間違えちゃったよ、てへへ。
今日は通院日ではなかったのに、うっかり信濃町にある某大学病院に行ってしまう。
じつはわたしは業病で仏罰のため(笑)、この病院に10年以上通っている。
もう寿命が残り少ないのかもしれませんので、みなさんたいせつにしてくださいね。
どうしてこんな勘違いをしたのだろう。
そういえばやたらお薬が余っていたが、本来の予約日は2週間後だという。
まあ、ミスが多い人生だから、マイナスもプラスと願兼於業(笑)。
信濃町といえば創価学会の聖地なのだが、
いままで10年以上もこの街に通っていたが聖地巡礼をしたことがなかった。
ああ、信濃町は不穏な地域で、
ちょっとでも変な真似をすると学会員から詰問されるというのは嘘も嘘よ。
わたしにとっては信濃町は慶應大学病院のあるところに過ぎないし。

あちゃあ、日にちを間違えちゃったよ。これからどうしようか。
総武線でお茶の水に行って、
ひさびさに古本屋めぐりをするのもいいが、時間も時間だし。
そうそう、信濃町といえば、信心が濃い町、創価学会本部があるところですよね。
わたしはこれだけ学会ファン(ストーカー?)なのに、
そういえば創価学会総本山の信濃町めぐりをしたことがなかった。
どこに創価学会施設があるかわからないので、駅前の地図を見るが書いていない。
なんとなく学会員っぽいおばさんの群れについていくと施設はわかったが、
どこも学会員以外はお断りと看板が立っている。
信濃町のちょっと奥に分け入ると、有名な黒服のガードマンが立っている。
とてもいい人そうなので、評判とは真逆で困ってしまう。

病院の予約も間違え、せっかくいま信濃町にいるのだから――。
本当に善人そうなガードマンさんに質問する。
「学会員ではないのですが」
「はい」
「聖教新聞や創価新報を読んでみたいのですが、どこで買えるのでしょう?」
むかしは販売場所があったがいまはないとのこと。
駅前の博文堂書店なら売っているかもしれないとのこと。
「学会員ではないのですが」
「はい」
「創価学会のことを知りたいので、どこか博物館のようなものはありませんか?」
「はい?」
「なんかどこも学会員以外は入ってはいけないようで」
「でしたら民音はどうでしょうか?」
「あれは博物館だったのですか?」
「はい」
「なにが見られるのですか?」
「なにか(ごめん忘れた……すごい)ピアノとか」
「どうもありがとうございます」

やっぱり学会員っていい人ばかりなんだよねえ。
信濃町は危ないなんて、まさかまさか。
民音は月曜日は定休日らしい。
創価学会に言いたいのは、せめて信濃町には創価学会博物館をつくったらどうか?
わたしのように興味のある人が行っても、なにもないのではどこが聖地なの?
それにさ、創価学会総本山の信濃町に、
聖教新聞や創価新報の買える販売所がひとつもないってどういうこと?
布教をする気がないとしか思えない。
そのうえ、そのうえ、興味のある人が来ても、
情報をいただける場所がないのはおかしくはありませんか?
聖教新聞や創価新報、第三文明、潮などのバックナンバーを無料で読めるところを
宗教団体ならどうしてつくらないのでしょうか?

しかし、まあいい。わたしは他人にほとんど期待をしていない。
信濃町の黒服ガードマンがあんなに低姿勢で親切だったので、
思わず泣きそうになってしまったくらいだ。
駅前の博文堂書店に行くが聖教新聞や創価新聞はない模様。
さすがに「ありますか?」とは恥ずかしくて聞けない。
そうそう、そうだった、そうかそうか。
ガードマンさんに逢うまえに駅前の創価学会土産店めぐりをしたのだった。
たしか3店あるのだが、いちばん奥の店がもっともサービスがよいのは、
まるでインドのお土産屋さんのようで笑ってしまった。
いちばん奥の土産店では、客のだれにもコーヒーサービスをする。
これはまるでインドの土産店である。
そして、無料で来年のカレンダーを配っている。
コーヒーは断わったが、
30円のあるもの(ゴミ?)を買ったらいろいろプレゼントしてくれたので驚いた。
30円のものを冗談で買ったらおなじ30円のものとそれ以外もいろいろくれた。
創価学会っておもしろいなあ。

「恩は返せ」「恩知らずは敵だ」「忘恩のものは消せ」というのが創価学会の教えだ。
よくわからないが、
いままでわたしは創価学会からいろいろお世話になっているような気がする。
よくわからないのは、みなさんは学会員ですか? と聞けないからだ。
気分気ままに行く派遣先の先々で学会員と思われる人が親切にしてくれるのだ。
しかし、「学会員ですか?」とはいくら厚顔なわたしでも聞けないから、
本当のことはわからない。
いままで創価学会から膨大な資金提供をされているかもしれないのである。
もしそうだとしたら、学会の悪口めいたものを
(よくお読みになられたらそうではないとご理解いただけるはずですが)
ブログにえんえんと書いている当方は忘恩の徒に見えるのかもしれない。
ちょっと恩返しでもしておこうと思う。
信濃町駅前の博文堂書店にて――。

「日蓮大聖人御書 佐渡御書」(池田大作監修/聖教文庫) 356円
「日蓮大聖人御書講義 種種御振舞御書」(聖教文庫) 483円
「ガイドブック 法華経展」(東洋哲学研究所) 977円


考えてみたら、創価学会っていい仕事もしているじゃん。
聖教文庫は岩波文庫よりも安いわけでしょう?
「ガイドブック 法華経展」は写真がいっぱいで解説も良心的でこの値段は奇跡に近い。
創価学会、グッジョブ! なんて言えるのは「外部」だからかもしれないけれど。
けれど、あの法華経展覧会の図録は本当にいい仕事よ。
あれを千円で売れる学会はすごい、とも言えなくはない。

今日は友人が忙しいらしく新宿御苑前のガストでいつものようには逢えず。
孤独だなあ、ひとりぼっちだなあ(笑)。
でも、昨日別の友人とおしゃべりしたからその内容を思い出してクスクス躁状態。
ブックオフ新宿靖国通り店。
そういえばこの近くにわたしのたったひとりの師匠、
「ゆきゆきて、神軍」の映画監督・原一男先生の疾走プロダクションもあるのだったか。
ともあれ、ブックオフである。
新宿靖国通り店だけかもしれないけれど、
ブックオフって創価学会の三色旗そのままの店舗スタイルだよねえ。

「これからの正義の話をしよう」(マイケル・サンデル/鬼澤忍訳/早川書房) 108円
「いのちの対話」(河合隼雄/潮出版社) 200円
「世捨て人のすすめ」(ひろさちや/実業之日本社) 108円
「嘘の見抜き方」(若狭勝/新潮新書) 108円
「週末バンコクでちょっと脱力」(下川裕治/朝日文庫) 108円


わたしは河合隼雄の大ファンだから、かえって困ることがある。
河合先生は著作が多数過ぎて、読んだかどうか覚えていないのだ。
ネットでの購入だったらブログ検索をできるが、
スマホを持たないガラケーの当方には調べられないので賭けになる。
帰宅して調べてみたら「いのちの対話」は家になかった(未読だった)。
まあ、これだけ河合隼雄の本を読んでいたら、いまさらどの本もおなじだけれど(笑)。
ひろさちやとおなじで精神安定剤のようなものかなあ。
でもさ、買った河合先生の本が潮出版社だというところが、今日は創価デーだという証。

河合隼雄つながり、ユングつながり、シンクロニシティつながりで言うと、
今日の新宿区は(法令で禁止されている)歩きタバコをしている人がやたら目についた。
なんだかちょっと嬉しかった。
わたしが創価学会を好きな理由は、
原色そのままというか、欲望そのままというか、
学会員さんはふつうなら隠したいような
あからさまな俗物的欲望を恥ずかしげもなく公開しているところである。
多くの人間は黒か白か、それともダークかなあ、
とかいろいろ悩みながら生きているのだが、
むろん学会員にも苦悩はあるのでしょうが、
そこを赤黄青のけばけばしい原色そのままで出してしまえるストレート直球勝負。
学会員のすばらしさであり、嫌われるところでもあろう。
見習いたいとも、真似しちゃいけないのではないか、とも同時に思う。
世の中はもしかしたら白か黒か(ダークか)ではなく、赤黄青かもしれないではないか。

151130_1803~01

くいーん♪

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くいーん、くいーん♪
「懺悔の告発」(山崎正友/日新報道)

→副題は「私だけが知っている池田大作・創価学会の正体と陰謀」――。
まえの記事では山崎正友をほめすぎたような気がする。
だって、かわいそうじゃん。あれだけ叩かれまくっている人ってほかにいないでしょう?
大物ぶったあげく、師匠からは嫌われ、側近からも裏切られ、ひとりぼっちで。
山崎正友という人は京大卒だし、
あの人にさえ逢わなければいい人生を送っていたのだろう。
人と人との出逢い、めぐりあいというものはまこと不思議である。
山崎正友って、要は創価学会と日蓮正宗のダブルスパイをしていた人なのでは?
池田大作のまえでは(日蓮正宗の)日達の悪口を言い、
日達のまえでは池田大作の悪口を言ってご機嫌を取っていたという。
だけどさ、そういう人がいたからふたつの組織がうまくいっていたという面もあると思う。
この本には山崎正友の人品の卑しさがよく現われていて、
それがだれの影響かと考えると持つべきものは師匠である、なんて皮肉りたくもなる。
山友さん、品性が下劣すぎて本当におもしろい。
銀座のバーでおごるのが好きだったらしいから、ゴチになりたかったなあ。
高潔ぶった人より下世話な人のほうが好きである。
わたしが池田先生のことが好きなのは、
山友さんのようなお弟子さんがいるからかもしれない。
ダブルスパイ(二重スパイ)だった元創価学会顧問弁護士・山崎正友の名文をご覧あれ。

「池田大作は困ってくると私を使って解決しようとするが、
ただ、私を利用して相手をだまそうとするだけだから、
そんなことに黙って利用されるつもりはなかった。
また日達上人もそうした池田のやり口や下心は見抜いてしまっているから、
「今度はどんな話をもって来たのですか、山崎さん」と、
ニヤニヤしながら聴かれる始末だった」(P91)


山崎正友によると、池田大作は池田代作と言ってもいいほど
多くの代作者(ゴーストライター)を持っていたらしいけれど、
池田大作さんというのはある種の庶民の夢の結晶化なのだと思う。
こういう人がいてくれたらどんなにいいことか、という。
池田さんもそういう庶民の夢を演じるようになって、
いつしかなにが本当の自分かわからなくなってしまったのかもしれない。
池田大作が「池田先生」を演じることで喜ぶ大勢の庶民(学会員)がいるのだから、
わたしは「池田先生」はなにひとつ悪くなくほぼ絶対的に「正しい」と思う。
「池田先生」を演じるのに池田大作さんはどれほど心血をそそいだことか。
それは自分のためではなく庶民(学会員)のためなのである。
実際、若いころ(会長就任時)の池田先生は希望に燃えたじつにいい顔をしている。

よくよく考えてみると、池田先生はあるときまでは順調すぎる人生を送っている。
病弱な子ども時代だったというのは嘘だと溝口敦氏が指摘している(「昭和梟雄録」)。
戸田城聖という師匠に恵まれ、大蔵商事では大金を稼ぐエリート会社員だ。
夫人も名家の出身である。32歳で創価学会の会長になっている。
苦難どころか順調すぎる人生と言ってもいいのではないだろうか?
池田大作は、これはすべて信心による功徳と思ったことだろう。
このため自身の人生体験から1977年には本心から池田はこう発言できたのだ。

「功徳が皆さんの上に、創価学会員の上に、さんさんとこれまた、
雨の降るがごとく、功徳がわかないわけがないんです。
皆さん、功徳をいただいておりますね。
まだまだ今までの何千倍何万倍何億倍も受ける資格があるんです。
受けられる土壌があるんです。
これは創価学会の信心には、世界一、宇宙第一の功徳がある、
とこう私は宣言しておきます」(P161)


ところが1984年、池田大作氏の次男、池田城久氏は29歳の若さで病死する。
このとき人間・池田大作はもぬけのからになったのではないか。
どうしてこれだけ信心してきたのに、こんな不幸が自分に起こるんだ?
84年に池田大作は死んで「池田先生」だけになってしまったような気がする。
山崎正友によると、学会では病にかかることは「信心がないことの証」らしい。
このため池田城久氏が病気になると池田大作氏は息子の症状を隠したという。

「城久が九月中旬、胃痛を訴えるや、
池田は、息子の病気を世間に知られることを恐れ、
池田家出入りの産婦人科で内科も兼ねているドクター部幹部の
石川信子医師の経営する「新生クリニック」に入院させたのである。
当初から内科と外科の専門医にかかっていれば
最悪の事態は避けられたであろうが、
いかんせん医師は産婦人科が専門。
容体が悪化しても手術のすべもなく、「石川信一」なる偽名で
癌研病院に入院したものの手遅れとなり、偽名のままでこの世を去った」(P174)


まるで人の不幸をあざ笑うような品のない文章だが、
このとき池田大作さんの信心が本物から偽物に変わったような気がする。
「池田先生」の人生におけるターニングポイントは84年のこの不幸ではないか。
池田は1963年には自信たっぷりにこんなことを語っている。

「私どもを誹謗し、私どもをバカにした人たちは、一年、三年、七年、十四年
とみてごらんなさい。その不幸な現証の姿を、
まざまざと私たちの眼前にあらわすのが仏法の方程式でありますから、
それを確信しきっていただきたいのであります」(P161)


創価学会が強いのはこの罰論があるからではないかと思う。
84年以降、池田大作は「幸福ぶる」ようになったのではないか。
自分に罰など当たっていないという現証のため、
勲章収集に拍車がかかったのはこの時期なのかもしれない。
いったいどうしてだれかが幸福になり、
いっぽうでだれかが不幸になるのかはわからない。
創価学会は幸福と不幸の仕組みを、学会への信心と罰で説明する。
この「アメとムチ」の理論は「正しい」のかもしれないし、そうでないのかもしれない。
しかし、この罰論があるかぎり創価学会という組織は不滅ではないだろうか。
いくらスリープ(未活)状態とはいえ、創価学会には大勢の二世、三世がいるのである。
いつだれにどんな不幸が当たるのかはだれにもわからない。
そして、人生は不幸が雨あられのように降ってくるものである。
不幸に遭遇した際、かつて一度でも創価の教育を受けたものは、
これは仏罰ではないかとスリープから目覚めることだろう。
脱会者もふくめれば一度でも創価教育を受けたものは2千万人くらいいるのではないか。
彼ら彼女らが不幸に遭遇した際、かならずやスリープから目覚めよう。
スリープという言葉は、
創価学会中枢が使っている未活状態の隠語だが言い得て妙である。
この巨大組織はこれからどうなっていくのだろう。
一部では弱体化するのみではないかと言われているが、創価教育は根強く、
あるいはこれからもうひとりの新たな名誉会長が現われるのではないかとさえ思う。
その人は幸福ぶるだろうが、人間不信の地獄の苦しみを味わうことになろう。

「創価学会・公明党の犯罪白書」(山崎正友/第三書館)

→創価学会の歴史を振り返ると、いちばんかわいそうなのは山崎正友氏だと思う。
山崎正友氏は創価学会の元顧問弁護士。
1980年除名後は機関紙で総攻撃され、獄中体験まで味わう。
「太陽の帝王」池田大作氏に比して、山崎正友氏は「闇の帝王」と言われていたらしい。
だれかが光るためには、べつのだれかが影を引き受けなければならないのである。
戸田城聖が二代目会長として光っていたとき、
「闇の帝王」の役割を果たしていたのが池田大作氏である。
法律上は行政のはからいで無罪になったが、
創価学会のいう「大阪事件」では池田大作氏は選挙違反までやったのである。
矢野絢也氏によると、「大阪事件」は法難でも、
公安が創価学会を危険視したためでもなく、
大阪府警はただ単に池田大作氏が選挙違反という犯罪をしたから逮捕した。
ただただ、事実はそれだけだという。
あとになって警察の幹部から、「やれやれ」といった口調で言われたそうだ。

だれかがダーティーワーク(汚れ仕事)をやらなければならないのである。
池田大作氏が三代目会長になったあとは、山崎正友氏が汚れ仕事を任された。
きれいごとだけでは組織はうまく行かないし仕事もはかどらないのである。
山崎正友氏ほど評判の悪い男は知らないけれど、
ジャーナリストの溝口敦氏によると、山崎正友は私的な蓄財などいっさいせず、
手に入った金はいつも子分に大判振る舞いしていたという。
そう、まるで大蔵商事時代に池田大作氏がしていたように、である。
後藤忠政氏によると、神崎武法氏と浜四津敏子氏は山崎正友氏の弟子らしい。
しかし、両氏は山崎が池田から粛清されると、
かつての恩を忘れ手の平を返すように
学会の山崎批判キャンペーンに加わったわけである。
これが処世というものなのだろう。
池田大作氏は学会の(仕方がなかった)悪事を
すべて山崎正友氏が勝手にやったことにして組織から追放した。
学会員も本来は池田大作氏に見て取るべき「悪」を山崎正友に投影したのだろう。
以降、学会の汚れ仕事は藤井富雄氏にまわされたが、
氏は立ち回りがよほどうまいのか池田大作氏の粛清から逃れ得ている。

よく知らないが、創価学会の勤行は、
願いがかなうよう御本尊に向け題目を上げるということでよろしいか?
これはとても怖いことである、と言えなくもない。
なぜなら毎朝毎晩、おのれの欲望(願い)を燃え上がらせることなのだから。
毎朝毎晩、欲望、欲望、欲望! するとあたまは欲望のことばかりになってしまう。
正確かどうかはわからないが(本書に調査記録があるけれど)、
学会員に犯罪が多いというのは日々欲望を刺激するための必然かもしれない。
学会員が読む法華経は、釈迦が嘘をついてもいいと言っているところである。
毎日、法華経のあそこを繰り返し読んでいたら嘘をつくのが悪いと思えなくなるだろう。
(ケースバイケースでかならずしも嘘は悪いとも言い切れないが)

本書で知って驚いたのは――。
第1回関西青年平和文化祭の男子部組体操による「六段円塔」である。
「第三文明」2000年1月号では、
文化祭5日まえに男子部副部長の上田弘二郎28歳は、
くも膜下出血で死んだことになっている。
しかし、本書によると上田弘二郎君は「六段円塔」練習中の事故で死亡したとのこと。
ここに宗教活動の問題が象徴として現われている。
ある種のお祭り好きには、宗教活動はとても楽しいものだろう。
そして、困難にチャレンジするというのはいいものだとも思う。
常識なら死んでしまったら意味がない気もするが、
きっと本人は練習中に死んでもいいと思っていたことだろう。
ご両親もおそらく学会員だっただろうが、この名誉の戦死をどう思っただろうか、
もしご両親も名誉の戦死と思えたのならば、そこで完結して美談で終わるのだが。
「六段円塔」なんか作らなくてもいいと思うが、
がんばって「六段円塔」を作ってしまうところが、いかにも創価学会という気がする。

山崎正友氏の無念を思うとやりきれない。
池田先生のために創価学会のために、そうと知りながら悪いことをやったら、
ほめられるどころか正反対で、まさにハシゴを外されたという状態になったのだから。
かつての弟子にも裏切られ、さぞかし悔しかったことだろう。
あれだけ創価学会のために尽くしたのに、機関紙では極悪人扱いされるのだから。
池田大作氏があの世でいちばん感謝するのは山崎正友氏ではないかと思われる。
池田大作氏としても創価学会のために、
山崎正友氏を切らなければならなかったのである。
池田大作氏もいつかお亡くなりになるときが来るだろう。
ぜひともあの世で和解してほしいところである。
そのときはかならずや酒を飲めないご両人はトマトジュースで乾杯するだろう。
山崎正友氏は銀座のバーでトマトジュースをよく飲んでいたという。

本書からいささか引用する。仏法の勉強になる。

「「道理・証文より現証にしかず」
日蓮大聖人が、正邪を判断するのに、理屈や文献よりも、
現実の事例をもってするのがベストだと教えられたことである」(P4)


わかりやすく言い換えたら、金持ちや高身分のものは「正しい」、ということになるのかな。
行ったことのある人に聞くと、創価学会の座談会っておもしろいらしいね。

「座談会や会合で、〝功徳”の体験発表ができるのは、
信仰心のすぐれている証とされ、逆に、〝功徳”が得られなければ、
〝信心が足らない”と批判される。そこで〝ウソの体験発表が横行する」(P25)


実際、生きていて努力が報われたと思うことなんて、そうそうざらにないもんねえ。

「創価学会は、利用価値のある間は相手をチヤホヤするが、なくなるとポイと捨てる」(P66)

わたしが創価学会から勧誘されないのは、
きっと公明党1票の価値しかないからなんだろうなあ。
友人もほとんどいないから、広宣流布もできないし。
「六段円塔」なんて恐ろしくて大金をもらっても練習に出たくないけれど、
男子部の人たちはああいうことを無料でボランティアでするんでしょう。
男子部とか幹部とか手弁当で活動している人はすごいと尊敬しまっす。
軽く忠告しておくと、あまり偉くなると悪目立ちして山友さんのように足を引っ張られるよ。

「真実の証明」(阿部日顕/日新報道)

→日顕なんてだれも知らないでしょ?
学会員かどうかの見分け方って(学会員は正体を隠すことが多い)
みんな興味があるみたいだけれど、わたしの名前は「顕史」というのだが、
「日顕」の「顕」ですと言ってわかったら、相手は学会員ではないかという笑い話。
でもさ、いまの未来部の少年少女は日顕なんて知らない可能性もあるからな。
阿部日顕は日蓮正宗67世法主(いちばん偉い人)。
日蓮正宗は日蓮の弟子の日興系で富士門流と呼ばれ……
といろいろ説明できるけれどだれも興味がないでしょうから、
ものすごーくかんたんに説明すると日蓮正宗は日蓮宗の過激派。
自分たちだけが正しいと主張する他宗攻撃が好きな坊主集団。
で、日蓮正宗と創価学会の関係はというと、
むかしは創価学会は日蓮正宗の門徒組織であった。
どうして在俗の門徒団体に過ぎない創価学会が
宗教法人として認められたのかというと、
二代目会長の戸田城聖が坊主に女を送り込んではらませて(懐妊させ)、
その坊主を戸田先生が数珠で殴りまくったから……とかいう、
ブラックな宗教伝説めいたうわさもあるけれど真相はわからない。
ちなみにわたしはこの手の真偽定かならぬ、黒い下世話なうわさ話が大好き。
創価学会っておもしろいよなあ。

むかしの創価学会は宗教的権威を日蓮正宗に求めていたわけである。
仏教では三宝帰依と呼ばれ、仏法僧を重んじる。
仏法僧の「僧」の部分を創価学会は日蓮正宗に委託していた。
具体的にいえば、学会員の葬式には日蓮正宗から坊さんが来ていた。
代わりに創価学会は日蓮正宗に上納金を支払っていたわけである。
日蓮正宗は創価学会に宗教的権威をプレゼントし、見返りにお金をもらっていた。
むかし池田先生が偉い理由は日蓮正宗の信徒代表だったからである。
いま池田先生が偉い理由は、勲章をたくさんもらっている「庶民の王者」で、
そのうえ悪口を言うと学会員からなにをされるかわからないからである。
いえいえ、これは嘘も嘘、大嘘で、
学会員はみんなやさしいいい人たちばかりだとわたしは人生経験から思う。

1991年、日蓮正宗法主の日顕は池田名誉会長を破門。
ここまで来るにはいろいろあったのだが、まあ内ゲバみたいなものとも言えなくはない。
77年(79年?)第一次宗門戦争(仏教で戦争っておいおい!)では
池田が宗門(日蓮正宗)に詫びを入れるかたちになったのである。
91年段階では創価学会はもう日蓮正宗に「勝てる」と踏んでいた。
要するにさ、坊さんが必要なのって葬式のときだけじゃんって話。
創価学会でのお葬式は学会員同士が助け合うもので「友人葬」というが、
坊主不要で金がかからないことで知られている。
日顕が池田名誉会長を破門後、創価学会と日蓮正宗は激しく対立する。

1992年から創価学会が機関紙で報道を開始したのは、
日顕批判の「シアトル事件」(学会側の呼称)である。
日顕としてはまさか創価学会がそこまでしてくるとは思わなかったことだろう。
日顕は池田大作氏の人間としての恐ろしさを甘く見ていたところがある。
学会機関紙の報道では、
日顕が30年まえにアメリカで買春トラブルを起こしたというのである。
日顕がシアトルで売春婦ふたりを買い、
裸体をカメラで撮ろうとしてトラブルになり、路上で警察沙汰になったという。
証人は池田大作の愛弟子のヒロエ・クロウ女史と現地警察官のスプリンクルである。
いきなり30年まえもむかしのことを言われて日顕もうろたえたことだろう。
少しばかり日顕猊下が小物だなと思ったのは、
「いやいや、おれはそのときふたりではなく5人売春婦を買ったよ」
と笑い飛ばしてしまえばよかったのである。
いや、もう忘れたけれどあれは6人だったかも、7人だったかもなあ。
むかし政治家で愛人問題を問われたときに、
こういう回答をした大物がいたでしょう?
そもそも結婚していたらほかの女とやっちゃいかんとか、女を買っちゃいかんとか、
そういうのってくだらない常識とも言えなくもないわけで。

しかし、阿部日顕猊下は激怒なさるわけである。創価学会を名誉毀損で告訴。
わたしは日顕をなんとなく悪い人なんだろうな、
と思っていたけれど(学会の情報操作ってすげえ!)、
この本を読んでたいへんお気の毒な人だと同情したしだいである。
でもまあ、経歴を見るとエリートコースで出世しているし、
下のものにかしずかれておいしい思いもいっぱいしたことだろうし、
たらふくうまいものを食っていい酒をのんで芸者遊びもして、ちゃんと結婚しているし、
鎌倉時代の日蓮に比べたらだいぶマシな人生なんだから、
まあ「シアトル事件」も法難や前世の宿命だと思っていさぎよくあきらめてくださいな。
しっかし、創価学会ってあたまがいいんだなあ。
仏法の話をすると、釈迦が法華経を説いて「いない」ことはなかなか証明できない。
「シアトル事件」も日顕が起こして「いない」ことを証明するのは難しい。

ふたりの証人に証言されたらその事件がなかったことは証明できないのである。
日顕サイドは当初はなかったとされていた当時の手帳が発見されたと主張しているが、
裁判は結局は証拠と証人だから、この手帳もあるいは偽造されたものかもしれず、
しかし手帳の内容を見ると、だれそれはあいさつしないのでむかつく、
といった日顕猊下の尊大な感想が書かれており、どこかしら本物っぽいのである。
結局、日顕サイドの調査で証人の警察官スプリンクルが
30年まえ同地に勤務していなかったことが判明する。
さらにスプリンクルにはアメリカの創価学会弁護士から
月に約40万円の報酬が支払われていたことが明らかになる。
わたしも40万ももらえるなら偽証のひとつやふたつしそうだから、
スプリンクルを偉そうに上から目線で裁くことができない。
池田のアメリカにおける愛弟子ヒロエ・クロウは裁判中に不審死を遂げる。
真実を知っているのは彼女だけだったのだが、これで真実は消えたといってよかろう。
日顕はクロウの死に対して、
「仏法上の見地から言えば、天罰覿面(てきめん)の現証」と
およそ聖職者とは思えぬ発言をして喝采を上げているが、
「シアトル事件」によってしょいこんだ気苦労を考えると、
そういう荒っぽい口をききたくなる気もわからなくはない。
この事件で得をしたのは創価学会弁護士とスプリンクルである。
それから共通の敵ができて学会員の結束が固まったこともプラスだろう。
まあ、裁判長の弱みを握ったりうまく金をつかませたら(知らずにつかませる手がある)、
裁判の勝敗などどうにでもなるような気がしなくもない。
詳しくはわからないが、裁判は最後は和解に終わったようである。

あなたやわたしもいきなり5年まえの事件の犯人にされる可能性がある。
複数の証人がいて、たとえ偽造されたものでも証拠らしきものがあれば、
だれでも犯罪者になってしまうのだから、運が悪い人はお気の毒である。
社会正義などいつの時代にもどこの国にも存在せず、
金さえあればなんでもできるから金ほど重要なものはないと言えよう。
日顕サイドも金があったから、いろいろ調査することができたのである。
真実とは金が決めることなのだとたいへんな社会勉強になった。
とてもいい本だったので、悪侶の書いた一部を引用する。
これは真実っぽいぞ。

「思うに、特定の個人を陥(おとしい)れるために複数の人間が計画を練り、
一人の告発者が、「間違いなくこういうことがあった」と主張し、
同調する者が口裏を合わせ、大々的に宣伝を行った場合、
いかに一人が潔白(けっぱく)を叫んでも、
嘘が真実としてまかり通ることになる」(P192)


いやいや、日顕猊下にはたくさんの手下や子分がいらっしゃるではありませんか。
わたしはひとりぼっちである。
創価学会も日蓮正宗も法華講もみんなお仲間と楽しそうでいいなあ。
みんながみんな善人で、わたしだけひとりぼっちで悪人なのだろう。

「創価学会ドラキュラ論」(幸福の科学・広報局編)

→山田太一ドラマ「男たちの旅路」に「影の領域」という回がある。
新入社員が魅力ある上司の不正を発見してしまう。
新入りは上司から教わる。世間とはこういうものなんだ。みんなやっていることなんだ。
相手の業者も言う。みんなやっているし、うちだけやらなかったらつぶれちまうんです。
上司は新入社員に言う。きみは世間というものを知っていると踏んだんだ。
きみを信頼しているからこそ、こういう裏事情を見せた。
大人になるとはこういうことだ。わかってくれ。世間はそういうものなんだ。
新入社員が悩みに悩んだすえ社長に相談に行ったら、
社長もその不正を知っていて、わざわざそんなことを正義ぶって言いにくんな。
自分は勇気を持って正しいことを報告にしたにもかかわらず、
社長からは逆に大声で怒鳴られてしまう。
ドラマとしては正義のヒーロー鶴田浩二が不正を告発して悪い上司を追放する(※)

これはものすごく難しい問題なのね。答えが出せない問題である。
わたしは正義派ぶっている人が嫌いだから、世間派にくみするような気がする。
けれども、実際に悪事を見たら正義派ぶって告発してしまうかもしれない。
そのときその場にならないと自分がどうするかはわからない。
ちなみにシナリオ・センターのあれは正義ではなくいわば私怨で、
あの学校が大嫌いという表明に過ぎません。
悪いことをしてもいいのだろうか。悪人はかならず裁かなければならないのか。
そもそも悪とはなにか。
宗教というものは相対的な世間(善悪)を超える絶対を説くものなのである。
どういうことか。

絶対>善悪(相対)

これが創価学会の場合ならば、こうなる。

池田先生>善悪(世間)

いいとか悪いとかそういう問題以前に、宗教とはそもそもそういうものなのである。
学会員が「池田先生のため」に善悪を飛び越えたことをやれるのもこのためだ。
無宗教の人は、世間的善悪を無視した行為をする学会員を怖いと思う。
しかし、学会員さんたちとしては、
「池田先生>善悪」なのだから罪悪感のようなものはない。

池田先生(絶対正義)>法律(世間的善悪)

わたしは独学だが多少宗教を勉強してきたから、これが悪いとも言い切れないのだ。
そもそも法律はどうして「正しい」のかわからないという問題がある。
ある日をさかいに傘をさして自転車運転するのがどうして違法になるのかわからない。
車なんかぜんぜん通っていないところで赤信号を守る理由がわからない。
近所に押しボタン式の横断歩道があるけれど(ボタンを押すと信号が青に変わる)、
あれを押してしまうとけっこう長く青が続くから急いでいる自動車には迷惑なのである。
だから(めんどくさいこともあるけれど)、わたしはボタンを押さないで渡っている。
法律がどうして「正しい」のかわたしはわからない。
みんなが決めたことだからと言われても、
どうしてみんなの言うことが「正しい」のかって話。

創価学会には不正の香りがぷんぷんするのである。
どうして学会員が不正(世間的悪)をするかといえば、私利私欲もあろうが、
それだけではなく「池田先生のため」という理由もあるのである。
「天皇陛下のため」に一致団結して国防戦争をするのは、
それは戦争はよくないことだけれども、ある種の昂揚はあるわけでしょう?
戦争はよくないけれど、国を守るために兵隊として戦うというのは、
ある意味で英雄的な生き方とも言えよう(戦争はよくないが)。
学会員さんは「池田先生のため」に日々勝負をしているのである。
勝負とは闘えということで、個人闘争(個人戦争)と見てよい。
いや、創価学会はかならず群れるから集団闘争をしていると言えよう。
毎日だらだら生きるよりも勝負の人生を生きるほうが充実しているのかもしれない。

本書のテーマのひとつは東村山市の朝木明代市議の転落死事故問題である。
当時、朝木明代市議は公明党(創価学会)と業者の癒着を追及していた。
例によって暴力団もかかわっていたようだ。
後藤組の元組長の書いた「憚りながら」で
紹介された富士宮市スキャンダルとまるでおなじ構図だ。
東村山市の不正というのは、ゴミ利権、都営住宅利権、市役所就職利権である。
わたしはこれを世間的尺度から絶対悪だと裁いていいのかわからない。
というのも、わたしだって創価学会のコネでいい思いをしたいからである。
正直、できたら安い都営住宅に入りたいし、
いいところに就職(バイト)を斡旋してほしい。
そして、わからないが、いままでわたしも創価学会の恩恵を受けてきたかもしれない。
それにさ、有名人の息子だったら
テレビ局に無試験で入れるわけでしょう(みのもんた!)。
世の中ってそういう不正にまみれているじゃないですか?
クリーンな顔をしている有名人のお子さんだって、みんな恵まれているわけで。
学会員はあまり恵まれていない人が多い組織とされている。
そういう不遇な人たちが連帯して助け合っているのを社会不正と言い切ってよいのか。

朝木明代市議は正義の闘士だったのである。
わたしは正義を声高に訴える人というのがどうも苦手である。
そのうえ朝木明代市議は個人として創価学会に立ち向かっていたわけではない。
やはり群れるのである。つるむのである。
「反創価学会」のシンポジウムに参加して正義を訴える先生なのである。
そういうお偉い先生の転落死事故をどう見るかという問題である。
あれは後藤組の組員が朝木明代市議を殺したのか、それとも自殺なのか。

死の直前に不可解な事件が起きている。
朝木明代市議が洋品店で1900円のシャツを1枚万引きしたという。
これはあるはずがなく、
おそらく「池田先生>反創価学会の先生」の信念にとりつかれた、
正義の創価学会員による自作自演だろう。
複数が協力すれば、いち個人をも犯罪者に仕立てあげることができるのである。
おそらくこれは洋品店の主人(創価学会系)が
朝木明代市議のカバンかなにかに隙を見てこっそりシャツを入れたのだろう。
そうしてから「万引きだ、万引きだ」と大声を出して追いかける。
そばに学会員を配置して、証人もつくっておく。
そうして被害届を出したらば、犯罪立件一丁上がりとなるわけである。
おそらく、このようなことをされた朝木明代市議は心底から恐怖したのではないか。
そこまでやるのか! しかし、証人がいるから自分が犯人になってしまう。
いったいなにが善でなにが悪で、自分がなんだかわからなくなったはずである。
こんなことをされたらノイローゼになる。
町を歩いていても、だれが学会員かわからないのである。
そして反創価学会運動をしていたら、学会員からなにをされるかわからない。
池田先生の悪口をいうものは「池田先生のため」になにをしてもいい。
そう考えるのが一部の創価学会員である。
むろんそんなことをするのは極めて少数で断じて全員がそうだとは言っていない。
で、こういうことをされた朝木明代市議は女性のこともあり、
恐怖感が増してなにを見ても創価学会からの攻撃に思えてしまったのではないか。
そして、なにがなんだかわからなくなり飛び降り自殺をしてしまった。
わたしはこの件では後藤組はかかわっていないと予測する。

犯罪というのは証拠と証人がすべてである。
証拠をうまく偽造し、証人を複数つくっておけば、
無罪の人をも有罪に仕立てあげられる。
この万引騒動のあと、反創価学会でお仲間の矢野市議は
深夜に男性複数とトラブルになったらしいが、そのときの状況をこう説明する。

「はじめは挑発するだけで、しばらく手を出そうとしない。
おそらくはじめは私に抵抗させて警察を呼び、朝木市議の万引きに続いて、
私を『暴力市議』にでっち上げようとしたんだと思います。
今考えれば、車を止めていた二人もグルだったんでしょう」(P29)


さもありなんである。いかにも学会の一部精鋭部隊がやりそうなことである。
一般の学会員はとてもいい人が多いけれど、
なかにはこういうことを「池田先生のため」にする人もいるような気がする。
結局、朝木明代市議が死んだおかげで、
助かった庶民(学会員)も大勢いたのである。
政治家の娘がコネで大手マスコミに入るのはよくて、
貧しい学会員がゴミ収集会社に優先的に就職できるのはよくないとは言い切れない。

しかし、本書の記載にもデタラメがある。
富士宮スキャンダルに事実誤認がある。
ブルドーザー事件が起こったのは「百条委員会」事件よりはるかむかしである。
被害者の市民活動家は片腕を切り落とされたが、死亡はしていない。
幸福の科学が出したこの本をどこまで信用していいのかはわからない。

おもしろかったところを紹介する。
山口県の婦人部のおばさんがこう言っていたという。

「自分は全財産を二度、財務[寄付金]に出した。
三度、全財産を財務すると、どんな宿命転換もできる」(P155)


山口県の県長。

「池田先生が海外へ行くには莫大な金が必要。
とくに各国の大物と会うためには、手ぶらではいけない。
そのために財務しましょう。これは何倍にもなって返ってくる」(P156)


福岡県の婦人部長

「みなさーん、一万円もっている人が一万円出せば功徳をもらえます。
三万円もっている人が一万円だと罰を受けます」(P156)


こういうおもしろい発言って「聖教新聞」に載っているのかなあ。
だったら取ってみるのも悪くないような気もする。
でも、ひとりで何部も取っている人もいるだろうから
資源節約のためそういう人からもらいたい。
ああ、学会員でも「聖教新聞」さえ取っておらず、
財務もゼロの人がいることを別の本で知った。
公明党の一票だけでもいいのかもしれない。
例の「憚りながら」のヤクザが書いていたけれど。

「だいたい(創価)学会の信者と違って、普通の人は投票なんて行かないんだから。
面倒くさいもの。それより家で、碁や将棋でもやっていたほうが楽しいだろ。
「俺の一票で日本が変わる」なんて思うことは滅多にないから」


ヤクザと敵対する警察OBの証言が本書に掲載されている。

「都議会議員には、警視庁の上の人でも頭が上がらない。
最敬礼待遇ですよ。やっぱり予算を握られていますから。
私の経験でも、令状をとっていよいよ逮捕というときに、
公明の議員からストップがかかりましてね、逮捕できなかったことがある。
こんなのしょっちゅうですよ。みんなあまりいわないけれど」(P251)


まあ、世の中そんなもんなんでしょうね。
こういう警察と創価学会の癒着を知っていたから、
まえにも紹介したけれど、以下の脅迫鍵コメントがブログに来たときは心底ビビった。

やっちまったな、あんた。だから精神科に行けと言ったのに。

もう手遅れだ。ガサ入れは朝一番で来るからそのつもりでな。



わたしは創価学会の味方ですから、ガサ入れとか正直勘弁してください。
こういう本を読んでいるのは創価学会に興味があるから、好きだからなんですよ。

「平和への道 池田大作物語」(前原政之/金の星社)

→子どもでもわかるように平易な文章で書かれた池田大作物語。
いろいろものを考えさせられるため、そういう意味でわたしにはいい本だった。
なかにはなにもものを考えさせない本もあり、
わたしはそういう本を嫌うが、大衆(庶民)はあんがいその手のものを好む。
創価学会の池田大作名誉会長の「正史」をわかりやすく書いた本である。
井上靖の「天平の甍」は鑑真来日という表の「正史」の裏にあったと思われる、
夢かなわなかったいわば失敗した仏僧のかなしみを描いた秀逸な物語である。
歴史(物語)は勝ったものがつくるといってよい。
というか、負けたものの存在は歴史に記されることがない。
相対性理論を発表したものの名前は一生残るが、
おなじ研究をしていて生涯認められなかったものの名前はだれにも知られず終わる。
歴史は勝利者の物語である。勝利者が創作するのが歴史といってよかろう。
歴史上多くのナポレオン的性格異常者(破綻者)はいただろうが、
ナポレオンのように大勝利をおさめなかったから彼らは歴史に名を残していない。
本書はナポレオンが大好きだったという、
おそらく日本でいちばん大勝利している男の物語なのでいろいろ考えさせられた。

2008年刊行の書物のためか、もはや創価学会特有の独善主義はない。
みなが嫌う創価学会の排他的独善主義を著者は持っていないのが好ましい。
それはこの物語のフィクションからわかる。
池田青年にキリスト教に入信する友人がいたという設定を著者はしている。
これはクリスチャンの佐藤優が創価学会と癒着するまえかあとかはわからないが、
いまや創価学会はキリスト教まで認められるようになっているのかもしれない。
正しくは、一部の良識ある学会員は唯一の絶対正義なるものを疑っている。
池田青年はキリスト教に入信する友人に向かってこう言ったことになっている。

「きみがそう決めたのなら、それもよいと思う。
ともかく、ぼくの願いは、きみが幸せになることだ。
ぼくもいまは病気だし、生活も苦しいけれど、すべてを乗りこえて、
人々のため、社会のために役に立つ、堂々たる人生をひらこうと思う。
おたがいがんばろう」(P83)


とてもいい別れの言葉だと思う。
相手の幸せを願うというのが本当の友情だ。
相手のためを思ってと言いながら強制的に創価学会に入信させることのなにが友情か。
さらにこの創作されたセリフのすばらしいところは押しつけをしていないところだ。
池田青年は「人々のため、社会のために役に立つ」ことを個人的に目標にしているが、
この別離した友人には「人々のため、社会のために役に立つ」ことを強制していない。
ことさら人々のため、社会のために役に立たない人がいてもいい。
そういう寛容性、人間としての器の広さを著者から見て取ることができる。
きみはきみの道を行け。きみとぼくは違う。ただし、幸せになってくれ。幸せになれ。
きみが人々のため、社会のために役に立たなくてもいい。
ただきみが幸せになってくれ。それがぼくの望みだ。それがぼくの幸せだ。
とてもすばらしい人間観、幸福論だと思う。

友人と別離した池田青年は人間普遍の問題に悩む。
宗教の根本はここにあるのである。
この池田青年の思いがわかる著者もまた、
かつておなじことに真剣に悩んだことがあったのだろう。
いちおうは池田の師匠である創価学会二代目会長の
戸田城聖の言葉(指導)になっている。
いまの若者だってなにも考えていないようだが、かならずここでつまずくのである。

「一番、肝心なのは、人間とはどういうものか、自分とはどういうものか、
そこから考えることだ、というのです。
だれもが自分のことはよくわかっているつもりで、本当は何もわかっていない。
どうして人は生まれて、死んだらどうなるのかさえ、わからないのです。
生命については、わからないことだらけなのです」(P91)


勘がよくあまたのいい少年少女青年淑女はかならずここで立ちどまるのである。
わたしはいいおっさんになっても中二病のごとくこの問題に執着している。
しかし、もうすぐ死ぬだろうに、
こんな青臭い問いに悩んでいる中島義道のような哲学者もいるから安心だ。
この問いに対する答えはさまざまで、自分で自分なりの答えを発見するしかない。
しかし、それはニートや無職、孤独といった社会問題を引き起こすことが多い。
このため戸田城聖の指導は、かなりのパーセンテージで「正しい」と思う。
ふつうのあたましか持たない人はそういう根源的な問いを持ちこたえられない。
へたをするとあたまが狂って自殺してしまうことになる。

「正しい人生とは、と考えるのもよい。
しかし、考えるひまに、日蓮大聖人の哲学を実践してごらんなさい。
青年じゃありませんか。
必ずいつか自然に自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。
私は、これだけはまちがいないといえます。
青年らしく勉強し、実践してごらん」(P91)


「正しい人生」の別名はつまらない人生で、
みんなとおなじように金儲けや出世を目指し、結婚して子育てして、
まあいっか、とみんなとおなじようにありふれた人生を終えることなのだが、
たしかにそれは悩める青年に教えるべき「正しい人生」と言えよう。
「正しい人生」を自分のあたまで考え始めると人生を棒に振ってしまう確率が高い。
池田青年はいいタイミングで師匠と出逢ったのだろう。

本書は「池田大作物語」と銘うっているから、あくまでも物語で事実ではないのだろうが、
戸田城聖のほかに池田大作にはもうひとりの師匠がいたことになっている。
それは池田少年のお母さまであられる。
この池田名誉会長のご母堂に、通俗的な説教をさせているのが物語としてうまい。
戸田城聖には決して言わせられないことを母親の言葉として書いている。
母は強し、である。母ならば息子にどんな「正しい」ことを言ってもいい。

「母は、子どもたちに、「出世してほしい」などといったことは一度もありませんでした。
いつも、二つのことを子どもたちにくりかえしいいきかせました。
それは、「ウソをついてはいけないよ」と
「他人にめいわくをかけてはいけないよ」ということでした」(P15)


池田大作名誉会長の人生を振り返ると、
一般的な世間常識とも言える母の言葉に逆らい、
師匠である戸田城聖の指導に忠実に従ったことがわかる。
池田大作ほど日本で出世した男はいないだろう。
池田大作ほど多くのウソをついて
苦しむ庶民を救った宗教者は世界史上まれではないか。
同時に池田大作ほど多くの人に影響をおよぼした(迷惑をかけた)人はいまい。
池田名誉会長のお母上はさらなる通俗的世間的な説教を池田少年にする。
なんでも池田少年は修学旅行で気前よく同級生におごったため、
家族へのお土産を買う金がなくなってしまったという。
そのときに助けてくれたのが檜山先生だ。そっとお小遣いをくれた。
母親はのちに日本最大の権力者になる息子にさとす。

「檜山先生のことは忘れてはいけませんよ。
困ったときに助けてくれた人、自分を支え、はげましてくれた人のことは、
絶対に忘れてはいけません。
そして、将来、何倍にもしてそのお礼を返していくのです。
それが恩を知るということです。人間にとってもっとも大事なことです」(P34)


まるで悪魔のような母親ではないか。
こういうことを何度も息子に吹きこんだら、その子は一生友人ができなくなってしまう。
池田少年のお母さまの言っていることは、要約すれば人間関係なんざギブアンドテイク。
人の好意なんか信じちゃいけない。好意は借りだから何倍にもして返せ。
人を信じるな。人の好意を信じるな。なにかしてもらったら、かならずお返しをしろ。
しかし、友情というのはギブアンドテイクからもっとも遠いものである。
池田母の説くギブアンドテイクを信じていたら、一生のあいだ親友はできないだろう。
見返りもなにもないのにどうしてか不思議というほかなく厚情を示してくれるのが友だ。
そして、友からの親切にお返しを何倍にしようか、などと考えないでいられるのが友情だ。
恩を返せという処世術はまことビジネスには有効だが、人を孤独にする説教だ。
本書の著者は、おそらくそのことを深く理解しているのではないだろうか。
これはフィクションだろうが、池田少年に見返りを求めない行為をさせている。
池田少年が小学5年生のときだという。
兄の喜一が兵隊として中国大陸に出征するので家族で駅まで見送りに行く。
そこにはたくさんの兵隊とその家族がいたという。
池田少年と母、喜一は久しぶりの再会を喜ぶ。
以下のシーンが本書でいちばん好きだ。よかった。

「なかには、家族がだれも来ていなくて、一人さびしく座っている兵隊もいました。
しょんぼり座りこんでいる兵隊を見て、母はかわいそうに思いました。
「あの兵隊さんにも、おにぎりをさしあげたら?」といいました。
池田家は海苔屋(のりや)ですから、海苔はたくさんあります。
おにぎりも余分に用意してきました。
池田少年はおにぎりを手に持ち、ひとりぼっちの兵隊にかけより、
「どうぞ」とすすめました。
最初は遠慮していましたが、もう一度「どうぞ」とすすめると、
「ありがとう」と何度も礼をいっておにぎりを受けとりました。
さびしそうだった兵隊の顔がパッと明るくなるのを見て、少年もうれしくなりました」(P24)


これはギブアンドテイクではないでしょう。
このエピソードでだれが本物かといったら、ひとりぼっちの兵隊さんである。
大の男にとって人から同情されほどこしを受けるほど屈辱的なことはないのである。
世間常識はギブアンドテイクである。借りは返せ。借りは作るな。
このときのひとりぼっちの兵隊さんは、池田少年に恩を返せる見込みがないのである。
しかし、池田少年のまっすぐな目を見て、ありがとうと感謝しておにぎりをもらう。
とてもすばらしいシーンだと思う。
池田創価学会のよさはこういうところにあるのではないか。
妻に先立たれたひとりぼっちの孤独な老人に声をかけてやる。
お金に困っていないのならいっしょに公園の掃除でもしませんか、と誘う。
貧窮していたら国にこういう制度があるからと教えてやる。
見返りを求めないで、そういう親切行為をできるのが学会員の偉いところだ。
ひとりぼっちは大半の人間にとってこれほどきついものはない。
そういうひとりぼっちの人間に見返りを求めず声をかけていけるところが
池田創価学会のすばらしいところだ。
個人的には「公明党に入れて」くらいは言ってもいいと思うけれども。
思い返すと、人生でひとりぼっちのとき、
いく人の学会員(っぽい人)が心配して声をかけてくれたことだろう。
正直、それがうざかったこともあるけれど、見返りを求めない善行など、
要はお節介なのだから宗教のないふつうの人はなかなかできない。

恩を返せよと恫喝するのはビジネスであって友情ではない。
受けた恩を返さなければと思うのは人間不信の証拠である。
人から親切をされたときに、恩を返す見込みはないけれど、
ただただ「ありがたい」と感謝して
卑屈になることもなく笑顔でおてんとさまを見上げられるのが
人間のよろしさであり友情というものだ。
おそらく著者は池田名誉会長がひとりも持っていない親友にめぐりあえたから、
前原政之さんには真の友がいるから、こういういい本が書けたのだと思う。
わたしはこの本の感想を泣きながら書いた。

もうなにもかもがいやになって、
睡眠薬を多めにのんで(自殺とかじゃなく)ふて寝して目覚めたら――。
データもぜんぶ消えていたパソコンが元に戻っていたのである。
創価学会さま、ありがとうございます~と土下座したくなりましたね。
ということは、創価学会の犯行(指導)だと思っていいのでしょうか?
でもさ、それっていわゆる言論統制じゃないですか?
いえいえ、こちらはジャーナリストでもなんでもなく、過疎ブログの書き手ですが。
これからも創価学会に対して組織(会員)が気に喰わないことを書いたら、
同様の制裁をするからなという脅しとも解釈できなくないわけだから。
ささいな出来事ですが、まるで有名な「言論妨害出版事件」じゃないですか。
そういう脅迫みたいのって逆に学会にマイナスイメージを持たせるだけでは?

わからないことがいろいろ。
うちなんてアクセス数の極めて少ないだれからも読まれていないブログなわけ。
もっと大手のホームページで大々的に創価学会を批判しているところもある。
どうしてそういう大手を攻撃しないでうちなんかをねらってくるのでしょうか?
うちなんかだれにも相手にされていないし、まったく影響力ゼロよ。
そのうえ「本の山」は創価学会に批判的というより好意的でしょう?
創価学会のここがおもしろいという記事を書いているわけだから。
「憚りながら」の感想なんかもそうとう手心を加えて書いているわけ。
「憚りながら」を実際に読んだら、あれは池田大作バッシングの本だとわかるはず。
そういうところはあえて意図的に紹介していない。
「憚りながら」の感想記事程度でパソコンをいじられたら、あたまを抱えるしかなく。
わたしはパソコンのデータを消されたりするのがいやである。
機械オンチだから、そういうのは死にたくなるくらいいやだ。
だから、これから書く記事は創価学会をなるべく刺戟しないようにする。
でもさ、どこが基準かわからないじゃないですか。
どのレベルまで創価学会のことを書いてもパソコンをいじられないのか。

生まれて初めて創価学会の本部に電話してみた。
最初受付に出たのはとても愛想のいいおねえさん。
「ブログに創価学会のことを書いたら、パソコンが壊れて、
そのあと『ごめんなさい』って謝罪したら、パソコンが直りました。
創価学会にそういうネットを監視する部署みたいのがありましたら、
そこにつなげていただけませんか」
もちろん、最初に名前を名乗り、聞かれたので住まいも答えている。
そうしたら担当部署につなげてくれるという。
そこで出てきたのが、ものすごい感じの悪い偉そうなじいさん。
「うちではネットの監視なんかやっていない。
他人のパソコンに入ることは法律違反だから、そんなことはやらない」
そういうことを言われた。どうせあっちは録音しているんでしょうけれど。
もし創価学会に入りたかったら紹介者を探してください、とのこと。
このじいさんは折伏する気も失っているのかよ。
最後にじいさんのお名前をうかがったら言えないだってさ。
いまどき役所でも担当者は名乗るでしょう。
上の名前だけでいいんだから。こっちは名乗っているのに、なにさまって話。
創価学会の本部職員さまはすげえ偉いんでしょうね。

結局、これからどうしたらいいんだろう。
うちなんかよりよほどひどい創価学会批判サイトがたくさんあるでしょう?
どうせつぶすなら、まずああいうところからやるべきではありませんか?
そのうえわたしは創価学会に好意的なF(フレンド)ですよ!
かならず公明党に入れるって宣言しているわけだから。
Fに対して学会さんはそういうことをしていいわけ?
わたしがアンチにまわったらいままで書いてないけれど、
知っている学会のあれこれを書いちゃうよ。
それって創価学会にとってものすごくマイナスだと思いますよ。
いまでも今朝目覚めたときの不快感は記憶している。
壁紙が学会カラーの黄色になっていてさ、ゾクゾクっとしましたわ。
相手がFのわたしだからよかったようなもので、
学会批判者はきちがいめいた人が多いので、
そういう人のパソコンにおなじことをしたら、
彼は刃物を持って本部で暴れたりするんじゃないかしら。
そうなったら当然マスコミ報道されるだろうし、
ネット言論妨害をしていたこともおおやけになって、もっとアンチが増える。

わたしはFで学会シンパだし、学会員とも仲良くしたいから、
今日の事件はこうまとめておく。
今朝、パソコンが急に壊れたのは偶然で、
数時間後奇跡的に復旧したのも偶然。
あるいは寝ぼけたわたしが見間違えたのかもしれませんね。
いちいち証拠写真を撮ったりしないから。
わたしは裁判とか大嫌いだし、一生裁判だけはしたくないと決めている。
警察に訴えたり裁判するくらいだったら個人で相手に向かっていく。
今日の結論は――。

池田先生万歳
先月からパソコンに何者かにより侵入されている形跡があった。
「日蓮御書」の感想を書いたときに、
ブログ記事冒頭に「F」と入っていたのは印象的だった。
「F」とは創価学会用語でフレンドのことである。
きっと創価学会にはサイバー部があるだろうから、
まあほぼパソコンの中身は見られているのだろうなと予測していた。
メールも第三者から閲覧されている形跡があったが、
どうせおれの個人情報なんてどうでもいいだろうと気にしなかった。
記事をよく見たらわたしはかなり学会シンパでしょう?
よもやまさか攻撃はされないと思っていた。
ブログのコメント欄に明らかな脅迫の鍵コメントが入っていたこともあったけれど。

やっちまったな、あんた。だから精神科に行けと言ったのに。

もう手遅れだ。ガサ入れは朝一番で来るからそのつもりでな。



今朝起きてパソコンを起動したらやられていた。負けた、降参、完全敗北。
ワードもエクセルも抜かれて、パソコンデータもほぼすべて消失していた。
創価学会としか思えないけれど、これって仏罰ですか?
ざまあみやがれ、とかあざ笑っているんですか?
創価学会サイバー部なら優秀だから復元もできそうな気もしますが、
うちのブログの古参ファンのmmさん、
学会上層部にかけあってみることはできませんか?
ドキュメントとかピクチャーとか、すべて消えているわけよ。
ウェブのお気に入りも消えているから、猫猫ブログも検索しないと行けない。
謝罪しますから、どうにか元に戻せませんか?

わたしは友人なんかほとんどいない孤独な人間ですよ。
これは死ねって言われているに近い。最近、とくに自殺願望が強いし。
宮本輝先生のいう「善き人たちの連帯」をわたしは信じています。
助けて、創価学会さま。なんでもしますから。
先月、「日蓮御書」の感想を書いた翌日に家のまえに
公明党のピンクのポスターが2枚貼られていた。
公明党は応援しているし、次の選挙ではかならず入れようと思っている。
助けて、SOS 、これやばいって絶対。負けた、降参、お手上げ。
もう朝木明代市議のように飛び降り自殺をするしかないのかしら。
学会員は仏罰が当たったと笑うの?
母親もわたしの目の前で飛び降り自殺をしたから、結局こういう宿命だったのか。
わたしは負けた。
「憚りながら」(後藤忠政/宝島社文庫)

→創価学会とヤクザの関係を知りたくて読む。
著者は有名なヤクザの親分だったらしく、
本書刊行時は来世が怖いのか坊さんをやっていた(現在は最後に書く)。
本書はいわゆる裏社会の暴露本のようなものである。
かつて暴力団山口組きっての武闘派として知られた後藤組の元組長は証言する。
学会シロートはパッと1回読んだだけでは経緯を理解できないと思われる。
わたしは学会員(っぽい人)に恩義があるから「本当のこと」をわかりやすく説明したい。

はじまりは富士宮の日蓮正宗大石寺の大本堂設立をめぐってだ(72年建立)。
富士桜自然墓地公園の設立も関係している(80年完成)。
このふたつを建設するために動いた金は1000億円近いとされている。
創価学会は大本堂設立のための土地買収の際、かなり乱暴なデタラメをした。
結果として、富士宮の議会で問題になり、
池田大作も道路交通法違反で告発された。これは創価学会にとっては困る。
だれに相談したらこの問題を解決できるかと考えた学会は、
富士宮の「陰の市長」とも言われていた地元の実力者の日原博に相談する。
日原博こそ富士宮の議会を裏で支配していた黒幕だったからである。
(日原博の肩書は自民党富士宮支部支部長。67~79年、静岡県議。日原造園経営者)
日原博は別に正義のために創価学会を告発したわけではない。
その証拠は、創価学会の元顧問弁護士、
山崎正友が日原博に裏金を持っていったらすぐに態度を改めたからである。
どうしてこの事情を著者が知っているかというと、
後藤は日原博の用心棒のようなことを当初はやっていたからである。
ここからわかるのは公明党(創価学会)だけではなく、
自民党も暴力団と関係していた事実である。
わたしは別に創価学会と暴力団に関係があってもことさら悪いとは思わないが、
もし学会がヤクザとつるんでいるからけしからんというものがいるならば、
自民党だって経済界のトップだって暴力団と関係していたことをどう思うのだろう。

さて話を戻すと、自民党のお偉いさんで造園会社のトップ日原博と、
創価学会顧問弁護士の山崎正友はタッグを組んだわけである。
このため創価学会の造園計画もうまく行き、日原博も独占的に金儲けをすることができた。
後藤組の後藤忠政もおこぼれを頂戴してこの時期に組織を拡大した。
宗教関係者は相場よりも高く土地を買ってくれるというのは有名だから、
富士宮には土地成金のようなものもだいぶ現われたことだろう。
もしこの造園計画を事前に知り得たら土地の転売で大儲け可能だったことだろう。
多少正義にはもとるかもしれないが、
「学会利権」でみんながみんなけっこういい思いをしていたわけである。
しかし、きれいごとが好きな左翼を中心にこの癒着に反対する市民運動が始まる。
創価学会反対のデモまで起こるほど大ごとになってしまった。
このときには後藤忠政も直接に山崎正友と交際するようになっていた。
山崎正友は池田大作から命令され、この市民運動の沈静化を後藤忠政に依頼した。
後藤忠政は報酬をもらったうえで仕事として市民運動を抑えることに成功する。
具体的にはどんな仕事をしたのか。
後藤によると、静岡県議で日原造園社長の日原博は墓石で荒稼ぎをした。
安い墓石を海外から仕入れ、異常な高額で学会員に売りさばいたのである。
もちろん、後藤組にも創価学会にもキックバック(利益供与)したことだろう。
こういう不正を憎む手合いが、
日原博や後藤組の悪事をビラにして新聞折り込みに入れ配った。
1977年、後藤組のヤクザが反対派グループの首謀の家にブルドーザーで突入。
後藤の命令でヤクザはMを日本刀で斬りつけたという。
後藤忠政(から命令された組員)はカタギの一般人の片腕を切り落とし片輪にする。
こういう荒っぽいことをされたら、
だれも日原博、後藤組、創価学会に逆らえなくなる。
後藤忠政は確実に報酬分の仕事(暴力)はする、とてもいいヤクザだったのだろう。
ここまでは創価学会も後藤忠政もウィンウィンである(利害一致)。

しかし、社会不正はばれるものである。
日原博は1979年に静岡県議を辞めている。
翌年1980年に富士宮議会に真相を追求する「百条委員会」ができる。
創価学会としては困った事態になったわけである。
80年段階で山崎正友弁護士(当時)は創価学会から除名されている。
しかし、公明党と後藤忠政とのパイプはつながっていた。
ヤクザの後藤忠政は公明党市議から依頼を受け「百条委員会」をつぶす。
だれだって家にブルドーザーで突っ込まれたり、
日本刀で斬りつけられるのはあまり歓迎すべき事態ではないということだ。
ところが、この「百条委員会」壊滅のときの謝礼金を創価学会は支払わなかった。
あるいは後藤の期待よりはるかに少ない報酬しか支払われなかった。
そのうえ今後の関係終了(絶縁)を学会サイドから一方的に通告された。
後藤親分は子分を刑務所行きにさせてまで池田創価学会に尽くしたのに、
これではあんまりだと公明党の竹入と矢野に内容証明郵便を出した。
ヤクザと1回でもかかわったら、このように延々とゆすられるのかあ。
池田創価学会としてはトカゲのしっぽ切りである。
あれはすべて山崎正友が勝手にやったことだと逃げたい。
しかし、後藤忠政としてはそうは問屋が卸さないというわけである。

いくら創価学会でも山口組きっての武闘派は怖いのである。
創価学会はどのような対策を取ったかというと、今度は警察に手を回したのである。
創価学会と警察が上のほうでは通じているというのは有名な話である。
公明党が与党であるから、警視庁の予算や人事にまで口を出せるのである。
創価学会から後藤組対策を依頼された警察はどうするか。
富士宮署に「後藤組壊滅対策本部」をつくり、
徹底的に後藤組の組員を取り締まった。
警察権力がその気になれば、どんな罪状でも引っ張ることができるのだ。
これに負けるような後藤忠政ではない。てめえ、ふざけんなよ、の世界である。
後藤忠政は子分に命令して池田大作をつけ狙わせる。
池田は最初東京女子医大に逃げ込んだが、
組員が現われるとすぐに行方をくらましたという。
1985年11月、信濃町の創価学会文化会館で後藤組系幹部ら3人が発砲。
銃刀法違反で現行犯逮捕されるという事件が勃発する。後藤忠政やるなあ!
これに対して池田創価学会はどうしたか。後藤組に詫びを入れたのである。
仲介者となったのは、公明党重鎮の藤井富雄。
創価学会の初期メンバーのひとりでもある。
池田創価学会が後藤組にいくらの謝罪金を払ったのかは書かれていない。
藤井富雄は陸軍中野学校(旧日本軍のスパイ養成所)出身とか息巻いていたらしい。
中卒の後藤忠政は京大法学部卒の山崎正友を嫌っていたが、
自称陸軍中野学校出身の(創価学会古株)藤井富雄とは意気投合する。
池田創価学会と暴力団最強の後藤組は以降、手を組むことになる。
創価学会は表(警察)とも裏(暴力団)とも通じているのだから恐ろしい。

1991年、日蓮正宗は池田大作名誉会長を破門。
以降、創価学会と日蓮正宗は激しく対立する。
92年4月、日蓮正宗大石寺「妙遠坊」で発砲事件。
同年5月、日蓮正宗大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられる。
95年某月、藤井富雄は後藤忠政に亀井静香ら4人の反学会メンバーの殺人を依頼。
この殺人計画は未遂に終わったが、
後藤組は創価学会からいくつ仕事を請け負ったのだろう。
もちろん、「法華経を唱えるヒトラー」もとい「庶民の王者」の
池田先生が暴力団と関係しているはずがなく(絶対にない!)、
藤井富雄とやらが師匠のためを思って独自判断で勝手にやったことだろう。
近い将来、正義の聖教新聞で藤井富雄が総攻撃される日が来るかもしれない。
わたしは創価学会が暴力団と関係していた過去を知ってもまったく動じない。
どうしてヤクザはいけないのだろう?
先ごろ引退したプロレスラーの天龍源一郎のファンだったせいか、
ああいう浪花節の任侠ヤクザ世界にはとても好感を持つ。
義理、人情、仁義の世界である。
考えてみたら、創価学会とヤクザはよく似たところがある。

「ヤクザになろうなんて子は、どっか社会に馴染めなくて、弾かれたり、
落ちこぼれたりして不良になってるんだけど、
実は案外、真面目で一途(いちず)な子が多いんだ。
真面目で一途でないとヤクザは勤まらんのだから。ヤクザになるからには、
親分や兄貴分に絶対的な忠誠を誓わんことにはいかんのだから。
極道の世界にはまだ、「主君のために命を捨てる」とか「二君に仕えず」
といったサムライの精神が生きてるんだよ。
だからこそ組織が成り立ってるんだ」(P297)


ヤクザがよくない、創価学会がよくないというのは、
世間的な物差しで判断しただけの偏見ではないだろうか。
どうしてヤクザ創価学会は悪くて朝日新聞が絶対的な善になるのだろうか。
戦時中は戦争をあおりたてていたのが当時もいまも正義の朝日新聞なのである。

後藤忠政の話をしよう。
後藤の母親は彼が2歳のとき踏切の故障で電車にはねられ事故死したというが、
いくら踏切が壊れていても電車が来ればわかるはずで、まあ投身自殺だろう。
後藤が最初に殺傷事件を起こし逮捕されたのは二十歳になったばかりのころ。
「よーし、ちょっと男を上げるか」と反目するヤクザ団体の幹部を日本刀で斬りつける。
このとき「死ぬのが怖いとは思っていなかった」というが、
それはおそらく母親のけがれた血が遺伝しているからではないかと思われる。
本書でいちばん驚いたのは、財産と地位(名誉では断じてない)を得、
贅沢を知った後藤がのちに肝臓ガンになったとき、
死にたくないと心底から思ってアメリカまで肝臓移植に行ったことである。
人間って変わるもんなんだなあ。
天文学的レベルの裏金をアメリカの病院に支払い、移植の順番を早めてもらったらしい。
このとき本来はアメリカに入国できない前科者の後藤が渡米できたのは、
FBIとの裏取引があったからだと本書に書かれている。
後藤は書いていないが創価学会インタナショナルのコネもあったのではないか。
後藤忠政は自分の命ほしさに仲間の山口組情報をFBIに売ったそうだ。
これはチンコロと呼ばれるヤクザ世界でいちばん軽蔑される行為だが、
二十歳のときは「死ぬのが怖いとは思っていなかった」後藤が
そうまでして生きたいと思うようになった理由が知りたい。わからない。

わたしはヤクザの親分になどなりたくないが、どうしたらなれるのか。

「世の中の人たちは、ヤクザの親分というのは、
若い衆が稼いできた上がりを取ってメシを食ってると思ってるかも分からんけど、
そんなことをしてたら若い衆は逃げるだけだ。
二十代の頃の俺なんて、有名な親分でも何でもないし、もっと簡単に言えば、
俺が飲ませたり食わせたりしてるから、人が集まるんであって。
「おい、お前」とか言って身内にたかってばかりいたら、
逃げられるに決まってるよ(笑)」(P56)


池田大作さんがじゃっかん32歳で創価学会三代目になることができたのは、
当時大蔵商事(高利貸し)で大金を稼いで、
ヤクザの親分とおなじことをしていたからではないかと思う。
そして、池田名誉会長は32歳以降、
ずっと友人がひとりもいない超絶孤独を味わってきたような気がする。
子分と友人は違うのである。
彼の味わったであろう本物の孤独を考えると、
どんなに勲章をもらっていても池田先生がうらやましいとは思えない。
元後藤組組長で現在はカンボジアで伯爵をなさっている後藤忠政はいう。

「ただ、人間一生のうちに、本当に腹を割って話をしたり、
胸の内を包み隠さず見せたりできる相手は、2、3人もいれば充分だ。
あとは多かれ少なかれ、どこかに欲があったり、
この人と付き合っていれば、何か得だろうという打算の関係が大半なもんでな」(P134)


創価学会員って友人がたくさんいる社交的な人が多そうだけれど、
もし自分が脱会したらそのうち何人がそれでも友人でいてくれるだろう、
とか思い悩んだりすることはないのだろうか。
創価学会の芥川賞作家、宮本輝はエッセイにこう書いている。

「私はときおり、たまらなく寂しいときがある。
私には親友がいないという気がするからである。
親しい友人はたくさんいるが、真の友はひとりもいないなと思う」(「命の器」)


いったいなんの本の感想だかわからなくなってきたが、
いちおうブログカテゴリー「創価学会」の記事だから許してください。
後藤忠政のベストセラー「憚りながら」で西郷隆盛の名言を知る。
そうそう、後藤とかいう元ヤクザは本書で池田先生のことをボロクソにいっていたぞ。
学会の若い衆はどうしてカンボジアまで仇を討ちに行かないのか不思議である。
西郷隆盛の名言――。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
此の始末に困る人でなければ共に天下の大事は語れない」(P161)


後藤忠政はいまそういう人がいなくなったと嘆いているけれど、
わたしはひとりそういうヤバい知り合いがいる。
彼はカンボジアに行ったこともあり土地勘もありそうなので先ほど電話してみた。
「カンボジアはメシがまずいからいやだなあ」だってさ。
彼なら元ヤクザの老いぼれカンボジア伯爵をこらしめてくれるのではないか、
と期待しているが果たして。

「民族化する創価学会」(島田裕巳/講談社)

→創価学会っておもしろいよなあ。
日本戦後史を語るうえで欠かせないのは創価学会だけれども、
だれにも正体はわからず黒い噂も多くタブーになってしまっているわけである。
わたしは創価学会が善か悪かはわからないが、とてもおもしろい宗教だと思っている。
好きか嫌いかと問われたら、どちらかといえば好きと答えるような気がする。
というのも、よくわからないところがあるからである。
いままで一度も人生で学会員と逢ったことがない。
この人は99%学会員だと思う人には接したことがあるけれど、
まさか宗教は聞けないでしょう。学会員は正体を隠すことが多いし。
とはいえ、いままで学会員っぽい人に親切にされてきたなあ、という思いはある。
これはおそらく本当のことだけれど、学会員でも学会のことはよくわからないと思う。
なぜなら、あまりにも巨大になりすぎてしまったからである。
おなじ学会だって地域によってそうとう違うはずである。
そのうえ熱心な学会員は活動で忙しいから学会に関する本を読む時間がない。
スリープ(未活)の人はそもそも学会にあまり興味がないからスリープなわけで。
結局、著者とかわたしのような外部の人が内部の人より学会に詳しい、
といったような状況も起こりえないわけではないと思う。

忙しい学会員はこんな本を読む暇がないと思うので恩返しもふくめて要点を書く。
というか、あんまりおもしろくない本である。
知っていることも多く、得るところが少ない。
このため、要点は簡潔にまとめられる。創価学会の特徴は――。
・おなじ日蓮系の立正佼成会や霊友会とは異なり出家者集団とのパイプがあった。
(いまは切れてしまったが、必要がなくなったらハシゴを外す手腕は巧みだと思う)
・先祖供養がない。
・スピリチュアルな部分がない。
(この点が真如苑との違いで著者はこれからは真如苑が伸びるのではと予測)
・熱心な学会員は250万人だと著者は言い切っている。
(わたしはもっと多いと思うし、未活の人の多さが学会の強みだと思う)
・宗教団体にはめずらしく一度も分裂を起こしたことがない。
(池田先生がすごいのか、ブレーンが優秀なのか、どちらともだと思う)

わたしが創価学会に興味を持つのは実際に功徳も罰も起こせる仏教団体だからである。
本書の言葉を借りよう。

「創価学会は、「現世利益」の実現を掲げて、組織の拡大に成功したわけだが、
こうした公明党議員による住民相談は、
まさに現世利益の実現に結びつく活動である」(P91)


公明党議員って本当によく住民の相談に乗ってくれ、実際に解決してくれるらしい。
それに「三人寄れば文殊の知恵」というけれど、
学会に入ればどこの病院がいいとか、こういう国からの支援があるとか、
いろいろな人がいるからお互いに知識を伝達しあえるわけでしょう。
それぞれ得意な分野、不得意な分野があるわけだから、
群れるのは人間として戦略的に「正しい」(得である)。
よく知らないけれど、学会に入って仕事を紹介してもらった人もいるだろうし。
創価学会は大所帯だから、実際に現世利益があるといえよう。
創価学会の恐ろしいところは仏罰も起こせてしまうところである。

「佐々木順子という女性の場合には、自分は学会員ではなかったものの、
母親が学会員で、毎日のように家で折伏[勧誘]された。
また、職場の同僚からも、毎日学会に入るように口説かれていた。
それでも、彼女は学会員になろうとはしなかった。
ところが、家庭や職場での折伏が続いたため精神的に追いつめられ、
ノイローゼになり自殺未遂をはかった。
すると母親を含め、周囲の人間たちは、「それ、出たぞ」と、
彼女の不幸をむしろ喜んだという。
この背景には、初代会長の牧口常三郎の説いた「罰論」の影響があった。
「出た」とは、罰が表に出たという意味である。
それから佐々木は、母親や周囲の学会員に可愛がられるようになり、
自身熱心な学会員になっていったという」(P96)


学会員は脱会者にとても厳しいことで有名である。
集団でいやがらせをして実際に仏罰を人の身に起こせてしまうところが学会のすごさだ。
わたしは根が下劣だからか、学会員のこういう人間くささがとても好きである。
嫌いな人が不幸になるのって楽しいよねえって話。
偽善者は人の不幸を聞くと同情したふりをするけれど、
それが嫌いな人だったらむしろ喜ばしいと感じるのが人間として当たり前というもの。
嫌いな人の不幸をせせら笑うような人間味が学会員のよさともいえよう。
では、なぜ学会に入らないのかというと、
そもそも入れてくれないだろうし、だれも一対一で折伏してくれないからである。
タイプのかわいい女の子から交際を条件に誘われたら一も二もなく入信するだろう。
しかし、いざ内部に入ったら以下のようなことはいえなくなってしまうのである。

「日中国交正常化には、池田の功績は必ずしも大きくはなく、
むしろ公明党、とくに当時の竹入委員長の功績が大きい。
にもかかわらず、創価学会と公明党は、竹入をおとしめることで、その功績を奪い、
もっぱら池田の功績に仕立てあげようとしている。
創価学会と公明党は、竹入が経歴詐称していたと非難しているものの、
ここには、意図的な歴史の作りかえが見られる」(P208)


著者は外部の人だからこういう、
まあ(おそらく)客観的な意見を書いても聖教新聞でたたかれないが、
内部でこんな発言をしたら屈強な青年部に囲まれつるし上げを喰らうのである。
竹入の次に粛清されたのは矢野だが、狂信的な青年部ほど怖いものはないという。
少しでも池田先生に逆らったら、何時間も大声で怒鳴られ土下座を強要される。
こういう優秀(?)な弟子が大勢いるのが創価学会の強みであろう。
いままで著者のことを宗教性を持たない宗教学者だと軽んじていたが、
以下の引用を読んでこの人は宗教の力学(仕組み)を
よく理解しておられるとひとりで拍手した。宗教は師匠ではなく弟子がつくるものである。

「師匠が弟子のことについて語ることはない。
語ったとしてもそれほど意味はない。
重要なのは、弟子が師匠のことについて語ることである。
師匠は弟子によって作られるともいえる」(P268)


わたしは師匠の親鸞の千倍以上、唯円のほうが優秀だったと思っている。
ぶっちゃけ、イエスなんて狂人で、
よくできた弟子が師匠をうまく英雄化したわけでしょう。
釈迦は廃人で、弟子や(むしろそれよりも)没後弟子の法華経創作者のほうが偉い。
創価学会でいえば、
二代目会長の戸田城聖なんてアル中のクズに過ぎず(そこが好きなのだが)、
どう考えたってこれだけ信者を増やした三代目の池田大作のほうがカリスマ性は高い。
同様、池田先生は偉いのかといったらかならずしもそうではなく(怒んないで!)、
日本全国にいる個々の学会員のほうが師匠よりもはるかに偉いのである。
正直いって、わたしは池田大作名誉会長よりも
人格的にすぐれていると思う学会員(っぽい人)をいく人も知っている。
創価学会という組織には、末端ほど立派な人がいるような気がしてならない。
だからといって、いまの学会員が戸田城聖をそれほど尊敬できないように、
それとまったくおなじように、わたしも名誉会長のことをそれほどそれほど……。

「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(島田裕巳/幻冬舎新書)

→いままで著者のことを学会ウォッチャー程度にしか思っていなかったけれど、
本書を読んでよく勉強しているライターさんだとそうとうに見直した。
そんなことも知らなかったのかとバカにされそうだが、この本で知ったことは多い。
南都六宗とかよくわからなかったけれど、とてもわかりやすく説明されていた。
とはいえ、こちらの知識の積み重ねも理解に拍車をかけたのだろうけれど。
南都六宗といえば、華厳宗、三論宗、法相宗、倶舎宗、成実宗、律宗。
このうち偉いのは大乗仏教系の法相宗、三論宗、華厳宗で
倶舎宗、成実宗は子分みたいなものなんだ。
律宗は大乗仏教にもいちおう戒律はあるから別格扱い。
華厳宗(華厳経の世界。壮大な宇宙論。のちに明恵を輩出)
三論宗(中観思想。空の思想。龍樹の系統。子分が成実宗)
法相宗(唯識思想。世親の系統。子分が倶舎宗)
信徒のいない南都六宗の寺院は戦後の修学旅行ブームで経済的に助かったそうだ。

本書で知ったけれど、最澄の弟子の円仁って偉かったんだなあ。
10年も中国で修行しているし、そのあいだに仏教排斥運動があって
一度還俗したりいろいろ苦労したらしい。
ひょっとしたら円仁のほうが最澄よりも偉いんじゃないかしら。
まあ、ちゃんとのちに天台座主として出世しているから報われた人生だったろうけれど。
念仏をはじめて日本に輸入したのは円仁だったんだ。すっかり忘れていたや。
それから念仏を考え出したやつって、日蓮大聖人さまも大好きな智顗(チギ)だったのか。
じゃあ、本当に浄土教も日蓮宗も根っこは一緒で天台智顗(チギ)になるのか。

「……円仁は、唐にいたあいだに、「円教」と呼ばれる『法華経』の教えと
密教の教えの価値が同一であることを確認するとともに、
五台山で実践されていた密教の行としての念仏を日本でもたらした」(P65)


「念仏は、天台座主ともなる円仁が唐から伝えたもので、
それは中国天台宗を開いた天台大師智顗(チギ)に遡る。
智顗(チギ)は、「常行三昧」と呼ばれる行を開拓するが、それは、
常行堂と呼ばれる建物に安置された阿弥陀仏の周囲を90日間歩き続けながら
念仏を唱える過酷な行であった。
そこから昼夜を問わずにひたすら念仏を唱え続ける
「不断念仏」という行が生まれた」(P103)


常行三昧といえば親鸞がひたすら比叡山でやっていたことでも知られている。
親鸞についてもおもしろい知識を得た。

「親鸞については、同時代の歴史的な資料が欠けていて、
その存在に言及したものがないため、明治時代には、
歴史学者によって「親鸞非実在論」さえ唱えられていた。
こうした議論が完全に否定されたのは、大正10(1921)年に、
西本願寺の宝物庫から、「恵信尼消息」という10通の書状が発見されてからである」(P122)


しかし、それが偽書かもしれないわけじゃないか。
最近、創価学会の暴露本ばかり読んでいるせいか、すべてを疑う癖がついている。
真実というのは、最後までばれなかった嘘ともいえるわけで。
また人を楽しませるものが真実ということもできる。
人はそれが真実だと思いたいことを真実だと思うものである。
だから、わたしはお題目を唱えれば願いがかなうというのも真実だと思っている。
創価学会が好きな「一念三千」も同様に真実であるとみなしている。
ところが、あの「一念三千」は智顗(チギ)の思想ではなく、弟子の思想だったのか。

「題目に『法華経』のエッセンスが込められているという日蓮の主張を正当化する
上で大きな役割を果たしたのが「一念三千」の教えだった。
「一念三千」ということばは『法華経』自体には出てこない。
そのことばを使ったのは智顗(チギ)である。
ただし、『摩訶止観』という著作のなかで一度だけだった。
ところが、中国天台宗の第六祖にあたる湛然(たんねん/妙楽大師)が、
一念三千こそが智顗(チギ)の究極の教えであるという立場をとるようになる。
日蓮はこの湛然に従って一念三千こそが『法華経』の
根本的な教えであるという立場をとった。
一念三千とは、煩悩にまみれた個人のこころのなかに世界のすべてが備わっており、
そのなかには仏界も含まれるとする考え方である。
日蓮は、これにもとづいて、唱題さえ実践すれば成仏が実現できると解釈した」(P191)


創価学会の教学書などよりよほどわかりやすい一念三千の説明である。
ただし、著者はこの一念三千と久遠実成を日蓮独自の思想で
他の仏教者は認めていないと書いているが(P192)、これは間違い。
親鸞も和讃で久遠実成という言葉を使っている()。
まあ、この親鸞の和讃が偽書かもしれないわけだし、ミスとはいえ凡ミスのたぐい。
親鸞はたぶん法華経で説かれる久遠実成の仏と阿弥陀仏を同一視していたと思う。

この薄い本からは教えられるところが多かった。
空海が中国留学したとき大金を持っていたという資料があることも本書で知った。
明恵が法然批判をしているのは知っていたが、「悪魔の使い」とまでいっていたとは。
道元の曹洞宗はいまでも暴力がすごいらしい。
かつての日本軍の指揮系統は曹洞宗の暴力支配を参考にしたとか。
葬式仏教の由来は、道元が決めた「おれルール」にあるらしい。
僧侶の葬式はこうしろと暴力指導者の道元が決めたルールが
在俗のものへの葬儀にも活用されるようになったとのこと。
曹洞宗の僧侶は暴力指導で鍛えられているから葬式をやっても威厳があるのだろう。
大悪人、蓮如の子孫であられる大谷家の権力はすごいとのこと。
それで改革グループが西本願寺派をつくったそうだ。
近松門左衛門って日蓮宗だったんだなあ。
作品を読むと南無阿弥陀仏ばかり出てくるからてっきり浄土教系かと思ったら。
まあ、生家の宗教と作品はあまり関係ないのかもしれない。
晩年は親鸞に惹かれていた井上靖も日蓮宗だったとは驚いた。
日顕宗(日蓮正宗)って信徒が39万人しかいないんだ。
対して創価学会は1750万人か。
学会が日顕宗を攻撃するのはいじめを通り越した、なんというかあれだなあれ。
残酷ショーのレベル。

「NHKこころをよむ 空海を語る」(梅原猛/ラジオテキスト)

→空海という坊さんは、日本史上まれに見る食わせ者でハッタリ屋、
インチキ野郎なのだが、このペテン師こそあるいは本物の宗教家なのかもしれない。
というのも、これを書いていいのかわからんが、宗教なんてみんなインチキでしょう?
アハハ、ぶっちゃけさ、神や仏なんかいるはずないじゃん。いない、いない。
そんな常識は30年、40年ふつうに生きていたら、わからないやつなんていないと思う。
まじめに生きてきたやつが30半ばくらいでガンになって、
これは使命だとか思い込んで必死にお題目を唱えたって治るわけがない。
なーんもがんばってないやつが親の威光でうまうま生活、
愛人いっぱいでさらにキャバクラ三昧だったりするわけ。
神や仏にいてもらわないと困るから、人間は神や仏を創造しただけで
本音じゃみーんな神仏は存在しないって気づいているよね。

空海はとにかく野心あふれる青年だったのである。なんでもいいから偉くなりたかった。
梅原猛さんではないけれど、権力欲のかたまりのような男だったわけである。
空海も最澄とおなじで早々と組織からドロップアウトする。
なぜなら出世できないからである。
こんなところでちまちま本を読んで勉強していても世界のことはわからないし、
なにより当時出世は結局家柄(いえがら)で決まるから先々が読めてしまう。
金持のボンボン(貴族の子弟)なら勉強なんてまったくしなくても出世できてしまう。
学校で先生の教えを学んでいてもたかが知れているではないか。
そこで空海はどうしたかというと山岳修行者になったわけである。
山のなかで修行をすることにした。
学校のなかにはガリ勉しかいないが、
山で乞食をしているような修行者にはおもしろい本物がいるのではないか。
で、空海が山岳修行者として山に入ってみたら学校にはいないタイプの
おもしろいやつがごろごろしている。
どこかインチキくせえのだが、こいつらは人間味があっておもしろい。
当時の山伏(やまぶし)がどうやって食っていたかというと呪術や祈祷である。
学校のお偉い先生はあたまでっかちなばかりでなにもできないが、
山伏の先輩たちは実際に呪術や祈祷で病気を治したり奇跡を起こすのである。
空海にはインテリの面もあったから異色の新入りとして
山伏集団からかわいがられたことだろう。

あるとき空海はもっとも尊敬する山伏に質問した。
どうして呪術や祈祷で病気が治るのですか? 答えは驚くべきものだった。
もうすぐ治るだろう病人を見分けることがたいせつだ。
寿命が来たやつはおれたちがいくら祈っても死ぬ時期が来たら死ぬ。
これは避けられない。
だが、素人目にはわからないだろうが、治りそうな病人もいないことはない。
そういうときに呪術や祈祷の依頼を受ければいいのである。
それから見てくれが大事だ。
いかにも修業しているというコスプレをするんだ。役者になりきれ。
病人や家族は不安で仕方がないんだ。
そこにおれたちが自信たっぷりで「絶対大丈夫」とお祈りをしたら不安が消えるだろう。
このため病気の治りが早くなり、おれたちの評判は上がり、まあ金が儲かるってわけだ。
空海は質問する。唱えている呪文はいったいなんですか?
屈強な山伏は初々しい空海に
おれのマラ(男根)を口淫したら教えてやると言ったかもしれない。
唱えている呪文はあれはなんですか? 
教えのためなら空海はなんでもやったことだろう。
若い空海はもてただろうから女を斡旋してやったのかもしれない。
あの呪文はなんですか? 山伏のボスは教えてくれた。あれは真言密教だ。
呪文は梵語(ぼんご/サンスクリット語)で意味はおれにもわからない。
しかし、呪文なんて意味がわからないほうがありがたいだろう?

空海はペテン師でヤクザな親分からいろいろ教えてもらう。
雨乞いはどうしたらいいのですか?
親分は空を見ろという。とにかく空をよくみろ。
当時は天気予報などなかったが、山岳修行者は天気予報ができたのである。
そろそろ雨が降るという空気の流れがあるのだから、それを感じろ。
そのときこそ日照りで苦しんでいる村に乗り込んでいくんだ。
おれが雨を降らせてみせると。
そこでもっともらしい雨乞いの祈祷をしたら感謝されるばかりではなく金も儲かる。
お山のボスである親分は学のある空海青年にいちばん重要なことを教える。
もっとも大事なことは、自信を持つことだ。
絶対自分は大丈夫と思え。自分はすごいと思え。自信をなくしたら負けるからな。
山伏同士で喧嘩が起こることなんてしょっちゅうだ。
そういうときは先に視線をそらしたほうが負ける。自信がないほうが負ける。
喧嘩に勝つためには、なにをしてもいいということだ。
敵の味方を買収して裏から襲わせても、勝てばそれでいい。
ここだけの話、秘法があるとすればハッタリだな。いかにハッタリをかますか。
おれは神さまの子どもであるとふかしても、なにをしてもいい。
まず相手を威圧しろ。呑まれるな。相手を呑んでかかれ。
そのためには自分の周囲にある空気をも利用するんだ。

空海は山伏の親玉にもなれただろうが、裏社会のドンは空海に伝える。
おまえはもっと「上」に行ける。おれの教えを表の社会で生かしてみろ。
さて、この肩書はチンピラに過ぎなかった空海がどうして中国留学僧になれたのか。
どのようにして裏社会から表社会へ舞い戻ったのか。
ここは資料がないから、学問ではわからない。
おそらく山伏集団と貴族とのあいだで裏取引があったのだと思う。
具体的には、貴族の表沙汰にはできない秘密をにおわせて脅したのではないか。
だれでも生きていたら世間には公開できないことがあるものである。
とくに社会的地位の高い人ほどスキャンダルを恐れる。
無職が盗撮まがいをしても注意で終わりだろうけれど、大学教授がそれをやったら終わり。
当時もこういうったスキャンダルはあったはずで、
このへんをうまく嗅ぎつけた空海は貴族を脅して
留学僧という地位と大金をまんまとせしめたのではないかと思われる。
空海は最澄とおなじ遣唐使の一団として中国へ渡ったわけだが、
空海がはじめて最澄を見たとき、いったいどれほどの嫉妬を感じたことだろう。
自分は20年も留学しなければならないのに、最澄はわずか2年でしかも通訳つき。
どうして本ばかり読んできたような最澄が自分よりも偉いのだろうか。
ははーん、そういうことか。最澄は桓武天皇のお気に入りだから特別待遇なのか。
結局はいかに「上」から認められるかで勝負が決まる。
空海は思った。くそったれ、最澄の野郎。いまはおれになんか目を向けもしないな。
いいか、覚えておけ、最澄! 
いつかおまえをおれの足元に這いつくばらせてやるからな。

最澄は中国へ着くと、まっすぐ天台山に行ったが空海は異なる。
中国で当時いちばん栄えていた西安に行き、
いまなんの仏教が流行っているのか調べる。
現世利益を呪術でかなえる密教というものが流行していると聞きつける。
空海は大して中国語会話もできなかっただろうが、ヤクザな性分である。
山伏という荒っぽい連中に揉まれてきているから人間力が異常なほど高い。
海外ひとり旅経験者ならわかるだろうが、現地語をよく知らなくても身振り手振り、
それから目つきでコミュニケーションくらいは取れるのである。
空海は知る。どうやら西安の近くに青龍寺というところがあり、
そこに恵果(けいか)という有名な坊さんがいるそうだ。
当方も青龍寺には行ったことがあるけれど、もちろん当時といまは違うだろうが、
なにやらものすごくうさんくさい寺なのである。
空海は期待をはずませて青龍寺におもむき有名な恵果和尚と対面する。
中国側の資料「恵果大徳行状」によると、
このとき空海は桓武天皇の紹介状を持っていたというが、
当時ペエペエの下っ端だった空海がそのようなものを預けられる可能性は少なく、
おそらくこの桓武天皇の手紙は空海が偽造したものであったと思われる。

空海は高僧といわれる恵果に逢って、どのような感想をいだいたか。
なんでこのヨボヨボのじいさんが偉いんだとあきれたことだろう。
周囲の弟子に聞いてみると、この恵果は不空という偉い先生の弟子だから偉いらしい。
ここで空海は権力の仕組みを腹の底まで理解したわけである。
空海は山岳修行で鍛えられたため、人を見る目はたしかである。
恵果は偽物だと見破ったことだろう。では、どうして恵果は不空から認められたのか。
不空には6人の高弟がいたらしいが、そのひとりがこの恵果というのである。
恵果は不空になにをしていまのポジションを得たか。
おなじことを自分も恵果にしてやれば高弟として認められるのではないか。
暴露本を読むと創価学会では財務(寄付)を多くすると、
集団内でのポジションが上がるらしい。よく仏教をわかっている団体だと感心する。
「恵果大徳行状」によると、
空海は桓武天皇からの紹介状だけではなく、大金も持っていたという。
空海はこの大金で大量の密教経典、仏具、曼荼羅(まんだら)を買った。
もちろん、青龍寺という仲介を通して購入したのである。
青龍寺に高額の仲介料が入ったことは疑いえない。

いくら腐敗した僧侶とはいえ、ヨボヨボの恵果にもプライドがある。
金オンリーで高弟の地位を空海に与えるわけにはいかない。
たしかに恵果は空海に密教の真髄を教えたことだろう。
それはなにか? このとき恵果は死ぬ間際であった。
実際に空海に密教の精髄を教えた直後に恵果は死んでいる。
だから、本当に空海は偉い弟子だったのか恵果にたしかめようがないのだが、
そこはまあ触れないで置く。

空海青年「恵果和尚、ぼくは密教の真髄を理解しました」
恵果老人「ほう、なんじゃ」
空海「仏なんかいないってことじゃないですか?」
恵果「……ううむ」
空海「悟りなんかないでしょう。人間は悟れない」
恵果「……ううっ」
空海「『人間は悟れない』ということを悟るのが真の悟りではないでしょうか?」
恵果「……お、おぬし、なかなか」
空海「仏はいない。悟りはない」
恵果「……いやあ、わしの口からはさすがにそれは」
空海「いえ、和尚! 先生はわかっておられます」
恵果「……どういうことじゃ?」
空海「先生は悟っておられます」
恵果「……」
空海「先生はご存じでしょう? 仏などいない。悟りなどない」
恵果「……ああっ」
空海「真理などない」
恵果「……あわわ(こいつはなんという男だ)」
空海「『(絶対的)真理は存在しない』ことが真理である」
恵果「ゴホゴホ(咳き込む)」
空海「ぼくは恵果和尚からその真理を教わったんです」
恵果「……うん?」
空海「ぼくが生意気にも先生に差し出した不浄の寄付金を受納してくださった」
恵果「……あ、あれはな」
空海「先生が真理を悟った人でなければ、ああいう行為はできません」
恵果「……ううう」
空海「先生、ありがとうございます」
恵果「……え?」
空海「ぼくは恵果和尚から真理を教わりました」
恵果「ほほう(と体面を保つ)」
空海「真理は『(絶対的)真理がないこと』『仏などいないこと』『人間は悟れないこと』」
恵果「……(こいつはなんというタマだ)」
空海「先生に出逢えなければ、こうも速やかに真理を悟れませんでした」
恵果「いやあ、おまえもなかなかのものだぞ」
空海「先生! 先生の教えを日本できっと広めてみせます」
恵果「ゴホゴホ(と咳き込む)」
空海「先生、お身体、大丈夫ですか(ともっともらしく肩をさする)」
恵果「もう長くないのは自分でもわかっておる」
空海「いえいえ。でも、万が一のことがあっても、先生の名前は日本で残ります」
恵果「どういうことじゃ?」
空海「ぼくが先生の教えを広めたら、日本の歴史に恵果という名前が残ります」
恵果「……」
空海「先生、先生、先生!」
恵果「よろしい、わかった。免許皆伝じゃ。空海よ、おまえはわしの一番弟子だ」
空海「ありがとうございます(内心で舌をペロリ)」

「真理」を悟ったのだからもういいだろうと空海は20年の予定留学期間を、
自分勝手にもわずか2年で切り上げて日本に戻ってきてしまうわけである。
朝廷としてもこの無鉄砲な下っ端坊主のあつかいに困る。
すると空海はどうするかというと
ハッタリ屋の本領発揮ともいうべき手紙を朝廷に送るのだからすげえ。
自分は唐(中国)でとても偉いとされる不空の弟子・恵果から
中国最高と名高い密教を伝授されてきた。経典も仏具もたくさん持参した。
密教は加持祈祷(かじきとう/呪術)で現実に効果のある役立つ仏教だ。
さあ、どうするかと朝廷に自分を売り出したのである。
当時、朝廷で求められていたのはまさに現世利益のある密教であった。
たしかに密教の一部は最澄も学んできてはいたがそれはほんのわずかで、
空海の持参した密教経典はそれより桁違いに多かったのだ。
こうして乞食の山伏に過ぎなかった空海は朝廷から重んじられるようになる。
いちばん大きかったのは嵯峨天皇から認められたことだろう。
偉くなるには上から認められるほかなく、
偉くなれば彼の教えは「正しい」ものとして流通することが多いのである。

空海は真言宗を開くことを認められる。
いまの空海の目の上のたんこぶはかつて強烈な嫉妬を感じた最澄である。
その最澄が向学心が旺盛なため格上のほうから近づいてきたのである。
空海が持ってきた密教経典を貸してくれないかというのである。
「おれの弟子になればいい」と空海はいったが、
まさか最澄が自分の弟子になるとは、
そういった本人の空海でさえ思っていなかっただろう。
最澄という男はそこまで世間を知らないのか。プライドがないのか。本が好きなのか。
天台宗の開祖の最澄が真言宗の開祖の空海の弟子になるということは、
世間的には真言宗のほうが天台宗よりも「上」であるとみなされるのだ。
最澄のことをバカではないかと空海は思ったことだろう。
自分よりもはるかに読書量の多い最澄が空海ごときを師匠として尊敬してるのである。
この最澄は師匠とか弟子とか、
そういう世間の仕組みをさっぱり知らないのだなと空海はあざ笑ったことだろう。

ならば、もっとクズ師匠の恵果から教わった「真理」をアホな最澄に教えてやろう。
最澄には泰範という美青年の愛弟子がいたのだが、こいつを貸せと空海は命じた。
師匠のいうことは絶対だから最澄はおのれがもっとも愛する弟子を空海の元に送る。
おそらく、空海は泰範に秘密の「真理」を身体で教えてやったことだろう。
当時の坊さんでは一般的なことだが、空海は男色の気もあったのである。
空海はおのれのマラ(男根)を何時間泰範にしゃぶらせたことだろう。
師匠のデカマラを口でご奉仕させていただくマゾの快感もまた
密教の教えのひとつである。
密教はセックス宗教だから、泰範はしこたま性的快感を教えられたに違いない。
もはや泰範は真言密教から離れられない身体に調教されてしまったのだ。
たいへんな美青年だったという泰範は複数の男僧から犯されることもあっただろう。
最澄は泰範に帰ってきてほしいという手紙を書くが、それは無理というもの。
偽造が大好きな空海は泰範になりかわって最澄へ絶交の手紙を書いたという。
しつこく最澄は本を貸せといってくる。こいつは本当に「真理」を知らないんだな。
本を読めば「真理」がわかると思っていやがる。
空海は最澄に大金を要求して、そのうえで自分の奴隷になれと命令した。
おそらく空海はおのれのマラを最澄にしゃぶらせるつもりだったのだろう。
そうすればすべての「真理」がわかる。
あるいは鶏姦(ケツを掘る)するつもりだったのかもしれない。

空海は最澄に「密教は顕教とは違う」としきりにいっていたが、そうなのである。
梅原猛氏もひろさちや氏も指摘しているが、
密教は仏教ではなくヒンドゥー教と思ったほうがいい。
ヒンドゥー教は祭祀、呪術、現世利益を重んじる欲望肯定の多神教である。
密教も大日如来を主神とする、あたまの神仏を認めるこの世の教えである。
大日如来信仰とは太陽崇拝に近い。
自然のそこかしこに不思議な超越能力を認める現世完全肯定の宗教である。
わたしのことばでわかりやすく説明したら、
よく晴れた日に紅葉をながめながら太陽のしたにいると、
「生きているのってなんてすばらしいんだろう」って思うでしょう?
生きているのはすばらしい。性欲も食欲も惰眠もなにもかもがすばらしい。
生きているのっていいなあ、というのが真言密教なのだと思う。
もっと過激なことをいってしまえば、人間は自由であるという。
うるせえ仏や、「正しい」真理も悟りもないんだから、晴天のした人間は自由である。
釈迦の説教なんかうそっぱちなんだから、人間は自由でなにをしてもいい。
なにをしてもいいんだから生きているのってサイコーじゃないか!
わたしはこれが空海の悟った(?)境地ではないかと思う。
こちらの言葉には権威がないので、梅原猛先生のお言葉を借りよう。

「つまり密教というものは、自然の中に仏を見るという、そういう思想です。
普通、釈迦仏教というものは、
何らかの意味で人間を中心とする仏教であるのに対して、
この密教というのは自然中心の仏教でありまして、
それはもともと彼[空海]の性格に似合ったもの、
日本仏教の伝統とも役行者(えんのぎょうしゃ)や行基とつながるものでした」(P90)


真言密教のメインは加持祈祷(かじきとう/呪術/祭祀)である。
わたしからいわせたら坊主のうさんくさいパフォーマンスだが、梅原猛先生によると――。

「加持の「加」というのは、仏[自然]の力が加わるというのです。
その力をじっと待っているのが「待」なんです。
加持というのはふつう加持祈祷といって祈祷のことをいいますが、
本来の意味は衆生[我々]に仏[自然]の力が加わってくる。
それを衆生はじっと待ち続けているという意味です。
そうすることによって、我々は仏[草花]と同じようになり、
仏[太陽]と同じような[不思議な]力を発揮できるというのです」(P128)


空海は大天才だったのか、それとも大馬鹿者だったのか。
ふつう論文の書き方というものがあって、ある権威ある文章を持ち出し、
これの意味はこうであると書き手は独自の解釈を見せるわけである。
たとえば、お経にこう書いてあるが、これはこういう意味であるという形式。
法然の「選択本願念仏集」も親鸞の「教行信証」もそうだった。
身近な例ではネットで見られる創価学会青年部のレポートもそれ丸出し。
御書にこう書かれている。池田先生が、戸田先生が、ガンジーがこう言った。
しかし、梅原猛によると、空海は著書でそれをやらなかったらしいのである。
そもそも読書が嫌いで、
本というものをほとんど読んでいなかったのかもしれないけれど。
梅原猛先生は空海を大天才と見ている。

「大体、日本の学者は昔は中国やインドの学者の教説に弱かった。
明治以降はヨーロッパの教説に弱くて、
こういう外国の人たちの教説を絶対の真理として、
それにせいぜい注釈を加えることを学者の主な仕事としてきたのです。
こういう態度は今も変わっていません。
しかし、空海はそういうふうに外国の経典を引用して、
それを解釈するということをいさぎよしとせず、
自ら作った偈(げ/詩)の解釈を自ら行うという形で真言の教義を語っています」(P123)


話を中国西安の青龍寺に戻そう。
空海が恵果から教わった(?ニヤリ)「真理」とはなにか。
それは「仏などいないこと」「(絶対的)真理がないこと」「人間は悟れないこと」である。
だとしたら、空海の教えとはなんになるのか。
以下のように堂々と厚顔にも叫ぶことができたら、
その人は空海の真言密教を理解したことになろう。

「おれが最高真理だ!」
「NHKこころをよむ 最澄を語る」(瀬戸内寂聴/ラジオテキスト)

→日本仏教史上、だれがいちばん偉いかといったら最澄ではないかと思う。
わたしは偏差値40の女子高生に向けてこのブログを書いているけれど(うそこけ)、
うちのブログの予想読者さまはおそらく最澄なんて知らないと思う。
空海、最澄の最澄っていってもだれそれよねえ?
むかしむかし奈良仏教っていう権力が腐敗したきったねえ仏教があったんだ。
そこに最澄さまはさっそうと現われ、唐(中国)に留学して天台宗を学んできたんだ。
そして、日本で天台宗を開き、
法然も親鸞も道元も日蓮もみんな天台宗のお世話になっているわけだ。
天台宗のなにがすごいかといったら、天台本覚論といわれているものである。
人間(生きもの?)はみんな仏性を生まれながらに持っているという仏教の考え方だ。
天台本覚論に支えられて南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も出てきたといえば、
最澄がどれだけすごいかわかるかな、そこの偏差値40学会員男女高校生諸君!

最澄はいかにも瀬戸内寂聴から好かれそうな純粋な男である。
十代のころお寺へ仏教を勉強しに行ったけれど、
なんてここは腐った世界なんだと嫌気がさしたわけである。
現代日本でもキリスト教会でもそうだろうけれど、組織(権力)はかならず腐敗するのだ。
よく知らないけれど、アカデミズム(学問)の世界でもそうでしょう?
最初は真理を勉強したいと思って入っても、なかはそれどころではないわけで。
真実なんてどうでもよく、どの教授に気に入ってもらえるかがすべて。
師匠の学説に異論を唱えるなんてとんでもない話で、いかに媚びるかの世界。
師匠筋に逆らったら、だれにも相手にされなくなってしまう。
いかに研究仲間の足を引っ張り、上から気に入られ、引き上げてもらうか。
本を百冊読むよりも指導教授のご自宅のお庭の草刈りをしたほうがよほどいい。
「正しい」ことなんてどうでもよく、
いかに「師弟不二」を実践して師匠のために汗を流すかで評価される。
けっ、こんな世界はうんざりだと十代にして最澄は思ったわけである。
そして、最澄は山に引きこもり独学で仏教を勉強しようとする。
どうやら父親がスポンサーになったようである。
結局、19~31歳まで12年間も最澄はいまでいうニート引きこもりをやったわけだ。
このときの最澄の気持を彼のファンである瀬戸内寂聴さんはこう解説している。

「人間はなぜ生まれてきたのか、人間とは一体何か、
この世はどうしてこんなに苦しいのか、我々は死ぬと一体どこへ行くのだろう、
どういう死に方があるのだろう」(P30)


これって結局のところ2015年の現代でも「正しい」答えは出ていない問題なのである。
みなさんこの問いから逃れるために学校へ行き、会社へ行き、
定年後は人生まあこんなものかと思って、
最後まで究極の問いはうやむやにしたまま走馬灯がどうだとかほざきながら死んでいく。
ところが最澄はこの究極の問いに19~31歳まで孤独に向き合った。
19~31歳なんて(よく知らんが)人生でいちばん充実したときでしょう?
そういうときにひとりで山にこもって最澄は仏教を独学したわけである。
奈良仏教の腐敗した煩悩まみれの師匠のいうことなど我は信じぬ。
みんながみんな「先生、先生!」と師匠に媚びるが我は我が道を行くぞ。
先生に認められることよりも、我が真実を知らんと欲する。
具体的に最澄は山でなにをしていたかというと、お経を繰り返し読んでいたのだと思う。
経験してみたらわかるはずだが、
重要な本は百回、二百回と読まないと意味がわからない。
百回目でわかることがあれば、二百回目でわかることもある。
お経の意味とはだれかに教わるものではなく、そのように気づくものなのだろう。

最澄は我が真実に到達したら、それでいいと思っていたのだろう。
ところが、その最澄に目をつけた権力者がいたのである。
和気清麻呂という貴族である。
あるいは日本史のなかでいちばん偉大なのはこの和気清麻呂ではないか。
なぜなら和気清麻呂は本物を見破る目を持っていたからである。
最澄は空海と正反対な純粋な男だから、自ら出世工作などしたはずがないし、
そもそも出世の意味さえも知らなかったのではないか。
和気清麻呂はなんの肩書もない独学ニート引きこもり野郎を天才だと見抜いた。
この最澄という青年は師匠も肩書もないが本物に違いない。
和気清麻呂は最澄を引き上げてやり(偉い坊さんとしての肩書を与え)、
そのうえでときの最高権力者の桓武天皇にも逢わせてやる。
そうしたら孤独なニート引きこもり野郎に過ぎなかった最澄を天皇も気に入ってしまう。
和気清麻呂は最澄こそ日本の仏教界を変える天才だと確信した。
そして、歴史を見ると実際にそうなっているのである。
和気清麻呂は最澄に箔(はく)をつけてやるために多額の留学費用まで出す。
唐(中国)になど留学しなくても最澄は天才だと和気清麻呂は思っていたが、
それでは世間で通用しないので赤の他人に過ぎぬ最澄に大金を与えた。
最澄は遣唐使として中国遊学に行くが、通訳もついた特別待遇だった。
そう、最澄はお経は読めたが、当時の中国語はできなかったのである。
これは最澄に師匠がいなかった証拠にもなるであろう。
外国語の読み書きは独学でもできるが、会話は先生がいないと無理なのである。
そのうえ最澄は中国へいまさら勉強に行ったわけではない。
いまの中国仏教のレベルはどのくらいだろうと確認しに行ったようなもの。

最澄は唐(中国)に1年も滞在せず日本に戻ってくる。
おそらく中国寺院仏教も日本同様に腐敗していることを見てげんなりしたのではないか。
最澄が偉いのは中国で当時流行の最新仏教、
密教には目もくれず天台仏教を吸収してきたところである。
じつのところ中国天台宗は日本でさえ古い時代遅れの仏教だったのである。
奈良仏教(南都六宗)は華厳哲学や唯識思想が中心である。
法華経を中心にすえた智顗(チギ)の天台宗は日本奈良仏教よりも古かった。
にもかかわらず、最澄はおのれがこれと信じた天台宗の教えを耳で学んだ。
書かれていることにはほとんど日本で目を通しているのである。
通訳がいるからあとは短期間の耳学問で十分だ。

さて、海外で箔(はく)をつけて帰ってきた最澄は日本でなにをするか。
先輩(奈良仏教/南都六宗)と大喧嘩をするのである。
うまく先輩にはあたまを下げればいいのに最澄は純粋だからそれができないのである。
最澄は先輩の、個人名をあげれば法相宗の徳一と論争する。
法相宗では唯識思想が重んじられているが、あれはとにかく難しい。
わたしもかじろうとしたことがあるけれど、笑えるくらいに意味不明の学問仏教だ。
そういう難解な仏教を学問しているお坊さんは、いうなれば努力家でしょう?
努力家は努力していないと自分が思う人を毛嫌いするもの。
法相宗の立場としては天台本覚論(みんな仏性を持っている)は認められないわけ。
みんながみんな仏性を持っている(成仏できる)のならば、
こんな難解な唯識学問を勉強しているおれたちの努力はどうなるんだよって話。
世の中には救われる人と救われない人がいる。
具体的には生まれもよく難解な唯識思想を研究しているおれたちは救われるが、
そこらで生まれて死んでいくだけの虫けら庶民は救われるはずがない。
――いいか、おまえら、このとき最澄ががんばらなかったら
浄土真宗も創価学会もなかったんだからな。
桓武天皇はしょうがねえなってことで最澄に日本天台宗を開く許可を与える。
ここからわかるのはここぞというときに喧嘩をするのがいかに大事かということ。
先輩べったり、古株依存、既存権力礼賛もいいのだろうが、
ときに人生で一度くらいなら「上」との喧嘩という大きな賭けに出てもいい。

とはいえ、最澄の運はここまで。
落ちぶれたおっさんが歴史を見ると、歴史とは運と偶然がすべてに思えてしまう。
最澄を重んじていた桓武天皇が死んで、嵯峨天皇の御世になる。
嵯峨天皇の寵愛したのが現世利益を強烈アピールする呪術家の空海である。
それでも最澄のほうが空海よりも先輩だし年上だしベテランだし、
格でいえば天台宗の開祖である最澄のほうが空海よりもはるかに上だったのだ。
空海はペテン師の商売人で中国から多くの密教経典を持ち帰ったのである。
読書家の最澄は6歳年下の空海の持っている本を読みたくて仕方がない。
そのためどうしたかというと最澄が格下の空海の弟子になってしまったわけだ。
最澄の求めているものは我が真実だったから、格などどうでもよかったのかもしれない。
最澄は商売っ気のまるでない本当の天才だったのである。
好奇心のかたまりのような男だった。世渡りが下手だった。

晩年の最澄は世渡り上手の空海にほんろうされまくって死んでいく。
最澄が格下で年下の空海に密教を教えてくれと頼む。
空海の回答は「大金を寄越せ」「おれの奴隷になれ」である(意味としては)。
世間を知っている空海は最澄の最愛の弟子まで奪ってしまう。
空海は最澄をうまいこと利用してのしあがったようなところがある。
法相宗の徳一とは喧嘩もできた最澄だが、空海はあまりにも世間師で山師なので
どう対応したらいいかわからず困惑するだけである。
最澄と空海はある本の貸し借りをめぐって決別するのだが、ここが象徴的である。
最澄は本を読めば世界がわかると思っている。
だが、空海はいくら本を読んでも世間はわからないだろうと言いたかった。
世界と世間は異なりますぞ。

本当のところ、山師の空海は
秀才の最澄におのれのインチキを見破られるのが怖かったのだろう。
空海の威光というのは(得体の知れない)恵果(けいか)の弟子というだけである。
師匠が偉いからおれも偉いとうそぶいて天才ぶったのが空海である。
最澄は純粋な好奇心から12年も仏教を独学した本物の天才である。
山師の空海は天才の最澄を弟子にすることでどれほど満足感を得たか。
しかし、最澄は空海から次々に本を借りていく。
イカサマ師に過ぎない自分の正体がばれてしまうと空海が恐れたのは当然である。
空海が最澄を切ったのは、空海程度にもわかるほど最澄が天才だったからだろう。
空海は最澄さまにひどいことをしているのである。
どうして空海ごときが弘法大師とあがめられているのかさっぱりわからないが、
世間というのはそういうものなのだろう。
存命時だけを考えたら人生で大勝利したのは空海で、
最澄は空海に負けたといってもよかろう。
しかし、日本仏教史を広く見たら山師の空海ごときは最澄の敵ではない。
最澄の天台宗から、どれほどの逸材か輩出されたか。本物は本物なのである。

最澄が19歳のとき、孤独ニート引きこもり生活に入るまえに書いた文が残っている。
このわかりやすいテキストから一部引用する。

「明らかなるかな善悪の因果。
誰(いずく)の有慚(うざん)の人か、この典(のり/仏法)を信ぜらんや。
然れば則ち、善因を知りて而(しか)も苦果を畏(おそ)れざるを、
釈尊は闡提(せんだい)と遮したまひ、
人身を得て徒(いたづら)に善業を作(な)さざるを、聖教に空手と嘖めたまへり」(P31)


意味は偏差値40の男女高校生や、多忙な会社員にはわからないと思う。
ご理解いただきたいのは、最澄すら最澄さえ、いや最澄だからか、
善悪の問題から仏教の世界に分け入っているところである。
なにが善でなにが悪なのか。なにがよくてなにが悪いのか。
どう生きれば善で、どう生きたら悪になるのか。
金を儲ければ善なのか。出世すれば善なのか。殺人は悪なのか。自殺は悪なのか。
先生がおっしゃることはかならず絶対に永遠に善であるのか。
「日本社会とジェンダー」(河合隼雄/岩波書店)

→河合隼雄の心理学はなにかとひと言で要約したら「私の心理学」にでもなろうか。
「自分探し」みたいで恥ずかしいけれど、それでも私ってなんだろう?
○○会社の課長だ。年収○百万だ。○○大卒だ。博士だ。弁護士だ。医者だ。
○○の資格を持っている。○○の父親だ。母親だ。○○の息子だ。娘だ。
しかし、以上のものはすべて他人による評価でしかない。
最後に行き着くのは、河合も指摘していたが私は男である、
女であるという宿命性になろう。
さらに私を深めてさぐっていこうとするのが「自分探し」の河合心理学である。
私の心のなかにはいったいなにがあるのだろう?
鬼も仏も男も女も老人も子どもも愚者も賢者も私の奥底にはいるのではないか。
神さまや悪魔でさえ私の心の奥底にいるとは考えられないだろうか。
なぜなら、神も仏も悪魔も鬼も天国も地獄も人間が考案したものだからである。
河合心理学は他人を分析する心理学ではなく、
私が私を生きる心理学と言ってよかろう。
せっかく私として生まれてきたのだから、
より私らしく生きたほうがおもしろいのではないかという考えである。
言い換えたら、宿命性を愛せ。私の私だけの宿命を宝と思え。

晩年は違っただろうが(晩年の河合はユング心理学の嘘に気づいていたと思う)、
ユングを師匠とする河合はかつて恋愛をアニマの投影であると主張していた。
アニマというのは(いまは死語だが)、男性の心にある女性の理想像である。
これは仏教の唯識思想とも似ているが(なんて書くとインテリっぽいでしょ?)、
ユングは男性が女性を愛するのは、
対象女性そのものを愛しているというよりも、
男が自己の理想女性像を対象に投影していると考えたわけである。
ユング心理学および河合心理学は私が私を生きるための心理学で統計心理学ではない。
だから、役に立つ。
女性はこうしたら男からもてるとお偉い河合先生(ユング先生)が
アドバイスしている。まあ、いまを生きる女性はみなさまご存じのことでしょうが、
それでも権威からの後押しがあると安心できるのではないか。男にもてるコツ。

「女性にもアニムス[男性性]と無縁の生き方をしている人がある。
このような女性は、自己主張ということをせず、男性の望みのままに動くので、
男性からアニマ[女性性]の投影を受けやすい。
女性からみれば、およそ個性のない面白くない女性が、
案外多くの男性を惹きつける秘密はこの辺にあるようである。
このような女性は、ともかくだれか男性と共にいないかぎり存在価値がない。
男性がいなくなると、たちまち魅力のない女性になってしまう。
このような生き方は、女性としては楽な生き方でもあるので、
現在でも相当数の女性がこの生き方をしている」(P280)


ぶっちゃけ、がみがみ口うるさい女とか男はいやだよねえ。
そうじゃない老賢者の人もいるかもしれないけれど。
私をわかってくれる最高指導者のような男性がいたらどれほどいいことか。
いや、いることにはいるのである。
女性の心のなかに、そういう男がいてくれたらという願望があるかぎり、
彼は絶対に存在する。なぜなら女性の心のうちにそういう理想男性がいるのだから。
河合隼雄はやらなかったが、ユングはハーレムをつくった男なのである。
女性患者に自分こそ理想男性だと思わせて、あまたの美女を肉奴隷にした。
いわゆる、洗脳というやつである。
洗脳は、だれかから洗脳されるわけではない。
私のなかにある理想人間像をだれかに投影してしまうから洗脳状態が発生する。
ユングはハーレムのおいしさを味わいながら、
人間これでいいのだろうかと深々と悩んだはずである。
そこから生まれたのがユング心理学で、それを日本に伝えたのが河合隼雄だ。
河合隼雄は嫌う人も多い創価学会とうまく手を組みながら(少なくとも喧嘩はせず)、
少しずつ足場を固めていき、欧米ではオカルトに過ぎないユングを学問にしてしまった。
新興宗教の集会の様子を見ると、楽しそうじゃないですか?
みんなおんなじ格好をして、おなじような笑顔で、
教祖のおなじ言葉に全員一斉で笑う。どうしてあのようなことが起こるのか。
それを教祖であったユングはなぜだろうと相当に深く自己内省したのだろう。
いちおうユングの没後弟子ではあるが、
ことさら「師弟不二」ではなかった河合隼雄はこう説明する。

「日本人は、その無意識内にある中心[最高真理]を、しばしば外界に投影し、
それに対しては自分はまったく卑小と感じたり、絶対服従するようになったりする。
つまり自己[本当の本当の本当の真実の私]は
天皇や君主・家長[経営者・成功者・教祖]などに投影され、
そのためには自分の命を棄てることさえ当然と思うようになる」(P247)


教祖を妄信している人は、あれは洗脳されているのではなく、
自己愛の一種と考えることもできるのではないか。
そう河合隼雄(ユング)は言っているわけである。
だから、新興宗教の信者さんも広い意味では「私」を生きているのである。
あれは他人から洗脳されているように見えるが、
まさしく「私」のなかにいる「最高指導者」に従って生きているのだから、
それはそれで否定すべきではなく、
それもまたそれぞれ個々の「私の人生」としてあってもいいのではないだろうか。
いささか問題なのは、投影過剰な人は
自分の心のなかにあるに過ぎない悪をも他人に見て取ってしまうところである。
「悪人は自殺に追い込め」となったら過激ではないかと思うが、
そういう人生もあるいはそれはそれでいいのかもしれない。

河合心理学の最重要ポイントは矛盾である。
私のなかには善も悪もある。男も女もいる。老人も子どももいる。
このような矛盾した私を矛盾したままでどこまで生きられるのか。
それが自己実現ということだが、
べつに自己実現したほうがいいと言っているわけではない。
そのほうが経済的には損かもしれないが、おもしろい私だけの人生を送ることができる。
矛盾をかかえたままの私を生きる――。

「人間は自由を求める動物である。
自由の新天地を求めて移動してゆくのみならず、
自由を束縛するものに対しては、あくまでもそれに向かって戦おうとする。
その反面、人間はまったくの自由には耐えられぬところがあり、
混沌に対して秩序を与えたがる傾向ももっている。
この矛盾する両面が人間のなかに共存しているのである」(P302)


このため自ら率先して自由を放棄して宗教活動にいそしむものもいるのだろう。
宗教活動という束縛のなかでしか自由を感じられない人もいるのかもしれない。
人間は矛盾しているから、それでも構わない。
河合隼雄は男女間の「愛(結合)」についてこう語っている。

「「結合」とは、もちろん異質のものの結びつきを意味している。
同質のものが集まるのを、わざわざ結合ということもない。
そして、それが異質なものの結合であるからこそ、
新しい可能性がそこに生じてくるのである。
異質度が高いものほど、そこから生まれてくるものの可能性は大きいだろう。
しかし、そこに「結合」が生じるためには、何らかの同質性の存在が必要であり、
あまりにも異質なもの同士では、分裂や破壊が生じるだけで、
建設的なことは生じない。ここに結合のパラドックス[矛盾]が存在している」(P276)


矛盾とは「どちらも正しい」ということである。
どちらも言っていることは「正しい」のに夫婦喧嘩をすることはあるでしょって話。
勝利者も敗北者も、高学歴も低学歴も、善人も悪人も
「どちらも正しい」などと言ったらこんな矛盾はないけれど、
河合隼雄はなるべくそういう矛盾を多くかかえていたほうが
豊かに生きられると思っていたはずである。
だれか女性で(「私」ではなくこの)わたしに理想男性像を投影してくれないかなあ。

こういうことを書くから友人ができないのだが、人から本をすすめられるのが嫌いである。
かといって、自分は他人に平気で本や漫画を渡しているのだからなんじゃらほい。
みんなさあ、好きな作品ベスト10とか言うと見栄をはるじゃありませんか!
聖書とか論語とか法華経とか源氏物語とか……。
わたしが真似をするならストリンドベリとかオニールとかピランデルロになるのか。
踊り念仏の一遍なんかもマイナーだから「おれすごいだろ?」になるのかも。
けどね、そういう古典や名作って時間がないと読めないじゃないですか?
そもそもこれは最近本当に思っていることだが、
外国人の書いたものを日本人が読んでどうする?
忙しい人でも多少あたまがゆっくりした人でも理解できるわがベスト10を発表したい。
決して断じて読めというのではなく(いったってだれも従わないでしょうけれど)、
こういうのを読むと我輩のようなバカアホ、ウスノロになるという意味で。
以下、順不同(難易度はA:難解、B:平易、C:バカチョン)

1.「評論家入門」(小谷野敦)A
2.「ぐれる!」(中島義道)B
3.「偶然のチカラ」(植島啓司)B
4.「天才だもの。」(春日武彦)A
5.「サラリーマン劇薬人生相談」(ひろさちや)C
6.「こころの処方箋」(河合隼雄)C
7.「水辺のゆりかご」(柳美里)C
8.「青が散る」(宮本輝)C
9.「ありふれた奇跡」(山田太一)←ネット無料動画ありC
10.「人間・この劇的なるもの」(福田恆存)特A

1はただひとりメール交換をしたことがある有名人だから。
2は迷惑レベルが高すぎておもしろい。
3もまた2時間もあれば読める。
4の作者ともじつは……おっと、これはオフレコ。心の領域では秘密が大事。
5のひろさちや先生はお坊さんの千倍くらい仏教を好奇心で勉強した一般人。
6の河合隼雄先生は最後まで本当の秘密を書かず嘘ばかり書いた人だからすごい。
7はいま読んだらどうかはわからない。
8はむかし人に強制的に読んでもらったら30ページくらいでこれは無理と言われた。
9はテレビドラマだが多忙な人が10時間近くかけてみる価値があるかはわからない。
10はむかし洗脳された書物だが、いまとなってはハテナの本。1冊くらいはこの手のを。

このおすすめ(?)ベスト10は1~7まで、バカでも1週間かければ読める本を選んだ。
読書家なら2時間だが、むかし大学生時代のわたしなら1週間かかったかもしれない。
コメント欄で社会的地位のあるたくさん稼いでいる人しか
人に本をすすめちゃいかん(一部被害妄想)というようなことを、
(むかつくのでよく読んでいないが)指摘されたような気がするので、
社会的地位が皆無の稼ぎの非常に少ない当方がこんな記事を書いてみた。
むろんのことわたしが推薦するものなど、
みなくだらないのでお読みになる必要はございません。
むしろ、こんなものは手に取っちゃいけないというリストかもしれません。
本音過ぎるからすぐ消すかも。
裕福な創価学会女子部のお若い美人さんからこう言われたい。
「あたしと結婚したいなら創価学会に入って」
創価学会の教義からしたら、
俺を折伏(しゃくぶく/勧誘)で落としたらものすごい功徳があるはず。
貴女の難病の弟さんなんかすぐさま病魔から解放されるだろう。
悪鬼のような俺様を折伏して創価学会に入れたときの功徳は計り知れない。
創価学会女子部の美人さんっていいにおいがしそうだなあ。
未来部でもいいんだけれど、それは犯罪になってしまうし、親がお金持ならいいが。
たまに嫁さんが料理の手抜きをしたとする。
その翌朝に俺はこれ見よがしな勤行と唱題をするのである。
そるとその晩の夕餉(ゆうげ)はうまくなっているという。
こんな創価的結婚生活を1年でも2年でもできたらなあ。
言っとくけれど、俺は日顕よりも邪悪だから折伏したら功徳はすごいぜ。
昨日、ひさびさに父親に逢った。
「俺、創価学会に入ったらどう思う?」と聞いたら「うーん、いいんじゃない」。
大丈夫か、お父さんと思ったものである。
きょうだいに難病で苦しんでいるものがいるお嬢さん!
俺を折伏したら最高の功徳がありますよ。そして、こちらはその準備ができている。

――という話をさきほど電話でしたら「それは悪質よ」と笑われた。
いま学会系の本を5冊読み終わり、新しいものも次々に送られてくる(批判系ふくむ)。
あんがいさ、カラーコピーとか言われているご本尊に向かってね、
毎朝1回でも南無妙法蓮華経って唱えたら
本当に人生が好転するかもするかもしれないわけだから。
久遠実成の釈迦が言うように、
なにが起こるのかわからないのが諸法実相の人生なんだから。
経済的には恵まれていても家族の不幸に苦しむ女子部のみなさん!
功徳はここにあり。われこそ大功徳なり。威風堂々とひとりで折伏に参られよ。
「諸行無常を生きる」(ひろさちや/角川oneテーマ21)

→仏教業界用語の「諸行無常(しょぎょうむじょう)」なんて知らないほうがいい。
諸行無常とは、みんなすべてあらゆるものが変わるという意味である。
善はいつしか悪になるし、悪だと思っていたものも変な調子で善になったりする。
いつだったか、どこだったか、あるいは最近だったか、
とても幸福そうな人に親切にしていただいたことがある。
世間知らずの当方にとっては、いろいろ教えていただく――それがいちばんの親切だ。
わたしよりもはるかにお若く見える3歳年上の男性のお言葉をいまも深く記憶している。
とても仕事のできるお忙しい方でしたので、ことさら言葉が身にしみた。
自分とは正反対の人とお話させていただくのは、とてもありがたいものである。
人生の先輩は、若いお嫁さんがいらっしゃるという。
諸行無常――その嫁はんが死んじゃったら地獄ではないか?
人柄のとてもよろしいビジネスマンの彼は3人のお子さんがいるという。
諸行無常――それはリスクとも言うべきで、
いつか子どもに自殺や病死、犯罪をされたら地獄に堕ちよう。
うらやましいことに見るからに優秀なため稼いでおられるらしい。
諸行無常――明日交通事故で死んでしまったら、
万が一にもハイパーインフレが起こったら、
1億円近いご貯金はどうなるのでしょうか?
「諸行無常」ならばプラスはかならずいつかマイナスに変わる。
「諸行無常」ならばマイナスはかならずいつかプラスに変わる。
プラスの象徴とも言うべき彼とマイナスの権化のわたしが出逢って
連絡先を交換したという事実は、これからプラスになるのかマイナスになるのか。
そもそもプラス(善)やマイナス(悪)ほど当てにならぬものはないではないか。
いまでは極悪人になっているヒトラーとて選挙で人民(庶民/大衆)に選ばれたのである。
ヒトラーが希望の星で、ドイツ国民から期待される最高指導者の時代もあったのだ。

「ドイツのヒトラー(一八八九―一九四五)は選挙で選ばれて首相になったのです。
国民に人気のある政治家でした。
ヒトラーが悪人とされたのは、ドイツが戦争に負けたためです。
何が善であり、何が悪であるか。
われわれ人間にはそれを判断できる能力はありません。
それを知っておられるのは仏だけです」(P184)


「たまたま地上にぼくは生まれた」(中島義道/筑摩書房)

→哲学者の中島義道の講演記録集。
白状すると、講演会とかセミナーとか無料でもあんまり行きたくない。
行ったら日給で2千円上げると言われても、中島義道の私塾には行かない。
1万円だったら行くかもしれないけれど(いや、座り作業っぽいし絶対行きまっす)。
基本的に肩書がある人が壇上から複数他者に向かって話す言葉に興味が持てない。
知識なんて本を読めばわかるんだから、わざわざ人から教わるものではない。
最近にいたっては知識は覚える必要さえないのではないかという思いにかられている。
知識の問題なぞその場で出てこなくても(ぼくは持っていないけれど)
スマホ検索で即座に解決してしまうでしょ?
本当に人物を見たいのなら、試験場にスマホ持ち込みOKにすればいいと思う。
スマホOK(知識は平等)でも、
人には個々に能力差があり、そこがポイントなわけだから。
いくら高僧の名前をたくさん覚えていたって、
そんなものはスマホで取り換えが効くわけで。
ネットが普及した結果、知識の価値が大暴落したと思う。
カントの著書をいくつ言えるかなんて意味ないわけだから。
記憶していなくても、その場でスマホで検索したら一丁上がりって話。
知識ではなく、智恵のようなものがいま、いやこれからおそらく重んじられそうだが、
だれもが共有可能な客観的知識以外の「智」は果たして教えたり
教えられたりすることができるのか? 成功哲学者の中島義道は言う。

「他人と入れかわり得るような知識に対して、哲学はまず疑いを出します。
つまり、自分でほんとうに考えたことが重要なわけで、
その人がほんとうに考えて、ほんとうにのたうち回って得た知識か否かは、
実感でわかってくるんですね。
小林秀雄が言っていますが、知識というのは、さきほどの言葉で言いかえますと、
科学的客観性でしょうね。私が知識を持っているというのは、
客観的な知識ということで、ほかの人がそれを確かめることができるとか、
それを証明できるとか、観察できるかとかの意味を含みます。
自分が死んだら同時に消えてしまうものを、知識とは言わないわけです。
知識に対応する言葉は、信念で主観的普遍性に当たりましょうか。
つまりおれは個人的にこう思うんだということです」(P93)


博識自慢をする人はいやだよねえ、って話かもしれない。
こういうブログをしていると、あれを読めこれを読め、
などとはるか年下の分際で当方を指導しようとする若僧が現われる。
それは違うわけ。書物の名前を出しても意味がない。
ほかならぬあなたがその本を読んでどう思ったかが問われている。
かといって、コメント欄に長文を投稿されても大半は読みたくないけれど。
歩く百科辞典とかスマホ全盛の現代では、歩く粗大ゴミみたいなもので。
というか、みんながみんないまではもう歩く百科事典になっているわけ。
記憶力なんかそれほど問題ではなくなっている、とも言いうる。
だって、忘れていてもすぐに調べられるのだから。
とはいえ、ネットは便利だが、掲示板での匿名議論は意味がないと思う。
身体を張っていない記号だけの対話など時間の無駄。
対話というのは相手の息遣いからテンポまで瞬間瞬間で変わるからおもしろい。
自分の意見が相手によって変わりうるのが折伏ではない対話なのだろう。
そこまでの対話を他人としたことのある人がどれほどいるものか。
あれほど生きている楽しみはないような気もする。
対話は折伏(しゃくぶく/創価学会の勧誘)とは異なり――。

「……対話というのは途中でどうなるかわからない、
話が進んでいくうちに自分の意見を変えるかもしれないわけです。
そういうことがなければおもしろくないわけです。
相手を打ち負かすことが目的ではないんで、
プラトンの『ゴルギアス』の中でソクラテスが、
もし、あなたが私を打ち負かそうとするんだったら、私は降りますよ、
私はあなたに勝つことではなく、真理を知りたいことが目的なんだからと、
言ってるところがあるんですね」(P103)


中島義道は「自分は絶対に正しい」の人だから、
おそらく本当の対話をしたことがないと思われる。
名誉も地位もなにもないわたしは、対話中にころころ自分の意見が変わる。
それは対話相手が長年の交際相手で、そのうえわたしを好きだからだろう。
最低ラインとして好きな人としか対話は成立しないと思う。
囲むのは暴力のひと言に付き、対話は一対一でしか成立しないのではないか。
いまとりつかれたように創価学会の本を読んでいる。
あそこの周辺ってキナ臭くて、もう人生捨て鉢なわたしにはとってもおもしろい。
わたしを嫌いではない、わたしに関心がある学会員と
いつか一対一で対話をしてみたいけれど。
先生の悪口で盛り上がっちゃいそうで怖い。

言葉への深い確信と、どす黒い不信感が同時に求められているのだろう。
中島がこの本でたとえにしているのは馬と「馬」。
われわれは「馬」という概念(言葉)を知っているから、
馬を見てこれは「馬」だと思うわけでしょう?
「馬」という概念を知らなかったら、馬は「動物」でしかない。
「動物」という概念(言葉)さえ知らなかったら、いったい馬はどのように見えるのか。
ここのところは非常におもしろかったので、そのためメチャクチャなことをしたい。
引用元を意図的に変えて紹介してみたいのである。
一般的に「先生」は「真理」を知っていると思われている。
しかし、「先生」も「真理」も概念(言葉)なわけだ。
100人のうちひとりにでもご理解いただければと期待して、あこぎなインチキ引用をする。
われわれは真理体現者を先生と呼ぶ。

「……物体[先生]と観念[真理]との関係は次のようなイメージですね。
そこに先生が見え真理という名前を知っているからこそ
その人物[先生]にその名前[先生]を張りつけるという話ではなくて、
むしろ「真理」という観念[言葉]を知っているから、
その人物が「先生」として見えてくるんですね。
もし「真理」や「先生」という概念を持っていなければ、人間として見えてくるでしょうね。
「人間」という観念[言葉]もなければ[知っていなければ]、
「物体」として見えるでしょうね。
「物体」という観念[言葉]さえなければ、多分何も見えないでしょうね。
全体に光の渦(うず)が巻いていて、何にも見えない世界が広がっている、
これがもしかしたら実在かもしれないわけです(P128を大幅に改変)


まあ、こんなへたくそな説明ではおわかりになりませんでしょうね。
先生は先生で、真理は真理で構いません。言われなくても、そうでしょうけれど。
でもさ、こういうのも内田樹から言われたらふむふむとか納得するんじゃない?
まさか言わないでしょうけれど、池田先生の言葉なら説得力が増す場合もあるわけで。
よーし、おじさん、ソクラテスという背広を着てネクタイを締めちゃうぞ。

「ソクラテスはよく、君は自分が着物を着てて観戦するだけなのはおかしいよ、
君も着物を脱ぎなさいと言います。
それは何かというと、地位だとか名誉だとか全部脱ぎ捨てて、裸だけ、
つまり言葉だけになって戦うことですね。これが対話です」(P109)


庶民の王者の池田先生は、肩書のある人としか対話しないのはどうしてなんだろう。
いや、人のことはどうでもよく、そんなことより、いまは自分のこと。
わたしは真理も先生も求めていない。
そもそも(絶対的)真理なんてないのではないかと疑っているからである。
自分のこと。わたしのこと。なにをしたいのか。おもしろいことをしたい。
おもしろいことってなんだろう。
万民にとっておもしろいことではなく、わたしにとっておもしろいことはなにか。
社会的成功者で地位も名誉も財産もあり、
お坊ちゃんも博報堂勤務の人生の大勝利者はこんなふざけたことを言いやがる。

「私は、五十歳になってわかってきたんですけれども、
何の事件もなくて、ただ幸せって嫌になってきたんです。
私、北極で一人で死んでもいいと思っているんです。
人から不当な仕打ちを受けたり、よかれと思ったことがみんなに理解されなくて
ということがもっとあればいいと思うんです。
そうすると、鍛えられますから。
そういうふうに期待して生きていると、皮肉なことに、
世の中には私のことを比較的わかってくれたり、
比較的いい人がたくさんいるっていうことがわかるんです」(P128)


中島義道は日蓮みたいな負け犬人生を歩みたかったのだろうか。
まだまだわからない。最後まで大どんでん返しがあるかもしれないのが人生よ。
中島義道が激痛に悩まされる難病にかかったりしないかなあ。
中島義道のお偉い息子さんが両手両足切断の事故に遭わないかなあ。
そういう犯罪に巻き込まれないかなあ。
確率的には起こるはずがないが、確率に逆らうのが個々の人生である。
中島義道だって統計的に見たら敗残者になる可能性のほうが異常に高かったのに、
一回きりの人生で大成功をしてしまいこうして勝ち誇って演説しているのだから。
地位と名誉、財産を勝ち得た中島先生は壇上から民衆に教えをお説きになる。

「確率がどんなに小さくても、それが現に起こってしまえば、否定できないわけです。
つまり、いつでも非常に起こりにくいことが現実に起こってしまうんですね。
みなさん、よく知っているのは、飛行機が堕ちることです。
どんなに確率が低いといっても、堕ちたら終わりだってみんな知っているんですよ。
どんな過去のデータを出されてもだめなんです。
堕ちたら過去のデータは何の力にもなりません。過去のデータが
次の飛行機の安全なフライトに一切関係ないことを知っているんですよ。
賭けは、未来が決まっていないことをみんな知っているから成立しているわけです。
ところが常識や科学は、
未来が決まっているかのような錯覚をわれわれに与えているんです」(P186)


明日まで生きたら、明日なにが起こるかは絶対にわからない――。
明日なんか来ないのかもしれないけれど、あはっ♪

人生で大勝利したものほど最期の最期で大苦難を味わうんじゃないかなあ。
いっぱいお金を持って、手下もたくさんいて、勲章も棺桶に入りきらないほどある。
家族も孫をふくめると数十人単位でいて、建前上の友人は千人単位。
しっかしさあ、死んじゃったらすべて終わりよ。
いくら貯め込んだ資産も財宝も知遇(仲間)ともすべてお別れ。
いくら生前、たくさん賞をもらって威張っていても、死んだら嘲笑の対象。
いまだからいえるけれど、おれはあいつのクズなところを知っているという。
人格者ぶっていた遠藤周作や河合隼雄でさえ、死んだら側近から悪口が出てくる。
人生で勝利すればするほど死ぬときに無念の思いが深まるのではないか。
ましてや大勝利などしてしまったら。
死後の世界では金も財宝も勲章も通用しない。
いくら生前の偽善的行為を誇っても、そんなものは閻魔さまに見破られて終わり。
偉そうに現世で説教をふかしつづけた人生の大勝利者は死後どうなっているのだろう?
それはだれにもわからない。どの指導者も明言できない。
ま、わたしなんか楽だよね。死んでも葬式不要。最大限呼んでもたったの4人。
地位も名誉もないし、こちらが勝手に友人だと思っている女性がふたり。
この記事を書いた3分後に臨終のときが来ても、
後悔どころかむしろスーパーラッキーというべきか。
この世で得たプラスは死にいたってすべてマイナスになるが、
大乗仏教思想は空(=プラマイゼロ)を基調とするので、なんだっていいのだろう。
このときマイナスはプラスになるともいえましょう。
なんでも、すべて、みなみなよろしい。
……そんなことを富も宝も絆もないおれからいわれたって困るよねえ(苦笑)。
日本最大の評論家とされる小林秀雄のどこが偉いのかさっぱりわからない。
10年以上前に小林秀雄先生の御文をありがたくも拝読させていただいたが、
ひと言でいえば意味不明だった。意味不明に尽きる。
こいつ、なにを言いたいんだ?
そしてそして、それなりに読書歴、人生歴を積んだ
10年後のいまにいたってさらさら理解できないのだから。
有名人が大勢崇拝しているがために小林秀雄は偉いのか、正しいのか。
世渡り上手の河合隼雄も小林秀雄を好意的に言及していたっけ。
しかし、いまの高校生に小林秀雄は読めないだろう?
20年以上まえ高校生だったわたしにも読めなかったのだから当たり前だ。
2015年を生きるこの文章の書き手もいまさらながら
まるでまるでゆめゆめつゆつゆ(サービス過剰?)
小林秀雄の文章がわからない。
いっぽうで、わたくしめの人品の卑しさの結晶というべき駄文は、
偏差値40の高校生どころか中学生でさえ意味を推し量ることができると思う。
意味のわからぬ文章を書くマスコミ言論人は消えてほしい。
しかし、そういう意味不明の偉人を尊敬するのが無知蒙昧な庶民なのだから……。
めったに逢わない知り合いが集団ストーカーされていると泣きついてきた。
その瞬間、あ、こいつは統合失調症がスタートしたなと縁を切りたくなる。
ネットではそれほどめずらしくない言葉だが、集団ストーカーなんてあるはずがない。
なによりの証拠は、わたしに泣きついてきた自称被害者が、
集団ストーカーする価値もないようなダメ男だったこと。
ふつうひとりの人間を1時間働かせるなら、いくら最低でも5百円は必要だろう。
自称被害者を知っているわたしは、
こんなやつに1万円単位で金を使うアホなどおらへんという結論にいたった。
自称被害者いわく、集団ストーカーは「脱会者は自殺へ追い込め!」で有名な、
わたしがとても好きな宗教団体というではないか。いや、うそぶくではないか。
善人の集まりであるあの人たちがそんなことをするはずがない。
おい、バカ、アホンダラ、「善き人たちの連帯」を舐めるなよ。
その知り合いはたまに「死にたい」などという世間知らずの精神遅滞者であった。
「もし本当に集団ストーカーされているのなら自殺するいいきっかけじゃない?」
わたしがそのように本音をぶつけると、
彼は驚いたような顔をして、すぐにパッと笑顔になった。
被害妄想過剰だが、こいつのそういう素直なところが好きである。
「そうか! そうかそうか! そうかそうかそうか!
集団ストーカーをあの人たちは僕のためを思ってやってくれているのか」
「そういう考え方もできるって話」
「そうかそうかそうかそうか!」
「うるさい!」
別れる際、そうかそうかそうかと彼は深々とうなずきながら去って行った。
集団ストーカーなんてあるはずがないのに、まったくバカな男だ。
絶交できないのは、どこか彼が好きだからだろう。
ネットでは匿名で相手をビシバシ否定して悦に入っている人も少なくない。
そういう手合いのひとりの実名を知ってしまったので困る。
彼が匿名で自慢している精神病のお嬢さんの名前まで知ってしまった。
彼女は有名出版社の超有力な新人漫画家なのだから、遺伝はすばらしい。
彼は自分は威張っていないと公言しているが、
朝日関係の有名権力者の古株子分の彼はわたしのメールを無視している。
当方が匿名のメールにも丁寧に返信するのとは大違いである。
お偉い人っておられるんですね、あいどんさん! あいどん先生!

名前の話をすると、こちらの名前は顕史。
名前を説明するのが厄介なのである。
顕微鏡の顕と言っても、たまに通じないことがある。
相手がその筋の人なら、日顕の顕と言いたいくらいだ。
顕正会の顕と言ったら、すぐにわかる人もおられるかもしれない。
顕史の読み方は「あきふみ」ではなく学会健児とおなじく「けんじ」であります。
いまのところどこの宗教団体にも所属していない。
両親とも無宗教。
ただし父方の祖母が生長の家、母方の祖父がプロテスタントだった。

宗教にこだわりはない。
ぶっちゃけ、創価学会、顕正会、立正佼成会、日蓮正宗すべてに入ってもいい。
許してもらえるなら、同時に親鸞会にでも入らせてもらおうか。
厳しい修業をしなくてもいいのなら元オウムのアーレフに名前を貸してもいい。
いまのところいちばん好きなのは宮本輝先生のあそこですけれど。
名前から対抗勢力と勘違いされることがあるので困る。
39年も生きていて、いままで一度も宗教勧誘をされたことがない。
これはおかしな名前のせいかどうかはわからない。
とくに名づけの親を恨んでいるわけでもない。