「ひろさちやのビジネスによく効く宗教」(ひろさちや/実業之日本社)

→副題がとてもよく、「できないことを「できない!」と言える処世術」(笑)。
しかしまあ、よくもまあ、ひろさちやや河合隼雄の通俗一般書ばかり読むと
あきれられるかもしれない。われながらあきれてるもんね。
結局、ひろさちやも河合隼雄もひとつのことを言っているんだよね。
それは「わかりません」。どうしたらいいかは「わかりません」。
そんなかんたんなことを何度も他人から教わる必要があるのか。
ぶっちゃけ、河合隼雄はともかく、ひろさちやはおなじような本ばかり出しているし。
ひろ先生、言い訳しているよ。

「仏教の法話の場合は、聞き手の能力によって、
同じ法話でも違った理解ができるのです。
だから、お釈迦さまは一つの話を語りながら、
大勢の聴衆にそれぞれ違った説法をしたといわれています。
それを「一音教(いっとんきょう)」と呼んでいます。
お釈迦さまは「一音」でもって多くの説教をされたわけです。
わたしたちは、一度聞いた話でも、自分の理解力が高まると、
そこからまた違った教えを引き出せるのです」(P105)


ひとりの人の話を百人百様に聞くっていうのは本当だと思う。
それぞれ誤解して聞いているっていうか。
内田樹によると、これラカンっていう偉い人が言っていたのとおなじらしい。
ラカンもお釈迦さまもキリストさまも、答えを教えてくれないのが人生。
昨日さ、久しぶりに携帯が鳴ったのよ。
かけなおしたら人材派遣会社。時給1250円で働きませんか?
夜勤。ディスクワーク。データ入力。
断っちゃったけれど、これでよかったのかなあ。
3月末にもおなじ案件で電話があって、そのときも断ったけれど。
いまのバイト先にこれ以上ご迷惑をかけるのも心苦しく、
そろそろ潮時かもしれなく、
だったら時給1250円の夜の世界に入ってもよかったのか。
しかし、なにかまだ物語が完結していないって感じがして。
時給850円と時給1250円のどちらを選ぶのが「正しい」のか。
だれに聞いても1250円のほうがいいって言うよね? 言うかな?
教えて、ひろ先生!

「わたしたちはいまいいと思っても、いずれよくないことになるかもしれません。
何かを最高と思ったところで、すぐにそれが変わってしまうのが世の中です。
そんな中でわたしたちは決断していかなければならないわけですが、
そうすると、最終的に人間が決断できないという絶望感に陥ってしまいます。
しかし、わたしはみなさんに、むしろその絶望感を持ってほしいと思うのです。
なぜかといえば、絶望感がなくて、
人間が必ずいい判断を下せると思っていることが大間違いです。
自分を過信し、必ずいい判断が下せ、最善の判断ができると思っているから、
人間は苦しむわけです。なぜかと言えば、
何が最善かは、絶対にわからないことだからです。
なにが最善かわからないということは、
わからないことはわからないことだということです。
そのことをわかることが「わかる」ことです。
あるいは、人間にはそんな完全な能力などない、
不完全な能力しか持っていないのが人間だと、
そこのところをまず知らないと問題を解決できないのではないでしょうか」(P23)


まあ、どうなるかわからないんだから、どっちだっていいんだろうね。
時給850円だろうが1250円だろうが、将来的に見たらどっちがいいかはわからない。
将来どうなるのかなあ。このまま朽ち果てていくのかしら。
もうあれね、この年になると、あこがれの人とかいないね。
有名人の○○さんみたいになりたいとか、そういうのない。ないない。
よくいるよねえ。○○さんみたいになりたいとか言って、がんばっている人。

「わたしたちはよく、あるひとつの真理に従って生きよう、
あるいはこういう生き方がいいんだと思うことがあります。
実はそう思った瞬間、自分は他人を生きていることになります。
決して自分を生きていることにはなりません」(P187)


自分を生きるなんて、そんなこと難しすぎて無理だよお。
いや、いまわたしは自分を生きているとも言えるのか。
普遍的な「正しい」真理なんてないと思っているし、あこがれの人もいないから。
書いていいのかわからないけれど、尊敬する上司もいないし。
けれど、高校生じゃないんだし、パートが社員を尊敬するなんてありえなくね?
みんな社員さんは上司の生き方を尊敬してたりするのかなあ。
今度、社員さんに聞いてみよっと。
マネジャーを尊敬していますか? ああいう人になりたいですかって。
でも、出世して高給取りで家族もいて車も持っていて健康で立派だから。
わたしはマネージャー氏がお持ちのものをひとつも持っていないことにいま気づいた。
でもまあ、しょうがないよね。こうなっちゃったんだから。
きっとこれが自分を生きるということなのだろう。

「河合隼雄の万博茶席 しなやかウーマンと21世紀を語る」(河合隼雄・塩野七生・藤ジニー・中山恭子・向井千秋/中日新聞社)

→しなやかウーマンって気持の悪い言葉だよなあ。
心理屋さんの元締めである河合隼雄さんと
各界で成功したしなやかウーマンとの対話集である。
女で社会的に成功した人は男よりもはるかに少ないから目立つのだろう。
河合隼雄は心理療法を女性原理の強い仕事だという。
まず相手を受け入れるのが心理療法だという。

「……女性原理の非常に強い仕事ですね。
「この原理でやろう」ではなくて、来られた人がどう考えているかですから。(……)
その人が酒好きだったら「やめなさい」と言わないですね。
そう言うのは簡単ですけどね。
「酒が好きですか。タバコも好きですか。長生きもしたいですか。
難しいですねー」と(笑)、
そこから一生懸命考えるわけですから」(P19)


だれだって「酒を飲むな」とか「正しい」ことは言えるけれど、できないもんね。
自分はできるかもしれないけれど、相手に「正しい」ことを強制できない。
バイト先のママさんに聞いたらさ、中1の息子さんにお説教するんだって。
もうすぐ期末試験だから勉強しなさいって。
ねえねえ、お母さんは子ども時代、勉強した? 
って聞いたら、してないって笑っていた。
「正しい」ことをはみんな言えるんだよねえ。
けれど、できない。相手にさせられない。
時給850円で一生懸命全力で働いてくださいは「正しい」んだけれど、ちょっとねえ。
「正しい」ことと言うのはイデオロギー(理念)である。
河合隼雄いわく、二十世紀はイデオロギー(「正しい」)の時代だった。

「二十一世紀というのは、
何か矛盾したものをずっと持っていく時代じゃないかと思っているんです。
これが勝負。二十世紀は一つのものをパンとやる。
一つのイデオロギーで頑張るとか、科学で頑張るとか。そういう時代だった。
二十一世紀は矛盾するものを持って倒れないというか。
そういう時代ではないかと」(P103)


はっきりした「正しい」ことを言えない、むしろ言わないのがいいのかもしれない。
そういうとき、日本語はなかなか便利らしい。

「それと日本語はあいまいな表現が多いでしょ。
それを使いながらお互いに探って、答えを出していくような」(P66)


しかし、どう説得したところで酒好きに断酒させるのは難しいよなあ。
勉強が嫌いな子どもに勉強させるのは難しい。
いい師匠につけたらどうかと思うが、これも河合隼雄は否定する。

「師範代の人はね、真剣の勝負をしないんです。
だから、木刀が強くなるんです。それと守るのが強い。(……)
保身ですね。大学の先生は正しいことを言っておられるけど、
新しいことは何も言わないでしょ。
攻めの学問をせずに、守りの学問に入るわけですよ。
そうなるとその人はダメ。
ダメなのに給料もらうから、よけいダメになるんですね(笑)」(P43)


バイト先に大学院に行っている外国人がいて、研究内容を聞いてみると、
失礼ながら、どれもぜんぜんおもしろそうじゃないんだよねえ。
そんなの研究してどうするの? なんの役に立つの? 
とか聞いちゃうけど。苦笑される、そんなこと聞くなよって感じで。
思えば、いまのバイト先は本当にいろんな人がいるなあ。
なかには芸術家くずれみたいなやつもいるのかしら。いたら怖いな。だって――。

「芸術家というのは我々が当たり前に思っていることを、
どこかで外してつくるわけですから。
だから我々は違う世界に入っていける」(P145)


毎日つまらないったらつまらない。
芸術家のような人に違う世界に連れていってもらいたい。
世界ってほんのちょっと見方を変えるだけで輝きが増すのはわかっているんだけれど、
それがなかなか難しいというのか。
そんなことより、人生これからどうしたらいいのか。
資格でも取って就職活動するのが「正しい」というのはわかるんだけれど。
「正しい」ことはわかるんだけれど、もういい年だし、いまさら感があってねえ。
こんな本を読んで感想を書いている場合じゃないよなあ。

体育会系のグループではなぜか先輩や古株は偉いとされている。
またまあ、みんなから嫌われているのに
わざわざ来て偉ぶる先輩というものが、そう言えばいたなあ。
なんで古いほど偉いとされているんだろう。
高校生のとき卓球部にいたが教えるのが好きで弱い先輩がいた。
卓球は弱いのに先輩ぶって卓球を教えたがるのである。
彼は京都大学に現役で入学したから、偉いのか偉くないのかいまでもわからない。
ただ味のある先輩だったなあ、と思う。名前も忘れちゃったけれど。
古参、古株、先輩が偉いっていう価値観はどうなのだろう。
わかるよ、わかります。
そういう価値観がなかったら、集団は動けない、動かない、動かせない。
いまはなき文壇(知ってる?)なんかでも
古株が異常なほど威張っていてひたすらどこまでもキモいって思う。

このまえバイト先で入庫をしていたら、
新入りの生活保護受給中の54歳Tさんからパレットの置き方が違うと叱られた。
わたしのほうがぜんぜん先輩だけれど、あら、そうですかと思った自分がいる。
偉い偉くないってなんだろう。
バイト先でもこの人は偉いと思う人が新古にかかわらずおられる。
まあ、たいがいの場合、偉ぶっている人は偉くないよねえ。
わたしなんかも他人の目にはそう映っているかもしれない。
そうだとしたら、もっと謙虚にならなくちゃなあ。

ああ、わたしは超古株のカリヤンに本の入れ方が違うと言える狂人だから。
偉いのか偉くないのか。
ライン(流れ作業)ではまえの人の本の入れ方で毎回めんどくさい思いをすることがある。
常識人はそう思っても相手をおもんばかって本当のことは言わない。
がためにストレスがたまるのかもしれない。
いつだったか、カリヤンの本の入れ方がおかしくてムカムカしたことがあった。
巨匠のナカウチさんに「これは違うですよね」と確認したのちに、
わたしはいまのバイト先でいちばん恐れられているカリヤンのところに行った。
つかつかと歩み寄った。わざわざ歩いて話しかけに行った。
「20の箱にこの本はこう入れてくださると後が楽になります」
カリヤンはその後、お願いしたようにしてくれた。
あのカリヤンと交渉できるわたしはもしかしたらものすごく偉いのかもしれない。
偉そうなのかもしれない。みんなから嫌われているのかもしれない。

わたしはカリヤンを偉いと思う。
なぜなら嫌う人も少なくない入庫に率先して行ってくれるからである。
もしかしたらカリヤンといちばん「近い」のはわたしかもしれない。
むかしカリヤンを刺激したことがある。
出勤時の階段で「カリヤくん、おはよう」と大声であいさつした。
カリヤンは「おはよう」とあいさつを返してくれた。
あんなことをできるなんて自分はやっぱり偉い(偉そうな?)のかもしれない。

人は威張っている人を偉いと思うものなのである。
わたしは威張っている人が嫌いだが、もしかしたらわたしこそ偉そうなのかもしれない。
しかし、偉そうに振舞えるのが偉い証拠なら、いったい真実はどうなのだろう。
わたしは偉くなさそうな人に平身低頭して、偉そうな人に嫌悪感をおぼえる人間だ。
偉そうなやつは大嫌いだが、もしかしたらいちばん嫌いなのは自分かもしれない。
自分と比べたらいまのバイト先の人はいい人ばかりなのかもしれない。
いい年をしたおっさんがバイトっていうのもなんだかなあ。
だから威張りたがるパートのおばさん、おじさんがいるのかもしれない。
古株は偉いなんて、まあ嘘よ。
本当に優秀な人なら時給850円で4年も5年も働かないから。
いまの職場ではダメな人ほど古株になるのかもしれない。
そして、ダメなわたしはダメな人をそう嫌いではない。威張らないかぎりにおいて。
働くっておもしろいよなあ。いわゆる底辺で働くといろいろ気づくことがある。
底辺職場ではみんな新人に仕事を教えない。
なぜなら仕事を教えたら、そのポストを奪われてしまうからである。
いまのバイト先のメインはライン(流れ作業)であり、ラインには4と5がある。
4ライン、5ラインと呼ばれている。
4は雑誌がメイン、5は書籍がメイン。コミックは4も5もある。
わたしは4ラインの作業を教えてもらっていない。
入った当初に一度入らされただけで、あとはずっと5ライン。
けっこう好きな古株越南若年女性から、
あたしは4も5もできるからと自慢されたことがある。
いやあ、それは「できる」んじゃなくて、
教えてもらったかどうかの違いではないかと苦笑したけれどなあ。
4ラインなんかぜんぜん偉くもなんともなく、
その日に雇われただけの派遣さんでさえやっている仕事なのである。
日本語がわからない外国人でもできる簡単なお仕事。
しかし、わたしは教えてもらっていないからやりかたを知らない。
作業員に仕事を教えないとどのようなメリットがあるのか。
もうあなたの仕事は終わりだから帰れと言えるのである。
4ラインが多くて5ラインが少ない日はわたしはまったく稼げないで早く帰らされる。
反対に5ラインが多くて4ラインが少ない日というのがある。
こういうとき、4ライン組(古株連中)が5ラインに来て、
われわれ5ライン集団が入庫に行かされたり、早く帰されたりするのがムカつく。

すんげえムカつくので金曜日に好きな若い社員さんにほのめかした。
4ラインに行きたいとは言っていない。
基本、わたしは本が好きだからいまの職場で趣味のような感じで働いている。
いまのところ、いまのところ、いまだけ、いまだけ。
芸能人とか好きではないから、雑誌に興味はない。
いまのまま5ライン専従でいいのである。
しかし、4ライン専従のものは仕事が少ないときに5ラインに来ないで早く帰ってほしい。
わたしは5ラインが少ないときは運が悪かったとあきらめ早く帰っている。
仲間意識というものがある。
わたしは5ライン組のYさん、Aさん、Kさん、Hさんが好きだ。
勝手に仲間意識を持っている。
わたしが4ラインに行ったら、それは仲間に対する裏切りのような気がしている。
5ライン組は5ラインが少ないときは早く帰されるので連帯感がある。
5ラインがそうだから、おそらく4ラインもだれでも可能な底辺仕事だろう。
しかし、やはり4ライン組は5ラインの作法を知らないと思うことがある。
そういう連中にかぎって、古株ぶるのが困ったものである。
4が多いときは4に振られ、5が多いときは5に振られる、
上から気に入られている古株パート先輩を好きになれない。ずるいって思う。
なにかしちゃうかもしれないし、ここだけの話、
休憩室でなにか小さなことをしたこともなくはない。
たかが850円のために、われながら意地汚いねえ、うふっ。

本当にだれも仕事を教えてくれない。
繰り返すが、仕事を教えたらそのポストを新人に奪われかねないからである。
わたしが5ラインの仕事を奪っちゃったかなと思う大好きな先輩バイトさんもおられる。
さんざん質問して5ラインのことを教わった先輩さんだ。
いままで書いたことの正反対を書くが、仕事を教わらないといい面もある。
検品という、いかにも面倒くさそうな仕事があるけれど、
わたしは教わっていないので振られない。
検品が嫌いなのに教わってしまったがために振られている女性パートを知っている。
あこがれの(本当?)4ラインも知らないがために救われているのかもしれない。
教えてもらったら「行け」と言われたら断れないでしょう。
わたしは本が好きだからやはり5ラインが好きなのである。
つねに本と触れ合っていたい。
これまた大好きな先輩バイトのNさんに4ラインを教えてくださいとトイレで頼んだ。
だが、そもそもあなたは4ラインに振られないでしょうと言われた。
はい、と答えた。唐突に梱包は親指が痛いと言われ、恐縮低頭する。
いまの職場でわたしがいちばん尊敬しているのが5ライン梱包組だ。
若い人でもあれをできる人には敬意を持って、できるだけ丁寧にあいさつしている。
そのくらいしかできないからだが。
そのNさんから、あなたは5ラインでピッキングをしていればいいんです、
みたいなことを悪意なく言われた。まったくそうだと思う。

あいつは5ラインのこのくらいのところに振ればいいと決まっているから、
上も迷わなくて済むようなところがあるのかもしれない。
1年以上も5ライン専従だとわかることもなくはない。
だって5ライン(本を積む=本の山をつくる)ばかりやっているわけよ。
たぶん社員よりも5ラインの小さなことに詳しい。
まずわかるのは本の積みかたのうまいへた。
新入りさんなのに、この人はわかっているなあと感動することがたまにある。
古株なのにへただなあ、とびっくりすることも。
わたし自身はその日の気分や分量によって仕事の丁寧さは変わります(850円だもの)。
それから深々と気づいたことは、5ラインなんてだれにでもできる仕事だということ。
わたしがいちばん感激したのは、最近は見ないが女子高生のチサトちゃんね。
あの子うまいし、多いところでも不満そうな顔をせず、わたしの10倍偉い。
目が生き生きしていて、いい子だなあ。
にもかかわらず、高校生だからわたしより時給は50円安い800円なのだから不公平。
でも、世の中そんなもんだから立派なおとなになってくださいと5ラインのおじさんは思う。
5ラインって要は「本の山」をつくっているだけだからね。
いままでブログをやってきたことの延長戦上になくもないと言えるわけである。
きっと来月もいまの職場で「本の山」をつくっているんだろうなあ。
古株男性バイトのWさんから秋波を送られても、
ぼく男の子だから(おっさんだろ!)、いやん困っちゃうって話。
Wさんはぼくより3つ下の濃厚な(=色が強い)バイト先輩。
そうそう、秋波の意味がわからなかったら自分で調べてね。
いままでライン横に入れられたのはたぶん二度だけである。
先ごろ久しぶりに入れていただき、職場の先輩から貴重なお話を拝聴した。
Wさんの名言は、人と自分を比べたってしょうがないじゃないですか。
これはいまのバイト先におけるある種の正論だが、なかなかそうは行かない。
ライン(流れ作業)は明々白々と不公平極まりなく、
きついヘビーな持ち場とイージーな立っているだけのところにわかれる。
たしかにWさんのおっしゃるように、
ヘビーなところを振られてもほかの持ち場を見なければいいのである。
いくらヘビーな間口(持ち場)でも入庫よりきついということはない。
入庫はひたすらハイスピードなピッキングをやっているようなものなのだから。
じつのところ、ラインの苦しみは人と自分を比較するところにあったのである。
さすがWさんは古株の先輩だけあって賢いなあ。

「おれ今日、入庫8時間もやらされたよ」
いまの職場に入った当初Wさんという存在をはじめて意識した言葉である。
こちらの被恋妄想かもしれないが、
今年に入ってからWさんがぼくのことを意識しまくりで、
あはん、もてる男はつらいなあ。
男にもてても嬉しいけれど、どうせなら女にもてたいなあ。
ハーフ顔のWさんから教えられたことは多い。
職場の顔と素の顔ってなんだろう。
Wさんは職場ではじつに堂々と古株古株、先輩先輩しておられて、
それはこちらが見惚れるくらいである。
しかし、先日帰宅時にWさんがMさんとコンビニの駐車場で
ヤンキー座り(ってなに?)をなさっているお姿をたまたま拝見した。
飲んでいるのは酒ではなくジュースだった。
Mさんの愛想のよさは職場とおなじだったが、
Wさんがまるで違ったのである。
まったく自分に自信を失った心細そうな、よるべない顔をなされていた。
この日は5時間くらいで帰されたが、収穫ありと思ったものである。
WさんとMさんは4時間で自主的に協力的に帰っていたのではなかったか。

いま働いているバイト先は名前のない世界である(正確には名前のない世界だった)。
時給850円の作業員同士、
古株同士以外は名前を憶えず呼ばずロボットのように職務をまっとうする。
ぼくはどうしてか仕事を憶えるのは遅くあまり努力もしないのだが、
人の名前を記憶するのは一生懸命なのである。おかしなやつである。
おなじ時給850円作業員を自分とおなじ人間だろうと思ってしまう。
自己愛が強烈だからか、他の作業員にも愛(いや愛憎か)のような関心をいだいてしまう。
WさんやMさんは今日はなにをしているのだろうとつい考えてしまう。
ぼくは今日、床屋に行きました。
そのため対人恐怖症の汗対策として汗をケミカルに完全ストップさせる薬を
空腹時に指示された倍量を服用(ネットで知った裏技)。
ぶじに大嫌いな散髪を済ませたのだが、
副作用がすごい、すごい、きっと身体に悪いんだろうなあ。
それは帰宅後に予定していた読書もできないほどで、
こんな時間から安酒をちびりちびり。
床屋さんで聞いたけれど、スキンヘッドにするのって毎日処理が大変らしい。
ああ、スキンヘッドのバイト仲間、
カリヤンが今日なにをしているのかついつい考えてしまった。
ブログに人の悪口を書くのは好きだが、
あれは愛のある悪口だと何人かから指摘されたことがある。
いま書籍倉庫でアルバイトさせていただいている。
書籍の世界というのは、けっこうヤクザな世界なのである。
依頼時にギャラの話をしないとか、再販制の問題とか。
それと意外と知られていないが、書籍はコンビニ商品とは異なる。
コンビニでは店長が翌日の注文数を決定して本部に送る。
するとそれが当日に正しい数だけ送られてくる。
書籍や雑誌はそうではないのである。
出版取次からなかば強制的にある数の本が送られてくるのである。
特殊な本をそろえるということならできるのだろうが、
新刊のベストセラーをたくさん売りたいからといって発注しても、
ふしぎな割り当てがあって注文しただけ来ないことがある。
売れないような本がたくさん送られてくることもある。
コンビニ商品は売れ残ったら、その在庫は店の損失となる。
しかし、書籍や雑誌の場合、売れなかったものは返品できる。
破損した本も書店のマイナスにはならず返品したらいいだけの話。
けっこう誤出荷は起きているかもしれないのである。
しかし、書店側が(どうせ返品すればいいのだから)クレームを言ってこなければ、
その限りにおいて責任問題にはならない。
世の中にはどうでもいい本というのがあって、
その典型は文芸社の自費出版ものである。
あれはだれにも読まれず、ただ著者の自己満足のためだけに製本され、
出荷され、裁断あるいは著者に書い取られる書籍である。
書店の側からしたら文芸社の本など送られるだけ迷惑とも言えよう。
文芸社の本なら誤出荷しても構わないと言えなくもない。
わたしはいまの会社で働いて裏のことに、アッと気づくことがある。
けれども、おとなだし社会人だから知りえた秘密は書かない。
ただし秘密は存じあげておりますよとにおわせておく。
うーん、きったないおとなだなあ。いい子のみんなは真似しちゃダメだぞ。
社員の口真似をするバイトはうざいけれど、彼はほかの言葉を持たないのだ。
上司の口真似をする部下は出世するのだろう。
どの社員も経営者の口真似をしている会社がいちばん理想的なのかもしれない。
プライベートでなにか事件があったらテレビで流れていた言葉を流用すればいい。
あなたの言葉なんてだれも聞きたくないのかもしれない。
いや、わたしはあなたの言葉を聞きたいのである。
いつだったかバイト先でライン(流れ作業)横の若い男性から、
まだ本の入っているオリコン(プラスチックの大きな箱)を投げつけられたことがある。
わたしは職場の人全員に興味があるから彼にも注目していた。
かなり若そうだ。顔は悪くないのに、人との関係において閉じている。
このバイト先のパート仲間に多く見られることだが、
とにかく自分に自信を持っていないのがうかがえる。
彼からまだ本の入ったオリコンを投げつけられてどう思ったか。
危ないでも怖いでもなかった。よし、きたぜ、である。
このバイト先に入って知ったのは、自分の感情を表現できない人が多々いること。
自分の感情を言葉で表現するのはかなり修行のいる難行である。
しかし、身ぶりや表情でならできるのではないか。
まずそこからなにかが始まるような気がする。

つまり、まあ、そのときわたしの横の持ち場がたまたま忙しく、
こちらのほうはそのときたまたま暇だったのである(後から来ましたよ)。
ムカっとした彼は思わず、わたしのほうにオリコンをぶん投げた。
とてもおとなしそうな表情の変化に乏しい若い青年が感情を見せた。
自分でもわけがわからないほど嬉しかったのねえ。
それでいいんだ、と思った。ニコニコしながら彼のほうを見る。
おとなしい青年も自分のしたことをわかっていないのである。
なぜ自分がわたしに向かってオリコンを投げたのか自分でもわかっていない。
たぶんほかの人にだったら彼は投げなかっただろう。
自分を抑制していただろう。いつものように自分を殺していただろう。
では、なぜわたしにならオリコンを投げられるのか。
正解はわからないが、わたしが自分を出しているからのような気がする。
かなり(マイナスの意味合いで)「自由」だったからだと思う。
なにをしてもいいし、なにをされてもいいと思っているところがある。
なんでもおもしろがっちゃうようなところがある。
それから彼の忙しい持ち場を手伝いはじめた。
一緒に行動をしてみると、おとなしいが気のいい青年なのである。
しかし、自信がない。人とどう接したらいいかわからない。
彼は17時に上がりなのだが、そのときとてもいい笑顔をしていた。
上から目線のようで恐縮だが、彼は大丈夫ではないかと思った。
いつかうまいこと、ここを卒業していく日が来るのではないかと思った。

セラピストの役をやっているなあ、と思う。
わたしはだれかを「治したい」なんてまったく思っていないから、
傲慢にもほどがあるけれど河合隼雄レベルのセラピストなのかも、なんちゃって♪
ライン(流れ作業)でただわたしの横に一緒にいるだけで変わる人がいる。
というか、わたし自身がこの職場からセラピーを受けているとも言える。
精神科やセラピーのお世話になったことはないが、
診察を受けたら重度のいわゆる心の病を指摘されそうな気がしなくもない。
毎日のように「死にたい」とか10年以上考えていた人間だから(未遂経験はゼロ)。
いまはどうかって、いまは、うーん、どうなんだろう。
現在のバイト先に入ったときにラインで横の人を助けるのも助けられるのもいやだった。
1年ちょっと経って、いまでは人によってはどちらもOKである。
嫌いとかそういうのではなく相性的にどうしてもダメな人はいるが、
これはもう仕方がないだろう。
いまの職場はわたしにとってセラピー、シアター、スクールである。
先日、ある女性から今月で辞めることを伝えられた。
ひとりまた卒業していく。わざわざ教えてくれた「あなたの言葉」がとても嬉しかった。
「容疑者ケインズ」(小島寛之/ピンポイント選書/プレジデント社)

→ネットでの評判はよくないので、あえてだからこのため買ってみたら、
案の定とてもおもしろい本だった。
大衆が感情的に嫌うような本はおもしろいことが書いてあることが多い。
一般読者向けの経済エッセイである。
ケインズはどういう人かというと――。
むかしは市場は放っておけばいいと言われていたわけ。
どうしてかというと需要と供給が自然のバランスを取ってうまく行くから。
たとえば、外国人の若者などが入ってきたため労働者が余っていたら(供給過剰)、
雇用主は労働者を安く買いたたくことが可能になる(需要調整)。
しかし、これではうまく経済市場が活性化しないと言いだしたのがケインズ。
ケインズは国家が主導的に市場を管理したほうがいいという主張をした。
典型が公共事業である。
ときおり近所の荒川土手など意味不明な工事をしているが、あれである。
あれをやれば失業者に金が渡り彼らは消費するから市場はよくなるという考え。
ケインズは一時期、神聖視されるくらい影響力が強かったけれど、
いまでは経済学の世界では名を出したら恥ずかしいような存在になっているという。
ケインズの説は間違っていたのではないかという意見がいまは一般的らしい。
たとえば、こういう批判があり、それは無駄な荒川工事なんかするより、
税収からそのまま特殊な失業保険として与えたほうがましではないか。
ケインズ先生の嘘がばれかかっているが、しかし著者はケインズを再発見する。
ケインズの論理はたしかにずれているところもあるけれど、
発想はとてもすばらしく、
そこから我われはまだ学ぶべきことが山とあるのではないか。
この経済エッセイの骨子である。

以下、本書を読んでおもしろかったところを引用をまじえ逐次紹介する。
みんななにゆえお金をああも欲しがるのか。金の価値とはなにか?
我われは日常生活で「不可知性」を抱えて暮らしているからである。
明日なにが起こるかわからない。明日、子どもが病気になるかもしれない。
こういう「不可知性(まあ不安と言っていいだろう)」への対応策は
お金がかなり有効である。
ということは、本書には書いていないが、
将来への不安が強い人ほど金を貯めこむ傾向にあるのかもしれない。
金は流動性が高いのでよい。金はなんとでも交換できるということだ。
働くということは、おのれの労働力を金と交換するということになる。
金は腐らないのもいい。野菜や情報は古くなると使えないが、金は腐らない。
そのうえ金は決断の留保にも使える。
もっといいスマホができたら買おうというように金によって決断を遅らすことができる。

ケインズと同時代を生きたナイトという人がおもしろいことを言っている。
金融市場や経済活動は、確率が計算できない世界ではないか。

「ナイトは、一九二一年に刊行された博士論文の中で、
経済環境には通常の確率論や統計学は使えない、ということをいいだした。
通常の確率論や統計学が通用するのは、
なんらかの類似性のある現象が反復的に安定的に観測されるような環境である。
病気の罹患率や死亡率は、大量のサンプルがあれば、
ある種の安定性が見られるから、保険という業務が成立する。
大量の部品を工場生産する場合には、不良品の率はかなり安定的であるから、
統計学の技法によって、製品の品質を高度に保つことが可能になる。
しかし、こういう事例は非常に限られたものでしかない。
多くの経済活動は、同一の環境で反復的に行われる、などということは全くない。
置かれた環境は常に変動し、同じ設定が繰り返されることなどありえない。
したがって、通常の確率理論や統計学は出る幕がない。
このような環境をナイトは、真の意味での「不確実性」と呼んだ。
そして、通常の確率を使うことのできる環境を「リスク」と呼んで、
それ[不確実性]と区別したのである」(P75)


確率の読めない不確実性ほど人間の恐れるものはないという。
べつの経済学者がこういう実験をしたという。
ツボAにもツボBにも100個のボールが入っている。
あなたはどちらかのツボを選び、赤か黒か予想して金を賭ける。
当たればたとえば10ドルもらえる。
ツボAには赤が50、黒が50入っていることがわかっている。
いっぽうでツボBには赤と黒がどのような比率で入っているのかわからない(不確実性)。
このとき多くの人が(確率のわかった)ツボAでギャンブルをするのを好むという。
これは著書に書いてあることではなくわたしの考えだが、
ツボAを選ぶと大損もしない代わりに大儲けもできないような気がする。
わたしだったら不確実性の強いツボBをあえて選んでギャンブルしたいところである。
さて、大半の人は不確実性に直面すると最悪の事態を予想するらしい。
確率がわからない局面に遭遇すると最悪のシナリオを考え対策を取るようになる。
これを専門用語でマックスミン戦略という。
みなさまにはどうでもいい個人的な思いを繰り返すと、
わたしにとっては確率のわからない不確実性ほどおもしろいものはない。
そして、あんがい確率のわかっているようなものも、それはじつのところインチキで、
この世は不確実性に囲まれているのではないかという希望を持っている。
多くの人にとっては不確実性は恐怖で絶望だろうが、
どうしてかわたしにとっては不確実性はサプライズのような希望である。

著者はバブルのうまい説明をしていた。
バブルとは実体的な価値よりもはるかにそのものの価値が上がってしまうことである。
これを著者は金持の家から出てきた金庫を具体例として説明していた。
さあ、大金持の家から金庫が見つかった。しかし、開かない。
この金庫には1千万円入っているという予想が一般的だった。
しかし、銀行預金が判明し、金庫のなかには2千万入っていると言いだす人も出る。
するとこの金庫が1千5百万で売買されるようになる。
すると1千7百万で金庫を買うというものが現われる。
金庫のなかに入っているのが実体的な価値ということになる。
この説明はとてもうまいが、
わたしはものに実体的な価値などないのではないかと疑っている。
金庫の鍵は永遠に見つからないのではないか。
金庫のなかにいくら入っているかは未来永劫にわからないのではないか。
たとえば、いまのカップラーメンを江戸時代に持っていったら、
こんな美味はないと小判と取り換えてくれるかもしれないわけでしょ?
反対に鎌倉時代のなんでもない食器を現代に持ってきたらどれほどの価値がつくか。
わたしは著者とは異なり、ものに実体的な価値があるのか疑問に思っている。
もっと言ってしまえば、この世のすべてはバブルではないかとさえ思っている。
仏教の空(くう)を独学したから、こんなおかしなことを思うようになったのかもしれない。

株価の仕組みはどうなっているのかを説明するおもしろい文章があった。
天才投機家のジョージ・ロスは以下のように言っているという。
要約したら、株価というものは未来が現在を決めているということ。
内容補足しながら孫引きさせていただく。

「問題になるのは[現在ではなく]将来のファンダメンタルズ[経済状況]である。
株価が反映しているはずのファンダメンタルズは前年度の収益、
バランスシートおよび配当ではなく、
収益、配当および資産価格の将来の動向である。
この将来の動向は所与のもの[いまの価値]ではない。
したがってそれは知識の対象ではなく、推測の対象である。
重要な点は将来のことがらはそれが起きる時点では、
その前に行われた推測によって影響を受けてしまっているということである。
その推測は株価に表れ、
そして株価はファンダメンタルズに影響を与えることができる」(P98)


ものすごくおもしろいことが書かれているような気がするのである。
各自のご解釈にゆだねます。さて駆け足でいく。
ケインズは株式投資を美人投票にたとえたという。
たとえば大衆紙で百人の美人を掲載して美人コンテストをするとする。
読者たちは6人を選んで投票することができる。
そして、上位6人を当てたものには莫大な懸賞金が出るという。
このようなとき、人は自分が美人だと思う人に投票しない。
では、どうするかというと、みんながだれを美人と思うかを予測にかかるのである。
自分の「好き(美人観)」よりもみんなの「好き(美人観)」を優先してしまう。
株式投資もこれとおなじで、本当にいい銘柄を自分で調査して買わなくなる。
みんなが買いそうな銘柄の株を予想して買うようになる。
みんなに好かれそうなもの(株式)を実体を調査せずに買うようになるのである。
著者は書いているのかいないのかわからないが、
みんなのことなど考えず本当に自分が美人だと思う人に賭けたら、
ときになにかおもしろいことが起こるような気もする。

経済学者のケインズが学位を取った博士論文は、数学の確率についてのものだった。
それをわたしの言葉で要約してみたら(著者の解説も読んだうえで)、
確率とは客観的に存在するものではなく、
ひたすら主観的なものではないか、ということ。
これはべつの学者に批判され、ケインズも誤りを認めたという。
しかし、その批判した学者もケインズのこの発想は非常に高く評価していたという。

「確率は個人の内面にある主観であり、それは行動結果として表出する」(P129)

バイト先の上司さまからすすめられたので
かねてから「男はつらいよ」を見てみようかと思っていた。
いろいろお世話になりましたでございますし。
たまたまBSジャパンで放送されていた77年公開の
「男はつらいよ 寅次郎と殿様」をジェイコムで視聴。
「男はつらいよ」シリーズを見るのははじめて。
だいぶむかしに酒をのみながらいい気分で見たら、ふむふむと思った。
山田太一ドラマは庶民批判があるけれど、
山田洋次映画にはただただ庶民礼賛しかないのである。
庶民は正しくてあったかくて、みんな苦労しているんだから、がんばって生きようみたいな。
まあ、男社会の厳しさが「男はつらいよ」を集団創作していたのはわからなくもない。
いまはむかしほどではないのだろうが、男社会ってホントーにきびちいんだ。
つねに競争を迫られ、会社のために、
ひたすら自分を殺すことを朝から晩まで要求される。
トラさんみたいに気ままに生きることができたらなあ。
昭和の野郎どもの願いの結晶が映画「男はつらいよ」シリーズだったのではないかと思う。
なんで男ばかりこんなつらい思いをしなきゃならんの、みたいなさ。
トラさんはおれみたいなやつなので参った。
定職にもつかずふらふらして、そのくせみなが言えない本当のことを随所で言っている。
それでも嫌われないのだからふしぎな存在である。
どこから見てもトラさんはいやなやつでしかないのだが、そこに大衆は惚れてしまうという。
大衆(庶民)の特徴は自分のあたまで考えず大衆(庶民)に右へならえをすることである。
そして、それが楽しいのだ。
みんなとおなじ価値観で考え、みんなとおなじ行動をする。
がために、ちょっと異質なトラさんが人気を得たのだろう。
大衆(庶民)にもわかるレベルにおける自由の象徴が「男はつらいよ」のトラさんなのだろう。

テレビライターの山田太一氏が推薦していた()映画「第三の男」を
だいぶまえジェイコムで録画視聴した。
いまネット検索をしないとストーリーを思い出せなかったくらいだから、
いまのわたしにとっては大した映画ではない。
むかし見ていたらどうだったかわからないし、
もしかしたら新たな体験をした将来に見直したらば、
これほどの名作はないと思うのかもしれない。
テーマはとてもはっきりしている。友情と正義のどちらがたいせつか、である。
もし親友が悪事をしていたら、どうしたらいいか?
山田太一ドラマは直接的な答えを出さないことが多いけれど、
映画「第三の男」では明確な答えを出していて正義のほうが大事だと主張している。
正義の主人公が親友をだらだら追跡したあと(長すぎてうざかった)射殺している。
正義のためなら世間的に悪人ということになっている親友を殺してもいい。
むしろ、正義のためなら親友でもだれでも殺すべきだ、
というメッセージがこの古典映画にはあるような気がする。
こんな映画が多数派の支持を受けた正義の時代があったんだなあ。

わたしはこの正義の思想に拒否感をおぼえてしまう。
主人公の親友のなした悪というのは、
自分の利益のためにペニシリン(薬剤)を水で薄めて売って薬害を出したことである。
友人のせいで小さな子どもが苦しんだり、死んだりしている。
だから友人は悪で、正義の主人公はかつての親友を射殺してもいい。
これが正義の思想である。
だが、ちょっと待てよ、などとわたしは思ってしまう。
自分の利益のために他人を苦しませるなんてみんなやっていることでしょう?
他人を苦しませるか自分が苦しむか――。
このとき、自分の利益を取るのがそこまで悪と言い切れるのかわからない。
自分と他人といったいどちらがたいせつなのか。
このとき他人のことを思えと言えるのは恵まれた偽善者だけではないか?

人間は体験からしか物申せないかなしさのようなものを持っている。
いま時給850円で世間的には底辺と見なされかねない職場でアルバイトをしている。
いつクビになるかもわからず、
先日もわたしとおない年の社員さんから「ツチヤさんも呼ばれなくなるかもしれませんよ」
とありがたくもご忠言いただいた(生意気にも入庫はいやだと申し上げましたら)。
で、こういう下のほうの世界で働いているとわかることがたぶんにあるのである。
人間は「悪」のようなことをしないと生きていけない。
自分の利益のために他人を苦しませなければいけないというのが人間存在ではないか。
たとえば、いまの職場のマネージャーさんは決して悪人ではなく、
むしろいい人の部類だと思うが、
ご自分の立場(やご家族)のためにパートを苦しませなければならない。
外国人労働者から「今月はやばい」とか「生活が苦しい」
といったようなことを聞くとこちらもいっとき偽善的に深刻になってしまうが、
どうしてそうなったかはマネージャーさんのせいとも言えなくはないのである。
いや、経営者のせいか、株主のせいか、日本資本主義のせいか。

みんな自分の利益のために他人を苦しませていると言えなくもないのである。
わたしなどその象徴で、
わたしがバイトで少し楽をすることで苦しんでいる同僚がどれほどいることか。
しかし、わたしよりももっと楽をして
もっと多く稼いでいるパート仲間もけっこういるのである(Hくんとか世渡りうますぎ!)。
自分が生きるということは、他人を苦しませることだ。
我利我利亡者の古参パート女性が毎日たくさん稼ぐことでどれだけの人が泣いているか。
しかし、彼女は悪人とは呼ばれない。
社員さんがパートに早く帰ってくれと言うことで毎日多くの人が苦しんでいるのである。
しかし、それは社員が悪いからではなく、仕事としてそれを言わなくてはならないのである。
いったいどういう正義で悪人を裁けようか?
ペニシリン薬害で小さな子どもを苦しませるのがもし悪だとしたら、
自分の利益のために他人を苦しませているマネージャー、社員、古参パート、
そしてなにより自分勝手なわたしは悪だというのか?
たしかにわたしは悪人だが、ほかの人はそう悪人のようには思えない。
みんな自分(の地位や収入、家族)がたいせつだから仕方なくそうしているのである。

自分と他人とどちらが大事か?

究極のテーマになるのだろう。
だから、このテーマをあつかった映画「第三の男」は名作と言われるのかもしれない。
いったいだれが犯罪者を裁けるのだろう。
いまの職場の古株パート女性たちは、自分のために人を苦しませた犯罪者を、
テレビや新聞といったマスコミに洗脳された結果、正義という名のもとに裁くことだろう。
しかし、そういう本人たちこそ
底辺男性パートや収入不安定な外国人労働者を苦しませているのである。
そのうえ、そういう自覚さえまったくなく、
自分たちは間違っていないと群れて弱いものをさらに苦しめてなんとも思わないのである。
むろん、わたしもその一員である。その象徴かもしれない。
わたしのせいでどれほどのパート仲間が苦しんだことか、
苦しんでいることか、苦しむことか。
それを知りつつ、さらにクビになるのを恐れながら、明日もわたしは職場に行くことだろう。
そんなわたしには、とてもとてもこの映画の主人公のように、
他人を苦しめたという理由からだけで正義のために親友を射殺するようなことはできない。
自分とて同罪だと思うからである。

今日は強制的に休めと言い渡された日。もちろん有休なんかじゃない。
職場のババアどもはわたしの噂話をしながら、たんまり稼いでいるんだろうなあ。
休みの日にも職場の仲間のことを考えてしまうくらいの会社人間、仕事人間である。
本日はパート仲間のナカウチさん(以下、巨匠と呼ぶ)とカリヤンを紹介したい。
ふたりとも40オーバーの男性パートである。
ライン(流れ作業)でこの人の横に入りたくないランキングをつくったら、
巨匠とカリヤンとわたしがトップ3に入るのではないか。理由は怖いからにでもなろうか。
巨匠とカリヤンはわたしとは異なりよく仕事ができる男性パートである。
そして、わたしの才能というのは巨匠とカリヤンにラインで挟まれても
平気でいられるタフな精神力を持っているところである。
巨匠を巨匠と呼ぶわけはこの人には天才の狂気のようなものを感じるからである。
いつもラインでヘビーなところを振られて、
一定期間を過ぎると「きつい、きつい」とうめきはじめるのである。
いっとき「チクショー、チクショー」に変わったが、昨日は「きつい、きつい」に戻っていた。
ヘビーなところを振られてもスピードを落とせばきつさは多少軽減するのである。
しかし、巨匠はいっさい手をゆるめず全力で仕事をしてしまうのである。
そして、「きつい、きつい」とうなり声を上げるのである。
この「きつい、きつい」を4、5時間拝聴するのもわたしの仕事のひとつだと思っている。
ふつうの人ならあの「きつい、きつい」を1時間も聞けば精神のバランスが崩れるはずだ。

昨日なんかみんな24時まで働く気でいっぱいだっただろう。
しかし、巨匠が本気を出してしまったから23時で帰らされてしまった。
あそこに稼ぎ頭のアベさんやとても偉い(偉そう?な)キノシタさん
(どちらも女性古株パート)をぶち込んでくれていたら、
確実にライン終了は24時を超えたことだろう。
アベさんは勝ち組主婦なのに楽をして巨匠よりもはるかに稼いでいるのがおもしろい。
巨匠というのは金にならない仕事なのかもしれない。
カリヤンはいったいどういう人生を送ってきたのか知りたくて仕方がなくなるほど、
人との関係において閉じた男性パートである。
入った当初はカリヤンほど怖い人はいないと思ったが、
ある機嫌の悪い日に持ち前の異様な目つきで横のカリヤンを威嚇していたら、
なんとかの男の手が震えだした。
ということは、この文章の書き手はどれほどやばい男性パートなのだろう。
いろんな仕事があるのである。
巨匠とカリヤンに挟まれてなお正気を保っていられるのは女性には難しいのではないか。
17時に仕事ができる巨匠とカリヤンは入庫という一段ステージの高い場所に
移動していくことが多いが、ここで良心の痛みを感じながらも、
それにぐっと耐えられるのもわたしの職能のひとつと言っていいだろう。
わたしは入庫が嫌いゆえ下手だから(ミス多いぞお!)、
生産性を考えたら巨匠とカリヤンに入庫に行ってもらったほうがいいことになる。

職場は芝居の舞台のようなところがある。
うちの職場にはユーコさんがふたりいるが、
高いほうのユーコさんと巨匠は昨日はじめて邂逅(かいこう/出会う)したのではないか。
働く時間帯が異なるからふだんは会わないふたりなのである。
巨匠は巨匠ゆえ孤独なところがあり、なかなか助けに入っていけないのである。
ユーコさんはすさまじい人間パワーでさっと巨匠の手助けに入っていったのである。
ユーコさんは怖い人のわたしともコミュニケーションを取れる貴重な人材。
A山さんとともにこの職場にはもったいないような人材とも言えよう。
ユーコさんへ敬意を表して「ここだけの話」をしてしまった。
そのあと社員さんから「おい、バカ、変なこと教えるなよ」という視線を感じて、
「ごめんなさい」と心のなかで100回言いました。ごめんなさい。
ユーコさんにもご迷惑をかけてしまった。知らなくてもいいことってあるよねえ。
知ったら逆に苦しみの増すような情報というものがあると昨日実地で確認した。
昨日はいったいどういう日だったのだろう。
ものすごい久し振りにベトナム人美少女のFさんを見かけた。
声をかけようか迷ったが、向こうはわたしなど覚えていないだろうと思って遠慮。
玄関で見かけただけだが、いったいどこで働いていたのだろう。
今日は愉快な仲間たちが働いているなか、ひとり休んでいる。
けれども、休まされているわけだから罪悪感のようなものはない。
貴重な休日のため歯医者の予約を入れている。
明日また愉快な仲間たちとお会いできることをとても楽しみにしている。
「寒灯・腐泥の果実」(西村賢太/新潮文庫)

→そういえば昨日バイト先の書籍倉庫で、
西村賢太の文庫本「小説にすがりつきたい夜もある」を大量に見たなあ。
うちの倉庫だけで850冊出ていたから、
売れなくなったというのはデマでまだ十分に採算の取れる作家なのだと思う。
この本を読んでつくづく西村賢太さまと自分は似ているといやになった。
嗅覚の鋭さまで似ているのでウエッとなった。文才は似ていないのに、くそったれ。
似ているからわかることもあって、賢太の書くことは嘘なのである。
しかし、あれは嘘でありながらまさしく本当のことなのだからおもしろい。
あんな小説は嘘だろうと思って西村賢太に舐めた態度を取ったら、
この男はリアルに小説に書いてあるような非道行為をその人にやるだろう。
小説を本当だと思ってビクビク接したら、
菩薩(ぼさつ)さまのようなお人に見えるかもしれない。
私小説が本当に起こったことを書くものだとすれば、本当に起こったこととはなにか?
心のなかで思ったことも本当に起こった事実なのだから。
西村賢太のゆがんだところがとても好きである。
作者を模した貫多は同棲相手の秋恵に言う。

「老若男女を問わず、態度のいい奴とか他人からムヤミに好かれてる奴なんてのは、
ぼく、一切信用しないことにしてるんだ。
なぜって、そういう手合いは四面楚歌に陥った経験なんて全くないんだろうし、
その寂しさも金輪奈落わかりゃあしないだろうからね。
所詮、ロクなもんじゃねえよ。
そもそも他人に好かれる術を心得ているところが気に入らないじゃねえか。
根性が、浅まし過ぎんだよ」(P37)


新居の管理人とトラブルを起こすところもおもしろい。
なんでも管理人がゴミのことでいちゃもんをつけてきたらしい。
こういうとき常識人は大人の態度で接するべきだが、
貫多は(おそらく賢太も)そうではない。
トラブルがあったほうが人生は活性化することを私小説の天才はよく知っている。

「管理人は、いかつい容貌をした貫多の目つきの異様さを見てとったらしく、
たちまち恐怖の入り交じったような警戒の色を、
その額縁眼鏡の奥に浮かべたようであった。
この見るだに懦弱そうな表情に、〝勝てる”との確信を抱いた貫多は、
すぐと気を取り直したように初対面の挨拶やら桃の礼やらを
柔和に述べてくる老人の言葉を一切無視し、冷たい眼差しで先方を凝視したまま、
早速に一連の問い合わせに関する、その真意についてを質し始めていた」(P50)


世の中には異様な目つきをできる人とできない人がいるのである。
やべっ、こいつこええよ、という異様な目つきのことである。
もちろん、異様な目つきをできない人のほうが圧倒的多数派になる。
常に自分は迫害されているという妄想をキープしていなければ異様な目つきはできまい。
決して恨みを忘れないという重度の病的なまでの粘着性が人に異様な目つきをさせる。
たまにブルブルッと震えがくるような異様な目つきをできる人がいるものである。
その目にふつうの人は参ってしまうのである。参るとは降参のことである。
温和そうなテレビライターの山田太一氏もよく見ていると
たまに異様な目つきをすることがある。
さて、目は口ほどに物を言うというのは真実で、
もしかしたら目のほうが言葉よりも感情を伝えやすいのかもしれない。
日本語の通じない外国人が多い職場で働いていると
目で会話するというのが本当によくわかる。目と目で通じ合うのである。
ものごとをどう見るかも目の能力いかんである。
貫多は秋恵との甘い同棲生活を客観視できる異様な目つきを有する。
自虐も自慢もできるのが西村賢太のおもしろさである。

「それは貫多もその相手たる秋恵も、
互いに根はひどく大甘にできてるフシがあるだけに、
こうした二人の暮しは傍目から見れば、
トウのたった一組の男女による見苦しきママゴトじみた行為に映るやも知れぬ。
所詮は冴えないカップルの、痛々しい凭(もた)れ合いの図に映るのかも知れぬ。
だが当の貫多にしてみれば、今のこの生活は到底手放せぬ無上のものであり、
そんな彼に寄り添っていてくれる六歳年下の秋恵は、
やはりどこまでもかけがえのない、何よりも大切な存在だった」(P102)


ある現象をプラスからもマイナスからも見(ら)れるのが作家の才能だろう。
西村賢太はマイナスの極北からお寒い現実を描写するのがとにかくうめえったらない。
西村賢太のすばらしさはほかにもあって、
いまは日本で天皇陛下レベルまで偉くなってしまった若い女性さまを怒鳴れるところだ。
男と女の能力差は圧倒的なのだから、
これはスウェーデンの文豪のストリンドベリ先生もおっしゃっているが、
女は犬のように叱りつけるのがいちばんいいのかもしれない。
貫多は馬鹿野郎とか弱き女性である秋恵を怒鳴りつける。

「怒声を浴びせられた秋恵は、キュッと身を縮こませつつ、
チンとうなだれて目を伏せる」(P123)


チンとうなだれるという表現がとてもいい。いいったらない。
でたぜ、賢太節と喝采をあげたいところである。
きっとチンとうなだれたとき秋恵はとてもかわいい目をしていたんだろうなあ。
犬は大嫌いだが、チンとうなだれる女はさぞかしかわいいいだろうと思う。
西村賢太はおのれのマイナス体験、トラブル体験を元手に小説を書いているのだ。
もし作家などというからきし食えない名誉職業にあこがれるものがいたら、
人生でどんな体験を積んでいけばいいかはおのずと知れるところであろう。

「爪と目」(藤野可織/新潮社)

→芥川賞受賞作。
被害妄想だろうが、いま肩も腰も痛い低賃金ブルーカラーはバカヤロウとか思っちゃう。
あのさ、お洒落なオフィスで働いているホワイトカラーならこの小説のよさがわかるの?
いまなにかをぶち壊したいような怒りが体内に鬱積している。
勤めている底辺職場にも似たような男性が複数見受けられる。
昨日はわずかな賃金の公平性を求めて、
阿修羅のごとき憤怒の相で社員に詰め寄っているババアふたりを見た。
ふたりでつるんでひとりを囲めば勝てると思っている意地汚いババア根性にケッと思った。
おれんなかには負の感情が渦を巻いていて、いつかなにかしてしまいそうで怖い。
表現というものは、そういうマイナスに適切な言葉を与え純化する面があるのではないか。
喜怒哀楽を固有の言葉で表現し、世界の新しい形を提示するのが小説の一面だと思う。
こういう考え方が「正しい」のかどうかはわからないが、
もしそうだとしたらこの小説は当方の感情をなにも刺激せず、
ひたすらやりきれないという空疎な思いを倍増しにしてくれたくらいだ。
それでもまったく悪い小説というものはなく、どこかしらいいところもあるものだ。
偽善的に人のよさをあえて見るように、この小説のよかったところをあげれば――。
へええ、女ってそういうふうに女を見ているのかって思ったところ。

「あなたには、男性が自分に向けるほんのほのかな性的関心も、
鋭敏に感知する才能があった。
しかもそれを、取りこぼさず拾い集める才能もあった」(P17)


女って若いころからこんなことばかり考えているから根性が悪くなるのだろう。
若い女は自分を男のエサだと自覚しているようだが、
その自覚を老いてもなお維持し錯覚だと自己認識を修正できないのが
女の愚かしさであり、人によってはかわいさになるのだろう。
なにを言いたいのかわからないって?
なにを言いたいのかわからない小説の真似を感想文でしたまでのこと。
ホワイトカラーの女ならこの小説のよさがわかるのかもしれない。

88年に放送された単発の山田太一ドラマ「あなたが大好き」を正規視聴する。
シナリオで読んだことがあるため、ジェイコムで録画していたものの、
なかなか見る気にならなかったものである。
いま切羽詰まった事情で時給850円のパートに出ているけれど、
そこの書籍倉庫で働く女性は既婚者の割合が極めて高い。
この人たちもふつうに恋愛して結婚したのだと思うと畏怖をおぼえるというかね、その。
なんか失礼なこと言ってる? 言ってない、ない、ないから!
山田太一がテレビライターになったときに感銘を受けたという言葉がある。
アメリカのテレビ作家が(正確ではないかもしれないが)こう言ったそうだ。
自分は王さまの話よりも、どうして隣の肉屋は結婚したかに興味があり、それを書きたい。
テレビというのはそういうメディアなのだと巨匠の山田太一はいたく啓発されたという。
いつも喧嘩ばかりしている隣の肉屋夫婦はいったいどういう経緯で結婚したのだろう。

ドラマ「あなたが大好き」は江戸指物の職人と、
一流企業重役の父を持つお嬢さまが結ばれるまでの話である。
こういう感想はどうだかとも思うが、ふつうにいいドラマだったのではないか。
ドラマに対してではなく、社会風潮に違和感をおぼえたのは「男は仕事」というあれ。
おそらく作者の山田太一の念頭にもこの違和感があったはずである。
テレビドラマは現代社会を描くものだから、
どうしても社会的一般規範を取り扱わねばならなくなる。「男は仕事」――。
一見すると、これは男ばかり言っているようなイメージがあるかもしれないが、
女もまた男同様に強く洗脳されている社会通念こそ「男は仕事」である。
女は恋愛なら売れないバンドマンとでもするけれど、結婚はまずしないでしょ?
主婦の井戸端会議でいちばん重要なのは夫の仕事だと思う。
危険なことを言うと、妻の格は夫の仕事で決まってしまうようなところがあるのではないか。

ドラマ「あなたが大好き」でもそこらへんのところはリアルに描かれている。
由子(中川安奈)は大学のテニスサークルOB会で仲良くなった
誠一(真田広之)と結婚しようとするのだが、理由がそのまま「男は仕事」である、
真田広之のととのったツラもいいのだろうが、まず「男は仕事」である。
指物職人の誠一は由子の家にあいさつに行くが、
婚約者の両親から育った家が違いすぎるからうまくいきっこないと反対される。
その帰途、ふたりはラブホテルで向き合っている。由子はこんなことを言う。

由子「(やや堅く椅子にかけていて)父のいうことは気にしないで。
たしかに、母は孤独だったし、家の中、どんどんひえこんでいたのは事実だけど、
まさか、あてつけで結婚はしないわ。
強いていえば、父のような仕事が嫌いだったのかな。
忙しいのは父のせいじゃないもの。
いくらいい会社とか、重役コースとかいったって、幸福じゃないなって思ったわ。
そんなに景気なんかよくなくたって、上役なんかいないで、自分の世界があって、
誇りを持ってて、伝統があって、細かないい仕事をしているの、
とってもいいって思ったわ。
OB会へ行ったって、みんな勤めてるでしょう。佐上さんだけ、職人だっていうの、
それも江戸指物だっていうの、魅力あったわ。
お父さまもお母さまも素敵だし、家とは全然ちがうって、新鮮だったわ」(P204)


自分は男をしている仕事で選んだと言っているようなものだから、
通俗的な恋愛観からしたらかなりの危険球だが、これが常識というものなのだろう。
容貌は劣化するし、愛も恋もじきにさめるだろうが男の仕事だけは信用に値する。
ラブホテルで真田広之は本当のことを白状する。
「大事なことを話してないんだ」――。
じつのところ、真田広之は仕事ができない職人だったのである。
どんな仕事にも向き不向きはあるけれど、
真田広之は決定的に不器用で職人の父から何度仕事を教わってもうまくできない。
正直、職人を辞めようか迷っていたくらいなのである。
ところが、婚約者が自分を選んだ理由は職人という仕事のためなのである。
個人的な感想を言うと、べつに仕事ができない男がいてもいいと思うけれどねえ。
「男は仕事」で男同士で
いかに自分は仕事ができるかを競い合っているのって異常な気がする。
しかし、けれども、だが、「男は仕事」で、
繰り返すが、男は仕事がすべて、仕事がいちばん。
不向きなため職人仕事ができない真田広之は、自分探しの旅に出てしまう。
変な話だけれど、職人って気楽にこういうことができるのがいいなあ。
で、話はどうなるかというと出戻りの姉がしゃしゃり出てくるのである。
自分はむかしから江戸指物のような手仕事が好きだったが、
女だからという理由で父親はぜんぜん相手にしてくれなかった。
お父ちゃん、これをいい機会に自分に職人仕事を教えてくれないか?
自分は弟よりもはるかに手先が器用で向いているから、
あいつが3年でおぼえるものを1年でおぼえちゃうよ。
どうしてかこれに真田広之の婚約者ものって、女二人が職人修行をする。
真田広之はなにをしているかといえば自分探し(笑)である。
最後は取ってつけたように真田広之が戻ってきて、
ふたりの恋の成就が予想されるシーンになっているが、
おい、イケメンよ、おまえ、本当に本当の自分は見つかったのか?

「男は仕事」に内包されている思想のひとつが男女差別である。
「男は仕事」の意味は、「女は仕事」ではいけないということだ。
職人は女風情がなるものではないといったような。
男女差別というのは本当にうんざりするものである。
「男は仕事」なんて思っていない男もいて、いまこの文章を書いていたりするのである。
「男は仕事」なんて思っていないから
時給850円のパートでもプライドはそれほど揺るがない。
仕事にプライドを求める人は精神的にきつくていまの仕事はできないと思う。
本や雑誌を全国各地のお客さまに配送する意義ある仕事だと思っている。
だが、職場でも歴然とした男女差別があって、
男はきつい仕事にまわされがちなのである。
わたしは女よりも女々しい女が腐ったような性格だから、
自分を女あつかいしてほしいというようなことを上司さまに言ってみても(よく言えるなあ)、
「男は仕事」という社会規範のせいか、これだけはどうにもならない。
ドラマに話を戻して「男は仕事」という社会常識にだまされてエリート会社員と
結婚した妻だって、果たして幸福かはわからないのである。
真田広之の婚約者、由子とその母親の菊江との会話から。

由子「お父さま、いるの?」
菊江「いるわけないでしょ」
由子「ゴルフバッグ、玄関にあったわ」
菊江「運転手が届けに来たの。常務はこれから会議でおそくなるって」
由子「日曜日に?」
菊江「(肩すくめる)」
由子「ほんとは、女?」
菊江「いないわよ。あの人は会議人間、仕事人間、
 重役になって、うれしくてたまらない人間。男はみんなそう。
 幹夫[息子]もニューヨーク支社で、どうせ日曜日だって働いてるんでしょ。
 母親に電話かけるなんて発想は全然ありゃあしない」
由子「だからのんだくれてるなんて、バカみたい。
 お母さんも好きなことをどんどんすればいいじゃない。
 いくらだって時間があるんだもの」
菊江「好きなことなんてないもの。なにやったって、むなしいもの」
由子「捜すべきよ。集中出来ること、捜すべきよ。アル中になっちゃうじゃない」
菊江「そんなことは分ってるの。どうすべきかなんてことは分ってる」
由子「だったら、そうしたら」
菊江「出来ないの」
由子「なにいってるの」
菊江「人間というのは、そういうもんなの(と床へ坐る)」
由子「座らないで、そんなとこに」
菊江「いいと思ったことを、どんどんやれれば、こんな簡単なことはないの。
 いいと思ったって、身体が動かない。心が動かない。
 悪いと思ってること(と酒をのむ仕草をし)してしまう。
 そういうのが人間なんだから(と横になってしまう)」
由子「そんなとこで寝ないで」
菊江「(寒そうに)うー(と身をちぢめる)」
由子「(一種の嫌悪で見ている)」(P186)


時給850円のパートにでも出たらいい男とめぐりあえるかもしれないのだが、
重役夫人で金持だとそうはいかないようである。
「男は仕事」だから妻の価値は夫の仕事で決まる。
「男は仕事」だから女は会社でなかなか出世できない。
「男は仕事」だから、しようがないから、
今日バイトで入庫(力仕事)にまわされたら社会の矛盾を身体全体で味わおうと思う。

*引用は大和書房から出ているシナリオ集によります。

(参考記事)
「あなたが大好き」(山田太一/大和書房)
単発の山田太一ドラマ「パパ帰る’96」を違法動画サイトにて視聴する。
画質は最悪だったし広告がひんぱんに出てくるので、
ジェイコム馴れした目にはきつかったがドラマ自体はおもしろかった。
とても実験的なドラマで、
96年でも山田太一のネームバリューがあればここまでやりたいようにできるのかと驚く。
手品が好きだったパパが3年半ぶりに帰ってるという設定だ。
映像がどこか非現実的で幻想的な色合いで、
これは本当のところパパは死んでいるのではないかという疑いを
ドラマ中盤まで捨て切れなかった。
妻、娘、息子、家のローンを残して3年半まえにパパはいなくなった。
けっこういい会社に勤めていて出世コースにも乗っていたにもかかわらず、である。
最後の連絡は電報だった。「スマナイ。ジョウハツスル」
蒸発して3年半ぶりに帰ってきた手品好きのパパを演じるのは風間杜夫。
これもまた風間杜夫でなければ断じてこなしきれない役であろう。

あたかも大成功したかのような風体の風間杜夫がおもしろいのである。
蒸発したのを詫びるどころか、
静粛な図書館で陽気に人の迷惑も考えずタンゴを踊るのである。
息子の堂本光一が図書館でパパから逃げようとしたら、
タンゴを踊るぞと風間杜夫は言う。
まさか踊らないと息子が思っていたらパパは本当に大声を出して踊ってしまうのである。
図書館員から注意されるが、ちっとも気に留めていない。
それどころか、こんなことまで言う。タンゴを踊ってよかったんじゃないか。
今日図書館にいたやつらは、家で変やつがいたって話すんじゃないか。
だったら、タンゴを踊ってよかった。そうだろう?
なんにもないよりはおもしろかったに決まっている。
一見、成功者ふうに見える風間杜夫は息子の堂本光一に言う。
おれが蒸発して、そんなに悪いばかりか?
なにもない人生に語るべきものが生まれたんじゃないか。
おれが蒸発しなかったら、おまえはどこにでもいるふつうの高校生だった。
それがいまではどうだ? 
塾にも行かずに(学費の安い)国立大学を目指してがんばって勉強している。
専業主婦だったママだってそう。
ママはいま下着メーカーのトップセールスレディーになっている。
おれが蒸発したから、ママの新しい才能が目覚めたとも言えるのではないか。
娘の鶴田真由だってそうとも言えないか。
むかしは部屋の掃除もしなかったのに、
いまではきちんと就職しながら家事までして家に6万も入れているそうじゃないか。

なんにもなくて毎日平穏に過ごせればそれでいいのか?
苦労や不幸ってもんは、なけりゃいいってもんじゃない。
苦労や不幸ってもんは、なけりゃ幸せってもんじゃない。
パパが蒸発していいことばっかじゃないか。完全に開き直っている風間杜夫である。
風間杜夫パパはある日、満員の通勤電車に乗っていて蒸発することを決めた。
はたとまざまざと気がついてしまったのである。好きなことをまったくしていない。
取り引き先の部長のいつも人を見下したような顔は本当にいやだ。
自分をひいきにしてくれているという重役のことだって本当に自分は好きなのか。
言うことを聞かない部下のどいつをおれは好きだと言うんだ。
したくないことばかりしている。
仕事は好きな振りをしているが、好きだと思っているが、本当に本当に好きなのか。
今日会社に行けば会議があるだろう。しかし、おれがいなくても会社はまわる。
どうして好きなことをできないのか――家族がいるからである。
会社はおれがいなくてもなんとかなるだろうが、家族はどうなるかわからない。
蒸発したパパが三年半ぶりに戻ってみたら、家族もなんとかなっていたのである。

「お金どのくらいあるんだろう」と娘の鶴田真由が家族会議でつぶやく。
なぜかといえばシャネルのスカーフをプレゼントしてくれたからだ。
高そうな車にも乗っていた。
パパに捨てられていちばん苦労したママの最大関心事もまたお金である。
金がなければ生活できないのだから、これは当たり前である。
本当はどうなっているのか? パパは金持なのかどうか?
本当のことがばれてしまう。
風間杜夫は成功者でも金持でもなんでもなく、
師匠から見切りをつけられ追い出された素寒貧のロクデナシだった。
3年半師匠のもとで修行しても手品の才能は開けなかった。
好きなことをしろと成功者はよく言うが、
風間杜夫は家族や会社を捨てて好きな手品に没頭したがものにならなかった。
成功したパパなら家に戻ってくる場所があったのだろう。
パパが失敗したとばれるとママは風間杜夫を家から追い出す。
パパがいなくなってマンションのローンをどれほど苦労して払ったか。
302万4千円の貯金で一家これからどうしようかみんなどれほど困ったか。
息子の堂本光一は正論を言う。
「まるでお金があればよくて、なければダメみたいだ」
ママはこれに対してこう答える。
「そうよ。お金は大事でしょ」

じつのところパパが蒸発していいことばかりでもなかった。
ストレスから娘の鶴田真由は病的な万引き依存症になってしまった。
どうしてか失敗したパパのもとに娘や息子が寄りつくのである。
貧相な友人の四畳半に居候するみじめな風間杜夫であるにもかかわらず。
そんな風間杜夫を励まそうとゴロツキの仲間がカラオケに誘ってくれる。
どこから見てもホームレスのような人たちだが、みんなよさそうな人で、
むかしエリートサラリーマンだったパパにこんな仲間がいて、
パパもこんな楽しそうに歌っている。
エリート予備軍だった堂本光一は新たな世界を知ったような気分になる。
稼がないパパはいけないのだろうか?
ママが稼いでいればそれはそれでいいのではないか?
「私があなたを養ってあげる。でも、もう手品はしちゃダメ」
ママからそんなことを言われ、「パパ帰る」は成功するかに思われる。
しかし、祖父の提案で最後にもう一度、風間杜夫に手品をしてもらおうという話になる。
大晦日に三年半の修業の成果をみんなのまえで披露してもらおうじゃないか。
川岸で風間杜夫は大仕掛けの手品をしようとするがうまくいかなかった。
このとき「失敗してもいい。パパだからいい」
と失敗した風間杜夫に家族が駆け寄るのは印象的なシーンだった。

お正月にもう一度チャレンジしたらどうかという話になる。
このままではあんまりじゃないか。
正月の川岸における手品は見事に成功して、風間杜夫は川の中州へ瞬間移動する。
最初の話に戻るが、これはどうしても風間杜夫の死をイメージしてしまう。
家族のために残業を繰り返した会社員が電車のホームから線路に飛び込むような
痛ましい事件がある。
自死遺族はみんな死ぬくらいだったら、会社を辞めて好きなことをしてくれていたら、
と思うことだろう。いや、きっと思うはずである。
しかし、実際にその自殺者が家族や会社を捨てていたとしたら、
家族や社会は彼を厳しい口調で断罪するのである。
遺族は死ぬくらいだったらと死後に言うだろうが、
本当に死の直前まで行ったお父さんが
家族を捨てて好きなことを始めたら非難するのである。
世のお父さんって辛い立場だよなあ。
わたしはあるとき、遺族が思うであろう「死ぬくらいだったら」を逆手にとって、
人生好きなことばかりしてやるぞと決意していまにいたっている。
死ぬくらいだったら、社会的信用など投げ捨てて好きなように遊んでしまえ。
しかし、毎日家族のために一生懸命働いている多数派のパパは立派である。
どちらの考えが「正しい」とも作者は言っておらず、
それは視聴者自身がそれぞれに考えればいいと我われに任せてくれている。
「あかるい郊外の店」(山田太一/「すばる 1998年3月号」集英社)

→98年に地人会で公演された山田太一作の芝居「あかるい郊外の店」を戯曲で読む。
多作の氏からしたら、とりたてて記憶に残っているものではないかもしれないが、
これがおもしろいのである。
たしか山田太一は演劇賞はひとつも受けていないはずだが、
ほかの創作劇のつまらなさと比較したら
氏の全部の芝居作品に賞を与えなくてはならなくなってしまうような気がする。
雑誌にさえ掲載されていない芝居台本がいくつかあるのである。
どっかのだれかさんみたいに氏に直接お願いしたら閲覧させていただけるのかどうか。

さて、「あかるい郊外の店」の舞台となるのはコンビニ。
基底音として流れているのは「つまらない」ではないかと思う。
実際に夏恵という不良少女っぽい子が「つまらない」と4度も言う。
なにをしてもつまらない――。
登場する人物みんなの共有しているのが、この「つまらない」ではないか。
独身者も既婚者もどこかでみんなそんなことを思っている。

「なにもないなあっていう気持、一人ぼっちだなあって気持、
このまま、ただ年をとっていくだけなのかなあ、という気持」(P303)


みんなどこかで思っている。わたしも、あなたも。

「あなたは自分を変えようと思っている。いまのままじゃ嫌だと思っている。
しかし、なにをしたらいいか分らない」(P279)


かすかな希望がないわけではない。

「私はもしかすると、自分が思っているような人間じゃないかもしれない。
見当ちがいの思い込みで生きてるのかもしれない。
本当の私は、全然ちがうのかもしれない」(287)


しかし、本当にそうだろうか。
本当にいまのままのあなたやわたしはそのままではよくないのだろうか。
いまの世界はそのままで美しくはないのか。
あなたやわたしは変わる必要があるのか。
世界はそのまんまでこのありふれた一瞬に奇跡のような輝きを放っているのではないか。
恋をする四十代中頃の男性が和也である。歯医者をしている。
これを演じるのが芝居っ気たっぷりの風間杜夫。
この役は風間杜夫にしか演じられないだろう。
相手のするのはコンビニ経営者の30過ぎの夫婦。秀司と佐代.
山田太一ワールドのコンビニエンスストアではこんな会話が繰り広げられるのである。

和也[風間杜夫] 奥さんは、いま幸せですか?
佐代 なんかの宗教?
秀司 そうなの?
和也 全然ちがいますよ。私は神を信じない。仏も信じない。女房も信じない。
 娘も――女房の味方だし(と淋しさがこみあげるが)
 私は(と気をとり直し)幸せに見えますか?
佐代 (かぶりを振る)
秀司 (かぶりを振る)
和也 そうでしょう。
 こんなふうに歩けるのに(と歩き)自分を幸せだなんて思えない(立止り)
 でも、病人だったらどうですか? 半年ベッドで動けなかった病人が、こうやって一歩、
 地面を歩いたら、とても幸福なんじゃないですか? 
 二歩三歩、ただ歩けるだけで幸せでしょう。
 脊髄(せきずい)をやられてる人が、奥さんのように立つことが出来たら、
 こみ上げるように幸福なんじゃないでしょうか?
佐代 でも、私は別に立てなかったわけじゃないし――。
和也 そう。だから幸せだとは思えない。
 たとえば、この通路、この棚、しんとした夜更け、
 こんなことに、特に幸せを感じようもない。でも、地震があったらどうですか?
 棚のものが、ドドッと通路に落ち、冷蔵庫があいて、
 瓶が割れたり、牛乳がころがったり。
 勿論(もちろん)家がつぶれればもっと大変だけど、そこまで行かなくたって、
 掃除するのは、何時間もかかる、お金もかかる。
 そんなことをしないですむ夜更け。しんとした棚、これって幸せじゃないですか。
佐代 理屈はそうだけど――。
和也 そう。理屈はそうなんだけど、
 だからって、いま幸せで仕様がないなんて感じようもない。
 むしろ眠いし、客は来ないし、そのあたりのもんを棚にあげたりしなきゃならないし、
 気持は不幸かもしれない。でも、本当は幸せでしょう。
 歩けるんだし、立てるんだし、地震もないんだし、仕事もある。物もある。
佐代 それで幸せなら話は簡単だけど。(P296)


「ありふれた奇跡」のことを言っているのであろう。人生、一寸先は闇。
明日、大きな地震が来てなにもかもめちゃくちゃになってしまうかもしれない。
明日だれが愛する人と突然の死別をするかもわからない。
末期のガンを宣告されるかもしれない。足を切断する難病になってしまうかもしれない。
もしそうなったら今日のつまらない1日は、
かけがえのない幸福な日々として思い返されることになるのである。
しかし、けれども、そうは言っても、毎日のつまらなさはどうにもならない。
理屈ではわかっていても、いまのままでは満足できない。
なんにもないなあ、と思ってしまう。一人ぼっちだなあ、と思ってしまう。
それは歯医者の和也(風間杜夫)もおなじなのである。
そして、ここは現実ではない。現実のコンビニではない。舞台上の芝居である。
風間杜夫(和也)は芝居っ気たっぷりになにかを求めて演戯するのである。

和也 すいません。(とさえぎるように)
佐代 なに?
和也 助けて。
秀司 え?
和也 助けて。(とちょっと身を揉むようにしゃがむ)
佐代 トイレ?
和也 そんなんじゃない。
佐代 じゃ、なに?
和也 飛びたい。
秀司 飛びたい?
和也 飛び立ちたい。(とぶ身振り)
佐代 マジで?
和也 なんとかしたい。
秀司 なんとかって、なにを。
和也 (佐代を見て)恋をしてしまったんです。(立つ)
佐代 私に?
和也 ふざけないで。
佐代 ふざけてないよ。
和也 旦那の前で、あなたに恋してるなんていうわけないじゃないですか。
秀司 かげならいうのか。
和也 あの人に。あの人に恋をしてしまったんです。
秀司 あの人って――。
佐代 あの女?
和也 そうです。矢川、芳美さん[鳳蘭/おおとりらん]。
秀司 そうじゃないかと思っていたけど。
和也 (左の頬を指し)半年ほど前、あの人は、
 ここの第一小臼歯が痛むといってやって来た。
 でも、私は全然どうってことなかった。それどころじゃなかった。客が減って来ていた。
 なにより駅前のサロン風歯医者のせいです。
 新宿を立退く前から十二年つとめてくれたアシスタントの女性に辞めて貰った。
 色恋じゃない。月給が高すぎて払えなくなった。若い人をやとった。男です。
 女じゃ女房がやくかと思ってね。ところが、そんな心配はいらなかった。
 女房が急に別れたいっていい出した。私が宇宙人に見えるというんです。
 結婚して十九年。今更、宇宙人でもないだろう、といったけど、
 いわれてみると、私もなんだか女房が宇宙人に見えるんです。得体が知れない。
 そういえば、前から俺のすることにどう反応するか見当がつかなくて、
 女房のことが全然分っていないのではないかと、
 怖いような気になっている時があった。
秀司 ――。
佐代 ――。
和也 しかし、別れるとなりゃあ、いろいろ面倒です。うだうだしているうちに、
 急に、二ヶ月前高校二年の娘連れて、広島の実家へ帰っちまった。
秀司 そう。
和也 それから、あの人が久し振りで、治療に来た。その時のことは、前に話しましたね。
秀司 ああ。
佐代 ううん。
和也 とにかく、びっくりしたんです。治療が終わったあと、幸せそうで、輝いていて。
佐代 へえ。
和也 どうして何回か来てるのに、
 この人の美しさに気がつかなかったんだろうと思った。
 よく見れば――いや、よく見なくたって、大きな目、大きな口、
 そこらにいくらでもいるような人じゃない。ところがちっとも目立たない。
 本人が自分の輝きに気がついていないからです。
佐代 フフ、相当、熱い。
和也 フフ、そう。自分でも、この齢で、こんな気持になるなんて思わなかった。
秀司 恋かなあ。
佐代 なによ。
秀司 恋なんてものが、昔、あったなあとちょっと思ったんだ。いいだろ、思うぐらい。
和也 私もそうですよ。恋なんて昔の話だった。ところが、あの人に、恋をした。
 醒(さ)めたいい方をすれば、あの人じゃなくてもよかったのかもしれない。
 甘いものが欲しかった。甘いものがなくては、きりぬけられそうもなかった。
佐代 勝手ね。(P298)


山田太一節(ぶし)全開というのか、なんというのか、いいなあ。
恋をしつつ醒めているところがいい。
「あの人じゃなくてもよかったのかもしれない」とかまで言い切っているわけだから。
とはいえ、退屈でつまらない日常をどうにか生き生きさせるには、
神や仏を信じられない人にとっては恋愛モドキのようなものしかないのかもしれない。
恋愛モドキをするとなにがいいのか。
自分でもわからなかった自分、自分でも知らなかった自分が出てくるからだろう。
なぜそういうことが起こるかと言えば、
おそらく恋愛とは相手のそれまで気がつかなかった美点を発見することだからだろう。
人は他人の長所を見つけたとき、自分も多少なりとも変化するのかもしれない。
しかしまあ、他人の恋バナなんちゅうものは「やれやれ(ため息)」である。
中年男の和也(風間杜夫)は「やれやれ」と言われてもめげない。

「そう。恋をしてるやつなんて、はたから見ればやれやれです。
でも私は、あの人を解きはなちたい。
自分をダメなオバンなんて思ってることから、
地味な服装から、暗い人生観から、解きはなちたい。
解きはなつと、どんなに素晴らしいか、を見ちゃってますからね」(P300)


和也は恋する相手の目のまえでも言ってしまう。
これは山田太一が風間杜夫の口を借りて観客全員に言いたかったことだろう。

「私は、はじめてあなたを見た時、幸せが似合う人だと思った。
周りに幸せをふり撒く人だと思った。でも、実際はそうじゃなかった。
淋しそうで、自分が嫌いで、なんとかしようとしていた。
(……) 不自然、だという気がした。
あなたは自分のスバラシサにも、自分の幸せにも気がついていない。
気がつけばいいんだと思った――歯医者として」(P311)


甘いことを百も承知で言えば、
それぞれがそれぞれのよさに気づけばどんなにいいことか。
自分ほど自分のことを見ることができない存在はないのかもしれない。
他人のほうが自分のよさに気づいてくれているのかもしれない。
あなたはことさら変わろうとしなくても、
いまのそのままでもいいところがふんだんにあるのかもしれない。
「なーんにもないし、一人ぼっちだし、いまのままではいけない」とみな思っているが、
「なにかあるかもしれないし、一人ぼっちでなくなるかもしれないし、いまのままでいい」
という可能性も、もしかしたらあるのではないか。
いや、これはフィクションの芝居だから現実とは異なる。
お芝居ではないのだからやはり
「人生なんて、そんなもの」「人間なんて、こんなもの」なのか。
実人生で風間杜夫のように芝居っ気たっぷりに言えたらどんなにいいことかと思った。
「助けて」と言えたら。しかし、「助けて」と言っても無視されて終わりだろう?
いや、だれか手を差し伸べてくれるのか。
そのとき、風間杜夫のように言えるものだろうか。「飛びたい」と。「飛び立ちたい」――。
おそらく赤字のマイナー漫画雑誌「月刊スピリッツ」7月号から。
大好きな漫画「たそがれメモランダム」より。
女子高生の高取エリは国語古典教師の黒木先生が好きである。
エリは同級生の浜野くんが自分のことを好きなことに気づいていない。
浜野くんはクイズが大好きな秀才系男子。
ある日、路面電車でエリは浜野くんと会う。エリは言う。

高取エリ「…浜野くん、なんか変わったよね」
浜野くん「そうか?」
高取エリ「うん、この1年くらいで」
浜野くん「――」
高取エリ「(あ、そうだ)」
浜野くん「――」
高取エリ「(きっと好きな人ができたからだ)」
浜野くん「じゃあ、高取さんのせいかも」
アナウンス「袋町――袋町――停車します」
高取エリ「あ!(浜野くんの思いに気づく)」
浜野くん「(???)」
高取エリ「私はここで!(と下りる駅ではないところで下車)」
浜野くん「え、うん。じゃあ」
アナウンス「発車します。ご注意……」
高取エリ「…どうしよう(見つけたのは、うろたえて逃げた自分)」

次回は最終回の模様。いったいどんな結末をむかえるのか。
だれかが見ている。きっとだれかが見ている。