先月でバイト先を辞めてしまったYさんという女性がいる。
わたしと同年齢くらいの女性。
ピッキングがやたらスローで、しかし味のある動きをするのである。
ときどきYムーブと称して、Yさんの動きを真似たピッキングをしていた。
人は人の長所ではなく欠点を愛する。
わたしはYさんの動きが好きだったから真似をした。
いつしか人嫌いのわたしもYさんと話すようになり、
中学1年の息子さんがいることを知った。バツイチだという。
うーん、Yさんも恋愛して結婚して出産して離婚したのか、
と世界を知った気分になったものである。
本では知りえないなまの現実を知ったぞ、
と大発見をしたかのような気分になりその晩は慶事を祝して過飲したものだ。
まこと失礼な話だが、恋愛とか結婚とかちょー難しいと思っていたから、
失礼に失礼を重ねるが、
Yさんも人並みに恋愛や結婚や出産をご経験なされたのか、
と人生の神秘に打ち震えるような気がしたものだ。離婚までご経験なさっている。
そのことをだれが読んでいるかもわからぬこのブログに書いた。

わたしは「木木木」さんがおっしゃるように仕事ができない人間のクズだが、
Yさんにはどうしてか親しみをいだいてもらえたらしく、
ある日わざわざ「あたし今月でここ辞めるの」と教えてくれた。
わたしがYさんともう逢わなくなるという最後の日、
偶然かそれとも上の粋(いき)な計らいかラインの横に入れてくれたのである。
本当に嬉しかった。こんなことをしてくれる会社がほかにあるものか(偶然かな)。
人は旅人のようなもので、今日で別れる人には心を許すのかもしれない。
意外なほど近所に住んでいたので驚いたものである。
お買い物先ネタとか、おもしろいわけ。
Yさんは会社から支給される交通費以上の出費をして、ここに出勤しているのを知った。
5年近く(?)もいる古株なのに、長く勤務していた部署が異なるせいもあり、
まったく偉そうなところがない。

最後の日、気さくにタメ口で話していたら、いいアルバイト先に入社が決まったそうだ。
なによりいいのが家の近く。そして大手。そして肉体労働ではなく事務仕事。
うちの会社のように早く帰されるようなこともない超優良勤務先だ。
うちの会社の時給は850円だが、そこは千円で土日は50円つくという。
オープニングスタッフだから、気まずい先輩後輩関係のようなものもない。
みなさん時給850円から離れられない理由は、おそらく面倒くさいから。
とにかく履歴書を書くのがやれやれである。
わざわざ時間を割いて面接に行っても、値踏みされ落とされることが多い。
Yさんに聞いた。いろんなところに応募したんですか?
そうしたら、そこしか応募しないで、まさかと思っていたら一発で受かったという。
「運がよかったんだね」「うん。運がよかった」
わたしまでなんだか嬉しくなったものである。自分でも驚くくらい嬉しかった。
人が幸福になるのを喜べるくらい、ある意味で治ってきたのかもしれない。

最後だから聞いちゃいけないことを聞いてみたくなるものである。
「いくつなの?」
「あなたよりは上だって思うけど」
女性に年齢を聞くのは失礼な話だが、
最後の日だからいいのではないかとつい聞いてしまった。
当然、答えてもらえなかった。17時にYさんは検品に行かされた。
唐突なお別れだった。これでこの人ともう一生逢えないのか。
人生、そんなもの、こんなもの、みな旅人よ。
Yさんの上がり(仕事終了)は18時である。
18時にYさんがわざわざわたしに別れの挨拶をしにきてくれたのだ。
「何年生まれ?」と聞かれた。「昭和51年」
「やっぱりあたしのほうが上だった。あたしは昭和49年」
お姉さんだったのだと知る。
「いつかまた絶対どこかで逢える気がする」とYさんは言った。
「お世話になりました」「こちらこそ」
こうしてYさんとわたしは別れた。もう逢うことはないだろう。
この職場はずるずる居つくような麻薬性(イイ!)がある。
「Yさんはどうしてここを出ようと思ったんですか」とわたしは最後の日に聞いた。
「息子も中学に入ったし、塾に行かせたいから稼がないとって思って」
Yさんの母親としての息子への感情にとても強く感激したものである。
その日、最後の日は、
15年まえ母親がわたしの目のまえで飛び降り自殺をした日であった。
神さまや仏さまというのはなんと粋な計らいをしてくれるのだろうと、
その日帰宅してから酒を飲んで泣いた。よかったと思った。
生きていてよかった。ここで働いていてよかった。
無遅刻、無断欠勤なしだけが自慢なのに遅刻してしまった。
起きたら就業5分まえって、それで大人でいいのかよって話だが。
けれども、結果的によかったのか悪かったのかわからない。
就業時の昼礼でわたしの顔がないので本当にホッとした人もいるだろうから。
まずいと思ったのは、
いつも出社まえにこれをブログに書いて1日働けるのか考えてから家を出る、
まあ、だれも読んでいないんだろうけれど。
出社まえに記事を消してから行くことなんてひんぱんにある。
酔っぱらって書いた記事もあるから、そういうまずいやつはさくさくっと消す。
今日は急いでいたからなにを書いたのか覚えていなくて出社してしまった。
会社で怖い、怖い、なにを書いたか覚えていないのだから。
なんかすげえやべえ恥ずかしいことを書いたような気がするけれど。
帰宅して削除、削除。読んだ人は読まなかったことにしてね。
わたしも読み返さないから。

引き際って大事だよなあ。劇というのは、
だれか新しい人が入って来て、だれかがそこから出ていくことで完成する。
新参者と旅立つ者はいっしょのときもあれば、違うときもある。
わかりやすい芝居の場合、新参者が去っていくことで劇(ドラマ)が完成する。
もうそろそろわたしが出ていく「とき」ではないかという気がするのである。
もう1ヶ月くらいいてもいいのかなあ。
あるバイトの古株さんが2日連続で休んでいるけれど、
あの人がブログにご批判おコメントをくださりロッカーのネームを剥ぎとってくださったのか。
わたしはコメントを読んだときに直観的にその人だと思ったのだけれど、
ふたりから女性ではないのかという指摘があって他人の感覚を信じてしまった。
わたしがブログに書いている内容から比べたら、
あのくらいのご批判ぜんぜん気にしていないですよ。
どうかご出勤ください。そっかあ、あの人、結婚なさっているのかあ。
「土屋が辞めるまで会社に行かない」とかおっしゃっているのかしら。
なおさら辞めなきゃいけないって思う。しかし、次どこに行こう。
それが決まらないと自分が壊れちゃいそうで怖いんだ。

時給1600円の派遣は落ちたんだろうなあ。
でも、やりませんかって向こうから電話してきた手前、どう断るのかって話で。
「人員が埋まりました」のメール1本でいいですよ。
そんなことでいちいち怒りませんから。いい夢を見ることができました。
新宿のオフィスで朝から働くっていったいどんな感じだったんだろう。
これから人生いったいどうしたらいいんだろう。迷いまくり。悟りなし。
明日もわたしが会社に行くことで迷惑する人がいるわけでしょう。
みんなのためにも早く辞めなきゃって思うんだけれど、
次にどこへ行けばいいんだろうか?
日記ブログってあるでしょう。あのだれにも読まれれていないやつ。
なぜなら、だーれもおまえなんかに興味がないから。
あの日記ブログってやつは、みんな匿名でやるんだよねえ。
で、職場の同僚の悪口を書くわけだ。
ああいうのを読むと、ほんと人と人ってうまくいかないもんだと驚く。
あなたが嫌いな人を好きって人もいるという、その相性の摩訶不思議よ。
「本の山」はくだらぬ読書感想文のみならず日記ブログの面もあって、
だがしかし両手(両輪)をあわせてもぜんぜんアクセス数がないわけ。
だれも自分なんかに興味がないということを深く知っているから実名で書いている。

ブログのコメント欄にパート仲間から悪口を書かれちゃってさ。
今日でおまえはクビだって。
なにもかも新鮮だったなあ。会社への道も入口も階段も休憩室も。
ロッカー室に入ったらさ、わたしのロッカーの名前が剥ぎとられているのよ。
「そう来ましたか」と、おお、これが現実なのかという驚きがね、その、ありました。
だれがやったのかは知らないけれど、この職場におまえの居場所はないってことでしょ?
小学校の靴入れの名札を剥ぎとるようなもんだよね。
いい大人がそんなことをするのかという衝撃がございましたですねえ。
ああ、おれってほんとうにいじめられていたんだって気づく、みたいな。
いじめってあれ、いじめられているほうがいじめだと認識しないとじゃれ合いなんだ。
わたくしはこんかいのロッカー名札剥奪を偶然もしくはじゃれ合いと認識。
まあ、ぶっちゃけ、おれの名前なんてその程度のもんだし。

今日でクビを言い渡されるとコメント欄で
バイト先輩から教えてもらっているからなにもかも最後の新しさがある。
このバイトにはじめて入ったとき、能天気でいい子だなあ、
と思ったベトナムっ子がいまふうに眉をきれいにそろえていたので、
うんうん、いいぞいいぞ、がんばれよって思ったり。
今日で終わりだと思うと、なにもかも懐かしい。
もう持たないであろうオリコンから、なにからなにまですべていとおしい。
きれいごとを言うようだけれど、本ばかり読んできたわたしは
ほんと書籍がこんな倉庫で日本各地に発送されていることも、
そこにこんなに多種多様な国籍容貌年齢の男女がいることも知らなくて、
彼ら彼女らがわずか時給850円で働いているのに、
それぞれがそれぞれの良さや美しさを持っていることにまったく無知だった。
はなはだ傲慢な不遜極まりない感動をしたものである。

結局、本日は今日のところはみんな期待していたのかもしれないが、
クビを言い渡されなかったのである。ということは、明日も行ってもいいのだろうか。
明日も「今日が最後」と思えば、似たような感動を味わえるのかと思うとおいしい(え?)。
「落としどころ」をどこに置くか、なのである。
ワンパターンは嫌いだから、「シナリオ・センター日記」のような終わりにはしたくない。
組織とのああいう破局的な決別はお互いのためにもしたくない。
病的妄想かもしれないが、
「本の山」を楽しんでいるパート仲間もひとりふたりいるかもしれない。
いまは4ラインにいるTさん(男性)なんて以前はさんざんにらまれたけれども、
今日久し振りに顔を合わせたら目が笑っているのである。
「おまえ今日でクビだぞ」と笑っていたのかもしれないけれど。
わたしはもちろんTさんも嫌いではないし、
ブログに批判コメントをお書きになった「ふたりぼっち」の女性も嫌いではない。
(犯人予想が違ったらごめんなさい!)

時給1600円の仕事をご紹介してくれた(書類選考あり)
人材派遣会社からの連絡はない(落ちましたか? ご連絡ください。動けません)。
職場同僚みなさまのご迷惑になるのなら古本屋でバイトしようとも思ったが、
20~30キロのダンボールを階段で何度も上げ(ら)れる人募集って、
それはちょっとそこまでは……。
想定予想寿命(医学的根拠皆無)は1年もないので、おもしろい仕事をしたいのである。
いまのバイト先でがめつく稼ごうとしている古株女性ってお金が目当てなのかしら。
お金が目当てならいまの職場よりもよほどいいところがあるだろうに、
いったいどうしてなにゆえ、なぜなぜに現在のバイトを辞めないのだろう?

この人はほんとうによくできた人だと思うマネージャーさんに今日ご質問いただいた。
二者択一。
「職場のことをブログに書いていまの仕事を辞める」
「ブログに職場のことを書くことをやめて仕事を続ける」
若輩のわたくしなぞにとてもご丁寧な対応をしてくださった。
まったくほんとうにあの対話はお疲れになったことだと思います。
わたくしがどちらを選択したのかはマネージャーさんのみ知ることです。
明日、クビを宣告されるかもしれません。
明日5ラインは3600もあるんだなあ。久々に24時近くまで行きそうな。
お金もほしいんですよ。お金もほしいけれど、おもしろいことも楽しみたい。
今日、久しぶりにやったけれど、書籍ピッキングってやっぱりけっこうおもしろい。
子どものころお小遣いをもらえなくてゲームセンターに行けなかった無念を
いまはらしているといったら大げさにもほどが過ぎるのでしょうけれど。
結局、だれともなにもなかったのか、
いろいろな人といろいろなことがあったのか。
前者も後者も「正しい」とわたしは思う。

こんな私的メッセージをだれも読んでいないブログに書くなって話ですね。
「落としどころ」はどこにあるのかは、たぶんだれにもわからない。
「創価学会 負け犬論」(幸福の科学 広報局編/幸福の科学出版)

→幸福の科学による創価学会批判本である。
幸福の科学と創価学会はおなじようなお客さんを相手にしているわけで、
このためか、なかなかツボを得ている批判も多かった。
で、この本を読んで創価学会を嫌いになったかというと、
むしろ好きになってしまったので困る。
幸福の科学は好きでも嫌いでもなく、いまのところ関心を持つことができない。
本書は池田大作名言集としても読めるのである。
典拠不明なものも多いが、幸福の科学はよく勉強しているというか、
池田大作がいかにも発言したようなイイ言葉がたくさん採られている。
幸福の科学はなにが目的でこの本を出したのだろう?
まさか池田大作ファンをつくるためではないのだと思うけれど。
池田SGI会長はかつてこう言った。

「組織は、つねになんらかの刺激をあたえつづけていくことが大切だ。
会員を絶対にたち止まらせてはならない。
たち止まれば、かならず上を批判してくる。
忙しく働かせれば、批判なんかふき飛ぶ」(P46)


最強の組織論だよなあ。
バイト先にカレーチェーン店ココ◯チの元店長さんがいて話を聞いたらおもしろかった。
本当に「忙しく働かせれば、批判なんかふき飛ぶ」を地で行なっているらしい。
考える暇を与えなければ、社員はやみくもに働きつづけてくれるのである。
そして、その状態こそある種の人にとっては幸福なのである。
ブラック企業の社員さんに「幸福ですか?」と聞いたらイエスと返ってくるだろう。
自分は幸福かどうかを考える時間を与えないところがポイントである。
とても人柄がいいイケメンで長身のココ◯チ元店長さんも、
あのときの自分はどうかしていたと思うとおっしゃっていた。
みんながおなじような感じだったから、批判はおろか疑問を感じる余地もなかった模様。
「忙しく働かせれば、批判なんかふき飛ぶ」はSGI会長の「正しい」名言である。
池田SGI会長ご自身も、たいへん忙しくお働きになっていたではないか。
きっと幸福について深く考える時間もなかったことだろう。
池田大作名誉会長ほど多くの人から尊敬され名誉を勝ち得た人物はいないだろう。
池田大作は人生に勝利したのである。
どうして池田SGI会長は人生に勝てたのか。負けるな、勝て。なにがなんでも勝て。

「どこまでも蛇のように執念深くやるのだ。
勝たなきゃ意味がない。なめられたら、おしまいだ。どんなことをしても、勝てばいい。
要は、勝つことだ。勝てば、あとはどうにでもなる。
なめられないようになるのが『人間革命』だ」(P50)


なめられたらおしまい、というのはよくわかる。なめられたら、おしまい。
自分をなめてくるようなやつがいたら、徹底的におのれの怖さを思い知らせてやれ。
おれをなめたらどうなるか。
善悪なんてないんだから、勝つためにはなにをしてもいい。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。
朝日新聞がいまでかい顔をしているのは大衆操作に勝利したからである。
テレビ局社員が高収入でウハウハなのは、
テレビというメディアが大衆洗脳に成功勝利したから、
そこの雇われ人もこれでもかとおいしい思いをたっぷりできるのである。
「勝てば、あとはどうにでもなる」は「正しい」。
弱い庶民がなんだかんだ言ってきても、大企業はいっさい揺るがない。
交通事故のみならず軽微な犯罪くらいなら、いくらでも揉み消せる。
負けたらみじめこの上ないが、勝てばこんなにうまみのある人生はない。
勝てば金が入る。金があれば、なんでも思うがままになる。
勝利して金と権力を得れば、イケメンアイドルを土下座させることも可能だ。
池田SGI会長は言う。執念深くやれ。なめられたら、おしまいだ。
どんなことをしても、勝てばいい。勝てば、あとはどうにでもなる。
偽善を排した、これほど「正しい」ことを言った人がかつて日本にいただろうか。

創価学会の歴史でいちばんのピンチは宗門(日蓮正宗)とのトラブルだった。
創価学会は上納金をおさめて伝統ある日蓮正宗から権威を借りていたのである。
創価学会は日蓮系の団体だが、在家組織のため僧侶がいない。
このため日蓮正宗といやいやながら手を組んでいたのである。
創価学会の信者が払う財務(寄付金)で宗門の坊主がおいしい思いをしていた。
いったいどうして日蓮正宗の坊主ごときがいい思いをできるのだろう?
本当に報われるべきは、日々汗を流して働く創価学会末端信者ではないか。
大人ならそういう本当のことは言わないが、
独創的な池田大作はあたかも子どものように「王さまは裸だ」と言ってしまう。
以下は1990年10月16日に行われた池田の宗門批判スピーチだ。

「ぜんぜん、[坊主の]また難しい教義、聞いたってわかんないんだよ。
ドイツ語聞いてるみたいにね。
それで『おれ偉いんだ。お前ども、信者ども、信者、信者』って、
そんなものはありませんよ、この時代に。
時代とともにやればいい、学会は」(P66)

「七百年間、[日蓮宗は]折伏[しゃくぶく/勧誘]がそんなにできなかったんです。
[宗門は]よーく知ってらっしゃるんです。
今はもう当たり前と思ってね、いばっている人がいる。とんでもない」(P67)


わたしはこの池田大作の言葉を「正しい」と思う。
坊さんの法話は一度だけ聞いたことがあるけれど、意味がわからないのである。
坊主のやっているブログを読むこともあるが、偽善的でうんざりすることが多い。
とにかく坊主どもが偉そうなのには本当に嫌気が差す。
坊主の子どもに生まれたものが坊主になって専門語を覚えて偉ぶる。
そんな世界は最低だろう。冗談じゃない、ふざけんなって話だ。
日蓮関係の伝統宗教だってそうで、どこの坊さんがそんなに教えを広めたかよ。
正義とは多数派のことなら、あれだけ信者を集めた学会は「偉い」のである。
その学会のおかげでナマクラに生きている坊主がおいしい思いをするのはおかしい。
池田大作の「正しい」このスーパー本音発言は大きなトラブルの原因になった。
池田SGI会長は大人なら言ってはいけないことをぶちまけたのである。
一か八かの賭けをした。言ったらどうなるかわからない本当のことを言った。
世間的な見解では、結局宗門(日蓮正宗)が勝つという意見が圧倒的だったそうだ。
まさか伝統ある古株のお坊さんたちに逆らったら池田大作も負ける。
庶民なんてバカばかりだから、袈裟(けさ)を着た坊主の権威に転ぶだろう。
しかし、歴史はどうなったか。池田大作創価学会は勝利したのである。
古株ゆえに偉ぶっていたクソ坊主たちに池田大作創価学会は一矢を報いた。
かねてより池田はこう発言していたという。

「おれはマルチィン・ルターになる。日本では宗教改革の歴史はなかった。
今、それをやるのだ。坊主とケンカするのだ。もしものときでも、
大聖人の仏法をかかげて、外から宗門を攻めていくのだ」(P83)


坊主の葬式利権って、心の底からむかむか致しませんか?
坊主が偉いのって坊主の子どもとして生まれてきたからって理由だけでしょ?
わたしが坊主になろうと思ったところで、
血縁のコネがないから何十年修行しても無給で廊下を拭いている下っ端。
いっぽう高僧の息子として生まれたら、人生おいしくてよだれたんまりよ。
毎日美酒美食でメカケの数人は囲ってジムにも通い健康で、
たまに偉そうな顔をして目下のものに意味不明の説法をすれば尊敬してもらえる。
天皇家よりも偉いのが伝統仏教の高僧坊主たちではないか。
天皇家はご苦労もあるだろうが、坊主たちはいったいなにをしてるのか。

いま時給850円の職場で、先輩にいびられ、
ときに怖い人から胸倉をつかまれ罵声を浴びせられながら、
日本語の通じない外国人の気のいい若者諸君と
気温30度を超えるなか底辺肉体労働をしていると、資本主義の限界に気づく。
かといって、むかしならともかく、いまは社会主義の正体は判明している。
結局、資本主義と社会主義を超える「第三の道」が求められている。
創価学会系雑誌に「第三文明」というものがあるが、本書で第三文明の由来を知る。
池田SGI会長はなにを求めて第三文明に思いを致したのか。

「学会は資本主義でもなければ――資本主義でないということはないが――
自民党思想でも社会党思想でもない。いま必要なのは第三文明です。
……全人類が根底から要求しているところの〝新社会主義”こそ、
王仏冥合(おうぶつみょうごう)の思想であろうと、
わたくしは信ずるんでございます」(P115/「聖教新聞」掲載の公式発言の模様)


資本主義と社会主義を超えるものがあるのかというのは、
まことに稚拙ながらいまごろになってオッサンのわたしが考え始めたことである。
池田大作は60年近くもまえにおなじことを考えていたのか。
本書は一見(いやいやどこから見ても)くだらない他宗批判本に思えるだろう。
しかし、浅学非才(とか書くとへりくだったクソ坊主っぽいよねえ)の
わたしにはかなり鋭いところ突いているように思われた。
おそらく本書の執筆陣は、元学会員で、それもかなりの立場にいたのであろう。
無宗教のわたしがまるで創価学会擁護のような記事を書いてしまった。
本書には、さすがライバルの幸福の科学だけのことはあり、
かなり強烈な(ふむふむと納得する)創価学会批判が書かれている。
幸福の科学による創価学会批判書からの再掲らしい。
秀逸なので孫引きさせていただく。

「創価学会は、欲求不満を闘争心におきかえるという、
もっとも端的な方法をうち出した。
会員は入会まではおとなしい、内気な、
それゆえに一そう劣等感になやんでいたような人が多い。
ところがひとたびシャクブク[勧誘]にあって潜在意識に大きな変化がおこると、
モヤモヤした感情が闘争心にかわり、
全身に勇気がみなぎってくる。
だから義務である他のシャクブクを、喜んで自発的に行なうようになる。
つまり相手をやりこめて自分の闘志をもえたたせ、
精神的暴力を楽しむことによって、直ちに欲求不満を解決するのである」(P40)


わたしは幸福の科学も「正しい」し、創価学会も「正しい」と思う。
幸福の科学の人たちも創価学会員も、
わたしなぞよりはるかに親切で人の気持がわかるいわゆる善人さんでいらっしゃると思う。
どっちがよりよい団体かはわからないが、
少なくとも両教団ともわたしよりは「正しい」のだから、それでいいのではないか。
人からやさしくしてもらったのはけっこう覚えているのだが、
あの人はもしかしたら創価学会員だったのかもしれない。
幸福の科学の人だったのかもしれない。
仏教を孤独にひとり学んでいるものとしては、宗教っていいよなあと思う。
自分たちを「正しい」と標榜(ひょうぼう)しない宗教があればどれほどいいことか。
そういえば、ひとりいた。
おのれを「正しい」とせず、ただみなのものよ「踊れ」と主張した一遍上人である。

「図解 強運ノート ~あなたの運がドンドンよくなる~」(深見東州/たちばな出版)

→著者は新手の新興宗教の教祖なんだけれど、教団のことは書かない。
うっかり興味を持った人が入信してしまうと家族を困らせることになるから。
教団への勧誘にも近い本書を読んだ感想は、
この人わかっているなあ、というとても好意的なものだった。
あんがいこの人が教祖をしている団体に入ってうまくいく人もいるかもしれない。
結局、人間にとっていちばん大事なのは自信を持つことだと思う。
自分に自信があれば不安に取り込まれず、常に安心感を持っていられるから、
それがプラスに作用して人間関係も良好になるし仕事も成功する確率が高まる。
しかし、どうすれば自分に自信を持てるか、というのが難しいのである。
このところを深見東州はよく理解している。
人間にはだれでも守護霊がついていると主張している。
守護霊があなたを守ってくれているから安心してよい、と言うのである。
これは観音経とおなじなのだが、
いまの人は観音さまよりも守護霊と言われたほうが信じやすいのだろう。
深見東州はユーモアがあってなかなかいい。
守護霊に常時感謝しているといいことがあると言うのである。
たとえば電車に乗ったとき、たまたま席が空いていて座れた。
このとき守護霊に感謝するが、じつは守護霊のせいではないことがある。
後日、申し訳なく思った守護霊が
前回のお礼へのお礼として席を空けといてくれるというのである。
笑ってしまったよ。

「絶対、大丈夫」と確信できれば、不安や心配からおさらばできるのだが、
現代人はなかなか「絶対、大丈夫」と思えず、おろおろアタフタする。
この対策として深見東州はパワーコールというものを発明している。
新生銀行かよって話だが、ともかくパワーコールである。
わたしからしたら意味不明なカタカナだが、これは天に通じるメッセージらしい。
このパワーコールを唱えていれば、
天の神さまや守護霊があなたをよいように計らってくれるというのである。
これはあたまがいい。
わけのわからない呪文であるところがいいのだろう。
自分は秘密の呪文を知っていてそれを唱えているから「絶対、大丈夫」と思える。
パワーコールを唱えているから、自分に自信を持て不安感もなくなる。
人生に対する戦略としてかなり有効ではないかと思う。
ちなみにこれは南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経でもいいのである。
むかしからパワーコールの代わりとして日本人が使用してきたのが念仏や題目だ。
しかし、科学全盛の現代、念仏や題目は神秘性を失いかけている。
だから、パワーコールなのだろう。
わたしは南無阿弥陀仏を信じているからパワーコールをやらない。
けれども、南無阿弥陀仏の効能をよく理解しているから、
パワーコールの仕組みも効果もなんとなくわかるのである。
わたしの場合、念仏を唱えると「絶対、大丈夫」という気になるから。
これはもう自分で必死になって南無阿弥陀仏を勉強したからである。
そんな時間に余裕がない人はパワーコールでもいいのではないかと思う。
もちろん、創価学会の南無妙法蓮華経でもぜんぜん構わない。
むしろ、念仏やパワーコールよりも、
日蓮大聖人さまのお題目のほうがいいのかもしれない。
身もふたもないことを言えば、呪文はなんでもいいが、
その呪文をどこまで深く信じきれるかが重要なのだろう。

本書には当たり前のことが書かれているが、
意外と忘れがちなのがこういった常識である。
こういう考え方をしたらいいというむかしからの人生のヒントである。

「やるだけのことをやった。あとは運を天に任せる」
→「私は幸運の神がついている。必ず当たりを引く」
→「外れてもともと。悔いはない」
このときの不安を消すのが呪文であり、また呪文を唱えれば自信も持てるのである。
自信を持つためには怪しげな呪文を唱えるのもいいが、
当たり前のことを著者は指摘している。
「勉強、スポーツ、遊び……得意なものを身につける」
これは当たり前の話だけれども、やはり難しいことでもあるから、
なかには深見東州のパワーコールにすがりつきたくなってしまう人もいるのだろう。

「真剣師 小池重明」(団鬼六/幻冬舎アウトロー文庫)

→真剣師(賭け将棋)として名を馳せた小池重明をモデルにした小説である。
作者の団鬼六は、晩年の小池重明と交流があったらしい。
とにかくおもしろい小説で、久しぶりにこれほどのものを読んだという気がする。
ルポやノンフィクションではなく、これは小説だからおもしろいのである。
ところどころ嘘ではないかと思ったところがあるけれど、そこがおもしろいのである。
私小説をふくめてモデル小説というのは2タイプに分かれるのではないか。
モデルを実際よりも悪く書くものと、モデルを実在する人物より大きく書くものだ。
「真剣師 小池重明」はむろんのこと後者のモデル小説である。
さすがに人間・小池重明は、
この小説に書かれているほど破天荒ではなかった気がする。
ドキュメンタリー映画の「ゆきゆきて、神軍」とおなじである。
あのドキュメンタリーのモデルはちょっとあたまのおかしな変人程度なのである。
しかし、映画監督がモデルを実際よりも大きな人間のように劇化して描いているのだ。
とはいえ、「ゆきゆきて、神軍」も「真剣師 小池重明」もまずモデルありきである。
小説ほどではなかったのだろうが、
実物の小池英明もそうとうはた迷惑な破滅型の人間だったのだと思う。
生活上は破滅型で型破りで問題行動ばかり起こしたが、将棋だけは強かった。
小池重明はどのような将棋を指したのか。
対局したことのある団鬼六はこう書いている。

「小池の将棋はこれまでプロの指導を受けていた私の目から見れば型破りで、
筋の悪さだけが目立つような妙な将棋であった。(……)
こんな悪筋な将棋に負けるはずがないと追いこんで行くと終盤まぢかにきて一発、
逆転のパンチを喰わされる。
それを恐れて慎重の上にも慎重を重ねて行くと、
嵩(かさ)にかかって猛攻してくるといったもので
相手の心理を透視する術(すべ)を心得ているのではないかと思われた」(P239)


小池重明がなにゆえ44歳で破滅人生を終えたかといえば、
それはギャンブル(賭け将棋のみならず競馬やサイコロ賭博も愛した)、
女(人妻との駆け落ち歴3回)、酒(酔っぱらって対局に来ることもあった)、
この3つが原因となろう。ひとつに要約したら金である。
小池重明は金銭への執着が人一倍強かった。
しかし、まじめに働かず楽をして大金を得ようとした。
なぜ金があるといいのかといえば、きれいなおねえちゃんといいことできるからである。
なぜ金があるといいのかといえば、いい店でうまい酒が飲めるからである。
種銭がなければ、ギャンブルひとつすることができない。
そして、ギャンブルをしたらはした金が大金になるのである。
こんな楽しいことがあろうか。
本書を読んで小池重明の人間味のようなものに惚れ惚れとした。
もっと金と女への執着を強めなければ駄目だと自分を叱咤したくらいである。
さんざん人生で好きなことをしてスッカラカンになった小池だが、
それでもこの伝説の真剣師には団鬼六という師匠がいたのである。
晩年の落ちぶれた小池は涙声で団鬼六のもとに電話をしてきたという。
あきらかに酔い泣きしている。そして、なんと言ったか。
おそらく小池重明は団鬼六にもだいぶ不義理を働いたことだろう。
それなのになぜ電話をかけてきたか。

「淋しくて、淋しくてたまらなかったんです、僕は。
それを先生に助けていただいた。友もなし、女もなし、金もなし。
それはまあ、我慢できるとしても、
将棋まで指せないこの孤独には耐えられなかった」(P274)


わたしが小池重明のどこに惹かれるかといったら、その強烈な孤独感である。
おそらく団鬼六も小池重明がかもしだす孤独に魅せられたのだろう。
ふたりの人間が命の次に大事な金を賭けて真剣勝負をしたら、
勝つのはより孤独なほうである。
しかし、人は勝つことで孤独になっていく。勝利は孤独を深める。
それでも小池重明は勝とうとした。孤独になろうとした。
そして、44歳で生活保護を受けながら田舎の汚い病院で孤独に死んだ。
自分でチューブ管を引きちぎったというから、あるいは自殺だったのかもしれない。

「米長邦雄の運と謎 運命は性格の中にある」(団鬼六/幻冬舎アウトロー文庫)

→50歳で将棋の名人位を取った米長邦雄に長らく惚れ込んでいた団鬼六の書いた、
棋士の「運と謎」をめぐる本である。
わたしは米長邦雄への興味からではなく、運への関心から本書を読んだ。
いったい個人と運はどういう関係にあるのだろうか。
さきごろ直木賞、芥川賞が発表されたらしいのでタイムリーかとも思う。
米長邦雄は運命の女神というものを強く信仰していたようだ。
この信仰に団鬼六は参ってしまう。

「景山民雄が大川隆法の『幸福の科学』を読んだ時、
目から鱗が落ちたような感動を覚えて、その信者になってしまったというが、
私も米長さんの『人間における運の研究』を読んだ時、
それに似た感動を覚えたのだ」(P42)


「人間における運の研究」はわたしも読んだことがあるが、
団鬼六は冒頭のこの一節にしびれたという。

「世の中には、人間の知識や論理では解明できない「不可解な力」があります」

この「不可解な力」を米長邦夫は運命の女神と命名して信仰したのである。
なぜ団鬼六も運命の女神を信仰するようになったのか。
きっかけはむかしの事件である。
あるバーでよく知らぬサンドイッチマンと将棋を指す約束をしていた。
しかし、そこに人気若手スターが現われ、
バーのみんなで横浜のクラブに行くことになった。
団鬼六は先約を優先しようか、横浜のクラブにみんなと行こうか迷う。
横浜のクラブでスターや美女とたわむれていたほうが楽しいに決まっているのである。
約束時間ぎりぎりまで待ったがサンドイッチマンは来なかった。
よし、横浜に行くぞと席を立ちあがったとき、薄汚れた男がすがたを見せた。
団鬼六はサンドイッチマンと将棋を指したが勝負はさんざんであった。
そのとき電話が入ったのだという。あの横浜に行った連中の車が交通事故を起こした。
スターは即死、バーテンも大怪我をしているという。

「人間の生と死というものは、紙一重の差で半透明の偶然の糸に
あやつられていると感じたわけだが、
米長さんの著書の冒頭の一節のように、
世の中には人間の知識や論理では解明出来ぬ「不可解な力」がある、
というものを、私はこのとき感じとったことになる」(P51)


しつこいが、この「不可解な力」をつかさどっているのが運命の女神である。
運命の女神は単純ではない。好かれようと思っても、なかなか一筋縄ではいかない。
どういう気質、性格になれば女神のお気に入りになれるのか。
運命の女神に気に入られなければ、なかなか人生うまくはいくまい。

「何よりその気質、性格といったものが、
女神のお気に入りのものにならねばならないという事を私は悟った。
女神に好かれる気質ではあるが、
人間に嫌われる気質になっているという事もあり得るわけである。
人間に好かれる気質ではあるが、女神のお気には召さないという気質もあるわけだ。
そこに考えが及ぶと、いやはや、女神に好かれるという事は、
並大抵の努力だけではすまされないという事になる」(P17)


具体的にはどのようにしたら運気が上がるか。
米長邦夫には伊藤能という、筋はいいのだがどうにもうだつの上がらない弟子がいた。
その伊藤能が、国枝久美子という団鬼六の助手を好きになったという。
伊藤能は次に四段昇格しなければ、年齢的に奨励会追放である。
国枝久美子が伊藤能に四段になったら「抱かせてあげる」と約束したそうだ。
「私も小娘じゃないんだから、そうなったら能さんに一切お任せよ。
焼いて喰うなと、煮て喰うなと」
伊藤能は発奮してだれもが無理だと思っていた四段昇格に成功する。
このいきさつをそばで見ていた団鬼六は思う。

「そういえば、国枝久美子も彼女の過去から考えてみると、
妙に男の運気を発揚させる妖しいパワーを持っていたような気がする。
肉体的に接触があったかどうかはわからないが、
彼女と交流のあった男性は、ある時期に一つの運気をつかんで成功しているのだ。
彼女はあげまんですよ、と、成功した男性にあとで聞かされた事があった。
あげまんというのは、必ずしも肉体関係が必須の条件だとは限らない」(P188)


いったい人生と運の関係はどうなっているのだろう。
あげまんさんに会いたいことは会いたいけれど、
うっかりのぼせていると今度は運命の女神から嫌われてしまうような気もするのだが。
米長邦夫や団鬼六とおなじで、
わたしもまた「人間の知識や論理では解明できない不可解な力」を信じている。
運命の女神の存在を信じているということだ。
いったいどうしたら運命の女神に好かれるのだろう。
本書によると、いつも笑顔で謙虚にしているのがいちばんいいらしい。
「◯◯を成功させたら、あたしを煮て食べてもよし、焼いて食べてもよし」
なんて美女が現われたら、男ならそりゃあ発奮するだろうなあ。
結果として一時期はよくなっても、運命の女神から嫉妬され、
男女どちらかがその後、奈落の底に落ちるかもしれないけれど。

「名短編、ここにあり」(北村薫・宮部みゆき:編/ちくま文庫)

→ポプラ社の百年文庫シリーズをたまたま数冊読む機会に恵まれ、
いい小説というのは短くてもあれほど人を揺り動かすちからがあるのかと感心する。
いい小説を読んで会社に行くでしょう。世界が違って見えるのである。
いい小説の感想を書いて会社に行くと、パート仲間に変化が見られるのである。
名短編のすごさを、言葉のちから物語のちからを改めて思い知ったしだいである。
とはいえ、震えるような小説とはめったに出逢うことができない。
普遍的なだれでも感動する名作というのはないのだと思う。
ある小説を他人にすすめる行為はこの上ない親愛の情の発露には違いないが、
ふたりが感激を共有することはまずないであろう。
小説はいつどのようなタイミングで読むかによって感想はいかようにも変わりうる。
40近くなってわかる小説があれば、高校生にしか共感できない小説もあろう。
性別、年代、読書歴、職歴、家族構成によって小説の感想はいくらでも変わる。
名作とされる小説がまったくつまらないことのあるのはこのためである。
このアンソロジーの「名短編」のなかにも、どこが? と思うものもいくつかあった。
やはり松本清張や井上靖は桁違いにおもしろいのである。
そうは言っても、読み物としておもしろいというだけで、それ以上はない。
むろん、小説ごときにそれ以上を求めるのは期待が過剰すぎるのではあるけれど。

松本清張の「誤訳」はいろいろ考えさせられた。
翻訳と創作についての関係である。
マイナーな言語の文学作品はメジャーな言語(英語等)に翻訳されないと読まれない。
とりあえず英語にさえしてくれたら、あとは英語から重訳することが可能になる。
このとき翻訳者が原作を無視して創作してしまったら、どうだろう。
マイナー言語の希少性という権威だけ借りて、内容は訳者が創作してしまう。
この翻訳が評価されてしまった場合、いったいだれの功績になるのだろうか。
ユングと河合隼雄の関係も、これに近いところがある。
河合隼雄はユングの権威だけ借りて、自分のやりたいことをやったわけである。
ユングとは関係ないことを、ユングという後ろ盾を利用して行なった。
原典よりも翻訳や解説のほうが深くておもしろかったら、
たとえ正しくなくてもそれでいいのではないか。

井上靖の「考える人」もたいへんな傑作であった。
むかし一度だけ見たカイコウ上人という奇妙な木乃伊(みいら)をめぐる物語である。
かつて即身仏になるような貧農や罪人くずれがいたそうである。
おそらくカイコウ上人もまたそのひとりかと思われる。
しかし、どうにも不思議だったのは悟ったポーズではなく
「考える人」の格好をしていたからだ。
登場人物は協力してカイコウ上人の物語をつくっていくが、そこがおもしろい。
おそらく現実のカイコウ上人の人生よりも、
彼らのつくった物語のほうがおもしろくなってしまうのである。
事実と虚構(フィクション)の関係を考えるときに示唆に富む小説である。

吉村昭の「少女架刑」はエロくてよろしい。
16歳で死んだ貧乏なうちの美少女が家族の意向で献体に出される。
この小説の設定では少女の肉体は死んでいるが、
意識は生きており一部始終を観察しているのである。
医局員は生娘の全裸体にメスを入れていく。
「生殖器は俺が受け持つか」と髭の来い男は提案したが、
それは背の高い相棒のみならず死んだ少女の意識にも聞こえているのである。
自分の肉体がおもちゃのように切り刻まれようとしているが、
少女の意識はなにもできない。
ただし、すべて見えているし聞こえている。

「髭の濃い男は、私の足部の方に廻っていた。
腿に指がふれると、私の両足は、大きくひろげられた。
私の体中に、羞恥が充満した。
私の腿の付け根に、男の視線が集中しているを強く意識した。
自分の姿態が、ひどくはしたないものに思え、息苦しくなった。
ふと、私の下腹部の腿の付け根に落ち込んでいるなだらかな隆起に、
なにかが触れる気配がした。
そこには、まだ十分に萌え育たない短い海藻のような聚落があった。
ふれたものが、男の指であることに気づいた時、
私は、自分の体が一瞬びくりと動いたような気がした。
私の耳に、指とその聚落の触れ合う微かな音がきこえてきた。
それは、体全体に伝って行く繊細な、しかも刺戟に満ちた音であった。
「おい」
背の高い男が、声をかけた。
髭の濃い男は、含羞んだように笑うと漸く指を離した」(P134)


こんな文章を読んで顔を真っ赤にさせ胸がどきどきする文学少女なんて、
もう絶滅危惧種なのであろう。
というか、そもそも文学少女など男のあたまのなかにしか古今いないのだろう。
小説を読むことで、つまらない現実へ妄想を付加しなければ、
生きているのは味気ないばかりなのだろう。
現実はどこまでもどうしようもなくつまらない。
小説でも読んでいろいろ妄想しなければ本当のことに押しつぶされてしまう。
異性など妄想しているうちが華だという部分もあるのかもしれない。
つまらないなあ。小説のようなおもしろいことはないかなあ。

「私は如何にして幸福の科学の正会員となったか」(景山民夫/太田出版)

→けっこうズタボロな人生を送っている気がするのだが、新興宗教とは縁がない。
よほど悪人相なのか、キモいのかヤバいのか新興宗教にさえ誘ってもらえない。
本書は直木賞作家の影山民夫(故人)が、
新興宗教の幸福の科学に入るまでの事情を語った手記である。
読み物としておもしろいかと問われたら、
だらだらとした自分語りが多く退屈というほかない。
売れっ子の直木賞作家ともなると、
だれもが自分に興味があると勘違いしてしまうのだろう。
宗教のことはよくわからないが(わかったらおしまいだが)幸福の科学もまたわからない。
いま公式HPを見たら佳子さまがどうだとか。
皇室の佳子さまの守護霊メッセージを大川隆法氏が公開したそうである。
え、それ、どんなお笑いですか? 
とも思うが、楽しんでいる人がいるなら、どんな信仰もバカにはできないと思う。
どうせ生きているのはつまらないんだから、
幸福の科学にでも創価学会にでも入って、ハッスルしたほうがいいとも言いうる。
新興宗教信者の特徴は、目が生き生きしていることだと思う(逝っちゃっているとも)。
宗教は阿片(麻薬/違法すれすれスタミナドリンク)だから、
バンバン注入されたらバリバリと変な元気が出てきてしまうのだろう。
新興宗教は末端の弟子よりも教祖や側近がおいしいんだよなあ。
仏教史を独学してきたが、もっともおいしい思いをできるのは、
最初に教祖を教祖としてあがめたてまつった側近(一番弟子)なのである。
伝統宗教、新興宗教、どちらもポイントになるのは「正しい」という観念である。
人はどうして「正しい」ものにあこがれたり、「正しい」ことをしたがるのであろう。
夫婦喧嘩とか相続問題とか結局「正しい」ことが争われているわけでしょう。
自分は「正しい」ことに興味がないと放言したら、どれほど楽になるか。
景山民夫もまた「正しい」ことにとりつかれて幸福の科学を盲信するようになったようだ。
本書で故人はかなり挑発的なことを書いている。

「正は正、邪は邪、正しいことは、たとえダサイの、理想主義だのと言われようと、
主張していかねばならない。正しいことを正しいと貫き通すためなら、
ワタシは誰の如何なる挑戦でも受けます、かかってきなさい」(P188)


この人はどこまで自分を「正しい」と信じていたのだろう。
きっと自信にあふれていたことだろう。
景山民夫が幸福の科学に入信したきっかけが本書に書かれている。
重度障害をお持ちのお嬢さんの死が大きかったようだ。
本人は否定しているが、人間は自分のことでさえ「正しい」ことはわからないのである。

「僕が『幸福の科学』の正会員となった理由として、
よく、この長女の死を挙げて分析しようとしたり、断定する人がいる。
景山には重度の心身障害を持つ娘がいて、
その娘に対して何もしてやれなかった苦しさを逃れようとその死をきっかけに、
救いを求めて宗教に走ったのだ、という説である。
そういう分析自体が、実はとても無礼なことである。
それはおいておくとして、この見方は根本的に違う。浅はかすぎる。
信仰を持つこと、イコール救いを求める行為、という思い込みが、
まず僕の場合はあてはまらない。
求めたのは、悟りであって、決して救いではない。
ましてや、もし救いが欲しかったにしても、
それは長女が死によって不自由な肉体を離れたとき、既に与えられているのだ。
彼女の魂が完全に死んだ肉体を離れていることを認識したとき、
僕は心の底から、「よかったね、お前、一生の修行が終わって」と言った。
娘の長いとはいえない今回の一生は、偶然の結果ではなく、
彼女自身が選んだ今世紀での魂の修行なのだということも、何故か理解していた。
「今度の修行はちょっとしんどかったけれど、よく頑張ったね」
と、彼女をねぎらったことを、鮮明に覚えている」(P98)


みなさまはこの文章をお読みになられて、どう思うでしょうか?
狂信者、きんもっ、とか思われるのでしょうか?
わたしは、景山民夫は悟りを開いていると思う。
もしそれが幸福の科学のおかげなら、かの宗教団体は本物である。
幸福の科学はきっと「正しい」。
創価学会がそうであるように、幸福の科学もまた「正しい」。
わたしはどの新興宗教団体も「正しい」と思う。
だって、ひとりではないわけでしょう? 
複数人がある「正しい」ことを信じておられる。
ひとりぼっちのわたしなんかよりも、どの新興宗教も「正しい」のではないだろうか。
しっかし、景山民夫の運のよさには驚く。
彼の書いていることが「正しい」のならば、
わたしにもこれからどんどん幸運が舞い込むような気がしてならない。

「宝積経」(長尾雅人・荒牧典俊訳/世界の名著「大乗仏典」中央公論社)

→「宝積経」はマイナーな初期大乗仏典。中道の教えを説いたとされる。
小乗仏教を批判して蹴散らそうとしたのが大乗仏教グループである。
小乗仏教は釈迦の言葉は絶対的に「正しい」と信じて修業していた団体である。
ふつうに考えたら、釈迦の伝統を正しく受け継いでいる小乗集団には勝てないでしょ。
けれども、大乗仏教にはあたまのいいやつがいて小乗の論理を打ち破ったのである。
どのようにして「正しい」小乗を大乗は打ち壊したか。
釈迦は中道(ちゅうどう)の教えも説いていたではないかと大乗は主張したわけだ。
みなさまご存じでしょうが、いちおう説明すると、
釈迦は出家するまえ王子だったから贅沢三昧の生活を経験している。
一方で出家してからは苦行三昧の修行をしている。
結局、釈迦は菩提樹の下で贅沢も苦行も意味がなく中道がいいと悟った。
この中道をどう解釈するか、なのである。
わたしはこの中道を「どっちも正しい」という意味だと思う。
贅沢三昧するのも楽しくて「正しい」し、
苦行をするのも自分を鍛える(自信をつける)という意味で「正しい」。
釈迦が菩提樹の下で悟ったことは「どっちも正しい」(中道)であった。
快楽も苦行も「どっちも正しい」。
ひっくり返せば、快楽も苦行もどちらも絶対的に「正しい」わけではない。
中道の意味は、絶対的に「正しい」ものなどないということ。
みんな「正しい」し、みんな誤っているし、真実はよくわからない。
もしこれが中道の意味だとしたら、
釈迦の言葉を絶対的に「正しい」と信じて修行している小乗は
開祖の教えを理解していないことになってしまうのである。
釈迦の教えが中道(「どっちも正しい」「絶対的に正しいものはない」)であるならば、
釈迦の遺訓を守って「正しい」出家修行をしている小乗集団はおかしい。
先輩や古株がやたら威張っている保守的な小乗仏教は乗り越えられるべきだ。

中道=「どっちも正しい」をみなさまにご理解いただけるか自信がない。
やっぱりみなさんなにか「正しい」ものがひとつあると信じていますでしょう?
AとBが喧嘩していたら、そのどちらが「正しい」のか知りたくなってしまう。
人間は「正しい」ことがない状態になかなか耐えられない。
しかし、偉大なブッダは「正しい」ことがないことをおそらく悟った。
なにか「正しい」真理を男は悟ったのではなく、
「どっちも正しい」こと、「みんな正しい」こと、「正しいことはないこと」を
クソ熱いインドの大地で瞑想しながら悟ったのだと思う。
みなさん「正しい」ことがないなんていう状況に耐えられないでしょう?
しかし、ブッダは「正しい」ことがないことを腹の底から悟ったのである。
「どっちも正しい」(中道)は「空(くう)」でもある。
美人もブスも、富豪も貧者も「どっちも正しい」(空)のである。
「どっちも正しい」こそ中道であり空であり無分別智といえよう。
たとえば、無常という思想が仏教にはある。
常なるものはなく、万事が変転するという希望でもあり絶望でもある。
どんなにいま幸福でもいつかそれは崩れるし、
よしんば泣き叫びたいほどの不幸に遭遇しても
15年後には人生と折り合いがついているかもしれない。
無常というのは相対的という意味である。無常の反意語は絶対(恒常)だろう。
大乗仏教の新発明は人間釈迦を絶対者にしたところにある。
無常と絶対(恒常)は相反するイデオロギー(思想)である。
世界が無常ならば恒常はないし、世界に恒常が存在すれば無常は嘘偽りになる。
しかし、「どっちも正しい」のである。世界は無常であり恒常でもあるのである。
「宝積経」でブッダは釈迦の高弟、迦葉(かしょう)に中道の教えを説く。
迦葉は小乗仏教の古株である。

「カーシヤパ[迦葉]よ、恒常であるというならば、
これは一つの極端論(辺)であり、カーシヤパよ、
無常であるというならば、これはもう一つの極端論である。
これら恒常と無常とのふたつの間の中正なものは、
形をもたないもの、見られないもの、あらわれ出ないもの、
認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。
カーシヤパよ、この(ように観察する)ことが中道、
すなわち存在についての真実の観察と言われる」(P203)


「存在についての真実の観察」は「どっちも正しい」ものとして見ること。
さて、話が難しくなりすぎたでしょうか。
現代の問題にもつながる話題を仏典がしているので紹介する。
いまなお「脳か心か」という問題がある。
心を病むなどという表現をするが、心はどこにもないのである。
精神疾患はすべて脳機能の異常とも言えなくもない。
しかし、薬品でよくならない精神疾患が心理療法で改善することがある。
いったい心というのは存在するのか。すべては脳機能の正常・異常なのか。
唯心論、唯物論、唯脳論などと言われている現代でも解決していない問題だ。
これに初期大乗仏典の「宝積経」はどう答えているか。

「カーシヤパよ、心は実在するというならば、これはひとつの極端論であり、
心は実在するものではないというならば、これももうひとつの極端論である。
カーシヤパよ、思惟(思)もなく、意(マナス)もなく、認知(識)もないところ、
カーシヤパよ、これが中道であり、存在についての真実の観察である」(P204)


心は実在するも、心は実在しないも「どっちも正しい」のである。
矛盾した状態をそのままあるがままに直視することが中道なのであろう。
どちらも正しくないし、いや、どちらも「正しい」。
いまあるがままの矛盾した状態でそのままそのまんまで「正しい」。
涅槃(ねはん/欲望の消滅)も「正しい」けれど、
煩悩(ぼんのう/金銭欲、出世欲、性欲)もまた同時に「正しい」。

「カーシヤパよ、、またたとえば、大きな都城の中では(いやがられる)
糞尿(ふんにょう)の山であっても、
それが甘蔗(かんしょ/サトウキビ)や米やぶどうの田畑では、有効な肥料となる。
それと同じように、カーシヤパよ、菩薩(ぼさつ)に煩悩はあっても、
それが、一切知であることに対しては有効な養分となる」(P202)


善は「正しい」けれども、悪もまた「正しい」のである。
善も悪も「どっちも正しい」=中道=空(くう)。
絶対的に「正しい」ものはないならば、善も悪も見かけ上のものである。
善悪を識別する心が実在するかどうかでさえ「正しい」ことはわからない。
そうだとしたら、どうして悪が悪であると言い切れようか。
悪は善であり、善は悪であり、善も悪も「どっちも正しい」。

「カーシヤパよ、たとえば肥料を含んだ泥池(どろいけ)に蓮(はす)の花が咲く。
それと同じように、カーシヤパよ、煩悩の肥料を含んだ泥池であり、
絶対に悪性を断ち切れない生きとし生けるものの中でこそ、
菩薩にそなわった仏陀にふさわしい性格が生長する」(P210)


悟り澄ましたような小乗の坊さんよりも、世俗の悪人のほうが仏性がある。
悪いことはしてもいいし、悪いことを言ってもいいのである。善人ぶるなよ。
大乗仏典「宝積経」にも見ようによってはひどい悪口が書かれているのである。
おまえ、それを言っていいのかと思わずギョッとしたくらいである。
小乗の坊主どもへの罵詈雑言である。

「たとえば王の麗わしい王妃が乞食の人間と一緒に寝て、
それによって王妃に息子が生まれたとする。
しかし、その王子は王になることはできないだろう。
それと同じように、声聞[小乗部仏教徒]たちは、
欲望からの自由は得ているが、決してわたくしの子として灌頂(かんじょう)
の儀式を受けるにあたいするものではない。
なんとなれば、彼ら[小乗仏教徒]は、
自らのしあわせのためにのみ修行するのに反し、
仏陀のこどもは自と他との両者のために行なうからである」(P211)


ものすごい差別意識ではありませんか? ひでえ悪口というか。
小乗の人たちを乞食の子どもだと中傷しているわけだ。
まるで創価学会みたいだが、ならばかの団体は大乗仏教の精髄ではないか。
善も悪もない大乗は小乗の悪口をこれでもかと言うのである。
自画自賛もまことに俗物的でおもしろい。

「カーシヤパよ、たとえば、王の第一の妃に王子が生まれると、
生まれたその瞬間に、富豪や庶民や国民や町の役人などすべてが礼拝する。
それと同じように、カーシヤパよ、はじめて発心した菩薩を、
神々をはじめとする世間の人々は礼拝する」(P2133)


小乗は乞食の子どもで、自分たち大乗は王さまの子どもであると言っている。
どうして王さまの子どもは偉いんだろうと考えてはいけないのである。
我われとて成功者の二世は無意識ながら重んじているではないか。
「宝積経」は偽善を排して「本当のこと」を言っているのだろう。
以下の説法は創価学会の池田大作名誉会長のようで笑えた。
池田SGI会長は、末端の信者をほめて幹部を叱ることで知られている。
そうしたほうが組織はうまくまわるという集団力学に通じているのだろう。
ブッダは「宝積経」でこう説いたとされている。

「カーシヤパ[古株]よ、たとえば、新月は祭儀によって敬われるが、
満月であればそれほどたいせつには敬われない。
それと同じように、カーシヤパよ、わたくしを信仰する人々は、
より以上に菩薩を礼拝すべきである。如来をではない。
それはなぜか。如来は菩薩からこそ生まれるからである」(P214)


「宝積経」ではブッダの説法を聞いていた古株集団(長老)が怒ったとされる。
この説法の場から500人の長老が去って行ったというのだから。
しかし、「法華経」のケースとは異なり古株集団はブッダのもとへ戻ってくる。
長老たちは愚かにも自分たちは先輩で年齢的にも釈迦に近いから
「偉い」「正しい」と驕(おご)っていたのである。
釈迦の「正しい」言葉をより多く聞いた自分たちは「正しい」と誤解していた。
「宝積経」によれば長老(古株、先輩)は「偉い」わけでも「正しい」わけでもない。
なぜならブッダの説いたのは中道で、
それは「どっちも正しい」という意味なのだから。
一度脱会した長老たちは再試問を受ける。
「長老がたよ、あなたがたのお師匠はどなたですか?」
彼らはどう答えたか。まだ人間釈迦を信じているのか。
「長老がたよ、あなたがたのお師匠はどなたですか?」

「その人はこの世に生まれているのでもなく、
悟りの世界(涅槃)にいるのでもありません」(P228)


長老たちは「正しい」師匠がいないことを認めたわけである。
すなわち、中道を悟ったということである。繰り返すが、
中道とは「どっちも正しい」「みんな正しい」
「絶対に正しいものはない」という意味である。
善も悪も「どっちも正しい」(中道)。善も悪も存在しない(空)。善悪を分別するな。
大乗仏典は酔っぱらいのたわごとのようなところがある。
しかし、酔うのは楽しいから酔眼で世間さまを睥睨(へいげい)するのも悪くない。

「仏教の思想と歴史」(長尾雅人/世界の名著「大乗仏典」中央公論社)

→まったく期待しないでつまらなかったらすぐにストップするつもりで
学者による本書の解説を読んだら、これがわかりやすくおもしろいのである。
本当になにかを理解していたらわかりやすい文章で説明できるはず。
このわたしの信念を長尾雅人氏は証明してくれたようなものである。
長尾雅人の本は1冊積ん読しているから、いつか読んでみようと思う。
批評や批判をする気はまったくなく、ただ氏から教わったことを紹介したい。
ここで問題になるのが「教わる」という行為である。
果たして仏教学者の長尾雅人氏が優秀だからわかりやすい解説をできるのか。
というのも、一般人はたぶん氏の文章を読んでも意味がわからない気がする。
もしかしたら、せんえつながら読み手のレベルが少し上昇したから、
氏の仏教解説のすばらしさをわかるのではないか。
そもそも人は人に言葉でなにかを教えられるのか。
これが長尾氏も指摘していることで、
あるいは釈迦はなにも説法しなかったかもしれないのである。
結局、真理は人それぞれのようなところがあり、
その百人百様の真理はそれぞれがそれぞれの研鑽のすえに気づくしかない。
もしかしたらブッダの悟った真理とはこのことではないか。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。

わたしの文章よりも長尾雅人氏の解説である。
こちらもどこかでそうではないかと思っていた氏の解説を紹介したい。
釈迦は菩提樹の下でなにを悟って仏陀(ブッダ/目覚めた人)になったのか。

「仏陀はここで、すでに真理を見た。しかし、それを説くことはできない。
真理は説かれるべきではない。
「ことば」に対する非常に大きな不信、疑惑がそこにはある。
はたして人間のことばによって、真理が伝えられうるのか。
ふつう、人々は安易にわれわれのことばに信頼をおいている。
わたくしはすべてを語ったし、彼はそれを了解した、と考えている。
はたしてそうなのか。そこに誤解はないのか。
砂糖の甘さは、
人々がおのおの冷暖自知(れいだんじち)しなければならないのではないか。
甘さをことばや概念で説明するのは非常にむずかしい。
われわれの日常の経験においてすでにそうである。
いわんや、究極の真理を、ことばや概念の中に盛りこみうるであろうか。
ことばではあらわしえないもの、ことばで伝えられないものを、
「不可思議」とか「不可説」とかという。
不可思議とは奇跡のことではない、思惟を越えたもの、思惟しえないものをいう。
したがって、それはことばや概念をもって説くことのできないものである。
あるいは概念的に説いてはいけないものである。
なんとなれば、誤謬(ごびゅう)を犯さなくては概念の世界に
真理をもちきたらしめえないということがあるからである。
語ればおのずから誤謬を犯し、人々の誤解を招く。
したがって仏陀は沈黙を守ろうと欲した。
仏陀のこの沈黙は、そのまま「空」につながる。
「空」とは、あらゆる概念設定の否定である」(P17)


甘さは味わってみるほかなく、人に言葉では伝達できないと氏は書いている。
同様、辛(から)さ辛(つら)さも本人が味わってみないとわからないものである。
たとえば、子どもに死なれた悲哀はもう言葉にできない領域である。
母親から目のまえで飛び降り自殺されるのも、おそらくそうであろう。
言葉にできない不可思議な領域というものが世界には絶対にある。
これがブッダの悟った真理のひとつであったとは著者とわたしの共通見解である。
信じられないような不幸から人は救われるのではおそらくあるまい。
自分で自分を救うしかない。
新興宗教もいいのだろうけれど、あれはいつか麻薬効果の切れる時期が訪れる。
ブッダが言ったとされる有名な言葉が以下である。

「わたくしに対する尊敬から、
わたくしのいったことをそのままうのみに認めてはならない。
師のことばであっても、試金石にかけるようにして吟味すべきである」(P21)


「師弟不二」こそブッダがいちばん嫌いなものだったのかもしれない。
師匠に奴隷のように仕えるのは本当の師弟関係ではない。
師の言葉でさえ疑って、自分のあたまで考え、自分の真理を見つけよ。
もしかしたらこれがブッダの教えだったのかもしれない。
そうだとしたら、仏教にあまたの経典や注釈があるのはとてもいいことである。
ブッダの本当の教えを理解した人たちが、
それぞれのブッダを表現したということなのだから。
真理は教わるものではなく、
自分で、自分のあたまで考え、自分の真理を発見するしかない。
あの有名なエピソードはまさにそのことを物語っているではないか。
愛する子どもを亡くした母がブッダに生き返らせてくださいと相談に行った。
ブッダはどう答えたか。
「芥子粒を数粒持ってきてくれたら、その赤ん坊を生き返らせてみせよう。
ただし、その芥子粒はいままで一度も死者を出したことのない家からもらってくること」
悲しみで半狂乱の母親は家々を歩き回ったが、
いままでに死者を出したことのない家はどこにもなかった。
このとき亡児をかかえた母は、「人はみな死ぬ」という真理を悟る。
母親はブッダから真理を教わったわけではなく、自分で悟ったのである。

ブッダは真理は伝達不能なことを真理であるとみなしていたのかもしれない。
しかし、ブッダの死後、弟子たちはそうは思わなかった。
ブッダの言葉こそ「正しい」という教条主義におちいってしまった。
ブッダにより近い古株ほど偉いという上下関係の定まった保守社会である。
いまでいえば先輩の言うことは絶対に「正しい」という体育会系の乗りである。

「このような傾向が、いわゆる小乗時代、守旧保守の時代というものを生み出した。
仏陀の説いたことばを、一字一句も変えることなくまもり通して
後代に伝えようとするのが、弟子たちの真摯なねがいであった。
これら弟子たち、そのまた弟子たちの間にも、すぐれた学者や高僧はいた。
しかし彼らは、仏陀にそむいたり、仏陀を越えて、
より高い境地を切り開こうとしたのではない。
ひたすら、仏陀の示した高いレベルをそのまま維持しようとしたのである。
しかし、このことが結果的には、堕落沈滞の空気を醸成し。
独創性のないマンネリズムへ陥ることになったのである」(P28)


古株や先輩の言うことは絶対に「正しい」という保守的集団である。
ちょっとでも先輩に逆らおうものなら、殴られても文句は言えない。
古株は古株だから「正しい」、「正しい」ゆえに後輩に暴力を振るってもいい。
新しい芽のようなものが出てきたら、
それは秩序を崩すものだから(上が上ではなくなる)徹底的に排除する。
先輩が「今度おれに逆らったらぶん殴るから覚悟しとけよ」
と後輩を威嚇するのみならず、実際に暴力もあったであろう仏教世界である。
どうして古株や先輩はそんなに偉いのだろう。
小乗仏教の厳しい縦社会における底辺で、そんな疑問がわきあがる。

「さて、小乗の小乗たる所以(ゆえん)は、守旧保守というところにあった。
これは、経典の解釈を固定させ、
戒律の条文を一定不変のものにすることにほかならない。
それに反して、より進歩的な人々は、条文の文字や当面の意味よりも、
その裏に隠れた仏陀の真意を知ろうとし、より自由な解釈を与えようとした。
それが大乗とよばれる運動である」(P32)


大乗非仏説というものがある。
大乗仏教はブッダの説いた教えではないから仏教ではないという批判である。
だが、もしブッダの悟った真理が以下のようなものであったらどうなるか。
繰り返しになるが、もう一度確認のため書く。ブッダが悟った真理――。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。
そうであるならば、ブッダの言葉を盲目的に順守する小乗こそ仏教ではない。
他人の言葉に依存するのではなく、
自分のあたまで考えたことを真理として表現した大乗こそ本物の仏教ではないか。
著者の長尾氏も大乗仏教が好きなようで、
以下のような大乗擁護論を紹介している。
4~5世紀のインドの論書にある言葉だそうである。

「この大乗という崇高な教えを、
仏陀でなくてだれがいいったい説きえようか」(P34)


ブッダの言葉うんぬんと言っているものは肩書に目がくらんでいるのである。
あの人は大学教授だから、言っていることは「正しい」。
反対にあの人は時給850円のパートだから主張は信じられない。
成功者の言葉なら真実で、失敗者の言葉なら信用に値しないようなもの。
しかし、世俗ならぬ聖なる仏教世界もそれではいけないのではないか。

「仏陀の説であるからこそ真の教えなのではなく、
大乗が真の教えであるからこそそれは「仏説」である、というこの論理は、
われわれには奇妙に感じられるかもしれないが、
これこそ大乗教徒の信念であった。
このとき、仏陀というのは、小乗教徒が考えるようなシャーキヤムニ[釈迦/釈尊]
ひとりではない。十方の宇宙に浄土があり、仏陀がまします。
仏陀とは文字どおり「悟れるもの」である。
「悟れるもの」以外に、だれがこの教えを説きうるものぞ。
だから大乗は「仏説」なのである」(P34)


わたしはお経は好きだけれども、論説(解釈)はあまり読む気にならない。
経は天才が発明したもので、論はしょせん秀才の仕事だからであろう。
仏教初学者は(わたしもそうだったが)解説書ばかり読みたがるものである。
だが、いきなり経の世界に飛び込んでみると、わからないが、
そのわからないところに独自解釈の余地があっておもしろいのである。
大乗の世界でもまず経が出てきて、次に経を解釈する論の時代になる。

「論の時代は、最初は経の時代に重なっているが、
のちには論の時代が独立してくる。
経の時代はいわば独創的なアイディアの時代であり、
論の時代はそれの組織化・体系化の時代である。
しかし、注釈に注釈を重ねる論の時代が長く続くと、
オリジナリティに富んだ思想は枯渇してくるのが一般の傾向らしい」(P44)


危険なことを言うと、新興宗教はオリジナリティに富んだ「経」の世界だと思う。
伝統仏教なぞ「論」の集積に過ぎず、まったくおもしろくもないし人を救わない。
宗教の原初・根本は論理ではなく、狂騒なのだと思う。
しかし、あれは人迷惑なところがあるからなあ。
もしブッダがいまの日本の創価学会を見たら、
うーん、ああいうのもありというか、いいんじゃないかって言うような気がする。
みたび繰り返す。おそらくブッダが悟ったとされる真理は――。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。

「裁かれた捏造報道 創価学会に謝罪した『週刊新潮』の大罪」(前原政之/潮出版社)

→事実を報道する、真実を報道するというのは、どういうことなんだろう?
たとえば喧嘩が起こったとするでしょう。双方、言い分があるわけである。
MとTが喧嘩をしたとする。MがTに暴力を振るった。
この場合、いちおうはMが悪いということになってしまう。
二度、喧嘩があって二度ともMのほうがTに暴力を振るった。
Tはいっさい手を出さなかった。この場合、Mは一方的に悪いのだろうか。
TがMに暴力を振るうように仕向けたかもしれないのである。
しかし、ふつうは暴力を振るわないだろう。やはりMは悪いのか。
ものごとをべつの角度から見てみよう。なぜMとTは喧嘩をしたのか。
周囲の影響もあるのではないか。周囲がMにTの悪口をさんざん吹き込んだ。
TがMの悪口をさんざん言っていますよ、とかあることないこと。
Tも周囲からMの悪口を聞かされていたかもしれない。
Mはまえにも暴力事件を起こしている。
Mは金持のドラ息子でさんざん甘やかされて育ったが、親の七光りで威張っている。
周囲がMとTの抗争をあおったのだとしたら、いったい悪いのはだれになるのだろう。
喧嘩のきっかけは偶然のことが多いが、故意か故意でないかというのもわからない。
意図してやったかどうか、である。
たまたま肩が触れ合ったのか、それとも故意のタックルなのか。
本人もわからないケースというのもあるのではないかと思う。
で、この場合、最終的にどちらが「正しい」のか決めるのは第三者である。
社会的にこの第三者はマスコミ(新聞、テレビ、雑誌)と称されている。

マスコミはボランティアで報道をしているわけではない。
利益を追及している企業であることには違いがない。
ならば、当然お客の支持を受けなければならない。
大多数である大衆が好むような物語を提供するのがマスコミとも言いうる。
大衆は善と悪がはっきりしたわかりやすい物語を好む。
たとえば、政治家は悪人で無辜(むこ)の民は苦しめられている、といったような。
ボランティアをしただれそれは善人で多くの人が救われている、といったような。
本当は善も悪もよくわからないのかもしれない。
なにが「正しい」のかよくわからないのかもしれない。
しかし、それでは大衆は納得しないのである。
そして、大衆がなにより求めるのはおもしろい物語である。
わかりやすく、かつ、おもしろかったら、こんなに最高なマスコミ情報はない。
大衆や庶民は退屈な「事実」(ってなにという問題がまだわたしにはわかっていない)
よりも、「ははーん」とうなるようなわかったような気分になる、
おもしろいその日いちにちだけでも気分が愉快になるような記事を好むのだ。

本書で印象的だったのは創価学会と日蓮正宗のある事件である。
このふたつの団体は長いこといがみあっている。
創価学会の幹部と日蓮正宗の僧侶が交通事故を起こしたそうだ。
結果、日蓮正宗、大石寺の僧侶が死んでしまったらしい。
交通事故の場合、警察の所見が「正しい」ものとされる。
警察の判断では非は一方的に大石寺の僧侶にあったという。
大きく対向車線をはみ出して反対側の道路に行ってしまった僧侶が悪かった。
保険会社もそういう判断をくだした。
しかし、「週刊新潮」は創価学会幹部が大石寺の僧侶を殺害したと報道する。
正しくは「大石寺「僧侶」を衝突死させた創価学会幹部」――。
まるで創価学会幹部に非があったような「事実」を捏造した報道である。
これに対して創価学会サイドの著者は「週刊新潮」の非を責める。
いったい「事実」や「真実」はどうだったのだろう?
そもそも交通事故というのがよくわからない。
あれは1分1秒の差で偶然に出会わなければ起きない事故でしょう?
あんなもの是非(善悪)もなく運が悪かったとしか言いようがないと思うのだが。
そして、わからないのが創価学会である。
どこまで創価学会の権力は浸透しているのか。
まさかないと思うけれど、万が一にも創価学会と警察が通じていたら、
交通事故の「事実」はいったいどうなるのか?
保険会社と創価学会はどのような関係にあるのか?
「事実」や「真実」っていったいなんだろう?
元「週刊新潮」のジャーナリストK氏はこう言ったという。

「いうならば『週刊新潮』のレポートは、事実の報道というよりは、
〝いくらか事実の混じったエッセイ”、あるいは〝フィクション”に近い」(P128)


これは「週刊新潮」のみならずマスコミ全般に言えることではないか。
テレビニュースは「いくらか事実の混じったバラエティ」でしょう。
新聞記事は「いくらか事実の混じった大衆好みの客観的文章」でしょう。
雑誌は「週刊新潮」のみならず、どこもそんなもんではないかという気がするけれど。
いちばんの問題は、引用文の出どころが「創」という創価学会系の雑誌なのである。
K氏は元創価学会員だったのではないかという疑いが芽生える。
あるいは現学会員かもしれない。
どちらにしろ学会関係者の発言であることは疑ってもいいと思うのである。
おなじく創価学会系の雑誌「潮」で「週刊新潮」の「生みの親」S氏がこう語っているそうだ。

「うちの基本姿勢は〝俗物”主義でした。人間という存在自体がそうでしょう。
どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女……それが人間なのですよ。
だから、そういう〝人間”を扱った週刊誌を作ろう……
あっさりいえばただそれだけでした」(P138)


繰り返しになるが、創価学会系の雑誌「潮」におけるインタビューが引用元だ。
いったい創価学会というのは、なんなのだろう。
ぶっちゃけ、わたしの病的妄想だろうが(そうに違いない)、
いまのバイト先もSGI(創価学会)のにおいがプンプンするのである。
新入りと古株が異様なほど仲良く話していたり、
職場以外のコミュニティがあるとしか考えられない。
わたしは現在のところ創価学会シンパだから、そういう職場で働くのは抵抗がない。
むしろ和気あいあいとしたいい職場にめぐりあったと思う。
しかし、もし創価学会が関係していないとしたらわからないことが多すぎる。
創価学会っていったいどういう組織なのだろう。
いまは二世や三世が大勢いるわけでしょう?
生まれてからずっと創価教育を受けてきて大きくなった人たち。
今日たいへんご迷惑をかけてしまった社員さんも、創価学会要人とおなじ名字なのだ。
まさかまさかの話で、すべてはわたしの病的妄想だとわかっているからご安心を。
結局、「正しい」ってなんだろう。「事実」や「真実」ってなんだろう。
こういうことをいまもいま今日この瞬間に考えさせてくれるという意味合いにおいて、
著者はそれほど尽力した仕事ではないのかもしれないが、
いま7月15日午後6時のわたしには名著であった。

「臨済録」(入矢義高:訳注/ワイド版岩波文庫)

→禅の典籍は「無門関」を読んだことがあり、あれはまったくおもしろくなかったので、
まったく期待せずに唐の禅僧・臨済の言行録である本書を読む。
そうしたら「臨済録」は非常に刺激的でおもしろかったのである。
臨済(りんざい)が理想としたのは「無位の真人」である。
これはどういう意味かというと、訳注者によれば、
「いかなる枠にもはまらず、一切の範疇(はんちゅう)を超えた自由人」のこと。
本書のメッセージを簡潔に言えば、
禅における悟りとは自由になることだ。もっと自由になれ。
自由になるためには、どうしたらいいか。自分を信じることだ。
自分を信じるとは、どういうことか。
「正しい」教えを他人や本に求めず、自分の目でものごとをよく見てみろ。
釈迦はだれか師匠から悟りを教わりブッダになったのではない。
釈迦は自分こそブッダ(目覚めた人)であると信じたとき悟りを開いたのだ。
悟りを開くとは迷いがなくなることだ。迷いがなくなるとはどういうことか。
迷いが吹っ切れるとは自由になることだ。
ふたたび、どうしたら自由になれるのか。だから、自由になるには自分を信じろ。
師匠に教えを乞うな。自分こそブッダであると信じるのが自由の意味である。
悟りを開き、自由になったことはどのような行為でわかるか。
いきなりちゃぶ台をひっくり返すやつは自由だ。
過激になるのが、自由になったということだ。自分を信じていたら、過激になれる。
悟るとは、もっと自由に、もっと過激になることである。
禅の師弟関係は暴力的だが、弟子は考えに考え迷いに迷い、
師に仏教の根本義(本当の意味)を質問に行く。
師匠はそのたびに弟子を叱り飛ばしたりぶん殴ったりするのが禅である。
これはどういうことか。
禅の悟りは他人から教えてもらうものではなく、自分で気づくことだ。
自分に自信を持ち、自分の目でものごとを自由に見(ら)れるようになったとき、
彼は悟ったということができるだろう。
このため、悟りはどのような行為で表出するか。
尊敬している師匠を叱り飛ばすどころかぶん殴れるようになったら、それが悟りだ。
弟子は師匠を超えたならば、師を殴れるはずだ。
このときニヤリとするのが本当の師匠である。
禅の教えは、自分を信じて自由になれ。他人に頼るな。自分の目でものを見ろ。
「もっと自由に! もっと過激に!」が「臨済録」の要約である。

お忙しい方はもうここでお読みになるのをやめてけっこうです。
本書の内容は上記いたしましたので、あとは証拠となる文を引用していくだけなので。
本当に「臨済録」の内容はそうであるのか以下に証明していきます。
自信を持て、自由になれ。

「今わしが君たちに言い含めたいことは、
ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。
自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。
このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるのか。
病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。
もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、
すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、
そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏と会いたいと思うか。
今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。
君たちはこれを信じきれないために、外に向かって求める。
しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、
生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。
今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻[転生]し、
好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬(ろば)や牛の腹に宿ることになろう。
君たち、わしの見地からすれば、この[我われの]自己は釈迦と別ではない」(P35)


自己啓発書やハウツー本、人生相談や占い師、師匠先輩の言葉に惑わされるな。
自分が思ったことをやろう。
なぜ君たちが駄目かと言えば、自分に自信を持たないからである。
自分に自信を持てないから、おろおろあたふたして人に聞いてまわる羽目になる。
それぞれが仏なのである。仏は探し回るものではなく、いまのあなたが仏である。
いまそのことに気づかないと、永遠に輪廻転生を繰り返し、来世は牛馬かもしれぬぞ。
あたたやわたしの自己は釈迦と異なっているわけではない。
どうして自分を信じないのか。自信を持たないのか。自由にならないのか。

「師は皆に説いて言った、「今仏道を学ぼうとする人たちは、
ともかく自らを信じなくてはならぬ。決して自己の外に求めるな。
そんなことをしても、あのくだらぬ型[みんなと一緒!]に乗っかるだけで、
邪正を見分けることは全然できぬ」(P69)


流行を追い求めるな。人真似をしてもしようがないだろう。
自分を信じて、自分の目でものの正邪や美醜を見分けよ。
あの人は先輩だから「偉い」「正しい」ということもないし、
あの人は読書家だから「正しい」「偉い」ということもない。
先輩や読書家の言うことなど聞かないで、自分を信じよう。
この欲望世界でいつ死ぬかも知れぬのに、なにゆえ自分ではなく他人を信じるのか。

「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。
ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、
一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。
君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。
君たちの[本来の]心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。
君たちの[本来の]心に具わった、
思慮分別を超えた力が、君たち自身の報身仏なのだ。
また、君たちの「本来の」心に具わった、
差別の世界を超えた光が、君たち自身の化身仏なのだ。この三種の仏身とは、
今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ」(P38)


なかなかそう言われても信じられないから、
「みんな仏の子」などと説いた法華経を頼らなくてはならないのだろう。
しかし、法華経は難しいから解釈は師に頼るしかない。
すると師の弟子(奴隷)となり、人は自己への信頼(自信)を失ってしまう。
自分を信じろ。自信を持て。自分の人生の主人公は自分であるのだから。

「諸君、時の経つのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、
それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、
[いわゆる]善智識を求めて憶測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、諸君。
君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。
自らの光を外へ照らし向けて見よ」(P44)


この訳は訳注者の先生の解釈がかなり入っている。
「君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ」の原文は、
「你[あたなは]祇(た)だ一箇の父母あり、更に何物かを求めん」である。
訳として間違ってはいないのだが、訳注者の解釈が入っている。
その解釈が駄目だというのではなく、わかりやすくていいとむしろほめたいのだが。
「あなたにはたったひとりの父と母がいるではないか」という意味である。
あなたやわたしは世界中にひとりしかいない。では、なぜその自分を信じないのか。
たったひとりの父と母から生まれたあなたにはすべてが入っているのではないか。
生きるというのは父や母からもらったものを用いて生きるしかない。
あなたが持っているものは父と母から受け継いだものしかないではないか。
ならば、あなたの人生物語の主人公はあなたのほかにいないだろう?
だとしたら、どうして自分を信じないのか。
ほかにも訳注者が「主人公」という訳語を用いた箇所がある。

「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、
ますらおの気概がなくてはならぬ。人の言いなりなぐず[愚図]では駄目だ。
ひびの入った陶器には醍醐(だいご/高級ヨーグルト)を
貯えておけないのと同じだ。
大器の人であれば、何より他人に惑わされまいとするものだ。
どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ」(P71)


ここの原文はどうなっているのか。
「大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要(ほっ)す。
随所に主と作(な)れば、立処(たちどころ)皆な真なり」である。
なにが真実かと言えば、自分の目で見たものが真実なのである。
言い換えれば、自分の目で見ないと真実は見えてこない。
人のうわさ話を信じていると、その人の真実の姿(正体)は見えない。
では、具体的にどうしていたらいいのか。

「諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、
そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。
勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。
しかし、こう言うわしのその言葉に飛びつくよりは、先ず何よりも、
静に安らいで、のほほんとしていることが一番だ」(P100)


「なにごともしない人こそが高貴な人だ。絶対に計らいをしてはならぬ。
ただあるがままであればよい」(P47)


「……のほほんとして純一無垢でいるのが一番よい」(P130)

「だからなによりも無事平穏、やることもないままでいるのが一番よいのだ」(P142)

以上の原文にかならずあるのが「無事」である。
「臨済録」は自由人たれと同時に「無事の人」たれ、と主張しているのである。
たまには原文から入ってみよう。

「你[あなたが]若(も)し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられん。
你若し祖を求むれば、祖魔に縛せられん。
你若し求むること有れば皆な苦なり。如かず無事ならんには」(P83)


「君たちがもし仏を求めたら、仏という魔のとりことなり、
もし祖を求めたら、祖という魔に縛られる。
君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。
あるがままに何もしないでいるのが最もよい」(P85)


現代で言うならば、資格取得の勉強などしてもいいが、しなくてもいいのである。
むかしから自分に自信がなく資格(お墨付き)を人からもらいたがる人がいたようである。

「諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、
おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ」(P58)


資格などを持っていると逆に自由になれなくなる。
「私は医師だ」「私は○○会社の部長だ」「私は○○賞作家だ」「私は天台座主だ」
自由になるためには、あらゆる価値観を否定しなければならないのである。
以下は「臨済録」でいちばん有名な箇所だろう。

「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。
内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。
仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、
父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、
そうして始めて解脱することができ、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」(P97)


もちろん実際に殺せと言っているわけではなく、
権威やしがらみから遠ざかろうという意味かと思われる。
「臨済録」は過激な書でかなりめちゃくちゃなことも書かれているのである。
ここは笑ったなというところを引用ではなく要約で紹介したい。
諸君、自由人であればこそ仏や師匠を批判して高僧の悪口を言うのだ。
そういうことをしたところで悪業になどなりはしない。
むかしの先輩たちも大物であればあるほど、
どこへ行っても理解されず、寺から追い払われたものだが、
そのくらいの嫌われものになってはじめて、ものの価値がわかるのだぞ(P79)。
ほらさあ、偉そうな坊さんがブッダは長い修業してようやく完成したとか言うではないか。
バカ言うなって話で、ブッダがそんなに偉いのならわずか80年で死ぬかよ。
ということは、釈迦と我われはそう変わらず我われもブッダになれるのである(P86)。
ならば、どうしたら悟れるのか。人から教わるのではなく、自分で気づくしかない。

「定上座[坊さん]が参見にやって来て問うた、「仏法の根本義を伺いたい。」
師は坐禅の椅子から下り、胸倉をつかんで平手打ちを食わせてから突き放した。
定上座が茫然と立っていると立っていると、そばの僧が言った、
「定上座、なぜ礼拝なさらぬ。」
そう言われて定上座は礼拝したとたん、はたと悟った」(P170)


なにを悟ったのか? 仏法は教わるものではなく、自分で気づくことだ。
釈迦も仏法を師匠から教わったわけではなく、自分で悟ったのだから。
自分をブッダ(目覚めた人)であると信じられたら、それが悟りなのである。
自分はブッダなのだから自分を信じよう。
自信を持って、自分の目で自由にものごとを見て、自由に行動しよう。
臨済が悟った経緯というのもおもしろいのである。
臨済は師匠の黄檗(おうばく)に三度仏法の根本義を聞いて三度とも殴られたという。
わけがわからなくって高僧の大愚(たいぐ)に質問に行く。
大愚は臨済に言うのである。おまえは師の黄檗に感謝しなくちゃいかんよ。
このとき臨済は悟るのである。
大愚は臨済になにを悟ったのかと問う。
すると臨済は大愚の脇腹を三度、力いっぱいぶん殴ったというのだから。
臨済は師匠の黄檗のところに戻り、このいきさつを話す。
黄檗はおれも大愚を殴りたかったなあ、と言うのである。
これを聞いた臨済はどうしたか。師匠の黄檗の頬をひっぱたいたというのである。
黄檗はニヤリとして、臨済に坐禅でもしていやがれと言ったらしい。
禅の悟りというのは、このような過激なものなのである。
そして、禅における師匠から弟子に伝えられるものとはなにか。
師匠は弟子になにも教えないのである。
ただ弟子にできるのは師匠を超えることだけである。

「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半滅することになる。
見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある」(P190)


これは言い換えたら、弟子が師匠の頬をひっぱたいたり、
あたまをポカリと殴ったりしたときに法の伝授が完成したということになるのではないか。
「臨済録」は言っている。自分を信じろ。自信を持て。自由になれ。過激になれ。
具体的にはまずなにから始めたらいいのか。

「君たち、ただ自分の目で見て取れ。これ以上何があろう。
いくら説いてもきりはない。各自しっかりやってくれ。どうもご苦労だった」(P147)


生意気なため「おれにあやまれ」と怒鳴られたことが人生で何回かあったような気がする。
実際のわたしを知っている人はさもありなんと思うだろうが、
激憤した人から「あやまれ」と言われたら何度でもペコペコあたまを下げる。
それでも誠意がないという人がいるんだ。
どうして人は人からの謝罪を求めるのだろう。
おそらく自分は自分こそ自分がいちばん「正しい」と思っているからだろう。
自分は「正しい」のだから、おまえは間違っている。
間違っているおまえは「正しい」おれさまに何度でもあやまれ、土下座しろ。
おれさまは偉くて正しいのだから、おまえはあやまれ謝罪しろ。
わたしは他人に謝罪してほしいとか、
あやまってほしいとか思ったことも言ったこともこの10年くらいない。
みんながみんな「正しい」のである。
ただし社会通念上、世間的に権力関係で上のほう人が下に向かって、
命令的に「謝罪しろ」とは言える。
エリートの裁判官が底辺の犯罪者に謝罪しろってバカみたいな話だと思うけれど、
それが世間というもの、人間というもの、日本というものである。
先週の金曜日に職場のお偉いさんをえらく怒らせてしまった。
相手に不快感を出すとか肩がぶつかるなんてよくある話だと思うが、
相手が圧倒的に権力を持っているらしいし、
「あやまれ、あやまれ」と言われたので何度も低頭してあやまった。
本心からあやまっていないだろうと言われたが、
本心から謝罪して更生するというのはどういうことなんだろう?
あやまるというのは礼儀や常識の問題であって本心とは異なる。
あなたが切れているし、聞いたところ権力を持っているらしいから、
わたしは最大限の謝罪アピールをした。
本当にあやまっていないだろうと言われても、人間そんなものでしょう?
ライン(流れ作業)で人にぶつかるなんてよくあることだし、
嫌われものだからパート仲間ににらまれることなんて日常的に経験していることだが、
わたしは謝罪を求めたりしたことはない。
人間ってそんなものでしょう?
謝罪を求める人や、謝罪されて満足する人の気持がわからない。
こういうことに気づいたのは、言うまでもなくありがたくも、
ダメダメなわたしなのにいまの職場で雇っていただいているからである。
謝罪しろと言われたら、いくらでもあやまろうと思う。
芸術家とは程遠い下品な商売人根性のためかもしれぬが、わたしは謝罪する。
わたしが悪かった。すべてわたしが悪い。あなたが「正しい」。
謝罪が足りなかったらいくらでもオリコンでぶん殴ってください。
「あの頃、あの詩を」(鹿島茂編/文春新書)

→団塊の世代に向けた本で、
当時の中学国語教科書に載っていた詩を集めたアンソロジー。
ああ、学校教育というのは国家的洗脳なんだなあ、としみじみ気づいてしまった。
繰り返すが、教育というのは洗脳である。
労働を賛美する詩がやたら多いのである。
働いたあとに喰うメシはうまいとか(P86)、
労働後の帰途は充足感にあふれているだの(P128)
人生の目的は働くことだとか(P191)。
恋愛や性をあつかった詩がないのは致し方ないが、
競争をあおる人より上へ行こうという詩とか(P197)、
雑草でも生きがいはあるだの(P232)、
日本の高度経済成長は学校教育(国家的洗脳)によっていたことがよくわかる。
学校教育(国家的洗脳)ってたしかに重要なんだなあ。
教育とは自分で考える力を摘み取り、ある思想を「正しい」として植えつけること。
新聞礼賛の詩まであるのだから気持が悪いことこのうえない(P73)。
新聞の活字はジャムのようなパンのようないい匂いがするとか。
嘘つけって話だが、学校で先生からこう教わると、
団塊世代中学生は新聞は香り高い正義の媒体だと思ってしまうのだろう。
教育とは国家的プロジェクトの巨大洗脳である。
いかに多様な考えを抹殺し、みんな一緒にするかが日本的教育だ。
団塊世代はやたら人数が多いから優秀な人もいれば無能もいたであろう。
どうやって彼らを均一化したか。この詩を教えておけばいい。
高村光太郎の「少年に与ふ」から一部抜粋。

「えらい人や名高い人にならうとは決してするな。
持つて生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
それが自然と此の世の役に立つ」(P41)


バカや貧乏人やブスは持って生まれたものなのだからあきらめろよ。
しかし、世の中の役に立つ人間になるんだぞ。
世の中の役に立つ人間とは、きちんと働いてたくさん税金を納めてくれる人である。
いかに世の中の役に立つ、よく働く奴隷ワーカーを作るのかが教育の目的であった。
あの時代のこういった教育のおかげでいまの日本の繁栄があるのだろう。
氷河期世代からすると団塊ほどうざい連中はないけれど、
あいつらは金を持っているし多数派だし上を占めているから恐ろしい。
国家的洗脳である少年少女への学校教育ほど強いものはないのだろう。

「快感のプラクシス」(南伸坊・植島啓司/平凡社)

→87年刊行の「快感っていったいなんだろうねえ」という、ゆる~い対談本。
考えてみたら生きる目的や人生の目標がなくても、
快感があればそこそこ生きていて楽しいから社会的地位は低くても
そこまで気にやまずにのほほんと生きられるのかもしれない。
ふたりは有名人だけれど。
この本で知ったけれど植島さんの実家は踊りのお師匠さんらしい。
相当な資産家のお坊ちゃんのような気がする。
貧乏人は快感よりも、まず富や名声、地位を求めるものだろう。
いったい快感ってなんだろうねえ。
プルンプルン、プリンプリンとしたものって快感だよねえ(植島)。
そうそう、おっぱいとか(南)。
子どもが好きなものって、快感の原点じゃない(両者同意)。
ミニスカートでパンツがちらちら見えそうなのって快感っす(植島)。
ボクは制服が好きで、婦警さんをこってりいじめてみたいなあ(植島)。
おなじ鶏肉でも名古屋産とか書いてあるとよけいおいしく感じるわ(植島)
こんなくだらないことばかり書いてあるわけではなく――。
南伸坊は言う。

「ボクはすごくこわいことだとか危ないことだとか、
平常の自分の秩序を壊してくれるものがおもしろいもんなんだっていうふうに
思っているわけだけど、いちばん秩序を壊されるっていったら、
いわば死っていうものにまつわるものなワケですよ、最終的にね。
死んだらどうなるかなんて、なにしろ全然わかんないんだから」(P62)


死を取り扱っているのが宗教である。
当時は新進気鋭の宗教人類学者だった植島啓司は言う。
宗教儀式のトランス状態はよろしい。

「単純にね、狂騒状態って、近代社会では禁じられてきたと思う。
むしろリラクゼーションみたいなものばっかりが、
たとえば自然に還れみたいな感じで求められていて、
むしろお祭りだって人を殺したり、酒を飲んでめちゃくちゃになったりするっていうことは、
どんどん規制されていくわけでしょう。(……)
ところが宗教のいちばん大事な点は、
むしろそっちじゃないかっていう気がボクにはある。
感情的なポテンシャルが異常に高くて、
普段の経験的なマップに対応点が見出せない状態、
たいていのことだったらちょっと異常な状態でも、
経験的に知っているからなんとかなるけど、
そういう理解不能な状態こそ宗教と関わってくると思うんです」(P161)


日本の仏教史のなかでいちばん狂騒的なのは一遍の踊り念仏だとわたしは思う。
貧富や地位や格差を取っ払った一体感を人はこころよく思うことがある。
みんなひたすらお金や地位や名誉を求めているけれど、
そんなものは意味がないんだよと気づくことのできる興奮状態は快感である。
日常はつまらない。快感とは「飲む・打つ・買う」に尽きるのか。
本書で快感を求めて語り合ったふたりが最後に行き着くのがギャンブルの陶酔だ。

「南――で、ギャンブルの誘惑ってなんだろうね。
植島――やっぱり危険なことをしたいっていうのはあるんですよね。
なけなしの金を賭けて、オレはこんなに危険なことができたとか。
南――なるほど。みんなほんとは危険なことをしたいんだもんね。
でもできないから、やってる人がカッコイイんだ」(P173)


危険なことやそれにまつわる恐怖とか本当はおもしろいんだろうなあ。
殺すか殺されるかみたいな瞬間って一度味わったら病みつきになるのかもしれない。
一か八かという瞬間の興奮のことである。
どうなるかわからないことをあえてやってみて動向を見守るとか。
やってはいけないとされている危険なことをあえて人はやりたがることがある。
ジェットコースターなんて比較にならないスリルの快感があるのかもしれない。
当方、ヘタレだから絶叫マシーンとか子どものころから大嫌いだけれど。
バンジージャンプとかもできる人をよくやるなあと思う。冬山登山もそう。
パチンコや競馬でさえやり方を知らないわたしは、
人生でもっと自分の快感を求めたほうがいいのかもしれない。
かといって幼児性愛者や快楽殺人犯にはなりたくないけれど(さすがにならないって)。
人生に目的や目標がなくても、自分の快感があれば生きていけるのかもしれない。
だれからも承認されなくても、自分の快感を追求していけばいいのかもしれない。

いまわたしもモデルになっているらしい
小谷野敦さんのブログ実験小説「代理夫婦」を再読する。
「代理夫婦」の最初は飛ばした。モデルが介入してきてからがおもしろいのである。
わたしはモデルのひとりからメールを交換させていただいたことがある。
いま小谷野敦さんは疑心暗鬼の状態になっているようだ。
キーマンは小谷野敦さんを裏切って小林拓矢さんを引き抜いた講談社編集者と見た。
あるいはキーパーソンとでも言うべきで女性なのかもしれない。
それからもうひとりのキーマンはたぶんわたしだろう。
「代理夫婦」はまだ連載中である。
いまのところ最新連載のモデルはわたしわたしわたし。
ヤッター! これ、おいしいじゃん。
小説「代理夫婦」のモデルから「これは事実ですか? フィクションですか?」
と聞かれた作者は「事実でノンフィクション」と答えるからモデルは激怒する。
わたしがこのブログについておなじことを質問されたらどう答えるか。
「このブログに書いてあることは事実ですか? フィクションですか?」
「このブログの内容はすべてフィクションです。事実ではありません」
わたしは本当は65歳の老人で、
いまベトナムで余生を過ごしながらこのブログを書いているのかもしれない。
あるいはあたし、ホントーはかわいい女の子なのかもお。

いやいや、本当のことはブログに書いていない。
本当のことなんてどこにもないしぜんぶ嘘だとぼくは信じているから。
しかし、本当のことはあって、本当のことは嘘でしか書けないのである。
むかしのインド旅行のときの写真を見せた親友からかつて言われたことがある。
こんなに笑顔ばかりで死ぬためにインドに行ったって嘘じゃん。
ああ、ばれましたか、と思いましたね。
もてる男が「もてない男」を書く。
生きる意欲まんまんの人が死をにおわせる(柳美里氏とか)。
文章と現実はあべこべの関係にある。
本当のわたしはものすごく明るい常識的な礼儀正しい人間かもしれないのである。
本当ってなんだろう? 事実ってなに? すべてがフィクションではないか?
しつこくこのブログに書いてきたことである。
本当はなーんにもないのかもしれない。真理や真実はどこにもないのかもしれない。
これこそ大乗仏典「法華経」のメッセージだと思う。
なんにもないからせめて嘘(=本当)にすがりつきたくなる。
それぞれの人の数だけ本当(=嘘)があるのだろう。
「正しい」ことはなにもない。あるいはすべてが「正しい」。
わたしはぜんぜん正しくないし善でもないし、むしろ悪だし嘘ばかり書いている。
小谷野さんも「代理夫婦」のモデルさんたちも、
ああいうふうに騒ぎあってなんとかつまらない現実を乗り切っているのだろう。
そう思うとだれも恨むことはない、いまのところ。
結婚したっていくら本を出したって人生はつまらないことに変わりはない。
いくら勲章をもらっても人生は退屈だ。
むしろ出世したり結婚したりしないほうが人生は楽しいのかもしれない。
長い人生でいまこの時期がいちばん幸福なのではないかと
わたしはどこかで思っているところがある。失うものがないから。
得たらあとは失うだけである。
そのことに気づくと、なにかを求めたり得たものを誇る煩悩が少し消える。
プロレスのよさというものがあると思う。むかしあったと思う。
悲しい生い立ちや悲惨な不幸にあった人間が
それでも名声を求めて闘っていく姿勢を演じるのが名プロレスラーだ。
プロレスは八百長だから最初から勝敗は決まっているのである。
負けると決まっている試合になお感情むきだしで闘うレスラーはいい。
プロレスは言葉にならないマイナスの感情を表現できる最高の芝居である。
天龍源一郎のようなプロレスラーの名勝負を見ると、
言葉にならないマイナスの感情が解放されるような気がする。
実際、解放されるから高いチケット代金を払って人はプロレス観戦するのである。
ふつう実社会ではむかつくやつがいてもチョップなんかできない。
グーパンチもできない。
胸倉をつかんで罵声を浴びせられるくらいでも立派である。
ふつうの常識ある社会人はそんなことできない。大人はそんなことはできない。
だから、プロレスを見るのだろう。見たのだろう。
いま再度、新日本プロレスがバブルのようだが、
ジェイコムに入っているので視聴することもあるけれど、あれはわからない。
喜怒哀楽がないサーカスが好まれる時代なのかもしれない。
わたしは古臭い怨恨や因縁に満ちたプロレス世界が好きである。
サラリーマンがするプロレスは見たくない。
宿命や因縁を感じさせる毒々しい世界が好きだ。
華は華であるために一瞬で散れ。
そういえば子どものころ仙道敦子というアイドルの
まがまがしい美しさに見とれたことがある。
ふつうではない常識ならぬ、
泥臭いけばけばしい美に惹かれてしまうところがあるのかもしれない。
30年近くもファンであるプロレスラーの天龍源一郎が引退を発表した。
本当に天龍源一郎の大ファンで主要な試合はほぼなまで観ている。
天龍は怒りを表現するのがうまいんだ。
コノヤロウという憤懣、憎悪、怨念を肉体で表現するのがうまい格闘役者である。
あの天龍さんが引退するのである。阿修羅原も死んだ。
藤波も長州も大仁田も引退発表をしてカウントダウンをしたのに復帰した。
いまの若いプロレスラーなんかより彼たちのほうがよほど好きである。
わたしは天龍が引退後に復帰してもいいと思っている。
ある時期の考えが将来変わってもぜんぜん構わないではないか。
わたしなんかも転向しまくり、変化しまくりのコンニャク野郎である(藤波!)。
鶴藤長天のなかでいちばん勝っているのは藤波さんではないかなあ。
むかし30歳まで生きていないと信じていたことがある。
無名のままオーバー30にはなりたくない。
29歳のときに死のうと思ってインドに行き、
かなり滅茶苦茶をしたのだが運がよく健康体のまま帰国した。
そのときに興味を持ったのが仏教である。
結果、うっかり30歳を超えてしまった。
さすがに40歳まで無名のままなにごともなしえないまま生きるとは信じられなかった。
40歳になっても世間から認められないというのは、本当の人間のクズってことでしょう?
クソのあいどん先生だってあいどんの心を病んだ娘だって
世間から認められて、それを誇っているわけよ。
小谷野敦さんの子分の小林拓矢氏でさえ講談社から認められているわけだ。

プロレスラーの天龍の才能が花開いたのは30代後半だった。
その天龍さんだって引退する。
文芸の世界における年下のデビューはもう見飽きた。
天龍も引退することだし、はっきり言ってこのまま40歳になりたくない。
まさか世間さまがこんなに冷たいものだとは思わなかったが、
まあ、39年の人生でけっこういろいろあったし、もういいや。
いまのバイト先で知ったけれど、世間って人ってあったかいこともあるし。
数年まえは死ぬまえにもう一度会いたい人がいたけれど、いまはいない。
べつもうH先生に逢いたくもないし、ムーちゃんやその界隈と会いたいとも思わない。
40歳まであと10ヶ月強。
人生引退カウントダウンに入っているようなところがあるのかもしれない。
あの天龍源一郎も引退するのだから。
プロレスラーはザ・グレート・カブキのように引退しても復帰していいのである。
いざ40歳を超えたら41歳まで生きようかな、とか思っちゃうのかもしれない。
うんざりだなあ。人生、うんざりだ。
あの阿修羅原が死に天龍源一郎が引退する。
ひとつの時代がたしかに終わったことを感じる。
ぶっちゃけ、山田太一先生も宮本輝先生も引退すればいいのに。
古株がのさばっているせいで
テレビドラマ放送枠や新聞小説連載枠、新聞記事寄稿枠が減っているわけでしょ?
もう資産や名声を得た老人はいさぎよく引退してくれよ。
なんにもないわたしだって引退カウントダウンを宣言したくなるくらいなのだから。
なんで老人ってあそこまで浅ましく現在の地位にしがみつくんだろう。
彼たちよりはるかに若いわたしがギブアップをこうして書いているというのに。
天龍さん、いままで夢をありがとう。おれは天龍にはなれなかったよ。
ドキュメンタリー映画監督の原一男先生の本に「踏み越えるキャメラ」がある。
自分はドキュメンタリーを撮るためにキャメラを武器に他者とかかわっていくという宣言だ。
むかしだいぶ影響を受けたことがある。
ブログはセルフである。わたしがやっているようなセルフブログはおもしろい。
なんの権威もないしろうとの社会批評ブログとかつまらんでしょ?
ブログは日記文学、私小説、セルフドキュメンタリーのおもしろさを
正統的に受け継いでいるのである。
匿名で家族や職場仲間のことを書いたって、
そんなものはどこにでもある世界なわけだからつまらない。
山田太一信者のあいどんが匿名でも実名でも発言内容の意味は変わらないと
うそぶいていたけれど、そんなことは絶対ないわけで。
いつかあいどんの実名を知りえて公開したら、
あの人はネット世界に発表したほとんどの駄文を削除するのではないかと思う。
セルフである。セルフ(実名)ブログである。ハンドルネームではなく、実名世界である。
実名で自分の思ったことを世界に向けて書いてみたらどうなるか?
書かれたほうはたまらないと思う。
人を書くというのは、ほぼ人を傷つけると同義(おなじ意味)である。
それでもなぜやるのかという理由がどこにあるのか。
やっぱりつまらないというのがあるねえ。現実って本当につまらないじゃない。
個人が世界になしうることはほとんどない。人間は無力だ。
しかし、セルフ実名ブログを書いたらどうなるか。
世界がわずかでもおもしろくなるのである。
そんなことやっていいいのかという倫理性はわからない。
けれど、わたしがブログを書いていることで傷ついた人が多数いるいっぽうで、
本当に生き生きとした解放された笑顔を見せる人もいるわけだから。
金曜日に職場で小さな事件のようなことが起こったけれど、
そのとき元バイトリーダーのMさんや現リーダーのNさんが、
どちらもわたしよりはるかに年下の若者だが、じつにいい笑顔をしていた。
目が笑っていたというか、身体全体でわたしに笑いかけていた。
どうしておまえはそんなことができるのかっていう話だが、
なにか起こってもなにをされても、怒鳴られても脅迫されても、
それをブログに書いてしまえばいいわけだから。
職場である権力上とても偉い老人男性パートさんから、
今度おれに逆らったらオリコンであたまを二回ぶったたくぞ(どうして二回なの?)
と言われたが、いいなあと思った。
人からオリコンで殴られたらどんな気持がするんだろう。
こう思えるのは、わたしが長年ブログを書いていて、少数ながら読者がいるからである。
危ないところにもブログ(書く行為)があるから飛び込んでいける。
もちろん、職場が大きな意味でやさしい寛容性、多様性を持っていることもあるだろう。
みんなに助けられてこのブログを書いているのである。
みんなで演じてみんなで楽しもう。現実をわずかでもドラマチックにしよう。
喧嘩のようなものをしよう。恋のようなものをしよう。生き生きしよう。
月曜日に会社に行くのが怖くてたまらないが、
きっと行ってしまうのはブログがあるからなのである。
なにが起こってもいい。それを書いてやる。
わたしが生き生きしたい。あの人に生き生きしてもらいたい。
みんなつまらない人生にあきあきしているわけでしょう。
あの人に笑ってもらいたい。あの人の笑顔が見たい。
あの人を変えたい。わたしが変わりたい。
釈迦は師匠がいないのに悟ったから(無師独悟)、
師匠なんて必要ないのかもしれない。
いっときは芥川賞選考委員の宮本輝先生や
朝日賞作家の山田太一先生こそわが師匠と思ったこともあった。
しかし、師匠の師匠や、師匠の弟子たちを見ると、なんだかなあ、という気がして。
わたしは師匠や先生なぞという偉そうなやつらは大嫌いである。
だが、最近ある人との会話で気づいた。
わたしの師匠はやはりいたのである。
むかしは映画監督をしていて、いまは大学教授におさまったH先生である。
師匠の悪口はさすがに弟子としては書きにくいのでイニシャルでお許しください。
「もっと過激に、もっと自由に」がH先生の教えであった。
いまわたしがしていることはH先生の教えそのままだったのである。
友人からはHさんよりも自由で過激ではないかと言われた。
むかしはH先生と逢うとき、怖くてたまらなかった。
いまはH先生と逢いたいとも思わないし、
逢っても「大学の教授先生がねえ(笑)」と逆に見下した態度を取るかもしれない。
いまのH先生に怒られてもまったく怖くない。反対に叱り飛ばしたいくらいなのだから。
すっかり体制派べったりでツイッターでお仲間となれあっている。
海外の映画祭に招待されたことを、過去の人のくせにものものしく自慢したり。
かつての師匠が発明したとされているのが、セルフ・ドキュメンタリーだ。
映画版の私小説である。自分を撮る。
先日ふと気になって元師匠の名前で検索してみた。
弟子の「ファザーレス」くんも「アヒルの子」さんもパッとしていなかった。
むしろ、それどころか、まったく正反対で、
「ファザーレス」作者も「アヒルの子」作者も
セルフ・ドキュメンタリーを撮ったことを後悔しているそうだ(YouTube動画より)。
おれもあたしも人気者になって大学教授になれると思っていたのだろうか?
彼女の実家はお金持でかわいいんだから、セルフなんか撮らなきゃよかったのに。
お兄さんから性的虐待をされたとかいう物語を無理やりつくりあげて不幸ぶって。
小説ならなにを書いてもいいが、映画は当人の顔を映してしまうのである。
ご家族、とくにお兄さんの気持を考えるといたたまれない。
「アヒルの子」作者とかいまH先生を殺したいほど憎んでいるのではないか。
あんな恥ずかしいものを世間さまに公開することになったわけだから。
結局、弟子はうまみがないのである。師匠になったほうがよほどおいしい。
師匠ほどうまみのあるポジションはない。
もしかしたらわたしがもっともすぐれたH先生の弟子なのかもしれない。
セルフ・ドキュメンタリーなんか絶対に撮ろうとはしなかったからである。
弟子が師匠を超えるとしたら、それは師匠に逆らったときでないか。
師匠の致命的な裏話を知っているが、あれは墓場まで持っていく。

ネットはなにを書いてもいい。よくも悪くも(悪いよネ!)言論規制がない。
このため、楽しいこと(迷惑なこと)も起きうる。
わたしがブログになにかを書くでしょう。
その記事に影響を受けたべつの人がブログやツイッターでなにかを書く。
さらにそれに影響を受けた人が思ってもいなかったことをしてしまう。
そういうことが世界的規模で起こっているわけである。
自分の書いたことがぐるりと一周まわって返ってくることもあるだろう。
じつは世界というのは見えない網でおおわれている。
あなたのひとりごとや目配せが本当は世界を変えている。
権威づけに利用するとこれは大乗仏典の華厳経に書かれていることなのだが、
まさしくインターネットは華厳経の世界をまざまざと体現している。
だって、いまの職場でだれかがわたしに笑いかけてくれるとするでしょう?
それに影響を受けたわたしがブログ記事を書くわけだ。
それを読んだだれかもかならず影響を受けてなにかのアクションをするわけだから。
職場でだれかから大声で怒鳴られたというわが経験も世界全体に波及する。
それはかならずしもマイナスではなく、プラスかもしれない。
人間関係は好かれたら好く、嫌われたら嫌うという、それほど単純なものではない。
好かれたら嫌う、嫌われたら好く、ということもけっこう起こっているのではないか。
いままで好かれていた人にこちらから好きだと言ったら逆に無視されちゃうというか。
これまで嫌っていた人から胸倉をつかまれ怒号を浴びせられたら、
反対にその人に興味が出てきちゃうというか。
あいさつをする関係よりもあいさつができない関係のほうが深いこともあるわけでしょう。
たとえば、職場でコンドーさんは3人いるから、
そのうちだれかはわからないと期待して書く。
わたしはコンドーさんのことが好きである。
むかし「おれに話しかけてくんな」と言われたから、
それ以降はあいさつもしないようにしている。
でも、ぜったいコンドーさんはわたしのことを嫌いじゃないもの。
あいさつはしないけれども、どこかで心の会話をしているような気がする。
表面上のあいさつをしあう関係よりよほど深い関係があるのかもしれない。
そういうものは求めてもめったに得られないものだろう。
しかし、得がたいものこそほしいと思うのが人間である。
あいさつをするよりあえてあいさつをしないほうが勇気があるのかもしれない。
わたしはヘナチョコだから、みんなにヘラヘラあいさつしちゃうけれど。
このブログ記事に書いたのは、もしかしたら新しい考え方かもしれない。
どこかに飛び火しないなかあ。
無力ではないのかもしれない。
大衆や庶民はいち個人として無力ではないのかもしれない。
おおむかしは貧農がなにを思おうが政(まつりごと)には影響しなかったわけでしょう?
むかしは新聞や雑誌の投稿欄が大衆の声を代弁していたと信じられていた。
ちょっとむかしはテレビが大衆の声を拾っているという共同幻想があった。
でもさ、むかしから新聞もテレビも情報規制はあったわけである。
底辺の人間の声をなまのままそのままおおやけにするメディアは皆無だった。
さて、いまインターネットという化け物がどんどん勢いを増している。
法整備もままならぬままにスーパーフリーなカオス世界が展開している。
これは一部古株権力者にとってはゆゆしき事態だろう。おまえら調子に乗んなって話だ。
とはいえ、底辺にとっていまは革命的な移行期ではないか。
うちのブログのアクセス数など微々たるものである。
ほとんどだれにも読まれていないという意味では便所の落書き以下といってよい。
しかしながら少数の読者さまがいらっしゃる。
万が一にも上のほうの権力者さまがわたしの考えをお読みくださり影響を受けたら、
彼の権力によって世界は少し底辺向けのものに変わるかもしれないのである。
ドラマ脚本家などのフィクション作家は物語をつくるときに取材をすることもあるという。
取材しない人もいるそうだが、そっちこそ「正しい」かもしれず、
いくら報酬をもらおうが取材対象の庶民は作家先生に本音などそうそう話さないのである。
ところがインターネットには虚実ないまぜの本音にあふれている。
うちのブログはアクセス数こそ少ないが、
けっこう見識のある「上の人」たちから読まれているような気がするのである。

わたしの病的妄想だろうが、
いまの職場で自分たちの声を上のほうへ届けたいために
生意気な後輩である当方へいろいろ教えてくださる先輩がいる。
いまこのブログを書いているのはわたしではなく、
時給850円の職場仲間(社員さんもふくめて)全員のような気がするのはこのためである。
影響力の強いブログと言われたことが何度かある。
底辺は無力のように思われがちだが、無力ではないのかもしれない。
ほんの少しなら世界を変えられるような力を持っているのかもしれない。
もちろん、変わるのがいいことがどうかはわからない。
既得権益をお持ちのかたにはただただ不愉快なことに違いない。
新しい実験をしているという壮大な錯覚がなくもない。
なんだかんだ言って、このブログを読んでいるのはみなさま楽しいからでしょ?
――なんでもおもしろがっちゃおう。笑っちゃおう。泣いちゃおう。
それが生きるってことかもしれないのだから。
先月さ、それは自業自得だから仕方がないんだけれど、
ものすごい傷つく悪口をある男性集団からわざと聞かせるように言われたわけ。
まあ、いじめのようなもの。
でも、いじめじゃないよ。おれはいじめられっ子ではなくいじめっ子だから。
その翌日にいまはほかの仕事に就いている
ユーミ(既婚子持ち)がわざわざ来てくれた。
わざわざ演劇的に女優のように言ってくれた。
わたしに聞かせるのが目的であるかのようにうまくセリフを耳に届けてくれた。
「なんだか土屋さんの顔を見たくなっちゃって」
わたしに向かってではなく、同僚のミッカーに向けて。
しかし、かならずわたしに聞かせてやるという意図を持って。
ありがたかった。とてもありがたかった。
それは感動したけれど、そこで感動したら乗せられたような気がして。
バッカヤロと泣きたくなった。コノヤロウと思いました。ぐっと来たね。
わずか時給850円のパート仕事できつい作業に振られることがある。
来たと思ったら早く帰されることも。
いったいこういうときだれを恨めばいいのか。
かなり大好きな先輩バイトのYさんに聞いたら、
冗談っぽく(あれは絶対冗談でした)マネージャー氏を恨みましょうと。
もちろん、Yさんもぼくもマネージャー氏のことは好きである。
Yさんの気持はわからないけれど、なんとなくそんなような気がする。
底辺パートが苦しむのはだれのせいか?
うちは下請けだから発注元の社長が恨みの対象となるべきではないか。
しかし、そこの会社の社長さんのお名前がよくわからないのである。
業界のやり手の南雲隆◯さんではないかと思うのだが、
もう引退したという話もある。
ある会社の社長さんのお名前の知べかたさえ知らないなど、
一部の人からは嘲笑の対象になるのではないか。
文学部出身などこんなものである。
今度、機会があったら上の会社の高尾さんに聞いてみよう。
とても人柄のよさそうなおかたである。
某業界第4位のKという会社が134億円の負債を残して倒産したわけである。
134億円の負債ってどういう意味かわかる?
たとえば、われわれが銀行に百万円預けていたとする。
その百万円を引き出そうと思っても不可能になっちゃうってことだよ。
それが百万円ではなく134億円! だれかの134億円が消えちゃった。
前日まであると思っていた134億円が一夜にして消えてしまった。
Kという会社はどんぶり勘定でうまく自転車操業的にやっていたんだと思う。
Kは業界第3位のOという会社と提携して新しい合併会社をつくった。
困ったときは助け合いましょうって話で。
ネットで情報を漁っているとKだけじゃなくOも危ないのではないかと言われている。
さて、いまわたしがバイトさせていただいている会社もこの輪のなかにあるのだ。
うちの会社は、OとK(倒産)の連係会社と協力関係にある。
わかりやすい言葉を使えば、わたしが大好きないまの会社は下請けをしている。
OとKの合併会社から仕事を請け負っている。
万が一、Oも倒産したらどうなってしまうのか?
うちの会社の仕事がなくなってしまう。
グループ全体の経営規模から考えたら大丈夫だろうが、
われわれパートの給料が支払われなくなる可能性だってなくはない。
雇い止めくらいならあってもぜんぜんおかしくない。
いま会社はどうなっているんだろう? 修羅場になっているのではないか?
変な期待をして会社に行き、先ほど帰宅した。
わたしが大好きなぬるま湯のようなだらだらした感じは健在でホッとしたものである。
パートはだれもKが倒産したことなど知らないようだった(ひとりにしか聞いてないけれど)。
仕事の感想は、適量のピッキングってゲームみたいでやっぱりおもしろいなあ。
もう辞めちゃった人が言っていたけれど、あのシステムを考えた人ってあたまがいい。

さてさて、いま本の流通に携わっているけれど、この業界に未来なんかあるんだろうか?
いまはスマホばかりでだれも本なんか読まないでしょ?
うちのような読書ブログのせいで、
本を読むことがまったく有意義ではないことがばれてしまった。
本なんて読めば読むほど性格が悪くなる精神の毒薬のようなもの。
本を読んでもお金は儲からないし異性からはもてないし心も豊かにならない。
それにみんないまは薄給で新刊に1500円なんて払えないでしょう。
図書館で借りればただなのに。
そのうえ本が身近にあってもいまはみんな忙しいから本を読む時間ががない。
スマホ、テレビ、ゲーム、パソコン、違法動画、安い娯楽はあり余っている。
出版業界の先行きは明るいとは言い難い。
こういうときピンチはチャンスであると言いたがる人がいるけれど、
ピンチはありのままそのままピンチでしかない。
時給850円で働くパート労働者が本屋で新刊を買うようになれば、
せめて世界が変わるのだろうけれど。
昨日、新宿紀伊國屋書店で朝日賞作家の山田太一先生のご著作「ナイフの行方」
を立ち読みした。買えと言われるのかもしれないけれど、時給850円では無理。
なかにはきっと著者から献本されるような古株ファンもいるのだろう。
羨ましいというか妬ましいというか。
なーんかおもしろいことはないかなあ。
今日の新発見はバイト先のネパール人女性がちょっとかわいく見えたこと。
先月3、4回連続でライン横に振られて、すべてわたしのほうがヘビーだった。
今日久し振りに再会して、この子にはある種のかわいさがあると気づく。
って、おまえ、バイト先でちゃんと仕事をしてんのか。なにしに行ってんだ。
ライン横のA山さんがわたしの視線をとても意識していたようだが、
男色とかゲイとかそういうのではなくて、
あの目力の強いネパールのSさんをチラ見していただけだから。
そのうちわたしが辞めるか向こうが辞めるかして、きっと一生逢わないのだろう。
SさんともA山さんとも、ここの社員さんたちとも。
そう思えば、こういうありふれた日常のなかにも奇跡を見てとることができるのだろうが、
凡人は退屈のあまりなにか起きないかなどと期待してしまうのである。
K倒産というのは本当は恐ろしいことのような気がするのだが。

*いま調べてみたら倒産したKはうちの発注元に約6千万の未払金があるのか。すげっ!
忙しいこともあり、いまさらながらで不勉強を白状するようで恥ずかしいが、
いま新進売出中の小林拓矢という将来有望なジャーナリストが世間で騒がれている。
なんでも人気作家の小谷野敦さんの一番弟子というではないか。
さきごろ天下の講談社から新刊を出し、たいへん話題になっているらしい。
小林拓矢さんは私よりたしか3つくらい年下だが、
有名大学卒で美しい奥さんがいて講談社作家、
なおかつ東大卒の評論家であられる小谷野敦さんから目をかけてもらっているらしい。
むかしからお名前を耳にすることが少なくなかった。
このジャーナリストの書いた名文を拝読して学んだことも多い()。
小林拓矢氏はいまなお小谷野さんのご寵愛を受け、生き生きしているとのこと。
どうして人生はこうも不平等なのだろう?
なにゆえジャーナリストの小林拓矢さんは美しい奥さまがいて、
講談社から本を出せ、こうまで評判になるのか。
私は年下の小林拓矢氏に負けた。降参だ。完全敗北宣言だ。
さいぜん氏のお美しい奥さまからメールをいただいたことがある。
どうにかしてご主人さまのように世に出たいと
さんざんコバヤシエイト女史を持ち上げたがご返信はいただけなかった。
私は小林拓矢に負けた。負けた。負けたのだ。
著書もないし、妻もいないし、上から認められてもいない。
どうして小林拓矢氏ばかりいい思いをしているのだろう。
それが宿命であり運命であるのだろう。
私は山梨のトド、小林拓矢に負けた。