経済学のことなどまるっきりわからないからねえ。
身近な世界のことならば、少しだけ理解できなくもない。
いまの資本主義世界の企業は目先の損得ばかり考えていると言えなくもないのだろう。
いまのバイト先の書籍雑誌物流倉庫は例年年末が忙しいようなのだ。
忙しい時期に人がいなかったら困る。
人がいなかったらどうしようもなく日雇い派遣を取るしかないが、
彼(女)らはとにかく高額だし経験がないから効率も悪い。
だから、忙しい年末のために時給850円で使えるような
安い人間を雇っておけということに資本主義経済的にはならざるをえない。
日本語をほとんどまったくわからないような外国人女性でも、
日雇い派遣よりは使えて安いから目先の利益、
つまり年末繁忙期のことを考え雇用する。それが資本主義経済だ。

年が改まり新年になったらがらりと仕事が減る。
しかし、人員は多い。
日本語がわからない外国人は日本独特の遠慮の文化を知らないから、
こんな職場でもシフト希望の通りに入れるものと思っている。
上も下も世界にはないだろうが、あまり上とも言いにくい職場だ(環境はとてもいいが)。
外国人女性はどうして正規の勤務時間通りに働けないのか、
早く帰らされてしまうのか(稼げないのか)日本語が不自由なためわからないだろう。
去年の年末ニコニコしていた新入り外国人女性さんが、
今日はとても不安におびえた目をしていた。

だがしかし、それが資本主義経済というものだと思う。
目先の利益しか考えないで人を使い捨てにせざるをえないのが資本主義経済だ。
わたしだってベトナム人女性の代わりにわたしが帰らされたときには、
え? え? え? わたしはあの子より価値がないのと本気で絶望した。
いまの職場では日本語がまったくできないベトナム女子よりも、
このわたしのほうの価値が低いと見られることもある。
それは協力関係でわたしが4時間働いたら、
ベトナム女子も3時間働かせるというようなものだと
あたまがいい(?)ので納得できなくもないのだけれども。
究極の答えは、いやならば辞めればいい。代わりはいくらでもいる、になるだろう。
そういう職場はいくらでもあるのだろうが(経験あり)、いまのバイト先はそうではない。
だから、こうして働いているのかもしれない。

だれかが得をすることでだれかが損をする。
だれかの幸福はだれかの不幸。
これはわたしが大好きだったスウェーデンの文豪ストリンドベリの世界である。
いまの職場は冷徹に観察すれば、ストリンドベリの世界だ。
しかし、ストリンドベリの陰惨陰鬱な世界とは異なりどこか明るいところもなくはない。
こんな世界があったのかと思う。
ベトナムが社会主義ながら資本主義にも対応すべく努力しているように、
わがバイト先も資本主義経済のなかで
どこかむかしのアカ(社会主義)のあたたかさを目指しているような気がしてならない。
現代では社会主義はなかば否定されているようなものだが、
資本主義にはないあたたかさがあったのではないかと変なことを思った。
人間はミスをするものだが、そしてミスを隠したがるものらしいが、
さっきした仕事のミスをだれも興味がないでしょうけれど白状しよう。
いま書籍雑誌の物流倉庫でアルバイトとして雇っていただいている。
いろいろ作業はあるらしいけれど、入庫という苦手なものがある。
単純作業なので単純に説明するが、
本や雑誌の数を黙々とかぞえてオリコンと呼ばれるプラスチックの箱に黙々と入れ、
それをコンピュータに正しく登録して黙々とベルトコンベアに流す時給労働だ。
たとえば、このオリコンには4束(本や雑誌は束になっている)を入れましたよ、
とコンピューターに登録して流す、
まるでコンピュータさまに使われるようなロボット以下の作業だ。
先ほどこれは4束入るだろうと思って4束を入れ、かつ入力してオリコンを流した。
なにやら次は(束ではない)端数を入れる決まりらしく
(これは間違えてもいくらでもごまかせる)、
端数を入れようとしたらコンピュータの表示と実際の数字が合わない。
実際は1束40冊だったのだが、ペーパー(コンピュータ)上は1束80冊になっていたのだ。
こういうことがたまさかあるので注意しましょう、
とは先輩バイトさんから何度か教わっていた。
しっかし、気がつくかよ、そんなもん。
バイト先で入庫時間数は極めて少ないが、いままでそんなことはなかったし。
今回このミスをしたのははじめてだが、絶対にまたしないかと詰問されたらわからない。
ところが、馴れのせいか適性のためか、
こういう細かな数チェックがお上手な人もバイト先にはたくさんおられるようなのである。
優秀な人っているんだなあ、と思う。

本をたくさん書いているような人優秀な人は、
われわれの骨折りをわかっておられるのだろうか?
あなたのお書きになったたいそうすばらしい(?)ご本を、
わずか時給850円で日本全国にまわしている善男善女(わたしは例外)がいるのだ。
今日はピッキングの持ち場に泣きたくなるくらい重たいフカキョンの写真集があった。
フカキョン死ねよとはまさか思わなかったが、
フカキョンは好きではなかったが、よけい好きではなくなった。
いまのネット全盛のご時勢、重くて場所を取る女優の写真集なんて買うやつがいるのか。
あれは増刷かもしれないからなんとも言えないが、
うちの倉庫では○○○冊(クビになりたくないから企業秘密は守る)だったから、
大して売れることを見込まれていないのではないか。
いま調べてみたら増刷だったから売れているのか、ムカムカ(←どうして怒る?)。
フカキョンなんておばさんのどこがいいのかと、おっさんは言ってみる。
まったく人生って不平等だよなあ。
いまの職場には私見ではフカキョンよりもきれいな人がいるのに時給850円だ。
わたしよりもはるかに優秀な男性がたくさんいるのに時給850~900円だ。
なんなんだ。いったいなんなんだ、この世界は。バカヤロウ、バカヤロウ!
むかついたのでいまからひとりカレー鍋をつくって食べます。
最近、うちに来てくれる人がいないのですっかり料理をしなくなってしまった。
あのね、カレー鍋ってさ、鍋スープにカレールーを追加するとうまいんだぜ。
カレー鍋に豆腐を入れても不思議、どうしてか合うから一度お試しください。

(追記)フカキョンの写真集が重かったと書きましたが、あのくらいの分量なら楽勝っす。
よくさあ、成功者が得意顔でさも人生わかったような顔をして言うじゃないじゃないですか。
好きなことだけやっていろ、とか。
他人の迷惑なんて考えずに好きなことをやれるのが才能だ、とか。
ふつうの人は世間体とか親の期待とかあるから、好きなことは続けられないでしょう。
好きなことなんて続けていたら一生下積みで終わるかもしれないわけだから。
下積みっていっても平社員なら正社員だからまだいいほうで、
「失楽園」の渡辺淳一が書いていたけれど
「老人になって地位も金もないのはみじめで悲惨」というのは本当の真実だと思う。
しかし、成功者は好きなことをやれと言う。
マイクロソフト元社長の成毛眞さんとか、「痛くない注射針」の岡部雅行さんとか、である。
たいていの人は好きなことをあきらめて遅かれ早かれまっとうな人生へ戻っていくはず。
平凡というのは思っている以上に輝かしい存在だと思うのだけれど、
平凡がいやになって自己啓発書を読む人が現われる。
結果、成功した人だから言える「好きなことをやりつづけろ」という言葉にぶつかる。
で、自分は好きなことをあきらめたからダメだったんだと変な後悔をする。
でもさ、あれは成功者だから言えるきれいごとなのかもしれないのである。
たとえば先日読んだ成毛眞氏の成功本「このムダな努力をやめなさい」から。

「人生は楽しんだもん勝ちだ。
苦労も自虐ネタにするならいいが、
どっぷり浸かってしまったら人生をムダに消耗してしまっている。
どれだけ人を楽しませるネタをそろえられるかが人生の最優先課題だ、
と私はかなり本気で思っている。
資格や肩書も墓場までは持っていけないのだから、
素の自分でいかに人の記憶に残る人生を送れるかが重要なのだ。
興味がある事なら何でもいい。たとえば能に興味があるのなら、
観に行くだけではなく、自分で能楽教室に通うのもいい。能面を作る教室もある。
好きなことを深く追求する。
そのほうが楽しいに決まっている。
それこそ今、やるべきことなのである。
やがてそれが自分の武器となるかもしれない。
自分の身を助けることにもつながることはあるだろう」(P39)


人気ビジネス書の「プロ論。」の成功者たちもみな似たようなことを言っている。
うちのブログのカテゴリー「通俗成功哲学」をご覧いただいたらおわかりになるよう、
成功者はとにかく「好きなことをやれ」と言うのが好きである。
でも、好きなことを続けていて成功できるのはほんのひと握りじゃないですか。
ある面では有害でしかない言葉だと思う。
ふつうのビジネスパーソンはこういう甘い言葉に気持を揺さぶられるはずだ。
けれども、まじめに働いていたら好きなことなんてする時間があるわけがない。
逆なんじゃないかと思うね。
たたただ平々凡々にまじめに誠実にいい人たるべく働いているだけで偉いのではないか?
好きなことなどせずにいやな仕事を黙々とこなしているだけでも十分に偉いのではないか?
なんの輝かしい履歴を持たずとも結婚して子どもを育てている、
それだけで立派ではないか?
みんながみんな好きなことをする必要なんてどのくらいあるのだろう?

ただ平凡に生きる人の小さな喜びや悲しみ、小さなかなわぬ恋や小さな嫉妬による意地悪、
取るに足らないけれど本人には大事な失意や落胆、後悔、
小さな会社における出世欲、その成就あるいは断念、
できの悪いわが子への期待とその裏切り、つまりそれぞれの人生における
それぞれの人の小さな発見を丁寧に描いたのが山田太一ドラマであったと思う。
平凡な人生でも十分生きるに値する輝きを持っていることを描いたのが山田太一ドラマだ。
しかし、あれはどの程度リアルなのだろうか。完全な作家のフィクションなのだろうか。
現実ってなんだろう。他者の現実ってどうなっているんだろう。
「好きなことをやれ」という成功者のメッセージよりは、
山田太一ドラマのほうがいまのわたしにはリアリティがある(人それぞれでしょうが)。
成功者の金言と山田太一ドラマのいったいどちらが
自分にとっても真実なのかはまだわからない。
どっちが本当なんだろう。まだわっからねえ。
「本当のこと」はどれも実際に生きてみないとわからないことばかりなのだろう。
そして「本当のこと」や「人生の真実」は人それぞれでどれも「正しい」のだと思う。