身をもって景気がよくなる秘訣がわかった!
大企業が人件費を惜しまず、
じゃんじゃん使えば結果として景気がよくなるのではないか?
わたしはいまセブンイレブンで買い物をできるくらい景気がいいのである。
とはいえ、ある人に金額を言ったら、もっともらっている人は山ほどいるのよ、
と鼻で笑われたけれど。お金が入ってきたら、そら使うわな。
貯め込んだっていつ死ぬかなんてだれにもわからないのだから。
当方は健康リスクをほとんど気にしないタイプだし(ちょっとは気にするよ)。
金が入ってくる。後先のことを考えず、目先だけを見て金を使ってしまう。
いつもはスーパー半額しか買わなかったものが定価コンビニグルメを味わうかもしれない。
まずいものもあるけれど、意外とこれはこの価格ならうまいじゃんということに気づく。
「うまい/まずい」というのは食べてみないとわからない。
当座の金が入ってこないと、新しい高価なものを食べてみるという実験ができないのだ。
食べてみてこれはうまいと思ったら、口コミで広がるわけだ。
いまはだれも正体がわからないインターネットという化け物がある。
ネットでの個人発信はアクセス数ではないのである。
だれが読んでいるか、なのだ。
わたしよりも影響力のはるかに高い人がお読みくださっている可能性がある。
基本、うちのブログのおもしろさがわかるのは賢い人だから少数派になる。
で、これがうまい、これがおもしろいという話が広がったら、
ほかの人もいままではきつく締めていた財布のヒモをゆるめてみるかって話になる。
おいしいものを食べたり、おもしろいものを見るのは気分がいい。
みんながみんなもっと寛大になり、ギスギスしなくなり、まあ幸せになるといえよう。

最初の一手は人件費なのである。
経営者がせこせこと損をすることばかり気にしているとダメ。
あはっ、こんな損をしたぜ、と笑っちゃうくらいがいい。
その損がまわりまわって結局は自企業のプラスになるのだから。
最初に損をする人がいないと絶対に景気はよくならないのである。
マイナス(損)はプラス(得)なのだが、
そこをわかっている大物が上のほうにいないと景気も経済も活気もなくなる。
おれはこんな散財をしたぜ、と自慢できるのが大物の証拠かもしれない。
わたしは小物なので、さっきセブンイレブンで2千円も使ったことしか自慢できない。
すげえんだなあ。たまたまの偶然だろうけれど、
あれだけ接客のよかったセブンがすごいことになっている。
わたし、買ったものをぽんぽん投げられて。
店員さんのポップ(手書き広告)がついていた「10種具材のミックスサラダ」199円を
わざわざ律儀にも買ったのに割りばしをつけてくれない。
サラダは朝に買うOLが多いそうだが、
割りばしがついてなかったらクレームが来ると思う。
しかしまあ、べつに家で食うからどうでもいいともいえる。
コンビニはせめて廃棄食品をバイトに無料で好きなだけ上げてほしいと思う。
大学時代バイトをしていたコンビニでは廃棄は持ち放題だった。

このたびわかったのはケチケチしないことの重要さ。
大企業は社員や派遣、パートもお客さまだということに早く気づくべし。
うちの近所のマルエツなんてトップが賢いのかさっそくそこに気づいたようで、
いつもは深夜は数人でまわしているのに今晩は大勢店員がいた。
そのためかいつもに比べて店内が活気にあふれ繁盛していた。
パートもお客さんなのに、そこでケチったらお客さんは投機的購買をできない。
すると、どんどん人生がおもしろくなくなる。表情もブスっとするだろう。
みんながみんな他人のミスばかり気にする、いやな他罰的な傾向になろう。
損をするのが得になる近道なのに、だれもが損をしまいとばかりするようになる。
ここは上のほうの人が思いきった損をするしかないのである。
それは結局、返ってくるようなところがあるのかもしれない。
うちの派遣会社もえぐいことをしていて大好きだ。
ご存じない人もいるかもしれませんが、企業は派遣会社にいくらの金を支払っているか。
派遣がもらっている給料のほぼ同額を派遣会社も得ているのである。
見えないちからで派遣をぶち込めばぶち込むほど派遣会社はもうかる。
いまのわが周辺はみんなおもしろいと思う。
派遣会社も人が余っているところに人材をばんばんぶち込むし、
どういう利害関係があるのか受け入れ先企業もそれを断わることができないようだ。
そして、一見損をしているように思えることが、のちのちの得になるのである。

近所のセブンイレブンでポップがついていた「10種具材もミックスサラダ」は
いま食べているがとてもうまい。生き生きした生命を食しているという感じがする。
まさかこのおれがコンビニで生野菜サラダを買うほどになるとは思わなかった。
2百円あれば半額あんきもだって買えてしまう場所に住んでいるのにもかかわらず。
食べてみないと味はわからないが、金が入ってこないとその実験ができないのだ。
「金のビーフカレー」の横にある「金のビーフシチュー」は日本ハムではないのか。
「金のハンバーグ」は日本ハムとセブンのコラボなので買ったけれど。
コンビニでチーズなんて一生買わないと思っていたが、
200円程度の価格帯の6Pチーズもよく見るとあるんだなあ。
本当に味のわかるバイヤーがマイナー企業からおいしいものを買いつけ、
それをセブンイレブンブランドで売りヒットさせれば、これほどいいことはないのではないか。
いまは無名の中小企業はどうやっても大手にかなわないのだが、
そこを大企業に目をつけてもらえたらって話。
あんがい日本ハムではない「金のビーフシチュー」こそ美味なのかもしれない。
高いけれど、いまだけいまだけちょっぴり景気がいいので、今度買ってみよう。
損(ってなに?)をしたほうが得(ってなに?)になるのかもしれないわけだから。

ある人おすすめの「うにせん」もさっきセブンイレブンで買った。
裏を見ると、たしかにこれはセブンでしか買えないんだな。
いま食べているが百円でこれなら、たしかにうまい。経済的でお得だ。
こんな商品がコンビニにあるなんて知らなかった。
コメント欄ですすめられた「たまご」を大したことがないと書いたが、
もしかしたら「ゆでたまご」ではなく
「とろっと卵黄の半熟煮たまご」かもしれないと思って、
今日ふたたび2個で150円近くする「たまご」を買ってみた。
お金があるっていいなあ。いろいろな損(実験)をすることができる。
もしかしたらその損こそ得になるかもしれず、
いまの得こそのちのちの損になるかもしれないのだが。
みんながあんまりマイナスを気にしないようになると、
世の中はプラスになるのかもしれない。
酔ったいきおいで書くと、いまは人生の花時という可能性もある。
去年もおもしろかったが、今年は最高にエキサイティングだった。
この調子だと来年はどうなるのだろう。
繰り返すが損(マイナス)は得(プラス)なのかもしれない。
プラス(得=善)はマイナス(損=悪)なのかもしれない。
プラスとかマイナスとか、真実はなにもわからないのかもしれない。
そこがおもしろく、「わからないことがわかる」と人は生き生きしてくる。
おなじものばかり食べていると飽きるから、
新しいチャレンジをするのも悪くないのかもしれない。
そのために必要なのは金だ。
やばいっす。いまセブンイレブンの「金のビーフカレー」が食べたくて仕方がない。
でも、このところ毎晩行っているから、覚えられているかと思うといやいやいんや。
わざわざ遠くのセブンに行くのもめんどい。
セブンと日本ハムのコラボは、すごいうまいのではないかという気がして。
おししいものを食べたいなんて俗っぽい欲望だが、
おいしいものはおいしいんだもん。
セブンゴールドシリーズをいろいろ食べてみたい。
著作を読んだらセブンの会長いわく、あれは多少高くてもいいから、
とにかくうまいものをお願いしますと専門メーカーに依頼したものらしい。
その代わり、全部買い取りますよ、という約束。
やっぱおいしいものっておいしいよねえ。
空腹こそ最高の調味料とはいうけれど、おいしいものはおいしいわけで。
尊敬する小林秀雄賞作家、朝日賞作家の山田太一氏は、
食べ物のうまいまずいをいうのはみっともないという価値観がおありのようだが、
それは戦争を経験した世代だからで、
そういう飢餓を経験していないと、どうしてもおいしいものを求めてしまう。
セブンの豚角煮とか金のハンバーグはいったいどんな味がするのだろう。
もう読書感想文ブログなんかやめて、
ありきたりなグルメブログに転向しちゃおうっかな♪ まーさかっ♪
むかしインドに行ったときさあ、屋外でビールをのんでいると虫が落ちてくるんだわさ。
いっしょにのんでいたフランス人が、これがインドさ、
みたいな感じで指で虫をすくい取りだし平気でそのビールをのんでいた。
インド旅行経験は2回しかないけれど、
これは大学生時代の1回目の経験で、郷に入ったら郷に従え。
ああ、そういう世界もあるんだと思った。
わたしのビールにも虫が落ちてきたけれど、真似をして気にせずぐびぐびのんだ。
この経験が二度目の3ヶ月インド徘徊をさせたのかもしれない。
インドでは、きれいとかきたないとかめちゃくちゃなんだよね。
口だけかもしれないが、わたしは虫が入っていた食べ物でも口にできる自信がある。
外食チェーンの厨房(キッチン)は、うっかり落としたものでも客に出しているでしょ?
べーつにさ、「3秒ルール」ではないけれど、
床に落としたものを食べたって健康に害はないし、味も変わらないわけだ~な。
それを言っちゃあ、おしめえだよ、という話なのだが。
台湾の屋台で不衛生な刺身を食っても大丈夫だったし、
食に関してはみみっちい武勇伝がけっこうあるのである。
虫が入ったカップ焼きそばだって、虫だけ捨ててお湯を入れて3分で完成させ、
そのことを知らない人に「はいよ!」と差し出したら、
味はいつもとおなじで健康被害もないというのは経験的な真実である。
さすがにそうと知っていたら、
よほどの空腹以外はいまの日本に生きているものとして口にできないけれど。
戦争中や敗戦直後の食糧難だったら、虫でも食ったわけでしょう。
虫混入事件があったらしいペヤング(カップ焼きそば)はあまり好きではない。
このジャンルなら明星の「一平ちゃん夜店の焼きそば」がいちばん好きかも。
正規のペヤングは苦手だけれど、赤い辛いやつはたまに食べたくなる。
小さいころ食べさせてもらえなかったせいか、
下品な身体に悪そうなものほどうまいよねえ(だがマックは嫌い)。
へんにかしこまった高級懐石料理みたいのも清く正しい政治家みたいで嫌い。
セブンイレブン会長の本を2冊読んだ。
またべつに読書感想文を書くが、読みたてほやほやの状態で思ったことを。
お客さまの立場からものごとを見るのが重要というのが
巨大成功者の最大メッセージだろう。
一度もレジに立って接客したことのないという(そういう告白をできるのはすごいが)、
エリートでウルトラ成功者の会長の書けなかったことに気づく。
お客さまの立場で考えるといっても、お客さまは百人百様なのである。
ある人はフレンドリーな接客を好むだろうし、べつの人は機械的な対応を好む。
まあ、そこらへんを臨機応変(対機説法的)にうまくできるのが
接客のプロなのだろうが、それはマニュアルやセミナーで教えられるものではなく、
持って生まれた資質によるところが大きいような気がする。
うまい人はうまいし、へたな人はへたなのだ。
わたしにかぎっていえば時給千円未満のパートさんに完全な接客を求めることはない。
それは好ましい接客をされたら気分がいいけれど、
それは今日は運がよかったと周囲に微笑の輪を連鎖させていくけれど。
バイトが客の悪口をいっているのなんて、
接客バイト経験があればだれでもわかることだから、
顔を覚えられる恐怖におびえてコンビニを転々とする客だっていることだろう。

わたしがお客さまの立場としていうならば、
コンビニは弁当や食品のカロリー表示をやめてほしい。
ぶっちゃけ、それほどカロリーは健康や肥満と影響していないのではないか。
いくら食べても太らない人がいる一方で、いくら減食してもやせない人はいるわけで。
800カロリーとか千カロリーとか書いてあると、
買うのも食べるのも躊躇(ちゅうちょ)してしまう。
そんなものはかえって知らないほうがいいし知りたくもないが、
書いてあったらつい見てしまう。
近所の肉屋の弁当はカロリー表示をしていないからいい、ともいえよう。
けれども、こういう客の意見は少数派でしょう?
わたしがお客さまの立場で考えたとしても、こういう限界があるのである。
そういえば、カロリーを表示しているものを買いたがらない傾向がある。
おいしくて安ければ(価格が妥当ならば)、客(わたし)はそれでいいのだが、
そうではない客(多数派?)もいるというこの問題は解決策がない。
「いやなら来るな!」と頑固ラーメン屋のように居直るしかない。

あまりにもチェーン店の接客がよくなりすぎたから、
頑固ラーメン屋のようなものが一部の層に支持されるのかもしれない。
1杯千円近くするラーメンを店主の命令通りに食うなんてまっぴらごめんだが、
そういうマゾ体質を持つお客さまもきっとたくさんいるはずなのである。
お客さまといっても人それぞれ。労働者といっても人ぞれぞれ。
セブンイレブン会長だってレジはできないわけで、
そしてかならず嗜好(しこう/好き嫌い)というものがあり、
会長の舌が断じてお客さまの舌を代表しているわけではないのだが、
氏のたまたま食べた自社の弁当が(そのときの体調もあるだろうに)
気に食わなかったら責任者は叱責され、
その場でその瞬間に全店から対象商品を撤去させるらしい。
そのとき、その食品をおいしいと思って
毎日のように買っていたお客さまは完全無視されるのだが、
世の中そんなもんだし、それでいいような気がする。
コメント欄ですすめられたので、セブンの「味付き半熟ゆでたまご」を食べてみた。
たまごは10個百円購入がつねの当方には、
この程度のゆでたまご2個で150円はないと思うけれど、
全店から撤去させる必要はさらさらございませんし、
そんなことをしたらこの食品が好きな人を困らせてしまうことを知っている。

そうそう、ペヤング(カップ焼きそば)に虫が入っていて全品回収したらしいけれど、
そこまでする必要があるか?
あんなものは飛行機事故に遭遇するレベルの稀有なめったにない事象ではないか?
全品回収したらほかのお客さまを困らせてしまうわけでしょう?
虫が入っていたらラッキーで、ペヤング100個交換券をプレゼントすればいい。
確率はわからないが、
あんなのは1億個(10億個?)にひとつくらいのレアケースのはず。
むかしはそういうことがたとえあっても新聞やテレビは報道しなかったけれど、
いまは新聞やテレビが手をこまねいているあれがあるからねえ。
ニュース報道なんてある意味詐欺で、ある事件を報道したということは、
べつのことを大衆に伝えない方便(言い訳)になるくらいなのだが、
それを悪いと批判しているわけではなく、
コンビニ弁当のカロリーのように知らなくてもいいことはたくさんあり、
むかしはよかったなどとおじいさんみたいなことをネットで発言してしまう。
シェイクスピアに「間違いの喜劇」という作品がある。
考えてみたら、劇というのは間違えることから生じているところがある。
むかしから劇が好きで、そのころは(いまも?)権威主義だったので、
シェイクスピアやギリシア悲劇を全作品ひまにまかせて読んだものである。
どうしてかわからないが、戯曲(芝居の台本)も山のように読んでいる。
単におもしろいものを読みたかっただけなのだが。
小説もいいけれど、戯曲のほうがおもしろいと長らく思っていた。
(そういえば最近、戯曲を読まなくなったなあ)
こういうわたしは劇的存在なのだろう。
劇的存在というと格好いいが(そうかしら?)、間違える天才のようなところがある。
よく間違えるんだなあ。今日も危なかった。
乗換駅で反対方面の電車に乗ってしまい、到着時間がギリギリになってしまった。

間違う、間が違う、とは空気が読めないということなのだろう。
でもさ、たしかにミスはいけないが間違いもまた笑えるでしょう?
わたしなんかパンダみたいなものだから、つまり希少動物なんだから、
もう笑って許してよって思うしかなく。
今年バイトを辞めた大好きだった書籍倉庫でも最初は最高記録(?)の
ミスをつくったような気もするけれど(わからないけれど)、
最後のほうは少々まともになっていたから、
もう知的障害者枠のようなものだと思って、そこはあきらめて、やれやれと。
ちょっとつぐないをできたかなと思ったのは、
今日帰宅したのは0時半とわたしがいちばん遅いのではないか。
帰りの電車賃がかかったのも当方だけだろうがあえて請求するつもりもないし。
おしゃべりタイムがあって楽しかったしなあ(←なんて書くのが空気が読めない証拠)。

けどさ、でもね、駅を降りてマルエツに入ったら
いつになくめずらしくレジ店員がおしゃべりをしていたけれど、
不愉快どころかかえって客のこちらもいい気分になったけれどな。
苦役のように押し黙って労働している人を見るより、接客業では(以外も?)
ひまなときは店員同士がおしゃべりしているくらいでもいいのでは?
見えないちからに動かされて、恒例のセブンイレブンチェックもしてしまった。
このブログに書いていることは間違いだらけだから。
消えたと書いていた「あじ南蛮漬け」がしっかりとあった。
在庫があれば礼儀上買ったが、売れ切れていたので購入せず。
代わりにここ10年(15年?)くらい食べたことのないコンビニ弁当を買ってしまった。
コンビニ弁当は高くてまずいというわたしの感覚が間違っているかもしれないわけだから。
いま思い出した。最後に買ったコンビニ弁当はエーエムピーエムの「とれたてキッチン」で、
だとしたら10年食べていないというのは大げさで6、7年くらいだろう。
いまもいま調べてみてエーエムピーエムが4年まえに消滅していたことを知る。
わたしが好きなものは消えてしまうという不思議な法則が、ここでもか!
今日も予備のために買ってしまったセブンイレブンの
「金のビーフカレー」もやばいかもですぞ、あはっ。
なくなるまえに味わえ、みなのもの♪
ただし、あなたがあれを高いと思ったりまずいと思っても、
それは間違いではなく絶対に「正しい」。
結局、「正しい」ことというのは、それぞれが心中で「正しい」と思ったことなのだから。
わたしにとってリアリティとは、いま目のまえにいる人のことである。
いま目のまえにいる人は、リアルでしょう。その人の発する言葉はリアルだ。
いまわたしの目のまえにいる人の言動は、
うそとかほんとうとかそういう言語レベルを超えた真実性がある。
まるで離人症のようだが、リアリティに飢えているところがあるのかもしれない。
リアリティというのはわたしの経験によって左右されるものでしょう?
「苦労人はやさしい」というテーゼ(題目)がほんとうかどうかは、
上の人は自分で下に降りて冷暖自知する(味わう)しかないようなところがある。
もしかしたら苦労人はぞっとするほど陰湿で意地悪なのかもしれない。
そうではないのかもしれない。
明るく現実を笑っちゃうような陽性な部分があり、好ましい人たちなのかもしれない。
いま目のまえにいる人のリアリティほど重いものはない。
現実っておもしろいし怖い。ひと目見て嫌いな人でも、
なかに踏み込んで行けば(行くか?)魅力的なケースも多々あるわけだ。
それが完全なるリアリティかといえば、そうでもなく、
その人のことはだれにもわからないのだろうけれど。
言語(言葉)はなまのリアリティからもっとも程遠いものでありながら、
リアリティを伝えるには言葉(言語)に頼るしかないという絶対矛盾がある。
困っちゃうなあ、もう。
いまあなたの目のまえで起こっていることが、おそらくもっとも「正しい」。
数年まえに放送された山田太一単発1時間ドラマ、
「よろしくな。息子」はコンビニを卒業して職人世界へ行く青年の物語という
解釈もできなくもない。
コンビニは人情ドラマとは正反対の世界だが、
べとべとした人情がうざいというのもまた真実。
商店街のごひいきさんとか、ほしくないものも買っているのではないか?
そのぶん、ほしいものを正直にロボットのような店員から買えるコンビニはいい。
プライベートに絶対に干渉されないのがコンビニ空間である。
コンドームを買ってもなにも思わない店員のいるところがコンビニの魅力だ。
スーパーの店員とコンビニの店員とどちらが人間味があるかといったら前者。
でもさ、そういう対面の会話は、
日々人間関係にあくせくしている平均以上収入の人にはうざいと思う。
だから、コンビニはいい。
しかし、コンビニ世界は人それぞれを描く山田太一ドラマ世界とは相いれない。
巨匠はドラマ「よろしくな。息子」でマニュアル主義を否定しながら、
同時にコンビニ店員にもこんな人がいるという現実感(リアリティ)を示した。
うまいなあと思う。他人のお金の重みを熟知した、
成功者の書いた名作1時間ドラマであったように思う。
コンビニは老人を取り込むことに成功したが、
ネットは老人から嫌われてばかりなのがおもしろいともおもしろくないとも。
ある作品をリアリティが欠如していると批判する人がいる。
わたしもかつて自死遺族としての経験から
山田太一ドラマ「本当と嘘とテキーラ」をリアリティがないという形式で批判したことがある。
のちにシナリオで読み返して、
リアリティの欠如という文脈で批判した自分は間違えていたと思い直した。
こういうドラマのようなこともあるかなと過去の自分を否定した。
リアリティとはいったいどういう意味の言葉なのだろう?
最近はまったく国語辞典を使わず知らない単語はネット検索しているが、
リアリティとは「現実、真実性、事実、本質などを意味する英単語」らしい。
しかし、リアリティという和製英語は、現実でも真実性でも事実でも本質でもない。
それはリアリティとしか言い表わせぬ言葉になろう。
このリアリティという言葉の使い方に、使い手のリアリティが大きく関係している。
なにが言いたいのかっていうと、リアリティというのは人それぞれではないか?

以前、同世代の女流作家が書いた少年小説を、
女性読者複数がリアリティがあるとネットで絶賛していた。
だが、かつて少年時代があった男のわたしからしたら、
その少年小説はまったくリアリティのないものだった。
こんな男の子はいるはずねえよっていう。
原爆ドラマをリアリティがないと批判するのもおなじこと。
そういう批判をしたあとに脚本家が原爆二世だと判明したら
リアリティはどちらにあるのか? くだらぬわたしの話をすると、
わたしが実際に経験したいろいろなことを書くとリアリティがない気がする。
そんなこと本当にあるわけないっしょ? というハプニングに多く遭遇している。
どうせ書いても本当のことだとだれにも信じてもらえないから書かない。

やはり同性愛者のリアリティはノンケ(異性愛者)にはわからないような気がする。
ひるがえって、なにかに強烈なリアリティを感じるとはどういうことだろう?
みんながリアリティを感じている高視聴率の犯罪ドラマがあったとする。
ひとりこのドラマは本当じゃないと批判するものがいた。
多数派はこいつはイカれているのではないかとこっそり思う。
しかし、じつは彼にこそリアリティがあり、男には人を殺した前科があった。
どちらがリアリティがあるかといえば、ひとりの男だろう。
だが、リアリティというのはそういうものではない。
「リアリティの欠如」とは、当方の経験からは受容できない物語だ、という意味になろうか。
わたしは多くの恋愛物語をリアリティが欠如しているため嫌っているが、
これは間違えているのは当方でリアリティは向こうにあるのである。

「おまえは被差別部落を差別するな、人間は平等だ」と怒鳴ったら、
相手が部落出身であることをニヤニヤしながら語り出したら、
まったくもう本当にこれはリアリティの恐怖と言うしかない現象である。
孤児院を舞台にした野島伸司ドラマ
「明日、ママがいない」は世間からさんざん叩かれた。
みなみな孤児院はそういうものではないと信じたかった。
たとえば朝日新聞読者のような善良な正義の人たちが、
こんなドラマにはリアリティがないと大騒ぎする。
いったい実体験を持つ孤児院出身の方は「明日、ママがいない」を見たらどう思うのか?
しかし、そういうリアリティ(実体験)よりも
多数派のリアリティ(妄想/未経験/実体験)のほうが
リアリティがあるとされてしまう恐ろしさがある。
ちまたで評判の高いセブンイレブンの金のカレーは、
レトルトではなくおつまみの横の冷蔵コーナーに置いているものらしい。
そんなことさえ「ふつうの人」は知らないわけだ~よ。
自称カレーマニアの当方がはじめてセブンの「金のビーフカレー」を口にしてみた。
350円くらいだったのかしら。
感想は、これは麻薬でも入っているんじゃないかというくらい中毒性がある。
はじめてグリコの「LEEカレー」を口にしたときの感動と似ている。
むかしは「LEEカレー」が大好きでよく食べていたが、
いまが嗜好が変わり家に常備もしていないくらいだ。
「金のビーフカレー」は含み味がすごいなあ。
これを350円で出されたら、世のカレー屋さんはどうなるのっていう話だ。
とはいえ、国内の外食はあまり好きではないので、レトルトカレーとの比較だが。
おそらく、こういう採算ぎりぎり食品の威光で、
他のセブンイレブン・ブランド食品が光っているのかもしれない。
製造元を見たら、また日本ハムなので、本当にすごいのはハムかセブンか。
日本ハムなんてプロ野球からも撤退しちゃったし、企業イメージがどうもねえ。
ああ、誤記を恐れて調べてみたら、まだ北海道に野球の日本ハムはあるのか。
というか、そのへん本当によくわからないほどの世間知らず。
日本ハムが日本ハムの名前で売っても売れないものが、
セブンイレブンなら売れるということがあるのかもしれない。
しっかし、全国どこでもおなじ味のカレーが食べられるというのは均一化、同一化。
いまは物流の発達で本物のご当地グルメなんかないとも言えるわけで。
その象徴がセブンイレブン(日本ハム)の「金のビーフカレー」なのかもしれない。
彼女がつくってくれたカレーやおふくろカレーと
セブン(ハム)カレーがどちらがうまいかはみなさまの味覚しだいだろう。

セブンイレブンのツナタマサンドは相変わらずおいしい。
あれは具をケチケチしていないところがいいような気がする。
菓子パンって貧乏くさいけれど、コンビニのサンドイッチはリッチ感がある。
スーパーのサンドイッチが絶対かなわないのがなぜかコンビニのサンドイッチ。
その最高峰がセブンイレブンのサンドイッチなのかもしれない。
ひとつのものが突出した美味であれば、それは自社ブランドになり、
ほかのものも多少高価でも買ってもらえるのかもしれない。
彼女や母親というブランドもありだが、セブンイレブンというブランドもあり。
コンビニは身近なデパートのようなものかもしれない。
デパ地下は半額にするけれど、コンビニは廃棄する。
その捨てるいさぎよさがコンビニの絶対的魅力であろう。この価格でしか買えない。
よおし、明日にはセブンイレブン関連書籍が複数冊届くようだ。
なにか見えないちからに動かされるようにセブンイレブンでたくさん食品を買ってしまう。
見えないちからって怖い。
当方は39歳で、おそらく世間的価値観からしたらあまり幸福には見えない男だ。
コンビニとは、正直あまり縁がなかった。
大学生時代にエーエムピーエム(いまもあるの?)で夜勤のバイトをしたことがあるくらい。
人ってご縁がないと変わらないじゃないですか?
ヤクザは悪い、政治家は悪いとか思い込んでいる庶民がたくさんいるけれど、
実際に食べて(接して)みないとわからないわけで。
その食べてみるって行為が難しいんだなあ。
たとえばインドにはリピーター旅行者が大勢いるけれど、
それは最初にインドに行く勇気みたいなもの(←大げさ)があったからでしょう。
ウニは大好物だが、あれを最初に口にした人はほぼ絶対キチガイでしょ?
あんなキモいものをよく食ってみようと思ったものだ。
いまは高額で取引されているが、最初に食べた人は食べ放題無料だったのである。
価値がある=金になる=おいしいっていったいどういうことなのだろう?
ウナギなんかいまべらぼうに高くなっていますよね?
ここ10年でいちばん高騰したのはウナギではないか?
ウナギは好物だが、長らく(といってもむかしの話)中国産半額ばかりだった。
一度機会があって国産高級ウナギを食べたらパサパサしていてまずいのである。
変なことをいっぱいされて飼育された中国産ウナギのほうが脂っこくてうまい。
いまはどっちもどっちで、国産のウナギのほうがうまいという意見もわかるし、
どちらかと言えばそちらの老人的グルメ観に与している。
あっちのほうが本当のおいしさなんだなという、どこかしら偽善っぽい味覚。

セブンイレブンでいかにもうさんくさいクリスマス特別料理の
「スモークサーモン明太ポテト」を買ってみた。
深夜に買ったから売れ残っているところが証拠なのかもしれないが
(あるいは大量発注?)、これに300円出せる人はすごいなと思う。
スモークサーモンを一度も食べたことのないお子さまなら大感動する味かもな。
うちの近所は貧民街(?)なので
スモークサーモン6、7枚がときに200円で買えるのだが。
わたしはサーモンが好物だからあれこれ食っているのだが、ううむ。
だれがこのメニューと価格にOKを出して、
いったい利益率と廃棄率はどのくらいだったのか。
売れないのはオーナーの販売努力が足らないからと本社では言っているのだろうか。
そもそもコンビニには公共料金支払い以外めったに行かない男だが、
このたび見えないちからに動かされるようにセブンイレブン食品を購入している。
今後もしばらく続くかもしれない。
考えてみたら、いつ死ぬかわからないのだから、
損得なんてどうなっているのかわからない。
セブンイレブンの「スモークタンスティック」もまた買ってみた。
どうしてセブンイレブンにこういうものが売っているのか知ったかと言えば、
それは見えないちからというほかなく当方も理由はわからない。
「スモークタンスティック」は強烈にうまいな。これで百円ちょっとは安い。
わたしが好きなものはすぐ消えるから、これは貴重価値が出るかもしれない。
百円ちょっとでこれが出せるのはすごいって調べたら、
つくったのは日本ハムでお問い合わせ先も日本ハムになっているのが
世の中の裏、裏、裏を感じさせておもしろい。

セブンの「金のカレー」は半端なくうまいという説をネットで読んで、
かなりまえ近所の店に行ったことがある。
「金のカレー」がどこにあるのかわからなくて
外国人の店員さんに聞いたらレトルトカレー棚を紹介された。
さほどうまくないという感想だった。
しかし、見えないちからで「金のカレー」とはレトルトカレーではないことを知る。
冷蔵コーナーで売っているあれを「金のカレー」というのか。
300円程度ならそこまで超高級というほどではない。はじめて買ってみた。
わたしはカレーが大好きで、どのくらい好きかというと、
インドのカレーもタイのカレーも日本のカレーも大好物と同語反復を繰り返したいくらい。
いまから湯煎して(お湯であっためて)食べてみるが、
わからないのは当方の感想が「正しい」のかどうかだ。
結局、売れたものが「正しい」となるのではありませんか?
あるいは権威のある銀座の寿司屋のウニはうまい、みたいな。
いや、一流のウニは半端なくうまいのだが、しかしどうしてそれはうまいのか?
セブンイレブンのツナタマサンドってまだあったんだね。
わたしがいまのところセブンイレブンでいちばん購入した回数が多いのは、
おそらくツナタマサンド。
なんでもセブンの食品はおなじに見えて少しずつ味を変えているそうだが、
消費者の舌も日々変化しているのだから「正しい」と思う。

いきなり話は変わるが――。
紫綬褒章作家で芥川賞選考委員の宮本輝氏は小説「三十光年の星たち」で
「ツッキッコのスパゲティ」という料理を登場させている。
それは庶民から愛され、そのレシピは秘伝で、絶対に「正しい(おいしい)」という。
そのレシピはとにかく絶対で、変えるなんて言語道断とんでもない。
しかし、氏の所属する庶民派団体の創価学会はころころ教義を変えているのである。
創価学会が「正しい」理由は教えをそのときどきで変えているからではないか?
むかしは日蓮正宗とべったりだったのに、いまは反目している。
いや、本当の現在は和解交渉が進んでいるのかもしれない。
そういうころころ意見を変えるタヌキなところが、創価学会の「正しい」理由ではないか?
みなさん、自分は首尾一貫していると考えているでしょう? そこが間違いだ。
矛盾してころころ考えを変えるところがおもしろくて、ある意味で「正しい」。
わたしは(西洋)哲学は嫌いだが、
むかし西田幾多郎という偉い人が「絶対矛盾的自己同一」という言葉をつくったらしい。
絶対に矛盾していることが自己のなかでは同一化しているという意味だろうか?
西田幾多郎なんて読んだこともないし、
一生読まないだろうから「正しい」意味はわからない。
テレビライターの山田太一氏は、
中学生時代に教師から「絶対矛盾的自己同一」という言葉を教わったという。
こんな言葉は中学生にはわからないから西田幾多郎など読まなくていい。
師の教えを守ったのか、山田太一さんは西田幾多郎を読んだことがないという。
ところが、社会に出てから、ふっと「絶対矛盾的自己同一」という言葉を思い出した。

「いつだったか忘れたが、急にあの「絶対矛盾的自己同一」って、
どういう意味なんだと昔の言葉が甦(よみがえ)ったのである。
そうなんだ、と思った。矛盾していいってことなんだ、
[映画の]キャラクターに矛盾があってもいい、物語に一貫性がなくてもいい、
いや矛盾はなければいけない、人間は矛盾しはみ出すものがなければいけない、
それらを豊かに抱合して一個の生命体であるような映画をつくれといってるんだ、
と西田さんの本は一行も読んでいないのだから無茶苦茶なのであるが、
これは詩だ、この一行で充分と、勝手ながら教訓を得た気持になった」(「月日の残像」)


あんがい人間っておなじものを食べても、あるときはうまい、
またべつのときはまずいと思うものなのではないだろうか?
おなじものをいくらで食べたかによっても感想は変わる。
だれがつくったかによって変わるのは言うまでもない。
スーパーで買ってきたものでも恋人が自分でつくったといえば味は変わるってこと。
それは矛盾しているじゃないかと言われたらその通りだが、
この矛盾こそ「正しい」ような気がしてならない。
もう矛盾だらけでボロボロで、
このブログ記事でなにを言いたいのかは自分でもわからない。
それはあなたさましだいということが言いたいことなのかもしれない。
善とはなにか? 悪とはなにか? 「正しい」とは? どう生きたらいいのか?
こういうことを突き詰めて考えると、発狂どころか身体にも変調をきたす。
1週間まえとか原因不明の吐き気がすごかったもん。
多くの人たちといっしょに本当に微力ながら働いていると、
そういう観念はどうでもよくなるのでとてもいい。
それぞれ内面にはいろいろ抱えているんだろうけれど、
「ふつうの人」にならなければ働けないわけで、
使えないながらもそういう人たちに混じって身体を動かしていると悩みが消える。
考えるまでもなく、
腰のちょっとした痛さのほうが善悪観念よりも重いと言えなくもないわけだから。
きっと結婚して子どもをつくっちゃったら男女ともに、
善悪や「正しい」ことを考える暇も余裕もなくなるような気がする。
いまの派遣先でどのくらいの人が結婚しているのかなあ。
もちろん、プライベートは聞けないけれど。
意外と多くの人が結婚していると思うと、それって「ありふれた奇跡」だよね。
えええ? この人が恋愛の真似事をして、プロポーズとかしちゃったの、って思うと。
こういうことを書くのは不謹慎かもしれない。

「いつも喧嘩ばかりしている肉屋の夫婦はどうして結婚したんだろう」
このアメリカテレビライターの言葉は、
青年時代の脚本家・山田太一氏に強い影響を与えたという。
いまの派遣先には以前にも行ったことがあり、複数の人たちと再会した。
前回なぜか座談会のような雰囲気になって、
それぞれの人のプライバシーを少しばかり知っていて、それは忘れられない。
この人のご主人はお病気なんだよなあ。
この人の旦那さんって気が荒くてたまに奥さんに手を上げるのか。
男はたしかあのイケメンだったよなあ。
前回の派遣仕事ではそういう日常光景の香りがとても新鮮で、
ふわふわ、わくわくしているところがなくもなかった。
働くってそういうことじゃないんだろうけれど、ごめんちょ。
反面、生活べったりの人にはうちのブログは、ただただ薄気味悪いのだろう。
派遣バイト先の仲間との会話。
わたし「へーえ、自転車で40分かかるんですか」
相手「車で来るとパーキング料6百円取られるんだよ」
わたし「深夜、自転車に乗っていると警察官から声をかけられません?」
相手「いまのところは」
わたし「(冗談っぽく)俺、怪しいんですかね?」
相手「うん、怪しいよ」
わたし「……」
相手「……」
相方は週6で入っている7歳年上の男性。
見かけは常識人っぽいだろうという自負があったが、
見る人が見たら一発で見破られてしまうのかもしれない。おお、こわっ。

よく知らないけれど、おおむかし、
作家みたいのは結核をやるといいという話があったと聞く。
結核は働かないでいいし(働けないし)、
いろいろなものへの感覚が鋭くなる(たとえば死について)。
このため、思考が深まり、人間としても深くなる(危なくなる?)という伝説だ。
うつは現代病らしいけれど、バリバリさんがうつになったらきつそう。
いままでなにも考えないで来た人が、闇に突き落とされるわけだから。
うつを一回やると人間が深まるみたいのは都市伝説の慰めで、
精神科医の春日武彦氏もやんわり指摘していたが、
心の病とやらにかかるとかならず社会的地位、収入はダウンするという。
バリバリやりすぎるといつかプチンと切れるからそういう人は要注意。
バリバリで一生逃げ切られる人も大勢いるだろうから、
あまり考えすぎないのがいいのだろう。
家族なんかだと父親があまりにバリバリだと影を引き受ける形で
奥さんやお子さんに問題が出てくることもあるらしい。
重いうつはそもそもなにも考えられなくなるけれど、
うつっぽくなって善悪や「正しい」ことを自分のあたまで考えるのは、
たしかに「魔」なのだが、毒ほどおいしいというか、
考えるのは辛いけれども「そうかそうか」という発見がおもしろいのも事実だ。
毒っておいしいよね。身体に毒なものほどおいしいところってない?
油なしの減塩ヘルシー料理なんてくそまずそうじゃん。
毒男もあんがい食べてみればおいしいのかもしれませんよ、女性のみなさま!
セブンイレブンに興味を持ち始めて、商売ってなんだろうと考えた。
今日の結論は、商売とは客の習慣を変えてしまうこと――になろうか。
むかしは商店街の個人商店で雑談しながら(値引きあり、おまけあり)
買うのが一般的だったが、
そういう習慣を変えさせ商店街をつぶしたのがスーパーである。
大衆が好むテレビドラマは習慣を変えさせる力があるとも、
大衆の変化のリアルを描くのがテレビドラマとも言えるから、
いまは巨匠になった脚本家の山田太一氏も
むかしスーパーをめぐる物語を書いている。
スーパーを利便性で超えようと考えたのがコンビニである。
そのコンビニを舞台にしたドラマもまた山田太一氏は書いている。
いまコンビニを超えるいきおいがあるのはネット通販だが、
さすがに長持ちの巨匠もこの世界にはお手上げのようだ。
いまの山田太一さんは、スーパーの安さやコンビニの便利さよりも、
職人のこだわりのようなものを愛しているのかもしれない。
むろんドラマを観ての感想で、ご本人に質問したわけではない。
ただ散歩がご趣味の山田先生はスーパーには立ち寄るが、
コンビニにはそれほど足しげく入店しないような気がする。
むかしのテレビドラマの放送権益(お金♪)って、どうなっているんだろう?
いまのドラマは再放送されても脚本家にはお金がほとんど(まったく?)
入らないシステムだが、むかしの慣習だと違ったという(野島伸司はちょーリッチ!)。

お金に不自由しない成功者はつまらないような気がする。
だから、カンボジアに学校をつくったり、
無料で講演会に行き、ときには「自分語り」のようなことをしてしまう。
成功者の周辺なんかイエスマンか、
「自分だけは正直ポーズ」を取った軽度批判者しかいないだろうから、
成功者になった彼(女)が本当に求めているのは本音のつきあいかもしれない。
人は成功してしまうと、他人と本音レベルの高いつきあいができなくなる。
「いま忙しいからちょっと」なんて言えるのは、本音のつきあいゆえである。
家族ならば許してもらえると踏んで人は本音を話す。家族はありがてえ。
その家族をテーマにしたホームドラマを描き続けたのも山田太一である。
いまは同性愛カップルやらもいるそうだが、それはそれでいいけれど、
家族という単位だけは八百屋のように古くはならない。
個人的な断言だが、いちばん強いのは口コミではないか。
近所にひいきにしている肉屋(の弁当)があるが、
それはアルバイト先で個人的に教えてもらったものである。
口コミの最強単位が家族で、さてまあ次は新聞かテレビかネットか。
コンビニ業界ひとり勝ちのセブンイレブンはネットの発展性に興味を持っているようだが、
新しいものに抵抗感がない人が商売上の勝利者になるのだろう。
言うまでもなく、勝てばいいのかどうかはわからない。
商売で勝っても家族が苦しむ羽目になったら、それでもいいという考えもあろうが、
それもまた「正しい」のだろうが、勝てばいいというほど人生は安っぽいものではない。
これはこちらがそう思いたいだけで、勝てばいいというのが人生の真実かもしれない。
いろいろ宗教偉人を調べてみると、みんな言葉には真実を託していない。
キリストでもブッダでも師匠がこう言ったという、
弟子による聞き書きで先生はなにも残していない。
本当の先生は、まあ「真理は人それぞれ」と思っていたのかもしれないよねえ。
弟子のパワーが師匠の格を決めると申しましょうか。
きっと信者ってそんなものなんだろうなあ。
自分の信じたものは偉大であってほしいという願望からあれこれヤンチャをする。
人生なんてどこまでも勝負がつかない引き分けゲームみたいなものだから、
勝敗をはっきりつけるような経済界に夢中になる人も多いのだろう。
信者になって「正しいこと」を言う妙味をわたしは知らない。
朝令暮改の意味がわからない人はそれはそれでとても幸福なのだから、
できたらそのままでいてほしい。
朝令暮改のトップダウン形式がもっともいいのかもしれない。
会議して多数決でものごとを決めるよりもトップの朝令暮改のほうがいい。
なぜなら会議(多数決)にはうさんくさい正義らしきものがあるけれど、
朝令暮改は矛盾というほかなく、しかしその矛盾がとてもいいのである。
今朝「正しい」ことと今晩「正しい」ことは無常の世の中、
違っていて当たり前とも言えよう。
ならば、そうだとしたら、矛盾こそ正義、
朝令暮改こそ「正しい」ということにならないか。
あの人の言うことは一貫性がないと批判するのは誤りで、
一貫性がなく朝令暮改だからうまくいき利益があがるのかもしれない。

ネットで調べたところセブンイレブンはトップからの朝令暮改だという。
朝令暮改がいやなら、おのれがトップになるしかない。
しかし、そこで本人が望むのもおなじく朝令暮改であることは疑いえない。
会議などで決めたことは意味がないとも言える。
チェーン店の新メニューにかける費用は相当だろうが、
メニューになるかを決定するのはトップの舌でしょう?
ならば、大衆の舌を気にするよりトップの嗜好を熟知しているほうが勝ちってなるわけ。
トップの舌がすべてを決めるわけだから。
失敗したらメニュー開発者の責任になるけれど、世の中はそういうものなのだろう。
いまは朝令暮改ができるセブンイレブン会長のようなトップが少なくなったのではないか。
みんな自分の舌ではなく、会議(多数決)の舌で決めようとする。
わたしは朝令暮改の矛盾こそ真実のような気がしてならない。
「A(真実)vsB(真実)」の世界よりも、
「矛盾(真実A=真実B」のほうが現実にうまく適応でき、
当面的に「正しい」のではないか。
セブンイレブンの会長が、
おれは人のやらなかったことをしたから成功したんだ(大意)
と繰り返しているのをネットで読み興味を持ち、
ブックオフオンラインから関連書籍を数冊注文。
もうアラフォーだからそもそも成功には縁がないし、
ぶっちゃけ変な本ばかり読んできたから「成功」の意味もわからないけれど。
今朝も妙な恩義を感じて日蓮の本を読んでいたけれど(ご迷惑かなあ)、
日蓮が批判されたのは(法然のような)権威もないのに新しいことを言ったからでしょ?
新しいことを言ったりしたりする人は、
狂っている、おかしい、間違っている、
許しちゃおけないと迫害(?)されることが多い。
日蓮は弟子ができたから「正しい」ことが証明された。
現代では利益が上がることが自説の「正しい」ことの証明になろう。
だが、いま日蓮に師事するのが新しいのかどうか。
日蓮は新しいことをしたけれど、
弟子が自分とは異なる新しい主張をしたら裏切り者と激怒したわけでしょう。
本当の革新者は、
自分がそれほど「正しい」わけではないことを知っていたような気がする。
セブンイレブンの会長の発言はおもしろい。

セブンイレブンを作った時も、銀行を始めた時も、業界内やマスコミから総スカンを食った。うまくいくなんて誰も言わなかった。でも私はそれをやってきた。人間は自分の頭の外のことは「無理」と思いがちだ。だが重要なのは世の中の矛盾に気づき、その壁に向かって挑戦できるかだ。成功体験にすがらなければ、人口減も成長の糧になる。それ以外の細かなやり方については、次のリーダーが私と違う手法でも構わない。
http://systemincome.com/45498



社会では禁忌(タブー)とされている宗教ネタを実名ブログでえんえんとやって、
厚顔にも社会に分け入ってくのもかつてだれもしたことがないことだ。
そんなことをしたらどうなるからわからないから怖い。
怖いけれど、いや、怖いから、おもしろい。けれど、やっぱり怖いよ。

きっと法然は親鸞が自分とは違う信仰を持ち始めたときに、
それでもいいと許したのだろう。
浄土宗の法然は浄土真宗の親鸞を裏切り者だとは思わなかった。
わたしの恩師のような存在は、だれも知らないマイナーな特殊映画監督だが、
先生もまた自分の真似をするようにしきりに生徒(弟子)をあおっていたが、
自主映画を撮ろうとしないわたしを否定するようなことは決してなく、
むしろおのれの道でがんばれと励ましてくれた。
今年も恩師には年賀状を書かない。
そもそも年賀状を書いても先生はこちらが勝手に恩を感じているだけで、
当方のことなど覚えていない可能性も高いのだから。
自分と違うことを言う弟子を許せないのが日蓮で、
まあいっか(=他力?)と許せたのが法然なのだろう。
親鸞は師匠の法然の威光によって、
うまいものを食い、いい女を抱き、長生きしたという見方もできなくはない。
ブログにコメントがつかないことを悩む初心者がいるかもしれないが、
名前も顔も知らない人からうっざい批判コメントが来るのとどちらがいいか?
コメント欄で対面のために実験的に対話する(馴れあう)のならいいけれど、
井戸端会議のようなコメントの応酬はむしろないほうがいい。
うちは10年選手の(それでも引退しない)過疎ブログだが、
むかしどこかでマニュアルを目にした記憶がある。
読者さまのコメントがほしいときは質問形式にするといい、というのがそれだ。

みなさまがお好きなコンビニはどこですか?
わたしはセブンイレブンですね。
とはいえ、家風(?)でコンビニは禁じられているようなところがありまして。
理由はコンビニはスーパーよりも高い。
コンビニに行くくらいだったらスーパーに行け。
だから、少年青年期のわたしにとってコンビニはある意味あこがれだった。

コンビニといえば食いもんだが、
あまりコンビニ飲食経験のない当方がご馳走と認識したのはセブンイレブン。
10年まえ近い話だが、セブンの「のり弁当」を美味に感じていた。
同時期「あじ南蛮」は大好物であれば買っていたが、
わたしが好きなものは多数派から嫌われることが多く、すぐに棚から消え去った。
とはいえ、いまでもいちばんコンビニでおいしいのはセブンという思い込みはある。
ヘビーユーザーではないので、セブンのおでんを食べたことさえないが。

好きなコンビニは好きな政党みたいなもんで、
大げさすぎるがその人の生き方がいくばくか関係するような気がしてならない。
わたしはセブンイレブンが好きだなあ。
いまもあるのか知らないが、セブンのツナタマサンドはおいしいよね。
身体に悪い添加物を使っていると反論されても、
こちらは健康など、もはやどうでもいと言えなくもない身なのだから。
それに不健康な添加物を摂取すると、
いくらか病気になるパーセンテージ(確率)が増えるという話だけでしょ?
わたしは運がいいと信じているので、確率に勝てると考えている。
いくら不健康なものばかり食しても健康な人は人口の数割はいるのだろうから。

うちのブログの読者さまは10人くらいと踏んでいますが、
みなさまの好きなコンビニはどこですか?
宗教ネタや政治ネタは喧嘩になりますが、コンビニネタなら人それぞれですから。
よろしければ好きなコンビニとその理由をコメント欄に書きつけてやってください。
うちのブログの影響力を過大視している人がいますけれど、
こうお願いしてもコメントがまったくないことでうちの過疎ぶりがおわかりになるかと。

最初期のコンビニを舞台にしたテレビドラマに山田太一作「深夜にようこそ」がある。
シナリオで読んで感動してかなり覚えているため、
ジェイコムで録画しているがいまだ観ていないのでよくない、よくない。
TBSで1986年に放送された山田太一ドラマ「深夜にようこそ」の
スポンサーはどこだったのか?
これは大して興味がある問題ではない。問題は小腹がすいたので、
久しぶりにセブンイレブングルメでも味わってみようかということだ。
うちの最寄りのスーパーはマルエツだが、スーパーは半額にする。
けれども、コンビニは割引しないので、その定額販売がいいとも悪いとも言えよう。
1回半額で買っちゃうと、
なかなか定額では買えないよねえっていう本音を最後にもらしておしまい。
社会にはルールがなければなりませんし、
ではルールとはなにかを考えると善悪の基準でありましょう。
いまの社会で善とされていることを列挙します。
1.速いこと。
2.ミスがないこと。
3.快適であること。
1~3がどうして善であるかを考えると、そのほうが我われがお得だからです。
我われというはだれか? 消費者です。もっとくだけた言い方をすればお客さま。
お客さまは「速いこと」「ミスがないこと」「快適であること」をお得だから好みます。
実際にブックオフオンラインは速いし、ミスはないし、本がきれいだから、
わたしもよく利用しています。

お客さまは同時に労働者であることが多いですから、我われは働くとき、
1.速いこと。
2.ミスがないこと。
3.快適であること(あいさつをしよう!)
の1~3を求められます。
労働者はスピードは善、ノーミスは善、マニュアルは善と教え込まれます。
考えるまでもなく、学校でもまったくおなじことを小さいころから仕込まれています。
とすると、いちばん偉いのは天皇陛下でも総理大臣でも名誉会長でもなく、
我われお客さまが最高位に位置していたのですね。
ううむ、これが資本主義社会というものの正体でしたか。
人は遅いと怒るし、ミスにも怒るし、不快だと怒る。
速いのが当たり前になると怒る基準がどんどん下がりますよね。
ノーミスが当たり前だとミスにより厳しく当たるようになります。
快適が当たり前だとちょっとした不快に声を荒らげます。
もし社会が以前よりもギスギスしているとしたら、
進歩(前進/スピード化/ノーミス主義/マニュアル接客)が
なにか関係しているのかもしれません。

いまは公明党支持者ですが、むかしは選挙なんか行きませんでしたね。
ふざけて行くときもありましたが、ふざけてマック赤坂のスマイル党に入れていましたもの。
世の中には変人がいるということを世間に思い知らせてやるためです。
スマイル、スマイル、スマイル!
ああいう変な人がいると思うとなごみます。
でも、あんな人ばかりだったら社会はまわっていかないことでしょう。
いったい正しい社会ってなんなのでしょうね?
世間を気にした庶民的な答えは、みんなが幸福になる社会です。
学問的には最大公約的多数が幸福になる社会です。
政党的には弱者が幸福になる社会でしょうか。
わたしにとって正しい社会はわたしが幸福になる社会ですが、
そういうことを言ったらみなさまから袋叩きにされるので前言撤回して、
正しい社会はなんなのだろうとそれぞれが考えていける社会が
正しい社会ということにしておきます。
2002年にテレビ東京で放送された
山田太一ドラマ「香港明星迷」をジェイコムにて再視聴する。
このくらいの時代になると、ライブで視聴した記憶はあるけれども、
内容はさらさらさっぱりあたまに残っていないから視聴するのが楽しみだった。
「山田太一ドラマは庶民を描いているから記憶に残らない」
こういうことをブログに書いたら、取り巻きや側近が密告したのか、
渋谷で行なわれた山田太一イベントで本人が
「どうせぼくのドラマはすぐに忘れられますから」とひねくれたことをおっしゃっていた。
山田太一さんもまた双極をお持ちの方だと思う。
ものすごく自作に自信があるけれど、
それは一撃でつぶされかねないとても弱い自信だからむしろ強い。

わたしの場合、山田太一ドラマはシナリオで読んでいると記憶に残っているのである。
このため、いまジェイコムに入っているため、
多数の山田太一ドラマを録画保存しているが、
シナリオですでに読んでいるためか
映像を観る元気が出ないという困ったことになっている。
作者としてはどっちが嬉しいのだろうか?
ドラマを観られることと、シナリオ段階で読まれることの、いったいどちらが?
シナリオで読んでいると人物像ができあがってしまうから、
映像を観てしまうと「自分のようなもの」を否定された気がするのかもしれない。
「ふぞろいの林檎たち」の未放送スペシャル番組版のシナリオが存在するらしいが
(だれか役者がごねたために企画がぽしゃった)、それこそ価値があるものだろう。
へたをすると1千万くらいの価値はある。
もしお持ちの方がコピーさせてくださったら、一生奴隷になってもいいくらいだ。

2002年に放送された「香港明星迷」の話をしよう。
「働く」という行為について深く考えさせられた。
主役の薬師丸ひろ子は、仕事にバリバリ生きがいを感じているアラフォー女性。
なんでみんなそんな仕事に夢中になるんだろう。
薬師丸ひろ子は、フランスの有名な靴ブランドの日本支社重役。
マーケティング統括部長だったっけかな。
わたしは女のことにもブランドのことにも詳しくないが、
ハイヒールは西洋起源らしい。
そして、ハイヒールなんかを履いているとかなり足が痛くなるという。
男と肩を並べたいという女の西洋的願望の象徴がハイヒールなのかもしれない。

有名西洋ブランド日本支社の薬師丸ひろ子は考えた。
もういまは西洋ブランドの時代ではないのではないか?
ハイヒールなどではなく、もっと履きやすい女性のための靴を製造すべきだ。
しかし、いくらアイディアを出してもフランスの本社は聞き入れてくれない。
「デザインはパリが全部」
「きみの仕事は営業なんだから、デザインに口を出すな」
「黙ってきみはフランスの靴を売っていればいい」

薬師丸ひろ子が注目したのは中国市場である。
ここでハイヒールではない、
しかし良質な中国デザイナーが企画した靴を売ればどれほどの仕事になるか。
仕事熱心な薬師丸ひろ子は香港の有名スターの追っかけを自称しながら、
会社のためもあり独立のためもあり、
自分が目をつけた中国人関係者と交流をつなげる。
わからなくて、わからないままに感銘を受けたのは、
薬師丸ひろ子の仕事への情熱である。
ハイヒールをどうしたって、中国市場がどうなろうと、
どうでもいいといえばどうでもいいわけだから。
プライベートな休日まで使って、どうしてそんなに仕事に一生懸命なの?
なにかに洗脳されているの? と不可解で仕方がなかった。

結局、彼女の情熱は会社への裏切りと判断され、
有名ブランド企業から薬師丸ひろ子は解雇される。
じつのところ、薬師丸ひろ子には常時、尾行がついていて、
行動は逐一本社に報告されていたのである。
薬師丸ひろ子が友人だと思っていた人も、探偵会社の敏腕調査員だった。
薬師丸ひろ子は、まあ現実を見誤っていたのである。
彼女が大企業を辞めたら、すぐに中国人デザイナーは相手にしてくれなくなった。
日本の女が一流企業をバックに持っていることを調べて、
デザイナーは彼女と交流していたのである。

現実ってこんなものなのかもしれないなあ。
多くの人が人間そのものよりもバックにあるブランドを見る。
ブランドに逆らったら社会から抹殺されてもおかしくない。
薬師丸ひろ子のおもしろさは、けっこう会社のためを思って、
会社のために新しいデザインを提案したり流通を広げようと(プライベートで)したら、
それが愛する会社からは裏切り行為とみなされ強制解雇されてしまうという。
会社(組織)のために必死で働いたら裏切り者あつかいされる――。

はっきり言って、いま経済界(大企業)の上層を
リアルに描けるのは山田太一だけなのである。
というのもライターはとにかく金にならないから、飛び込んでくる人材が低劣すぎる。
かえって、その質の低い複数ライターの書いたドラマが、
大衆から支持されるという矛盾がある。
上のほうの損得関係の秘密を知りえた山田太一の企業ドラマが、
秘密をそのままは出さずフィクションとしてうまく描いていることに
社会上層部はまさにいっぱい食わされた気分だったことだろう。
このドラマは、底辺庶民からの理解はあまり得られなかったようだが、
(傲慢でごめんなさい!)観る人が観たら、
これを地上波で書いてもいいのかというギリギリの傑作ドラマなのである。

ドラマ最後に薬師丸ひろ子と探偵所の捜査員が仲直りするのがよかった。
香港の中国人デザイナーが
バックもない無職の薬師丸ひろ子とビジネスを再会するのもよかった。
人間って「肩書」じゃないよねえ。
「肩書」ではなく、この人は信じられると自分が思った人を信じたほうがいい。
「肩書」で人を見るのは世間だが、そうではない自分の感覚を信じた見方があってもいい。
いまは小林秀雄賞作家、朝日賞作家とだいぶ出世なされたが、
そういう肩書以前にわたしは作者のことを
一度もお逢いしたことがないのにもかかわらず盲目的に信じているところがある。
人間というものは矛盾しているとは、
高名なB級精神科医の春日武彦先生の主張していることである。
ものすごく自信があるのに、同時に自信がまったくないというのもありえるわけ。
もっとも自信のある人が、もっとも自信のない人なのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長なんかもそうでしょ? 
あの人、確信があるけれど不信のかたまりだと思う。

現実はなにが「正しい」とか善悪を問題にするのではなく、
笑い飛ばすというのがもっとも賢い処世術なのかもしれない。
この3日間、ずっと不安だった。
もしかしたら派遣バイトに落ちたのかもと思っていたからだ。
わたしはある意味で自信があるけれど、別の意味では自信がない。
いわゆる単純肉体労働みたいのでは、
わたしより「上」な女子がいくらでもいる気がする。

電話が来ないから、落ちたのか、落ちたのか、落ちたのか。
この3日間ずっとそんなことばかり考えていた。
先ほど担当者さまからお電話があり、これはもう笑い飛ばすしかない。
どうやら当方はありがたくも無条件合格だった模様。
今日から仕事なのにどうして来ないのかと担当者さまが不思議がっていた。
よく考えたら、そうですよね。
向こうからお仕事を紹介してくださったのだから、絶対合格なのか。
いやはや、世間知らずでまたもや人様にご迷惑をおかけしてしまった。
昨日また父と会った。
以前の話だが「おれが創価学会に入ったらどう思う?」と聞いたら、
「うーん、それもいいんじゃないかな」とのたまった父である。
いま某派遣会社からご厚情でお給料のいい仕事を紹介してもらい、
年末年始は逢えないからという報告も兼ねて巣鴨で久々の対面。
わたしはじつの母親から目のまえで飛び降り自殺をされた人間だが、
そうそう、それはそういうことで、
しつこいが、そうそう、その母親をかつて愛した父親がいたがゆえに、
わたしのような変人(?←そうでもないという意見あり)が生まれたわけだ。
母が死んでから15年、父とも激闘史がわんさかあるが(数年逢わなかったことも)、
いまのいまはとりあえず落ち着いている。

いま父は要介護状態とかになっていないわけで、
そういうひどい状態の人のことを聞くと我が身の運のよさをなにものかに感謝したくなる。
一流会社を辞めて親を介護してる人もなかにはいるんっしょ?
そういう人生も死ぬまえに振り返ったら、
それはそれでかならずや味があるものになるに違いないが。
1ヶ月限定の派遣バイトだが、就職祝いとかいって昨日も父にご馳走になったしね。
あん肝や馬刺しは本当に久しぶりに食った。
「恩は二倍にして返せ」は世間をのしていくための常識とも聞くが、
原則として家族関係だけはこれが当てはまらないとも言える。
それは家族によって異なり、
いろいろきょうだいや家族で恩をめぐって争うものもいるだろうし、
またそれも味があってあとあとから考えたらいいのだろうが。

べつに罪悪感などさらさらないが、もし他人がわたしなら父に悪いと思うのかな。
貧乏人出身のくせに(いやそれだからか)、
やたら金をかけられて育てられた記憶がある。
3歳からバイオリンに通わされ、
8歳(だったか←記憶不鮮明)からは代々木の英才教育研究所に行かされている。
いったい親はわたしなんかになにを期待していたんだろうなあ。
昨日はじめて父がワタミオーナーの講演会に行ったことがあるという話を聞いた。
先ごろ自死遺族と和解した渡邉美樹さんである。
ブログ読者さまはご推察してくれるでしょうが、
わたしは渡邉美樹ほど嫌いな有名人はいなかったが、
このたびの自死遺族への謝罪で彼もなかなかの人物だと見直し感激したものである。
本当のことをいえば、自殺の原因などだれにもわからないのに、あそこまで謝罪するかと。
以前はワタミを崇拝(?)していた父は正反対である。
まあ、細々とながらおなじ業界に身を置いているからだろうか。
「あれではもうワタミは終わり。倒産するかも」と読売新聞愛読者は言っていた。
父と子というのは、概してこう意見が正反対になり衝突するものなのだろう。

わたしは人生はどちらかといえば運や偶然のほうが強いと思っているほうだが、
父はガチガチの努力信仰派閥の一員だし。
父が読んでいた読売新聞夕刊をもらい読んでみたが、
感想は、おいこれは聖教新聞かよ、である。
15年も新聞を読んでいないと、その大衆操作的うさんくささにげんなりする。

――なんか妙に働きたくなったのでクリスマスも年末年始もぜんぶ働くから。
そう言ったら努力礼賛派の父は、ううむとうなった。
考えてみたら、年末年始は家族と逢うというのもくだらない世間常識と言えなくもない。
今年はクリスマスも大晦日、正月三賀日も働きたい。
わたしなんかにお声をかけてくださった派遣会社さまへの恩義のためである。
基本的に数をかぞえるような作業はうまくないし早くもない。
ああいうのってうまい人はうまくて絶対にミスをしない人とかいるのだから恐ろしい。
昨日派遣仕事の説明会で言われたが「能力差」の問題というやつである。
それほどその手の能力は高くないのに、
お声をかけてくださった派遣会社さまには心底から感謝している。
そこの職場はまえにも行ったことがあり、お若いバイトリーダーさんと久々に再会した。
とても人柄のいい方である。
たまたま児童養護施設(孤児院)出身ということを耳にして、
彼に比べたら親がちゃんといるのに、このだらしない自分はいかん、いかん。
たいそう我が身を恥じたものである。
クリスマスも正月も嫌いだから、そういうときに働けるのは嬉しいなあ。
そもそも仕事をもらえる時点で大感謝なんだよね。
むかし時給850円職場で、
大好きだった60間近の小柄な男性からそう言われたとき(仕事があるだけで幸せ)、
この人は哲人だと思ってひそかに尊敬したことがある。

うふふ、クリスマス、正月ぜんぶOKのシフトを出したけれど、
もしかしたら落とされちゃったりするのかもしれないけれどさ。
本当にわたしにはクリスマスも正月も存在しないのだが。
2016年は大きな変化があるような気がしてならない。
父はあれな人だから、たぶんわたしより長生きするだろう。
こちらは東京オリンピックを見ないで終わってもいいが(社会的関心がない)、
父は見るなといっても見ることだろう(読売新聞愛読者)。
まったくの偶然ながらBSのTBSで放送されたドキュメンタリー番組
「リアルマリオ。~空想と現実のあいだ~」を視聴する。
社会ではダメと認定されているアラフォー男性たちが、
マリオの格好をして脚光を浴びる話だ、とも言える。
おなじアラフォーとして人生いろいろなんだなと身につまされる思いで視聴、
テレビ局製作のドキュメンタリーの好む通俗的映像がある。
傷ついたものによる好意(ボランティア)が、
さらなる弱者たち(この番組の場合は孤児院)に大歓迎で迎えられるという、
和気あいあいとしたシーンのことだ。
あるいは孤児院の子どもたちはその日だけ現われて、
(即興的ボランティアをして)いい気分になる善意の人たちに迷惑しているのではないか。
彼らは善意で来ているのだから、感謝するポーズを見せなければならず、それも億劫だ。
「ありがとう」と言われたいダメ中年たちがわざとらしくコスプレして孤児院を訪問して、
「ありがとう」という手紙ををもらい感動するのはどこまでも嘘っぽくないか(しょっぺえよ)。
まあ、世の中はこういうフィクションでまわっているのだが。

孤児院出身の大作家、井上ひさし氏が
自伝小説とも思える「あくる朝の蝉」でこうお書きになっている。
孤児院の夏休みは毎日のように善意のボランティア団体が来るので、
愛想をよくするのにも「ありがとうございます」と子どもっぽく感謝するのにも疲れる。

「なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしが
ぼくらをどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。
だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、
はしゃぎ、甘えて見せなければならなかった。
そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、
これはずいぶん芯の疲れることだった」(P97)


やはり孤児はどうしようもなく屈折してしまうのかもしれない。
井上ひさしの場合はそこで見た現実の裏表が後世劇作として花開いたけれど。
幸いにも孤児ではなく両親のいる家庭に生まれたためか、
こちらはそれほどひねくれていない。
友人に電話で話を聞いてもらえたらサンキュウ・ベリマチだし、
以前ご縁のあった派遣会社から高額の短期バイトを紹介していただいたら
フォーエバー・アプリシエイトである(カタカナの意味は自分でもよくわからん)。
だから、善意は人によりけりなのだろう。
万人に感謝されるような善行はありえない。
そもそも「他人のため」に「いいこと」をすることで、
落ちぶれた「自分のため」のなにものかにしようという打算的根性が嫌いだ。
「他人のため」もいいが、どうしてみんなもっと「自分のため」を重視しないのか。
「自分のため」と完全に割り切って「他人のため」になにかをするならいい
しかし、感謝されたいから、自分の存在意義を確かめたいからという理由で
「他人のために」なにかをする人たちはどこかいやしいような気がしてならない。
恩返しを求めないで「自分のため」に「他人のため」になにかできたら――。
それはなかなかむずかしく、せいぜい微笑くらいかもしれない。
お金をこっそり渡すのもそのたぐいの善行だが、
相手の負担とならないように経済的援助をするのは、
世間をよく知る達人でもときに失敗するほどの難業だと思う。

善人が悪事をするのはむずかしいが、
悪人が善事をするよりも(こちらはその場だけできれいさっぱりしているのでは?)
自称善人が善事をほうぼうに迷惑かけずにするのはけっこうな気苦労かもしれない。
「ありがとう」と言われたがるボランティアはどうだか。
「ありがとう」なんか言わせてたまるかというボランティアがいたら、それは本物だ。
「他人のため」ではなく「自分のため」にしているので、
感謝の言葉も手紙も必要ない。むしろ、あなたたちの存在にこちらが感謝したい。
他人様から「ありがとう」なんて言われると、
恥ずかしくて鳥肌が立ってしまう変な人も世の中にはいるという話でした。
わたしはボランティアをできないようなところがある。
はた迷惑なボランティア行為をされても笑顔で感謝できる大人になりたい。
まったく成熟とは縁がない自分にはいやになる。
しっかし、孤児院にこれ見よがしにその日だけのボランティアに行くのは「善意の暴力」。
その時間分アルバイトでもしたお金をこっそり渡すほうがよほどいい。
「アジアンハーツ」(日比野宏/雷鳥社)

→「再会」をテーマにしたアジア旅行記。
旅のよさは1回きりというところにあるのかもしれない。
今日こうして逢って、もう一生逢わない。
そういう人たちへの感傷から、旅が帰国後に始まるわけだ。
じつのところ、旅の途中は旅をしているわけではない。
旅を終えてから、もう一生逢えないあの人やこの人を懐かしく思い返すのが旅だ。
ぼくも敦煌の隋さんともう一度逢いたいけれど、逢えないところがいいのである。
再会して(いんちき)ビールをふたりでふたたび鯨飲するのもまた楽しかろうが。
旅ならぬ人生も、きっとそうだ。
会社を辞めたらもう一生逢えない、そういう人たちとの愛別離苦が人生なのだろう。
今年1年半勤めた(バイトですが)会社を辞めたが、
いまでもそのひとりひとりの語り口や微笑を懐かしく思い出す。
いまもまだその会社にいたら、そんなことはなかっただろう。
旅や人生は終わりがあるからいい。
ぼくは日比野宏さんの本や写真がとても好きだが、
きっとそれは彼がベトナムの魅力をわかっているからだろう。
ベトナムとベトナム人が好きな日比野宏さんをぼくは好きだ。
この本もとてもよかった。
ベトナム人美少女の写真もよく、彼女が大人になったときの写真もよかった。
著者は言う。

「ぼくがベトナムに関心を寄せたのは、
ベトナム人の根底に潜む民族への誇りや心意気が、
周辺諸国の人間よりも力強く伝わってきたからだった。
彼らには、自分たちの泣き言を思うぞんぶん解きはなったあとに、
アハハッと笑い飛ばしてしまうくらいのエスプリがあった。
困難にぶちあたっても、深刻にかまえているふうには見えなかった。
しかし彼らは、あきらめの境地に達していたことには変わりようがなかった」(P146)


心底からあきらめられたら笑うことができるのかもしれない。
笑うとは、アハハッとあきらめることなのかもしれない。
ぼくも著者とおなじでベトナム人の若い男女が好きだ。
あの子たちのバイタリティーやスマイルは本当にいい。
何年後でも彼(女)らと再会できたらどれほど嬉しいことか。
しかし、ベトナム女子の笑顔はとろけるように甘いが、現実はそうでもない。
ぼくなんかもバイト先で笑顔がかわいいベトナム人女子に
甘えたように連絡先を聞いたら肘鉄(ひじてつ)を喰らったから。
「あたし、本当は怖いのよ」と――。
そういう怖さがまたベトナムっ子の魅力なのだが。
著者はベトナムで少女からこう言われたという。

「ベトナム、女、甘く見ないの、いいよ。
あとで、怖い、いっぱいあるよ。あの女、敵にすると、危ないよ」(P179)


ベトナムはいいよなあ。これからはベトナムの時代だとも思う。
あんな平均年齢が若い国がほかにあるのか。
ベトナム人ほど微笑が輝いている国民をぼくは知らない。
まあ、毒もあってベトナムに行けば日本人はかならずボラれるのだが。
道ばたの露店から薬局の店員まで日本人(外国人)と見るとボロうとしてくる。
けれど、取れるものなら(お金を)取っておいたほうがいいというのも真実。
甘ちゃんの日本人は(お金を)取れるときでも正直に定価販売するお人好し。
去年今年と多くの若いベトナム人と顔見知りになった。
いつかひとりとでも再会したいが、
このもう一生逢えないというかなしみが人生や旅の味わいであるのかもしれない。
また再会できたとしたら万歳三唱してもいいくらい喜ぶべきことなのだろう。
もう一度逢いたい異国の人がたくさんいる人生はいいものだ。
著者の日比野宏さんもきっとそう思って、この本を書いたのだろう。いい本でした。

「「だまし」の心理学」(安斎育郎/「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」/PHP研究所)

→だまされないためには、わからない言葉はその場で聞け!
というアドバイスが新鮮だった。
どうやら一般人には「わからないことは自分に知識がないため」。
したがって「わからないことは恥ずかしい」と思う思考システムがあるらしい。
おそらく大衆の知的コンプレックスが関係しているのだろう。
わたしは容貌や世間常識などあまたのコンプレックスを持っているが、
そういえば知的コンプレックスのようなものはあまりない。
わからない言葉があったら、すぐにそれはどういう意味ですか、と質問できる。
そこがテンネンというか世間知らずというか、我輩様のコンプレックスでもあるのだが。
相手をだまそうと思ったら、相手の知らない語を矢継ぎ早に繰り出して、
相手をカオス(混乱)に落とし込み、
「負けた」と思わせるのが効果的なのかもしれない。
ひと言「それはどういう意味ですか?」と聞いたら、
相手もろくに答えられずしどろもどろになって破綻(はたん)するのだろうが。

どうしたら幸福になれるのか?
それはね、人間の心には一念三千というものがあるのよ。
一念三千は十界論を元にしているの。
十界にも十界が備わっている。これが十界互具ね。
それに三世間があるということを法華経は説いているの。
10×10×3は3千でしょう? だから、一念三千になるの。
これは日蓮大聖人がお説きになった哲理、人生哲学なのよ。
法華経が正法なのは中国天台宗の智顗が五時八教という説で証明したからよ。
法華経は聖徳太子も伝教大師の最澄も最上だと言っていたわ。
だから、この信心をすれば絶対的幸福の境涯に入れるわけ。わかる? わかった?
あなたは見たところとても優秀そうだから、わかってくれたって思うの。どう?
……「はい、わかりました」。

いまの社会でもっとも必要とされているのはイノベーションである。
これはアメリカでもしきりに言われていることである。
いかにイノベーションを起こすか。
そこは既成のパラダイムをレボリューションするしかない。
どうしたらパラダイムをチェンジできるか。
ブレークスルーの起こし方というのがあって、
それはポイントポイントにビクトリーマークを仕込んでいくしかないのである。
アメリカ最新心理学で注目されているフロー状態がサクセスルートになろう。
労働者をフロー状態に入らせたら、
プアーな彼たちはビジョンを持ってワークすることができる。
ビジーな人はシンキングする時間がないから、
アメリカ最新研究によると、ワーカーはジョブをワークではなくアートとイメージする。
このワークをアートなのだというダブルイメージ的なフローに追い込めば、
経営者も雇用者もウィンウィンのリレーションシップになる。

この手のペテン師に逢ったら、どう言えばいいのか?

「へ~え、いまはそれがナウいんすか?」

「ナウいってどういう意味ですか?」と逆に問うような人がいたら本物の可能性がある。
「ナウいというのは、あなたみたいな人のことですよ」と言ってやればいい。
おそらく「わからない」言葉に囲まれると人は不安になるのだろう。
人をいかにうまくだますかは、まず不安にさせ、それから安心を与える。
安心を与えるというのは、相手の欲望を刺激することである。

人間(=不安&欲望)→詐欺事件被害者→敗者
チクチク↑↑チクチク(=恫喝&甘言)→大勝利者


本書で人をだますテクニックをいろいろ学ぶ。
「カラシつけ」と言われているものは、とてもうまい作戦である。
相手に自分でカラシをつけておいて(不幸にさせておきながら)、
自分は善人ぶってカラシを拭いてあげるのだ。
こうしたら相手からまず感謝され、信用される。
これはグループでやったら最強だろう。
仲間と連携してある人物を困らせる。そこに救世主を登場させるが、みんなグルである。
被害者は救世主の言うことを妄信するようになるからいくらでも金をだまし取れる。
手品を見破るには「(手品師が)右手を上げたら左手を見よ」という金言があるらしい。
相手をだましたかったらわざと右手(善意)を大きく上げれば、
左手(悪意)の存在に相手は気がつかない。
人間は権威に弱い。ならば、どうしたら権威になれるか。
新発見をして評価されれば、その分野で権威になれる。
新発見というのはデータ(証拠物件)だから、そこを捏造(偽造)したら権威になれる。
権威(東大教授、朝日新聞記者)になったら相手をいくらでもほんろうすることができよう。
人をだましていい思いをしたいのなら、数を打つことが重要なのかもしれない。
占い師は、来た客みんなに「あなたは将来絶対幸福なる」と断言すればいい。
幸福の価値基準なんて人それぞれだし、
千人のお客がいたら10~50人は幸福になるだろう。
このお客さんたちがあの占い師は当たると評判を高めてくれ、さらに商売は繁盛する。

$人生=金=詐欺OK=ペテンOK=だまされていたら幸福=真実は不幸=嘘万歳$
$金=幸福=心=洗脳=ペテンOK=嘘も方便=金こそ正義=お金のためなら$
$金があれば幸福も満足も恋人も家族も親友も得られるとだまして金を吸い取るべし$


♪金=大勝利=幸福♪

(関連記事)←けっこうおもしろい自信あり。
「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

「人恋しい雨の夜に」(浅田次郎【選】日本ペンクラブ【編】/光文社文庫)

→年々小説を読まなくなってきているような気がする。
ハズレを読みたくないから、
こういう直木賞作家によるアンソロジー(名作選)に期待してしまう。
アンソロジーといえば文春文庫の「アンソロジー人間の情景」をバラで買い集めて、
とうとう全8巻コンプリートすることができたので来年が楽しみ。
もう当方の知的キャパシティーの限界まで本を読んでいるという自覚もあって、
これ以上読書することはないんじゃないかという気もするけれど、
まだまだ読みたい本は山のようにあるというこの矛盾が人間ってもんさなあ。
しかし、働きたいという気持も強く、つくづくいちばん大事なのは時間であると。
働く楽しみというのは、いろいろな人とわずかでも触れ合うことである。
適度に働いているほうが小説をより深くおもしろく読むことができるような気がしている。
火曜日にまた派遣登録に行くけれど、近場のあそこに紹介してくれないかなあ。
朝起きて本を読んで昼から夜まで働く。
小説はひとりで読む孤独な行為なんだよね。
いい小説というのは気持が優しくなるものとも、生き生きしてくるものともいえる。
読んだあとに人に微笑を浮かばせるようなものがいい小説なのだと思う。
そして、偽善くさいことをいうと、人間の微笑はどんないい小説よりも
人を救うところがあるし、人をいい気持にさせるように思う。
今年はあんまりいい小説は読めなかったけれど、いい微笑にはいっぱい出逢ったなあ。
かつて明治時代だったか、ハーンという西洋人が日本に来て驚いたという。
なににかというと日本人の微笑の好ましさ。

「外人は、日本人の顔が概して嬉しそうににこにこしている特徴に、
気づかないはずがない。
そして、この第一印象はたいていの場合、たいへん気持のよいものである。
日本人の微笑は、最初は人の心をうっとりさせる」(P173)


いまはむかしに比べたら、しかめっ面をしている人が多いのかもしれないけれど、
それでも日本人の微笑はまだまだ魅力があるって同国人ながら思うもの。
ゆったりとした微笑っていいもんだよねえ。
どうしようもない世界をどうしようもなくあなたもわたしも生きているんだよねえ、
というそこからくる共感の微笑とでもいったらいいのか。
タイは微笑みの国といわれてファンも多いだろうが、
東南アジアの人の笑顔もまたすばらしい。
どうして人の微笑って人をうっとりさせるほど気持よくするんだろう。
男女ともにベトナム人の微笑もまたすばらしい。
ベトナム人の男の子や女の子って、
どうしてあんなにいい笑顔ができるのかって不思議になるくらいだもの。
いま生きていることの喜びが自然に顔に出たような微笑は本当にいい。
人が人にできる最高の親切は微笑じゃないか、なんていってしまいたいくらい。

ハーンの書いている、
仏像の菩薩(ぼさつ)というのは人間の微笑から生まれたというのはよくわかる。
仏教には人間の心を分類する考え方があって、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、菩薩、仏とかラベリングされている。
そこでは仏のほうが菩薩よりも上位に位置しているけれど、
悟り澄ました仏の顔なんかより、よっぽど菩薩の微笑のほうがいいと思うなあ。
菩薩になりたかったら修行したりお経を読んだりするよりも、
いま生きていることの楽しさを微笑で表現してみることなのだろう。
「俺は偉いぞ」なんて最上位の仏を目指すより、
あえて一段落ちて、あえて人にゆずって、
勝つよりも負けて、菩薩でいいと明(あき)らめるところから微笑が生じる。
最上位の仏を目指すのが使命だとか思っているとなかなか微笑は出てこない。
これでいいんだ。いまのこのわたしでいい。それが菩薩の微笑だろう。
最上位、最高位の仏になって下を見下す大勝利の笑顔って、
見ようによっては菩薩の微笑よりも色彩に劣るような気がしてならない。
仏にならなくてもいいんだ。菩薩でいいんだ。微笑を浮かべたら菩薩になれる。
世界を革命しようとしたり、
人間境涯を仏にすべく革命しようと粉骨砕身する前進姿勢は怖い顔になると思う。
仏になるのは明(あき)らめて菩薩たるをよしとする微笑にはうっとりさせられる。
ハーンが言っている。

「仏教美術の起源がどんなに日本の国土に無関係であっても、
日本人の微笑は菩薩の微笑とおなじ概念――すなわち、
克己と自己抑制とから生まれる幸福を表わしている」(P184)


そこまでがむしゃらに上を目指さなくても、いまのままで十分幸福ではないか。
未来の勝利を目指すよりも、
いまある幸福に気づくほうが深い喜びにつながるのではないか。
いまあるこの「ありふれた奇跡」のような幸福に思いをおよぼすことができたら、
きっと自然に微笑が生まれてくることだろう。
その菩薩の微笑は仏の正しい教説(指導)よりも人を幸せにすることだろう。
そういえば今年は菩薩鑑賞の紅葉ハイキングには行かなかったが、
いっぱい人間の菩薩のような微笑とめぐりあったから悔いはない。
ベトナム人の女の子Gさんの微笑ほど気持のいい笑みをわたしは知らない。
もう一生逢うことはないだろうけれど、心底から幸福になってほしいと思う。
他人に対してそのように思えることが微笑の発端なのかもしれない。

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「お経 真言宗」(勝又俊教/講談社)

→考えるまでもなく、お坊さんほど役に立たない存在はめずらしいよなあ。
お坊さんとは葬式や仏事、法事に呼ばれ、
偉そうなパフォーマンスをするゴロツキのことだが、
民主主義でみんなが大声で葬式(坊主)なんか必要ない!
と言い切ってしまえば、大勢のふところに余裕が生まれるのである。
いま葬式に坊さんをひとり呼ぶのって、いくらかかるんだろう(10~100万?)。
でも、別にお坊さんはなにをしているわけでもないでしょう?
ああそう、法話というのがあるけれど、あれはマニュアル本があるわけで。
在俗のひろさちや先生の法話マニュアルもけっこう売れているみたい。

高僧とかいったいなんのために存在するのだろうか?
親も高僧でぜいたくざんまいの青年時代を過ごし家族を持ち、
お仲間と肩を組みながらいま高僧となった中年は「使えない」わけでしょう?
たぶんコンビニバイトひとつできないと思う。
けれども、そういう役に立たない高僧のほうが、
底辺バイトよりも偉いことになっている。
いまの世の中の理不尽の象徴が、
いわゆるお偉いお坊さんたる高僧に象徴されている気がしてならない。

天皇陛下もそうだろうと言われたら、たしかにそうだから、
高僧が偉ぶる理由もわからなくはないのだが。
皇族ってまったく役に立っていないところが逆説的に役に立っているのだと思う。
役に立たないところが役に立っているといったら矛盾になるのだろうけれど。
天皇制なんか必要ないけれど、その無用なところが有用なのだと思う。
天皇なんか道路掃除ひとつできない使えないゴミだが、そこが偉いわけでしょう?
ああ、身の保全のために言っておくと、わたしは左翼嫌いの天皇制支持者だから。
とはいえ、佳子さまとお話してみたいという願望はまったくないけれど。
人間味がないのでヌードどころか水着姿も関心がない。
けれども、佳子さまは真言宗の坊さんよりは、
庶民のアイドルとして人の役に立っているとは言えなくもない。

真言宗の坊さんも、自分の存在が人の役に立っているとか信じているのだろうか?
人の役に立つのが自分の存在意義だっていうのは、なにかが違う気がするけれど。
人間はみんな「自分のため」に生きているというのが本当ではありませんか?
「自分のため」に生きるときに他人を必要とするので、
「自分のため」なのに「他人のため」に生きたいとか思う人が現われる。
「自分のため」に「他人のため」に生きたい。
本当に「他人のため」ではなく、あくまでも「自分のため」――。
そう自覚している援助者は本物なのだが、なかなかそういう人はいないだろう。
「他人のため」にこんなに尽くしたのに報われないと嘆いている人がいかに多いか。
それは「自分のため」にやっていたのだと、どうして気づかないのだろう。
そもそも恩返しを求めて「他人のため」に動くというのが嘘くさい。
恩返しを求めるのならば、それは「自分のため」なのだから。違う? 違うなら、どこが?

このように考えると徹底的に「自分のため」しか考えず、
「他人のため」にはなにもしないで、
意味不明のお経をあげている役立たずのお坊さんが偉く思えないこともない。
「他人のため」にはなにもしないで、そのくせ高額を請求するのだから、
その「自分のため」マックス利己主義はかえって気持のいいところがなくもない。
みんなお葬式で「自分のため(気持整理)」や
死んだ「他人のため」に坊主なんか呼ぶのをやめればいい。
みんながそうしてはじめて「他人のため」に生きているという坊主連中の嘘がばれ、
偉そうに群れた彼たちはそれぞれ「自分のため」のことを考えるだろう。

最後にちょろっと書くが、「悟る」の本当の意味はこうだから。
「悟る」とは、弟子ができること。
釈迦は35歳で悟ったわけではなく、この年齢で弟子が複数誕生して、
以降お仲間と群れて生きることを決めたから、
後世このときに悟りを得たとされているのである。
真言宗トップの空海も36歳のときに群れを上から認められたから偉くなった。
「悟る」とは孤独な行為ではなく、手下をつくるための集団操作術なのであろう。
ある人が悟ったと客観的にみなされるのは、弟子ができたときしかないということだ。
一番弟子がもっともおいしい思いをできることが多いが、
反対に師匠などただの人であることを知るがゆえに、
裏切り者として集団から追放されるリスクもあるので、プラス即マイナスである。

「阿呆の知恵」(ひろさちや/角川oneテーマ21)

→役に立つって、どういうことなんだろうね?
人の役に立つってどういうことなんだろう?
ぶっちゃけ、複雑な現実世界では、
人の役に立とうと思ってもなかなかうまくいかないわけでしょう?
なにか人のお役に立てたと思うのは、あんがい本人の浅い思い込みだけで、
本当は相手の寛容や寛大に依拠しているところが多いという可能性もある。
ボランティアなんかとくにそういうところがあって、
ありがた迷惑なんだけれど、
相手は善意でなにしろ役に立とうと思っているのだから尊重しなければならない。
「人の役に立ちたい」なんて思っている人はそれが正義だと思っているから、
孤独が好きな人のところへ、善意から相手のためを思って、
合コンやバーベキュー、ボランティアへ誘ったりするのだろうから。
孤独に強い人も(孤独を愛する人といったら大げさだから)
そのように誘われると「人の役に立ちたい」などと思って、
「人の役に立ちたい人」のお誘いをいやいやお引き受けすることになる。
仕事で人の役に立ちたいなんていうのもけっこう大嘘でしょう?
というのも、あなたがその仕事をやったせいで、だれかの仕事を奪うのだから。
仕事というものは、
世間体を気にしてする金儲けの手段だと割り切っていたほうがいい。
ニートや無職を役立たずっていうけれど、
彼らが全員就労意識を見せたらすぐに仕事なんかなくなるよ。
競争倍率も激しくなり、求められる仕事内容も給料に比して過酷になり、
どんどん世界はギスギスしていくのではないかしら。
いまは求人したら百人くらいの応募は当たり前だそうだが、
そうだとしたらニートや無職も大いに世間さまのお役に立っているとも言えませんか?

とはいえ「役に立つ」のが是であるという価値観が
この世を支配している妥当性はわかる。
給料を払う身としては、使えない(役に立たない)やつには辞めてほしいだろう。
しかし、使えない人も役に立っているとも言えよう。
なぜなら使えない人がいるから、役に立つ人が評価されるからである。
みんながみんな使える役に立つ人なら同一色で、だれも目立ちません。
世の中はご縁(相対世界)で、どの社会集団でも、
使えるやつと無能なやつに分かれるのだと思う。
別のジャンルに立ったら、その関係は逆転するかもしれないが、
その世界でも役に立つ、役に立たないの優劣関係は相変わらずである。
わたしは男だからよくわからないが、
女のほうが役に立つかどうかの意識に敏感だから
一歩下がる術を知っているのだと(処世術もあり)持ち上げておく。
身もふたもないことを言うと、女は男に必要とされるものだよね。
女は男の性欲解消のために必要。子育てのために女が必要。
看護士とかいうけれど、男女ともに男はいやで、やっぱりナースでしょ?
役に立つのは偉いっていうけれど、
無料の売春婦ほど人様のお役に立つ存在はないと思うが、
なぜかそういう「使える」存在は女からのみならず男からも見下される。
軽い知的障害が入っていて、だれにでもやらせる若い女の子は、
観音菩薩みたいな存在だと思うこともできるが、世間はそうとはみなさない。
けれど、そういう風俗業界では多くの客を取れる使える子が評価されるも事実。
すぐにやらせるキャバクラ嬢は客にとっては使えるが、店にとっては困りもの。
できる使える優秀なサラリーマンが部下を、
「あいつは使える/使えない」などと評価する目は非情だよねえ。
「あいつは東大出なのに使えない」とか大喜びする中年男とか大勢いそう。

とはいえ、彼が家に帰ったらどうか。
認知症になって入院している老親は使えないが、それでも生きていてほしいと思う。
障害を持っていてまともな社会生活は無理そうな子にも、
いやそれだからこそ、わが子に愛情をいだく。
「使えない人」を切実に求めている人が「使えない人」を断罪するというこの矛盾。
役に立たない人がいるおかげで相対的に(ご縁として)役に立つ人が目立つわけで、
もしそうだとしたら「使える/使えない」「役に立つ/役に立たない」
といった二分法はあまりに近視眼的すぎるだれをも幸福にしない、
生き生きとさせない、社会全体を圧殺するような評価基準なのかもしれない。
仕事ができない人がいるから、仕事のできる人が評価されるわけでしょう?
ならば、できる人は使えない人に感謝すべき、という考え方もあっていいはず。
「できないことを誇りに思え」(山田太一ドラマ「風になれ鳥になれ」
とまで主張するのは大げさかもしれないけれど、
いまの社会の閉塞感を思うと、あえてそう大声で言ったほうがいいいのかもしれない。

「できないことを誇りに思え!」(渡哲也)

いまの日本には勝者にしか発言権がないかのようである。
勝ったものしか意見を言えない。勝ったものの言うことが正義になる。
けれども、ひとりが勝つためには99人あるいはそれ以上の敗者が必要なのである。
ならば、敗者こそ胸を張ってもいいのではないか。
わざと負けて相手を勝たせてやる行為のほうがよほど英雄的ではないか。
わざと負けて相手をうまく勝たせる天才はプロレスラーの天龍源一郎だった。
敗者がいるから勝者や大勝利者が光り輝くのである。
ザコがいるから相対としてボスキャラみたいのも生まれるのである。
テレビゲームのドラクエでいちばん弱い(?)スライムなんか、
とってもかわいいではないか。
むしろ、弱いほうが使えないほうが役に立たないほうが「かわいい」のかもしれない。
「かわいい」というのは女子高生が頻用するとされる革命言語である。
いまの弱肉強食社会を革命するパワーを「かわいい」は持っている。
あの人って「役に立たない」けれど、そこが「かわいい」――。
あいつは課長のくせにぜんぜん「仕事ができない」のだが、
社長に「かわい」がられている。
生殖能力の低いパンダってよく考えたら生きている「必要はない」んだけど、
むしろそういうところがパンダは「かわいい」――。

女子高生みたいに、なにかを「かわいい」と思う価値判断を持ったらどうだろう。
「役に立たない」「必要とされない」「できない」ものも「かわいい」と思えるのが人間だ。
わたしは女子高生を「かわいい」から好きだが、
とくに必要としているわけではないし(犯罪っす)、ことさら必要とされたくもない。
女子高の警備員でもやって、
1日ぼんやりかわいい女子高生を見ているのも楽しいのかもなあ。
ちょっとまえそういうアルバイトのチラシをひと気のない夕方の公園で
黒服の青年に渡されたことがあり、
わざわざわたしの役に立とうとしてお待ちくださったのかと思うと
あたまが下がる思いだったが、
なにもしないで立っている警備員は最後のとりでという思いもあり、
なにもしないでいい警備員にはまだなれないおのれの娑婆っ気を恥じながら、
わざわざチラシとお名刺をいただいたのに、
ありがたいお誘いを無視してしまったことがある。
あのときの青年には深くお詫びしたい。
もしかしたら近いうちにお世話になるかもしれませんし、よくわかりません。
女子高警備だったらいいですが、道路警備にまわされたらきつそうだし。
警備員というのは法律的に必要とされているだけで、
実際はほとんど役に立っていない。だが、そこがいいのだろう。
自宅警備員(ニート)のみなさんも
かならずだれかのお役に立っているのだから、胸を張れ!
いや、役に立っていないことを誇れ!

もうすぐ死ぬ受賞歴ゼロの宗教ライターはこう言っている。

「世の中の人は、だいたいにおいて「役に立つ」ことばかり考えています。
いや、自分でそう考えるのではなく、
知らず知らずのうちにそう考えるように仕組まれているのです。
世の中の役に立つ人間にならないといけないよと、
幼児においては親からそう教えられ、
のちには小学校、中学校、高校、大学でそう教えられ、
就職してからは会社でそう教えられてきました。
そのように教えるのが文明であり、荘子の言う人為です。
その人為を捨てて無為自然に帰ることを教えた書が『荘子』です。
だからここでも、『荘子』は、
――役に立たないことのメリット――
を力説しているのです。
樹木であろうと、人間であろうと、役に立つものは酷使され、扱(こ)き使われ、
すぐにぽいと捨てられてしまいます。だから、役に立つ人間になるな!
そう『荘子』は教えてくれているのです」(P21)


考えてみたら、骨董品とか美術品ってまったく役に立たないよねえ。
とくに骨董品なんか、ただたんに「古い」というだけで価値があるようなものもあるのでは?
骨董の皿を実用の食器として使うのは、なんか成金趣味っぽくて嫌味だしね。
本当のぜいたくは役に立たないもの(人?)を愛(め)でることなのかもしれない。
ひるがえると、いまは役に立たないものってないじゃん。
みんなリサイクルでなんでもかんでも役立てようとする。
いったい役に立たないものってなにがあるだろう。
そっちのほうが希少価値があるとも言えなくもない。
まずひろさちや先生のご本は役に立たないよね。
いや、少なくともうちのブログよりはだれかの役に立っているか。
出版社や書籍流通に貢献している。
無意味なもの無駄なもののかわいさのようなものは、
女子高生にしか発見できないのかもしれない。
しかし、同調圧力の極めて強い環境で生きる彼女たちは、
すぐさま男に必要とされ(男性)社会に求められる人材になるべく
「かわいい」から巣立っていく――。
「かわいい」は青春の正義とも言え、
その無常観や虚無感、刹那(せつな)さがとてもとてもとっても「かわいい」。

「老いへの不安 齢を取りそこねる人たち」(春日武彦/朝日新聞出版)

→精神科医の春日武彦さんは、びくびくしながらマンネリでいい、
マンネリの惰性でいいから、それでいいから、もうなんでもいいから、
破綻することなく世をうまく逃げ切りたいと日々思っているんだろうなあ。
普通から逸脱することを異常なほど恐れているという意味で極めて正常な人である。
春日先生のお写真をじっくり何度も何度もできたら視線恐怖を与えてやりたいくらい、
何度も何度も熟視したことがあるけれど、医師は実年齢よりも20才くらい若く見える。
好物は野菜炒めで趣味は散歩と小説読書。
健康に悪いことはなにひとつしていないから、あの若々しさをお保ちでいられるのだろう。
人一倍、死を恐れているのが春日武彦である。
それは発狂を恐れていると同義なのが本書でよくわかる。
これほど発狂する瞬間をうまく言葉にできる人をわたしは知らない。
人生は惰性の連続でいい。マンネリにこそあとから見たら深い味を感じ得る。

「日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形(いぎょう)の現実である。
精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる事態に直面したとき、
世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、
よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。
おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのではないか
と予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう」(P10)


マンネリでいい。惰性でよろしい。おなじことの繰り返しで悪いもんか。
しかし、それはそうではあるのだけれども――。
若々しい著者と異なり、こちらは老けて見られることが多い。
派遣先である女性から「おじいさんみたい」と言われたことがある。
たぶん精神年齢は本書執筆時に58歳だったという春日先生より老いている。
先生より成熟していると言いたいわけではなく、
ただただ枯れ木のように老いている。
このため、58歳の春日氏の文章がわがことのようにわかるのかもしれない。

「歳を経るにしたがって、何もかもが億劫になってくる。面倒になってくる。
生きているのも面倒になって、その挙げ句、
いつの間にか世の中から拭い去るように消え失せているというのが、
実はもっとも自然な人間の在り方なのかもしれない、などと思うことがある」(P38)


そういう孤独な老人のひとりを描いたのが富岡多惠子の短編「立ち切れ」だという。
70歳を過ぎ妻とも死別し、
生活保護をもらいながら生きる老人の鬱屈をうまく描いている、
と精神科医は評価する。
小説の老人は噺家(はなしか)として真打ちにもなった人物だが、
脚光を浴びているときから虚無感があり、いまは寂寥とした世界を生きている。
ある日、ドブ川で子どもの水死体が発見されたところに行きあう。
老人は号泣しながら愛児のなきがらを抱える母親を見て、
ぼんやりとしながら、しかし冷静に記憶をさかのぼる。
そういえば、あの女と似た顔をした人と自分は逢ったことがある気がするけれど、
はて、あれはだれだったろう。
老人はまったく動じることなく、むしろ食い入るように悲劇に遭遇した母子を見続ける。
精神科医の春日武彦先生はこの老人をとても高く評価する。
ちなみにこの本が朝日新聞出版から出たのは東日本大震災直後だが、
よくもまあ幸運にも朝日新聞読者層からヒステリックにたたかれなかったと感心する。
春日先生は物書きとしても一流なのだが、あんがい読まれていないのかもしれない。
春日氏は他人の不幸を見て、さらさら同情しない老人を称賛する。

「ああ、いいなあと思う、正直で。
ドブ川から死んだ子供がひきあげられていたら、
わたしだって、死体も母親もじっくり観察してしまうだろう。
おざなりの同情なんてする気もない。
いくら何でもざまあ見ろとは思わないが、
ああいったことはいくらでもあり得るのだから、
貧乏籤(びんびうくじ)を引いた人がいたと思うだけである。
そして嘆き悲しむ母親が誰に似ていたのか、それを確認して納得した気分に
なることのほうが自分にとって重大だと思うだろう。
いちいち思い入れなんかしても、面倒なだけである」(P41)


よくこんな本を朝日新聞出版社はあの時期に出せたよなあ。
どうせ売れないだろうという編集者の絶対的な確信があったのかもしれない。
ちなみにこの本をこの時期にわざわざ出したのは矢坂美紀子という女性。
朝日の偽善スピリッツをかけらも持ち合わせぬ女性編集者にとても好感をいだく。
なんでもネットで調べてみたら、
精神科の敵ともいうべき心理屋軍団のボス、河合隼雄の担当もしたことがあるそうだ。
泣き虫の河合隼雄さんは中年期から、とてもいい「年寄り」だったような気がする。
一方で患者の苦労話をいくら聞いても「所詮は他人事」
と内心では舌を出しながらせせら笑っている春日医師は涙を流すことなどあるのか。
ようやく春日武彦という男のことが少しわかった。彼は泣かない男なのかもしれない。
さて、若々しい精神科医の春日武彦氏は河合隼雄のようないい「年寄り」になれるのか。

「わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪(こら)えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先(ほこさき)を納める。
立腹しつつも、どこか安堵した表情を浮かべながら。
そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の最後になってやっと腰を上げる
その状況判断の確かさと、さらには人生経験を重ねてきていることに対する
万人の敬意とが、その場を丸く治めるわけである」(P167)


こういう「年寄り」は「顔役(かおやく)」みたいなもんで、
どこか創価学会的というかヤクザ的というか、そういう世間師的なところがあり、
アルバイト経験のひとつさえない高学歴高収入高身分作家が登るには、
喧嘩の仲裁ができる「年寄り」は難しいポジションのような気がしてならない。
河合隼雄さんは仏教でいうところの中道(ちゅうどう)=「どっちも正しい」を
よくよくご存じでいらしたからいろいろな喧嘩の仲裁役になっていたような気がする。

精神科医の春日武彦氏は本書でマイナーな小説を紹介している。
人の読まない小説家の言葉に吸い寄せられる医師の嗅覚は第一級と言えよう。
それは中原文夫という人の短篇小説「本郷壱岐坂の家」だ。
主人公は89歳の老人で従業員180人をかかえる会社の創業者で会長だ。
老人はみなから嫌われている若い女子社員がどうしてか気になり、
自分の秘書として引き上げてやる。
どうしてこの女子社員が気になるかと考えたら、
むかし似たような顔をした女性と逢ったことがあるからである。
むかし家で女中として子守をしてくれたおねえさんだ。
老人は、むかしあのおねえさんをずいぶんいじめたなあ、と後悔しながら思い返す。
89歳でもう余命も少ないと思い、あの女中のその後を探偵社に調べさせた。
想像していたとおり薄幸な人生を送ったようだ。
娘がひとりいた。なんと老人への手紙を預かっているという。
自分が死んだらいつかこの手紙をあのお坊ちゃんに渡してくれ。
いかにも小説的だが小説なのだから許されるだろう。
89歳の会長はその手紙を読んで驚く。
自分がひどくいじめたと思っていた女中が、自分のことを恩人だと思っていたのだから。
お坊ちゃんのお世話をしていた時代が人生で唯一の幸福な瞬間でした――
とまで手紙には書いてあるのである。
なんだか申し訳なくなった会長は、よく顔の似た女子社員に恩返しをしようと考える。
秘書として取り立ててやるだけではなく、
プライベートでも高級料理をご馳走したり、お芝居に連れて行き講釈したり。
老人本人は「いいこと」、つまり恩返しのようなものをしているつもりだったのである。
しかし、あるとき女子社員はセクハラはもういやだ、会社を辞める、
自分は傷つけられた、死にたい、とまで訴える。
狼狽する89歳の会長であった。

精神科医の紹介の仕方がうまいからだろうが、これはよくできた物語である。
現実にこういうことってけっこうあるよねえって話だ。
よかれと思ってやったことが相手の迷惑になっていることを知り驚く。
わたしは老人も若い女性も言っていることは「どっちも正しい」と思う。
だが、精神科医の春日武彦先生は、
女子社員のほうを人格障害(異常)であると診断してしまう。
喧嘩の仲裁をするのではなく、いうなれば白黒をつけてしまう。
会長からセクハラされたと感じた若い女子社員は高田涼子というそうだ。
精神科医のカルテを読もうではないか。

「なお精神科医の立場としてコメントをしておくなら、
高田涼子のような精神構造の人物は世間に一定の割合で偏在している。
ある種の人格障害(パーソナリティ―障害)には、
まぎれもなく彼女のように「最初は普通に見えたのに、
あるとき豹変して相手へ憎悪をぶつけ、
今まで自分は耐え忍びつつ演技をしていたと言い放つ」といった類型が存在する。
態度の激変ぶり、
それまでの言動に込められた意味をすべて逆転させてみせる根深い悪意、
えげつないばかりの攻撃性といったものは、
往々にして相手へ深い精神的ダメージを与える。そのダメージによって、
もはや人間そのものを信頼できなくさせてしまうのである」(P80)


おなじ男として春日先生の正しさは本当によくわかるのだが(そういう女っている!)、
もし医師が河合隼雄のような「年寄り」にあこがれるのであったら、
どうにかこの迷惑な被害者ぶった女性をも許容してあげてほしいところである。
わたしも逢いたいと言われて逢っ(てあげ)たかなり年上のおばさんから、
警察に訴えたのだの、おまえはもうすぐ逮捕されるだの、脅されたことがある。
好意で相手の話を一方的に聞いてあげただけなのに、
いきなり豹変するのがよくわからなかった。
自分はシナリオ・センターの優等生だから将来は絶対有名作家になる、
とおばさんは主張していた。あぶねえやつっているんだなあ、
という意味でのいい人生経験になったが、いまから思えば、
どっちもどっちというか、あちらにもあちらの言い分があったのだなとため息をつく。
人間ってそんなものよねえ。
どっちも正しいというか、どっちも悪いというか、どっちもどっちという――。

熟練した精神科医の春日武彦氏もそこのところはよくわかっておられるのである。
相手の妄想は刺激しないほうがいい。
「自分は美人で文才があってもうすぐ有名作家になる」
という妄想(これを物語と見るのが河合隼雄だが)をそのまま肯定してやる。
どうせ真実なんてうさんくさいものなのだから、相手の真実を尊重してやる。
変な新興宗教にはまったやつと議論しても意味がない。
本当に他人思いのやさしい人間は、
相手のためを思って相手を矯正(正しいってなに?)しようとするのかもしれないが、
春日武彦氏のような醒めたリアリストは「ふーん」と相手の妄想を聞き流す。
そういう一見すると不誠実な態度がかえっていい効果をおよぼすことを、
老医師というには若々しすぎる春日医師はあまたの臨床体験から学んだ。

「統合失調症で妄想にのめり込んでいたり、
認知症で現実を誤って捉えている人たちを前にして、
嘘をつくべきか否かといった判断が必要なことがあるのだ。
倫理とか道徳といったものに関わるので、なかなか苦慮することがある。
しかし今のわたしは必要ならば平気で嘘をつく。
それはこちらの都合が良いように相手をペテンに掛けることとはニュアンスが異なる。
相手の内的現実を簡単に修正できるくらいならば問題はない。
そうではないから頭を抱えるのであり、
修正が困難だったりトラブルが伴いかねないならば、
一旦は相手に「沿う」のが賢明ではないのか。
そこから現実離れした考えに対して徐々に修正を図るのも結構だし、
ゆっくりと頭を冷やしてもらうのもOKだろう。
迎合するわけではないけれど、こちらが沿う姿勢を示さずに教え諭(さと)そうとしても、
大概の場合、相手は考えを正してもらったとは感じない。
自分自身を、自分の存在を否定されたかのように感じてしまうだけである」(P107)


春日武彦さんの自己イメージ(妄想)ってどんなものなのだろう?
「B級精神科医」とか自虐しているから、
本当にそのくらいの自己イメージなのかと接したら、
想像以上にプライドが高くて怒りの抗議をされた患者や編集者もかつていたことだろう。
患者は医者の持っている「救済者」という妄想(物語?)を刺激してはならない。
あんがい医者と患者は、ふたりでひとつの物語をつくっているのかもしれない。
これは病気ってことにしておいて、
そっちは医者として給料をもらい、こっちは診断書をいただき生活保護を申請する、
みたいな共犯関係のことである。会社で休職するのも診断書って必要なんでしょ?
春日医師がこのへんにどこまで自覚的なのかはわからないが、
本書に診断書と生活保護にまつわるおもしろいエピソードが書かれている。
長くなるため(それにご商売のお邪魔になるので←医業、売文ともに)割愛する。

老け顔のわたしと若々しい春日医師が並んだら、
あんがい先生のほうがお若く見られるのかもしれない。
本書執筆時の春日武彦氏は58歳で、
同年齢で死んだものを調べたら山頭火がいたという。

「あの《分け入つても分け入つても青い山》の山頭火である。
放浪の乞食僧(こつじきそう)であった彼の屈折した自意識過剰ぶりや、
甘えとわざとらしさの混ざったトーンには、
どこかしら晩年の諏訪優[翻訳家・エッセイスト]に通底したものが感じられる。
言い換えれば、ストイックなものに憧れつつも遂にそのようにはなれず、
中途半端に居直って世俗的な欲望を肯定する精神であろうか。
散々に勿体(もったい)ぶった挙げ句に、
居酒屋は人生の縮図であるとか女の乳房は男の故郷だなどと
「のたまい」かねないセンスである」(P203)


春日武彦さんの文章ってどうしてこんなにおもしろいんだろう?
おもしろいとは滋味があるとかではなく、即物的に笑えるという意味なのだが。
あんがい本人は洗練された文章で
医療や人間の真実を暴いているような自意識(妄想? 物語?)があるかもしれなく、
先生の本はとにかく笑えるので重宝しています、
なんてファンレターを出版社宛てに送ろうものなら、
医師を大きく落胆させる「善意の暴力」になってしまうので、
わたしはそういう悪質な善意の愛読者にはならず、こうしてこっそり見守っている。
春日武彦先生の大ファンがひっそり一匹おりますからね!

えへっ、ま~たまたまただれも読まない長文仏教記事を書いちゃったや。
ほんとにほんとほんと、真理とはなにか? なんて考えないほうがいいんだよねえ。
真理を疑っていろいろ考えると、オウム真理教になってしまうという。
わたしはべつにオウムが悪いとも思わないし、
そういうことを言えるのはオウム真理教のことをよく知らないからなのね。
いまのところ知りたいとも思わないし。
オウムは悪だって言っている人もマスコミ報道を信じているだけっしょ?
いろいろ本を読んだりして自分のあたまで考えるのはメンドーだから、
そういうマスコミ依存体質は「正しい」と思いますし、できたら真似をしたい。
なーんにも考えないでいっぱしに苦労人を気取って生きている人がもっとも幸福かも。
絶対的幸福の境涯にいる人はそういう御仁なのだろう(じつはいないっしょ?)。

考えるというのは「わからない」に始まり「わからない」に終わるものだと思う。
どこが「わからない」のか「わかる」のが理解の第一歩。
「わからない」ところがわかったらわかったようなものとも言えよう。
なぜなら、「わからない」ところがわかったら、そこを考えればいいのだから。
まあ、考えるというのは疑うってことなのかもしれないなあ。
「わからない」ことが「わかる」とはどういうことか?
さらなる「わからない」ことが出現するのが「わかる」ということ。
「わからない」が真理かもしれないのに、「わかる」を求める人たちがいるのはなぜか?
結局は、それが本人にとって楽しくておもしろいからだと思う。

こちらは遺伝的にあたまのデキがよくないので、
バカの分際でいろいろ考えると身体全体が知性に拒否感を示す。
このごろの倦怠感、吐き気は異常で、
今日は生まれてはじめて立ちくらみというやつを経験した。
もうすぐ脳卒中や肝硬変で死んだりするのかな。
明日死んだとしても、まあいっか。
そう思えるのは「そうかそうか!」というわかる楽しみを
人生でけっこう味わってきたような気がするからである。
「そうかそうか!」と自分なりに新しい発見をするほどおもしろいことはあるのかしら。
創価学会シンパの茂木健一郎氏がこんなことを言っている(「ひらめきの導火線」)。

「考え続け、探し続ける過程は、とても苦しい。
けれど、その苦しさを経てひらめきにたどり着いたときほど、脳が喜ぶことはない。
お金をもらうより、社会的地位を得ることより、
はるかに良質の喜びを脳にもたらす。これを「報酬の通貨」という」


今日、更新しただれも読まない記事なんかも思考時間は10日を越えているのだ。
書くのにかかった日数は秘密。
でもさ、駄文を書いている途中に何度も「そうかそうか!」という発見があった。
いままでわからなかったことが少しだけわかったような気がした。
夢中になってブログ記事を書いていたので気づかなかった。
さっき携帯電話を見たら、
ありがたいことに着信があったのである(ほとんどないのでチェックする癖がない)。
久しぶりに某派遣会社からだったが、わたしなんかをまだ覚えてくださっていたのか。
仏教関係もひと山越えたという気がするし、
えんえんとクリスマスケーキにイチゴをのっける仕事や、
日本語ができない外国人といっしょにおせち料理を盛りつける単純労働がしたいなあ。
難しい仕事でも構いませんが、ご迷惑をかけちゃいけませんですしね。

ひと山越えたという気がする。
創価学会関係本の読書や、
その感想文を書くのは心底しんどかったけれど(損得ばかりの現実ってうんざり!)、
あの苦しみはいまから思えばそれなりに楽しかったとも言える。
しつこいけれど「そうかそうか!」という発見があったので。
立ちくらみ、やばいなあ。明日になったら治っていそうな気もするけれど。
脳卒中とかで突然死するのは大歓迎なのだが、
家で起きちゃうと腐乱死体になってしまいそうで困る。いまは冬だから大丈夫か。
路上で脳卒中が起きちゃうと救急車を呼ばれて半身不随とかになったら最悪。
ひと気のないビルの路地で死んでいるところを発見されるのがいちばんかなあ。
まあ、いつどこで死ぬかは宿命(宿業)だと思っているから、ほとけさまにおまかせよっ♪
「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→上巻は釈尊(釈迦)の教えから大乗仏教誕生まで。
下巻はインド大乗仏教の変遷(へんせん)である。
わたしは大学でまじめに学問したことがないから、
以下のような文献学(?)の考え方でさえ新鮮だった。
インド大乗仏教の3人の有名な哲学者は龍樹、世親、無着。
世親と無着はきょうだいだったとされている。
さて、インド大乗仏教は初期、中期、後期と分類される。
(初期)~龍樹まで(主に空思想)。
(中期)~世親・無着まで(主に唯識思想)。
(後期)~仏教消滅まで(主に密教思想)。
大乗仏典(お経/仏の教え)はいろいろあるが、こう分類されるという。
龍樹の著作に引用されている経典が初期大乗仏典。
龍樹の著作にはなく、世親・無着の著作で引用や言及されているのが中期大乗仏典。
龍樹や世親・無着の著作にいっさい言及のない経典が後期大乗仏典。

大乗仏典の名前なんて、みなさんご興味がないでしょうけれど――。
(初期大乗仏典)
「般若経典」「維摩経」「華厳経」「浄土三部経」「法華経」
(中期大乗仏典)
「涅槃経」「楞伽経」「勝鬘経」「解深密教」
(後期大乗仏典)
「大集経」「地蔵十輪経」「大日経」「金剛頂経」
ほとんど読んだことのあるお経マニアの自分が抹香くさくていやになる。

(A)初期大乗仏教

さて、いまでもいろいろなトラブルの原因になっている法華経である。
じつのところ、学会員さんでも法華経をぜんぶ読んだことがある人は少ないでしょう?
はっきり言って、おもしろくないし独善的でむかつくお経だから。
よく法華経は文学的だといわれるけれど、
その意味は、ほかのお経と比べたら物語性があるってくらいだから。
それほど法華経以外が退屈だから法華経程度でもおもしろく思えてしまうという。
法華経は学者のあいだでも古くからふたつの批判があるらしい。
1.これから教えを説くぞと言いながら結局最後まで教えは説かれずに終わる。
2.自画自賛してるだけじゃねえの。
わたしも最初読んだときにそう思ったし、みなさまもお読みになられたらそう思うはず。
ひろさちや先生の解釈をまじえながら、わたしの考えを書くと、
法華経は革命的な小乗仏教批判のお経なのである。
要するに小乗仏教っていうのは先輩や古株が偉いって教えなわけ。
より古いほうが釈尊(釈迦)に近いのだから「正しい」だろうっていう話。
それに対して、法華経はおまえらのいう釈迦は本物じゃないと主張したんだな。
本物の仏は永遠の世界にいてこの世に生まれて死んだあれは仮の姿であると。

☆「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」……

こういうふうに往復運動をしているのが本物の仏であると法華経は主張した。
法華経はこの世以外の永遠の「真理の世界」をつくってしまったわけだ。 

☆「真理の世界|この世」

むかしのブログ記事では「真理の世界>この世」「絶対世界>相対世界」
とわたしは表記していたが、はっきり断絶していると、
つまり「絶対世界|相対世界」と書いたほうがわかりやすいのかもしれない。
わたしは仏典(お経/仏の話)は得意(?)なのだが、
龍樹が書いたような論書(哲学書)はまったくの苦手である。読めない。
このたび、どうして龍樹が「空(くう)」の思想(哲学)を言い出したのかようやくわかった。
龍樹が(「色即是空」の)空(くう)とか言えた背景には法華経の世界観があったのか。
どういうことかというと、法華経はこの世のさらに上にある永遠の世界を創造した。
永遠の仏がいるとして、釈尊(釈迦)なぞそのうちのひとりに過ぎぬと軽んじた。
繰り返すが、その世界をわかりやすく表示するとこうなる。

☆「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」

法華経世界にあるこの対立を見て取り、龍樹はある結論にいたった。
龍樹はむかしカジろうとしたが、
あたまがパッパラパーになりそうだったのですぐ閉じた。
ここはもうひろさちや先生のわかりやすい解説を頼りにしよう。
先生にとっても龍樹は難しいそうである。

「哲学書というものは、どうしてこんなに晦渋(かいじゅう)なのであろうか……。
とくにナーガールジュナ(龍樹)の『中論』は、
注釈書なしではなかなか理解が困難である。
しかし、まあ、ナーガールジュナの言いたいことは、
世界の真実の姿をわれわれ人間の不完全な言語でもって正確に表現できそうもない
――ということであった。
人間の言語には、どうしようもない限界があるからだ。
『中論』において彼が語っているのは、いわばその絶望である。
微に入り細に入り、ナーガールジュナは人間言語の
――したがって、人間の認識の――限界を告発しているのである」(P189)


☆「真理の世界(絶対世界=無言語)|この世(相対世界=言語説明可能)」
☆「真理(絶対世界)|法華経、華厳経、般若経典、浄土三部経、維摩経(相対世界)」


龍樹はこの言語で説明できない絶対の真理を「空(くう)」と呼び、
言葉でなんとか説明できる世界を、それに対して「仮(け)」と呼んだ。

☆「空(絶対真理)|仮(相対真理=善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死)

言葉には限界があるということを、ひろ先生はわかりやすく説明する。
たとえば、「ないものはない」――。これは正反対のふたつの意味を表わせる。
1.ここは大型店だから「ないものはない」(=ある)。
2.いくら泣いたって「ないものはない」(=ない)。
わたしも考えてみた。「お礼をしなきゃな」――。
1.さんざん意地悪されたから「お礼をしなきゃな」(=復讐)。
2.いろいろお世話になったから「お礼をしなきゃな」(=感謝)。
おなじ言葉でもふたつの意味を持つことがある。
それから言葉の意味は体験に左右される。
「結婚」という言葉は結婚生活をしたことがあるかどうかで意味は変わるでしょう。
「同性愛」なんかもそう(わたしにゃわからん)。
「犬」と言われても、それぞれイメージする犬が違う(どうでもいいが犬は大嫌い)。

さらに言葉の限界と言えば「クレタ人は嘘つきだ」の問題があるでしょう。
クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったら、本当のことがわからなくなる。
「クレタ人は嘘つきだ」を信じたら、この言葉も嘘になってしまい、
ならばクレタ人が本当のことを言ったことになる。
このパターンでひろ先生が考えたのは「例外のない規則はない」。
「例外のない規則はない」という立言そのものが規則であるから、
この規則そのものに例外があることになる。
つまり、「例外のない規則はない」という規則にも例外はあることになる。
そうすると、「例外のない規則」が例外的にあることになる。

おなじパターンでわたしが考えたのは「絶対的真理はない」。
「絶対的真理は存在しない」が真理ならば、
「絶対的真理はない」というのが絶対的真理になってしまい矛盾するでしょう。
しかし、この矛盾こそわたしは真理だと思うし、
どうでもいいが「絶対的真理はない」は河合隼雄が信じていたことだ。
「絶対的に正しいことはない」という真理もそうでしょう?
「絶対的に正しいことがない」という主張が正しいのならば、
絶対的に正しいことがあることになってしまう。
こういうパラドックス(矛盾)は考え続けていると発狂するから注意してね(笑)。
「池田先生は絶対に正しい」で心を落ち着かせるの一興だと思う。
まあ、「山田太一さんの言うことはほぼ間違いないな」もおなじだけれど。
「さすがに新聞やテレビは嘘を言わないだろう」くらいが平凡だが安心できよう。

ことほどさように言葉というものは、相対しか表現できない不便なものかもしれない。
言葉では絶対の真理を表現できないのかもしれない。
言葉にできない絶対体験というものを目指して修業する人もいるわけでしょう?
まあ、それは単にボキャブラリー(語彙/ごい)が貧困なだけかもしれないけれど。
こういうことはヴィトゲンシュタインやラカンよりもはるかむかしのインド人が考えている。
「ウパニシャッド」に登場する哲人(紀元前650~550年)がこう言っているそうだ。
ひろさちやの言葉ばかりだと権威がないので、中村元先生の本から孫引き。
ひろさんは中村先生の不肖の弟子になるのかなあ。

「アートマン[絶対真理]は、それによってこそ
人がこの一切のものを認識し得るところのものである。
したがってアートマン[絶対真理]それ自身はもはや何ものによっても認識され得ない。
それ[絶対真理]は把捉し得ざるものであり、不可説である。
もし強いて言語をかりて言い表わそうとするならば、
ただ『しからず、しからず』(neti neti)と否定的に表現し得るのみである」(P183)


究極の真理、最高の真理、絶対の真理は言葉では表現できない。
しいて表現するならば「~~ではない、~~ではない」と否定的にしか表現できない。
むかし講演会で聞いたけれども()、
山田太一さんの好きな詩人に川崎洋という人がいて「私の歌」という作品があるらしい。
いまネット検索してみたらそんな詩は見つからなかったが、
「私の歌」は「~~でもない、~~でもない」と繰り返していく詩らしい。
「私」なんかもそうだよね。「私」とはなにか。
「女ではない、学生ではない、夫ではない、社長ではない、まじめではない……」
「私は○○である」と絶対的に言い切ることはできず、
「○○ではない」と言っていくしかない。
有名な般若心経も「無~~、無~~、(~~もない、~もない)」の世界である。
さて、中村元の文章は意味不明だったが、ひろさちや先生の説明はわかりやすい。

「……ヤージニャヴァルキヤ[インドの哲人]は、
究極・最高の原理(アートマン)が、言語によって表現できないものであり、
強いて表現すれば、
「ネーティ、ネーティ(そうではない・そうではない)」
としか言えないものだと断言している。
つまり彼は、最高の真理(原理)を表現することを権利放棄してしまったのだ。
究極の真理を言語でもって把捉[はそく/把握]することはできぬと、
あきらめたわけである。そしてその代りに、
究極の真理のうちに飛び込み、究極の真理に同化する道を選んだのである。
要するに、恋人をことばでもって口説くことをやめて、
からだでもって恋人と一心同体になることをねらったわけだ。
わたしの譬(たと)えはちょっと際(きわ)どいが、
哲学の話はこれくらい大胆に解説したほうがよい。
そうしたほうが、ともかくもわかりやすいのである」(P184)


うちのブログは偏差値40の高校生でもわかるように書いているつもり。
このため、もう一度繰り返しになるが、これまで書いてきたことを赤字で説明したい。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
↓ ↓ ↓
☆龍樹=「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」


この真理の世界の仏さま(永遠仏)のことを久遠実成(くおんじつじょう)と言うのだが、
こんな言葉は忘れてくださっていい。
わたしもむかし久遠実成とか本で読んで「うげっ、わからん」って思ったもの。
ちなみに、ひろ先生は本書で一度も久遠実成という専門用語を使っていないからすごい。
話を戻すと、言葉は絶対的真理を表現できない(のかもしれない)。
というのも、悪は善ではないということ(絶対悪はわからん)。
正しいというのは、誤りではないということ。
正義は不正はしていませんよということ。美人は醜くないということ。
きれいはきたなくないということ。
長いものは短いものに比べたら長いけれど、もっと長いものに比べたら短い。
大きいものは小さいものと比べたら大きいが、もっと大きなものよりは小さい。
コップ半分の酒に感謝するものも、あとこれしかないと嘆くものもいる。
以上、なんの話をしていたかというと、じつはこれが空(くう)の説明なのである。
空(くう)というのは、ものごとに実体はなく、
すべては縁起(えんぎ)によって成り立っているという思想(ものの見方)である。
「色即是空(色=空)」というのは、赤に「絶対的な赤」のようなものはなく、
青や黄色やほかの色があるから結果として、
相対的に赤が縁起(ご縁/関係性)として存在しているということだ。

龍樹から法華経にまた話を戻す。
法華経はなんの教えも説かれていないとも言えるが、
「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉が出てくる。
お経はサンスクリット語(古代インド語)を漢訳したものである。
この諸法実相をサンスクリット語の意味どおりに読むとしたら、
「諸法の実相」(=世界の真実)が「正しい」という。

「ところが、中国や日本では、サンスクリット語にない解釈がされるようになる。
漢字というものは便利(?)なもので、わりと自由な解釈ができるのである。
すなわち、サンスクリット語では「諸法の実相」としか読めないものを、漢字では、
――「諸法は実相なり」
と読んだのである。
中国の天台宗でそう読まれはじめて、それ以後その読み方が定着してしまった。
したがって、いまでは「諸法は実相なり」が、このことばの意味になっている。
そういうふうに読むことで、
これが大乗仏教の根本思想を表明したことばになるのである。
サンスクリット語に戻って「諸法の実相」と読んだのでは、
あまり深い意味があるとは思えない。
思想の歴史は、あんがい誤解の上に構築されるものかもしれない。
誤解がひろく世の中に通用すれば、誤解が正解になる。
「諸法実相」は「諸法が実相なり」と読むのが正しいのである」(P225)


では「諸法実相」=「諸法は実相なり」はどういう意味かと言うと――。
「諸法(世界)は実相(真実)である」。なんのこっちゃい、である。
ここで言葉を追加するのである。この追加が「正しい」かはわからない。
「諸法(世界)はそのまんまあるがままで実相(真実)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のある世界はそのまんまで真実(真理)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで正しい」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれが存在理由がある」(ひろさちや流の解釈)
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで美しい」
「すべてがあるがままでいい」
「すべてはうまくいっている」
「なるようになっているし、なるようにしかならない」
「諸法実相」という言葉を噛み砕き過ぎたので復元していく。
「諸法(相対世界)は実相(絶対真理)である」
「諸法(偶然)は実相(必然)である」
「諸法は実相なり」――。
龍樹の説いた「空(くう)」に戻る。龍樹は世界を空(くう)と仮(け)に分けた。
そうだとしたら、以下のようなステップを踏むと「空=諸法実相」ではないか。

1.龍樹→「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」
2.「諸法実相」→「実相(真理)」=「諸法(善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」=「仮(け)」
3.「空」=「諸法実相」


おわかりいただけましたか?
「空=諸法実相」はひろさちや先生の珍説(奇説)なのだが、わたしはこう理解した。
ひろ先生がお読みになったら、ああ、こいつわかってんじゃんと思われるだろう。
ご理解いただけなかった場合の言い訳も、ひろさちや氏から借りておこう。

「……わたしたちの言語は、ほとけの世界(極楽世界)の真理を
記述するに適していない。「男性」と書けば「女性」が予想され、
「中性」と書いても「男性―女性」が予想され、
「無性」と表記すれば反射的に「有性」が意識される。
わたしたちの言語は、相対世界をしか記述できないのだ。限界がある。
その言語でもって、
絶対世界(ほとけの世界)を実現することはあきらめざるを得ない」(P200)


そうそう、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)についても書いておこう。
学会員さんは読みもしないで法華経のほうが浄土三部経より上だとか思っていそう。
たしかに浄土三部経というのはどれも、あの法華経よりも退屈なのである。
しかし、浄土三部経のほうが法華経よりも上という見方もできるのだよ。
まあ、大乗仏典なんかすべて後世の創作、
つまりインチキだから優劣を語るほどバカがばれることはないと言うこともできるが。
浄土三部経のどこが法華経よりも優れているかというと――。
以下はよほどの仏教関連者しかわからないでしょうから読み飛ばしてください、
法華経に描かれている仏は時間的に永遠の仏でしょう(久遠実成ってやつよ!)。
法華経の仏は時間軸しかない(永遠仏)。
いっぽう浄土三部経で描かれる阿弥陀仏のサンスクリット語源は、
「アミターユス/アミタ・アーユス(無量寿)」と
「アミターバ/アミタ・アーバ(無量光)」とふたつある。
阿弥陀仏という名前はサンスクリット語から音訳しているわけ。
よって、意味の上では、阿弥陀仏は無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれる。
無限の寿命を持った永遠仏であり、無限の光を持った太陽仏ということ。
法華経の仏は永遠仏でしかないけれど、
阿弥陀仏は永遠仏というだけではなく空間的な広がりもある無限仏と言える。
だから、勝った、勝った、浄土三部経は法華経に大勝利! なんて叫んだら、
まるで(一部の)学会員さんみたいなのでやらないよ、アッカンベエ!

しつこく浄土三部経の擁護を続けると、法華経の仏って偉そうじゃん。
「おれに逆らったら地獄に堕ちるぞ」とか
「おれに逆らったら来世で障害者にするから覚えとけ」とか言っているしさ。
法華経の仏はなにさまって感じで、人間に仏罰を加えてくるのである。
しかし、浄土三部経の阿弥陀仏はそんなことはない。
インチキ物語には違いないが、阿弥陀仏は人間出身なんだよ。
阿弥陀仏は法蔵菩薩(凡夫/人間)が長いあいだ修行した結果なのである。
このため、法華経の仏よりも苦労を知っているというか人間味があるとも言える。
まあ、浄土三部経がどれもクソつまらないことは認める。
まあまあ、法華経も浄土三部経もクソ味噌いっしょと言えなくもない。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
☆浄土三部経=「極楽世界(絶対世界)【阿弥陀仏】|【菩薩】この世(相対世界)」


阿弥陀経の有名な一節に「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」がある。
極楽世界は「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」であるという。
意味は、極楽世界では「青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、
赤い花は赤い光を放ち、白い花は白い光を放ち、それぞれがそれぞれ美しい」――。
「青黄赤」の三色は学会カラーなんだから、創価も阿弥陀経を認めろよ!
そしてそして、いいかいいか、
極楽浄土ではそれぞれの色の花がそれぞれの光を放ってそれぞれ美しい――。
これって諸法実相(しょほうじっそう)とおなじ世界観ではありませんか?

☆「絶対真理」=「空」=「諸法実相」=「青色青光」=「極楽浄土」

(B)中期大乗仏教

中期大乗仏教といえば、世親や無着による唯識(ゆいしき)思想だが、
あれはひろさちや先生にもよくわからないし、なおかつあまりおもしろくないらしく、
それほどページが割かれていない。
ひとつ、おもしろいと思った指摘は、
なぜ唯識(ただ識のみ/心のみ)なんていう思想が発展したのか?
初期大乗仏教では世界を「真理の世界」と「この世」に二分したわけである。

☆「真理の世界|この世」

そのうえで龍樹が「真理の世界」は言葉では表現できないと論じてしまった。
これで困ってしまって、さあ大変になったのだと、ひろさちや先生は指摘する。
なるほどなあ、と思った。

「『法華経』にしろ「浄土教典」にしろ、
そこにおいては仏のほうが凡夫にヒモをつけて、
そのヒモを引っ張ってくださっていた。
それが釈迦仏の授記であり[法華経]、阿弥陀仏の誓願である[浄土三部経]。
しかし、ナーガールジュナ(龍樹)がその仏の世界(「空」の世界)について
権利放棄してしまったあとでは、もはや仏にヒモを引いてもらえないのである。
凡夫は自分でネジを巻いて、凡夫のほうから歩き出さねばならない。
凡夫がネジを巻くには、凡夫のうちにゼンマイがなければならない理屈になる。
その凡夫のうちにあるゼンマイが、つまりは「仏性」なのである」(P211)


果たして凡夫の心の内部にゼンマイ(仏性)はあるのかという、
ある意味では仏教心理学がスタートするのである。
心の深みに入っていき過ぎたせいか、仏教心理学たる唯識思想はよくわからない。
唯識といえば――ユング心理学で言うところの無意識、
すなわち阿頼耶識(あらやしき/深層意識)が有名だが、
ひろさちや先生はおもしろいエピソードを紹介している。
あるアメリカ人がイスラム教徒の留学生を家に招待したという。
イスラム教徒は宗教的な戒律により絶対に豚肉を食べない。基本常識だ。
アメリカ人はどこから見てもどこから食べても牛肉のステーキをご馳走した。
イスラム教徒は「おいしい」と満足して牛肉ステーキを平らげていた。
ジョークが好きなアメリカ人は食事途中にふざけて、
「きみがいま食べているのは豚肉だよ」と言った。
するとその瞬間、イスラム教徒は胃のなかのものをすべて吐き出し、
床にのたうち回って苦しみはじめ実際に心筋梗塞を起こしたらしい。
救急車で病院に行って、一命を取りとめた。
ひろ先生が問題提起するのは、認識の問題である。
このとき彼の食べていたのは間違いなく牛肉でそれはずっと変わらなかったのである。
「それは豚肉だよ」と言われても牛肉が豚肉に変わるはずがない。
にもかかわらず、イスラム教徒は嘔吐した。
ということは、彼の食べているものが途中から牛肉が豚肉に変わったのだと、
ひろ先生は言い放っている。

ものごとを理解したいならば、異なった例を自分のあたまで考えてみるといい。
わたしはこういう別の例を考えてみた。
ある男が幸運にもきれいで若い女の子と交際していた。
あるとき彼女の親友という女性がアメリカから帰国してきた。
その友だちから男はこっそり教えてもらう。
「あの子、じつはむかし借金を返すためソープ(特殊浴場)で働いていたんだよ。
AV(アダルトビデオ)にも何本か出ている。
あたしの彼氏がそれを発見して興奮していて、男って最低と思った」
こういう話を聞いた男性は交際相手のことをどう思うだろうか?
まずえんえんと思い悩むだろう。
思い切って彼女に質問するが、もちろん否定される。
おりしも、そういう秘密を教えてくれた彼女の友人が交通事故で死んでしまう。
恋人の女性の存在自体は、話を聞くまえも聞いたあとでも変わらないのである。
しかし、一度聞いてしまったら、もういままでどおりの交際はできないだろう。
彼女の言うことを信じて交際を続けるという決断もあると思うが、
いつか酒に酔った拍子に女に手を上げてしまうことがないとは言えない。
無料エロ動画を見ていたら、高校生のころの恋人にそっくりの女性を発見してしまった。
よほど「寝取られ妄想」が好きな男以外は、
この瞬間になにかがプチンと切れてしまうだろう。
たとえ交通事故で死んだ女の言ったことがすべて嘘だったとしても、である。
まあ、よく似た女性などたくさんいるし、女は加齢や化粧で変わりやすいから、
映像の質がそれほどよろしくない無料エロ動画を見ても、
なにが真実かはなかなか断定はできないとも言えるのだが、しかし。
恋人の別の友人が「あんなやつの言ったことは絶対に嘘よ」
と神に誓って宣言しても、
男に芽生えた疑心暗鬼はどうにもならないような気がする。
人間の認識はそんなもんなんだよという。

ここでさらなる飛躍をする。
以下のことは、この本には書いていない。
こういう常識はずれの思考法をできるようになったのは、
天才のひろさちや氏の本をたくさん読んだからだろう。
イスラム教徒にこれは牛肉だと言って、豚肉を食べさせたらどうだろう?
彼は豚肉を食べたことがないはずだから味がわかるはずもなく、
怪訝な顔をされたら新しい品種の牛肉で最高級部位だ、などと言ってやればいい。
食後にもずっと本当のことを隠しておけばイスラム教徒はまさに「知らぬが仏」である。
むかしソープで働いていたと陰口をたたかれた女性にしてもおなじである。
交際相手からはさんざん暴力を振るわれ、別れることになってしまった。
女性は人間不信、とくに男性恐怖症になる。
そんなおり、少々高齢の金持の男性と知り合い交際を申し込まれる。
あまりにプレゼントをいっぱいくれるので、つきあわざるをえなくなってしまう。
交際してみるとそれほど女性のあつかいはうまくないが、
とにかくベタ惚れと言ってもいいくらい自分を好きになってくれている。
しかし、男性恐怖はおさまらず、いくら誘われても身体を許すことはなかった。
男はさらに彼女の気をひこうと高いプレゼント攻勢を仕掛けてくる。
彼の誕生日に誘われ豪邸とも言っていい家に行くと、多少強引にだが身体を求められる。
男性恐怖は治っていなかったので拒否するが、
いままでもらった贈り物を考えると強く出られないで、
いささか強引なかたちでやられてしまう。
ひさびさのセックスなのでぎこちない動きしかできなかった。
そのうえ突然のことだったので抱かれているときに生理が始まってしまった。
彼はすっかり合点がいく。清楚で美しい彼女は25歳まで処女だったのだ。
いままでずっとガードが固かった理由がやっとわかった。
彼が「処女だったのか?」と聞くと、彼女は違うと首を振る。
いや、これは処女に間違いない。
彼女は処女であることを恥ずかしがっているのだと男は確信する。
女はどうしていいか迷う。本当は元彼をふくめて4人の男性経験があったのである。
「処女じゃないもん」と本当のことを言っても彼は信じてくれない。
「本当なんだから」と思わず泣いてしまうと、
「わかった。わかった。恥ずかしいことではないのに」と彼はやさしく女を抱きしめる。
このとき彼女は長いこと患(わずら)っていた男性恐怖症が治ったことを知る。
金持の彼は(彼の心のなかでは)清純な彼女にプロポーズして結婚する。
彼は死ぬまで嫁は処女だったと信じていた。
彼女のほうも嘘はついておらず、しかも元彼は貧乏だったから(愛は金ではないが!)、
自分をこんなに大切にしてくれるいまの主人に出逢えてよかったと神さまに感謝した。

自画自賛するとものすごいうまいエピソードではないか。
なにが善でなにが悪か、なにが本当でなにが嘘か――がわからなくなる説話だ。
悪(元彼のDV→別離)が善(幸福な結婚)になっているのもおもしろいでしょう。
結局、「真理」とは、ある人間が心底から真理であると信じたことが「真理」になる。
元彼は彼女のことを心中でヤリマンのアバズレと信じたから女を殴った。
いまの旦那は彼女のことを聖女のような女性と心底から信じたから、
結果として幸福な結婚生活を送ることができた。
阿頼耶識(あらやしき)説とは、心がすべて決めているという発想のことなのだろう。
ひろさちや氏はまた別の例を出していて、これもまたおもしろい。
プールに人が飛び込んだときの音である。
英語ではスプラッシュと言うらしく、日本ならまあザブンくらいではないか。
どうしておなじ音なのにイギリス人と日本人では別の音に聞こえるのだろう。
ニワトリの「コケコッコー」は英語では「コッカドゥドルドゥー」、
ドイツ語では「キケリキ」、フランス語では「ココリコ」、中国語では「オオオオオ」らしい。
おなじ音なのに複数の人間がまったく別の音として聞いているのである。
では、どれが真実のニワトリの鳴き声(絶対的真理)かといえば、
ふたつの回答例があるだろう。
1.それぞれ聞いたニワトリの鳴き声のすべてがそれぞれ真実(相対的真理)である。
2.本当のニワトリの鳴き声(絶対的真理)はだれにもわからない。

☆Aの心中(相対的真理)←?(絶対的真理)?→Bの心中(相対的真理)
☆絶対的真理=「Aの真理≠Bの真理≠Cの真理≠Dの真理≠Eの真理」


先ほどの女のたとえに話を戻すと、彼女はつごう5人の男性と交際し結婚した。
彼女(絶対的真理)はひとりだが、
5人の男の心中にはそれぞれ異なる彼女がいるということになろう。
脱線すると恩師である特殊映画監督の原一男先生が、
この原理を映像化すべく「またの日の知華」という作品を発表している。
世間的にはほとんど評価されず弟子のわたしがどう好意的に観てもつまらなかった。
「本当のこと」というのは表現してしまうとあまりおもしろくないのかもしれない。
原一男監督はドキュメンタリー映画での評価が高いが、
作品はすべてフィクション(嘘/やらせ)だとおっしゃっていたのを懐かしく思い出す。
仏教に戻ると、ひろさちや先生は難解な阿頼耶識説を簡潔にまとめている。
何度も繰り返してしつこいかもしれないが、この人はあたまがいいよ。

「さて「阿頼耶識(あらやしき)説」というのは、簡単にいえば、
「われわれは、自分が認識しようと思う対象世界を自分でつくりあげて、
それを認識しているのだ」ということである。
日本人は、にわとりの鳴き声を「コケコッコー」にしておいて、
そしてその「コケコッコー」を聞くわけだ。
フランス人は「ココリコ」という鳴き声をつくっておいて、そしてその「ココリコ」を聞く。
つまり、人間は自分でにわとりの鳴き声をつくり、
そのつくった鳴き声を聞いているのである。
それが「阿頼耶識説」が言っていることである。
要点をいえば、それだけのことである。そんなにむずかしいことはない」(P290)


わたしは念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)もどちらも「正しい」と思っている。
どちらかと言えば念仏のほうが好きだが(法然や親鸞のではなく一遍の踊り念仏!)、
日に何度か題目を唱えることに少なくとも拒否感は示さない。
もしかしたら釈迦(釈尊)の教えというのも、ニワトリの鳴き声みたいなものではないか。

☆日本人(コケコッコー)←ニワトリの鳴き声→フランス人(ココリコ)
☆大乗仏教←釈迦の教え→小乗仏教
☆法然(南無阿弥陀仏)←?「絶対的真理」?→日蓮(南無妙法蓮華経)


ものすごい「本当のこと」を書いてしまったような気もするが、おもしろいですか?

(C)後期大乗仏教(密教)

人間は基本的に他人の考えになど興味を持たないものだし、
有名人の文章だって読んでもらえないのだから、
ここまでお読みくださった方にまず感謝します。
あたまのいい人には繰り返しがうざいでしょうが、
このブログ記事は偏差値40の高校生でも理解できることを目指して書いているので、
いままでのところをおさらい(復習)したい。
大乗仏教は「この世(俗世間)」ならぬ「真理の世界(仏国土)」を創造した。
龍樹がその世界観を、ひと言でまとめれば「空(くう)」となる哲学として学問化した。
空(くう)は言語化できない世界だから、凡夫は「真理の世界」と切れてしまった。
そこで世親・無着は外に「真理の世界」があるのではなく、
内(心)に「真理の世界」に分け入るゼンマイ(仏性)があるのではないかと考えた。
これが仏教心理学とも言われる唯識(ゆいしき)思想である。

☆小乗仏教=「この世(ビジョン、ルール、マナー)」
☆大乗仏教=「真理の世界(絶対世界)|この世(相対世界)」
☆大乗経典(法華経、浄土教典等)=「真理の世界」→仏→「この世(俗世間)」
☆龍樹=「空(絶対/無言語)|仮(相対/善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」
☆唯識思想=「この世=心(仏性)」→仏性→「真理の世界」


では、密教とはなにかというと先に結論めいたものを書いてしまうとこうなる。
これから以下のことを説明していくことになるわけだ。

☆密教→「私(身口意/相対)」=「仏(絶対真理)」

荒っぽい言い方をすると、仏教は3つのパターンしかないとも言えよう。
1.仏さまに救ってもらう(仏→私)。
2.仏に私が近づく(私→仏)
3.私が仏であることに気づく(私=仏)
で、密教は3に当てはまるのだが、まず密教は仏教かという問題があるらしい。
というのも、密教はヒンドゥー教と言ってもいいくらい釈迦から離れている。
ヒンドゥーの哲学では梵我一如(ぼんがいちにょ←忘れてください)を理想とするが、
密教修行者が求めているのもおなじ(梵我一如)状態だからである。
密教サイドは、密教以外を顕教(けんぎょう)としている。
つまり、密教は仏教にふくまれるのではなく(同類にされたら、かなわん!)、
優れた密教と劣った顕教に分かれると主張しているのだ。
まあ、大乗仏教が釈迦仏教を小乗仏教とバカにしたのとおなじわけよ。
ここだけの話、仏教ってさ、優劣にこだわるお子さまめいたところがあるわな。
密教サイドの言い分としては――。

×「仏教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教、密教)」
○「密教|顕教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教)」


わたしから言わせたら、密教も仏教の一派としていいような気がする。
あんがいもっとも釈迦(釈尊)の悟りに近いのが密教かもしれない。
もうすぐ仏教の消滅の話をすることになるのだが、最初に話を戻そう。
釈迦はいったいなにを悟ったのか。
釈迦は阿弥陀仏に救われたわけでも、法華経を読んで人間革命したわけでもない(笑)。
みなさまはそれほど注意を向けないが、釈迦というのは金持のボンボンだったのである。
いまの創価学会の池田大作さんよりも贅沢ざんまいの生活を
子どものころから送っていたわけだよ。なにひとつ不自由のない状態。
唯一の不幸は母親に先立たれたくらいか。
ああ、そうか、マーヤ夫人は釈迦を産んですぐに死んでいるけれど、
これは釈迦を産まなかったら死ななかったとも言えるわけか。
とすると、釈迦には母親を殺したような原罪意識があったのかもしれないが、
それはここでは忘れておく。
実際、マーヤの妹が母親代わりを務めたっていうし、
そこまで母性に飢えていたとも思えない。
ともあれ、釈迦というのは我われ庶民が見たら、
嫉妬で胸を焼き焦がしてもいいくらい恵まれた環境にいたことを忘れないでくれってこと。
小さいころから大勢のものにかしずかれ、優秀な家庭教師から英才教育を受けた。
ほしいものはなんでも手に入ったし、口にするものは美食ばかりだったと思われる。
きれいな奥さんをもらっているし、丈夫な子どもをさずかっている。
おそらく美少女から床上手の熟女まで複数の愛人がいたことだろう。
おまえら底辺(ブログ読者さまを勝手に決めつけるな!)が知ったら、
生きていくのがいやになるくらい釈迦は恵まれていたのである。
いまで言えば、有名人や権力者の子どものようなものである。
ひねくれた根性の持ち主になるのは貧乏人の子どもと決まっており(失礼!)、
釈迦はとてもあたまのいい性格もすばらしいやつだったと思うんだ。
では、なぜ釈迦は妻子を捨てて出家したのか?

1.死への不安(公式見解)。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
1を支持するものは多く、意味は知らなくていいけれど(まあご存じか)
四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードなんかもそれを裏付けている。
でもさ、絶対にあったと思うんだなあ。
快楽にも幸福にも飽き飽きしたぜっていう、どこか世の中を舐めくさった態度が。
有名人の子どもだからチヤホヤされているけれど、
おれっていったいなに? みたいな(笑)。
それでさあ、乞食みたいな格好をして娑婆(しゃば)世界に出てみたら、
きっとおもしろかったって思うんだ。
いままでお城のなかにいたから世間知らずだったわけでしょう?
え? こんなに貧乏な人がいるの? とか、まじビビったって思う。
うわあ、クッソ性格の悪いやつがいるんだなあ。ちょーおもしれえぜ。
どうしてこいつらは、こんなにも根性がゆがんでいるんだろうと大笑いした日もあった。
釈迦はいままで高級グルメしか口にしたことがなかったけれど、
貧しい庶民ががつがつ食っているものを恐るおそる真似して食べてみたら、
貴族出身、王族出身のお釈迦さまは驚いた。
こんなもん食ったことねえが、これはこれでうめえじゃないか、こんちくしょっ!
高級料亭しか行ったことのないものが立ち飲み屋に行ったようなもんだ。
世間知らずの釈迦青年はいろんな人やいろんなものに、きっと感激もしたはずである。
夕陽を見ながら出家してよかったと涙ぐんだ日もかならずやあったはずである。
それにしても、だ。それにしても、どうして人間はこんなにも不公平なんだろう?
どうしてこんなにあたまの悪い人がいるのか?
なにゆえこうまで病弱な人や貧乏な人がいるのか?
いままでスーパー幸福だった釈迦だからこそ深奥からこの問いにとりつかれたはずだ。
なんで自分はこうまで恵まれてきたのに、
反対にこうまで恵まれないかわいそうな人がいったいどうしてこんなに大勢いるのか。
おそらく釈迦は自分を罰したいような気分になったのだろう。
だから、インチキくさい修行者の真似をして苦行とやらを徹底的にやってみた。

原点にもう一度返ろう。なぜ釈迦王子は出家したのだったか。
1.死への不安。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
で、世にもまれながら釈迦は35歳にしてガヤーの樹の下でなにを悟ったのか。
1.無限にも近い過去世の業(宿業)の結果としていまの自分があること。
2.苦悩は快楽である。悪しき状態は善き状態である。不幸は幸福である。
釈迦がいちばん最初に悟ったのは、宿業だというのは本当だから。
証拠として以下にふたつ挙げておく。
「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)
「仏伝」(桜部建・雲井昭善編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

釈迦は自分の悟った真理を人に教えるのは無理だと思った。
しかし、これは伝説なのだが、
インドの神であるインドラがわざわざやって来て教えを広めてくれと釈迦に依願した。
どうしてインドの神が来るかといったら、当時は仏教なんてなかったのだから(笑)。
インドラ神「どうかお釈迦さまが悟った真理をおひろめください」
釈迦「いやあ、無理っすよ、無理無理。いくら神さまだからって、無茶言わんでください」
インドラ神「そこをなんとか」
釈迦「ぶっちゃけ無理だし、めんどくさいっす」
インドラ神「弟子に囲まれると気分がいいですよ」
釈迦「おれ、孤独、嫌いじゃないし」
インドラ神「下手(したて)に出たら調子に乗りやがって。いますぐ雷を落として殺すぞ!」
釈迦「もう悟っちゃったからいいよ。どうぞお気に召すまま。お任せしまっす♪」
インドラ神「ちぇっ(煮ても焼いても食えねえやつだな)」

釈迦の悟った真理のひとつは、
無限の過去世の業の結果としていまの自分があること。
だとしたら、いまこの場で落雷により死んだとしても、
またかならず生まれ変わってくるわけでしょ? 
だから、いくらインドラ神が(創価学会青年幹部お得意の)恫喝をしても動じなかった。
しかし、実際に釈迦が悟った真理を教えられないというのは事実でしょう?
宿命や宿業があるというのは教えるというよりも自分で納得するものだから。
貧乏人や病人が「それは宿命よ!」なんて言われても、ふざけんなって話で。
これは金持のボンボンである釈迦が多少、世の辛酸を舐めて悟った真理だ。
金持があまたの貧乏人を見て「どうして?」と自問し続けた結論である。
そのうえ釈迦は苦行(乞食修業)をしたって言うけれど、ほかの連中とは違う。
なにより彼には帰る家があったのである。
釈迦は悟りによって「死への不安」を克服した。
もうひとつこのとき釈迦の悟った絶対的真理が密教の教えだと思うのである。

当方はあらゆる仏道修業をひとつもしたことがないし、
これからもする気はないからわからんが、
密教は絶対体験を重んじるような気がする。
釈迦は王子であったときに快楽の極限を味わった。
そして、粘り強く苦行をした結果、なーんだ、苦も楽もおなじではないかと悟った。
とはいえ、苦しみも楽しみも同一という絶対境地は体験してみないとわからない。
なぜなら、言葉は相対しか説明できないのだから(龍樹!)。
苦とは楽がない状態で、楽とは苦がない状態なのだと言うほかない。
しかし、釈迦は快楽も苦悩もたっぷり体験して「苦=楽」という絶対的真理を得た。
俗っぽい話をすると、マゾがさ、「ああーん、逝(い)っちゃう」みたいなものよ。
釈迦が悟った絶対的真理は、正反対は極限で通じているという実感なのだろう。
この絶対的真理は言葉(=相対)では伝えられず本人が体験するしかない。
というのも、貧乏人はさあ、快楽の極限なんて味わえないわけでしょう。
釈迦はたまたま王族として生まれたから苦楽の極限を、
どちらとも体験できたわけだから。
ふだんサンマの刺身をたまに食って「うまい、うまい」と言っているものが
1週間カップラーメンだけで過ごして、
その後に銀座に行って最高級のマグロの中トロを口にしたら大感激でしょう。
サンマの刺身もマグロの中トロもまったく同一にうまい(=空=諸法実相)とは、
とてもじゃないけれど思えないってわけ。

絶対的真理はおのおのが絶対体験をして、
それぞれ冷暖自知(れいだんじち)するしかない。
難しい言葉を使っちゃってごめんなさい。
いちおう絶対的真理を、相対の言葉で説明することもできなくはないわけだ。
やってみましょうか。善は善ではなく、悪は悪ではなく、大善は大悪である。
相対(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は絶対(空)である。
諸法(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は実相(絶対的真理)である。
私(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は仏(絶対的真理)である。
私(煩悩/欲望)は仏(菩薩)である。
生きている私(地獄、修羅、餓鬼)は仏(最高)である。
人間(相対的存在)は死なない(仏=絶対的存在)。
仏(絶対的真理)をまえにしたら善も悪もない(=善悪は相対的真理に過ぎぬ)。
大地震や大津波(自然=絶対)が起きたら善人も悪人も分けへだてなく死ぬ。
死(絶対的真理)をまえにしたら、
あらゆること(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)がどうでもよくなる。
あれこれ迷う(善悪、正邪)ことのなかに悟り(死)がある。
生き方に善悪や正誤はなく、人間はどう生きてもいい。
絶対的真理(死)はわからない(=言葉では説明できない)。
いくら言葉を簡潔にしても反対に華美にしても、
絶対的真理は絶対体験とセットになっているから言葉では伝わらない。

絶対体験というのは、言葉にならない体験のことである。
ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
たとえばさ、ちょっと目を離した隙に幼児がベランダから落ちて死んだ母親とか。
目のまえの横断歩道で子どもがダンプカーに轢き殺された父親もそうだな。
家族に目のまえで自殺されるとか、そういうのも絶対体験だろう。
なぜか子どもが3人連続して障害を持って生まれてくるのも絶対体験だろう。
絶対に死ぬと思って電車に飛び込んだら下半身切断で生き残るのも絶対体験。
反対に電車に飛び込んだのに無傷だったというのも絶対体験になろう。
そんな大げさなものばかりではなく、落葉を見て絶対体験をするものもいよう。
発狂するというのは、言語化できないから狂うわけで、
そういう意味ではありふれた精神病患者も絶対体験をしているのかもしれない。
絶対(空=死)をまざまざと見てしまうと人は狂うしかないのかもしれない。

しつこいが絶対体験とは、ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
お坊さんのなかには、この絶対体験をしたくて修行する人もいよう。
まあ、意地悪を言えば、大半はそんなものはどうでもよくなり堕落するのだが。
そして、堕落するのが悪いわけではなく、
わざわざ自分から絶対体験なんか求めなくてもいいと言えなくもない。
まあ、小金を貯めてバンジージャンプでもしたら、
軽い悟りくらいなら得られるかもしれないわけだしね。
しかし、絶対体験を味わったほうがいいとか上質とか、とても言えない。
まあまあテレビでも見ながら、あいつは悪人だ、あの人は善人よ、
なんて家族と喧嘩しながら、
「おれ(あたし)は絶対に間違っていない」と口癖のように言いつつ、
そのくせ社会人としては波風を立てない平凡な人生を送り、
ある日病気になって「自分の人生はこれでよかった」「我が人生に悔いなし」
なんてかな~り強引に無理やり力尽くでごまかしながら
平均寿命をまっとうするのがいちばんかもしれない。
なぜならだれしもが最後は絶対体験(臨終、死去、往生)をするのだから。

☆大乗仏教(顕教)→「真理の世界(仏の世界)|この世(俗世間)」
☆密教→「私(善悪、正邪、苦楽/相対)=仏(空/絶対)」
☆密教修行=ウギャアアアアアと叫ぶしかない体験


日本の真言密教は変なサンスクリット語の秘密めいた呪文を好むけれど、
あれの意味は「ウギャアアアアア」と言ってもいいのではないか。
「ウギャアアアアア」は言葉にならないから「ウギャアアアアア」なのであって、
各自それぞれ体験してもらうほかなく、それでも本人の器量しだいというところもあり、
偶然にも思える「とき」の到来も強く関係していそうだから、
むしろ絶対体験なんか経て、
変に社会的に逸脱した人間になるのがいいかはわからない。
「正しい」ことがわからなくなった状態が「ウギャアアアアア」だからさ。
なにが「正しい」のかなにが「善」でなにが「悪」なのかわからなくなるのが絶対体験。
そして、絶対的真理はたぶん「わからない」ということ。
なにもかもが心底「わからない」人が絶対智者であるというこのパラドックス(矛盾)。
正義も善悪も死後のこともまるで「わからないこと」をどこまでわかっているか。
ソクラテスの「無知の知」は矛盾しているけれど、あれが絶対的真理とも言えよう。
ちなみに、ひろさちや先生も絶対体験をお持ちである。
ひろさんは2000年に1億数千万円(7千万?)の空き巣被害に遭っている。
なんでも空き巣被害額の最高記録だとか。
いち夜にして1億数千万円を失うなんて、これを絶対体験と言わずしてなんと言うか。
みなさんはひろ先生のことなんてバカにしていてご本をお読みにならないでしょうが、
2000年以後の氏の本は「現代の一休さん」と称賛したいくらい、
ご主張が過激になっていてとてもおもしろい。
本書出版時(87年)にはたぶんまだよく密教をわかっていなかった気がするけれど、
いまのひろさちや先生はどこぞの真言宗坊主などよりよほど
「ウギャアアアアア(=密教)」を理解しているに違いないとわたしは思う。
絶対体験(盗難被害)は偶然に見えるが必然なのである。

☆密教(仏教)=「偶然(相対世界の現象)は必然(絶対不可避)と知ること」

ひろ氏の言葉も拾っておこう。
真言宗(密教)では最初に信者は「投華得仏(とうけとくぶつ)」の儀式をするという。
曼荼羅(まんだら)という仏さまがいっぱい描かれた大きな絵がある。
そこに目隠しをして(覆面や背を向ける場合もある)花を投げるそうだ。
そのときたまたま花が落ちた尊像が、その人にとっての「ほとけ」になる。
密教では「仏、菩薩、明王、諸天諸神」がみな「ほとけ」とみなされる。
偶然にたまたま花が落ちた「ほとけ」を彼(女)は一生のあいだおがむ。

「これが「投華得仏」である。
このやり方は、つまりは、わたしがほとけを選ぶのではなしに、
ほとけのほうからわたしを選んでいただくやり方である。
わたしは目隠しされているから、わたしにとってはそのほとけとの出会いは偶然である。
わたしが選んだわけではない。
とすれば、ほとけがわたしを選ばれたことになる。
わたしには偶然だが、ほとけのほうでは必然としてわたしを選んでくださったのである。
それが密教の考え方である。
つまり、そこには、ほとけのほうからの「加」がある。
ほとけの側からの働きかけがある。わたしは、
それを「持(たも)」てばよいのである。それが「加持(かじ)」だ。
偶然の出会いを必然化して行く――。それが、信仰である」(P373)


☆絶対体験→「偶然=必然、善=悪、男=女、聖=俗、損=得、生=死、空(くう)」

意外と知られていないのか、知られているのか、仏教はインドでは消滅している。
ことさら理由などなく偶然(必然)だったのだろうが、
歴史教科書的にはイスラム教徒が攻め込んできたから、ということになっている。
ほらさあ、イスラム教は自分たちが絶対正義の怖い人たちなわけでしょ?
仏教はセックス依存症だった龍樹が空(くう)とか言い出しちゃったから、
そりゃあイスラム教には勝てないわなあ。
空(くう)には正義も善悪も損得もないわけだから、弱いっちゃあ弱いよ。
さらにこれは仏教が残った日本と比較してなんだけれど、
結局インドでは学問仏教どまりで民衆化しなかったからという説も読んだことがある。
わたしがバカだからバカにもわかってほしいとこの記事を書いたけれども、
それでもやはり仏教は難しいでしょう。
ヒンドゥー教は現世利益の宗教で、願えばかなう系だから庶民にもわかりやすい。
いちおうヒンドゥー教も難しいことを言えば、
輪廻(りんね)からの解脱を目指しているらしいけれど、インドへ行ってごらんなさい。
教義には解脱とか母なるガンガー(ガンジス河)とかいろいろ聖性はあるけれど、
大半のインド人が解脱なんかより現世利益を求めているのは見ればわかるの世界。
ヒンドゥー教のサドゥー(修行者)は変なやつがいっぱいいて
日本の坊さんなんかより絶対おもしろいから、そこからも難解な仏教が、
傑作でおもしろいヒンドゥー教に負けた理由が推し量られよう。

日本仏教界も法然と日蓮が出なかったらたぶん終わっていたような気がする。
法然は難解な仏教を長年勉強した結果、
「南無阿弥陀仏」という一語で救われるとかめちゃくちゃを言い出したわけで。
その法然に嫉妬して、彼が貴族にも評価されていたのを恨んだのが日蓮。
日蓮大聖人さまは大嫌いな法然を模倣して、
「南無妙法蓮華経」で救われると説いた。
念仏(南無阿弥陀仏)とか題目(南無妙法蓮華経)はとにかくイージーじゃん。
バカでもチョンでもアホでもマヌケでも念仏や題目は唱えられるっしょ。
日本では現在のところ創価学会が大勝利したわけだが、あれも現世利益でね。
南無阿弥陀仏は、悪いことをしてもいいという教えが庶民に受けたわけで。
曹洞宗とかも信徒がけっこういるらしいけれど、
あれはお寺としては葬式タレント養成所だからさあ。
とりあえず死を直視したらげんなりするから、
そこは坊さんに隠しておいてもらおうっていう庶民の打算が働いただけで。
大学で仏教を研究している人もいるらしいけれど、
科学全盛の時代に無意味なことをよくやるなあと。
論文とか書いているのかもしれないけれど、だれがそんなの読むのって。
同僚くらいしか読まないものをしこしこ書いてなにが楽しいのかしらねえ。
総じて現在の仏教界は既得権益の世界と言えるのかもしれない。
新興宗教だった創価学会もいまは伝統仏教みたいになっていると聞くし。
まあ、お坊さんを消してしまった創価学会が最新最強の仏教と言うこともできなくはない。
日本史上、戦後の「神々のラッシュアワー」以前に、
僧侶(聖職者)と縁を切った仏教団体なんてほかにあったか。
わたしはお坊さんよりもいろいろ親切にしてくれる学会員さんのほうが好きだから、
仏教の正統性も伝統も関係ないねえ。
ところで、わたしは仏教徒なのだろうか?

☆仏教→「真理の世界=わからない|世間(善悪、損得、正邪、優劣、自他)=わける」

*最後までお読みくださり本当にありがとうございます。

「変?」(中村うさぎ/角川文庫)

→変な人たちの対談集。
壊れちゃった変な人、酒や買物やホストや美容整形に人はなぜ依存するんだろう?
こちらが変な人だから変な人が好きで変な人のことを知りたくて変な読書をする。
基本、あれなんだ~なあ。常識世間からこぼれ落ちた人が変な人になる。
世間や常識がすすめる生き方(結婚・出世・長寿)を目指していたら変な人にはならない。
落とし穴は「自由」であろう。もしかしたら人間は「自由」ではなかろうか?
中村うさぎちゃんはブルセラ博士の宮台真司くんに懺悔する。
人はどうして変な人、つまり依存症になるのか。「自由」がいけない。

「そーなの。もう、あなた、自由度が高すぎるロールプレイングゲームみたいなものよ。
『ドラクエ』なんかはさ、常に誰かから目標や使命を与えられるから、
達成感もあるし、楽しいんだよ。最後にゴールがあるのもわかってるし。
だけど誰も指示してくれなかったら、どこで何していいのか、わかんないじゃない。
「さあ、自由に冒険しよう」とか言われても、
「あのー、最初にどこ行きゃいいんですかね?」みたいな」(P133)


いい学校、いい会社、いい男――いい人生からこぼれ落ちた女子の本音だろう。
まあ、女子なら「あげまん」として男を盛り立てて生きるという生きがいもあろう。
これは女子でなければできぬことだが、そして中村うさぎちゃんは嫌悪感を示すが、
ひとつの女子の生き方のパターンである。
作家の島村洋子に中村うさぎのような迷いはない。女は「あげまん」に徹すべし。

「男って、「俺像」を大切にする生き物じゃない?
その「俺像」の幻想を、私も共有してあげるの。
凄(すご)い凄い、やっぱりあなたは凄いわ~、って」(P57)


すると、男はみなみな「いい男」になっていくという。これは真実。
こんな「あげまん」さんに出会えたらなあ、
なんて思っている中年男は出会えないんだろうなあ、あはっ。
人って必要とされたがるし、ほめられたがるものだと思う、男女ともに。
中村うさぎ先生は、今度はホストにはまるがそのホストからこんなことを言われる。
ホストはみんな宗教家なのかもしれない。
創価学会の池田名誉会長は、おばさん人気ナンバー1のホストだったのかしら。
さてさて人気のホストはおばさんの中村うさぎに言う。

「ホストの言葉を信じちゃいけない。
ホストクラブってのは、百の言葉の中に、百の嘘と百の真実が同居する場所だから。
(……) 騙されてると思うからいけない。
僕たちの嘘は騙すための嘘じゃなくてね。
お客さんを楽しませるための嘘だから。
せっかく金払ってんだから、嘘とか本当とか言わずにホストの言葉にふわふわノッて、
楽しんじゃえばいいじゃない」(P174)


主婦を楽しませてくれる新興宗教のボスはホストなのかもしれない。
新興宗教で散財したものは、
まあホストクラブで遊んだと思えばすっきりするのではないか。
どうせつまらない人生。
「正しい」生き方もいいが、自由の恐怖に脅えながら、楽しむのもありって話。
目標や使命がない自由は怖いけれど、それでも楽しむのはありって話。
おもしろければ「変?」でもなんでもいいよねえ。