「崑崙の玉」(井上靖/文春文庫)

→おなじ作品の感想を二度書くのもまたいい。
「崑崙の玉」は西域を舞台にした井上靖のマイナーな短編小説集である。
宮本輝氏が大絶賛している表題作「崑崙の玉」のよさはこちらが未熟なため
よく理解できなかったが、「聖者」「古い文字」「明妃曲」はおもしろかった。
井上靖は偽物のよさ、嘘の楽しみをよく知っていたのだろう。
真実ってなんだろう、本物ってなんだろう、
という疑念がつねにあったのではないかと思われる。
そこのところが井上靖の死後に弟子を自称する宮本輝氏との相違である。
宮本輝は価値の定まった骨董品を金の力で蒐集(しゅうしゅう)するのが趣味のようだが、
井上靖はどんな高価な骨董でもある日それがゴミになりかねないことに気づいていた。
井上靖は偽物のなかにこそ本物があり、
本物と言われているものも一皮むけばどうだかわからないとおそらく思っていた。
勲章が大好きなうさんくさい新興宗教のトップが、
そのいかがわしさゆえにある意味で本物であると井上靖はみなしていた。
悟り澄ましたようないかにも聖者然とした修行者が偽物であることを見破ることができた。

短編小説「聖者」はみなから尊敬されている村の老人がじつは聖者ではなく、
ただの片輪の老いぼれであることを新参者の青年が見抜くが、
物語の最後でその老人が真実を語る本物の聖者だと読者にわかる仕掛けになっている。
話は飛躍するが歴史の真実とはなにか?
歴史の真実は人間ではなく物であるのかもしれない。

「……人間というものははかないもので、
百年もするとその痕跡すら失くなってしまいます。
それに引きかえて人間が造ったものは、貨幣のような小さなものでも、
千余年の歳月を少しの損傷なく生き延びる場合もあります」(P131)


なにかある物が発見されたら、いともたやすく歴史はくつがえされてしまうのである。
しかし、その物が本物か偽物かどうかはよくわからない。
考えてみたら、いまの歴史も物(史料)によってつくられていると言えよう。
われわれが学校で習った歴史は一見すると人間の歴史のようだが、
じつのところあれは物によってこうではなかったかと推定(創作)された物語である。
もしどれかの物が偽物だったら本当の歴史は違っていたのかもしれない。
茶目っ気のある人間なら歴史を変えてやろうと
自分が死んだあとの歴史のために偽物の史料を作ろうと思うはずである。
それが偽物であるとばれなければ偽物の歴史が本物の歴史になってしまう。

とすれば、本物とはなんだろうか。偽物とはなんだろうか。
石ころと宝石をわけるその鑑定眼の正しさはいったいなんによっているのか。
宝石でも高価なものと安価なものにふるいわけられるが、その差はなんなのか。
たとえ偽物の宝石でもそれは世界一価値のある物だと本人が思って
身につけていたら、それはおのずから本人の自信につながり、
彼女の美しさは倍増しになることだろう。だれが宝石の真贋を見破れるか。
詐欺師から運気が上がると偽物の壺を買わされても、
本人がそれを死ぬまで信じていたらけっこう幸運も舞い込むのではないだろうか。
偽物のご本尊でも偽物のお題目でも十分に効果が上がるのだと思う。
そもそも本物のご本尊や本物のお題目など存在するのかどうか。
このあたりが井上靖の弟子を自称する宮本輝氏の初期作品のテーマであった。
ところが、宮本輝氏は社会的地位の上昇とともに、
本物は偽物であり偽物こそ本物であることを忘れてしまったような気がする。
「高いものはいい、いいものは高い」は最近の宮本輝氏の信念のようである。
見ていないので知らないがネット上でもそれに関する発言を連発しているらしい。
貧乏人から成り上がると金ぴかなものに目を奪われてしまうのは仕方がない。
わが家の小さな庭で見つけた小さな石ころが自分にとっては本物のこともある。
だれも価値を認めていなくても、自分にとっては本物の石ころは存在する。
宮本輝氏はそんな石ころは石ころだとバカにするだろうが、
井上靖は小さななんでもない石ころが本物かもしれないと疑うような
懐(ふところ)の広さがあったように思う。

ある小さな物がひとつ発見されただけで歴史は変わってしまう。
短編小説「古い文字」は、そういう内容の小説である。
研究員の大乃岐は新妻と旅行中に、
地中海近くの小さな村である印章を現地の子どもが持っていることに気づく。
印章には古い文字が書かれていたのだが、それを見て大乃岐は仰天する。
この印章の存在が知れたら世界が騒然とするからである。
なんとか小金をつかませて大乃岐は印章を手に入れることに成功する。
この印章は言うなれば世界の秘密のようなものである。
大乃岐だけが世界の秘密を知ってしまった。
そのときから大乃岐は監視妄想や追跡妄想に襲われるようになる。
夜ベットに身を横たえてもまったく眠ることができない。

「大きな津波のようなものの中に、大乃岐は揺られ続けていた。
世界の学界がこの印章一個のために騒然とする筈であった。
ただ現在はまだ騒然としていなかった。
一個の小さな石の面にインダス文字が二個刻まれ、
しかもそれに対応するアッカド文字が並んで刻まれているのである。
そうしたものがコルドバのホテルの一部屋にあると言っても、
世界中の学者の誰が、それを信ずるだろう。
しかし、実際にそれはあるのである。現にここに自分が持っている。
大乃岐は寝台の毛布の下で自分の首から吊り下げられてある
小さな宝物をまさぐった。確かにそれはあった」(P165)


物の価値は人によって変わることの典型例であろう。
結局、物語はどうなるのか。真実は明らかになるのか。

「若い考古学者大乃岐光矩がセビリアから五二キロ離れたカルモナの町の城門の
附近で心臓麻痺のために倒れたのは、五年前の秋である。
百合枝夫人は夫が身につけていた小さい古代印章のことを思い出して、
そのことを口に出したのは、パリに於いて夫君の仮葬がすんでからであった。
古い石のかけらが、インダス文字解明の鍵となるような貴重なものであったか、
あるいは多分に神経衰弱気味であった大乃岐光矩の
妄想が生んだ幻覚であったかは、
それが失われている現在では残念ながら知ることができない」(P177)


真実はわからないままに終わるのである。
小説家の井上靖はおそらくわからないものほどおもしろいと思っていただろう。
いまはなんでもわかった気分になってしまう時代だが、
井上靖が生きた時代はまだわかっていないものも少なくなかった。
井上靖はわからない時代を生きたおもしろい小説家だったのである。
わからないということがいかに豊かであることか。
わからないからこそ想像力を働かせて物語を創作することができるのだろう。
わからないところに想像力の翼を羽ばたかせる余地がある。
短編小説「明妃曲」には匈奴(きょうど)に憑かれた学生が登場する。

「大体、匈奴という民族は、その正体がよく判っていない。よく判っていて、
研究し尽くされていたら、恐らく私は何の関心も持たなかったに違いない。
判っていないところがあるからこそ、しかも、
それがそれを調べて判ろうというような料簡からではなく、
その反対のどうか判らないところが
いつまでも判らないでいてくれといったような気持から、
匈奴のことに関する記述を、
謂ってみれば古い壺でも手探るような調子で読んでいたのである。
学者の著書に、匈奴についてはよく判っていないが
というような文章が書かれてあるのを見ると、私はその度に、そうだろう、
そう簡単に判って貰っては困るといった気持が働いて、
ひそかに北叟(ほくそ)笑みを禁ずることができなかったのである」(P182)


「私」はおなじように匈奴に惹かれているどこか暗い男と知り合う。
ふたりはどこか似ていた。得体の知れない強い自尊心を持っているところだ。
あるいは匈奴もまたそういう民族ではなかったのかと「私」は思う。
匈奴好きの男は新資料が発見されそれを自分は読んだと言って、
「(美しい)昭君は元帝を憎み、匈奴の若者を愛した」という新説を熱心に物語る。
「私」は新資料なるものなどないことを薄々気づいていたが指摘せず、
自分とおなじように暗く匈奴が好きな男とひとつの物語を共有する。
そうであったことよりも、そうであってほしいことのなかに小説の真実はある。
歴史の真実も嘘もないのだとしたら、人を喜ばせることが真実なのである。
われわれはすぐにわかろうわかろうとしてしまうが、
わからないものをわからないままに愛するような姿勢もあっていいのだろう。
あれが本物か偽物かはわからないからこそ、わからないままであれはおもしろい。
それが本当か嘘かはわからないからこそ、わからないままでそれはおもしろい。
人はわかりあえないけれど、わからないままに人を好きになることはできるのだろう。
わかってしまったらそこで終わってしまうような関係もあるに違いない。
みんなから好かれるスターは正体がわからないからこそ輝いていられるのだろう。

「崑崙の玉」(井上靖/文春文庫)

→貧困家庭出身ながら芥川賞選考委員のみならず
紫綬褒章作家にまで成り上がった大成功者にして大勝利者の宮本輝氏が、
薄っぺらい新刊エッセイ「いのちの姿」で
井上靖の「崑崙の玉」を大絶賛していたので本当かよと思い、
たまたま積ん読していたこともあり読んでみた。
妻や子を亡くした50歳の孤独だが大金持の中国人が、
「崑崙の玉(究極の宝石)」求めて黄河の源泉まで旅をする短編小説である。
井上靖のファンでかなり小説は読み込んでいるほうだが、そこまでおもしろくもない。
というか、むしろ井上靖の小説のなかでは退屈な部類に入ると思う。

どうして創価偉人の宮本輝氏が「崑崙の玉」を絶賛するのか考えてみた。
宮本輝氏は世間的評価のうえでとても偉い人で、
自分のことをとても偉くて正しい人だと思っておられるようだ。
しかし、氏の偉さや正しさを証明する根拠(黄河の源泉!)がないのである。
だから、宮本輝氏はこういうエピソードをでっちあげた。
宮本輝氏は生前の井上靖に逢ったときに、こんな失礼なことを言ったという。
井上靖先生の西域物では「崑崙の玉」がいちばんいい。
「これさえ読めば、(井上靖)氏の他の西域物は読まなくてもいいと思う」
井上靖は怒らず、宮本輝さんがそうおっしゃるのだからきっとそうなのでしょう、
と答えてくれた、とだれも証人はおらず、ただ宮本輝氏だけがそう述懐している。

わたしはこれを嘘だと見破った。
ペエペエの若手作家が当時文壇の大物だった井上靖にそんなことを言えるものか。
本当に言ったのなら、人間として失礼すぎる。
宮本輝大先生に向かって
「先生の小説は『青が散る』さえ読めば、他は読まなくてもいいと思います」
なんて言える人はいないでしょう。わたしだってそんな失礼なことは言えない。
上下関係に厳しい創価学会で鍛えられた宮本輝が、
天下の井上靖にそこまで失礼なことを本当に言ったとはとうてい思えない。
だとしたら、このいんちきエピソードはどういうことか?
宮本輝は自分こそ井上靖の正統の弟子だと主張したかったのである。
井上靖が偉いことは(僭越ながらわたしもふくめ)みな認めている。
宮本輝は権威(偉さ)のご相伴にあずかりたくて、
井上靖の「死人に口なし」をうまく利用して、こういうくだらぬデマを書いたのだと思う。
自分は池田大作先生の弟子であるのみならず、
あの井上靖先生でさえも自分を認めてくれていたのだから、
いいか、いいか、おまえら、我輩は偉いのであ~る。

まったく宮本輝氏はいかにもクソ庶民出身らしいきたねえ手を使うぜ。
井上靖の「崑崙の玉」は絶版だし、読む人は少ないだろう。
いまはそれほどでもないがネット古書世界で超高値がついた時期もあるから、
そういうふうに高額を支払って手に入れたものを
人はなかなかつまらないと言えないのである。
宮本輝氏は骨董が大好きなようだが、
高額の骨董品の価値など目利きと呼ばれる権威者のひと言によっているだけなのである。
権力者の宮本輝氏は石ころに過ぎない井上靖の短編小説「崑崙の玉」を、
まさしく価値のある宝石のように変えてしまった。
それと同時に自分は井上靖のお墨付きなんだという経歴も偽造した。
財産、名声、称賛、権力、妻子孫、
あらゆるものを手に入れた大勝利者の宮本輝氏がいまいちばんほしいのは、
黄河の源泉でしか得られないとされる「崑崙の玉」なのだろう。

「働く。なぜ?」(中澤二朗/講談社現代新書)

→なぜ働くのかというのはなにやら考えてはならない不穏な疑問のような気がする。
いまのバイト先の面接時にさ、笑っちゃうような質問用紙に回答させられた記憶がある。
詳しくはもう忘れたけれども(もう一度見てみたい)、
「あなた将来の夢は?」とか高校生向けの質問事項が並んでいた。
思わず笑ってしまい、面接官だった(いまはなき)サブマネージャーに
「いいおっさんがこんなこと書かなきゃならないんですか?」と聞いたら、
「形だけでいいから書いてよ」と含み笑いをしながら言われた。
その質問事項のひとつに「あなたは何のために働くのですか?」があった。
「わかりません。誰か教えてください」と書いたような気がする。
いまでもあれ、どこかに保存されているのかな、恥ずかしいぜ、くうう。

「正しい」答えは「家族のため」「自分の成長のため」「夢のため」ではないか。
本音を嫌い建前を好む日本文化では「お金のため」はそこまで「正しい」答えではなかろう。
変なことを書くけれど、
世の中にはお金のためではなく働いている人もいるのだから困ってしまう。
そんな人いるのかって話だけれど、実際にわたしはふたり知っている。
ひとりは2ちゃんねるの文学板でコテハンをしている「論先生」という中年男性。
この人は家が大金持で働かなくても一生食っていけるそうだ。株とかそういうの。
一時期心を病んで精神科に通院していたらしいけれど、
そういう危ない人でも名家のお坊ちゃんだからコネでいいところに再就職できるわけ。
そんな人が愛されるのかって話だけれども、なんか結婚もしたらしい。
おおむかしネカマをやっていたとき、この人から熱いキモいラブレターが来てね。
こいつマジモンのおキチじゃないかと思ったけれど、
大金持アピールは間違いなく本当だと確信した。

働かないでいいのに働いている人っているもんで驚いた。
もうひとりはいまはもう絶交された知り合いで、同年齢の男性。
一橋大卒で有名企業に入り年収は5、6百万だとか(当時。いまはもっと上だろう)。
小谷野敦と中島義道とビジネス書が好きな、
友だちがいないことを過剰に悩む孤独な男性だった。
結婚式をするとき呼ぶ人がいないのでどうしようとかブログに書いていた。
聞いたらさ、この人の実家は北海道で不動産屋をしていて大金持っぽいの。
当時の住んでいるところも親の持っている物件だから家賃ゼロ。
世の中にはこんな恵まれている人がいるのかってギョッとしちゃったもん。
でも、当人はたいそう不幸ぶっていて
自分は世界でいちばん孤独な人間だと信じていたんだから、あはっ。
彼も言ってしまえば働かなくてもいいのに働いているわけ。世間体のために。
最後に逢ったとき大阪芸術大学を中退した若い女の子と同棲していて、
どうだすごいだろう? と自慢された。
そのお嬢さんの両親に挨拶に行くとき、
有名企業社員という社会的信用がどれほど役に立ったことか。

世間体のために働いている、われわれからしたらびっくり仰天の人もいるわけさ。
こういう事実をいまのバイト先の人が知ったら(時給850円!)、
あまりの理不尽に気が狂ってしまうのではないだろうか。
時給850円の人と金持のボンボンとどっちが人間的にいいかって、そう差はないのね。
ある部分では時給850円の人のほうが勝(まさ)っているところさえある。
この世の理不尽、不公平、デタラメは知ったら吐き気をもよおしたくなると思う。
むしろ知らないほうがいい。

ものすごい話が脱線してしまった。なんの本の読書感想文を書いていたのだったか。
そうそう、よく知らんが偉い人の書いた「働く。なぜ?」だ。
この人は一流企業で人事を長年やったから偉く、本書も「正しい」のだろう。
著者は必死で仕事に意味を与えようと苦慮していたが、
その骨折りぶりを知ったからといって本書を絶賛するわけにはいかない。
姑息なプチ成功者の著者は、
自分よりも「偉い」権威どころの発言をやたら多く引用していたので、
ああ、こいつは骨の髄まで世の中の腐った常識ってものに汚染された、
いわゆる「できる人」なのだと思った。

高学歴、高収入の著者は
「働く。なぜ?」の「正しい」答えを伝えようと一生懸命になっていたが、
もしかしたら答えは「わからない」でもいいんじゃないかなあ。
結局さ、会社から1年の休暇をもらったら困る人が大勢いるんじゃないかって話。
1年遊べと言われても、ふつうの神経の持ち主は1年も遊びつづけられない。
遊ぶことにすぐ飽きて仕事をしたくなってしまう。
わたしなら5年でも10年でも遊べるぞと言いたいところだが、
実際は1ヶ月も持たないかもしれない(本当かよ?)。
ベーシック・インカム(国民全員に生活費を支給する制度)が導入されても、
どういうわけか働きたくなってしまう人はかなりの割合でいるのではないか。
わたしだってベーシック・インカムが実現しても、
いそいそといまのバイト先に通いつづけるかもしれない。
だって、おもしろいんだもん。
昨日はあるとてもお若い社員さんから怒られたけれども、
感情をむきだしにした人間っておもしろいなあ、と感動した部分がある。
言うまでもなく、社員さんの言い分が正しく、まったくいたらないクズバイトでごめんなさい。
昨日はおかしかったな。
フィリピンのおばさんから「私、悪くない」と大声で叱責されにらみつけられたけれど、
いま考えたらおもしろすぎるのである。おいしいというか。
言うまでもなく、すべてわたしが悪い。
自分をもっと人間として成長させなければなりません。
高学歴、高収入の著者が書いた「正しい」本書から影響を受けた部分を引用する。

「組織に入るとは、その指揮・命令下に入るということです(直接的には「上長」に従う)。
人は生まれながらにして自由です。が、その限りにおいて、自由は制約を受けます。
九時までに出社しなさい。好きな仕事ではなく、指示した仕事をしなさい。
就業時間中にさぼってはいけません。企業秩序を乱してはいけません等。
それが嫌でたまらないなら、組織になじむことはできません。
それでも入りたいなら、それでも入らざるをえないなら、
それに従わなければなりません。
従うだけでなく、他の人たちと上手くやっていくことが不可欠です」(P24)


これだけ偉そうなことを書く著者は、
会社員のあいだ一度たりとも遅刻したことはないのだろう。
中澤二朗氏はたったの一度も上司からの指示に逆らったことはないのだと思われる。
氏は瞬間たりとも仕事中にさぼったことはないのだろうから恐れ入る。
中澤二朗さんは会社の人のだれとでも上手くつきあう処世の天才だったのだろう。
この人はいったいどういう人いなんだろうと著者プロフィールを見てみた。
これだけ偉そうなことを書くからにはきっと東大卒だろうと思い込んでいたが、
学歴が記載されていなかったが、偉ぶっている人が偉い人なのだから、
この人は偉くて「正しい」と思う。
就活生や新社会人は必読の書。
座右の書として何度も繰り返し読む価値があるのではないか。

ごめんなさいと絶叫したくなる。なんて最低なんだと自己嫌悪にかられる。

昨日はライン(流れ作業)で
重い本が多い間口(持ち場)に振られた(ぜんぜんあのくらいOKっす)。
重い本とは、まあ写真集のことである。いいんですよ、なんでもやりますから。
大判(写真集)を入れるときは箱の片面が平たくなっていなければならない。
いえいえ、いいんです構いません、平たくなっていなければ自分でやりますので。

昨日はいろんなことを勉強したなあ。
はじめのライン横は見かけのうえで他人を助けるのは大好きだが、
ならし(本当の横の人への気遣い)をなさらない
古株でマッチョなイケメン(べつの会社で)正社員男性。
「ここ(わたしの持ち場)は大判が多いので、片面を開けていただけませんか?」
とお願いしたら以降なさってくださり本当にありがたかった。
いままで誤解していたが、彼のような人を好漢というのでしょう。
それはさておき、人の目に見える親切をしたがるのが人間というもので、
本当の親切は目に見えないものかもしれません。

つぎにラインで横に入ったのは男子高校生。
この高校生はとにかく仕事ができるAさんのお気に入りで、したがってわたしも好きである。
なるべく偉そうにならないように、
こうしたらわたしの持ち場の大判(写真集)が入りやすくなりますので、
できたらしてくださいとお願いする。
以降、ラインを見ていたら男子高校生以前の
わたしよりもはるかに先輩の古株さんたち(外国人、日本人)が、
本をいいかげんに箱に入れていたのである。

毎回、毎回、本の入れ方をなおして大量の写真集を入れるのが面倒なので、
思わず近くに来たお若い社員さんにどうにかしてほしいと思って、
いま思えばそんなことをしなければよかったと後悔するが声をかけてしまう。
上流のライン、
いちおう古株さんたちみたいだしなんとかならないかな、なんて思って。
そのあとすぐに気づく。人さまに「正しい」ことを言える自分かと。
まあ、わたしが本を入れなおせばいいだけの話だし。
異常なほどこのところ誤ピックが多いわたしが、人さまに意見できるか。
結局まあ、いまのままでいいのではないかと思い、
「なんでもないです」とごまかそうとしたが、
わたしの表現力がまずくご理解いただけなかった。
あげくに怒られてしまったのだが
そういうふうに感情をストレートに表現する若者はいいなあ。
不謹慎にもまえから好感を持っていたお若い青年をさらに好きになってしまった。

わからないんだよね。なにが「正しい」のかわからない。
人のことを言えるかっていう自分がある。
いまの職場で仕事ができないランキングをつくったら最上位に上がるし。
そして、べつに仕事ができるのがそんなに偉いのかもわからないという最低人間だし。
いまのバイト先では、仕事ができるほどきついところにまわされそうな気がするし。
職場の外国人で、日本語をわからないふりをしている人もいるのかもしれない。
日本語をわからないふりをしていたらいろいろお得なのである。
昨日も新発見がありました。
いままで日本語がまったくわからないと思っていたフィリピンのおばさんがそうではなく、
要するにわたしが嫌いということを上に密告していたからであります。
やるなあ。さすがに日本で長く生き抜いてきた処世術にはかなわない。
あの人にはかなわないので、これからは品よくふるまおうと思う。
あの人を怒らせたらこちらのクビが飛んでしまいます。
飛んだらどこに行くのか興味がないこともなくはありませんけれど。
バイト先で外国人の子に質問されちゃったや。
こんなダメおっさんになにを聞いたってわかるはずがないのにさ。
その子はダブルワークで居酒屋でも働いているという。
料理長はバイトがミスをすると日本人には注意するけれど、
外国籍のその子にはまったく注意をしないという。それはどうしてなんでしょうか?
わからないけれど、わかったことがある。
いまのバイト先のライン(流れ作業)で
外国人の人のサボるときのポーズというものがある。
先輩外国人パートさんがそうしているのを真似てわたしもやったことがある。
そうしたら若い日本人のリーダーが飛んできて、
「仕事をする姿勢がなっていない」と厳しく注意されたのだが、え? と思った。
そのリーダーは外国の人には、そういう注意をしないのである。
外国人がサボりポーズを取っていても彼の目にはOKに映るのだろう。
どういうことか? 
わからないことで未熟な日本人と勤勉な外国人の意見が一致してしまったのである。
いったいどうしてこういうことが起こるんだろう。

いまいる外国人のけっこうな人が3月である日本語学校の卒業を迎える。
新しい学校に通うことになるけれど、その関係で引っ越しせざるをえない。
このバイトは好きだが辞めざるをえなくなるかもしれないという。
このバイトはいろいろな人がいておもしろいといった。
それからほかのバイトでは絶対御法度(禁止)のおしゃべりを見逃してもらえるのもいい。
ともあれ、3月は別れの季節である。
外国人、日本人を問わず多くの人が今月でこの職場を去るのだろう。
それぞれがそれぞれともう逢うことはおそらくない。
昨日ひとりのKさんという美青年がこのバイトを卒業していった――。
どこかいまのバイト先には学校のようなところがあるのでおかしい。
今月であの職場を卒業していく人がどれくらいいるのだろう。
かなわぬ夢でも夢は見ていたほうがいいと思う。
死ぬまである夢を見ていられたら、それはとても幸せなことなのだから。
かなわぬ将来の夢を書いてみよう。
ベトナム人とネパール人のための超激安の日本語学校を設立することである。
べつに日本文化を広めたいわけでもなんでもない。
ただただ若いベトナム人やネパール人に留学ビザをプレゼントしたいのだ。
学校ではことさら日本語を教えたりしない。
外国人と遊びたいボランティアを募って(人件費ゼロ!)、
みんなでいろいろなゲームをして遊ぶ。とにかく教えないで遊ぶ。
学校に来ない生徒にもぜんぜん甘く、
あなたはほかの遊びを発見してラッキーですね、とたまに来たら言ってやる。
行政の監視員が来たときだけ、みんなで日本語を勉強している演技をする。
講義もテストも宿題も卒業試験もなーんにもない。

1クラスのみまじめに日本語を学ぶクラスを作ってもいいかもしれない。
とはいえ、目的は遊ぶこと、遊べ遊べ、もっと好きなことなさい、遊びましょう。
どうせ日本語が少しくらいできるようになったて、
日本の若者でさえ正社員への道は険しいのだから、
無駄な努力などしないで遊べ、遊べ、もっと遊べ。
少し日本語ができるようになったってどのみち母国へ帰ったところで、
いい就職先などそうそうあるわけがない。
ベトナムの若者の就職難もひどいものだそうだ。
学校で教えたいことがあるとすれば、
将来のことなど考えずいま楽しむこと、いま遊ぶこと。
日本語なんて勉強しなくていいからみんなで遊びましょう。
たまたま日本人ボランティアと友人になれた人は日本語がうまくなるでしょう程度。
友人関係なんて作ろうと思って作れるものではないから、自然のまま放っておく。
何度でも繰り返したいが、目的は激安で留学ビザを取ってもらうこと。
入学の面接試験は「日本で遊びたいですか?」――。
イエスと答えたら全員合格。

わたしは新規ビジネスを考案したつもりだったが、
あるいはこの商売はもうとっくに流行っているのかもしれない。
欠席自由、宿題ゼロ、卒業試験なしの日本語学校がどれだけあることか。
しかし、建前の講義もしないでみんなで一緒になって遊ぶというところが新機軸だ。
みんなで遊ぶうちに仲良くなるやつは運命的につるみはじめ、
なかには日本語をペラペラに話せるようになる生徒も現われるかもしれない。
遊ぶ楽しさを教える学校ではないのである。遊びなんて教えらんねえよ。ただただ遊ぶ。
家で本・漫画を読むのやゲームをするのが好きな子は、干渉せずそのまま遊ばせておく。
アニメを見るのが好きな子はどんどんアニメを見たらいい。
そのうちふっと学校に来てアニメが好きな日本人ボランティアと仲良くなるかもしれない。
校則なし、説教なし、出席チェックなし、ぜんぶフリーだが、ただし留学ビザのみあり。
そういう限りなくただ(無料)に近い日本語学校を作るのがいまのわたしの夢である。
「最新 行動経済学入門」(真壁昭夫/朝日新書)

→内容は知っていることばかりだったので1時間程度で読み終わってしまった。
人間はかならずしも経済的に合理的な行動をしないというのは、
学問的には最新の知見らしいけれど、庶民的には当たり前っしょという話で。
ま、とかく人間は得をした喜びよりも損をした悲しみを強く感じるもんさ。
百円得したときの喜びは百円損をしたときの悲しみよりも大きいんだって。
え? 喜びや悲しみは数値化できないじゃん、
なんてお偉い学者先生に言っちゃいけない。

主観確率と本当の確率の問題でまたつまづいた。
よくさ夢追い人が極めて確率の低い夢を追求することがあるじゃん、お笑い芸人とか。
あれって主観確率は高いんだよね。自分ならお笑い芸人になれると思う。
けれども、本当の確率はものすごく低いわけ。千人にひとりとか。
ここでさ、疑問に思うのは本当の確率ってだれがわかるんだろうって話。
だって、人間はもともと持って生まれたものが違うでしょう?
だったらその人の夢がかなう本当の(客観的)確率なんて出るわけがない。
生きてみないとわからない世界なんだから。
それにこれは学問的にうまく説明できないのかもしれないけれど、
主観確率の高いほうが(おれならやれる!)うまくいく確率も高まるような気がする。
主観確率が客観確率を変えるという可能性もあるのではないかと思う。
「かならず治る」って思っていたほうがガンからの生還率もきっと高いだろうしね。

最初と最後が有利っていうのは残酷だけれど本当だと思う。
最初に与えられた情報と最後に与えられた情報が、
どうしてか聞き手の印象に残ってしまう。
著者は有名な音楽家の友人がいるらしい。
その人から聞いたこととして、音楽コンクールの裏側が紹介されている。
なかなか平等な審査は難しいとのこと。
どうしても最初に演奏した人と最後に演奏した人の記憶が残ってしまうらしい。
きっと公募小説の下読みなんかでも、そういう運のようなものがかならずあるのだろう。

お金の話をすると、いまは長期ファンドができないんだって。
本当は5年後、10年後に利益が上がればファンドマネージャーとしては合格なのだが、
3ヶ月に1回投資家に利益状況を説明しなければならないから、
このため長期間保有すれば利益が取れる銘柄は嫌われ(保有していても損切りされ)、
いますぐ利益が取れそうな銘柄ばかり買われる傾向にあるらしい。
われわれは損が気になり目先のことばかりに目がいってしまいがちである。
これを「近視眼的損失回避行動」というとのこと。
「近視眼的損失回避行動」とは――。

「手近の損失を気にするあまり、将来もっと大きな損をするか、
あるいは長期的な利益を取り損なってしまうこと」(P142)


某所でバイトしている知り合いから聞いた話。
そこは年末の12月がとにかく忙しいらしい。
忙しいと高額な(日雇い)派遣を取らなければならず、それは損失である。
だから、12月に向けてほとんどだれでもいいからという感じで人を取っていた。
1月になったらがくっと仕事量が減るのをわかっていたのにもかかわらず、である。
12月はうまく乗りきった。利益も出たであろう。
でも、じゃあさ1月はどうするのって話。
たくさん取ったバイトを休ませるしかない。
もしくはベテラン以外は少しずつ平等に稼がせて引きとめておく。
そこは外国人も働いているらしいけれど、びっくりしただろうね。
12月の感覚でいたら1月は生活できるだけ稼げないし、
いちばん驚いただろうことは、だれもそんなことを教えてくれないんだから。
日本人ってなんなの? って思った新入りの外国人がたくさんいたような気がする。
知り合いがそんなことを言っていたけれど、まあ、そんなもんだよと返答した。
それが資本主義だもん。
目先の利益のことだけ考えて、あとのことは弱い部分にしわ寄せ。
知ーらねっ。生産性と効率性さえ上がれば、ほかのことは知ーらねっ。
だって、どうしようもないじゃん、というのはすごいわかる。
本当にどうしようもないんだから。世の中きびちいなあ。

「図解雑学 心と脳の関係」(融道男/ナツメ社)

→喜びや悲しみをどう見るかって問題なんだろうなあ。
おかしなセラピーや新興宗教にはまったりするのは「心」派になるわけだ。
心が喜んでいる悲しんでいると思う(あるいは錯覚する)。
すぐにかんたんにストレートに心療内科や精神科に行くものは「脳」派。
喜びや悲しみは脳内物質の化学反応に過ぎないと判断する(錯覚する)。
たぶん「脳」派が「正しい」のだろうけれど、
われわれの喜びや悲しみが薬ひとつで変わってしまうと思うとげんなりしないか。
しかし、実際によく効く薬というものはあって、
相性さえあえばどんな悲しみもすぐさま消えてしまうようなこともなくはないはず。
いっぽうでどんなたくさんの薬を試しても消えない悲しみも存在すると思う。
そして、これはとても重要なことだが、
人間には絶対に消したくない悲しみというのも存在するのではないか。

結局、どっちなんだろうね。ほどよく薬でセーブしたほうがいいのかしら。
感情の起伏の大きいやつとかひたすら迷惑なわけだから。
でもさ、笑顔を向けられると、思わず気持がほぐれることってない?
いやまあ、それも脳の化学反応で説明できるんだけれど、
心ってものがあるものだと思いたいではありませんか。
だけどさ、通俗ビジネス心理学の書籍とか、なーんかうんざりしない?
すべて脳内反応とドライに割り切るのもクールかもしれない。
心を癒すよりも脳を治療したほうがたぶん安上がりで効率的なんだろうけれど、
じゃあ、どうして無駄をしちゃいけないのかって話になると、
人生なんて無駄なことの繰り返しなんだから、
あえて無駄を楽しむ余裕のようなものもあっていいと思うわけさ。
ある薬を一錠のんだら孤独感が消えるって言われたら、
果たしてそれを服用するかって問題に最終的には行き着くのではないだろうか。

「二十六人とひとり」(ゴーリキイ/木村村彰一訳/「穴」百年文庫/ポプラ社)

→こんなおもしろいロシア古典小説があるとは思わなかった。
読んでから1日最高に気分がよかったくらいである。
舞台はパン工場で、そこには毎日毎日早朝から深夜まで
おなじ巻きパンをつくっている「囚人」と呼ばれる26人の最底辺労働者がいる。
いずれもほかでは通用しないだれもがもう人生が終わってしまった男たちだ。
おなじ敷地内にある白パン工場の労働者からも、
2階にある裁縫工場の女工からも「囚人」たちは差別されている。
なにより彼ら自身が自分たちのことを軽蔑している。
そんな薄汚い最底辺の労働者たちに声をかけるものはだれもいない。
ただひとりの例外を除いては――ターニャという16歳の女工である。
ターニャだけは毎朝「巻きパンをくださいな」と地下のパン工場に足を踏み入れる。
26人の男たちはみなターニャを歓迎して最高のパンをこぞってプレゼントしたものである。
毎日つまらない単純作業の繰り返しだが、
ターニャの話をするときだけは26人の男たちの目は人間らしい輝きを放っていた。
かといって、ターニャが特別にやさしかったというわけではない。
ある囚人が靴下のほつれを縫ってくれと頼んだときターニャはどんな反応を見せたか。
どうしてあたしがそんなことをやらなきゃならないの?
そういう冷たい対応にもかかわらず、いやそうだからこそさらにまして、
ターニャという16歳の汚れなき少女は26人の男たちのアイドルになっていった。
ターニャだけが26人の男たちの生きがいであった。

そんな生活に変化が訪れる。
白パン工場に兵隊あがりのイケメン労働者が入ってきたのである。
白パン工場は、囚人たちがいる巻きパン工場よりもはるかに待遇がいい。
いままで白パン工場の人が地下にある囚人たちのところに来ることはなかった。
しかし、その兵隊あがりのイケメンはそうではないのである。
気取ったところがなく、気さくに巻きパン工場の最底辺労働者にも声をかけてくれる。
イケメンがいつも話すのは、自分がいかにもてるかという自慢話である。
それでも囚人たちは、
みんなから差別された自分たちに話しかけてくれるイケメンが好きだった。
そのうち複数の女工とイケメンの兵隊あがりの噂話が地下にも聞こえてくるようになった。
26人の男たちのあいだであのターニャは大丈夫だろうかという話が持ち上がる。
われわれのターニャがあんな顔だけの優男に引っかかるわけがないじゃないか。
そうとも、ああ、そうだとも、あのわれわれのターニャにかぎってそんなことはないだろう。
清純そのものといったターニャは変わらず毎朝巻きパンをせびりにやってきている。
ある昼のことである。いつものように兵隊あがりが女にもてるという自慢をしている。
よせばいいのにある囚人がけしかけてしまうのである。
おまえさんは、ターニャという少女を知っているかい?
あの子はね、いくらおまえさんが甘いことを言おうが引っかかるはずがないな。
イケメンはターニャのことをよく知らない。
翌日、イケメンがまた来て、あんな子のどこがいいんだというようなことを言う。
囚人たちは自分たちのアイドルを愚弄されたようなものだから、
だったら落とせるものならターニャを落としてみろとイケメンに言ってしまう。
兵隊あがりの優男は「2週間でかならずターニャをものにしてみせる」と約束する。

それからの2週間、囚人たちの単調な生活がどれほど楽しくなったか。
毎日ターニャのことで話は持ちきりである。
あのターニャがかんたんに落ちるわけないじゃないか。
われわれのターニャがあんな顔だけの薄っぺらい男に引っかかるものか。
かえってあのイケメンは平手打ちを喰らうんじゃないか。
この「賭け」のおかけで単調な底辺労働がとても楽しいものとなったのである。
ターニャは毎日変わらず巻きパンをくださいと地下に来ていた。
見た目、変わったところはひとつもなかった。
毎朝、汚れなどまるで知らないような笑顔をターニャは見せてくれた。
このぶんだと「賭け」はおれたちの勝ちだと26人の男は勝ち誇るときもあった。
さあ、約束の2週間後の期限が来た。
昼休みにイケメンの兵隊あがりが地下にやって来る。
26人の男たちは興味津々である。
イケメンは中庭を覗いていたら結果がわかるぞと言うのみである。
そこで26人の男たちは地下から中庭の様子を覗く。
まずターニャがスキップをしながら現われ小さな小屋に入っていった。
つぎにイケメンが現われおなじ小屋のなかへ入っていく。
26人の男たちの顔色が変わる。いまわれわれのターニャがおもちゃにされている。
最初に出てきたのはイケメンで囚人たちに向かってこれ見よがしなウインクをする。
股間を誇らしくたたいたようにも見えた。

「それから――ターニャが出てきた。
彼女の目は……彼女の目は歓喜と幸福とに輝いていた。
唇には微笑が浮かんでいた。そして、まるで夢でも見ているように、
よろめきながら、頼りなげな足どりで歩いてきた。
おれたちは、それを平気で見すごすことができなかった。
みんないっせいに戸口へ駆けだし、中庭へとび出すと、
彼女に向かって口笛を吹き、とほうもない大声で憎さげにわめきたてた。
彼女は、おれたちを見るとびくりと身をふるわせ、
足もとの泥のなかへ釘づけにされたように立ちすくんだ。
おれたちは彼女を取り囲み、いい気味だとばかり、
卑猥(ひわい)な言葉を次から次へとあびせかけ、
面と向かって破廉恥(はれんち)なことを口走った」(P143)


ターニャ、おまえはあの兵隊あがりさんにもてあそばれていただけなんだよ。
きっとお股をおっぴろげてさぞかし恥ずかしいことをしたんだろうねえ。
お口で兵隊あがりさんにご奉仕してあげたのかな。
どんなふうにやったかいまちょっと再現してみてくれないかな。
兵隊あがりさんは、あんな女、かんたんに落ちると自慢していたよ。
まさかターニャ、あんたは自分が愛されているとか信じているんじゃないか。
ターニャ、おまえはその他大勢の女と一緒でおもちゃにされただけなんだ。
尻軽女とはおまえのことだよ、ターニャ。
ターニャはだれとでも寝る安っぽい女なんだろう?
今度おれたちとも順番にお手合わせ願いたいねえ。
いったいどこが感じるんだい?
あの兵隊あがりさんはおれたちとも親しくてねえ。
ターニャがあのときにどんなだったかを今度じっくり教えてもらうよ。
ターニャ、おまえさんの痴態はすべておれたちの知るところになるんだ。
軽々とだまされて男の慰み者になった気分はどんな感じかな、ターニャ?

突然、ターニャの目がきらりと光った。落ち着いた声で男たちに向かって言う。
「かわいそうな囚人たちだねえ!……」
ターニャが歩きはじめると囚人たちは道を開けるしかなかった。
26人の男たちの輪から出ると、ターニャは振り返りもせずこうさげすむように言った。
「なんてけがらわしい……人でなしどもだろう……」
うしろすがたからも胸を張っているのがわかり、そしてとても美しかった。
ちっとも汚れれてなどおらず、まえより一段と美しくなった気さえした。
いや、とても美しいものが囚人たちの心から消えてしまっていた。
実際のターニャよりも美しい26人のターニャがこの日消えた。

「おれたちは、中庭の泥のなかで、日の光もささない灰色の空の下で、
雨にうたれてじっと立っていた。……
やがて、おれたちも、だまってじめじめしたあの石の穴へ帰った。
まえと同じように――太陽はおれたちの窓をのぞくことはなかった。
そしてターニャも、もう二度とやってはこなかった!……」(P147)


「鶴」(長谷川四朗/「穴」百年文庫/ポプラ社)

→くそつまらない短編小説だった。
戦場体験を書けば物珍しいからと文学的に評価された時代があったのかなあ。
戦場で敵兵を殺したり、現地女性を強姦するってどんな感じなんだろう。
あんがい一兵卒の人生にとってはスリルに満ちた最高の体験だったりして。
まさかそうであったとしても、そんな本当のことはだれも怖くて書けないのだろうけれど。
本書には殺人も強姦も出てこないから娯楽性が乏しく退屈だった。
親しみを感じていた仲間が脱走して、書き手は最後に被弾してあれは死ぬのかな。
だから、なに? とか言っちゃいけないんだよね、きっと。

「断食芸人」(カフカ/山下 肇・ 山下 萬里訳/「穴」百年文庫/ポプラ社)

→変化のない退屈な日常生活に飽き飽きして、
かといってそう時間があるわけでもないからカフカの短編小説を読んでみた。
むかしは流行った断食芸人ではあるがしだいにブームが去り、
みなにかえりみられなくなってひとり孤独に死ぬという話。
まあ、断食芸人なんていたとは思えないから、現実を風刺するお話なのだろう。
断食とは死につながる行為である。人間、食べなきゃ死んじゃうわけだから。
いまの人間は死を見ないようになって、
生きること(食べること遊ぶこと)にしか関心がなくなっているではないか。
国語教科書的には、そういったメッセージを読み取るのが正解なのかもしれない。
しっかし、カフカはなんじゃこりゃあ、というわけわかんないものを書くよなあ。
こういうのを読んでからアルバイトに行くと、いつもの光景が少し異なって見える。
文学の価値というのは、そのくらいならあるのかもしれない。
ちっとも人間も人生も変えやしないけれども、
1日のちょっとした昂揚程度の効き目なら相性のよい文学作品と出会えば。
なにもないよりは少しはましなのかもしれない。

「ディスコミュニケーション」(植島啓司・ 伊藤俊治/リブロポート)

→関西大学助教授の新進気鋭の学者と美術評論家のあつ~い新文化論。
植島啓司さんもバロウズだのベケットだのボルヘスだのを
知的俗物丸出しで語っていた時代があったんなあ。1988年の話である。
ふたりともなにか新しくて難しいことを必死になって話そうとしているのが笑える。
世界中のコミュニケーションがどうのとあつ~く遠くを見ていたけれど、
彼らは現在のようなインターネット世界の到来をまったく予想できていなかった。
話は脱線するが、これからインターネットはどうなっていくのだろう。
インターネットは歴史上これまでなかった前例のない先の読めない道具なのだ。
一方通行のテレビやラジオはもう限界が知れてしまったが、
だれもが世界に発信でき、だれとでも交信できるインターネットの未来の予測はつかない。
考えてみれば30年まえからしたら、いまわれわれはすごい時代を生きている。
30年後に果たしてインターネットはどうなっているだろうか。
ネットは新しすぎてまだ法整備もままならないからかなり自由なことができるだろう。

もうそろそろ因果性から未来を予測するという姿勢を改めてもいいのかもしれない。
なるべく多くの情報を集めてそこから因果性をもとに未来を予測するよりも、
たまたま偶然知りえた情報のみを信じて未来の(因果性ならぬ)偶然性に
賭けるという方法で生きてみるのもおもしろいのではないか。
くだけたことを言えば、どれだけ多くの健康情報を集め
実践しても長生きできるかはわからない。以下は、たぶんそういうことを言っている。

「一時挫折があったのは、コンピュータによって
因果性のネットワークをさらに厳密化でき、それに基づいて因果性のルールを
もう少し丹念に追えば、未来予知の方法としてはもっと一層正確なものが
見出されるというような錯覚が生まれてからは、
なおさらその傾向が助長されています。
しかし、逆にそういう因果性の概念とか確率とかを排除するところからしか
新たな未来予知の展望は生まれてこないのです。
つまり、ぼくたちに必要なのは、可能な限り多様な情報を整序する機能ではなく、
きわめて限定された情報の組み合わせから多様なプログラムを
生み出す機能なのです」(P244)


わかりにくい表現だが、いくら情報を集めてコンピュータに計算させても
競馬で100パーセント勝つことはできないでしょ? って話をしているわけ。
いくら競馬新聞とにらめっこして因果性の物語をつくっても競馬では勝てない。
競馬のみならず人生というギャンブルでも
情報の過多や因果性、確率論はあまり意味をなさないのではないかという指摘である。
みんな確率論で平均寿命まで生きられると信じているだろうけれど、
あれはあくまでも確率論と因果性が虚構した夢のようなもので、
実際は年を取れば取るほどわれわれの人生は偶然性に振り回されていくわけだから。
そうそう、いまはライターの植島啓司だが、むかしは宗教人類学者を自称していた。
植島啓司は宗教のふたつの傾向性をこう説明する。

「もともと宗教というのをすっきり考えていくと、宗教には根本的に二つの傾向がある。
一つは自分を自分自身からできるだけ遠くへ遠ざけるということですね。
できるだけ自分から遠い場所へと向ける動き。
もう一つは自分とは全く異質なものが自分の体内に入ってくる、
つまり、自分自身とは異なるものを呼び込むことなのです。
これは言葉を換えて言うと、最初のほうは解脱というんですよね。
後のほうは救済ということになります。
それらは宗教の二つの典型的な形態として考えられるんじゃないかと思います」(P102)


1.解脱=自分から遠ざかる
2.救済=自分とは異なるものを呼び込む
これをわかりやすく言い換えたら、要するに修行するか祈祷するかってこと。
修業してなるべく無欲っぽく聖人ぶろうとするか(解脱)、
煩悩(ぼんのう/欲望)はそのままでなにかにお祈り(おすがり)するか(救済)。
われわれは祈るというのが楽でいいと思う。
自力でしんどい修行して血まなこに勝利や成功を目指すのもいいのだろうけれど。
しかし、われわれは祈るというだけで世界を変えているとも言いうる。
というのも、祈るってことは人間以上のものが世界にはあると認めることなんだから。
未来予測で唯一人間にわかっていることが、
「完全な未来予知は絶対にできない」というシンプルな矛盾なのがおもしろい。

「天使のささやき 宗教・陶酔・不思議の研究」(植島啓司/人文書院)

→現在は売れないフリーライターにまで落ちた植島啓司が、
関西大学教授時代に書いた論文集とのことだが、どこからどう見てもエッセイ集である。
あるいは大学教授がエッセイを書いたら論文というあつかいになるのかもしれない。
だらだらした散漫な本書をよんでひとつ思ったことがある。
「正しい」ことの源泉は狂気にあるのではないだろうか。
われわれがなにが「正しい」かを見極めようとするとき、結局行き着くのが権威である。
たとえば、新聞に書いてあるから「正しい」。
新聞の記事は東京大学教授の裏付けがあるから「正しい」。
ところが、どんな「正しい」ことも10年後にはくつがえされる危険がないとは言えない。
その意味でどの「正しい」も相対的な正当性しか持っていない。
いっぽうで絶対的な「正しい」ものがあると信じる人たちがいる。
たとえば南無阿弥陀仏の系統なら最終的には法然や善導の権威的言葉に到達する。
南無妙法蓮華経ならば日蓮やチギ、法華経の言葉に行き着こう。
最後は(本当は言っていないのだが)釈迦の口に権威が委託される。
キリスト教ならイエスが権威の源泉だろうが、イエスはどう見ても狂人である。
釈迦は狂人というほど動的ではないが、統合失調症後の廃人状態とも言えなくもない。
世界をこちら側(正常)と向こう側(異常)に分けるならば、
向こう側に行ける人だけが絶対的な「正しい」ものに触れることができるのだろう。
狂え。ただひと言、狂え。
権威の借り物ではない絶対的に「正しい」ものを見たければ狂うしかない。
狂うことで「向こう側の世界」に行くしかないのだろう。
狂うとは世界を観察するのをやめて、世界のただなかに勇気を持って入っていくこと。

「あっさりと世界の側に誘拐されてしまうのだ。
それこそ「エクスタシー」の語源でもあるが、滅茶苦茶であること、
空騒ぎ、無法、さかしま、激情、破壊、乱交パーティ、耽溺行為など、
思考の働きを意図的にストップさせて、
すっぽり向こう側に我が身を委ねること。
もうひとつの親和性」(P12)


狂うとは時計を捨てることだろう。朝7時に起きて、夜8時に帰ってくるのをやめる。
1日働いたら7~8千円稼げる(安いなあ)という規則性を認めない。
千円が十万にも百万にもなる世界が狂っている世界である。いわゆるギャンブルだ。
ギャンブルを通じて人は退屈な正常から狂騒的な異常世界に参入することが可能になる。

「ギャンブルでは、ひとは自分の欲望の大きさを推し量ることができる。
いったい自分はどれくらい勝ちたいと思っているか。
いくら勝てば満足するのか。
そのために、どのくらい犠牲を払う覚悟ができているのか。
それを知ることが、自分を知るということだ」(P158)


死んでもいいと全財産をあるギャンブルに投入できたらどれほど興奮するか。
一か八かのギャンブルほどおもしろいものはなかろう。
先の知れた世界から未知の世界に入っていくためには賭けをする必要がある。
大きなものを賭けるとき、人間に可能なのは信じることだけだろう。
そのときいったいわれわれはなにを信じたらいいのか。

「すなわち、一見偶然の積み重なりに見えるものでも、それは別の角度から見れば、
必然的に起こったことであり事柄でもあり、
どんなに確率的に不可能な事柄でも、この世に起こりえないことはない、
ということである」(P177)

「この世ではまったく起こりえないような因果関係の連鎖だって、
それが起こりえないことを証明するのは不可能なのだ」(P178)


ああ、陶酔の世界、不思議の世界、穢(けが)れの世界を見てみたい。
通常、異界からの旅人は来たと思った瞬間、そうだとわからぬうちに消えていく。
狂的人物は定住して日常生活を行なうのが困難なのだろう。

「イエスと悪霊は、単に符号が(+)か(-)かだけの違いで、
両者がともに対立するのはゲラサの人々であり、
そして、ゲラサの人々にとっては、
イエスも悪霊もともに忌むべき存在で、畏怖の対象なのである」(P200)


なにかおかしな人物が村にやってきて騒動が起こり、
その新参者が去ることでひとつの季節が終わるというのは典型的な劇のパターンだ。
うまく群れていたら人は狂わない。
そこには安定や日常、平和はあるだろうけれど、陶酔や陶然、熱狂はない。
ごくたまにだれかが死ぬことで日常に穴が開き劇的昂揚が生まれる。
しかしそれもわずか数日の儀式で鎮静され、また静かな日常に戻っていく。
もてもてで病的賭博、アルコール依存症に近い植島啓司は言う。

「陶酔とは死との合体だ。
われわれは生命体として、つねに死と共存するかたちで生きている。
免疫系の仕組みを見るまでもなく、われわれの内部には死がひそんでいるのである。
そうした内的な死に目覚めること、それこそエクスタシーの本来の意味なのである。
だが、われわれは死から目を背けることによって平坦な日常にしがみつこうとする。
なんという愚かなこと!」(P232)


こんな自己陶酔した文章を書いていた関西大学教授は、
のちにみずからが大学の定職を追われ、なんの肩書もないライターになることを知らない。
そして、そうなったときにはじめて「偶然のチカラ」「生きるチカラ」といった
名作エッセイを書くこともまた当時関西大学教授だった植島啓司は知らない。

朝日賞作家の山田太一さんがどこかですすめていた
1969年公開のアメリカ映画「真夜中のカーボーイ」を有料放送ジェイコムで視聴する。
夢破れる青年の物語である。
田舎から都会に来た、
自分ならハスラー(男娼/ヒモ)になれるのではないかと夢見ている美青年が主人公。
田舎の皿洗いのぶんざいで都会に出たら一発当てられると思ったのである。
結局、青年はなにものにもなれなかった。
ただびっこで結核病みのホームレスの青年と友だちになっただけだった。
この貧しいホームレス詐欺師もおそらくむかしは夢を持っていたはずである。
いや、ホームレスになったいまも決してかなわない金持になるという夢を見ている。
むろんのこと夢はかなわない。青年の夢はかなわないものだ。
夢を見ていられるあいだだけが青春なのだろう。
ラスト、びっこでもてないネズミ男は死んで、
美青年は外で力仕事でもやるしか生きていく道はないかと決意する。

「真夜中のカーボーイ」は青春の夢の敗北をじつにうまく描いている。
ありきたりなセリフだが、夢を見られるのが若者の特権なのだろう。
どうでもいい個人的な体験を書くと、いま東京からわざわざ埼玉県にまで通い、
低賃金を求めての非正規雇用に励んでいる。
どうしてそんなことをしているのか自分でもわからないが(お金っしょ!)、
ひとつには外国人の若者の顔がとてもいいということがあるのかもしれない。
いまや日本人高校生でさえ失っている青春(夢)を若年外国人男女は持っている。
なにものかになろうと思っている顔がじつにいい。感動的だ。
とはいえ、1年近くもおなじ職場に通っているとかなしいことにも気づいてしまう。
とてもいい顔をしていた外国人の若者がしだいにすたれていくのである。
夢がかなわないことに気づいてしまう。
日本に来たばかりのころ、わたしのとなりでベトナムの歌をうたっていた女子がいた。
最近見かけたら落ち着いたという面ではとてもいいのだろうが、
覇気が失われたような、確実になにかを失った顔をしていたのがとても残念だった。
いや、一般的な基準ではむかしよりかわいくなっていたのだが、
なにかをあきらめた美しさもあるのだが。

世の中は無常でみんな変化する。
お若い社員さんが多い職場だが、彼らの顔にも(勘違いかもしれないが)変化が見られる。
むかしは硬直したように見えた若年社員さんの顔に、
青春の色合いが戻ってきたと思うことがある。
その笑顔はいいぜ、
とダメバイトのぶんざいでグー(親指)を出したくなったことさえある(出しませんが)。
青春の勝利よりも、
あるいは「真夜中のカーボーイ」のような青春の敗北のほうが
みなに共有される美しい物語なのかもしれない。
敗北してもいいのだろう。なぜなら青春は一度敗北しても復活することがあるからである。
「真夜中のカーボーイ」の主人公は、親友の敗北(死)を美しく抱きしめていた。
この映画は恋愛の要素のまったくないところがよかった。
小林秀雄賞作家の山田太一氏推薦の映画にかなり共通するところである。

「神話の心理学 現代人の生き方のヒント」(河合隼雄/大和書房)

→季刊誌「考える人」に連載された氏の最晩年のエッセイ。
文面から多忙だった晩年の河合隼雄の疲労ぶりが透けて見える。
真実は物語という形式でしか言えないということが非常に勉強になった。
対立するイデオロギーをまとめてそのままのかたちで提出できるのが物語なのか。
たとえば「Aは正しい」という考えがある。
いっぽうで「Bこそ正しい」という反対の考え方がある。
この場合、AサイドとBサイドは喧嘩や抗争を果てしなく続けることにならざるをえない。
ところが物語でなら「Aも正しいし、Bもまた正しい」という真実を表現できるのだろう。
「創価学会は正しい」「創価学会は怪しげな邪宗」これはどちらもわたしは正しいと思う。
「創価学会は正しい」というイデオロギーに拘泥すると他人と衝突してしまうのである。
どうせつまらない人生だからそういう対立もまたおもしろいのだろうが、
可能ならば「どちらも正しい」という物語を生きていたほうが豊かだろう。
物語があれば「日本は正しい」「中国は正しい」をうまく収めることができるのだろう。
たとえば戦時中、中国人を助けた日本人がいたとか、そういう物語である。
芥川賞選考委員の宮本輝の小説がつまらなくなった理由は、
おそらく氏が「創価学会は絶対に正しい」と老境に入り信心が固まったからだろう。
物語という形式でなら人は「AもBもまた正しい」ことを語ることが可能になる。
そして、物語の親分ともいうべき存在が神話である。
河合隼雄は神話をこう説明する。

「原理や原則で言い切れない、逆説に満ちた真実を表現するには、
「物語」という形は非常にぴったりである。
そして数ある物語のなかでも、
「神話」は人間や世界の成立に立ち返ってまでの語りであるために、
学ぶことが実にたくさんある」(P3)


しかし、本当は神話などには目を向けず忙しくしているのがいちばんいいのだろう。
わたしは無為でいるのが好きで、忙しくしているのが苦手だから困ってしまう。
本来は忙しくしているのがもっとも健康的で有益な生活方法なのだと思う。
朝6時に起きてすぐ会社に行き深夜の1時、2時まで働くのが人として正しい。

「人々は「忙しい」を連発して生きているが、それは少しでも暇ができて、
根元的な問いが心のなかに浮かんでくるのを防ぐために、
無理して「忙しい」状態をつくりだしているのではなかろうか。
まさに自転車操業的人生である」(P21)


多忙な河合隼雄は「忙しい」を否定しているが、
結局人間はよけいなことを考えずに「忙しい」を連発しながら、
ある日ぽっくり死ぬのがいちばん恵まれた人生のような気がする。
河合隼雄の人生がまさにそうであったように――。
河合隼雄は無為の価値をことさら強調していたが、
それはおそらく本人が多忙だったから無為なぞに理想郷を見ていたのかもしれない。
現実として成功した作家(物語創造者)はみな多忙ではないか。
どうして無為が大事などと河合隼雄は主張するのだろうか。
無為のすすめなんて怠け者になれってことじゃないか。
河合隼雄はアメリカ先住民の神話を例に出し、無為の重要性を指摘する。
男がなにもしないで煙草をすっていたら、
なぜか家ができてなかから美しい女性が出てきたという創造神話である。
男は美女と結婚して16人の子どもをもうける。
ああん、そんなことあるわけないだろう?
ニートをしていたら美女が近づいてくるなんてことあるか? 
……って、あるかもな、あはっ。神話は深いぜ。
現実と神話ってどういう関係にあるんだろう。

「この神話で特徴的なのは、積極的に行動するコラワシは失敗し、
煙草をすってばかりいた男のほうが、煙草をすうことによって間接的に、
人間の創造に貢献することである。
つまり、真の創造においては、無為でいることが必要と考えるのである。
実際にわれわれが創造行為に従事するとき、
あれこれと積極的に考えたりなどしても、失敗に終わってしまい、
むしろ、ぼうっとしているときに、創造のきっかけが生じることがある。
これは何を創造しようかということとも関係しているが、
やはりスケールが大きくなるほど、「無為」の重要性が感じられるように思う」(P59)


煙草はすわないが怠け者の当方がなんとなくわかるのは、
無為でいると自然の小さな変化、つまり他力を察知しやすくなることがある。
それから人さまが必死に働いているときに怠けていると、
忙しい人には見えないことにふと気がつくことがある。
思い込みだろうが、自分はトリックスターの元型を持っていそうで怖い。
なぜ怖いかといえば破壊者になりたくないからである。
人と違ったことを言うと集団の和が乱れるし、下手をすると村八分を喰らう。
どのようにおのれのトリックスター性をうまく御したらいいのだろうか。

「トリックスターの行為は、本人がどこまで意識しているのかは判明しないとしても、
結果的にプラスの効果を生むことがある。
みんなで真剣に考えても、なかなかいい案が浮かばないとき、
一同が苦しんでいるなかでトリックスターの発言で、
思わず笑いが起こり、そこからふと新しい考えが開けたりする。
あるいは、中学生のトリックスターの万引きが発覚したところで、
担任の教師と学級の生徒たちが真剣に話しあい、
そこに一体感が生じてきて、学級の雰囲気が急に好転する、というときもある。
要するに、トリックスターの行為を生かすも殺すも、
それを周囲の人々がどのように受けとめるかによる、ということである」(P160)


わたしだけではなくみんなトリックスター性を持っているはずである。
トリックスターが出てきたときに、うまく笑える技術のようなものも必要なのだと思う。
下世話な言い方をしたら、変な人が現れたときに排除するのではなく、
あいつおもしろいよねえとネタにして笑えるかどうかなのかもしれない。
「101歳の人生をきく」(中川牧三・河合隼雄/講談社)

→有名な声楽家らしい中川牧三と河合隼雄の対談を読んでつくづく思ったのは、
芸術というものはあり余るほどの金と暇がないとできないということ。
芸術は基本的に労働ではなく遊びだから、
食っていくだけでカツカツではとてもできるものではない。
うろ覚えだが、あれは写真家の篠山紀信だったのではないか。
写真家希望の若者に「どうしたら写真家になれますか?」と聞かれると
「きみんちに山はあるか」と逆に質問したという。
ひと山つぶすくらいの覚悟がないと写真家にはなれないという意味である。
中川牧三の実家の名門ぶり資産家ぶりはものすごく嫉妬する気にもならない。
中川牧三は好きな音楽をやりたいが親が許さない。
とりあえず大学を出たのだから働けと親のコネである会社に就職させられる。
果たして中川牧三は働いたか? ノーである。
「ボンは座っているだけでいい」と言われ、
中川は会社に弁当を食べに行っていただけだという。
毎日弁当を食っているだけで月給をもらえたらしいから名家のボンボンはレベルが違う。
とにかく中川牧三は好きな音楽がやりたい。
そこでむかしから家と家が親しかった近衛秀麿に頼み込む。
「ふたりでヨーロッパに行こう」という話になる。
当時一軒家を借りる家賃は5円だったという。
そんななか中川牧三は近衛秀麿と二人でシベリア鉄道に乗るだけで
21万円かかったとさらりと語るのだから金持のレベルが違う。
本物の芸術は「好き」や「夢」や「努力」が作るのではなく、
才能があるのは最低限の条件でいちばん重要なのは潤沢な資金になるのだろう。
貧乏人から成り上がった芸術家もどきが骨董を愛するのとはわけが違う。
ファンだから河合隼雄の言葉を拾っておこう。

「現代ではどうしても急ぐでしょう。才能があっても、急いで、早く出して……。
古きよき時代には、テンポがみんなゆっくりしていましたからね。
そんなに急ぐ必要がなかったからね」(P52)

「日本の音楽には体育会系的な部分もありますよね。
ブラスバンドなんかもそういう傾向があるんだけど、なんとなく体育会系的でしょう。
楽しむよりも「鍛える」。(……) 合唱団なんかも、ちょっと特別なものと違いますか。
一糸乱れぬようにパーッとやって喜んだり、むずかしい曲を必死に練習したりして。
だけど、自分の身体からほんとうに声が出てきて楽しいという
感じじゃなくなっているのが多いみたいに思うんですけどね。(……)
歌を楽しむより先に、苦しみのほうを教えている。
日本はだいたいそうですけど」(P179)

「最近では、そういうことに気がついている人もいるんだろうけれど、
次に何を求めるかというと本物の先生ですよね。
本物の先生ってなかなかいないでしょう。
やっぱりいちばん幸せなのは、いい先生にめぐりあえたとき。(……)
レコードを聴いて勉強するより、いい先生に習うのがいちばんだけど、
なかなかいないじゃないですか。
それで、非常に勉強しにくいというのもあるんじゃないですか」(P181)


中川牧三は長年コンクールの審査員をやっていたが、
日本では単純に才能だけで評価されることは少ないらしい。
河合隼雄いわく、「日本はほんとうに派閥、人脈が強いですからね」――。
それに続けて中川牧三は言う。

「審査自体にも、学校内のこととか、そういうことが先入観になってしまってね。
いま実際にとっても売れっ子になっているソプラノがいるんですけど、
予選ではどういうわけか、日本人の審査員の票が集まらず、落ちそうになった。
でも、聴いてみたら、なかなか方向性がいいんですよ。
それで、補欠みたいな形でもいいからと言って、特別にその人を入れたんです。
そしたら、本選には外国の審査員も来たんですが、一番になってね。
どうも学生時代、評判がよくなかったらしいんです」(P213)


派閥や人脈をうまくやらないと日本では出世できないのだが、
これは会社員ならみな骨の髄まで理解している常識なのかもしれない。
芸術バカや学者バカがそういう実際を知らないというだけで。
40を過ぎてから世に出た河合隼雄は人脈づくりや派閥調整の天才だったのである。
河合隼雄ほど各界の成功者たちと対談をして、
上辺だけの交友をした人はいないのではないか。
もちろん、河合隼雄は意識して自覚してやっていたのである。

「ぼくなんか、両方ありますから。日本のこともけっこうやっているし、
それをやっていないと生きておられないので、
おかしいと思いつつすることになります」(P214)


スクールに行ってそこの経営者と大喧嘩するなんて
絶対にやってはいけないことだったのだろう。
人間の孤独を本当に熟知したら、
河合隼雄のような上辺だけの交友をうまくできるようになるのかもしれない。

「人生解毒波止場」(根本敬/幻冬舎文庫)

→わたしのなかじゃ根本敬って
ふっる~いエロ本に濃い漫画を描いていた人というイメージ。
アングラ電波系エッセイストとしてもご活躍なされていることをまるで知らなかった。
なにやらインテリぶったうざったいことをいきなり書くと世界は言葉で出来ている。
どういう難しい表現も可能だが、あらゆるものが結局は言葉に還元されるわけでしょう。
あらゆる見えるもの、のみならず見えないもの(愛とか差別とか)も言葉に過ぎない。
だとしたら、新しい言葉を発明することは世界を変えることに等しい。
根本敬はこのエッセイで「因果力」という言葉を創造しているが、これがじつに新鮮だった。
ある新しい言葉が生まれることで説明できる現象が増えるという面があるのである。

たとえば、こんなふうに――。
わたしはむかし因果力が強かったが、最近めっきり弱ってきたようでさみしい。
むかしはさあ、ひんぱんに変な人からおかしなメールが舞い込んだのだよ。
自分の妻をぜひ殺してほしいとか、
おまえを警察に訴えたからそのうち逮捕されるぞ覚悟しろとか、
おれの夢はトレンディードラマを手掛けることできみもその夢に乗らないかとか、
国内のみならず国外からもいろいろおかしなメールをいただいたものである。
最近、そういうのがパタッとストップしてしまった。
いいのか悪いのか、安っぽい劇のようなものからすっかり遠ざかってしまっている。
この状態は因果力という言葉を使うとうまく腑に落ちるのである。
このところめっきり因果力が弱ってきたなあ。
本来、自分は相当な因果者のはずなのにこの谷間はいったいなにを意味するのだろう。
いや、自分が気がつかないだけで、むかしよりもいまのほうが
もっと広範にわが因果力は作用しているのかもしれないのだが、
そこはまあ自分としては気がついていないふりをあくまでもしていたいというか、ニャハ。
根本敬は本書で知り合いの仲山兄弟を因果力の強い因果者であると看破する。

「兄弟の生まれた仲山家は、由緒ある家系(まァ、筆者から見てね)で、
その昔奄美大島のサトウキビで奴隷をされていたという。
そのセイか、二人とも因果者としての筋が大変素晴らしく、
兄の正毅君(二十九歳)は精神にやや難のある看護婦さん(四十余歳)
に好意を抱かれたあげく、軽々と殺傷沙汰に巻き込まれてみたり、
出来物の治療にフラリと入った病院で治療中、突然医者が
「俺は最近、精神病院から出てきたばかりだ」
と宣(のたま)わり、おかしなことをされたり、
碑文谷公園ボート乗り場でバイトを始めたら、
平和で何事もなかった公園で、急に入水自殺者が沢山出るようになったり、
とにかく彼の引力といおうか、そういったしょうもないこと(だが、この中にお宝がある!)
と引き合う磁力は並大抵ではなかった」(P108)


古くさい仏教用語ではこの因果力や磁力のことを宿命や宿業と言ったものである。
仲山正毅君の因果力はまことに怪しげでほんものくさいところがある。
因果力の見方は、当人の説明を信用しないことだ。
入水自殺者がひとりやふたり出たというのは、まあ事実だろう。
しかし、精神不安定な看護婦に惚れられたというのは果たして事実かどうか。
このあたりでわたしは仲山正毅君自身の精神病を疑ってしまうのである。
本当は因果者の仲山正毅がおばさん看護婦に勝手に片想いをして、
殺傷沙汰を起こしたのは自分のほうからなのではないか。
実際のところ皮膚科の医者は正常極まりなく、
仲山君の精神が異常だったからどこにでもいる医者がきちがいに見えたのではないか。
バイト先で自殺者が出たというのでさえ本人の自己申告に過ぎず、
もしかしたら「自己劇化」の一種ではないかとさえ思えなくもない。
このあたりがサブカル用語の因果力にまつわるおもしろさだろう。
うさんくさいもの、怪しげなもの、インチキくさいものはたまらない珍味である。
わたしなんかも自分の因果力を信じているから、
このまま終わるわけがないという気がしている。
自分の人生でよきにつれ悪しきにつれどんなことが起こっても、ふーん、と受容できる。
むしろ起こらなかったらと思うと逆にがっかりするというか、情けなくなってしまう。
わたしは1回きりの人生でより多くの変な人と会いたいし変な事件と遭遇したい。
その支えとなるのがこれまで培ってきた因果力になろう。
宿命や宿業という言葉はどこか受動的だが、因果力は能動の香りがしてよろしい。
われわれは生まれ落ちた「星」と
持って生まれた「因果力」に左右されているだけではないか。
これが特殊漫画家である根本敬の世界観になろう。

「とにかくこの世には、人知を越えた何か得体の知れない力が緩~く働いている。
だが、目に見えず、時には大きな神秘性を印象づけるが故に、
何か畏(おそ)れ多いものと考えてしまうが、
しかし実際は決して大層なものではないのかもしれない。
少なくとも私に限っていえば、過去、沢山の奇跡、神秘体験、シンクロニシティに
遭遇したが、どれをとっても下らない奇跡だったり、
馬鹿馬鹿しい神秘体験だったり、マヌケなシンクロニシティだったりする。
よって、どう考えても「天」というか、「神」というか、
とにかく得体の知れない力ってのは堅気じゃあないと睨(にら)んでいる」(P277)


得体の知れない力が堅気ではないという指摘には、まったくそうだと思った。
おそらくたぶんかならずや人間の目には見えないが、
世界にはある種のまがまがしい得体の知れない力が働いているような気がする。
そうであってほしい。そうであってもらわなければ困る。いや、そうなのである。
その得体の知れない力は、おそらく学級委員とは正反対のベクトルを有している。
「がんばったら報われる」も「悪いことをしたら天罰がくだる」も嘘だあな。
おてんとさまはそんな堅気なやつじゃなく、
もっとヤクザめいているような気がしてならない。
怠けていたり悪いことを楽しみながらしている人に、
ごそっと財宝を与えるのが堅気ではないおてんとさまではないだろうか。
おてんとさまが見ているというが、それはあんがい皮相な善悪ではないのかもしれない。
おてんとさまは堅気どころか正反対のふざけたヤクザなやつで、
笑っちゃうくらいいいかげんにデタラメに下界の民草に禍福を振っているのではないか。
でも、そういう人間世界っておもしろいよね、おもしろがっちゃおう。
本書は堅気ではない神さま(仮名)の采配を
おもしろがる遊び根性の肝が据わっているのでいい。
どんなことでもネタとしておもしろがっちゃおう。
「因果力」や「星」を考慮に入れたら、
世界にはもっとおもしろがれる余地があるのかもしれない。
もっともっとおもしろいことを体験したいなあ。
ちょっと周囲には迷惑でもおもしろいことを引き起こしてやりたい。
わが「星」と「因果力」はいかほどか。
こんなものに自信があったってビジネスとは無縁で一般社会ではどうしようもないのだが。
けれども、似たような「星」を持つ人の「因果力」と相互作用しあって、
あるいは奇跡のようなことが起こるかもしれないと思う。
たとえそれが周囲からどれほど馬鹿馬鹿しく見えようと奇跡は奇跡である。
堅気ではないおてんとさまは、それぞれの「星」や「因果力」を見極めて、
ときおりわれわれをびっくりさせるような下品な奇跡を起こしてくれるのかもしれない。
「星」や「因果力」があるのなら明日、あなたやわたしになにが起こっても不思議ではない。

「因果鉄道の旅」(根本敬/KKベストセラーズ)

→特殊漫画家(要はメジャー嫌いってこと)根本敬の人間観察エッセイを読む。
変な人ってふつうのパンピーにはない人間味があって、
きれいごとしか言わない取りすました偉人や成功者なんかよりも、
くっせえあいつらのほうが独特のうまみがあるなあって本。
変な人とは、精神科にかかっていないきちがいとでも言ったらいいのか。
いわゆる精神病一般はけっこうアバウトなところがあって、あれは自己申告制なのである。
周囲からいろいろ批判されて自分に自信がなくなって変な人は精神科に行く。
いや、それは違うんだよ、おかしいのはきみたちのほうで自分は間違っちゃいない。
周囲からの常識に基づいた批判を頑として受けつけない人の魅力ってあるよなあ。
われわれ日本人はさ、周囲の目を気にしてなかなか自分勝手なことをできないじゃない。
お互いに監視しあうというか、抑制しあうというか、牽制しあうというか。
このため、周囲の目なんてまったく気にしないで
横暴に振舞える人にちょっとあこがれちゃう。
「おれがルール」みたいな人ってめったにいないけれど、
いたらそいつはたしかにいやなやつなんだけれど、独特の愛嬌があったりして、
そのジコチューの悪口を言いながら、
どこかそいつの存在を楽しんでしまっているというか。
ふざけんなって怒りたくなるほど非常識で自分勝手なんだけれど、
当人はそういう認識がまったくなくて
ナチュラル(天然)にそうであることに畏敬や畏怖を感じてしまうというか。
え? それをするの? それを言うの? と仰天するのが楽しいんだなあ。
たしかに変な人は迷惑なんだけれども、
そういうダークなことを自分もしたいけれどできないだけじゃないか、
とふと気づいてしまうと、その人のナチュラルなところがとても輝いて見えちゃうわけで。
壊れた人間のまさにその壊れた部分に味があるというか笑えるというか、
笑っているうちに泣きたくなっちゃうくらいそいつが好きになってしまうというか。
常識的に考えたら絶対にダメなやつなんだけれど、そいつのパワーに負けちゃう。
むしろあえて負けてしまいたいというか、常識なんてくそったれだろ、
と自分も本心では思っているので、そこはそれでそういうわけで。
著者は人間にはそれぞれ生まれ落ちたホシがあると信じているようだ。

「ところでホシには磁力があり、強い磁力を持つホシが弱い磁力のホシに影響を及ぼし、
自分の植民ボシにしてしまうことがある」(P373)


磁力というのは、わかりやすくいえばオーラみたいなものなのだろう。
よくも悪くもすげえオーラを持った因果者っちゅうのがおるんや。
そいつのことなんかあたまではバカにしているんだけれど、
いざ対面して話すと震えがとまらなくなっちゃうというか、この人はスゴイとしか思えない。
常識的多数派のみんなは知らないのだろうけれど、
自分だけはこの人のスゴミがわかると叫び出したくなってしまう。
たしかにそいつの噂話をするときは悪口ばかりで口ではバカにできるんだけれど、
もうその時点でそいつの磁力にすっかりまいっちゃって無条件降伏って感じ。
なんであの人は一見ふつうの人っぽいのにそんなヤバいことをやれちゃうの?
そんな身もふたもない本当のことをあんたは言えるんだ?
じつはそれこそおれが言いたかったことなんだけれど、言えなかったぜ畜生みたいな。
そんなことは言っちゃいけないでしょう、と思いながら、
あっ、それは自分も思っていたことだけれど言えなかっただけなんだと気づく。
変な人、いかがわしい人、うさんくさい人って成功者とは正反対のいい味を出している。
みんなは成功者にたぶらかされているけれど、
本当の人間の味っていうのは変なことをするイイ顔をした特殊男女を、
ゴムつきではなくナマで体験しないとわからない。
根本敬は一見するとこの本で他人の悪口ばかり書いているようにも読めるが、
じつのところそうではなく、著者はおのれの「因果鉄道の旅」で出会った、
まさに人間の根本(男根、女陰)をむきだしで生きている因果な特殊男女に
深い敬意と愛惜の念を非常に屈折しながらも寄せていることは疑いえない。
根本を敬うのが特殊漫画家の根本敬である。
おのれの欲望をストレートに出している人の磁力に根本敬のホシは引かれる。
ビジネスライクに人と接するのはたしかに安全だろうがつまらない、なにも起こらない。
あいつは好きだ、こいつは嫌いだと本音を顔にむきだしにするやつはおもしろい。
人間平等なんてきれいごとを言わないで、お、こいつは顔がいい、金を持っていそうだ、
学歴はどのくらいなんだと人を判断する正直な人のバカぶりっておいしいなあ。
でも、おれは乳子(入庫?)よりも貧乳が好き、
なんて好き嫌いがはっきりしていたらもっとおもしろいさ、そりゃあ、人間そんなもんだから。

本書を読んだ人でないとわからないかもしれないエピソードを書いておこう。
まあ、このブログなんて10人も読者がいるのかって話だから、どうでもいい。
むかしさあ働いていたバイト先にイイ顔をした男女がいたんだなあ。
ものすごい若そうな男の子と、どう見てもやつれた枯れかかったおばさんのカップル。
ぶっ飛んじゃうくらいの違和感というか極北感があったんだなあ(さむいってことね)。
このボウヤとやつれたおばさんがつねにラブラブで非常に味があるというか。
気味が悪いなんてみんなは思っていたのだろうが、そう思うのも無理はないというか。
実際、聞いたらけっこうな人がこのカップルをうざいと思っていて嫌っているの。
というのも、人目もはばからず、というかむしろ周囲に熱愛を見せつけるように、
その若いおにいちゃんと崩れたおばさんがいちゃいちゃしているわけだから。
みんながいるところでお弁当をお互いに食べさせあうとか平気でやっちゃうわけよ。
わかるかな、ほら、アーンしての世界。
どこから見ても貧相なおばさんがさ、自分は清純なうら若き美少女みたいな態度を取る。
男は男でまあボウヤなのだが、
社員よりも威張っていて、根本的に自己認識が誤っている。
われわれよりもたった50円時給が高いおなじバイトなのに威張りくさって、
ほかのパートを完全に自分よりも下に見て注意してまわるようなボウヤ。
むかしのことだから忘れたが、
みんなこの気持悪いカップルをどこかで嫌っていたのではないか。
ひとりの同僚にふたりの話をしたら、唾でも吐きかけてやりたいような顔をした。
わたしはどうしてかこのイイ顔をした男女が好きで好きでねえ。
ふたりの会話を盗み聞きしたりすると、あとで笑いがとまらないというか。
しぼんだおばさんがさあ、初々しい処女のような態度でボウヤを持ち上げるわけだから。
ふたりがわたしの悪口を言っていたのも聞いたけれど、
かえって本音を生きている特殊男女を好きになったくらいだ。
群れて孤独な人の悪口を言うのって楽しいもんねえ。
本人たちはすんげえ幸福ってところがいいわな。
周囲からは気持悪いカップルとしか見られていないのだが、
本人たちはそれぞれロミオとジュリエットを気取っているわけだから。
くっせえカップルなんだけれど、独特の味があって、
あるいはあれが本当の愛のかたちかもといまでは思う。
恋愛って本当のところキモいわけだから。
そういうカップルの夜のことを下品にも想像すると
世界が神々しく見えてどうしてか笑っちゃう。

楽しく生きるこつっていうのを本書から学んだような気がする。
イイ顔をした自分が見えていない変な人のことを迷惑と常識的に考えるのではなく、
こりゃまたおいしいものを神さまはプレゼントしてくれたとネタとしておもしろがっちゃおう。
どうせ人生、本当のところはつまらないんだから、ならば可能な範囲でおもしろくしよう。
「劇化」という言葉が人生をおもしろくする秘訣のような気がする。
著者は本書で内田という大学時代のクラスメートのことを、
ひどいやつだとさんざんバカにしている。
しかし、実際のところは著者はだれよりも内田の本質を理解し愛しているのだろう。

「……内田ってのは結構ポッと思いつきで演劇的になる人間で、
ある種の凄い自己劇化、その自己劇化っていうのが、
ゴールデンタイムのホームドラマみたいな、
アイドル主演の、ああいうレベルの凄い浅薄なものなんだけど」(P59)


この本はいまの職場の人からすすめられたのだったか。
だれもわたしになんか関心はないというのが真実で、
これはたんなる被害妄想なのだが、
自分勝手なためバイト先でおそらくいちばん同僚から嫌われているのはわたしだろう。
空気を読まないで本当のことをポンポン言ってしまう最低なやつだが、
とても自分がイイ顔をしているとは思えない。
だれがどう見ても人生が終わっちゃった使えないゴミバイトのおっさんなのだが、
本人は自分には才能があるとかいまだ信じていそうでまったく腹が立つだけの存在。
まあ、バイト先の仲間にはそれぞれの「因果鉄道の旅」のなかで、
それぞれのホシの磁力作用の影響でどうしようもなくわたしと出会ってしまった。
たいへんご迷惑でしょうが、そのように考えてあきらめてもらうほかない。
この本をすすめてくれる人がいるというのは、
あんがいそれほど嫌われていないのかもしれない。
まさかもっとハチャメチャをやれ、というメッセージだとは思わないけれども、
ここだけの話、そう勘違いしてしまいそうなナチュラルな自分がいて怖い。
わたしの恩師といえば特殊映画監督の原一男先生だが、
師から教わったことをひと言に要約したら、表現のためならなにをしてもいい、だ。
なにをしてもいい、自由だ、もっと過激に生きようとわたしは師匠から教わった。

なんて甘っちょろい感動屋で感傷家なのだろうかと恥ずかしくなる。
日々、小さなことに深く感動したり、大人げなくちょこっと傷ついたりしている。
これはふたりだけの秘密なのだが、
先日バイト先でむかしから大好きだった外国の人が
はじめてわたしを名前で呼んでくれた。
小さなことだが、どれほど嬉しかったことか。
あの外国の人の笑顔のおかげでどれだけいままで救われたことだろうか。
時給850円の職場は名前のない世界に近い。
いつ消えるかわからない他人を名前で呼ばない職場文化がある意味でやさしい。
わたしって名前があったんだなあ。
ぶっちゃけ、いまのバイト先の人たちにめちゃくちゃ影響を受けている。
世間知らずもはなはだしいけれど、働くごとに人生観を変えられていると言ってもよい。
外国の方でわたくしごときを名前で呼んでくれた人がいる(初体験)。
救われたなあ、ありがたかったなあ。
大きなこと(3・11や中韓問題)に生きるのもいいのでしょうけれど、
小さな感動や感傷をたいせつにする生き方もまたあっていいのかもしれない。
いま酔っぱらっているから恥ずかしいことを書いちゃおう。
人間っていいよなあ。人間っていい。
もうベロベロだから本当に恥ずかしいことを書くと(創価)学会歌は嫌いではない。
恥ずかしくてたまらない。もっとインテリぶりたいヨ♪
七五調はいいと思う。
「先生、先生」と連呼する学会歌「今日も元気で」はさっきはじめて聞いた。
こんなものを好きになっちゃいけないのでしょうが、何度も繰り返し聞いてしまった。
「三十光年の星たち」(宮本輝/新潮文庫)

→読後、吐き気をもよおしたカルト的とも言いうる長編小説である。
何度も強調して断っておくが、ただたんに小説がカルト的だと言っているだけで、
著者の入信している創価学会がカルトであると言っているわけではない。
運がいいのか悪いのか学会員とはこれまでの人生でまったく縁がなく、
創価学会がカルトなのかどうかはわからない。

さて、吐き気をもよおすほどに気持が悪い小説だったのである。
2週間まえに読了した本だが、いまでもときおり内容を思い出し吐き気を感じるくらいだ。
どうしても自分のほうが「正しい」という自信を持てず、
この2週間のあいだ何度もメモした部分を読み返したものである(謙虚だなあ)。
主人公は30歳の無職男性。
三流私大を卒業後に小さな会社を転々として、いま恋人と起業したところ。
ところが、革製品を売る商売はうまくいかず借金をかかえる身になった。
そこに75歳の「先生」が現われ金を貸してやる代わりに青年を奴隷あつかいする。
この「先生」がとにかく偉いという設定らしいのだが、なんで偉いのかよくわからない。
大金を持っているというのが、おそらくいちばんの偉い理由だろう。
それから自分とおなじような成り上がり者の金持とコネがたくさんあるらしい。
性格はとても気難しく、いきなり金を借りている弱い立場の青年を怒鳴りつけたりする。
75歳の「先生」は群れるのが好きで、
自分のシンパと一緒に青年を巧みにマインド・コントロール(洗脳)する。
しだいに青年は自分のあたまで考える能力を失いはじめ、
「先生」への絶対的服従を誓うようになり、
道ばたでいきなり柔道の技で投げられたにもかかわらず感謝の念をいだくほどになる。
自分のあたまで考えるということを完全に放棄した青年は、
「先生」に言われるがまま
後継者のいない怪しげなB級グルメレストランの店長におさまる。
休日いっさいなしで朝6時に起きて深夜1時、2時まで働く生活を送るようになる。
なんのためか? なんのためにわざわざそんなしんどい生活を送るのか?
30歳の青年にとってもはや「先生」の教えを疑うなんて思いもよらないことだ。
「先生」は言った。30年後のおまえの姿を見せてみろ。
30年後に本当の「人生の勝負」がはじまるのだから。
わかりやすく言えば、30年後に他人と比較して「おれは人生で勝利したぞ」
と喝采をあげるためにいま「先生」のしもべとして365日早朝から深夜まで働け。
「先生」は自分が絶対に正しいと確信して金のない低学歴の青年を叱り飛ばす。

「三十年後の自分を見せてやると決めろ。
きみのいまのきれいな心を三十年磨きつづけろ。
働いて働いて働き抜け。叱られて叱られて叱られつづけろ」(上巻P334)


30年後に訪れる「人生の勝負」以外のことは考えるな。
考える暇があったら働け。もっと働け。いや、もっとできるだろう? 限界を超えろ!
なんだ、その反抗的な目はアホンダラ、金も学もない若僧のくせに。
叱られたら「ありがとございます」だろう。叱られたら感謝するんだよ、この貧乏人が。
おい、クソガキ、おまえ金をなんぼ持ってるんだ?
30年後におれのような人生の勝利者になりたかったら叱られて喜べ。
「先生」は絶対に正しいのだから、おまえは奴隷のように働いて叱られて感謝しろ。
遊ぶ? そんな無駄なことをしている時間がおまえにあるのか? 
30年後に人生で負けてもいいのか?
どうしておまえは反抗的な目をするんだ。考えるな。おれの言うことは正しいんだから。

「やれ、と言われたことを、やれ。
こんなことをして何になるんですかなんて、いちいち訊(き)くな。
なんでこんなことをさせられたのかは、何年かあとになってわかる」(下巻P130)


おまえは絶対に間違っている。なぜなら「先生」は絶対に正しいからだ。
自分をどこまで犠牲にして「先生」のためになにをできるか考えろ。
なぜ「先生」は偉いかなんて考えるな。
「先生」は年寄りで金持だからおまえよりも絶対的に偉く賢いんだから疑うな。
裕福な老人は低学歴で貧乏な若者を怒鳴りつけ反省をうながせる。
「三十光年の星たち」は毎日新聞に連載された小説だ。
いまや若者はほとんど新聞を読まず、いっぽう老人はあきれるほど新聞が大好きである。
新聞は正しい。宮本輝は正しい。ならば、新聞を読んでいる老人も正しい。
なぜ新聞が正しく偉いのかといえば、
紫綬褒章作家で芥川賞選考委員の宮本輝が小説を連載しているからである。
なぜ宮本輝が正しく偉いのかといえば、天下の大新聞社に認められているからである。
宮本輝は正しい。新聞は正しい。新聞を読んでいる老人は正しい。
新聞連載小説「三十光年の星たち」では老人が不遇な若者に反省せよという。
どう反省すればいいのか。

「俺が、いまの自分に不遇という言葉を使えば何物かに強く叱責されるだろう。
何かをめざして耐えるとか、つらい修業に身を投じるとか、
そんなことから逃げつづけて、俺は二十代を無為にすごしてきた」(上巻P184)


いま不遇な若者は自己責任なのだから不満など口にしたらぶっ飛ばずぞ。
反省したのちに働いて働いて働いて、そして叱られて叱られて叱られるがよい。
「先生」に叱られたら「ありがとうございます」だからな。叱責されたらありがとうだ。
ディープなファンのあいだで有名な
池田大作と宮本輝の「無言の叱責」事件というものがある。
創価学会会長(当時)の池田大作は文筆で評価されることを強く望んでいた。
ところがそれはかなわず、弟子の宮本輝が芥川賞を取ってしまったのだから、さあ大変。
池田大作は芥川賞作家の宮本輝に嫉妬して幼児的な完全無視をしたわけである。
宮本輝は最初、へへん、池田大作もこの程度の男かと本当のことにうっすら気づく。
しかし、池田大作および創価学会から見放される恐怖は、
ちょっと想像しただけでも人格が崩壊してしまうレベルのものだったのだろう。
低学歴で当時はまだ金をあまり持っていなかった宮本輝は庶民的な平伏を見せる。
池田大作先生は自分の慢心を見破ったから、あのような冷たい態度を取ったのだ。

「先生」は正しい。

宮本輝が心を入れかえたら池田大作先生が声をかけてくれるようになったという。
このときの経緯を宮本輝は「無言の叱責」という短文に書き残している。
もちろん、池田大作先生への恭順を示すためにである。
老作家の宮本輝はよほど書くことがなくなったのだろう。
(学会員ではない)一般人の憫笑を誘いかねないこのエピソードを、
美談めいたものとして「三十光年の星たち」にコピーしている。
骨董屋の見習いが「先生」の命令に逆らって無視されるという気持が悪い話である。
その見習いが自分で考えるのを放棄して、
「先生」は絶対的に正しいのだと考えるようになったら「先生」はやさしくしてくれた。
しつこいが、この小説のテーマであると思うためにまたおなじことを書く。

「先生」は正しい。

これは出世するための秘訣でもあるのである。
人間平等なんて嘘八百の話で、出世するためには上から認めてもらうしかないのである。
身もふたもないことを書くと、世の中は金を持ったやつと持っていないやつがいる。
権力を持った人と権力を持っていない人にわかれる。
クソみたいに下世話なことを書けば、
偉い人、正しい人とは権力や金を人より多く持った人のことである。
有名人の子どもならそうではないが、生まれが賤しい人間は
どの世界でも出世したかったら偉い人から引き上げてもらうしかない。
権力者の周辺には奴隷のような追従者が多く見られるのはこのためだ。
「先生」が正しいことはゆめゆめ疑ってはならないのである。
なぜなら「先生」は「先生」だから正しいのだ。
「先生」であることは正しいことを証明しているのである。
どういうことかと言えば、「先生」もその「先生」から引き上げてもらったということ。
「先生」の「先生」が正しかったから「先生」もまた絶対的に正しい。
おそらく最初の「先生」は狂人に近かったはずである。
なぜなら自分が絶対的に正しいなどと確信を持てるのは狂人寸前だからである。

しかし、ここまでお読みくださったみなさまは思われるかもしれない。
果たして「先生」は本当に偉く正しいのだろうかと。
概して「先生」は正しいことが多いというのもまた事実なのである。
実際、日本の伝統文化(伝統芸能)は師弟のあいだで継承されている。
そうなると新しいものは出てこようがないということになるのか。いな、である。
現実として日蓮の伝統仏教から、
いまや日本を完全に支配した巨大新興宗教団体の創価学会が誕生しているではないか。
「三十光年の星たち」にはツッキッコのスパゲティというゲテモノ料理が登場する。
イタリアのことをなにも知らないおばさんが新発明したインチキのパスタである。
これが庶民に大好評だったというのだから、まるで創価学会である。
カルト小説「三十光年の星たち」には一箇所だけ救いがある。
強制的にゲテモノ料理屋の店長に任命された青年がふと疑問に思う瞬間である。

「いや、それよりも何よりも、俺はツッキッコのソースの味を知らないのだ。
どんな香りでどんな味なのか、想像もつかないのだ。
もし今夜、初めて味見したソースを俺がうまいと感じなかったらどうなるのだ。
いや、佐伯平蔵[先生]がうまいと言ったのだから、絶対にうまいはずだ」(下巻P118)


自分の舌で味わうのはやめて「先生」の舌で味わおう。
自分の目で見るのはやめて「先生」の目で見よう。
自分の耳で聞くのはやめて「先生」の耳で聞こう。
自分のあたまで考えるのはやめて「先生」のあたまで考えよう。
自分の言葉を口にするのはやめて「先生」の言葉を使い回ししよう。
なぜなら――。

「先生」は正しい。

新聞小説「三十光年の星たち」を読んで吐き気をもよおしたと書いた。
これは身体的レベルで拒否感を示した、いや、心動かされたからだと思う。
人生の大勝利者である宮本輝は「正しい」ことを「三十光年の星たち」から教わる。
偉大なる宮本輝先生のおっしゃるとおりだと今後は心を入れかえることにする。
これからはグルメ評論家の絶賛するものをなるべく口にしようと思う。
映画評論家がほめている新作映画をできるだけ観に行きたいものである。
権力者が評価しているクラシック音楽や古典芸能に可能なかぎり触れていきたい。
これからは、これからは――。
くだらぬ自分の感想など捨てて権威ある「先生」のおっしゃることを信じて生きていく。
今日はわたしの人間革命記念日だ。宮本輝先生、ありがとうございます。
宮本輝先生の叱責はわが胸の底を揺り動かしましたぞ。

きちがいのニーチェがこんなことを言っている。

「すぐれた教育者は、
教え子が師に逆らってあくまで自分自身に誠実であろうとすることを、
誇りにしてよい場合があることを知っている」


(参考)「ニーチェからの贈りもの」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2613.html

いつクビになるかビクビクしながら働いているバイト先の勤務開始時間は13時だ。
何時に帰ってくれと言われるかも定まっていない。
17時のときも24時のときもあり、それぞれ運のようなものでおもしろくないこともない。
バイト先には朝7時から夜7時まで働いているかたもいらっしゃるのである。
とすると、拘束12時間で日給8500円(リーダーは9000円)になるのでしょうか。
なんだかよくわからないが、世間の人は働いてから遊ぶものだと思っているようだ。
わたしは13時勤務開始だから遊んでから働く。
朝起きていい映画や小説を鑑賞したあとに働くのはどれほど気分のいいことか。
1.働いてから遊ぶ
2.遊んでから働く
わたしは2の楽しみを申し訳なくも知ってしまった。
みなさんが真似できることではないのでしょう。
「遊んでから働く」楽しみを知ったら、あるいは人生観が変わったりするのかもしれません。
働いてから遊ぶのではなく、遊んでから働く――。
うさんくさいことを書くと生きていてよかったなあ。
みながいやいやしている神聖なる労働に対して不謹慎なことを書くと、
いまのバイト先はおもしろすぎる。
やっぱり自分は運がいいのだろうかと勘違いもしたくなるさ。
こうまで多様な年代、性別、国籍、
――いろ~んな人が働いている職場はほかにないのでないか。
年代では老人から子どもまでいる。
国籍もベトナム、ネパール、インド、中国、モロッコ(の人は最近消えた)。
女子高生からおっさん、
おばさん、おじいさん、おばあさん、おにいさん、おねえさん。男子高校生もいる。
いろんな人とわずかでも触れ合うのっておもしろいよなあ。
今日はライン(流れ作業)でJK(女子高生)ふたりにサンドイッチされた。
はじめは変な汗が出てきたが、すぐ気づく。ありがとうございます。
これ、最高においしいし、ちょーおもしろい設定だ。
まさかないとは思いますけれども(自意識過剰!)、
上が「ツッチー(ぼくのこと)をJKで挟んだらどうなるんだろう?」
とわくわくおもしろがりながら仕組んでくれたことだったらもっと感動的だ。
高校1年生って16歳でしょう? ちょっとだけ話したけれど、本当におもしろかった。
いえね、老人と話すのも主婦と話すのも男子高校生と話すのも
(といってもむろん仕事に支障がない程度の短時間の雑談ですよ)おもしろい。
考えてみれば16歳の女子高生はベトナム人よりも未知な世界なのかもしれない。
それぞれに抱えたものが異なり、
それぞれに生きているのだと当たり前のことを再認識させられる。
いろんな人がいて、それぞれがそれぞれの持って生まれたものを
どうしようもなく抱えながら生きているんだなあ。
おそらく日本全国探しても
いまのバイト先ほどいろんな人がいる職場はないような気がする。
2年日本にいるのにまったく日本語がわからない古株ベトナム人女子に言った。
「このバイトっておもしろいよねえ」
理解できなかったのかどうなのか、返答はもらえなかった。それでいいのだ。
どうしようもない人の魅力って絶対にあると思う。
ダメな人はダメなままでそのままである種の美しさがあるのではないでしょうか。
あはっ、自己弁護の甘えのようなものを、よくもまあ――。
人生には波というものがございますでしょう。いいときも悪いときもあります。
職場である人に「人生でいつの時期がいちばん幸福でしたか」と聞く(約60歳男性)。
「いまがいちばんとも言えますよね。こうやって仕事もあるし」
考えてみたらものすごい失礼な質問なわけです。
あなたのいまは幸福そうに見えない、と言われていると解釈できなくもないのですから。
すぐに謝りました。
にもかかわらず、べつの人にも聞いてしまう(約40歳男性)。
「生きていくのにいっぱいいっぱいで、そんなことを考える余裕もなかった」
ふだんは無口な人なのですが、さすがにカチンと来たのでしょうか。
その後「作業員としてなってませんね」と指導をされてしまいました。ごめんなさい。

わが人生でいつがいちばん幸福な時期だったのか。
人生いまが花時と言いたいところですが、ちょっときれいごと過ぎるような。
3月4日に関係する1年半くらいがもっとも幸せだったような気がします。
もちろん、他人からおなじようなことを聞かれたら、
「わたしの人生に幸福な時期なんてなかった」と深刻な顔で不幸ぶりますけれど。
日本人は本当のことを言いません。

職場であるベトナム人の子に聞きました。
「日本人のベトナム人の違いはなんだと思いますか?」
「日本人は本当のことを言わない。怒っていても怒っていないふりをする。
ベトナム人は怒るときはちゃんと怒る。
日本人は口では『大丈夫』と言っていても『大丈夫』じゃないときがある」
「それ、すごいわかります」と意気投合してしまいました。
日本人でさえ相手の本音はなかなか読めませんものね。
とにかく日本人は早口すぎる、ともそのベトナムの子は言っていました。
早口でそのうえ日本人の日本語はそれぞれ発音が微妙に違い聞き取りにくい。
ゆっくり何度も話してくれたらわかりやすい。
その子だけかもしれませんが、日本語は聞くよりも読むほうが得意とのこと。
筆談すればいちばんいいのかもしれません。

相手が明らかに嘘を言っているのをわかっても、
それを指摘しないで受けいれるのも日本人です。
バイト先で上からこんなことを言われたことがあります。
「もう仕事が終わっちゃうので帰ってください」
じつはそうではないことを知っていても笑顔で(?)従います。
「深夜勤務の人を呼んじゃったから、ごめん、もうあなた必要ないんだ」
そんな本当のことを言われても困ってしまいますしね。
帰されない女性古株さんがいらっしゃる、なんて本当のことも言いません。
本当のことを言ったら人間関係にヒビが入ってしまいますもの。

ある勉強嫌いのベトナム人の子から聞かれたことがあります。
「わたしの日本語ひどい?」
なんと答えたかわかりますか?
「日本人は本当のことを言わない」
悪いことをしました。
「そんなことないよ」と答えるのが正しい日本人の対応でしたでしょうから。
「なんのために日本に来たのですか?」
こんな聞いてはいけないことを聞いてしまいました。
その子の表情が固まりましたね。それから誤ピック(ミス)も出していましたし。
わたしだって「なんのために生きているの?」とかいきなり聞かれたら、
即座に憂鬱になって誤ピックを連発することでしょう。
あたまのどこかでそんなことを考えているから日ごろ誤ピックが多いのかもしれません。

こう書いてみると、けっこういまもいま、人生で楽しい時期なのかなあ。