「とりかへばや、男と女」(河合隼雄/新潮文庫) *再読

→いったい男ってなんだろう、女ってなんだろう、という文脈で三度目の読書。
異常な性癖を告白するようだが、「男装する姫君」や「男装の麗人」が好きでたまらない。
現代日本語では「ボクっ娘」って言うんだっけ?
男と男の友情に見えて、じつはいっぽうの正体は女性で……とか来るねえ。
男女の性愛に見えて、じつのところ女と女の関係だったとかもいい。
「とりかへばや」では――。

「外見は男女と見えつつ実は女と女の関係とか、
外見は男と男と見えつつ実は男と女との関係とかの場面が
美的に語られるのである」(P116)


中学、高校のころはボーイッシュな女の子が好きだったなあ。むかしの話。
いまは男も女も人間すべて、自分さえもあまり好きになれないところがあるけれど。
いや、最近ちょっと変化したのだったか。
アニマとかアニムスとかそういう死語(ユング用語)は抜きにしても、
事実として男のなかには女が、女のなかには男がいると思う。
むかし匿名掲示板でネカマをやったことがあるけれど、女にもばれなかったもん、あはっ。
たぶん女よりも女々しい女が腐ったような性格だからだろう。
驚くべきことに、そのネカマキャラに惹かれた女の子と会ったりしたこともあった。
反対もやられたこともある。
メールやコメント欄で男と自称していたのに、いざ会ってみたら女だったとか。
こんなことを3回も人生で経験しているのって絶対おれだけだと思う。
そのうち1回は中国の長春での出会いだったのだから、めちゃくちゃな人生だなあ。
このためか性別ってなんなんだろうと思う。

本書は「とりかへばや」というマイナーな古典物語を河合隼雄が紹介したもの。
明恵といい「とりかへばや」といい、どちらも河合隼雄が世に出したようなものだから、
氏は本当に個性的な人物だったのだろう。
本書でも冒頭で「とりかへばや」を評価している権力者を徹底的にヨイショして、
「とりかへばや」および本書の価値を上昇させている。
その世渡りの手腕こそ氏の天与の才能の最大のものであったのかもしれない。
「とりかへばや」は「男装の姫君」の話で、
男として育てられ世に出た姫君が女となり母になる物語である。
とにかく、河合隼雄の語り口がうまいのでストーリーに引きこまれた。
実際に「とりかへばや」を読んだらおそらくそれほどおもしろくはないのだろう。
偉大な氏と自分を同列に置くようで恐縮だが、わたしなんかもむかしよく言われた。
ブログ記事を読んでその本を読んだら大しておもしろくなかった。
わたしのつたない読書感想文のほうがよほどおもしろかったと。
お世辞だろうと思っているが、あんがい本当のことかもしれない。

ぶっちゃけ、このブログで書評をしようなんざまったく思っていない。
本を書いた他人のことなんてある意味ではどうでもいい。
重要なことは、それを読んだ自分がどう思ったかである。
河合隼雄もおそらく明恵や「とりかへばや」を借りて、自分を出したかったのだろう。
氏は自分のあたまで考えるおもしろさをよく知っていた。
可能ならば、それは困難な道だが、他人にも自分のあたまで考えてほしいと思っていた。
自分のあたまで考えよう。

「筆者は心理療法家という職業のため、
当人にとってまったく責任のない苦悩を背負っている方にお会いすることが多い。
なかには、その「責任」を無理矢理他人に押しつけて、
恨んだり嘆いたりする人もあるし、
やたらと「みんな私が悪い」と責任をかぶりたがる人もあるが、
そんなことでは何も話が発展しない。
運命と呼ぶかどうかは別として、自分のおかれたその状況と正面から取り組んで、
自分に課せられた運命の意味を見出してゆこうとすると、
不思議に状況が変わってくるのである。
そして、問題が解決する頃には、最初は恨んでいた運命に対して、
その意味がわかったと言われることが多い」(P218)


他人のための書評なんてさらさらする気はないので、自分のことを書く。
いまどうやら人生の小さな転換期のようなのである。
周囲の変化が大きいし、自分もそろそろ重い腰を上げる時期が来たのかとも思う。
とはいえ、人生の目的のようなものはない。
目的を決めて、それに向けて努力するとか、もういいおっさんだからノーノーうんざり。
河合隼雄も目的重視の人生への違和感を本書に記している。

「西洋人にとって、人生の目的とは何か、いかにしてそれに到達してゆくのか、
という問題を考え、論理的に構築した筋道に従って、
それを明確に伝えることが大切であるとすれば、
日本人にとっては、人生の目的は自明のことで――つまり来世における成仏――、
どちらにしろ、この世の人生はそれまでの過程――つまり道行――
なのだから、過程そのものを楽しもうという考えも強くなるのであろう。
『曾根崎心中』にしても、その目的は大したことではなく、
そこに到る道行を鑑賞することが大切なのである」(P201)


人生を決めるのはほんのちょっとした偶然である。
いったい偶然をどうあつかったらいいのだろうか。
瞬間の偶然で人生が決定してしまうのならば、偶然をどう見るべきか。
思うに、日本でいちばん偶然のすごさ怖さを知っていたのが河合隼雄で、
もっとも偶然に対する畏怖を持っていたのもまた氏であったのではないか。

「人間がまったくの偶然と思っていることでも、
よく見ていると偶然とも言い難いことがある。
たとえば、図6に示したような三点、ABCがあるとすると、
これは別に何ということもない三角形である。
ここで、こんなのは何のこともない偶然にできた三角形さ、と思う人と、
正三角形が少し変形している―→正三角形のはずだと思いこむ人がいる。
前者の人は偶然を偶然のままに棄ててしまう人である。
後者は偶然に何かを読みとろうと焦りすぎる人である。
ところが、続いて点Dが見えてくる。
ABCを正三角形と見る人は、Dの存在を無視するであろう。
しかし、ABCDを二等辺の台形と思い込む人もあるかも知れぬ。
その人は、続いて点EFGが出てくると、うるさいと感じるかもしれない。
しかしA……Gの点を全体として眺める人は、それが同一円周上にあることに気づき、
次は、Hあたりに点があらわれないかなと予想してみたりもできるのである。
全体の構図を見出すためには焦ってはならない。
継時的に起こる事象をすぐに因果的に結合させようとせず、
暫(しばら)く待ちながら、全体をぼんやり眺めていると、
隠されている構図が浮かびあがってくるのである」(P220)


ひとつひとつの偶然に大げさに一喜一憂してはいけないけれど、
さりとてささいな偶然を見落としてはならないのだろう。
河合隼雄いわく、全体を見るのが重要か。
最近、テレビのニュースどころかネットニュースさえも見なくなってしまった。
せめてヤフーニュースくらい毎日見るようにしたほうがいいのかもしれない。
毎日占いは4サイト閲覧していて、
おまえは女の子かよって話だが、かなり行動の指針にしているのだが、テヘペロ。
ところで、こんな自分のためだけに書いた文章を最後までお読みくださった方がいるのか。
とはいえ、無報酬なのに他人のために文章を書くやつは絶対にインチキ。
あなたがいまこの文章を読んだことも、ある偶然の一点なのだから、
それを踏まえて全体をぼんやり眺めてぜひぜひすばらしい一生を送ってくださいませ♪

「一遍辞典」(今井雅晴:編/東京堂出版)

→労作だとは思うが、著者が一遍の根本思想を理解していないことに驚く。
「正しい」かどうかは結局、肩書勝負になるから「正しい」のは著者だろうけれど。
踊り念仏を始めた鎌倉時代の坊さん、一遍のやばさは自殺を肯定したところだ。
正確には、自殺など存在しないとした。
自死遺族の悲嘆というのは強烈なものだが、
これを癒すものがあるとすれば一遍の仏法しかいまのところ考えられない。
南無阿弥陀仏の救いとはどういうことか?
死んだら極楽浄土に往生できるという、ただそれだけのことである。
だったら、早く死んだほうがいいって話でしょう?
法然も親鸞もなんだかんだいって南無阿弥陀仏に徹しきれなかったのではないか。
ふたりともやたら長生きしているから、
こいつらにとって念仏は商売道具でしかなかったのではないかとさえ邪推してしまう。

一遍の名言に「とく死なんこそ本意なれ」というものがある。
「早く死ぬのが本望だ」という意味だ。
死んだら阿弥陀経に描かれている極楽浄土に往生できるのなら、
「とく死なんこそ本意なれ」は必然の帰結と言えよう。
いまの日本の一般常識では自殺はよくないものとされている。
著者は通俗的な常識に縛られて狂的な一遍の信仰をまるで理解していない。
当時はおそらく自殺などという言葉はなく、捨身往生と言われていた。
身を捨てて極楽浄土に往生することである。
今井雅晴博士は言う。

「鎌倉時代後期に全国の布教活動をした一遍のまわりには、
古代以来の捨身往生肯定の世界が広がっていたようである。
一遍はこの世界に身を置きつつも、
捨身往生は救済につながるものではないと否定している」(P141)


どこにそんなことが書かれているのか、ぜひぜひご指摘いただきたい。
本書には著者の住所が書かれていたが、
「もてない男」の小谷野敦さんではないが、手紙を書いたら返事が来るだろうか?
一遍が捨身往生を肯定していたと解釈できる部分ならいくらでもある。
今井雅晴博士はなぜか法然や日蓮を持ち出してくる。

「ところで法然や日蓮ら、鎌倉新仏教の祖師たちは、
一様に捨身往生を否定している。
その理由は、第一に、彼らは現世における命を尊重していること、
第二に、彼らは他力の信仰を標ぼうしていること。
みずから命を断つことによって極楽往生しようというのは、
あくまでも自力行とみなさなければならないからである」(P141)


え? 日蓮の仏法は他力ではなく、法華経に帰れという自力信仰ではないか?
日蓮が現世における命をそこまで尊重していなかったという証拠もある。
以下は、日蓮が信徒に書いた手紙の一節である。

「とにかくに、死は一定なり[死は決定している]。
其時[絶命時]のなげきは、たうじ(当時)[元寇や飢饉]のごとし。
をなじくは[どうせ死ぬのだから]、かりにも法華経のゆへに命をすてよ。
つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ」


さらに今井雅晴博士はみずから命を断つのは自力行だと書いている。
博士は一遍の他力信仰をまったく理解しておられないのだろう。
木に実がなり熟してそれが落ちるのは、自力ではなく他力(自然)でしょう?
花が咲き散るのも自力ではなく他力である。
果実が熟し落ちたり花が散るのと捨身往生(自殺)はおなじなのである。
自殺というのはじつは自殺ではなく、花がその命を終えて散っているようなもの。
散る「とき」が来たら散るほうがよけいな延命を施されるよりもよほどいい。
「青が散る」美しさは「散る」ことによっているのである
しつこいようだが、花が散るのは自力ではなく他力である。
一遍の和歌にこういうものがある。

「さけばさきちるはおのれと散(ちる)はなのことわりにこそ身は成(なり)にけれ」
(咲くときは咲き散るときは散る花、そういう自然の理に自分は従いたい)


いくら自殺したって未遂に終わってしまう死ねない人がいるのを著者は知らないのか?
自分で自分を100%殺すことなどできるはずがないのである。
すべては他力だと信じられたら捨身往生(自殺)を遂げるものは、
彼(女)の宿業ゆえなのだからまったく自力の行ないではない。
一遍は富士川で入水往生したあぢさかの入道を絶賛している。
にもかかわらず、一遍をまるで理解していない博士はこんなことを書く。
今井雅晴氏にとっては一遍仏法は自分が真に「生きる」ためのものではなく、
出世や商売のための道具に過ぎなかったことがよくわかる。

「富士川で入水往生したあぢさかの入道の行為は、
決して誰にでも認められるものではない。
一遍の答えである「たゞ念仏申してし[死]ぬるより外は別事なし」
における〝死”が、単純な肉体的な死でないことは明白だろう。
これを入道は肉体的な死と勘違いした」(P28)


わたしは勘違いしているのは今井雅晴氏のほうではないかと思う。
氏は日本語を読めないのだろうか。一遍はこう言っているのである。

「又云、およそ一念無上の名号にあひぬる上は、
明日までも生(いき)て要事なし。
すなはちとく死なんこそ本意(ほい)なれ。
然るに、娑婆(しゃば)世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、
死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終し損ずるなり。
仏法には、身命を捨(すて)ずして証利を得る事なし。
仏法にあたひなし。身命を捨(すつ)るが是あたひなり。
是を帰命と云(いう)なり」


一遍は法然や親鸞よりもさらに過激な信仰を持ったカリスマだったのである。
いまこの瞬間に死んでもいいなんてやつがいたら、ビビらないものはいないだろう。
この迫力にひかれて一遍につきしたがった男女が時衆と呼ばれる人たちだ。
みんな一遍と一緒にいると楽しくて、思わず踊りだしてしまうものもいたのだろう。
本当に狂ったやつというのはおもしろいし、
深く傷ついた人を癒すのは「逝っちゃった」信仰なのだと思う。
一遍はこの世に生きながらすでにあの世に「逝っちゃった」人だったのだろう。
一遍は教科書にも載っている偉人だから「長生きはやっぱりいいわねえ」
などと言うと思ったら大間違いだぜ、そこのおばさん。一遍は51歳で死んだ。

「一遍上人語録 付・播州法語集」(大橋俊雄:校注/岩波文庫) *再読

→むかし暇にまかせて「一遍上人語録」を百回以上読んだことがある。
そうなると、ほとんどすべて内容を覚えてしまう。
その段階までいって一遍の思想を自分の言葉で書いてみたくなった。
2013年8月4日に書いた「一遍上人語録」の感想が以下である。

「一遍上人語録」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3321.html

ああ、だれもしないでしょうがクリックなんてなさらないで結構ですよ。
うちのブログの最長記事ですから、よほどの暇人以外は読めないと思います。
目が痛くなるからきっと健康にもよくない。
さて、もうあのときの感想ですべてを書き尽くしてしまったような気がするのである。
いまわたしに自信のようなものがあるとしたら、
鎌倉時代のマイナー仏僧である一遍を自分ほど理解しているものはいまいという、
ある種の錯覚(誤解/うぬぼれ)のためといってもよい。

2015年になって「一遍上人語録」について書きたいことはなにかあるのか。
いまわたしは多くの人たちと一緒にアルバイトとして書籍倉庫で働いている。
そうなると一遍の言葉が彼(女)らにはとっては意味がないことに気づく。
わたしが救われたような言葉はほかの人たちにはまったく意味がないのだと思う。
とはいえ、だれも読んでいないブログで語りかけたいとも思ってしまう。
一遍という人はなかなかいいことを言っているのだから。

わかりやすく言うならば、「最後の目」で見てはどうか、と一遍は言っているのだと思う。
難しい言葉をすべてはしょったうえで自分の言葉で説明すれば「最後の目」で見る。
明日ここのバイトを辞めるんだと思って職場の光景を見たらどれほど美しく見えるか。
もうこの人ともあの人とも会わないと思ったら、どんな嫌いな人でも許すことができる。
やたら重いだけのオリコンももう持つことがないのだと思うととても懐かしくなる。

感傷といえば感傷なのだが、一遍の南無阿弥陀仏はそのような感傷だと思う。
究極の真実のひとつは、人はいつ死ぬかわからないということである。
まさかないとみな信じているだろうけれど、
あなたやわたしだって明日死んでしまうかもしれないのである。
明日は来ないかもしれないのである。交通事故、心臓発作、無差別殺人いろいろある。
そう考えてみれば、いまのこの瞬間に見ている光景がどれほど美しく、
ありがたいものに思えるか。
もうこの光景を未来永劫見ることができないかもしれないのである。
そのときいつも行くスーパーの店員、職場の同僚がとても美しく見えないだろうか。
ささいな日常の細かなものがすべて「ありふれた奇跡」に思えないだろうか。

「死」というものを強く強く意識して生きるのが一遍の南無阿弥陀仏なのだと思う。
「死」からこの世を見る。一遍の南無阿弥陀仏とは「死」のことである。
いまのわたしが一遍の思想を一行で要約したら「善悪を捨てよう」になる。
われわれは常に善悪を考えるようにできている。
ついつい善をしたいと思ってしまう。あいつは悪人だと裁きたくなってしまう。
しかし、「死」から見たらなにが善でなにが悪かなんてわからなくならないだろうか。
どうせ死んでしまうのに、あくせく金を稼いでどうする。
どうせ死んでしまうのに、あいつは悪人だから会社を辞めさせろと上に告発してどうなる。
どうせ死んでしまうのに、おれは紫綬褒章作家まで登りつめたと自慢してどうなる。
おれはトヨタの社長だと言っても、あたしは大物芸能人の妻よと言っても、
みなに平等に訪れる「死」から見たらそれがなんになろうか。

しかし、そんなことを言えるのはお気楽な世捨て人くらいというのもまた「正しい」。
人は生きていかなければならないし、
生きていくというのは富や美、出世や健康を求める行為にほかならない。
とはいえ、そういうものをあきらめてしまう生き方もあるのである。
職場のある先輩から人生来歴をうかがい、
この人はわたしなんかよりはるかに
一遍の南無阿弥陀仏をわかっていると感激したものだ。
「わずらわしい人間関係はいやだ」とその人は言った。
一遍が好きだった空也という坊さんの言葉にこういうものがある。

「名を求め[名声・肩書を欲し]衆を領すれば[人の上に立てば]身心疲れ、
功を積み[がんばって]善を修すれば[世間的にいいとされることをしたら]
希望(けもう)多し[この世への期待が大きくなるがどうせ報われない]。
孤独にして境界なきにはしかず[孤独に徹し人と自分を比べないのが一番]。
称名して[念仏して]万事をなげうつにはしかず[すべてを捨てるのがいい]」(P132)


とはいえ、それがなかなかできないのが人間というものなのだが。
一遍だってなんだかんだいって最後には名声を得ているのである。
出世を本当に求めなくなったら出世してしまうようなところがあるのかもしれない。
しかし、どうせ出世したところで人間は孤独である。
結婚したっていくら友人がいたところで人はみんなひとりぼっちだ。
一遍の和歌にこういうものがある。

「おのづから相あふ時もわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」(P59)

人生の出会いや別れが「おのづから」であるという考え方がまずいい。
人に出会ったり別れたりするのは、
偶然でも必然でもなく「おのづから(自然)」なのかもしれない。
そして、どんなにいい人に出会っても「おのづから」別れてしまう。
そうかと思ったら「おのづから」べつの人と出会うこともあるかもしれない。
しかし、結局のところ人間はだれしも「ひとりはいつもひとりなりけり」――。

明日死んでしまうかもしれないと強く思うことだ。
実際そうならないとも限らないのだから。
どうしてみんな自分が平均寿命まで生きられるなんて信じているのだろう。
不摂生な生活をしているから、あと数年くらいだと思っている。
正しくは思っているではなく、あと数年で「おのづから」死にたい。
一遍の思想は、「死」こそもっとも幸いという逆転発想である。
南無阿弥陀仏と唱えたら死後にこの世よりもはるかにいいところに往ける。
そう考えると踊りだしたくならないだろうか。
明日死んでしまうかもしれないと考えたら、
今日会う人たちや目にする光景がどれほど美しく見えるか。
どうせ人は死ぬのだし、死んだら極楽に往けるのなら、
いまの苦しみや辛さなど屁ほどのものでもない。
人はみんな死ぬ。死んだら天皇も社長も富裕層も貧困層も底辺もなーんにもなくなる。

懸命に南無妙法蓮華経と唱えて現世における出世や勝利を求めるのもいいが、
人生長くてもたったの百年で、
死んでからは百年どころではない長い長い時間が待っているのかもしれないのだ。
しかし、南無妙法蓮華経もまたいいと思う。
どうしてたった一回きりのこの人生で幸福を願わずにいられようか。
成功して勝利して人の上に立つのはいい気分だろう。
そっちもまた「正しい」のだと思う。
一遍の思想は「正しい」ことや「善悪」は自分にはわからないというものだった。
なにもかもわからないことを示すために一遍は南無阿弥陀仏と言った。
明日死んでしまうかもしれないのだから、一遍は楽しく笑い、そして踊った。
おそらくAKBの元祖であろう踊り念仏の発案者として広く知られているのが一遍である。

時給850円で単純作業系労働をこなすには、
意識的に自分からロボットになるように努めるのがいちばんいいのかもしれない。
いまの職場に入ったとき笑わないロボットのような人が多いことに驚いた。
しかし、いま思えばあれこそこのような職場で働く「正しい」態度だったのだろう。
言われたことはなんでも逆らわずにそのまま行動する。
とにかくなにも考えないようにして、上から言われたことを忠実に行動する。
ロボットは感情のない作業マシーンのことで、なにも見ない、なにも聞かない。
早く帰されているかわいそうな人を見ても、目にはなにも映っていない。
なにも見ていないのだから考えることもなく罪悪感のようなものも持たない。
ラインできつい間口(持ち場)を振られている人のことも見ない。
帰ってくれと言われたら自分はロボットなのだから命令に従い帰る。
そのようなロボットの魅力をいままでわたしは理解していなかったような気がする。
ロボットになりたい。
雨にも負けず、風にも負けず、どんな命令にもイエスと答える穏やかなロボット。
そういうモノにわたしはなりたい。
いまのバイト先のよさもふんだんにあるのである。
もうすぐ勤務1年近くなるから、会社というものの事情がいろいろわかってくる。
働いている人のいろいろな人生履歴も聞くことができ、本当に勉強になる。
万事において、人生は不平等だ。
わたしは今日強制的に18時半に帰されたけれど(わずか5時間労働)、
9時間、10時間働くことができた古株さんもかなりいたであろう。
今日ある好きなバイト先輩から言われたなあ。
時給950円に取ってもらえたなら、そっちでまず働いてみればいいじゃないですか?
きつかったらここに帰ってくればいいわけだから。
ここはたぶんいつでも雇ってくれますよ。
おなじようなことをもう辞めちゃった人から言われたことがある。
そろそろ人生武者修行に出るべき時期なのだろうか?
ここは登録制だから、いつでも帰ってくることができるのか?
残り少ないだろう人生、いろんな体験をしたいのである。
しかし、ここにも10ヶ月勤めたから、いろいろなことがわかったということもある。
今日なんかもいくつも本ではわからない発見があった。
どうしたらいいのだろう。どちらを選んだらいいのだろう。
わたしには野心と自信がある。
野心や自信のない人のはかりしれない魅力をこの職場で知ったような気がする。
大好きだった恩人でもあるバイト先のサブマネージャーが移動になったことを今日知った。
あの人は人生の恩人のひとりである。
めちゃくちゃ本当のことばかり書いたやばい履歴書を出したのにもかかわらず、
即決でいまの職場に雇ってくれたのがサブマネージャーである。
移動先ではマネージャーだから、出世(栄転)だと信じたい。
あの人にだけは幸福になってもらいたいなあ。
無言の姿勢からいろんなことをお互いに影響しあったような気がする。
「さようなら」を言えなかった。
もう二度と会えないなんて信じられないが、人生はこんなものだったのか。
サブマネのおかげで人生、立ち直ったようなところもあるのである。
どう考えたって伝わるはずがないでしょうが、
新マネージャーとしてご活躍なさっていい人生を送ってもらいたいものです。
われながら感傷的だなあ。しかし、いきなりいなくなっちゃうなんて。
そんなもんなのか、こんなものなのか、人生って。

この感覚は理解されにくいのかもしない。
好きな女に配偶者や恋人、つまりナンバー1がいてもいいのである。
むしろ、そのほうがいいというか。
当方、だれかを独占しようなんていう気はまったくほとんどない。
だって、めんどくさいじゃん。
独占するってことは、独占される。表現は悪いけれど、拘束が厳しそう。
ぼくはバイト先で好きな女性がじつはたくさんいるのだが、
それぞれにいい恋人が見つかったらいいなと思う。
自分が独占したいと思うことはないといってよい。こちらにそんな価値もないし。
こう思うがために、相手の既婚未婚や恋人の有無を気にする感性がわからない。
たとえ大好きな人がいても、
ぼくとわずかながら話をしてほしいと期待するのは悪いのかどうか。
むしろ既婚者や彼氏ありの女のほうが楽でいい。
――ああ、さみしいなあ。しかし、孤独もいいものだ。
むかしお世話になったからアジアの外国人が好きなんだなあ。
これはもうどうしようもない問題で、中国人以外は日本語をしゃべれないような気がする。
中国と日本は漢字で通じているから、
日本語をよくわかる中国人は努力もあるだろうがそもそも恵まれているのである。
しっかし、日本語をわかるベトナム人というのがいない。
だれに聞いても漢字がわからないという。
ベトナム人には意地悪されたこともあるが、
むかし旅した国でもあるので、なにかできたら可能なかぎりしてあげたいけれど、
語学というのはどうしようもなく覚えるどうかの問題なのかもしれない。
他国をどれほど好きになってその言語を覚えるか。
だれかを好きになるのがいちばんいいのだが、
それがもしかしたらもっとも難しいのかもしれない。
日本語さえよく知らないわたしなんかからすると、
かたことでも日本語を話すことができる外国人は偉いと思う。
どうかがんばってほしい。なにかできることがあればとさえ偽善的にも思う。
正直、デートとかまるでわかりませんねえ。
男が女を評判のいい映画や評判のいいレストランに誘う。
どうして評判のいいものじゃなきゃいけないんだろう。
相手に好かれたいからっていうのはわかるけれど、
わたしは評判のいいものやブランドものを偏愛する人は嫌いだ。
そうなると、デートってわからないよなあ。
お互いの趣味(好き嫌い)の寄り合わせみたいなもんでしょう、デートって。
あなたに興味があるから、ちょっとそこらの店で話を聞かせてよ。
これではいけないのだろうか。
居酒屋は高いから、うちで一緒に鍋などをつついたりするのが好きである。
デートで評判の高い店に女を誘う男も、
デートで高額な店でおごられて喜ぶ女も狂っているとしか思えない。
いや、本当に狂っているのはわたしのほうなのだろうが。

相手の好きなものって好きになるよねえ。
いまでは七味唐辛子や鶏の唐揚げが大好きである。
デートってわからないなあ。
世間の評判が高いだけの映画を一緒に見てなにがおもしろいのだろう。
人気レストランで食べたくもないものをお互い食べ、
飲みたい酒も我慢する男女のどこが幸福なのだろう。
おれはおまえの話を聞きたい。
おまえのことを理解したいし、無理だろうがおれのことを可能なかぎり理解してほしい。
それがデートのような気がしてしまう男がもてるはずがあるまい。
男は女のことをまったくわかっていないと断言できるのは、
女が男のことをわかっていないという確信があるからである。
人気作家の中村うさぎ氏の本を読んだら、
女が男のこと(いんや、わたしのことかなあ)をわかっていないので驚いた。
女って男はみんな美人や巨乳が好きだって信じているの(騙されているの)?
女は男の「顔、金、肩書」しか見ないなんて
つね日ごろから恨みがましく書いているけれど、ここだけの話、
人生経験からするとそんなわけないない、ないから、本当にない。
同様、美人や巨乳、性格のよいかわいい子が好きな男ばかりではない。
「江分利満氏の酒・酒・女」(山口瞳/徳間文庫)

→江分利満とはエブリマン、つまり我われ大衆のことである。
名前からは性別がわからないが、
男性作家の山口瞳はみずからを江分利満とおとしめた。
むろん、山口瞳がエブリマン(大衆)なわけがなく、
大企業のサントリーの社員の身で直木賞まで受賞した大、大、大成功者なのだが。
あるいは江分利満ぶるのが成功する秘訣なのかもしれない。
こうして実名で悪口を書けるのは山口瞳がとっくに死んでいて、
ひとり息子のお坊ちゃんも現在ではそれほど権力を持っていないようだからである。

いまは干されているが復活も近いと噂される、
銀座での豪遊が大好きな某大物司会者もとにかく電波上は庶民ぶっていた。
エリートサラリーマンでのちに人気作家になった山口瞳も
銀座で遊ぶのが好きだったらしい。
銀座で派手に遊んでいたところ、
当時の文壇権力者の梶山季之にたいへんひいきにしてもらい、
雑誌連載多数の梶山の鶴の一声で
はじめて書いた小説で直木賞作家になったという(P46、P54)。
自分は小説家になりたいなど一度も思ったことはないと書いているが嘘である。
死後に公開された夫人へのラブレターで異常なまでの作家願望が語られている。
まあ、人間はそんなもんだが、
人生がこうもうまくいく人もいるかと思うと錯覚には違いないがかすかな希望が持てる。

惚れるということがいかに重要か。
山口瞳は梶山季之にひいきにしてもらったから出世できたのである。
梶山季之は山口瞳を好いた。好くとはわけがわからない行為である。
山口瞳も自分の「好き」にたいへんこだわった作家だった。
ナンシー関や中村うさぎの元祖が「男性自身」の山口瞳である。
好きになるとは、どういうことか?

「……私にとっては、焼酎とラーメンのほうが、
フランス料理店のエスカルゴよりも食物としては上等だということになる」(P149)


自分が好きなものを好きでいつづけることがどれほど難しいか。
エブリマン(みんな)があまり好きではないものを、
好きだとこだわりつづけ、どこが好きかを語りつづけるのがどれだけ価値のあることか。
なにかを好きになる、惚れるということがどれほど生きる原動力になるか。
なにかを好きになることのないものはさみしいのではないかとさえ思う。
いまからでも遅くない。自戒を込めながら発言するが、なにかを好きになろう。
だれかを好きになろう。
意図してできるものではないが、だれかに惚れてみたいじゃないか。

「芸術とは何か、小説とは何か、ということも、
古来、くりかえし反問されるのであるが、
同様にして、女とは何か、という設問も難問であると思う。
芸術とは何かという設問では、結局は、惚れてしまえばそれまでよ、
ということで終わってしまうことが多い。
そのあたりも、女とは何かに似ている」(P162)


性別などどうでもよくなりむかし梶山季之は山口瞳に惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものに惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものをもっともっと読みたいと思った。
だから、当時売れっ子作家の梶山季之は
周辺の編集者に山口瞳という男の書くものはすばらしいと吹聴してまわったのである。
この人の書くものをもっと読みたい。
だれかひとりにでも熱狂的に惚れられるというのが作家の才能というものだろう。
好かれるのが才能だと書いたみたいだが、好くのも才能である。
ビジネスライクの正反対の態度が人を好くということだ。人を嫌うということだ。

「壊れたおねえさんは、好きですか?」(中村うさぎ/文春文庫)

→壊れたおねえさんは好きかと問われたら、べつに好きでも嫌いでもないが、
正直なところめんどうくさいのはいやだよなあ。
闇フェロモン過剰な壊れたおねえさんは、
女あつかいに手慣れたイケメンくんにまかせたいような気持がある。
本書で中村うさぎ嬢(お嬢さんというよりただの年上のおばさんなんですが)は
「闇フェロモン」なる言葉を造語していたが、その語感に言葉フェチとして参った。
異性の闇フェロモン(傷、ダメぶり、コンプレックス、トラウマ)に負けちゃう男女は
少なからずいるのだろう。
相手の傷を愛するという表現が本書にあったが、
物語性の弱い人生を送ってきた男女ほど相手の闇フェロモンにやられてしまうのだろう。
健全な大学生のころ柳美里が好きだったのは、たぶん闇フェロモンゆえだろう。
こちらが闇をいっぱい抱えてからは柳美里にまったく興味がなくなった。

好きな女の顔ってあるなあ。
相手が自分に惚れているだろうと確信して、
「あんたあたしのことを好きなんでしょう? 
隠しているつもりでしょうけれど、あたしは知っているから」
と自信たっぷりないたずらっ子めいた女の顔ほど美しいものはないと思う。
あれはぞくぞくっと来るよねえ。
相手の秘密を自分だけが知っているという自信が女を輝かせるのだろう。
秘密をわざとちらりちらり見せるのがもてるコツなのかもしれない。
中村うさぎ嬢(←嬢ってなに?)は長いこと、
タンクトップからブラジャーの紐を出している同性のことを単にだらしないだけ
と思っていたらしい。あるとき真実を教えられる。「このほうが男は喜ぶんですよ!」

「だから私、わざとこうやって、
ごくフツーの下着然としたブラジャーの紐を見せてるんです」(P81)


相手の隠しているものを見てしまうと優位に立ったような気がして
うっかり惚れてしまうようなだらしのない精神を男女ともに持っているのではないか?
このため、本来隠すべきものを意図的にちらちら見せる男女がいるのだと思う。
相手の隠しているものほど見たいものはないのではないか?
そういうものをちらりと見せられると、思わず相手を好きになってしまわないか?
隠すべきものが多い人ほど闇フェロモンを放つのだと思う。
ああ、そうだったらどんなにいいことか。もてたいなあ。
ここだけの話であなただけに白状するけれど、ああ、女からもてたいなあ。
これは絶対に秘密にしてください。お願いします。

「上出来の人生だが・・・・ サマセット・モームの警句とお喋り」(森村稔:編著/産能大出版部)

→在野のモーム好きが、長年こつこつと収集したモームの名言を披露してくださっている。
「儲け」とか「評価」など関係なしに「好き」だけで書かれた本ゆえ非常によかった。
なにかを好きな人が「好き」をただひたすら追求して書いた本のどれだけいいことか。
大衆作家だったモームは無知蒙昧な大衆のことをよく知っていたのだろう。
娯楽作家のモームは大衆のおもしろさをよく知っていた。

「ごくふつうの人間が、作家にとっての沃野(よくや)である。
何をしでかすか分らないし、それぞれ妙な個性もあり、一人一人ぜんぶ違う。
そこに汲めどもつきぬ題材がある。
偉大な人物のすることは、首尾があまりにも整っている。
矛盾撞着に充ちているのは小人物。無限の味わいがある」(P9)


"The ordinary is the writer`s richer field."

わたしはもうほぼ人生が終わってしまった学のない老いぼれの敗残者だが、
モームの言っていることはなんとなくわからなくもない。
いわゆる「作家の目」で見たらごくふつうの人がいかにおもしろいかである。
ときおり突拍子のないことをするし、とにかく思った以上に親切でときに意地が悪い。
動きが読めないというのか、たしかに「沃野(richer field)」なのである。
大衆作家として大成功したモームは、大衆が信じている嘘をすっぱ抜く。
大衆をよく知っているから、大衆の御機嫌など気にせず「本当のこと」を書けるのだろう。
いわく、「艱難汝を玉にす」ほど嘘くさいものってないよねえ。
苦労したぶんだけ人は成長するとか信じているバカが多いけれどあれは絶対に嘘。
これはわたくしごときが言っているわけではなく、
世界的人気作家のモーム先生が繰り返しおっしゃっていることである。

「苦しみ悩むことによって人間は気高くなるなんて世間では言うわね。
そんなの嘘よ。苦しんだ人は、思いやりすらなくしてしまうのよ」(P14)

「人間、苦難に遭って心が洗われるなどということはない。
安楽に恵まれてそうなることは、時にあるけれども。
たいていの人間は、受難の中で心がせまくなり、恨みがましい人間になってしまうのだ」(P14)

「ある一派は、苦悩が人間を気高くする、と説く。とんでもないことだ。
苦悩は人をケチにし、愚痴っぽくし、利己的にしてしまう。
それが世の常である」(P15)


もういいおっさんのためつねにクビになるのを恐れながら、
いま埼玉県某所の時給850円の職場で細々とアルバイトさせていただいている。
東京の住まいからわざわざ埼玉県にまでわずかな賃金を求めて通っている。
成功者のモームの名言といまの自分を引き合わせてみよう。
いまの職場でいちばん思いやりがないのはだれか?
あのバイト先でもっとも心がせまく、かつ恨みがましいやつはだれか?
大勢いるパートのなかでだれよりも愚痴っぽく利己的で自己中心的なのはだれか?
――すべてわたしというほかないのである。
とすると、わたしはそんなに多くの苦難を味わったのか?
そうでもないような気がして、
いまのバイト同僚はどうしてあんなに思いやりがあるのだろう。
もしかしたら時給850円の肉体労働というのはそれほどの苦難や苦悩ではないのだろうか。
英国有名人のモームと日本人低賃金非正規労働者のいったいどちらが「正しい」のか。
バイトから帰ってくると安酒をちびちび飲みながらそのつどいろいろなことを考える。

"The ordinary is the writer`s richer field."

人間はおもしろいが、しかし人生は本当につまらない。
なんにもないのである。芝居っ気のあることはなんにもない。
少し芝居っ気を感じてこちらが動いても、あちらは乗ってきてくれない。
むろん、相手がわたしに対して芝居っ気の不足を嘆いていることもあるだろう。
現実はなんにもない。モーム先生も言っておられるむかしからの真実だろう。

「実人生が、作家に、出来合いの物語を供給することははなはだ稀である。
事実は、しばしば実に退屈なものなのである」(P81)

"It is very seldom that life provides the writer with a ready-made story.
Facts indeed are often very tiresaome."


だから、作家はおもしろいお話、つまり物語をつくるのかもしれない。
世界的なエンターテイメントの作家である英国のモームは言う。

「わたしは楽しんでもらうことを意図している。
……読者に向かって、これこれは実際にあったことだと主張してみても仕方がない。
とりあげる事実は、それらしく見えるものでなければならぬ」(P114)


大衆は「本当のこと」よりも退屈ではない出来合いの物語も求めるものである。
大衆は(あるのかどうかわからぬ)真実など知るよりはるかに楽しみたい。
人を楽しませる言葉をうまく書けるのがエンターテイメント作家ではないか。
だとしたら、以下のモームの箴言(名言)は本当なのか嘘なのか。
わたしはなにやらものすごい真実が書かれているような気がするけれど、錯覚だろう。
わたしのような無学な大衆はモームにこのようにだまされるという典型かもしれない。

「さて、これは人生の不思議の一つであるが、
一番いいもの以外は何がきても受けつけないようにしていると、
その一番いいものが獲得できることがよくある。
つまり、すぐ手に入るものでガマンするなんてとんでもないとがんばれば、
案外、欲しいものがなんとか入手できるようになるのだ。
そのとき、運命の女神はつぶやくのではなかろうか――こいつ、完全なアホウだ、
完全なものを求めるなんて、と。
そして、女神特有のわざとらしい手つきで、
その完成品をヒョイと投げ与えてしまうのだろう」(P90)


こちらの実感では運命は男神ではなく女神で、
あまりもてない男に女神さまはいいプレゼントをしてくれそうな気がしている。
もてる男って底の浅いことが多い(むろん当方の過剰被害妄想的差別発言)。
バレンタインのチョコゼロなんてどうでもよく、ただおれは運命の女神から愛されたい。
だが、むろんのこと、意味不明な無駄な苦しみはごめんこうむる。

「ハノイ挽歌」(辺見庸/文春文庫)

→ジャーナリスト目線っていうのがあるような気がするなあ。
もっとはっきり左翼目線と言ってしまったほうがいいのかもしれないけれど。
どういうことかというと、つまり虐げられたものは美しい。
インテリではない無知なものはその無知がために輝いている。
恵まれている富裕層はおのれの知識を恥じなければならない。
世の中でもっとも光っているものは肉体労働者が流すひたいの汗である。

――こういう発言をするのは決まって体験労働をしているものなのである。
社会見学気分で底辺を味わっているからそういう優等生発言ができるのだ。
本当に明日のメシが食えるかわからない底辺人種にとっては、
ヒューマニズムも親切も思いやりもおそらくなかろう。
経験から申し上げると、下のほうの人はやさしいというのはひとつの真実だが、
それは無知ゆえとも愚かだからとも言えなくもない現象なのだと思う。
最低時給労働者のなかにもやはり人間のクズとしか呼ぶほかない最低のやつはいる。
戦争で殺された人がみなみな善人というわけではない。
戦争で人を殺した兵士がみなみな悪人というわけではない。

生活のために必死で肉体労働をする人の気持を
わかるジャーナリストはほとんどいないような気がする。
なぜなら彼らには「知」があるからだ。
「知」をもって彼(女)らのことをわかったつもりになり、言葉で人を裁いてしまう。
著者は全共闘世代の、現代日本最高権力者のひとり。
まだご存命らしいからうかうかしたことは言えない。
かつてひたいに汗することなく左翼に惹かれたものが、いまの日本を仕切っている。
べつにひたいに汗して働くことが偉いとはちっとも思わないから、それはそれで構わない。
左翼も右翼もそうだが、自分は絶対に「正しい」と思っている人が怖い。
いまの上のほうの老いた偉人先生がたには「正しい」人たちが多そうだなあ。
彼(女)らは幸福なのだろうから、その恵まれたポジションを壊したいこちらは悪になろう。

べつに自分が「正しい」とは思っていない。
ちょっと「正しい」老人が妬ましいとは思うが、不健康な生活ゆえそのうち死ぬ身ゆえ、
なにもかもどうでもいい。左翼も右翼も、どうでもいい。どうにでもなりやがれ。
知ったこっちゃねえ。くそったれ、バカヤロウ!

「季節の中で」(トニー・ブイ脚本/竹内さなみ編訳/角川文庫)

→少しでもベトナムのことを、いやベトナム人のことを知りたいので、
ベトナム映画のノベライズ本を極私的な好奇心から読んでみる。
とはいえ、本書でどれだけベトナム(人)のことがわかるのかも疑わしい。
ベトナム映画「季節の中に」はたしかにベトナムを舞台にした映画で、
監督もベトナム人だがアメリカのにおいがぷんぷんするのである。
監督脚本のトニー・ブイは生まれこそベトナムだが、
わずか2歳のときに一家そろってサイゴン(ホーチミン市)からアメリカに移住している。
このため、トニー・ブイはほとんどアメリカ人と言ってもよいのである。
さらに映画「季節の中で」はアメリカ資本によって製作された作品である。

唯一ベトナムらしさを感じるところは、
編訳の竹内さなみ氏があとがきでばらしていたが映画製作中に
毎日のようにベトナム政府側から厳しい検閲を受けたというところだ。
ここがいちばんベトナムらしい。
日本映画は「売れる/売れない」がもっとも肝心で、
少しはあるだろうが(間接的に)さすがに政府からの厳しい検閲はないだろう。
どうして共産党独裁政権というのは、そういう検閲のようなものをしたがるのだろうか?
きっと「正しい」ものがあると理想を強く信じているからだろう。
宗教に対するような狂信をベトナム要人は共産主義にいだいているのかもしれない。

映画「季節の中で」は、よく知らないが(なら書くなよ!)
むかしの日本のプロレタリア文学(共産主義文学)の
ような香りがする(当方現在鼻風邪あり)。
貧しくても健気に働く若い女性は美しい。
かつての美青年が癩(らい)病(ハンセン病)に侵されてから書く詩こそ美しい。
人間は外見や金ではなく志(こころざし)がいちばん重要だ。
かつての米国兵士がベトナム女性に産ませた娘と再会するシーンで、
庶民や大衆、つまりプロレタリアートは感動すべき、いや感動しなければならない。
底辺のシクロ(自転車タクシー)男性はじつのところ本を読むインテリである。
お金のために富裕層に身体を売る若い女性は「正しい」のだろうか?
貧乏インテリ底辺シクロマンの恋心は通じて、彼は若くて美しい売春婦と結ばれる。

ひとつけっこう強烈な印象に残ったことがある。
われわれはベトナム南北統一などと聞くと、すぐに「良い」ことと思ってしまう。
しかし、実際はそんなかんたんではないことを本書で知った。
北ベトナムが南ベトナムに勝ったとはどういうことか。
南ベトナムの人はそれ以後、冷遇され続けるということである。
どんな知識や能力を持っていてもサイゴン出身というだけで世間から追い払われる。
この映画のトニー・ブイはうまいことサイゴンからアメリカに逃げたのである。
映画監督とわたしの年齢はそう変わりないが、
うまいことコネクションを生かしてベトナム映画を撮影し、いくつも賞を取った。
もしトニー・ブイがあのままサイゴンにいたら、
本当に底辺のシクロ(自転車タクシー)マンになっていたのかもしれないのである。

いま国籍多様な職場でありがたくもアルバイトをさせていただいている。
ベトナムの子に出身を聞くと、どうしてかみんなハノイ近郊出身なのね。
南ベトナムのサイゴン(ホーチミン市)出身の人はおそらくいないのではないか。
ベトナムでは北の人のほうがはるかに社会的身分が高く裕福なのだろう。
ベトナムの人っていったいなにを考えているんだろう。
わからないからそれが魅力になっているようなところがある。
いったいどんな学校教育を受けてきたんだろう。
あの子たちにとってホー・チ・ミンはいったいどういう存在なんだろう。
どうして未知のものはこうも光り輝くのか?
冷戦後の世界でもっとベトナム(人)という存在が注目されてもいいような気がしてならない。

「我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話」(東大作/岩波書店)

→1998年に放送されたNHKスペシャルの書籍化。
ベトナム戦争当時のアメリカ高官とベトナム上層部がハノイで対話をした。
テーマは「我々はなぜ戦争をしたのか」――。
こういう対話があったのを聞きつけたNHK敏腕記者が、
その内容を報道して国民に伝えたいと思った。
ひとりの人が一生で1回できるかできないかの仕事を著者は成し遂げたのだと思う。
とてもわかりやすく、かつたいへんおもしろい書籍であった。
なにかを知ったり発見したりするのってやっぱりおもしろいなあ。

ベトナム人300万人、アメリカ人5万人が死んだとされるあの戦争の真実はなにか?
本当のことを言えば、ベトナムがアメリカに勝ったかどうかもわからないわけである。
だって、ベトナム人はアメリカ人の60倍死んでいるわけだから。
そのうえベトナム兵士がアメリカに上陸して一般人を殺傷したわけでもない。
ベトナムはアメリカに勝ったというよりも、負けなかったのだと思う。
どうして負けなかったのかと言えば、和平交渉の場にベトナムが乗らなかったからである。
戦争における勝ち負けというのは、
要するにいかに秘密裏に敵国と交渉(条件交換)するかの利益分率と言えよう。
ベトナムはこの裏からの交渉におそらくほとんど興味を示さなかったのだろう。
そもそもアメリカにはベトナムの要人とのコネ(人間交流)がいっさいなかった。
落としどころをつけようにも信頼関係のある交渉役がいないのだから仕方がない。
わかりやすい話をすればギブアップだろう。
プロレスや格闘技では「参った」ときにギブアップと言うことになっている。
しかし、相手がそもそもギブアップという言葉を知らなかったらどうだろう?
おそらく、これが小国に過ぎぬベトナムがアメリカに勝ったという真相なのだと思う。

ベトナム戦争の背景にあったのは、アメリカがベトナムをまったく知らなかったこと。
アメリカはベトナムのことをまるでからきしさらさらつゆ知らなかった。
具体的にはベトナムと中国は歴史的にとても仲が悪いことを知らなかった。
おなじ共産主義だからベトナムと中国は親友みたいなものだろうと勘違いしていた。
本当はソ連、中国、ベトナム、それぞれ仲が悪かったのである。
中国はソ連を嫌っている。ベトナムは中国を嫌っている。
ベトナムに数ヶ月滞在したらわかること、ただそれだけのことを知っている人が、
当時のアメリカ上層部にはひとりとしていなかった。
このため、ドミノ理論(ベトナムが共産化したらインドシナ半島全体が共産化する)
などという、いかにもアメリカらしい単純な一見わかりやすげな理論が信じられ、
正義の国であるアメリカが自由のために悪いベトナムを成敗することになった。

アメリカ人というのは気のいい、いわゆる善人が多いのだろう。
怖ろしい本当のことをベトナム人に向けて語っていた。
ベトナム戦争以前、アメリカ人はだれもベトナムのことなど知らなかったと言ってしまう。
ベトナムを世界地図で指せと言われてもだれもできなかっただろう。
アメリカ人はだれもベトナムのことを知らなかった。
ただ共産主義の大国・中国の子分程度の認識しかなかった。
ベトナムの偉い指導者、ホー・チ・ミンは民族独立闘争開始当初、
独立精神にあふれたアメリカに好感を持っていたという。
ホー・チ・ミンはどうか我われの独立運動を支持してくれとアメリカに親書を送ったくらいだ。
しかし、アメリカの要人はベトナムのことなどだれも知らなかった。
このため、ホー・チ・ミンの親しみあふれた手紙を無視してしまった。
庶民レベルの話をしたら、相手が挨拶してきたら挨拶を返したほうがいいのだろう。
このときアメリカが小国ベトナムのホー・チ・ミンに関心を持って
話を少しでも聞いていたら、
歴史に「もし」はないがベトナム戦争は起きなかったのかもしれない。

名著を読んで再認識したが、つくづく歴史というのは「たまたま」の繰り返しなのだと知る。
米国による北爆(北ベトナムへの空襲)のきっかけとなったのはブレイク事件である。
アメリカのお偉いさんが和平交渉などいろいろな選択肢を持ちながら
ベトナムに来たまさにそのときに、南ベトナム軍の要地が攻撃されてしまった。
これでアメリカ人兵士8人が死亡した。
このことへの報復(復讐)としてアメリカはベトナム人を空爆で大量に殺すことを決めた。
アメリカ高官はブレイク事件を北ベトナム軍による挑発だと受けとめた。
しかし、実際のところは(おそらく十中八九これは本当のことだろう)、
ブレイク事件(基地攻撃)は
近くのゲリラ軍がなにも知らないで行なったことだったのである。
アメリカの高官が来ていることなんざまるで知らないベトナム兵士が、
上の命令とかまったくなんの関係もなく、いわばその日の気分で基地を攻撃した。
これがベトナム戦争激化の直接的要因になったのである。
アメリカ軍では上から命令されていない行動は決してしてはならない。
しかし、北ベトナム軍はそれほど指揮系統は成立していなかった。
わかりやすくいえば、北ベトナム軍は「いいかげん」だったのである。
このため大した理由もなく、あるベトナム人がよかれと思ってブレイク事件を起こした。
アメリカはまさにこれこそ北ベトナムサイドの挑発行為とみなし北爆を開始したのである。
なぜなら繰り返しになるが、アメリカ軍においては
上から命令されていないことはしてはいけない決まりになっていたから。
北ベトナム軍はそうではなく、「いいかげん」だということをアメリカ上層部は知らなかった。

ベトナム戦争が泥沼化したのは、いったいどういうわけなのか?
アメリカ人がベトナム人のことをさっぱりまるでわかっていなかったのだろう。
戦争においていちばん卑怯なのは空爆だと思う。
空から爆弾を落として非戦闘員を無差別に殺すというのはさすがにダメだろう。
わたしが政治家や軍部要人でも空爆だけは人として選択できない。
この企画の提案者である、まあ偽善者だろうが、
あるアメリカ人のお偉いさんが言うのである。
自分が自分の責任で空爆をさせてベトナム人を大量に殺したのは、
むしろベトナム人のためなのである。
どうしてベトナム人は同胞がこれほど死んでいるのに和平交渉に乗らなかったのか。
これに対するベトナム人の答えはいさぎよい。
爆撃されているときに和平交渉などしたら、どう民衆に言い訳が立つというのか?
ひんぱんに空襲に来るアメリカなんかと和平交渉できるもんか!

本書にはまったく書かれていないが、
アメリカはおなじアジアだからベトナムを日本とおなじようなものと錯覚したのだろう。
日本はアメリカからさんざん空襲を受けて、原爆まで落とされた。
その結果として無条件降伏を選択して、戦後はアメリカ文化を盲目的に受け入れた。
アメリカはしょせんベトナムなぞ日本とおなじようなものと思ったのだろう。
空爆を繰り返したらいつかギブアップして奴隷的な無条件降伏をするに違いない。
しかし、ベトナムはそうではなかった。ベトナム人と日本人は違う。
ベトナム人が偉いとほめているわけではないのである
(そのような気持もないことはないが)。
自国民が大量に死んでいたら同胞のために「負け」を認めるのもいいのではないか。
広島、長崎のあとにほかにも原爆を落とされていたら日本はどうなっていたか。
ベトナム政治家と日本政治家のどちらが「偉い」のかも「正しい」のかもわからない。
それぞれに「偉い」し「正しい」と思う。
しかし、無抵抗の人間に空襲する米国兵士は「偉い」とも「正しい」とも思わない。

日本人とベトナム人は異なる。
みんなアメリカの動向に夢中だが、わたしはベトナムのことをもっと知りたいと思う。
中国のことも、ネパールのことも、インドのことも、もっと知りたい。
アメリカの卑怯な空爆で自国民が大量に殺傷されているときに、
人命を尊重するのが「正しい」のか、それとも誇りを大切にするのが「正しい」のか、
それはいまのわたしにはわからない。
敗戦時の日本人上層部も、北爆時のベトナム人指導者もそれぞれ辛かったのだと思う。
アメリカ人はあまり好きではないが、
もしかしたら爆弾を落としている飛行機乗りのなかにもしんどい思いをしていた人は
少なからずいたのかもしれない。そうであると思いたい。

「ベトナムロード 戦争史をたどる2300キロ」(石川文洋/平凡社ライブラリー)

→ベトナム社会主義共和国ができた1976年に生まれたものとしては
わからないことばかりなのである。いちばんわからないのが共産主義である。
むろん言葉としての意味は(完全ではないにしろ)わかるけれども、
どうしてむかし共産主義に熱狂する人たちがいたのか、
そして同時にコミュニスト(共産主義者)を過剰に恐れる人があれほどいたのか、
どちらとも本当によくわからない。
わかる話をしよう。身近な話をしよう。
バイト先の中国人の子に先日聞いた。「中国人ってベトナム人が嫌いなんでしょ?」
「どうして?」「だって、むかし戦争をしていたじゃない?」
「日本人こそ中国人を嫌いなんでしょ?」
「そんなことないよ。中国人は好き。むかし旅行したときお世話になったし」
ベトナム人の子には「中国人は嫌いなの?」と気軽に聞けないような雰囲気がある。
こちらの勝手な思い込みだろうが、ベトナム人は中国人よりもちょこっと怖い。

本書は報道カメラマンとしてベトナムに33年かかわった著者の随想である。
いちおうは旅行記のかたちを取りながら、著者のベトナムへの思いが語られる。
おのれのアジア現代史への無知を思い知らされる。
これを読むまでベトナムと中国は歴史的に仲が悪いということさえ知らなかった。
おなじ共産主義だから親友みたいなものだろうと思っていたら、
どうやら実際はそうではないようだ。
そこらへんをアメリカは見誤ってベトナム戦争をおっぱじめたのかもしれない。
著者はベトナム戦争時、現場にいたから現地の声を聞いているのである。
ベトナム戦争のとき、ソ連と中国は北ベトナムに協力したとされている。
しかし、実際はソ連のほうはたしかに武器をまわしてくれたけれども、
中国はその妨害をするようなこともしていたという。
中国はアメリカとドンパチやりたくないからベトナムを南北に分裂させて、
米国の関心を中国からベトナムに移させたという説もあるらしい。
北ベトナムの兵士は民族独立(南北統一)のために戦っていたようだ。
いっぽう南ベトナムの兵士は戦争に負けたら、
ベトナムが中国に支配されてしまうという意識で殺し合いをしていたようだ。
どちらも戦場カメラマンの著者が現場で肌で感じたことだから、
真実と言えばこれほどの真実はなく、反対に噂話程度のものと見下すこともできよう。

日本の戦争責任もすごいよなあ。
沖縄の米軍基地からベトナムに向かった兵士が大量殺戮をしたわけでしょう?
日本は第二次大戦中北ベトナム(ハノイ)に迷惑をかけたのに、
南ベトナム政府に戦争賠償金として140億円を払ったのか。
きっと当時の日本も熱かったのだろう。
いまの我われなんて(わたしだけか?)定職にありつけて、
友人のひとりでもいたら万々歳の世界を生きているような気がする。
結婚なんかできたら奇跡のようなもので、そのくらいしか生きがいみたいなものはない。
しかし、当時は世界平和とか、そういう大きな物語が真顔で語られていたのか。
大きな物語を生きることができたら(デモみたいな集団活動をしていたら)、
個人の孤独のようなちっぽけな問題は消し飛んでしまうのかもしれない。

著者はインテリではなく庶民感覚をお持ちのカメラマンらしく、
このためゲスな言葉が多いのだが、そこがとくにわかりやすくおもしろかった。
第二次大戦で日本が負けて引き上げたあと、中国がベトナムに目をつけたらしい。
このときベトナムのホー・チ・ミンがこう言ったとされるのだが、おもしれえ。

「中国人のくそを一生食らうよりは、フランス人のくそをしばらくの間
嗅いでいたほうがまだましだ」(P55)


ホー・チ・ミンって人のことはぜんぜん知らないけれど、おもしろそうな人だなあ。
本書の著者である石川文洋氏もまたおもしろい人である。
まったく学問的ではないのだろうが、どこか本質を突いた記述をしている。
なるほどと思ったところを列記する。
・社会主義(共産主義)だと金儲けの才能が生きない。
・文学や写真、その他いわゆる芸術の才能があっても共産主義では生かせない。
・共産主義世界のメシはまずいが、資本主義社会のメシはかくだんにうまい。
・ベトナム、ラオス、カンボジアは国境を接しているが実は似ていない。
・メシを食えばそれがわかりベトナムは中国料理、
ラオス、カンボジアはインド料理やインドネシア料理の影響が強い。
・ポル・ポト政権のあれは中国がカンボジアで起こした文化大革命。
・南ベトナムの高官は偉そうだったが、北ベトナムの指導者は質素で素朴だった。

我われは本当にベトナムのことをよく知らない。
以下に引用する、この程度の歴史さえ知らない
(知ってもすぐ忘れてしまう)人ばかりだろう。
どうして我われは他国のことに興味を持たないのだろう。
まあ、それは忙しくてそれどころではないからなのだが。それで構わないのだが。
日本のささいな歴史を知っている在留外国人さえそれほどいないような気がする。
そもそも日本人でさえあまり興味を持たない日本の歴史を
外国人が知りたがるわけがない。ベトナムの歴史なんか知ったってねえ。

「ベトナムの歴史は、まず千年におよぶ封建中国の支配に続いて、
九三八年、ゴ・クエン(呉権)が独立をかちとってから約千年は内乱の時代、
一八八四年から一九五四年のジュネーブ協定までは、
主としてフランスの植民地支配と独立戦争の七十年、
そしてさらに抗米救国の戦争が二十年続いて、
カンボジア三派連合、中国との対立の時代になる。
本当に落ち着く間のない歴史である」(P128)


こうして書き写していて気づいたけれど、ベトナムってすごい国じゃないか?
というのも、中国に勝ってフランスに勝って常勝のアメリカも打ち負かしたのだから。

※ベトナムに敬意を表して本日ブログカテゴリーに「ベトナム」を追加しました。

「エゴイスト入門」(中島義道/新潮文庫)

→哲学者の中島義道の一般向けエッセイを読む。
ろくな大学教育を受けていないから(授業中は寝ていた)これは間違いだろうが、
哲学とはたぶん自分のあたまで考えたことを自分独自の言葉で語ることなのだと思う。
なんだ、そんなこと、みんな当たり前のようにしているじゃないか
と言われるかもしれないが、本当に自分のあたまで考え尽くしたことを
自分独自の言葉で語ることほど難しいことはない。
わたしも含めてほとんどの人が他人(あるいは多数派)の考えたことを
さもあたかも自分の言葉のように偽装して語っているに過ぎない。
考えるためには疑うちからが強くなければならない。
しかし、この世の中のことはいったん疑い始めると、
蜃気楼(しんきろう)のようなものだと気づいてしまい強烈な不安に襲われる。

このため、人は新聞やテレビにすがりつく。
新聞がなぜ「正しい」かと言えば、大学教授や有名作家が寄稿しているからである。
ひっくり返せば、大学教授や有名作家の偉さ「正しさ」もまた新聞が保証している。
先日、朝日新聞記者と朝日賞脚本家の対談を拝聴する機会に恵まれたが、
この構図こそまさに権威なるものを象徴(具体化)していると感激したものだ。
どうして新聞に書いてあることは「正しい」んだろうと疑うのが考えるということだ。
どうして大企業のトップの言葉は「正しい」のかと疑うのが考えるということだ。
東京大学教授の言葉が「正しい」ことになっているのは、
いったいどういう仕組みのためか。
こういうことを考え(疑い)始めてしまうと世界観が崩壊してしまうはずである。
「犯罪者は悪い」という社会の常識通りの言葉を発していたら安心だ。
村八分に遭うようなこともない。
文系の研究は「他人の言葉」(偉い人の言葉)をうまく接着融合させることだろう。
偉人の引用や参照をしつこく繰り返し礼儀を守ったうえで、
ところどころに自分の考えらしきものを挿入するのが研究論文なのだと思う。

中島義道は朝日新聞に寄稿を依頼されたという。
経済学者が女子高生のスカートの中を手鏡で覗いた事件についてだ。
そこで中島は覗きはたしかに違法だが、人間としては正常だという文を書いた。
これはもっともな話で性的趣味は人それぞれだが、
女子高生のスカートの中を覗きたいという欲望は男性多数派が共有するもの。
ならば、異常ではなく正常な感覚である。
ただし違法であることを知っているから処罰を恐れてみなしないだけだ。
この延長で中島は強姦もまた違法だが、異常な行動ではないと本書に書いている。
さて、話を朝日新聞に戻すと、
スカートの中を覗き見するのは人間として正常な行為、
と書いた記事はボツになったという。
「善良な市民の代表」たる朝日新聞にそういう記事は掲載できない。
中島義道はべつに「言論の自由」などをふりかざして怒るわけではない。
新聞とはそういうものだと自分の言葉で新聞を定義するのみだ。

「新聞の社会的役割とは、決してナマの真理を伝えるものではない。
さまざまな事象を取捨選択して、みずからの信ずる価値や理念の実現を目指すこと、
その理念に反する事実は、断固排除することである」(P18)


とはいえ、中島義道の言葉が絶対的に「正しい」わけではない。
ただ中島は自分で考えたことを自分の言葉で語っているからおもしろいのである。
わたしの考えでは、スカートの中を覗き見る男は正常だが、
強姦をする男は異常に思えてならない。
中島義道はみんなが自分のようにレイプ願望が強いと思っているのだろうか。
「正しい」の類似語は「多数派」だから、これは統計を取ってみるしかないが、
しかしいくら無記名のアンケートでも「強姦したい」と答えられる人は少ないだろうから、
結局のところ真理(真実)がどうなっているのかはわからない。

自分のあたまで考えたことを自分の言葉で語るのが哲学ではないか、と書いた。
これはわたしが中島義道や河合隼雄から教わったことだ。
自分のあたまで考え、自分の言葉でそれを語るのがどれほどおもしろいか。
とはいえ、言葉の持ついかがわしさにも中島義道は言及する。
絶対的真理のひとつとして「他人の痛みはわからない」ということがある。
しかし、「痛い」という言葉が発明され共有されてしまった。
ある身体現象を「痛い」という言葉で表現するというルールができてしまった。
このため、人はあたかも他人の痛みがわかるような錯覚に襲われるのだと中島は言う。
それはたしかに中島の言う通りだが、そうでもないぞという気もしている。
人間にはその痛みをどのように痛いか細部にわたって表現するという、
言語能力に恵まれたものが少数ながら存在するのではないか。
さらに言葉を介さない感情交流というのもまた存在するような気がしてならない。
このあたりを専門にやっていたのが臨床心理学者の河合隼雄だったのだろう。

偶然に尋常ではない興味を持っている。
なぜなら、人生を決めるものの正体はあるいは偶然ではないかと疑っているからだ。
本書に偶然に対する中島義道のおもしろい考えが書かれていた。
人は偶然に遭遇したときに運命や神秘的なものを感じることが多い。
だが、偶然は人工的につくることもできないことはない。
たとえばAさんが海外で偶然に知り合いのB子さんに逢ったとする。
これはAさんにとっては偶然である。
しかし、B子さんがAさんがどこにいるかを知っていて逢いに行ったのなら、
Aさんとの出逢いはB子さんにとっては偶然ではなく計画的である。
この後、AさんとB子さんが結婚したとしたら、
AさんはB子さんのワナにはまったことになる。
意外とこういう偶然のワナを用いて
意中の男性を捕獲した女性って多いんじゃないかなあ。
待ち伏せしていたのに偶然を装って運命の女神のするような化粧を出逢いに塗りつける。
これはうまく使えば人生を好転させる裏ワザかもしれない。

人生すべてにおいて成功した中島義道さんの悪口も最後に書いておこう。
人の悪口っておもしろいもんね、にゃはっ。
中島義道はいわゆるクレーマー体質なのだろう。
ウィーンの日本料理屋で天ぷら定食を注文したら鶏のから揚げが出てきたらしい。
ものすごい剣幕で激怒する東大卒の哲学博士である。
恐れをなした店側は特別の魚料理を博士に提供する。
女性店長もクレーマー対策として「先生、先生」と中島に挨拶に来たという。
著書多数の権力者を怒らせたら怖いから、
女将は帰りぎわお土産に夜食のおにぎりまでベストセラー作家の中島に渡した。
このときの中島の感慨に吹き出してしまった。

「ならず者は[中島のこと]、旅先での思いがけない親切についほろりとする」(P85)

偉い大学の先生って世間のことをまるで知らないのだろうか。
この夜食のおにぎりは「親切」ではなく「クレーマー対策」もしくは「賄賂」でしょう?
めんどうくさい客が来たけれど、いろいろ言い触らされたら迷惑だなあ。
だから、ふつうの客にはしないサービスを中島義道にだけしたのである。
それは99%「親切」と呼べるものではない。
中島義道もあんがいわかっていたのだろうか?
ちゃんとウィーンの日本食レストラン「優月」と名前を書いて本書で宣伝しているのだから。
新聞に悪口を書かれたら終わりだから、
むかしはみな新聞記者にはサービスしたという(いまはどうか知りません)。
有名作家が旅先の旅館などで特別待遇を受けるのもおなじことである。
中島は本書で有名人は「天真爛漫」な人が多いと書いていたが、
特別なサービスや好意ばかり周囲から受けたらだれしも人が好くなろう。
中島義道さんの一般書はいろいろ発見があっておもしろい。
「正しい」のかどうかはわからないが、おもしろいことはわたしにとってはたしかである。

定期的にバイト先のウェブ募集要項はチェックしている。もちろん、好きだからだ。
どうしてか(しら?)ここはいつもバイト募集を出している。
ストーカーのように思われたらいやだが、
バイト先の企業情報は可能なかぎりチェックしている。
それだけおもしろい会社なのかもしれない。
先日1日だけの(日雇い)派遣さんに聞いたら派遣業界でこの職場はちょー人気とのこと。
めったに入れないほどの人気の派遣枠らしい。サブマネ、感じいいから。
そういえばわたしも派遣から人に惹かれてここのバイトになりました。
明日はシフト表に働きたいと入れていたが、
休めという絶対命令がくだった(というのは嘘でだれにも言われていません)。
貼り紙に書かれていたのみ。
どの正社員だって非正規雇用者に
「この日は休んでくれ」なんて口頭で言いたくありませんよね。

1月も強制休日命令はあったが、そのむね昼礼で日本語で説明されていた。
2月はないのかと思っていたらこれである
(これは当方の過誤で広く説明されていたのかもしれない)。
前回出勤日の帰宅間際にふと休憩室のシフト表を見て知った。
明日は休みなのかと。休まされるのかあ。
一瞬の偶然であの貼りだされたシフト表を見なかったら明日も定時に行っていただろう。
そこで帰れと言われたら幼児性過多の当方のこと、
ブログになにを書いていたかわからない。
どこの企業もそうだろうが、
うちの会社も(どこの企業もしているだろうけれども)法律違反を多々している。
本気でそれをばらしたら業界が変わるだろうが(←いんや、もみつぶされて終わりですよ)、
いまのわたしはそういうことをしたくない。
お互いさまと思うからだ。お互いあまり「正しい」ことを言うのはやめましょうや。
どうかいつまでかわかりませぬがこれからも楽しく働かせてくださいませ。