「お経の基本がわかる小辞典」(松涛弘道/PHP新書)

→これはたいへんな労作だと思うが、
こんな良書が定価でもわずか820円で買えてしまう日本という国は、
相当な文化大国と言ってもいいのではないだろうか。
仏の教えは一説には8万4千あるとも言われ、もとよりぜんぶ読んだ人はいないのである。
したがって、それは仏教の教えではない、
と言い切れる人は世界中どこにもいないことになる。
どこかに書いてあるかもしれないわけだから。
本書ではインド、中国、日本のお経3360から150余を厳選し、
短いながらわかりやすい解説を付して紹介したいわばガイドブックである。
意地悪なことを言うと、著者でさえこの150全部を完読してはいないと思う。
しかし、それでも、これだけのお経をたったひとりで解説できるのは立派である。
内容は的確でわかりやすく、もっと評価されてもいいのではないかと思う。
かなり既読のお経もあったが、忘れていたものも多く、思い出すのに役立った。
いざというときにそばにあると便利な小著ではないか。
本書を読んで「チベット死者の書」と「沙石集」に興味を持った。

話は飛ぶが、まえまえから書いてきたことだが、
本や映画を個人的にすすめられるのはあまりいい気分がしない。
だれかが不特定多数にすすめているものを自分から読もう観ようとするのならいい。
しかし、知人から「これを読んでくれ」とか言われると、え、それはちょっと……。
そういうことをする人は、
自分が相手の師僧や先輩、指導者にでもなったつもりなのだろうか。
いや、わたしも若いころはこれを読んでくださいと人にお願いしたことがあるから、
気持はわからなくないのである。
自分の考えを言葉でうまく表現できない人は、
他人の作品で自分の意見を伝えようとするのだろう。
しかし、いいかな、ある作品を読んで、自分がある感想をいだいだからといって、
自分とはまったく経験も感受性も異なる人がおなじように受け取るかといったら、
それは間違いと言わざるをえない。
そのうえ、人から推薦されたという理由でバイアスがかかるだろう。
権力上偉い人やビジネス上関係のある人から推薦された本は、
常識人なら自分の本当の感想は言わずに相手の気持を考えよかったと答えるだろう。
だれもが時間と金は有限である。
わたしがもし人からすすめられた本を読んだとしたら、
それは最高のサービスだと思ってください。

本は自分から読んで、自分で発見しなければ意味がないところがあるのではないか。
あまたあるお経はよりいっそう、そのような面が強いと思う。
法然が南無阿弥陀仏を選択したのは、日本思想史上じつに大きな事件であった。

「鎌倉時代の浄土宗の開祖法然は、若くして智慧第一と喧伝(けんでん)され、
当時の宗教界のメッカであった比叡山において学問と修行に励んできた。
しかしながら、自ら納得する教えに出会えず、山を下りた。
そして日夜展開される喧噪のちまたに目もくれず、
比叡山西塔黒谷(いまの青龍寺)において、
「嘆きなげき経蔵に入り、悲しみかなしみ聖教(しょうぎょう)に向かい」(『四十八巻伝』)、
膨大な仏教経典の集大成である「大蔵経」を五回も繰り返し読破し、
その中からついに中国の善導の著した『観無量寿経疏』
という万人が救われるお経の一節を見いだしたといわれている。
現代に生きるわれわれは、この法然と同じように、
仏の教えを伝えたお経の全貌を知ったうえで、自らの人生経験に照らし合わせて
自分がほんとうに納得する教えを選び取るべきではなかろうか」(P6)


人それぞれ選び取る仏の教えが違ってもいいのである。
なぜなら、それぞれ人生経験や趣味嗜好が異なるのだから、
それはそれで仕方がないではないか。
自分が選び取った(と思わされているものもいよう)ものを他人に強制するのはおかしい。
多くの仏教徒は選び取ったというよりも、家の習慣のようなものだろう。
家が浄土真宗だったら子もそうなり、創価学会の家に生まれたら二世、三世と続くだろう。
それもまた悪くないと思うが、悩み深い人は自分でいろいろ見てみるのも悪くない。
日蓮大聖人しか知らない人が、他宗を攻撃するのはあまりいただけない。
とはいえ、一般人はどんなお経があるのかなかなか知ることができないのである。
ある宗派に入ってしまったら、そこのお経しか勉強できないだろう。
大学院に入ったところで、かならず専門に分かれるから広く仏教全体を学ぶことは難しい。
この本のようなお経のガイドブックが貴重なゆえんである。

本書では「今昔物語」まで仏典としてあつかっているのだから守備範囲が広い。
「恋の虜(とりこ)になって仏道に励む話」がたいへんおもしろかった。
ちょっと話を変えながら紹介すると、若いお坊さんがいたという。
旅をしているとき夜になり、宿もないのである家に泊めてくれと頼んだという。
そこにはハッとするほどの美少女がひとりで留守番をしていた。
自分は仏道を学ぶ僧だから、こんな年端もいかぬ少女になど関心はないと思う。
しかし、相手を見まい見まいとするほど少女のことが気になってしまう。
また少女のほうもわざとか無意識なのか無防備な姿勢で若い坊主を刺激する。
深夜たまらなくなった坊主は美少女の部屋に押し入った。
少女は若い僧をこばみ、法華経をそらで言えますか? とたずねる。
僧は首を振る。法華経を暗記してきたら、あたしを抱いてもよくってよ。
それを聞いた若い坊主は寺に帰り、必死になって法華経を暗記したという。
翌晩、またその家に行くと、また少女がひとりで留守番している。
若い坊主が迫ると少女はいさぎよく全裸になり「立派なお坊さんが好き」という。
「3年間、山にこもって修行して立派なお坊さんになったら、
あたし、あなたのおもちゃになってあげる」
それを聞いた坊主は、たしかにこの美少女と自分はまだつり合っていないと思い、
山で厳しい修業を3年積んだ若い僧は本当に立派なお坊さんになり煩悩も消えたという。
じつはこの色気ある少女は仏さまの化身であった――。
これってハニートラップのようなものだと言えなくもないわけだ。
結果オーライの法華経の世界をこんなにうまく下世話に描いた物語はないと思う。
創価学会も色仕掛け折伏とかむかしはやったのかなあ。

仏教は慈悲だというなら、美女はもてない男にやさしくしてやればいいんだよねえ。
美しい身体を無料で与えるとか最大の慈悲ではないか。
本当に仏さまの慈悲を理解した尼さんは無料売春婦になるのではないかとも思う。
仏教は自利と利他があるという。
この本に紹介されていた道元の話がおもしろかった。
中国留学中の道元が禅語録を読んでいると、ひとりの禅僧が通りかかった。
「なんのためにそんなものを読んでいるんだ?」
「先輩の悟りを知りたくて」
「そんなものを知ってどうする?」
「日本に帰ったとき教えを広めようと」
「なんのために?」
「他人を救うためというか……」
「結局、なんのためなんだ?」
「……(道元、絶句する)」

「しかし、のちに興聖寺の開堂の折に道元が、
「当下に眼横鼻直(がんのうびちょく/あるがまま)なることを認得して人瞞を被むらず」
と語っているように、仏教を学ぶということは
お経の文句を知ることでもなければ、仏を拝することでも、人を教化することでもない。
それは自分に与えられた人生を、本来の自己に立ち返ってあるがままに
生きることにほかならないというのが彼の悟りだったのだろう」(P204)


それぞれがそれぞれの人生経験からそれぞれの真理をつかむしかない。
真理や悟りのようなものは、人から教えてもらうものではない。
仕事の手順なら教えられようが、悟りまで教えてもらえると思うのは甘い。
禅の典籍「碧巌録(へきがんろく)」にこういう話があるという。

「禾山(かざん)が「勉強するのを聞といい、学ぶことがなくなったことをリンといい、
この二つを超越した境地を真過という」と言うと、
一人の僧が「では真過とはなんですか」と問うので、
禾山は「太鼓のドドーン」と答えた。
「では真の悟りとは」と問うと、また「太鼓のドドーン」と答えた。
「即心即仏は問いませんが、非心非仏とはどういう意味ですか」と問うと、
「太鼓のドドーン」と答えた。そこで僧は怒って、
「まじめに道を求めた人が来たときにはどうしますか」と問うと、
また「太鼓のドドーン」と答えたという。
この「ドドーン」の意味がわからないと悟れないらしい」(P160)


ドドーンは、他人に答えを求めるなという意味だと思う。
与えられた人生で自分でいろいろ経験して、
本が読めるのなら読んでもいいし、とにかく自分のあたまで考え、
自分の経験したことから自分だけの絶対的真理をつかむのが悟りだ。
1932年生まれの著者はいまは忘れられたストリンドベリを知っているのがよかった。
ストリンドベリはノルウェーのイプセンと比されることが多いスウェーデンの文豪。
ちなみにネット上でもっともストリンドベリについて饒舌に語っているのは「本の山」である。

「スウェーデンの作家アウグスト・ストリンドベリの『青の書』に次のような一節がある。
あるとき弟子が先生に「宗教とはなんのことですか」と尋ねたところ、
「きみが経験か直覚かですでに知っていなければ説明できない。
もし宗教とはなんのことだが知っているのなら、いろいろ説明することがある。
そしてきみにもわかるだろう」と答えたという」(P213)


天台宗の「六字名号略法華」という考え方がおもしろかった。
わたしは法華経信仰と阿弥陀仏信仰は矛盾しないと思っている。
法華経も「正しい」し、阿弥陀仏信仰も「正しい」。
天台宗ではふたつの信仰を「六字名号略法華」と称して調和しているとのこと。
天台宗のお勤めは――。

「お勤めは「朝題目夕念仏といわれるくらい朝には『法華経』を読み、
夕方には念仏を唱える。
初め日本天台の宗祖最澄(伝教大師)は円(天台)、密(密教)、禅、戒
を説くいろいろな教えを『法華経』によって統一したが、
平安時代の中ごろから西方浄土に往生する思想が盛んになった。
そして恵心僧都(源信)が寛和元(九八五)年に『往生要集』を著して
念仏の功徳を説いて以来、
阿弥陀仏の信仰と法華信仰とを調和させて「六字名号略法華」と称し、
法華と念仏の一体であることを強調している」(P252)


天台宗のエリート僧とは縁のなかった踊り念仏の一遍も、
夢告(夢のお告げ)をふくめた自分の経験と独自の勉強から、
念仏信仰と法華信仰は同一であると結論づけている。
最後に著者はうまく三国伝来の仏教の特徴をまとめているので紹介したい。
ご存じのようにインドでも中国でも仏教はほとんど消滅してしまったのである。
日本だけがインドも中国も使えないと捨てた仏教思想を、
舶来品崇拝ゆえか重宝している、と言えなくもあるまい。

「……お経の発展史上、
インドでつくられたお経には釈迦の人格や教えのぬくもりがあり、
中国のものはその教えを受け止めてどう解釈し、理論づけるかに特徴があり、
日本のものはそれをどう実践し、生活化するかに焦点が絞られているようだ。
すなわち、仏教の最高指針である三宝(仏法僧)にこの違いをあてはめると、
仏がインド、法が中国、僧が日本にあたろう。
インドに教派、中国に学派、わが国に宗派ができたのも
この間の事情をよく物語っている」(P262)


いまはわたしでさえ行ったことのあるくらい、
インドや中国に行くのはかんたんになったが、
平安時代や鎌倉時代はへたをすると命がけの旅になったのである。
中国から伝えられたインドの宗教がことさらありがたく思えたのは、
あるいはこのせいかもしれないなどと言ったら、身もふたもなさすぎるのかしら。
そのうえ、いち早く西洋文化を取り入れた日本のほうが、
いまでは少なくとも物質的な面ではインドや中国よりも豊かである。
たしか最澄なんて9ヶ月しか中国に留学しなかったのに、
日本に帰ってきたらものすごいデカい顔をしたわけでしょう。
空海だって留学経験はわずか2年なんだよなあ。仏教ってなんじゃらほい。

「図説 あらすじでわかる 日本の仏教とお経」(廣澤隆之:監修/青春新書INTELLIGENCE)

→2000年に大学を卒業したけれど、いまはわかりやすい本が多いような気がする。
大学時代に本を読んでもわけがわからない書物ばかりだった記憶がある。
まさかこちらのあたまがよくなったはずはないから(年々劣化している自覚あり)、
あまりにも本が売れないから出版社もさすがに難しい本はよくないと気づいたのか。
本書もじつにわかりやすくお経を軸とした日本仏教の流れが解説されている。
専門教育を受けていないので意外と穴が多く、こういう本には助けられることが多い。
仏教はそれぞれが中心をどこに置くかで見え方が変わると言ってよい。
べつにどこに中心を据えてもいいのが仏教の寛容性、多様性であろう。
日蓮を中心に仏教を見てもいいし、それが釈迦でも親鸞でも池田大作でもいいと思う。
もっともだれを中心に仏教を見るかでだいぶ見方は変わろうが、どれもきっと「正しい」。
わたしは踊り念仏の一遍を中心にして仏教を見ているところがある。

一遍はいろいろ都合がいいのである。
というのも、一遍はあの好戦的な日蓮とも仲がよかったという伝説があるからである。
一遍は法然、親鸞とおなじ南無阿弥陀仏だから、浄土教系とも手を組める。
すべてを捨てて釈迦のように貴賤を問わずに教えを説いたのは日本では一遍だけでは?
釈迦絶対主義者にも、一遍は釈迦にもっとも似ているのではないかと言える。
一遍は鎌倉新仏教の教祖のなかで唯一(当時の東大)比叡山出身ではない。
エリート意識がないところも万人に愛されるだろう。
一遍は、自分の教えを信じなくてもいいと言ったほどの世を捨てた人である。
なにを言いたいかというと、一遍を中心に据えると釈迦信者から新興宗教信者まで、
おなじ仏教徒であると喧嘩をしないで済むのである。どっちも「正しい」よねえ。
河合隼雄の好きだった明恵は法然を批判したけれど(おれは絶対正しい!)、
一遍はとくにだれも批判していないのである。
教団をつくる意図はまったくなく、一遍存命時の時宗(時衆)は、
ただの落ちこぼれの(いまならタレントを目指すしかないような)男女が
カリスマ性を持った狂僧につきしたがっているだけだった。

本書で知りえた豆知識を書き残しておく。まあ、どうせすぐ忘れるんだけど。
仏教を勉強する目的って、知識を増やすためではないのね。
自分の信仰(信心)を深めるためにわたしは仏教を独学している。
仏さまを信じるってこたあ、人間、人生なんか思うようになんないぞと知るこったあ。
将来のことも善悪も、ことの是非も仏さまにお任せするしかないと信じる。
いちおう念仏の系譜はこういうことになっているらしい。
まずはじめに俗人の教信とかいうおっさんが
畑仕事をしながらひとりごとのように念仏した。
下層民が念仏しているのをたまたま放浪中に聞いたのか、
国家公式僧侶の空也が死体処理をしながら、南無阿弥陀仏という教えを説く。
偉い源信さまが「往生要集」で念仏往生を理論化する。
あれこれ勉強したけれど確信を得られなかったエリート僧の法然が、
中国のマイナーなお坊さん(善導)の書いた本の一文に感激して、
文字も読めぬ下層民の民間信仰にすぎなかった南無阿弥陀仏を
学問的に「正しい」と選択する(このとき法然は43歳)。
師匠・法然の威光を借りた田舎坊主の親鸞が師匠の口真似で念仏を広める。
念仏の流行に嫉妬した無師の日蓮が南無妙法蓮華経こそ「正しい」と宣言する。
仏教ではなく神道の熊野の神から啓示を受けた一遍が、
もうなにもかも捨てて今日1日だけでも踊りながら念仏してみんなで楽しもうぜ、
と実践する。みんなで踊り狂い、その日暮らしの非日常生活を楽しんだ。
一遍が尊敬していた先行者に、どマイナーな融通念仏宗の良忍がいる。

「この良忍は融通念仏宗の開祖である一方、
天台声明(仏教音楽)の中興の祖でもある。
念仏に節をつけて歌う「声明念仏」の天才的演奏者だったのだ。(……)
良忍が阿弥陀仏から直授したのは、
「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」
という偈(げ/韻律文の経文)だった。
一つとして単独に存在できるものはない。
すべてはたがいに因となり縁となり、関連しあって存在しているという意味である。
これを受けた良忍は、一つを取れば、全体が包含され、
全体のなかに一つが含まれるという『華厳経』の教えを念仏によって実践」(P88)


「華厳経」にはわたしも興味があるんだ。こうして仏教がつながってゆく。
考えてみたらこの本がよくわかるのは、10年仏教を独学してきたからなのかもしれない。
わたしは一遍も「華厳経」も河合隼雄も好きだ。
ことさら「正しい」とは思わないけれど、好きなものは好きだ。

「『華厳経』は、そもそも釈迦の成道二十七日に説かれた説法で、
「すべての仏の教えはことごとく華厳より出て華厳に帰する」と述べられている。
「大方広仏」とは時間と空間を包含した宇宙全体にはたらく仏のことで、
「一微塵(みじん)のなかに全世界が反映し、一瞬のなかに永遠の時間がふくまれる」
という「無尽縁起(むじんえんぎ)」と、あらゆるものは縁によって起こり、
宇宙の万物はたがいに妨げることなく関係しあって無限に生成発展していく」
という「事事無礙(じじむげ)」を根本思想としている。
すべてを個々別々の異なるものと認識する、
われわれの常識的な立場ではわからないが、
あらゆる現象の真相はたがいに無限に重なりあって、
生命が活動する一つの世界を形成している、と華厳の哲学は説くのである」(P47)


常識を捨てられたらどれほど楽になるか。
一遍は禅の師匠からも印可(いんか/認定証)を受けているという伝説がある。
一遍を仏教の中心に置いたら、禅(ヨガマニア)とも反目せずにいられるのである。

「不立文字(ふりゅうもんじ/真理は言語では伝達不能)」によって
文字やことばの限界を示している禅宗は、それだけいっそうことばを大切にする。
臨済[りんざい/中国の坊さん]はあらゆる立場や名誉、
位などから解き放たれた自由闊達な人間をさして「無位の真人」とよんだ。
「真人は汝らの面門より出入す。看よ、看よ」
と修行者に迫る臨済の指導は、自己の本源を否応なく問い、
真実の自己(真実の人間性)を自覚せずにはおかなかった」(P132)


おれは名誉会長だ、地区部長だ、朝日だ、講談社だ、大学教授だ……えええ、本当?
本当のあなたはそのペルソナ(肩書)とはべつのところにあるんでないかい?
そういうものをすべて捨ててみたらなにが見えてくるだろう?
一遍、河合隼雄、ひろさちや、ユング、みんなが言っていることである。
このうち、おそらく「常識を捨てる」を実践できたのは一遍だけだろうが。

「人生問答」(池田大作・松下幸之助/「池田大作全集8」聖教新聞社)

→やたら長いだけのきれいごとばかり書かれた内容スカスカの本であった。
最後のほうは特技のひとつ、飛ばし読みを敢行したが、
それでも最後まで読むのが辛かった。
本には内容がたいせつな本と世に出たことが大事な本にわかれるのだと思う。
池田大作と松下幸之助の対談本はまさしく後者で、
内容はどうでもよくふたりが手を組んだということを満天下に示すことが目的だった。
ふたりが対等に話したというのではない。
経済界の超大物である松下幸之助80歳が、
30以上も年下の巨大新興宗教団体のトップにあたまを下げて教えを乞うた。
昭和50年の話である。
昭和50年に刊行された原本の「はじめに」にはそう書かれていなかったかもしれないが、
平成5年に出版されたこの池田大作全集ではそうなっている。
経済界の重鎮が50にもならぬ新興宗教の会長にひれ伏して教えを乞うている。
この事実の意味することを理解できる人と理解できない人がいるだろう。
学問ばかりしてきたインテリは理解できないだろうが、
明日の金に困ったことのある庶民なら本を読まなくても本の意味がわかるだろう。
本当のことは書かないほうがいいので「そういうことなのだよ」とだけ記しておく。

ちなみにわたしは松下幸之助を偉いともなんとも思わない。
そもそもよく知らないけれど、まあたくさんお金を稼いだ人ってことでしょ?
で、晩年、人生わけがわからなくなったふりをして(本当は秘密の目的があって)、
池田大作という当時いまの何倍も恐れられた新興宗教のトップに土下座した経済人。
偉さ(権威)というのは、群れたりつるんだり手を組んだりすることでしか得られない。
10人の作家が群れて賞を作って、それを毎年順番に与えたら権威が生まれる。
偉いとされる人と偉いとされる人が手を組んだら、みんなに偉いと思ってもらえる。
麻原彰晃は裏金を渡してダライ・ラマと仲良くなったから偉くなったのである。
本書では、松下幸之助が教えを乞うているから池田大作が偉くなる。
池田大作も松下幸之助を持ち上げているから、この財界人も偉いことになる。
詳細はわからないが、
この対談の背景になにかの裏取引があったのはほぼ間違いない。
いろいろな表に出せないことが世の中にはあるのである。
だれにでも弱点があり、そこを突いたら大半の人が落ちてしまうのである。
おそらく松下幸之助関係の金では揉み消せない不祥事を、
創価学会が世の中の明るみに出ないように抹殺してあげたのではないか。

本書はそういう本だから、内容をうんぬんしても始まらない。
おそらく、どちらもゴーストライターが書いたものだろう。
あるいは池田サイドは、他の池田本からの焼き直しをメインにまとめたのかもしれない。
これは創価学会員だけではないけれども、どうして男の子って大物ぶるんだろう。
学会員さんはとくにその傾向が強いのである(そうではない人もいる)。
あれは知的コンプレックスの裏返しなのか、博識ぶりたがる人って多いよねえ。
たくさんものを知っていることが偉いと思い込んでいる。
本書で池田大作と松下幸之助は、
宇宙から教育まであらゆる分野について語り合っている。
しかし、その内容がきれいごととしか思えぬ空疎な博識自慢ばかりなのである。
繰り返すが、どうして男って(とくに学会男子は顕著)威風堂々と大物ぶるんだろう。
そうではない人もいて、そういう人は本当に尊敬に値すべき人物だと思うけれど。
肩で風を切るというか、おれを舐めたら怖いぜ、みたいな滑稽な振る舞いをする。
博識自慢をあきらめたものは妙に世知長けたふりをしていろんな人と表面上交際する。
池田大作さんをふくめて学会員さんは人間くさいんだ。
学会員が人間くさいのはそれぞれがミニ池田大作になっているから当たり前なのだが。

さて、わたしは松下幸之助はちっとも尊敬していないが(むしろ嫌いだが)、
日本最大の権力者である池田大作氏には興味を持っている。
本書から池田大作の言葉を拾って勝手に対話をしてみたい。
学会員さんも池田先生の言葉を盲目的に信じるのではなく、
対話をしてみたらいいのになあ。

「欲望は、人間の負っている苦悩の原因であり、悪の根源ともなりますが、
また逆に、人間の喜び、人生の楽しみ、そしてあらゆる善の根源もまた、
欲望にあるといっても過言ではありません。
欲望は、自己の生命を物質的・精神的にささえ、維持し、
さらに拡大するために生命が本然的にもっている力・エネルギーといえます。
存在は、それ自体において善でもなければ悪でもないのであって、
ただ他の存在に対してどのような作用をするかによって善悪が生じます。
したがって、欲望も、それ自体は善でもなければ悪でもない。
しかも善にも悪にもなりうるわけです」(P45)


いまのわたしの悩みは欲望が薄れてきたことなのである。
いちばん人が気にする「他人からの評価」を求める欲望さえ消えつつあるような。
いや、まだかろうじて消えていないのか。少なくともむかしほどではぜんぜんない。
さて、おまえはなにさまかって話で、とても偉い池田先生のご発言に物申すが、
池田の仏教レベルはいまだ善悪にとらわれているのではないか。
存在それ自体は善でも悪でもないことはご理解なさっているようだが、
存在が他に作用するところで善悪が発生するというご見解をお持ちのようだ。
わたしはその作用段階において発する善悪もまたわからないと思う。
欲望の結果の善悪めいたものも、
それは存在そのもので善でも悪でもないような気がする。
たとえば、わたしは職場でいじめられているのかロッカーの名札を3回も
剥(は)ぎ取られている。3回目は社員さんがかなり強力に接着しておいてくれたのだが、
あれを剥がすのはよほどの工夫が必要だったのではないか。
しかし、わたしはそれを悪とも思わない。
まあ嫌われているのはわかるが、その行為が善か悪かはわからない。
というのも、その人は善だと思ってやっているわけでしょう?
こいつを職場から追い出すことが善であると信じて名札を剥がしている。
だったら、それは善でもあるし悪でもあるし、善でもないし悪でもないし、
結局、名札のないロッカーという存在そのものでしかない。
わたしがこのような善悪観をいだいているのは親鸞と一遍の影響である。

池田先生は欲望充足による幸福の虚(むな)しさもご存じのようで、
真の幸福について以下のように論じておられる。

「このような、欲望の充足という次元で感じられる幸福に対して、
もっと広く社会的視野にたって自分自身の目標を定め、
それに向かって主体的に自己の生命を燃焼させることによって
生命の充実を感じていくのが真の幸福です。
前者が他に依存した受動的な幸福であるとすれば、
後者はより積極的であり、主体的であり、
より永続性のあるものになると思います」(P78)


「広く社会的視野にたって自分自身の目標を定め」というところが気に食わない。
それは社会的評価、他人の評価を意識した目標設定になるのではないか。
他人の評価を求めていると、他人の評価なんてころころ変わるものだから、
真の平安や満足は得られないような気がする。
「目標を定め」それに向かって「生命を燃焼させる」(努力する)のもいやだ。
どうしていまのまま、あるがままの自分ではいけないのだろう。
目標を定めてしまうと、その目標に達していないいま現在が苦になってしまわないか。
目標というのは危険な誘い文句でもあるのである。
あなたになにか目標があったら、
それは新興宗教や自己啓発セミナーのカモになる可能性があるということだ。
「その目標をかなえるいい方法があるのよ」と接近してくる集団がいる。
しかし、創価学会の場合、巨大なコネがあるから、
本当に目標がかなってしまうこともありえよう。
このため、かの団体は軽んじられないのである。
目標がなくてもいまが楽しければいいじゃん、という考え方もあることだけ書いておく。
どちらも「正しい」のである。
目標に向けて努力するのも「正しい」し、
どうせ死んでしまうのだしそれは明日かも知れぬのだからいま楽しむのも「正しい」。

池田先生は正義についてどうお考えになられているのか。
正義は時代によっていとも容易に変わることを深くご存じのようだ。
永遠不変の正義は果たしてあるのか。

「さて、そこで、時代や人によって異ならない正義は何かという問題ですが、
それはひと言でいえば、生命の尊厳、人間が人間として生きるための
基本的な条件を守り抜くところにこそおくべきであると思います。
私は、この「生命」を尊厳ならしめる、あらゆる活動、
逆に、生命の尊厳を踏みにじるあらゆる勢力に対決することこそ、
万人に共通する正義であると思います」(P248)


池田先生とは異なり、わたしは正義は存在しないとどこかで思っている。
正義というのは、いみじくも池田先生がおっしゃっているように、
敵方をつぶすときに自陣に目立たせる旗印でしかない。
正義はかならず悪役や敵役を必要とし、
このためわざわざ悪や敵をつくってそれを倒そうとする。
正義は、喧嘩、抗争、戦争の思想なのである。
正義が人と人の争いを発生させているとは考えられないだろうか。
悪をつくるのは正義なのである。正義がなければ悪もなくなる。
正義のためならなにをしてもいいという考え方は非常に危険だと思う。
正義の人、池田大作は直後に恐ろしいことを言っている。

「正義はそれを裏づける力とは切り離せない側面を持っています。
正義を主張する者がなんの力もなく、不正を抑えることができなければ、
その正義がいくら正当であっても、弱者の泣き言に終わってしまうのが常です。
ここに、正義は不正と悪を屈服させうる力をもつ必要があるように思います」(P253)


池田先生こええよ! 池田先生が悪と認識したものは、
創価学会が全勢力を傾けて屈服させようとしてくるのか。
正義の創価学会が悪とみなしたものは、力によって打ち倒さなければならない。
悪がなければ正義もないのであれば、
正義と悪は共依存の関係にあるのではないか。
おのれの正義(善)を誇りたいがために悪役を必要とする人々がおられる。
まさか創価学会がそのような団体だとは言い切れず、
わからないと言うにとどめる。
本当のところはわからない。真実や真理はわからない。
池田先生は真理をつかんでおられるのだろうか。

「もちろん私自身は、究極の真理は一つであり、
その真理への迫り方は種々ありうるにせよ、
現代の時代に、地球人類にとって、最も有効な道を教えた宗教を選ぶべきである、
そして「最も有効な」という以上、それは一つであると確信しております」(P277)


ものすごく傲慢なことを書くが(ごめんなさーい!)、
わたしは池田が確信している究極の真理を理解してしまったような気がするのだ。
池田が悟った究極の真理とは「究極の真理なんてどこにもないこと」ではないか。
「究極の真理など存在しない」ことが池田の悟った究極の真理だとは考えられぬか。
池田の名言に「ウソも百遍繰り返せば真実になる」というものがある。
どのみち真実などないのだから、百回繰り返したウソが本当になってしまうのである。
究極の真理(真実)など存在しないのだから、いかに大勢で大声でウソをつくかが勝負だ。
わたしは「絶対的真理はない」と信じているが、これはおそらく河合隼雄もそうだったが、
池田大作もまた「絶対的真理はない」という「究極の真理」を知っていたのではないか。
大勢で大声で主張した内容が、真実であり真理であり本当のことである。
世界のすべてがウソであるならば(究極の真理はない)、
多数決の法則により大勢で言ったことが真実になり、
さらにまた威圧感の問題でより大声で主張したことが真実になるのである。
学会員さんって不安になると群れて大声を出すけれど、あれは「正しい」のだろう。
その学会員のうちどれほどが
池田大作の悟った「究極の真理」に気がついているかはわからないけれども。

最近、ブログには書いていないこともあり(書いていないことのほうが多い)、
創価学会という組織のすごさはよくわかった。
さて、創価学会に入るかどうかの問題なのである。
たまに批判もする創価シンパくらいのスタンスのほうが双方にとっていい気もするが。
・聖教新聞を取らなくてもいい(新聞全般が嫌いだし、聖教さんはとくにちょっとあれは)。
・法華経や題目を唱えるが、念仏も同時に唱えたい。
・集団行動が苦手なので、集まりにはめったに行かないと思う。
・功徳(現世利益)も仏罰も信じておらず、すべてはランダムだと思っているけどいい?
・たまにブログに学会批判を書くかもしれないけれど笑って許して。
・仕事紹介へのキックバックだと思って財務(寄付)の1口1万円はしぶしぶ支払う。
・政治はどうでもいいので、かならず公明党に入れることを約束する。
・池田大作よりも戸田城聖のほうが好き。
・創価学会に入ったことは恥ずかしいので秘密にする。
こんなふざけた態度でもよければ……。

(関連記事)
「法華経現代語訳(上中下)」(三枝充悳/レグルス文庫/第三文明社)

「自我と無意識」(C.G. ユング/松代洋一・渡辺学訳/第三文明社レグルス文庫)

→河合隼雄の大ファンなので、氏が権威を借りているユングを読んでみる。
どうせ河合隼雄はユングを曲解して、うまいように料理しているだけだろう。
ユングの本は難解として知られるが、
そこをうまく利用して河合隼雄は成り上がったところがあるのである。
だれもユングのことなどわからないから、
紹介者という形を取ることで河合隼雄は好き勝手なことを言えるのである。
これはわたしの意地悪な意見ではなく、
晩年の河合はユングの名を借りて自分のやりたいことをやったと白状している。
ならば、もう河合隼雄の本は読み尽したといってもよいのでユングに手を出してみた。

ユングは精神科医で患者を治療するために独自の心理学を構築したのである。
心の悩みを持った人をどうしたら回復させることができるかを考えた。
ぶっちゃけ、ユングは時給850円のパートには関係ない話をしているとも言えよう。
ユングのところに診察に訪れるものは社会的成功者や金持ばかりだったのである。
あるいは、そういう富裕層の妻や娘たちだ。
彼ら彼女らとの診察経験からユングは自分が新発見したと思ったことを書いたのである。
ペルソナ(仮面)のあまり強くない人には関係ない話と言えなくもない。
ペルソナ(仮面)というのは社会的役割のことである。
われわれは社会生活を営むうえでみなみなペルソナ(仮面)をつけている。
医者、弁護士、教師、牧師、僧侶、経営者、作家、会社員――。
われわれはペルソナ(仮面/社会的役割)にしたがった言動をしなければならない。
それも四六時中いつわりであるペルソナを演じなければならない。
ペルソナはかならずしも不自由であるというわけではなく、
われわれはペルソナがあるおかげで守られているとも言いうる。
ペルソナにそった発言をしていれば社会で安全でいられる。
いざとなったらペルソナに隠れてしまえば危険な問題から逃れられる。
ことさら上級の社会的地位が高いペルソナを持つものは、
ペルソナの誇らしさのあまり本来は仮面たるペルソナを自分自身だと思ってしまう。
ところが、ペルソナの陰に隠れた自分というのもいるはずである。
あまりペルソナにばかり依存していると、仮面の裏の自分が反逆してくることがある。
精神異常、心の病というのは、
ペルソナに対する自分の反抗ではないかとユングは経験的に学んだのである。

たしかにユングの本はお経のようなものでじつにわかりにくい。
しかし、これまた仏典とおなじでたまに意味のわかるところがあるのである。
そういう理解可能な箇所をつなぎ合わせるとユング心理学のようなものがわかる。
相手の足もとを見るような意地汚いユング解釈をしてみよう。
ユングというのはきっととても偉そうな医者だったのである。
いつでもどこでも医者としてのペルソナを使用し堂々と振る舞い人々に助言していた。
婦人にはじつに紳士然として応じる立派な医者だったことだろう。
だが、ある魅力的な婦人を診察しているときに、ペルソナが壊れたのだろう。
「うわあ、このねえちゃんきれいだよ。やりてえ、犯してえ、ものにしてえ」
しかし、ペルソナは医者だから、本音は抑圧するしかない。
ところが、どうペルソナの圧力を高めても「この女性患者をおもちゃにしたい」
という性的欲望は消えない。ここにユング心理学の誕生があったのだと思う。
これはとても恥ずかしいことだからユングは文章としては書いていないが、
意地悪な視線で文章の裏を読みとると、そのようなユングの経験が見えてくるのである。

そろそろわたしもユングの権威を借りるとするか。
ユングはけっこうきついシビアな本音を言っているのである。
われわれふつうの人にユングはどうしろとも言っていないのである。

「寝た子を起こすな quieta non movere」(P143)

これがもっとも重要な真理であるとさえ言い切っている。
うまくペルソナを使いこなせて社会的に適応しているものはそのままでいい。
ペルソナとか自己とか意識しないで死んでいけばそれでいいと言っている。
ほんの少し心を病んでしまったものにはどういう提言をしているか。
べつにことさら精神分析などしなくてもよろしい。

「無意識に対抗するのに効果的なものがひとつだけある。
それは、疑う余地のない外界の必要である」(P83)


この言葉の意味は難しくもなんともない。
あとで具体的に説明しているが、野良に出ろということだ。
汗水流して百姓仕事をしたら、
軽い心の病程度なら消えると身もふたもないことを言っている。
その次は新興宗教である。
心の異常というのは、ペルソナに対する自己(本当の自分)の反乱である。
本当はみんな自分のことを偉いと思っているけれど、
ペルソナがあるためにときにはペコペコしなければならないし屈辱も味わう。
本当の自分は偉いのだがペルソナが邪魔をして本音を言えない。
この際、本当の自分はなにかと精神分析で分け入っていくのは、
金も時間もかかるし、なにより本人が相当の苦しみを経験しなければならない。
このため、そういう骨折りをしたくない人は預言者(教祖)の託宣にすがるのである。
さすがに本当の自分は預言者(教祖)なみに偉いと思い込める人は少ないらしい。
創価学会の第三文明社の本なのに、学会批判とも読めなくもない文章があるのだから、
もしかしたら創価学会というのは
かなり批判を受け入れる包容力のある民主的な優良団体ではないか。
ペルソナよりも本当の自分のほうが価値がある(偉い!)ことに気づいたとき、
人はどうするか。

「預言者[教祖]になるのもいいが、そのかたわらからもうひとつ、
もっと狡猾で見るからに理にかなった喜びが秋波を送ってくる。
それは預言者の使徒になる喜びであって、これこそ大多数の人にとって、
まさしく理想的な処世術なのだ。(……)
そのときひとは[自分の]価値を失う。
慎み深く「師」の足元に座して、自分自身でものを考えないようにする。
精神的な怠惰が徳になる。(……)
師の神格化によって、ひとは一見それと気づかず、自らが高みへと伸びてゆく。
その上なにしろ偉大な真理を、自ら発見したのではないにしても、
少なくとも、「師」御自身の手から、受けとっているのだ。
もちろん弟子たちは、常にたがいに寄り添い合う。
しかし、それも愛からなどではなく、集合的な調和を生み出すことによって、
骨を折らずに自分自身の確信を深めることができるという、
もっとも至極な計算からなのだ」(P88)


言い方を変えれば新興宗教に入ってしまうのが、いちばん楽でおいしいのである。
最近、ある人から「もう創価学会へ入っちゃえば」とすすめられたことがある。
その人は創価学会をあまりお好きではないようなのだが。
信者(使徒)になるとなにがいいのか。どう楽しめるのか。

「自分自身は単なる使徒にすぎないが、しかし、
そうであることによって師が掘り出した偉大な宝の共同管理者になれるのだ。
ひとは、そのような職務に申し分のない威厳とずっしりした重荷を感じて、
ちがう考え方をする人を片はしから誹謗し、改宗者をつのり、
全人類の上に光を掲げることを、
最高の義務であり道徳的必然性であるとみなすようになる――
まさしく自分自身が預言者その人であるかのように、
そして平生は見るからに控え目なペルソナの背後にもぐり込んでいたような、
まさにそんな人々が、集合的心との同一化によってみるみる肥大しはじめ、
突如として世間の前に姿を現す。
預言者が集合的心の原像であるように、預言者の弟子もまた一つの原像だからである。
どちらの場合にも、集合的無意識による自我肥大が生じ、
個性の自立性が損なわれる。
しかしすべての個性が、自立への力をもっているわけがないのだから、
使徒願望はことによったら、やはり、個性になしうる最良のものかもしれない。
それならば、それにともなう自我肥大の快感は、
精神的自由の喪失に対するせめてもの代償ということになる。
それにまた、本当の預言者やそう思い込んでいる人間の人生が、
苦しみと失意と窮乏に満ちたものであり、
したがって熱烈に彼をたたえる使徒の群れが、
補償の役割を果たしているということも見過ごしてはならない。
これらのことはすべて、人間としてごく納得のいくことであって、
もし何か別の成行きになったとしたら、そのほうが驚くに値するだろう」(P89)


これまでのユングの主張をまとめておこう。
1.ペルソナ(仮面)を疑わず円滑に社会生活を営めるのならそれがいちばん。
2.野良仕事をして大地と格闘したらくだらない悩みなんて霧散するぞ。
3.宗教に入って教祖さまの教えにしたがい敵を迫害するのもまあ悪くない。
1.2.3がどうしても不可能な人に向けてユングは独自の精神分析を行なった。
くれぐれもお金持相手の精神分析であることを忘れてはならない。
ユングもひどいことを言っている。
厄介な患者が来たときは「あいつの金もしだいになくなるぜ」など同僚と噂したらしい。
さて、ユング心理学は心を病んだインテリ富裕層にどのような道を指し示すのか。

「それは個性化の道である。個性化とは個性ある存在になることであり、
個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを
指すとすれば、自分自身の自己になることである。
したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、
「自己実現」とも言い換えることができるだろう」(P93)


いまの日本ではしもじもの人間まで「自己実現」を求めているけれど、
ユングのそれはインテリ富裕層のみが苦労してなしうる道のようなものだったのだ。
このブログ記事はわたしのために書いている。
この本を読んで思ったのは、まずきちんとしたペルソナを作らなきゃなってことだ。
ペルソナさえないのに(アルバイト)自己実現もなにもないって話だから。

「ペルソナを備えた男には、内的実在[精神世界]が存在するという視点は
もとよりまるでわけが分からない。
それはペルソナを欠く人間に、世界の実在性が少しも分からず、
世界も彼にとっては、単に興味をそそる幻視的な遊戯場でしかないのと
まったく同じことである」(P136)


ああ、偉そうなペルソナがほしいけれど、もう無理かなあ。
ペルソナがないところで自己もセルフもなーんにもないんだから。
けれども、山田太一さんのようなすばらしいペルソナをお持ちでも、
裏側ではいったいどうなっているのか。
ユングはじつに人間くさい経験を書いている。

「私は、かつて、尊敬に値する男性と知り合いになったが、
この人こそまさに聖人と呼ぶに値した――、
私は、まるまる三日、彼をあれこれ眺めまわしたが、
およそ死すべき者のまぬがれぬ不完全さが彼には何一つ発見することができなかった。
私の劣等感は、おそろしいまでに高まり、自分を改善しなければと、
ほとんどまじめに考えるまでに至った。
しかし、四日目に、彼の奥さんが、私に悩みを打ちあけにきたのである……」(P127)


最後にユングの名言をちょろっと拾っておこう。この人、偉いんでしょ?

「およそ創造的な人間であれば、意のままにならないという点こそが、
創造的な思想の本質的な特徴であることを知っているはずである」(P112)

「中道における対立物の一致こそは、もっとも個人的な事実であると同時に、
生命存在一般の最も普遍的で合目的的な意義達成なのである」(P146)


「こうした事柄は、自分自身で経験してみないかぎり、本当に分かるものではない。
だから私は、知的な公式を立てることよりも、
そのような経験の方法と可能性を示すことの方を選ぶのである。
知的な公式など、経験が欠けていたら虚ろな言葉の綾に終わるだけだ」(P156)


さあ、いまから時給850円の労働を経験しに行こうと思う。
誤字脱字、失礼いたします。帰宅したら直すのでご勘弁を。

「生きるのも死ぬのもイヤなきみへ」(中島義道/角川文庫)

→中島義道も小谷野敦も時給850円の書籍倉庫で働いたことがないんだろうなあ。
自分の書いた本をどんな人たちが世に出しているか一生目にすることはないのだろう。
わたしはいまのバイト先で働いて「本当の世界」を知ったような気がした。
ああ、これが本当なんだっていう、震えるようなおもしろさがあった。
これが真理なんだっていうねえ感動というか感激というか。
中島義道は真理を求めようとしない人たちを軽蔑しているようだが、
だったら、うちの倉庫にバイトにでも来ればいいのにと思ってしまう。
わたしは絶対的真理などなく、真理は人それぞれだと思っている。
だから、わたしがいまの職場で知った真理は「わたしの真理」なのだと思う。
しかし、これは絶対に真理だという自信がある。
それぞれそういう真理の求め方しかないような気がするのである。
真理は塾で先生から教わるものだろうか。
真理は本を読んで学ぶものだろうか。
真理は人それぞれだから、そういう真理もまた真理なのだろうが、いろいろな真理がある。
真理はひとつではないと気づいたときに人は悟りのようなものを得るのではないか。
学問ばかりしてきた哲学者の中島義道はゲーテの「ファウスト」を紹介する。
ファウスト博士は中島義道博士とどこか似ていなくもなく、
粉骨砕身して真理を追究してきた結果、努力が実り、社会的地位と名声を獲得した。

「だが、ふと気がついてみると、青春はかなたに過ぎ去ってしまった。
自分は学問以外何もしてこなかった。心弾むような人生の喜びを感じなかった。
自分の人生はあるいは失敗だったのではないか?
こうさいなまれているとき、
どこからともなくメフィストフェレス[悪魔]が彼の書斎に現われ、
その手引きでファウストは失われた人生を取り戻すために、世間に船出する。
メフィストフェレスはそのさい条件を一つだけもち出す。
それは、ファウストがある瞬間に満足してしまったら、
悪魔の手に落ちるということである。
何ごとにも満足しないファウストは、その賭けに勝つ自信があった。
いかなる瞬間も、全世界を肯定するということはありえないという自信があったから。
だが、彼は負けた!
開拓地で汗水流して働く老若男女たちを見ているうちに、ファウストは思わず
「時よ、留まれ、おまえはじつに美しい!」と叫んでしまったのだ」(P56)


わたしもいまの職場で何度ファウストのような感嘆をもらしたことだろう。
わたしは負けた!
「時よ、留まれ、おまえはじつに美しい!」といったい何度心のなかで叫んだか。
だが、ファウストと異なるのは汗水流して働く老若男女を見たからではない。
国籍多様な老若男女がけっこう適当にだらだら働いているのを見て感激したのだ。
くっちゃくっちゃおしゃべりしながら楽しそうに本をポンポン箱に投げている。
わたしがあれほど依存してきた書物を、まるでそれが石ころでもあるかのように、
ベトナムやネパールの人たちがあつかっている。
いつしかわたしも真似をするようになった。本なんてくだらない。
(*まじめにきちんと働いている人も大勢いらっしゃいますよ)
本なんかよりライン横のネパール人の内面を想像するほうがおもしろいのである。
このネパール人男性はわたしとはまったく異なる真理を持っていて、
それもまた真理であるに違いない。
このベトナム人の女の子はいったいなにを考えて毎日を送っているのかと思う。
うちの倉庫は真理の多様性が絵画のように表現されているところがあり、
ある面から見たら本当に美しい場所と言えよう。
いいところも悪いところも書きたいと思った。表現したいと思った。
なぜなら「生きる」とは――。

「……「生きる」とは、思索し、その結果を全否定し、また構築し、
それをまた完全に廃棄し、また考え直し、また反省し、
……という操作を[言葉で]ずっと繰り返すことだ。
これができるかぎり、表現者は生きていける」(P57)


しかし、表現は迷惑行為である。
ついにこのまえマネージャーさんから聞かれてしまった。
「(職場のことを)ブログを書きつづけますか?」
「それともこの仕事を辞めますか?」

「最強確率論 ――「絶対無敗」の法則」(石橋達也/学研新書)

→なんとも怪しげな本(2010年刊)を買うばかりではなく読んでもしまう、あはっ。
著者は「あの人はいま?」状態になっている、むかし流行ったパチプロとのこと。
ほんとうにパチプロなんているのかなあ。
大学教授の谷岡一郎氏はパチプロは存在可能で、
30日労働で月収30万の世界だとある本のなかで書いていた。
教授は30万ごときといった感じで書いていたが、30万ももらえるならやりたいなあ。
でも、ぼく、パチンコはやったことがないし、たぶんセンスがないと思うから。
さて、パチプロの著者は大学教授と正反対の主張をしているのである。
パチンコは胴元が中抜きしていない、控除率がないと――。
競馬は胴元が控除するというところは両者の共通見解である。

「……パチンコは胴元とプレイヤーとの直接の勝負。
釘の調整次第では胴元が損をする場合もあり得るのだ」(P17)


これはぼくにはわからないのね。パチンコをやったことがないから。
でも、そっかあ。そうだよなあ。
パチンコはプレイヤーと胴元の一対一の勝負のような気がする。
うまく玉の出る台を見破れば常勝することも可能なのかもしれない(よくわからんが)。
だとしたら、あの大学教授が計算したという控除率はなんなのだろう。
それは全体としてはパチンコ店は儲けているのは理解できるけれど。
とてもインチキくさい著者が確率を否定しているのだが、それはぼくも考えたことがある。
大数の法則への違和感をパチプロの著者は表明している。
大数の法則とは、短期間(10回とか)ではサイコロの出目はデタラメだが、
1万回サイコロを振ったら出目はそれぞれ1/6ずつになるという確率の大原則だ。
むかしパチプロで有名だった著者は大数の法則を果敢にも否定する。

「次は自分なりに考えた「大数の法則」について説明しよう。
「確率が調整されることは決してない!」。
その理由は、サイコロに記憶装置がないからだ。
1が3回続けて出た後も、1が20回続けて出ていないときも、
サイコロ自身はそういった過去の履歴は覚えていない。
だから「神様が確率を調整する」というのはまったく確率学的な考え方ではないのだ。
では大数の法則をどのように理解すればいいのか?
個人的には、まったくの「無」と考えるようにしている。
だから調整する第三者もいないと思っているし、
法則としてさえ捉えないようにしている。
今では大数の法則よりも大切なモノがあるとすら思い始めている」(P46)


電波が入っているような気がしなくもないが(いや電波むんむんだが)、
著者の言うところを理解できないわけでもなく(うん? ぼくも電波系か?)、
大数の法則にしたがうならば確率的にパチンコで勝ち続けることはできないが、
統計学的にはパチプロも必然的に存在するということになるのだから。
生存確率1%の手術でも成功する人はいるし、
90%安全な手術に失敗して亡くなる人もいるわけだ。
そもそも確率というのは過去の統計データを参考にした数値である。
もし過去の統計データに存在しないような人間が現われたら彼に確率は適応できるのか。
過去の統計から未来の事象を予測しようというのが確率である。
しかし、過去の統計データにない事象の未来予測はできないし、確率も計算できない。
本当に新しいものは将来どうなるかわからないし確率もわからないのではないか。
著者が指摘していることだが、インターネット。
20年まえにネットがいまのようになるとはだれも予測できなかった。
もし予測できていたら(成功確率がわかっていたら)大儲けしていたのである。
しかし、おそらく20年まえにネットで成功する確率は1%くらいだったのではないか。
あれえ、あれえ、本当は未来予測に関するかぎり確率は当てにならないのではないか。
過去の統計にないことに関しては確率はわからないのである。
怪しげなビジネス書の煽(あお)り文句のようだが引用する。

「稼ぐ人はとにかく今を生きる。
隙間に入っていって儲けるヒントをわしづかみにするのだ。
ネットのように大きなうねりは10年に1回くらいの変革だが、
様々な業界で特需は生まれる。特に新しい業界、新しい試みの場合、
それをいかに敏感に察知し行動を起こすかだ。
先駆者となれば、そこで儲けが生まれる」(P160)


確率や統計というものは、個人差をまったく認めない数学的発想である。
太郎と花子の差を認めず、みなひとつのおなじ標本点として扱うのが統計学である。
しかし、太郎と花子は違うだろうという言い方もまたできるのではないか?
これを書いているぼくと読んでいるあなたはぜんぜん違うわけでしょう?
それを一緒くたにして統計的にとらえ、
そのうえで確率を計算する数学的発想で果たして人間や人生を把握しえるのか?
以下の引用で著者はそういうことを言っているのではないかと思う。
著者は麻雀の話をしている。

「超能力的にツモが強いという人がいるとする。
その人が、ネット麻雀で同様なヒキを発揮できるか?
どう考えても常に強いツモがくるとは考えられない。
自分は麻雀はヘタだがネット麻雀となると話は別。
ツモも別段、超能力的なものを感じずランダムに来るように感じる。
少なくとも普段雀荘で打っている感じとは異なる。
威圧感、不安感のなさがそう思わせるのだろう。
邪馬台国を率いた卑弥呼など「いるだけで圧倒的な存在感」があったと思われ、
当時ならば一種の超能力といえる」(P175)


食べても食べても太らない人っているよねえ。
大酒のみでヘビースモーカーなのに長生きしてるクソじじいとかもいるいる。
そういう存在は科学的(数学的)には「統計上の揺らぎ」なのだろう。
しかし、いるものはいるんだから。
確率や統計ってどこまで信じられるのだろうか。わっかんねえなあ。

「確率・統計であばくギャンブルのからくり 「絶対儲かる必勝法」のウソ」(谷岡一郎/講談社ブルーバックス)

→このブログはじつは女子高生に向けて書いているので(え?)、
これはみんな知っている常識のようなものだけれども、
いちおう庶民の夢である宝くじの裏側を書いておこう。
宝くじはみんなから集めたお金を一部の人に高額還元するシステムになっている。
ところが、巻き上げた金をぜんぶ還元するわけではない。
国が中抜きをしたあとのお金から分配するのである。
この中抜きを控除率(こうじょりつ/天引き)という。
宝くじの場合、どのくらい中抜きされるかというと(控除率は)53.2%。
われわれが返ってくると期待できる数字は(これを期待値という)46.8%。
だから、まあ毎年買えば買うほど損をするのである。
わたしが推薦する宝くじのいちばんいい買い方は1枚だけ買うこと。
宝くじは1枚買おうが千枚買おうが高額当選する確率はほぼゼロなのである。
ならば、1枚300円ぽっちで夢を買えるのはかなりお得だと思う。

競馬も集めたお金をすべて勝ち馬券保有者に分配しているわけではない。
胴元(JRA)が25%中抜きしたあとの75%を分配しているわけである。
難しく書くと競馬の期待値は75%で控除率は25%になる。
以下、本書から抜き書きすると――。
ルーレット(アメリカ):期待値94.74%、控除率5.26%
ルーレット(ヨーロッパ):期待値97.30%、控除率2.70%
外国はすごいなあ。以下、日本。
宝くじ:期待値46.8%、控除率53.2%
競馬・競輪・競艇:期待値75%、控除率25%
スポーツくじ(toto):期待値50%、控除率50%
パチンコ:期待値97~98%、控除率2~3%
麻雀(場所代は除く):期待値100%、控除率0%

麻雀は相互でお金を交換しているだけだから、
だれかが勝ったたぶんべつのだれかがかならず損をする。
驚いたのは、パチンコの期待値の高さなのである。
期待値が高いというのはお得ってこと。儲かる確率が高いってこと。
このパチンコの期待値は著者が独自に計算したもののようで、
そのかんたんな紹介もされているが、さすがに文系のわたしには理解できない。
これはもう大学教授という肩書を信じるかどうかの話だろう。
丸一日パチンコをやれば期待値は97~98%だという。
競馬なんかよりもだんぜんお得なわけである。良心的な遊びと言えなくもない。
なぜわずか2~3%の控除率で30兆円の産業ができるのかというと、
これまた著者によるとそれだけ分母の金が大きいからではないか、とのこと。
みんながパチンコに金を費やせば、
2~3%中抜きするだけで30兆円になるという理屈。
だとしたら、パチンカス(差別語)は情弱(情報弱者)ではなく賢者だったのかも。
けれども1日パチンコしているくらいだったら、本でも読んでいたほうがいいなあ。
あれえ、でもでも、「闇金ウシジマくん」を見ていると、
パチンコの期待値ってそんな高いか? ああ、そうかといま気づく。
毎日パチンコに行ったらこうなるのか。98%は0.98である。
0.98×0.98×0.98……。
これを10回いま携帯電話の計算機でやってみたら0.8(80%)まで落ちた。
30回とか計算したらどのくらい期待値は下がるのだろう。
パチンコ中毒はいまはパチンコ依存症という病名がついているけれど、
夢中になればなるほど泥沼にはまるような仕掛けになっているのか。
ああ、恐ろしい。現代の魔窟じゃん。近づかないぞ。
(注)わたしの間違いで毎日のパチンコ通いは従属事象ではなく独立事象かもしれません。

さて、ギャンブルというのはランダム(偶然)に支配されている。
自分は危ないギャンブルはやらず、
手堅いビジネスしか手にかけないという人もいるかもしれない。
ところが、社会学が専門の大学教授の著者は主張する。

「ここまで進めてきたギャンブルの話は、
そもそも対象とする事象が与えられた条件で「ランダム」に現われることが前提である。
たとえば、ダイス[サイコロ]の目は6分の1で、カードも残った状況に応じて
確率論的に一定の割合でランダムに出現する、というようにである。
「現実の社会はランダム性(偶然性)よりも予想された必然の世界である」
「特にビジネスなどにおいては」
と考える人は、現実の社会をよく知らない人だと思う。
いまの世の中は、皆が考えているより、はるかにランダムな世界なのである。
そのことを示す前に、「ランダム」とは何かを少し論じておこう。
ランダムという概念は、頭でわかったつもりでも、なかなか説明しづらい。
長期的には大数の法則どおりの振る舞いをするにもかかわらず、
短期的にはまさに「なんでもあり」だからである。
たとえば、ランダムに出現した結果として、
ダイス[サイコロ]の「1」の目が10回続くこともある。
その場ではとてもランダムに見えなくても、長期的にランダムであれば、
それは「ランダム」なのである」(P198)


大きく飛躍して人生論にしてしまうが、人生もまたランダムであると思う。
おそらく1万年単位、10万年単位に見たらランダムになっているのではないのだろうか。
わずか100年くらいなら、幸福ばかりの恵まれた人生もランダムとして存在しえる。
わずか70年そこらなら不幸ばかりの苦しみに満ちた人生もランダムの結果である。
人生はみんな公平にできているというのは、
へたをしたら1億年単位で人生を見比べたときに言えることなのかもしれない。
どういうことか。延々とした過去世も未来世も存在するということである。
現世で勝ちまくった人は、それを努力の結果と誇ることだろうが、
あんがいそんなものはランダム現象にすぎず、
来世ではたいへんな苦労をするのかもしれない。
新興宗教に入ったら現世利益が得られたという人は、
ただただランダムに起こっていることに勝手な因果関係を見ているだけなのかもしれない。
著者が主張するように、現実の社会は予測不能で、
短期的にはランダムの「なんでもあり」の様相をていしていると考えてみたらどうか?
怖ろしくなるだろうか? それともワクワクしてくるだろうか?
ランダムな世界にどう対応したらいいかも著者は教えてくれている。

「ビジネスの社会でも外交の世界でも(場合によっては恋や家庭のことでも)、
「かけひき」という名の心理戦が存在する。
人の心を読み、そのウラをかき、いつの間にか他人を自由に操っている人がいる。
逆にいつもウラをかかれる人もいる。
どうしてもウラをかかれる人にお勧めする方法がある。
それは、戦略の選択をランダムにすることである。
これは数学的に最も「負けない」戦略であること(「勝てる」という意味ではない)が、
「ゲーム理論」という理論で説明されている」(P203)


戦略の選択をランダム(偶然)にするとはどういうことか?
おそらくランダムにうまく乗っかるということだろう。
自分の計画よりも、ランダム(偶然)のほうを重んじで行動する。
ランダム(偶然)に起きたことによって選択を変えていく。
目標を立てて「こうしよう」「こうすべき」などと身構えて生きるのではなく、
世の中はどのみちランダムなのだからこちらも酔っぱらいのようにランダムに歩く。
目的地に行こうとシャカリキになるのではなく、偶然にまかせてふらふら散歩する。
究極のランダム行為は、宗教評論家のひろさちや先生がお勧めするサイコロ決定だろう。
人生、どちらにしようか迷ったときにサイコロで決めてしまうのである。
まえにも書いたが、わたしはまえの会社を辞めようかどうか迷ったときサイコロで決めた。

「ツキの法則 「賭け方」と「勝敗」の科学」(谷岡一郎/PHP新書)

→ギャンブル社会学が専門の大学教授が書いた「ツキの法則」である。
たいへんおもしろく、刺激的な良書であった。
結論は、科学的(確率的)に見たらギャンブルはほぼかならずみんな負けるよ。
だから、ギャンブルをやるなというのではなく、著者はギャンブラーである。
競馬で勝てない理由というのは、胴元(JRA)が25%持って行ってしまうからだ。
試行回数が増えれば増えるほど競馬好き(全員)の投資金額は75%に近づく。
というか、正しくは個人として75%でも回収できればいいほう。
科学的(確率的)に見て、競馬に勝つかもしれない方法が存在しないわけではない。
それは――。
1.大穴に賭ける(本命は買わない)。
2.一点買いをする(ボックス買いはしない)。
3.ちまちま同金額で賭けないで、ここぞのときに大金で勝負する。
日本の競馬の場合、多くの人が遊べば遊ぶほど全体の元金は75%に減る。
これは「大数の法則」とよばれるものによるのだが、わからない人も多いかと。
高校生にもわかるように説明すると、サイコロを振ってみたらいい。
サイコロを10回振ったら出る目はまさにデタラメだろう。
しかし、1000回振ったらば、ある目の出る回数はかなり1/6に近づくはず。
これを「大数の法則」というのだが、うーん、高校生諸君、わかったかい?
ちなみに1~3の方法はかならず勝てる方法ではなく、
もしかしたら勝てるかもしれない方法である。
大きく勝てることもある代わりに大きく負ける可能性もある、まさにギャンブルだ。

著者が紹介していた「セルフ胴元ボックス」はおもしろかった。
箱にまず最初に10万円を入れて、それから実際には馬券を買わず、
買ったつもりでボックスと金銭のやりとりをするという方法だ。
これをやれば競馬も楽しめるし、1年後には箱のなかの金額が増えている。
さて、他人の馬券を代わりに買ってやることをノミ行為という。
どうせ外れるから実際は買わないという商法である。
万が一、当たったときだけしぶしぶ払えばいい。
ノミ行為は違法だが、かなり利益率の高い商売になることだろう。
競馬というのは国家がやっているかならず儲かる商売だが、
それを個人でやったら違法というのはおもしろい。

どんなギャンブルでも胴元が中抜きするから長時間やると負けてしまうのである。
ギャンブル店にとっていちばんいいお客は長時間遊んでくれる常連さんだ。
いちばん困るのは1回しか来ないで1回の大勝負を仕掛けてくる客。
これはいったいどういう理由によるのか。

「ギャンブルの目的が例えば「10万円の元手を二倍にすること」であるならば、
一番の近道は賭け金が二倍になる賭けに一度に全部賭けることである。
そうすれば約半分近くの者が目的を達成し、残りはゼロとなるだろう」(P185)


さて、人生をギャンブルと考えているものも少なからずいることだろう。
なぜならギャンブルとおなじように人生も勝者と敗者にわかれるからである。
みなが勝者にあこがれ、どうしたら人生の勝者になれるか日々あたまを悩ませている。
科学的に見たら、人生の勝者など統計的なある標本点というだけの存在価値しかない。
謙虚な人生の勝者がよく口にするツキなども科学的に見たらその実体はない。
日々、ツキを意識して勝利を目指している人も多いだろう。
しかし、著者によれば、ツキなど実体のない統計上の揺らぎにすぎない。
以下の指摘はおもしろい。

「じゃんけんの一〇回戦で八勝二敗、一〇勝ゼロ敗といった成績であった者は
「なんてツイているんだろう」と考え、場合によっては
「オレはジャンケンなら負けない。次に相手が何を出すかほとんどわかる」
などと考えることもある。
この連勝の状態は、統計上の揺らぎとして、
存在しないほうがおかしいほどの必然であるにもかかわらず、
それを自分の実力だと、あるいは「ツイている!」と勘違いするのである。
逆に一〇連敗した者は、「今日は厄日だ」などと自分のツキを呪うかもしれない。
じゃんけんの勝ち抜き戦で、九連勝どうしの二人が最後の一戦を行なった場合、
必ず一方は勝って一〇連勝となり、もう一方は負けて九勝一敗となる。
このとき負けた方は「自分のツキが変わった」と考える。
そして、ツキが変化したと考えるだけでなく、さらにその原因を探るのである」(P139)


どうして負けたんだろう? これは仏罰が当たったのか?
負けたからにはかならず原因があるはずだ。
その原因を突きとめたら、かならず次は勝てる。こんなことを考え、
なかにはインチキじゃんけん必勝法に高額を支払うものもいるかもしれない。
ツキに関してのわたしの考えは、
ツキのようなものは科学的(確率的、統計的)には存在しないのかもしれないが、
ツキの有無を信じていたほうが人生を楽しめるのだから、
ツキはあると思っていても構わないのではないか、というものである。

最後に変なことを書く。
ルーレットの赤黒を、サイコロで決めてやってみたらどうなるのだろうか。
赤に賭けるか黒に賭けるかを自分ではなく、サイコロの出目で決めてしまう。
偶数が出たら赤、奇数が出たら黒といったように。
これは偶然(ルーレット)に偶然(サイコロ)で勝負しているわけでしょう。
ルーレットにはゼロ(胴元による全部のコインの没収)があるから、
勝てる確率は低いのだろうが、1日くらいの試行回数ならばどうだろう。
もしルーレットの仕切り手が、
玉をどこに入れるかを決められるほどの技術を持っていたら、
まるっきり意味のない行為となってしまうのではあるけれども。

「危険な宗教の見分け方」(田原総一朗・上祐史浩/ポプラ新書)

→2013年刊の元オウム真理教の上祐史浩と田原総一朗の対談本。
おりしもタイムリーというべきか、
現在まだオウム真理教(現アレフ)に所属している信者さんから、
ブログに長文の鍵コメントが入っている(昨日8/20)。
うちのアウトルックエキスプレスの不具合で、
コメント欄記入のメールアドレスはどうしてか開けないので返事は書けません。
ことさら熱心に反応を求めているとも感じませんでしたのでご了解を。

本書でおもしろい仏教説話を知った。
わたしは読んだことはないけれど、出典はどこなのだろう。
いちおうジャータカ物語(釈迦前世譚)でブッダが
自殺も殺人も肯定しているのは知っていた。
小舟に乗っていて殺されそうになったら相手を殺すではないかという文脈だ。
詳しい内容はリンク先をご参照ください。
本書で上祐史浩が紹介しているのは、もっと過激な殺人肯定の仏教説話だ。
少し長くなるけれど、たいへん印象深かったのでみなさまにもお読みいただきたい。

「なぜ殺人を正当化するような教えが出てきたかというと、
仏教の悟りというのは「慈悲」、つまり他者を愛することに関係する、
ということに結びついています。
たとえば、こういうお釈迦様の物語があります。
お釈迦様の神通力によって、ある男がまもなく五百人の人を殺すことを知った。
残念ながらそれを防ぐ手立てがなく、五百人を救うにはその男を殺すしかない。
だが、殺せば自分は地獄に落ちる。
こうしたときに、五百人を殺させないために、
お釈迦様はその男を殺し地獄に落ちることを選んだ。
それは深い慈悲で、自分は地獄に落ちても、
五百人を救いその男が地獄に落ちないようにした。
こうして、仏教の慈悲の教えの中で、殺さなければ救えない人たちは、
自分を犠牲にしても殺すのだという論理が成り立っているわけです」(P106)


不謹慎なことを書くと、
死んだ人はみな仏(善人)になってしまうような風習が日本にはある。
死んだらみんないい人みたいな。
なんだかんだあったけれど、いまから考えたらいいところもあったよ、みたいな感傷のこと。
でもさ、正直に心の底を見つめたら、
だれでも死んでほしい人のひとりやふたりはいませんか?
これまた不謹慎なことを書くけれど、
例の津波で死んだ人で嫌われものもいたわけでしょ?
むかしいじめられてチン毛を燃やされた恨みが忘れられなく、
あいつが死んでくれてヤッターと思った人とか絶対にいないわけではないと思う。
外見上はどんないい人でも、みんなから好かれている人間というのは極めて少ない。
人間には相性というものがあるから、どうしても一部の人間に嫌われてしまうのである。
繰り返すが、死んだ人はみんな善人(仏)になるという通念がこの国にはある。
けれども、死んだ人を憎んでいた人がいる可能性は否定できないのである。
そうだとしたら、殺人は絶対の完全悪だと言い切れるだろうか。
殺人というマイナスにも小指の先ほどならプラスの意味合いがあるのではないか。
死刑を肯定している人というのは、殺人にプラスを見出しているわけでしょう?
危険なことを危険と知りつつ非難を恐れずに書くと、
地下鉄サリン事件で死んだ人がもしお亡くなりにならずその後も生きていたら、
交通事故を起こして多くの小学生を轢き殺していたかもしれないのである。
もしそうだとしたらオウム真理教の地下鉄サリン事件は絶対悪と言い切れるのか。
詭弁(きべん)という自覚はあるけれど、
遺族感情を無視して世間からの批判を恐れずに「本当のこと」を書いてみた。
地下鉄サリン事件のことはもう忘れてしまったが、
死んだ人のおかげで会社でのポストが上がった人もいたことだろう。
そして、死んだ人のなかに将来悪事をする人がいなかったとは、
だれにも断言することができない。
むろんのこと、だから人を殺してもいいという論理に直結するのは安易だし、
断じて地下鉄サリン事件を肯定しているわけではない。

しかし、将来少女を連続レイプしそうな男がいたとしたらどうだ?
その男は殺してもいいのではないか? それとも人権とやらが尊重されるべきなのか?
死というのはマイナスばかりではない。
だれかが死んでくれたおかげでそのポストが空き出世する人が現われるのである。
反対から言えば、だれかが死んでくれないとなかなか人は出世できない。
これは政治家の世界では暗黙の了解のようになっているのではないか。
だが、どうして男というものは(自分もふくめて)出世したがるのだろう。
上祐史浩がオウム真理教に入った動機はこうだ。

「これは私だけではなく、新実智光[死刑囚]もそうだったようですが、
普通の組織に行くと、すでに先が見えると感じていたんです。
組織の中で、十年二十年三十年とコツコツ働いて、ようやく部長程度になれる。
世の中に対して、頭打ちの印象を持っていた。
一方、麻原は我々に、「今入った者は将来の大教団の大幹部だ」と言うわけです。
私や新実、村井とかはオウム真理教が出家者を集めはじめたときの人間ですから、
ある意味で創設メンバーです。
新実も、それ以前はそれなりの企業に勤めていたのですが、
「このまま働いても、先が見える」と言っていました」(P32)


野心ある二十代の青年の本音だろう。
いまアルバイトをしている職場にも二十代と思しき社員さんがおられるが、
先が見えたような気がしていやにならないのだろうか。
本当にいまの仕事を天職だと思っているのか聞いてみたいところがある。
さて、麻原彰晃はすごかったと言えなくもないのである。
どうしてかと言うと、ノーベル賞を受賞したダライ・ラマと親友だったというのだから。
ノーベル賞を取るまえから麻原はダライ・ラマと深い親交関係にあった。
上祐の証言では、麻原彰晃はダライ・ラマから尊敬されてもいたという。
少なくとも麻原彰晃に先見の明があったことはたしかだろう。
もちろん裏の話はあって、麻原彰晃はダライ・ラマに2億円近く寄付したらしいのだが。
しかし、言い方を変えればノーベル賞のダライ・ラマもその程度の男なのである。
もっと言ってしまえば、ノーベル賞もさして権威を持っていないのかもしれない。
金とコネというのは、ものすごい力を発揮するのだと本書で知った。
オウム真理教は1億円以上の金をロシア高官に払った。
すると「偉い人」をいろいろ紹介してくれ、ロシア国営放送の30分枠までもらえたという。
テレビで放送されているのだから本物だろうと、
ロシアにオウム真理教の信者が大勢発生してしまったという。
いかに地位のある人に近づきうまく裏金を渡すかが世渡りの秘訣なのだろう。
社会主義国はとくにそういう傾向が強いのかと思われる。
有名人の田原総一朗の言葉も拾っておこう。

「たとえば『資本論』のマルクス。マルクスの資本論は、
「経営者、資本家が労働者を搾取して、奴隷のごとく扱って、
自分たちだけが豊かになっているが、いつの日か労働者が革命を起こす。
革命は絶対に正しい」という主張。
革命が絶対に正しいなんていうから、革命を起こした国、
ロシア、ソ連、あるいは中国、北朝鮮などでは、
政府を批判したら監獄行きという状態になってしまった。
それはおかしいというので、
「絶対正しいなんてことはない、真理も真実もない」
というのが今の相対哲学なんです」(P187)


上祐史浩はいま「ひかりの輪」というセミナーを主催しているという。
言い方はよくないが、オウム真理教ほど効き目はないのではないかと思われる。
薬は毒なのである。副作用の強い薬ほど患者を癒すという面を忘れてはならない。

(関連記事)
「オウムをやめた私たち」(カナリアの会/岩波書店)

今年のナマステ・インディアは9/26、27なのか。
たまに行き忘れてしまう年もあるけれど、基本いつもひとりで行っている。
またまあインドというイベントの土地柄もあり、
来るのは男女ともにことさら変人が多く、ひとりものも少なくない。
いつもはひとりインドの空気を満喫したあと、
いちばんお得なターリーセットを買い、
持ち込んだ冷えたいんちきビールを飲み干しながら、
日本のインドを楽しむのが常であった。
お土産にはNTR製のレトルトカレーを大量購入。
ビヒンディマサラとパラクパニールがわたしのお気に入り。
安くまとめ買いするなら日曜のほうがいいけれど(負けさせる)、
土曜のほうが売っている種類が多いというメリットがある。
いつかいっしょにナマステ・インディアに行こうと約束していた女友達がいたが、
そういえば実現したことはない。
うん? 考えてみたら、男友達っているのか?
大学を出てからの男同士の関係って、
どうしても見栄の張り合いになってしまうような気がして長続きしない。
どっちが上かとか、どっちが下かとか、勝ったとか負けたとか、めんどくさい。
そもそも男が嫌いだし、かといって女が好きかといったらそこまででもなく、
概して人間というものにあまり期待していないところがあるのだろう。
こんなわたしといっしょにナマステ・インディア2015に行きたいという人がいるらしいが、
東方不敗さんにはブログコメント欄ではなくメールをくださいとお願いするしかない。
プライベートを根掘り葉掘り聞かれたり、宗教の勧誘をされるのならいやだなあ。
それと職場の上下関係をプライベートに持ち込まれても困ってしまう。
万が一酒乱にからまれても構わないとまでのご覚悟をお持ちなら、
東方不敗さんメールください。
職場のインド人女性Rさんとかわたしより「偉い」らしいんだよねえ。
わたしは昨日13;00~20:30勤務だったけれど、
既婚子持ちのインド人女性Rさんは12:00~21:00まで
楽なところでおしゃべりしながらたんまり稼いでいたから。
べつにRさんを嫌いとかそういうわけではなく、ふしぎな企業風土だなあと。
そこらへんの裏事情も教えてもらえたら嬉しいかも。
あとお仲間に囲まれるのはちょっといやだなあ。
むかし学会員さんに囲まれて自己紹介させられたあと、
まるっきり完全無視されて辛い思いをしたことがある。
「「カルト宗教」取材したらこうだった」(藤倉善郎/宝島社新書)

→人生うんざり、げんなりでねえ。
会社からは「来ないでくれ」と言われ、同僚からは「くさい、うざい、辞めろ」と言われ、
古株先輩からは「今度おれに逆らったらオリコンでぶん殴るぞ」と脅迫されている。
とはいえ、能力が低いため、
上司さまの温情にすがって、いまの職場にしがみついている。
もうさ、カルト宗教にでも入ってパーッとやっていさぎよくパーッと散りたいっていうかさ。
どこかいいカルト宗教はないかとガイド本を読む気分で本書を手に取った。
ラエリアン・ムーブメントはおもしろそうだと思ったが、お金が高すぎて払えないなあ。
この団体の教祖の言葉がおもしろくて笑ってしまった。
きっとここはいい新興宗教でしょうから、金銭的余裕のある方は試すのも一興かと。
セックス教団のトップ、イケメンのラエル氏は快楽主義者のようだ。
教祖のありがたいお言葉を引用する。

「性器もパートナーも、この世にあるものは全て〝おもちゃ”です。
ローマ法王の両親は、『さて、法王を作ろうか』
と真面目な顔をしてセックスしたわけではありません。
父親が母親のおっぱいで遊び、母親が父親のキンタマで遊んで、
それで法王が生まれたのです。
全ては〝おもちゃ”であり、この地球という惑星は〝遊び場”なのです」(P48)


創価学会二代目会長の戸田城聖のような世界観が非常によろしい。
これはある種の真理ではないだろうか。
たくさんの信者を持ちモテモテで大金持の真理体現者ラエル氏は続ける。

「最大の敵は〝考える”ことです。真面目さは非常に危険。
ヒットラーは非常に真面目な男だったのです。
何かのために遊ぶのではない。何かのために笑うのではない。
遊ぶため、笑うためだけに、遊び、笑うのです。
ここはキチガイの学校です。宇宙一のキチガイ学校にようこそ」(P48)


著者はラエル氏を笑いものにする意図を持って氏の言葉を紹介しているようだが、
無学なわたしから見たらジャーナリストの藤倉善郎氏よりも、
セックス教団の教祖のほうがより真理をつかんでいるような気がどうしてかしてしまう。
著者の正義の味方ぶったジャーナリスト根性がプチプチ笑えた。
著者は被害妄想過剰で好戦的な性格のようで、
カルト宗教から訴えられてもこうすれば勝てるうんぬんと書いている。
身もふたもないことを言うと、カルト宗教も著者もおなじ穴のムジナというか。
だって、もしカルト宗教がなくなったら、
その専門ライターの著者は食い詰めてしまうわけでしょう?
カルト教団のいちばんの恩恵を受けているのが藤倉善郎氏とも言えなくもない。
カルト宗教とライターの藤倉善郎は共依存の関係にあると言ってもよいだろう。

著者は本当にプロのライターなのだろうか。
売文ライター世界の常識に自慢話は書かないという決まりめいたものがある。
理由は、読者が不快になるからである。
著者は本書でだれも興味がない自分の彼女の話や、
結婚にいたった顛末(てんまつ)を書いていた。
いやいや、著者が悪いわけではなく、
こんな些末な箇所にいちいち嫉妬する負け犬読者の感受性が間違っているのだろう。
著者は毎日、カルト教団と闘っている気分なのかもしれない。
いやまあ、正義の味方みたいな、さぞ昂揚した毎日を送っておられるんでしょうなあ。
最近わたしは正義とか闘争みたいな言葉に嫌悪感をいだくようになった。
過疎ブログだが、エゴサーチをされて万が一にも
自己愛者の著者から削除依頼が来たらすぐにこの記事を消す。
「本の山」には新興宗教団体のことをいろいろ書いてきたが、
どの団体からも削除依頼メールは来ていない。
精神科を受診しているあたまのおかしな女からの削除依頼ならたまにある。
そういう場合、関わり合いたくないのですぐ消すことにしている。

どこかいいカルト教団はないかなあ。
創設期のカルト教団がいいんだ。大手に入っても、いまさら出世できないから。
いま数人レベルで発足しているカルト教団はないかしら。
教祖のゴースト(ライター)でもなんでもするので仲間に加えてほしい。
カルト教団でいちばんおいしいのはネズミ講とおなじで初期メンバーなのである。
あとカルト教団は絶対悪ではありませんよ。
なぜなら、カルト教団の信者は楽しくてその活動をしているのだから。
困るのは家族や友人知人であって、
信者の目は生き生きしているのがカルト教団の特徴かと思われる。
ああ、生き生きしたいなあ。

「たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する」(レナード・ムロディナウ/田中三彦訳/ダイヤモンド社)

→米国のサイエンスライターが書いたベストセラー。
発売時には全米で話題になったという(2008年米アマゾン科学書トップ10)。
こちらの関心をズバリ直撃するたいへんおもしろい読み物であった。
みなさまは忙しくお読みになる時間はないでしょうから、
内容をわかりやすく噛み砕いたうえでわたしが紹介させていただく。
この本はおもしろかった。

内容を要約したら、
われわれはランダムネス(偶然性)に支配されている世界を生きているにもかかわらず、
なおコントロール幻想にひたっているのではないかという問題提起である。
交通事故や難病、自殺、犯罪というのは、毎年決まった確率で統計上出現するもの。
どんなにドライバー全員が交通安全に気を配っていても、統計的に交通事故は発生する。
いくら健康な生活を送っている人でも、統計的に難病にかかる人は数パーセントいる。
精神病罹患率は1%くらいともうはっきりしていて、
百人にひとりくらいはあたまがおかしくなって、なかには自殺するものもいよう。
当人や周囲は納得できないだろう。
どうして自分が交通事故に遭遇して下半身不随にならなければならなかったのか。
なにゆえ優良ドライバーの自分が子どもを殺してしまう羽目におちいったのか。
いったいどういう理由でよりによって自分が進行性の難病にかかってしまったのか。
なぜ愛する家族は自殺してしまったのか。あれはどうしたら防げたのか。
前世やなんのといくらでも因縁話をつくることができるだろうが、
科学的に見たらそれは統計上の必然的結果であり、
確率的にはあるパーセンテージでかならず出現することが定められている偶然である。
「どうして?」の答えは「統計的必然」であり、「確率的偶然」ということになろう。

いままではマイナスの話をしたがプラスの世界はどうなっているだろう。
世の中には人からうらやまれる成功者やスターというものがいる。
愚民はこういう華やかな人にあこがれ、その努力や能力に感嘆する。
成功者も得意げに「どうして自分は成功できたのか」の苦労話をすることだろう。
だが、科学的に見たら、その成功譚はかならずしも「正しい」わけではない。
稀有なる成功者もまた統計上かならず出現する標本点(事例)のひとつに過ぎない。
成功した理由は「統計的必然」であり、また「確率的偶然」だろう。
どういうことか? たとえばコインを10回投げたとする。
成功者はこの裏表を10回連続で当てられる超能力者のような存在である。
「すごい先見の明」がある人と周囲から讃嘆されるかもしれない。
しかし、コインの裏表を10回連続で当てられる確率というものがある。
1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2×1/2=?
いま携帯電話の計算機で計算してみたら約0.05であった(違う?)。
ということは、2500人にひとりは10回のコイン裏表を当てられるのである。
統計的には1万人集めたら、
かならずそのうち4人くらいが超能力のようなものを発揮する。
科学的に見たら、いわゆる成功は努力の結果ではなく「統計的必然」
あるいは「確率的偶然」と言えなくもないのである。

アメリカでおもしろい実験をしたそうである。
コインの裏表を10回当てさせる実験を学生(被験者)にしてもらった。
実際は「やらせ」で全員に半分当たったという結果報告をした。
被験者のうち40%がこれから努力(練習)すれば、
コインの裏表を当てる確率が高まると答えたという。
最初の5回を当たったと伝えた学生は、自分は未来予測するのがうまいと回答した。

本書には書かれていないが、わたしが考えた身近な話をしよう。
偏差値55の高校生が早稲田や慶應に入りたかったらどうしたらいいのか。
金にものをいわせて可能なかぎり多くの学部を受験するのが科学的に「正しい」。
現役でダメなら浪人しておなじことを繰り返したらいい。
確率は計算していないが、偏差値55でも10回くらい試行したら受かるのではないか。
そして、いざ入学したら人間は結果から判断され、あの人は優秀だということになる。
偏差値50でも三浪する覚悟があれば、早稲田程度なら入れると思う。
わたしは一浪早稲田一文だが、あれは偶然性のたまものだと思っている。
反対のことを言えば、
偏差値75でも東大に落ちることは確率的統計的にありうるのである。
日本シリーズ(7試合のうち先に4試合勝ったほうが優勝)くらいの
少ない試行回数ならば、
本来弱いチームが強いチームに勝つことも十分ありうるということだ。

本書におもしろいエピソードが載っていた。
飛行機訓練の教官は、生徒をほめると悪くなり、怒鳴るとよくなると信じているらしい。
しかし、科学的に「正しい」とされるのは、
動物実験の結果から判明したように叱るよりもほめたほうが伸びるのである。
いったいどうしてこういう矛盾が生じたのか著者は分析する。
たまたま訓練生がうまい飛行をするときがある。これは確率的現象である。
しかし、「平均回帰の法則(大数の法則)」により、
うまく飛行した次の回はいつものような飛行に戻ることが多い。
このため教官はうまい飛行をしたときに訓練生をほめても意味がないと結論づける。
反対に訓練生が飛行でひどいミスをしたときはどうか?
教官はこれでもかと教え子を叱り飛ばすことだろう。
で、次回の飛行は「平均回帰の法則(大数の法則)」により、
いつものような飛行をするケースが多いだろう。
以上のような現象から教官は訓練生をほめても意味がなく、
大声で怒鳴り叱ったほうがよくなると信じるにいたったのではないかと著者は分析する。
教官はランダム(偶然)に起こっていることを(飛行の巧拙)、
コントロールしている(指導の結果)と勘違いしていたということである。

DNA鑑定の話もおもしろい。
犯罪や親子関係の証明のためDNA鑑定がなされることがある。
DNA鑑定の精度(確率)は異説はあるが99.8%くらい「正しい」とされる。
ネットで調べてみたら親子鑑定の場合、「0%」という結果が出ることもあるらしい。
しかし、著者はじつに鋭い指摘をしている。
専門家によると、人によってばらつきはあるが、
人間はおなじことを繰り返していると約1%の確率でミスをするという。
試験薬の取り間違えや置き間違えといったようなことがどの研究所でも起こりうる。
その確率がだいたい1%くらいとされているらしい。
百回に1回くらいなら、けっこうあってもおかしくない事象(事件)ではないか。
だから、著者の説を信じるならば、
DNA鑑定が「正しい」のは百回のうちの99回である。

そろそろ優秀な著者の言葉を借りよう。
上記したように偏差値50でも早慶に合格することは確率的にありうるのである。
努力嫌いのスペックの低い人間でも成功者になることは統計的に起こりうる。
だとしたら、そうであるならば――。

「このことはわれわれに何を教えているのだろうか。
それはスコアボード[学歴、肩書]を見るよりも能力を分析して
人間を判断するほうが信頼できるということである。
あるいはベルヌーイが言ったように、
「結果をもとに人の行動を賞賛すべきではない」ということである。
少数の法則に逆らうには気概が必要だ。
というのは、ゆったりと椅子に座り、
結果を証拠として指し示すことは誰にでもできるが、
ある人間の本当の知識、本当の能力を評価することは、
自信、思慮、的確な判断、そしてそう、根性(ガッツ)がいるからだ」(P151)


世界をコントロール可能なものとしてではなく、ランダムなものとして見たらどうだろう。
われわれは少しばかり因果関係に目をとらわれすぎているのではないか。
ランダムに起こっていることはたまたまで原因のようなものはない。
どうしてわれわれはすぐ原因を考えるような思考法に毒されているのだろう。

「スポーツの世界――あるいは、その他の世界――
の並外れた偉業に目を向けるとき、
われわれは、並外れた事象が並外れた原因なしに起き得ることを
心に留めておかなければならない。
ランダムな事象はしばしばノンランダムな事象のように見えるが、
人間的な事象を解釈するときその二つを混同しないように注意する必要がある」(P33)


著者のみならずランダムネスの強い支配に気づいたものは成功者のなかにもいる。
長年映画会社の社長を務めたデイヴィッド・ピッカーがこう言ったという。

「もし、私が突っぱねたすべてのプロジェクトにわたしがイエスと言い、
私が採用したすべてのプロジェクトに私がノーと言っていたとしても、
結果はそこそこ同じだったろう」(P20)


ノーベル賞受賞経済学者のマートン・ミラーも似たようなことを書いている。

「もし株を眺め、勝ち馬を選ぼうとしている人間が一万人いれば、
一万人のうちの一人は偶然だけで成功する。それが起きていることのすべてだ。
それはゲームであり、それは偶然の作用であり、
人びとは何か意図的なことをしていると考えているが、じつはそうではない」(P269)


著者が本書で何度も繰り返しているのは、
科学的見地からのランダムネス(偶然性)の重みである。
われわれは世界をコントロールなどしておらず、コントロールできるわけもなく、
ただただランダムネスに翻弄(ほんろう)されているだけかもしれない。
ランダムに起こったことをコントロールの結果と見誤っていることがいかに多いか。
科学的に見ても人生において小さなランダムネス(偶然)がいかに重要か。

「科学者は通常、あるシステムの初期条件がわずかに変化したら、
そのシステムの展開もわずかに変化すると考えている。
つまるところ、気象データを収集する人工衛星はデータをせいぜい
小数点以下二桁か三桁までしか測定できず、
0.293416と0.293の差のような小さな差を捉えられるわけではない。
しかしローレンツは、そのような小さな差が
結果に大きな差をもたらすことを発見したのだ。
この現象は、
蝶がはばたくときに引き起こされる程度のほんのわずかの大気の変化でも、
その後の大域の気象パターンに大きな影響をおよぼす可能性があるという意味で、
<バタフライ効果>と名づけられた。
そのような概念はばかげているように思えるかもしれない――
ある朝あなたが飲むコーヒーのおかわりがあなたの人生に大きな変化をもたらす、
と言っているようなものだから。
だが、実際にはまさにそういうことが起きている。
たとえば、残業したかどうかで、将来の連れ合いと駅でばったり出くわしたり、
赤信号を走り抜けた車にはねられそうになったりする」(P288)


先日、自転車に乗っていたら角から現われたべつのチャリと衝突した。
一時停止を守らなかったわたしが悪いのだが、怖いと思った。
あれは一瞬の差であたまでも打っていたら、
いまよりもっとクルクルパーになっていたかもしれないわけだから。
一瞬の差が人生をわけているという残酷な現実をランダム理論はうまく説明する。
われわれは思っている以上にランダムネスに左右(支配)されているのではないか。
ちっとも世界をコントロールなどしていないし、そもそもコントロールできないのではないか。
本書に結論めいたものがあるとすれば以下引用部分であろう。

「ランダムネスの研究は、出来事に対する水晶玉的見解は可能だが、
残念ながら、それができるのは唯一出来事が起きてからであることを教えている。
われわれは、ある映画がなぜうまくいったのか、
ある候補者がなぜ選挙に勝ったのか、なぜ嵐に襲われたのか、
なぜ株価が下がったのか、なぜあるサッカーチームが負けたのか、
なぜある新製品が失敗したのか、なぜ病が悪化したのか、
を理解していると信じている。
しかしそうした専門知識は、ある映画がいつうまくいくか、
ある候補者がいつ選挙に勝つか、嵐がいつ襲うか、株価がいつ下がるか、
あるサッカーチームがいつ負けるか、
ある新製品がいつ失敗するか、病がいつ悪化するか、
を予測するうえでほとんど役に立たないという意味で、空疎である」(P299)


ランダムに選ばれた人が成功者やスターになっているだけかもしれないのである。
それはまるでランダムに選ばれた人が進行性難病にかかってしまうようなもので。
もしそうだとしたら、時給850円労働者のなかにも、
たまたまランダムに選ばれなかったが、素質はあるものがいるのかもしれない。
そういう人にもこれからランダムに幸運が舞い込んでくるかもしれない。
この記事を書いたことがランダムにどう影響するのかを考えると
少し怖いような気もしなくもないが、
ランダムネスは人間の手にはおよばぬ領域なのだからあれこれ考えても仕方がない。

酒のつまみに納豆オムレツをつくろうとしたら塩ではなく砂糖を入れちゃって。
トホホな人生でR。200円の損害(納豆100円、卵6個50円、長ネギ50円)。
実験的にきざんだキュウリを入れてみたのだが、砂糖投入のため味見かなわず。
まったく、まったく、本当のところミスが多い人生でR。
会社から明日も「休んでくれ」と言われちゃったや。
今月、12日も自主的に休んだのではありますが。
いえ、それ(明日)は社員さまの好意かもしれないわけで。
正直、13~15時ピック、15~17時入庫で「帰れ」と言われるくらいなら、
家で本を読んでいたほうがいいとも思えなくもないわけで。
明日だって13~19時ピックオンリーの女性がいるわけでしょう?
あれが目標なのである。
お偉い女性さまであられるFさんやHさんは、
今月シフト記入日に「休め」と言われたことは一度もないのではないか。
わたしは一度社員さんのことをおもんばかって明日は休みますと言ったら、
ああ、こいつは休み要員と思われたのか本日もいきなり明日休めと命令された。
不快であるかといったら、かならずしもそうではないのが難しいところである。
ぶっちゃけ、入庫込みで4時間で帰されるのなら、
家で本を読んだりその感想を書いていたほうがいい気もするのだから、
まったくのところ人間失格でR。
なんで古株女って「休め」とも言われず、13~19時までピックオンリーなのか。
女になりたいなあ。かわいい女の子になって男を惑乱してみたい。
この記事を書いたのは万が一のため。
バイト先の人はだれもこんな過疎ブログを読んでいないはずでR。
万が一にもひとりでも読んでいらしたら、
土屋は断じて優遇されてなどおらず、
上からは最低レベルのあつかいを受けていると周囲にお伝えください。
そういえばむかしコーヒーに砂糖ではなく塩を入れて吐き出したこともあった。
いやはや、ミスの多い人生でR♪
「やっぱり、人はわかりあえない」(中島義道・小浜逸郎/PHP新書)

→往復書簡集。よく知らなかったけれど、小浜逸郎って人が嫌いになった。
この人は造語になるが、庶民派インテリとでも言おうか。
やたらインテリぶって有名哲学者や有名文学者の権威を借りるのである。
しかし、自分は庶民の味方で大衆寄りで「普通の人」がいちばん偉いと公言する。
身もふたもないことを言うと、庶民派や大衆寄りってずるいんだよねえ。
あれって弱者の味方ぶっているけれれど、
本当に汚らしいことを言ってしまえば、庶民や大衆というのは圧倒的多数派でしょ?
「正しい」というのは数の論理(正義は多数決で決まる)なのだから、
庶民派ぶったり大衆を擁護したりするのは計算高い証拠と言えなくもない。
いまの日本でいちばん偉いのは庶民や大衆ではないか。
政治家も金持もテレビも新聞も庶民や大衆を批判することができなくなっている。
みんな庶民の味方ぶっているけれど、大衆は愚かだというのが本音でしょ?
だから、庶民さま、大衆さまとやっておけば、あいつらは満足して騒がない。
へたなことを庶民さまや大衆さまに言うと、おれらを見下すのかと激憤するから怖い。
この点、おのれを庶民や大衆と同一視しながら(うそこけ爺さん!)、
そのくせ無知蒙昧な下層民が恐れをなすだろうと姑息にも計算して、
有名哲学者や有名文学者、古典の内容をやたら引き合いに出す小浜逸郎にはげんなり。
うまいこと人生の甘い果実を食い散らかした団塊世代の象徴が小浜逸郎ではないか。
中島義道が小浜逸郎をこう評している。

「……小浜さんの武器(言葉)は案外素朴で、どんな戦闘でも、
いろいろ配慮はしているが、結局自分はほぼ完全に正しく、
相手がほぼ完全に間違っているとなる」(P20)


本書でもまったく意味のない論争のようなものをしているが、
あえて勝敗をつけるならば小浜逸郎に軍配が上がるだろう。
なぜなら庶民派ぶった大衆擁護の論客(笑)だからである。
多数決を取ったら、庶民や大衆は小浜逸郎に票を入れるだろう。
結果、民主主義的に小浜逸郎なる庶民派インテリが「正しい」ことになろう。
愚鈍な庶民とか大衆とか、そのリーダーの小浜逸郎は、
本気で人と人はわかりあえるとか信じていそうでブルブルッとするぜ。
「話せばわかる」とか狂信に近いレベルで思い込んでいそうで恐ろしい。
論争したっていくら議論したって、
それぞれ自分は「正しい」と思っているふたりは決してわかりあえないとわたしは思う。
ブログをやっていていちばん迷惑なのはコメント欄で議論を吹っかけられることである。
議論の結論は「あなたは正しいし、わたしも正しい」しかないにもかかわらず。
あるいは「あなたも善で、わたしも善」というほかなく白黒なんてつかない。
中島義道は論争好きな小浜逸郎のことがわからない(理解できない)。

「……私にとって「善い」とは「好き」とさして変わりありませんから、
小浜さんのように、
さまざまな論客との論争が(少なくとも真剣には)できないのでしょうね。
俺は自分の感受性に基づいて「善い」という言葉を使うから、
おまえも自分の感受性に基づいて「善い」という言葉を使えばいい、
オワリ、という具合です。
言い換えれば、すべては趣味の問題に行き着くように思われます」(P88)


どうして学会員さんは池田先生が「好き」と言わず、
絶対的に「正しい」とまったく感受性が異なる他人を折伏しようとするのだろう。
好きか嫌いかを問われたら、
ダークヒーロー的な意味合いで池田さんのことは少なくとも嫌いではないが、
SGI会長の言うことがすべて「正しい」とはわたしは思わない。
けれども、そう思う人がいてもいいし、
その人の意見を他人が変えることなどできないことをわたしは知っている。
あっ、最後に断わっておくと、わたしは庶民で大衆で下層民だから。
だって、中島義道や小谷野敦の本を読むインテリなんているはずないっしょ♪

「[図解]いま、ブッダに学ぶ」(ひろさちや/ワック)

→東大卒の小谷野敦さんがわざわざ、ひろさちや(こちらも東大ね)の本を読んだという。
よくさ、あれだけプライドの高い小谷野さんが
ひろさちやの本なんて手に取ったものだと驚く。
パラ読みしただけで、ひろさちやはあれな本を書く人だってわかるでしょうに。
もしかしてわたしは小谷野さんから相当に気にかけてもらっているのだろうか。
それなのに、なんてわたしは悪い子なんだろう。
まえにも書いたが、いぜん知り合いに金は自分が出すから、
小谷野さんの主催する猫猫塾に一緒に行こうと誘われたことがある。
「えええ、なんかいやだなあ」とありがたいお誘いを断ってしまった。
でもまあ、ひろさちやの愛読者だけれど、
こちらの先生の講演会にも行ったことがないから平等。
小谷野さんは売れっ子仏教ライターのひろさちやがお嫌いらしいけれど、
それを知ってもわたしはどうとも思わない。そりゃそうだよなあ、というか。
わたしだって、ああ、恥ずかしいと赤面しながらひろ氏の本を読んでいるくらいだし。

よく「いいかげんに生きよう」とか脱力系の癒しエッセイを書く人がいるけれど、
そう言う人は概して書くものと「中の人」が違って、本人はまじめなのである。
しかし、ひろさちやさんは本を数冊読めばわかると思うが、
本当に「いいかげん」を地で生きているところがある。
氏の神仏レベルの粗製濫造ぶりが
「いいかげん(氏によるとこれがブッダのいう中道らしい)」を見事に体現している。
ひろさちやはわたしにとっていちばんの仏教の先生だが教祖ではない。
教祖ではないから、だれかがひろ氏を批判してもヘッチャラ。
信者は教祖が批判されると感情的になって怒るでしょう。あれは怖いよねえ。
ひろさちやは創価学会嫌いだが、
学会員さんもさあ、名誉会長をひろさちや程度にみなしたらいいんじゃないかな。
よく聞くけれど、学会員のなかにもアンチ池田って多いんでしょ?
「王者の池田先生」ではなく「まーた池田センセったら」ていう感じ。

この本でも、まーたひろセンセったら飛ばしまくっている。
この受賞歴ゼロの仏教ライターの弟子でも信者でもないけれど、
わたしはひろさちや先生が好きである。
しかし、だれかにひろさちやの本をすすめたいとは思わない。
こんなくだらないの読んでいるの、とバカにされたらいやだも~ん。
ひろさちやはお釈迦様誕生時の「天上天下唯我独尊」をこう解釈する。

「よく勘違いされるのですが、この「天上天下唯我独尊」とは
「お山の大将おれ一人」という意味ではありません。
「私の説くのは、宇宙の真理である。世の中でいわれている、
何が正しいかといったような相対的な真理ではない」という宣言なのです」(P8)


世間でいわれている「正しい」ことなんて、
時代によっていともかんたんに変わっちゃうもんねえ。
真理なんて人間には見えないのかもしれない。
さて、みんなお釈迦様の弟子になったわけではないのである。
悟ったのちのお釈迦様を本物だと見抜けなかったウパカという修行者がいたそうだ。
ウパカはお釈迦様に質問する。

「ウパカは「あなたはなかなかいい顔をしている。
おそらく何か真理をつかんだに違いない。あなたの先生はいったい誰か」
と尋ねました。すると、
私は誰に教わったわけではない。師なくして私が真理を悟ったのだ」
とお釈迦様は答えました。
要するに無師独悟(むしどくご)ということをおっしゃいました。
すると、ウパカは「そうかな」と首を振りながら去っていった……
と経典に記されています。
古代のインドでは、真理というものは「誰に教わったのか」が大事だったのですね。
現代の日本でいえば、立派なことを話す人に
「あなたはどこの大学を卒業したのか」と問い、
「大学にはいっていない。中卒だ」という答えが返ってきたら、誰も信用してくれない。
それと同じです。お釈迦様が「自分に先生はいない」
といった途端に、相手から信用されなかったわけです」(P9)


ひろさちやさんも仏教をだれか先生から教わったわけではなく独学。
どうでもいいわたしのことを話すと、こちらも教育機関で仏教を学んだことはない。
先生の弟子になってしまうと、よほど器の大きな先生に当たらないかぎり、
先生の解釈がほぼ絶対的に「正しい」ことになってしまう。
いくら先生とはいえ、人間ごときが絶対的真理などつかめるはずはないのだが。
そして、先生を「正しい」と思うと、自分の真理を探そうという気がなくなってしまう。
ただただ先生の教える知識を記憶することが仏教を学ぶことになってしまう。
それは違うと「無師(先生がいない)」のひろさちや氏は言う。

「知識を積み重ねたところで仏教はわかりません。
信じるか、信じないか、そこのところが問題なのです。
「信じる」というふうに深めていかないと、どんな話を聞いても、
「ああ、そうか」とうなずくだけで、何の意味も持たなくなってしまいます」(P11)


真理を他人から教えてもらおうなんて、甘い、甘い。
真理はそれぞれがそれぞれに解釈(言語化)することができるが、
真理そのものはだれにも教えられないのではないか。

「そもそも真理というものは、言語化できないのです。
極端にいえば、言語化したとたんに真理が真理ではなくなってしまう。
そこまでいえると私は思います」(P12)


しかし、それでは本にならないし、ひろさんに印税が入らないから、
いちおうのところ氏もお釈迦様の悟った真理とされる縁起(えんぎ)を
以下のように簡潔に解釈(言語化)している。

「縁起とは物事に原因なんてないということ」(P36)

「「原因はない。縁があるだけだ」ということを別の言い方で表現すると、
「ありとあらゆるものが絡み合っている」ということでもあります」(P39)


「物事に原因がないのだから[=縁起]、原因はわからない。
ならば、解決しようと考えても意味がありません。
だって、わからないのだから、解決しようがないでしょう」(P41)


「何のために仏教を勉強するのか。仏教のために仏教を勉強してください。
喧嘩した。原因はわからない。
それさえわかればいいというのが仏教なのです」(P41)


「仏教=喧嘩した。原因はわからない」

どれだけ「わからない」ことをわかっているかが仏教の要諦なのかもしれない。
未来のことはわからない。他人のことはわからない。
「真理は人間ごときにはわからない」ということをどのレベルまで理解したか。
わたしの現在のレベルは「お経の意味はわからない」が理解できたくらいのところかしら。

「頭の悪い日本語」(小谷野敦/新潮新書)

→最近、有名評論家の著者がよくわたしのことをブログで取り上げてくださるので、
感謝の表明というか、まさか逆鱗に触れることはないだろうが、
少なくとも怒らせてはいけないと思って、それに礼儀上の問題もあり、
「もてない男」で知られる、
しかし東大卒の美しい奥さんをお持ちの元大阪大学助教授のご本を拝読する。
まじめな読者はこの本を読んで居ずまいを正したりするのだろうか?
「頭の悪い日本語」を使わないようにしようと反省してみたり。
結局のところ「正しい」日本語とはなにか?
1.古い使用例がある。
2.多くの人が使っている。
この二点によるところが大きいと思う。
しかし、どんなに「正しい」日本語も最初は新語(造語)だったのである。
その新語が普及すれば「正しい」ものとなる。
でもさ、いくら「正しい」とはいえ、いま鎌倉時代の言葉を使っても通じないでしょ?
もとから誤字や誤用の多いわたしは「正しい」日本語にそこまでこだわっていない。
まあ、通じればいいじゃん、くらいのスタンス。
誤字や誤用があっても大半は意味が通じるのだから、それでいいのではないか。
外国人と働いていると、「正しい」日本語なんてどうでもよくなる。
そのうえ、人のミスを指摘するのって偉そうで「恥ずかしい」気がする。
人のミスばかり指摘しているうちに、
自分は「偉い」「正しい」とか勘違いするようになったら最悪ではないか。
小谷野さんは「正しい」ことを指摘するのがどうして「恥ずかしい」のかと
さっぱり理解できないふりをすることだろう。
しかし、いくら小谷野先生でも「恥ずかしい」という感情は残っているのである。
それは以下のエピソードからわかる。

「さて、私が二十歳のころ、ラジオで小澤征爾の弟の小澤幹雄が
「やわらかクラシック」という番組をやっていて、
そこで[幕間(まくあい)を]「まくま」と言った。
今だってこんなにやかましい私が二十歳なのだから、さてこそと葉書を出した。
すると五日もせず、小澤氏手書きの丁寧なお詫びの葉書が来て、
私はものすごく恥ずかしかった」(P142)


うわっ、それ思いっきり「恥ずかしい」ですよ。
どうせ小谷野青年のことだから、鬼の首でも取ったようなことを書いたんでしょ。
人のミスをこれ見よがしに指摘するのは、やはりどこか「恥ずかしい」のである。
だれだってミスをするし、ミスを指摘されたら、あまりいい気持はしないのだから。
うちのブログなんて誤字率、誤用率は異常なほど高いのではないか。
みんなやさしいし、そのまえにだれにも読まれていないから、気楽なもんさ。
わたしは日本語は(外国語も)通じればいいというスタンス。
どうして人間って自分を「頭がいい」と他人から思われたがるのかね。
著者も書いていたが、自分を賢そうに見せかけた文章ってお粗末なことが多い。
やたら漢字を使ったり、英語カタカナ表記を好んだり、哲学者の言葉を引用したり。
読んでいるこちらが赤面するような恥ずかしい日本語ってあると思う。
言葉の存在意義は自己虚飾ではなく(それも悪いとは言えないが)、
意味伝達が第一義のような気がする。
「本の山」が目指すのは偏差値40の女子高生にも読んでもらえる文章である。

なーんか、ツイッターとかライン(これはよく知らない)とか好きになれなくてさあ。
お仲間となれあっているみたいのって、夏だし暑いし蒸れてるし、あれじゃん?
というわけで、いただいたコメントもすべて無視してきた。めんどくさって。
けっこうリスクのある行為なんだぜ。
無視された、おれを舐めるなよ、とか発狂する人も出ないとは限らないから。
実名でやっているから、あることないことネットに書き散らされたら人生フィニッシュだし。
というか、もうフィニッシュしている自覚があるから、コメントを無視できるのかも。
評判とかもうぜんぜん気にしていないから。
いちおうブログランキングとかあるみたいだけれど完全無視だし。
そういえばバイト先でも先月のミス一覧表みたいなランキングが貼りだされていた。
ミスは多いほうだから、もしかしたら栄えあるワースト1を獲得していたのかも。
でも、いい歳だし、いまさら他人の評価なんてどうでもいいから、ミス一覧は見ていない。
それにしても会社はエグイことをするよなあ。
ミス上位者はそれを見たらかえって気になってさらにミスが増えるだろうに。
そういうことをしないのだけがうちの会社のいいところだと思っていたけれど。
ミスなんてさ、間口(持ち場)によって本の出る量も入れやすさもぜんぜん違うんだから、
いちがいに数値だけで判断できないと思うけれども、
ランキングが好きな人がいるのだろう。人を数値化するのを好む人。
いや、いいんですよ。数字しか人間を評価できる客観的基準はないんだから。
年功序列(古株重視)をやめるなら、数値化しかないって話。
会社はランキングを貼りだす自由があるし、バイトはそれを見ない自由がある。
あんなもん見たら、こちらメンタルが弱いから(ほんと?)ミス連発するよ。
そうそう、質問コメントに答えなければ。
会社の人にブログを自分から教えたかって?
そんなことするはずないじゃない。
だれもわたしになんか興味がないに決まっているんだから。
あんがいいまでもだれも読んでいない可能性もある。
無名の人のブログなんてだれが読むかって話でしょう。
それから汗対策として東洋医学はどうでしょう、というコメントをいただきました。
書かなかったけれど漢方はさんざんやっているのである。
かなり漢方薬は試したけれど(医療用)、劇的な改善は見られなかった。
いまでも漢方薬をのんでいるのはどちらの先生にも秘密。
薬嫌いの人っているじゃない? わたしは正反対でお薬大好き。
太極拳はめんどくさっ。鍼灸は高そう。
西村賢太のようだけれども、多汗症の気がなくもないのである。
気にしていたが、気にしてもしようがないので、気にしていないふりをしていた。
本音ではいちばん気にしていた、わたしのいちばんの弱点だった。
そういう人のどうしようもならない身体上の弱点を笑いものにするのは、
わたしの感覚では女がするものであった。
毎日、時給850円の職場でみなさまから「ふつうの人」の感覚を学んでいる。
わたしの汗っかきをバカにして笑いものにしていじめてくるのは男なのである。
男性3人が休憩室で、わたしにも聞こえるように、
これ見よがしに「土屋って汗っかきできもいしくさいよねえ」と大声で雑談していた。
ほう、そう来ましたか、と瞬間思ったものである。
さらに驚いたのは、その瞬間に休憩室にいた老若男女全員が、
あたかも同意したかのように大声で一同笑したことである。
たとえれば、創価学会の池田大作がなにかを言って、みんな大笑いするあの感じ。
ふーん、とも、おお、とも思った。やはり人間ってこんなものなのだなあ。
異質な人間がひとりでもいたら、みなで排除しようとする。
ひとりで面と向かっては言えないことでも、群れて集団でならなんとでも言える。
「人間なんて、そんなもの」
――はわたしが山田太一ドラマから独学(誤読)したゆがんだ人間観である。
まあ、人間ってそんなものだよねえ。
本当のところわたしは汗っかきだから、
いちばん気にしている(指摘されたらいちばん傷つく)本当のことを、
おおやけの場でみなからあざ笑われても、まあ人生そんなもの、人間そんなもの。

むかしは若い医者が嫌いだった。
そして、女の医者は目を合わせたくないほど苦手だった。
人は変わるものでいまは若い女医先生が大好きである。
なんでかって、こちとらもうおっさん(高齢者)だから、
「この薬がほしいので出してください」とけっこう高圧的に言えるからである。
やはり読書経験の豊富(ちなみにこれはなんの意味もない)が悪影響して、
顔のふしぶしに他者を不快にさせる威圧感が出ているのだろう。
臨床経験が少ない女医など、わたしにかかれば赤子の手をひねるようなもの。
「汗をストップさせる薬」というものがあるのである。
劇薬と思い込んでいる医者も多く、医療処方されるのは難しいとも聞く。
むかし某所で処方していただいたことがあるけれど、たしかに副作用が非常に激しく、
薬で副作用なんて感じたこともないタフなわたしもクラクラになるくらいの
ダメージがある(口が渇く、ゆえに話せない、あたまが痛くなる、注意力散漫)。
しかし、その薬は西洋医学の結晶とも言うべきもので、
本当によく効くのである。もう名前を出しちゃおう。プロバンサインだ。
プロバンサインはめったに出してくれないぞお(ネットで見た感じ)。
若くてお美しい女医さんだったら、こちらの「こわもて」で一発解決である。
血圧とか尿酸とか、そんなくだらねえ症状で通っている近所の病院の
(医院長ではなく)週1回の通院医の若い美人女医に「プロバンサインをください」。
あなたにほかの選択肢はないんです。ただ一択、「プロバンサイン」。
お薬辞典を調べる女医にたたみかける。
「1日何錠までOKですか?」「4です」「でしたら4でお願いします(ふつうは多くても3錠)」
有無を言わせぬ命令形である。
さすがに若い美人女医よりもわたしのほうが「偉い」だろう? え、違う?

とにかく、プロバンサインは副作用がすごいのである。
これをのんでいたら絶対に身体に悪いし、早死にすると思う。
でもさ、あはっ、わたし、べつに長生きしたくないから、これ最強。
汗対策のため朝食も昼食もとらずに(なにか食べると効かなくなる)、
空腹でプロバンサインを3~4錠一気にのんで時給850円のアルバイトに行く。
たしか1日のマックスは4錠だが、バイト中にもがんがんプロバンサインを服用する。
1日8錠くらいのむこともあるのではないか。
もちろん、医学的にはアウトだが、べつに死んでもいいから。
「あいつ汗くさい」「きもい」「そばに近づきたくない」
と(女ではなく)男集団から陰口をこちらに聞こえるように言われたのがショックだった。
これはかなりむかしの話でいまさら恨んでいるどうこうではない。
へーえ、人間って大人になってもそんな子どもっぽいいじめをするのかあ。
それに同調して、あたかも新興宗教のように、みんなで本当にみんなで大笑いして、
ひとりぼっちの人間を追い詰めるんだ。たいへんな社会勉強になりましたねえ。
バイトに行く日にプロバンサインを大量服用できるのは、
休日にはまったくのんでいないから。
そのうえ、若年女医や利益重視の薬局の問題もからんでいて、
詳細は書けないけれど大量処方が可能なのである。
とはいえ、プロバンサインをのんでさえも、きついところに振られたり、
こちらの体調が悪いと、汗をかいてしまうことがある。
本当に職場のみなさまにはご迷惑をおかけして申し訳ないことだと思う。
読者さまにプロバンサインは絶対、絶対におすすめしない。
なぜなら、あれは絶対に身体に悪いから。
たぶん寿命が縮まるし、変な病気になる確率も高まるだろう。
わたしの場合、まあ死んでもいいから。
お盆休みで暇だったのでカウントしてみたが、
わたしが死んでも悲しむ人は五本指で足りるのであった。