以下に書くことは極めて個人的な私信ですから、
ご興味のない方は無視なさってください。
さて、本日とうとういまのバイト先を辞めることになった。
昨日まで今日という日が来ることをどこかで信じられなかった。
わたしは百人以上のパート仲間や社員の顔と名前が一致しているし、
それぞれに深い思い入れがある。
今日を境にあのじつに味のある人たちとの縁が切れ、
もう一生会えなくなってしまうのだと思うと、人生の神秘すら感じるし、
なにやら大きなものに畏怖さえおぼえる。
パート仲間は埼玉県在住が多く、こちらは東京だからまずもう一生会わないだろう。
会社を辞める理由はとくにない。いうなれば、自然の流れのようなものか。
会社もこちらもお互いがそろそろ終わりでいいのではと意見の一致を見た。
公式言語でいえば「契約期間満了により」である。

がらりと文章のテンポをかえて本音に近いことを書く。
ちとばかしアクロバティックなことをやりすぎたと思っている。
去年の5月にこの会社に入ってからもブログを続けていた。
まさか会社の人はだれひとりとしてこんなブログを読んでいないと思っていた。
去年の10月下旬、当時社員だった東方無敗さんが
ブログを読んでいることをもらしてしまったのである。
そのときの感想は、世界がぐらぐら揺れているとでも言おうか。
やべえ、ばれていたのか、どうしようと叫び出したくなった。
なぜばれたんだろうという疑問がある。やはり本名ブログをやっているせいか。
12月にはサブマネージャーがおかしくなった。
あの日のサブマネの動揺ぶりは忘れられない。
なにこいつ、裏ではこんなことを考えていたのか、おい、おい、おまえはなんだ?
ある意味でサブマネの世界観が崩壊したときかもしれない。
わたしはいかにもまじめそうな顔をしていて、
長期休暇を取るときは「老親の介護のため」とか書いていたパートだったから。
サブマネがどんどん幼児化? 善人化していくのは見ていておもしろかった。
上司ならばパートを厳しく監督しなければならないのだが、
サブマネはやたらパート思いのいい上司になってしまったのである。
2月に本社の上のほうの人が来て、サブマネは人格(ペルソナ)を取り戻そうとしていた。
その矢先、いきなり他所で新設された倉庫のマネージャーとして赴任していった。

目を見たらわかるのである。
一瞬の視線の交差で、その人がわたしのブログを読んだかどうかがわかる。
この人も読んだのか、あの人もか、と怖いような嬉しいような気持だった。
もちろん、職場でブログの話はいっさいしない。
わたしは職場の人に読まれていないと信じきっているふりをして、
パート仲間や社員もいちおっさんパートのブログなど読んでいないというふりをする。
いわば、秘密の共有である。
このため、職場では1年半いつもわたしはひとりぼっちだったが、
心では通じているといったような安心感(誤解?)がなかったと言ったら嘘になろう。
でも、それは怖いことだろう。
ときにはだれかの悪口に近いことを書いて、読んでいるかわからないが、
その人と職場で顔を合わすのだから。
こんなことをやってもいいのだろうかという思いはつねにあったが、
これはおもしろいという悪魔的な好奇心もまたあったことは認める。

あるときから、怖がられるようになったような気がする。
職場のみんながみんなブログをお読みくださっているわけではないのだとは思う。
一部の人が熟読して、それを口コミのうわさで広めていたという可能性もある。
とにかく「こいつ、やべえよ」という共通認識ができてしまったのではないかと思われる。
なかにはわたしのことを殴りたいほど嫌いなものもいたことだろう。
少数ながらファンのような方もいることを肌感覚で察知していた。
会社であったことを実名でブログに書いていいのかという問題がある。
これは前例が少ないというか、そんなアクロバティックなことをやる人はまずいない。
わたしはまさか善行だとは思っていなかったが、
これで少しは職場がおもしろくなるのだから、まあ許して、という気分だった。
毎日がおんなじことの繰り返しになるよりは、
少し変化のようなものがあったほうがいいでしょう。
そのうえ、わたしは自分勝手なところがあり、きっと同僚から悪口を言われていたから、
だったら悪役としてパート連帯のために協力しているではないかという、
ひねくれた役割意識もあった。

ブログを更新してからバイトに行くでしょう?
職場の雰囲気で反応のようなものが確かめられるのである。
こういうことを書いたら盛り上がるのかということも勉強した。
抒情的なことを書いたら職場が湿っぽくなることもあり、ふむふむ、そうかと。
これは辞職問題を話したときマネージャーさんにも申し上げたけれど、
わたしはいまの職場のみなさんに物書きとして育ててもらっているという感触があった。
マネージャーとしては、おいおい、そんな目的で働くやつがいるのか、
と唖然とした気分になったことだと思う。
それでも9月いっぱい働かせてくれたから、マネージャーさんにはとても感謝している。
9月は「想い出づくり」月間として、いろいろな人に心のなかで「さようなら」を言った。
まあ、マネージャーの好意ではあるのだが、解雇1ヶ月前の通告は義務なのだが。

今日でこのバイト先とお別れである。
名前と顔を知り、ときには雑談を交わしたパート仲間たちと金輪際会うことはない。
今日を境に百人以上の人との縁が一挙に切れてしまう。
あの人ともあの人とも話したかったけれども、結局かなわずに終わった。
もっとも話すといっても、なにを話せばいいのかわからないのだけれど。
ぜんぜん怖い人ではないのに、わたしのことを怖がっている人も少なくない。
ひとつこれだけは伝えたいというのは、いまの職場で働くことのできた1年半は、
わたしの人生のなかでもっともおもしろく楽しい時期だったということだ。
まさかわが人生でこれほどおもしろい体験を1年半も送れるとは思わなかった。
この職場で働きながらいろいろなことを考え、本を読み、感想を書き、また働いた。
この繰り返しのなかで学んだものは、
大学4年間で学習したものをはるかに凌駕(りょうが)するだろう。
大学4年間よりもいまの職場の1年半で学んだことの方がはるかに実りがあった。
収支的にはあきらかにマイナスだが、授業料を払ったと思えば納得がいく。

このわずか1年半でもさまざまな変化が見られた。
わたしのせいかはわからないが、辞めていった人たちも大勢いた。
まさか事務をやっていた若い社員さんが辞めたのは、
わがブログの影響ではないと思うが。
わたしはこの1年半いまの職場で働くことによって大きく考え方が変わった。
ひとりが変わればみんなが変わるのである。
あの人も変わった、あの人も変わった、と気づくことが多々あった。
わたしのブログは非常に影響力が強く、そして毒のある有害ブログなのだろう。
こんなものを定期的に閲覧していて、
なまの書き手を見ていたら精神がおかしくなっても無理はない。
最近おすがたを見ないが、古株男性パートにWさんがいる。
Wさんを最後に見たのは入庫場だが、ハンドのうえにスケボーのように乗って、
「わーい♪」とか遊んでいたぞ。
あれはたぶんわがブログの毒が脳にまわったのだと思う。
このブログは危険なウイルスのようなものだから(蔓延する!)、
書き手を1年半も守ってくれた寛大な社員さんたちには心から感謝したい。

つねにひとりぼっちであったが、あれはもうどうしようもないのである。
まさかブログの話をするわけにはいかないし、
そしてだれがブログを読んでいるか正確にはわからない。
ブログの存在を知った人は、わたしを怖がってしまうだろう。
こうなるともう孤独になるしかないのである。
もとからわたしの社交性、コミュニケーション能力が低いこともあるだろうが。
笑い話だけど、休憩室とかわたしがいるから、みんなぜんぜん来なくなった。
19時からの休憩室もたまにわたしの存在のせいでお通夜のような雰囲気になる。
おまえ、なんでそんなことをするんだよって聞かれても、それは業(ごう)のようなもので。

パート仲間も社員も好きでたまらなく、
今日で一生会えなくなるというのがいまだに信じられない。
男の方のI崎さんが、わたしのブログの熱心なファンなんでしょう?
あの人も味があっておもしろいよなあ。みんな独特の味があっておもしろいのである。
こんなおもしろい場所が近所にあるなんてまったく驚いた。
辞めたくないとか、そういう気持はない。
たしかに辞める「とき」が来たと思うし、
そういう人生の「とき」をたいせつにするのがわたしの生き方だ。
まあ、善か悪かという単純な二分法を使えば、わたしはいまの職場で悪だったと思う。
わたしの影響かはわからないが、いま社内の風紀が乱れ切っているような気もする。
ある先輩パートは「労働サークル」になっていると言っていたが、うまいことを。
去るものとして格好いいことを言わせてもらえれば、
悪いのはぜんぶ土屋のせいにしてしまい、これを機にクリーン化してはどうか。
あれも土屋が悪い、これも土屋のせいだ、そういうふうにしてくれてぜんぜん構わない。
むしろ、そうしてお役に立てるのが嬉しいというか。
中国人女性のSさんが発明して、
わたしが完成させた本ぶん投げピッキングは果たして継承されるのかどうか。
ネパール人女性や女子高生某に伝授したつもりだが。
「本は商品なんだから投げるな」とマネージャーさんには正論を言ってほしい。

この1年半を振り返ってみると、おもしろかったという記憶しかない。
人生最高の「想い出づくり」ができたといってもよい。
どうしてか将来、この1年半の体験が役に立つような気持もしている。
本日わたしは百人以上との人間関係を失う。
しかし、「失う=得る」だから、きっとあれだけ豊かな人間関係を
失うこともマイナスばかりではないのだろう。
だれともプライベートで会えなかったのは心残りだが、会社とはそういうものだろう。
それぞれの人生来歴を聞くだけでこちらはおもしろいのだが。
まさかないでしょうが、いまの職場で、
わたしにプライベートで会いたいという人がいらしたらメールをください。
社員の東方無敗さんが会いたがっていたので楽しみにしていたのだが、
最後の最後で怖くなったのか逃げてしまった。
人間ってそんなものだから、ことさら怒りのようなものは感じていない。
もう会社とは関係ないのだからブログのコメント欄にあれこれ書かれるのは迷惑だが。

わたしは絶対に9月29日は来ないと信じていたが、こうして来てしまうのか。
明日はわたしの目のまえで飛び降り自殺をした母の誕生日なので今年初の墓参り。
10月からの予定は真っ白である。9月で人生終わりと思っていたからなあ。
今日は最後の日だから5ラインの終りまでやりたい。8時半くらいに終わりそうだけど。
社員さんやパート仲間それぞれに「さようなら」や「ありがとう」を言いたいけれど、
あまりにも人数が多すぎるし、そういう湿っぽい最後になるのはいやだから、
このブログ記事で代用する。
なんかすごいんだよ。腫物(はれもの)を扱うような感じになっていて。
最後は制服をクリーニングに出して返すのが決まりらしいのだけれど、
わたしは腫物だからマネージャーの机に名札とロッカーキーと一緒に置いとけって。
腫物というのは被害妄想で、ありがたくも特別扱いしてもらっているとも言えよう。
みんな、1年半、ありがとうね。最高に楽しかったよ。バイバイ。
「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 団鬼六語録」(団鬼六/祥伝社新書)

→いまは亡きSM作家の巨匠の名言集を、
酒をちびちびやりながら快楽の極みとして読む。
ほろ酔いで他者(書籍)と、
とろとろに向き合うことほど生きる楽しみを感じることはない。
巨匠は巨匠だから男女関係の色恋の機微をうまく表現するのである。

「ホントのエロとは、ひとことでいえば、
女性はひたすら隠し、
男性はひたすら隠されたものを見ようとするところから
生まれるものなんです」(P37)


スカートをはいた女子がなかの下着を価値あるものだと知ったとき、
ホントのエロが生まれるのだろう。女は、まず隠せ!
隠して隠して隠微(いんび)したものをチラリと見せるのがエロである。
ハプニングがおもしろいのかもしれない。
いままで隠されていたものがハプニングであらわになってしまったときの時めき。
日々の安定ほど退屈なものはないとも言えよう。

「……安定してしまうと、何となく毎日が面白くないんですよ。
こんなちまちま暮らしとっても仕方がなという気になってくる」(P66)


世間的な幸福は、恋愛成就、家族円満、健康長寿であろう。
これは法律で決まった幸福感とも言えなくもない。
団鬼六はそこに反旗をひるがえす。

「俺やったら楽しいことがあったら
明日死んでもええやないかとダーッとやるのが幸せなんやな」(P80)


SMプロ作家、つまりその道のプロが意外なことを白状するのだから。

「実践派だから学問的なことはわかりませんけれど、
僕には本当の恋愛もなかったし、最高のセックスもないんです。
いつも欲求不満だから書く」(P233)


著者はSM世界という男女の処女地を開拓したパイオニアである。
多くの批判も受けただろうが、さぞかしいい思いもしたことだろう。
いったいどうしたら新しい分野に一番乗りできるのか。
人生で多少なりとも人とは違ったおいしい思いをしたいならどうすべきか?
団鬼六は言う。

「新しく出ていく者が無謀をやらなくて一体何が変わるだろうか?」(P235)

いままでだれもしていないことをするのは楽しい。それは快楽である。
楽しければなんだっていい。
女をいじめても縛ってもいいし、逆に女からビシバシ鞭を受けるのがいい人もいよう。
きれいな人が羞恥心にもだえながら汚れていき、
「ああ、もうやめて」というときの色気ほどゾクゾクくるものはないのかもしれない。

ただ遊べたら。どこまでも楽しみのみを求めて。遊んで遊んで、そしてまたさらに遊べたら。

「処女神 少女が神になるとき」(植島啓司/集英社)

→自称人類学者、実際はフリーライターの書いた
「長期フィールドワークにもとづく渾身作」。
「ダライ・ラマのように輪廻転生する、ネパールの生き神クマリ。
神となる少女から、観音菩薩、マリアなど女神信仰の系譜を読み解く」
で、帯には「内田樹氏絶賛」で、ああ、上のほうって、
そういうふうにつながっているのねという。
ネパールには日本の佳子さまのような(?)少女の神がおり、
信仰の対象になっているらしい。
どうしてそういう現象が起きているのかをライターの植島啓司が考えるというエッセイ。
これは研究でもなんでもなく、ただのだらだら長たらしい旅行エッセイである。
だが、エッセイとしてもおもしろくなく、
若くして世に出た植島啓司さんはなにか壮大な勘違いをしているような気がした。
インドでクマリ信仰があるのは、最南端のカンニャークマリである。
ここに行って自分が思った感想を植島は大冒険の大研究の結果として書いている。
けどさ、カンニャークマリなんてわたしでも行けるくらい楽勝の観光地なわけで。
植島は思い出を美化して書いているが、
カンニャークマリは聖地でもなんでもない、汚い観光地にすぎない。
海辺にウンコがぼとぼと落ちているのでろくに歩けもしないという。
クマリの寺院はわたしも行ったけれど、無感動な観光場所だった。
しかし、それを大感動したかのようにももったいぶって書くと、
インドに行ったことのない一般読者は、
なにかすごい話を読んだような錯覚におちいるのである。

植島啓司は本書でもっともらしくクマリ信仰の理由をあれこれ書いている。
しかし、結局答えのようなものには行き着いていない。
わたしの答えは、「わからない」からでしょう?
人生、どうして幸福になったり不幸になったりするのか「わからない」。
だから、その「わからない」理由を美少女に押しつけて、
この生き神をあがめば現世利益があると信じたがる大衆がいる。
そう考えたら楽だから、おもしろいから、ネパールでクマリ信仰があるのだと思う。
かわいい女の子はいいよねって、それだけの話。
アバズレもいいのかもしれないが、
バージンは神秘的でいいよねという万国不変の男性陣の願いが
クマリ信仰にはこめられているのだろう。
単純なものごとを大げさに書いたら学問になるという流儀には、
いくら「内田樹氏大絶賛」の帯がついていても感心できないなあ。

「創価学会亡国論」(幸福の科学 広報局編/幸福の科学出版)

→最近SGI妄想がひどくてさあ。
周囲のあの人もあの人も学会員ではないかという気がして。
でもね、聞くわけにはいかないじゃない。
まったく本当にこのごろSGI妄想が激しくて自分でも困り果てている。
バイト先でライン(流れ作業)横の中国人女性ふたりが
名誉会長の話をしているという幻聴があったり。
入庫場でベトナム人の男の子が社員から先生のビデオを見せられた、
とわざとつたない日本語で言っているのを聞いたような、しかし幻聴だろう。
被害妄想ではなく反対の妄想なのである。
集団ストーカーではなく、SGIからあたたかく見守られているような病的妄想がある。
これって重要なんだけれど、集団ストーカーはそう悪意をもって見るから、
そういうふうに見えるわけで、プラスから見たら見守られているってことでしょ?
行為というのはプラスから見るかマイナスから見るかで変わる。
ある他人に対する行為は、親切でもあり意地悪でもあり、それは解釈者しだい。
ものごとや行為に善悪はなく、それは見るものの心が決めているのかもしれない。

本書は幸福の科学が書いた創価学会の悪口本である。
創価学会はこんなに悪いことばかりしていますよという。
しかし、それはそういう目で見るからそうなのであって、
創価学会という団体や組織活動は善でも悪でもなく、受け手しだいではないか。
わたしはこの1年半でSGIを好きになったから、
選挙では次回から公明党に入れようかと思っている。
けれども仲間と肩を組んで学会歌をうたえるかといったら、
それはわたしをひと目見た人ならわかるでしょうが、かなり難しいのではないかと。
世間は創価学会はよい、あるいは悪いと是非を論じる。
しかし、もしかしたら善悪なんてどうでもいいんじゃないか?
禅問答のようだが、なんで善だとよくて悪だといけないのだろう?
楽しいんだから悪いこともたんまりしようじゃないか、
絶対的な善悪なんてないんだから(人間にはわからないのだから)――。
SGIのそういうところが好きである。
ひとつわからないのは、師弟不二というなら、
どうして池田大作の師である戸田城聖を先生と仰ぐものがいないのだろう。
本書から二代目会長、戸田城聖の名言を引く。

「今日末法(まっぽう)の時は釈迦仏の時ではないのである。
釈迦の法はもう死んだ法で、なんの利益もないのである」(P100)


ちげえねえ。釈迦なんていったいなにがどうして偉いのか?
これを言ってもいいのかわからないが、わたしは釈迦が嫌いである。

「飛ぶ教室 2008年冬 追悼・河合隼雄 河合さんと子どもの本の森へ」(光村図書)

→「飛ぶ教室」は河合隼雄も創刊メンバーのひとりとなった児童文学雑誌。
この号は河合隼雄の追悼特集だから、氏の人となりを知りたくて読んでみた。
河合隼雄が死んだらさっそうと悪口を書いたのは精神科医の中井久夫だが()、
この雑誌の追悼記事では(当たり前だが)だれも死人の悪口を書いていない。
それぞれが河合隼雄からかけられた言葉をたいせつに思い出していた。
死ぬ直前の河合は作家の今江祥智にこんなことをいったという。

「今江さん、星座ちゅうのは初めから決まってますねん。
今江さんがだれに出会うかちゅうことは、最初からもう決まってんねん」(P41)


最後はあれな人になっていたのかなあ。
まあ、わたしもあれな人だから、
だれと出会うかは決まっているとどこかで思っているけれど。
あれな人だったかもしれない河合隼雄は詩人の工藤直子にはこんなことを言っている。

「これが正しくてあれは間違い、というような『絶対正しい答』
というのはないと僕は確信しています。
絶対正しい答がないから人生が面白いんじゃないでしょうか。
大切なのは、どんな道を選ぶとしても『私はこうしました』
と言えるやりかたで選んだかどうかだと思います」(P49)


当時新人作家だった伊藤遊には、
児童文学賞の選考委員長としてこんな言葉をかけている。

「時間をかけて考えることが大事やからね。
面白そうな話を思いついたからといって、パッと書いてはいけない。
書きたい気持ちを我慢して、
もうこれしかないと思うものが自分の中から湧き出てくるまで、
待たないといけない」(P58)

「頭で考えてお話を作ってはいけない。
たましいから生み出されたものでなければならない。
お話を作ろうとせずに、自然に生まれてくるのを待ち続けなさい」(P59)


河合隼雄さんっていったいどんな人だったんだろう。
ノーベル文学賞間近の村上春樹は、つまらない駄洒落ばかりいう関西弁のおっさん、
みたいなことを書いていたけれど。
「飛ぶ教室」(ケストナー/丘沢静也訳/光文社古典新訳文庫)

→児童文学の古典、ケストナーの「飛ぶ教室」をいいおっさんが読む。
ひと言でまとめれば、友情が孤独に勝利する物語である。
孤独の象徴ともいうべきヘビースモーカーの中年男性「禁煙さん」が
物語の最後で仲間に加わり、めでたしめでたしとなる。
医者だった「禁煙さん」が孤独になったきっかけは不運にも妻子に先立たれたからである。
「禁煙さん」は仕事を辞めて、親友のまえからもすがたを消した。
いまは底辺居酒屋でピアノ演奏のアルバイトをして小金を稼いでいる。

「でさ、このね、うるさくって低俗な居酒屋で、不思議な孤独を感じるのさ。
どこかの森のなかにいるみたいな」(P160)


こんな気障(きざ)なことをいう孤独な中年男性を少年たちはなぜか慕っている。

「禁煙さんはイブをひとりぼっちで過ごすはずだ。
少年たちはそれを気の毒に思っていた」(P47)


少年たちの活躍で「禁煙さん」はかつての親友と再会する。
おかげで「禁煙さん」もイブは親友と過ごすことができるようになる。
イブにひとりぼっちではなくなる。
この少年たちの友情物語の登場人物でひとり孤独な男の子がいる。
孤独な彼はほとんど作者からエピソードを与えられていないが、
孤独な少年ゼバスティアンはこの友情物語にいなければならなかった。
孤独なゼバスティアンがいることでみなが友情ごっこを演じられているのだ。
いつも冷静で皮肉屋のゼバスティアンはこんな男の子である。

「ゼバスティアンには親友がいなかった。
「ゼバスティアンには親友がいらないんだ」と、みんなからずっと思われていた。
だがいまは、ゼバスティアンも孤独に苦しんでいることが感じられた。
きっとゼバスティアンは、それほど幸せな人間ではないのだ」(P149)


本当はみんながみんなゼバスティアンなのだろうが、
それではあんまりにもひとりぼっちで孤独すぎるから友情を演じる。
家族を頼るものもいよう。会社の同僚に仲間意識を持つものもいるだろう。
人間はみんなひとりぼっちだが、ひとりぼっちはしんどい。
現実にはめったにない仲間のよさ、
友情のすばらしさを描いた「飛ぶ教室」が古今愛される理由かと思われる。

「三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界」(中沢新一/角川文庫ソフィア)

→中沢新一はチベット仏教の修行をしたことがあるから、
よくわからないけれど「偉い」んでしょ? 宗教学者と名乗ることができる。
おれもどこかへんぴな外国に行って、そこの現地宗教でもかじって帰国したら、
空海や中沢新一のように偉ぶれるのだろうか。
チベット仏教はあまり日本人に知られていない。怪しげでよくわからない。
このため解説者として中沢新一が威光を帯びるのだろう。
よくわかんないものって、なんだかすごそうな気がするしねって話。
中沢新一の文章はわかりにくく、だから「偉い」ということになるのだろう。
・死出の旅には財産も地位も持っていけない。
・終わりである死に際してようやく自分の輪郭(りんかく)がわかる。
・人生は夢のようなもの。
このような常識もチベット帰りの宗教学者が書いたらありがたいのだろう。

「死というものが、どんなに身近なものなのか、
死体はすでに自分の中にも住んでいて、死を遠ざけて生きることなどはできないこと、
死がいつやってくるかは不確かで、でもそれがやってくることは確かだということ、
死んでしまうと生きているときには大事なもののすべてが意味を失ってしまうことなどを、
この体験[チベット密教修行]から学び取ろうとしてきたのです」(P75)

「死はあらゆる人間の前に、自分という存在の本性を、あらわにしてみせます」(P130)

「どんな生命も、自分の生命システムにとって意味のある世界の中を
生きているときには、まるで夢や幻想を生きているのと同じです」(P129)


死というのは、じつのところおいしい商売になるのかもしれない。
あの最強で常勝の創価学会員だって、死にはビビるわけだから。
人生で大勝利した創価学会員も死には勝てないわけだから。
とはいえ、死に勝つ方法はないわけではない。
死ぬまで生活を忙しくして死を見ないようにしたら人間は死に勝てる。
よくわからない「死」の権威をもって著者は偉ぶろうとしているようだが、
じつは死なぞぜんぜん大したことはないのかもしれない。

「原典訳 チベットの死者の書」(川崎信定訳/ちくま文庫)

→お経マニアのわたしがチベット密教の仏典を読む。
なーんかチベット密教とか聞くと(目にすると)すごそうな気がするじゃないですか!?
理由は、チベットがどこにあるのかみなさん正確にはわからない。
ぶっちゃけのところ、白状せよ! 
チベットがどこにあるか世界地図で正確に指せる人は、
読者さまにどのくらいおられますか?
まあ、正解はネパールの上で中国の左のほうなんだけれど(あたま悪そうな答え)。
チベットのみならず密教という言葉もわからなくて神秘的な輝きがあるのでは?
密教は、後期仏教のことで、釈迦(しゃか)の教えとは縁もゆかりもない宗教である。
人間ってオフレコ(裏話/秘密/ここだけの話)が大好きでしょう?
釈迦はオフレコでこういう秘密の教えを説いていたんだというのが密教である。
ここだけの話ね、釈迦は秘密裡にこうしたら悟れるんだと教えていたと称するのが密教。
「チベットの死者の書」は人が死んだらどうなるかが書かれている。
輪廻転生(生まれ変わり)から解脱する人もいれば、
新たな生命のスタートを切る人もいるという。
要約すれば、死は終わりではないということを書いたのが「チベットの死者の書」である。
お経マニアのわたしから見たら、申し訳ないが、それほど大した仏典ではない。
でもさ、チベットや密教という言葉の神秘性にひかれる人がいるのはいいと思う。
人は死んだらどうなるか? わたしは来世のようなものがあると思っている。

――そういうことをちょろっと書いたらベストセラー作家の小谷野敦さんから、
ありがたくも過疎ブログのコメント欄で「オカルトか?」と批判(?)された。
先日、小林秀雄賞作家の山田太一さんのトークイベントに行ったら、
氏も来世の存在について否定的だった。
死んだら無になるというのは非常に科学的に「正しい」と思う。
わたしはこの世で人の不平等、人生の理不尽をどこまでも深く知った。
どうしてこうなのかを考えると、もはや前世の存在しか思い当らない。
前世のせいだとしか、この世の不公平、理不尽は説明できないと思い切るにいたった。
前世があったとしたら来世もあることになろう。
このような思考法で来世の存在を個人的に信じているだけで、
断じてまさかまさか普遍的な真実であると主張したいわけではない。
山田太一さんや小谷野敦さんがそうであると信じているように、
おそらく来世など存在しない。
来世のことを語るのはオカルトで非科学的で意味がない。
だが、多くの人が死は終わりではないと信じたかった。
このため、チベットでこんなお経が創作されたのだろう。

チベット密教とはいえ、仏教である。
すべてのお経に書かれているといってもよい、
人間の苦しみの理由がこの仏典にも正しく書かれている。

「汝(なんじ/あなた)がこのように苦しんでいるのは
汝のカルマン(業/ごう)によって決められた宿命なのである。
ほかの誰かに代わってこれを受けさせるわけにはいかないのである。
汝自身の宿命なのであるから」(P118)


宿命はどうしようもない。そのことを悟るのが仏教だといってもよかろう。
人は宿命ゆえに死ぬが、死は終わりではないと悟るのもまた仏教である。
人間は殺されても死なない。切られても死なない。なにも恐れることはない。

「汝は意識からできている身体であるので、殺され切り刻まれても、
死ぬことはないのである。本当のところ、
汝は空(くう)それ自体が姿をとったものなのであるから、
なにも恐れることはないのである」(P119)


大丈夫。なんとかなるから。死んでも大丈夫。恐れるな。胸を張れ。
死は無ではない。だから、大丈夫。死を恐れるな。生に脅えるな。堂々と生きよ。

「寺山修司からの手紙」(山田太一編/岩波書店)

→若き日の寺山修司と山田太一の往復書簡――ということになっているが、
読んだ感想は、これはまるで女学生の交換日記のようなものである。
恋に恋するのはいまでは女子小学生くらいだろうけれど、
当時は大学生の男子が恋に恋していたのかと思うと微笑ましい。
恋のみならずふたりの友情もどっか芝居がかっているのである。
友情ごっこを男ふたりで演じているようなところが見られる。
だが、そもそも友情とはそういうものだという見方もできる。
いまでは小学生でも知っていそうだが、人間関係はほぼまあ利害関係である。
人は利益がある人とつきあい、損害が出そうな相手からは離れていく。
そういう現実(本当のこと)をまだ知らないもの同士のみが友人関係になれるのだ。
幼くなければ無知でなければ、友情も純愛もうまく演じることができない。
世の中はかなりのところ「金、顔、肩書」でおおよそすべての人間関係は利害関係だが、
このことに気づいてしまったら友情も純愛も噓くさいこと甚だしい。
むかし世間のことをまるで知らない男の子ふたりが友情で結ばれたことがあった。
ふたりは世間のことのみならず男女のこともからきし知らなかったから、
とてもいい純愛(片想い)をすることができた。
本書はそういう意味での記録的価値はあるだろう。
結果的に寺山修司も山田太一も大物になったから
この「女学生の交換日記」にもなにやら芸術的な価値が出ているだけで、
寺山や山田というネームを剥奪したところではありふれた民俗学的資料になる。

山田太一青年の文章から、のちの成功を予想させる輝きはまるで感じられない。
どう好意的に解釈しても山田太一は大学生時代、
当時どこにでもいそうなインテリ学生のひとりであった。
人並みに恋をして、人並みに失恋をした。大きな恋も、大きな失恋もしなかった。
好きだったマルキシストの女の人が
恋人の共産党員に処女をささげたという噂を聞けば、気持は動揺しまくりで、
しかし自分は論理的にはまったく破綻していないというようなことを、
文学作品を引用しながら親友モドキに論理的に書きつづる男の子であった。
事実関係を確認する。
最初、大学生の寺山修司は「兎(うさぎ)の目」をする石坂和子に恋をした。
山田太一は「豹(ひょう)の目」をするマルキシストのマヅルカ(国分)に恋をする。
が、そのうち寺山はマヅルカ(国分)のよさに気づき惚れるようになり、
山田は寺山の好きだった石坂和子に恋をして、大学卒業後数年を経て結婚する。
若くして世に出た寺山はその後、映画女優と結婚したが別れた。
晩年はハーレムの首長のようだったという。
その寺山ハーレムの第一位の女奴隷だったのが田中未知で、
本書は「山田太一編」となっているが実際に編集したのは寺山の女性盲信者である。
無名の寺山修司は石坂和子から愛されなかった。
有名になってから寺山修司はみながあこがれる映画女優と結婚した。
有名文化人になってからの寺山修司は、老いた映画女優はポイ捨て。
有名人のもとには若い女の子が近づいてくるものだが、
そのうちもっとも自分の奴隷としてふさわしい田中未知を重宝した(かわいがった)。
有名人というネームバリューは、若い女体とつりあいを保つのである。
しつこいが、人間関係は利害関係。「金、顔、肩書」が人生のすべてといってよい。
だからこそ「金、顔、肩書」ではない友情や純愛がこうも尊ばれるのであろう。

凡庸な山田太一青年はマルキシストの女性に精神的=盲目的な恋をしていた。
しかし、あるとき精神的なるもののうさん臭さに気づく。

「「わたしは一束の紙を眺めた。
それは一握りの毛髪よりも個性がなかった。
髪ならば唇や指で触れることができるのだが、私は精神には死ぬほど倦き倦きした。
わたしは彼女の肉体のために生きていたので、
彼女の肉体が欲しかった」(G・グリーン『愛の終り』)
僕は前に、これを読んだ時、これは観念的な無理をしている、
事実に反している、と思った。
失った女の髪――そんなものより、
手紙や日記の方が、ずっと僕を慰めるだろう、と思った。
しかし、今、僕は、よくわかる。僕は髪が欲しい。ワラエ、ワラエ」(P151)


ああ、大笑いしたね。学生時代の恋愛や友情には生活が入っていない。
生活とは損得関係、利害関係のことである。
利害や損得がないからこそ、学生時代の友情や片恋慕は美しいのだろう。
大学生の山田太一青年は寺山修司が好きな石坂和子を好きになった。
このことを山田は友人の寺山に嬉々として報告する。
親友の好きな女の人を好きになるほど、友情ごっこを体感できることはないのではないか。
以下、山田太一が寺山修司にあてた手紙。

「「わたし、口に出さずに、わかってもらうのが好きなのよ……」(『チボー家の人々』)
僕も愛していることを、口には出さずに三宮[石坂和子]さんにわかってもらいたかった。
その方が、あからさまに求愛するよりは君への罪が軽いように思えた。
銀座の田園[レストラン]はいっぱいだった。二時間いて出た。
ボワ[レストラン]へ行って小海老と牡蠣(かき)の料理を食い、
新橋まで歩き、品川で別れた。
「人はだれかに誠実であれば、
だれかを裏切らねばならぬ」(福田恆存『ホレイショー日記』)
僕は感傷的になって、何故愛してしまったのか、などと思った」(P167)


「金、顔、肩書」の利害関係ならぬ純粋な関係を一般的に友情や純愛というのだろう。
人が友情や純愛にあこがれるのはそういう理由からであろう。
それほどに人間関係というのは突き詰めれば打算的な関係に終始するともいえよう。
社会人になったら友情も純愛もまずないと思ってよい。
個人的な体験を話すと、会社の上司というのには本当に参る。
会社の上司、つまり権力関係上相手が上になるから人は人にヘイコラする。
しかし、そういう事情をわかっていない人は、年上の部下にプライベートの説教を始める。
この本を読め、この映画を観ろ、こう生きろ、おれの助言を聞け。
部下は上下関係上しぶしぶ従っているのに、
上はビジネスではなく友情関係かなにかだと思っている。
しまいにはあるイベントに年若い上司は年上の部下を誘う。
あくまでも自分は相手よりも上だから相手の事情など知ったことではない。
自分から誘っておいたくせに
直前まで相手に連絡せず相手の時間を目いっぱいに奪っても一向に構わない。
なぜなら自分は上司だからだ。相手よりも上にいるから、下の相手にはなにをしてもいい。
社会人になってからの人間関係などこんなものである。それが当たり前だ。
だから、そうであるからこそ、学生時代の友情や純愛は美しいのだろう。
友人関係も恋愛関係も一皮むけば利害関係(損得関係)にすぎぬ。
このため本書のような「女学生の交換日記」はいまとても美しく思えるのではないだろうか。

「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)

→大御所テレビライターの山田太一氏の最新エッセイ集を読む。
山田老人は食堂でむかしあった相席を懐かしく思い出す。
山田青年は相席で、他人の話を盗み聞きするのが楽しかったという。

「それほどくっきりしたものではなくても、他人の人生は面白かった。
学校の交際とはちがう世間を覗(のぞ)く機会が
その店の相席ぐらいしかなかったのである」(P105)


山田太一は他人の人生の面白さに敏感である。

「以前、筑豊から福岡まで乗ったタクシーの運転手(私と同じ齢だった)が、
俺の人生の楽しみは金を貯めてはフィリピンへ女を買いに行くことだと、
その体験を心からいつくしむように話し続けて、話がうまかったせいもあるが
次第に見上げるような気持になってしまったことがある」(P24)


「見上げるような気持」になるところがいい。
謙虚ぶっているわけでもなく、おお、
と思わず自然に他人を見上げたくなってしまうところがいい。
他人の人生は面白いが、自分の人生はどうだろうか。
いまの浅草を浅草を歩きながら、山田老人は思う。「現実は、つまらない」――。
浅草のどこかにいまはなき父の愛人でもいてくれて、
その人から生前の父の話でも聞けたらどんなに面白いと思うが、現実はつまらない。
しかし、いまの世界も老人にとってはそう悪いものでもない。

「もういくらも生きていないのだから、嫌いな人を好きなふりをすることも、
多少癖のように残っているだけである、
そのように人生から少し遠離(とおざか)ったせいか、
自然も人間も街も、細かな差違が気にならず、
すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
視野の広い感傷に溺れることができる」(P46)


80年の変遷を山田老人は裸眼で見続けてきたのである。
表面上の美醜や個性にとらわれない「視野の広い感傷」を
持ったっていいじゃないかと思う。
しかし、個別ブースに分かれたインターネットカフェにはさすがに感傷をいだけない。
むかしの相席の面白さを知る老人はインターネットカフェにゾッとする。

「ここまで一人一人かよ、と勝手な話だが、息詰まるような思いをした」(P106)

「ここまで一人一人」に現代の日本はなってしまったのである。
人間は一人一人孤独というむき出しの現実にどう対処したらいいのか。
せめてなしうることはなにか。それぞれが幻想をつくっていくしかない。
人はいろいろな幻想を支えにして生きている。

「……それぞれが、それぞれのやり方で
「究極の現実」にそっぽを向いて幻想をつくり出している。
そして、なんとか元気に生きていこうとしている。
むき出しの現実が力を露(あら)わにしたらひとたまりもない。
しかし休止期間がある。その間だけ、
きびしくなればたちまち吹きとばされてしまうような幻想をささえに生きている。
それを誰が笑えるだろう」(P68)


人間は孤独で、そして死から逃れられないという「究極の現実」がある。
だが、「ここまで一人一人かよ」という一人地獄からちょっと開放されるときがある。
見知らぬ人から微笑を送られたら、少しやわらかな気持にならないか。
ならば、どうして自分も人に穏やかに微笑みかけない。
微笑みかけられたら、次は手を差し伸べてみたらどうだろう。

「困っている人を助けることは、その人の日々も豊かにするはずだ。
「人に迷惑をかけない。かけられたくもない」
という生き方はそれぞれの孤独を深めるだけだ」(P220)


もちろん、親切がお節介にすぎないことも老作家はよく知っている。
善意の押し売りのような親切は迷惑だろうが、
その迷惑を受け入れなかったら、
「ここまで一人一人かよ」というようになってしまうのではないか。
けれども、山田太一は普遍性のあることをいわない。
微笑や親切は絶対に善であるとは思っていない。
いらいらしている人には他人の微笑がけったくそわるく感じられることが
あることにも気を配る。
幸福などという言葉は非常に普遍性の強い言葉といえよう。
山田太一は幸福はそれぞれがぞれぞれの流儀で感じるもので、
「幸福とはなにか」といったかたちで論じるものではないのではないかと主張する。
しかし、そういったそばからそれを否定する。

「どうせ幸福は理不尽不平等に散らばっているから、
自分が手に出来ない身近の幸福に圧倒され、嫉妬や不公平でつぶれないために、
感じる前に論ずる人が出てくるのも、
案外切実な生理に発しているのかもしれない」(P11)


幸福は感じるもので論ずるべきではない、といったような普遍的なことはいえない。
昭和41年の9月に山田太一は来日したサルトルの講演会に行ったという。
人生の転機のときだった。
映画会社の松竹を辞めて、テレビライターとして独立することを決めたころだ。

「大学のころはサルトル、カミュの時代で、
それから八年もたっているから熱気は薄れていたはずだが、
顔や声に接したかったのかなあ、と思う。
著者というものは、著作がよければよいほど会うとがっかりするものだと思っていたし、
顔を見たいなどという欲求はあまりないつもりだったが、
なんとか切符を手に入れて出掛けたのだから、
学生のころの「神」の力は大きかったのだろう。
ほとんどなにを聞いたか、これも忘れているが、
ヴェトナム戦争に反対しなければいけないというのが主旨だったと思う。
一つだけ残っているのは、普遍性を手に入れたなどと思ってはいけない、
手に入れたと思うような普遍性は大抵偽物(にせもの)だというような言葉で、
これはずっと説得力をもって私に作用している」(P101)


普遍性とは「すべての物事に通じる性質」のことである。
人間とはこうだ、人生とはこうだ、と決めつけるのが普遍性で、
その反対は、人生はそれぞれで人間もそれぞれだと認めることになろう。
人それぞれとはバラバラということだから人は孤独にもなろう。
人それぞれはバラバラで孤独だが、
そういう究極の現実にそっぽを向いてなんとかそれぞれの幻想をつくり出し、
そして、なんとか元気に生きていこうではないか。
人はそれぞれ宿命性のようなもののためにそれぞれ異なっている。
普遍性のようなものはなく、人はそれぞれだが、
そのそれぞれの宿命性を、差違を、
「視野の広い感傷」に溺れながら、すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
うららかに愛するような日が、たまにならあってもいいのではないか。

「それぞれが他の人間とはちがう限界と可能性を持っているからこそ、
人生は豊かにもなり、悲しくも苦しくも喜びにもなり、
陰影も深みも味わいにも恵まれるのではないだろうか。
誰かに文句をいいようもないそれぞれの宿命性は、
人間の持つ宝だと思う」(P240)


持って生まれた宿命は転換するのもいいのだろうが
(そもそも転換できるのならそれは宿命ではないことになるけれど)、
その宿命を嫌悪するのでもなく、闘って大勝利する対象とするのでもなく、
それぞれに与えられた宿命を宝として遇するという生き方もあるのだろう。
そうしたほうがいい、そうすべきだという普遍性の問題ではなく、
そういう生き方、考え方もあることを著者は示唆している。

むかしから孤独だったわたしにはひとつの夢があった。
だれかといっしょに代々木公園で開かれるナマステ・インディアに行くというものだ。
おなじ会社の東方無敗さんから誘われたのが嬉しかった。
26、27日はどちらも予定を空けておいた(ま、もとから暇人ですけれど)。
そうしたら、仕事が忙しいから行けるかわからないという。
おいおい、自分から誘っておいて、うーん、いや、わたくしごときはそのあつかいで十分。
むかし、いつかいっしょに行けたらいいねと言っていた女友達にも声をかけず
(その人もいまはとても忙しいし)、
犬のように健気に忙しい東方無敗さんからのご連絡を待っていた。
今日ようやく東方無敗さんといっしょにナマステ・インディアに行くことが正式決定。
いまから楽しみで仕方がない。どんな話をしようか。

暇人というか、暇が好きというか。
あるバイト同僚とディスカッション(おしゃべりすんな!)したとき、
わたしがもっとも大事にしているものは時間ではないかということに気づいた。
どこかで暇を愛しているところがある。
暇じゃなきゃお経(仏典)なんか読めないわけだし。
もしかしたらわたしはむかしからけっこうな信仰があるのかもしれない。
最近は来なくなったが、
むかしはよく知らない人から逢ってくださいというメールが来たものである。
99%逢っていましたね。
怖くないのか、と言われても、どこかで死んでもいいと思っているから。
べつにいきなりナイフで刺されてもいいし(ただし急所を突けよ=即死希望)。

基本的に逢いたいと言われたら断らない。
人の役に立ちたいからでも親切心からでもなく、人への好奇心からである。
他人の話はおもしろいのである。究極的には他人事だし。
いまの職場は本当に人がいい。
向こうから嫌われていることはあるだろうが(そもそも関心ないっしょ)、
こちらが嫌っている人はほとんどいない。
プライベートな話を聞きたいと思う人も多々いるが、
みなさま忙しそうなのでそんなお願いはできない。
ひとりだけ二度逢いたいと誘った人がいるけれど、ひとりだけだから。
二度とも断られたけれど、それは当たり前の話で、こちらにそんな価値はないから。
万が一にもいまの職場でわたしなんかと
プライベートで逢いたい人がいらしたらメールをくださいね。
ご近所さんが多そうだし。

さあ、ナマステ・インディアでこのブログのコメント欄常連の
東方無敗さんと乾杯するのだけを目標に、
明日も前向きに明るくがんばって仕事をするとするか。
いやあ、生きていたら夢ってかなうもんですね。
連休中にいまさらながらケストナーの「飛ぶ教室」を読んだ。
本当にいい本だった。
この本が大好きな河合隼雄が名著をこのように論じている。

「他人の判断やイデオロギーに頼ることなく、
われわれが何が正しいかを判断しようとするとき、途方もない困難に出会う。
しかしその困難に自らの存在を懸けてぶつかってゆくことこそが人生だと、
ケストナーは言いたいのだ」


ケストナーのみならず河合隼雄が言いたかったことでもあろう。
他人(幹部/仲間)の判断やイデオロギー(教義/世間体)に頼ることなく、
人が何が正しいかを判断しようとするとき、途方もない困難に出会う。
しかしその困難に自らの存在を懸けてぶつかってゆくことこそが人生である。
困難にぶつかってゆくことで「あなたの」「あなただけの」人生が始まる。
わたしは待っている。
あなたが途方もない困難に自らの存在を懸けてぶつかってゆき、苦しみ、
そしてひとり、ひとりぼっち、
だがありのままのあなたとしてわたしのまえにすがたを現わすことを。
わたしは待っている。わたしは信じている。
だれも読んでおられないでしょうが、ブログのコメント欄がいまひどいことになっている。
カオスではちゃめちゃ、なんでもあり、フリーダム。
「美香」って人の書き込みが多いけれど、あれはなんなの?
「美香」はNGワード設定しているのにどうして書き込めるの?
「美香」のホストを見ると、それぞれ違うのだから。
別人がおなじ「美香」というHNでコメントしている。
こええ、集団ストーカーかよ。
反対におなじホストでさまざまなHNで批判コメントをしてくるやつがいる。
本音を言えば、めんどくさっ。もうブログを終了したい。
鍵コメントで「死ね」とか言ってくるやつもいるのだから。
きっといじめって楽しいんだろうなあ。
人を追い詰め死に至らせる快楽。
なんで知らない人から「精神科へ行け」とか言われなくちゃいけないわけ?
でも、ご本人はご自分こそ正義と思っておられるはずで。
わたしは負けた。人生で大敗北した。
若僧からコメント欄で匿名で説教されるほど落ちぶれた。
小倉(東方不敗)さんさ、わたしのことが大好きなんでしょう(高飛車の上から目線)。
なら、どうして一対一で逢おうとしないのでしょうか? イヒッ、おれの弟子になれ!
いやあ、だれもわたしになんか関心はないとわかっている。
8歳年下からブログのコメント欄で人生指導されるのは、
もうおっさんはいやずら♪ ずらずら♪
善悪とは好き嫌いという見方もあるわけであります。
自分が好きなものはどうしてか正しく善なるものに思えてしまいます。
反対に嫌いなものは、感情の問題ではなく、倫理的に悪だと認識することが多い。
人生の最大の楽しみは大勝利にあるのではないか?
自分が嫌いな人を絶対悪だと認定して、
周囲と連帯してまさにスクラムを組んで悪を滅ぼすほど楽しいことはない。
孤独な悪人を善人同士が連帯して消滅させる愉楽といったらどうだ。
悪を連帯して滅ぼす快楽ほどこの世でうまみのあるものはないのだろう。
われわれは仲間だ。「わが仲間」たちに告ぐ。
あいつはだれにも相手にされていない極悪人だ。悪は滅ぼそう。消滅させよう。
やはり正義は勝つのである。
敗北者が自殺でもしてくれたら、こんな大勝利感覚を味わえるものはなかろう。
いいか、勝て、勝て、なにがあっても勝て。人生は勝負だ。
大勝利こそ人生の目的だ。ものども連帯せよ。仲間をつくれ。悪を滅ぼせ。
孤独な悪人が自滅したときの快感ほど、
われわれ正義の民にとって喜ばしいことはあるまい。
善人よ連帯せよ。悪ゆえ孤独な悪人を打ち倒せ。
悪が自滅したときこそ、われわれ正義が大勝利の喝采をあげるときだ。
インテリよ、われわれ庶民とその王者を舐めるなよ。
連帯の強さ、正義のパワーは果てしない。
どれほどバカにされようともわれわれは先生を慕ってスクラムを組もう。
大勝利はいい。大勝利は楽しい。大勝利こそ正義だ。大勝利を目指そう。
もしかしたらきちがいでクルクルパーかもしれなく、
毎日中学生でも考えるようなことに(高校生になったら卒業するようなことに)
あまたを悩ませているともいえよう。
いわゆる「ふつうの人」の考えていることがよくわからない。
わからないことには興味をおぼえるから、それを知りたくてこうして生きている。
もしかしたら多数派の人の生きている理由って人の役に立ちたいからではないか。
女は人の役に立ちたいから、(金銭的心理的)条件はあるにせよ相手に身体を与える。
男は人の役に立ちたいから(そういう幻想のもとに)、会社に勤務し社会活動をする。
多くの人はだれかの役に立ちたいから生きているのではないだろうか。
恋愛しかり、家族しかり、労働しかり。――よくわかりませんけれど。

※役に立ちたいは必要とされたいと同義(おなじ意味)である。

当方は他人さまの役に立ちたいという願望が極めて弱いのかもしれない。
だれかを善導(教導/おしえみちびく)しようなんざ、さらさら思っていない。
しかし、そういう人もいていいと思うのである。
人の役に立ちたい人がいてもいい、というか、そういう人にこそ大感謝すべきだ。
いまわたしがこうして生きていられるのは、
人の役に立ちたい人たちのおかげといってもよいだろう。
ならば、わたしも「人の役に立ちたい人たち」の役に立っているのではないか。
あまのじゃくなガキくさいお子さま理論を振り回してみました。ごめんなさい。
国籍や知性などの問題(関係)で言語で意思伝達できない相手には身体表現しかない。
自分の思っている感情をうまく相手に口頭で伝えられないときは、
しかしけれども、そうであるにもかかわらず、
人間は身体表現をすることで相手に自分の気持を伝えることができる。
言葉の世界(=言論)に生きていない庶民は身体表現をたいせつにすると思われる。
肩をたたいたり、腰を突いたり、自分からおどけたり、わざとキックするふりをしてみたり。
自分というのは意識であり、しかし同時に身体でもある。
意識はどこまでも孤独だろうが(人はわかりあえない!)、
身体では人と接触できるという(孤独でなくなるという)
希望がもしかしたらあるのかもしれない。
憎しみからの暴力も愛からのハグも、あるいは根をおなじくしているのではないだろうか。
殴らないと伝わらない気持がある。
自分のいまの気持は相手を抱きしめるということでしか表現できない場合もあるだろう。
言葉が通じなくても人間には身体があるのかもしれない。
言葉を発する器官である口と口を接触させる接吻(せっぷん/キス)という行為は意味深い。
意識は孤独でも身体でなら、多少は孤独をまぎらわせることができるのかもしれない。
インテリぶっておかしな考察をして笑っちゃうね。
人と人の関係は「話したい」ではなく「触れ合いたい」もあるのだろう。
そういう関係をベタベタしていると嫌う孤独な少数派もいるかもそれないけれどさ。
大丈夫。大丈夫だから。絶対、大丈夫。
正義は最後に勝利をおさめ、悪人(悪役)は負けて追放されると決まっている。
悪が強ければ強いほど正義は大勝利をおさめることができるだろう。
かつて悪のために苦しんで失脚していたものも、
かならずや悪が敗れ去ったあとは、
彼こそ、彼女こそ正義の味方だったと周囲から大絶賛され復活(復権)し、
以前よりも地位が上がるのは間違いない。
悪(悪人/悪役)のためにひとたびはすがたを消した女性は、
かならずやジャンヌ・ダルクのように輝きを持った存在として復活するだろう。
しつこいけれど、大丈夫だから。正義は絶対に勝つから。
正義が悪を打ち負かし大勝利するという物語は、ある意味とても「正しい」。
悪は絶対に敗れ、その世界からすがたを消すと決まっている。
悪はかならず消え去るから大丈夫、安心していい。
ほんものの悪役は「おれこそ正義だ」などと言わずに、
ジタバタせず、悪人として悪人のまま自然にまかせ、
つまり正義に打ち負かされ消え失せるものだと思う。
なぜかそのように思う。なんだかそんな気がしている。だから、大丈夫。安心していい。
悪人は正義の大勝利の合唱のかげで、
ひとり孤独に静かに「だれにも相手にされず」息を引き取るから大丈夫。
「あの人と、「酒都」放浪 日本一ぜいたくな酒場めぐり」(小坂剛/中公新書ラクレ470)

→一流の読売新聞のお偉いさんであるインテリ記者が、
一流とされる権威どころと大衆酒場をまわったルポを本にしたものである。
取材費もふんだんにあったと思われ、ほんとうにいい本になっていたと思う。
この居酒屋ガイドを真似て酒場めぐりをするものも多数現われるのではないか。
なにせ一流新聞の主任記者が一流先生のすすめる居酒屋に行った報告である。
まったく自分のあたまで考えられない新聞愛読者のような大衆は、
まさにまさにまさしくこういうガイドブック(案内本)を求めているのであろう。
大多数の人間にとって、「他人の評価」がすべてである。
人生でもっとも価値のあるものは「他人の評価」だ。
「他人の評価」を真似て他人の快感を模倣して味わった気分になるのが一般大衆だ。
これは◯◯先生がこうほめていたからいいのよねえ、
と「他人の評価」を再体験するのが目的のために生きている人が大勢いる。
きれいごとをいえば「他人の評価」なんてどうでもよく、
自分の味覚にこそ真実はあるのだが、そういう態度は近所迷惑を起こす。
人生で「他人の評価」こそたいせつなものはないのである。
「他人の評価」の高い会社に勤めているものは偉い。
作家にとっては「他人の評価」たる文学賞をいくつ取ったかが人生の勝負だ。
多くの人の生きる目的は「他人の評価」を得るためだといってもよかろう。
「他人の評価」がすべてだ。自分の考えなんて持つな、言うな、抹殺せよ。
自分ではなく他人を生きろ。「自分の評価」がなんになる?
「他人の評価」を求めるのが人として「正しい」生き方だ。

本書でグッときた箇所を紹介したい。
エリートの読売新聞記者が、居酒屋評論の大御所、太田和彦氏と一流居酒屋に行った。
やはり一流の人は一流で記者さんは
大御所おすすめの「えびしんじょう」を口にして「本当のこと」をいってしまう。
「おいしいですね。豆腐コロッケみたい」
居酒屋評論の天皇陛下、最高権威の太田和彦氏は読売記者をあざ笑ったという。
「豆腐コロッケみたいのと比べられちゃ困る。エビだよ、エビ!」
世間では「他人の評価」が絶対的に「正しい」と思っていたほうがいい。
豆腐なんかよりもエビのほうがうまい、価値があるというのが「他人の評価」だ。
世の中というものは「他人の評価」が網(あみ)のようにはりめぐらされており、
なるべくならそれに逆らわないほうが自分もまた「他人の評価」を得られる。
一流居酒屋エッセイの本書から学んだのは「他人の評価」こそ「正しい」ということ。
世間でおいしい思いをしたかったらゆめゆめ「自分の評価」などするなかれ。
すべて「他人の評価」に従って他人のあたまで考え、
他人の目でものを見て、他人の耳で情報を聞き、そしてそして、
いかに他人の舌で酒をのみものをくらうかがこの世で勝利するためのテクニックである。
「えびしんじょう」を食べて「豆腐コロッケみたい」といってはならない。
エビは豆腐よりも偉いしうまい。なぜなら「他人の評価」がそうだからである。
「自分の評価」など捨てろ。「他人の評価」に盲目的に従え。
じつにいい人生指南書を読んだという満足感でいっぱいだ。
酒好き必読の書。ここに正義が書かれているから、あえていいたい。絶対に読め!

いまのアルバイト先で長所といえば社員、バイトを問わず名前を記憶していることだろう。
国籍男女を問わず名前があたまに入っている。
自分でも恐ろしいところは、フルネームで覚えている人が多いことか。
名字だけではなく名前までチェックしている。
人間嫌いのおまえがどうして? ほんとうは人が好きなの? って話だが。
名前に「伸一」とかついていたら一発でばれることがあるよね。
「雅(みやび)」もあれな名前なんでしょう? 
「千聖」は「城聖」を思わせるいい名前だよねえ。
「~介」なんて同世代でつけられている男性はレアだが、それでわかることもある。
名前は親の意志だから、名前を見たら親のあれがわかるのである。
キラキラネームが親のDQNぶりを示すようなもの。
脚本家がけっこう困っているのは、ドラマ登場人物の名前らしい。
うまい名前をつけないとその人物を愛せない。その人が動かない。
もう死期が近づいているような気がする、いいおっさんがたわごとを書いてみる。
たとえば、人を好きになる。じゃあ、どうしたらいいのか。
相手の利益になることをするしかないわけでしょう? 相手の欲を満たす。
さすがにお金をげんなまで渡すのは常識がない。
相手の行きたいところへ連れて行き、高いものをご馳走する。
なんのためかといったら、相手の衣服を脱がすためといえなくもない。
しかし、見たらがっかりもありうる。というか、いまはすべて予想がつく。
わかりあいたいという願望があるのかもしれない。
でもさ、人間はわかりあえないじゃありませんか。
むしろ、それこそ対人関係の希望というか。わからない。
この感情はなんなのかわからない。たしかなのは、もうすぐぜんぶとサヨウナラ。
いまの書籍倉庫に時給850円で働きはじめたとき、夢というものがあった。
いつかむかしから好きだったテレビライターの山田太一さんの本をこの手で世に出したい。
先週の金曜日のことである。
アルバイトに行くまえに11時間かけて視聴した山田太一ドラマ「もうひとつの春」
の感想を遅刻ぎりぎりまで書いて家を出た。
そうしてアルバイト先に行ったら、間口(持ち場)に山田太一の本があったのである。
岩波書店の「寺山修司からの手紙」(山田太一編)はわたしが出した。
135冊、破損もミスもなくわたしの手で全国へ送り出した。
本来はいけないのだが、いけないと知りつつ立ち読みもした。
大学時代の山田太一さんの恋バナをチラ見して恥ずかしくて笑えた。
マルクス主義者の女性Aさんを好きになって、
その恋人もマルキシストで太刀打ちできないと思ったとか、
ああ、恥ずかしい、恥ずかしい、笑える、笑える、青春は恥ずかしくて笑える。
いまわたしはバイト先の複数の女性を好きだが、それは独占欲ではなく、
偽善的かもしれないが、それぞれが人生うまくいってくれたらいいなという願望だ。
いつか山田太一さんの本をこの手で世に出したいと思って、
いまの職場に入った。ようやく夢がかなった。夢がかなった。
もういいや。もういい。夢がかなったから、もういい。サンキュー、グッバイだ。
いつからだか覚えていないがニュースをまったく見なくなった。テレビの話である。
いつからだろう。少なくとも今年に入ってからはそうだ。
さすがにいけないのではと思って、さきごろちょっとネットニュースを見た。
また戦争が起こるようなことが書いてあった。
なまかじりの知識で、そうなんでしょうとある人との会話で言った。
そんなことはない、そんなことはない、と言われて、まったくそうだと思った。
いまの若者が戦争になんか行くはずないじゃない。
あれは左翼メディアがあおっているだけ。ああ、そうか、と思った。
大衆の味方というのが売りのマスメディア(テレビ、新聞)は敵(悪)を必要としている。
左翼は右翼を必要としているし、右翼は左翼を必要としている。
いうなれば、左翼と右翼は共依存の関係にある。
正義は悪を必要としているし、片一方の悪は自分こそ正義だと思っている。
これもいうなれば共依存の関係である。
群れて一致団結し連帯感を得るために敵役(かたきやく/悪役)は必要なのである。
創価学会がもっとも感謝していいのは、
ライバル(というには弱小すぎる)日蓮正宗の日顕ではないか。
敵役(悪役)を倒したら物語が終わってしまうのである。
悪役(敵役)を追放したらドラマは終了である。
人生は劇ともいえるから天から悪役を割り振られたら、その役をうまく演じるしかない。
悪役はさみしいが、演じがいがないといったら嘘になろう。
憎まれ役を集団が必要とするなら、だれかがさも悪人ぶってやらなければならない。
もっとも正義に貢献しているのは悪役だろう。
悪役の手本、見本は東条英機で、
あのように憎まれながら沈黙をつらぬき消えていくのはなかなか難しいのではないかと思う。
シナリオで二度読んだことのあるものをジェイコムにて視聴する。
平成13年(2001年)にTBSで放送された単発ドラマである。
5年まえに男をつくって家族を捨てて駆け落ちした倍賞美津子が、
3年まえにその男にも死なれ、尾羽打ち枯らして(落ちぶれて)、
家族のところにすがたを現わせる。
娘はもう結婚していて小さな子がいる。息子は葬儀会社に就職が決まった。
女房に逃げられた長塚京三はひとりぼっちである。
まえから何度も書いてきたが、山田太一ドラマのテーマはいくつもあるが、
主要テーマは人間の孤独である。
エゴイズムを突き詰めると人間は孤独になるが、孤独はさみしい。
先日見た山田太一ドラマ「もうひとつの春」の主題歌は脚本家が歌詞を書いていた。
その一節で記憶に残ったのは「ひとりとひとり、あっちとこっち」というものだ。
お互いひとりはさみしく、まさにあっちとこっちの国境があるように、
人間はそれぞれ分断されている。これをどうしたらいいか。
ドラマ「再会」では結局、
ひとりの長塚京三のもとにかつて不義理を働いた倍賞美津子が戻ってくる。
決め手になった長塚京三のセリフはこうである。

「お互い一人だ。年のとった」
「淋しくないならいい」


お互いひとりでさみしいから、年を取った男女はよりを戻すのである。
恋愛とか家族とかいまいちよくわからないところがあるけれど、
あれはみんなひとりでさみしいから行なう幻想的行為なのかもしれない。
「ひとりとひとり、あっちとこっち」で人はさみしいので、
恋愛ごっこしたり、家族ごっこをするのかもしれない。
「会社の顔」(ペルソナ)ではなく、
少しでも「本当の自分」に近い顔を出したいという願望もあるのだろう。
恋愛したらさみしさは多少薄れるが、今度は相手からの干渉が待っている。
「彼氏なんでしょ。もっと逢ってよ」「おまえもおれの彼女ならこっちの都合を考えろ」
家族がいたらさみしさは多少薄れるのだろうが、恋愛同様、いやそれ以上の干渉が待つ。
「お父さんはもっとお父さんらしくして」「お母さんがそんなことしていいの!」
子どもはどのみち思うようには育たない。
しかし、だれかといっしょにいるとさみしくないから恋愛や家族はいいのだろう。
「ひとりとひとり、あっちとこっち」でさみしくてたまらないから、
みんな恋愛をしたがり、家族にあこがれを持つのだろう。
テレビは恋愛ドラマやホームドラマを放送して、大衆の目標を示してやる。
とりあえず恋愛をしとけ。家族はいいぞ。
その裏にある本音は「ひとりとひとり、あっちとこっち」の孤独はさみしすぎるということだ。

「ひとりとひとり、あっちとこっち」はさみしい。
しかし、これは人間の本当のすがたと言ってよい。
「本当のこと」から逃れたくて、人は恋愛をして結婚して家族をつくる。
しつこく「本当のこと」を繰り返せば、人間は「ひとりとひとり、あっちとこっち」にすぎぬ。
テレビライターの山田太一は「本当のこと」からいっときも目を離さず、
どこか醒めているともいえる、名もなき庶民の恋愛ドラマ、ホームドラマを書いた。
「ロミオとジュリエット」は書かない作家であった。
会社は金を稼ぐ場所だが、なかにはさみしいから会社に行く人もいるのだろう。
むろん、山田太一がよく知っていたことである。
人間のあらゆる行動の根源にあるのは
「ひとりとひとり、あっちとこっち」でさみしい――孤独の感情なのかもしれない。
山田太一ドラマばかり見ているとそんなことを考えさせられる。

(関連記事)
「再会」(山田太一/「テレビドラマ代表作選集2002年度版/日本放送作家協会)
「再会」(山田太一/「月刊ドラマ」2002年3月号/映人社)
昭和50年(1975年)にTBSで放送された全13回の連続ドラマをジェイコムにて視聴。
50分×13回だから約11時間。
放送されたのはたしか去年のはずだが、いままで見る時間がなかった。
いざ決心して見たら見たらでおもしろくて、泣いたりわめいたり叫んだり、
要約したら「山田太一ドラマはすげえ」という感動を十全に味わったしだいである。
昭和50年といったら、こちらが生まれる1年まえだが、おもしろいものはおもしろい。
ボキャブラリーには自信があったけれど、「お持たせ」という言葉は知らなかった。
相手の家を訪問するとき、食品の手土産を持っていく。
それをその客にそのまま出すこと、出したものを「お持たせ」というらしい。
「つんぼ桟敷」くらいの言葉は知っていたが「お持たせ」は初耳だった。
このドラマはいまの自分が見るのにもっとも適していると思うくらい
わが現状とタイムリーにリンクしているところがあり、
どんなドラマにも見るべき「とき」があることを知る。

「もうひとつの春」は山田太一らしいひねくれたドラマである。
ふつう春というと華々しいイメージがあるのではないか。
少なくとも冬よりは春のほうがプラスのイメージがあるだろう。
しかし、このドラマの春は一般的に明るいそれとは異なり、まこと暗い話なのである。
見ていて何度も胃がきりきり痛くなった。
ドラマの最初で変化が訪れる。ある会社が倒産するのだ。

主人公のひとりは50歳の男性(小林桂樹)。鉄鋼工場の現場主任。
技術一筋の現場主義で27年間働きつづけたじつに男らしい人物である。
この50男を慕う同工場勤務の20代前半の若者がいる(小倉一郎)。
若者の父親は3年まえに蒸発しており、いまは母とふたり暮らしで共稼ぎである。
父親がいなくなった若者は男らしい男にあこがれているところがあり、
このため仕事一筋の工場の現場主任を勝手に尊敬しているのである。
50男がどのくらい男らしいかというと、態度の悪い工員をよく殴りつけるのである。
おれは27年間、この会社でまじめに働きつづけた。
きちんと働かない生意気な工員は本人のためにも殴りつけ矯正してやったほうがいい。
ところが、ある日突然に会社が倒産してしまう。
こうなると上司も部下も、なんにもなくなってしまう。
若い工員たちはどうするか。復讐をするのである。
むかしぶん殴られた仕返しに工員たちは50男をボコボコにする。

これってかなりすごい「本当のこと」を描いているのではないかとゾクゾクした。
会社というのは組織であり、組織というのは上下関係である。
組織は上下関係がなくてはうまく回転しない。チームワークも実相は上下関係だ。
上下関係とはどういうことか? 上は下になにをしてもいいのである。
いまはパワハラとかいう言葉があるけれど、あんなものはきれいごとでしょう?
どこの会社だって暴力沙汰に近いことはけっこうあるような気がする。
会社のなかでは上は下を殴ってもいいのである。おとがめはない。
ここまでは一般常識の範囲内だろうが、もし会社がなくなったらどうか?
あるいは下のものが会社という組織を離れたらどうか?
このときかつて殴られた上を殴り返せるやつと、
会社の外でも上司にあたまが上がらないものにわかれる。
大半は後者ではないかと思われる。
「会社の顔」(ペルソナ)が自分の顔になっており、
いまは上下関係もない人にもどうしてかペコペコしてしまう。
「もうひとつの春」で50男をボコボコにする工員はじつに男らしく格好いい。
群れてひとりの男を殴るのはちょっとどうかと思うが、
それでも会社が倒産しても上司にビクビクしているようなやつよりもよほどいい。

50男を慕っていた若者(小倉一郎)は、
小林桂樹が若い工員など蹴散らすのではないかと期待する。
ところが、50男は無抵抗に殴られているだけだ。
これではあんまりだと思って若者はかつての上司を助けようとするが、
逆に小倉一郎も小林桂樹といっしょに工員たちから制裁を受ける羽目になる。
これが縁となって若者と50男のあいだにプライベートの交流が生まれる。
この疑似父子関係がドラマ「もうひとつの春」の主軸といってよい。
山田太一ドラマがゾクゾクするほどリアルなのは、作者が意地悪だからだろう。
若者はあっさり就職が決まるが、50男には仕事がない。
仕事がなくなった無職の50男を若者は、
そう思ってはいけないと思いながら思ってしまう。
あれだけ堂々としていた男らしい小林桂樹だが、仕事がなくなったら「みすぼらしい」。
会社人間は「会社の顔」しか持っていないのである。
会社人間は「会社の顔」で家族関係も親戚づきあいも友人交際も押し切ろうとする。
「あなたはどこの会社に勤めているか」で男というのは階層(身分)が決定するのである。
いい会社に勤めているものは偉い。会社組織のなかで上にいるものは偉い。
近所づきあいもふくめて世間は「会社の顔」で渡っていくことができるのである。
逆にいえば、会社から離れた人はどんな威厳も持ちえない。
ひとたび会社をクビになったら、だれもその人を相手にしてくれなくなるようなところがある。

かつてはとても偉そうだった勤続27年のパワハラ50男は、
「支店長代理」という肩書をもらって小さな焼き鳥屋に勤め始める。
男は仕事だ。男は仕事をしなければならないからだ。
とはいえ現実は「支店長代理」といっても、焼き鳥のお土産の売り子である。
工場では仕事ができた50男も、焼き鳥屋となると客寄せの言葉ひとつ出てこない。
50男はおそらく大卒だが、
焼き鳥屋のいかにも低学歴そうな年下の先輩にいびられまくる。
おまえ、こんなこともできないのかよ。
明らかに向いていない仕事なのだが、小林桂樹は辞めようとしない。
仕事ができない50男は女主人からも年下の小僧からもバカにされまくる。
現実は、こんなものなのである。
いま大会社の部長だって、いざ販売業の売り子をやらせたら手も足も出ない。
威厳があり部下に暴力を振るった男らしい男も、
慣れない仕事に就いたら年下の小僧や
女風情(*放送当時は女性差別がありました)から嘲笑されクズあつかいを受ける。
かつての部下だった若い小倉一郎は早々とスーパーに就職が決まったが、
若者はかつての上司が焼き鳥を売るすがたを見て辞めてくださいと言いたくなる。
しかし、こんなものなのである。人間はこんなものなのである。

不況のあおりを受けて50男は焼き鳥屋さえクビになってしまう。
努力して独自の売り方を考案しつつあったのだが、それでもクビになってしまう。
あれ? 努力したら人生うまくいくんじゃないの?
しかし、人生はこんなものなのである。こんなものなのである。
50男は数年まえに妻を亡くし、いまは娘とふたり暮らしである。
ちょうど男の夢、マイホームを建てたところであった。
かなり大きな家だが、二階は娘が結婚したらそこで暮らしてくれたらいいと思っている。
ところが、娘が結婚したいと言いだした相手の男はミュージシャンなのである。
仕事一筋でまじめな50男の小林桂樹がいちばん嫌いなタイプの若者である。
ミュージシャンが「お嬢さんをください」と言いにくる。
むかしだったら強く出られた50男もいまは無職である。失業者だ。
いっぽうのミュージシャンはいまとても羽振りがいいようだ。
若僧から「仕事を紹介しましょうか」と舐められてしまう50男である。
いいか。男というのは仕事だ。肩書だ。いくら稼いでいるかだ。
そうだとしたら、このミュージシャンのほうが自分よりも上ではないか。
しかし、よりによって娘はこんな男と結婚したいというのか。
「親か恋人か」というのも、このドラマの時代を反映させるテーマである。
現代でも親が反対する結婚なんてあるのだろうか?
しかし、当時はひんぱんにあったようで「親か恋人か」はドラマの重要なテーマになった。
小倉一郎も母親に恋人との結婚を反対され、「親か恋人か」で葛藤している。
なぜ母親が息子の結婚に反対するのかといったら、
水商売をしてきた娘さんだからである。

50男はさんざんな目に遭う。
勤続27年の会社が倒産し、焼き鳥屋もクビになり、そして娘が恋人と駆け落ちしてしまう。
おれの人生はいったいなんだったんだ。おれは正しく生きてきたではないか。
まじめにこつこつひとつの会社で働き、結婚して娘を育て、マイホームまで建てた。
それがどうだ。これが人生というものか。
いまは職も家族もない、近所の主婦から陰口をたたかれる一介の失業者に過ぎぬ。
いや、男は仕事だ。男は仕事をしなければならない。
小林桂樹は営業の仕事をかつての部下に世話してもらう。
見たこともない別荘地を口八丁手八丁で売りさばく飛び込み営業の仕事だ。
そこは軍隊式で売り上げの棒グラフが貼られ、
上司は暴力的に仕事のできない社員を締め上げる。
この軍曹のような上司さえ完全な悪人として描かず、
ある面では人情味のある人物として描くのだから、山田太一の人間描写はすばらしい。
仕事ができない小林桂樹は鬼軍曹から虫けらのようなあつかいを受ける。
もういやだ。おれという男にもプライドがある。
娘も自分は自由だといって男と駆け落ちした。
焼き鳥屋では懸命に努力した男らしい小林桂樹だが、営業の仕事は1日で辞めてしまう。

どうも現実味がないのだが、50男は家を売った金で、
親しくなった小倉一郎の母親とスナックをやろうなどと考え始める。
そこに会社と家族を捨て蒸発していた小倉一郎の父親が帰ってくる。
男と男、差し向かいで話してみると、たしかに落ちぶれてはいるが、
自分とは異なる味のあるいい男といえなくもないのである。
なんにもない小林桂樹はスナック経営もあきらめ(小倉一郎一家に託し)、
自由律俳人の山頭火のように放浪の旅に出る。
まじめに会社のために働いても、人生こんなもの。
まじめに家族のために働いても、人生こんなもの。
「もうひとつの春」は「男はつらいよ」よりもよほど「男はつらいよ」をうまく描いている。

なにしろ11時間もあるドラマだから、
いろいろ論じることができるがいまこちらの時間がない。
ひとつ気になって、これだけは指摘したいというのは、人が人を好きになるということ。
自分の好きな女がべつの男を好きだったら、そのとき男はどうすべきか。
小林桂樹は小倉一郎の母親に惹かれているけれど、旦那が帰ってきたので身を引く。
小倉一郎の友人が好きなのは小倉一郎の恋人である。
だが、女が小倉一郎のことを好きなのを知り友人は自分の気持を抑制する。
好きな人に好きな異性がいたら人はどうすべきなのか?
その人を本当に好きだったら、その人の「好き」を尊重するのではないか?

さて、結局、人生なんてもんは仕事、結婚、育児、家族くらいしかないのである。
人間、ほかにすることもないから仕事をして、結婚して、子づくりしているとも言いうる。
まあ、みんながしているし、大衆はほかにすることもないからねえ。
結果として仕事は善、結婚は善、子育ては善、家族は善ということになっている。
人は仕事をすべきだ。人は結婚すべきだ。人は子育てすべきだ。家族はいい。
みんなまあよくやっていると思うし、
そういう庶民のほかにすることもないし、
というどうしようもなさを山田太一はじつにうまくドラマに仕立てあげる。
「相手の幸福」と「自分の幸福」のはざまで悩みながら生きていく庶民の美醜を、
山田太一は本当に巧みに描写する。
山田太一は庶民のドラマを描いているが、庶民とは金である。
「もうひとつの春」では金を渡すシーンばかりが目についた。
これはこちらがことさら金に敏感だからではなく、
実際に金をやりとりするシーンがとても多いのである。人情とは金だ。現実は金だ。
「人生は金だ」と描いたら本当に近くなることをドラマ作家は熟知していた。
金をほしがるのも庶民だし、あえて金をこばむのも庶民である。

11時間かけて見たドラマの感想を1時間半で思いつくままに書いた。
読み直していないので誤字脱字は山のようにあるだろう。
まあ無報酬で書いているし、テレビドラマの感想ならこの程度でいいと思う。
「週末アジアでちょっと幸せ」(下川裕治・ 中田浩資/朝日文庫)

→ネパールに行って1ヶ月くらいぼんやりしたいなあ。
ルンビニーに3日いたことはあるけれど、カトマンズやポカラは行ったことがない。
ネパール人はインド人ほどきつくないってよく聞くし、
ぼんやりするのに飽きたらネパールのタマン族について調べてみたい。
ネパールに行きたいけれど、そんなことは無理なので、代わりに旅行記を読む。
優秀な旅行ライターの著者が週末短期アジア駆け足旅行をルポするというもの。
台湾の秘湯の温泉に入って「天国」とか書いていたけれど、
あれはウソなんだろうなあ。
仕事で駆け足の旅行をして、目的地の温泉に入ったって、それは仕事なんだから。
著者は若いころに1年かけて世界をまわった、
あの無目的の旅だけがほんものであったと本書で何度も述懐している。

「旅の充足というものは人ぞれぞれなのだろう。
しかし一回、長い旅をしてしまった人は、週末にアジアの大都市へ行き、
名物旅行を食べるパッケージツアーのような旅の前で足が竦(すく)む。
それはそれで、国内旅行のような乗りですごせば楽しいだろう。
しかし、週末の旅であっても、
あの体がとろけるような旅の時間に浸(ひた)ることができたら……」(P114)


果たして著者は週末アジアの旅で「とろけるような」身体愉楽を得たのか。
おそらく、スケジュールに追われての、
ただただ仕事としか感じない旅であったことと思う。
しかし、仕事だからあまり「本当のこと」は書けず、
さも満足したような偽りを書かなければならない。
大人の仕事とはそういうものであるから仕方がない。
大人の著者は沖縄の離島で、子どもの書いた立て看板を見て感動する。
ふつうなら「スピードのだしすぎに注意しよう」とか書いてあるあれである。
沖縄の離島では、そうではなかった。
よほど心打たれたのか、この看板の写真が文庫本の扉に使われている。
さてと、なんと書いてあったのか。208ページより。

「遊ぶのは 楽しすぎて たまらない」

遊びではなく仕事で楽しくもない駆け足の週末旅行をしている著者は、
子どもの書いた「遊ぶのは 楽しすぎて たまらない」にドキリとする。
この子どもの感覚を失っていないから、著者の仕事は仕事だが、
どこかに遊びが入った仕事になっており、
下川裕治氏もこの仕事が嫌いかと問われたら、それほどでもないと答えるのではないか。
旅行記を読むのは仮想体験である。あーあ、ぼくもどこかへ飛び立ちたい……。

「どうせ死ぬなら「がん」がいい」(中村仁一・近藤誠/宝島社新書)

→日本人のふたりにひとりはガンで死ぬ。だが、ガンにならない方法がひとつだけある。
ガン検診を受けなければガンにはならない。
末期ガンで発見されたら、残りの寿命を楽しめばいい。
なぜなら抗ガン剤を使ったガン治療は死ぬほど苦しいし、寿命も延びないからである。
データはじつのところごまかしがあると近藤医師は指摘する。
患者が医者をかえるなんてよくあることでしょう?
このとき抗ガン剤使用グループは、データに消息不明とカウントする。
しかし、抗ガン剤不使用グループが消息不明になったら、
消息不明ではなく死亡としてデータにカウントするらしい。
このためデータ(医療用語でエビデンスという)のうえでは
抗ガン剤を使用したほうが長生きできるような錯覚を医者も患者も持つにいたる。
長生きできたといっても抗ガン剤の副作用で
ボロボロになりながらではあるが、そこは隠す。
ガン治療を必要としているのはガン患者ではなく、
医療サイドではないかというのが本書の斬新な指摘である。
近藤医師は「本当のこと」を言い放つ。

「実は彼ら[専門医]も[ガンの]外科手術の価値を疑っているんだけど、
単に仕事を失うのがこわいのかもしれません。
「メスを握ってこその外科医、手術がなくなったらなにをすればいいんだ」と。
医者の世界には「自分の治療を生き延びさせたい」
「いま握っている利権、役得を手放したくない」という、
土建業界みたいなところがあります」(P69)


「経済的利益に裏打ちされた偏見が、一番正しにくいと言われています。
コペルニクスやガリレオの地動説も、
教会は教義が崩れるから絶対に認めなかったでしょう。
「抗がん剤は9割いらない」となったら、
世界中の医者の仕事が一気に減りますよ」(P89)


勤行(ごんぎょう)と功徳(現世利益)や仏罰は関係ないと「本当のこと」を言ったら、
創価学会の本部職員や幹部が食い詰めてしまうが、
それとは関係なく人間は「本当のこと」を知ればいいのかという問題もある。
抗ガン剤治療は身体的にはきついのだろうが、医者やナース、家族、
みんなでいっしょに連帯して闘病しているという昂揚感覚は、
あんがいなにも治療をしない孤独な不安感よりもいいのかもしれない。
しかし、また「本当のこと」を書くと、ガン治療を患者に熱心にすすめている医者も、
いざ自分の家族がガンになるとがらりと態度を変えると近藤医師が証言している。
まあ親類や親友に医者がいない一般人はいまのままでいいのではないか。
いまの健康保険制度がつぶれるまでは――。

「病院は手術や抗がん剤治療・放射線治療を、すればするほど利潤があがります。
患者・家族には、主治医の治療方針に従わないと
診察してもらえなくなるなるのではないか、という恐怖がある。
一方でマスコミが「がん難民」などと言って
患者の恐怖心をあおって販売部数を上げようとする。
また患者やその家族は、外科手術、抗がん剤治療、放射線治療を
受けることでがん保険金の支払いを受ける。
そして保険会社にとって、がん保険はドル箱です」(P118)


ああ、そっかあ。民間のガン保険に入っていたら、治療を受けなきゃ損だって思うわ。
なーんかガン保険に入るとガンになる確率が高まるような気がするけれど、
だれか果敢にも調査した人はいないのだろうか?
いままで慶應大学の近藤医師の言葉ばかり採録してきたが、
これでは権威主義のように思われかねないので、
町医者以下の老人ホーム医師の中村先生の名言を紹介させていただく。
これはガンのみならず医療全般、人生全般にいえることだろう。

「エビデンス[データ]があるといったって統計上のことであって、
個人がどうなるかということとは別問題ですよね。
医療は「不確実性」のものですから、結果はやってみてのお楽しみなんですよね。
前にも言ったように、医療は一種の〝賭け”〝命を担保にした博打”とも言える。
人事を尽くすのはいいけれど、最後はやっぱり「天命にお任せ」です」(P169)


けれど、天命にお任せすることができず、
最後の最後になると新興宗教にすがるものもいるのだろう。
創価学会に入って功徳(財務5百万)を積んだらガンくらい治るかもしれないわけだし。
まあ治らなかったら、そこは信心が足りなかったということで。
あんがいガン治療に大金をつぎ込むのって、
新興宗教に高額納金するとのあまり変わらない行動なのかもしれない。
みんな死にたくないんだなあ。
きっとネクストがあるから、そんなに怖がらなくてもいいのにと個人的には思う。

「~果てしない孤独~  独身・無職者のリアル」(関水徹平・藤原宏美/扶桑社新書)

→スネップをテーマとした本。スネップとは造語で、孤立無業者のこと。
もっと正確に言えば、20~59歳の独身で友人も恋人もいない無職の孤独な人を指す。
スネップ――ううう、なーんか身につまされる言葉だなあ。
こんな言葉を知らなかったら自由人を気取っていられたという人も
少なからずいるのではないか。
ふらふら自由気ままに遊び暮らしている人をスネップと問題視したがる人がいるのだろう。
どうして孤立はいけないのか、
ひきこもり・ニート・スネップ救済団体代表の藤原宏美氏は言う。

「孤立において怖いことは、孤立が長期化すること自体が、
「自分は誰からも必要とされていない」「自分は不要な存在だ」
というメッセージとして孤立する人に受け止められ、
本人を傷つけていくということです」(P140)


べつに他人から必要とされていないくても、
たとえば自分の趣味を追及していたりで、
それなりに人生を謳歌(おうか)している孤立者もいなくはないような気がするが、
しかしやはり社会的地位のある藤原宏美代表の言うように孤立はよくないのだろう。
あんがい思ったよりも人から必要とされたい、
人の役に立ちたい善意の人は多いのかもしれない。
だとしたら、ひきこもり・ニート・スネップはなにもせずとも人の役に立っている。
ひきこもり・ニート・スネップはなにもせずとも人から必要とされていると言えよう。

人生に生きがいを感じられず会社員を勤めきれず、
なにか人の役に立つことをしたいと思った藤原宏美代表こそ、
まさに人生の落ちこぼれとも言うべき
ひきこもり・ニート・スネップを必要としていたのである。
藤原代表はひきこもり・ニート・スネップを発見したとき、
これで自分も人の役に立て、
会社員時代とは異なり「先生」と呼ばれると小躍りしたのではないか。
一介の会社員にすぎなかった藤原宏美氏も、
いまでは多くの親から頼られる教祖的存在で、
会社員時代からは考えられなかったように、本を出せるほど社会的に成功をおさめた。
藤原宏美が代表を務めるトカネットはボランティアではなく有料サービスである。
人の役に立てて「先生」と呼ばれ、そのうえさらに金銭まで手に入るのである。
藤原宏美代表はひきこもり・ニート・スネップに
足を向けて眠ることはできないのではないか。
藤原宏美代表は心理カウンセラー希望の大学生などをただ同然で雇い、
1回2時間6千円のメンタルフレンドとして社会的落ちこぼれのもとに送り込む。
落ちこぼれにはメンタルフレンドとつきあうことで社会性を取り戻していってもらう。

やばいことを書こう、
どうせバイトのメンタルフレンドは大した給料をもらっておらず、
いわば経験を買うようなイメージで人の役に立つことをやっているのだろう。
将来、心理カウンセラーになるための経験にでもなれば、と。
スネップにかぎりなく近いわたしもメンタルフレンドをこのブログで募集してみよっかなあ。
メンタルフレンド募集。ただし女性限定。年齢制限あり。新興宗教会員可。
報酬はプライスレスの、
やりがい、生きがい、人の役に立つ喜び、人に必要とされる満足感。
いるんでしょ? 人の役に立ちたい人、人から必要とされたい人!
定員になりしだい募集を終了しますのでお早目のご連絡をお待ちしております♪

「フロイトとユング」(小此木啓吾・河合隼雄/第三文明社/レグルス文庫)

→創価学会員さんとおなじで人の噂話やゴシップが大好き。
この対談本によると小此木啓吾の両親が日蓮大聖人を信仰していたというから、
おそらくかのフロイト学者の両親は創価学会(あるいは日蓮正宗)。
第三文明社の本らしく河合隼雄も飛ばしている。
ユングは新興宗教の教祖のようにハーレムをつくっていたらしいね。
性的関係もある女性の弟子がユングを取り巻いており、
ときには女弟子のあいだで教祖のユングをめぐって
髪の毛をつかみあうような喧嘩もあったという。
河合によると、フロイト派の精神分析とユング派のそれの違いは明瞭。
本人はアメリカで聞いたジョークだと言っていたが、
フロイト派の分析を受けると金持になり、
ユング派の分析を受けるとアーティスティック(芸術家的)になるらしい。
とにかくまあ、精神分析というのは物語なのだと思う。
ある心身の不調が出ているときに、
フロイトの場合はその原因はこれでこの原因をこうしたら治る、
という理論(本当は物語)をこしらえたのだろう。
治療者がその物語をつよく確信していると患者にも物語が伝染して治ってしまう。
ユングの場合は厄介で、
患者の心身不調は個性化への道だという理論(物語)をこしらえたわけである。
しかし、個性化とは要するにオンリーワンになれってことでしょ?
個性化とは、自分にこだわれということだから、変人への道と言ってもよかろう。
河合隼雄は数年おなじクライエントと逢うのはざらだったというが(ヤブ疑惑!)、
この治療を終われないというのもユング理論(物語)の個性化と関係している。
河合隼雄は言う。

「とにかく、個性化ということには終わりがありませんから、
そこに焦点を合わせると、
どこで分析を終わるかということは、難しいんです。
単純にいってしまえば、本人が自己分析可能になれば、
やめてもいいということになります。(……)
さっき小此木さんがいわれましたけれど、医学的に治っていって、
その人が自分の個性的な人生を生きていくときに、
社会の最大公約数的な規範とはずれても、むしろ当たり前なんです。
だから、病的なものは除かれていくんだけれども、
生きていく困難さが生まれてきて、
それを終わろうとするのは、大変、難しいですね」(P161)


ふつうの人が個性的な人になったら、それは変人ということだから、
周囲とうまくやっていけなくなってしまうのである。
だったら、大量の金と時間をかけて個性化なんてしないほうがよかったとも言えるわけで。
みんなといっしょにテレビでも見て笑っているのがいちばん健康な状態なのである。
河合隼雄の心理療法ってもしかしたらクルクルパー養成所だったのではないか。
というのも氏の心理療法は5年くらい平気でかかるというし、
5年後には変人になっていて社会性や協調性を喪失しているのだから。
個性的な人ほど日本社会で嫌われる存在はないのではないか。

「日本の場合には、極端な言い方をすれば、
一番危険なことは創造性(クリエイティビティ)を持っていることなんです。
創造性があるということは、全体の平衡状態をこわしますからね。
皆さんと同じということが一番よいことであって、
皆さんと同じだが、ほんの少しできる、
しかもそれは皆さんのおかげであるというのがよいわけです」(P214)


河合隼雄によると、ユング派はメチャクチャらしい。
弟子のあいだでも意見の一致などまったくなく喧嘩ばかりしている。
弟子によってがらりと主張が異なるらしい。
そのくせみんながみんなこれはユングの言っていたことだと主張する。
ユングの弟子は個性的な人が多いとも、
社会性の欠けた連中ばかりだとも言えよう。
ペルソナ(仮面/肩書)よりも本当の自分(セルフ/無意識)を重んじたのがユングである。
でもさ、明らかに本当の自分なんかより肩書(ペルソナ)のほうが重要でしょ?
ほんもののユング派の精神分析を受けたら、
常識人でさえ反社会的な狂人に近くなってしまうのかもしれない。
ユング派は「なんでもあり」だと河合隼雄は言っている。

「ユングには無意識の創造性に対する信頼感があって、
その考えを推し進めていくと、
既成の枠組みをこわしていくところがあります。それでたとえば、
ユングは同時代の他の人たちよりも女性のことをよく取り上げるんですが、
それでもやはり男は男らしく、女は女らしくという考えがどこかに残っています。
女性がアニムス的[一言居士/いちげんこじ]になるのを嫌うわけです。
ところが、それだっていいじゃないかともいえるわけでしょう。
それからユングは男性の同性愛を非常に嫌ったと、
アンソニー・ストーが書いていますが、本当かどうかは分からないところです。
ユング派の中には、同性愛は治さなくてもいい、
それはそれで存在意義を持っているという人も相当いますからね。
また、たとえばマスターベーションを罪悪視する人がいるけれど、
マスターベーションの元型は一人二役をするわけですから、
両性具有的な全体性(トータリティー)のシンボルという
考え方もできるんじゃないかといっている人もいます。
そういう意味で、無意識の元型的なことを考えると、
いろいろな人がいろいろなことを考えだすことができます」(P66)


一行でまとめたら、いろいろな人が考えだすいろいろなことが、
それぞれ当人にとって意味があり、
そのそれぞれがそれぞれにとって「正しい」というのがユング思想なのではないだろうか。

「セラピスト」(最相葉月/新潮社)

→かなり期待して最相葉月(女性)のノンフィクション「セラピスト」を読む。
評判のよい著者の本を読むのは初めてでテーマにも関心があるので期待度が高かった。
ところが、つまらないのである。だらだらと暴露もなにもなく平坦な説明が続くだけ。
読後、貴重な金と時間を返せと泣きたくなった。
1ヶ月まえ近くに読んだ本なので、いまさらりと要点のみ読み返したが、ある謎に気づく。
本書の結末は著者のカミングアウトである。
この本の取材を9割方終えてから町医者(クリニック)に行ったら、
著者は双極性障害Ⅱ型と診断されたというのである。
双極性障害とはむかしは躁うつ病と呼ばれた統合失調症とならぶ精神病のひとつ。
もしこの本に書かれていることが本当だとしたら、とんでもない事実が露見してしまう。
繰り返すが、この本がノンフィクションというのなら、
精神医学や心理療法がインチキであることがばれてしまったとさえ言えなくもない。
精神病の最相葉月は本書を執筆する過程で、
多くのセラピスト、臨床心理士、精神科医と面談するのみならず、
治療まで受けているのである。
精神病の最相葉月は河合隼雄の息子さん(京都大学教授)にも逢っているし、
精神医学の重鎮であられる中井久夫の(高額な)絵画療法 まで受けている。
ところが、本書を信じるならば、
だれも最相葉月が精神病であることを見破れなかったことになる。
どういうことか繰り返して書く。
あまたのセラピスト、精神科医、河合俊雄教授、中井久夫医師がヤブであることが
本書によっておおやけになってしまった。
最相葉月のような有名作家の名刺を持って当人が現われたら、
ベテランのセラピストも精神科医も
目のまえの相手が精神病であることを見破ることができない。
もしこの本が本当にノンフィクションならば、
精神病診断のデタラメが白日のもとにさらされたと言ってもいいのではないのだろうか。
有名作家の名刺を持っていたら、だれも当人を精神病とは診断できない。
著者が正体を隠して町のメンタルクリニックを受診したら、
あっさり精神病と診断されてしまう。
本書は心理商売や精神科商売のうさんくささを意図せず告発しているとも言えよう。
この本にある精神科医のインタビューが掲載されているが、
医療者自身も本当のことを言えばあまり自信を持っていないのかもしれない。

「たとえば、こんな話があります。
患者さんの中に、有名な医者が好きな人がいて、有名な医者をひと通り回った。
すると、いろんな診断が下ったんです。
東大分院にかかると統合失調症、九大にかかると境界例……。
笑い話みたいですが、そういうことが本当にありました」(P237)


わたしはこの本がノンフィクションではない可能性も高いと考えている。
意地悪な裏読みをすると、本書を執筆するいきさつはこうだったのではないか。
著者が心身の不調を感じて町の無名の心療内科を受診した。
すると、あろうことか有名作家の著者に双極性障害Ⅱ型の診断が下ってしまった。
双極性障害(躁うつ病)ならば脳機能異常ゆえもはや薬をのむしかなく、
一般的にセラピーやカウンセリングを受けることは効果がないとされている(異論あり)。
真否は不明だが、双極性障害や統合失調症の人が
心理療法を受けるとかえって悪化するという説もある(反論も多々あるが)。
そもそも科学的に見たら心の病はすべて脳機能障害と言えなくもないのである。
しかし、作家先生なんてものはみんな心に偉大な幻想をいだいていることが多い。
有名作家の最相葉月は町医者風情から
精神病(双極性障害)という診断を受けたのが許せなかった。
自分の不調は心の問題であってほしい。自分が精神障害者であることを認めたくない。
このような動機から本書は書かれたのではないかと邪推するが本当はどうなのだろう。
いろいろ取材や勉強をして自分が双極性障害であるということを認められるようになった。
このため本書の最後の最後で、
町のクリニックに行ったというウソのエピソードを付け加えたのではないか。
しかしまったく本書はつまらなかった。
心ない人からきちがいと揶揄(やゆ)されることの多い精神病患者なら
もっとおもしろいものを書けると思うのだが、そういうものではないのだろう。
そういえばおなじノンフィクション作家の上原善広氏も双極性障害だが、
あの人の文章からは精神の病みがビンビン伝わってくるので、そこがおもしろい。
最相葉月さんにはリーマス(お薬)などのんでほしくなく、
躁状態になったときにまわりを唖然とさせるような突飛なことをやってほしい。
それをノンフィクションとして書いたらとてもおもしろいものができるのではないか。

本書で知った河合隼雄関連の裏話を抜き書きしておく。
だれか河合隼雄の裏を取材して偉人伝ではないノンフィクションを書いてくれぬものか。
それとも圧力がかかって書けないのだろうか。
最相葉月も河合隼雄の裏話はもっと知っているのかもしれないが、
それを公開できない事情があるのかもしれない。

「私は、河合隼雄に夢分析を受けていたあるカウンセラーのことを思い出した。
その人は、あまりに河合に接近しすぎたために、どこからどこまでが河合で、
どこからどこまでが自分なのかがわからなくなるほど同一化してしまった。
それは幸せな時間でもあった。
だが、弟子の多い河合である。周囲から妬まれ、嫌みをいわれた。
げっそりとして京都を去ったその人は、ある日、河合から告げられた。
「ぼくはもう君の面倒は見んぞ」
初めて夢分析を受けた日から五年、半身を引きちぎられるような思いで河合と決別し、
以後、自らの道を歩むことになった」(P320)


河合隼雄の弟子とかめんどうくさいのが大勢いそうで笑える。

「進化倫理学入門 「利己的」なのが結局、正しい」(内藤淳/光文社新書)

→小著ながらいろいろ考えさせられるとてもいい本だった。
さてさて、当方が評価する本はネットでたたかれていることが多いのだが、
本書もそのパターンのようで、多数派から感情的な攻撃を受けていた。
わたしは本書の要点を何度も繰り返し読み考えに考え抜いた。
ああ、そういうことか、という発見がある本はめったにあるものではない。
これから紹介するこの本の内容は、それが絶対的に「正しい」というわけではなく、
科学的(生物学的)にそういう見方もできるということである。

人間観はいろいろあるが科学的(生物学的)に見たら人間も動物の一種である。
人間を生物(動物)として考えてみたら、というのが本書の立ち位置だ。
生物は科学的に観察すると、遺伝子の繁殖を目的としているように見えることが多い。
一時期(かなりむかしだが)話題になった「利己的な遺伝子」というやつである。
そのような観点から人間を科学的(生物学的)にとらえると、
(動物の一種としての)人間は「生存」「繁殖」「そのための資源獲得」を
求めるものと言えよう。
遺伝子を伝達するためには「繁殖(子づくり)」しなければならないし、
「繁殖」するためには「生存(とにもかくにも生きていること)」しなければならないし、
「生存」するためには「そのための資源」を獲得しなければならない。
「繁殖」のために必要な「資源」は異性である。
男性はよりよき異性を獲得するため(繁殖目的)に地位・名誉・財産を求める。
女性はよりよき遺伝子を後世に引き継ぐためによりよい繁殖相手を欲する。
「よい」と書いた。人間はより「よい」繁殖相手(性的資源)を求めるものだ。
このときの善悪とはいったいなんになるだろう?
そこから話をさらに広げて、
科学的(生物学的)に見たら動物にすぎない人間における善悪とはなにか?
科学的(生物学的)に見たら、人間の善悪(=道徳)とはいかなるものか?
ここが本書でいちばん衝撃的で啓蒙的で、まさしく目を見開かされた思いがする。

「……道徳[善悪]は、われわれ自身の利害損得と離れて
それと別な根拠で成立しているのではない。
そう意識されていないだけで、本当は[善悪は]利害損得から成り立っている。
道徳の基(もと)は「利益」にあり、善をなすのは得、悪をなすのは損である」(P13)


道徳→「善=得」「悪=損」

われわれ人間は科学的(生物学的)に見たら動物と等しく、
ならばだとしたら「生存」「繁殖」「資源獲得」が存在理由である。
そして、「生存」「繁殖」「資源獲得」のために得になることを「善」、
損になることを「悪」とわれわれは認識しており、それを道徳と名づけている。
ひとつの最高真理(絶対真理ではないが)ではないかと思う。
遺伝子を残すことが生物の存在理由である。
そのために必要なのは「生存」「繁殖」「資源獲得」。
人間はこの三大目的にとって得になるものを善、損になるものを悪と認識する。
自分の利益になるものは善で、不利益になるものは悪ということである。

具体例に入ろう。夫婦は愛しあう「べき」だとされている。
「べき」というのは善を指向するもので、したほうがよいということである。
夫は妻を愛する「べき」で、夫が妻を愛するのは善であるとされる。
これは科学的(生物学的)に見たら、いったいどういうことか。

「……つまり、夫にとっては、妻に利他行為[愛情表現]しないよりも、
積極的にして、夫婦関係の安定と維持を図る方が得である。
もちろん立場が逆でも同じで、夫・妻・恋人などへの利他行動[愛情表現]は、
「配偶パートナーの獲得・維持」、
すなわち、自分の子どもを作り育てるための
社会的・経済的枠組みを確保することにつながっており、
これ[愛情表現]も「自己の利益」に結びつく「利己的」行動だといえる」(P64)


愛しているから結婚するわけではなく、遺伝子を残すために人は結婚願望を持つ。
夫婦は愛しあっているからお互いにいたわるのではなく、
そのほうが遺伝子(子ども)の安全につながるから
(本来は利己的な生物の一員にすぎぬ)人間は配偶者に利他行動を取る。
そうではない場合はいくら「愛する」相手とはいえ利他行動を選択しない。
科学的(生物学的)には、
愛情と名づけられた利他行動なぞ利己的行為にすぎないと見る。
科学者の著者は主張する。異性愛のどこか利他行動なのか。

「では、妻や彼女がたまには新しい刺激を楽しみたいと思い、
夫や彼氏以外の男性とデートしたい、旅行に行きたいと希望したらどうか。
そこでなんとか希望がかなうよう、妻の好みに合うデートの相手を探してあげる、
旅行や旅館の手配をしてあげるような夫や彼氏はまずいない」(P72)


正確を期すならそういう変態もいるのだが、
科学的に人間一般を見たら著者の「愛情」へのシニカルな視線はとても「正しい」。
「愛情」のみならず「友情」もまた科学的(生物学的)に見たらインチキである。
「愛情」や「友情」は利他行動に見えるが、じつのところそうではないと著者は主張する。
「愛情」は遺伝子を残すための弁明だが、では「友情」とは科学的にいかなるものか。
引用文中の互恵(ごけい)的利他行動とは、助け合いという意味だと思ってください。

「友人などに対して人が「相手のため」に振る舞うのは、
まさにこの互恵的利他行動[助け合い]の一環である。
一回一回の行為を行う際にいちいち将来の「お返し」を意識しているわけではないが、
人は基本的にそれを交換としてやっている。
このことは、われわれが、自分に利他行動を積極的にしてくれる相手に対して
こちらも率先して利他行動を行う、「お返し」をしてこない人には
利他行動をしなくなるという事実によく表れている。(……)
血縁関係や配偶関係のない[遺伝子に無関係の]「他人」に対して
われわれが行う親切や支援の多くは、互恵的利他行動としてなされるもので、
その基礎には(お返しによる)「自分の利益」がある」(P85)


一見美しげに思えなくもない友情や愛情は、
じつのところ科学的(生物学的)に見たら自分のためにしている行為にすぎない。
そうではないケースもあることを幸運にもわたしは人生経験から知っているが、
人間一般を科学的に見たら著者の主張は非常に「正しい」と思う。
リアルでもネットでも群れて互恵的利他行動(友情ごっこ)をしているのなんて
あれはそうしたほうが自分の得になるからでしょう?
ほとんどのカップルが愛情などで結ばれてはおらず、
お互いの利害損得のみを考えたうえでの互恵的利他行動と言えなくもない。
どちらかというと、そう言ってしまったほうが真実に近くなるだろう。
人間関係の99%は科学的に見て互恵的利他行動である。
一見、利他行動に見えるものも本当はすべて自分のためである。
科学的に「正しい」生き方は、互恵的利他行動の輪になるべく入ったほうがお得だ。
なぜなら利害も損得も多くの他人からこうむるものなのだから。

「このように、個人の資源獲得に「他人」が大きな影響を持つ人間の生活では、
周囲の人と互恵関係を持てるかどうかが、
ひとりひとりの生活状態に重要な意味を持つ。
周囲の人と物や情報、「お世話」などを交換する関係をたくさん築ければ、
自分の資源獲得機会がそれだけ広がって利益になる。
そうでなくて周りの誰ともつきあいや関係を持たない人は、
資源その他の利益を得る機会がずっと狭まる。
互恵的利他行動に基づく他人との互恵関係は、
各人が生きるための資源をどれだけ確保できるかに直結しており、
われわれの生存・繁殖を大きく左右する」(P86)


ならば、そうだとしたら、どう生きるのが科学的(生物学的)に「正しい」のか。
科学的には、困っている人はなるべく助けたほうがいいことになる。
他人のピンチは自分のチャンスであるというのは科学的に「正しい」思考法だ。
新興宗教信者は、だれかが不幸になったときをねらって勧誘攻撃を仕掛けるが、
それは非常に科学的で理にかなった行為であると言えよう。
死別や失職などで困っている人がいたら、それは優良投資先と言えなくもないのである。

「一方、何かの事情で苦境に入る人、助けを必要としている人に注意を向け、
それに対して自分から利他行動をしてあげようという
意欲を生じさせる感情が「同情」である。
こういう人は、言ってみれば「誰かからの利他行動」を強く必要としている。
そういうニーズを持った人なのである。
なので、そのニーズに応えて必要な助けをしてあげれば、
それだけ強くこちらに「感謝」し、後々利他行動を「お返し」してくれることが見込める。
言うなれば、「困っている人」というのは、
その人のために何かをしてあげれば将来「お返し」が返ってくる可能性が高い、
有望な「投資先」であって、そういう相手を見つけた場合に、
それに対する「投資」を自分に動機づけるのが同情の感情である」(P91)


利益は人からしか来ないのだから、多くの人と互恵関係をむすんだほうが得である。
いちばんの優良物件は、いま困っている人たちである。
いまの成功者に尽くしても相手はそれが当たり前と思ってるからお得ではない。
いま悩んで困って苦しんでいる人に手を差し伸べるほうが科学的に「正しい」し、
利害損得的にもプラスの行為であると結論づけられよう。
この世でいい思いをするために科学的に推奨されることは、
どれだけ多くの人と互恵関係(群れる、つるむ、シンパになる)を結べるかである。
科学的には、いったいどうしたら多くの人と互恵関係を結べるか。
「いい人」ぶるのが、もっとも科学的に「正しい」行為である。
利益を得たかったら互恵関係を他人とのあいだでつくるしか道はない。
これは科学的(生物学的)に「正しい」事実である。

「……他者から互恵関係を結んでもらうには、
「こちらに積極的に利他行動をしてくれる人[=いい人]」
と思われることが絶対の条件であり、そういう評判を得ている人は、
周囲の人と互恵関係を築く可能性が広がる。
そして、そうやってたくさんの人と互恵関係を築けるなら、
こちらが相手から利他行動を受ける機会も増えて、
それは私の利益になる」(P100)


科学的に言って、親切はすればするほどこちらも得をするのだろう。
自分の利益のためになにをしたらいいのか科学的に考えたら、
それは親切行為(利他行動)なのだろう。

「……他者への利他行動[親切]は、将来、
不特定の人たちから「見返り」を得るための「投資」なわけで、
そのために必要な「よい評判」を確保する意味でも、
他者に積極的に利他行動[親切]をすることは、
われわれ自身の利益につながっている」(P102)


親切=利他行動=見返り=お得=善

ということは――。

いじわる=自利行為=仕返し=損害=悪

科学的(生物学的)見地から言えば、現世で利益を得たいならば、
いっぱいいっぱい、めーいっぱい他人に親切(利他行動)をしたほうがいいのである。
なぜならば、自分のためになにかをしても見返り(得)はまったくないけれど、
他人のためになにかをしたら見返り(利益)を得られる可能性が高まるからである。
人間関係は利害関係である。人間と人間を結びつけるのは損得しかない。
これが科学的(生物学的)に見た人間の「正しい」ありようである。
現世利益(げんぜりやく)を得たかったら可能なかぎり他人に親切にしたほうがいい。
親切はお得だから「善」であり「正義」である。
自利行動は損で、利他行動ほど科学的に見て利益が生じるものはない。
この世でおいしい思いをしたかったら、まず自分から相手に手を差し伸べるにかぎる。
人生からプレゼントをもらいたかったら、
まずだれかに贈り物をするのが科学的に「正しい」。
利他行動こそ人生の好循環の秘訣であるのだろう。

「こうした好循環を生むことも含めて、自らに利他行動を動機づけ、
間接互恵における「評判の利益」の獲得に向けて行動するための内的装置が、
「良心」や「思いやりの心」である。
それは、本書でここまで説明してきた「愛情」や「友情」などの感情が、
「自分の利益」確保に向けて作用しているのと同じである。
きわめて逆説的ながら、そのように「自分の利益」を無意識化して
感情によって利他行動をとることが、間接互恵という社会関係の中で
「自分の利益」を確保するために効果的な手段なのであり、
そのための感情を備えてわれわれは行動している」(P109)


いい齢をして、どうして人を殺してはいけないのかずっとわからなかった。
本書のおかげで、ある意味で「正しい」解答を得ることができたので感謝したい。
なぜ人を殺してはいけないのか――それは損をするからである。
殺人をするとその遺族との互恵関係が失われ、復讐されるかもしれない。
自分は報復行為を受けなくても、自分の家族が損害をこうむることがある。
殺人をして死刑にならなかったとしても、
出所してから前科者の職は少なく、これは科学的に見てあきらかに損である。
どうして人を殺してはいけないのかの答えは、
それが悪だからではなく、殺人行為をなすのは当人にとってただただ損だからである。
言い返せば、この世における悪など損の言い換えにしかすぎない。
善といったところで、しょせんはお得だよという意味しかない。
人はやたら善悪(正義)にこだわるが、
それは損得の問題ではないかという科学的(生物学的)知見があることを報告したい。
コメントをいただけるのはけっこうなことでありますが、
議論するのはめんどうくさく、
もしなにか本当に回答を必要とされるご意見がございましたら
ご本名をお書きのうえメールをくださいませ。
まっ、だれもこんな過疎ブログの長文記事など
最後までお読みにならないのでしょうけれど。
いろいろ考えさせられた名著でしたが、べつに人にすすめたいわけではありません。
本書の要約をしたら一行で終わる。

道徳→「善=得」「悪=損」