが(社会的関心がない)、
父は見るなといっても見ることだろう(読売新聞愛読者)。
まったくの偶然ながらBSのTBSで放送されたドキュメンタリー番組
「リアルマリオ。~空想と現実のあいだ~」を視聴する。
社会ではダメと認定されているアラフォー男性たちが、
マリオの格好をして脚光を浴びる話だ、とも言える。
おなじアラフォーとして人生いろいろなんだなと身につまされる思いで視聴、
テレビ局製作のドキュメンタリーの好む通俗的映像がある。
傷ついたものによる好意(ボランティア)が、
さらなる弱者たち(この番組の場合は孤児院)に大歓迎で迎えられるという、
和気あいあいとしたシーンのことだ。
あるいは孤児院の子どもたちはその日だけ現われて、
(即興的ボランティアをして)いい気分になる善意の人たちに迷惑しているのではないか。
彼らは善意で来ているのだから、感謝するポーズを見せなければならず、それも億劫だ。
「ありがとう」と言われたいダメ中年たちがわざとらしくコスプレして孤児院を訪問して、
「ありがとう」という手紙ををもらい感動するのはどこまでも嘘っぽくないか(しょっぺえよ)。
まあ、世の中はこういうフィクションでまわっているのだが。

孤児院出身の大作家、井上ひさし氏が
自伝小説とも思える「あくる朝の蝉」でこうお書きになっている。
孤児院の夏休みは毎日のように善意のボランティア団体が来るので、
愛想をよくするのにも「ありがとうございます」と子どもっぽく感謝するのにも疲れる。

「なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしが
ぼくらをどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。
だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、
はしゃぎ、甘えて見せなければならなかった。
そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、
これはずいぶん芯の疲れることだった」(P97)


やはり孤児はどうしようもなく屈折してしまうのかもしれない。
井上ひさしの場合はそこで見た現実の裏表が後世劇作として花開いたけれど。
幸いにも孤児ではなく両親のいる家庭に生まれたためか、
こちらはそれほどひねくれていない。
友人に電話で話を聞いてもらえたらサンキュウ・ベリマチだし、
以前ご縁のあった派遣会社から高額の短期バイトを紹介していただいたら
フォーエバー・アプリシエイトである(カタカナの意味は自分でもよくわからん)。
だから、善意は人によりけりなのだろう。
万人に感謝されるような善行はありえない。
そもそも「他人のため」に「いいこと」をすることで、
落ちぶれた「自分のため」のなにものかにしようという打算的根性が嫌いだ。
「他人のため」もいいが、どうしてみんなもっと「自分のため」を重視しないのか。
「自分のため」と完全に割り切って「他人のため」になにかをするならいい
しかし、感謝されたいから、自分の存在意義を確かめたいからという理由で
「他人のために」なにかをする人たちはどこかいやしいような気がしてならない。
恩返しを求めないで「自分のため」に「他人のため」になにかできたら――。
それはなかなかむずかしく、せいぜい微笑くらいかもしれない。
お金をこっそり渡すのもそのたぐいの善行だが、
相手の負担とならないように経済的援助をするのは、
世間をよく知る達人でもときに失敗するほどの難業だと思う。

善人が悪事をするのはむずかしいが、
悪人が善事をするよりも(こちらはその場だけできれいさっぱりしているのでは?)
自称善人が善事をほうぼうに迷惑かけずにするのはけっこうな気苦労かもしれない。
「ありがとう」と言われたがるボランティアはどうだか。
「ありがとう」なんか言わせてたまるかというボランティアがいたら、それは本物だ。
「他人のため」ではなく「自分のため」にしているので、
感謝の言葉も手紙も必要ない。むしろ、あなたたちの存在にこちらが感謝したい。
他人様から「ありがとう」なんて言われると、
恥ずかしくて鳥肌が立ってしまう変な人も世の中にはいるという話でした。
わたしはボランティアをできないようなところがある。
はた迷惑なボランティア行為をされても笑顔で感謝できる大人になりたい。
まったく成熟とは縁がない自分にはいやになる。
しっかし、孤児院にこれ見よがしにその日だけのボランティアに行くのは「善意の暴力」。
その時間分アルバイトでもしたお金をこっそり渡すほうがよほどいい。
「アジアンハーツ」(日比野宏/雷鳥社)

→「再会」をテーマにしたアジア旅行記。
旅のよさは1回きりというところにあるのかもしれない。
今日こうして逢って、もう一生逢わない。
そういう人たちへの感傷から、旅が帰国後に始まるわけだ。
じつのところ、旅の途中は旅をしているわけではない。
旅を終えてから、もう一生逢えないあの人やこの人を懐かしく思い返すのが旅だ。
ぼくも敦煌の隋さんともう一度逢いたいけれど、逢えないところがいいのである。
再会して(いんちき)ビールをふたりでふたたび鯨飲するのもまた楽しかろうが。
旅ならぬ人生も、きっとそうだ。
会社を辞めたらもう一生逢えない、そういう人たちとの愛別離苦が人生なのだろう。
今年1年半勤めた(バイトですが)会社を辞めたが、
いまでもそのひとりひとりの語り口や微笑を懐かしく思い出す。
いまもまだその会社にいたら、そんなことはなかっただろう。
旅や人生は終わりがあるからいい。
ぼくは日比野宏さんの本や写真がとても好きだが、
きっとそれは彼がベトナムの魅力をわかっているからだろう。
ベトナムとベトナム人が好きな日比野宏さんをぼくは好きだ。
この本もとてもよかった。
ベトナム人美少女の写真もよく、彼女が大人になったときの写真もよかった。
著者は言う。

「ぼくがベトナムに関心を寄せたのは、
ベトナム人の根底に潜む民族への誇りや心意気が、
周辺諸国の人間よりも力強く伝わってきたからだった。
彼らには、自分たちの泣き言を思うぞんぶん解きはなったあとに、
アハハッと笑い飛ばしてしまうくらいのエスプリがあった。
困難にぶちあたっても、深刻にかまえているふうには見えなかった。
しかし彼らは、あきらめの境地に達していたことには変わりようがなかった」(P146)


心底からあきらめられたら笑うことができるのかもしれない。
笑うとは、アハハッとあきらめることなのかもしれない。
ぼくも著者とおなじでベトナム人の若い男女が好きだ。
あの子たちのバイタリティーやスマイルは本当にいい。
何年後でも彼(女)らと再会できたらどれほど嬉しいことか。
しかし、ベトナム女子の笑顔はとろけるように甘いが、現実はそうでもない。
ぼくなんかもバイト先で笑顔がかわいいベトナム人女子に
甘えたように連絡先を聞いたら肘鉄(ひじてつ)を喰らったから。
「あたし、本当は怖いのよ」と――。
そういう怖さがまたベトナムっ子の魅力なのだが。
著者はベトナムで少女からこう言われたという。

「ベトナム、女、甘く見ないの、いいよ。
あとで、怖い、いっぱいあるよ。あの女、敵にすると、危ないよ」(P179)


ベトナムはいいよなあ。これからはベトナムの時代だとも思う。
あんな平均年齢が若い国がほかにあるのか。
ベトナム人ほど微笑が輝いている国民をぼくは知らない。
まあ、毒もあってベトナムに行けば日本人はかならずボラれるのだが。
道ばたの露店から薬局の店員まで日本人(外国人)と見るとボロうとしてくる。
けれど、取れるものなら(お金を)取っておいたほうがいいというのも真実。
甘ちゃんの日本人は(お金を)取れるときでも正直に定価販売するお人好し。
去年今年と多くの若いベトナム人と顔見知りになった。
いつかひとりとでも再会したいが、
このもう一生逢えないというかなしみが人生や旅の味わいであるのかもしれない。
また再会できたとしたら万歳三唱してもいいくらい喜ぶべきことなのだろう。
もう一度逢いたい異国の人がたくさんいる人生はいいものだ。
著者の日比野宏さんもきっとそう思って、この本を書いたのだろう。いい本でした。

「「だまし」の心理学」(安斎育郎/「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」/PHP研究所)

→だまされないためには、わからない言葉はその場で聞け!
というアドバイスが新鮮だった。
どうやら一般人には「わからないことは自分に知識がないため」。
したがって「わからないことは恥ずかしい」と思う思考システムがあるらしい。
おそらく大衆の知的コンプレックスが関係しているのだろう。
わたしは容貌や世間常識などあまたのコンプレックスを持っているが、
そういえば知的コンプレックスのようなものはあまりない。
わからない言葉があったら、すぐにそれはどういう意味ですか、と質問できる。
そこがテンネンというか世間知らずというか、我輩様のコンプレックスでもあるのだが。
相手をだまそうと思ったら、相手の知らない語を矢継ぎ早に繰り出して、
相手をカオス(混乱)に落とし込み、
「負けた」と思わせるのが効果的なのかもしれない。
ひと言「それはどういう意味ですか?」と聞いたら、
相手もろくに答えられずしどろもどろになって破綻(はたん)するのだろうが。

どうしたら幸福になれるのか?
それはね、人間の心には一念三千というものがあるのよ。
一念三千は十界論を元にしているの。
十界にも十界が備わっている。これが十界互具ね。
それに三世間があるということを法華経は説いているの。
10×10×3は3千でしょう? だから、一念三千になるの。
これは日蓮大聖人がお説きになった哲理、人生哲学なのよ。
法華経が正法なのは中国天台宗の智顗が五時八教という説で証明したからよ。
法華経は聖徳太子も伝教大師の最澄も最上だと言っていたわ。
だから、この信心をすれば絶対的幸福の境涯に入れるわけ。わかる? わかった?
あなたは見たところとても優秀そうだから、わかってくれたって思うの。どう?
……「はい、わかりました」。

いまの社会でもっとも必要とされているのはイノベーションである。
これはアメリカでもしきりに言われていることである。
いかにイノベーションを起こすか。
そこは既成のパラダイムをレボリューションするしかない。
どうしたらパラダイムをチェンジできるか。
ブレークスルーの起こし方というのがあって、
それはポイントポイントにビクトリーマークを仕込んでいくしかないのである。
アメリカ最新心理学で注目されているフロー状態がサクセスルートになろう。
労働者をフロー状態に入らせたら、
プアーな彼たちはビジョンを持ってワークすることができる。
ビジーな人はシンキングする時間がないから、
アメリカ最新研究によると、ワーカーはジョブをワークではなくアートとイメージする。
このワークをアートなのだというダブルイメージ的なフローに追い込めば、
経営者も雇用者もウィンウィンのリレーションシップになる。

この手のペテン師に逢ったら、どう言えばいいのか?

「へ~え、いまはそれがナウいんすか?」

「ナウいってどういう意味ですか?」と逆に問うような人がいたら本物の可能性がある。
「ナウいというのは、あなたみたいな人のことですよ」と言ってやればいい。
おそらく「わからない」言葉に囲まれると人は不安になるのだろう。
人をいかにうまくだますかは、まず不安にさせ、それから安心を与える。
安心を与えるというのは、相手の欲望を刺激することである。

人間(=不安&欲望)→詐欺事件被害者→敗者
チクチク↑↑チクチク(=恫喝&甘言)→大勝利者


本書で人をだますテクニックをいろいろ学ぶ。
「カラシつけ」と言われているものは、とてもうまい作戦である。
相手に自分でカラシをつけておいて(不幸にさせておきながら)、
自分は善人ぶってカラシを拭いてあげるのだ。
こうしたら相手からまず感謝され、信用される。
これはグループでやったら最強だろう。
仲間と連携してある人物を困らせる。そこに救世主を登場させるが、みんなグルである。
被害者は救世主の言うことを妄信するようになるからいくらでも金をだまし取れる。
手品を見破るには「(手品師が)右手を上げたら左手を見よ」という金言があるらしい。
相手をだましたかったらわざと右手(善意)を大きく上げれば、
左手(悪意)の存在に相手は気がつかない。
人間は権威に弱い。ならば、どうしたら権威になれるか。
新発見をして評価されれば、その分野で権威になれる。
新発見というのはデータ(証拠物件)だから、そこを捏造(偽造)したら権威になれる。
権威(東大教授、朝日新聞記者)になったら相手をいくらでもほんろうすることができよう。
人をだましていい思いをしたいのなら、数を打つことが重要なのかもしれない。
占い師は、来た客みんなに「あなたは将来絶対幸福なる」と断言すればいい。
幸福の価値基準なんて人それぞれだし、
千人のお客がいたら10~50人は幸福になるだろう。
このお客さんたちがあの占い師は当たると評判を高めてくれ、さらに商売は繁盛する。

$人生=金=詐欺OK=ペテンOK=だまされていたら幸福=真実は不幸=嘘万歳$
$金=幸福=心=洗脳=ペテンOK=嘘も方便=金こそ正義=お金のためなら$
$金があれば幸福も満足も恋人も家族も親友も得られるとだまして金を吸い取るべし$


♪金=大勝利=幸福♪

(関連記事)←けっこうおもしろい自信あり。
「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

「人恋しい雨の夜に」(浅田次郎【選】日本ペンクラブ【編】/光文社文庫)

→年々小説を読まなくなってきているような気がする。
ハズレを読みたくないから、
こういう直木賞作家によるアンソロジー(名作選)に期待してしまう。
アンソロジーといえば文春文庫の「アンソロジー人間の情景」をバラで買い集めて、
とうとう全8巻コンプリートすることができたので来年が楽しみ。
もう当方の知的キャパシティーの限界まで本を読んでいるという自覚もあって、
これ以上読書することはないんじゃないかという気もするけれど、
まだまだ読みたい本は山のようにあるというこの矛盾が人間ってもんさなあ。
しかし、働きたいという気持も強く、つくづくいちばん大事なのは時間であると。
働く楽しみというのは、いろいろな人とわずかでも触れ合うことである。
適度に働いているほうが小説をより深くおもしろく読むことができるような気がしている。
火曜日にまた派遣登録に行くけれど、近場のあそこに紹介してくれないかなあ。
朝起きて本を読んで昼から夜まで働く。
小説はひとりで読む孤独な行為なんだよね。
いい小説というのは気持が優しくなるものとも、生き生きしてくるものともいえる。
読んだあとに人に微笑を浮かばせるようなものがいい小説なのだと思う。
そして、偽善くさいことをいうと、人間の微笑はどんないい小説よりも
人を救うところがあるし、人をいい気持にさせるように思う。
今年はあんまりいい小説は読めなかったけれど、いい微笑にはいっぱい出逢ったなあ。
かつて明治時代だったか、ハーンという西洋人が日本に来て驚いたという。
なににかというと日本人の微笑の好ましさ。

「外人は、日本人の顔が概して嬉しそうににこにこしている特徴に、
気づかないはずがない。
そして、この第一印象はたいていの場合、たいへん気持のよいものである。
日本人の微笑は、最初は人の心をうっとりさせる」(P173)


いまはむかしに比べたら、しかめっ面をしている人が多いのかもしれないけれど、
それでも日本人の微笑はまだまだ魅力があるって同国人ながら思うもの。
ゆったりとした微笑っていいもんだよねえ。
どうしようもない世界をどうしようもなくあなたもわたしも生きているんだよねえ、
というそこからくる共感の微笑とでもいったらいいのか。
タイは微笑みの国といわれてファンも多いだろうが、
東南アジアの人の笑顔もまたすばらしい。
どうして人の微笑って人をうっとりさせるほど気持よくするんだろう。
男女ともにベトナム人の微笑もまたすばらしい。
ベトナム人の男の子や女の子って、
どうしてあんなにいい笑顔ができるのかって不思議になるくらいだもの。
いま生きていることの喜びが自然に顔に出たような微笑は本当にいい。
人が人にできる最高の親切は微笑じゃないか、なんていってしまいたいくらい。

ハーンの書いている、
仏像の菩薩(ぼさつ)というのは人間の微笑から生まれたというのはよくわかる。
仏教には人間の心を分類する考え方があって、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、菩薩、仏とかラベリングされている。
そこでは仏のほうが菩薩よりも上位に位置しているけれど、
悟り澄ました仏の顔なんかより、よっぽど菩薩の微笑のほうがいいと思うなあ。
菩薩になりたかったら修行したりお経を読んだりするよりも、
いま生きていることの楽しさを微笑で表現してみることなのだろう。
「俺は偉いぞ」なんて最上位の仏を目指すより、
あえて一段落ちて、あえて人にゆずって、
勝つよりも負けて、菩薩でいいと明(あき)らめるところから微笑が生じる。
最上位の仏を目指すのが使命だとか思っているとなかなか微笑は出てこない。
これでいいんだ。いまのこのわたしでいい。それが菩薩の微笑だろう。
最上位、最高位の仏になって下を見下す大勝利の笑顔って、
見ようによっては菩薩の微笑よりも色彩に劣るような気がしてならない。
仏にならなくてもいいんだ。菩薩でいいんだ。微笑を浮かべたら菩薩になれる。
世界を革命しようとしたり、
人間境涯を仏にすべく革命しようと粉骨砕身する前進姿勢は怖い顔になると思う。
仏になるのは明(あき)らめて菩薩たるをよしとする微笑にはうっとりさせられる。
ハーンが言っている。

「仏教美術の起源がどんなに日本の国土に無関係であっても、
日本人の微笑は菩薩の微笑とおなじ概念――すなわち、
克己と自己抑制とから生まれる幸福を表わしている」(P184)


そこまでがむしゃらに上を目指さなくても、いまのままで十分幸福ではないか。
未来の勝利を目指すよりも、
いまある幸福に気づくほうが深い喜びにつながるのではないか。
いまあるこの「ありふれた奇跡」のような幸福に思いをおよぼすことができたら、
きっと自然に微笑が生まれてくることだろう。
その菩薩の微笑は仏の正しい教説(指導)よりも人を幸せにすることだろう。
そういえば今年は菩薩鑑賞の紅葉ハイキングには行かなかったが、
いっぱい人間の菩薩のような微笑とめぐりあったから悔いはない。
ベトナム人の女の子Gさんの微笑ほど気持のいい笑みをわたしは知らない。
もう一生逢うことはないだろうけれど、心底から幸福になってほしいと思う。
他人に対してそのように思えることが微笑の発端なのかもしれない。

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「お経 真言宗」(勝又俊教/講談社)

→考えるまでもなく、お坊さんほど役に立たない存在はめずらしいよなあ。
お坊さんとは葬式や仏事、法事に呼ばれ、
偉そうなパフォーマンスをするゴロツキのことだが、
民主主義でみんなが大声で葬式(坊主)なんか必要ない!
と言い切ってしまえば、大勢のふところに余裕が生まれるのである。
いま葬式に坊さんをひとり呼ぶのって、いくらかかるんだろう(10~100万?)。
でも、別にお坊さんはなにをしているわけでもないでしょう?
ああそう、法話というのがあるけれど、あれはマニュアル本があるわけで。
在俗のひろさちや先生の法話マニュアルもけっこう売れているみたい。

高僧とかいったいなんのために存在するのだろうか?
親も高僧でぜいたくざんまいの青年時代を過ごし家族を持ち、
お仲間と肩を組みながらいま高僧となった中年は「使えない」わけでしょう?
たぶんコンビニバイトひとつできないと思う。
けれども、そういう役に立たない高僧のほうが、
底辺バイトよりも偉いことになっている。
いまの世の中の理不尽の象徴が、
いわゆるお偉いお坊さんたる高僧に象徴されている気がしてならない。

天皇陛下もそうだろうと言われたら、たしかにそうだから、
高僧が偉ぶる理由もわからなくはないのだが。
皇族ってまったく役に立っていないところが逆説的に役に立っているのだと思う。
役に立たないところが役に立っているといったら矛盾になるのだろうけれど。
天皇制なんか必要ないけれど、その無用なところが有用なのだと思う。
天皇なんか道路掃除ひとつできない使えないゴミだが、そこが偉いわけでしょう?
ああ、身の保全のために言っておくと、わたしは左翼嫌いの天皇制支持者だから。
とはいえ、佳子さまとお話してみたいという願望はまったくないけれど。
人間味がないのでヌードどころか水着姿も関心がない。
けれども、佳子さまは真言宗の坊さんよりは、
庶民のアイドルとして人の役に立っているとは言えなくもない。

真言宗の坊さんも、自分の存在が人の役に立っているとか信じているのだろうか?
人の役に立つのが自分の存在意義だっていうのは、なにかが違う気がするけれど。
人間はみんな「自分のため」に生きているというのが本当ではありませんか?
「自分のため」に生きるときに他人を必要とするので、
「自分のため」なのに「他人のため」に生きたいとか思う人が現われる。
「自分のため」に「他人のため」に生きたい。
本当に「他人のため」ではなく、あくまでも「自分のため」――。
そう自覚している援助者は本物なのだが、なかなかそういう人はいないだろう。
「他人のため」にこんなに尽くしたのに報われないと嘆いている人がいかに多いか。
それは「自分のため」にやっていたのだと、どうして気づかないのだろう。
そもそも恩返しを求めて「他人のため」に動くというのが嘘くさい。
恩返しを求めるのならば、それは「自分のため」なのだから。違う? 違うなら、どこが?

このように考えると徹底的に「自分のため」しか考えず、
「他人のため」にはなにもしないで、
意味不明のお経をあげている役立たずのお坊さんが偉く思えないこともない。
「他人のため」にはなにもしないで、そのくせ高額を請求するのだから、
その「自分のため」マックス利己主義はかえって気持のいいところがなくもない。
みんなお葬式で「自分のため(気持整理)」や
死んだ「他人のため」に坊主なんか呼ぶのをやめればいい。
みんながそうしてはじめて「他人のため」に生きているという坊主連中の嘘がばれ、
偉そうに群れた彼たちはそれぞれ「自分のため」のことを考えるだろう。

最後にちょろっと書くが、「悟る」の本当の意味はこうだから。
「悟る」とは、弟子ができること。
釈迦は35歳で悟ったわけではなく、この年齢で弟子が複数誕生して、
以降お仲間と群れて生きることを決めたから、
後世このときに悟りを得たとされているのである。
真言宗トップの空海も36歳のときに群れを上から認められたから偉くなった。
「悟る」とは孤独な行為ではなく、手下をつくるための集団操作術なのであろう。
ある人が悟ったと客観的にみなされるのは、弟子ができたときしかないということだ。
一番弟子がもっともおいしい思いをできることが多いが、
反対に師匠などただの人であることを知るがゆえに、
裏切り者として集団から追放されるリスクもあるので、プラス即マイナスである。

「阿呆の知恵」(ひろさちや/角川oneテーマ21)

→役に立つって、どういうことなんだろうね?
人の役に立つってどういうことなんだろう?
ぶっちゃけ、複雑な現実世界では、
人の役に立とうと思ってもなかなかうまくいかないわけでしょう?
なにか人のお役に立てたと思うのは、あんがい本人の浅い思い込みだけで、
本当は相手の寛容や寛大に依拠しているところが多いという可能性もある。
ボランティアなんかとくにそういうところがあって、
ありがた迷惑なんだけれど、
相手は善意でなにしろ役に立とうと思っているのだから尊重しなければならない。
「人の役に立ちたい」なんて思っている人はそれが正義だと思っているから、
孤独が好きな人のところへ、善意から相手のためを思って、
合コンやバーベキュー、ボランティアへ誘ったりするのだろうから。
孤独に強い人も(孤独を愛する人といったら大げさだから)
そのように誘われると「人の役に立ちたい」などと思って、
「人の役に立ちたい人」のお誘いをいやいやお引き受けすることになる。
仕事で人の役に立ちたいなんていうのもけっこう大嘘でしょう?
というのも、あなたがその仕事をやったせいで、だれかの仕事を奪うのだから。
仕事というものは、
世間体を気にしてする金儲けの手段だと割り切っていたほうがいい。
ニートや無職を役立たずっていうけれど、
彼らが全員就労意識を見せたらすぐに仕事なんかなくなるよ。
競争倍率も激しくなり、求められる仕事内容も給料に比して過酷になり、
どんどん世界はギスギスしていくのではないかしら。
いまは求人したら百人くらいの応募は当たり前だそうだが、
そうだとしたらニートや無職も大いに世間さまのお役に立っているとも言えませんか?

とはいえ「役に立つ」のが是であるという価値観が
この世を支配している妥当性はわかる。
給料を払う身としては、使えない(役に立たない)やつには辞めてほしいだろう。
しかし、使えない人も役に立っているとも言えよう。
なぜなら使えない人がいるから、役に立つ人が評価されるからである。
みんながみんな使える役に立つ人なら同一色で、だれも目立ちません。
世の中はご縁(相対世界)で、どの社会集団でも、
使えるやつと無能なやつに分かれるのだと思う。
別のジャンルに立ったら、その関係は逆転するかもしれないが、
その世界でも役に立つ、役に立たないの優劣関係は相変わらずである。
わたしは男だからよくわからないが、
女のほうが役に立つかどうかの意識に敏感だから
一歩下がる術を知っているのだと(処世術もあり)持ち上げておく。
身もふたもないことを言うと、女は男に必要とされるものだよね。
女は男の性欲解消のために必要。子育てのために女が必要。
看護士とかいうけれど、男女ともに男はいやで、やっぱりナースでしょ?
役に立つのは偉いっていうけれど、
無料の売春婦ほど人様のお役に立つ存在はないと思うが、
なぜかそういう「使える」存在は女からのみならず男からも見下される。
軽い知的障害が入っていて、だれにでもやらせる若い女の子は、
観音菩薩みたいな存在だと思うこともできるが、世間はそうとはみなさない。
けれど、そういう風俗業界では多くの客を取れる使える子が評価されるも事実。
すぐにやらせるキャバクラ嬢は客にとっては使えるが、店にとっては困りもの。
できる使える優秀なサラリーマンが部下を、
「あいつは使える/使えない」などと評価する目は非情だよねえ。
「あいつは東大出なのに使えない」とか大喜びする中年男とか大勢いそう。

とはいえ、彼が家に帰ったらどうか。
認知症になって入院している老親は使えないが、それでも生きていてほしいと思う。
障害を持っていてまともな社会生活は無理そうな子にも、
いやそれだからこそ、わが子に愛情をいだく。
「使えない人」を切実に求めている人が「使えない人」を断罪するというこの矛盾。
役に立たない人がいるおかげで相対的に(ご縁として)役に立つ人が目立つわけで、
もしそうだとしたら「使える/使えない」「役に立つ/役に立たない」
といった二分法はあまりに近視眼的すぎるだれをも幸福にしない、
生き生きとさせない、社会全体を圧殺するような評価基準なのかもしれない。
仕事ができない人がいるから、仕事のできる人が評価されるわけでしょう?
ならば、できる人は使えない人に感謝すべき、という考え方もあっていいはず。
「できないことを誇りに思え」(山田太一ドラマ「風になれ鳥になれ」
とまで主張するのは大げさかもしれないけれど、
いまの社会の閉塞感を思うと、あえてそう大声で言ったほうがいいいのかもしれない。

「できないことを誇りに思え!」(渡哲也)

いまの日本には勝者にしか発言権がないかのようである。
勝ったものしか意見を言えない。勝ったものの言うことが正義になる。
けれども、ひとりが勝つためには99人あるいはそれ以上の敗者が必要なのである。
ならば、敗者こそ胸を張ってもいいのではないか。
わざと負けて相手を勝たせてやる行為のほうがよほど英雄的ではないか。
わざと負けて相手をうまく勝たせる天才はプロレスラーの天龍源一郎だった。
敗者がいるから勝者や大勝利者が光り輝くのである。
ザコがいるから相対としてボスキャラみたいのも生まれるのである。
テレビゲームのドラクエでいちばん弱い(?)スライムなんか、
とってもかわいいではないか。
むしろ、弱いほうが使えないほうが役に立たないほうが「かわいい」のかもしれない。
「かわいい」というのは女子高生が頻用するとされる革命言語である。
いまの弱肉強食社会を革命するパワーを「かわいい」は持っている。
あの人って「役に立たない」けれど、そこが「かわいい」――。
あいつは課長のくせにぜんぜん「仕事ができない」のだが、
社長に「かわい」がられている。
生殖能力の低いパンダってよく考えたら生きている「必要はない」んだけど、
むしろそういうところがパンダは「かわいい」――。

女子高生みたいに、なにかを「かわいい」と思う価値判断を持ったらどうだろう。
「役に立たない」「必要とされない」「できない」ものも「かわいい」と思えるのが人間だ。
わたしは女子高生を「かわいい」から好きだが、
とくに必要としているわけではないし(犯罪っす)、ことさら必要とされたくもない。
女子高の警備員でもやって、
1日ぼんやりかわいい女子高生を見ているのも楽しいのかもなあ。
ちょっとまえそういうアルバイトのチラシをひと気のない夕方の公園で
黒服の青年に渡されたことがあり、
わざわざわたしの役に立とうとしてお待ちくださったのかと思うと
あたまが下がる思いだったが、
なにもしないで立っている警備員は最後のとりでという思いもあり、
なにもしないでいい警備員にはまだなれないおのれの娑婆っ気を恥じながら、
わざわざチラシとお名刺をいただいたのに、
ありがたいお誘いを無視してしまったことがある。
あのときの青年には深くお詫びしたい。
もしかしたら近いうちにお世話になるかもしれませんし、よくわかりません。
女子高警備だったらいいですが、道路警備にまわされたらきつそうだし。
警備員というのは法律的に必要とされているだけで、
実際はほとんど役に立っていない。だが、そこがいいのだろう。
自宅警備員(ニート)のみなさんも
かならずだれかのお役に立っているのだから、胸を張れ!
いや、役に立っていないことを誇れ!

もうすぐ死ぬ受賞歴ゼロの宗教ライターはこう言っている。

「世の中の人は、だいたいにおいて「役に立つ」ことばかり考えています。
いや、自分でそう考えるのではなく、
知らず知らずのうちにそう考えるように仕組まれているのです。
世の中の役に立つ人間にならないといけないよと、
幼児においては親からそう教えられ、
のちには小学校、中学校、高校、大学でそう教えられ、
就職してからは会社でそう教えられてきました。
そのように教えるのが文明であり、荘子の言う人為です。
その人為を捨てて無為自然に帰ることを教えた書が『荘子』です。
だからここでも、『荘子』は、
――役に立たないことのメリット――
を力説しているのです。
樹木であろうと、人間であろうと、役に立つものは酷使され、扱(こ)き使われ、
すぐにぽいと捨てられてしまいます。だから、役に立つ人間になるな!
そう『荘子』は教えてくれているのです」(P21)


考えてみたら、骨董品とか美術品ってまったく役に立たないよねえ。
とくに骨董品なんか、ただたんに「古い」というだけで価値があるようなものもあるのでは?
骨董の皿を実用の食器として使うのは、なんか成金趣味っぽくて嫌味だしね。
本当のぜいたくは役に立たないもの(人?)を愛(め)でることなのかもしれない。
ひるがえると、いまは役に立たないものってないじゃん。
みんなリサイクルでなんでもかんでも役立てようとする。
いったい役に立たないものってなにがあるだろう。
そっちのほうが希少価値があるとも言えなくもない。
まずひろさちや先生のご本は役に立たないよね。
いや、少なくともうちのブログよりはだれかの役に立っているか。
出版社や書籍流通に貢献している。
無意味なもの無駄なもののかわいさのようなものは、
女子高生にしか発見できないのかもしれない。
しかし、同調圧力の極めて強い環境で生きる彼女たちは、
すぐさま男に必要とされ(男性)社会に求められる人材になるべく
「かわいい」から巣立っていく――。
「かわいい」は青春の正義とも言え、
その無常観や虚無感、刹那(せつな)さがとてもとてもとっても「かわいい」。

「老いへの不安 齢を取りそこねる人たち」(春日武彦/朝日新聞出版)

→精神科医の春日武彦さんは、びくびくしながらマンネリでいい、
マンネリの惰性でいいから、それでいいから、もうなんでもいいから、
破綻することなく世をうまく逃げ切りたいと日々思っているんだろうなあ。
普通から逸脱することを異常なほど恐れているという意味で極めて正常な人である。
春日先生のお写真をじっくり何度も何度もできたら視線恐怖を与えてやりたいくらい、
何度も何度も熟視したことがあるけれど、医師は実年齢よりも20才くらい若く見える。
好物は野菜炒めで趣味は散歩と小説読書。
健康に悪いことはなにひとつしていないから、あの若々しさをお保ちでいられるのだろう。
人一倍、死を恐れているのが春日武彦である。
それは発狂を恐れていると同義なのが本書でよくわかる。
これほど発狂する瞬間をうまく言葉にできる人をわたしは知らない。
人生は惰性の連続でいい。マンネリにこそあとから見たら深い味を感じ得る。

「日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形(いぎょう)の現実である。
精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる事態に直面したとき、
世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、
よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。
おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのではないか
と予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう」(P10)


マンネリでいい。惰性でよろしい。おなじことの繰り返しで悪いもんか。
しかし、それはそうではあるのだけれども――。
若々しい著者と異なり、こちらは老けて見られることが多い。
派遣先である女性から「おじいさんみたい」と言われたことがある。
たぶん精神年齢は本書執筆時に58歳だったという春日先生より老いている。
先生より成熟していると言いたいわけではなく、
ただただ枯れ木のように老いている。
このため、58歳の春日氏の文章がわがことのようにわかるのかもしれない。

「歳を経るにしたがって、何もかもが億劫になってくる。面倒になってくる。
生きているのも面倒になって、その挙げ句、
いつの間にか世の中から拭い去るように消え失せているというのが、
実はもっとも自然な人間の在り方なのかもしれない、などと思うことがある」(P38)


そういう孤独な老人のひとりを描いたのが富岡多惠子の短編「立ち切れ」だという。
70歳を過ぎ妻とも死別し、
生活保護をもらいながら生きる老人の鬱屈をうまく描いている、
と精神科医は評価する。
小説の老人は噺家(はなしか)として真打ちにもなった人物だが、
脚光を浴びているときから虚無感があり、いまは寂寥とした世界を生きている。
ある日、ドブ川で子どもの水死体が発見されたところに行きあう。
老人は号泣しながら愛児のなきがらを抱える母親を見て、
ぼんやりとしながら、しかし冷静に記憶をさかのぼる。
そういえば、あの女と似た顔をした人と自分は逢ったことがある気がするけれど、
はて、あれはだれだったろう。
老人はまったく動じることなく、むしろ食い入るように悲劇に遭遇した母子を見続ける。
精神科医の春日武彦先生はこの老人をとても高く評価する。
ちなみにこの本が朝日新聞出版から出たのは東日本大震災直後だが、
よくもまあ幸運にも朝日新聞読者層からヒステリックにたたかれなかったと感心する。
春日先生は物書きとしても一流なのだが、あんがい読まれていないのかもしれない。
春日氏は他人の不幸を見て、さらさら同情しない老人を称賛する。

「ああ、いいなあと思う、正直で。
ドブ川から死んだ子供がひきあげられていたら、
わたしだって、死体も母親もじっくり観察してしまうだろう。
おざなりの同情なんてする気もない。
いくら何でもざまあ見ろとは思わないが、
ああいったことはいくらでもあり得るのだから、
貧乏籤(びんびうくじ)を引いた人がいたと思うだけである。
そして嘆き悲しむ母親が誰に似ていたのか、それを確認して納得した気分に
なることのほうが自分にとって重大だと思うだろう。
いちいち思い入れなんかしても、面倒なだけである」(P41)


よくこんな本を朝日新聞出版社はあの時期に出せたよなあ。
どうせ売れないだろうという編集者の絶対的な確信があったのかもしれない。
ちなみにこの本をこの時期にわざわざ出したのは矢坂美紀子という女性。
朝日の偽善スピリッツをかけらも持ち合わせぬ女性編集者にとても好感をいだく。
なんでもネットで調べてみたら、
精神科の敵ともいうべき心理屋軍団のボス、河合隼雄の担当もしたことがあるそうだ。
泣き虫の河合隼雄さんは中年期から、とてもいい「年寄り」だったような気がする。
一方で患者の苦労話をいくら聞いても「所詮は他人事」
と内心では舌を出しながらせせら笑っている春日医師は涙を流すことなどあるのか。
ようやく春日武彦という男のことが少しわかった。彼は泣かない男なのかもしれない。
さて、若々しい精神科医の春日武彦氏は河合隼雄のようないい「年寄り」になれるのか。

「わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪(こら)えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先(ほこさき)を納める。
立腹しつつも、どこか安堵した表情を浮かべながら。
そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の最後になってやっと腰を上げる
その状況判断の確かさと、さらには人生経験を重ねてきていることに対する
万人の敬意とが、その場を丸く治めるわけである」(P167)


こういう「年寄り」は「顔役(かおやく)」みたいなもんで、
どこか創価学会的というかヤクザ的というか、そういう世間師的なところがあり、
アルバイト経験のひとつさえない高学歴高収入高身分作家が登るには、
喧嘩の仲裁ができる「年寄り」は難しいポジションのような気がしてならない。
河合隼雄さんは仏教でいうところの中道(ちゅうどう)=「どっちも正しい」を
よくよくご存じでいらしたからいろいろな喧嘩の仲裁役になっていたような気がする。

精神科医の春日武彦氏は本書でマイナーな小説を紹介している。
人の読まない小説家の言葉に吸い寄せられる医師の嗅覚は第一級と言えよう。
それは中原文夫という人の短篇小説「本郷壱岐坂の家」だ。
主人公は89歳の老人で従業員180人をかかえる会社の創業者で会長だ。
老人はみなから嫌われている若い女子社員がどうしてか気になり、
自分の秘書として引き上げてやる。
どうしてこの女子社員が気になるかと考えたら、
むかし似たような顔をした女性と逢ったことがあるからである。
むかし家で女中として子守をしてくれたおねえさんだ。
老人は、むかしあのおねえさんをずいぶんいじめたなあ、と後悔しながら思い返す。
89歳でもう余命も少ないと思い、あの女中のその後を探偵社に調べさせた。
想像していたとおり薄幸な人生を送ったようだ。
娘がひとりいた。なんと老人への手紙を預かっているという。
自分が死んだらいつかこの手紙をあのお坊ちゃんに渡してくれ。
いかにも小説的だが小説なのだから許されるだろう。
89歳の会長はその手紙を読んで驚く。
自分がひどくいじめたと思っていた女中が、自分のことを恩人だと思っていたのだから。
お坊ちゃんのお世話をしていた時代が人生で唯一の幸福な瞬間でした――
とまで手紙には書いてあるのである。
なんだか申し訳なくなった会長は、よく顔の似た女子社員に恩返しをしようと考える。
秘書として取り立ててやるだけではなく、
プライベートでも高級料理をご馳走したり、お芝居に連れて行き講釈したり。
老人本人は「いいこと」、つまり恩返しのようなものをしているつもりだったのである。
しかし、あるとき女子社員はセクハラはもういやだ、会社を辞める、
自分は傷つけられた、死にたい、とまで訴える。
狼狽する89歳の会長であった。

精神科医の紹介の仕方がうまいからだろうが、これはよくできた物語である。
現実にこういうことってけっこうあるよねえって話だ。
よかれと思ってやったことが相手の迷惑になっていることを知り驚く。
わたしは老人も若い女性も言っていることは「どっちも正しい」と思う。
だが、精神科医の春日武彦先生は、
女子社員のほうを人格障害(異常)であると診断してしまう。
喧嘩の仲裁をするのではなく、いうなれば白黒をつけてしまう。
会長からセクハラされたと感じた若い女子社員は高田涼子というそうだ。
精神科医のカルテを読もうではないか。

「なお精神科医の立場としてコメントをしておくなら、
高田涼子のような精神構造の人物は世間に一定の割合で偏在している。
ある種の人格障害(パーソナリティ―障害)には、
まぎれもなく彼女のように「最初は普通に見えたのに、
あるとき豹変して相手へ憎悪をぶつけ、
今まで自分は耐え忍びつつ演技をしていたと言い放つ」といった類型が存在する。
態度の激変ぶり、
それまでの言動に込められた意味をすべて逆転させてみせる根深い悪意、
えげつないばかりの攻撃性といったものは、
往々にして相手へ深い精神的ダメージを与える。そのダメージによって、
もはや人間そのものを信頼できなくさせてしまうのである」(P80)


おなじ男として春日先生の正しさは本当によくわかるのだが(そういう女っている!)、
もし医師が河合隼雄のような「年寄り」にあこがれるのであったら、
どうにかこの迷惑な被害者ぶった女性をも許容してあげてほしいところである。
わたしも逢いたいと言われて逢っ(てあげ)たかなり年上のおばさんから、
警察に訴えたのだの、おまえはもうすぐ逮捕されるだの、脅されたことがある。
好意で相手の話を一方的に聞いてあげただけなのに、
いきなり豹変するのがよくわからなかった。
自分はシナリオ・センターの優等生だから将来は絶対有名作家になる、
とおばさんは主張していた。あぶねえやつっているんだなあ、
という意味でのいい人生経験になったが、いまから思えば、
どっちもどっちというか、あちらにもあちらの言い分があったのだなとため息をつく。
人間ってそんなものよねえ。
どっちも正しいというか、どっちも悪いというか、どっちもどっちという――。

熟練した精神科医の春日武彦氏もそこのところはよくわかっておられるのである。
相手の妄想は刺激しないほうがいい。
「自分は美人で文才があってもうすぐ有名作家になる」
という妄想(これを物語と見るのが河合隼雄だが)をそのまま肯定してやる。
どうせ真実なんてうさんくさいものなのだから、相手の真実を尊重してやる。
変な新興宗教にはまったやつと議論しても意味がない。
本当に他人思いのやさしい人間は、
相手のためを思って相手を矯正(正しいってなに?)しようとするのかもしれないが、
春日武彦氏のような醒めたリアリストは「ふーん」と相手の妄想を聞き流す。
そういう一見すると不誠実な態度がかえっていい効果をおよぼすことを、
老医師というには若々しすぎる春日医師はあまたの臨床体験から学んだ。

「統合失調症で妄想にのめり込んでいたり、
認知症で現実を誤って捉えている人たちを前にして、
嘘をつくべきか否かといった判断が必要なことがあるのだ。
倫理とか道徳といったものに関わるので、なかなか苦慮することがある。
しかし今のわたしは必要ならば平気で嘘をつく。
それはこちらの都合が良いように相手をペテンに掛けることとはニュアンスが異なる。
相手の内的現実を簡単に修正できるくらいならば問題はない。
そうではないから頭を抱えるのであり、
修正が困難だったりトラブルが伴いかねないならば、
一旦は相手に「沿う」のが賢明ではないのか。
そこから現実離れした考えに対して徐々に修正を図るのも結構だし、
ゆっくりと頭を冷やしてもらうのもOKだろう。
迎合するわけではないけれど、こちらが沿う姿勢を示さずに教え諭(さと)そうとしても、
大概の場合、相手は考えを正してもらったとは感じない。
自分自身を、自分の存在を否定されたかのように感じてしまうだけである」(P107)


春日武彦さんの自己イメージ(妄想)ってどんなものなのだろう?
「B級精神科医」とか自虐しているから、
本当にそのくらいの自己イメージなのかと接したら、
想像以上にプライドが高くて怒りの抗議をされた患者や編集者もかつていたことだろう。
患者は医者の持っている「救済者」という妄想(物語?)を刺激してはならない。
あんがい医者と患者は、ふたりでひとつの物語をつくっているのかもしれない。
これは病気ってことにしておいて、
そっちは医者として給料をもらい、こっちは診断書をいただき生活保護を申請する、
みたいな共犯関係のことである。会社で休職するのも診断書って必要なんでしょ?
春日医師がこのへんにどこまで自覚的なのかはわからないが、
本書に診断書と生活保護にまつわるおもしろいエピソードが書かれている。
長くなるため(それにご商売のお邪魔になるので←医業、売文ともに)割愛する。

老け顔のわたしと若々しい春日医師が並んだら、
あんがい先生のほうがお若く見られるのかもしれない。
本書執筆時の春日武彦氏は58歳で、
同年齢で死んだものを調べたら山頭火がいたという。

「あの《分け入つても分け入つても青い山》の山頭火である。
放浪の乞食僧(こつじきそう)であった彼の屈折した自意識過剰ぶりや、
甘えとわざとらしさの混ざったトーンには、
どこかしら晩年の諏訪優[翻訳家・エッセイスト]に通底したものが感じられる。
言い換えれば、ストイックなものに憧れつつも遂にそのようにはなれず、
中途半端に居直って世俗的な欲望を肯定する精神であろうか。
散々に勿体(もったい)ぶった挙げ句に、
居酒屋は人生の縮図であるとか女の乳房は男の故郷だなどと
「のたまい」かねないセンスである」(P203)


春日武彦さんの文章ってどうしてこんなにおもしろいんだろう?
おもしろいとは滋味があるとかではなく、即物的に笑えるという意味なのだが。
あんがい本人は洗練された文章で
医療や人間の真実を暴いているような自意識(妄想? 物語?)があるかもしれなく、
先生の本はとにかく笑えるので重宝しています、
なんてファンレターを出版社宛てに送ろうものなら、
医師を大きく落胆させる「善意の暴力」になってしまうので、
わたしはそういう悪質な善意の愛読者にはならず、こうしてこっそり見守っている。
春日武彦先生の大ファンがひっそり一匹おりますからね!

えへっ、ま~たまたまただれも読まない長文仏教記事を書いちゃったや。
ほんとにほんとほんと、真理とはなにか? なんて考えないほうがいいんだよねえ。
真理を疑っていろいろ考えると、オウム真理教になってしまうという。
わたしはべつにオウムが悪いとも思わないし、
そういうことを言えるのはオウム真理教のことをよく知らないからなのね。
いまのところ知りたいとも思わないし。
オウムは悪だって言っている人もマスコミ報道を信じているだけっしょ?
いろいろ本を読んだりして自分のあたまで考えるのはメンドーだから、
そういうマスコミ依存体質は「正しい」と思いますし、できたら真似をしたい。
なーんにも考えないでいっぱしに苦労人を気取って生きている人がもっとも幸福かも。
絶対的幸福の境涯にいる人はそういう御仁なのだろう(じつはいないっしょ?)。

考えるというのは「わからない」に始まり「わからない」に終わるものだと思う。
どこが「わからない」のか「わかる」のが理解の第一歩。
「わからない」ところがわかったらわかったようなものとも言えよう。
なぜなら、「わからない」ところがわかったら、そこを考えればいいのだから。
まあ、考えるというのは疑うってことなのかもしれないなあ。
「わからない」ことが「わかる」とはどういうことか?
さらなる「わからない」ことが出現するのが「わかる」ということ。
「わからない」が真理かもしれないのに、「わかる」を求める人たちがいるのはなぜか?
結局は、それが本人にとって楽しくておもしろいからだと思う。

こちらは遺伝的にあたまのデキがよくないので、
バカの分際でいろいろ考えると身体全体が知性に拒否感を示す。
このごろの倦怠感、吐き気は異常で、
今日は生まれてはじめて立ちくらみというやつを経験した。
もうすぐ脳卒中や肝硬変で死んだりするのかな。
明日死んだとしても、まあいっか。
そう思えるのは「そうかそうか!」というわかる楽しみを
人生でけっこう味わってきたような気がするからである。
「そうかそうか!」と自分なりに新しい発見をするほどおもしろいことはあるのかしら。
創価学会シンパの茂木健一郎氏がこんなことを言っている(「ひらめきの導火線」)。

「考え続け、探し続ける過程は、とても苦しい。
けれど、その苦しさを経てひらめきにたどり着いたときほど、脳が喜ぶことはない。
お金をもらうより、社会的地位を得ることより、
はるかに良質の喜びを脳にもたらす。これを「報酬の通貨」という」


今日、更新しただれも読まない記事なんかも思考時間は10日を越えているのだ。
書くのにかかった日数は秘密。
でもさ、駄文を書いている途中に何度も「そうかそうか!」という発見があった。
いままでわからなかったことが少しだけわかったような気がした。
夢中になってブログ記事を書いていたので気づかなかった。
さっき携帯電話を見たら、
ありがたいことに着信があったのである(ほとんどないのでチェックする癖がない)。
久しぶりに某派遣会社からだったが、わたしなんかをまだ覚えてくださっていたのか。
仏教関係もひと山越えたという気がするし、
えんえんとクリスマスケーキにイチゴをのっける仕事や、
日本語ができない外国人といっしょにおせち料理を盛りつける単純労働がしたいなあ。
難しい仕事でも構いませんが、ご迷惑をかけちゃいけませんですしね。

ひと山越えたという気がする。
創価学会関係本の読書や、
その感想文を書くのは心底しんどかったけれど(損得ばかりの現実ってうんざり!)、
あの苦しみはいまから思えばそれなりに楽しかったとも言える。
しつこいけれど「そうかそうか!」という発見があったので。
立ちくらみ、やばいなあ。明日になったら治っていそうな気もするけれど。
脳卒中とかで突然死するのは大歓迎なのだが、
家で起きちゃうと腐乱死体になってしまいそうで困る。いまは冬だから大丈夫か。
路上で脳卒中が起きちゃうと救急車を呼ばれて半身不随とかになったら最悪。
ひと気のないビルの路地で死んでいるところを発見されるのがいちばんかなあ。
まあ、いつどこで死ぬかは宿命(宿業)だと思っているから、ほとけさまにおまかせよっ♪
「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→上巻は釈尊(釈迦)の教えから大乗仏教誕生まで。
下巻はインド大乗仏教の変遷(へんせん)である。
わたしは大学でまじめに学問したことがないから、
以下のような文献学(?)の考え方でさえ新鮮だった。
インド大乗仏教の3人の有名な哲学者は龍樹、世親、無着。
世親と無着はきょうだいだったとされている。
さて、インド大乗仏教は初期、中期、後期と分類される。
(初期)~龍樹まで(主に空思想)。
(中期)~世親・無着まで(主に唯識思想)。
(後期)~仏教消滅まで(主に密教思想)。
大乗仏典(お経/仏の教え)はいろいろあるが、こう分類されるという。
龍樹の著作に引用されている経典が初期大乗仏典。
龍樹の著作にはなく、世親・無着の著作で引用や言及されているのが中期大乗仏典。
龍樹や世親・無着の著作にいっさい言及のない経典が後期大乗仏典。

大乗仏典の名前なんて、みなさんご興味がないでしょうけれど――。
(初期大乗仏典)
「般若経典」「維摩経」「華厳経」「浄土三部経」「法華経」
(中期大乗仏典)
「涅槃経」「楞伽経」「勝鬘経」「解深密教」
(後期大乗仏典)
「大集経」「地蔵十輪経」「大日経」「金剛頂経」
ほとんど読んだことのあるお経マニアの自分が抹香くさくていやになる。

(A)初期大乗仏教

さて、いまでもいろいろなトラブルの原因になっている法華経である。
じつのところ、学会員さんでも法華経をぜんぶ読んだことがある人は少ないでしょう?
はっきり言って、おもしろくないし独善的でむかつくお経だから。
よく法華経は文学的だといわれるけれど、
その意味は、ほかのお経と比べたら物語性があるってくらいだから。
それほど法華経以外が退屈だから法華経程度でもおもしろく思えてしまうという。
法華経は学者のあいだでも古くからふたつの批判があるらしい。
1.これから教えを説くぞと言いながら結局最後まで教えは説かれずに終わる。
2.自画自賛してるだけじゃねえの。
わたしも最初読んだときにそう思ったし、みなさまもお読みになられたらそう思うはず。
ひろさちや先生の解釈をまじえながら、わたしの考えを書くと、
法華経は革命的な小乗仏教批判のお経なのである。
要するに小乗仏教っていうのは先輩や古株が偉いって教えなわけ。
より古いほうが釈尊(釈迦)に近いのだから「正しい」だろうっていう話。
それに対して、法華経はおまえらのいう釈迦は本物じゃないと主張したんだな。
本物の仏は永遠の世界にいてこの世に生まれて死んだあれは仮の姿であると。

☆「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」……

こういうふうに往復運動をしているのが本物の仏であると法華経は主張した。
法華経はこの世以外の永遠の「真理の世界」をつくってしまったわけだ。 

☆「真理の世界|この世」

むかしのブログ記事では「真理の世界>この世」「絶対世界>相対世界」
とわたしは表記していたが、はっきり断絶していると、
つまり「絶対世界|相対世界」と書いたほうがわかりやすいのかもしれない。
わたしは仏典(お経/仏の話)は得意(?)なのだが、
龍樹が書いたような論書(哲学書)はまったくの苦手である。読めない。
このたび、どうして龍樹が「空(くう)」の思想(哲学)を言い出したのかようやくわかった。
龍樹が(「色即是空」の)空(くう)とか言えた背景には法華経の世界観があったのか。
どういうことかというと、法華経はこの世のさらに上にある永遠の世界を創造した。
永遠の仏がいるとして、釈尊(釈迦)なぞそのうちのひとりに過ぎぬと軽んじた。
繰り返すが、その世界をわかりやすく表示するとこうなる。

☆「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」

法華経世界にあるこの対立を見て取り、龍樹はある結論にいたった。
龍樹はむかしカジろうとしたが、
あたまがパッパラパーになりそうだったのですぐ閉じた。
ここはもうひろさちや先生のわかりやすい解説を頼りにしよう。
先生にとっても龍樹は難しいそうである。

「哲学書というものは、どうしてこんなに晦渋(かいじゅう)なのであろうか……。
とくにナーガールジュナ(龍樹)の『中論』は、
注釈書なしではなかなか理解が困難である。
しかし、まあ、ナーガールジュナの言いたいことは、
世界の真実の姿をわれわれ人間の不完全な言語でもって正確に表現できそうもない
――ということであった。
人間の言語には、どうしようもない限界があるからだ。
『中論』において彼が語っているのは、いわばその絶望である。
微に入り細に入り、ナーガールジュナは人間言語の
――したがって、人間の認識の――限界を告発しているのである」(P189)


☆「真理の世界(絶対世界=無言語)|この世(相対世界=言語説明可能)」
☆「真理(絶対世界)|法華経、華厳経、般若経典、浄土三部経、維摩経(相対世界)」


龍樹はこの言語で説明できない絶対の真理を「空(くう)」と呼び、
言葉でなんとか説明できる世界を、それに対して「仮(け)」と呼んだ。

☆「空(絶対真理)|仮(相対真理=善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死)

言葉には限界があるということを、ひろ先生はわかりやすく説明する。
たとえば、「ないものはない」――。これは正反対のふたつの意味を表わせる。
1.ここは大型店だから「ないものはない」(=ある)。
2.いくら泣いたって「ないものはない」(=ない)。
わたしも考えてみた。「お礼をしなきゃな」――。
1.さんざん意地悪されたから「お礼をしなきゃな」(=復讐)。
2.いろいろお世話になったから「お礼をしなきゃな」(=感謝)。
おなじ言葉でもふたつの意味を持つことがある。
それから言葉の意味は体験に左右される。
「結婚」という言葉は結婚生活をしたことがあるかどうかで意味は変わるでしょう。
「同性愛」なんかもそう(わたしにゃわからん)。
「犬」と言われても、それぞれイメージする犬が違う(どうでもいいが犬は大嫌い)。

さらに言葉の限界と言えば「クレタ人は嘘つきだ」の問題があるでしょう。
クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったら、本当のことがわからなくなる。
「クレタ人は嘘つきだ」を信じたら、この言葉も嘘になってしまい、
ならばクレタ人が本当のことを言ったことになる。
このパターンでひろ先生が考えたのは「例外のない規則はない」。
「例外のない規則はない」という立言そのものが規則であるから、
この規則そのものに例外があることになる。
つまり、「例外のない規則はない」という規則にも例外はあることになる。
そうすると、「例外のない規則」が例外的にあることになる。

おなじパターンでわたしが考えたのは「絶対的真理はない」。
「絶対的真理は存在しない」が真理ならば、
「絶対的真理はない」というのが絶対的真理になってしまい矛盾するでしょう。
しかし、この矛盾こそわたしは真理だと思うし、
どうでもいいが「絶対的真理はない」は河合隼雄が信じていたことだ。
「絶対的に正しいことはない」という真理もそうでしょう?
「絶対的に正しいことがない」という主張が正しいのならば、
絶対的に正しいことがあることになってしまう。
こういうパラドックス(矛盾)は考え続けていると発狂するから注意してね(笑)。
「池田先生は絶対に正しい」で心を落ち着かせるの一興だと思う。
まあ、「山田太一さんの言うことはほぼ間違いないな」もおなじだけれど。
「さすがに新聞やテレビは嘘を言わないだろう」くらいが平凡だが安心できよう。

ことほどさように言葉というものは、相対しか表現できない不便なものかもしれない。
言葉では絶対の真理を表現できないのかもしれない。
言葉にできない絶対体験というものを目指して修業する人もいるわけでしょう?
まあ、それは単にボキャブラリー(語彙/ごい)が貧困なだけかもしれないけれど。
こういうことはヴィトゲンシュタインやラカンよりもはるかむかしのインド人が考えている。
「ウパニシャッド」に登場する哲人(紀元前650~550年)がこう言っているそうだ。
ひろさちやの言葉ばかりだと権威がないので、中村元先生の本から孫引き。
ひろさんは中村先生の不肖の弟子になるのかなあ。

「アートマン[絶対真理]は、それによってこそ
人がこの一切のものを認識し得るところのものである。
したがってアートマン[絶対真理]それ自身はもはや何ものによっても認識され得ない。
それ[絶対真理]は把捉し得ざるものであり、不可説である。
もし強いて言語をかりて言い表わそうとするならば、
ただ『しからず、しからず』(neti neti)と否定的に表現し得るのみである」(P183)


究極の真理、最高の真理、絶対の真理は言葉では表現できない。
しいて表現するならば「~~ではない、~~ではない」と否定的にしか表現できない。
むかし講演会で聞いたけれども()、
山田太一さんの好きな詩人に川崎洋という人がいて「私の歌」という作品があるらしい。
いまネット検索してみたらそんな詩は見つからなかったが、
「私の歌」は「~~でもない、~~でもない」と繰り返していく詩らしい。
「私」なんかもそうだよね。「私」とはなにか。
「女ではない、学生ではない、夫ではない、社長ではない、まじめではない……」
「私は○○である」と絶対的に言い切ることはできず、
「○○ではない」と言っていくしかない。
有名な般若心経も「無~~、無~~、(~~もない、~もない)」の世界である。
さて、中村元の文章は意味不明だったが、ひろさちや先生の説明はわかりやすい。

「……ヤージニャヴァルキヤ[インドの哲人]は、
究極・最高の原理(アートマン)が、言語によって表現できないものであり、
強いて表現すれば、
「ネーティ、ネーティ(そうではない・そうではない)」
としか言えないものだと断言している。
つまり彼は、最高の真理(原理)を表現することを権利放棄してしまったのだ。
究極の真理を言語でもって把捉[はそく/把握]することはできぬと、
あきらめたわけである。そしてその代りに、
究極の真理のうちに飛び込み、究極の真理に同化する道を選んだのである。
要するに、恋人をことばでもって口説くことをやめて、
からだでもって恋人と一心同体になることをねらったわけだ。
わたしの譬(たと)えはちょっと際(きわ)どいが、
哲学の話はこれくらい大胆に解説したほうがよい。
そうしたほうが、ともかくもわかりやすいのである」(P184)


うちのブログは偏差値40の高校生でもわかるように書いているつもり。
このため、もう一度繰り返しになるが、これまで書いてきたことを赤字で説明したい。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
↓ ↓ ↓
☆龍樹=「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」


この真理の世界の仏さま(永遠仏)のことを久遠実成(くおんじつじょう)と言うのだが、
こんな言葉は忘れてくださっていい。
わたしもむかし久遠実成とか本で読んで「うげっ、わからん」って思ったもの。
ちなみに、ひろ先生は本書で一度も久遠実成という専門用語を使っていないからすごい。
話を戻すと、言葉は絶対的真理を表現できない(のかもしれない)。
というのも、悪は善ではないということ(絶対悪はわからん)。
正しいというのは、誤りではないということ。
正義は不正はしていませんよということ。美人は醜くないということ。
きれいはきたなくないということ。
長いものは短いものに比べたら長いけれど、もっと長いものに比べたら短い。
大きいものは小さいものと比べたら大きいが、もっと大きなものよりは小さい。
コップ半分の酒に感謝するものも、あとこれしかないと嘆くものもいる。
以上、なんの話をしていたかというと、じつはこれが空(くう)の説明なのである。
空(くう)というのは、ものごとに実体はなく、
すべては縁起(えんぎ)によって成り立っているという思想(ものの見方)である。
「色即是空(色=空)」というのは、赤に「絶対的な赤」のようなものはなく、
青や黄色やほかの色があるから結果として、
相対的に赤が縁起(ご縁/関係性)として存在しているということだ。

龍樹から法華経にまた話を戻す。
法華経はなんの教えも説かれていないとも言えるが、
「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉が出てくる。
お経はサンスクリット語(古代インド語)を漢訳したものである。
この諸法実相をサンスクリット語の意味どおりに読むとしたら、
「諸法の実相」(=世界の真実)が「正しい」という。

「ところが、中国や日本では、サンスクリット語にない解釈がされるようになる。
漢字というものは便利(?)なもので、わりと自由な解釈ができるのである。
すなわち、サンスクリット語では「諸法の実相」としか読めないものを、漢字では、
――「諸法は実相なり」
と読んだのである。
中国の天台宗でそう読まれはじめて、それ以後その読み方が定着してしまった。
したがって、いまでは「諸法は実相なり」が、このことばの意味になっている。
そういうふうに読むことで、
これが大乗仏教の根本思想を表明したことばになるのである。
サンスクリット語に戻って「諸法の実相」と読んだのでは、
あまり深い意味があるとは思えない。
思想の歴史は、あんがい誤解の上に構築されるものかもしれない。
誤解がひろく世の中に通用すれば、誤解が正解になる。
「諸法実相」は「諸法が実相なり」と読むのが正しいのである」(P225)


では「諸法実相」=「諸法は実相なり」はどういう意味かと言うと――。
「諸法(世界)は実相(真実)である」。なんのこっちゃい、である。
ここで言葉を追加するのである。この追加が「正しい」かはわからない。
「諸法(世界)はそのまんまあるがままで実相(真実)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のある世界はそのまんまで真実(真理)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで正しい」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれが存在理由がある」(ひろさちや流の解釈)
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで美しい」
「すべてがあるがままでいい」
「すべてはうまくいっている」
「なるようになっているし、なるようにしかならない」
「諸法実相」という言葉を噛み砕き過ぎたので復元していく。
「諸法(相対世界)は実相(絶対真理)である」
「諸法(偶然)は実相(必然)である」
「諸法は実相なり」――。
龍樹の説いた「空(くう)」に戻る。龍樹は世界を空(くう)と仮(け)に分けた。
そうだとしたら、以下のようなステップを踏むと「空=諸法実相」ではないか。

1.龍樹→「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」
2.「諸法実相」→「実相(真理)」=「諸法(善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」=「仮(け)」
3.「空」=「諸法実相」


おわかりいただけましたか?
「空=諸法実相」はひろさちや先生の珍説(奇説)なのだが、わたしはこう理解した。
ひろ先生がお読みになったら、ああ、こいつわかってんじゃんと思われるだろう。
ご理解いただけなかった場合の言い訳も、ひろさちや氏から借りておこう。

「……わたしたちの言語は、ほとけの世界(極楽世界)の真理を
記述するに適していない。「男性」と書けば「女性」が予想され、
「中性」と書いても「男性―女性」が予想され、
「無性」と表記すれば反射的に「有性」が意識される。
わたしたちの言語は、相対世界をしか記述できないのだ。限界がある。
その言語でもって、
絶対世界(ほとけの世界)を実現することはあきらめざるを得ない」(P200)


そうそう、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)についても書いておこう。
学会員さんは読みもしないで法華経のほうが浄土三部経より上だとか思っていそう。
たしかに浄土三部経というのはどれも、あの法華経よりも退屈なのである。
しかし、浄土三部経のほうが法華経よりも上という見方もできるのだよ。
まあ、大乗仏典なんかすべて後世の創作、
つまりインチキだから優劣を語るほどバカがばれることはないと言うこともできるが。
浄土三部経のどこが法華経よりも優れているかというと――。
以下はよほどの仏教関連者しかわからないでしょうから読み飛ばしてください、
法華経に描かれている仏は時間的に永遠の仏でしょう(久遠実成ってやつよ!)。
法華経の仏は時間軸しかない(永遠仏)。
いっぽう浄土三部経で描かれる阿弥陀仏のサンスクリット語源は、
「アミターユス/アミタ・アーユス(無量寿)」と
「アミターバ/アミタ・アーバ(無量光)」とふたつある。
阿弥陀仏という名前はサンスクリット語から音訳しているわけ。
よって、意味の上では、阿弥陀仏は無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれる。
無限の寿命を持った永遠仏であり、無限の光を持った太陽仏ということ。
法華経の仏は永遠仏でしかないけれど、
阿弥陀仏は永遠仏というだけではなく空間的な広がりもある無限仏と言える。
だから、勝った、勝った、浄土三部経は法華経に大勝利! なんて叫んだら、
まるで(一部の)学会員さんみたいなのでやらないよ、アッカンベエ!

しつこく浄土三部経の擁護を続けると、法華経の仏って偉そうじゃん。
「おれに逆らったら地獄に堕ちるぞ」とか
「おれに逆らったら来世で障害者にするから覚えとけ」とか言っているしさ。
法華経の仏はなにさまって感じで、人間に仏罰を加えてくるのである。
しかし、浄土三部経の阿弥陀仏はそんなことはない。
インチキ物語には違いないが、阿弥陀仏は人間出身なんだよ。
阿弥陀仏は法蔵菩薩(凡夫/人間)が長いあいだ修行した結果なのである。
このため、法華経の仏よりも苦労を知っているというか人間味があるとも言える。
まあ、浄土三部経がどれもクソつまらないことは認める。
まあまあ、法華経も浄土三部経もクソ味噌いっしょと言えなくもない。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
☆浄土三部経=「極楽世界(絶対世界)【阿弥陀仏】|【菩薩】この世(相対世界)」


阿弥陀経の有名な一節に「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」がある。
極楽世界は「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」であるという。
意味は、極楽世界では「青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、
赤い花は赤い光を放ち、白い花は白い光を放ち、それぞれがそれぞれ美しい」――。
「青黄赤」の三色は学会カラーなんだから、創価も阿弥陀経を認めろよ!
そしてそして、いいかいいか、
極楽浄土ではそれぞれの色の花がそれぞれの光を放ってそれぞれ美しい――。
これって諸法実相(しょほうじっそう)とおなじ世界観ではありませんか?

☆「絶対真理」=「空」=「諸法実相」=「青色青光」=「極楽浄土」

(B)中期大乗仏教

中期大乗仏教といえば、世親や無着による唯識(ゆいしき)思想だが、
あれはひろさちや先生にもよくわからないし、なおかつあまりおもしろくないらしく、
それほどページが割かれていない。
ひとつ、おもしろいと思った指摘は、
なぜ唯識(ただ識のみ/心のみ)なんていう思想が発展したのか?
初期大乗仏教では世界を「真理の世界」と「この世」に二分したわけである。

☆「真理の世界|この世」

そのうえで龍樹が「真理の世界」は言葉では表現できないと論じてしまった。
これで困ってしまって、さあ大変になったのだと、ひろさちや先生は指摘する。
なるほどなあ、と思った。

「『法華経』にしろ「浄土教典」にしろ、
そこにおいては仏のほうが凡夫にヒモをつけて、
そのヒモを引っ張ってくださっていた。
それが釈迦仏の授記であり[法華経]、阿弥陀仏の誓願である[浄土三部経]。
しかし、ナーガールジュナ(龍樹)がその仏の世界(「空」の世界)について
権利放棄してしまったあとでは、もはや仏にヒモを引いてもらえないのである。
凡夫は自分でネジを巻いて、凡夫のほうから歩き出さねばならない。
凡夫がネジを巻くには、凡夫のうちにゼンマイがなければならない理屈になる。
その凡夫のうちにあるゼンマイが、つまりは「仏性」なのである」(P211)


果たして凡夫の心の内部にゼンマイ(仏性)はあるのかという、
ある意味では仏教心理学がスタートするのである。
心の深みに入っていき過ぎたせいか、仏教心理学たる唯識思想はよくわからない。
唯識といえば――ユング心理学で言うところの無意識、
すなわち阿頼耶識(あらやしき/深層意識)が有名だが、
ひろさちや先生はおもしろいエピソードを紹介している。
あるアメリカ人がイスラム教徒の留学生を家に招待したという。
イスラム教徒は宗教的な戒律により絶対に豚肉を食べない。基本常識だ。
アメリカ人はどこから見てもどこから食べても牛肉のステーキをご馳走した。
イスラム教徒は「おいしい」と満足して牛肉ステーキを平らげていた。
ジョークが好きなアメリカ人は食事途中にふざけて、
「きみがいま食べているのは豚肉だよ」と言った。
するとその瞬間、イスラム教徒は胃のなかのものをすべて吐き出し、
床にのたうち回って苦しみはじめ実際に心筋梗塞を起こしたらしい。
救急車で病院に行って、一命を取りとめた。
ひろ先生が問題提起するのは、認識の問題である。
このとき彼の食べていたのは間違いなく牛肉でそれはずっと変わらなかったのである。
「それは豚肉だよ」と言われても牛肉が豚肉に変わるはずがない。
にもかかわらず、イスラム教徒は嘔吐した。
ということは、彼の食べているものが途中から牛肉が豚肉に変わったのだと、
ひろ先生は言い放っている。

ものごとを理解したいならば、異なった例を自分のあたまで考えてみるといい。
わたしはこういう別の例を考えてみた。
ある男が幸運にもきれいで若い女の子と交際していた。
あるとき彼女の親友という女性がアメリカから帰国してきた。
その友だちから男はこっそり教えてもらう。
「あの子、じつはむかし借金を返すためソープ(特殊浴場)で働いていたんだよ。
AV(アダルトビデオ)にも何本か出ている。
あたしの彼氏がそれを発見して興奮していて、男って最低と思った」
こういう話を聞いた男性は交際相手のことをどう思うだろうか?
まずえんえんと思い悩むだろう。
思い切って彼女に質問するが、もちろん否定される。
おりしも、そういう秘密を教えてくれた彼女の友人が交通事故で死んでしまう。
恋人の女性の存在自体は、話を聞くまえも聞いたあとでも変わらないのである。
しかし、一度聞いてしまったら、もういままでどおりの交際はできないだろう。
彼女の言うことを信じて交際を続けるという決断もあると思うが、
いつか酒に酔った拍子に女に手を上げてしまうことがないとは言えない。
無料エロ動画を見ていたら、高校生のころの恋人にそっくりの女性を発見してしまった。
よほど「寝取られ妄想」が好きな男以外は、
この瞬間になにかがプチンと切れてしまうだろう。
たとえ交通事故で死んだ女の言ったことがすべて嘘だったとしても、である。
まあ、よく似た女性などたくさんいるし、女は加齢や化粧で変わりやすいから、
映像の質がそれほどよろしくない無料エロ動画を見ても、
なにが真実かはなかなか断定はできないとも言えるのだが、しかし。
恋人の別の友人が「あんなやつの言ったことは絶対に嘘よ」
と神に誓って宣言しても、
男に芽生えた疑心暗鬼はどうにもならないような気がする。
人間の認識はそんなもんなんだよという。

ここでさらなる飛躍をする。
以下のことは、この本には書いていない。
こういう常識はずれの思考法をできるようになったのは、
天才のひろさちや氏の本をたくさん読んだからだろう。
イスラム教徒にこれは牛肉だと言って、豚肉を食べさせたらどうだろう?
彼は豚肉を食べたことがないはずだから味がわかるはずもなく、
怪訝な顔をされたら新しい品種の牛肉で最高級部位だ、などと言ってやればいい。
食後にもずっと本当のことを隠しておけばイスラム教徒はまさに「知らぬが仏」である。
むかしソープで働いていたと陰口をたたかれた女性にしてもおなじである。
交際相手からはさんざん暴力を振るわれ、別れることになってしまった。
女性は人間不信、とくに男性恐怖症になる。
そんなおり、少々高齢の金持の男性と知り合い交際を申し込まれる。
あまりにプレゼントをいっぱいくれるので、つきあわざるをえなくなってしまう。
交際してみるとそれほど女性のあつかいはうまくないが、
とにかくベタ惚れと言ってもいいくらい自分を好きになってくれている。
しかし、男性恐怖はおさまらず、いくら誘われても身体を許すことはなかった。
男はさらに彼女の気をひこうと高いプレゼント攻勢を仕掛けてくる。
彼の誕生日に誘われ豪邸とも言っていい家に行くと、多少強引にだが身体を求められる。
男性恐怖は治っていなかったので拒否するが、
いままでもらった贈り物を考えると強く出られないで、
いささか強引なかたちでやられてしまう。
ひさびさのセックスなのでぎこちない動きしかできなかった。
そのうえ突然のことだったので抱かれているときに生理が始まってしまった。
彼はすっかり合点がいく。清楚で美しい彼女は25歳まで処女だったのだ。
いままでずっとガードが固かった理由がやっとわかった。
彼が「処女だったのか?」と聞くと、彼女は違うと首を振る。
いや、これは処女に間違いない。
彼女は処女であることを恥ずかしがっているのだと男は確信する。
女はどうしていいか迷う。本当は元彼をふくめて4人の男性経験があったのである。
「処女じゃないもん」と本当のことを言っても彼は信じてくれない。
「本当なんだから」と思わず泣いてしまうと、
「わかった。わかった。恥ずかしいことではないのに」と彼はやさしく女を抱きしめる。
このとき彼女は長いこと患(わずら)っていた男性恐怖症が治ったことを知る。
金持の彼は(彼の心のなかでは)清純な彼女にプロポーズして結婚する。
彼は死ぬまで嫁は処女だったと信じていた。
彼女のほうも嘘はついておらず、しかも元彼は貧乏だったから(愛は金ではないが!)、
自分をこんなに大切にしてくれるいまの主人に出逢えてよかったと神さまに感謝した。

自画自賛するとものすごいうまいエピソードではないか。
なにが善でなにが悪か、なにが本当でなにが嘘か――がわからなくなる説話だ。
悪(元彼のDV→別離)が善(幸福な結婚)になっているのもおもしろいでしょう。
結局、「真理」とは、ある人間が心底から真理であると信じたことが「真理」になる。
元彼は彼女のことを心中でヤリマンのアバズレと信じたから女を殴った。
いまの旦那は彼女のことを聖女のような女性と心底から信じたから、
結果として幸福な結婚生活を送ることができた。
阿頼耶識(あらやしき)説とは、心がすべて決めているという発想のことなのだろう。
ひろさちや氏はまた別の例を出していて、これもまたおもしろい。
プールに人が飛び込んだときの音である。
英語ではスプラッシュと言うらしく、日本ならまあザブンくらいではないか。
どうしておなじ音なのにイギリス人と日本人では別の音に聞こえるのだろう。
ニワトリの「コケコッコー」は英語では「コッカドゥドルドゥー」、
ドイツ語では「キケリキ」、フランス語では「ココリコ」、中国語では「オオオオオ」らしい。
おなじ音なのに複数の人間がまったく別の音として聞いているのである。
では、どれが真実のニワトリの鳴き声(絶対的真理)かといえば、
ふたつの回答例があるだろう。
1.それぞれ聞いたニワトリの鳴き声のすべてがそれぞれ真実(相対的真理)である。
2.本当のニワトリの鳴き声(絶対的真理)はだれにもわからない。

☆Aの心中(相対的真理)←?(絶対的真理)?→Bの心中(相対的真理)
☆絶対的真理=「Aの真理≠Bの真理≠Cの真理≠Dの真理≠Eの真理」


先ほどの女のたとえに話を戻すと、彼女はつごう5人の男性と交際し結婚した。
彼女(絶対的真理)はひとりだが、
5人の男の心中にはそれぞれ異なる彼女がいるということになろう。
脱線すると恩師である特殊映画監督の原一男先生が、
この原理を映像化すべく「またの日の知華」という作品を発表している。
世間的にはほとんど評価されず弟子のわたしがどう好意的に観てもつまらなかった。
「本当のこと」というのは表現してしまうとあまりおもしろくないのかもしれない。
原一男監督はドキュメンタリー映画での評価が高いが、
作品はすべてフィクション(嘘/やらせ)だとおっしゃっていたのを懐かしく思い出す。
仏教に戻ると、ひろさちや先生は難解な阿頼耶識説を簡潔にまとめている。
何度も繰り返してしつこいかもしれないが、この人はあたまがいいよ。

「さて「阿頼耶識(あらやしき)説」というのは、簡単にいえば、
「われわれは、自分が認識しようと思う対象世界を自分でつくりあげて、
それを認識しているのだ」ということである。
日本人は、にわとりの鳴き声を「コケコッコー」にしておいて、
そしてその「コケコッコー」を聞くわけだ。
フランス人は「ココリコ」という鳴き声をつくっておいて、そしてその「ココリコ」を聞く。
つまり、人間は自分でにわとりの鳴き声をつくり、
そのつくった鳴き声を聞いているのである。
それが「阿頼耶識説」が言っていることである。
要点をいえば、それだけのことである。そんなにむずかしいことはない」(P290)


わたしは念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)もどちらも「正しい」と思っている。
どちらかと言えば念仏のほうが好きだが(法然や親鸞のではなく一遍の踊り念仏!)、
日に何度か題目を唱えることに少なくとも拒否感は示さない。
もしかしたら釈迦(釈尊)の教えというのも、ニワトリの鳴き声みたいなものではないか。

☆日本人(コケコッコー)←ニワトリの鳴き声→フランス人(ココリコ)
☆大乗仏教←釈迦の教え→小乗仏教
☆法然(南無阿弥陀仏)←?「絶対的真理」?→日蓮(南無妙法蓮華経)


ものすごい「本当のこと」を書いてしまったような気もするが、おもしろいですか?

(C)後期大乗仏教(密教)

人間は基本的に他人の考えになど興味を持たないものだし、
有名人の文章だって読んでもらえないのだから、
ここまでお読みくださった方にまず感謝します。
あたまのいい人には繰り返しがうざいでしょうが、
このブログ記事は偏差値40の高校生でも理解できることを目指して書いているので、
いままでのところをおさらい(復習)したい。
大乗仏教は「この世(俗世間)」ならぬ「真理の世界(仏国土)」を創造した。
龍樹がその世界観を、ひと言でまとめれば「空(くう)」となる哲学として学問化した。
空(くう)は言語化できない世界だから、凡夫は「真理の世界」と切れてしまった。
そこで世親・無着は外に「真理の世界」があるのではなく、
内(心)に「真理の世界」に分け入るゼンマイ(仏性)があるのではないかと考えた。
これが仏教心理学とも言われる唯識(ゆいしき)思想である。

☆小乗仏教=「この世(ビジョン、ルール、マナー)」
☆大乗仏教=「真理の世界(絶対世界)|この世(相対世界)」
☆大乗経典(法華経、浄土教典等)=「真理の世界」→仏→「この世(俗世間)」
☆龍樹=「空(絶対/無言語)|仮(相対/善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」
☆唯識思想=「この世=心(仏性)」→仏性→「真理の世界」


では、密教とはなにかというと先に結論めいたものを書いてしまうとこうなる。
これから以下のことを説明していくことになるわけだ。

☆密教→「私(身口意/相対)」=「仏(絶対真理)」

荒っぽい言い方をすると、仏教は3つのパターンしかないとも言えよう。
1.仏さまに救ってもらう(仏→私)。
2.仏に私が近づく(私→仏)
3.私が仏であることに気づく(私=仏)
で、密教は3に当てはまるのだが、まず密教は仏教かという問題があるらしい。
というのも、密教はヒンドゥー教と言ってもいいくらい釈迦から離れている。
ヒンドゥーの哲学では梵我一如(ぼんがいちにょ←忘れてください)を理想とするが、
密教修行者が求めているのもおなじ(梵我一如)状態だからである。
密教サイドは、密教以外を顕教(けんぎょう)としている。
つまり、密教は仏教にふくまれるのではなく(同類にされたら、かなわん!)、
優れた密教と劣った顕教に分かれると主張しているのだ。
まあ、大乗仏教が釈迦仏教を小乗仏教とバカにしたのとおなじわけよ。
ここだけの話、仏教ってさ、優劣にこだわるお子さまめいたところがあるわな。
密教サイドの言い分としては――。

×「仏教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教、密教)」
○「密教|顕教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教)」


わたしから言わせたら、密教も仏教の一派としていいような気がする。
あんがいもっとも釈迦(釈尊)の悟りに近いのが密教かもしれない。
もうすぐ仏教の消滅の話をすることになるのだが、最初に話を戻そう。
釈迦はいったいなにを悟ったのか。
釈迦は阿弥陀仏に救われたわけでも、法華経を読んで人間革命したわけでもない(笑)。
みなさまはそれほど注意を向けないが、釈迦というのは金持のボンボンだったのである。
いまの創価学会の池田大作さんよりも贅沢ざんまいの生活を
子どものころから送っていたわけだよ。なにひとつ不自由のない状態。
唯一の不幸は母親に先立たれたくらいか。
ああ、そうか、マーヤ夫人は釈迦を産んですぐに死んでいるけれど、
これは釈迦を産まなかったら死ななかったとも言えるわけか。
とすると、釈迦には母親を殺したような原罪意識があったのかもしれないが、
それはここでは忘れておく。
実際、マーヤの妹が母親代わりを務めたっていうし、
そこまで母性に飢えていたとも思えない。
ともあれ、釈迦というのは我われ庶民が見たら、
嫉妬で胸を焼き焦がしてもいいくらい恵まれた環境にいたことを忘れないでくれってこと。
小さいころから大勢のものにかしずかれ、優秀な家庭教師から英才教育を受けた。
ほしいものはなんでも手に入ったし、口にするものは美食ばかりだったと思われる。
きれいな奥さんをもらっているし、丈夫な子どもをさずかっている。
おそらく美少女から床上手の熟女まで複数の愛人がいたことだろう。
おまえら底辺(ブログ読者さまを勝手に決めつけるな!)が知ったら、
生きていくのがいやになるくらい釈迦は恵まれていたのである。
いまで言えば、有名人や権力者の子どものようなものである。
ひねくれた根性の持ち主になるのは貧乏人の子どもと決まっており(失礼!)、
釈迦はとてもあたまのいい性格もすばらしいやつだったと思うんだ。
では、なぜ釈迦は妻子を捨てて出家したのか?

1.死への不安(公式見解)。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
1を支持するものは多く、意味は知らなくていいけれど(まあご存じか)
四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードなんかもそれを裏付けている。
でもさ、絶対にあったと思うんだなあ。
快楽にも幸福にも飽き飽きしたぜっていう、どこか世の中を舐めくさった態度が。
有名人の子どもだからチヤホヤされているけれど、
おれっていったいなに? みたいな(笑)。
それでさあ、乞食みたいな格好をして娑婆(しゃば)世界に出てみたら、
きっとおもしろかったって思うんだ。
いままでお城のなかにいたから世間知らずだったわけでしょう?
え? こんなに貧乏な人がいるの? とか、まじビビったって思う。
うわあ、クッソ性格の悪いやつがいるんだなあ。ちょーおもしれえぜ。
どうしてこいつらは、こんなにも根性がゆがんでいるんだろうと大笑いした日もあった。
釈迦はいままで高級グルメしか口にしたことがなかったけれど、
貧しい庶民ががつがつ食っているものを恐るおそる真似して食べてみたら、
貴族出身、王族出身のお釈迦さまは驚いた。
こんなもん食ったことねえが、これはこれでうめえじゃないか、こんちくしょっ!
高級料亭しか行ったことのないものが立ち飲み屋に行ったようなもんだ。
世間知らずの釈迦青年はいろんな人やいろんなものに、きっと感激もしたはずである。
夕陽を見ながら出家してよかったと涙ぐんだ日もかならずやあったはずである。
それにしても、だ。それにしても、どうして人間はこんなにも不公平なんだろう?
どうしてこんなにあたまの悪い人がいるのか?
なにゆえこうまで病弱な人や貧乏な人がいるのか?
いままでスーパー幸福だった釈迦だからこそ深奥からこの問いにとりつかれたはずだ。
なんで自分はこうまで恵まれてきたのに、
反対にこうまで恵まれないかわいそうな人がいったいどうしてこんなに大勢いるのか。
おそらく釈迦は自分を罰したいような気分になったのだろう。
だから、インチキくさい修行者の真似をして苦行とやらを徹底的にやってみた。

原点にもう一度返ろう。なぜ釈迦王子は出家したのだったか。
1.死への不安。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
で、世にもまれながら釈迦は35歳にしてガヤーの樹の下でなにを悟ったのか。
1.無限にも近い過去世の業(宿業)の結果としていまの自分があること。
2.苦悩は快楽である。悪しき状態は善き状態である。不幸は幸福である。
釈迦がいちばん最初に悟ったのは、宿業だというのは本当だから。
証拠として以下にふたつ挙げておく。
「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)
「仏伝」(桜部建・雲井昭善編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

釈迦は自分の悟った真理を人に教えるのは無理だと思った。
しかし、これは伝説なのだが、
インドの神であるインドラがわざわざやって来て教えを広めてくれと釈迦に依願した。
どうしてインドの神が来るかといったら、当時は仏教なんてなかったのだから(笑)。
インドラ神「どうかお釈迦さまが悟った真理をおひろめください」
釈迦「いやあ、無理っすよ、無理無理。いくら神さまだからって、無茶言わんでください」
インドラ神「そこをなんとか」
釈迦「ぶっちゃけ無理だし、めんどくさいっす」
インドラ神「弟子に囲まれると気分がいいですよ」
釈迦「おれ、孤独、嫌いじゃないし」
インドラ神「下手(したて)に出たら調子に乗りやがって。いますぐ雷を落として殺すぞ!」
釈迦「もう悟っちゃったからいいよ。どうぞお気に召すまま。お任せしまっす♪」
インドラ神「ちぇっ(煮ても焼いても食えねえやつだな)」

釈迦の悟った真理のひとつは、
無限の過去世の業の結果としていまの自分があること。
だとしたら、いまこの場で落雷により死んだとしても、
またかならず生まれ変わってくるわけでしょ? 
だから、いくらインドラ神が(創価学会青年幹部お得意の)恫喝をしても動じなかった。
しかし、実際に釈迦が悟った真理を教えられないというのは事実でしょう?
宿命や宿業があるというのは教えるというよりも自分で納得するものだから。
貧乏人や病人が「それは宿命よ!」なんて言われても、ふざけんなって話で。
これは金持のボンボンである釈迦が多少、世の辛酸を舐めて悟った真理だ。
金持があまたの貧乏人を見て「どうして?」と自問し続けた結論である。
そのうえ釈迦は苦行(乞食修業)をしたって言うけれど、ほかの連中とは違う。
なにより彼には帰る家があったのである。
釈迦は悟りによって「死への不安」を克服した。
もうひとつこのとき釈迦の悟った絶対的真理が密教の教えだと思うのである。

当方はあらゆる仏道修業をひとつもしたことがないし、
これからもする気はないからわからんが、
密教は絶対体験を重んじるような気がする。
釈迦は王子であったときに快楽の極限を味わった。
そして、粘り強く苦行をした結果、なーんだ、苦も楽もおなじではないかと悟った。
とはいえ、苦しみも楽しみも同一という絶対境地は体験してみないとわからない。
なぜなら、言葉は相対しか説明できないのだから(龍樹!)。
苦とは楽がない状態で、楽とは苦がない状態なのだと言うほかない。
しかし、釈迦は快楽も苦悩もたっぷり体験して「苦=楽」という絶対的真理を得た。
俗っぽい話をすると、マゾがさ、「ああーん、逝(い)っちゃう」みたいなものよ。
釈迦が悟った絶対的真理は、正反対は極限で通じているという実感なのだろう。
この絶対的真理は言葉(=相対)では伝えられず本人が体験するしかない。
というのも、貧乏人はさあ、快楽の極限なんて味わえないわけでしょう。
釈迦はたまたま王族として生まれたから苦楽の極限を、
どちらとも体験できたわけだから。
ふだんサンマの刺身をたまに食って「うまい、うまい」と言っているものが
1週間カップラーメンだけで過ごして、
その後に銀座に行って最高級のマグロの中トロを口にしたら大感激でしょう。
サンマの刺身もマグロの中トロもまったく同一にうまい(=空=諸法実相)とは、
とてもじゃないけれど思えないってわけ。

絶対的真理はおのおのが絶対体験をして、
それぞれ冷暖自知(れいだんじち)するしかない。
難しい言葉を使っちゃってごめんなさい。
いちおう絶対的真理を、相対の言葉で説明することもできなくはないわけだ。
やってみましょうか。善は善ではなく、悪は悪ではなく、大善は大悪である。
相対(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は絶対(空)である。
諸法(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は実相(絶対的真理)である。
私(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は仏(絶対的真理)である。
私(煩悩/欲望)は仏(菩薩)である。
生きている私(地獄、修羅、餓鬼)は仏(最高)である。
人間(相対的存在)は死なない(仏=絶対的存在)。
仏(絶対的真理)をまえにしたら善も悪もない(=善悪は相対的真理に過ぎぬ)。
大地震や大津波(自然=絶対)が起きたら善人も悪人も分けへだてなく死ぬ。
死(絶対的真理)をまえにしたら、
あらゆること(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)がどうでもよくなる。
あれこれ迷う(善悪、正邪)ことのなかに悟り(死)がある。
生き方に善悪や正誤はなく、人間はどう生きてもいい。
絶対的真理(死)はわからない(=言葉では説明できない)。
いくら言葉を簡潔にしても反対に華美にしても、
絶対的真理は絶対体験とセットになっているから言葉では伝わらない。

絶対体験というのは、言葉にならない体験のことである。
ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
たとえばさ、ちょっと目を離した隙に幼児がベランダから落ちて死んだ母親とか。
目のまえの横断歩道で子どもがダンプカーに轢き殺された父親もそうだな。
家族に目のまえで自殺されるとか、そういうのも絶対体験だろう。
なぜか子どもが3人連続して障害を持って生まれてくるのも絶対体験だろう。
絶対に死ぬと思って電車に飛び込んだら下半身切断で生き残るのも絶対体験。
反対に電車に飛び込んだのに無傷だったというのも絶対体験になろう。
そんな大げさなものばかりではなく、落葉を見て絶対体験をするものもいよう。
発狂するというのは、言語化できないから狂うわけで、
そういう意味ではありふれた精神病患者も絶対体験をしているのかもしれない。
絶対(空=死)をまざまざと見てしまうと人は狂うしかないのかもしれない。

しつこいが絶対体験とは、ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
お坊さんのなかには、この絶対体験をしたくて修行する人もいよう。
まあ、意地悪を言えば、大半はそんなものはどうでもよくなり堕落するのだが。
そして、堕落するのが悪いわけではなく、
わざわざ自分から絶対体験なんか求めなくてもいいと言えなくもない。
まあ、小金を貯めてバンジージャンプでもしたら、
軽い悟りくらいなら得られるかもしれないわけだしね。
しかし、絶対体験を味わったほうがいいとか上質とか、とても言えない。
まあまあテレビでも見ながら、あいつは悪人だ、あの人は善人よ、
なんて家族と喧嘩しながら、
「おれ(あたし)は絶対に間違っていない」と口癖のように言いつつ、
そのくせ社会人としては波風を立てない平凡な人生を送り、
ある日病気になって「自分の人生はこれでよかった」「我が人生に悔いなし」
なんてかな~り強引に無理やり力尽くでごまかしながら
平均寿命をまっとうするのがいちばんかもしれない。
なぜならだれしもが最後は絶対体験(臨終、死去、往生)をするのだから。

☆大乗仏教(顕教)→「真理の世界(仏の世界)|この世(俗世間)」
☆密教→「私(善悪、正邪、苦楽/相対)=仏(空/絶対)」
☆密教修行=ウギャアアアアアと叫ぶしかない体験


日本の真言密教は変なサンスクリット語の秘密めいた呪文を好むけれど、
あれの意味は「ウギャアアアアア」と言ってもいいのではないか。
「ウギャアアアアア」は言葉にならないから「ウギャアアアアア」なのであって、
各自それぞれ体験してもらうほかなく、それでも本人の器量しだいというところもあり、
偶然にも思える「とき」の到来も強く関係していそうだから、
むしろ絶対体験なんか経て、
変に社会的に逸脱した人間になるのがいいかはわからない。
「正しい」ことがわからなくなった状態が「ウギャアアアアア」だからさ。
なにが「正しい」のかなにが「善」でなにが「悪」なのかわからなくなるのが絶対体験。
そして、絶対的真理はたぶん「わからない」ということ。
なにもかもが心底「わからない」人が絶対智者であるというこのパラドックス(矛盾)。
正義も善悪も死後のこともまるで「わからないこと」をどこまでわかっているか。
ソクラテスの「無知の知」は矛盾しているけれど、あれが絶対的真理とも言えよう。
ちなみに、ひろさちや先生も絶対体験をお持ちである。
ひろさんは2000年に1億数千万円(7千万?)の空き巣被害に遭っている。
なんでも空き巣被害額の最高記録だとか。
いち夜にして1億数千万円を失うなんて、これを絶対体験と言わずしてなんと言うか。
みなさんはひろ先生のことなんてバカにしていてご本をお読みにならないでしょうが、
2000年以後の氏の本は「現代の一休さん」と称賛したいくらい、
ご主張が過激になっていてとてもおもしろい。
本書出版時(87年)にはたぶんまだよく密教をわかっていなかった気がするけれど、
いまのひろさちや先生はどこぞの真言宗坊主などよりよほど
「ウギャアアアアア(=密教)」を理解しているに違いないとわたしは思う。
絶対体験(盗難被害)は偶然に見えるが必然なのである。

☆密教(仏教)=「偶然(相対世界の現象)は必然(絶対不可避)と知ること」

ひろ氏の言葉も拾っておこう。
真言宗(密教)では最初に信者は「投華得仏(とうけとくぶつ)」の儀式をするという。
曼荼羅(まんだら)という仏さまがいっぱい描かれた大きな絵がある。
そこに目隠しをして(覆面や背を向ける場合もある)花を投げるそうだ。
そのときたまたま花が落ちた尊像が、その人にとっての「ほとけ」になる。
密教では「仏、菩薩、明王、諸天諸神」がみな「ほとけ」とみなされる。
偶然にたまたま花が落ちた「ほとけ」を彼(女)は一生のあいだおがむ。

「これが「投華得仏」である。
このやり方は、つまりは、わたしがほとけを選ぶのではなしに、
ほとけのほうからわたしを選んでいただくやり方である。
わたしは目隠しされているから、わたしにとってはそのほとけとの出会いは偶然である。
わたしが選んだわけではない。
とすれば、ほとけがわたしを選ばれたことになる。
わたしには偶然だが、ほとけのほうでは必然としてわたしを選んでくださったのである。
それが密教の考え方である。
つまり、そこには、ほとけのほうからの「加」がある。
ほとけの側からの働きかけがある。わたしは、
それを「持(たも)」てばよいのである。それが「加持(かじ)」だ。
偶然の出会いを必然化して行く――。それが、信仰である」(P373)


☆絶対体験→「偶然=必然、善=悪、男=女、聖=俗、損=得、生=死、空(くう)」

意外と知られていないのか、知られているのか、仏教はインドでは消滅している。
ことさら理由などなく偶然(必然)だったのだろうが、
歴史教科書的にはイスラム教徒が攻め込んできたから、ということになっている。
ほらさあ、イスラム教は自分たちが絶対正義の怖い人たちなわけでしょ?
仏教はセックス依存症だった龍樹が空(くう)とか言い出しちゃったから、
そりゃあイスラム教には勝てないわなあ。
空(くう)には正義も善悪も損得もないわけだから、弱いっちゃあ弱いよ。
さらにこれは仏教が残った日本と比較してなんだけれど、
結局インドでは学問仏教どまりで民衆化しなかったからという説も読んだことがある。
わたしがバカだからバカにもわかってほしいとこの記事を書いたけれども、
それでもやはり仏教は難しいでしょう。
ヒンドゥー教は現世利益の宗教で、願えばかなう系だから庶民にもわかりやすい。
いちおうヒンドゥー教も難しいことを言えば、
輪廻(りんね)からの解脱を目指しているらしいけれど、インドへ行ってごらんなさい。
教義には解脱とか母なるガンガー(ガンジス河)とかいろいろ聖性はあるけれど、
大半のインド人が解脱なんかより現世利益を求めているのは見ればわかるの世界。
ヒンドゥー教のサドゥー(修行者)は変なやつがいっぱいいて
日本の坊さんなんかより絶対おもしろいから、そこからも難解な仏教が、
傑作でおもしろいヒンドゥー教に負けた理由が推し量られよう。

日本仏教界も法然と日蓮が出なかったらたぶん終わっていたような気がする。
法然は難解な仏教を長年勉強した結果、
「南無阿弥陀仏」という一語で救われるとかめちゃくちゃを言い出したわけで。
その法然に嫉妬して、彼が貴族にも評価されていたのを恨んだのが日蓮。
日蓮大聖人さまは大嫌いな法然を模倣して、
「南無妙法蓮華経」で救われると説いた。
念仏(南無阿弥陀仏)とか題目(南無妙法蓮華経)はとにかくイージーじゃん。
バカでもチョンでもアホでもマヌケでも念仏や題目は唱えられるっしょ。
日本では現在のところ創価学会が大勝利したわけだが、あれも現世利益でね。
南無阿弥陀仏は、悪いことをしてもいいという教えが庶民に受けたわけで。
曹洞宗とかも信徒がけっこういるらしいけれど、
あれはお寺としては葬式タレント養成所だからさあ。
とりあえず死を直視したらげんなりするから、
そこは坊さんに隠しておいてもらおうっていう庶民の打算が働いただけで。
大学で仏教を研究している人もいるらしいけれど、
科学全盛の時代に無意味なことをよくやるなあと。
論文とか書いているのかもしれないけれど、だれがそんなの読むのって。
同僚くらいしか読まないものをしこしこ書いてなにが楽しいのかしらねえ。
総じて現在の仏教界は既得権益の世界と言えるのかもしれない。
新興宗教だった創価学会もいまは伝統仏教みたいになっていると聞くし。
まあ、お坊さんを消してしまった創価学会が最新最強の仏教と言うこともできなくはない。
日本史上、戦後の「神々のラッシュアワー」以前に、
僧侶(聖職者)と縁を切った仏教団体なんてほかにあったか。
わたしはお坊さんよりもいろいろ親切にしてくれる学会員さんのほうが好きだから、
仏教の正統性も伝統も関係ないねえ。
ところで、わたしは仏教徒なのだろうか?

☆仏教→「真理の世界=わからない|世間(善悪、損得、正邪、優劣、自他)=わける」

*最後までお読みくださり本当にありがとうございます。

「変?」(中村うさぎ/角川文庫)

→変な人たちの対談集。
壊れちゃった変な人、酒や買物やホストや美容整形に人はなぜ依存するんだろう?
こちらが変な人だから変な人が好きで変な人のことを知りたくて変な読書をする。
基本、あれなんだ~なあ。常識世間からこぼれ落ちた人が変な人になる。
世間や常識がすすめる生き方(結婚・出世・長寿)を目指していたら変な人にはならない。
落とし穴は「自由」であろう。もしかしたら人間は「自由」ではなかろうか?
中村うさぎちゃんはブルセラ博士の宮台真司くんに懺悔する。
人はどうして変な人、つまり依存症になるのか。「自由」がいけない。

「そーなの。もう、あなた、自由度が高すぎるロールプレイングゲームみたいなものよ。
『ドラクエ』なんかはさ、常に誰かから目標や使命を与えられるから、
達成感もあるし、楽しいんだよ。最後にゴールがあるのもわかってるし。
だけど誰も指示してくれなかったら、どこで何していいのか、わかんないじゃない。
「さあ、自由に冒険しよう」とか言われても、
「あのー、最初にどこ行きゃいいんですかね?」みたいな」(P133)


いい学校、いい会社、いい男――いい人生からこぼれ落ちた女子の本音だろう。
まあ、女子なら「あげまん」として男を盛り立てて生きるという生きがいもあろう。
これは女子でなければできぬことだが、そして中村うさぎちゃんは嫌悪感を示すが、
ひとつの女子の生き方のパターンである。
作家の島村洋子に中村うさぎのような迷いはない。女は「あげまん」に徹すべし。

「男って、「俺像」を大切にする生き物じゃない?
その「俺像」の幻想を、私も共有してあげるの。
凄(すご)い凄い、やっぱりあなたは凄いわ~、って」(P57)


すると、男はみなみな「いい男」になっていくという。これは真実。
こんな「あげまん」さんに出会えたらなあ、
なんて思っている中年男は出会えないんだろうなあ、あはっ。
人って必要とされたがるし、ほめられたがるものだと思う、男女ともに。
中村うさぎ先生は、今度はホストにはまるがそのホストからこんなことを言われる。
ホストはみんな宗教家なのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長は、おばさん人気ナンバー1のホストだったのかしら。
さてさて人気のホストはおばさんの中村うさぎに言う。

「ホストの言葉を信じちゃいけない。
ホストクラブってのは、百の言葉の中に、百の嘘と百の真実が同居する場所だから。
(……) 騙されてると思うからいけない。
僕たちの嘘は騙すための嘘じゃなくてね。
お客さんを楽しませるための嘘だから。
せっかく金払ってんだから、嘘とか本当とか言わずにホストの言葉にふわふわノッて、
楽しんじゃえばいいじゃない」(P174)


主婦を楽しませてくれる新興宗教のボスはホストなのかもしれない。
新興宗教で散財したものは、
まあホストクラブで遊んだと思えばすっきりするのではないか。
どうせつまらない人生。
「正しい」生き方もいいが、自由の恐怖に脅えながら、楽しむのもありって話。
目標や使命がない自由は怖いけれど、それでも楽しむのはありって話。
おもしろければ「変?」でもなんでもいいよねえ。

「八割できなくても幸せになれる」(桜井章一/竹書房新書)

→酔っぱらうと、世間すべてが間違えているんじゃないかって思うときもあるわけ。
ぐだぐだ酒を飲んでいるのでからんでみたら、
本書のタイトルでいえば「幸せになれる」――。
どうして人は幸せにならなきゃいけないわけ?
著者は低学歴で受賞歴ゼロのまったく肩書のない雀荘のクソオヤジ。くうう、ええねえ。
けんど、いったい、なしてこないダメジジイの本が繰り返しベストセラーになるわけ?
本当はなにもかにも「わからない」というのが本当だろう。
本当はどうなっているのか「わからない」のが本当だんべ。
要は、成功者や勝利者の言葉がかりそめの「本当」として流通しているわけでしょう?
もう人生ギブアップ直前なので、あこがれの人はだれもいない。
あのような人になりたいという願望はまったくない。
しょせんわたしはわたしでしかなかった。
この顔で生まれこの知能でこの程度の運でここらあたりで死ぬべき存在なのか。

世の中は運ではなく、信心いかんだという集団も存在する(創価学会)。
そうかもしれないし、そうではないかもしれないし、それは「わからない」。
当方はことさら池田大作名誉会長のようになりたいとは思わない。
わたしはどのみちわたしに過ぎないし、死ねばほとけさまになれるのだから。
あこがれの人はいま男女ともにいない。嫉妬がないということだ。
わたしはわたしでしかない。
けれど、ちょっどだけでいいからおいしい思いをさせてよ、
という乞食願望があることは恥ずかしくも白状する。ラッキーがほしい。
他力本願のいわば棚ぼたのラッキーを求めて、こういう本を読むと、
うさんくせえ煮ても焼いても食えなさそうなじいさんがこんなことを言っている。

「私は、ラッキーを呼ぶための基本は「花咲かじじい」だと思っています。
欲のないおじいさんが、全く何の見返りを求めず正直に暮らしていたら、
畑から小判が出てきた。
さらに灰を撒(ま)けば桜の花が咲き、殿様からご褒美をいただいた。
そして、それを見た欲張りじいさんが同じことを真似したら、とんでもないことが起こった。
「人がやってラッキーだったから、自分もやってみよう」なんて、
邪(よこしま)な気持ちで何かをしても、うまくいくものではありません」(P24)


「棺に跨がる」(西村賢太/文藝春秋)

→純文学と大衆文学の違いっていうのは、
新しい世界(言葉)をつくっているかどうかなのだと思う。
世界というのは、言葉でできているから、
新しい言葉を知るというのは世界が変わるということなのね。
おおっと、こういう世界や人の見方があったのかという驚きのあるのが純文学。
善とか悪とか、正義とか犯罪とか、人情とか、
手垢(てあか)のついたものを現代風に設定を変えて再生産したのが大衆文学。
たとえばさ、こういう人間が「いい」みたいなお決まりがあるじゃないですか。
男ならイケメンでバリバリ仕事をして、そのうえウィットがきいていて、
家族思いのものがいい、みたいな。
女の理想像みたいのは、やっぱり美人が「いい」みたいのがあるわけで。
そういうのに対して、こういう女性の魅力もあるんだよ、
という新しい女性像を描いているから西村賢太はまだ純文学なのだと思う。

「北町貫多に肋骨を蹴折られて以降、
秋恵が平生放つ雰囲気は、何やら一変したようである。
もとより、さのみ快活でもない、どちらかと云えば物静かな質であり、
見るからに大人しそうな――ラッシュ時の埼京線の中にでも放り込めば、
確実に痴漢の餌食にされそうなタイプの女ではあったが、
それでも気を許した相手には普通に饒舌をふるえば軽口も叩く、
極めて当たり前のコミュニケーション能力は発揮していたものだった」(P47)


沿線に住んでいるけれど、ラッシュ時の埼京線は地獄よ。
あれだけは馴れることがない。結局は言葉という話だったか。
九州や北海道の人が埼京線って聞いてもわからないという話はそうなんだけれど、
よく痴漢されそうな女性の魅力みたいなものを西村賢太は発見しているわけ。
新たな価値を創造しているといってもよい。
だけど、いま思ったけれど、みんなけっこうふつうの人も創造しているとは言える。
だって、結婚している人が多いじゃん。
それぞれ相手に新たな魅力を発見しているとも言えるわけでしょう。
この人の魅力はわたしだけが知っている、みたいなさ。
他人から見たらありふれた男女にもかかわらず、よくまあやるもんだと。
話を小説に戻すと、カップルや夫婦はそれぞれこんなことを考えているのかもしれない。
いや、女は違うのだろうが、男はこういうロマンチストなところがある。
そこを西村賢太はうまく言語化している。

「どんなことがあっても、この女は自分から離れることはない、
との自信は、これまで頻々と行なってきた暴力や暴言後の、
先に述べたような展開の様子で一種裏付けめいたものを得続けていたが、
またそれとは別に、根が限りなくロマンチストにできている彼は、
結句(けっく)彼女と自分とは、
心の奥底に抱えている孤独がどこまでも共通するものであり、
どうで彼我は出会うべくして出会い、共鳴するべくして共鳴し合った、
いわば運命に導かれた二人であると信じきっているところがあった」(P48)


男ってみんな甘ちゃんなんだよねえ。女に勝てるはずなんかない。
小説の設定だが、北町貫多(西村賢太)も同棲相手の秋恵によくやるなあ。
彼女がカツカレーを作ってくれ、それを平らげているところを「豚みたい」
と言われた男はぶち切れて女を殴る蹴るで肋骨をへし折ったという。
秋恵はさ、トンカツとかお惣菜で買ってくるんじゃなくて、自分で揚げるわけよ。
カレーもむろんレトルトではなく手づくり。
いまどきそんなに尽してくれる彼女はいるのかな。
いや、いるかもしれないけれど西村賢太レベルで(失礼!)。
まあ、小説だから嘘だから。

人からつくってもらった料理ってなんとも感想が言いにくいよね。
外食や惣菜と違って、つくった人の顔が味に影響しちゃう。
編集者だってそうで、「新人」の小説には好き勝手を言えるだろうけれど、
中堅どころともなれば小説の「正しい」客観的な感想なんて言えないと思う。
小説家になりたかったら井上靖がやったように、編集者を接待すればいいのかも。
あるいは先に贈り物を渡したり、裏金や利権をプレゼントしておく。
客観的な小説の感想なんて、だれにも言えないと思う。
料理もそうだけれどって、カレーから話が飛んだのか。
西村家では本当かどうか知らんが、
カレーをつくると翌日のために(味を変えるために)ツナ缶を入れるらしい。
おえっ、きんもっ、って話だが、賢太によると、これは由緒正しき江戸川カレー。
まあ、貫多の同棲相手の女性も気持が悪いというようなことを言って、
せっかくわざわざ彼女のためにカレーをつくってあげた男を怒らせるわけだが。
江戸川カレーもそうだが、家庭料理は母親対決のようなところがある。
ツナ缶入りの江戸川カレーを否定された貫多は、
母親の味を侮辱されたような気がしたことだろう。
以下は結局、男が女に求めているものは母性であることがよくわかる。
女の肋骨をサッカーボールキックでへし折った男は彼女のためにカレーをつくる。
ある願いを込めて、である。

「これを口に運び、咀嚼し、嚥下してくれたなら、
向後二人の食卓には再びカレーも並べられることであろう。
そしてその頻度が増える毎には、例の忌わしき記憶の方も薄まって、
代わりに彼女の従来の寛容が復活してくれることであろう。
そして更には彼女独特のあたたかな母性も蘇えり、
ひねくれ者の凍える心の彼を包み、
その存在をまた全肯定してくれることであろう。
それはきっと、そうなることに違いあるまい」(P100)


まあ、そうならないのがおもしろいのだが。
男のつくったカレーは肉が多くて豚くさいと女はいやな顔をする。
いやはや、男と女は難しいっすねえ。
さらにはツナ缶を入れる江戸川カレーでさらなるさらなる闘争に入る。
江戸川カレーの存在自体が純文学だよなあ。
カレーってほんと家によっていろいろ味が変わりそうだ。
カレーチェーン店のココイチはだれにも嫌われない味を目指したっていうけれど、
それは大衆文学の世界で純文学は江戸川カレーである。
聡明な美人がヒロインになるのが大衆文学ならば、
ラッシュの埼京線にぶち込んだら真っ先に痴漢されそうなのが純文学の女性像。
ポークカレーにツナ缶ってどんな味がするのだろう。

おれもけっこう料理をするとき、お決まりを破るほうなのね。
料理するときにレシピを守る人と、命がけで(はあ?)逆らうバカにわかれるよねえ。
料理なんてレシピどおりにつくっても、
みんなおなじになってつまらないだけだと思うけれども、だがしかし、
そうは口では言っても我輩の口は江戸川カレーを受けつけないような気がする。
秋恵ちゃんのカツカレーなら豚のように食うけれど。
しかし、カツカレーっておかしくない?
カツはカツでカレーはカレーで食うのがうちの流儀だったから。
今度やってみたいのは、ちくわぶカレー。
おれはこってりしたカレーが好みで、
それにいくらカレーとはいえ酒のつまみにしたいから、
けれどうどんにかけちゃったら単なるカレーうどんになってしまうので、
そこでそこでおつまみのちくわぶカレーって話。
荒川カレーとか命名して編集者にご馳走したらデビューできないかな――って無理無理。
それ、とってもとってもまずそうだもん。
ああ、いい小説でしたよ。

「インド仏教思想史 上巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→本書は、ひろさちや仏教学(笑)の基礎としてある本である。
87年に出版された氏としては固めの部類に入る本だが、
9年ぶりに読み返してみたら充分に再読に堪える。
というか、いまさらだが、ひろさちや先生は本物の天才ではなかろうか?
たとえアカデミズム(学問世界)からまったく評価されていなくても、この人、すごいよ!
本書はのちのライトエッセイの根っこともなった仏教思想がわかりやすく説明されている。
9年まえに読んだときはあまりよくわからなかったから、
こちらも成長(劣化?)したのだろう。
以下に要点をまとめるが、仏教に興味がない人にはどうでもいいかもしれない。

ひろさちやさんはあまたがよすぎるというか釈迦の間違いに気づいている。
ほら、釈迦の説いたっていう四諦ってやつがあるじゃない。
滅諦とかいわれている、原因があって結果があるという真理っぽいやつ。
あれは嘘じゃないかって、釈迦の教えを批判しているが、まったくそうだ。
ひろさんはこういう説明をしている。
風が吹いて葉が落ちるという現象がある。
しかし、風が吹かなくても葉は落ちるときがあるだろうって。
木を揺らしても葉は落ちるし、原因をなくしても結果は変わらないじゃないかという。
これは晩年のひろ氏がやたら主張していることだが、むしろ原因なんかないと。
「原因はわからない」というのが真理で釈迦の四諦(滅諦)は間違っている。
釈迦が間違っていると考えられるのも、間違いに気づいたことを指摘するのも、
ひろさちや先生はすごすぎるぜ! クルクルパーか天才だって、この人!
考えてみたら「原因→結果」って嘘くさいんだよね。
でもそれには人間は耐えきれないから、
なーんかいいことないかなあ、と善人ぶるわけだが。
善人ぶっていたらそう悪いことは起きないだろう、とか信じている(笑)。
原因なんかわからないのに原因を除去したら悪い結果から逃れられると信じている。
うさんくさい健康食品とか飲んでも飲まなくても変わらないのにさ。

ひろさんがよく書いていることだけれど、キリストはキリスト教徒じゃないって本当だよね。
キリストはユダヤ教徒であったという。
おなじように釈迦は仏教徒ではなかったというのも本当である。
釈迦は当時主流のバラモン教の修行者のひとりで新しい発見をした人って感じかな。
釈迦に二代目がいないというのも、まったくそうだと思う。
キリスト教も仏教も新興宗教だったのだが、どちらも二代目がいないのである。
この点、二代目、三代目(ヤクザみたいだな)と続いた創価学会がいかにすごいかだ。
ひろ先生は創価学会はお気に召さないようだけれど。
みなさん釈迦の教えを重んじるけれど、
最初期のお経「阿含経」だって釈迦の死後100~200年経っているという。
そんな時間が経過すれば釈迦の教えなんか残っているわけないだろうし、
そういう意味からしたら、
学者が重んじる「阿含経」も大乗仏典もクソ味噌いっしょだろう、
というとても上品な指摘はそうとも言えなくはない。
仏教っていちおう成仏するための教えだけれども、
だれも釈迦になれないだろう? というのは真実である。
あなたはあなたなんだから、釈迦になれるはずがない。
死んだらみんな「ほとけ」になるというのもひとつの真実である。
釈迦仏教は煩悩(欲望)否定だから「自殺のすすめ」だろう、というのもまったく同感。

提婆達多(ダイバダッタ)って釈迦を殺そうとした悪いやつだって伝説があるけれど、
あれは嘘らしいね。ダイバダッタは釈迦の弟子のなかの一派だった。
みんなで会議しようってときに(第一結集)、
教えなんてそれぞれでいいだろうと参加しなかったら裏切り者あつかいされた。
ひろさちや先生の言葉にどれほど権威があるかわからないけれど引用してみる。
ひろさんはダイバダッタではなくデーヴァダッタと表記しているね。

「かくてデーヴァダッタには、「裏切り者」の汚名がきせられ、
「叛逆者の烙印(らくいん)が押されることになった。
彼は釈尊に叛逆し、教団の乗っ取りを策謀し、ついには釈尊を殺害せんとした。
そのため、デーヴァダッタは生きながら地獄に堕ちた――。
そんな伝説がデッチあげられたのである。
まったくの嘘っぱちである。
それが根も葉もないデマであることは、紀元後四世紀
――つまり、デーヴァダッタの時代から七、八百年の後世――
法顕三蔵がインドの舎衛城に行き、
そこでデーヴァダッタの教団(調達の衆)が存在していることを確認している
(『高僧法顕伝』――「大正新修大蔵経」第五十一巻、八六一ページ上)。
また、七世紀にインドを旅行した玄奘三蔵は、
その旅行記『大唐西域記』巻十の「羯羅拏蘇伐剌那(カルナスヴァルナ)国」において、
「別に三伽藍あり、乳酷を口にせず提婆達多(デーヴァダッタ)の遺訓を遵奉している」
(水谷真成訳による)と報告している。
デーヴァダッタの教団が、ずっと後世にまで存続していたのは確実である。
となると、「叛逆者」デーヴァダッタ像は、
明らかにデーヴァダッタの分派行動をこころよく思わなかった主流派が
つくりあげたデマだとわかる。
歴史はいつでも主流派の立場から記述されるから、
鵜呑(うの)みにするととんでもない誤解をしてしまう。注意せねばならない」(P176)


まるで創価学会のようなことを釈迦教団の弟子たちもやっていたんだなあ。
創価学会で叛逆者や裏切り者とされる人ってお人好しなだけだもんね。
悪質なデマを流すというのは、仏教の古くからのお家芸みたいなものなのか。

釈迦が死んで100年で原始仏教教団は分裂してしまう。
根本分裂といわれているやつだが、上座部と大衆部に分かれた。
上座部は古株集団で、大衆部は革新的な多数派だった。
結局のところ、むかしから「正しい」の根拠は「古い」か「多数派」なのがおもしろい。
古いから先輩だから「正しい」(上座部)。
いやいや、数の論理で多数派だから「正しい」(大衆部)。
ああ、そうだ、ひろさんって大学生時代はマルキシストだったらしいね。
いちおう仏教書なのにマルクスの言葉を引用している。

「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。
たいせつなのはそれを変更することである」(P256)


これを小乗仏教と大乗仏教の対比の説明として用いている。
小乗仏教は世界を解釈しているだけではないか。
たいせつなのはそれを変更(改革)することではないか。
火災に遭ったときに、放火犯を推理しても意味がない(小乗仏教)。
火事のただなかでは、どうやって逃げ出すかを考えなければならない。
小乗仏教は「人間(一般)」がどう生きるべきかを説いた。
大乗仏教は「私」がどう生きるかを考える教えである。
このところはまったく共感する。
話を広げると、学問は統計を用いて人間一般のことを論じるでしょう。
でも、あなたはあなたであって、わたしはわたしであって、断じて人間一般ではない。
「私」の生き方は学問(統計)を参考にしてもあまり意味がない。
「私」がどう生きるかを考えるときに役立つのが宗教なのだと思う。
これは河合隼雄も言っているけれど、
「人間一般が生きる」のと「私が生きる」のとではぜんぜん意味が違うのである。
これを混合してやたら平均や人並みを気にした生き方をしている人が多いけれど。
人間一般のことより「私」を重んじるのが本当の宗教なのだ思う。

「私(宗教)」>「人間一般(統計学問)」

「人間一般」よりも「私」のほうが大事というのはある種の真理だけれども、
いくら言葉で説明してもわからない人にはわからないのかもしれない。
あるときふっと自分で気がつくことであって、人から教えられるものではない。
「人間一般」の「正しい」生き方ならあるのかもしれないが、
それは「私」の「正しい」生き方ではなく、「私」のことは「私」が考えるしかない。
しかし、それが面倒くさいし難業だから、
教祖さまのいう「正しい」生き方に従ってしまう人もいるのだろう。
洗脳を他人が言葉で解除するのなんておそらく無理で、
その人が自分で気づくのを待つしかないのだと思う。
それに洗脳されているのがかならずしも「悪い」とは言い切れないわけだから。
下巻でしつこく繰り返されることだが、真理は言葉では伝達できないのだろう。
これは禅の言葉で「不立文字(ふりゅうもんじ)」という「真理」だけれどさ。
仏教を大学で学問するのは「私」が入っていないから意味がないとも言える。
いくら「正しい」仏教を理解(解釈)しても、だからなんだって話で。
「私」が生きるための仏教のほうがよほど重要で、
いまはそういう生きるための仏教は新興宗教のなかにしかないのかもしれない。
ひろさちや先生は新興宗教否定派で、
群れるのではなく「私ひとり」の仏教が大事だという立場を取っているが、
みんながみんな先生のようにあたまがいいわけではないから、これはもう――。

「池田大作20の視点」(前原政之/第三文明社)

→こう言ったら失礼になるが、創価学会お抱えライターの護教ブックである。
著者は立川市在住でお子さんがふたりいらっしゃるらしいが、
家は借家か持ち家か、子どもたちは創価学園に入れているのか、
など気になることも多いが(学会関連雑誌の原稿料は高いと聞く)、
本書には書かれておらず、まさかメールで聞くわけにもいかない。
創価学会や池田大作名誉会長には裏と表があるでしょう。
表はびっくりするほどきれいだけれど、裏はおどろおどろしいという。
わたしは創価学会の、いわゆる黒歴史に惹かれるタイプだ。
本部職員や幹部、学会系有名人、作家、ライターに質問したいのは、
どこまで本心なのかということだ。
創価学会とはビジネスやしがらみでどうしようもなくつきあっているものもいよう。
人間は食っていかなければならないし、
血縁は大事だから本音はなかなか言えない。

本書は創価学会の池田大作名誉会長の礼賛本だが、著者はどこまで本音なのか。
いくら親友になっても教えてくれない秘密だろうが、
本心とビジネスの割合はどうなっているのだろう。
本書は「本心1:ビジネス9」なのか。「本心5:ビジネス5」の半々なのか。
「本心100%」だったらマインド・コントロールされているわけで、
しかし、それがいけないと言いたいのでもなく、
公式的には「池田先生は完全無欠の正義」
とビジネス的には言わなければならないのはわかる。
ビジネスで学会と関わっている人は墓場まで秘密を持っていかなければならない。
とはいえ、優秀な著者のこと。
創価学会や池田名誉会長のブラックサイドもまさか知らないわけではないだろう。
どこまでが本心で、どこまでがビジネスなのだろう。

人間は二面性があっていいのである。裏表があっていい。
むしろどこまで正反対の矛盾をかかえこめるかが、その人の魅力とも言えよう。
「池田先生は絶対正義」などと言っている末端信者のおばさんは、
それは善人には間違いないのだろうが人としての味わいに欠けるところがある。
ほかの池田礼賛本にも書いてあったが、
そういえば宮本輝も小説でそんなことを何回も書いていたと記憶しているが、
名誉会長の名言とされるものに以下のきれいごとがあるでしょう。

「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」(P152)

裏表で言えば表の極めてオフィシャルな否定されにくいきれいごとだ。
しかし、池田先生の本音の教えは「勝って、勝って、勝ちまくれ!」でしょ?
だれかが勝つということは、かならずだれかが負けているのである。
本書でも学会員のサッカーコーチが池田先生の名言に励まされ
チームを優勝に導いたという美談めいたものが書かれていた。
しかし、あるチームが優勝したということは、
ほかのたくさんのチームが負けたということにほかならない。
他人を不幸にしない自分の幸福などめったにないと言ってよかろう。
宮本輝が芥川賞を取ったせいで(幸福)、
どうしてもほしかった芥川賞から見放されたものもいるのである(不幸)。
だが、こういった矛盾したことを言うのが池田名誉会長の魅力かもしれない。
わざと自分が負けることで他人を幸福にすることもあろう。
しかし、勝てというんだから、これは絶対矛盾だが、
こういうはちゃめちゃなことを平気で言えるのが
日本最大の権力者の証なのかもしれない。
人を不幸にしないで勝利せよ、というのは難問だが、
そういう問いに深く悩まないことが学会の信心なのかもしれない。

池田名誉会長の黒歴史ではなく「正史」で有名な美談がある。
池田少年の小学生時代の恩師、檜山先生の話だ。
池田先生は修学旅行のとき檜山先生から小遣いをもらったという。
これは池田だけではなく、ほかの児童ももらったのだが、まあ恩というやつであろう。
檜山はのちに栃木の小学校に校長として赴任する。
池田先生はこの恩を長らく忘れず付け届けを忘れなかった。
そのうえさらに出世して創価学会の会長になった際、
わざわざ自分の講演会に檜山先生を招待して感謝を表明したという。
「わが栃木にいらっしゃる恩師に万歳三唱を!」
むかしの生徒からこのように恩を示された檜山は感動で泣いたという。
しかし、溝口敦氏の「昭和梟雄録」によると、これには裏があるのだという。
ありきたりの善人である檜山が帰ったあと、池田は側近にこう言った。
これは創価学会の公的文書にもきちんと記録されているとのこと。
溝口敦氏は裏をしっかり取る優秀なジャーナリストだから本当のことだろう。
池田は表では檜山を絶賛したが、裏では――。

「あの先生は、[池田の地元の]鎌田で、戸田先生(城聖、二代会長)の時代に、
小泉さんや辻さんや原島さん(ともに最高幹部)からも折伏され、
なかなかきけなくて、
(栃木県に)逃げていったということも覚えておくように」(「昭和梟雄録」P351)


この裏話を耳にした側近は大爆笑したことだろう。
こういう裏表のあるところが池田先生のおもしろさなのである。
池田さんの表はどちらかと言えば退屈だが、裏を知ると人間味があってたまらない。
どうして創価学会は池田大作さんのブラックな面を表沙汰にしないのだろう。
それは内部に入って、出世していくうちにわかっていくものなのだろうか。
本書の著者は、どのくらい池田先生と創価学会の裏をご存じなのか。
学会ライターの著者が敵対する日蓮正宗法主の日顕を悪罵する文を読んだことがある。
ああいうのはどこまでが本心で、どこまでがビジネスなのか。
よほど洗脳されていないかぎり、
そこまで日顕は悪ではないというのはわかると思うのだが。
むろんのこと、日顕が善ということも断じてないのだが。
著者は池田先生の写真のことも称賛していたが、あれもまたゴーストでしょう?
それは矢野絢也が暴露していたが、学会内部に長くいればわかるはずである。
本書はビジネスが90%くらいで書かれているのだろうか。
それともあんがい学会員でも学会のことを知らないのだろうか。
知らないふりをして身の保全を守るのが学会員の生き方なのか。
小学校時代の恩師の悪口を言う池田先生は
人間味があって最高におもしろいと思うけれどなあ。
池田大作にとっては恩師への感謝も、恩師への皮肉もどちらも本当だったのだと思う。
なぜなら恩師へ感謝すれば講演会の聞き手は感動するだろうし、
本音を口にすれば今度は側近が大笑いするからである。
真実とは人を喜ばすこと、楽しませること、
そして感動させることであることを池田はよく知っていた。
真実などないかもしれないことを池田名誉会長はご存じでいらした。

学会員はネットで悪口ばかり書かれているが、
言うまでもなくいい面もあり、以下のような長所は本当にまったくそうだと思う。

「たとえば日本では、町会・自治会・商店会・老人会・PTA等の役員・
民生委員・保護司など、さまざまな形で、
地域のために進んで活動に励んでいる学会員が多い。
地域共同体が崩壊の危機にある日本社会にあって、
学会員たちがその崩壊を食い止めている側面があるといえよう」(P43)


近所の荒川土手の落ち葉拾いをしてくれているのも学会員かもしれない。
わたしが創価学会を好きになったきっかけは、
むかし友人の家を訪ねふたりで痛飲した帰途、お腹が痛くなり、
学会の会館に頼んだら泥酔者にいやな顔ひとつせずトイレを貸してくれたからである。
え? そんなことで学会を好きになるの?
と思われるかもしれないが、事実だから仕方がない。あれはピンチだった。

「昭和梟雄録」(溝口敦/講談社+α文庫)

→著者は「梟雄(きょうゆう)」を
「英雄というのは難がある、ひと癖ふた癖持つリーダー」
ぐらいの意味で使っているという。
まあ、わたしの言葉にしたら「裏も表も激しい、骨太で因業な人」になるのかな。
もっとかんたんに言えば、「変な人」ってことだけど、
むかしはおもしろい人がいたよねえって話。
いまはみんな小粒で巨悪もしないし、妙に小市民たることで満足しているのでつまらない。
めちゃくちゃをやる人がめっきりいなくなったが、むかしは楽しかったよねえって本。
矢野絢也、山崎正友、池田大作も紹介されているので創価学会暴露本として読む。
元公明党委員長の矢野絢也は悪人だってうわさもあるようだねえ。
いえ、悪人でいいのよ。わたしは善人よりも悪人のほうが好きだから。
以下引用の蛭田という男は矢野絢也の悪友のひとりである。

「学会員の蛭田は一九七八年、
矢野がそのころ極秘裡に進めていた反池田の情報リークに同調、
その別動隊役を買って出た。
つまり某新聞に一億円出資する約束をもって反池田の月刊誌を創刊させた。
が、結局は二千万円しか払わず、その雑誌社を倒産させた」(P299)


池田大作はよくもまあ、最後の最後まで権力の頂点でいられたものだと感心する。
池田に忠誠を誓いながら恨んでいたやつなんていっぱいいただろうから、
いつ足を引っ張られてもおかしくなかったのだが、
池田先生が最後まで勝利人生を送れたのはだれも人間を信用しなかったからだろう。
いっぽうでお人好しだったと本書で書かれているのが、
池田代作に利用し尽くされ、
刑事罰まで受けた創価学会元顧問弁護士の山崎正友である。
この本の写真ではじめて山崎正友の顔を見たが本当にお人好しそうなのである。
山崎正友が矢野絢也のように悪人だったら、もう少し世をうまく渡れただろうに、
結局末端学会員とおなじで善人は貧乏くじを引かされるのかもしれない。
司法修習生時代に山崎正友と同期だった弁護士はこう証言している。

「[山崎は]およそ物欲がなく、持っているものは全部出すタイプですよ。
腹に一物がなく仲間と楽しむことが好きな人間でしょう」(P317)


創価学会の裏っていったいどうなっているんだろう。
山崎正友は創価学会から3億円恐喝したとされている。
しかし、恐喝されたと主張している創価学会顧問弁護士たちと山崎正友は、
じつのところ3億円の支払い中も仲良く麻雀をしていたというのだから。
あるいは山崎正友のほうが学会による「でっち上げ」事件の被害者なのかもしれない。
暴露本をよく読み他の本やネット情報と丹念に比較調査すると、
創価学会が「悪」と主張しているほうが「お人好し」であることに気づく。
わたしは「善」よりも「悪」が好きだから善人よりも巨悪団体をひいきするけれど。
創価学会によると極悪人とされる山崎正友の同期の弁護士はこう言っている。

「領収書も要らないような、これほどの金が山崎に渡っていたんです。
ふつうの人間なら、ちょっと工夫して田舎に別荘つくるとかできた金ですよ。
だけど山崎は何ひとつ財産をつくらなかった。
別荘どころか、いまだかつて一度たりと家を持ったことがない」(P326)


比して矢野絢也や池田大作の豪邸や個人資産といったらどうだ。
事実かどうかわからないが、
本書によると選挙の創価学会員票(関西)を仕切っていたのは矢野絢也で、
この三色の組織票は600万程度では買えたかったという。
金を支払って見返りがなくてももともと違法だから訴え出られないのである。
熱心に選挙活動をしている学会員さんが、
創価組織票が高値で売り買いされている事実を知ったらどう思うのだろうか。
とはいえ、わたしも公明党支持者だから、末端のお人好しのひとりである。
まったく池田大作名誉会長はどれほどの人を救い、そして地獄に落としたのだろう。
ちなみに宗教的な救済とは「死ぬまでだます」ことである。
「池田先生、ありがとうございます」
と言いながら死んでいった人が大勢いることもまた事実なのである。
池田名誉会長を創作したのは二代目会長の戸田城聖である。
戸田と池田の関係を著者はシニカルな筆致で描写するが、そこがおもしろい。
当時は人生の零落者に過ぎなかった戸田を
師と仰いだ池田は先見の明があった、とも言えよう。
それは偶然だったのか、必然だったのか。

「おそらく池田には、戸田に対抗できるほどの素養も体験もなく、
しごく簡単に戸田に篭絡(ろうらく)されたと見られる。
戸田は苦学して小学校教師になった人物だが、戦前には事業に転じ、
最盛期には出版や醤油問屋、証券業など十七の会社を支配し、
資産六百万円を数えたという。また彼が受験塾「時習学館」を開設したことや、
戦前の学習書のベストセラー『推進式指導算術』を
者したことはかなり広く知られている。
同時に彼は愛憎の海に漂った人でもあり、三角関係や妻子の死を味わい、
公然と愛人を持っていた。そのうえ、大酒飲みで結核を患(わずら)い、
キリスト教に救いを求める一時期も経ている。
いわば人生の酸いも甘いも噛み分けた人間であり、
池田がそういう人物に頭から呑(の)まれてしまったのも無理からぬことだろう。
そのため池田は朝鮮特需による世の好況をよそに、
上下動が激しくヒバリ天と仇名(あだな)された戸田のどん底時代を、
戸田の忠実な腰巾着(こしぎんちゃく)として過すことになった」(P370)


なんでこんなに著者は学会が嫌いなのだろうといぶかしむほどの、
悪意あふれた名文であり、「師弟不二」というきれいごとの裏側の的確な描写だ。
いまうまくいっている成功者に従ってもおいしくないのかもしれない。
いまは零落しているがこいつはすごいと自分が信じた人に賭けるのも一手だ。
だとしたら、成功者の池田大作を先生とあがめる信者は
池田マインドをまったく理解していないと言えなくもないだろう。
池田は当時だれからも見放されたアル中の戸田を師とみなしたのである。
自分が信じた人に全身で賭けることができたのが、池田の大勝利の理由だろう。
人生のどん底にいるボロボロの人を師と尊敬する若者がいまいるだろうか。
やはり池田先生は本物を見抜く目があったとしか言いようがない。
戸田はウラボロとバカにされるボロボロのスーツをまとった人生の敗残者だった。
みんながみんな彼から離れていったのである。
しかし、池田名誉会長はこの人は「すごい」と信じておのれの人生を賭けた。
池田大作は賭けに勝ったと言うことができよう。
損得や打算ではとてもできないことを池田青年はしたのである。
みんなが「偉い」とほめている人を尊敬するのはリスクもなく安全である。
みんなが見放したズタボロの人格破綻者を師とした池田先生も、
ならば戸田先生同様に本物の人間だったのではないか。

以上は創価学会関係者で、それ以外のものでおもしろいと感動した人物がひとりいる。
豊田商事事件の主犯として知られる永野一男会長である。
純金を使った詐欺行為を全国で働き大金を稼ぎ、
最後はじゃっかん32歳でなにものかにテレビの目のまえで刺殺された男である。
この人はおもしろいなあ。犯罪者をほめてはいけないが、なかなかの人物だと思う。
例によって不幸な生い立ちで、「先が見えた」と表の社会に見切りをつける。
永野一男会長の名言は池田名誉会長のようでとてもいい。

「商売の原理は相手に損をさせて必ず金を儲けるのが基本なわけですね。
ですから日本として成長したいんだったら、たとえばアフリカとか、
東南アジアを見てかわいそうだというんじゃなくて、
徹底的にいじめなきゃダメですわね」(P183)


だれかが得をしたらだれかが損をする。
だれかが損をしたらだれかが得をする。
だれかが勝ったらだれかが負ける。
だれかが負けたらだれかが勝つ。
永野一男会長は家族愛を知らずに育ったという。会長の無名時代の話である。

「上司の家に招ばれてエンドウ豆ご飯を食べた際、
こんなうまいもの初めて、といったこと。
家庭をなぜ持つかと問い、ぼくには愛情なんか分らないとつぶやいていたこと……
などなど、若い永野は人の世に揉まれて悩み、傷つきながら、
後年、毒々しいまでに開花させる徒花(あだばな)の土づくりに入っていく」(P184)


永野一男会長は派手な外車を数台、セスナまで所有し、
愛人は日本全国に4人いたという(愛人報酬は月百万円)。
そのうちの愛人のひとりの証言だが、これが泣かせる。

「[永野会長は]ほんとの好みをいえば、夏木マリみたいなボインがいいって。
でも、愛人として長くつきあうのは、地味でひかえめな女性でした。
セックスは上手で、何時間でも続けられたけれど、あの人が安らぐのは、
私のペッチャンコの胸に赤ちゃんみたいに抱かれる時だって……。
でも、子供とか家族とかは絶対にいらないと言って、
いつも避妊具を持ち歩いていましたが、
昨年初め、ほかの人との間に子供ができたっていってました」(P185)


永野会長の会社の営業マンで月6千万も稼いだものがいるけれど、
会長の死ですべてがうやむやになった戦後史のなぞの事件のひとつだ。
永野会長が好きだ。池田会長も戸田会長も、山崎正友も矢野絢也も好きだ。
昭和の梟雄(きょうゆう)たちは平成のいま、どうしてこうも輝いて見えるのだろう。



「別冊宝島225 となりの創価学会」(宝島社) *再読

→十数年まえブックオフでこれを105円で買えたときは嬉しかったなあ。
いまは文庫版もあるらしいけれど、原本からはカットされた部分もあるとのこと。
創価学会に興味を持ったのは宮本輝が好きで好きでたまらなかったんだよね。
そこで創価学会というワードに生まれてはじめて引っかかった。
だから、わたしは25、6歳になるまで創価学会という宗教団体さえ知らなかった。
宮本輝のファンクラブ掲示板に創価学会ネタを書きこんだから即刻削除。
創価学園の先生をしているとかいう女性からメールが来たものである。
そこで宮本輝が創価学会でやった体験発表のテープや
聖教新聞(創価新報だったかな?)のコピー、
宮本輝のインタビューが掲載された「第三文明」(2000年1月号)を送っていただいた。
「第三文明」はおもしろくていまトイレにおいて何度も読み返して笑っているんだけれど、
学会員ってあんな雑誌を他人に渡して「ドン引き」されないって自覚がないのかな。
当時は宮本輝のところしか読まなかったけれど、
日顕批判や山崎正友の吊し上げにふつうの人なら「ドン引き」するっしょ?
そこらへんは創価学園の先生ともなると麻痺しているのかなあ。
当時、創価学会で流行していた折伏らしいけれど、
「リンゴ(学会)は食べてみたいと味がわからないじゃないですか?」
みたいな文句がメールに書かれていたけれど、ぜんぜんしつこくなかった。

いまは戸田城聖や池田大作のような人はいないのだろうか?
よおし、いっちょこいつを折伏(しゃくぶく/勧誘)しちゃるか、みたいな熱い人。
結局、創価学会のどこがすごいかといったら人間パワーでしょ?
池田先生の本なんか読んだって、ちっともおもしろくないんだから。
それはそうで、あれはゴーストライターが書いているきれいごとなわけで。
この人はすごい! と尊敬できるような人はいまの最高幹部クラスにもいないの?
ここで問題になるのが、人間パワーというのは肩書ではないこと。
池田先生は外部に出るのを恐れていたそうだけれど、
外部(世間)は肩書の世界だから、名誉会長だって言っても、はあ? って話。
どこぞの短大を出たあなたがどうして偉いんですか? となってしまう。
これは池田先生ではなくトヨタの社長だっておなじわけ。
トヨタの社長は内部では偉いのだろうけれど、
たとえばわたしのまえに出てトヨタ社長だって言われても、はあ? だから。
「毎年、たくさん交通事故で人が死んでいますが、何割くらいかトヨタなんですか?
罪悪感とかないんですか? 死んだら地獄に堕ちるとか考えたことがありますか?」
こんな失礼なことを聞いてしまいかねない。
しかし、日蓮正宗法主の阿部日顕だっておなじで
わたしは彼を偉いともなんとも思わない。
クソ坊主が、とまでは思わないけれど、
高そうなメガネをしてんな、くらいは思うかもしれない。
折伏は肩書や教養ではなく、人間パワーの勝負になると思う。
ブログでこんな生意気なことを書いているわたしをさ、
このやろう、正しい仏法で破邪顕正してやる、ぶちかましてやる、
という勇士は男女ふくめて創価学会にはいまいないわけ(一対一勝負)?
顕正会でも法華講でもいいけれどさ。メールボックスを開いてもいつも空。
女子高生でもいいんだから、わたしの敵性思考を矯正、指導、折伏してほしいなあ。

ここまで創価学会が広まった理由のひとつに「正しい」コンプレックスがあると思う。
「正しい」ことに対する劣等感である。
こう言ったら怒られるかもしれないけれど、創価学会は庶民派集団だから、
言っちゃ悪いけれど、あまりお勉強はできない人が多かったような気がする。
学校のお勉強というのは「正しい」ことを知ることでしょう。
学校では「正しい」ことを言うと「先生」からほめられる。
昭和の創価学会に入るような人たちは、
あまり勉強ができないことへのコンプレックスがあった。
「正しい」ことへの劣等感や、先生からほめられる優等生への嫉妬があった。
個人的な意見を言うと、勉強はあれは持って生まれた適性だから、
勉強ができなくても努力してないってわけじゃないし、
みなさまもご存じのよう勉強ができなくても金を稼いでいるやつはいっぱいいる。
けれど、先生にほめられるという経験に飢えているものはいたと思うのである。
先生の「正しい」指導に従ってほめられたいという願望だ。
これが創価学会を急成長させた理由のような気がしてならない。
学校の先生ではない世間の先生、庶民の先生から
「正しい」ことを指導され、なおかつその先生から「よくやったね」とほめられたい。
熱心な学会活動家というのはミニミニ池田先生になっているわけでしょう(男子)。
もしだれかがだれかを落とした(折伏した)としたら、
それは池田先生の真似をしたということでしょう。
(まあ池田先生自身は折伏が下手で真言宗の父親を落とせなかったらしいけれど)
けれども、戸田先生に逢って一発で落ちたような人もいたわけでしょう。
池田先生に対面してその場で人間パワーに負けたと思った人もいるかもしれない。
いまの創価学会にはそういう人はいないのだろうか?
5代目会長の秋谷栄之助氏は戸田城聖に逢って一発で落ちたという。
秋谷氏は二代目会長の戸田のことをこう説明している。

「人格を言葉にするのは非常にむずかしいのですが……。
戸田先生の存在そのものに圧倒されたと言いますか。
物事の本質をズバリと突き、すべてがわかっている方だなと思いましたね。
話をされるにあたって、飾ったきれいな言葉を使おうとか、
自分を偉く見せようだとか、そういった小細工をいっさいせず、
本質を捉(とら)えた話をされる。
だから、人間として本当のことを言ってくれる、そういう方だなと。
私がそれまで出会った教師や指導者たちのなかには、
戸田先生のような方はいませんでした」(P172)


わたしだってそういう「すごい人」と会ってみたいと思う願望はある。
男子部でも女子部でも、……壮年部は説教くさそうでいやだな。
20年まえに出た本だけれど、壮年部って学会でいちばん嫌われているらしいね。
ひでえ折伏をするらしい。

「折伏の現場に呼ぶと、
「いま信心しないと、キミ一生うだつがあがらないよ!」
などの暴言を吐き、相手を怒らせてしまう」(P31)


本書に壮年部(中年男性)のイラストが載っているのだが、ちょーおもしれえ。
いまでもいそういそう、って感じがする。
個人指導ってわけわかんないよね。
なんで、おれがおまえに指導されなきゃなんないのって話で。
指導という言葉の背景にはやはり「正しい」という観念があるわけでしょう?
「正しい」ことを指導する。「正しい」生き方を指導する。
でもでもさ、「正しい」生き方なんてないかもしれなく、
そう思っているわたしを折伏できるとしたら――。

「私の話を聞かない者は頭破七分(ずはしちぶ)になるぞ(頭が七つに割れる)。
この宗教を信じなければ何もうまくいかないぞ」(P15)


55年にはこんなめちゃくちゃな折伏をやっていたらしい。
いまは罰論(ばちろん)による折伏は禁止されているらしいけれど、
実際やっている人はやっているでしょう?
そのとき勝負になるのは確信の人間パワーだと思う。
いやあ、人生は偶然で運だ、と相手が強く確信していたら折伏できない。
だから、折伏は確信レベルの勝負のような気がする。
ぶっちゃけ、いま創価学会の信心を大確信している人なんか最高幹部にもいるわけ?
みんなネットでばらされちゃっているじゃない。
ヤクザとのつながりまで暴露されて、
そこがおもしろいっていう当方のようなものも折伏できないわけなのかしら。
むかしの折伏でけっこうこれがあったのではないか。

「私と結婚したいんだったら、信心しなさい。そうしなければいや」(P17)

まあ、もてない男はこれで一発で落ちるよね。
わたしを落とせるとしたら、これしかないかもしれない。
本当は「すごい人」に出逢って敬服して指導を求めたいところだけれど。
でもさ、二世三世はわかるけれど、いま創価学会に入る青年なんかいるのかなあ。
いるのかもなあ。

「学会の幹部だといっても、その肩書は一般社会では通用しませんよね。
それなのに、幹部になりたがる人がいます。
指揮を執りたいのか、仕切りたいのか。
社会で活躍していない人ほど幹部になりたがる傾向にある」(P23)


わたしは折伏されてもスリープし続ける自信があるけれど。
幹部とか役職とか絶対したくないし、そもそも人を指導なんてできないよ。
創価学会本部の幹部は「正しい」指導とかしているんでしょ?
いったいどんな根拠があって偉そうに他人様を指導できるのだろう。
池田先生なんか世間ではキンコマンコの人だし(そこがおもしろいのだが)、
日蓮大聖人って言っても、日蓮の主張が「正しい」根拠はどこにもない。
それに学会って上に行けば行くほど忙しくなるから本を読む時間もないでしょう?
ものを知らないで人を指導するのって怖くない?
むかし貧乏人の息子が折伏に行ったらこう言い返されたらしい。

「あんたの家が幸せになったら信心してあげるよ」(P11)

いまの学会の座談会ってじいさん、ばあさんばかりなんでしょう?
嘘くさい体験発表をして拍手して涙を流しているという。
そういう異世界を見てみたい気もしなくはないが、だれも誘ってくれないんだもん。
いまって骨太の人が減ったような気がする。「すごい人」がいない。
田中角栄みたいなやつっておもしろいじゃん。池田大作や戸田城聖もそのタイプでしょ。
橋下徹とかホリエモンとか、尊敬しろって言われてもねえ。
つまらない時代になったのかもしれない。
池田先生がいた(いまもいるか)むかしの創価学会はおもしろかったのだろう。
いまは学会の裏もインチキもばれてしまったが、
一発逆転するにはそれをギャグとして、
「うちって黒いっしょ」っと逆手に出るしかないような気もするのだが、
いまは老人ばかりになった古株信者が絶対にそんなことはさせないと思う。
池田大作さんってサブカルの人として見たら、
いまでもすごい輝きを放っているのだから、もったいないような気がしてならない。
クリーンになりすぎてしまった現在、池田先生の薄気味悪さは異彩を放っていて、
これを創価学会が逆利用したら奇跡の大逆転も起こるような気もするのだが。

どうでもいい豆知識を少々。
学会では選挙活動でカップルが生まれることが多いらしい。
ちゃんと功徳があるいい宗教なんだから、もっと自信を持って!
あと20年まえの本部職員(30代前半)の年収は500万。
本部職員ってなにしているんだろう。
テレビやネットをチェックしているだけだろう、なんてうわさもあるけれど。
創価学会員はとにかく池田先生の本と聖教新聞しか読まないらしい。
別冊宝島が池田大作インタビューを依頼したら、
ゴルバチョフや中村元クラスとの対談でなければ、
先生は出せないと広報部から言われたってさ。うわっ、それ増上慢じゃね?
折伏大行進時代の創価学会って、きっととてもおもしろかったのだろう。
いまではバッシングするのがかわいそうなくらいに弱っているのかもしれない。
学会員よ、広宣流布はどうした! 折伏をして福運を積め!
会員ひとりひとりの信心が足らんから池田先生がいま落ち目なのだ!
戸田先生は言った。
毎日3時間題目を上げ、毎日ひとりの折伏をしたら、かなわない夢はない!
いまの若いもんは(中年のわたしもそうだが)夢がないのでおっさんはプンプンだ。

「やさしい生命哲学」(聖教新聞教学解説部編/第三文明社) *再読

→創価学会の本を読んでいると、どんどん精気を吸い取られるような気がする。
そこまでやるのか! ああ、でも、世の中そんなもんか。
うんざり、げんなり、けれどそれが生きるってことか、いやだなあって感じ。
創価学会というのは仏教の開祖とされる釈迦(釈尊)の教えを
正反対にひっくり返したようなものなのである。
わたしは釈迦が嫌いだから、それでいいのだが、
それでもそこまで釈迦をいさぎよく切り捨てられる姿勢にぐったりする。
創価学会も釈尊(釈迦)の教えは正確に把握しているのである。
だからこそ、釈尊の教えを180度ひっくり返した教学を創れたのだろう。
釈迦の小乗仏教を否定したのが大乗仏教とするならば、
大乗仏教の最先端、大乗仏教の精髄が池田創価学会である。
創価学会だって釈尊の教えくらいわかっているのである。

「私たちは、顔貌や容姿、地位や名誉などを、あたかも、
それが自分の本質であるかのように思い込み、
それを追求することにとらわれがちです。
しかし、顔やスタイルの美しさは年を取るとともに衰えていきます。
地位や名誉も社会が勝手に付け加えるだけのもので、すぐ失われてしまいます。
このような、自分の本質とは異なった表面的な価値を
自分の本質だと思って追い求める執着を釈尊は戒めたのです」(P20)


学会ってやたら役職が多いでしょう?
あれは世間(実社会)で報われていない人には救いになっているのだと思う。
班長とかブロック長とか、一般人には意味不明の役職がたくさんある。
いままで一度も世間から認められたことのなかったような人たちは、
こういう役職を与えられるのが嬉しくて(それが学会の手なのだが)
バリバリ(自分の時間を捨てて)学会活動してしまうのである。
創価学会躍進の理由は暇な主婦に役職を与えて学会活動をさせたことだろう。
世の平凡な奥さまは一度も役職なんかついたことがないから、
班長とか言われると舞い上がってしまうのだろう。
わたしは学会に入って偉くなるほどしんどいものはないと思う。
というのも、役職が上がればそれだけ活動に自分の時間を割かなければならないし、
幹部ともなれば財務(寄付)を下よりも多く出さなければ示しがつかない。
いちおう財務は銀行振り込みで他人にはわからないそうだが、
どうしてだかばれる仕組みになっている気がする。
だって、そうしないと創価学会が儲からないじゃありませんか。
下のものに役職や功徳というエサを出して競争させて、
いちばんいい思いをしているのはいったいどういう人(たち)なのだろう。
釈迦や日蓮の教えを金儲けに使えると考えだした人たちのあたまのよさには参る。
というのも、釈迦や日蓮は一生貧乏だったわけでしょう?
たぶん一度もマグロの中トロや天ぷら、しゃぶしゃぶなど口にしなかったのではないか。
創価学会の教科書であるこの本から引用する。

「……表面的な美貌や体力、地位や名声、物質的な財産などは、
やがて必ず失われていくことを認め、自身の人格を磨き、
生命境界を高めることを目指すべきことを仏教は教えているのです。
日蓮大聖人は
「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり」
(御書一一七三ページ)と教えられています」(P46)


日蓮が「心>健康>金」とうっかり一文書いてしまったせいで、
昭和平成とどれだけ財務に苦しんだ学会員が現われたことだろうか。
実際は「金>健康>心」という見方もできなくもないわけである。
金がなかったら健康でいられないし、病気になったら気分(心)もふさぐわけだから。
しかし、お金持になればなるほど迷いが増えるから、
いっそのこと全財産を財務で放出するのも気分がいいのかもしれない。
お金持は迷いが増えるというのは、選択肢が増えるということ。
貧乏人だったら難病になったら死ぬしかないけれど、
金持はアメリカに移植手術に行こうかどうか迷うわけでしょう。
とかく金があるとトラブルに巻き込まれることが増える。
変なやつも近づいてくるだろうし、もっと増やそうとか考えて、逆に大損をする。
心の病にかかるとカウンセリングにかかる人もいるだろうが、
それはカウンセリングに行く金があるから心が病んでいるとも言えるわけで。

あんがい創価学会の財務ってそこまで悪くないのかもしれない。
ぜーんぶ金を財務したら無一物(無一文)になってすっきりするんじゃないかな。
創価学会は金があるっていうよねえ。いわゆる創価マネー。
学会には裏情報が入ってきやすいから、
創価マネーを財テクしたら(しているでしょうが)天文学的資産になるのではないか。
その金で海外から勲章を買っていると言われているわけだが、
わたしはこれをとてもいい行為だと思う。
勉強するのって金がかかるじゃない。
だから、学校に金を寄付したらそこの生徒たちの役に立つでしょう?
とくに後進国(発展途上国)の大学にとったら、
池田基金ほどありがたいものはないと思う。
海外の大学に寄付するのもいいけれど、
日本で私費で仏教を独学している学会シンパのブロガーにも
なんかいいことないかなあ。
創価学会の教学試験の勉強をするのは、地位が上がるからでしょう。
本当の勉強はおもしろくてたまらないからするものなんだよねえ。
勉強は本当におもしろいよ。
だから、海外の大学生のためにお金をがんがん渡している池田先生は偉いと思う。

聖教新聞って悪口座談会と言われているものがいちばん楽しいらしい。
裏切り者の矢野絢也氏の本で抜粋を読んだけれど、あれはおもしろすぎる。
言葉による集団いじめというか、独特の毒々しい言葉の使い回しが笑える。
ええと、学会の教科書に戻ると――。

「口における悪業とは、「妄語(もうご)」(ウソをつくこと)、
「綺語(きご)」(不当に飾りたてたことばを用いること)、
「悪口(あっく)」(悪口をいうこと)
「両舌(りょうぜつ)」(二枚舌を使うこと)です」(P101)


おおっと、学会員が大好きなものばかりではないか。
学会事件史を調べたら「妄語」「綺語」「悪口」「両舌」が黒光りしている。
しかし、そこがいいのである。
だって、法華経自体が、釈迦がさ「嘘も方便」と教えているお経なのだから。
「おれ一回死んだけれどあれはウソだから、アハ」というのが法華経の教えでしょ?
きれいな表の学会も、黒々とした裏の学会もわたしはとても好きである。
表の学会はあまりにもきれいすぎて少し白々しい気がしなくもないけれど。
決して悪口ではなく、学会員さんは餓鬼界に生きている人が多くてうらやましい。
わたしはガキ(幼稚)だけれど、餓鬼(煩悩熾盛)ではない。
最近、欲望がだんだん消えてきて、欲望の完全消滅は自死になるので怖い。
欲望いっぱい元気いっぱい学会員のように活き活きした餓鬼になりたい。

「……人間は、欲望を全くなくしてしまっては、生きること、
さらには、向上心をもって活き活きと生きることもできません。
餓鬼界は「この道は余道と往還し、善悪相通(あいつう)ず」(『立世阿毘曇論』)
とされます。欲望に覆われた餓鬼界は、善にも悪にも繋がっていくものなのです」(P113)


「立世阿毘曇論」なんて聞いたことがないからネット検索したが、
それでも詳細はわからない。
古い仏典とか論書は山のようにあるから、
うまく引用したらどんな教えも仏教として通用することだろう。
そこが仏教のいいところで(マイ仏教を創れる)、
同時に危ないところでもあるのだろう(カルト教団)。
もちろん、創価学会は「善き人たちの連帯」でカルトなんかでは断じてありませんが。
フランスのテロは創価学会をカルト認定した仏罰だと座談会で話しませんでしたか?
そういう思考がカルト的なのだが、いや、これはゴニョゴニョと口を濁しておこう。
学会員さんとか脱会者さんとか、
ここ最近の創価学会記事は最高におもしろくありませんか?
わたしは脱会をすすめたりはしませんよ。
脱会者に再入会をすすめたいわけでもありません。
自分で決めるのがいいと思いますが、
自分のあたまで考えるのはたいへんですから、
そのまんまでいるのがいちばんよろしいかと存じます。
というか、そもそもわたしの意見なんかご興味がないでしょうけれど。
しっかしさ、学会員の脱会者への攻撃ってすごいよねえ。あれは怖すぎる。
いちおう創価学会の教科書にはこう書いてあるのだが。

「仏になる因として、釈尊はある過去世で不軽菩薩として修行しました。
その時、あらゆる人に仏界が内在していることを知って、
自身を迫害してくる人すらも敬い礼拝したのです」(P158)


学会さんさ、もう藤原行正も山崎正友も竹入義勝も矢野絢也も許してあげようよ。
学会はいじめられっ子のふりをするいじめっ子なところがおもしろい。
日顕宗(日蓮正宗)からさんざんいじめられたって言うけれど、
どう見ても巨大な創価学会が弱小の日顕宗をいじめているわけで。
いやいや、いじめは楽しいからどんどんやればいいと思うよ。
いじめられたとか言いがかりをつけて、
集団でひとりをいじめるのって楽しいんだろうなあ。
創価学会に入ると人生が楽しくなるような気がする。
正直、学会員さんがわたしはうらやましい。
自分より弱いものをよってたかってなぶりものにするのって興奮しそう。
創価学会はエキサイティングでWARだぜ!
修羅、餓鬼、畜生の仲間に入りたくて仕方がない。
修羅即菩薩、餓鬼即菩薩、畜生即菩薩だと思う。
修羅のレベルが高いほど菩薩としてのレベルも高く、
餓鬼の煩悩の強弱は、そのまま菩薩の上位と比例する。
畜生のように陰惨なことをできるやつこそ本物の菩薩さまである。
これは池田先生がうちうちにしか教えていない秘伝のようなものだが、
高弟さんたちの(暴露)本を読んでわたしは独学することができた。

「教学の基礎 仏法理解のために」(創価学会教学部編/聖教新聞社)  *再読

→11年まえに読んだものを再読してみた。
創価学会の教学ってぎりぎり30歳までではないか?
失礼ながら、子どもっぽいっていうか、子どもだましっていうか。
裏切り者の矢野絢也氏が5代目会長の秋谷栄之助氏を病院に見舞ったとき、
秋谷氏が「いやあ、信心が足りなくてさ(苦笑)」と言ったらしいけれど、
なーんか大人になったら、この程度でしょ。
ガチンコで信心が足りないから病気になるとか思っている人って
学会員でも少数派でしょ?
少なくとも、そうだと思いたい。学会用語ってお笑いに使えそうなんだよね。
「いやあ、最近、頭破七分なのか軽い頭痛があってさあ(笑)」とか。
トラックに泥水をかけられ怒ったときに
「うふふ、これも転重軽受、けれど一念三千ゆえ菩薩の境地(笑)」とか。
寝坊したときに「このごろ人間革命がなってないなあ(ポリポリ)」とか。
関係者はわかるでしょうが、創価学会(日蓮正宗)用語ってやたら四字熟語が多いのね。
「おっと、この一瞬が因果具時(笑)、スマイルスマイル」とかさ。
関係ない人にはわけがわかんない隠語みたいなものなんだけれど。
たぶん、そういう隠語みたいのを使って日蓮は最新っぽさを打ち出したのではないかと。

結局、世界って言葉でできているわけでね、
なにが不幸が起ったときに「信心が足らんかった」と言葉にできると安心できるというか。
たとえば、わたしはカタカナに詳しくないので、うーん。
たとえばさ、とても平和な多幸感あふれるパンダ的状態を
「くいーん♪」と呼ぶとするじゃない。それは新たな感情表現を作ったわけで。
ああ、いまの状態は「くいーん♪」なんだと。わかりにくいか。
そうだ、わたしとおなじ学会シンパの脱税野郎、
茂木健一郎先生の紹介したクオリアっていうわけわかんない概念があるじゃない?
クオリアは学会でいう一念三千みたいなもんなんだけれど、
どっちも知らない人には意味がわからないか。
なにかの状態に新しい言葉をつけると人間はわかったような気になるじゃない?
なんか調子が悪いときに医者から風邪だって言われると安心しない?

不幸な人生を送っている人に、「それは願兼於業よ」って言うのはおなじわけ。
願兼於業(がんけんおごう)くらい説明しておこうか。
願兼於業は、業は願を兼ねるって意味。
業(宿業/不幸)は、菩薩(ほとけ)になるためにあえて前世で願った結果なのだ。
こう言われたら不幸な人は病名をもらったみたいで、わかったような気になるでしょ?
そこで「宿命転換をすればいいのよ」とか言われたら、
「ほほう」とか無学な人は思うわけさ。宿命転換は、いい呪文があるのよ。
御本尊に向かって題目(南無妙法蓮華経)を唱えたら境涯革命が起きるのよ。
それはね、相対ではなく絶対幸福の境涯なのよ、ってまるで婦人部みたいだな(笑)。
人の不幸をあざ笑いたいときは「ほうら謗法の罪よ」とか言うと楽しくない?
「ほうら罰(ばち)が出たわよ」とか仲間とニヤニヤしながら言うのって最高だと思う。
どうしてある人が不幸になるのかはわからないのだけれど、
「謗法の罪(池田先生を裏切った仏罰)」と言われたら、そうかそうかって話。

こんなバカにしたことを書いていると、
明日交通事故に遭って頭破七分になって死ぬかもしれないけれど。
ごめんなさい、そうねそうね、頭破七分の意味は教学では違うよね。
この創価学会の教科書では、頭破七分(ずはしちぶん)とは、
「善悪、邪正の判断がつかず苦悩すること」(274頁)らしい。
でもさ、ふつうに生きていたら「善悪、邪正の判断」がつかないのは正常でしょう?
人生に答えなんかないんだから、「善悪、邪正の判断」がつかないのは当たり前。
でも、なにが正しいのか、なにが善かわからないのってモヤモヤするわけで。
そこで創価学会に入ると池田先生が正しくて法華経が善だと指導されて、
頭破七分(善悪不明、正邪不明)の状態から、
ものすごく白黒がはっきりつくというか、いや、
青黄赤みたいに世界がきれ~いに見えたような錯覚状態に陥ることができるわけ。
自分のあたまで考えなくても、幹部が善悪や正邪を指導してくれるので楽ちん。
こころが澄み切ったような、
白黒テレビがカラーテレビになったような喜びが創価学会にはある。絶対ある。
それが絶対幸福の境涯なのかはわからないけれど、
そう思って死ぬまで駆け抜けられるおばさんはたくさんいるような気がする。

偏差値が高いと創価学会の教学は効き(効果)が薄くなるような気がする。
真っ白な状態に創価用語を植えつけていったら、
あるいは一生単純な色合い(三色/青黄赤)の人生を送れるかもしれず、
それは複雑な色は見えないけれど(善でも悪でもない灰色の世界)、
どちらかといえば不幸よりも幸福に近い状態だから(交通信号のようにクリア)、
創価学園、創価大学のコースを送っている人がうらやましいと言えなくもない。
矢野絢也氏の本によると、創価マインドってあるらしいね。
なにか不幸があると、これは法難だとか考えて、がんばろうスイッチが入るらしい。
教学書よりよほどわかりやすい創価マインド・コントロールを紹介したい。

「このように信者というもの、何か災いが身にふりかかっても、
天が与えたもうた試練だと受け止めるフシがあるから始末が悪い。
世間がどれだけ学会を批判しても、
「何もかも法難。これを乗り越えてこそ、幸せがある」と、
まったく意に介しないのもこのためだ」(「私が愛した池田大作」P88)


創価学会の人生哲学(これも四字熟語でしょ?)を学ぶと、
不幸が幸福になるための法難に思えて楽しくなるわけよ。
だから、学会の哲理はマゾを創るというか、不幸を楽しめるようになるわけさ。
それは京都大学を卒業して大林組という一流企業に入るような人でさえ、
コロリと参っちゃうようなうまくできた自己洗脳システムなのだからすげえって話。
アドバイスとしては、創価学会の教学は若いうちに勉強するといいってこと。
偏差値40の高校を出たおばさんならともかく、
大学出の40歳近いおっさんが学ぶにはちょっときついかなと思う。
人によってはチャレンジするとひょっとしたら絶対幸福の境涯に入れる、
とてもすばらしい人生哲学だと思う。価値のある教えであることは認める。
創価学園の高校生とか目が澄み切っていて、いいなあって思うもん。
創価大学の女子大生もそう。創価大学の男子の目はちょっと怖い。
こんなことを書いたら謗法の罪で仏罰が当たるかな。
しかし、それは法難だから願兼於業、人間革命の大道を歩んでいくぞ。

「私が愛した池田大作」(矢野絢也/講談社)

→池田大作さんはおもしろいわけだなあ。
こんなことを言ったら学会員さんは怒るだろうけれど、池田さんはなにもない人なんだ。
まず学歴がない。学歴がなくても優れた人はたくさんいるけれど、池田には学がない。
池田の履歴を見たらわかるよう、長年、
創価学会二代目会長・戸田城聖の奴隷をしていたわけだから本を読む時間がない。
そこは戸田大学の生徒だったとごまかしているけれど、
失礼ながら戸田なんて小学校教員程度の知識しかない投機的山師のアル中で、
戸田が池田に教えられることと言ったら「とにかく人生では金がものを言う」
というくらいではなかったかと思われる。
池田大作さんのあたまのなかには金しかないが、
そもそもそ世界なんざ金で動いているんだから、
人間は金だと戸田から徹底的に指導された池田は
もっとも人間らしい人間になったと言うことができよう。
学問なんてアクセサリーみたいなもんで人間が生きていくのにまったく役に立たない。
だったら、そういうアクセサリーは教学部をつくって、そこで部下にやらせたらいい。
部下が書いたものを自分が執筆したことにしてしまえば、教学はそれでおさまる。
毎日を必死の思いで生きている底辺庶民にとっては教学なんてクソみたいなもの。
パッと明るいもの、確信をもって前向きなことを言ってくれる人、
そういう楽観主義のかたまりのような希望を確信した好人物、
しかし同時に人間は結局のところ金だという真実を知った渡世人を、
ある時代の庶民は切実に求めていて、それが池田にぴったり当てはまったのだろう。

むかしの池田先生のカリスマ性はすごかったと側近の矢野絢也も証言している。
矢野は松下幸之助に逢ったとき「偉い人」だとは思ったけれど
「すごい人」とは思わなかったという。
しかし、池田は文句なく「すごい人」に思えたという。
それはマインド・コントロールが抜けたいまもおなじだという。
あんな「すごい人」に逢ったことはない。
わたしも池田さんを「すごい人」ではなかったかと思う。
プラスの大きい人というのは、マイナスも大きい。
ちっぽけな悪もできないような人間はみみっちい善しかできないものである。
池田さんは自分の敵を暗殺させるくらいなんとも思っていなかったと思う。
反面、自分が殺されそうになったら逃げまわるところも人間味があってよい。
池田大作さんはキング・オブ・人間のようなところがあるのではないか。
人間味が濃すぎて、酸いも甘いも辛いもあわせもった、
強烈な生命力のかたまりのような存在。
どれだけ自分勝手に生きられるかというのも、その人間の器なのである。
どれだけ自分という存在に確信を持てるか。
人間(自分)を肯定しているというのは、
プラスのみならずマイナス部分もあからさまに出せるということだ。

池田さんは欲望のかたまりだったが、
欲望とは仏教では煩悩(ぼんのう)のことで、煩悩即菩提という言葉もあるよう、
煩悩がおそらく日本一燃えさかっていた池田は菩提心も日本一だったと思う。
池田先生のあの仏さまのような笑顔、元気が出る利他にあふれたお言葉は、
裏側にある強烈な煩悩、邪心、陰心、名誉心に支えられていたのだろう。
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)。
この言葉が池田大作さんの魅力を説明するいちばんいい言葉なのではないかと思う。
プラスはマイナスである。大きなマイナスは大きなプラスである。
どれだけ悪いことをできるかが、どれだけ善をできるかの証となる。
法華経なんて嘘八百だと鼻で笑える人が、もっとも法華経を確信している。
仏などいないことをどこまで理解しているかで、菩薩のレベルが決まる。
世界は金だ、人生は金だと信じていた池田だからこそ、最高の仏さまでもあった。

信者獲得数から見たらわかるよう、
わたしは池田大作のほうが日蓮なんかよりもよほど「すごい人」だと思う。
実際に対面してみたら、釈迦など池田大作の足元にも及ばないだろう。
「デエジン(大臣)なんかもしょせんキンコマンコで我われとおなじ人間なのであります。
私はそう確信しておるのであります(一同爆笑、大笑い)」
こう大確信を持って言ってしまえそうなところが、
池田先生の愉快さであり魅力であり怖さだったのだと思う。
学歴も家柄も財産も恋人も友人もなにもない無一物の池田青年が、
おのれの煩悩即菩提という信心だけで
あれだけ多くの人から崇拝される指導者になったわけだから、
一時期の創価学会の信心は時代風潮ともマッチして本物だったのだろう。

本物か偽物か、というが、本物も偽物もないのである。
最後までそうだとばれなかった偽物が本物になるのである。
いくら本物と言われているものでも権威者に金をつかませたら偽物になる。
高潔ぶった人は「おれは金では動かない」とうそぶくけれども、
予想していた100倍の金を出されたら思わず動いてしまうのである。
人間は金では動かない、なんて信じている人は底が浅い、とも言えよう。
どんな人間も大金や美女を与えたら、どんな不正だってするのである。
そもそも「正しい」ことなんてないだろう。正義も不正もない。
正義や真理、学問など金で売り買いできるアクセサリーのようなものだ。
「正しい」ことがないならば本物は金で決まるんだ。
ピカソの本物の絵が偉いのは、売ったら大金になるからで、
ピカソの絵のよさなんかデエジンやガクシャにゃわかるのだろうが(うそこけ)、
我われ庶民にはピカソの絵など役に立たず便所紙以下だ。
結局、本物かどうかは金で決まる(いくらで売れるか)のならば、
名画や宝物や骨董、あらゆる高額品に囲まれた池田先生は本物と言ってよい。
模造品でも権威者に金をつかませて本物にしてしまえば、
それは本物として流通する(高額でやりとりされる)。
そうであるならば最高の指導者とは最上のペテン師のことである。

大臣なんか庶民の部下のデエジンにしてやる、いまに見ていろ!
戸田の屈辱的ないじめを受けながら固くそう心に誓った池田は本物である。
おそらく池田は戸田から人間扱いされなかったと思われる。
戸田から多くの人間が離れていったというが、それはいじめをするからだろう。
アル中の人格破綻者である戸田から人権を蹂躙されるようないじめを受け、
いじめられいじめられいじめ抜かれて、池田青年は池田先生になったのである。
まったく学のない池田青年には、
小学校教員レベルの教養しか持たぬ戸田程度でもありがたい先生だった。
博打的な経営ばかりしているアル中で女好きの戸田に池田は鍛え抜かれた。
相撲用語でいじめを「かわいがり」と言うが、
池田青年は戸田先生から地獄のような「かわいがり」を受け、
およそ人間というものが信じられぬ煩悩邪心のとりこたる悪鬼、
イコール日蓮大聖人に比肩するかそれ以上の宗教者になることができた。
わたしは本書の著者である矢野絢也氏同様に池田先生を「すごい人」だと思う。
池田先生のことをもっと知りたくて、矢野が愛した男についての本を読んだ。

・池田は脂っこいものが好き。マグロの中トロが大好物。
天ぷらやしゃぶしゃぶも大好き。
野菜はほとんど食わないが、ドクター部がいるから大丈夫。
・たぐいまれなるカリスマ性を持ち、オーラが光り輝いている。
・天才的なオルガナイザー。演説の名人。語り口にはだれしも参る。
・人心掌握術の天才。
・優れた戦略家で、何十年先もの目標を見すえ、計画を実行していく。
・半面、究極の内弁慶である。
・内部の人のまえでは堂々としているが、外部に出たらオドオドと縮こまる。
・猜疑心が強く、自分を攻撃した人のことは何十年経っても忘れない。
もう矢野絢也氏の言葉に頼ろう。
どう考えても矢野氏のほうがわたしなんかよりはるかに、
池田を愛しているであろうから。

「コンプレックスの塊で、その執念深さは想像を絶する。
自分に敵対するものへの攻撃性はすさまじいの一言だ。
その一方、ざっくらばんでどこが抜けたところがあり、
大切なところで信じられないようなミスを犯す。
失礼ながらおっちょこちょいで愛嬌もあって、
おもしろい人やなぁと思わせる側面もある。
こうした矛盾、二律背反がなんの不思議もなく、
一人の人間の中に同居しているのが池田大作という人間なのだ。
見る角度により赤だったり、青だったりする。なのにそれを奇妙と感じさせない。
しかも、どの色に映っても、この上ない輝きを放っている。
強靭な生命力で内包する矛盾をまとめ上げ、体内で統合している、
とでも表現すればいいか。
仏のような面。鬼のような形相。
冷徹な事務屋さん。お笑い芸人。哲学者。神秘主義者……。
それらの要素が瞬間瞬間、パッパッと入れ替わる。まるで万華鏡を見ているようだ。
そしてその多面性が、なんとも言えない彼の魅力になっている。
惹きつけられてやまない、人間的吸引力を成している。
だからこそ、何をされても徹底的に恨み抜くことができないのである。
「池田さんは悪くない。側近が悪い」といった具合に。
元都議会公明党幹事長の藤原行正氏も、
「あの人の前に出ると唇がしびれて、喋れなくなってしまう。
あの目でガーッと睨まれると、震え上がって何もできなくなってしまう」
と言っていた」(P25)


こういう記述を読むと生前の、いやまだ生きておられるか、
全盛期の池田先生を映像ではなくこの目で見てみたかったなあ。
どれだけ内部に矛盾をかかえているか、二面性を持っているか、
というのがある意味では人間味と言え、人間的魅力にもなるのだろう。
周囲を楽しく生き生きとさせるようなとびきり明るい人は、
そのぶんだけ同量の恐ろしい殺気や殺意を隠し持っていることがある。
そういう素敵な池田先生と一回きりしかない人生で(受けがたき人身)
まみえることができた矢野絢也氏は幸福だったとも言えるのではないか。

「池田氏は本来、極めてざっくらばんで気分屋な
「気のいいお兄さん」的な人だった。
長年仕えてきたのだから、一般の人たちよりはずっと生の彼を知っている。
下町のお兄さん、あるいはオジサン的な振る舞いは彼の愛すべき一面であり、
その裏側には強力な権力志向の持ち主という一面もある。
その二面性は徹底している」(P18)


池田先生はおそらく週に1回くらいしか題目をあげなかったのではないか。
日蓮以上のタマである池田大作は、
南無妙法蓮華経なんか信じていなかった可能性さえある。
実際、池田先生は矢野氏のメモによると、以下のような指導もしているのである。

「長く大声でお題目を唱えればいいというものではない。三回も唱えれば充分だ」(P136)

こういう指導をケースバイケースでしてしまえる池田先生は本当におもしろい。
ぶっちゃけ、池田先生はこう思っていたかもしれないのである。
大声で題目なんて上げたって近所迷惑なだけだし、
そんなことをするくらいなら朝寝坊して早寝するほうがよほどいい。
信心よりも、実践で、敵を打ち負かせ、勝って勝って勝ちまくれ!
信心なんて言葉は、愚痴を言っているやつに発破をかけるときだけでいいんだ。
それは「信心が足らん」のだよと。信心よりも、勝って勝って勝ちまくれ!
前進前進、ゴーゴー選挙、働け遊べ、稼げ使え遊べ、楽しもう人生を!
池田の弟子だけあって矢野も部下にガラの悪い指導をしている。
こういうガラの悪さが創価学会員のよさであり、
人によっては嫌われる部分でもあろう。
キリスト教に学んで池田家を聖家族(ホーリー・ファミリー)に仕立てあげる、
という計画があったとき、矢野は部下にこう指導している。
矢野さん、おもしれえぜ。

「キリスト教から学ぶときも、きれいごとだけ見とったんではアカン。
一方で恐怖もないと、人は支配できんのや。
『ヨハネの黙示録』なんか一番オモロいで。
キリストは世界の終わりに人々を裁いて、
永遠の命を与えられる者と地獄に堕ちる者とを分けると書いてある。
地獄に落とされたらかなわんさかい、人は必死に信仰に励むわけや。
優しいだけのキリストではアカン、ちゅうこっちゃ」(P71)


矢野絢也がまったく信仰心など持ってないことがわかる名ゼリフである。
身もふたもないことを言えば、
学会の上層部でいまだに信心なんか持っている人はいないのではないか。
題目なんかまじめに唱えているのは、底辺の暇なじいさんやばあさんだけで。
ほかは未来部のよくものを知らない少年少女諸君か。
題目なんか唱えるより、テレビを見たり、ゲームをしたり、
人によっては本を読んだりしたほうがよほどいいわけだから。
題目を唱えたら願いがかなうなんて、
70年、80年も生きてきてまだそんな世迷い事を信じているのなら、
それは精神遅滞か根っからの痴呆症かなんかだぞ。
矢野さんの本を読むと、学会幹部もそう思っているような気がしてならない。
そうそう、少しばかり学会員に脅しを入れておこう。
いまはあらゆる国家権力に学会員が入っていると言われているが、
国家機構だってバカではないから職員のなかの学会員はマークしているらしい。

「長期自民党政権時代からずっと、
官庁にいる学会系の人間は秘密裏にマークされてきたという。
国家機密などの情報流出を危惧するからだ。
創価大出身というだけで左遷するようなことは差別であって、
そんな横暴は許されるわけもないが、
誰と誰がどう動いているかは押さえてきた」(P266)


どうでもいいけれど、創価大学の校歌は大好きである。
あれは宮本輝の青春小説「青が散る」のテーマ曲のように聞こえてとてもよい。
池田先生のようになりたければ、創価大学に通うのもいいだろうけれど、
マグロの中トロや、天ぷら、しゃぶしゃぶといった脂っこいものを平らげ、
野菜はいっさい取らず題目は朝3回で済ませ、
常時おのれの煩悩を意識して(煩悩即菩提だから構わんのや!)、
いかにして金を儲けるかを考えるのも一手ではあろう。
それにしても創価大学に入るのはある意味でギャンブルだよなあ。
東大を蹴って創価大に入り本部でケダモノのように学会女子を喰いまくった、
元幹部の弓谷氏なんか名誉会長の後継者としてもっとも適しているのではないか。
っていうか、なんでわたしは創価学会の内部事情にこんなに詳しいのだろう。
もう入っちゃえよと言われることもあるけれど、入れてくれないんだも~ん♪

なんのためにこんなに創価学会関連書籍の感想ばかりを
書いているかというと単純にいまおもしろいことだから。
もっとおもしろいことがあったら、そちらを優先する。
べつに学会員を脱会させようとか、創価をつぶそうとかまったく考えていないから。
学会暴露本を読んでわかったのは、婦人部の怖さ。
あのおばさまたちって論理が通じないでしょう。
おそらく学会幹部も婦人部のバカさにはあきれ、そして救われたのではないか。
このまえ創価学会のお土産屋さんに行ったら、
平日だから高齢ミセス(「パンプキン」読者?)ばかりだった。
瞬間、空気を読んで察したのである。この人たちは真実なんてどうでもいいんだ。

ヤクザの元組長が書いた「憚りながら」が出版されたときには、
学会上層部は大慌てしたことだろう。やばい、組織が終わるかもしれない。
けれども、現実にはぜんぜん影響がなかったのではないかしら。
学会土産物屋の美しい清浄な正義のおばさまたちを見て思ったのは、
この人たちに言葉は通じないだろうということ。
いくら創価学会と暴力団が通じていると説明しても、
「そんなわけないじゃない」「それはデマよ」「池田先生がそんなことするはずないじゃない」
――まったく婦人部は動じないと思われるのである。
おばさまたちのマイ池田先生はなにがあっても崩れない。
この本を読んでみてと「憚りながら」を渡しても、そもそも本を読む知力がない。
「ヤクザがなに言ってんのよ」「池田先生は絶対に間違ってないわ」
こう反論されて終わりだろう。

しかるがゆえに、この婦人部が存在するかぎり創価学会は永遠に不滅である。
人間(多数派下層民)にとって真実なんてどうでもいい。
自分たちが信じたいことが真実で、それは絶対に間違っていないのである。
上のほうの人間は下層民を過大視しすぎているような気もする。
あの人たちには言葉は通じないし、
なにを言っても理解できないと思ったほうが「正しい」のかもしれない。
おそらく池田大作名誉会長ほど、そのことを知っていた人はいないだろう。
なぜなら池田先生は本当の庶民派出身の低学歴の成り上がり屋だったからである。
真実や真理、正義なんて庶民にはどうでもいい。
そんなものはアクセサリーに過ぎないと「庶民の王者」はよく知っていた。
そのことをわたしがよくわかるのは、こちらが言葉をたまたま学習した庶民だからだ。
「「黒い手帖」裁判全記録」(矢野絢也/講談社)

→本の帯に「逆転勝訴 公明党・創価学会は蒼白!」とあるけれど、
うちら一般人は他人の裁判なんて興味がないし、
裁判でどっちが勝とうがなにも思いはしないのだが(わたしだけ?)、
勝った負けたとか裁判が好きな人っているよねえ。
裁判なんてやるだけ時間と金の無駄で勝ったところで空しさだけが残るのではないか。
そのうえ裁判の判決がかならずしも「正しい」わけでもないことは、
創価学会の暴露本を読んで骨身に染みて(大げさではなく)知ったことである。
訴訟なんて裁判長や相手側の弁護士、相手側の証人を買収すればいくらでも勝てる。
それにしても創価学会は恐ろしすぎる。
3人の公明党OBが矢野絢也の「黒い手帖」を取り上げにいったとき、
こっそりと録音をしていたらしい。はじめからやる気満々だったのか。
創価学会に入って上へ行けば行くほど人間不信が強まるのではないか。
友人や仲間だと思っていても、いつだれが寝返るかわからない。
組織を追放されたら、内部での役職しかないものは使いものにならない。
かといって元幹部さまが時給850円とかじゃ働けないわけで。

公明党OBはこっそり録音した会話をさらに改ざんして証拠として提出したそうだ。
自分たちの都合の悪い音声データは削除してつなぎ合わせた。
創価学会というのは勝つためならそこまでやるのか。
まあ勝てばいいわけだから、なにをしてもいいわけで、
別に公明党OBや創価学会が悪いとは思わない。
池田先生のためならなにをしてもいいのである。勝てば官軍さ。
勝てば威張れて金が儲かって、いい女を抱け、うまいもんが食える。
勝ちゃあいい、勝てばいい、勝つためにはなにをしてもいい。
創価学会から学んだことで、強く共感する姿勢である。
でもさ、勝つために群れるのはなんか性に合わない気がするけれど、
勝てばいいというのはわかる。
大勝利して敗北者をせせら笑うことほど人生で楽しいことはない。
アハハ、あの恩知らずの裏切り者には仏罰が当たったよ、ざまあみやがれ。
勝利、勝利、前進、前進、常勝、常勝、いけいけどんどん、我らに敵なし!

創価学会で有名で「月刊ペン事件」(1976年)というのがよくわからないのである。
当時、小さな雑誌「月刊ペン」が学会批判キャンペーンをやった。
編集者をしていたのは隈部大蔵で元は西日本新聞で論説委員をしていた。
そこでの意見がもとで学会と対立して新聞社を退職に追い込まれたという。
その恨みを「月刊ペン」で晴らしたのだとされている。
学会批判キャンペーンは池田大作の女性スキャンダルにまでおよぶ。
婦人部が騒ぐのでこれは危ないと学会上層部は判断。
学会は隈部大蔵を名誉毀損で訴え、隈部は即日警察に逮捕され拘留された。
問題なのは、だれが隈部を警察に逮捕させたか、なのである。
学会の元顧問弁護士の山崎正友は矢野絢也が警察に働きかけたと書いている。
おそらくこれが真実だろうが、
矢野は「記憶がない」といかにも政治家的な記述を「黒い手帖」でしていた。
この本では矢野が紹介したふたりの弁護士が優秀だったからとごまかしていたが、
いくら弁護士が優秀でも名誉毀損で逮捕までは持っていけないだろう。
矢野絢也も書く本によって記述が変わっているのである。
矢野の著書「私が愛した池田大作」ではこうなっている(200頁)。

「名誉毀損容疑で雑誌の編集者を逮捕するなど、前代未聞である。
だが、創価学会・公明党は警察とは従来から太いパイプを築いていた。
警視庁の予算と人事を握る都議会で、公明党はキャスティングボードを握っている。
一方、学会も警察権力を味方にするうまみを知り尽くしている。
両者の利害は一致し、互いに親交を深める交流を心がけてきた。
特に警察と関係が深かったのは竹入氏である。
やはり裏で働きかけてくれたのだろう。
竹入氏のパイプが働かなければあそこまでうまくいったはずがない。
都議会公明党の首脳や、竹入氏の腹心である衆院の大野潔氏が、熱心に動いた。
「池田先生をお守りするためだ。協力してくれ」
私も警察首脳に頼んで回った。
かくして五月二一日、隈部氏は取り調べの後に逮捕された。
六月一四日までの二五日間、長期交流の憂き目にあわされた」(P200)


やはり矢野絢也も警察首脳に働きかけていたではないか。
警察を信用しちゃいけない、なんて怖くないだろうか。しかし、そんなものなのか。
さて、「月刊ペン事件」に話を戻すと、これまたよくわからない。
一審、二審は学会側が勝訴した。
ところが、三審の際に山崎正友が相手サイドに2000万の金を渡したことを暴露。
裁判は一審に差し戻しになる。
学会は山崎に3000万渡したが、山崎は1000万抜いて相手側を懐柔した。
なんでも池田大作を裁判に出廷させないための和解金だったらしい。
自分から名誉毀損の裁判を起こしておいて3000万も裏で和解金を支払うって、おい。
76年の3000万だからいまでは6000万くらいの価値はあるのではないか。
わたしは「月刊ペン事件」を知って、まじめに生きていくのがアホらしくなった。
警察と創価学会が通じているというのもうんざりだし、
名誉毀損で訴えた側が相手に3000万も払うという世界が理解不能である。
まじめに生きている学会員さんはいったいどんな思いをするのだろう。
もっとわからないのは和解金3000万を支払っているのに、
この後も裁判は続いたことである。
ということは和解金は隈部には渡らず、相手側の弁護士が着服したということか。
隈部は裁判の途中でガンで死んだそうだが、学会員は仏罰だと大笑いしたことだろう。
裏金とか癒着とかげんなりするので、「月刊ペン事件」は知らないほうがよかった。

大学生のとき先輩の酔っぱらい運転に乗車させてもらったことがある。
大勢の後輩のひとりとして、である。
先輩は都議会議員に知り合いがいるから、捕まっても大丈夫だと言っていた。
本当かよ、と当時は思っていたが、世の中って本当にそういうものだったのだなあ。
権力があればなんでもできるし、どんな一流企業に子息を入れることも可能。
権力とは金のことで、金があれば名誉も肩書も女も手に入る。
金(権力)がほしかったら勝つしかない。勝て、勝て、なにがなんでも勝て!
こう弟子たちに指導している池田名誉会長は「正しい」ことを言っていたのである。
創価学会には真理があると思う。創価学会はとても「正しい」。
権力(金)があれば、真理も正義も思うがままに支配できる。
金(権力)のあるものこそ正義だ。
日本最大の権力団体、創価学会の池田名誉会長が
どうして偉いのかよくわからなかったが、
このように読書を続けた結果、ようやく池田先生の偉い理由がわかった。
池田先生は権力(金)を持っているから偉くて絶対的に「正しい」。
池田先生の言うことは絶対的に「正しい」。
なぜならしつこいが権力(金)を持っているからである。
正義や真実(真理)は権力が創るものである。創価学会は「正しい」――。

どうやら創価学会がいちばん触れられたくないのは税金問題のようである。
池田先生の個人資金と、
先生の秘書軍団「第一庶務」の会計に触れられたくないのはわかる。
しかし、これも触れさせるなと矢野絢也は創価学会から命令されたという。
矢野絢也が公明党時代いちばん苦労したのが国税当局対策だったという。
たしかに国税当局と対決するのはよほど能力がないと無理だろうが、
そこまで尽力した矢野をあっさり切ってしまう創価学会は非情である。

「財務の詳細は会員のプライバシーであるから、いっさい触らせない」(P85)

わたしは税金問題にまったく詳しくないが、おかしな妄想をいだいてしまった。
よく知らないが、日本は金持ほど税金を多く取られる累進課税制度でしょう?
よくわからないけれど、税金には寄付金控除というものがあるって聞いたことがある。
つまり、寄付金としておさめたぶんからは課税されないという。
だったら、金持は創価学会に財務(寄付)をして、
代わりにキックバック(返金)してもらえば税金から逃れられるのではないだろうか。
創価学会の権力はあらゆるところに行き渡っているから、
財務へのキックバック(返礼)は子弟の就職斡旋や仕事発注で可能となる。
貧乏なのに生命保険を解約して財務をするのは愚かだが、
高収入のものが創価学会に多額の財務をしたら
実際に功徳(現世利益)があるのではないか。
創価学会がなにより重んじるのは恩義だから、
多額の財務(寄付)をしたものにお礼をしないはずがないと思うのだが。
創価学会って経済団体としてとてもうまく機能してきたのではないだろうか。
有名人は不良息子の犯罪を揉み消してもらえる代わりに学会に高額財務をする。
アイドルを抱きたい俗物は創価学会に財務をすれば有名人にコネがつく。
創価学会は刑事事件の揉み消しを通じてあらゆる権力者の弱みを握ることができる。
創価学会に毎年多額の財務をしていたら、
実際に功徳が太陽のようにさんさんとふってくるのではないだろうか。
その権力の最高頂点に長らく立っていたのが池田先生である。
だからして、池田先生は「正しい」し、日本人のだれよりも偉い。
池田先生がおられる創価学会は絶対に「正しい」。
みなさまも池田先生が偉い理由、創価学会が「正しい」わけがわかりましたか?

こういう裏社会のことを教えてくれる本書はすばらしい。
名著に敬意を表して、いくつか本文から抜粋させていただく。

「創価学会は相手が一歩下がって「弱い」と見ると、
嵩(かさ)にかかって襲いかかってくる体質があるようだ。
謝罪しても、それで終わりではなく、その先がまだあるのである」(P59)


勝つためにはなにをしてもいいんだから、当たり前とも言えよう。
矢野絢也は弱かったから創価学会にうまく利用され、晩年は袋叩きにされた。
いや、矢野は池田創価学会の指導に従わず、
息子を創価学園や創価大学に入れなかったという。
矢野絢也の息子は桐朋学園から一橋大学に入っている。
彼が読売新聞に入社したのは矢野の権力の証だろう。
結局、矢野は豪邸を残したわけだから、創価学会に勝ったとも言えよう。
竹入のほうはどうか。
竹入の息子はあたまの出来がよくなく、明大付属中野高校。
創価大学にさえ入れないレベルだったが、権力の都合上、創価大学入学。
以降、社会的権威のある医者になるべく東海大医学部に転校している。
これは東海大元総長の松前重義の息子が参院選に出るため、
創価学会票を必要とした。その見返りとして竹入の息子は医学部に入れたという。
以上は溝口敦氏の「昭和梟雄録」に書かれていたことで、
名誉毀損等の抗議はまずそちらへお願いします。
そうかそうか、有名学校への裏口入学も創価学会の権力があればできるのかあ。
やはり世の中は権力(金)で、創価学会の池田先生は日本一偉いのである。
池田先生に逆らおうなんて、ゆめゆめ思うなかれ。
先生が竹入を蹴っ飛ばしたら、みんなで竹入を蹴っ飛ばすのが「正しい」。

「当時、学会の会合でも竹入氏への罵詈雑言が飛び交い、
聞くに耐えかねて同席者のひとりが
「党委員長までやった人のことをそこまで言うのはどうか」とたしなめると、
こんどはその人が吊し上げにされたりした」(P88)


繰り返すが、池田先生に逆らおうなんて思うなよ。
池田先生は絶対に「正しい」のだから殺されても文句は言えない。
池田先生に逆らうものはムショに何年でもぶち込んでやればいいんだ。
矢野絢也も一時期そう思っていたから「月刊ペン事件」のとき警察に働きかけた。
そういうことをしたら悪いとか、まったく罪悪感を持っていなかった。

「学会幹部の誰かが池田氏の意向に少しでも背くような言動をみせれば、
ただちに池田氏に報告され、制裁を受けることになる。
これは相互監視機能ともいうべき内部システムが働いているためで、
これにより池田絶対主義体制が堅持されている。(……)
こうした体制であるから、学会幹部はつねに
「池田氏が側近に何を言ったか」に聞き耳を立てており、
その姿は、はた目にはまるでお互いに
池田氏への忠実証明のコンクールをやっているようにも見える。
滑稽であるが、そのコンクールから降りて「馬鹿馬鹿しい」といった言動をみせれば、
相互監視システムにより、たちまち第一庶務の知るところとなりかねない。
第一庶務は池田氏の言葉を伝えるだけでなく、
さまざまな情報を収集して池田氏に上げるという重要な役割を同時に果たしており、
そのために何百人ものスタッフをかかえている。
いわば、池田氏の巨大な目であり耳なのだ」(P197)


ということは、池田先生がお元気ながらああなってしまった(ごにょごにょ)いま、
いちばん現在の創価学会で偉いのは、
第一庶務出身の長谷川重夫理事長になるのかあ。
わたしは池田先生も偉いと思うし、長谷川理事長も偉いと思う。
仏敵の矢野絢也なんか見かけてもそっぽを向くが、
長谷川理事長にお逢いする機会が万が一にもあったら土下座したい。
いや、元ヤクザが書いた創価学会の暴露本「憚りながら」が出た背景には、
矢野絢也さんがいるような気がしてならないので(怨恨パワー)、
やはり矢野氏にも敬意を表しておきたい。権力(金)がある人は偉いのである。

「黒い手帖」(矢野絢也/講談社)

→副題は「創価学会「日本占領計画」の全記録」。
元公明党委員長による創価学会の暴露本である。
矢野絢也は公明党議員を辞めたあと1993年に月刊誌「文藝春秋」に手記を発表する。
12年後の2005年になってそのときの記事が創価学会上層部で問題化する。
矢野絢也は議員時代黒い手帖に毎日あったことをメモしていた。
「文藝春秋」の手記は、この黒い手帖を元にして書いたと本文で書いていた。
公明党委員長ともなれば、創価学会の表に出せない裏もいろいろ知っている。
それらがすべて矢野絢也の黒い手帖に書かれてある。
学会員は池田名誉会長を筆頭に人間不信で疑心暗鬼になるものが多い。
秘密を知られているかと思うと人間は不安がふくれあがるもの。
こうして創価学会上層部は池田先生をお守りするために
矢野絢也を社会的に抹殺することを決定する。
ある面から見たら美しい師弟愛だが、矢野絢也からしたらたまったものではないだろう。

社会的抹殺とは――。
政治評論家を辞めること。家を売って数億円寄付しろ。
「聖教新聞」等の学会機関紙(誌)による誹謗中傷。
複数の学会員による尾行、盗撮、恫喝、盗聴、嫌がらせである。
矢野絢也に本当の信心があったら、池田先生のためにすべてを耐えるべきである。
池田先生のおかげで矢野絢也は社会的地位と財産を得たのだから。
しかし、矢野絢也と言えば悪人相を見たらわかるよう、
自民党議員から公明党で使えるのは矢野だけ、
と喜んでいいのかわからない(それだけ腹が黒いということだから)
評価を受けている優秀な人物である。
2005年から3年間、学会からの攻撃に耐えたが2008年に造反する。
学会からすれば本物の「恩知らずの裏切り者」になったわけである。
まあ、それ以前に矢野絢也を「恩知らずの裏切り者」とさんざん誹謗したのは学会だが。
学会員は「恩知らず」という言葉を好むが、それは彼らが恩義を重んじているからだろう。
恩義というのはほとんど金のことが多く、
創価学会という組織は上に行けば上に行くほど恩(金)にこだわるようになる。

あの鬼のような顔をした矢野絢也でさえ創価学会は怖いのである。
青年部男子幹部5人から吊し上げを喰らったら、あの矢野でさえ謝罪文を書く。
土下座を要求され自分はしていないと書いていたが、
怒れる正義の青年部幹部に囲まれてあんがい土下座したのではないか。
なにしろ青年部幹部はこういう脅迫を平気で口にする。
谷川総という幹部だ(本人は言っていないと訴訟を起こしているらしい)。
「人命に関わるかもしれない」
「息子さんは外国で立派な活動をしている。あなたは息子がどうなってもよいのか」
さらに公明党OB3人にアポなし訪問され恫喝されたら、
すったもんだはあったにせよ結局あっさり黒い手帖を渡してしまう。
創価学会に呼び出されたら、あの強面(こわもて)の矢野が
繰り返し謝罪して寄付100万を求められたらあっさり払ってしまう。
矢野絢也は創価学会の裏を山ほど知っている男である。
氏は暴露本を何冊か書いているが、書いていない黒い秘密はまだまだあるだろう。
このためいまでも矢野は消されていない、という見方も可能である。
いざとなったらあれを公開するからなという秘密保守による自己防衛、逆恫喝だ。
創価学会の裏という裏を知り抜いている矢野絢也がこういうことを書いているのだ。

「正直に告白すれば、一つには学会が恐ろしかったからである。
臆病風に吹かれたわけではない。組織の中枢にいた私は、
学会の裏面を知り尽くしていたが故に、組織の怖さが身に染みていたのだ」(P25)


創価学会に逆らったら嫌がらせ程度ならまだよく、いわれもない罪で逮捕されることも、
片腕切断もあるし、最悪の場合は命を奪われることさえありうる。
あの鬼のような悪人顔をした矢野が震えあがるほど創価学会という組織は怖いのだ。
創価学会の組織行動でいちばん怖いのは日顕もやられた「でっち上げ」だろう。
矢野のまえに池田創価学会から粛清されたのは元公明党委員長の竹入義勝だ。
残念ながら悪だくみは失敗したようだが、池田創価学会は敵に対して容赦しない。

「公明党[創価学会]は竹入氏を相手どって「党の公金を横領した」と提訴したのだ。
党側は、竹入氏が一九八六(昭和六一)年、党本部で五〇〇万円を出金させ、
そのカネを、百貨店で妻に購入した指輪の代金に充てたと主張、
竹入氏に五五〇万円の賠償を求めた。
裁判では、その根拠として、党側が百貨店の店員の証言などを挙げたが、
二〇〇八(平成二〇)年三月一八日、
東京地裁が下した一審判決では「請求棄却」だった。
(……) 竹入氏は仮にも公明党の黎明期より委員長を長年勤め、
党の発展に多大な功績のある功労者である。
その竹入氏でさえ徹底的に貶(おとし)めようとする。
当時から、明日は我が身と思わないわけにはいかなかった」(P72)


ここで注目したいのはいろいろあるが、正義や友情など、どこにもないのである。
矢野絢也もかつての仕事仲間の竹入義勝が攻撃されているときに、
その苦境を知りながら助けに入らなかった。
竹入義勝からお世話になった学会員は大勢いたことだろう。
しかし、彼ら彼女らのだれひとりとして表立っては竹入の味方をしなかった。
多くの学会員は竹入義勝から受けた恩を忘れ裏切ったのである。
それどころか反対に機関紙を信じて、竹入を裏切り者や忘恩の徒だと攻撃した。
なぜそういうことをするかといったら、
いみじくも矢野が書いているように「明日は我が身」だからである。

創価学会の「でっち上げ」は天才レベルで、
学会正義にとりつかれるというのは怖いとつくづく思う。
もうひとつ本書で知った「でっち上げ」を紹介したい。
本文ではいささかわかりにくいので僭越ながら当方が噛み砕いて説明する。
創価学会と敵対しているおなじ日蓮系の妙観講というグループがある。
学会は妙観講を批判するビラを作り、本部道場周辺にばらまいた。
妙観講は学会を訴えたが、今度は学会が報復行動に出る。
妙観講には学会員を脱会させるのがうまいふたりの女性がいた。
ある正義の学会員の女性は、この妙観講のふたりを家に招待する。
説得にしたがったふりをして脱会届にサインをして本尊(偽物か?)をハサミで切る。
このあとで妙観講のふたりを警察に訴え出たのである。
妙観講の女性二人が宅配便業者を装って自宅に侵入。
無理やり脱会届にサインをさせ、強引に本尊をハサミで切断させられた。
創価学会(公明党)と警察上層部は通じているから、
妙観講のふたりが逮捕されてしまうのである。
わたしからしたら日蓮関係の内ゲバはどっちもどっちという感じがしなくもないのだが、
創価学会の暴露本を読んでいると正義や真実の意味が本当にわからなくなる。
新聞や雑誌に書かれていることだから真実とは限らないのである。

「学会による言論出版妨害事件が起きた一九七〇年代の頃からそうだったが、
学会を批判する記事の掲載が予定されると、
学会が事前にその情報を得られる仕組みができあがっている。
出版社や新聞社が伝えなくても、マスコミ関係者には学会員も多数いる。
マスコミ各社、印刷所などに入る学会員を通して情報があがり、
事前にゲラをチェックして、学会が問題ありと判断すれば、じんわり圧力をかける。
露骨ではないとしても、マスコミ各社は、何らかの考慮をするだろう」(P136)


巨大権力団体の池田創価学会にはアメとムチというふたつの武器があるのである。
アメは金(広告費)であり地位(役職)である。
創価学会の言論統制が最初にあきらかになったのは「言論出版妨害事件」。
このとき「創価学会を斬る」の著者に提示された条件は著作の買い取り、
NHK解説委員の就任だったらしい。
あの田中角栄からこの条件を持ち出され、
にもかかわらず蹴った藤原弘達という人には恐れ入る。
氏が死んだときには葬式に多数の祝電(弔電ではない)が寄せられたそうだが、
日々わずかな金と地位を切実に求めながら生きている学会員が
そういうことをしたくなる気持はわからなくもない。
大半はアメで解決するが、アメを受け取らないやつはムチでたたけ。
わたしはちょっとまえまで集団ストーカーなど存在しないと思っていて、
そんなことを言うやつは精神病かなにかだろうとバカにしていたが、
知り合いが経験したらしく、その話しぶりをこの目で見るとどうやら本当にあるようだ。
集団ストカーほど人を追い詰めるものはない。
精神の弱いものは集団ストーカーだけで自殺まで追い込まれるのではないか。
集団ストーカーは証明できず合法ぎりぎりなので、
こういう仏罰を考える創価学会のあたまのよさには毎度ながら感心する。
やり手で強面の矢野絢也でさえ集団ストーカーというムチには震えあがる。

「組織に付け狙われる恐ろしさは、被害を受けた人ではないとわからない。
何人かの尾行役は、たびたび見るのでわかるが、必ずしも彼らだけとは限らない。
私のわからない尾行者もいるだろう。
向こうはこちらの顔がわかっているが、私には見えない。
外に出れば歩いている、すべての人が敵に見えてしまい、常に怯(おび)え、
警戒しなければならない。相手が見えない恐怖ほど恐ろしいものはない」(P151)


電車でいきなり「この人、痴漢です」と手を取り上げられ、
「そうだそうだ、おれも見たぞ」と一斉に周囲が声を上げるかもしれないのである。
女子高生から「やめて」と大声で騒がれ、
ポケットにはなぜか指紋付きの手鏡が入っているかもしれないということだ。
か弱い女性が集団で殴られているのを見て止めに入ったら
逆に自分が暴力事件の主犯にされてしまうかもしれない。
宮本輝先生もいる創価学会のようなすばらしい団体を批判したり、
あまつさえ恩知らずにも裏切ったりするものは「悪」と思って間違いないから、
学会精鋭部隊のみなさんにはこれからも正義の活動に精進していただきたい。
いったいどれほどの人がいままで無罪で逮捕されてきたかと思うとゾッとする。

わたしはこのところしきりに公明党支持アピールをしているが、
これは身の保全のためもあるが(おまえなんか制裁する価値もないから大丈夫だよ)、
本当に公明党議員は偉いのではないかと思うところがあるからである。
どうせ選挙には行かないんだろう、とか、
口では公明党と言っても違うところを書くんだろうと疑われているかもしれないが、
けっこう本気で公明党に入れようと思っているのである。
ちなみにわたしは公明党の政策を知らないし(そもそも政治に関心がない)、
自分の一票で日本が変わるなど信じたことは生まれてから一度もない。
けれども、公明党である。

「公明党議員は、引退したあと、学会に多額の寄付をすることが、
暗黙のルールになっている。(……)
公明党の議員は、学会員の熱心な支持があって当選する。
議員でいられたのは、学会員の応援あってである。
だから、感謝の気持ちを表すために議員時代の蓄財はすべて学会に寄付し、
恩返しするのが当たり前……これが学会の論理なのだ」(P125)


実際、溝口敦の「昭和梟雄録」を読むと、矢野さんの豪邸はすごいらしいし、
日夜身を粉にして活動する青年幹部や庶民学会員が怒るのも
まったくわからないというわけではないが、
しかし同時に人には能力差というものがあるのだから、
優秀なものが少しばかり蓄財するのがそれほど悪いとも思えないのもまた事実だ。
矢野絢也もこれまで多くの人を世話してきただろうし、
学会の友人や仲間もいると思っていただろうが、
みんながみんな手の平を返したときはどのような気持になったのだろう。
学会員は池田先生さえ裏切らなければ、
たとえ恩のある仲間の学会員でさえいくら裏切っても構わないのかもしれない。
これまで数多くのものから慕われ、
そして同時に多くの手下から裏切られてきた池田先生はどのような人なのだろう。

「池田氏は自分と比肩(ひけん)し得るセカンド・マンはつくらないよう用心している。
側近は連帯しないように分断する。
たとえば池田氏は会長など最高幹部には特命を与える。
名誉会長から特別な指令を受けるのだから、特命を受けた人間は、
それだけ自分は池田氏に信頼され、
見込まれている、特別な存在なのだと思い込む。ところが、あるとき突然、
風向きが変わり、洟(はな)にも引っ掛けられないようになる。(……)
もっとも池田氏に深謀遠慮があって、そうしているのかどうか、外からはよくわからない。
特命にしても寵愛(ちょうあい)にしても、
多分に思いつきだと感じさせられることが多かった」(P166)


けっこうこれが真実の池田先生なのかもしれないとわたしは思うのだが。
池田名誉会長はもしかしたらチョーがつくほどのテンネンなのではないだろうか。
思いつきでころころ意見を変える定見がない自由な人だったのではないか。
そのうえ個々の師弟関係で情報が上がってくるから(先生に気に入られたい!)、
なにがどうなっているのか全体がつかめず、
だったらデタラメいいかげんにやってしまえと思っていたのではないか。
なにも考えていないテンネンの人は、とても深い人のようにときに見えるものである。
池田先生はなにも考えていないのに、手下のものがいろいろ考える。
矢野絢也もあたまがいいからいろいろ池田先生からは悩まされたことだろう。

「竹入氏と私は必ずしも一枚岩ではなかったが、それでも
「池田氏に仲がいいと思われると、ろくなことがない」と二人で話し合い、
池田氏の前では、あえて距離を置いている風を装っていたこともある」(P167)


みんな先生から認められたいから池田名誉会長にあることないこと密告して、
結果として先生の人間不信は高まるばかりで粛清がたびたび行われたのだろう。
矢野絢也を総攻撃するよう池田先生にご注進したのはいったいだれか。
一部には、警察ともヤクザとも昵懇(じっこん)の仲である藤井富雄ではないか、
といううわさもあるが、
今度は仕返しとして藤井富雄の息子あたりがねらわれるかもしれないのである。
長々と感想を書いてきたが、
いくら偉くなっても人生全体で見るとあんまり楽しそうではないのだなあ。
裏では上のほうってかなり通じていて、庶民は踊らされているだけなんだろうなあ。
創価学会は怖いから、絶対に敵として見なされたくない。
そうだ、そうだ、矢野絢也は恩知らずの悪党だ。
裏切り者はやっつけろ。それ行け、学会員! わたしは学会員を応援している。