「ふかいことをおもしろく 創作の原点」(井上ひさし/PHP研究所)

→井上ひさしの劇団「こまつ座」って結局、利益が取れていたのかなあ。
演劇って本当にお金にならないらしい。
でも、あまりに楽しいからみんなやりたがる。
三島由紀夫なんかもそうで、あれは赤字だったとどこかで読んだことがある。
おなじことの繰り返しである日常の倦怠から我われを
回復させてくれるのは芝居がいちばんの特効薬なのだと思う。
しかし、芝居はやるほうも見るほうも金がかかってしようがない。
わたしが1日働いても買えないようなチケット代金もざらなんだから。
井上ひさしはいろいろな仕事をした人だったが、もっとも好きだったのは演劇ではないか。

「小説というのはひとりの孤独な作業ですが、
劇作は多くの人たちが関わって創り上げていきます。(中略)
結局、最後はお客さんと俳優さんが、
一つの屋根の下にいるというところへたどり着きます。
そこでは、作者も演出家も照明家も全部消えてしまうのです。
やはり見ている人が目の前にいるという形式は、
一番厳しく、しかし面白い。贅沢な芸術です」(P86)


小説家だって書いてから読者の反応がわかるまでにはかなりの時間を要するのだ。
そのうえ読者の反応は手紙のようなものが多いだろう。
ファンと対面しても相手は自分の気持を考えて本当のことを言ってくれない場合が多い。
しかし、芝居は目の前で自作の反応がわかるのである。
こんなにスリルがある遊び(芸術)はほかにないのではないか。
見ている人が目の前にいるという形式は怖いが、とにかくおもしろいのである。
もちろん、見てもらうためにはおもしろいものを書かなければならない。
どこで受けたかも体感的にわかるから、それを次の創作に生かせるだろう。
劇作家はお客に育ててもらうという面もあるのではないか。
芝居は無報酬でもしたがる人の多い遊び(芸術)なのである。
演劇は作者も役者もスタッフもお客もみんなが楽しめる。
いまのバイト先は社員さんがパートをどこに振るか決める。
これは座付作者が顔なじみの俳優に役を振るのとおなじである。
ここには書けないこともふくめて、いまの職場は演劇的でおもしろいよなあ。
とはいえ、資本主義の最前線の現場でもあり、
時給850円ほしさに労働者がしのぎを削っている場所でもある。
共産党シンパだった井上ひさしは、資本主義と社会主義を超えるものを知っていたと思う。
資本主義でも社会主義でも人間全員は救われないが、しかし――。

「笑いは共同作業です。落語やお笑いが変わらず人気があるのも、
結局、人が外側で笑いを作って、みんなで分け合っているからなのです。
その間だけは、つらさとか悲しみというのは消えてしまいます。
苦しいときに誰かがダジャレを言うと、なんだか元気になれて、
ピンチに陥(おちい)った人たちが救われる場合もあります。
笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、
僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、
人が行く悲しい運命を忘れさせるような、その瞬間だけでも抵抗できるような
いい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。
人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、
一番人間らしい仕事だと僕は思うのです」(P92)


まったく本当にそうだよなあ、とおセンチにもなみだを浮かべながら同意してしまう。
資本主義や社会主義を超えるものは、みんなで作る笑いなのかもしれない。
わたしなんかも過疎ブログで、だれかを笑わせたい、
笑わせたいと思って文章を書いているところがある。
あるところである人がわたしの顔を見て大笑いしてくれたときは嬉しかったなあ。
しばらくしてなみだが込みあげてきたくらいである。
読者さまはわたしがなにを書いているんだかわからないでしょう。ごめんなさい。
とにかく笑いは重要ってこと。
どんなに辛い状況にいても、人間は笑いでその苦境に抵抗することができる。
そしてひとりでも笑えるが、人間が複数で作る笑いはもっとすばらしいということ。
西洋哲学書を読んでもあんなところに救いはないけれど、
人間がふたり以上で作る笑いには救いがある。カントがなんだ、ニーチェがなんだ。

「大切なのは、自分が使いこなせる言葉でものを考えるということです。
生半可な外来語とか、意味をきちんと理解せずに討論をし、
ものを考えていくと、その言葉に合わせて、
いいかげんな理論構築や結論が生まれてしまうようになるのです。
それが一番危険だと思っています」(P102)


よりよくものを考えようと思ったら、自分の使いこなせる言葉を増やすしかないのである。
どうしたら使いこなせる言葉を増やすことができるかはみなさんご存じでしょう。

「パソコンで探せる情報というのは、すごいものがたくさんあるらしいのですが、
まだ本で蓄積されているものの方が、ずいぶん多いのではないかと考えています。
確かにその場で探すのはとても早くて便利ですが、
ひとつ掘り下げるとなるとまだ本のほうがいい。
本とは、人類がたどり着いた最高の装置のひとつだと思います」(P113)


パソコンには答えはない。かといって、本にも答えは書いていない。
おそらく本を読んで使いこなせる言葉を増やし、
自分の言葉でものを考えたとき、そのときはじめて自分の答えが出てくるのだろう。

「母」(ゴーリキー作/グラゴーリン&リュビーモフ脚色構成/佐藤恭子訳/「現代世界演劇3詩的演劇」/白水社)

→いまはもう完全に忘れられたのがロシアの文豪ゴーリキーである。
この芝居はゴーリキーの長編小説「母」(とても長いらしい)を第三者が脚色、
および舞台化したもの。まだ社会主義が輝きを放っていた時代の作品である。
戯曲マニアの当方からしたら、あまりいいお芝居とは言えない。
しかし、胸を打つものがないわけでもなかった。
社会主義、共産主義を正当化する思想内容を持った、いわばプロパガンダ文学である。
プロレタリア演劇であり、プロパガンダ演劇。
そこに共感しちゃうってところがちょっとあった。
いろいろ追いつめられて差し迫って時給850円の底辺肉体労働者になったからだろう。
昨日はしんどい持ち場を振られたので、いまも腰、両肩、右ひじ、右手首が痛い。
底辺労働者はかくも身体的に苦しまなければならないのかということを
身をもって知っている(ええ、本当に知っているか?)のがこの記事の書き手である。
労働者ってなんで連帯しないのかって思う。
時給が安いとか仕事がきついとか不公平だとか不満を耳にすることがある。
だったら、みんなで連帯して上に抗議すればいいじゃないか。
我われパートがいっせいに働かなくなったら会社はつぶれるんだぞ。
これは本当にまったくの真実で、
みんなが意を決して仕事を放棄したらどこの会社も社会的信用を失い1日で終わりだ。
どうして底辺労働者って、みんなで連帯しないで、
その代わりに古株が威張って新人を威圧して、
そんなくだらないことで満足を得ているのだろう。
どうして労働者はお互いの悪口を言い合うだけで連帯して上に抗議しないのだろう。
わたしは左翼とか大嫌いだから(宣伝カーや宣伝マンが拡声器でうるさいから)、
そして連帯って群れることだし、群れるのは吐き気がするほどいやで、
まあいまさら左翼活動を賛美したり、そこに参加したりするつもりはまったくない。
基本的に自分さえよければいいんじゃね、っていうスタンスだし。
正しくは、そういうスタンスだったし。
しかし、いま「どん底」(ゴーリキー)の職場で底辺労働をしているうちに、
うっかり他人の気持になってしまい、
共産主義や社会主義の価値を遅ればせながら知ったとも言えるのかもしれない。
共産主義や社会主義はもう終わった思想である。
あんなものはあの世を頼む浄土信仰みたいなものだろう。
浄土(社会主義)が現実になったら逆に地獄になってしまうという。
いまわたしとおなじ職場で働いている人はスーパーラッキーとも言えなくもない。
社会主義と資本主義をどう乗り越えたらいいのかという最先端の実験場にいるのだから。
こういう実験ができるのは、インターネットが普及したせいである。
わたしは時給850円で働く底辺労働者だが、それでも本を読んで学ぶことを知っている。

「禁止された本を読んでいるんだよ。
おれたち労働者の生活の真実を書いた本なので発売禁止になった。
これはそっと秘密に印刷されてるんだよ。
この本がおれのところにあることが、もしばれたら、おれは牢屋にぶちこまれる。
ほんとうのことを知りたいと思ったために、牢屋にぶちこまれるんだ」(P294)


労働者というのはお互い搾取されている悲惨な身分なのにいがみあうのだ。
底辺労働世界でもどちらが上か下か、偉いか偉くないかで、変な抗争をしている。
おなじ底辺労働者がどうして仲良くできないのか。
なにゆえおなじ底辺を底辺が撃とうとするのか。
いまはもう忘れ去られた社会主義思想は人間愛に根っこがあったのだろう。

「おまえも人間、おれも人間。
おまえ、今日はそんな軍服着ているが、明日にも平服に戻るかもしれねえ。
仕事捜しがはじまる。食わなきゃならんからな。
仕事もねえ、食う物もねえ。
そんなとき、こんなにして、おまえを……撃ってもいいか?
腹すかした人間だからってんで、おまえを殺してもいいか!」(P332)


いま我われ労働者がやっていることである。
経営者は社員の血や汗を一滴でも多く低賃金で搾り取ろうとして、
社員は非正規雇用の奴隷パートをいかに酷使するかを日々考えていると言えなくもない。
そういう解釈もできるが、そうではないかもしれないし、そうなのかもしれない。
労働者というのはいったいなんなのだろう。
労働者同士で会話しているときは、上に逆らおうだの、連帯しようだのと言う。
しかし、一見群れているようでも、じつはちっとも仲のよくないのが労働者である。
労働者の流す汗や涙ほど尊いものはないのだ。
なぜなら、それがなかったら社会はまわらないのだから。
厳しい労働をさせられたら思考力を搾り取られ奴隷ロボットのようになる。
それでも上には逆らえないのが底辺労働者たちである。
さんざん自分たちの労働を誇り、
経営サイドの不満を言っていた使用人の群れは豹変するのである。
あれほど表面上は群れて労働者の権利を語っていたプロレタリアートも、
いざ社長がそばに来たら――。

「彼[社長]を見ると、あわてて帽子を脱いだり、おじぎをしたりする。
彼はそのおじぎに見向きもせず、歩いてくる。
群集しずまり、困惑し、狼狽(ろうばい)の笑顔を見せる。
小さな感嘆の声も上がる。
いたずらをしたあとで、困っている子供の後悔の調子がある」(P303)


このト書きがいちばんおもしろかった。
これは実体験だが、パート仲間で威張っている男女も(少数いるんですヨ!)
そばに社員が来たらペコペコご機嫌をうかがうのである(むろん、わたしもネ♪)。
パート先のいつもむすっとした不機嫌な顔をしている外国人女性もそう。
弱い立場だからそうしなければならないのはわかるが、
黄色い服(よく知らねえが偉いらしいぜ)を着た人が来るとすぐにニコニコしはじめる。
おなじパートたるわたしと接するときとまるで態度が異なる労働者がいる。
その社員さんだって、会社の上の人が来ると動揺してオロオロする。
きっとその上の人だって経営者のまえに立ったらオドオドするのだろう。
経営者(資本家)が最強かと言ったらいまはそうではなく、
マスコミに不正を嗅ぎつけられたら終わりである。
で、そのマスコミ(新聞、雑誌、テレビ)を支持しているのが
我われ(あ、わたしはマスコミ嫌いです)労働者という、このどうしようもない状況。

労働は人間を競争状態、敵対関係に追い込む悪と言えなくもない。
また労働は孤独な人間を結びつける善でもあるのだが。
社会主義とは、私有財産の否定である。

「私有財産は、人の間に分け隔てをつくり、お互いを敵同士にし、
利益のために不倶戴天(ふぐたいてん)の敵対関係を生み、
そうして人間を嘘と欺瞞(ぎまん)と悪意で堕落させるものです。
人間のことを、財産をふやすための道具としかみない社会
――そんな社会は非人間的と言わねばなりません。
わたしたちの敵です。そんな社会が主張する欺瞞、嘘偽りの道徳など、
わたしたちが受け入れないのも当然でしょう」(P334)


あいつばかり金を儲けやがって。あいつばかり楽をするのはおかしい。
労働は人間同士を敵対させる面がある(結びつけもするけれども)。
資本主義世界では、だれかが得をするとかならずだれかが損をするのである。
だれかが稼いだら、かならずだれかが貧窮化する。
パートなどしなくても食っていける古株おばさん主婦が威張ってたくさん稼ぎ、
このバイトを失ったら食い詰めてしまう男性労働者が早く帰れと言われる。
これはおかしいけれど、世界も社会も人間もむかしからそんなものなのだろう。
無力、無力、無力。どうしようもない。ただひとつ、できることがあるとすれば――。

「いまなにが必要かっていえば、おまえさん、大衆が騒ぎだすことなんだよ!
そう! めいめい考えちゃいるんだよ、心んなかではね。
でもね、声に出して言いはじめなくちゃいけない……
だれかが、まず決心することだ……」(P328)


しかし、わたしは大衆とやらを信じることができない。
大衆とかいう多数派連中が支持している朝日新聞が嫌いだからである。
朝日の記者にはいい人もいるのだろうが、大衆を操作しようとする新聞が嫌いだ。
これはわたしが「みんな」よりも「自分」をたいせつに思っているからかもしれない。
大衆とやらはみんな自分のことがいちばんなのに、
さも「自分」だけは「みんな」のことを考えているというポーズを取りたがる。
吐き気がするぜ。そんな自分にもみんなにも。
戯曲の読書感想文でなにを書いているのかって話だけれど。

「どん底」(ゴーリキイ/神西清訳/角川文庫) *再読

→12年ぶりにロシアの有名近代劇を再読してみた。
むかしはいいと思ったけれど、いま読んだらまとまりがなく、それほどでもない。
いま主観的には断じて「どん底」ではないけれど、
客観的にはだれもが「どん底」と思うのではないかという職場で働いている。
本の仕分けをする時給850円のアルバイトだ。
昨日はさあ、久しぶりにライン(流れ作業)で死ぬほどきつい持ち場を振られた。
大げさなのだろうが、死ぬかもって思うくらい重い本ばかり連続して出た。
この書籍ピッキングは非常に持ち場によって重い軽いが異なり不平等である。
まるで人生のようなものなので、まえまえからおもしろいと思っていた。
人生でも振られる持ち場によって重い軽いが明確にあり不公平極まりない。
で、昨日は重いところを振られて上を恨んでいるとかそういう話じゃなくて(ほんと?)、
MさんもNさんも早く帰されていたし、たまにはきつい持ち場もいいのだが、
気づいたのはあんがいしんどい間口のほうが演戯する余地があるってこと。
これは昨日5ライン上流にいた人しか知らないことだけれど、
わたしはめちゃくちゃなピッキングをしていたでしょう?
わざとゆっくりやったり、異常なほど高速でしたり、ふらふらしたり、荒れたり。
あれは自意識過剰な演戯なわけで、
書籍ピッキングのみならず人生でも持ち場は代えられないけれど、
決められたものをどう行なうかの自由があることを
横の(両隣とも)コミュ障作業員に伝えたかったってことがある。
まあ、あとづけの説明で、いまから言えばの話なんだけれど。

いま肩も腰も手首も痛いし、昨日の疲労のせいであたまがよく働かない。
「どん底」で働くとこうなるんだなあ。
しかし、終わりがあるんだよね。
どんなにしんどい書籍ピッキングでも終わりがある。
芝居にも終わりがあるし、人生にも終わりがある。「どん底」にも終わりがある。
ロシア近代劇「どん底」の舞台は、底辺労働者が集う木賃宿(きちんやど/安宿)。
ここで「どん底」での配役を割り振られた役者どもがそれぞれの思いを口にする。
ゴーリキーにも青年時代に「どん底」労働体験があったから、
この芝居を書きたいと思ったのだろう。
もしかしたら一流会社のドライでクールな人間関係よりも、
「どん底」の職場の人間模様のほうが芝居にするにはふさわしいのかもしれない。
「どん底」の人びとは割り振られた配役の決められたセリフとしてこんなことを言う。

「……働くだと? じゃ一つ、愉快に働けるようにしてもらおうじゃないか。
すりゃおれだって、働くかもしれねえ……そうとも! 働くかもしれねえよ!
労働が快楽なら、人生は極楽だ! 労働が義務になったら、人生は地獄だ」(P24)


役者はかならずこのセリフを言わなければならないいわば宿命の奴隷だが、
しかし、このセリフをどのように言うかの自由はあるのである。
お気楽に言ってもいいし、いまにも死にそうな深刻な声色で言ってもいい。
「どん底」の人たちは死ぬまで低賃金で資本家から搾取されつづける。
しかし、救いがないわけではない。

「大丈夫! あの世に行けば、息がつけるさ! ……もう少しのしんぼうだよ」(P51)

「希望を持ちなさい。……というのは、つまり、死ねば楽になる……
この上もうなにもいらなくなる、だからちっとも心配はないわけさ!」(P58)


とはいえ、まだ若いうちはそうもいかない。若い男女はなかなかそう思えない。
底辺の「どん底」にいる薄幸な少女のナターシャは「待ってるわ」という。
いったいなにを待っているのか。

「(困って笑う)なんてことないけど。……まあたとえてみれば、ほら明日になったら
……誰かがやってくる……誰かしら……特別な人が……なんて思うのさ。
さもなきゃ、何かが起こる……今までになかったようなことが、って。
そうして、しょっちゅう待ってるの……もうずっと前からね。
……でもねえ……実際には――なんの待つことがあるのかねえ?」(P88)


現実は、きっと「どん底」の人はずっと「どん底」のまま。
なにも変わりはしないし、だれも来ないし、なにも起こらない。
「どん底」の人たちが「どん底」なのは、そういう役を振られたからである。
本人たちにはいっさいの責任がない。
しかし、「どん底」の人で妙な自己分析をする人もいる。
その人は役者という役名がついている。

「爺(じい)さん……おれは、もう破滅だ。……なぜ破滅したかって?
自信がなかったからさ。……おれはもうだめだ……」(P55)


この役者はべつの場面でこんなセリフを言う。いや、言わされる。

「ところで天才ってものは、自分を信じる、自分の力を信じるってことなんだ……」(P16)

「どん底」の木賃宿からある老人が去っていく。
わたしがいま勤めている極楽のような、
しかし「どん底」の職場からいつだれが去っていくのだろう。
もう去って行った人は何人もいる。それでいいのだと思う。
社員もみんなきっとそう思っている。
木賃宿の主人は「どん底」の宿泊客をどう思っているのか。
客のひとりから、おまえなんか嫌いだと言われて――。

「だが、おれの方じゃ、お前さんたちがみんな好きだ……おれはこう思ってる
――お前さんたちはみんな、不仕合せな、寄るべのねえ、落ちぶれた人たちだとな」(P20)


いや、「どん底」の人たちにもけっこう仕合せそうな人もいるのである。
そういう人は男性よりも女性のほうが極めて多いけれども。
いまの職場だって本業は主婦の人は、まあ遊びに来ているような感覚だろう。
ゴーリキーはおのれの「どん底」体験を劇作に生かした。
あくまでも「どん底」は本当のことではなく、芝居ゆえ嘘である。
なぜ劇作家は本当のことではなく嘘を書くのか。

「そりゃあね、嘘の方が……ほんとうよかおもしろいからよ」(P88)

「どん底」で働くわたしもおもしろい嘘を書きたいなあ、と思った。
繰り返すが、いまの職場は主観的にはまったく「どん底」ではない。
客観的にはそう見る人のほうが多いかもしれないけれど。

「理趣経」(中野義照・松長有慶編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→エロくてバイオレンスな密教経典。
秘密は決して知られることはない。
死ぬまで語らなかったことが秘密なのだから。
釈迦にも秘密があった。だが、それはだれも知らない。
なぜならそれを釈迦は語らなかったからである。
釈迦の秘密を見破ったやつがこの経典を創作したのだろう。

「慢心をおこしてあらゆる恐れを忘れ、
身体がのびのびすることも清浄な菩薩の位である」(P1165)


修業なんかしなてもよくて、怠けて自堕落にしていりゃいいんだよ。
というかね、本当はさ、人間、楽しかったらなにをしてもいいわけ。

「金剛手よ、だれかこの般若の教えを聞いて、それを受持し、読誦するならば、
その人があらゆる世界の生きものをのこらず殺害するようなことがあったとしても、
それによって罪を得て、地獄に落ちるようなことはない。
殺害するといっても、それは調伏して教化するためのものであるから、
かえってすみやかに無上なる完全な正覚を得ることになろう」(P1168)


死んだらみんな極楽浄土に往けるのなら、殺人はむしろ絶対善だよねって話。
あんがい秘密になっているけれど、人を殺すほどの快楽はないのかもしれない。
だれも秘密にしていてそれを語らなかったから秘密になっているけれど。
だれか秘密を話しても、だれもそれを信じなかったら秘密は守られるのである。
自分だけの秘密を持とう。その秘密が真実だ。
釈迦の秘密をどうしてか知ってしまった人が理趣経を書いたのだろう。
このお経に興味を持たれた方はぜひ参考記事をお読みください。

*「仏教聖典」全1185ページ読破したぜい♪ まっ、意味ないけどね。

(参考記事)
「理趣経」(金岡秀友訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「金剛頂経」(中野義照・松長有慶編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→これも密教経典である。秘密の教えってやつだな。
みんなが知らない秘密の真実ってやつを公開しちゃおう。おれ今日死ぬかもなあ。
書いてやる。いままで秘密にされていた真実はオームだ。オーム。
オームはどういう意味かって? それは自分で考えろよ。
まあいちばん適当な日本語は「絶対わからない」かもしれない。
だから、秘密の真実はオームなんだよ。
どうしてもなにもオームだからオームなんだよ。
オームはどういう意味かってそれがわかったら秘密の真実じゃなくなっちゃうだろ?
とにかくオームとしか言えないな。あとは自分で気づくしかない。
この世の真実はオームだ。

「そのとき一切如来の虚空界に集まった一切如来の身語心の金剛界という
絶対(金剛界の大日如来)が、
相対的な衆生の身語心のなかに入りこんだ」(P1162)


「絶対にこれは真実だ!」とあなたが心のなかで思ったことが絶対の真実である。

「大日経」(中野義照・松長有慶編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→大日経は密教の経典だが、密教とはインド古来の呪術のようなもの。
火をくぐってヘーンシン(変身)とか、もうそういうイメージでいいと思う。
正しくは本文の言葉を借りるならば、
「如来の身体と言葉と心の三種が、われわれ衆生の身体と言葉と心と、
本質的に平等であることを覚」ることになろう。
仏さまの真似をして仏さまになっちゃおうぜ、って感じかなあ。
こんなふざけたことを書いていると坊さんにぶん殴られてしまうかもしれない。
まじめなことを書くと、このお経で最高の真実が問題になっている。
「最高の真実はどこに求めるべきでしょうか」
この問いに如来(仏さま)はどう答えているか。

「秘密主よ、菩提(ぼだい)と最高の真実は、
みずからの心の中に求めるべきである」(P1153)


最高の真実はそれぞれがみずからの心の中に求めるべきである。
最高の真実は師匠に教わるものではなく、みずからの心の中に求めるべきである。
最高の真実はだれか他人に求めるものではなく、それぞれが心の中に求めるべきである。
それぞれがそれぞれの真実を心の中に有している。
大学院や新聞やテレビではなく、真実はそれぞれが心の中に求めたほうがよい。
ある人の心の中の真実とべつの人の心の中の真実が異なっても構わない。
みずからの心の中にすべてが入っているのかもしれない。

「秘密主よ、菩提(ぼだい)と最高の真実は、
みずからの心の中に求めるべきである」(P1153)


「解深密経」(野沢静証編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→解深密経(じじんみっきょう)は唯識思想をはじめて説いたとされる大乗仏典。
唯識(ゆいしき)というのは、世界はただこれ識(=心)のみという意味である。
考えてみたら、世界って心じゃねって話。わかるかなあ。
最近、意図的に想定読者レベルを下げているのだが(偉そうでゴメン)、
その理由は秘密。世界は心でしかないってわかりませんかねえ?
目で見て耳で聞いて鼻で嗅ぎ舌で味わい最後に心で思うわけでしょ?
世界というのはそれぞれの心にしかない、と言うこともできるわけ。
世界は心にあると言うか、心こそ世界であると言ったほうがいいのか。
酒飲みはわかるって思うけれど、酒を飲むと世界の見方が変わるよねえ。
陽気になったり陰気になったり。
あれは世界が変わっているのであり、心が変わっているのである。
みなさん、毎日つまらないおなじことの繰り返しのような生活をお送りでは?
でもさ、「世界=心」の奥底になにか不可思議なものがあったら、どんなにいいことか!
きっとないんだよ。なーんにもない。でもでもでも、あったらどんなに救われるか。
じゃあ、あることにしてしまえ。いや、あるんだよ。
「世界=心」の奥深く底のほうにアーダーナ識というものがある。
人間には理解することができないアーダーナ識というものが「世界=心」の深層にある。
それは仏さまのみが見ることのできる秘密の根底部である。
今日あまり人びとに知られていないアーダーナ識のことを書いてしまったから、
これから職場に行くけれど、なにかたまたまのように起こるかもしれない。
みなさまもアーダーナ識のことを知ってしまったから、
これをお読みになられた日にかならずや微妙な変化が生活に生じるはずである。
世尊は解深密経で「世界=心」の秘密であるアーダーナ識のことをポロリとお話になった。
ポロリである。聞き逃してはなりませんぞ。

「アーダーナ識は甚深であって、微細である。
一切の種子あるものであって、大河のごとし。
もしそれを我(が)であると分別すればよろしくない、ということで、
凡夫たちにはわたしをこれを説かないのである」(P1142)


「世界=心」にはだれも知らない秘密があるのである。
その秘密を知ってしまった今日の我われにいったいなにが起きるのか?
ドキドキじゃないか、エブリバディ♪

「勝鬘経」(山口益・小川一乗編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いったいなんのために仏典なんか読んでいるんだろうなあ。
先日バイト先でさ、TOEIC900オーバーのネパール人修士に、
暇なときは仏教の本を読んでいるって言ったら、
やさしい気持になるでしょうって言われた。
いやあ、やさしい気持にはぜんぜんなっていないけれど、そうとは言えなかった。
勝鬘経(しょうまんぎょう)はまえにも読んだことがあって、
そのときのブログ記事を読んだら驚きで、
今回引用しようと思っていたところをもうそこで抜き書きしているのね。
まあ、みなさんむかしの記事なんて読まないでしょうし、
読んだ人も忘れているでしょうし、なにより書いた当人が忘れていたのだから。
としたら、2年まえからまったく進歩していないのかなあ。
べつに人間は進歩しなくてもいいとは思っているけれどさ。
仏教を勉強してなんになるんだろう?
大学院にも寺院にも所属していないから意味ないよなあ。
でも、なんで意味のないことをしちゃいけないのかもわからない。
結局、自分を救うためなのかな。
でさ、救うってなにかを突き詰めて考えると、だますってことなんだよね。
他人を救うというのは、他人をうまくだますということ。
先生の本を読んで救われました、というのは、うまくだまされました、ということ。

勝鬘経は、まるで創価学会婦人部にいそうな、
勝鬘夫人というおばさんが釈迦に向かってギャアギャア自説をしゃべりまくるお経。
いちばん重要なのは、人間には如来蔵(にょらいぞう)がそなわっているという部分。
如来蔵とは、如来(仏)になるための種子(因)。
この如来蔵がよりどころになって人は生死輪廻している。
「している」って決めつけちゃったけれど、そう勝鬘経に書いてあるって話。
死んでもかならず生まれ変わってきて、
そういうことを延々と繰り返して少しずつ仏教に触れていくと、
いつかみんな仏になれますよ。なぜなら如来蔵があるから。
――とお経に書いてある。
これを信じる(これにだまされる)ことができたら死ぬのが怖くなくなるでしょう?
愛するものとの死別の悲しみも癒される。
現世でこれだけ縁があったんだから、また来世で再会できると信じられる。
如来蔵があるかどうかはわからない。
あることもないことも科学では永遠に証明できない。
信じるかどうか。だまされるかどうか。
わたしはけっこう信じているところがあるけれど、人には強制したくない。
前世も来世もない。人生1回きりだとがんばるのも悪くないのではないかと思う。
くだんのネパール修士さまは人生1回きりだから一生懸命勉強すると言っていた。
家は仏教らしいけれど。仕事中になにを話してんだって話だよな。反省。
またおなじところをべつの訳で抜き書きしておこう。
世尊は釈迦を尊敬した言い方ね。

「世尊、死というのも生というのも、それは世間の言い慣わしであり、
世間的なことでございます。
世尊、死というのは諸根[五官]の滅することであり、
生というのは新たな諸根の生まれることでございます。
ところが世尊、如来蔵には、生まれ、老い、死ぬということも、
死して生まれるということもございません。
世尊、如来蔵は常住不変であり、堅固であり、不動でございます」(P1123)


人生1回きりじゃないって思ったら、かなり気楽に生きられるんじゃないかなあ。
そんなこともないのかしら。
まあ、だんだん加齢とともにいろいろ落ちてきた感じがする。
落ち着いた、ではなく、いろいろなものが落ちていったという感じ。
過去の勝鬘経の感想を読み返した。
むかしは気張ってすごいがんばった文章を書いていたんだ。
こんなだれも読んでいないブログでバカだよねえ。

(参考記事)
「勝鬘経」(高崎直道訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「入楞伽経」(山口益編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→入楞伽経(にゅうりょうがきょう)は禅の仏典。
中国禅宗の開祖とされる達磨(だるま)が重んじた大乗仏典である。
学者が解説で難解すぎると投げ出しているものを、わたしごときがねえ、まあその。
わかったところは解説できますよ、ということで底の浅い紹介をする。
結局、世界はある個人の妄想分別でできているんだってことを悟れよってこと。
世界は我われの心が言葉で分別して、あげく妄想することで成立している。
それは被害妄想だとかよく言うけれど、世界はすべて妄想なんだよという。
世界はそれぞれの妄想で成り立っている。
多数派の共有している妄想(本当はそれぞれ異なる)が現実などと呼ばれている。
「うちの母親は悪い」というとき「悪い」というのは言葉による分別だよね。
あるがままの母親は善でも悪でもなくただそのものとして存在している。
(本当は存在しているかどうかも不明でそれさえ妄想かもしれないのだが)
「いい上司」の「いい」も言葉による分別だよね。
100万円があるとする。これを「高い」と思う人と「安い」と思う人がいる(いるの!)。
100万円は100万円でしょう。100万円は100万円にすぎない。
しかし、我われはこの100万円を
「高い」「安い」といった言葉による分別抜きに見ることがなかなかできない。
おなじように、ある人がいたとする。
だれもその人を「正しい」見方で評価することはできない。
「気難しそう」「やさしそう」「ずる賢そう」「守銭奴」「ガリガリ」
――すべて言葉による分別である。
言葉で分別した結果、我われは妄想する。
その妄想が周囲に受け入れられなくなると現代は精神病院に行かなければならない。
質のよい個性的な妄想をうまく言葉で表現できるものは作家や評論家になるだろう。

おそらく前提として、言葉も妄想もなにもない世界が想定されているのだと思う。
絶対無でなおかつ絶対有の、なんにもないがすべてがある絶対世界。
100円、200円に血まなこになっている人にはわからないよねえ。
こういうことに思いをはせるためには、やはり精神的ゆとりのようなものがないとダメか。
すべてが言葉による分別で妄想だって言われても、
バイト先で毎日早く帰されて家賃が払えねえよってなったら、とてもとてもねえ。
大家に向かって、それは言葉による分別で妄想です、と教えさとしたら、
逆におまえ大丈夫かって警察を呼ばれかねないよなあ。
わたしだって言葉のうえでは「世界は言葉による分別にすぎず、
すべては妄想である」と理解していても、すぐ怒るような品性下劣さがあるし。
あたまでわかるのと身体全体でわかるのは違うということだろう。
それに言葉による分別を完全になくした人って、それは精神障害者じゃないかって話で。
言葉による分別をなくせって禅は言うけれども、
逆に語彙(ボキャブラリー)が豊かになると、
いまの自分の苦しみを適切に言葉で表現することができるようになり、
結果として精神科のご厄介にならずに済むという面もあって、
だから、なにがよくてなにが悪いのかよくわからないってことになるのではないかと。
トラウマみたいのも言葉による分別で妄想にすぎないんだけれど、
そう言われたってトラウマはどうにもならないし、
トラウマによって生かされているような人もいるだろうから、
それを取ってしまったら逆に危険になってしまうとも言えるわけで。
将来が不安といっても、それは「不安」という言葉による分別にすぎず、
このため不安という実体はなく、それは妄想なんだよ、
と言われて幾人が納得してくれるかどうか。
将来の不安のために株や健康食品に夢中になるのも本人にとっては生きがいで、
それを取ってしまったら、今度はなんのために生きるのか、
死んだらどうなるのかという、人間最大の不安に向き合わざるをえなくなるから、
適度に言葉で妄想分別しているのも決して悪いと言えなくもない。
いちおう入楞伽経はこういう「正しい」ことを言っておりますよ。

「楞伽(りょうが/スリランカ)の主よ、そなたは、
過去の如来応供正等覚者[偉い人]にわたしが問い、
それら如来たちが答えられたと言ったけれども、
楞伽の主よ、〝過去の”というこの語は妄想分別である。
同様に、過去であるとしているのも、そのように妄想分別しているのである。
同様に、未来も現在もそうである。
諸如来[仏さまたち]は、それの法性・真実性という点からいって妄想分別がなく、
一切の妄想分別という誤った形で表現された戯論を超出している。
それは形貌・色の自体が妄想分別せらるごとくではなく、
それとは異って、遍知・完成智に通達する楽のために、
無相を行ずる慧によって開顕せられるものである。
であるから、諸如来は智の体であり、智の身である。
妄想分別せられるのではない」(P1099)


そう言われても過去のムカついた体験は消えないし、
将来の不安は強まるばかりだし、
毎日生活のためにこんなにやりきれない思いをしている、
まさにこの思いはちっとも消えやしないじゃないかと言われたら、
それはもう仏典の限界というほかなく、
反対に毎日そのようにせわしなく生きているからこそ、
根源的な不安と対面せずに済んでいるのだと考えられたら、
それはそれでラッキーとも思えませんか? って思えないよなあ。

「涅槃経」(横超慧日編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→正式名称は大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)。
涅槃経には原始仏教経典のそれと大乗仏典としての涅槃経のふたつがある。
本書に収録されているのは大乗仏典のほうの涅槃経。
かなり成立時期が新しい(4C)後期大乗仏典である。
釈迦が死に際して語った内容ととされるが、
実際は没後600年近いときを経て創作されたものである。
内容は説話形式でおもしろいものが多いので逐次紹介したいと思う。
お経の内容を広めると功徳があるというが、そういう現世利益を目的とはしていない。

一般的に古いものは偉くて「正しい」とされることが多い。
あらゆる集団で古参や古株は上位に位置し新参は低位に甘んじなけれなならない。
知識のようなものも古いものほど「正しい」とされ、
いまでも「釈迦に還れ」などというおかしなことを言う人がいて、
にもかかわらずけっこうそういう意見が支持を得ているという現実がある。
しかし、考えてみたら釈迦の言葉が「正しい」根拠はどこにもない。
あるとすれば、ただ古いからという理由だけになろう。
古いから「正しい」というのはおかしいのではないかと考えたのが大乗仏教である。

後期大乗仏典の涅槃経では以下のような説明をして
おのれの「正しい」論拠としている。
醍醐(だいご/最上のヨーグルト)はどのようにして作られるか考えてみよう。
まず牛から乳をもらう。この乳から酪が作られ、酪から生酥は作られ、
生酥から熟酥が作られ、こういう過程を経て最後に熟酥から醍醐が作られるのだ。
仏教もこれとおなじ話で、最初は釈迦の説法から始まり、
その説法から小乗仏教が生まれ、小乗から大乗仏教が生まれ、
今度は大乗経のなかから般若波羅蜜が生まれ、
最後に生まれたのがこの涅槃経である。
ならば、この涅槃経は醍醐のような最上最妙の教えで、
これはいかなる病をも治す薬のようなものである。
なぜならあらゆる薬の効能をすべて内包した醍醐のような教えだからである。
これはなかなかよくできたおもしろい話だと思う。
結局、仏教の歴史というのは変転の繰り返しである。
なぜか釈迦の教えが日本にまで到達すると、
殺人OKの親鸞念仏になってしまうわけだが、まさにそれが仏教なのだろう。
この論理が「正しい」のであれば、
最先端の仏教とも言えなくもない創価学会が最勝なのか。
そうとも言えるし、そうでないとも言える。どういうことか。
創価学会もふくめて時間の許すかぎり各時代の仏教を学んで、
最終的にあなたやわたしというひとりの個人の内奥に生まれた信心こそ、
まさに醍醐のようなもっとも自分に合った仏教なのではないだろうか。
(以上1058ページ参照)

人は変わるのだから、そのときどきで信じる仏教が変わって当然なのだろう。
仏が説法していたとき、赤ん坊に乳を与えすぎた母が相談に来た。
このとき仏は無常(常なるものなし/相対)の教えを説き母を導いた。
この赤ん坊が大きくなったら飲む乳の量も増えるだろう。
このとき仏は以前と違った常住(絶対)の教えを説くが、そういうものである。
むかし人間釈迦は無常の教えを説き、それはそれで「正しい」のだが、
人の成長に合わせていまブッダは常住(久遠仏/永遠/絶対)の教えを説く。
(以上962ページ参照)

常住(永遠/絶対)の教えとは、どのようなものか。
月のようなものと考えてみたらどうだろうか。
たとえば満月は町にも村にも、山にも川にも、井戸にも池にも、
ビンにも釜にも、あらゆる場所にすがたを見せる。
人がどれだけ遠距離移動しようとも月はどこまでもつきそってくるように見える。
愚かな人は家で見た月と、この旅先で見る月は、はてまあおなじものかと疑う。
さらにいったい月はどのくらいの大きさかと迷う。
水たまりに映る月が「正しい」というものがいれば、
いや、月は車輪くらいの大きさだと主張するものもいる。
それは違うぞ、月というのははかり知れないほど大きいのだと言うものもいよう。
これらはみなおなじ月の光明を見ていながら、にもかかわらずこうした違いがある。
月の本体はひとつなのだが、人によってそれぞれの見方が変わるのである。
常住(永遠)の仏というのも、この月とおなじである。
常住の仏は人によって見せるすがたを変えるけれど、どれもおなじ仏なのだ。
このため仏はありとあらゆる言語を話すことができる。
聾唖(ろうあ)のもののまえには聾唖の仏が現われて法を説くのである。
(以上992ページ参照)

仏は人それぞれに異なる教えを説くのかもしれない。
仏の説く「正しい」真実の教えはこんなものだと考えてみたらどうだろう。
我われはもしかしたら本当は生まれつきの盲目なのではないか。
目が見えないため「乳の色はどのようなものかとたずねる」
「ウサギのように白い」と教えてもらう。
「では、乳は飛び跳ねるのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
「ウサギはどのような色か」とたずねる。
「餅(もち)のように白い」と教えてもらう。
「それでは乳の色は餅のように固いのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
「それでは餅の色はどのようなものか」とたずねる。
「雪のように白い」と教えてもらう。
「それでは餅は雪のように冷たいのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
いつまで経っても盲目の人(我われ)は乳の色がわからない。
けれども、しかし、なんとなくイメージできるものがあるはずである。
それはそれぞれ正しく、
にもかかわらずれっきとした乳の色(常住の真実)は存在しているのである。
(以上1056ページ参照)

涅槃経はかなり暴力的なことも書かれているのである。
仏僧が説法しているときに、それを盗聴している反対勢力の少年がいたそうである。
少年を発見したある力士は怒りのあまり殺してしまったという。
これは「正しい」行為かどうか。
仏はまだ年端もいかない少年の殺人をどうごまかすかといえば、
あれはまぼろしの少年で実在はしていなかったとうそぶくのである。
そのうえで自分は反対勢力のものもわが子に接するような愛情を示すと説く。
しかし、自分の滅後(死んだあと)はべつであると仏は涅槃経で説いている。

「私の滅後に、威儀ととのって正法を護(まも)ろうとする持戒の
比丘(びく/男性出家者)があったならば、
もしも彼が法を破る者あるを見つけたとき、どこにいても彼はそれを追い出し、
訶責(かしゃく)し、懲治(ちょうじ)することができるであろう。
この人はこれによってはかり知れぬ福を得ることになるのである」(P953)


仏敵を打ち負かせたら現世利益があると仏が言っているのである。
在俗の信者は武器を取れ、とも仏は言っている。
正法を護るためならば在俗の男も女も武器を持ってよい。
本物の信者ならばどんな武器を持ってもいいから仏僧を守護せよ。
静かな悟りの人だった釈迦が涅槃経で仏になると過激な発言をする。

「国王、大臣、長者[金持]、優婆塞[在家信者]らが、
護法のために刀杖[武器]を持っても、私はそれを持戒だという。
刀杖を持ちながら命を断つごとき殺害を行なわぬならば、
そのようにあり得る者は、これを最高の持戒と言ってよいのである」(P959)


武器を持ってるときに敵が襲いかかってきたら使わずにはいられないだろう?
涅槃の仏は、このとき人を殺しても、
それは護法のためだからいいと言う直前にいる。
言っていないが、武器を取れと言った以上、言っているも同然である。
仏教は平和主義のような思い込みを持った人が多いと思うが、
敵を倒せ、武器を取れと仏は言っているのである。
キリスト教だけではなく仏教も戦争を起こすパワーがあるようだ。
そもそも徒党を組んだ時点で他のグループとは争わざるをえない宿命にある。

涅槃経は被害妄想が強い仏典でもある。仏は予言しているのだから。
自分の死後、この涅槃経は広く流布するが、
しかし、悪い層がめちゃくちゃな抜き書きや引用をして主意をたがえるだろう。
(わ、わ、わたしのことですか?)
とはいえ、大丈夫と仏は断言している。
ある女は利益のためにカルピスを水で薄めて売るだろう。
それを買ったべつの女も(なぜか男ではなく女)水で薄めて転売するだろう。
その女もまたカルピスに水を加えるだろう。
これを客へのご馳走として買い求めた客がいる。
味見してみたらちっともカルピスの味がしない。
煮沸したら、少しだけカルピスのような味がしなくもない。
これでも塩水を出すよりははるかにましである。
このように涅槃経もこれからさんざん水で薄められることだろうが、憂(うれ)うなかれ。
このもっともすぐれた教えである涅槃経の醍醐味は、
あのカルピスのたとえのようにかならず継承されるだろう。
(以上1008ページ参照)

ユーモラスなエピソードも掲載されている。
原始仏教には笑いがないけれど、大乗仏教には妙なユーモアがあるような気がする。
仏があるとき在家信者から質問されたという。
金銭を用いないで多額の寄付をした施主だという評判を得るためにはどうしたらいいか。
そんなことはかんたんだ、と仏は答えたという。
娼婦(売春婦)を仏僧に布施をしたら受け取られないからいいじゃないか。
酒や肉をたんまり布施するのも仏僧は受け取らないからおなじこと。
こういう手を使えば、身銭を切らずに名声だけ得ることが可能である。
(以上963ページ参照)

これは宗教評論家のひろさちや先生がよく使う持ちネタだが、原典は涅槃経だったのか。
あるきれいな美人さんが孤独な男性の家を訪問したという。
名前を聞くと美女の名は功徳大天で、自分は行く先々で財宝を与えてまわるという。
それはすばらしいと主人はすらりとした女性を歓待した。
しばらくして、ひどく貧相な成りをしたみすぼらしい女性が戸をたたく。
開けてみると醜女は黒闇と名乗り、行く先々で財宝を消滅させるというではないか。
帰ってくれというと醜い女性は、あなたはものを知らないと言う。
いまあなたの家にいるのは自分の姉で、姉妹はいつも一緒に行動している。
このため、あたしを追い出すのなら美しい姉もいなくなるが、それでもいいのか。
主人は家に入り美女にことの子細をたしかめると、たしかにそうだと言う。
美しい女が言うには、あたしを愛してくれるならば妹も愛していただかねばなりません。
あたしを尊敬するのなら妹も尊敬してほしいのです。
気が短い孤独な主人は、ふたりとも出ていけと姉妹を追い出してしまった。
姉妹は次に貧乏な男の家に行った。
男はきれいな姉が自分のことを思ってくれているなら、
姉妹ふたりとも愛そうと言ったという。
これは臨床心理学者の河合隼雄の言う「ふたつよいことさてないものよ」であろう。
プラスにはかならずといってよいほどマイナスがついてくる。
マイナスもよく見るとプラスのようなものがひそんでいる。
仏がどうしてこのたとえ話を弟子の迦葉(かしょう)にしたかは以下である。

「迦葉よ、世間の人々は誤った見方に心が覆われているので、
生まれることは好ましいとして、それに貪着し、老や死を厭い嫌う。
迦葉よ、菩薩はそうではない。
最初の生の中に、早くも過患がひそんでいるのを見出しているのである」(P1042)


ほかにも涅槃経には意味深なエピソードがある。
これは哲学上「カルネアデスの板」と呼ばれる問題である。
ある人が浮き袋を持って大海を渡っていたとき、
海中に羅刹(らせつ/鬼)がいて、浮き袋がほしいと言ってくる。
渡したら自分が溺れ死んでしまうのである。
「羅刹よ、たとえ殺されても、この浮き袋は渡さないぞ」と答える。
羅刹は半分でもいいから、1/3でもいいからと哀願してくるが拒絶したという。
「この大海はいつまで続くかわからないから、
少しでも与えてしまったら途中で空気が抜けて溺れ死ぬから、それはできない相談だ」
こういう態度をみなさんはどう思いますか? 仏はどう解釈すると思いますか?
仏はそれでいいと羅刹を見殺しにした人を肯定するのである。
なぜかというと菩薩にとって禁戒をまもるのはおなじだからという理屈である。
羅刹は煩悩のようなもので、少しならいいだろうと戒を破ることを求めてくる。
しかし、少しでも戒を破ってはならない。
このような意味で羅刹を見殺しにして自分だけ生き残った人は偉いと仏は言っている。
この仏教説話はいろいろなことを考えさせられる意味深なものだと思う。
(以上1028ページ参照)

さて羅刹を見殺しにするのではなく、自分のほうを殺す説話も涅槃経にはある。
有名な雪山童子の話で、
以前にブログに詳細を書いたことがあるので()かんたんに紹介する。
雪山に真剣に仏法を求める童子がいた。
そこにやさしい声が聞こえてきた。
「諸行は無常であり、生滅するものである」
これこそ真理だと思った童子は続きを聞かせてもらいたくて声のほうに行く。
するとそこには腹を空かせた飢えた羅刹がいるではないか。
童子が続きを教えてくださいと頼んだら、おまえを食わせてくれるならいいという。
童子は了承する。そこで羅刹が教えてくれた真理は――。
「生滅を滅し已って、寂滅になった時が楽である」
童子は真理を岩や木に書き残すと、高い木によじ登り、そこから飛び降りて死んだという。
この童子こそ釈迦の過去世のすがたである。
真理というのは、もしかしたら死ぬのが最高であるということかもしれない。
(以上1062ページ参照)

あるいはみなが憂(うれ)い恐れる死こそ最上の恵みではなかろうか。
死こそ苦に満ちた生における最大の楽ではあるまいか。
涅槃経では仏が死ぬまえにこう言ったことになっている。

「欲望はみな無常なり。それゆえ私は貪着せぬ。
欲を離れて善く思惟(しゆい)すれば、そこで真(まこと)がさとられる。
完全に迷いを断ちきった者、その私は今日涅槃に入る。
私は迷いの岸を渡って、もはや苦しみをのりこえた。
さればこそ今日私は、上妙の楽しみばかりを受けられる」(P950)


「金光明経」(山口益・小川一乗編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→これも全訳ではなく抄訳(部分訳)だが、むしろそれでいい。
マイナーな仏典の全訳なんていちいち読んでいたら寿命が尽きてしまう。
これは懺悔品(さんげほん)と呼ばれるところだけを訳したものらしい。
なーんかよく知らねえ菩薩が出てきてさ、これまでの旧悪を懺悔(ざんげ)するわけよ。
で、これからは善業(いいこと)をするから仏にしてくださいと哀願している。
ここで非常識なわたしは、ものすごーくヤバいことに気づいてしまったのだ~よ。
おさらいをすると小乗仏教は仏の教え(おれルール)。
大乗仏教は仏になるための教え。人間でも仏になれるとしたのが大乗仏教。
さてさて、だ~よ。バーンと言っちゃうよ。
いまふとおっさんは思っちゃったのだが、どうしてみんな仏になりたがるんだろう?
わたしは仏になりたいかって自問してみたら、うーん、べつにとしか。
キリスト教の信者さんは、神になりたいとか思わないわけだよね。
どうして仏教の人たちは仏になんかなりたがるんだろうか。
仏になりたいとか、そういう欲望自体が邪悪な煩悩(ぼんのう)なんじゃないか?
だって、考えてみてくださいよ。
成功者になりたいと仏になりたいって、どこかおなじ俗臭がプンプンしませんか?
仏になりたいって、おまえなにさまだよって話とも言えなくはないわけで。
仏になりたいとか考えているやつって、もしかしたらいちばん嫌いかもしれない。
仏志願の無名の菩薩がこんなことを懺悔している。

「身業の三種と、口業の四種と、意業の三種との十種の悪業のすべてを、
わたくしはいま懺悔いたします。
わたくしは、まさに自から苦報を受くべき罪業のすべてを、
諸々のみ仏の面前にて、いま誠心もって懺悔いたします」(P922)


なにこいつ善人ぶってるんだって思いませんか?
行為(身業)はまあともかく、悪口(口業)や邪念(意業)くらいはいいじゃん。
悪口って楽しいだろう? いない人の悪口とか最高だよねえ。
あたまのなかでくらい悪いことを考えたって、そのくらい自由だろう?
いわゆる善人ってこちらが思っているよりも生きるのが辛いのかなあ。
ちくいち悪いことを考えたら反省したりしているんだろうか。
でもさ、懺悔するってなんか「許して」って思いがありそうで、そこが甘い。
いったい悪を嫌い、善を求める人間の気持ってなんなのだろう。
悪いことをしたと後悔し、善行をなしたいと思う人ってなに?
それは人から善人って思われたいってだけじゃないのかと思ってしまう。
それにさ、あまり大きな声では言えないけれど善人ってつまらないよね。
善人って小さな悪もしない代わりに小さな善しかしない小物のような気がする。
悪人のほうがたしかに悪もするけれど、
思い切った大きな善をするのはこちらではないだろうか。
うだつの上がらないサラリーマンとか、仏さまのような顔をしていそうじゃん。
仏になりたいって、なんかもっとも卑賤で邪悪な煩悩のような気がする。
ある菩薩が仏になりたいって仏に泣きついている。

「願わくは、わたくしをして、これらの善業によって、
未来世に仏と成さしめて下さい。
群生を利益せんがために正法を説かしめて下さい。
有情の苦しみをことごとく解脱せしめるようにして下さい。
諸魔を降伏せしめるようにして下さい。
無上の法輪を転じしめるようにして下さい。
不可思議の永きにわたって有情利益のために生死に住せしめ下さい」(P924)


要するにみんなのために役立ちたいという欲望の発露である。
しかしさ、その欲望って最低の煩悩じゃないかという気もしなくわないわけで。
みんなの役に立ちたいとか、なーんかうさんくさくねえか。
敵を倒したいとかこっそり言っているのも自分を善だとか正義だとか思っていそうで怖い。
他人の苦しみって、どうにもならないことも多いよね。
こちらがあの人は大変そうだなと思ってる人が、けっこうお気楽に生きていて、
同情して助けようとしたから、かえって相手に自分の不幸を意識させちゃったりする。
むかしの虫けらのような貧農がだよ、「人生、そんなもんさ」とか思って、
うまくあきらめて生きていたのを、あなたたちの苦しみを救いたい、
とか仏モドキから真顔で言われたら逆にムカッとするというかさ。
なんでこんなにわたしはひねくれていて通俗的な善が嫌いなんだろう。
そして、どうしてみなさんがみなさん、そう善人ぶりたがるのかもわからない。
仏になりたいなんて善人ぶりっ子の極致とも言えるのではないか。
まあ、そういう善人たちに支えられて生きているという自覚が薄いのは、
当方がまだまだ未熟だからかもしれない。

「無量寿経」(幡谷明編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いったいだれが仏国土なんて考えついたんだろうなあ。
仏さまの国のことである。
この世の民の救いようのなさに完全にあきらめきったものが、
この世ならぬあの世を創作したのだと思う。
この世で人は救われないけれど、仏さまの国で救われるからいいじゃないか。
これがいちばんわかりやすい無量寿経の説明である。
で、その無量寿経というのがどうしてできたかというと、
法蔵菩薩という人がすべての人を救いたいという願(目標)を立てて、
信じられないくらい長いあいだ修行したから。
結果、法蔵菩薩は西方浄土で阿弥陀仏という仏さまになった。
おかげで我われはこの世では救われないけれど、
死んだら阿弥陀仏の西方浄土へ往きそこで救われることができる。
――とお経では釈迦が説いたことになっている。

だれがどう考えたって釈迦がこんな教えを説いたはずがないっしょ?
そこらへんのところを当時大谷大学教授だった幡谷明氏は、
どうごまかしているのかというと。

「およそ、人間の相対有限な思想や言葉を超えた真実の宗教的世界を
リアルに表そうとする場合、それは神話的象徴的な形をとらざるを得ないことは、
多くの人々によって承認せられているところである。
無量寿経に説かれた、この法蔵説話も、釈迦牟尼仏陀の深い瞑想の中に、
始めて見出され得た宗教的世界を表わすものに他ならない」(P847)


おおお、あくまでも釈迦が説いたことにしてしまっているのである。
大谷大学は浄土真宗系の大学だから、そうしないと困るのはわかるが、
そこに真実を求めるような学究的な真摯さはないのだろうか。
やっぱり真宗の門徒さんたちって、
釈迦が浄土の教えを説いたとか本気で思っているわけ?
わたしは前世も来世も、浄土らしきものも存在するような気がしているけれど、
その根拠は考えてみたら釈迦が説いたからというものではない。
実感として、そういうのがないとおかしいように思うからである。
やべえな。教祖さまみたいのに近づいているのかしら、おえっ。
この場合、弟子ができたら尊師で、できなかったら狂人になってしまう。
くわばら、くわばら。
あんまり仏典なんかに首を突っ込まないほうがいいのかどうか。
変なオーラが出ているのか、バイト先でもみんなに怖がられているような気がして、
自分でもどうにかしなくちゃいけないと思っているのだが、自意識過剰かも。
だれも興味なんてないでしょうが、
このお経の詳しい説明は過去にしているので、どうかよろしく。

(参考記事)
「大無量寿経」(早島鏡正訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「法華経」(横超慧日編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いまさっき気づいたのだが、法華経は考えるなって言っているんだよなあ。
たしかにそうで人間はいろいろ考えるから不安になったり、うつになったりするんだ。
朝から晩まで働いてメシを食ってテレビを見て寝る。
これを毎日繰り返しているのがいちばん健康的な生活なのかもしれない。
しかし、我われは考えてしまう。もっと収入の多い仕事があるんじゃないか。
もてないのはどうしてなんだろう? 婚活を始めたほうがいいかしら。
老後の貯金はいくらあっても足りないっていうし、いったいどうしよう。
人間にとっていちばんよくないのは不安だけれど、不安は考えることから生じる。
考えるとは、疑うことである。本当はそうではないのではないかと。
毎日テレビを見ながら、なにも疑わずに働いて結婚して子育てして死ぬ。
それでいいんだよね、結局。考えちゃいけない。疑っちゃいけない。
だって、法華経にそう書いてあるもん。

「汝(なんじ)ら智あるものは、これ[法華経の教え]を疑ってはならぬ。
疑いはあとかたもなくすて去れよ。仏の言葉に偽りはない。
医師が狂ったわが子を治さんため、巧みな方便をもって、
実には生きていながら口には死んだといったとしても、
それを虚言(うそ)いつわりとは言えぬであろう」(P838)


いやあ、それはウソっしょ。ついていいウソでもウソはウソ。
説明すると、医者の子どもたちが狂っちゃったんだ。
治す薬があるんだけれど、子どもたちは服用しようとしない。
このため医師は一時的に外国に行って、自分は死んだという手紙を送った。
そうしたらそのショックで一瞬正気に戻った子どもたちが
父からもらった薬をのんでよくなりましたとさ。これは間違いなくウソである。
法華経の仏はすげえって言葉しか出てこんよ。
おれの言うことを疑うなよと言った舌の根も乾かぬうちに、
自分がウソをついたエピソードを披露するのだから、おまえヤバいって。
むかしからいわれていることらしいけれども法華経の教えというのもよくわからない。
一般的には諸法実相(しょほうじっそう)とされている。
これは唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)だから、仏と仏のみ知ること、つまりわからない。
また諸法実相は十如是(じゅうにょぜ)ともされているから、
これはまあ、宗教評論家のひろさちや先生の受け売りだけれど、あるがままでいい。
だとしたら法華経を信じるってあるがままの「わからない」を疑うなってことになっちゃう。
あるがままの「わからない」を疑うな。
あるがままの「わからない」を信じよ。
ああん、いったいこれから人生どうなっちゃうんだろうなあ。
いかん、いかん、将来どうなるかなんて絶対にわからないんだから、
あるがままの「わからない」を信じることにしよう。

(関連記事)
「法華経」(紀野一義訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「華厳経 浄行品」(長谷岡一也編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いままで小乗仏教批判ばかりしてきたけれど、出家者にもいいところはある。
出家者はあるかないかわからない悟りを目指して修行しているわけだ。
少なくとも自分のあたまで考えようという姿勢は捨てていない。
しかし、在家の信徒というのは情けないところがある。
とくに新興宗教の末端信者なんかそうでしょ?
まったく自分のあたまで考えることなく機関紙や教祖の言うことを妄信している。
それは批判対象だが、しかし、そういうのがいちばん楽な生き方でもある。
なにも自分のあたまで考えることなく、
言われたとおりに行動するのがもしかしたらいちばん楽な生き方かもしれない。
このお経でも身分の低い智首菩薩が有名な文殊菩薩に質問している。

「どうすれば、一切衆生の依るべとなり、
燈(ともしび)となり、光明となり、導き手となるでしょうか。
どうすれば、菩薩は一切衆生の中で比類のないすぐれた者となるのでしょうか」(P762)


甘い、甘い、甘い! おまえごときが導き手になりたい?
そんな自分のあたまで考えられないやつが民衆を導いていけるものか。
そのくせイチバンになりたいなど、そのふざけた野心をまずなんとかしろ。
しかし、文殊菩薩は手とり足とりマニュアルをこいつに教えてやるのである。
むかしから教祖タイプと弟子タイプにわかれたのだろう。
教祖タイプは自分のあたまで考える人間で、弟子タイプはマニュアル愛好者である。
美人を見たときはどうしたらいいか?
ブスを見たときはどうしたらいいか?
そんなことまでいちいち書いてある。少しは自分で考えろって。
とはいえ、自分で考えるのって難しいことはたしかである。
とくに集団行動の際は自分のあたまで考えると自分勝手と非難されてしまう。
どうしても世間の通俗的価値観(いまだけ通じる価値観)を意識してしまい、
たとえば異常なほど女性を優先したりする行動を取る人も少なくないだろう。

「どうすれば?」というのは古今愚かな民が発してきた最多の問いなのではないか。
「どうすればいいか?」「どうすれば◯◯になるか?」「どうすれば××にならないか?」
答えがどこまでも「わからない」ことを知ったものは自分のあたまで考え始める。
答えをだれか人に求めるものが教祖や占い師、コーチのカモになるのだろう。
さて、美人を見たときはどうしたらいいか?
わたしは、けっ、いままでいい思いをしてきたんだろうなと舌打ちする。
ブスを見たときは、まあ「蓼(たで)食う虫も好き好き」だから安心しなと思う。
お経によると「正しい」答えは――。

「みめうるわしき人を見れば、衆生が、人間は本来、不浄なものであると知って、
諸々の仏や菩薩を敬うように、と願わなければならない。
みにくい人を見るときは、衆生が、悪を遠ざけ、
善をもって自分(みずから)を飾るように、と願わなければならない」(P772)


ブスを見たときの菩薩先生が取るべきとされる態度がすげえよな。
ブスは悪とか言っているみたいなもんだよ、これは。人権問題に発展しかねない。
いま(わたしも含めて)自分のあたまで考えられる人間って少ないよねえ。
毎日テレビを見、新聞を読み、病気になったら医者に行く。
自分のあたまで考えるというのは権威を疑うということなのかもしれない。
わたしのように釈迦は本当に偉かったのか、とか疑っちゃうと危ない人だけど。
まあ、大学教授や企業経営者くらいなら疑ってもいいんじゃないかなあ。
それから通念を疑ってみるのもおもしろいかもしれない。
時給850円の肉体労働はそれほどうんざりするものではなく、
ゲーム感覚でやればそこそこ悪くない時間つぶしの遊びではないか、とか。
……ちょっとマイナーすぎるネタでした。
金持は本当に幸福か? 長生きすればいいのか? 
役に立たないことはしちゃいけないのか?
まだまだいろいろ疑う(=自分のあたまで考える)余地は
世の中に残されているような気がする。
人間釈迦の権威を疑った不埒(ふらち)なやつらが
自分(たち)のあたまで考え創作したのが大乗仏典である。

(参考記事)
「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)


「華厳経 入法界品」(長谷岡一也編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→華厳経には「一即多 多即一」などおもしろい考え方が書かれているのだが、
本書における抄訳では取られていない。
興味のある向きは参考記事をご覧ください(だれも読まないよなあ)。
仏教って最初は我われとおなじ人間である釈迦の教えだったでしょ?
四諦(したい/苦しみを消す方法)とか十二因縁(苦の哲学)とか。
それが大乗仏教になるとお天道様(てんとさま/太陽)になっちゃうわけ。
お天道様が見てくれているから安心だよ、悪いことはできないね、という感覚。
身もふたもないことを言えば、人間の言葉にはそれほど力はないのかもしれない。
たとえば愛するわが子を亡くした親にかける言葉なんてないでしょう。
これはもう本当にかける言葉がない。
どんな言葉をかけても、「私の気持などわかるか」となってしまう。
意味不明の四諦や十二因縁を説くなど、火に油を注ぐようなもの。
じゃあ、周囲のものはなにをすればいいのかというと、なにもしなくていいのね。
かえって、なにもしないほうがいい。
弱みにつけこんで新興宗教に勧誘するなんていうのは人としての最低の行為。
子を亡くした傷心者にはなにもしなくていい。
本人が時間を経て回復するまで静かに見守ってあげたらいい。
しかし、これが難しい。ついついなにか手出しをしたくなってしまう。
どうしたら悲しみに暮れる人を気づかいながら、それでもなにもしないでいられるか。
お天道様(み仏)を信じることだと思う。
かならずお天道様(み仏)は見ていてくださるから、
いつか雪がとけるように悲しみで氷のようになった心も自然の色合いを取り戻すだろう。
これが大乗仏教の仏なのだが、わたしは小乗仏教の釈迦よりよほどいいと思う。
言葉による教えなんてめったに人を救わないのね。
もし悲嘆者を救うものがあれば太陽のような自然のちからとそれから時間である。
修行者の苦しみには四諦もいいのでしょうが、生活者の悲しみには役に立たない。
このため釈迦を超える大乗仏教の太陽のような不変の仏が考案されたのだろう。
今回は功徳など求めず謙虚に仏典から引用させていただく。

「日輪[太陽]が虚空にあって
すべての場処をへだてなく照らすように
み仏の智もまたそれに同じい。
三世を平等一味であると了知し、着するところなく、平等に照らしたもう。
たとえば、十五夜の
月は円満(まどか)にして、欠けることのないように
如来[み仏]もまたそれに同じい。
白法(清浄な法)で満ちたまえるを人は見る。
たとえば、空中を日輪が
運行して、しばらくも止まることのないように
如来もまたそれに同じい」(P691)


大空にまします日輪のような仏さまがかならずいらっしゃるから、
どんな悲しみにひたる人たちの氷のようになった心もいつかとけるだろう。
この太陽が夕方に落日となったとき、もっともその輝きは温かいものとなるので、
人は西方浄土の存在を確信し、阿弥陀仏信仰を始めたのであろう。
生活者の愛するものを亡くした悲嘆に修行はほとんど意味を持たないといってよい。
とはいえ、ほとんどだれもが人生で味わうのがこの悲しみであるといってよい。
いや、しかし、すべての血縁との関係を切って出家したものは、
この悲しみとは無縁であろう。小乗仏教の教えが
在俗の生活者に役に立たない理由はこんなところにもあるのではないか。

(参考記事)
「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「首楞厳三昧経」(横超慧日・福島光哉編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→首楞厳三昧経(しゅりょうごんざんまいきょう)。
マイナーかつ、とてもいかがわしいお経である。
サンスクリット語原典が断片しか遺っていないらしく、ならインチキくさい。
インチキくさいのがよくないのではなく、そこがまたカルト的で香ばしい。
内容は、弟子が釈迦に究極の悟りを教えてください、とかいういつものやつだな。
なーんか話が神通力(超能力)になっちゃうんだ。
たしかにアホな民衆を一発で勧誘する手口として超能力ほど効果的なものはない。
修業を積んでいくと神通力(超能力)が身にそなわるらしいんだ。
ここであまりにもオカルトすぎてついてこれなくなった人には、はい、ごめんなさい。
わたしは超能力とかないだろうけれど、あってほしいと思う人間だから。
(妄想だろうけれど)いきなり相手の考えていることがふっとわかる(誤解する)
ような超能力モドキのテレパシー体験もなくはなくて、
あるのかって聞かれたら、ありますとは言えないけれども、
この複雑な感じ、おわかりいただけますでしょうか?

大乗仏教というのは四諦や十二因縁を否定して空(くう)を持ち出したわけでしょう。
空(くう)から見たら善も悪もない。善人も悪人もいない。
よい会社も悪い会社もない。よい方法も悪い方法もない。
なにをしてもいい。なんだっていい。
しかし、生きているかぎり、はっきりと善や悪はあるわけでしょう?
いくら空(くう)だとはいえ、悪いことは悪い。
ここでひっくり返るのだが、善ってそんなにいいのだろうか?
ぶっちゃけ、善人ぶったやつほどうざいものはないよねえ。
いつも善人ぶって「正しい」ことを言いながら、
しっかり自分だけ儲けている人とかいるじゃん。
本当は勇気がなくて悪いことができないだけなのに、それを善人の証にしているような。
もしかしたら悪って善よりも美しいのではないか。
邪悪なものは善よりも光り輝いているのではないか。黒光りしているとでも言おうか。
そもそも正も邪も空(くう)の「正しい」見方からしたらないのである。
善はあるのか、悪はあるのか。
空(くう)からしたら善や悪は有(存在する)でも無(存在しない)でもない。

「もし有無相対の区別をしなければ、悪魔の束縛より解脱できる。
もし見解する所がなければ、これが正見である。
このような正見には正もなければ邪もない」(P663)


善も悪もない(なにをしてもいい)。正も邪もない(なんだっていい)。
このお経のなかで、
菩薩(ぼさつ)が悪魔の国に舞い降りるシーンがあって、そこが圧巻だ。
まるで新興宗教のようで生き生きとしていてとてもよい。
見目うるわしい菩薩が悪魔の国に舞い降りたら、この国の女たちはどうするのか。
それに対して、菩薩はどうするのか。
あるいはここに神通力(超能力)の源があるのではないか。法悦とはこのことではないか。

「そのとき、悪魔のうち二百人の天女たちは淫欲にかられ、
この菩薩の端正なすがたに愛着心をおこした。
そして「もしこの人がわたくしと一緒になってくだされば、
わたくしたちはみなこの人の教えに随いましょう」とくちぐちにいった。
そこでこの菩薩は、天女たちには救われるべき宿縁が備わっていることを知った。
そのとたんに、この菩薩と同じように端正な二百人の天子のすがたとなった。
また宝珠をちりばめて、魔宮よりも優れた二百の閣台を作った。
天女たちはみな、自分がこの宝台の上に載せられているのに気づいて、
「この菩薩と一緒に楽しもう」と思った。
彼女らは願いがかなうと淫欲は消え失せて、みな深い信心を生じ、菩薩を敬愛した。
菩薩は彼女らの求めに応じて説法をし、
天女たちは無上なる完全な菩提心をおこしたのである」(P665)


これって乱交とか集団セックスって呼ばれるものでしょう?
神聖なるお経にこんな性描写があるんだから、仏教世界は奥深い。
禁欲的なキリスト教世界とは毛色の異なる味わいがある。
きっとこれは「なんだっていい」から「なにをしてもいい」という、
善悪や正邪を超えたまさしく空(くう)の世界の出来事なのだろう。
なんだっていい。なにをしてもいい。

「悪魔界の真実と仏界の真実とは一つであり、区別はないのです。
わたくしたちはこの真実を離れてはいないのです。
悪魔の世界のすがたはそのまま仏の世界のすがたであり、
悪魔界の法と仏界の法とは一つであって区別はありません」(P669)


このお経に文殊菩薩が「死ぬ死ぬ詐欺」をしたことが書かれている。
ある世界に文殊菩薩が高僧としていって死んでみせる。
そこで民衆からのお布施が集まり、信仰も深まる。
しかし、文殊菩薩は本当には死んでいないのである。死んだふりをしているだけだ。
またべつの世界に文殊菩薩は現われ説法する。
人は死に際して深く心を動かされるものだから、文殊菩薩はここでも死んでみせる。
布施として宝玉がたんまり集まり、その地における信仰も深まった。
文殊菩薩はこういうことを繰り返しやったと首楞厳三昧経に書いてある。
文殊菩薩は智恵を象徴する菩薩であるとされる。
まったくずる賢いというか、新興宗教の基本であるお布施集めをじつにうまくやっている。
そうして貯めこんだ金で乱交パーティーを開催したのだから、
それほど悪いやつでもないのだろう。まあちょっと狂っているが、
あたまのいいやつはときに狂人のように思われるものだから致し方あるまい。
もし世界が空(くう)ならば善も悪もなく、
ならば「なんだっていい」「なにをしてもいい」――。

「サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている」(西内啓/マイナビ新書)

→読後、そんなことはない、そんなことはないと二度繰り返した。
ろくな社会人経験もないような若僧が東大卒ってだけで、
世の中なんでも「正しい」答えがあると思って書いたバカ本である。
いまみーんなどうしたらいいかわからないんだろうねえ。
生きる指針のようなものがない。
とりあえず金儲け、健康、長生き、これだけじゃない? ほかになにもないじゃない?
だから、愚かな民はこのような本に飛びつくのだろう。
どんなことをしたら役に立ち、金儲けや健康、長生きできるかばかり考えている。
まーた、例によって「投資しないと損をする」というウソを書き散らしている。
定期預金していたら、
投資していたときの利益分を損しているということになるという詭弁である。
そんなことはない、そんなことはない。
投資の勉強をするにも時間や金がかかるでしょう?
それを考えたら定期預金のほうがいいという選択肢のほうがかなり「正しい」と思う。
それに投資なんかしたら損をすることもあるんだから。
毎日、お金のことに一喜一憂する生活なんていやじゃん。
ひとつ、おもしろいと思ったのは人間の金銭感覚のまやかし。
7000円の靴が歩いて10分のべつの靴屋で6000円だったら我われは歩く。
しかし、98000円のパソコンがおなじように歩いて10分のべつの家電店で
97000円だとしても我われは歩かないことが多い。
おなじ千円なのに不思議だねって話。これだけが、ほほう、と思った話。
東大卒の若僧が偉そうに夫婦生活や子育ての学問的指南をするので、
こういう勝ち組は逢ったら手が出てしまいそうで、そんな自分が怖い。

「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」(木暮太一/星海社新書)

→これはもう本当にいい本で雇われ労働者は読んでみる価値があると思う。
今日、会社に持っていって事務所に置いておいたら、
社員さんたちみんなで回し読みをしてくれないかなあ。
あんまり大きな声では言えないけれど、パートはみんな疑っているんだよね。
午後の社員って事務所でくっちゃべってるだけじゃないかって(笑)。
わたしは絶対にそんなことはないと思っているけれど。
とはいえ、ある本を読んでもどこまで内容を理解できるかは人それぞれ。
読み込むパワー(体験、知識)に欠けていると本書の価値はわからないと思う。
いまの会社に1年パートとして雇っていただけたから、この本のよさがわかる。

バイト先で社員を見ていると、社員の気持になってしまうのである。
この人たちはなにを考えて生きているのかわからない。
というのも、自分に正社員経験がないから。
「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」――。
本書のキモはある問いである。
どうしていくら努力しても給料は上がらないのか?
パートだけではなく社員も給料は上がらないのかと驚いた。
著者は日本の会社ではがんばっても給料が上がらない仕組みを解説する。
答えは、日本の給与形式は成果主義ではなく必要経費方式だからである。
明日また会社に来て働いてもらうための必要経費として給与は支払われている。
このため、年齢が上がるとそのため必要経費(子どもの学費等)が増えるとみなされ、
「どうしてあのおじさんたちは働いていないのに高給なの?」
という疑問が若い社員のあいだに生まれるわけである。
年齢が高い社員は毎日の必要経費が高いから給料も高いのである。
会社として社員に求めているのは、明日もまた会社に来てくれること、その一点。
そのために給与は支払われていると考えたほうがよい。
会社に利益をもたらしたから、その分として給料が与えられているわけではない。
一般に給料が高いとされる職種は極めてストレスも高いため、
そのストレスを解消するための必要経費が高いから高給与なのである。
したがって高収入の仕事に就いてもあまり貯金は残らない。
東南アジアの日系企業現地採用の人の給与が激安なのは、
かの国での生活維持必要経費が極めて安いからである。
医者の給料が高いのはストレスが高いのもそうだが、
スキル習得費が高いがためである。
何回もおなじことを繰り返したほうが理解も深まると思うので、
著者の言葉を借りてみよう。

「わたしの昔の職場には、「あのオジサンたちはなんにも仕事をしていないのに、
自分たちよりも給料が高いのはおかしい」
というような不満を言う若手社員がいました。
でも、くり返し説明しているように、
給料は成果を出しているかで決まるわけではありません。
その「オジサンたち」の生活費が高く、
「明日も同じ仕事をするために必要な費用」が高いから、給料が高いだけなのです」(P84)


日本の会社員って理不尽な人生を味わっているんだなあ。
うちの会社はある程度まで残業代がつくらしいけれど、
サービス残業なんてやらされたら。
結局、企業が利益を上げるとしたら人件費を切り詰めるのがいちばん楽なのである。
原材料費を下げろと言っても、必要な機械を安くしろと言っても限界があるのだから。
人間を奴隷のように酷使すればするほど会社の利益が上がるのだけれど、
おっさんはそんな酷使されたら壊れてしまうので(うつ病→ドロップアウト)、
いまは若い社員が必要以上に奴隷あつかいされ、
おっさんが高給を取っているのだろう。

「企業にとっては、労働者が1日働き終えたあとにへとへとになっているのが
「好ましい状態」です。個別の企業で程度の差はあれ、
これは資本主義社会のなかでは必然の流れなのです」(P124)


これは言っちゃいけないガチンコ発言だよねえ。
労働者をへとへとに疲れさせたら彼は考えることができず、食べて寝て、
翌朝また出社してくるしかないのである。
現状への不満も気づかないほど労働者はへとへとにさせるのが好ましい。
新しい知識や技術なんて習得されたら困るって話になるわけだから。
わたしがバイト先できつい作業をいやがるのはへとへとになりたくないから。
メインは読書や映画鑑賞、その感想をここに書くことなので。
へとへとになったらあたまが働きませんよ。

おなじ仕事をしていても給料の高いところと低いところがあるじゃない?
あれは大企業だから給料が高いとかみんな思っているが、そうではない。
会社の利益が多く上がっているほど給料が高いとか、そんな連関性はない。
ではなぜ給料が低い会社があるのか。
これに対する回答が、なんていうか、それを言っちゃあおしめえよというか。
本当のことなんだけれど、虚を突かれた。

「会社の利益が少ないから、社員の給料も少ない」のは、
「給料が少なくても他社に転職しない社員がいるから」です。
利益が少ないといっても、「そんなことは関係ない。
自分たちは給料を高くしてもらわないと他に行くぞ」という社員ばかりであれば、
給料を上げざるをえません。
昇給ができない企業はそこで廃業するしかないでしょう」(P91)


わたしはいまの会社は利益が上がっているけれど、
社員の給料は少ないのではないかとにらんでいる。
あれだけコストダウンしてパートの入れ替わりが激しい(使い捨てともいう)会社だ。
絶対に利益は上がっていると思うのである。
パートの給料が上がらないのは、
まあ致し方ないが社員の給料は上げてやればいいいのに。
会社の上のほうが血縁でコネコネしていそうだから、そのへんが関係しているのかも。
よくわかりませんけれどね。
あの社員さんたちが決して高くなさそうな給料にもかかわらず、
いまの会社で働いているのは、
「自分たちは給料を高くしてもらわないと他に行くぞ」と言わないからなのか。
日本の会社ではいくら社員が努力して利益を上げても
給料の変わらないところが多いのか。ちょっぴりボーナスをもらうくらいで。

努力すればするほど労働者の価値は下がっていくというのはよくわかる。
うちの職場なんてひどい話で、「速くやれ、早く帰れ」の世界だから。
1分でも早く仕事を終わらせ、1分でも早く帰れって社員が言ってくるの。
がんばればがんばるほど給料が下がるという奴隷制かなんかですか? みたいな。
いやあ、読者さまはご存じないでしょうが、下のほうにはすごい世界もあるんですぞ。
これはもう努力するほど労働の価値が下がるの典型ね。ここまでの典型はない。
一般的な会社員の話に世界を広げると、
社員ってさ、みんなでみんなを洗脳しあうじゃない?
業績を上げよう、とか。これは優秀に見られたいという承認欲求のためなんだけれど。
みんなが業績を上げようと努力しちゃうでしょう?
サービス残業とか、家でまで仕事をするとか。
そうするとそれをやらない人が「使えない」とか言われちゃうわけ。
みんなが努力するから自分も努力しなければならず、
みんなが精一杯努力しているとだれかの努力が目立たなくなってしまう。
ラットレースとか、そんな表現を著者はしていたけれど。
ノルマとか決めて競争させるのが
経営者にとってはいちばんおいしい奴隷からの労働搾取方法なのだろう。
もっと上を目指そう、もっと速く。
よし、みんなの努力でこれができた。なら次はもっと上を目指そう、もっと速く。
これを命令しておいしい思いをするのは汗をかかないトップである。

では、どういう働き方をしたらいいのか。
著者の提示するのはふたつの働き方である。
1.楽しく働こう
2.「積み重ね」のある働き方をしよう。
まず1から説明する。
会社の利益はこうなっている。「売上-経費=利益」
これを個人に当てはめてみようと言うのである。
「仕事の満足感(楽しさ)-労力・疲弊度=自己内利益」
あんまり細かく書くとみなさんが考えなくなっちゃうから、まあストレスって話だよね。
ストレスが多い仕事はどんなに給料が高くても割に合わないってこと。
2の「積み重ね」とは、
働いているうちにどれだけ自分の知識や技術が蓄積されるか。
バイト先に本業が携帯ショップの販売員の人がいる。
携帯は毎年変わるから知識の「積み重ね」はできないんだよね。
接客技術は、まあ向上するかもしれないけれど。
著者は「労働力を投資する」という新しい考え方を持ち出している。

「自分の労働力を投資し、土台を作るために考えるべきことは、
「目先のキャッシュ」を追い求めないことです。
残業代、インセンティブなど、目の前に見える「ご褒美」につられてしまうと、
どうしても長期的な視点がないがしろになってしまいます。
自分の労働力が投資できる仕事とは、その経験が「将来の土台を作る仕事」です。
一方で、目先のキャッシュを追い求める仕事とは、
時給は高いが「将来に何も残らない仕事」です」(P241)


「労働力の投資」とは貯蓄ではないから、無駄になってしまうこともある。
株に投資した場合でも、価格がどんどん下がっていくこともある。

「労働力を投資するときも、まったく一緒です。
将来のためと思って行動しても、まったく役に立たず、
その日の労働が無駄になってしまうことも多いでしょう。
そのとき、「やっぱりあのとき、もっと日給が高い仕事を選んでおけばよかった」
と後悔するかもしれません。
でも、それで「労働力の投資」をやめてしまえば、
いつまで経っても土台はできません。
永遠に全力でジャンプし続ける働き方になってしまうのです」(P240)


もしかしたらいま自分は労働力を投資しているのかもしれない。
いまのバイト先はいろいろな人が働いているからおもしろいのである。
笑いのネタのようなものを取ってくるとヤッタゼエとか叫びたくなる。
あんまり上のほうの社会じゃないから、知らない発見があっていろいろおもしろい。
それに時給850円で働いたことのある人って少ないでしょ?
いろいろな人がいて本当におもしろいんだけれど、意外と知られていない。
正直、金銭的には見合っていないけれど、土台を作っていると考えたら。
それともこの労働力の投資は将来まったくの無駄になってしまうのか。ギャンブルっす。
成功者の著者は10年積み上げれば、
ひと角のものになるとか書いているけれど本当かなあ。
わたしなんか10年近く読書感想文を書いてきたけれど、なにか積み上がってますか?
評価してくれる人なんているのかしらねえ。

最後に偉ぶりたいから、著者の認識の過誤を指摘しておこう。
宝くじで1000万当たった。
1.今日、全額もらう。
2.毎年、100万ずつ10年かけてもらう。
著者は2のほうがいいと書いているが、わたしは1のほうがいいと思う。
なぜなら自分が死んでしまうリスクがある。
そのうえハイパーインフレの危険性がある。
ねえ、ぼくってあたまがいいでしょう(笑)。

では、これはどうか。
1.1年間死ぬ気でがんばって、向こう10年間、
毎年100万円の収入を生み出す資産を作り上げた。
2.1年間死ぬ気でがんばって、1000万稼いだ。
著者は1を選んだほうがいいと書いている。
ぼくはさあ、1も2もいやだな。死ぬ気でがんばりたくなんかない。
死ぬ気でがんばって結果うつ病になってしまったら、
どんなにお金があっても人生が楽しめなくなってしまうではありませんか。

最後にちょっと批判したのはご愛嬌。
しっかし、この成功者もおれより年下なんだよなあ。まいっちゃうぜ。
ともあれ、考えさせられるとてもいい本でございました。
みなさん、この長文感想を読んだら満腹で、もう買いたくなくなっちゃうね。

「阿閦仏国経」(桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→これもまた名前を聞いたこともないようなマイナーなお経である。
なんでもこのお経にめぐりあえた人は、さきの世で高い徳を積んだからだそうで、
このお経の内容を広めたものには広大な功徳があるらしい。
だまされたふりをして、このお経の内容を紹介してみたい。
みなさまもこの紹介記事を通して阿閦仏国経に触れられたのだから、
スーパーで半額食品をゲットできるくらいの功徳は得られるかもしれない。

阿閦仏(あしゅくぶつ)は東方妙喜世界におられる仏さまである。
対照的なのは西方浄土世界にいるという阿弥陀仏だろう。
この東西の仏の(お経のなかでの)発生時期の古さは
だいたいおなじくらいとされている。
阿弥陀仏信仰は栄えていったいっぽうで阿閦仏のほうはすたれていった。
いったいなにが勝敗をわけたのか。
こういうのを勝敗って言っていいのかわからないけれど。
阿閦仏も阿弥陀仏も一般人にはよくわからない世界なんだよねえ。
用語の確認をすると、仏になるまえの修行者のことを菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。
阿閦菩薩は、誓願を立てた、つまり目標を立てたんだ。
まあ、いい人間になりたいっていうか、仏さまになりたいから厳しい修業をするよって。
その結果として東方に阿閦仏の仏国土が開かれ、そこは妙喜世界と言われた。
イメージ的に理解できますか?
人間が誓願を立てて修行して、その結果、仏さまになって領地をもらうっていうの?
彼の仏国土を開き、そこで多くの人を救済するわけである。
結局、これはあれなんだよね。あれをごまかすためのテクニックっていうか。
厳しい修業とか本人にしか意味がなく、ほかの困っている人たちを救わないわけじゃない。
あいつら修業とか言ってるけれど、生産活動もしないでいい気なもんさ。
こういう批判をかわすために創作された物語ではないかと思う。
お坊さんが修行しているのは意味があって未来世で仏国土を開くためなんですよと。

ほかにも気さくなイメージで仏国土を説明することができる。
職場のひとりでも改心してさ、少し明るくなったら、笑顔の輪が広がるじゃんって話。
なにかに洗脳されたかのように「生産性は絶対正義」
とうわ言のようにつぶやいていた会社トップがさ、
「生産性も大事だけれど働いてくれる人も大事だな」とか、
ビジネスマンなら決していだいてはいけない仏心(ほとけごころ)が生まれたら、
職場の雰囲気も変わるわけで、それが仏国土とも言えなくはないわけ。
しかし、阿閦仏の仏国土である東方妙喜世界はすてきなところなんだ。
まず、みんな働かない。だから搾取されることはない。
以下は東方妙喜世界の説明の一部。

「人々はそれぞれが農・商などの業務に従事することなく、
その暮らしはみなしとしく快さとしずけさの中にある。
かの国の音楽は・歌謡は愛欲や恋情のしらべでなく、
それを聞いてほとけの法を受けるのである」(P632)


まったくいまの日本とは正反対だねえ。
いま経済界は若者に恋愛させようと必死でしょう?
マーケティングの偉い人が言っていたけれど、消費するのは女なんだってね。
男が稼いで女のために金を使い、結果として経済がよくなるというのが理想らしい。
というか、もう消費のくだらなさが男にはばれていて、
バカな女の欲望を刺激するしかない。
男は男のある欲望から、先に女の欲望を満たそうと働きアリのようにせっせと働く。
ではなく、働いてくれ。働いて女のために金を使ってくれ。
働け、働け、もっと働け! 使え、使え、湯水のごとく、じゃんじゃん金を使え!
景気がよくならないじゃないか。
べつに恋愛しないで家で本を読んでいてもいいと思うけれどね。
本はかならず新刊本屋で、そのうえ読まなくてもいいからたくさん買ってね。
結果としてうちの会社も少しうるおうから。
さて、仏典に話を戻すと、阿閦仏の東方妙喜世界には労働も恋愛もない。
それから名聞(修行者)たちは群れない。がんばらないけれど、怠けもしない。

「かの国の名聞たちは連れ立つ者のあることを願わず、
ひとり道を修行することを好む。
いちずにはげみ過ぎるような者もなければ、怠けおこたる者もいない」(P634)


修業(努力)はがんばりすぎず、そしてサボりすぎないで継続することが重要ってこと。
それから阿閦仏の東方妙喜世界はおかしなところなんだ。
自殺が流行っている。連鎖自殺の起こることがある。仏教で自殺は悪ではない。
欲望のなくなった状態を涅槃(ねはん)というけれど、それは死と限りなく近いわけ。
SMの世界はよく知らないけれど、
死を意識するときのエクスタシーってすごいんでしょ?
自殺というのは脳に最高の快感を得られる悟りの最高形態という可能性もありうる。
もちろん断定はしないけれど、
自殺にそういう見方もできなくはないと仏典に書いてある。
東方妙喜世界における自殺の様子を引用する。
般涅槃(はつねはん)とは入滅(にゅうめつ)すること、つまり死ぬこと。

「あるいは身から火を出して、みずから焼きつつ般涅槃したり、
身を隠したまま風の吹き去るように般涅槃するもあり、
あるいは空中を五色の雲が飛び、やがて消え去るように般涅槃するもあり、
あるいは身が雨のようになって空中にふりそそぎながら、
地上までは達せず、中途で消滅して般涅槃するもある。
これらはみな、阿閦ほとけが菩薩の行を修行しておられたとき、
その仏国の声聞たちが般涅槃するときは不思議なさまを示すべきであると
願(がん)を立てておられることによるのである」(P634)


焼身自殺をするのも、飛び降り自殺をするのも阿閦仏の思し召しってことか。
阿閦仏自身も、このお経の最後で焼身自殺をしているのだから意味深である。
「仏教では自殺を悪としている」なんて説く坊さんは不勉強なんだなあ。
さてさて、おいしいものはいちばん最後まで取っておいた。
この阿閦仏国経には大乗仏教とはなにか見たままにわかる重要な一文がある。
正直、若いお坊さんなんて釈迦と大乗仏教の関係がよくわかんないでしょ?
おっさんになったら適当にごまかしてうやむやにするのだろうけれど。
大乗仏教とはなにかを、マイナーな阿閦仏国経に教えてもらおう。
このお経で釈迦がすごいことを言っている。

「阿閦ほとけがかの国においてお説きになる法に比べれば、
われ釈迦牟尼(しゃかむに)ほとけがこの世界において説く法は
その千百万分の一にも足らぬ」(P635)


阿閦ほとけ>釈迦牟尼世尊

大乗仏教というのは、こういうもんなんだ。
お経で釈迦に自分なんかくだらない存在ですよ、と自己卑下させてしまう。
死人に口なしなのをいいことに、あろうことか釈迦の口を借りて、
釈迦をおとしめようとしたのが大乗仏典の作者たちだったのである。
ひでえやつらだが、まあ賢いことは認めざるをえない。
だって、なまの人間よりも小説に出てくる人たちのほうがおもしろいでしょ?
いや、そんなことはないかな?
問題は功徳だ。功徳、功徳。
このマイナーな経典をネットで広めてやった我輩に本当に功徳はあるのか。
いまからバイトに行くけれど、今日なんかいいことないかなあ。

「SとM」(鹿島茂/幻冬舎新書)

→どれだけ知識が偏っているのかと笑われるかもしれないが、
著名なフランス文学者(ってなに?)の鹿島茂氏のことはまったく存じあげなかった。
本書を読んで笑えて笑えて、生きているのってちょーおもしろいと思ったので、
ブックオフオンラインにて著者の本を複数購入してしまったよ。
世の中にはおもしろい本ってまだまだあるんだなあ。
著者の肩書だけが主張の根拠のちっとも学問的ではないヨタ話なのだが、
そこがいい。とっても笑えておもしろい。あんた、おもしろいことを書くなあ。
SとMは、サドとマゾで、加虐嗜好と被虐嗜好と言えるだろう。
マゾっていう言葉はすごいよなあ、と思う。
じつのところ苦しみは苦しみではなく、苦しみこそ快楽だって意味でしょ?
これほど深い人生思想はめったにお目にかかれないのではないか?
人間は楽を目指すように一見思われているが、
じつは苦にこそ快楽は宿っている。
苦行は快楽だから修行としておのれを痛めつけている修行者がいる。
苦行をしている人は偉いのではないのかもしれない。
彼(女)らは苦行が本音のところでは楽しいのかもしれない。
著者は宗教における苦行と快楽についてこう語っている。

「あまりに苦しく、あまりに怖いと、
脳がそれを緩和するためにドーパミンを放出することが実際にあるのです。
[引用者注:ちなみに著者は脳科学者でもなんでもない、ただのフランス文学オタク]
これと同じことが宗教の分野でも起こります。
多くの宗教では、抑制や禁欲を通り越して、
自分に苦痛を与えて痛めつけるという修行がおこなわれますが、
この宗教的な修行なども、「我慢する」が、ある限度を超えてしまうと、
ランナーズハイのような快楽に転化するという例とみなされます。
涅槃(ねはん)の境地というのは、おそらく、
こうした快楽となった禁欲・苦痛のことなのでしょう。
自己規律のレベルがものすごい人物をたまに見かけると、
「スゴイ!」と尊敬してしまいそうになりますが、
しかし、我慢をしている当の本人は、
案外、そのことで快楽を得ているかもしれないのです」(P38)


マゾの楽しさを深く知る著者はサドの不足を嘆く。
うまくマゾをいじめるようなサドが、まあいないのである。
サドとマゾのどちらが楽しいかといったら圧倒的にマゾである。
しかし、マゾが苦の快楽を味わうためには、
うまくサドにいじめてもらわなければならない。
マゾはサドに自分勝手にいじめてもらいたいわけではないのである。
自分の望むようないじめかたをしてもらいたい。
女にとって壁ドンは理想だが、うまい壁ドンをやれる男はまったくいないということ。
マゾよりサドのほうがはるかに難しい。
サドはマゾの気持を読んでいじめなければならないのだから、
より人の気持がよくわかる切れ者でなければならない。
人間はマゾで苦しみたいという面があるのである。
うまく苦しむのは快楽なのである。
社畜や仕事中毒者ほど人生の快楽を享受している人はいないのかもしれない。

「ところが、人間というのは、
「みんなの前で、お尻をむきだしにされて、鞭(むち)でビシビシと打たれる」
というような苦痛や屈辱を味っていると、なぜか、
それに快楽を感じるという回路が作られてしまうらしいのですね」(P64)


性的願望として女になっていじめられたいと夢想している男は多いのではないか。
女になってちからで強引に恥ずかしいところをむきだしにされたい。
女になっていやいや恥ずかしいポーズを取らされたい。屈辱にまみれてみたい。
好きな男から支配されて、あえて露出の多い格好をしろと言われたい。
人から支配されたい、はずかしめられたい、欲情されたい。

「もちろん、SMにも性的エクスタシーはあります。
セックスに近いものではあります。
ただし、SMの上級者にとって、
セックスは「恥ずかしさ」を出すために利用する程度のもので、
明確に「SMよりも下のもの」なのだそうです。
その理解に関しても「いいSがいない」からなのです」(P92)


SよりもMのほうが快楽が高く、しかしけれどもいいSはいないという困った状況だ。
うまくいじめてくれるSをMは求めている。
しかし、人は善人ぶりたがるものだから、なかなかMを効果的にいじめられない。
ついつい善人ぶってMの本当に望んでいるものを誤解するのである。
苦しむのを喜びとしている人のほうがはるかに多いのだから、
職場では平等や公平など考えず、マゾにはきつい仕事を振ったほうがいいのである。
バイト先で、この人はマゾだなあ、と思う大好きな人が幾人かいる。男女ともにである。
たぶんわたしはサドで、いじめられているマゾを見るのが楽しい。
それも優秀なサドで、マゾの快楽を理解したうえで、あえでサドの立場にいる。
名前を出しちゃいけないのだろうが、あの人なんかマゾでしょう。
ライン(流れ作業)できついところに振られたとき、
かなりの快楽を味わっているのではないか。
その快楽をどこかでわかっているから、わたしはちらちら見るのである。
マゾは苦痛を快楽と考えるから、あえてあまり声をかけない。
ただし、あなたの苦しみはわかっているということはアピールする。
マゾの場合、恋愛や友情が成立してしまったら、快楽は終了するのである。
だから、めったにいない稀有ないいサドであるわたしは相手の気持を尊重する。
繰り返すが、マゾのほうがサドよりも快感が強く、
そしてマゾ的快楽はだれにでも味わえるがサドはなかなか難しいのである。
苦しんでいる人を見て平気でいられる精神の持ち主は貴重なSである。
Mの気持がわかるSほど、よりMに深い満足を与えられるのである。
わたしは千人にひとりレベルのサドの素質を持ち合わせているようだから、
わざわざ志願してマゾになりたいとは思わない。苦しいことはしたくない。
マゾに奉仕する「サービスのS」でありたく思う。

「カルメンはドン・ホセの気持ちをもてあそびながら、
どんな束縛からも逃れようとする「自由な女」のように思えるのかもしれないけれど、
実際は、そうすることで、ドン・ホセのひそかな願望をかなえ、
究極のクライマックスに向かって
彼を駆り立てるという「サービス」をしているのです。
やはりSは「サービス」のSなのでしょう」(P150)


本書で高名なフランス文学者の著者が指摘していることだが、
日本人はマゾ体質な人が多い。苦しむのを喜びとしているマゾが多い。
サービス残業や労働中毒という苦を快楽に転化する能力を持つのがMである。
Mの快楽が成立するためにはSがいなければならない。
マゾの快楽というのはサドの視線があってはじめて発生するのである。
わたしはあえてMのために稀有なる貴重なSでありつづけたいと思う。
Mのように苦しい仕事をするのはいやだ。
けれども、ほかの凡庸なMとは異なり、
わたしは苦しんでいるMを無視せず直視するSの才能が少しばかりあるようだ。
SがいるおかげでMの快楽が増すのならば、わたしの存在価値もなくはない。
Mの気持がわかって、にもかかわらずSに徹せられる人のことを、
著名なフランス文学者で有名大学教授の鹿島茂氏は
「天然のS」と呼んで絶賛している。
きっとMはMのままで、SはSのままでいいのだろう。
Mのほうが快楽は高まるのでしょうが、あえてわたしは損なSの役を引き受けたい。

「先生はえらい」(内田樹/ちくまプリマー新書)

→春日武彦との対談本でものすごくえらそうだったから内田樹は嫌いだったが、
この本はとてもおもしろく、ああ、そうそう、とものをわかる喜びに震えた。
「人はわかりあえない」というのはある種の真実である。
しかし、これは絶望ではなく、ものすげえ輝きを放つ希望なんじゃないか!?
というのが本書の内容である。
「人はわかりあえない」からこそ相手を誤解して恋愛なんてやらかすんだろう。
「人はわかりあえない」からこそコミュニケーションがおもしろくなる。
わからないという現象がいかに魅力的か。
そして、わからないものを誤解するところにこそ生きる楽しみがある。
だから、ラカン(えらい人らしい)はわざとわからない本を書いた、
と著者は本書で主張する。
わからない文章のほうが誤読する余地があっておもしろいじゃないか、と言うのである。
これはまったくそうで仏典なんかも意味がよくわからないから、
独自解釈をするのがおもしろいのである。
わたしなどわかりやすい文章を書こう、書こうとしているけれど、
もう少しわかりにくい文章を書いたほうがいいのかもしれない。
いや、いくらわかりやすい文章だって、わたしの考えていることは伝わらず、
読者さまはそれぞれ勝手な解釈をするのだろうが、そこがおもしろい。
わかってもらおうなんて思わないで、
いかに秘密の人でいつづけられるかが周囲から人気を得るこつなのかもしれない。
弟子がえらいとき先生がえらくなるのである。
先生をえらくするのは弟子なのである。
先生が教えようとも思っていなかったことを弟子は勝手に学び、
まさにその行為が先生をえらくするのだ。
そもそも「人はわかりあえない」のだから、
師匠(先生)が弟子になにかを教えられるはずがない。
あらゆる教育のようなものは弟子が勝手に学んでいるだけなのである。
「人はわかりあえない」は希望である。
「人のことがわかる」は絶望である。そもそもわかりあえないのだから、
わかったというのは誤解なのだが、その誤解も楽しいからまたいいのだろう。
名著から名文をいくつか抜粋しよう。この本はおもしろかった。

「恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は
「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」
という文型で語ります。みんなが知っている
「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。
先生も同じです。
誰も知らないこの先生のすばらしいところを、私だけは知っている、という「誤解」
(と申し上げてよろしいでしょう)からしか師弟関係は始まりません」(P21)


恋に落ちやすい人と落ちにくい人っているよねえ。
あまりにリアリストだと恋に落ちないんじゃないかなあ。
「人間なんて、そんなもの」という山田太一先生から教わった名文句を
一時期愛誦していたことがあったけれど、あれはよくないのかもしれない。

「先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。
そういうことが起こるのです」(P27)


アントニオ猪木はホウキとも名試合をすることができたというけれど、
本当に学習能力の高いやつにとっては時給850円の職場が学校になるのかもしれない。
わたしは自分のことが本当によくわからない。
最後までわかることはないから、そこがおもしろいのだろう。
親友と話していると、ふと話が脱線することがある。
そして、なんでもないつまらない話をするものだが、
あとになってから自分の話した言葉によって自分のことが少しだけわかるのである。
いや、わかったというのは錯覚で、自分への新しく楽しい誤解がひとつ生まれた。
人との会話はおもしろいのである。
どうしても相手から受けることをねらってしまうから、
自分が話そうと思っていなかったことを話してしまう。まさにそれこそ会話の妙。
これは相手が引き出しているということも言えるが、
相手が聞きたそうなことを自分がイメージしているだけとも言えなくはない。

「あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意していたこと」でも、
「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、
あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」
によって創作された話なんです。
奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、
対話している二人の当事者のどちらでもなく、
あるいは「合作」というのでもなく、そこに存在しないものなんです。
二人の人間がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。
自分のものではないようだけれど、
はじめてかたちをとった「自分の思い」であるかのような、
そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは
「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります」(P61)


この感覚、わかるわかる、わっかりまくり、なのは対人運がいいからなのかもしれない。
なにが出てくるのがわからないから会話っておもしろいんだよねえ。
そういう創造的な会話をできる人とめぐりあえた人はなんて運がいいのだろう。
変なものが出てくる会話ほどおもしろいものはないのである。
文章を書くのも会話だから。
この文章は特定のだれかに向けて書いているわけだから。
来週の日曜日が楽しみです、みたいな。
しかし、その人以外もこの文章をそれぞれ好きなように解釈できるわけで、
なんでこんな感想文を書いているかっていうと、
書かないと本になにが書いてあるのかわからないから。

「恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」
というのは愛の始まりを告げることばですけれど、
「あなたって人が、よーくわかったわ」
というのはたいてい別れのときに言うことばです」(P192)


ブログにアフィリエイト(広告)を張っているけれど、ぜんぜん本は売れない。
みなさん、うちの記事を読んで、もうわかったと思っちゃうんだろうなあ。
いや、べつに本が売れても10円、20円の世界だから、
買ってくれなくてもぜんぜん構いませんけれど。
わたしってけっこう個性的な人だって思いませんか? 変人というかさあ。
わたしは間違える天才のようなところがある。
思いっきりの180度ずれた誤答をちからいっぱい書くような勢いがある。
でもさ、「正しい」ものがないとしたら、ぜんぶ誤答だから、
楽しくておもしろい誤答をできるのもまた能力じゃないかなあ。

「人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者」としての独創性です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうには誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、
その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです」(P152)


「先生はえらい」をひと言で要約したら、
「先生はえらい」と言えるのは「弟子のわたしがえらいから」ということになろう。
内田樹先生はえらいなあ。こう言えるのはわたしがえらいからである。
わたしはえらい。
この文章を読んで書き手をえらいと思ったとしたら、それはあなたがえらいからである。

いまの会社は好きだし、来月も働きたいから(再来月のことはわからない)、
これから書くことは会社批判ではない。
会社や同僚のことを日曜日まで考えている仕事人間であることの表明である。
生産性を上げたら、だれが得をするのか考えてみよう。
まず確認しておきたいのは、会社の利益とはなにか?
これがいちばんの基本である。
会社の利益とは、売り上げから経費を引いたものである。
うちの会社はいわゆる下請けで、上の会社さまから業務を請け負っている。
本、漫画、雑誌の仕分けが仕事内容で、1冊いくらで請け負っている。
(底辺肉体労働者から言えば重さではないのがちょっとおかしい)

「本の冊数」-「人件費」=会社の利益

ここからいろいろなことがわかる。
人件費をおさえればおさえるほど会社の利益は上がるのである。
もっとわかりやすく言えば、人を苦しませれば苦しませるほど会社の利益は上がる。
会社は毎日の仕事の量が一定していない。
前日にならないと翌日の仕事量(本の冊数)はわからない。
このため、むかしは忙しいときは日雇い派遣を取っていた。
しかし、派遣はべらぼうに高額だから会社の利益は下がってしまう。
このため、パートを多く雇い仕事量の少ない日は、
休ませたり少額ずつ稼がせるという作戦に出たわけである。

これで苦しむのはパートだけではない。
パートに休んでくれ、早く帰ってくれという社員の精神的ストレスは相当なものだろう。
人の気持を考えてしまう人は、この仕事のストレスで心が病むはずである。
生活がかかっている人に早く帰ってくれ、なんてわたしは言いたくないから、
なろうと思ってもなれないでしょうが、ここの社員にはなりたくない。

「会社の利益」増加=「人の苦しみ」増加

スピードを上げろとマネジャーがよく言っている。
スピードを上げるとわれわれパートは体力の消耗が激しくしんどい。
そのうえ速く仕事をやればやるほど早く帰され収入が下がる。
社員も残業代がつかなくなるから、本当は社員もあまり早くやられると困る。
しかし、スピードを上げると人件費が下がるから会社の利益は増加する。

ここで重要なことを書く。
会社の利益を上げても、パートのみならず社員の給料も増えない。
いくら会社の利益が上がろうとも、パートや社員はうるおわないのである。
パートが肉体的に苦しんだぶんだけ、会社の利益は上がりパートの利益は下がる。
社員が精神的に苦しんだぶんだけ、会社の利益は上がり社員の利益は下がる。
社員の精神的ストレスは目には見えないけれど、ひどいのではないか。
むかしは現場二人体制で責任の所在をうやむやにしていたが、
いまはわたしと同年代のあの人だけなのでストレスは大丈夫でしょうか。

社員さんに聞いたら、うちの会社の給料は年功序列らしい。
もちろん成果などとはまったく関係なく、毎年ほんの少し上がるだけだという。
いくらがんばっても給与が上がらないのはパートも社員もおなじなのである。
では、なぜなぜ会社の利益を上げないといけないのか?
会社がつぶれたら、みんなが食い詰めてしまうからである。
正確には、みんなではない。
社員は会社がつぶれたら、いまのご時勢、次の正社員の職を探すのは難しいだろう。
しかし、一部外国人労働者を除いてパートはそうではない。
わたしだって金銭面で言えば、どのほかのパートをしても、
いまより収入が少なくなることは絶対にないと思う。

ならば、会社がつぶれると困る社員はもっとパートを大切にするべきだろう。
生産性を過剰に求める(速くやれ、早く帰れ)のはパートをおなじ人間として見ていない。
社員は会社のことを考えるならば(会社をつぶしたくないならば)、
パートをもっと重んじたほうがいいという結論になる。
給与を上げられないならば、もっと働いて楽しい職場環境にすべきだろう。
この点は上々でおしゃべりOKで和気あいあいとした面もあり、
とてもいい(わたしは輪に入っていないけれどさ、あはっ)。

会社存続=みんなが楽しく働く

原点に戻ろう。
わたしは会社人間で仕事中毒だから、パートの分際で日曜日も会社のことを考えている。
さて、原点に戻って、会社の利益とはなにか?

「本の冊数」-「人件費」=会社の利益

このため人件費をおさえればおさえるほど会社の利益は上がるのである。
おなじ人間を人あつかいせずに酷使すればするだけ会社の利益は上がる。
しかし、会社の利益が上がっても社員やパートの給料は増えない。むしろ減る。
会社の利益が上がったぶんだけ、
パートの肉体的疲労、社員の精神的ストレスは増加する。
ここでさらなる重要なことを書こう。
いまのままでも会社は利益を取っているのである。採算は合っている。
日雇い派遣を雇っていた当時と比べたらよほどプラスになっていることだろう。
しかし、そのプラスを従業員に還元しようとは考えないのが会社のようだ。

会社の利益を上げるとだれが得をするのか?
生産性を上げたらだれが得をするのか?
われわれが苦しんだら、そのぶんだれが得をするのか?
株主だというのが一般的な解だろうが、それだけではない。
株主だって自分のために多くの人が苦しんでいることを知ったらいやだろう。
株なんて持っているのは基本的に金持なんだから、
そこまで底辺を苦しませていることを知ったらゾッとするのではないか?
うちの会社の社員給与は成果主義ではなく、年功序列である。
だが、役職に就くとかなり収入が増えるようなのである。
常に原点に戻る必要がある。

「本の冊数」-「人件費」=会社の利益

会社の利益が上がっていい思いをするのはマネージャーなのである。
たしかに会社の利益が上がってもマネージャーの給料は増えないだろう。
しかし、マネージャー会議で威張れるのである。
ほかのマネージャーよりも自分は優秀だと誇示することができる。
マネージャーの見栄や達成感のために多くの人が苦しんでいたのかもしれない。
マネージャーはまだお若いのに体力的にしんどい作業はなさらない。
マネージャーは自分でパートに「早く帰ってくれ」と言うことはない。
マネージャーは自分でパートに「明日は休んでくれ」と言うことはない。
マネージャーの仕事とは人を数字として見て計算することなのである。
おなじ人間を数字として見て、
利益増加の計算式を組み立てるのがマネージャーの仕事である。
そんなことはふつうならできないが、
人ができないことをやったからまだお若いのに出世して高収入なのだろう。

とはいえ、だれかがやらなければならない職務である。
マネージャーの「中の人」にはまったく罪はないと思う。
だれがマネージャーになってもおなじ仕事をしなければならないのだろうから。
こういう経済の仕組みを学ぶことができるのもいまのバイトがおもしろい理由のひとつ。
読書だけではダメで、やはり実地でなければ学べないこともあるのである。
この記事に書いたことは元ネタのような本がある。
「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」というベストセラーだ。
いまの会社で働いていなかったら、この本をよく理解できなかっただろう。
働くことで読書の理解が深まり、読書をすることで働くのがおもしろくなる。
いま生きているのがけっこう楽しい、とっても疲れるけれど。
この記事は昨日今日と必死になって考えた結果である。
精神的に錯乱状態に近くなるまで、考えに考え抜いた。
体力的、精神的にクタクタである。
気が狂いそうになってもう絶対に連絡を取らないと決めていた人に電話をしてしまった。
相手のご迷惑になるからもう連絡は取るまいと決めていた大切な人たちに。
ラッキーなことに電話に出てくれなかった。
つくづくわたしは運がいいと思う。それに人に恵まれている。
「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→大乗仏典の維摩経(ゆいまきょう)は、小乗仏教批判の生活者仏教である。
出家主義の小乗仏教を、在家の生活者が否定している。
維摩居士という金持が病気になり、そこに見舞いに来た古株の仏弟子たちだが、
弟子たちは見舞いをいうどころか論争をふっかけられ在家の維摩に負けてしまう。
さて、この維摩経を読むのは二度目だが、いままで不思議に思っていた謎が解けた。
みなさんも思いませんか? どうしてこんなに仏典があるのだろうと。
おそらく、その答えのようなものが維摩経に書かれている。

「仏は一つのみ声によって法をお説きになるが、
衆生(しゅじょう/我われ人間)は分に随ってそれぞれに理解する。
そして皆世尊が自分と同じ言葉でお説きになったと思っている。
これぞ仏にのみそなわった神力であろう。
仏は一つのみ声によって法をお説きになるが、
衆生はそれぞれの理解したところに随ってあまねく受け学んで利益を得る。
これぞ仏にのみそなわった神力であろう。
仏は一つのみ声にによって法をお説きになるが、
衆生は畏(おそ)れるもあり、喜ぶもあり、また厭離の心をおこすもあり、
疑いをはらす者もある。これぞ仏にのみそなわった神力であろう」(P587)


仏教信仰とは葬式や法事のときに坊主を呼んで酒を呑ませ小遣いを与えることではなく、
我われのそれぞれが心のなかで仏を思い、
その自分のイメージした仏から自分に託されたメッセージを聞くことなのだと思う。
仏典を読むのもいい。わかりやすい解説書やブログを読むのもいい。
カルチャースクールでうさんくさい職業坊主の偽善的な説教を耳で学ぶのもよかろう。
しかし、それらの学習が仏教信仰なのではなく、
学んだことを自分のあたまで考え、自分の心のなかにそれぞれの仏を作り、、
その自分の仏を深く敬い仏の教えを聴聞するのが本当の信心ということになろう。
そうであるならば、これが絶対に唯一「正しい」というような仏の教えはなく、
仏の教えはそれぞれの心の数だけ存在するといってもいいのではないか。
仏典がたくさんあるのはこのためである。
それぞれがそれぞれの心のなかで仏から説法を受け、
その自分の真理こそ「正しい」仏法として世に広めたのが仏典ということだと思う。

維摩経には3つの漢訳(中国語訳)があるという。
そのうち有名なのが鳩摩羅什(くまらじゅう/344年-413年)のものと、
三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう/602年-664年)のものである。
鳩摩羅什のものが名訳として広く知れ渡ったらしい。
ところが、鳩摩羅什の訳と玄奘の訳では決定的な解釈の違いがあったという。
むろん、大学研究者ならぬ一般読者のわたしが本書の解題から教わったこと。
ひとつの文をまったく異なるように解釈して訳してもいいのだろう。
象徴的な文章は煩悩(ぼんのう/欲望)についてのものである。
ご存じでしょうが、釈迦は四諦(したい)の教えで煩悩を否定した。
維摩経は煩悩を肯定した教えとされている。
もしかしたらそれは鳩摩羅什の訳(解釈)のせいなのかもしれない。
ふたりの名僧の訳を比較してみよう。
涅槃(ねはん)とは悟りの境地のことである。煩悩と涅槃の関係はいかん?

「煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを冥坐となす」(鳩摩羅什訳)
「生死を捨てずして煩悩なく、涅槃を証すと雖(いえど)も所在なし、
これを冥坐となす」(玄奘訳)


玄奘訳のほうはとりたてて煩悩を肯定しているわけではないのである。
むしろ通常の仏教思想にしたがい煩悩は否定されているように見受けられる。
創価学会が鳩摩羅什をもてはやし玄奘をおとしめているのはこのためか。
ほかのも鳩摩羅什と玄奘の訳では煩悩の見方がまるで異なっている。

「諸々の煩悩はこれ道場なり、如実を知るが故に」(鳩摩羅什訳)
「諸々の煩悩を息(や)む、これ妙菩提なり、
如実に真法性を現証するがゆえに」(玄奘訳)


なにがいいたいのかというと、これこそ仏教だということである。
おなじ一文をいかように解釈してもよく、
そのそれぞれの解釈に全身で賭けて生きていくのが本当の信心である。
本当の信心は教祖さまや師匠の言葉を奴隷のように繰り返すことではなく、
それをさらに自分のあたまで考え心中におのれの真実を創造し、
そのうえで自分の仏に全身で賭けをして生きていくことだと思う。
本当の信心は教祖や師匠の言葉に陶酔することではなく、
自分の心(のなかの仏)を信じて生きていくことになるのではないだろうか。
そうだとしたら、鳩摩羅什訳も玄奘訳もどちらも「正しい」ことになろう。
彼らはそれぞれの心中で仏からの「正しい」言葉を聞いたのである。
唯一の「正しい」信心というものはおそらくなく、
それぞれの数だけそれぞれ「正しい」信心ならばあるに違いない。

維摩経の教えに話を移そう。
在家の資産家である維摩は解脱(げだつ)をこのようなものとして講義している。

「一切のことがらは幻化のすがたのようなものなのだから、
あなたはいまそれを懼(おそ)れるようなことがあってはなりません。
一切の言説はこの幻化の相と同じことなのです。
智者ともなると、文字に執着しないので懼れることがありません。
文字は自性[実体]のないものです。
従って文字というものもありません。これがすなわち解脱ということなのです。
解脱の相とは、諸法[世界]のあるがままなのです」(P597)


これをわかりやすく説明すると、世界って言葉で出来ているでしょう?
たとえば会社というのも言葉で、しかし実体はないといえばない。
会社と呼ばれている建物があるに過ぎない。
善とか悪とかも言葉に過ぎないと言えなくもない。
本当は世界および人間は善も悪もなく、ただあるがままで真実なのだが、
我われは心で対象を解釈して、あの人は悪人だ善人だと決めつける。
苦楽というのも結局、言葉による識別に過ぎず、ある労働はあるがままそのままだ。
なにかの仕事を苦しいと思うのも楽しいと思うのも心(言葉)による分別である。
維摩経は女風情が仏弟子に説教をかますおもしろい仏典なのだが、
その場で天女は仏弟子に男女の相違というのは
言葉による分別に過ぎぬと言い放っている。
解脱したら、あるがままの世界が見えてくるのである。
解脱から程遠い我ら凡夫は言葉によってあれは男、あれは女と分別してしまう。
男だからきつい仕事をやってもらおう、女だから楽な仕事をまわしてあげよう。
こういうのは解脱(悟り)の境地からもっとも離れた邪見とも言えよう。
仏さまのような上司がいたら、男に楽をさせ女に苦しみを与えるかもしれない(笑)。

さて、維摩居士が病床に伏したから説法の場が生まれたわけである。
まあ、どこが病気かよって話でピンピンしていて仏弟子をやっつけるのだが。
維摩が病気になった理由というのがおもしろい。

「あらゆる衆生が病気である。そのことのためにわたくしも病むのです。
もし衆生の病気がなくなれば、わたくしの病気もなくなるでしょう」(P600)


維摩というのは、我われ生活者の代表なのである。
市井の人々が病んでいるから、そのために維摩も病んでいるのである。
これは非常におもしろい考え方だと思う。
だれかひとりが悩んでいるということは、
もしかしたらそれは社会全体が悩んでいることなのかもしれない。
ならば、そのひとりの苦悩が解消されたら、社会全体も少しはよくなるのかもしれない。
いまわたしは苦悩していることがあって、自分の答えを求めて仏典を読み漁っている。
しかし、これは社会全体といったら大げさだが、
少なくともわたしが働いている職場全体の悩みと連関していることは疑いえない。
職場ではいろんな人の目線や笑顔、ため息からいろいろなことを無意識に感じている。
そういうことがこの読書ブログで読む本のタイトルを決め、
さらに職場全体の雰囲気を毎日感じながら、こういう記事を書いているのである。
そう考えたら、このブログ記事は職場の全員が創作しているともいえなくもない。
いちおうこの記事は仏典の解釈である。
もしかしたらあらゆる仏典がこのブログのような意味での集団創作だったのかもしれない。

いまからバイトに行くが煩悩にまみれたわたしは好きな人も嫌いな人もいる。
煩悩が燃えさかっているため、好きな仕事も嫌いな仕事もある。
しかし、維摩経によるとそのような煩悩はあっていいということになっている。
あの子はかわいいなあ、あの人は嫌いだあ、と思ってよいのである。
維摩経にそう書かれているからである。

「我見[自己主張]を起すこと須弥山(しゅみせん)のように高くてこそ、
よく無上なる完全な菩提心を発し、仏法を生ずることができるのです。
ですから一切の煩悩が如来[ほとけ]の種子であるのです。
譬(たと)ば、大海の底に入らなければ、
量(はか)り知れない価値の宝珠を手に入れることができないように、
このように煩悩の大海に入らなければ、一切智の宝を得ることはできません」(P618)


(だれも読まないでしょうが参考記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

「般若三昧経」(桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→マイナーな初期大乗仏典の般若三昧経を読む。
ネットで検索したけれど、ほとんどヒットしなかった。
中国にはじめて念仏を伝えたお経とされている(もちろんインドからだよ)。
釈迦の教えをもとにしたという小乗仏教は禁欲的で人を幸福にしない宗教だと思う。
なぜなら小乗仏教はいうなれば目標宗教なのである。
悟りという究極の目標があって、その境地を目指してみんなで毎日24時間修行する。
いつか来るとされる悟りといわれる日のために毎日を修行に費やす。
で、悟れるかどうかもわからない。
というのも、だれが悟ったかを判定するのかって話だから。
偉い人から悟ったといわれたら悟りになるとしたらおかしな話だ。
それは他者からの評価(承認)を期待した俗物的な悟りになってしまう。
高僧とされている坊さんも本当に悟っているのかどうか疑わしい。
高僧が高僧たるゆえんはかつて高僧とされる人から認められたという一点に尽きる。
上司はどういうときに部下を認めるか考えてみよう。
どう考えたって自分にあいさつもしないような部下を
上司は出世させようとは思わないでしょ?
上司から気に入られるのが部下の出世するほとんど唯一の方法である。
上司を批判したらよほどの人格者以外は左遷されるかクビにされるかが落ちである。
であるならば、小乗仏教の目指す悟りは上司から認められることになってしまう。
上司(高僧/古株)から認められるために毎日懸命に努力(修業)するなんて、
それは悟りを目指す道のりとは程遠いのではないか。

繰り返すが、小乗仏教とは悟りを目標とした宗教だ。
悟りなんて一生あるかどうかわからないのだから(たぶん人は悟れないのでは?)、
毎日今日は悟っていないと苦しまなければならないことになる。
悟りまで一歩でも二歩でも近づくために毎日苦行を実践する。
あのさ、そんな人生のなにが楽しいのかって話になるわけ。
ちっともおもしろそうな人生ではない。
毎日、悟り澄ましたような顔をしながら、
今日も悟っていない、今日も悟っていないと苦しむだけの苦に満ちた修行人生。
話をがらりと変えるが、いまの日本人だってそうなのである。
目標を立ててそれに向けて努力しなければならない、
みたいな世間の威圧的な風潮があるじゃないですか?
いまのままではダメで常に目標に向かって努力しろ、
みたいな脅迫観念に支配されている人が多いように見受けられる。
将来のために資格をひとつでも多く取るよう、
毎日会社から疲れて帰ってきて、それからまた勉強する。
独身のものは少しでも条件のいい異性と結婚するのを目標にして婚活すべし。
どのビジネスマンもスキルアップを目指さなければならず、
願わくばより条件のよい転職や独立起業を果たすべきである。

根底にあるのは、子どものころより上(親や教師)から植えつけられた、
いまのままではいけないという洗脳である。
勉強していい学校に行きなさい。いいお友だちをたくさん作りなさい。
努力していい会社に入りなさい。会社では仕事で認められなさい。
あなたもいい齢なんだから結婚相手のひとりもいないの?
早く孫の顔が見たいわ。子どもの将来を考えていい学校に行かさなければ。
老後の貯金はいくらあっても十分ということはないから節約に努めよう。
貯金は今日よりも1円でも増えていたほうがいい。
以上のような、より上を目指すという考え方は生得的なものではなく、
教育の結果として植えつけられ、
マスコミからの強い影響のもとに育った洗脳ともいえるのではないか。
個人の人生のみならず会社もそうで、
企業は目標を立ててそれをかなえるのがよいとみな盲目的に信じている。
どうしていまのままでもいいとは思えないのだろう。
ひとりの人間として、いまこうして生きているだけでもいいではないか。
ひとつの会社として、
いま利益が上がっていてみんなで楽しく働いているならいいではないか。
なにかに洗脳されたように「上(悟り?)」を目指して、
毎日を苦しみにまみれたものにする必要がどこにあるのだろう。
たしかに上を目指すのはたいせつなのだろうが、しかし、
そうするといまあるもののよさに気がつかなくなってしまうのではないか。
上を目指して努力したら、かえって病気になったり、
逆に会社における収益が下がることもあろう。

では、どうしたらありきたりな毎日のよさに気づくのか。
いまこうして仕事があっていちおう健康に生きていることのすばらしさに
どのようにしたら気づくことができるのか。
一見すると退屈にも感じられる毎日は、
もしかしたら「ありふれた奇跡」の連続であるかもしれないのである。
いつ天災や難病、愛するものとの死別がドカーンと来てもおかしくないのである。
そうだとしたらいまがいちばん幸福だという可能性も考えられないだろうか。
幸福になるのは将来や明日ではなく、いまこの瞬間ではないだろうか。
しかし、忙しい日常に追いまくられているとなかなかそうは思えない。
我われは小乗仏教の坊さんのように毎日、
目標(悟り)を達成するために努力して自分から苦しんでいるようなところがある。
いかにしたら「ありふれた奇跡」に気づくことができるのか。

そこで大乗仏典の作者の創造したのが西方浄土なのである。
いま生きている世界とは異なるまったくべつの世界が西方にある。
そこは阿弥陀仏が常時説法している楽園である。
おそらく阿弥陀仏は西日(夕陽)信仰から生まれたものだろう。
夕焼けは美しいが、我われは西日にさえ注意しないと気がつかないほど忙しい。
仕事で忙しい手や足をストップして落日を見てみよう。
それから強い西日が照らし出す、なんでもないありきたりなものを見てみよう。
ぞくっとするほど美しいと感じることはないだろうか。
公園のゴミ箱でさえ夕日に照らされていると詩的な美をそなえている。
これとおなじ理屈で西方浄土にまします阿弥陀仏のことを念じていると、
毎日の単調な生活がまるで「ありふれた奇跡」のように見えるのである。
具体的には、会社の同僚のひとりひとりが生彩を放っているかのように見える。
ああ、この人も生きているんだなあ、
ということに打ち震えるような感動をおぼえる(大げさで偽善的かしら)。
センチメンタルかもしれないが、
ある瞬間にいま生きていることのすばらしさに打ちのめされることもあろう。
どうしてこういう奇跡体験が起こるかといえば、
べつの世界(西方浄土)の光で、いま生きている世界を照らしているからである。
心にもうひとつの世界を念じたら(想像したら)いまの世界の輝きが増す。
以下の般若三昧経の記述はそういうことをいっているのだと思う。

「人は睡眠中に夢みたさまざまなことを、やがて目覚めてのち、
ありありと思い出し、まのあたりに見るごとくにそれを他の人に語って、
あらためて悲喜の思いを起こしたりする。
ちょうどそのように、出家者にせよ、在家者にせよ、身をただし、心を静め、
西方の阿弥陀ほとけの国のありさまや、仏の法をお説きになるお姿を思って止まず、
一昼夜、ないしは七昼夜をも経るならば、
かれはやがて阿弥陀ほとけのお姿をありありと、
もしうつつにでなければ、夢の中においてなりと、
必らずまのあたりにあおぐだろう」(P567)


初期大乗仏典の般若三昧経はやはり小乗仏教を批判している。
小乗仏教の教えは、耳によっているといってよいだろう。
釈迦の教えを耳で聞いた人たちの歴史が小乗仏教の正しさの根拠となっている。
しかし、耳というのはそんなに当てになるものだろうか。
たとえば、山田太一氏でもだれでもいいが有名人の講演会に行ったとする。
翌日、聴衆に昨日どんな話を聞いたか質問したら答えは多様だろう。
驚くくらいまったくべつべつのことをそれぞれ人は聞いているはずである。
科学的実験でもやってみれば、これは実証されるはずである。
なぜこういうことが起こるのか?
講演会の聴衆は翌日、山田太一氏のことを思い出しているからである。
耳で入ったものは心で思われてはじめて一定の意味内容となる。
ボキャブラリー(語彙)が豊富な人ほど優位になるのはいうまでもない。
本当に山田太一のことが好きならば、
講演の断片を目にしただけで講演内容の全体までも思い描けるはずである。

なにをいいたいのかというと、重要なのは耳ではなく心ではないか?
大事なのは耳で聞いた意味内容ではなく、
釈迦というほとけをどれほど豊かに深く尊く心のなかで思えるかではないか?
釈迦の実際の弟子も、釈迦の説法を聞いたあと、
ひとりで孤独に心のなかで釈迦のことを思い、それを自分の生きるヒントにしたのである。
釈迦というほとけのことを孤独のただなかでどれだけ深く思えるかが問題なのだ。
ならば、大乗仏典作者のほうが小乗仏教の古株よりも、
より生き生きしたほとけを心のなかで思い描くことができたとは考えられないか。
生きている人間というのはどうしようもなくヘマをやらかすものである。
だとしたら、死後の弟子のほうが師匠の教えを深く理解することもないとはいえまい。
大乗仏典一般の重んじているのが耳ではなくそれぞれの心である。
これは大乗仏典が耳からではなく、心から創作されたためであろう。
そして、心というものは不思議なもので、
気分のいい日はなにもかもが人もすべて輝いて見えるようなところがある。
古いお経にもそういうことが書かれている。
功徳を積むとでも思って、どうかおつきあいください。

「実は三界(さんがい/世界)はただ心のみであり、
人はおのれの心に念ずるところを見るのである。
心がほとけとなり、心こそがほとけを見る。
心はそのままわがほとけであり、心はそのまま如来(にょらい)である。
心はすなわち、わが身であり、心によってほとけは見られる。
心は心を知らず、心は心を見ない。
心に固定的な思いのあるときまよいがあり、心に固定的な思いの無いときさとりがある。
およそすべての法に固定不変なものは無く、みな心の思いより起こる。
心によって何か固定的なものとして思いなされたところのものが
実はすべて空(くう)であることを知る時、そう思いなす心もまた空なのである」(P570)


ちょっと似合わぬまじめな話をやりすぎたような気もしなくもないので、
最後に俗っぽい話をしましょう。
耳は当てにならないって書いたけれど、目も当てにならないのかもしれない。
ひとつのおなじものを見ていても、
実際はそれぞれみんなべつのものを見ているのかもしれない。
目で見たものはいっしょでも、それを心で思ったときに変形するというのが理由である。
だから、恋愛みたいな珍現象が起こるのかもしれない。
結構さ、イケメンとブスや、ブサイクと美人みたいなカップルもいなくはないよね。
きっとあれって心のなかですごい変形が起きているんだろうなあ。
というのは、間違いで(だまされましたか?)、そもそもブスと美人の差がわからない。
わたしなんか心が病んでいるためか、女性の美を感受する器官が壊れている。
みんながこんな子のどこがいいの?
という子をきれいだなって思っちゃうようなところがある。
反対にテレビに出ているアイドルとか、みーんなおんなじ顔にしか見えないけれども。
こう考えるとブサイクやブスも絶望してはならないのかもしれない。
あるとき、ものすごい心のゆがんだ異性と出逢うかもしれないのだから。
とはいえ、メンヘラはめんどうくさすぎて、ちょっとって話だけれど。
ああ、オウム真理教の麻原彰晃みたいのも多くの信者の目には尊師と映っていたのか。
あの人、よく知らないけれど、目がよく見えないって話もあったよね。
あんがい目というものはものを見るものではなく、
なにかを見間違えるために人間にそなわっている器官なのかもしれない。
美女など糞袋(くそぶくろ)にすぎないのに、みんなチヤホヤするもんねえ。
はてまあ、いったい何人がこんなつまらない記事をお読みか知らないけれど、
目で読んだ内容もきっとそれぞれ心のなかでそれぞれに変化するのだろう。

「般若波羅蜜多心経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→日本でたぶんいちばんポピュラーなお経である般若心経。
これも見方によっては、釈迦批判のひでえお経と読めなくもないことに気づく。
豪傑訳をしたら、こういう意味だと解釈できなくもないのだから。
――おい、そこのおまえ、おまえだよ、おまえ舎利弗(しゃりほつ)。
舎利弗さあ、最近、おまえ調子に乗っていないか?
おまえ、智恵第一だとか誇っているようじゃねえか?
釈迦からひいきにされたからといって、ちょっと偉そうにしすぎじゃねえか?
なにが釈迦の十大弟子だよ、笑わせんな。
おまえさあ、釈迦の教えだとか言って十二因縁や四諦を説いているみたいじゃないか。
おい、こらっ、舎利弗、十二因縁なんてないからな。
おい、こらっ、舎利弗、四諦なんて意味がないからな。
舎利弗、ちょっと缶ビールでも買って来いよ。エビスな。ロング缶だ。
なんだと、お金? 世の中は空(くう)なんだから、金なんて必要ないだろ。
ゴー! 早くしろ、舎利弗ゴーゴー。
10分以内に買って来なかったらチン毛、燃やすからな、いいか、覚えとけ舎利弗!
(舎利弗、走り去る)
あっはっは、もう釈迦の時代は終わったんだから、舎利弗なぞおれらの舎弟だな。
もう怖いもんはないぜ。世の中は空(くう)だってわかったら怖いもんがねえ。
むかしは威張っていた舎利弗もびびって泣きそうだったなあ。

「金剛般若波羅蜜経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→こんなすごいお経があったのかあ。これまじやべえぞ。
大乗仏典というのは要するに人間釈迦の批判であることがわかってしまった。
大乗仏教というのは、仏教の開祖の釈迦を否定するところから始まったのだろう。
それは間違っていないとわたしは思うのだが、
一般的にはなかなか受けいれられない考え方かもしれない。
だって、釈迦の教えってつまらないし役に立たないじゃん。
苦しみの原因は欲望だ。
なら、欲望を消せって、そんな簡単に行かないからみんな苦しんでいるわけでしょ?
みんながみんな欲望を消したら、人類は消滅しちゃうでしょって話なんだから。
もしかしたら人間としての釈迦は大した人物ではなかったのかもしれない。
わたしは釈迦なぞ狂人や廃人の手合いだとこっそり思っているけれど、
みなさまにもそう思ってくださいとは口が裂けても言えない(あれ? 言ってない?)。

こう考えたらわかりやすいのではないかという説明をしよう。
美少女アイドルみたいのがいるじゃない。イケメン俳優でもいい。
ああいう芸能人って、そばにいる人(親とかさ)から見たらくだらない人間だと思う。
けれども、テレビを通してみるとカリスマ性があってすごいじゃない。
実際、難病の少女がイケメン俳優に生きる勇気をもらっているとかあるわけだから。
職場にもAKB好きがいて、アイドルの存在がすごい生きる励みになっているみたい。
でもさ、人間としてのAKBはそこらへんにいる勉強ができない女の子とおなじわけ。
しかし、AKBのひとりが「努力は必ず報われる」とか言うと、
それを本気にして新聞配達をして親孝行する少年も出ないわけじゃない。
そうだとしたら、AKBは彼にとっては神さまや仏さまになっている。
この場合、偉いのは虚像のAKBで人間としてのあれは、まああれって話で。
人間ってなーんかアイドルや教祖みたいのを求める心があるのだと思う。
最近、わたしがいやなのはテレビライターの山田太一氏を
生き仏のようにあがめるような手合いが出始めたところ。
たしかに山田太一ドラマはものすごいおもしろいし感動するけれど、
かといって作者が聖人君子というわけではない。
聖人君子にはあんなおもしろいドラマを書けないわけだから。
人間としての欠点をたっぷり持っているから、
そこを基点として名作ドラマを書いているのだと思う。
しかし、浅はかなファンは作者の人格がすばらしいとか思っちゃうんだろうねえ。

以上のような理屈で、
人間としての釈迦はそれほどではなかったかもしれないとは考えられないだろうか。
むかしのインドにそう考えた人たちがいたのである。
小乗仏教の連中は古株ぶって群れて不快だなあ。
あんな教えは出家者のためのもので我われ一般人には役に立たないじゃないか。
そんなに釈迦の教えというのはお偉いものですかねえ。
実在した釈迦なんかよりも、おれたちの心にいる釈迦(世尊)のほうがすごいぞ。
出家した聖人ぶったおまえらはぜんぜん世尊(釈迦)のことをわかっていない。
そういう論理の果てに金剛般若波羅蜜経を創作した大乗仏教集団がいた。
金剛般若波羅蜜経では世尊(釈迦)がこう言っている。

「いろかたちによってわたしを見、声によってわたしを追い求める人たちは、
誤った努力に陥って、真にわたしを見ることのない者である。
ほとけは法によってこそ見られねばならない。
世を導く師たるほとけにとって、その身とは法にほかならない。
そして法の本質は知識の対象とはならない。
それは知ろうとしても知ることができない」(P552)


お経(法/ほとけの教え)>人間釈迦

このあとで金剛般若波羅蜜経はずるい手を使っているのである。
最終的には数の論理が勝負を決め、
多数派の主張が「正しい」ということになることを仏典作者は知っていたのだろう。
このお経の教えを広めるものには功徳がいっぱいあると書いてある。
如来に布施をするよりも、このお経を書き写し読誦し流布したほうが功徳に恵まれる。
当時はコピー機なんかなかったから、
だれかが一枚でも多く書き写すことが重要だったのだろう。
文盲のかたにはがんばって覚えていただく。
功徳があるとアメで人を釣って、「お経>人間釈迦」という考えを広めようとしたのである。
しかし、「法の本質は知識の対象とはならない。
それは知ろうとしても知ることができない」ってかなりの真実だと思う。
小乗仏教って大学にいる研究者みたいなもんでしょ?
大学で研究して得られる知識なんて、我われにはまったく役に立たない。
アイドルやイケメン俳優、テレビドラマや映画のほうがよほど役に立つわけで。
そのうえ、である。
お経を書き写すと功徳があるなんて非科学的だとバカにする人が多いのかもしれない。
しかし、お経に功徳がないことは科学的に証明できない。
わたしなんかお経のことをブログに書いているから、いま功徳に恵まれているのかも。
科学的には病気になってもおかしくないのに、まだピンピンしているし。
「わけわかんねっ」って思うけれど、
この「(人間には)わけわかんねっ」が真実だって金剛般若波羅蜜経は言っているわけか。

「大品般若波羅蜜経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→結局、お坊さんが釈迦の作った戒(おれルール)を守っても、なんにもならないわけ。
いまもいま病院では難病で苦しんでいる高校生とかその親がいて、
それはもう必死になってどうにかならないかと願っているのだけれども、
本音をぶちまけるなら、
そういう現実に対して坊さんが修行してなんになるのって話でしょ?
貧困問題もどうにもならない。
貧困は連鎖するもので、貧困家庭に生まれちゃったらなかなか這いあがれない。
そこはもう努力とかなんの関係もない。
上のほうの人たちは貧困問題を努力の有無に帰結しようとしている。
そうしないと安心できないから。
貧困をかかえている人は努力が足らなかったから本人の問題なんだ。
証拠は、貧困家庭出身でも成り上がったやつがいるじゃないか。
だから、いま貧困で苦しんでいるものは努力が足らない。
しかし、実際はぜんぜんそんなことはない。
貧困をかかえているにもかかわらず変に努力をしちゃうと負のループにおちいる。
毎日くたくたになるまで働くとものを考えるゆとりがなくなるからかえってよくない。
つまり、なにが現実かっていうと、いまの日本もむかしのインドも、
世の中は徹底的に理不尽で不公平で不平等だってこと。
顔ひとつとってもそうでしょう。
それぞれの顔に世の中の理不尽や不公平が刻み込まれていると言ってもよい。
女なら納得してくれるでしょうが、美人に生まれたら絶対得でしょう?
貧困家庭出身でもちょー美人なら一発逆転もありうるってくらい。
男が顔のことを言っちゃいけないのでしょうけれど、イケメンはいいよなあ。

で、なにが言いたいのかっていうと坊さんが修行してなんになるわけ?
お坊さんが釈迦が決めた「おれルール」を守って、それがなんの役に立つの?
坊さんが修行したら難病の少年少女が治るわけ?
坊さんが一生懸命努力したら貧困の苦しみが消えるとでもいうのか?
そもそもどうしてこういう理不尽、不公平、不平等があるのか説明してみろ。
おまえはブッダ(目覚めた人)なんだろう?
だったら、この狂った世界の成り立ちでも教えてくれよ。
四諦八正道(小乗仏教の教え)なんてまったく役に立たないぞ。
こういう疑問に対する答えとして仏典が創作されたのだろう。
まず基本用語を確認します。
以下は宗教評論家のひろさちや先生の受け売りだけれど――。
小乗仏教というのは釈迦(仏)の教え(まあ、おれルールだよなあ)。
大乗仏教は仏になる教え。
大乗仏教では永遠のブッダ(目覚めた人)というのを創造して、
インドに生まれた釈迦は無限かつ無数のブッダのひとりに過ぎないと考える。
そして、大乗仏教ではブッダになろうと修行しているものを菩薩(ぼさつ)という。
菩薩は六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵)を実践しなければならない。
ちなみにいま六波羅蜜がパッと出てこないでネット検索してしまった(笑)。
いちおう菩薩も釈迦の作った「おれルール(五戒)」は守ろうねって話になっている。
でも、そんなルールを守ったって現実の理不尽や不公平は変わらないじゃないか。
どうして世の中はこうまで不平等なのか。
マイナーな大品般若波羅蜜経にはこう書かれている。
ほとけ(ブッダ)が須菩提という弟子に説いている。

「また、須菩提よ、菩薩が戒波羅蜜を修めている時、
もし衆生(しゅじょう/人間)にして、過去において殺生(せっしょう)を犯し、
あるいは盗みをし、
あるいはそのほか十の悪しき行為として数えられるような悪事のどれかをなして、
その結果、短命であったり、多病であったり、顔の色が悪かったり、
身に威儀が具わらなかったり、身分の低い家に生まれたり、
姿かたちが醜かったりする者を見たならば、
まさに次のような誓願を起すべきである。
――『わたしは、その所に応じ、その時に応じた仕方で、よく戒波羅蜜を修めるであろう。
そして、わたしがやがて無上のさとりを得る時には、
わが仏国の衆生にけっしてこのような不幸はあらしめまい』と」(P529)


ごまかしっちゃあ、ごまかしである。
ふつうの人はかわいそうな人たちを見ていると心が痛むのではないか。
あのかわいそうな人たちは過去世で悪事をなしたんだといったん切り捨てるのだ。
それはごまかしだけれども、
そうでも思わないとこの世の理不尽を正視すると狂ってしまうようなところがある。
そのうえで仏国という、もうひとつの世界を仮構するわけである。
あらゆる不幸が存在しない仏国というものがあるとする。
我われ仏教の信徒は六波羅蜜を実践しようではないか。そして、願おう。
さとりを得たらば仏国というのが目のまえにきっと開かれ、
そこにはあらゆる不公平や不平等が存在しないだろう。
仏国というのはフィクションのようなものと考えればよい。
我われは映画や小説といったフィクションを鑑賞して慰めを得るでしょう?
けれども、現実には映画のようなこと、小説のようなことはない。
でも、そういう世界があったらどんなにいいことか。
仏国というのは、いまの映画や小説の世界のようなものと解釈すればよいのではないか。
しかし、インドの仏教徒は映画や小説が大好きな恋愛がお嫌いのようである。
お経に書いてあるから。

「また、衆生が男女恋愛して、身を交わらすのを見ては、
わが仏国にはこのようなことは無からしめようという願いを起こすべきである」(P532)


じゃあ、仏国はどこにあるのかって話だよねえ。
たまになら映画や小説みたいなことも現実に起こるわけじゃない。ごくたまになら。
それと同様、いまここが仏国だと考えてみたらどうだろう。
いまこのありのままの世界がそのまんま仏国だとは考えられないか。
どうしたらそう思えるのかというと、そこは空(くう)の思想が関係している。
まえに空というのは「ええじゃないか」という意味だと書いたことがある。
教科書的には空(くう)とは、なにごとも実体がないとかそういう意味になっているはず。
これは言い換えたら、なんだってええんじゃないかということになるわけ。
短命だって、病気だって、貧乏だって、ブスだって、ブサイクだってええじゃないか。
永遠の宇宙から見たら、そんなもん大した差はありはせんよ。
短命の人、病人、貧乏人、ブス、ブサイク、
そういう人がいるから世界は美しいんじゃないか。
そういう不幸な人がいるから美談のようなものが生まれるわけだから。
不幸ってあんがいそのままで美しいのではないか。
まあ、実際に病気で苦しんでいる人はそう思えないのだろうけれど。
でもさ、病床でふっと夕陽を見たとき、
サラリーマン時代にはその美しさに気がつかなかったと思うこともあるんじゃないかなあ。
よくわかりませんよ。よくわかりませんけれど。

さて話は変わってもし世界が空(くう/なんだっていい)であるならば、
修業のレベルみたいのがあるのはおかしいわけだよね。
人間のいやなところはすぐ上下をつけたがる。
おれはあいつより上だとか、あいつより下だから悔しいとか。
いまの成功法則みたいのもそうだよね。
成功するかどうかなんて運や過去世が決めていると思うけれど、
世の中には成功法則があって成功のレベルがあると信じている人もいる。
仏教の世界では我われは菩薩で悟りを開くことがいわゆる成功になる。
成功法則とか修行のレベルとか、大乗仏教にはそういうのはあるのか。
弟子が世尊(釈迦)に質問している。

「世尊、もしすべての法はその法のおのずからなあり方、
すなわち法性にほかならないのでありましたら、
菩薩はなにゆえに第一地から第十地に至るまでの修行の段階を追って
学んでゆかなければならないのでしょうか。
法性の中にはこのような段階の区別は無いでありましょうに。
また、世尊、菩薩が誤った道に陥ち込むということは無いことでありましょう。
なぜならば、世尊、
法性の中には正しい道とか誤った道とかの区別はありませんから」(P537)


この問いに世尊(釈迦)はどう答えているか。
「そのとおりである。須菩提よ、そのとおりである。そなたの言うとおりである」
どういうことか。「正しい道とか誤った道とかの区別」はない。
人生に正しい道などない。
すいすい世を渡っているつもりでも、あるとき難病にかかってしまうかもしれない。
会社で出世して役職に就き生産性と効率、スピードこそが正義と思っていたら、
自分の子どもが自動車に轢き殺されて不幸のどん底に落ちてしまうかもしれない。
自分は社会のスピードアップに貢献していると思っていたら、
まさにその社会のスピードの象徴である自動車に
愛するわが子が殺されてしまうようなことも絶対にないとは言えまい。
そうならないかもしれないし、そうなるかもしれないし、
それはもう運や過去世の問題だから仏国ならぬ人間世界ではどうしようもない。
正しい道を歩んでいたら不幸に遭遇しないとかそういうことはまったくない。
なぜならそもそも「正しい道とか誤った道とかの区別」はないからである。
大品般若波羅蜜経にはそういうことが書かれているのではないかとわたしは思う。

「朝まだきのベトナム」(寺井融/制作同人社)

→酒をのみながらなんだか偉いらしいおっさんのベトナム旅行記を読む。
ベトナム旅行記を楽しめるのは、かつてベトナムに行ったことがあるからなんだよね。
ベトナム旅行記を楽しめるのは、ベトナムに行ったことがあり懐かしいがため。
旅エッセイとしてのレベルはあれだから、
もしベトナムに行ったことのない人がこの本を読んでも楽しめないと思う。
というのも、感覚がおっさんでもう凝り固まっているから。
紋切型の文章がさらに加齢臭を増しているというか。
結局、なるべく若いうちに海外を経験をしたほうが
おもしろいということは言えるのではないか。
おっさんの海外旅行記は群れて冒険をしないからつまらないのかもしれない。
なんでもお金で解決しようとするからおもしろいことが起こらない。
若いときにアジアでもひとり旅をするとなにがわかるのか?
これは体験しないとわからないと思うが、「なんとかなる」という感覚である。
危険なことをしても、綱渡りのような冒険をしても、
それを思い切って勢いよくやればかならず「なんとかなる」のだ。
窮地に追い込まれても大丈夫で、そのときかならずなにかが起こり「なんとかなる」。
海外ひとり旅をすると、わかるのがそれである。
いざとなってしまえばかならず「なんとかなる」のである。
そして、その意外な結果ほど人生でおいしいものはない。

いまのバイト先には海外からの留学生がたくさんいる。
ひとりで外国にいるのって、すごい不安でドキドキすることだろう。
あなたたちは勇気がある、すばらしい、拍手したいとわたしは心から思っている。
大丈夫。絶対、大丈夫。「なんとかなる」から。不安なんか笑顔で吹き飛ばそうぜ。
若いときに遊びまくったおれだっていまでもいちおうなんとかなっているんだから、
みんなも絶対に大丈夫で「なんとかなる」。「なんとかなる」は真実だよ。
かといって、お若い社員さんに会社を辞めろとけしかけたいわけではない。
日本に来ている外国の若い衆をちょっとすげえなって目でご覧いただけたら、
それだけでもう十分。
若いうちにいろんな経験をしたほうが絶対におもしろい。
おもしろいは正義。退屈やつまらないは悪。悪魔。魔。魔界。
危険なことをしない旅はつまらないことを本書から学んだ。
そうだとしたら、もしおもしろい人生を送りたい人がいたらなにをしたらいいのか。

「小品般若波羅蜜経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→「小品般若波羅蜜経」は大乗仏典である。
大乗仏教と小乗仏教の違いを簡単に説明する。
仏教というのは、釈迦ファンクラブからスタートしたのである。
AKBでもなんでもそうだろうが、ファンクラブというのは古参が威張るものと決まっている。
新参は古株の老人のまえで肩身の狭い思いをしなければならない。
いまの若い人は知らないでしょうが、山田太一というテレビライターがいる。
このファンクラブのようなものに参加したことがあるけれど、
「私たちは30年まえから山田先生のドラマを見ているのよ」と言われるとかなわない。
何回か山田先生とお茶をしたことがあると言われるともっとかなわない。
しかし、わたしほど山田太一のホンを読み込んだものはいないという自負もある。
果たして古株ファンとわたしのどちらが山田太一を理解しているか。
古株ファンが山田太一を好きなのはわかるが、
彼(女)らはその「好き」をうまく表現できないのである。
山田太一ドラマのどこかどういうふうにいいか庶民ゆえ言葉でうまく説明できない。
しかし、古参で古株だから自分たちのほうが山田太一を理解していると思っている。
「あなた山田太一さんとお茶したことあーる?」と聞かれたら終わりである。
わたしは山田太一さんとお逢いするどころか言葉を交わしたことさえ一度としてない。
ならば、わたしが山田太一ドラマを論じるのは意味がないのか。
それはそうではないわけでしょう? 
山田太一さんと逢ったことがなくても氏のドラマを論じることができる。
古株なんかよりもより深く山田太一ドラマの魅力を語れるかもしれない。
古株のファンより自分のほうがわかっていると言ってもいいのかもしれない。
言ってもいいだろう。――これが大乗仏教なのである。
古参や古株でなれあっているいる釈迦ファンクラブを大乗仏教は批判した。
あれは少しの人しか救いの船に乗せない小舟のような仏教で、
自分たちが大乗仏教ならばやつらは小乗仏教だと古株連中を否定した革新派がいた。

大乗仏教は釈迦の教えではないから仏教ではないという批判もあろう。
しかし、どちらもおなじ釈迦ファンクラブ。
逢ったことがあるかないかなんて、それほど重要だろうか。
小乗仏教のほうだって釈迦の死後10年も経てば開祖に逢ったことのない信者も
わんさかいたはずである。
わたしは小乗仏教よりも大乗仏教のほうが好きだ。
なぜなら小乗仏教の教えはどこまでもつまらなく役に立たないのに対して、
大乗仏教はロマンスがあるというか突飛でおもしろいのである。

「小品般若波羅蜜経」の話をしよう。
意味は小さな(小品)智恵(般若)の完成(波羅蜜)くらいでいいのだろう。
では、このお経で完成した智恵とはなにか。
ひと言でいえば、絶対がある。永遠がある。無限がある。このくらいになろうか。
お偉いお釈迦さまも結局人間であっさり死んでしまったわけでしょう。
釈迦も限界のある有限の存在でしかなかった。
人間釈迦はひとりふたりとカウントできる人間にしか過ぎなかった。
彼の教えもカウントされうる有限のものでしかない。
しかし、カウントできない絶対なるもの、永遠なるもの、無限なるものがある。
人間釈迦は死んだが、絶対的な永遠的な無限のブッダはいるのではないか。
そういうブッダがいたらどんなにいいことか。
なら、いたことにしてしまえ。こうして「小品般若波羅蜜経」は創作されたのだと思う。
以下は永遠が発明された瞬間なのかもしれない。

「およそ物質的な存在にせよ、精神的な存在にせよ、すべてが無量ですから、
般若波羅蜜は無量です。また無限なものを対象とするから、般若波羅蜜は無限です。
無限なものを対象にするとはいかなることかといえば、
あらゆるものが初めもなく中もなく終りもなく、
また最初も中ほども最後も認識することができないから無限であり、
そのように無限なものを対象とするから般若波羅蜜は無限です」(P425)


意味がわからないって? 
わたしだってわからんよ。わからないところがいいんじゃないか。
まあ、わかりやすくいえば永遠というものがございますよってこと。
宇宙の永遠を考えたら、たかだか百年にも及ばぬ人の一生など米粒程度だろう。
時給850円と1000円のあいだで心が揺れ動くのは永遠を知らないからともいえよう。
永遠から見たら、人生でなにが起こっても大したことではないと考えられないか。
10万円のほうがたしかに5万円よりも多い。これは有限のカウントできる世界の話だ。
しかし、般若波羅蜜は無限の智恵なのである。
そこでは10万円も5万円も意味をなさない。
そういうカウントできない世界があるという智恵があれば、ときにおもしろいことが起こる。
実際にカウントできない世界はあるのである。
なぜならこのお経にそう書いてあるのだから。
意味がわからなくても、ここまで読んでくださっているのならそれだけでいい。
なぜなら、いま抜粋だけれどお経をみなさまもお読みになられたでしょう?
これだけで功徳があるのだから。今日なーんかいいことあるかもよ~。
釈迦はお経のなかで弟子のカーウシカに語りかける。

「またもし、カーウシカよ、人が般若波羅蜜の教えを書写し、あるいは読誦している時は、
他の者は、それが人間にせよ、人間でないものにせよ、
その場所に近づいてかれに害をなすことはできない。
ただかれがおのれの過去の業(ごう)のむくいとして
害を被(こうむ)らねばならない場合は例外である」(P428)


お経はお守りみたいなものなんだ。
今日の占いで運勢がいいと気分がよくなるでしょう? あれとおなじと思えばよい。
結局、古今、人間にとって不安がいちばんよくないのだと思う。
あることをするのでも不安たっぷりでするのと自信を持ってするのでは結果が異なる。
では、どうしたら不安を少しでも消せるか。自分に自信を持つことができるようになるか。
不安になどなる必要はないのである。もっと自信を持っていい。
なぜなら、永遠のほとけさまが常にあなたを見守ってくれてるからである。
釈迦は弟子の舎利弗(しゃりほつ)に語りかける。

「さて、舎利弗よ、わたしが亡くなったのち、
般若波羅蜜の教えはまず南の地方に流布するであろう。
南の地方からさらに西の地方に流布するであろう。
西の地方からさらに北の地方に流布するであろう。
舎利弗よ、のちの世の正法(しょうぼう)の消え失せようとする時、
この教えは如来(にょらい)によってその土地にもたらされるのである。
そこにおいて、もし般若波羅蜜を書き写し、受けたもち、供養する者があれば、
ほとけの眼はその人を見ており、ほとけはその人を知り、
たえずその人に思いを送っているのである」(P454)


ほとけさまが見守ってくれているから、なにがあっても大丈夫なのである。
絶対になんとかなるから大丈夫、大丈夫、大丈夫なのである。
いちおう、なにが起きても大丈夫という理論的根拠はある。
少し難しいかもしれないが、功徳を積むと思ってちょっとがんばってみてください。

「そのとおりである。須菩薩よ、すべて法はみな言葉による表現を超えている。
すべてのものの空(くう)なるあり方は言葉をもって言い表すことができない。」
「世尊、そのように言葉による表現を超えているものには
それによって何かが増えるということはありませんし、
それによって何かが減るということもありません」(P478)


この世の現象はすべて空(くう)で実体のない幻想のようなものだから、
なにが起きようとそんなものは大したことがなく大丈夫なのである。
この世の裏には目に見えない、
言葉にならないものが存在しているから大丈夫なのである。
なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい。
がんばってもいいし、がんばらなくてもいい。
修業してもいいけれど、べつに修業なんかしなくてもいい。

「般若波羅蜜[永遠]に立てば、いかなる法もこれと定まったものとして
捉(とら)えられるものはありません。
道の実践というもむなしいおおぞらのごときものであり。
それこそがすなわち般若波羅蜜による実践であります。
世尊、いかなる法をも実践しないのが、
すなわち、般若波羅蜜による道の実践であります」(P467)


なにもしなくていいとお経に書いてあるのである。生きていたらいい。
死んでもいいが、生きているのもいい。生きているのは楽しいだろう。
なら、生きていていい。生きているだけでいい。生きているのはいいものである。

「欲情の作法」(渡辺淳一/幻冬舎)

→みんな恋愛をすればいいんじゃないかって思うのね。人を好きになろう。
異性を好きになった瞬間に、人生の輝きのようなものが倍増しになるのだから。
これはわたしのオリジナルではない。
バイト先の休憩室でさあ、ある女性が話しているのを聞いたわけ。聞かされたわけ。
「ツチヤさんが好きなのってHじゃないの? 待ってじゃダメじゃない。行動に移さなきゃ」
じんわり胸に沁み込んだとてもいいセリフでしたねえ。
はっきり言って、時給850円で働くなんて屈辱でしかないと思う。
しかし、恋をすれば、人を好きになれば、そこは楽天地にもなりうる。
わたし、職場に好きな女の人や女の子が何人もいて、
おしゃべりしたいとか、そんなことばかり考えているから。
本書で「失楽園」の渡辺淳一は男は女の身体だけが目当てと
うんざりするほどねちっこくしつこく繰り返しているけれど、
そうでもないよう気が個人的には。
むしろ思念のうえでの恋のほうが妄想パワーでより楽しめるというか。
いまのバイト仲間に申し上げたいのは、どうしてみんな恋をしないんだろう?
時給850円で働くなんてただただ屈辱でしかないだろう?
しかし、恋のようなものをすれば、そこは楽園にもなりうる。
人を好きになれば人間は変わるのである。
わたしは職場のあの人もあの人もあの子もあの子も好きである。
チャンスがあったらデートに誘いだしたいと思っている。
好きだから貴女(あなた)のことをもっと知りたい。
人を好きになるっていいよなあ。「失楽園」の渡辺淳一は言う。

「好きだと思ったら、褒めること。それはまさしく口説く原点です。
それをクリアすることで、新しい恋は始まるのです。
以上で相手を褒めることの重要さがわかったと思いますが、それでも、
そうした言葉を簡単に口に出せない人もいるかもしれません。
なんとかいおうと思っても、いざ女性と面と向かうと緊張して、
とんでもないことを口走りそうで不安になる。
そういう人にひとつだけ、簡単にいえるようになるコツを教えます。
それはひと言でいうと、「心を入れない」ということです」(P65)


男も女もみんな恋をしたらいい。
人を好きになったほうがまだつまらない人生がましになる。
バイト先で正直、まいったと思うことがある。
わたしより3歳年上の男性のひとりごとが激しくなっているのである。
むかしは「きつい、きつい」だったが、最近は「ちくしょー、ちくしょー」になった。
いやなもんだよ。いやいや、いんや。
ライン(流れ作業)で横になった人が
「ちくしょー、ちくしょー」とつぶやいているのを何時間も聞かされるのは。
その人がダイエー創業者とおなじ名前というのも、なにやら皮肉で笑えるというか、
笑っちゃいけない人生の神秘が込められているというか。
あの人も恋をすればいいのになあ。自信を持って人を好きになってほしい。
わたしなんかよりよほど優秀な男性なんだから、もっと自信を持って。
よおく見たら時給850円の底辺職場にもきれいな女性はいっぱいいるんだから。
みんな人を好きになりませんか。好きという思いが届かなくたって、
人を好きになるというだけで人生の彩りはより鮮やかになるのだから。
「失楽園」の渡辺淳一とかどうでもいいので、好き勝手なことを書いてみた。
しつこく繰り返し言いたい。人を好きになろう。