「少女病」(文:田山花袋/写真:藤牧徹也/青山出版社)

→いまのグラビアに出てくる美少女を見てもちっとも心ときめかない。
テレビは最近ぜんぜん見なくなったけれども、
出てくる少女の質が下がったのが一因かもしれない。
いまのいわゆる美少女って完成されすぎているんだよなあ。
不完全なところ、もろいところ、危ういところが少女の魅力のように思うのだが。
常識なんかまったく無視して大人なんかバカにしくさっている少女の輝きってなーい?
「おはよおございまあす」とかギョーカイ人に笑顔でペコペコする少女なんて老婆だろ。
物怖じしないで危険なことをやって、あとで羞恥に震える少女とかいないかしら。
「蒲団」で知られる田山花袋の小説「少女病」は、
おれさまのようなきもいおっさんが主人公。
道ばたや電車のなかで見かける少女たちをあれこれ品定めするだけの小説。
いまのギャルからは「きんもっ」とプギャーされそうな小説である。

「午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。
妻のことを思う。つまらんな、年を老(と)ってしまったとつくづく慨嘆する。
若い青年時代をくだらなく過ごして、今になって後悔したとてなんの役にたつ、
ほんとうにつまらんなァと繰り返す。
若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? 
なぜ充分に肉のかおりをも嗅(か)がなかった?
今時分思ったとて、なんの反響がある?
もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる」(P107)


おっさんさあ、人生あきらめが肝心だよ。妻も定職もあるんだからまだいいじゃん。
こちとら三十八でもうすぐ三十九になるのに妻どころか定職さえない。
田山花袋の「少女病」は、まあ贅沢病みたいなもんになるのだろう。
人間、欲をかいちゃ切りがねえって話だ。こいつは欲が深いんだ。
美少女を見てはいちいちこんな妄想をしているのだから。

「美しい眼、美しい手、美しい髪、
どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。
誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、
たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、
その日は呪うべき日だと思った」(P115)


それはもうあきらめるしかないんだから。身のほどを知れよ、田山花袋。
本書には藤牧徹也氏の撮影した少女の写真がたくさん挿入されていたが、
このいかにも現代的な娘っ子にはまったくの興ざめであった。
結局、いちばんの美少女っていい小説を読んたとき、
そこに出てくる少女をじぶんのあたまで思い浮かべたものがそれなんだ。
いたずらっぽい目をした少女はいいよなあ。
大人の女性でもときたまいたずらっ子っぽい目をするけれど、あれもまたいい。
すっかりおっさんになったずら。生まれ変わったら美少女になりたいにゃ。

「子供たち」(チェーホフ/池田健太郎訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→チェーホフって過大評価されすぎのような気がする。
チェーホフと聞くと、なーんか文化の香りがするけれど、まあ香水みたいなもん。
おれはさ、文学は酒で酔うものだと思っているから香水を嗅がされてもねえ。
この短編小説は大人がいない夜にトランプ遊びをする子供たちのスケッチ。
たくさん子供が出てきて、それを描き分けるのがうまいってことなんでしょうが、
ストーリーがないから困っちゃう。
おれはね、風景描写とか人物描写が大嫌いなの。
そんなもん一個だけ特徴を書いて、あとは読者各自のイメージにまかせればいいじゃん。
作者のおまえが伝えたい風景とか人物って言葉じゃ伝わらないって思うぜ。
その正確に伝わらないところが小説を読む楽しさじゃないか。
読者が自分の経験と照らし合わせ、
文中の言葉を手がかりにして風景や人物を創作するのが読書の喜びだと思う。
ひとつまえの記事に書いたモーパッサンの「悲恋」は読んでいておもしろかった。
ちなみにあの記事は原作を忠実にリライトしたわけではなく、
こちらの経験に基づいた一種の創作だけれども、あれこそ楽しい小説読書だと思う。
小説を読むというのはめいめいがそれぞれの創作をすることではないか。

「悲恋」(モーパッサン/青柳瑞穂訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→艶福家(えんぷくか/もてる人)の老人の昔話。
結局、小説というのはどこまでもおもしろいお話だと思っている当方には、
じつに味わい深い作品であった。
画家の老人は若いころ絵を描きながらフランスのあちこちを放浪していた。
イケメンで若い画家といったらもてないはずもなく、各地の田舎娘とねんごろになった。

「恋されるということは、やっぱり、いいものですからな。
たとえ相手がどんな田舎娘でもね。
男に会うときの、あの心のときめき、また、別れるときの、眼にためた涙、
まことに珍重すべき、尊いものじゃありませんか。
ゆめゆめ、ばかになんぞいちゃいけません」(P73)


画家は旅先の宿で、嫌われもののオールドミス(ハイミス)と出会う。
女は50歳くらいで自分が熱心な英国国教会の信徒であることをアピールしていた。
会うひとごとに英国国教会の布教パンフレットを配るのでみなから疎んじられていた。
日がななにをするでもなく周辺を散歩したり、岩の上で瞑想したりしていた。
25歳の画家は50女と話すこともなく風景を写生する毎日だった。
同宿のふたりは話すこともなく、それぞれの旅生活を送っていた。
どうして放浪画家はこの地にとどまったのか。
まずこの周辺地域の雄大な自然の風光に魅せられていたことがある。
それだけではなかった。
嫌われもののミス・ハイリエットのこともあたまの片隅になかったと言ったら嘘になろう。

「できることなら、わたしは、この風変りのミス・ハイリエットを
すこしでも知りたいと思ったのです。
そしてまた、あのさまよい歩く老イギリス婦人の孤独な魂のなかは、
そもそもいかなるものか、それも知りたいと思ったのです」(P91)


人はだれかからほんの少しでも関心をもってもらえたら変わるものである。
そのわずかな関心を得るのでさえまったく本当に難しいのだけれども、
それでも男女ともに異性からなんなりかの関心を持ってもらえたら変わることができる。
もちろん、変わることがいいことか悪いことかはわからない。
若い画家は会心の習作を描き上げることができた。
しかし、それを宿の女主人に見せてもさっぱり理解してもらえない。
そのとき、ミス・ハイリエットが通りかかったのである。
じつのところ画家はこの老婦人にも絵を見てもらいたいと思っていた。
そのためにだれの目にも触れるところに絵を立て掛けておいたのである。
25歳の若い画家の描いた風景画を見て50歳の老婦人は感動する。
彼女はこう言ってくれたのである。
「おお、あなたは胸をどきどきさせるように自然を理解しています!」
画家は彼女の言葉に感動する。

「いや、はや、わたしは顔を赤くしてしまいましたね。
女王さまにほめられたよりも感動しましてね。
このお世辞には、わたしもつられましたよ。征服されましたよ。負けましたよ。
できるものなら、彼女に接吻がしたかったくらい。
これ、冗談じゃありませんよ!」(P95)


このとき以来、ふたりは言葉を交わすようになる。
それどころか連れだって散歩をするようにも、ふたりで夕陽を見て感激するようにもなる。
孤独な老婦人は画家の横で美しい落日に見入って、
つたないフランス語で「わたくし、この自然を、愛します、愛します、愛します」と言った。
孤独な女は自然と動物を情熱的に愛していた。

「ほどなく気づいたのですが、彼女は、何かわたしに言いたいことがあるらしく、
しかし、それをきりだして言うだけの勇気はないのですね。
わたしは彼女がおずおずしているのがおもしろく、
素知らぬふりをしていたのです。
朝など、わたしが絵具箱を背負って出かけると、
よく村のはずれまで送ってきたものです。
おしのように黙っていますが、ありありと焦慮の色が見え、
何か、きっかけの言葉をさがしているようでした。
けれど、ふいと、わたしのそばをはなれると、例のはねるような足どりで、
さっさと引返してしまうのです」(P101)


宗教べったりだった嫌われものの老女にスキップさせたものはなにか。
人はどういうときにスキップするのだろう。
なにが孤独な老婦人の魂の底に芽生えたのだろうか。
あるとき意を決して婦人は画家に絵を描いているところを見せてくれと頼む。
画家が承諾すると毎日のように老婦人は若い画家の横に陣取るようになった。

「わたしは彼女にたいして、旧友のような、遠慮のない、親身な態度をとっていました。
それだのに、やがて、彼女の態度のすこし変ってきたことがわかりました。
はじめのころは、わたしもさほど気にもとめませんでした」(P105)


老婦人の心中でなにかしらの変化が生じたようだ。
画家が絵を描いているといきなり駆け足で飛び込んでくることがあった。
そうして上気した顔で画家と画板を見比べるのである。
その顔には深い感動に打ち震えているさまが見てとれた。
かと思えば、急にいまにも気絶しそうになることもある。
突然不機嫌になって、ぷいと画家のそばから離れていくこともあった。
画家は彼女の変化に気づいていたのかどうか。
食事の席で、いまはいささか孤独から遠ざかった老婦人に、
画家はこんな冗談まじりのお世辞を言う。
「ミス・ハイリエット、きょうのあなたは星のようにお美しい」
そんなときの彼女は、すぐに顔をぱっと赤らめて、まるで小娘のようなのだ。
それこそ、十五歳の小娘のよう。
いったい老婦人はどうしてしまったのか。
このごろでは画家が声をかけると、答えることには答えるが、
それがわざと無関心をよそおい、どことなくいらいらしている。
それに、なにかにつけ、つっけんどんで、気短かで、神経質だった。

「ときどき、彼女はわたしを奇妙な眼つきで見ていました。
そんなあとで、わたしはよく思ったことですが、死刑の宣告を受けた者が、
執行の日を知らされたとき、やはりこんな眼つきをするのではないでしょうか。
彼女の眼には、一種の狂気が宿っていました。
神秘な、はげしい狂気なんです。しかし、そればかりでなく、まだ何かありました。
一種の熱情なんです。実現しない、実現しえないものにたいする、
絶望的な願望、性急で、無力な願望なんです!
さらに、彼女のなかでは、一つの争闘が行われているように思われました。
彼女の心が、得体の知れない力を制御しようとして、
それとたたかっているように思われました。
おそらく、ほかにも何かまだあったんでしょうが……。
さあ、そうなってくると、わたしにはわかりません」(P108)


ある日、画家はいつものように風景画を描いていた。
しかし、この日はいったいどういう気持の按配だろう。
風景のなかにひとりの青年を入れたくなった。そうしたら少女も入れたくなった。
いままでのような風景画ではなく、そこに青年と少女のカップルを入れたい。
画家は口づけをする青年と少女を遠景にすえた絵を描き上げた。
どうしてかこの絵をほかならぬミス・ハイリエットに見てもらいたくてたまらなくなった。
いやがる老婦人の手を取って画家は絵を旅先でできた友人に見てもらう。
それまでずっと孤独な人生を歩んできた宗教だけが救いだった老女は絵を見て泣く。
どうしたらいいかわからなくなった若い画家が老婦人の手をつつむとさらに泣く。
老婦人の手は震えていたから画家はさらに強く手をにぎってやる。
すると涙で顔をくしゃくしゃにした老婦人は十五歳の小娘のように、
勢いよくさっと手を引っこ抜いた。
このときプレイボーイの画家はようやく老女の心中に起きた変化を知る。
画家は明朝すぐにでもこの地を離れることを決める。
その晩の夕食では画家とミス・ハイリエットのあいだに会話はなかった。
画家はこの宿で下働きをする田舎娘ともいつものようにねんごろになっていた。
性の営みなどまるで知らぬオボコを女にするのが画家はうまかった。
この娘とも今晩でお別れだと思うと25歳の青年としては致し方ない行為だった。
女中が鶏小屋のほうへ行ったのを見かけた画家は追いかける。
いきなり画家はうしろから田舎娘に飛びついたが、
娘はいやがるどころかキャッキャと喜びの声をあげる。
画家は田舎娘の顔じゅうに接吻をして服を脱がしかかったまさにそのとき、
後方で物音がする。
この場から走って逃げていくミス・ハイリエットのうしろすがたが見えた。

「わたしも部屋にもどりましたが、ただもう恥ずかしくてなりませんでした。
彼女にこんな場面を見られ、何か犯罪行為でも行なっているところを発見されたように、
にっちもさっちもゆかなくなってしまいました」(P117)


画家はひと晩じゅう寝つけなかった。それでも朝方すこしまどろんだのだったか。
大騒ぎしている声がするので、寝床からはいあがりそこに向かう。
井戸の底に水死体が沈んでいるという。
画家も力を貸しその水死体を引きずりだしてみると、
それはもはや息をしていないずぶぬれの孤独な老女、ミス・ハイリエットだった。
この艶福家の老人の昔話を聞いて涙を流さない女性はいなかったという。
さて、いまは老いた画家はなんと言ってから、このかつての悲恋の物語をはじめたのか。

「奥さんがた、前もって、断っておきますが、あまり陽気な話ではありませんよ。
わたしの一生のうちで、いちばんに悲しい恋物語なんですから。
ついでに、わが友人諸君にお願いしておきますが、この話のような恋愛は、
女たちにゆめゆめさせないようにしてもらいたいものです」(P71)


「ブロードウェイの天使」(ラニアン/加島祥造訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→仕事まえに小説なんか読んで感動するのはよくないのかもしれない。
ほかの仕事はわからないけれど、いまのバイト先はだれでもできる単調単純労働。
感動するというのは人間らしくなるということだから、ミスを連発しかねない。
感情の動きのないロボットのような人ほどうまくこなせる単調単純労働ゆえ。

人を好きになるっていうのはなんてすばらしいんだろうという短編小説である。
因業な競馬のノミ屋(賭博師)のところに5、6歳くらいの少女が置き去りにされた。
馬券代の代わりに父親から渡されたのである。
ところが、父親は帰ってこない。
ノミ屋はベソ公と呼ばれ、このあたりいったいの嫌われものだった。
ベソ公は大金を隠し持っていたが、いつもしみったれた顔をしていた。
彼はとにかくケチで金払いが悪く、ちぢれ耳のウィリーという
ベソ公を拳銃で一発やってやろうと思っている男もいたくらいである。
そのベソ公がどうだ! 
愛らしくだれにでも微笑みかけるマーキーという少女は、
ベソ公やその周囲の連中とはまさに正反対の世界から飛び込んできたように思われた。
ベソ公はそんなことははじめてだったのだが仲間に相談したあと、
マーキーを家に連れ帰り、ひと晩じゅう腰かけたまま、マーキーの寝顔に見入っていた。

「それからどうなったかというと、ベソ公はこの子供をめっぽう気に入っちまうんだ。
これにゃあみんなもえらく驚く。
以前のベソ公は、人間どころかどんな物にだって興味を示さなかった。
それがその夜以来、マーキーを好きになって、
手放すことなんて夢にも考えられないほどになったんだ」(P20)


人間嫌いだったベソ公が変わった。
いつも孤独に金のことばかり考えていた男が、
マーキーを連れてナイトクラブに行くようになった。
そこで踊るマーキーのかわいらしいこと。
マーキーという少女を媒介にして嫌われものだったベソ公も仲間と打ち解けはじめる。
人は変わる。だれかを好きになれば人は変わる。

「とにかくベソ公は以前には死にものぐるいで金をためこんでたのに、
いまはそれを湯水みたいに使うようになる。
その金の使い方がマーキーのことだけじゃないんだ。
『ミンディ』やほかの店でも、ひとの勘定まで払うようになるんだ。
他人におごるなんて、以前のあいつのいちばん嫌いなことだったんだけどね。
そりゃあいまでも少しは金に未練があるんだろうけど、
それでも以前と大違いさ、それにそのおかげかどうか、
やつの顔つきもすっかり違ってきたぜ。
以前のようにもの哀しげで意地悪の下品な口つきじゃあなくなって、
時には気持のいい顔だと思うことさえある。
たとえば少し笑いながら「やあ」って大声でみんなに言うときなんかだ。
そんな変り方を見ると、ベソ公をこんなに明るくするマーキーには、
市長が勲章を出すべきだなんて言いだすやつもいるよ」(P26)


別れは突然にやって来る。
雪の降る夜にもかかわらずマーキーはナイトクラブにいるベソ公に会いに来た。
これがよくなく重い肺炎にかかってしまったのである。
マーキーという少女はこの界隈の人気者になっていた。
やさぐれたチンピラのような男女しかいないうらぶれた町に舞い降りた天使。
それがマーキーだ。だれが入院先の病院に見舞いに行かないことがあろうか。
かつてはギスギスしていた連中が一致団結して有名な医者を呼びに行く。
死ぬな、マーキー。マーキーは弱っていくばかりである。
ある夜、もうダメかと思われた晩、マーキーはうっすら目を開き、みんなに笑いかけた。
開いた窓から近所のナイトクラブが流すダンスミュージックが聞こえてくると、
ベッドのマーキーはスカートを持ち上げて踊りはじめようとするではないか。
そのとき破局は違ったかたちで現われる。
一時的な記憶喪失にかかっていたというマーキーの実の父親が、
姉をともなってこの場に乱入するのである。
やはりマーキーはこんなさびれた繁華街とは縁のない上流階級の子女であった。
そのときベソ公がまた元に戻ってしまったのである。
意地悪で卑しい顔つきに戻って、二度とほかの表情は見せなくなった。
みんなが見ているまえでベソ公は父親に冷たく言う。
みんなのなかにはベソ公が大嫌いで殺そうとしたこともある、ちぢれ耳のウィリーもいた。
みんなが注目するなか、天使のいっときの父親だったベソ公はなんと言ったか。
以前の金は返せよ。金さえ帰してくれたらあんたとはそれきりだ。

「そう言ってベソ公は歩いて病院を出ていく。やつは二度と振り返らないぜ。
やつが出ていくとき、その背後にいるおれたちはまるっきりしんとしちまった。
その静けさを破るのはすけこましの鼻をすする音、
それからおれたちのうちの何人かがすすりあげる声だけさ。
ああそれから、いまよくおぼえてるけどね、
あのときおれたちのなかでいちばん悲しそうにすすりあげたのは、
ほかでもないあのちぢれ耳のウィリーだったぜ」(P48)


「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ しぐさのウラ読み」(匠英一監修/PHP研究所)

→怪しげな通俗心理学者の監修した薄っぺらい本を仕事のために読む。
ああ、なんてぼくって仕事熱心なんざっしょ。
ええ、そうですとも、仕事、仕事、毎日仕事のことばかり考えてまっす。
日本語がほとんど通じない外国の人たちと働いている。
そうすると言葉があてにならないから、しぐさや身振りに頼るほかない。
やったら腕組みしている人が多いけれど、あれは見たまま不安なんだろう。
それとぼくの横に来るとポケットに両手を入れている人がいる。
いったいなにを隠しているんだ、このこのう、と思ってしまうが、
本書の「はじめに」に書いてあるように
通俗心理学は唯一の正解を示すものではないのだろう。
まあ、しょせん心理学はインチキと、あるカウンセラーも言っていたしね(おい!)。
鏡をよく見る人はナルシスト(自己愛者)って書いてあるけれど、
ぼくは自己愛性人格障害レベルだけれど鏡を見るのは大嫌いなんですが?
まえから知っていたけれど、まばたきが多いのは緊張している証拠なんだって。
こういうしぐさの心理学みたいのは逆利用できるんだよね。
ぼくなんか緊張しているように見せかけようと、わざとまばたきを増やすこともあるから。
演技してそのしぐさをしている可能性もあるから、眉唾程度の認識のほうが安心。

同調行動(真似)は相手を好きだからという説が本書に公開されていた。
これは本当かなあ。
職場で本のピッキングをしているとき、みんな右で回っているとき、
ふざけてぼくが左で回ったらある子が真似をしはじめた。
あれは好きだからではなく、もの珍しくて真似しただけなんじゃないかな。
単純作業で退屈だから、ぼくも特徴ある人のピッキングを真似することがある。
しかし、かならずしも真似た相手を好きかといったらそうでもないような気がする。
動きを真似してもらえるのは嬉しい。
ここだけの話、けっこう荒いピッキングをするときもあるんだけれど、
そういう自己流ピッキングを女子高生がしているのを見るとにんまりしちゃう。
ウソをついている人の特徴は――。
1.不安をまぎらすために早口になる。
2.本心を隠そうとするため声のトーンが高くなる。単純に高い声になる。
3.相手を言いくるめたいから声に抑揚をつけるようになる。
要するに、AVやフーゾクのスカウトマンみたいな声になるということだろう。
不安定な職場で一部古株女性パートだけを残して
ほかのパートを早く帰そうとする社員さんもあるいは似たような声になるのかもしれない。

よく髪型を変えたりイメチェンをひんぱんにする子はいったいどういう心理なのか。
通俗心理学によると、自分に自信がなく、内面に不安を抱えていることが多いらしい。
「自分がこうなりたい」より「他人にどう見られるか」かよく気になる子。
自己信頼感が欠如しているから何度も髪型を変えるってこれは本当かなあ。
ぼくは行列ほど嫌いなものがなく、よほどのことがないと並ぶことはないが、
行列はしているあいだに期待感が高まるのでいいらしい。
本書には書いていないが、行列して得たものは
実物以上の高評価を与えるものなのかもしれない。
だったら、女の子は男からメールアドレスを聞かれたら
すぐ教えちゃいけないって話だわな。
デートに誘われてももったいぶって焦らしたりするのもときにはいいのかもしれない。
でも、そうしているうちに誘われなくなるかもしれないから、
繰り返しになるが通俗心理学ごときを指針にして人生を決めてはいけないのだろう。
知らないでやるとかえってうまくいくことって多い(ビギナーズラックのこと)。
知ったがためにあれこれ考えちゃって、逆に失敗してしまうことになる。
通俗心理学は知っているがためにあれこれ悩んでしまう有害情報の山ではないか。
まあ、あれこれ悩んだり不安になったりするのも人生の楽しみのひとつ
と言えなくもないから、本書のような通俗心理学の本も十分に存在理由はあるのだろう。
これを「絶対の正解」だと信じないかぎりにおいて、の話ではあるけれど。

「創価学会Xデー」(島田裕巳・ 山村明義・山田直樹・溝口敦・他/宝島SUGOI文庫)

→日本文化論をやるなら巨大権力団体の創価学会は外せないのだが、
これはもうだれも手がつけられない日本戦後史のタブーになっているような気がする。
むかしは貧困層が中心だった創価学会だが、いまでは富裕層も多い。
政治、経済、マスコミあらゆる権力機構の要職に学会員が入ってしまっている。
このためうっかりなにか言うと、へたをすると食い詰めかねないのである。
一夜にして仕事がなくなってしまうような事態も絶対に起こらないとは言い切れない。
末端会員はいい人たちばかりなのだろうが、
現在において創価学会はそれほど怖ろしい権力団体に成り上がってしまった。
果敢にタブーに挑戦した学ぶところの多かった本書でも指摘されていたけれど、
創価学会は敵を作ることで連帯を強めてきたが、
いまはもうほとんどの敵に勝利してしまっているのである。
政治も創価学会の集票力をもはや無視することはできないから、
あの団体はもう完全に日本を牛耳ることに成功したのではないかと思われる。
最後の問題は名誉会長の池田大作氏の死後どうなるか、である。
アンチ学会は池田大作氏の死亡を
いつかいつかと舌なめずりしながら待っていることだろう。
しかし、わたしは現在87歳の池田大作氏は死なないと思っている。
少なくともこの文章の書き手よりも早く死ぬことはなかろうと思っている。
なぜかは「死」とはなにかを考えればわかる。
「死」とは医者が死亡診断書を書くことなのである。
というのも、創価学会にはおかかえの優秀な医者が複数いる。
老いさらばえた池田先生の煩悩肉体を冷凍保存でもなんでもしてとりあえずストップして、
その状態で医者が死亡診断書を書かなければ名誉会長は永遠に生きられることになる。
少なくとも100歳まではこの手を使えるからあと13年は死なないと思う。
こちらはあと13年生きていられる自信がないから、
とってもゲスな興味があるけれども池田大作さんの死を見ることはないだろう。

創価学会ウォッチャーとでもいうのだろうか。
わたしは下世話な関心から創価学会のことがとても好きである。
たぶん浅い学会員さんよりも創価学会のことに詳しいだろうし、
かなりの深い学会員さんよりも教学を妄信的にならずに勉強しているつもりだ。
学会員の好きな勝った、負けたをやりたくないから論争からは逃げるけれど。
絶対に折伏(しゃくぶく/勧誘)しないと約束してくださるのなら、
社会勉強として座談会やらなにやらを見学させていただきたいくらいである。
世知長けた学会員さんは損得勘定に細かい。
学会員さんは損をすることをとにかく嫌う。
彼(女)らが熱心に選挙活動やら財務(上納金)をするのはみな功徳のためである。
ならば、返報性の法則を期待してまずこちらから差し出そう。
忙しい学会員さんは、こんな本を読む時間はないでしょう?
お読みにならないでもいいようにわたしがおもしろいと思ったところを紹介する。
学会員さんのみならず人間は権威に弱い。
有名どころの田原総一朗の言葉から。
田原は池田大作と田中角栄の共通点をこう説明する。

「田中さんと池田さんの共通点というのは、
世の中は不条理で矛盾だらけだということを知っていたところだったと思います。
インテリは、世の不条理を論理で処理しようとする。
でも両人は、世の中が論理なんかで整理できるもんか、
理屈は後からくっつけるもんだというスタイルです。
エネルギッシュで明るくて、困惑するような事態になっても笑い飛ばしてしまう。
典型的カリスマです。おそらく、そういうものを
庶民が求めているということがわかっているんでしょう」(P26)


創価学会の問題点はなにか。
インタビューで創価学会の功罪を問われて田原総一朗はこう答えている。

「罪の方から先に言うと、ものを考えない人を大量生産してしまったということでしょうか。
ものごとについて、どうすべきなのか、どうした方がいいのかを考えず、
信じればそれでいいというのが宗教ですから。
キリスト教だって、マリアが処女のまま懐妊し、キリストは死後に復活したなんて、
どう考えても理屈に合わない。
だけど、そうなんだと信じるところから信仰は始まるんです」(P33)


自分でものを考えるのは苦しく、ものを考えないでいられるのは楽なのである。
しかし、どうして楽をしちゃいけないのかってなるとわからなくなる。
朝日新聞が好きな人だって(朝日新聞信者は学会員より嫌いかも)、
自分のあたまで本当にものを考えないで済むために読んでいるわけだから。
人間は好きなことをするのだろう。
人は群れることを好む。みんなでおなじことをするのは楽しい。
偉い先生からほめられるのは嬉しい。
このあたりの人間心理から創価学会は発展していったのだろう。
たぶんある種の人間には創価学会ほど楽しいものはないのだと思う。
さて、学会でいちばん強いのは婦人部らしい。
本書では与那原恵による婦人部のルポがもっともおもしろかった。
ライターが拾った女性の元学会員の言葉に
「やべえ、やべえよ」と笑いがとまらなかった。
女って男と違って理屈ではなく本音で生きているところがあるんだなあ。

選挙になると休みなんてまったくとれません。
何百件という数の電話をかけたり、家を訪ねていったり、
その結果を毎日報告して、指導もされる。
適当にやっているふりなんてできないし、そんな気持ちもまったくなかった。
やはり競争心があるし、学会もその心理を巧みに利用していたのでしょう。
選挙活動に励めば、自分の御利益になるし、功徳を積むことになると信じていた。
(……) 自公連立……政治のことなんてまったくわかりませんよ。
『聖教新聞』しか読まないんだから。
私たちに考える時間なんて、与えられませんからね。
でも、選挙活動には感激があるし、学会員ならではの連帯感もある。
仲間と一緒に物語をつくっていける。
困難に立ち向かう物語。それは人を酔わせます」(P152)


池田先生の正体をこれほどうまく言い表した言葉をわたしは知らないかもしれない。

「池田のカリスマ性といいますけれど、
それをつくり上げているのはじつは池田自身ではなく、
女性たちひとりひとりなんですよ。
本だって大したこと書かれていないのはわかっているんですけど、
それをあえて深読みしている私たち。池田は矛盾だらけの話をしていますけど、
それにもすごい意味があるんじゃないかって都合よく解釈する。
自分が時間もお金も捧げた人は、偉大な人物でなくてはならない。
俗悪な男であってはならない。
そういう個々の意識が池田をカリスマにして、
実物以上に肥大化させているんです」(P156)


元学会職員は以下のように語ったことになっている。
ちなみに、わたしはすべてライター与那原恵の
実体験に基づく創作ではないかと疑っているが。
このライターさんは脱会者ではないだろうか。
とにかく、記事のうえでは元学会職員が語ったことになっている。

「学会には、いろんなドラマがあるんですよ。
誰が誰を裏切った。あそこに秘密のグループがある、こんな企てがあるとかね。
親しい人だけに秘密を打ち明けたつもりでも、
意外な人物が把握していたなんてこともよくある。
どこで誰がつながっているのかわからない。
男女の色恋沙汰から暴力沙汰まで、ものすごく複雑怪奇なドラマがたくさんある。
さまざまな情報が錯綜している。表向きの連帯感とは別の、裏に渦巻くドラマ。
そう、まるで大河ドラマ。いつ終わるともしれない大河ドラマですよ。
ドラマは延々と続く。私はそれに疲れてしまったけど、
そのドラマが学会員を興奮させるのもよくわかる」(P158)


わかるわかる。学会員さんって噂話とか人の悪口が大好きで人間くさいんだ。
むかし学会員のキャバ嬢に池袋でラーメンを奢ってもらったことがあるけれど、
人の悪口がとまらなくてひるんだ記憶がある。
ゴミ清掃車に乗っている人と当時はラブラブだったらしい。
で、なんかその次の男は難病で死にゆく中年らしく、
彼を看取るという自己陶酔にうっとりしているところをネットで見かけた。
悪口を言っていた人ともすごい仲良さそうにしていて人間力つえええ、と思った。
きっと創価学会に入ったら毎日がドラマっぽくなるんだろうなあ。
山田太一ドラマのようなものではなく、もっと俗っぽい安っぽいドラマでしょうが。
わたしはおもしろい人生を経験したいから創価学会に入ることができたら
いちばんいいのだろうが、群れるのがとにかく苦手だから無理だろう。
群れて別の群れと対立するとか、絶対にできないって思う。

「学会の会員たちは、強い人間関係で結ばれており、
熱心な活動家であればあるほど、学会員以外の人間関係をもっていない。
家族や親戚一同が皆、創価学会の会員であれば、脱会も難しい」(P200)


べつに孤独な時間もまたいいじゃないかと思うけれども、
群れたがる人にとっては孤独ほど恐ろしいものはないのかもしれない。
孤独であると見られることをとにかく嫌う人たちがいるのである。
友人や知人の数を自慢する手合いである。
いまの職場でもいつも群れている人たちというのがたくさんいる。
とはいえ数が多い意見のほうが「正しい」ことになるのだから、
人が群れるのは間違っているわけではなくサバイバル戦略として理に適っている。
とすれば、たったひとりでわたしに向き合ってくれたあのキャバ嬢は勇気があったんだな。
学会員さんはすぐ囲もうとしてくる気がする。
自信のなさの裏返しなのだろうが、よく大きな声を出す人が多いような。
そうしてやたら人情家ぶりたがるのだから学会員さんはおもしろすぎるぜ。

根本の問題に入ろう。池田大作はどうして偉いのか?
創価学会二代目会長の戸田城聖の弟子だからである。
では、なにゆえ戸田城聖なる男は偉いのか?
池田大作が小説「人間革命」でとても偉い人として描いたからである。
この権威の循環(自作自演)をわかっている人は少ないが、
わかっている人はそれをうまく使うし、
相手のそれ(にせ権威)を指摘しないでうまく利用しようとするだろう。
古くは空海がやったことでもある。
自分は中国で偉い坊さんから最高の仏法を教えられたとうそぶいて
日本で大出世をしたのが弘法大師の空海である。
その中国のお寺に行ったことはあるが(西安の青龍寺)、
うさんくさい坊さんが寄付金を寄越せと迫ってくるので、
いまから思えばまさしく空海の学んだ寺である。
わたしが空海や池田大作先生の真似をしようとするならば、
ストリンドベリや一遍が使えるのである。
マイナーなストリンドベリや一遍を天才と称し上げて、
自分が彼らについていちばん詳しいとうそぶけばひと角の権威になれるかもしれない。
自分で賞をつくって自分に章を与えるような行為は人間くさくてたまらなくないか。
どうしてか池田大作さんを嫌いになれないところがある。
こんなことを白状しちゃうと反対にアンチ学会の人から嫌われてしまうのかもしれないが。
池田大作さん、おもしろいよなあ。

「戸田が偉大な指導者として崇められてきたのも、
池田の小説『人間革命』があってのことである。
池田が戸田を師として崇めることで、戸田の地位は高まった。
もしそれがなければ、戸田は、
最終的には必ずしも成功を得られなかった実業家であり、
酒を飲まなければ演説もできないアル中にすぎなくなってしまう」(P297)


いい弟子を持つのがいかに重要かということだろう。
イエスの正体はきちがいの浮浪者だったのだが、
弟子がみんなで神格化して、
後年十字軍を結成するような危険なキリスト教を作ったのである。
乞食シャカの無欲は廃人ゆえだったのだろうが、
弟子たちが勘違いしてこの人は偉いのではないかと教祖にしてしまった。
唯円は師匠の親鸞を理想化して威張りたいと思っていたのかもしれない。
にもかかわらず、おいしいところはみんな親鸞の子孫の蓮如に
持っていかれてしまったのだから運のないお気の毒さまな男である。
こう考えると、師匠と弟子はただなれあっているだけとも見ることができる。
大学教授なんかちっとも偉くはないが、
アカポス(大学での仕事)の人事権を持っているから弟子は敬うのである。
博士号も師匠から認められないと取れない。
さらに弟子にもうまみがあって、あの教授の弟子だと言えば威張れる。
本当は師匠も弟子も偉くないのだが、
師匠も弟子も威張りたいからお互い群れてなれあっているのかもしれない。
なんかものすごい本当のことに気がついてしまったようで自分が怖い。
このへんで筆を置かないと、いやキーボードをとめないと、
なにを書くことになるか恐ろしいので強制終了させていただく。
最後に創価学会豆知識を少々。
北朝鮮のようなマスゲームをして人文字を作る、
世界青年平和文化祭ってなくなったんだってね。
それから勤行(ごんぎょう)が簡素化されたらしい。
むかしは勤行を朝30分晩15分やらなければならなかった。
いまはそれぞれ5分ずつに短縮されたとのこと。まあ、いまはみんな忙しいもんね。
本書はとてもおもしろかった。感想は――。
創価学会は「正しい」し池田大作名誉会長は「偉い」と思いました。

「[宗派別] お経のすべて」(藤井正雄編/日本文芸社)

→むかしインドに3ヶ月行ったことがあると言ったら、
バイト先のインド人女性から「仕事で?」と聞かれた。
本当はうまいこと事故かなんかで死ねないかなあ(犯罪に巻き込まれて死ぬのもいい)、
と思ってふつう3ヶ月も旅するのなら入らない海外旅行保険にあえて入っての
不届き極まりない渡天竺(インド行)だったのである。
「遊びで」と答えたら「いつ」と聞かれた。
9年まえと答えたら、9年まえのインドはいまとぜんぜん違うと言われた。
数えなおしてみたら、正しくは今年で10年だった。あれから10年経ったのかあ。
これ見よがしに岩波文庫の「ブッダのことば(スッタニパータ)」を持って
3ヶ月かけて南から北までインド全土を旅した。
八大仏跡地はぜんぶ行ったし、そのほか仏教観光地もかなりまわった記憶がある。
それがきっかけで仏教を勉強するようになったのである。
インドでもらった宿題にこの10年取り組んでいたとも言えよう。
10年間も独学で仏教を勉強していたのかと自分でも驚いてしまう。
ひろさちや先生や梅原猛先生の本のお世話にはなったけれど独学である。
独学でも10年やればお経の意味くらいはわかるようになるのである。
本当にお経の意味がわかったのかって? ええ、はい、わかっておる。
お経の意味は「わからない」であることがわかった。

ちょっとまえ少しバイトを休んでお経を読んでいた。
お経を読むとなにがいいのかと言うと「無敵の人」になれるのである。
将来の不安とか目先の損得勘定とか、どうでもよくなるってこと。
たぶん客観的に見たらいまのわたしの状況はそうとうにヤバいのではないか?
38歳で時給850円でアルバイトしているって社会的評価は最低だろう?
はっきり言って、わたしより社会的信頼がないのは生活保護受給者くらいではないか?
読者さまがもしわたしの身分になったら不安で爆発してしまうような気がする。
将来、どうするんだ? 資格を取ったりしないのか?
少しでも時給のいい仕事を探せ。いまからでも遅くないから職業訓練に行け。
むろんのことわたしだって心配性な日本人だから、
ときおりこういう常識があたまをぶんぶん飛び交って発狂しそうになるときがある。
でもさ、お経を読むとスパースター状態というか「無敵の人」になれるんだ。
エリートとか底辺って、そういう目で見るからそうなんで実際は空(くう)じゃないか。
時給850円と1000円の差とか、宇宙から見たら塵(ちり)にも等しい。
人はどのみち死ぬのだし、死んだら浄土に往生できるのだから、ま、なんでもいっか。
お経によって「ええじゃないか」モードに入ることができるのである。
ええじゃないか。なんだって、ええじゃないか。
いまが楽しかったら人からはどう見られようが、そんなもん、ええじゃないか。
もてなくたって、ええじゃないか。
友人がいないのや少ないのも、そんなもん、ええじゃないか。
イケメンとかブサイクとか、美人とかブスとか、ええじゃないか。
お経を読むと、ええじゃないか、とみんな笑い飛ばせるようになるのである。
むかし龍樹研究家の大学の先生からメールをいただいたことがあるけれど
(自分が学んだ仏教大学院に奨学金で入ってはどうかという内容)、
そこに入って数年間勉強してもいまのように空(くう)はわからなかったのではないか。
仏教の空(くう)って、なんでもええじゃないかってことよ。
サンスクリット語やパーリ語を勉強するのはたしか偉いのだろうが、
そういうことをすると自分が偉くなったような気がして
かえって空(くう)から遠ざかるのではないか。

観音経はおもしろいねえ。人はなんで救われてもいいって書いてある。
子どもに救われても犯罪者に救われても他の宗教家に救われてもいい。
婆羅門(ばらもん)に救われてもいいって書いてあるんだから。
創価学会でも幸福の科学でも本人が救われるのならなんでもいいのだろう。
カトリックでもプロテスタントでもイスラームでもなんだっていい。
男は女に救われたらそのときその女は観音菩薩の化身だって考えるわけ。
男に救われる女がいたら、そのときの男はそのときその場だけのかもしれないが、
男は女にとっては観音菩薩。
われわれみんながときに観音菩薩になり、
ちょっとした笑顔の交流で救いあっているのかもしれない。
で、その観音菩薩はなんのために娑婆(しゃば/この世)に来たかっていうと、
遊びにきたんだってはっきり観音経に書いてある。
だから、遊んでいいんだよね。もっと遊んでいい。遊び暮らしてもいい。
だって、われわれはみな観音菩薩で
遊ぶためにこの世に来たって観音経に書いてあるんだから。
観音経っていったら法華経の一部よ。
法華経は石原慎太郎先生も愛好しているようなお偉いお経なわけね。

最後にだれも興味のないマイナーなお経の話。
天台宗では俗に「朝題目に夕念仏」といわれているらしい(P254)。
どういうことかというと、朝は法華経を読誦する。
で、一日が終え夕方になったら今度は阿弥陀仏を念想するという。
これすごいわかるって気がする。
朝はなんだか法華経(観音経)のほうが意気が上がる。
夕方はなんとなーくおつかれさま南無阿弥陀仏って言葉が出てきちゃう。
結局、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の差ってそのくらいなんだよねえ。
法然も日蓮もおなじ天台宗出身で、
ふたりの違いは夕方が好きか朝が好きか程度のもので、
つかみあいの喧嘩をするほどのものではないのではないか。
朝は南無妙法蓮華経で夕方は南無阿弥陀仏でもいいとわたしは思う。
根っこの天台宗では実際にそんな感じらしいんだから、
どっちが「正しい」とか獅子吼(ししく/シャウト)する必要ってあるか?
南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏、どっちでもええじゃないかって話だ。
マネージャーでも正社員でもパートでも、
そんなもん、なんだってええじゃないかという話とおなじ。
いまから法華経でも読んで時給850円のパートに行くことにしよう。

「ゴッドファーザー」って家族の物語と一般的にはされているらしい。
家族団らんとか、そういうのとはあまり縁のない人生だったから
家族愛とかわからないところがある。
いま生活と芸術を半々で実践している(そもそも映画は芸術ではなく大衆娯楽だが)。
生活の目から学芸(学問や芸術)を見て、
同時に学芸の視線で労働生活を見たらどうなるんだろうという、
生活や芸術どちらかいっぽうに必死になっている人からは殴られそうな、
世を舐めた中途半端で生意気な、しかし本人はとても楽しい毎日を送っている。
バイト先で人は悪くないんでしょうが、ちょっとトロっとしたおばさんがいる。
その人のムーブを真似するのがマイブームになっていた一時期さえある(ごめんよ)。
正直、850円でこんなところで働いてなにが楽しいんだろうと思っていた。
なにが楽しくて生きているんだろう。
先日、話をしてみたら今月中学生になった息子さんがいるらしい。
離婚してシングルマザー、いまはおばあちゃんとふたりで子育てしている。
子どもがかわいいという。
どれだけ世間知らずなのかって話だけれど、うるっときたところがあるのねえ。
自分の子どもってかわいいもんなんだ。
子どもの成長を見守るのは、
親にとっては人生をそのために犠牲にしてもいいくらいの喜びと悲しみがあるんだ。
閉じていた目が開いた気さえしたものである。
怖いもの知らずだから失礼極まりないことを言っちゃった、あはっ。
「◯◯さん(で)も恋愛して結婚して子どもを産んで離婚までしているんですねえ」
なに言うんだ、こいつ、という感じで人のよい笑みを見せてくれたから、
怒らせはしなかったとは思うが失礼は失礼である。
バイト先にはいろいろな人がいる。お嬢さんをふたり育て上げたという男性がいる。
ひとりは大学を今年卒業。
ふたり目は大学に行かす余裕がなく美容師の専門学校で我慢してもらった。
世を舐めきった発言かもしれないけれど、おかしなリアリティがあってねえ。
本業はハイヤーの運転手をしているそうなんだけれど、
タクシーの運転手をバカにするのがいかにもお父さんって感じで新鮮だった。
タクシーの運転手なんかとはレベルが違うと心底から思っているところに男を見た。
むかしの男ってそういうもんだよねえというか。

「ゴッドファーザー」は家族の物語である。
男が女を愛し子どもが誕生したのち「家族のために力がほしい」
と権力の階段の一段でも上を目指す。
男はプライドのために生きる。
「おれを見下したな」という怒りの感情ほど男を動かすものはない。
「今日からおれの手下になるかどちらか選べ」
ビジネスにおける男の関係は、突き詰めればこの上か下かに行き当たる。
パート3の暗殺シーンでヒットマンが「偉い人」を殺す直前に耳元で言う。
「権力は持たぬものを疲弊させる」
パッと見ても意味が取れないので、へったくそな訳だと思うけれど、これは真実である。
世界は権力のある人に都合よくできているのである。
権力があれば人からお辞儀をされ尊敬され気分のいい毎日を送ることができる。
虐げられた人間というのは、要するに権力を持っていないのである。
権力がないといつも年下の人間にペコペコして、
人から命令されないと動けない目が死んだ暗い男になってしまう。
当然のことだが、権力のない男のもとに女は一般的に寄ってこないだろう(例外あり)。
このため、「ゴッドファーザー」がある種の普遍的な物語になりうるのだろう。
男が家族のために権力を求めて世をのし上がっていく――。
男がより上に行くには上司や同僚を刺すしかないのだろう。
大企業の人事の実際は、
銃弾こそ飛び交わないが「ゴッドファーザー」のようなものなのではないか。
より上を目指して独立起業したら、
あるいは「ゴッドファーザー」の世界がわかって仕様がないのかもしれない。
男は家族を守るために闘うのだが、ひっくり返せば、
家族がいなければそんな厳しい競争の世界に居続けられないのかもしれない。

「ゴッドファーザー」は、家族のためにとでも思わなければ
脱落してしまう厳しい競争社会をわかりやすくマフィアの話にして描いている。
パート1だったか、暗殺のことをビジネスだと言っていたのは正しいのだろう。
その人を恨んでいるから殺すのではなく、
そのポスト(立場/地位/権力)が邪魔だから消えてもらうほかないのである。
さて、自分の兄が殺されたら敵に復讐するというのはビジネスなのかどうか。
それは私的な復讐であってビジネスではないと考える視点のあるところが
「ゴッドファーザー」のおもしろさではないかと思う。
ビジネスではある人の死は数値化され、
そのマイナスを補うプラスを相手に補償させる必要があるだけの話になる。
それが不可能ならば相手にも同程度のマイナスを負担してもらうしかない。
「ゴッドファーザー」における死は、社会的な死のようなものである。
このためマフィアの抗争における死は娯楽として楽しめてしまうところがある。
どす黒い話を書くが、ある人に本当に復讐したかったらどうしたらいいか?
答えは当人を殺すことではなく、当人のもっとも愛するものを殺すことなのである。
できたら当人の目のまえで殺すのがもっとも効果的である。
なぜなら当人を自分はその事態(愛するものの死)を防げたかもしれないと
一生のあいだ悔恨の情に追い込み人間として破滅にまでいたらせることができる。
パート3のラストはとても意味深い。
暗殺者の銃弾は、だれをねらっていたのかという話なのである。
マフィアのドン、ゴッドファーザーをねらっていたのか、それとも娘をねらっていたのか。
おそらくゴッドファーザーをねらっていたのだろう。それがビジネスである。
しかし、神のいたずらで銃弾はゴッドファーザーの肩をかすめ、
彼のもっとも愛する娘の胸に直撃してしまう。
ゴッドファーザーは二代にわたって家族のためにビジネス(家業)を成長させてきたが、
数十年ものあいだ家族のためによかれと思ってやったことが、
結局は最愛の家族を喪うというもっとも望まない結末を呼び寄せてしまう。
ゴッドファーザーは思ったことだろう。おれの人生なんだったんだよ、おい。
しかし、これがまた人生とも言いうるのではないか。
大きな成功を望み幸運にも得る人がいるけれど、
あまりにも大きな勝利の代償は最愛の人の不幸というかたちで返ってくることがままある。
ゴッドファーザーは日本でいうならば池田大作さんみたいなものだろうが、
あの人も最愛の息子さんを早く亡くしているし人生とはそういうものなのかもしれない。
自分の死はさしたる不幸ではなく、
本当に人の心身を裁断する悲しみは愛する人の理不尽な死なのだと思う。

「ゴッドファーザー PART3」 は想像以上におもしろかった。
というかパート1、2で6時間以上使っているし、
ネットで他人の感想を調べた時間やブログ記事を書いた時間を入れたら
投資時間が半端ないから、これはもう心理的におもしろいとしか思えない。
皮肉なことを書いたが、まあ年代記(クロニクル)のおもしろさを堪能したと言ってよい。
人生ってじつのところ三代を見ないと禍福や運不運はわからないのかもしれない。
祖父、父、息子――。祖母、母、娘――。
パート3まで続けて見たせいか、拳銃で人をぶち殺したくてたまらなくなった。
ベトナムのクチトンネルで銃を撃たせてくれる商売があったけれど、
高いと判断してせっかくのチャンスを逃してしまった。
「ゴッドファーザー」三部作を見た感想は、ああ、拳銃ぶっぱなしてえ。
可能ならば人体に向けてだけれど、それは無理っぽいから人形に向けてでもいい。
「ゴッドファーザー PART3」 の感想はゴッドファーザーの娘がかわいかった。
あの子のベッドシーンがあっておっぱいを見せてくれたらかなり点は上がったのだが、
調べてみたらあの女優さんは映画監督の娘らしくNGだったのだろう。
けっ、監督さんよ、なっていないぜ。
芸術のためならたとえ最愛の娘でも、
たとえ泣きながら嫌がっても衣服を引っぺがして、
秘めていた裸体を衆人の欲情にさらすのがアーティスト魂ってもんじゃないのか!?

「新註歎異抄」(佐藤正英/朝日文庫)

→歎異抄を数百回も読んだことあるなんて白状すると、
どんなヘビーな人生を送ってきたのかと思われるかもしれないけれど、
いまはもうなにがヘビーなんだかよくわからなくなっている。
50歳を過ぎて毎日低賃金で深夜までヘビーなものを持ちつづける人生のほうが、
わが人生なんかよりよほどヘビーじゃないかと思ったり。
でもさ、本人は正社員中間管理職時代より
いまのほうがよほど満ち足りている可能性もある。
他人のことはわからない。それぞれ持って生まれたものが異なる。
人の話を聞くと、自分だったらその人生は耐えられないと思うことがある。
しかし、本人はぜんぜんしんどいなんて思っていない可能性もあるわけだから。

歎異抄はゴーストライターの唯円が書いた親鸞の教えの書とされている。
どうやらまったく世間には受けいれられなかったようだが(お気の毒さま)、
本書で当時(1994年)東京大学教授だった著者は
歎異抄に関するかなりとっぴな新説を出している。それがまたおもしろい。
通常、歎異抄は第一条から第十条までが親鸞の言葉とされ重んじられている。
いっぽうで第十一条から十八条、後序は唯円の思想がまじっているので
軽んじられることが多い。
つまり第一条から第十条までが主内容で、
あとは文庫本の解説のようなものという考え方だ。
東大教授の著者は、
錯簡(さっかん/ページの取り違え)があったのではないかと指摘する。
むかしの本はたまにページの順番が違っていることがある。
歎異抄のオリジナルたる和綴じ本でこの錯簡が起こったのではないか。
著者は書いていないが、腹黒い蓮如がわざとやったのではないか
とわたしはさらに新説を出したくなってしまうところではあるけれど。
さて、著者はどうしてそのようなことを思いついたのか。
歎異抄の後序に「大切の証文ども少々ぬきいでまゐたせさふらふて、
目やすにして、この書にそへまゐらせてさふらふなり」とあるが、
その「大切の証文ども」がどこにもないからである。
もしや歎異抄の第一条から第十条までがその「大切の証文ども」ではないか。
要するに、どういうことか。
完全な正確を期すといささか著者の説とは異なってしまうのかもしれないが、
わかりやすく言えばこういうことである。
じつのところ歎異抄の主内容は第十一条から第十八条の唯円の論述であった。
第十一条から第十八条までが最初に掲載され、
第一条から第十条まではおまけに過ぎなかった。
歎異抄は親鸞の本ではなく唯円の仏教思想書で、
親鸞の言葉は自分の論述を証明するための付け足しに過ぎなかった。
以上がだれにも認められなかった東大教授の佐藤正英氏の考えた新説である。

この考えをもとに第十一条から第十八条までを最初に持ってきて、
その後に附録として第一条から第十条を付け足し再構成したのが本書である。
読みなれた歎異抄をいままでの逆の順番で読んだ感想は――。
わたしはほとんどだれにも認められていない佐藤正英氏の説は正しいと思う。
識者は親鸞の言葉だからという理由で(権威に弱い!)
第一条から第十条までをことさら重んじるのがいままでのならいであった。
しかし、私見では第一条から第十条よりも、
第十一条から第十八条までのほうが深い内容を語っているように思われるからだ。
もっと言ってしまえば、第十一条から第十八条のほうが本としておもしろい。
著者の新説をさらに過激化すると、歎異抄は親鸞の書ではなく唯円の思想書である。
教科書には歎異抄=親鸞のようなことが書かれているが、じつはそうではなく、
歎異抄は唯円その人の主著で、唯円はおのれの権威づけに親鸞を利用しただけだ。
わずか順番を変えただけだが、従来の歎異抄と佐藤正英氏の新註歎異抄は、
読んでみるとまったく別の代物になっていた。
歎異抄の主役は唯円で親鸞など脇役に過ぎないことがよくわかる。
親鸞など河合隼雄の本におけるユング程度の役割しかしていないとも言いうる。

さて、難しい学問的な話はもうおしまい。
いままでこのブログにも10回近く歎異抄の感想を書いているのではないか。
調べてみたら歎異抄を読み返したのはほぼ1年ぶりのようだ。
2015年の4月に歎異抄を読んで思ったことをできるわけわかりやすく書きたい。
現実は歎異抄程度でも、しかも現代語訳でさえも読めない人が大半だろう。
歎異抄はやはりインテリか心に生死の悩みをかかえたものしか読めない。
歎異抄を読む気力や時間のない人のためにいちばんのエッセンスを抽出する。
歎異抄の考え方のどこか革命的なのか。
それは自力信仰(努力信仰)を批判して他力信仰を推奨するここである。
以下、わかりやすくするため適宜[カッコ]で意味内容を補足する。

「願[仏さま]にほこりてつくらんつみ(罪)も宿業のもよほすゆへなり。
されば、よきこともあしきことも業報[宿業による報い]にさしまかせて、
ひとへに本願[仏さま]を
たのみまゐらすればこそ[信じることこそ]、他力にてはさふらへ」(第十三条)


たとえば、悪いことをしてしまったとする。卑近な例をあげると――。
自転車に乗っていたら誤って飛び出してきた小学生とぶつかってしまった。
もっと軽い例は、ダイエットをするつもりだったのにケーキを3つも食べてしまった。
これはあなたが悪いのではなく「宿業のもよほすゆへ」なのである。
前世でなした行ないの報いとして、
あなたは自転車で小学生と衝突しなければならなかったのだし、
いまケーキを3つ食べざるをえなかっは、
これまたじつのところは前世でなした行ないの報い。
そうだとしたら、まったく反省する必要がないことになる。
「されば、よきこともあしきことも業報にさしまかせて」生きよう。
生きていれば大小を問わずいいことも悪いこともあろう。
いまの人はいいことが起こるのも悪いことが起こるのも、
なんとなく自分のせいだと思っている。しかしそれは違うと歎異抄は言うのである。
いいことも悪いこともいまのあなたとは関係なく、前世の行ないの報いなのである。
宿業とは、前世でなした業(行ない)がいまの命に宿っているということ。
業報とは、宿業が逃れようもなく報いてしまうこと。
いいことも悪いことも自分のせいで起こるのではなく業報だとしたらどうだ。
もしそうならば「よきこともあしきことも業報[宿業による報い]にさしまかせて、
ひとへに本願[仏さま]をたのみまゐらすればこそ[信じることこそ]、
他力にてはさふらへ」でいいのではないか。他力を生きていいのではないか。
他力の反対は自力である。
親鸞はほかの本(「一念多念文意」)で自力をこう定義している。

「自力といふは、わが身をたのみ、わが心をたのむ、わが力をはげみ、
わがさまざまの善根をたのむひとなり」


なんでも自分で努力して自分の心がけしだいでなんでも可能だと信じているのが、
自力の人である。ビジネス書や自己啓発書が好きな人は自力の人だろう。
しかし「よきこともあしきことも」業報ゆえと考えるのが他力の人である。
たとえば、現代の多くの人が目標としているのが成功や幸福だろう。
いっぽうで鎌倉時代の人にとっては極楽往生することが成功であり幸福だった。
であるならば、歎異抄の「往生」の部分を「成功」に入れ替えて読んでもいいのではないか。
学者には決してできない冒険的なことをしてみよう。

「信心さだまりなば、往生[成功]は弥陀[阿弥陀仏/仏さま]に
はからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。
わろからんにつけても[うまくいかなくても]いよいよ願力[仏さま]を
あをぎまゐらせば、自然のことわりにて、
柔和・忍辱の[辛抱する]こころもいでくべし。
すべてよろづのことにつけて往生[成功]にはかしこきおもひを具せずして、
ただほれぼれと弥陀[仏さま]の御恩の深重なること
つねにおもひいだしまゐらすべし。
しかれば念仏もまうされさふらう。これ自然なり。
わがはからはざるを[自分であれこれ努力しないことを]自然ともうすなり。
これ、すなはち他力にてまします。
しかるを自然といふことの別にあるやうに、われものしりがほ[物知り顔]に
いふひとのさふらうよしうけたまはる、あさましくさふらふ」(第十五条)


そうはいってもやはり鎌倉時代の人も往生のために善行をしたがったのである。
いまの人も成功するために、いわゆる善とされていることをすることが多いでしょう。
みんなと仲良くしなければという強迫観念にかられて嫌いな人にも笑顔を差し向けたり。
満員きつきつの通勤電車のなかで脳を活性化させるとかいう変な音楽を聞いたりさ。
夢を手帳に書いて毎日10回見ることをおのれに課している人とかいそう。
会う人はみな自分の先生とか思い込んでやたら腰を低くしてみんなからバカにされたり。
そういう成功のための努力を歎異抄は自力と言っているのである。
しかし、本当に往生(成功)したかったらくだらぬ自力を捨てて、
仏さまの力=他力にまかせたほうがよろしい。
どうしてみなそんなに努力して世間的にいいとされることをしたがるのだろう。
いいことをしている自分はしていない人よりも上だとか思い上がっているんじゃないか。
それは間違いであると歎異抄は言う。
いいことをしている人よりもむしろ悪いことをしている人のほうが往生(成功)に近い。
きれいごとを廃して、本音で世界を見たら悪いことをしている人ほど成功しているじゃない。
女を何人も泣かせているような悪人がけっこう人生うまくいっているのが現実じゃん。
このからくりを歎異抄は解き明かしてくれるのだからありがてえ。

「善人なをもて往生[成功]する。いはんや悪人をや」。
しかるを、世のひとつねにいはく「悪人なを往生[成功]す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれ[理由]あるにに(似)たれども、
本願他力の意趣にそむけり[仏さまの力を理解していない]。
そのゆへは、自力作善のひとは、
ひとへに他力[仏さま]をたのむこころか(欠)けたるあひだ[ため]、
弥陀の本願にあらず[仏さまが本当に救われたい対象ではない]。
しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、
真実報土[正真正銘]の往生[成功]をとぐるなり」(第三条)


これはいったいどういうことを言っているのか。
成功(往生)したかったらなにをすればいいのか。
ただただ念仏(南無阿弥陀仏と口にする)して、
ほかはことさらなにもしなくてもいいのである。
たまたま宿業ゆえにいいことをしてしまうことがあっても、
それが成功(往生)につながるなんて思うのは仏さまの力を信じていない証拠。
たまたま宿業ゆえに悪いとされることをしても反省する必要はなく、
それが成功(往生)する妨げになるなんて思うのは仏さまの力を信じていない証拠。
ここでいう仏さまの力とは自然の力、つまり他力のことである。
念仏するとはどういうことか。念仏する意味とはなにか。
歎異抄にはこう書いてある。

「念仏には、無義[よくわからん]をもて義[その意味]とす。
不可称[測り知ることができない]、
不可説[説明できない]、不可思議のゆゑに」と[親鸞は]おほせさふらひき」(第十条)


親鸞は念仏は不可思議であるという。では、この不可思議とはなにか。
親鸞の別の本(「善導和尚言」)に不可思議をこう定義しているところがあるらしい。
本書の注で著者に教えてもらったが、この箇所はかなり有益だった。
親鸞、いわく――。

「不可思議と申すは、……こころのおよばずと申す言葉なり。
……仏、仏とのみぞしろしめすべきなり。それを不可思議とは申すなり」


不可思議とは、仏と仏のみが知っていることである。
つまり、念仏の不可思議とは人間にはわからないことである。
人生万事、どうなっているのかわからないことを、
わからないままそのまんま認めようというのが念仏だ。
ちなみにこの「仏、仏とのみぞしろしめすべきなり」は、
法華経の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」にほかならない。
浄土教系は法華経を捨てたと思われがちだが、
深いところでは念仏も法華経に根を持っていることがわかるのではないだろうか。
人生はデタラメで裏側がどうなっているのかまるでわからない。
善人が不幸のどん底に落ちることがあれば、悪人がトントン拍子に出世することもある。
そもそも善人、悪人というが、なにが善でなにが悪かも仏さま以外は知りようがない。
そのことを深々と認めようではないかというのが唯円や親鸞の推奨する南無阿弥陀仏だ。
人生の不可思議(デタラメ)に波長を合わすために念仏をするのである。
人生は不可思議(デタラメ)だから、その不可思議をそのまんま認めて念仏すればいい。
なぜなら念仏の意味は不可思議だからである。
人生の不可思議に対して我われのなしうるのは、
その不可思議をそのまんま称えることくらいではないか。
桜の花は咲かすことも散るのをとめるのも人為的にはできないが(=不可思議)、
ただただ桜の美しさ(=自然)をそのまんま愛(め)でることならば可能である。
書きたくないが成功マニュアルのようなものにしてしまえば、
人生で起こる小さな不思議に目を配りながら、
その不思議をそのまんま大切にしていたら、それほど悪いようにはならない気がする。
なにかしないと不安なら抹香くさいけれど、南無阿弥陀仏と小声でつぶやけばいい。
個人的には南無観世音菩薩や南無妙法蓮華経でもいいと思う。

さて、以下は「ここが変だぞ歎異抄」を書いてみよう。
むかしはあの古典の歎異抄に書いてあることだから、
おかしいと思うのは自分がいたらないせいだと思っていた。
もう数百回も読んだ身ゆえ、おかしいところはここがおかしいと指摘してみよう。
宗教書というのはそういうものだからもうどうしようもないのかもしれないが、
歎異抄の著者・唯円も自分は絶対に正しくてほかはぜんぶ間違えというスタンス。
その根拠は自分こそ親鸞の正しい教えをじかに耳で聞いた正統の弟子だからという。
これは親鸞の権威を利用して、
自分の考えを絶対的に正しいと主張しているようなものではないか。
そもそも唯円が親鸞に会って教えを聞いたとされるのは40年以上もむかしである。
人間は40年以上まえに聞いた話をそうそう記憶していられるものだろうか。
だから、このため「本の山」に何度も書いてきたが、
歎異抄の正体は親鸞の教えというよりも唯円自身の教えであったような気がする。
しかし「正しい」ことは狂気か権威によらなければならない。
親鸞はおのれの狂気に依拠し、唯円は親鸞という権威に正しさを求めたのだろう。
それから歎異抄には決定的な矛盾がある。
「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」と言っているのである。
にもかわらず、唯円が弟子ぶって――。

「先師口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑有ることを思ふ」

このようにいうのはどう考えても理に適っていない。
これは歎異抄の序文に唯円が自分こそ親鸞の有力な弟子で
あるかのように装って書いていることである。さらに続けて唯円は書く。

「幸いに有縁の知識に依らずんば、争(いか)でか易行の一門に入ることを得んや。
全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ」


これを著者はこう現代語訳している。

「幸いにしてすぐれた師に出会うことがなければ、
どうして念仏という易行門に入ることができようか。
自分勝手な理解によって
阿弥陀仏のはたらきの本来の趣旨を乱してはならない」(P86)


これはおかしいと思う。念仏は難しい聖道門ではなく易行の浄土門である。
易行とは、かんたんでだれでも可能な口で唱える念仏のことである。
すぐれた先生に出会わないと易行門に入れないというのはおかしい。
あたまのいい先生に教わって修業するのが難しい聖道門(お坊さんの世界)。
念仏は易行門だから、そうだとしたらどう考えたところで、
すぐれた先生も熱心な勉強も厳しい修行もいらないのではないか。
念仏というのは「自分勝手な理解」でしていいから易行門なのである。
学のない貧農がそれぞれの理解で救われるのが易行門たる念仏のよさだ。
すぐれた師に出会わなければ易行門に入れないのならば、
どこが易行門なのだろうか。それはおかしいぜってことだ。
これは唯円が先生商売をしていたから、思わず書いてしまったことではないか。
人間はなかなか「自分勝手な理解」=「自分のあたまで考えること」ができない。
ついつい偉いとされる人に「正しい」ことを聞きに行ってしまう。
そこを利用して先生商売でメシを食うやからが現われるわけである。
念仏なんて易行なんだからなにもわからず念仏していれば救われるのである。
にもかかわらず、「先生、先生!」と言ってしまうところに、
それぞれどうしようもなく孤独で群れたがる人間の業のようなものが透けて見える。
本来、南無阿弥陀仏と唱えたら独りではなく阿弥陀仏さまが寄り添ってくれるのだが、
そこまでの信心にはいたらないものが「すぐれた師」なるものを求めたがるのだろう。

(参考記事)
以下は暇なときに書いた歎異抄の感想。
目薬必須の超長文記事ゆえ読んでくれた人にはお茶をご馳走します。
まあ、読めないと思いますがね。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3196.html

いまめちゃくちゃ酔っているから感傷的なことでも書いちゃおう。
幸福ってなんなのだろうって話なのね。
いま時給850円で日本語もわからない外国人に囲まれて
働いているわたしがどうして幸福?
いまのバイト先は東京都の最低賃金にも満たない時給850円で
いつ帰されるかもわからない。
こんな自分は客観的に見たら不幸というほかないような気がする。
常識から見たら同情すべき対象ではありませんか?
しかし、本人はけっこうな幸福感があるのだから困ってしまう。
いま生きていておもしろいんだよね、かなり。
去年の12月もおもしろかったし、今年も今月にかぎってはそうとうにおもしろい。
現在のところ人生のピークは2009年だけれども、いまそれに匹敵するくらいおもしろい。
「本の山」をお読みの数少ない読者さまは基本的にインテリでしょう?
どううそぶいたって絶対にインテリだって。
時給850円の世界なんてだれも知るわけがない。
むろんのこと、わたしだってこわごわと足を踏み入れたところがある。
こんな世界があるなんてまったく思ってもいなかったわけ。
いまの職場はとってもかわいい女子高生から、
働けば働くほど損をすると嘆く生活保護受給者までいるわけだから。
日本語が堪能な愛らしい笑顔にしびれちゃうベトナム女子もいる。
いろんな人と少しだけでも言葉を交わすといかに自分が世界を知らなかったか驚く。
そして、こんなに豊かなものが時給850円の世界にあったのかと打ち震える。
たとえばベトナムっ子に挟まれて本を箱にリズミカルに入れる。
そんなことのなにが楽しいのかって話だけれど、楽しいんだから。
いくらバカぶってもこれだけ本を読んでいたらちょーインテリだと思う。
インテリが本を読まない人たちに感動するなんてありきたりな物語かもしれないけれど、
実際にその物語を生きてみるとぜんぜん書物に書いてある話とは異なる。
「ありふれた奇跡」を生きているんだなと思う。

山田太一ドラマ「ありふれた奇跡」の冒頭のシーンで登場したのが八千代緑が丘駅。
このあいだちょいっと寄ったね。

150331_1019~01
パート1がつまらなくてパート2がおもしろくなる映画なんてあるんだなあ。
パート1はパート2をおもしろくする布石に過ぎないのに、
なぜ助走のようなパート1が多数派から支持され権威からも評価されたのかわからない。
そもそも人生万事、世の中のこと、評価に関することみなみな、
本当のことはなにもわからない。
いったいなにが「おもしろい」作品なのか。おもしろいってどういうことなのか。
自分がおもしろいと感じたものは他人もおもしろいと感じるものなのか。
おもしろいと好き嫌いってどういう関係があるんだろう?
「おもしろい=好き」「つまらない=嫌い」の等式は成立するかどうかだ。
映画オンチのわたしの感想は「ゴッドファーザーPART1」はつまらなかったけれど。
PART2の後半はとてもおもしろかった。
で、このふたつをふくめて「ゴッドファーザー」を好きか嫌いかと問われたら、
それはわからない。あえてわからないと言いたい。
なぜなら好き嫌いを言ってしまうと党派性、派閥性が生じそうだから。
いきなり大げさな話をすると、
人間はみな孤独でさみしいからどうしようもなく連帯してしまう(群れちゃう)。
しかし、血縁以外で人間同士をむすびつけるものは好きと嫌いしかないような気がする。
ある人が好き(ヒットラー、昭和天皇、毛沢東、ホーチミン、会社創業者、池田大作)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
反対にある人が嫌い(ユダヤ人、穢多非人、アカ、中韓、貧乏底辺、脱会者)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
好き嫌いと群れというのはとても強い相関関係があるような気がしてならない。
みんな群れたいからなにかを好き、あるいは嫌いと言うのではないだろうか。
いや、考えすぎかな。
わたしは群れるのがなんかいやで、みんなが好きと言っているものを
群れたくないという理由で嫌いと言ってしまうようなところがある。
PART1、2を見て「ゴッドファーザー」が好きか嫌いかはやはりわからないと答えたい。

☆ ☆ ☆

「ゴッドファーザーPART2」はおもしろかった。どこがおもしろかったか書く。
パート2はマフィアの二代目ボスになった主人公と、
その父親の青年時代が同時並行で描かれる。
パート2のあらすじも細かくはよくわからなくてネットで調べたのだが、
サイトによって紹介されているストーリーが違うので
以下自分がそうだと思った物語をそれこそ真実であると思って書く。
初代ゴッドファーザーは少年時代のシチリアでマフィアに兄と母を殺されている。
アメリカに逃亡してなんとか妻子を得てまじめに食品雑貨店に勤務していた。
ところが、ここでもマフィアが現われ職を追われてしまう。
マフィアが自分の甥を働かせろと店主に命令したからクビになったわけである。
で、バイクタクシーの運転手になったけれども、またマフィアが現われる。
日の稼ぎから数割をみかじめ料(上納金)として払えと言うのだ。
青年は仕事仲間と相談する。マフィアなんかに金を渡す必要があるのかどうか。
仲間は払おうと言う。
若き初代ゴッドファーザーは「理不尽だ」と憤る。
「それが世の中だ」と仲間は青年をさとす。世の中、そんなもんよ。
むかしから現代までわれわれの大半は、
早いものは学生のうちから世の中の理不尽に気づく。
みんな無意識のうちに「それが世の中だ」とあきらめおのれの天からの分け前を知る。
世の中、そんなもんだ。あきらめよう。どうしようもないものはどうしようもない。
しかし、兄と母を殺された青年はうんざりだと思う。理不尽な世の中にはうんざりする。
ならば、どうしたらいいのか。
その威張っているマフィアをぶっ殺してしまえばいいではないか。
どうして他人を殺してはいけないのか。
なにが隣人を愛せだ。笑わせるな。自分が生き残るためなら他人を殺してもいいだろう。
一切れのパンしかなかったらそれを他人に与えるなんておかしい。
他人からパンを奪ってでも人は生きるべきだ。
命は大切だという。だから死ぬな、殺すなという。
しかし、ふたつの命がともに生きられないのなら自分が死ぬべきか、他人が死ぬべきか。
命が大切だというのなら、
自分の命のために他人を世の中から抹消してもいいはずだ。
命が大切だというのなら、
自分の妻子のために他人に死んでもらうことも許されるに違いない。
青年は小悪党のマフィアを拳銃で撃ち殺す。
この最初の殺人がゴッドファーザーへの第一歩であった。
青年は我慢するのをやめたのである。「それが世の中だ」とあきらめるのをやめた。
生きるというのは勝つか負けるかの生存競争だ。
自分や妻子のためなら人を殺してなにが悪いか。隣人愛とかきれいごとはやめようぜ。
むかつくやつは殺してもいいんじゃないか。
「ゴッドファーザー」は1、2ともにとにかく殺人シーンが多いけれど、
その根底にある思想は断じて「汝(なんじ)の敵を愛せよ」ではない。
「ゴッドファーザー」はわれわれになにを伝えているのか。

「汝の敵を殺害せよ!」

汝の敵は絶対に許すな。汝の敵への憎しみは決して忘れるな。
世の中、本当のところは殺(や)るか殺られるかなのである。
ならば、そう気づいたのなら殺られるまえに殺るしかないだろう。
資本主義社会は企業と企業の生存競争である。
生きるか死ぬかだ。殺るか殺られるかだ。何度でも言おう。殺られるまえに殺れ。
企業のなかでも社長や重役といったポストはかぎられている。
会社の同僚は仲間なんかじゃない。
あいつが出世したらへたをしたら自分がリストラされかねないのが会社である。
会社をクビになったら妻子まで路頭に迷わせてしまうではないか。
人間関係というのは、敵か味方しかない。
だとしたら敵はどうしたらいいのか。汝の敵を愛せよ? バカ言ってんじゃないよ。
汝の敵は殺害せよ。汝の敵の息の根をとめろ。
初代ゴッドファーザーの兄や母はなぜ殺されたのか?
力がなかったからである。権力がなかったからである。弱いものは殺され損である。
弱いものは虐げられいつも貧乏くじを引かされる。
力のない弱いものはうさんくさい牧師や神父から「汝の敵を愛せよ」と教わり、
お互いの貧しさを嘆きながら「それが世の中だ」と愚痴を言うしかない。
しかし、本当にそれだけしか道はないのか。
弱いものはどんな手を使ってでも強くなるべきではないか。
どうしたら強くなれるのか。いま強がっているものを抹殺すればいいのである。
世の中は奪うか奪われるかだ。
十字架に昆虫標本のようにはりつけられた珍種のペテン師は言ったとされている。
いまも聖職者がそれを真似てうそくせえ説教をする。「貧しき者は幸いなり」と。
いな、である。貧しいものは餓死をする。貧乏人の命は軽い。
貧乏な母子は虫けらのように殺されても文句ひとつ言えないのである。
世の中は力だ。男の人生はいかに権力をにぎるかだ。
初代も二代目もゴッドファーザーは言うであろう。

「貧しきものは幸いではない!」

「ゴッドファーザーPART2」がおもしろいのは、
「親の因果が子に報う」という宿命の感覚をうまく描いているところである。
二代目ゴッドファーザーはパート2ではじつの兄まで殺してしまう。
なぜなら、兄は自分の過去の殺人行為を知っているからである。
もし寝返られたら自分の破滅につながる。
できの悪い兄と優秀なマフィアのドンである自分のどちらが生き残るべきか。
どちらかが死なねばならぬなら兄のほうが死ぬべきだろう。
この兄はダメ男なのに生意気にも自分に嫉妬していろいろ画策してきたではないか。
聖書ではカインが嫉妬から弟のアベルを殺しているけれど、
アハハ、ハハハ、ハッハッハ、兄カインよ、死ぬのはおまえのほうだからな!
しかし、二代目ゴッドファーザーは、
自分がどうしてそれをしたかわかっていないのがいい。
二代目ゴッドファーザーはなぜああも多くの人を殺されなければならなかったのか。
それは本当に二代目の罪なのか。
くそ長い映画を最後まで見た観客はそうではないことがうっすらわかるようになっている。
初代ゴッドファーザーがちんぴらマフィアを殺したから、
それが因となり縁が熟して二代目ゴッドファーザーは大量殺人という果を
どうしようもなく宿命のように引き起こさなければならなかった。
初代ゴッドファーザーは家族を幸せにするためにマフィアのボスになった。
しかし、その結果として最愛の息子が兄を殺すにいたったのである。
家族愛がある青年をマフィアのボスにして、
その結果として愛する息子が兄を殺すような羽目におちいったのである。
兄と母をマフィアに殺された青年はのちにこのマフィアを復讐として殺す。
これは兄や母といった家族を愛していたからこその殺人行為である。
人を殺さなければ表現できない愛というものがあるのではないか?
愛はそんなに清く美しいものか。愛ゆえに人は他人を殺すのではないか?
初代ゴッドファーザーが息子を愛したからこそ、
二代目は苦しまなければならなかった。
息子の罪の原因は父親の愛にあったのである。親の因果が子に報う。
ある人の人生というのは、父親がなした行ないに大きく影響される。
父親がある女を愛し孕(はら)ませたせいで子どもたちが憎しみ合うこともある。
子どもの人生は一見すると子どもが決めているように見えるかもしれないが、
本当のところは親の人生が子どもの人生を
かなりのところまで決定づけているのではないか。
二代目ゴッドファーザーが最初の殺人を行なったのは父親のためである。
初代ゴッドファーザーが兄と母を殺されるようなことがなかったら、
アメリカで人を殺すようなこともなかったと思われる。
だとしたら、殺人の罪というのは裁かれるべきだろうか?
個人に行為をなす自由などあるのか?
すべては宿命で決まっているのではないか?
子を作るというのは、おのれの宿業を新たな生命に引き継がせるということだ。
息子は父親の宿命をになって世に誕生してくる。
二代目ゴッドファーザーの妻がお腹のなかの男の子を中絶するのは象徴的だ。
もしこの男の子を産んだらば、いったいどんな男に成長することか。
すでに男の子はひとりいる。
将来兄と弟は三代目ゴッドファーザーの地位をめぐって殺し合うのではないか。
この子は産んではならない。この家系の男子の血はなにをするかわからない。
ゴッドファーザーの血はまがまがしくも呪われている。
呪われた血の美しさを描いているところがこの映画のおもしろさである。
この映画を見るとわかるのは、
うそくさい善よりも血のにおいのする悪のほうがはるかに美しいということだ。

「ゴッドファーザーPART2」でいちばんおもしろかったのは公開聴聞会シーンだ。
二代目の腹心が裏切って、過去のボスの殺人罪を暴露する証人として出廷する。
むろんのこと、権力者の二代目ゴッドファーザーはその情報を事前に察知している。
かつての腹心であり仲間に自分の犯罪行為を証言されたら身の破滅だ。
絶体絶命のピンチである。ゴッドファーザーはどうするか。
証言するかつての腹心の兄をともなって出廷するのである。
むかしの腹心はその瞬間に震えあがり証言を撤回するところが本当におもしろかった。
どういうことか。本当のことを証言したら、おまえの兄を殺すぞという脅迫だ。
二代目ゴッドファーザーのように兄を邪魔に思う弟がいれば、
証言台に立った男のように兄を慕う弟もいるのである。
一度裏切ったものはまたいつ寝返るかわからない。
映画のラストで旧腹心は兄を殺すぞとなかば脅され自殺するようすすめられる。
兄を殺すゴッドファーザーのような弟がいれば、
兄のためにみずからの命を断ってもよいと思う弟もいるのである。
この対照に気づいた観客はそういないのではないかと思われる、えっへん。
最後におかしな自慢をしてみた。
総じて本作品はキリスト教という光の影の黒々しさを、
その黒光りした美しさを描いた映画であったように思う。
これはキリスト教世界の人にしかなかなか理解されない映画ではないかと思われる。
日本人で「ゴッドファーザー1、2」をおもしろいと思えるのは、
いかにもな西洋的権威に弱い人か、よほどの宗教的センスを持った人だけではないか。
「ゴッドファーザー」はパート3まであるようだ。
これはあまり評価されていないらしいが、もののついでに近日中に視聴しよう。

映画「ゴッドファーザー」って世界的に大ヒットした超有名作品なんだね。
世間知らずだからそんなこともわきまえず、
まったく事前情報を入れないで名作をジェイコムで視聴する。
「ゴッドファーザー」を好きか嫌いかと聞かれたら「わからない」と答えると思う。
正直、よくわからなかったのである。
これが大人気になったということは意外と大衆はバカにできないということではないか。
すなわち大衆の映像処理能力はわたしなどよりはるかに秀でている。
映画ではおなじような顔の人ばかり出てくる気がして、
終始だれがだれだかわからなくなった。
場所もポンポン飛んでいたが、それぞれどこだったか正確に把握していたとは言い難い。
これはもうダメだと思ったのは(自分がですよ自分がダメ)、
だれかが立ち小便をしているときに、車内でだれかがだれかを銃殺したでしょう。
あれは味方が敵を殺したのか、味方が敵に殺されたのかよくわからなかった。
あそこで本格的につまづいたような気がする。
白人ってみんなおんなじ顔をしているように見えない?
しかも全員マフィアスタイルだから、
あれを識別するのはわが脳のスペックでは無理だった。

ストーリーもよくわからなかったから、ネットでいろいろ調べてみた。
あらすじをうまく書ける人と書けない人にわかれるという当たり前のことに気づく。
で、いいあらすじを見つけて、ようやくどういうストーリーだったのか理解する。
最後に教会シーンとカットバックで大量暗殺があったけれど、
あれもまただれがだれを殺しているのかさっぱりわからなかった。
あれは主人公サイドが敵を一掃していたところだったのね。
マフィアのボスとか、どうしたってみんなおんなじ顔に見えちゃうよ。
こんな映像オンチの感想だから正しくないのだろうが、
ストーリーがポンポン飛んでまとまりがなく冗長になっていたような気がする。
婚約者のいるはずの主人公が高飛び先のシチリアで美女をこます。
美女が主人公の身代わりになって死んだら、今度は婚約者にプロポーズする。
なんでそうなるのか男女の恋愛の機微に疎いためだろうがわからなかった。

結局、「ゴッドファーザー」は男の子の世界の物語なのだと思う。
男の子ってやたら体面を気にするというか権力志向が強いというか。
家族愛とかファミリーの絆とかいうけれど、
あれは単に男の子たちが群れているだけともいえなくはない。
家族って群れの最小単位であることに気づく。
人はどうして群れるのか突き詰めて考えてみると孤独でさみしいからなのではないか。
で、人は群れてなにをするのかというと群れのなかでの順位を決める。
それから群れの結束を固めるために敵を設定して群れて攻撃する。
群れのひとりが殺傷されたら、群れのために復讐しようとする。
男の子はプライドの塊りで、じゃあ、そのプライドをどこに支えてもらうかというと
群れのなかにしかないのかもしれない。
会社とか学界とか文壇とか画壇とか、
群れに所属して評価してもらうしか男の子のプライドが充足される道はない。
ひとりの女の子から好きだって言われただけじゃ、男の子のプライドは満足しない。
女の子だって好みのタイプは群れのなかで上位にいる人間でしょう?
一流社員や医者とフリーター、
女の子がどちらを選ぶかっていったら、それは決まっている。

こうして書きながら考えてわかってきたけれども、
「ゴッドファーザー」はひとりの女の子から愛されて満足していた男の子が、
マフィアのドンである父親が狙撃されたのを契機として、
男らしい群れへの帰属意識を呼び覚まされ、
以降群れの論理で生きるようになる物語と解釈することもできないわけではない。
どうして人間って群れたがるんだろう。
そして、群れのなかで順位をつくり、みな群れのトップにあこがれあがめ、
さらにその群れをほかの群れよりも上位に位置づけようと粉骨砕身する。
なにゆえにか。人間の本能みたいなものなのだろうか。
ひとりの恋人で満足していたカタギの青年が
ラストでは大量殺人もいとわない冷血なマフィアのボスになる。
個人の論理で生きていた青年が群れに取り込まれ群れのために生きるようになる。
最後に権力の頂点に立った殺人鬼は愛妻から質問される。
「あなたは多くの人を殺したっていわれているけれど、それは本当?」
いまや女よりも群れを優先するヤクザの組長はどう答えるか。「ノー!」
群れに生きるというのは、この「ノー!」を言えるかどうかなのだろう。
群れのためなら本当のことを言ってはならない。
群れるとはあそこで「ノー!」と言えるようになることなのだ。

やたら人が死ぬ映画だったが、あれらの殺され方にはあこがれる。
一瞬にして拳銃であたまを撃ち抜かれるなんて理想的な死に方だよなあ。
というのも、死を意識せずして一瞬のうちに死ねるわけだから。
ふつうの視聴者は味方の死に憤りを感じ、主人公に感情移入するのかもしれない。
わたしは死んだ人をうらやましいなとしか思えないから、
うまく感情移入できなかったのかもしれない。
主人公もイケメンでなんか虫が好かないし、彼がシチリアで美女をゲットするのだって、
結局はマフィアの跡取りという権威(肩書)を利用したものだったわけでしょう?
シチリア美女のおっぱいを見(ら)れたのはよかったけれども。
むかしはおっぱいくらいで興奮したけれど、いまはおっぱいの価値が下がったなあ。
おっぱいに行き着くまでの複雑な物語を仕組んでくれていたら
おっぱいの輝きが増すのだが、
「ゴッドファーザー」はあまりおっぱいに重きを置いていないようだった。
とにかくよく人が突然死ぬ映画だったから、なんでもないシーンのときも、
いきなり拳銃を持った人が現われドンパチやるのではないかというスリルがあり、
そこがまあおもしろかったといえなくもない。

この映画が好きだという人にどこが好きなのかじっくり聞いてみたいなあ。
きっと俳優が好きなんじゃないかと思うんだ。
多くの人は映画を俳優の演技に注目して鑑賞しているように思われる。
わたしは映画で俳優は軽んじているところがあって、
物語の質のようなものを重視している。ストーリーのおもしろさである。
マフィアのドンが格好いいという思い込みが大衆心理のなかにあるのは、
おかしなインチキ精神分析をすると人はみな群れたがる本能があるからではないか。
群れの長(おさ)にはつい敬意を払ってしまうというような浅ましい奴隷根性。
「ゴッドファーザー」はアメリカの忠臣蔵とでもいえるのかもしれない。
あの主人公が最後までファミリーなんて関係ないと突っ張っていたらおもしろかったのに。
この映画が上映されたのは、アメリカがベトナム戦争でいろいろ内部でもめていた時代。
国民が一丸となってアメリカというファミリーのために団結する物語を、
当時のアメリカ国民は深層心理のうちに求めていたのかもしれない。
多くの人が求める物語を提供するのがエンターテイメント産業の使命である。
そう考えると「ゴッドファーザー」は、
時代の要請にかなったすばらしい名作映画ということになろう。
最後に繰り返す。「ゴッドファーザー」は好きか嫌いか――よくわかりません。
明朝、引き続きパートⅡを視聴する予定。

いまのバイト先ってやっぱりちょーおもしろい。
今日も勘違いかもしれないけれど、すごい発見があったような気がする。
被害妄想の反意語は被恋(恋愛)妄想である。
だれかに自分が好かれていると思う異常な錯覚のことを被恋(恋愛)妄想というらしい。
それかもしれないけれど、
ぼく、もしかしたら職場でものすごい愛されキャラなんじゃないかしら。
いえですね、あんな大勢がいる職場で
だれもぼくなんかに関心を持っちゃいないのでしょうが。
今日はあれをあれしてもいいという上のご厚意を
勘違いして早く帰ってきたのかもしれない。
大好きなあの人も残っていたし、あれはあの人とあれしてもいいということだったのかな。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
日本人だから外国人にはわからないあれがわかるだろうとご期待くださったのに、
あれがあれだとわからないで上に嫌味を申し上げてしまった。

ぜんぜん関係ない話をする。あの子、髪形を変えるのが趣味なのかなあ。
まえに1万5千円かけて髪を整えたと休憩室で盗み聞いたけれど。
アニメが好きなあの子があの子みたいな髪型にしていた。
ある子がさあ、学校で教師から日本語をマスターしたかったら日本人と友だちになること。
そう言われたらしい。そりゃあ、それしかないわけだから。
その文脈で、ある子に「じゃあ、わたしと友だちになってください」とお願いしたら、
「文化と風習が違うから」と断られてしまった。
そのとき、なんでそんなことを言えたのかというと、
ほかのバイトに採用されてその日でいまのバイトを辞めようか迷っていたから。
明日もう来ないかもしれないと思ったら、なんでも言えちゃうわけ。
「文化と風習が違うから」と友だちになることを断られるわたしっていったい?
きっと勘違いしていたのだと他人から言われたし自分でも思った。
恋人とか男と女とか、ぜんぜんそういうニュアンスはなかったの。
その子に恋人ができたら友だちとしてサポートしたいとか、そういう感じだし。
独占欲とか、変な話、性欲とかそういうのとはまったく別の話。好奇心。
だから、断られても本当にぜんぜん傷ついていないし、悪かったなというか。
あの子ではなく、アニメが好きなあの子ならあの国のことを教えてくれるのかな。
周囲の目があるしさ、ラインでとなりにでもならないと話しかけられないなあ。
メールをください、なんて男が言っちゃいけない。
あわわ、なんかひどい妄想をしているのかもしれない。

いまのバイト先に入ってびっくりしたのは貧乏性の人がやたら多いこと。
なにかすることがあったら、1秒でも早くやらなければ気が済まない。
ここだけの話で絶対に絶対に絶対に秘密にしてほしいけれど、
わたしは仕事をゆっくりすることができるわけ。
ふつうの人が10分で終わる作業を1時間かけてやろうと思えばすることができる。
そんなのみんなできると思われるかもしれないけれど、できない人は本当にできない。
なにかに洗脳されたかのように、10分の作業を9分、8分でやろうとする。
危険なことを言うと、仕事が早くできるのも才能だけれど、遅くできるのも才能なのね。
だって、現実に仕事を遅くしようと思っても能力的に遅くできない人もいるわけだから。
わたしはライン(流れ作業)に入ったとき、仕事を遅くできる能力がある人に感謝している。
というのも、彼女のおかげで労働時間が長引き、われわれは稼げるわけだから。
みんなの稼ぎのために、わたしはあえて遅い人を助けないことがある。
たまに稼ぎとかどうでもよくなって、助けちゃうこともあるけれど。
最近はこのほうが多いかな。
あんまり残酷ショーみたいのを見せつけられると、つい身体が動いちゃうっていうか。

またまたぜんぜん関係のない話。今日は早く帰る必要はなかったのかもしれない。
言葉には出せないがあれをあれしてくださいということだったのかなあ。
あれをあれするのは男でなおかつあまり人の目を気にしないわたしにしかできない仕事。
せめてあれが2つあったら、あれをあれできたけれど、あれはそういうことだったのか。
ぶっちゃけ、社員さんの立場としては
あれをあれしろとは口が裂けても言えないでしょうが、
パートが意図的に自分の判断であれをあれするならいいわけか。
ぶっちゃけ、忙しい日に高額な日雇い派遣を取るよりも、
暇な日は低賃金のパートがあれをしたほうが辞められるよりは単価は下がるわけだから。
今日はあのバイト先輩とあれをしてもよかったのかなあ。
明日もあれらしいから、今日とおなじことを言われたら、あれをしてみようかと思う。
今日は上司のご指示の意図がわからず混乱して、
いまの職場に入ってからはじめて日報(仕事内容報告書)を出し忘れてしまった。
仕事ができない(まあそれも個性なんだけれど)パートで恥ずかしい、えへっ♪
「ピンチの本質 絶体絶命を乗り切る技術」(桜井章一/ベスト新書)

→日本一運がよくツキを持っている麻雀屋のオヤジの言葉を聞いてみよう。
この人は学も人脈も権威(受賞歴)もない「雀鬼」を自称する、
とにかくインチキくせえおっさんなんだけれど、
なぜかみんなから慕われているんだよなあ。
人生が運だとばれたいま(まだばれていない?)、どうしたら運がよくなるのか?
とはいえ、わたしは自分がそこまで運が悪いとはいまはもう思っていない。
とにかく運が悪そうな人がいるってことは、この1年である場所で学んだ。
すんげえ努力しているのに、まったく努力が報われていない人ってたくさんいるわけ。
あれはいったいどうしてなんだろう?

「「努力すれば欲しいものが手に入る」と思っている人も多いが、
運が悪い時にいくら努力しても無駄である。
むしろもっと悪いことが起きる可能性すらある。
運が悪いときの努力はマイナスの方向に向かっていく。
世の中に「いくら努力してもダメな人」がいるのはそんなことも理由のひとつなのだ」(P35)


そっかあ。人間って欲しいものがあるから努力するのか、ほほう。
ここだけの話、わたしはもう欲しいものがないんだよね。
高級フレンチなんて食べたくないし(カップラーメンでもご馳走)、
高い服を買ってもどうせ似合わないし(ユニクロ上等)、
本はブックオフで間に合っているし、
友人恋人はあれはただただご縁だから望んでもどうにもならないし、
出世とかはもういい年齢だから……それは出世したいけれど、
したらしたで処世とかめんどくさっとか思いそう。
これから人生でチャンスなんか来るのかなあ。教えて雀鬼。

「運やツキ、チャンスといったものは掴み取ろうとするとすればスルっと逃げていく。
欲や固定観念に囚われた硬く直線的な働きでは、
決してチャンスをものにすることはできない。(……)
チャンスに恵まれるためには「何をするにも気分よく」が鉄則だ。
普段からつまらない生き方をしている人のところにチャンスはやってこない」(P32)


え? それ、どういうこと?

「自然の摂理、自然の流れを感じながら自然体で生きていれば運は必ず巡ってくる」(P40)

バイト先でいつも「きつい、きつい」と独り言をつぶやきながら働いている人がいるなあ。
ミスをほとんどしないまじめなその人のことは好きなんだけれど、
そんな全力で命がけで苦しみながらするほど価値のある仕事なのかわたしはわからない。

「勉強だって、仕事だって遊びながらすればいいのに、
多くの人が遊び=不真面目=下等と思っているから余裕がなくなる。
勉強も仕事も、遊びながらやったほうが向上する。
真面目に、一生懸命にやらなくてはならないのは勉強や仕事ではなく、遊びのほうだ。
遊びを真っ当にしていれば勉強や仕事も楽にこなせるようになるのだ」(P53)


しっかし、世の中には勉強の仕方を知らない人が多いよねえ、桜井章一さん。
どうして人間って勉強するっていうと、すぐに学校に行きたがるんだろう。
学校に行ってなにかの資格を取るのが勉強だって思っている人がいかに多いか。
受賞歴のみならず資格もゼロの怪しげな雀鬼の勉強論はこうだ。

「本来、人間は毎日の生活の中からいろんな物事を学んでいくべきなのだが、
今の世の中で〝学ぶ”とは「誰かに教わること」を意味する。
自分より能力のある「上の人」から何かを教わることが現代の〝学び”である。
でも本当の〝学び”とは自分から求めていく〝勉強”であったはずだ」(P121)


そうだ! 欲しいものがいま見つかった。わたしの欲しいものはおもしろい人生。
とにかく退屈ななーんにもない人生が嫌い。いったいどうしたら人生がおもしろくなるのか。
雀鬼によると、リスクを取ると人生がおもしろくなるとのことである。

「リスクがあるということは損をする可能性があるということ。
現代社会に生きるほとんどの人にとって、
リスクはできるだけ遠ざけておきたいものになってしまっている。
私は何をするにもリスクがなければ面白くないし、チャレンジする気も湧いてこない。
そうやって「リスク」を楽しんできたからこそ、今の自分があると思っている」(P93)


バイトに行くまえに「ゴッドファーザー」を見たいから、急いでシャワーを浴びないと。
あれ3時間15分もあるから急がないと。遅刻するリスクを恐れない!

「詐欺師たちの殺し文句 あなたの「欲」と「迷い」を見逃さない」(日名子暁/主婦の友新書)

→将来人をだます仕事に就きたいと思っていないこともない。
なぜなら、人をだます商売がいちばん金が儲かるような気がするからである。
言っておくが犯罪行為をしたいわけではない。合法的な詐欺なんていくらでもある。
ほとんどの(は言い過ぎかな)客商売は詐欺をしているわけでしょう。
というのも、本来はそれほど価値のないもの(原価の安いもの)を
いかに顧客に価値あるもののように見せかけ高く買ってもらうかが商売なのだから。
居酒屋なんて原価50円もしないような焼うどんを600円で売っていて、
それが飛ぶように売れ「うまい、うまい」と絶賛されることもあるわけで。
各種専門学校も合法的に実体のない「夢」を世間知らずの若者に高く売りつけている。
うちの学校に来れば「努力しだいで」日本語がペラペラになり大学院にも入れますよ。
日本の大学院を卒業したら「努力しだいで」いい企業に就職できますよ。
本当はそんな成功をできるのは千人にひとりなのだが、
そこは「努力しだいで」という言葉をうまく使って「あなたは努力が足りない」とごまかす。
うちに来たらみんなシナリオライターになれます、
なんて汚い商売をしているスクール社長の自己イメージは慈善家なのだから笑える。

うまく金を儲けたかったら人をだますにかぎるのである。
詐欺が悪いことのように思っているあなたは一生下積みで終わるのではないかしら。
というのも、結婚も言ってしまえば詐欺でしょう?
自分をいかに価値あるように見せかけ相手を捕獲するのが結婚の実相である。
最後までお互いが正体を見せなければ、夫婦円満でした、めでたしめでたし。
そう考えると、デート商法が詐欺かどうかもよくわからんわけ。
デート商法とは、美人がもてない男に近づきいろいろ買ってもらい、最後はバイバイする。
これは違法の詐欺かってなると、かならずしもそうとは言い切れないわけで、
どうしてかというと、そのもてない男にとってはへたをしたら彼女との交流が
人生で最高の思い出になっているかもしれないわけだから。
たとえやらせてもらえなかったとしても。
行ったことはないけれど(行きたくもない)キャバクラもそういう世界でしょ?
人ってものは夢を見たがるから、
そこのツボをぽんと押せばお金を吐き出してくれるんじゃないかなあ。
多くの読者をうまくだました小説家はベストセラー作家となり世間から評価される。
結局、相手の欲望をうまく把握することが金を儲ける秘訣になるのだと思う。
著者は詐欺師ではなくルポライター。

しかし、誰でもしばしば経験することだが、
その物事が「ウソ」か「ホント」か分からないのが、人の世である。
とりわけ、誰しもが持つ欲望を刺激されると、そのウソかホントかの判断が難しくなる。
欲望とは、分かりやすくいうと「金」「異性」「出世」「名誉」「安定」
などに対する欲望であり、濃淡の差はあっても、人は誰でもこういう欲望を持っている。
持っているから生きているのだ。そして、その欲望を満足させる話があれば、
とりあえず話だけでも聞いてみようかという気持ちになる」(P10)


よくさ、訳知り顔の苦労人みたいのがさ「世の中に甘い話はない」
とかいかにも世知長けたふうで言うじゃないっすか。
でもねえ実際、現実に甘い話があるというのもまた事実であることを忘れてはいけない。

「過去の例でいうと、たとえば上場間近の未公開株や土地の区画整理、
新幹線の予定地などなど。その情報をいち早く入手し、
すばやく手を打って巨利を得た者も数多く存在する」(P19)


遠いところへ行ったとき帰途の電車内で読むには手ごろでいい本だった。
あーあ、楽をして金を儲けたいなあ、
と車中の人はみんな考えているんだろうなあ、とぼくは思った。
人間、汗水流して働くのがいちばんとわたくしは考えていますがね。
え? え? え? ホントですよ! ウソつかない。
ぼく、正直者ね。ト、ト、トモダチになってください♪

「プロ相場師の思考術 「運」と「ツキ」の考え方」(高田智也/PHP新書)

→相当な自信家らしいプロ相場師の著者は他の相場師に批判的である。
世には相場に関する本はたくさんあるが、
あれらの著者は実際に相場で儲けているわけではないと喝破する。
ああいう手合いは本の印税で儲けているだけなのだという。
まあ、そうだよねとは思う。「金の儲け方」の本の大半はインチキ。
だって、そんなものがわかっているのなら自分で儲ければいいだけの話なのだから。
そんなおいしい情報を赤の他人に教えてやる義理はない。
じゃあ、本書の著者はどうなのかって話なのね。
実際に儲けているという具体的証拠は(税金関係の書類とかさ)は未掲載だった。
でもちょこっと本物っぽいところもあるわけだ~な。
まえに書いた本を参考にしてもらっては困ると書いている箇所があるからだ。
あのころといまでは相場のやり方が変わっているからというのがその理由。
今後も変わりうるからこの本に書いてあることも絶対ではないと断っている。
きっといまの(そのときの)「正しい」方法みたいのはあるのだろうけれど、
未来永劫にわたって「正しい」法則のようなものはないのだろう。相場のみならず。
勝ち組のプロ相場師、億万長者(?)のありがたいお言葉を拝聴しようではないか。

「役に立つとか立たないとか、損か得かで学習をしようなんて大間違いです。
知的好奇心がない人が、この世界で成功することは難しいです。(……)
役に立つとか立たないとかは、学習するうえで考える必要はありません。
要領よく学習する必要もありません。なぜなら、これを学習すれば
必ず実になるということは、誰も保証はできないからです」(P72)


当方、べつに相場なんてしたいわけでもないし、元手もございませんけれども。
だいいち、毎日朝から晩までお金のことを考え一喜一憂するなんていやだしね。
優秀な著者はプロスペクト理論を批判していた。
有名なプロスペクト理論とはこういうやつである。
あなたはどちらを選びますか?

A.確実に90万円もらえる
B.100万円もらえるが5%の確率でもらえない。
この場合、プロスペクト理論では人間は損を嫌うからAを選択する人が多くなる。
確率で期待値を考えるとBを選択するほうが合理的である(おそらく)。

A.90万円を払う。
B.100万円を払うが5%の確率で払わなくてもいい。
この場合、プロスペクト理論では人間は得を好むからBを選択するものが多くなる。
確率で期待値を考えるとAを選択するほうが合理的である(おそらく)。

一般的に相場の世界ではどちらの設問でもBを選択するほうが向いているとされる。
こんなのはみんな嘘っぱちだとプロ相場師の著者は言い放つ。
なぜなら当人の持ち金によって選択は変わるではないか。
10億貯金のある人と100万しか貯金のない人では選択が異なってしまう。
それから何回チャンスがあるのかという断り書きがないのもおかしい。
10回くらいチャンスがあるのならたしかに本当に「正しい」合理的選択になるが、
1回きりにおいて確率はどこまで当てにできるかわからない。
著者はもっと適当にしか書いていないのだが、
この問題についてはわたしもむかしから考えていたので、
著者が実際に書いていないことまで補足してわかりやすく書いてみた。
むろん、当方が著者より優秀だとか、そういうことを主張したいわけではない。

電車で片道2時間のところへ行くときに読んだのだが、
騒がしい車中で読むのに適した手ごろな本であった。
電車内のこの人たちもみんなお金のことばかり考えているんだろうなと思いながら。

「誰も教えてくれなかった 運とツキの法則」(クレディセゾン社長 林野宏/到知出版社)

→クレディセゾン社長の林野宏氏は自分を一流の人間と思っているようだ。

「私はよく、「一流と二流の差は、自分の成功イメージを持つか、持たないか」
だと言っています」(P33)


この上から目線の教えさとす口調は、間違いなく自分を一流だと思っている人である。
ぼくは自分の成功イメージなんか持っていないから二流どころか三流以下だろう。
かといってクレディセゾン社長の林野宏氏のようになりたいかと聞かれたら……。
だって、ものすごいストレスフルな生活を送っていそうだし、
人から恨まれたり憎まれたりすることもしばしばではないかと思われるし、
なにより忙しそうだから好きな本を読む時間もないようなイメージがね、そのう。
組織を束ねるトップらしいおもしろいことをクレディセゾン社長はお書きになっていた。
社長は人材を才能と人格にわけて数値化する。
一流の人間は他人が数字に見えるのだろう。

Aさん[才能80・人格3]→能力[80+3=83]→力量[80×3=240]
Bさん[才能50・人格8]→能力[50+8=58]→力量[50×8=400]
Cさん[才能100・人格0]→能力[100+0=100]→力量「100×0=0」


この人事評価方式はおもしろく、クレディセゾン社長の林野宏氏が、
才能よりも人格を重んじているのがなんとなくわからないでもない。
本人も人格者を気取っていそうで、いや一流の人間なのだから人格者なのだろう。
人格者で一流の人間でもあるクレディセゾン社長の林野宏氏は競争が大好きな模様。
競争するのも競争させるのも一流の人間はお好きなようだ。

「競争社会の真の意味は、ライバル他社との競争が激化するというだけでなく、
同僚やチームのお互いがライバルになるということです」(P129)


ぼくはどうせ時給は変わらないんだから、職場で同僚と競争したくなんかないなあ。
お互いたったの850円でこんなことマジやってらんないねと自嘲しつつ、
同時に相手をいたわる気持を忘れることなくゆるめに働けたらと思っている。
やれやれ、まいっちゃうねえ、みたいなさ。

「パワー・オブ・フロー」(チャーリーン・ベリッツ+メグ・ランドストロム/菅靖彦訳/河出書房新社)

→アメリカのうさんくさいスピリチュアル本を半笑いで読む。
人生はたまたまの偶然が大きく個人に影響を与えるだけの、
極めて理不尽、不公平、無意味、無目的なひとつの芝居と言うことができよう。
まったく個人の能力は不平等だし、貧富の差もただただ理不尽な現象としか思えない。
そして、大半の人間にとっては長生きくらいしか生きる目的はない。
(どうでもいい話だが、わたしは本当に無目的で長生きさえ興味がない)
こういう索漠たる人生模様に耐えられないものがスピリチュアルにすがるのだろう。
なにかの団体に入ったりして群れなければ金がかからないから、
ひとつの趣味としてそれほど有害なものではないと思う。
あたしはいま成長しているのよ、
とか勘違いして周囲を見下すくらいなら許してあげてもいいだろう。
どのみちつまらない人生ゆえ、どんな幻想(虚構)を生きるのもありだと思う。
フローというのは、人生のいい流れくらいの意味になるのかな。
フローに乗れというのが本書の主張である。
そもそものフローなるものを本書にはっきりと定義していただこうではないか。
以下、少し長いが引用する部分はかなりよく書けていると思う。
どうかがんばって最後までスピリチュアル調にお付き合いください。

「フローはわたしたちの努力とは無縁の自然な人生の開花であり、
わたしたちを他者や宇宙と調和した葛藤のない人生に導く。
フローに浸されていると、偶然が次々におこり、
出来事が収まるべきところに収まり、障害が消え去る。
人生は無意味な戦いではなくなり、納得のいく目的と秩序の感覚に満たされる。
フローは人生を変える莫大な力を秘めている。
というのも、躍動的なエネルギーに満ち、
人生にまちがいなく喜びと活気をもたらしてくれるからだ。
たいていの人間はフローに生きた経験を持っている。
フローに生きているとき、わたしたちは適切な場所で適切なときに、
適切なことをしているという感覚を抱く。
心はうきうきするが平静であり、
自分自身を超えた偉大ななにかにつながれていると感じる。
人生は意味と目的に満たされ、魔法のような出来事が頻発する。
わたしたちは生命力にあふれ、生き生きとし、楽しくなる。
しかし、たいていの人にとって、そうしたことはまれにしかおこらない。
たとえおこったとしてもそれほど長続きはしない。
フローの光をかいま見ても、すぐにそれは消え失せてしまうのだ」(P11)


はいはい、どうもお疲れさんです。
みなさんもそうでしょうが、わたしもフローのようなものは経験したことがある。
プラスフローではなく、マイナスフローもじつのところ存在するのだが
(やることすべて裏目、なにをしてもダメ)、そのことには本書は触れない。
(プラス)フローの日があるといってもせいぜい1日でよくて1週間だろう。
フロー状態はたしかにたまにあるが、あまり長続きするものではない。
このため、本書は多くのレッスンやプラクティスを読者に課す。
どの自己啓発書にも書いてあるような善行をすればフローに乗れるとうたっている。
しかし、それは嘘である。なぜなら、そもそものフローの定義を考えてみればわかる。
重要なので赤字で書こう。

「フローはわたしたちの努力とは無縁の自然な人生の開花」

フローはわれわれの努力とはいっさい関係のないものなのである。
いくらレッスンを繰り返しても夏や秋、冬に桜が咲くことはないだろう。
ならば、自然な人生の開花たるフロー状態もレッスンやプラクティスとは無縁とわかろう。
秋から桜を咲かすレッスンをするのも、趣味は人ぞれぞれだからいいとは思うが、
4ヶ月後に桜が咲いたとき、これは自分のレッスンのおかげと誇るのはおかしい。
いや、そう信じていたら本人は幸福なのだから、それはそれでいいのかもしれない。
毎日レッスンをしていても、反対に怠けていても、
開花時期が来れば桜は咲くし、かといってずっと咲き続けることはなく、
散るときはあっさり散るものである。
アメリカ人はこんな単純なことも理解できないらしいから、
おめでたい国民性をお持ちの人たちのようでうらやましくないこともない。

「賭ける魂」(植島啓司/講談社新書) *再読

→人生をおもしろく生きるには賭けるという行為がポイントになってくるはずだ。
なにものかに賭けていないと、
どんどん人生は退屈で平板なものになってくるのではないか。
1時間働いて千円しかもらえない人も、
ギャンブルをすればその千円を失ってしまうかもしれないというスリルのみならず、
その千円が10万円に化けるかもしれないという夢や興奮を持つことができ、
うまく目に見えない偶然の仕組みを看破すれば現実に千円が10万円になるのだから。
いちばん難しいのはこのときの10万円でさらにギャンブルしようとせずに、
ここで終わりと賭場をあとにして儲けを確定することらしい。
自分への投資というのは、なかなかわかりにくいギャンブルではある。
かといってグルメ雑誌が絶賛しているレストランで食事をすることが、
自分へのギャンブル的投資だと勘違いするものは少ないと思う。
賭けるというのは将来的な儲けを期待してなんらかの偶然性に身をまかせる行為だ。
著者は中国人のギャンブルを褒める。見ていておもしろいからだという。
中国人は、どうしてあれほど気風のいい賭けができるのか。

「彼らの人生観を要約すると以下のとおり。
たとえば、2年間屋台を引いてやっと200万貯めたとする。
あと3年間働けば500万となり一応の店が持てるようになる。
だが、そこからがわれわれと違うところ。
彼らはためらうことなくカジノに出かけ、200万を一気に500万にする賭けを打つ
(この賭けはそれほど不可能ではない)。
勝てば、もちろん翌月から店を持つことができるし、
負ければ、また2年間同じように働くだけ。
このあたりの割り切り方がなかなか日本人にはできないのである」(P19)


そんな危ないギャンブルはむろんのことわたしはできないし、植島啓司さんだって
そこまで人生を賭けたギャンブルはしたことがないのではないかと思う。
さて、偶然性に賭けることがギャンブルである。
未来予測のうえで人間にわかっていることは、
人間の未来予測はまあ外れることが多いということだろう。
自分がこうなるだろうと思ったようにはならないことのほうが多い。
ならば、自分をある面で捨てていたほうがうまく偶然性と波長が合うのかもしれない。

「人間は心に何か意図したら、同時にそこにスキが生まれる。
どんなに完全な計画も、人間が造ったというだけで、
どこかしら攻略可能な点が生じてしまうのだ。
何も意図せず相手を倒す、そのためにはその人自身、
他人に理解不能な生き方をしていなければならない。
安定した職場があって、帰る家庭があり、子どもがいて、
他の人々ともうまくやっている、そんな人間がギャンブルで勝てるわけがない」(P66)


対戦相手がいるギャンブルの場合、とにかく手の内を見せたら負けるという。
「どれだけ正体不明のままいられるか」で勝負が決まる。
なるほど対戦相手の正体がつかめないとこちらは不安に襲われ自滅することになろう。
どうしたら自分を正体不明なままで賭けに挑むことができるのか。

「勝負というのは「理解」されたら、即負け。
一見真実に見えるものをこしらえ、
相手がそれを信じそうになったら、直ちに壊してしまう。
相手が信じたものがつねに間違いであるかのように誘導していく。
そうやって相手をたたく。勝負というのはその繰り返し」(P72)


勝負師の自分語り(自慢話、人生来歴等)を信用してはいけないということだろう。
「あの人はこういう人間」などと相手に理解されたら即負け、おしまい、ゲームセット。
つねになにをするか自分でさえもわからない人間がギャンブルに強い。
人生をルーレットにたとえたら、大きな当たりはめったに出ないことになろう。
小さな当たりはよくでるが(偶数か奇数か)、そこで大儲けすることはできない。
このように考えると、人生で大きな当たりが出ることは極めてまれである。
ということは、ハズレるのが当たり前ということである。
人生をルーレット式に考えていたら、ハズレ続けている状態こそ大当たりへの布石になる。
またハズレ続けないと大当たりは出てこない。
繰り返されるハズレをいちいち負けだと解釈して落ち込んでいてはいけない。
ハズレを現在の自分を取り巻く運勢の波程度に認識していたら精神的に楽になる。
99回ハズレても1回大当たりが出れば、
そのうえそのタイミングでそこに大金をかけていたら勝ちなのである。
1勝99敗でも、ひとつの勝ちがデカければ人生収支のうえではOKとも言えよう。
宗教人類学者の植島は話をギャンブルから浄土信仰にまで持って行ってしまう。

「いくら勝っても負けても、そんなことに一喜一憂してはいけない。
それより、どこかで大勝負を仕掛けて
一発で勝負全体をひっくり返してしまうのだ。
当然のことながら10戦して5勝5敗なんて考えない。
むしろ1勝9敗でもかまわない。その一勝(極端にいうと、
他は1万円勝負で、それだけ1000万円勝負とか濃淡をつける)を
どのように配するかを考える。
できればそれを人生最後の勝負に賭けられたらベストかもしれない。
それによって、これまでの勝敗をゼロにしてしまうのだ。
その考え方を敷衍(ふえん)すると、
最後には「死んだら勝ち」という思想にたどり着くことにもなる。
死ぬというのは、一見すると最大の不幸に見えるかもしれないが、
実は考え方によっては、最大の歓びともなりうるのである。
「最後に最大の幸せが待っている」と思えば、
生きていること自体も肯定されるようになるだろう」(P173)


こんな危ないことを書き写しているわたしだが、パチンコひとつやったことがない。
そんなところで小さく勝ってしまったらと思うと怖いのかもしれない。
小さな勝ちは、小さな負けしか呼び込まないから比較的求めやすいのだろう。
わたしは大きく負けてもいいから、というかもう大きく負けている気がするし、
さらに大きな負けを経験してもいいから、大きな勝ちを志向したいところがある。
賭けの勝負を決めるのは偶然である。この偶然にどう向き合ったらいいのか。

「名人は偶然を制御できるとは思っていない。ただ、その不思議に酔いしれるだけ。
偶然を深く愛すると、しばしば向こうからその姿をチラッとかいま見せてくれる。
彼らは一見勝負しているように見えて、
その兆しがどのように現われるのかを楽しんでいるのである」(P192)


自分が勝ちそうだと信じる馬に金を賭けるのが競馬になるのだろう。
人生競馬でも、この人には賭けられるという人材がいるかもしれない。
この上司になら人生を賭けてもいいと思っているビジネスマンもいることだろう。
なかには自分こそ最後に勝つ馬なりと信じて自分に金を賭けるものもいよう。
あらゆる勝負はただ観戦するよりもはるかに賭けたほうがおもしろいものとなる。

(参考記事)前回の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2323.html

今日は信濃町の病院へ行って、その後新宿方面まで歩く。
来月、血液検査をしてもらうが、まだわが肝臓は大丈夫だろうか。
新宿御苑前のガストで忙しい旧友とひさびさの対面。
まだ時給850円のバイトを続けていることを伝えると、複雑な顔をされる。
ぼくが誘ったのだしドリンクバー2人前を払おうと思ったら861円。
時給850円を知っているためか400円差し出してくる女友達にはまいった。
ここで平気な顔をしてお金をもらえるのが数少ないぼくの強みだろうなあ。

850円の価値について深く考えさせられた。
ぼくがいまのバイト先で1時間働いてもらえるのが850円の価値ということになろう。
ということは、ぼくが60分働いてもドリンクバー2人前さえ払えない。
しかし、850円はそんなに大金だろうか?
ベトナムでは月収5万円がかなりの高給取りになるらしいから、
ベトナム人にとっては850円は足蹴にできる金額ではないのかもしれない。
もっとも日本に住んで生活している以上、
850円の価値はそれほどでもないことに気づいているでしょうが。
高校生にとって800~850円はみずからの経験からしても大金のような気がする。

正直、いまのぼくにとっての850円の価値というものがある。
850円は安いファミレスのドリンクバー2人前にさえ値しない金額である。
どういうことか。1時間850円できつい作業はやりたくない。
時給850円というのはおしゃべりしながら働いてもいい金額で、
たまにミスを出すのもまあしようがない程度の労働賃金だと思う。
安かろう悪かろう、である。
時給850円なら、そんなハイスペックな人材を求めんなよ。
実際、バイトにそこまで求めていないのが、いまのバイト先の社員さんのいいところだ。
よく現実をわかっている。
社員さんがパートを注意しているところなど見たことがない。
社員さんだってたかだが時給850円でそんな厳しいことはしたくないはずである。
自分ができないことを他人に無理やりやらせるのは、人としてどうかって話だ。

パート先でもそれぞれ850円でどこまでできるかというラインがあるだろう。
なかには時給900円もいるそうだが、ならばきつい作業を回されてもやむをえまい。
(といっても、ぼくは50円程度にそこまでの価値はないと思っているけれどさ)
社会保険ボーナスありの社員ならともかく、
850円のパートのぶんざいでは重い写真集を高速で数千冊出すことはできない。
ヘビーなところを振られたら身体を壊したくないからスピードはかなり落とすし
(だって医療費くれないでしょ?)、ときおり腹が立ってオリコンを落とすこともあるだろう。
ほかの人はやれるのかもしれないけれど、ぼくをふくめて、
850円でこの作業はできないと思う人のほうがいまの職場では多いのではないかと思う。
重要なので繰り返すが、
ぼくにとっての時給850円はおしゃべりOKでたまのミスもやむなしレベル。
日本円850円で力のかぎりをふりしぼって身体を壊してまで働く気はさらさらないね。

いまの職場は早く帰ってくれと言われることが非常に多い。
早くやれと命令しておきながら、
がんばって早く終わらせたらご褒美ではなく逆に強制的に減給するのだから、
ふつうの常識をもった大人なら気が狂いかねないレベルの職場だと思う。
でもさ、1時間早く帰ってくれと言われる。たかだか850円じゃないか。
850円って安いファミレスのドリンクバー2人前もまかなえない金額なのよ。
そんなお金のためにムキになって怒るのは大人げないにもほどがあるとも言えよう。
高校生のようなお子さまならともかくだ。

結局、850円は850円なんだよね。
いまのバイト先ではあまりお金に困っていなさそうな主婦ほど楽な場所にまわされる。
きついところを振って辞められたら困るからだろう。
こいつはほかでは使いものにならないといったものほど酷使される。
でもさ、だとしたらおかしいんだ。
ほかでは使いものにならなそうな
日本語がほとんどできないフィリピンのおばさんが数人いる。
この人たちにとって850円は高額でしょう?
しかし、どうしてか古株のためか
フィリピンおばさんは楽な場所にまわされることが非常に多い。
そのうえ、どんな自信を持っているのかフィリピンおばさんたちはサボりまくりなのである。
ぼくがきつい持ち場でこうしてくれとお願いしても絶対にやってくれない。
それどころかあることないこと上に告げ口しに行くのだから。
あの人たちなんか他じゃ850円稼げないでしょう?
そもそも雇われるのが無理なレベル。
だったら、フィリピンおばさんはもっと働かせるべきではないか?
どうしてフィリピン女はオリコンを落としてもよくて(女で外国人の自称弱者だから?)、
ぼくがオリコンを落としたら(密告され)
怖い危ないと注意されなければならないのかまるでわからない。

とはいえ、いまのバイト先はおもしろい。
たとえば、このブログ記事に書いたような、いろいろ発見があるからだと思う。
生きのいいネタが入手できる市場はこちらが金を払っても得がたいものである。
明日辞めるかもしれないが、いまのところあの職場は相当におもしろい。
やはり社員さんも850円の現実というものをご存じで、
ミスをしても厳しい注意をされないところが素敵である。
社員さんから率先して
和気あいあいとおしゃべりしているような職場はめったにないのだろう。
やはりいまのバイト先が好きなのだと思う。
給与明細をもらっても数日見ないようにしていたら、金額に腹が立つこともない。
働いているというより遊んでいる感覚に近い。
(いえですね、本当の労働は遊びに接近すると偉い学者先生も仰せであります)
早く帰ってくれと言いにくる社員さんの硬直した表情からして味わい深いものがある。
「えええ?」とかどこまで本気か冗談かわからぬまま言ってみるのもまた楽しい。
なによりボランティアでないのがいい。
本は好きだからボランティアでもできないことはないが
(いままでどれほど本のお世話になったかを考えると)、
まだだれも手にしていない新刊書を手に取れてお小遣いまでもらえるのである。
忙しくない持ち場だったら立ち読みまで可能。
今月はじめ少しばかりお休みをいただいた。
どれほどみんなが懐かしくなったことか。
社員さんパートさんを問わず、みんなに逢いたいとそれぞれの顔が浮かんできた。
明日またみなさんにお逢いできるのをいまからとても楽しみにしている。
「ゴーリキー短編集」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→ゴーリキーはチェーホフと同時代の人なのだけれど、
現在の評価では完全にチェーホフのほうに軍配が上がっているような気がする。
女権推進者のイプセンが女性蔑視者のストリンドベリを打ち負かしたように。
いまゴーリキーの名前を出す人はいないでしょう。
チェーホフはお洒落なのに対して、ゴーリキーは底辺臭がきつくて疎んじられそう。
ゴーリキーが好きだなんて言ったら、赤旗新聞でも取ってるの? 
とか怖々と及び腰で質問されちゃうかもしれない。
ゴーリキーは熱心な共産主義者だった時代もあり、
スターリンの寵愛を受けたこともあった。
こういう事情でいまはもう流行らない作家なのかもしれない。
だが、愚見を申せば、チェーホフなんかよりゴーリキーのほうが荒々しくてよろしい。
お医者さんだったチェーホフに比して、
ゴーリキーはまともな教育を受けたこともない独学の人。
底辺労働を転々としながら言葉を持たない人たちに揉まれた作家である。
底辺の人たちは言葉を持っていないんだよね。
喜びや悲しみをうまく言葉で表現することができない。
ゴーリキーは底辺労働者のうめきのようなものを
的確に言語化した作家だったのかもしれない。
きっと文学少女がチェーホフに行って、政治活動青年はゴーリキーに向かったのでしょう。
実際、ゴーリキーは日本のプロレタリア文学に影響を与えたっていうし。
現存する作家でゴーリキー利権のようなものを持っているのは五木寛之氏になるのかな。

ゴーリキーはいいと思うけれどなあ。
暇があったら神保町と高田馬場の古本屋街をハシゴして
運にまかせてゴーリキーを買い集めてみたいくらい。
岩波文庫の「ゴーリキー短編集」の翻訳はちょっと問題ありのような気がする。
岩波文庫だからしょうがないのかもしれないけれど、訳がよくねえよ。
名短編「二十六人の男とひとりの少女」――。
ターニャが地下の囚人さんたちにパンをもらったところの訳がおかしい。
岩波文庫ではターニャがパンをもらって「狡そうに笑っ」たと書いてある。
別の訳では「いたずらっぽく笑って」となっており、こちらのほうが断然いい。
我われのかわいいターニャが狡そうに笑うはずがないじゃん。
岩波文庫の訳者がゴーリキーのこのすばらしい短編小説を
からきし愛していなかったことが証明されてしまったようなものである。

「零落者の群」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→安酒場のまえにある木賃宿(きちんやど/安宿)が舞台である。
ここでは大尉と呼ばれる宿主をふくめ「失うものがない」零落者たちがとぐろを巻く。
彼らは日雇いの力仕事で日銭を稼いだらすべて酒に使ってしまう。
金がなくなったらまた酒をのむための日銭を求めて沖給仕にでも出かける。
彼らが街の人から嫌われているかと言ったらそうでもない。
大尉の目はいつもどこか笑っているため愛嬌があり、なんだかんだと面倒見がいい。
なかにはこの最底辺の木賃宿を卒業するものも現われる。
大尉のおかげですよ、どうか一杯ご馳走させてください、と恩返しに来ることもある。
ふたりは目のまえの安酒場にくりだし景気よく酔いつぶれる。
翌朝二日酔いになっていたら、これをおさえるには酒しかないと再び酒場におもむく。
ついついこれを何日も繰り返してしまう。
お礼をしているほうの金がなくなったら今度は大尉が金を出して酒をのむ。
こうしてすっからかんになってしまったものは、また大尉の木賃宿の世話になるのである。
「零落者の群(むれ)」に再加入するというわけだ。
零落者のなかには教師と呼ばれる別格のこれまた人生の敗残者がいる。
教師はフリーで新聞記事を書き飛ばして、そのごとにあぶく銭をつかんで帰還する。
毎回、禁酒の誓いは破られることになる。
それでも教師は金の半分は街のスラムの子どもたちのために使う。
貧しい子どもたちにパンや果物を買ってやるのだ。
スラムの元気だが汚い子どもたちは感謝の言葉も口にせぬまま、
一目散に与えられた食物を平らげると次は教師をおもちゃにして遊ぶ。
教師は子どもたちの運命を考え始終暗い顔をしているが、
子どもたちはそんなことはお構いなしに教師の禿げ頭をぴしゃぴしゃたたいたりする。
教師は自分がなにか言葉を発したら
子どもたちを傷つけてしまうのではないかと恐れている。
夜になると教師はいつもの安酒場にしけこみ正体をなくすまで酒をあおる。
宿主の大尉と教師が「零落者の群」のなかでのツートップと言えよう。

いつの時代のどこの国でも社会の底辺では、
彼も我もみな人びとはただただ一斤のパンを求める、
それだけのために一日中こき使われ疲労困憊する。
貧乏と悲しみにうちのめされた人びとはわずかな憩いを求めて安酒場に足を運ぶ。
すると、その落ちぶれた安酒場に常連のように居座っているのが「零落者の群」である。
「零落者の群」は――。

「どんな問題についても堂々と意見をのべ、あらゆるものを茶化してしまう才能があり、
考えることが大胆不敵で、言うことが辛辣(しんらつ)で、
街じゅうの人が恐れている物の前に出ても少しも臆するところがなく、向うみずで、
こうと思ったことはがむしゃらにやってのける――零落者の群のこういった気風は、
街の人気をわかさないはずがなかった」(P263)


こいつらはまったくどうしようもないと思いながら、
その捨て鉢で自由な生き方に日々労働するものは安らぎを憶えるのだろう。
自分は古女房やガキんちょを捨てられないから、
むしろ反対に「零落者の群」が好ましく見えるようなところがあるのかもしれない。
どうしようもねえやつらのよさというのもまたあるのである。

「この人たちには一つのおかしな癖があった、というのは、
彼らは好んでお互いに自分というものを、本当の自分よりも悪く見せよう、
見せようとしていたのであった」(P250)

「この零落者の世界には一つの大きな美徳があった――
そこでは誰も無理に自分をありのままの自分以上に見せようとする者はなかったし、
また他人をそそのかして強いてそんな風にさせようとする者もいないのであった」(P301)


「零落者の群」はもはや見栄を張るという世界からは遠く離れてしまっている。
それにしても人生これからどうなるのか考えると先行きは絶望しか見えない。
かといって、過去を振り返ってもいい思い出はなにひとつとしてなく、
おのれのみじめな境遇を思い知らされるだけである。
どうしてこうなったのかもこれからどうなるかもわからず前後は闇も闇、
一面真っ暗だが、ひとつわかっていることがあるとすれば、
これからあの寒い冷たい凍える冬がやって来ることである。
過酷な運命には飼い馴らされているいるはずの「零落者の群」の凶暴性が目覚めるのは、
こんな冬が目前に迫った晩秋の夜更けである。
虐げられた人間特有の野獣のような憎しみが安酒場に充満する。

「そうすると、彼らはお互い同志で殴りあいをした。
まるで野獣のように、猛烈に殴りあった。
そしてさんざんに殴りあったあとはまた仲直りをして、飲みなおした。
あっさりした気性のヴァヴィロフ[酒場の主人]が抵当(かた)にとってくれるものを
何もかも放りだして、すっからかんになるまで飲んでしまうのであった。
漠然とした怒りと、胸をしめつけられるような切ない思いとにつつまれ、
この愚劣な生活から逃れでる道も見いだすことができないで、
彼らはこんな風にして秋の日を送り、
もっともっと過酷な冬の日が迫ってくるのを待ち受けているのであった」(P274)


そして、だれもが身構えてしまう過酷な冬がやって来る。
大尉は木賃宿のオーナーではなく、
あこぎな商人に地代と家賃を払って建物を借りているだけのただの管理人である。
幾度となく商人からは立ち退きを迫られたが、大尉と教師が力を合わせ撃退してきた。
ところが、忍び寄る冬の寒さがたたったか、相棒の教師が酒ののみすぎで死んでしまう。
あぶく銭が手に入ったため「零落者の群」が庭で酒宴を開いていたまさにそのとき、
最近すがたを見せなかった教師が危篤の状態で運び込まれ、すぐに息を引き取る。
「零落者の群」のボスである大尉は悲しんでやるもんかと強がる。

「時が来りゃ、おれだって死ぬのさ……あいつと同じようによ……
おれだって他の者と変りはねえさ。
――そりゃそうだ!――大尉はすっかり酔っぱらってしまって、
どたりと地べたに坐りこみ、大声をあげてわめいた。
――時が来りゃ、おれたちはみんな同じように死んじまうのさ……アハ、ハ、ハ!
どんな暮しをしようが……そんなことはつまらねえことさ!
おれたちはみんな同じように死んじまうんだからな。
人生の目的というやつは、つまりここにあるんだ。
おれの言うことは本当なんだぜ。
要するに人間は、死ぬために生きてるってわけなんだからな。
そうして、みんな死んでいくんだ……もしそうだとすると、
人間どんな暮し方をしたところで、結局、同じこっちゃねえか?
どうだ、おれの言うとおりだろう。マルチヤノフ?
さあ、もう一杯飲もう……生きているうちにせめて酒でも飲んでだ……」(P341)


翌朝は季節の変わる日であった。
教師という相棒がいなくなってしまった大尉は敵の術策にはまり警察官に連行される。
早晩、この木賃宿も取り壊されることだろう。
教師は死に、大尉は警察に連行され、「零落者の群」は散り散りになる。
ひとつの季節がこの日に終わったと後年、安酒場で語られることだろう。
その場に居合わせた呑兵衛はきっとだれもが、
むかしこの酒場の常連だった「零落者の群」を懐かしく思い出すはずである。

「秋の一夜」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→この短編小説が好きだと白状するのはとても恥ずかしいことだと思う。
あたまでっかちの無職青年が売春少女に慰められ号泣する話である。
日雇いのような仕事を転々としていまは無職で放浪中の青年がある港町に流れ着く。
腹ペコだが一文無しのため固くなったパンさえかじることができない。
夜になりたまたまおなじような境遇で空腹の貧乏家出少女と出逢い、
ふたりで売店に忍び込み古くなっただれも食べないようなパンにありつくことができた。
いちおう腹の虫もおさまったし、
ふたりはどちらが誘うともなく砂浜に横たわり星空を眺めている。
「いっそ死んじまったら」と少女は言う。
少女は生まれてきてから苦労の連続でいまは売春で生計を立てている。
正確には、悪い暴力男につかまり売春をさせられている。
稼いだ金もピンハネされて少女のもとには一銭も入らない。
今日さっきの話だ。
男にほかの女がいたことに気づいた少女が怒ると
逆にボコボコにされ家を追い出されてしまった。
「男なんてみんな死んじまえばいいんだ」
と言う少女は言葉とは裏腹に恨みも怒りも暗さもなく、むしろ明るささえ感じられた。
低学歴ゆえのコンプレックスから貧しいながら本ばかり読んできた青年は、
この顔に殴られたあざのある売春少女のなまの声にガツンとやられる。
自分はいままで本をたくさん読んできたが、本当のことはなにも知らなかった。
この少女の言葉には万巻の書をもってしてもあらわせない真実が宿っている。
書物などではゆめゆめわからぬものが、
いまこうして生きている学のない少女の内奥に存在する。
いままでの自分が根本からくつがえされた青年の身体はガタガタ震えはじめる。
「秋の一夜」に風邪を引いたのか世界観が変わったせいか青年の震えはとまらない。
売春少女は大丈夫と言う。寒かったら、あたしがあたためてあげる。
人肌って意外とあったかいものよ。
寒かったらあたしを抱きしめてあたたかくなって。
大丈夫、考えすぎないこと。いまは辛くても人生なんとかなるものよ。

「彼女は私をなぐさめ、はげましてくれた……
私はなんという仕様のない人間だろう!――この一つの小さい事実のなかには、
私にたいするなんという大きな皮肉がふくまれていたことであろうか!
まあ考えてもみてください!――だって私はそのころは、
本気になって人類の運命というものに心をいため、
社会制度の改革や、政治的な変革を夢み、
おそらく著者自身にさえもそこにふくまれている思想の深い奥底までは
見きわめがついていないのだろうと思われるような、
さまざまの悪賢い書物を熱心に読みふけり――そうして、なんとかして自分を
「偉大な積極的な一つの力」に仕立てようと努めていたのであった。
ところが、いまこの淫売婦は自分の身体でもって
私をあたためてくれているのである」(P158)


どうしてこの子は自分なんかに親切にしてくれるのだろう?
いま自分が味わっている感触は本には書いていなかったことだ。
少女のつんと固くとがった胸の感触はこうも身にしみるあたたかさを持っているのか。
たしかに私は震えていたが、いま思えば震えていたのは私だけではなかった。
宿無しの売春少女もまた震えていたではないか。
どうしてこの子は自分もまた震えているのに私を抱きしめてくれるのだろう。
孤独は寒い。空腹も辛いが、孤独はもっと寒々とするしんどさがある。
だれかとハグしたい。ぎゅっと抱きしめあいたい。
この無学で貧困にあえいでいる売春少女はどれほどの苦しみをいままで味わったのか。
それを想像すると
いままで本ばかり読んで世界をわかったような気になっていた自分が恥ずかしい。
この売春少女はどのくらいの辛酸を舐め、にもかかわらず、
こうして自分を励ましてくれるのか。
本当に不幸なのは自分ではなく、この売春少女ではないか。
どうしてこの子はこの辛い境遇に耐えられるのか。

「ところがナターシャは、ひっきりなしに何かしゃべっていた。
しかもそれが、女でなければいえないような、優しい、慈愛のこもった調子であった。
その彼女のあどけない、優しい言葉をきいていると、
私の身体のうちにいつかしら温かい火が静かに燃えあがってきた、
そしてその火のおかげで私の心のなかの塊りは、溶けていくのであった。
すると私の両眼から涙が滝のようにどっとあふれだした、
そしてそれといっしょに、
その夜まで私の心にこびりついていた多くの憎しみや、憂いや、
馬鹿げた、汚ならしい思いなぞが、
きれいに洗い流されてしまった……ナターシャは一所懸命に私をなだめるのであった。
――さあもうたくさんよ、あんた、泣くのなんて止しなさいよ!
もういいでしょう! なあに、じきにまたいい日がくるわよ、
仕事も見つかるでしょうし……そうしたら、何もかもがうまくいくようになるわ……
そして、絶え間なしに私に接吻(せっぷん)をしてくれた。
かぞえきれないほど沢山の、熱い、熱い接吻を……
これは私が生れてはじめて味わった女の接吻であった、
しかもこれこそ私にとっては最上の接吻なのであった、
というのはその後の接吻はすべて、おそろしく高い値をはらいながら、
しかも私の方ではほとんどなんら得るところがないようなものばかりだったのだから」(P160)


私はこの少女にもう一度会いたいと思って探し回ったが、結局再会はかなわなかった。
あの少女は本当にいたのわからなくなる日もあるが、
あのあたたかさだけはいまでも忘れることができない。
ありがとうと私はなにものかに対して思う。生きるのもまんざら悪くはないのではないかとも。

「チェルカッシ」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→悪人が善人をバカにする話のようにも読める。
札付きの悪(わる)のおっさんが貧農出身の青年をスカウトして一緒に強盗をやる。
悪事はまんまと成功して大金を獲得したおっさんは笑いがとまらないが、
小心者の青年はビクビクしっぱなしでおしっこをちびりそうな気配。
青年はいかにも小物(こもの)らしく、
この大金があればなあ、
これを元手に自分は村にかえってコツコツまじめに生きていくのになあ、
なんて殊勝なことを口にするので、
悪いおっさんは大物ぶって大金の大半を田舎もんの若者にくれてやる。
青年は涙を流しながら感謝する。
そこでなんだか青年も悪(わる)ぶって、
大金をくれなかったら横取りしてやろうかと思っていた、なんて懺悔をする。
ムカっときたおっさんが若者に殴りかかったら、
勢いで田舎もんは都会の不良おっさんをぶちのめしてしまう。
恩人になんてことをしてしまったんだと自分の罪を反省する青年。
「許す」と言ってください、とか悪(わる)になりきれない田舎もんである。
あたまから血を流しながら、もう行けと青年を追い払うおっさんは格好いいのか?
おっさんの名前はチェルカッシという。

「――おい、どうだい? ――チェルカッシがいいだした。
――お前(めえ)はこれから村へ帰(け)えって、女房もらって、畑を耕し、
麦を撒いて、百姓をやろうというんだろう。
ところが、女房は次から次へと餓鬼を生む、食うものは足りなくなる、
そうしてお前は一生あくせくしているってえことになる……ふん、どうだい?
それでいったい、なんの楽しみがあるってんだ?」(P111)


おれも一か八かの悪いことをバシッと決めて大金を手に入れたいなあ。
でも、実際にそういうチャンスがあっても実行できないんだろうなあ。
悪いことってきっとよいことよりもハラハラどきどきして楽しいんじゃないかい?
善人って要はヘタレということがうっすらわかるモラルがねえ小説だ。
まったく銀行強盗でもやって国外脱出してアジアで酒びたりの生活をしたいぜ。
ひとりじゃできないので相棒希望者がいたらぜひメールをください。
来たら来たで腰を抜かしそうな弱腰なおれさまではあるけれど。

「ヴェトナム新時代」(坪井善明/岩波新書)

→かつて自由気ままにふらふら1ヶ月ベトナムを旅したことがあったので、
いまの職場でベトナム人と再会したときは不思議なご縁に驚いたものである。
で、ベトナムについて興味が出てきたのだが、さあ、どうしたらいいか。
ベトナムのことはベトナム人に聞けばいいと思われるかもしれないが、
そうはいかなかった。
2年日本の学校に通っている子でも社会主義という言葉が通じないのだから。
そうとうに難しいとされるN2(日本語検定資格)を持っている子も、
社会主義という言葉は通じなかった。

本書はさすが岩波新書というほかないクオリティの高い本である。
2008年と出版もわりあい最近で、最良のベトナム入門書ではないかと思われる。
わずか250ページにベトナムのいろいろな情報がぎっしり詰まっている。
このため非常におもしろかったが、ことさら推薦はしない。
みなさまが本書を読まなくてもいいようにおもしろかったところを書いてしまうからである。

まず自分が社会主義という言葉をよくわかっていなかったという恥を告白する。
社会主義とは、1.私有財産の否定、2.計画経済、3.共産党の一党支配――。
わかりやすくするためにものすごーく乱暴なことを書くと、
社会主義はお金がなくてもみんなが生きていける社会のこと。
どうしたらそのようなことが可能になるのか。
国がすべてを管理してしまえばいいのである。
最初に国がその年の国民に必要な衣食住の需要を計算する。
それを元にして国が工場や農場に必要分の衣食住製品を発注する。
国民はみなみな公務員か工員か農民になり、労働者として生産活動に従事する。
みなおなじような家賃のいらないところに住み、衣食はクーポンでまかなわれる。
病気になったら医者が無料で診察してくれる。
――ね? これならお金がいらないでしょ?
著者によると、ベトナム戦争中は貧しさをわかちあうことができるため、
この社会主義経済は思いのほかうまく機能していたらしい。
しかし、戦後に社会主義経済の矛盾が露呈しはじめる。
みんなとおなじ服を着ているのなんていやだ~。
お化粧したいけど、国は贅沢品だって支給してくれない、ぷんぷん。
職業選択の自由がほしいよおん。
がんばっても手を抜いても同程度のクーポンだから働く気がなくなるなあ。
このままじゃいかんのではないかと国は資本主義市場の導入を決めたわけである。
みなさん世界史や地理でお勉強したでしょうドイモイ政策というやつだ。
考えてみたらドイモイ政策の採用が決まったのは1986年。
いまの職場のベトナムっ子たちは生まれていない。
あの子たちは生まれてきたころから資本主義世界しか知らないのかもしれない。
だとしたら社会主義という言葉を知らないのは、なにやら象徴的でさえある。

とはいえ、資本主義市場を導入したときも経営者のなり手がいなくて大変だったらしい。
そもそも長期的な視野をもってお金を儲けようとする資本家がいなかったのだという。
市場は、まず大きな資本(お金)を投下して土台を作る人が出ないとはじまらない。
ところが、ベトナム人は相次ぐ戦争で目先のことしか考えられない人が多い。
20年間資本主義を経験した南のホーチミン市は、要人がみな国外へ逃げてしまった。
ボートピープルとかすごかったらしいねえ。
要は北に負けた南の人が財産没収や強制収容所行きを恐れて、
小さなボートで国外へ脱出しようとしたのである。成功率は10%だったとのこと。
当時ボートピープルを選択した人はこの成功率を知っていたのだろうか。

資本主義経済にもかかわらずベトナムは共産党の一党支配の国である。
これはどういうことか? よくわからないよねえ。
まず共産党はどういう立ち位置なのか。
共産党に入らないと経済以外の分野では出世できない(大学など)。
2008年段階でベトナムの人口は8500万人。そのうち共産党員は350万人。
国民の約4%が共産党員ということになる。
だれもが共産党員になれるかといったら、そうではない。
血縁者に共産党員のいることが最重要事項らしく、ならば世襲のようなものなのだろう。
基本的に共産党員はおいしい思いをすることができる。
ベトナムに公平な公務員試験のようなものはなく、共産党員とのコネがすべてである。
とすると、公務員になりたかったら共産党員にあれを払えばいいということになろう。
また公共事業を発注するのも共産党である。
どこの企業に決めるかでも賄賂(わいろ)が派生して共産党員はウハウハである。
どのような資本主義活動も国からの許可を得なければならない。
資本主義行動に許可を与えられるのは共産党員だけだから、あとはわかるでしょう。
しかし、いま都会の若者のあいだで共産党離れが進んでいるらしい。
なぜなら党員になると自由な発言を制限されるからである。
党の方針に沿った言動を求められるようになる。
そのうえ定期的に集会に出席して、マルクス・レーニン思想を勉強しなければならない。
もしかしたら将来的には共産党員だったということが黒歴史になるのではないか。
そういうことを考えるベトナムの若い子もいるとのこと。
現実として外資が導入されたホーチミン市では、
共産党員にならなくても金持になる層が現われはじめている。
英語、中国語、日本語が堪能なら外国企業に入って高額な収入を得ることができる。
グローバル市場経済はベトナムでもどんどん成長しているが、
これをあたまの固い共産党要人たちがコントロールできるのか疑問視されている。

最後に本書で知った豆知識を箇条書きにする。
・ベトナム戦争のとき、米兵は戦地でも冷たいビールが飲み放題だった。うまそう!
・2008年段階でベトナムの人口は8500万人。そのうち40歳以下が8割。すげえヤング。
・いまでも監視の目は厳しくなる一方で現政権の共産党批判をすると公安に逮捕される。
・共産党は情報統制をしている。
・建国者のホーチミンは中国で結婚して子どももいるが、それは国民に隠されている。
・職場でホーチミンってどんな人? とベトナム人の子に聞いたら、
「とても偉い人で何か国語も話せて一生独身でした」と言われたから情報統制はガチ。
・ホーチミンのことはまだよくわかっていないことが多い。
・ベトナムの共産党は常に絶対的に正しく間違うことがない。
・ベトナム人は社会的上下関係を大切にする。
・つまり、どんな会社に勤めているか、どこの大学出身か、既婚か未婚か、年齢はいくつか。
・日本の非常識はベトナムの常識。ベトナムは不正天国。
・少額の賄賂(わいろ)ならば払うのが常識で、もらうのも正当な権利である。
・正しい賄賂の受け取り方はみんなで山分けして生活費以外には使わないこと。
・2005年に廃止されたが、それまで二人っ子政策というものがあった。
・とにかくまあベトナム人は楽天的でしたたか。

「映像夜間中学講義録 イエスタデイ・ネヴァー・ノウズ」(根本敬/K&B)

→ふつうさ「見えないものを見る」ってイイ事とされているじゃないですか。
くだらねえ通俗的成功者とかがいかにも訳知り顔で言いそうな気配がぷんぷんする。
ほかの人が見えないものを見ることが成功の秘訣です、
とかドヤ顔、ドヤ声であいつらは言うだろう。
でもね、だけどさ、「見えないものを見る」というのは狂っているということと同義なんだ。
そうでしょ? ふつうの人が見えないものが見えちゃったら、
それはおかしいよと多数派から排除されてしまう。
見えないものが見えたことを口にしなければ排斥されないのだろうけれども、
実際そういう見えないものが見える人というのは、ここだけの話まあおかしいことが多く、
このため言わなきゃいいものを見えないものが見えたことを公言してしまうわけ。
そんなことをするから危険視されて周囲から疎まれる結果になってしまうのに。

ふつうの人が見えないものを見てしまうというのは妄想パワーが強いということ。
具体例で話そう。バイト先の話。
いつだったか4ラインのほうで、パート女性が大声でヒステリックに泣き叫ぶ声が聞こえた。
異世界の住人が出すような異常な声でわくわくしたものである(←え? わくわく?)。
古株パートのAさんに聞いたら、社員とパートがトラブったらしい。
「よくあることよ」って言われたけれど、えええ、こんなことがよくあるの?
「おもしろい職場ですね」と言うしかなかった。
その翌日だったか、数日後だったか。
ライン(流れ作業)でわたしのとなりに見たことのない女性が入った。
いま書籍や雑誌を日本各地に出荷する倉庫でバイトしている。
で、そのくだんの女性の本の箱への入れ方がめちゃくちゃなのねえ。
こんなことを書いても一部関係者にしかわからないでしょうけれど、
型番20の箱に文庫を縦に3つ並べるという荒業を自信たっぷりに女性はする。
そういえばずっとまえにも一度だけこの本の入れ方を見たことがあったと気づく。
こうしてわたしの妄想は暴走して、
いま横にいる女性こそ先日大声で泣き叫んだ人に違いない。
この人には触れちゃいけないんだ。たぶんこちらの被害妄想でしょうけれど、
わたしもまたバイト先でアレな人のように上から思われている気がする。
上から「毒をもって毒を制す」をやられているのではないか。
きっと試されているに違いない。火薬のにおいがする。ふふふ、この地雷は踏まないぞ。
こんなことを考えたらおかしくてたまらなくなった。
本当のことを知ったら、なんでもなかった。
横の女性は泣き叫んだ人とは別人で、最近新しく入った人だったというだけ。

ここからが難しいというか、おもしろいというか。
いわゆる妄想に生きていたほうがそれなりにハラハラやドキドキを味わえるわけだから。
現実なんか知らないほうが劇的な生を楽しめたと言えなくもないわけ。
「見えないものを見る」っていうのは、
コクのある人生を送るために必要なことかもしれない。
しかし、現実を取り違えているわけだから、ある種の近所迷惑を起こしかねないのも事実。
陰謀説とかもそうだよねえ。
フリーメーソンがどうだとか、なにか悪者がいてこの世を支配されているという妄想。
そういう妄想を生きている人は、本人はだよ、周囲ではなく本人は楽しいのだと思う。
医学的に絶対回復不可能な盲目の人が新興宗教に入って、
熱心に勤行したらかならず目が見えるようになると信じているのは、
本人にとっては救済になっているのだけれど、周囲からしたら痛々しいことこの上ない。
かといって、新興宗教の人だけがおかしいわけではなく、我われもまたおかしい。
我われもまた起業したら幸せになるとか、自分は平均寿命まで生きられるとか、
そういう現実ならぬ夢のようなもの(つまり妄想)を信じて生きているわけだから。
とりあえず正社員になって、結婚して子どももいればゴーカクみたいなさ。
しかし、こっちのほうは広く共有されている物語(妄想)のため、
むしろこちらを信じていたほうが生きやすいということはあると思う。
とはいえ、いくら正社員でも家族がいても、人生つまらないものはつまらない。
かえって、まっとうに生きれば生きるほど人生はどんどん退屈になっていくのではないか。
まっとうなアダルト人生を生きていると、子どものような興奮や刺激を味わえなくなってしまう。

そこで改めて「見えないものを見る」技術が問題となってくるわけだ。
ユングが発見し、河合隼雄が日本に紹介したシンクロニシティという考え方がある。
シンクロニシティは共時性や同時性とも呼ばれる、意味のある偶然の一致である。
シンクロニシティの怪しいところは、当事者にはどれだけ深い意味があっても、
周囲の人にはほぼ理解してもらえない偶然の一致であることだ。
統合失調症(精神分裂病)の人はシンクロニシティを感じやすい。
あらゆる偶然に意味づけしてしまい、
その小さな意味が本人のなかで積み重なることで追跡妄想や監視妄想になる。
集団ストーカーとか言っているアレな人も間違いなくそうでしょう?
だれもあんたのことなんて気にしていないのに、
シンクロニシティなんてことを考えると
知らない人の咳払いにまで意味を読み取ることになってしまう。
で、ここが難しいというか、おもしろいというか、
本当のところはその咳払いにも自分との関連で意味や理由があるかもしれないことだ。
それを集団ストーカーというありきたりな物語に収束させるのではなく、
偶然を偶然のまま味わうことで自分だけの物語を作れたらおもしろいのではないか。
「見えないものを見る」というのは精神医学的にはかなり危ないけれど、
危険なことほどスリルがあって日常の退屈を吹き飛ばしてくれるのではないか。

本書の著者の根本敬の求めているのは、どこまで自覚的かはわからないけれど、
上記のような偶然を生かしたおもしろいことの発見にあるような気がする。
著者はこんなことを言う。

「オカルト的なもの全般から、霊だの前世だの来世だの輪廻転生、霊界の類やら、
神仏から宇宙意志まで、非・科学的とされるもの総ての否定を大前提にしてもですね、
数学的な確率論だとかを以てしても、説明のつかないワザワザな偶然、
それも、いちいち手の込んだ出来すぎた偶然の一致が余りにも多すぎるのは
何故だろうかって、よく考えるんです」(P64)


それは根本敬さんが狂っているからとも、無意識に開かれているからとも言えよう。
はっきり言って発狂直前にいるのだろうが、
特殊漫画やらなにやらを表現することでかろうじて、
まだこっちの世界に踏みとどまることができているのだと思う。
シンクロニシティというのはプラスの面も非常にあるのだろう。
シンクロニシティということを考えると、つまらない人生が少しばかり楽しくなってくる。
それどころかシンクロニシティこそ本当の人生の道しるべかもしれない。

「――偶然と偶然がネットワークを拡張して、必然に結実していく過程ってのがあって。
網のね、その網の結び目のあのギュッとした感じ。
あんな具合に、偶然って、密集してるところには密集してんですよ。
偶然が起こらないとか、それに気付かないってのは、その結び目に居ても、
占いと違ってタダだからって、
街頭のティッシュ配りから受け取ったって扱いしかしてないんじゃないかな。
さもなきゃ、結び目に居ないって事でしょう。
「オカルト」や「スピリチュアル」の餌食になってもいけないけれども、
偶然が降りかかって来れば来る程、行き着く先は地獄でも天国でも、構わないけど、
とにかくそれは「合格」なんだよ。
通過点かもしれないけれど、「今、いるべき場所」なんだと思う」(P66)


この感覚は当方とてもよくわかるけれども、わからない人にはわからないと思う。
たとえば、こういう話。ある特別な日にたまたまある店に入ったとき、
流れていた曲がとても自分との関連の強いもので、
そういう偶然のことに見えない世界の存在を確信して深く感動する、みたいなさ。
根本敬のおもしろさは、
シンクロニシティの行先は天国だけではなく地獄もまたあると言っているところ。
シンクロニシティは祝福されたバラ色をしているのではなく、
いやそういう面もあるのだが、反面まがまがしい暗黒面もまた持ち合わしている。
スピリチュアルな人はみんな自分こそ人生の主役と思っているわけでしょう?
でも、じつのところはそうではないかもしれない。

「目の前に、自分の身辺に次々と所謂シンクロニシティが続けざまに起こっても、
必ずしも、ソレって何も自分のために起こってるとは限らないって事だね。
磁石に釘ひっつけて、それに砂鉄が引き寄せられるでしょ。
あんな具合に、自分のシンクロが、実は、
磁石は他にあって、釘とか砂鉄かも解んない」(P81)


これはすごいことを言っているのね。
みんなどっかで自分が中心になってシンクロニシティが起こっていると思っている。
しかし、本当はそうではないのではないか。
自分が磁石で偶然を引き寄せているなんてとんでもない話で、
磁石は別のところにあって、あらゆる偶然はそこに向かっているのかもしれない。
あなたやわたしは磁石ではなく、釘や砂鉄のような存在かもしれない。
だとしたら、磁石になっているのはなにか。
根本敬は「因果力」の強い人が
あらゆるシンクロニシティの源になっているのではないかと指摘する。

「とにかく、身辺で、人類が滅びるまでの長い、最終捕食者争いをしているとも云え、
それ念頭に、自分に起こったシンクロが、結果、自分を飛び越え、
誰が一番、得をするかを考えると、身辺でのそこで起こってる、まあ、ドラマのね、
その回の主役は誰か、又、一番強い因果力の持ち主が誰なのか、解ります」(P83)


わたしがいままでの人生で出逢ったなかで、
いちばん因果力が強かったのは大学時代の恩師の原一男先生である。
この人に逢っちゃったから、こうまで人生で落ちぶれてしまったとも言えよう。
同時にこの人に逢わなかったら、どれほど退屈な人生を送っていたのかとゾッとする。
人生で逢う人とはかならず逢ってしまうのだろう。
原一男さんの因果力にまさに砂鉄のようにわたしは引き寄せられてしまったところがある。
因果力の強い人というのはカリスマのことだと思う。
一般的にわかりやすい例をあげたら、
いまの日本でもっとも因果力が強いのは創価学会の池田大作名誉会長ではないか。
この人に逢わなかったらと思っている日本人の数をカウントしたらどのくらいになるのか。
池田大作さんに逢ったがために、人生が変わった人が無数にいるはずである。
池田大作さんや創価学会の周辺ではとにかくシンクロニシティが起こるような気がする。
因果力の強弱というのは、持って生まれたもので努力してどうこうなるものではないと思う。
みなさまも考えてみたらおもしろいのかもしれない。
いったい自分の因果力はどれほどだろうかと。
因果力の強い人は周囲に影響を及ぼしてしまう。
いい影響だけではなく、むしろそんなものは少なく、
実際は迷惑をかけることのほうが多いのではないか。
にもかかわらず、我われは因果力の強い人にどうしようもなく引かれていってしまう。
シンクロニシティを生きる道しるべになんかすると、因果力にさらわれてしまう。
因果力のどうしようもない働きで、ある人とある人はどうしようもなく出逢ってしまう。
出逢った人間同士はかならず別れると決まっている。これもまた因果力ゆえかもしれない。
仏教ではこれを「会者定離(えしゃじょうり)」という。
我われは目に見えないどうしようもない力によってこの世に誕生して、
たまたま偶然にだれかと出逢い別れ、そしていつかは絶対にわからないが、
これまた目に見えないどうしようもない力によってこの世から去っていかなければならない。
ならば、「見えないものを見る」のもまたおもしろいのかもしれない。
「見えないものを見る」ことで地獄に行くかもしれないけれど、それでもいいのなら。

*本書の内容を難しく書いている大乗仏典に「華厳経」というものがある。
お暇ならどうかお読みになってくださいませ↓。
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