芝居の世界では悪役は最後には負けると決まっているのである。
職場でもサークルでもかならずみなから嫌われている悪役がいるのではないか。
人びとは悪役の噂話や悪口で盛り上がりながら、あいつさえいなくなればと願う。
しかし、現実は悪役がそこにいるからこそ、
退屈な人生でわずかながら劇的な昂揚が得られている。
実際にその悪役がいなくなったらきっと味気ないものだと思う。
あいつを追い出すという目標のために感じた連帯感はもうない。
いざいなくなってしまうと数日も経てば勝利ムードも失われることだろう。
職場やサークルの雰囲気は元に戻り、
みながだらだらとした芝居っ気のない倦怠を感じるようになる。
けれども、だれも口に出しては言えないだろう。
いなくなった悪役が退屈な日常の劇化に大いなる役割を果たしていたことを。
じつのところ悪役というのはありがたい存在なのである。
あいつさえいなければ、ではなく、
あいつがいるおかげで連帯や親近感が生まれるのだから。
悪役(悪口の対象)がいなかったら、あなたとだれかをつなげるものはない。
悪役に感謝しよう、なんてことは口が裂けても言えないが、
悪役を追放したら本当にそこはバラ色の世界が待っているのかどうか、
ちょっと疑問視してみるような視点もあってもいいのかもしれない。
と悪役志願だが、うまく悪役をこなせているかもわからない、プチ悪役が言ってみた。
「泥まみれの死 沢田教一 ベトナム写真集」(沢田サタ/講談社文庫)

→戦場カメラマンのベトナム戦争写真集である。
国際的に評価されている戦場カメラマンらしいが、どの写真のよさもわからなかった。
しかしそもそも写真の審美眼のようなものはないので、
だからどうこうと言うつもりはない。
早死にはしたのだろうが、世界の名誉ある賞をいくつも取るなんてうらやましいなあ。
沢田教一の顔写真を見ると、いかにも功名心のかたまりのような嫌いな風貌だ。
わたしの人生にはそういう彼のような輝かしいことはもうないのかしら。
すっと危険な世界へ入っていけるような投げやりな自棄の精神は持っているけれど。
写真は真実を伝えるって言うけれど、
文章も写真も映像もなにも真実など伝えられやしないと個人的には思っている。
有名な戦場写真にはどれもヤラセ疑惑があるらしいけれど、
そもそも写真は真実を伝えるものではないと思っているので構わないと思う。

そうそう、1枚も心に残ったものがないこの写真集を見て思ったこと。
戦争って男がするもんなんだなあ。
十字架の写真が幾枚かあったが、
米軍兵士は自分たちが「正しい」と思っているのかと本気で驚いた。
またまあ、自分(たち)が「正しい」と思っていなかったら人なんか殺せないわけだが。
「正しい」というのは戦争を作る根本原因で悪魔のような論理なのだろう。
だが、その悪魔の価値判断「正しい」を、
われわれは小中高(人によっては大学でも)と教わってきたのか。
いや、洗脳されてきたと言ったほうがいいだろう。
なにが「正しい」か次の選択肢の中からひとつ選びなさい。
そして「正しい」を多く選択したものほど上の学校、
上の会社に行ける社会構造になっている。
「正しい」を数多く選択したものほど優秀だという価値観を幼少時から植えつけられている。
「正しい」ものがひとつかならずあるというのは真実ではない。
どっちも「正しい」かもしれず、どっちも「正しい」わけではないかもしれず、
そもそも絶対的に「正しい」ことなんてこの世には存在しないのかもしれない。
そんなことを言っちゃあ戦争ができなくなるが、それでいいのだろう。
男の子って「正しい」ことを言いたがるよね。
女の子は「正しい」ことよりも実利を取るというか。
わざとバカなふりをしたほうが男にもてることがあるのを女は知っている。
だから、戦争は男がするのだろう。みんな男なんてやめたらいいのにね。

「図解雑学 男が気になる女のからだ」(松峯寿美/ナツメ社)

→松峯寿美医学博士は本書で女は重いものを持てないとは書いていなかったが、
ぼくは男の子として生まれてきてしまったのだから重いものを持とうと思った。
女が重そうなものを持っていたら、ぼく持ちますよと言う男になりたいと思った。
なぜ? とか理屈を言わず社会制度がそうなっているのだからこれは仕方がない。
男は男なんだから、女は女なんだから、である。
ここで思考をストップして、その先を考えようとしてはいけないのだろう。
社会のタブーのようなものに触れかねないって大げさかしら?
本書から学んだことを列記する。
・おっぱいの正体はよくわからん。
なんであんなもんが女の胸についているのかはわからん。
・割礼はクリトリスを切除することで、一説では性欲防止対策とされている。
・あそこの横ヒダは精子を放出させる役割を持つ。
・男性ホルモン、女性ホルモンのホルモンってのが結局なんなのかわからなかった。
・フェロモンは異性を惹きつけるために体外に発散している匂いのこと。
・あれのとき女は膣で感じているのではないらしい。
・男女を産み分けるパーコール法というのがあるけれど日本では原則禁止されている。
・女の脳は男よりも小さい。
・なぜ男女という性別が存在するのかはわからない。
まあ、いろんな人がいたほうがいざってときに環境変化に耐えられるからじゃないか。

「曾根崎心中」(近松門左衛門/信多純一:校注/新潮社) *再読

→読み返してみたら、え? そんなもんで死んじゃうのって話だよな。
それからおっぱいのパワーは偉大ということ。
久しぶりに逢った徳兵衛(25歳)とお初(19歳)のやりとりがおもしろい。
徳兵衛は丁稚あがり、いまでいう新入社員みたいなもの。
お初は遊女。遊女ってホステス? 客と寝るキャバクラ嬢みたいなもんか。
さてさて遊女のお初は、
どうしてこんなに逢いに来てくれなかったのと延々と嘆くのである。
そして、もうさみしくて病気になってしまいそうと言って、
ほら見てちょうだいとお初は徳兵衛の手を取り懐に入れる。
あたしの心臓の音を聞いて、と男の手を自分の胸に当てるのである。
こんなことをされたら男はどうなるか女は知っているのである。

徳兵衛ってやつが弱いんだなあ。ちっとも男らしくない。
親友に急場の金を貸してくれと頼まれ断り切れず、
かならずすぐ返すという文言を信じて会社の金を渡してしまう。
しかし、期限を過ぎても返してくれないのであわてている。
よりによってお初と一緒にいるときに、徳兵衛は金を貸していた親友一行と行きあう。
金をだまし取られたことを知って徳兵衛は怒るが逆にボコボコにされてしまう。
愛する女の目のまえでみっともなくも袋叩きにされるわけである。
挙句、道ばたでわんわん大声をあげて泣くような徳兵衛は弱い男である。
なぜふたりは心中したのか、再読だから注意して読んだら主導者はお初である。
遊女のお初がやたら死にたがっているようなところが見受けられた。

「死ぬる覚悟が聞きたい」(P93)

これは男ではなく女が言っているのである。
強い女に死出の旅に誘われた弱い男はうなずく。
正義を証明して金を取り返そうとするのではなく、弱々しく女と死のうと思う。
徳兵衛の死の覚悟を聞いたお初はこう返す。

「オオそのはずそのはず。いつまで生きても同じこと。
死んで恥をすすがいでは」(P93)


死んじゃえばなにもかも終わりというのは本音過ぎる本音なのである。
いまどんなに苦しくても辛くても寂しくても死んでしまえばすべて終わり。
がんばっている人たちが意地でも認めようとしない人生の究極の真実である。
それにどうせさ、熱愛して結婚したって、そんな愛は数年もすれば冷めるわけだ。
だとしたら、心中というのがいちばんきれいな幕引きなのかもしれない。
いま思ったけれど、「曾根崎心中」ってまんま野島ドラマ「高校教師」だよな~。
「どうせ死んでしまう」や「死ねばすべて終わり」は不謹慎な真実のひとつである。
なんとかみんなそこをうまくごまかして生きているわけだが。
仕事や家族、趣味に生きがいを見いだして、なんやかんやと生きている。
でもさ、男だったらお初みたいな子に誘われたらふっと死にたくなるよねって話。
男らしく強く生きるのってしんどいっちゃあ、しんどいわけだから。
もう男やーめた、人間やーめた、と思いたくもなるさ。
その手があったか! 
ということを芝居を見て思い出し、われわれはまた退屈な日常生活に戻っていく。

(参考記事)過去のどうでもいい感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1570.html

「桂川連理柵」(菅専助/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」はそれなりに有名な作品らしい。
もしかしたら芝居の原形というのは人の噂話ではないだろうか?
学生なら部活やサークルの噂話がじつのところお芝居のもとになっている。
どこの部活やサークル、会社でもそう。もてる優秀な男というものがいるものである。
当然彼に嫉妬するものもいるが、当人は恵まれているゆえ性格もよくあまり気にしない。
もちろん、そういう部長クラスには正式な彼女がいるものだ。
そのうえ、彼を慕っている下級生や新入りの女子もかならずいるのである。
で、新入りは身体を使って優秀な男を誘惑するようなことを女の本能としてやらかす。
すぐに噂は広まり、サークルの仲間同士が集まると
あれはどうなったという話で盛り上がるわけである。
女はとにかくこの手の噂話が好きなようである。芸能人のゴシップとかもそう。

お半という14歳の美少女がこの芝居のヒロインである。
かなり注意して読んだつもりだが、彼女の身分がよくわからなかった。
たぶんこの呉服屋に養女待遇であずけられた娘なのだと思う。
いまお半は呉服屋主人の長右衛門および使用人一行と参詣の旅をしている。
長右衛門は38歳。一家の主人で妻がいて、遊郭には愛人までいる。
まあ成功者と言ってよいだろう。かなりの果報者なのは間違いない。
深夜、旅先で寝ている長右衛門の枕元にお半が近寄ってくる。
主人がどうしたのかと聞くと、少女は困っているという。
夜ごと使用人の長吉が寝ているお半の蒲団に入ってきていやらしいことをするのだという。
長吉はまだ20歳にもならぬ男だから、いまが性欲の盛りなのだろう。
お半は長右衛門に泣きつく。長吉のやつ、このごろは無茶をするようになって、
もう京都に戻る時期だからとさっきなんか最後までやられてしまう寸前だった。
まあ、こういうことを男に相談する女は無意識的にセックスアピールをしているのだろう。
14歳の少女でも女は媚態の作り方を知っているものである。
お半は長右衛門にお願いする。長吉が怖いからおなじ布団で寝かせてください。
さてさあ、長吉は寝床にお半がいないのでいぶかしむ。
今晩こそまだ男を知らないお半を女にしてやろうとの意気込みたっぷりである。
もしやと思って長右衛門の部屋に行くと小さなあえぎ声が聞こえるではないか。
長吉が障子の穴から部屋のなかを盗み見ると――。

「サアサアサアサア。存のほかなことをみしらした。
前髪の[まだ若い]おれを差し置き。よい年からげて[いいおっさんが]初物[処女]を。
賞翫(しょうがん)するやつもやつ。据膳(すえぜん)する悴(がき)も悴め。
ヘエエエエエエエ ヘエエエエエエエ ヘエエエエエエエ、
体が燃えて腹が立つわい。腹ばかりか何もかも立つわいやい」(P323)


かなりいいシーンではないかと思う。
自分がものにしたいと思っていた少女の初々しい身体を、
年配の主人が賞味しているところを盗み見たわけだから。
自分にはふくれっ面しかしてくれなかった生娘が、
身になにもまとわず嬉しそうにあんな恥ずかしい格好をしている。
まさに「体が燃えて腹が立つわい。腹ばかりか何もかも立つわいやい」だろう。

世の中には恵まれた人間がいるものである。
長右衛門は呉服屋に養子としてもらわれてきた男なのである。
しかし、隠居からの信頼も厚く後妻の子(腹違いの弟)よりもひいきされている。
金の管理もしているから、自由に使える金もかなりある。
遊郭にお気に入りがひとりいて、だいぶ入れ揚げているようだ。
にもかかわらず、しっかりものの妻もいて妻からは深く愛されている。
いまお半からも愛され初物の据膳を賞翫したところだ。
「不幸にな~れ、不幸にな~れ」と念を送りたくならないか?
われわれ(わたしのみ?)の期待通り長右衛門は落ちていくのである。
まず腹違いの弟の悪だくみからお殿様からあずかったたいせつな刀を紛失してしまう。
遊郭に百両使い込んだことがばれた。さらに義母の悪だくみで、
五十両を長右衛門が金庫からくすねたという濡れ衣を着せられた。
トドメはお半が妊娠してしまうのである。
すべてなんとかしようと思ったら対処できなくもないのだろうが、
長右衛門はこれまで恵まれてきたせいか人間の悪意に弱いのかもしれない。

いや、この芝居(事件)の主犯はお半なのかもしれない。
もしかしたら長吉を誘惑していたのはお半の無意識の色香だったのかもしれないわけだ。
男を振り回す14歳の少女とかぞくぞくするねえ。
この子は精神不安定だから、すぐに「死ぬ死ぬ」と言うのである。
身ごもってしまい、どうせ一生正妻の座にはつけないのだから死ぬしかない。
お半は長右衛門に書置きを残す。
自分は桂川に身を投げるので、どうか今後末永くご夫婦仲良しでいてください。
長右衛門は書置きを読む。
今日は仏壇に向かって念仏する義父の声がなぜかよく聞こえる。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
このとき長右衛門の死の物語が完成する。合点がいく。人生、わかったと思う。

「そなた[お半]が死んではなほもつて。生きていられぬ長右衛門。
一緒に死ぬるが親御へのいひわけ。アアいかさま因果はの車の輪。
十五六年以前。宮川町の芸子岸野にのぼり[うつつをぬかし]。
つまらぬことで桂川へ心中に出た所。さきへ岸野が身を投げたを。
見るよりふつと死におくれ。人の知らぬを幸ひにその場を逃れ。
今日まで生きのびたが。思へば最期の一念で。岸野はお半と生れ変り。
場所も変らぬ桂川へ。われを伴ふ死出の道連れ。
これこそ因果の罪滅ぼし。さうぢや。さうぢや」(P373)


こう物語ったあと長右衛門は桂川に向けて駆け出す。
はっきり言って、同情の余地もないというか、死ねというか、いや死ぬのだが。
長右衛門はもてたんだなあ。そして、こいつはひでえやつだ。
心中を約束したのに相手だけ死なせて知らんぷりするなんて最低の男ではないか。
またこういう男のほうがどうしてか女にはもてるのである。
まじめだけが取柄の誠実な努力家よりも遊び人のほうがどうしてかもてる。
閉幕直前で桂川に死体がふたつ上がったぞという噂話が広まる。
なんでもそれは男盛りの長右衛門とまだ14歳の少女でどうやら心中らしいぞ。
ざまあみやがれ。ざまあみろだ。あはは、あはは、どうだ見たか。
もしこの芝居が観客に受けたとすれば、絶対にこういう理由からだと思う。
あたまのなかではそこまで理解しなくても、
心の底のほうではざまあみやがれと喝采をあげているような気がするけれど、
違うのかなあ。間違えているのかなあ。

「仮名手本忠臣蔵」(竹田出雲・三好松洛・並木千柳/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→さて、日本人に大人気という忠臣蔵である。
ネット上に解説はあふれているだろうし、
日本人で話をまったく知らない人はいないだろうから、
ことさらなにか付け加えたいとは思わないのだが、それでも感想めいたものを。
「仮名手本忠臣蔵」はとにかく長いんだ。
ところが、新潮日本古典集成は、親切気取りか関係者の博識自慢か、
くそ細かい校注を原文のうえに掲載しやがっている(してくださっている)。
こういう芝居台本は一気に読まないと意味がないから、
江戸時代の文章くらいなら馴れたからいけるだろうと「仮名手本忠臣蔵」限定で
校注はほとんどすべてすっ飛ばして原文と逐語訳のみで早読みした。
細かく読んでいないからときおりだれがだれだがわからなくなったが、
まあ最後に復讐する物語だろうという甘えめいたものを支えに読了したしだいである。

やはり読んでいる最中は日本人だからか、切々と胸に響く物語だとは思った。
しかし、読後1週間も経つとひねくれたことを書きたくなるのである。
忠臣蔵が好きというのは、どこかやばいのではないだろうか。
というのも、われわれみんなが復讐の物語を生きているような気がするからである。
仕返しとか、かたき討ちというのは逆恨みめいていて、どこか精神病的ではないか。
かくいうわたしも復讐の物語をいま現実に生きているから、
そういう自分が忠臣蔵という鏡に映ってしまい、その結果客観的に自分が見えてしまい、
ちょっと気持悪くないかと思わぬところもないのである。
だれかにいつか復讐してやるという物語を生きるのは不健全ではないだろうか。
とはいえ、みなさんもそうではありませんか?
人生で許せないやつというのがいて、いつかそいつを見返してやるとか思っていません?
親が許せない、あの教師が許せない、いじめられたトラウマを忘れられない。
上司のあのひと言は絶対にパワハラで、いつか復讐してやる、みたいな(笑)。
いや、そういう物語を生きていたほうが、
空虚な人生よりもコクが増していいという考え方もできるのだろうが。

こんな奇妙なことを考えてしまったのは、
ファンである精神科医の春日武彦氏の影響だと思う。
氏の著作「しつこさの精神病理」の一節がよみがえってきて仕方がなかった。

「おそらく、復讐が成功しても思ったほどのカタルシスは訪れなかったり、
こんな奴に仕返しをしても自分の心が汚れるだけだと
急に馬鹿馬鹿しくなってしまったり、反動で空虚感や抑うつ気分に囚われたり、
いったい自分の人生は何のためにあるのだろうと悩んだり、
そんな具合に気持ちはむしろ暗く沈みこむ方向にシフトするのではないだろうか」(P74)

「言い方を変えるなら、復讐という行為にはどことなく品のなさが漂う」(P76)


ちょっとドキッとするような精神科医の言葉ではないか。
いや、忠臣蔵は自分のための復讐ではなく、
主君のためのいわば忠義による復讐だからいいのだと言われるかもしれない。
たしかにそうではあるけれども、しかし忠臣蔵の気味の悪さは消えない。
あんまり大きな声では言えないけれど、忠臣蔵の世界は創価学会に似ている。
「亡き戸田先生の弔い合戦だ」とか、「池田先生のために戦わないのか」とかさ。
忠臣蔵は政治団体やヤクザにも通じる「散る桜」めいた恐ろしさがないだろうか?
なーんかさ、自分たちは絶対に「正しい」と信じて徒党を組む人たちは怖くないか?
外国人にはよく理解できない日本人の愛社精神はまさしく忠臣蔵と言えないか?
いやな話だが、たとえばわたしが赤穂浪士人のひとりだったら、
めんどくせっとか思って集団行動に参加しなかっただろうなあ。
「仮名手本忠臣蔵」は事実そのままではなく、
フィクションだからいいという説もありうるだろう。

忠臣蔵のいいところもたくさんある。
みなさんはそこを嫌うのかもしれないが、忠臣蔵は死の美化が強い。
死というのは敗北ではあるのだが、にもかかわらず、ではなく、
このために美しいという死への賛歌が忠臣蔵の世界にはある。
死は終焉なのだが、だれかの死はあとに影響を残すという基本姿勢がある。
ある個人の死というものを契機に世界が変わっていくのだという、
死のプラス面へのまなざしが忠臣蔵からは感じられる。
死は終わりではなく死から始まるものもあるという世界観を忠臣蔵は持っている。
有名な塩治判官(浅野内匠守)の切腹シーンを見てみよう。
塩治判官は一瞬の激昂からクレージーにも
公式な場所でむかつくライバルを刺し殺そうとして愚かにも失敗する。
日本社会ではメンバーおのおのがどんな理不尽にも耐え忍び、
決して和を乱してはならないにもかかわらず不届きな騒動を起こしたのである。
当然、将軍さまから切腹とお家断絶の処罰がくだる。
いさぎよく塩治判官が腹を掻っ切ったまさにその瞬間、
主君を慕う家老の大星由良助(大石内蔵助)が駆けつける。
腹から血を流しながら判官は由良助に言う。

「[判官]「ヤレ由良助 待ちかねたわやい」。
[由良助]「ハア御存生の御尊顔を拝し、身に取つてなにほどか」。
[判官]「オオわれも満足満足。定めて子細聞いたであろ。エエ無念。
口惜しいわやい」
[由良助]「委細承知つかまつる。この期(ご)におよび。申し上ぐることばもなし。
ただ御最期の尋常[立派なさま]を。願はしう存じまする」。
[判官]「オオいふにやおよぶ」ともろ手をかけ。[刀を]ぐつぐつと引き回し。
苦しき息をほつとつき。
[判官]「由良助。この九寸五分[刀]は汝へ形見。わが鬱憤を晴らさせよ」と。
切先にてふえ[のど笛]はね切り。血刀(ちがたな)投げ出しうつぶせに。
どうどまろび息絶ゆれば。御台[正室/妻]をはじめ並みゐる家中。
まなこを閉ぢ息を詰め 歯を食ひしばり控ゆれば。
由良助にじり寄り。刀取り上げおしいただき。血に染まる切先を。うち守り守り。
無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句 五臓六腑にしみわたり。
さてこそ末世に大星が。忠臣義心の名をあげし 根ざし[原因]は。
かくと知られけり。」(P199)


塩治判官は並み居る家老や妻の目の前で切腹しているのである。
切腹は自殺と言ってしまえば自殺に過ぎないが、どこか芝居っ気のある自殺と言えよう。
周囲の目を気にしながら、おのれの人生劇の終幕を演じてみせているようなところがある。
自分の死を演出していると言ってもよい。
「仮名手本忠臣蔵」はたしかに復讐劇なのだが、一同なかなか復讐しようとしない。
このためだろう。塩治判官の切腹をなぞるように、
芝居の半ばで勘兵という男がこれまた周囲の目を意識していさぎよく腹を切っている。
いのしし狩りをしていてあやまって義父を殺してしまったと思ったがゆえの切腹だ。
腹を切っている最中にそれが誤解であることがわかるるため無念の切腹になる。
しかし芝居的にはみな(観客ふくめて)に主君への忠義をよみがえらせ、
再度復讐を喚起するための切腹である。
繰り返すが、切腹というのはたいそう芝居ががったまこと演劇的な自殺方法だ。
そして「仮名手本忠臣蔵」限定でならこう言ってもいいだろう。切腹は美しい。
そのうえ、この芝居において切腹における死は、
みなの行動を規定する(復讐!)意味合いを強く持っている。

わたしは母親に目の前で飛び降り自殺された過去を持っているが、
「仮名手本忠臣蔵」を読んで思うのはあれは切腹のようなものだったのだろう。
「ケンジ」と名前を呼ばれ上を見たら9階からいきなり母が飛び降りてきて死んだ。
いまでもまったく意味がわからず神仏を恨んでいるところがあるけれど、
あれを切腹と考えるという物語の解釈もなくはないのだろう。
一般的に自死遺族は身内の自殺者のことを恥じるが、
武士の家族は切腹したものを恥じるどころかむしろ誇りに思うだろう。
忠臣蔵が日本人に人気があるということは、
みなどこかで潜在的に自殺を美しいと思う感受性を持っているのかもしれない。
さて、塩治判官は復讐せよと言い残して切腹した。
復讐しろ、怨念を晴らしてくれというのは、じつのところ切腹してくれというお願いだ、
それは大星由良助もよくわかっている。

「よう思うて見れば、仕損じたらこのはうの首がころり。
仕おほせたら跡で切腹。どちらでも死なねばならぬ」(P239)


忠臣蔵のメンバーは創価学会のように勝利するために決起したのではないのである。
一致団結してプロジェクトを成功させようとしているわけではない。
最後は切腹して汚名をそそぐためにわざわざ重い腰を上げている。
美しく死ぬために忠臣蔵のメンバーは連帯してひとつの目標に向かっている。
結局どちらがいいのか?
安穏と長生きすればそれだけで、ただそれだけでいいのか?
たとえ早死にしようとも劇的に春の桜のように華々しく散っていったほうが
美しいのではないか? 生きるというのは、いったいどういうことなのか?
忠臣蔵が好きな日本人というのは、おそらく平穏な日常を送る生活者だろう。
名誉の死とか劇的な興奮、スリル、生きがい、死にがいよりも平和な生活を好む。
逆説的に自らがそうであるからこそ観客は忠臣蔵劇を愛するのかもしれない。
わかりやすく言えば、毎日退屈でつまらないなあ。
忠臣蔵のようにぱあっと意味のあることをやって美しく人生を閉幕したい。
忠臣蔵を見ているあいだだけはそのように思う。
とはいえ、芝居が終わったら現実に引き戻される。
いや家族が健康ならそれでいい。仕事が順調ならそれでいい。
家族がいなくても仕事で出世の見込みがなくても、
生きていればいい、生きているのはありがたい、ありがたいと自分をごまかす。

庶民の本音は、忠臣蔵の人たちをバカにしているのかもしれない。
あんなことをするなんてバカよねえ。
しかし、あなたが「仮名手本忠臣蔵」や赤穂浪士の役を振られたらどうするのか?
人は人生芝居の配役をまったくもって選べない。
われわれだって大星由良助(大石内蔵助)の役を振られたら
ああするほかないのではないか?
シェイクスピアの「ハムレット」も復讐劇という点においてのみ忠臣蔵と似ている。
父を殺されたハムレットは、いまは義父となった国王に復讐すべきかどうか迷う。
ハムレットは最終的に意志的というよりもむしろ偶然の流れで復讐を果たす。
忠臣蔵が計画的に復讐を敢行したのとはそこが異なる。
ともあれ、家内安全や長寿を美徳とする一般常識と
正反対の人生観を忠臣蔵は有している。
そんな芝居が国民的人気作となっているのは不思議なようで不思議ではない。

2007年7月に放送された山田太一ドラマ「遠い国から来た男」が
有料放送ジェイコムで放送されたのでなんだかとても見たくなって再視聴する。
見ながら涙がとまらなかった。
調べてみたらうちのブログにストーリーをこと細かく記録していたのである。
にもかかわらず、ほとんど内容を覚えていなかった。
山田太一ドラマの特徴は、あまり記憶に残らないところにあるのかもしれない。
山田太一がテレビドラマに描くのは、
ほとんどが少しばかり高級(※底辺では断じてない!)なだけの庶民の日常である。
「なんにもない」庶民の7、80年の人生でわずかながらも
なにかあったと感じるような特別な時期を日常感覚を失わずにうまく描写する。
山田太一の描くのは源義経や赤穂浪士といった特別な人たちの物語ではない。
われわれ庶民のなんにもないささやかな日常におけるちょっとした波乱を丁寧に描く。
山田太一は小さな感動をたいせつにする作家と言ってもよいのだろう。
小さな感動に大きな価値を見出したのが山田太一ドラマである。
このため必然的に山田太一ドラマは記憶に残りにくい面があるのかもしれない。
記憶にあまり残らないというのは、山田太一作品の短所ではなく長所なのだが、
このあたりの価値判断は人それぞれだろう。
大きな物語はおおやけに記録されるが小さな物語はみんな忘れてしまう。
しかし、どうして小さな物語に価値がないと決めつけられようか?
圧倒的多数の人間が小さな喜怒哀楽を物語にしながら生きているのである。

2007年7月にこのドラマを見たときはそれほど感動しなかった。
しかし、2015年の1月に再視聴したら本当に涙がとまらないのである。
一昨日も昨日もさっきも一部を酒をのみながら見て女子供のようにわんわん泣いた。
このドラマはいいよなあ。そうとしか言えないところがある。
あらすじは7年半まえに異常なほど詳しく書いたから、ふたたびは書きたくない。
そういえば2007年7月にはあの人にも、
そうそうあの人にも人生で出逢っていなかったことに気づく。
まえのドラマ視聴感想はこうまとめられていた。
自分で書いたのにまったく覚えていなかった。
「20年あったらなんでもできる」と栗原小巻は言っていたが本当だろうか?
これからわたしの人生にドラマのようなことは起こるのだろうか?
結局は経験なのかもしれない。
その人の経験によっていかようにもドラマ、映画、芝居、小説の感想は変化する。
かといって、人は宿命的に経験を選べないところがあるのだから、
だとしたら絶対的な作品評価は存在しえないことになろう。
まったく、まったく、そうなのだと思う。
だとしたら、いまは理解できないが「遠い国から来た男」の、
こういうセリフのやりとりを理解できる日もいつか来るのだろうか。
それともこれはまったくのフィクションで嘘だからみなに感動を与えているのか。

津山雄作(仲代達矢)は岡野典子(栗原小巻)と47年ぶりに再会する。
津山雄作こそ「遠い国から来た男」である。
時代は日米安保で「日本はこのままでいいのかって思いが」満ちあふれていた。
中国やソ連が輝いていた時代だった。
そういう時代に商社マンの雄作と女子大生の典子は出逢い、恋に落ちた。
雄作は婚約者を日本に残し3年という約束でひとり南米の某国に会社のために行った。
南米の某国で、雄作は日本では冷めていたのに若い情熱に刺激され
反政府活動に加担することになる。独裁政権を倒すために武器の調達を手伝った。
結果、12年ものあいだ監獄に入れられることになった。
会社はおろか日本もなにもしてくれなかった。典子は同僚の男と結婚してしまった。
雄作は日本を捨てて47年、海外で生きてきた。
その雄作が日本に1週間限定で戻ってきて、
47年ぶりにいまは小学3年生の孫もいる典子と再会したのである。
ふたりの会話のやりとりがとてもよかった。
雄作と典子が出逢ったきっかけは偶然だった。
ある丸の内のビルの屋上で典子が歌をうたっていた。
その歌声を聞いた雄作は思ったという。
以下、雄作(仲代達矢)と典子(栗原小巻)の50年近いむかしを回想する会話だ。
屋上でモンゴルの歌をうたう典子のうしろすがたを見た雄作は――。

雄作「不思議なものを見たような、この世のものではないような」
典子「大げさ」
雄作「恋に落ちた」
典子「顔も見ないうちに?」
雄作「感動で息が詰まりそうだった」
典子「(からかうように)私、抜きでね」
雄作「「(真剣に)動けないで立っていた」
典子「気配で、私、その方を見た」
雄作「なんて美しい人だと思った」
典子「ううん。私こそ、なんて素敵な男の人だって思った」
雄作「いつもは女性に臆病なのに」
典子「フフ、本当かな?」
雄作「吸い寄せられるように、他の道がないように近づいて行った」


典子は日米安保反対のデモの帰りだった。
もし典子と出逢わなかったら雄作は南米で反政府活動などしなかっただろう。
しかし、人生は取り返しがつかない。
雄作は典子と出逢い恋に落ちた結果、典子と別々の人生を歩むことになった。
この偶然はなにがなんだかわからないが人を感動させるものがある。
いまわたしがこのドラマを見て思うのは、
もしかしたらいまでは否定されている社会主義のすばらしさだ。
資本主義は人を競争に追い込み、人それぞれを孤独の淵に追いやる。
社会主義はたしかに人を堕落させるのかもしれないが、
そこには人と人を連帯させるようなあたたかいものがあるのではないか。
日米安保反対と見知らぬ人と肩を組めたとき、その人は孤独を忘れることができただろう。
いまベトナム社会主義共和国の若い留学生と一緒にアルバイトとして
働いているせいか、社会主義にもよいところがふんだんにあるのではないかと思ってしまう。

「ドラマ・ファン掲示板」によると、
今月26日に渋谷のユーロスペースで映画上映と山田太一氏の
脚本講座的なトークイベントがあるとのこと。
26日はバイトのシフトを入れていたが、
人員過剰のため強制休みを言い渡された日ではないか。
どうせ暇だから行ってみようと思う。
渋谷はわたしにとって魔界である。その象徴がユーロスペース。
おおむかし一度行こうとしたのだけれど、結局行き着けなかったことがある。
当日は迷う時間を予定に入れて行動したい。
さっきセブンイレブンでチケットを買ってきたけれど整理番号は17。
収容人員は150人程度なのに、まったく売れていないのかもしれないなあ。
山本周五郎作家、小林秀雄賞作家、朝日賞作家の
山田太一氏の(いちおうのところ)脚本講座イベントなのに、ああ、もったいない。

(参考記事)
放送当時の「遠い国から来た男」の稚拙な感想文↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1236.html
「傾城三度笠」(紀海音/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→作者の紀海音(きのかいおん)は近松門左衛門のライバルだったという。
人気を二分したとも言われているが、紀海音はすっかり忘れ去られてしまった。
どうして近松門左衛門が残って紀海音は消えてしまったのだろう。
「傾城三度笠(けいせいさんどがさ)」は近松の「冥途の飛脚」とおなじ題材を扱っている。
上演時期は判明しておらず「冥途の飛脚」の改作が「傾城三度笠」とも、
あるいはその反対とも言われている。
近松の「冥途の飛脚」が激情のほとばしりが感じられるいっぽうで、
「傾城三度笠」はウェルメイドというか、構成的にうまく仕上がっている。
変な業界用語を使うと近松門左衛門は箱書きをしないで書いていたような気がする。
反対に紀海音はきっちり箱(構成表)を事前に作ってから書く人だったのではないか。
山田太一(箱書き否定派)と倉本聰(箱書き肯定派)の相違のようなものかもしれない。

これもまたネットのどこにもあらすじ紹介がないので書いてみよう。
忠兵衛という飛脚(運送屋)の丁稚(でっち/見習い)が主人公。
忠兵衛は義母の姪(めい)であるおとらと結婚することになっていた。
ところが、忠兵衛の留守におとらが訪ねてくる。
じつは自分には新七という恋人がいるので婚約を解消させてほしいというのだ。
許してもらえないならば、自分と新七は心中するしかない。
そこまで言われたら仕方がないので義母は姪のわがままを許す。
怒ったのは忠兵衛である。おれのプライドをどうしてくれるんだ?
もう仲間みんなに結婚のことは言い触らしているから顔が丸つぶれだ。
しかし、本当のところ忠兵衛の怒りの理由はそうではなかった。
飛脚の忠兵衛は梅川という遊女に入れ揚げていたのである。
婚約者のおとらの持参金で梅川を身請けしようと計画していた。
ああ、計画が台なしだ。忠兵衛が激憤しているのにはほかの理由もあった。
自分の留守中の親友の利右衛門が梅川とねんごろになっていると聞いたからだ。
どうして自分の好きな梅川を親友は取ろうとするのか。
こうなればカネで勝負するしかないと忠兵衛は飛脚の預り金に手をつける。
大金を片手に梅川のもとに行くと、親友を誤解していたことを知る。
梅川が他の人に身請けされそうになっていたので、
それを防止するために親友は忠兵衛のためを思って梅川と一緒にいた。
忠兵衛はこのカネでおまえを身請けすると宣言して梅川を喜ばせる。
しかし、公務金横領がばれ、追手が迫っきている。
愛し合う忠兵衛と梅川はもう心中するしかないと思う。
ところが、親友が機転を利かせてくれ、ふたりはまんまと逃亡することに成功する。

ふたりはどこに逃げたのか? この設定が紀海音のうまさだろう。
おとらと新七の夫婦を覚えているだろうか。
おとらは本来は忠兵衛と結婚するはずだったが、
心中すると忠兵衛の義母を脅して恋する新七と結ばれた女である。
このおとらと新七が恩返しとして一度は心中を考えた忠兵衛と梅川をかくまうのだ。
このあたりの設計は近松よりもよほど構成がうまくできていると思う。
あるカップルが心中しないでむすばれると、
その結果としてべつのカップルが心中に追い込まれるという構成はうまい。
恩には恩で返すという庶民の義理人情の世界を上手に描いていると思う。
いまもむかしも学のない下層民は義理とか人情が好きなのだろう。
下手をすると当時は近松の「冥途の飛脚」よりも、
こちら「傾城三度笠」のほうが庶民には受けたのではないかとも思うくらいだ。
新七はお尋ね者のふたりをかくまっていることがばれ、
義理人情を重んじるかそれとも身の安全を優先するかで迷う。
結局、忘恩の徒にはなるまいと忠兵衛と梅川を逃がそうとする。
おりしも、追手が家にやってきたため、
女のためにカネをネコババした忠兵衛は逮捕される。

「傾城三度笠」の冒頭にこう書かれている。

「金と色との二道に 迷ふは人の世や深き」(P107)

「傾城三度笠」は俗にいう「犯罪の影に女あり」を地でゆく作品である。
会社のカネに手をつけたくなるほど女との色恋はいいものなのだろうか?
色恋がそれほどいいものだったから、
このために「傾城三度笠」や「冥途の飛脚」のような芝居ができたのか?
それともなんの刺激もない、
なんにもない退屈な繰り返しの日常を送る下層民は、
そういう烈しい色恋にあこがれを持っていたから芝居が提供されたのか?
いったい果たしてどちらが正しいのだろう。
はっきり言って、女なんかのために犯罪をして
警察に捕まるなんてバカじゃないかと思う。
いっぽうで常識なんて忘れてしまうほどの激烈な色恋を経験してみたいとも思う。

しかし、どうやら「傾城三度笠」の忠兵衛は色恋のためというよりも、
自分のプライドのために公金を横領した疑いが濃厚なのである。
親友にオキニのソープ嬢を取られるのは男の沽券にかかわる、
と思っていたふしがうかがわれる。
犯罪を犯すか迷うところの描写は以下である。

「利右衛門[親友]めが何ほどに はり合ひかけてきをるとも。
この金にて埒(らち)がつく[決着がつく]。
しかしこれまた分別どころ。人の物をかすめるからは わが首はないもの。
金にかへて一分を立てうか。イヤ無念をこらえて命を生きようか。
サアどうしようかかうしようか」(P120)


正反対のようなことを書くが、紀海音のほうが近松門左衛門よりもリアリストで
色恋の実際をわかっていたような気もして好ましく感じないこともないのである。
色恋とかってさ、相手のためというよりむしろ
自分の支配欲、自尊心が重大問題になっているのではないか?
男の場合、色恋は自分の所有物(女)を取る取られるという意識でするのではと。
歴史的には近松門左衛門と紀海音の闘いは、近松の大勝利に終わったわけだ。
ひとつわたしが思ったのは紀海音の言葉は近松に比べるとリズム感に乏しいこと。
言い換えたら、あまり声に出したくならない。
言葉として、あるいは音楽としての美しさで紀海音は近松に負けたのかもしれない。
たぶんあたまのよさでは紀海音に軍配が上がったではあろうけれども。

この記事はネット上で最初の「傾城三度笠」紹介記事だ。
善行とか大嫌いなので、わがボランティア精神の過剰にはわれながらあきれてしまう。
いや、義理人情にあふれるのが庶民。
「傾城三度笠」の世界のように、
いつかかならずやだれかが恩返ししてくれると信じている。

「傾城八花形」(錦文流/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→「傾城八花形(けいせいやつはながた)」は江戸時代の浄瑠璃作品。
浄瑠璃とは日本式の人形芝居で大衆芸能だったが、のちに歌舞伎に人気を奪われた。
歌舞伎はいまでも大衆娯楽としてにぎわっているが、
いっぽうで浄瑠璃は(カネにならない)古典芸能に成り下がった。
「傾城八花形」いうのはやたらマイナーな作品らしく、
ネットで検索してもあらすじさえ出てこないのだから参ってしまう。
この記事はネット上にはじめて公開された「傾城八花形」の紹介である。
なにやら筋がポンポン飛ぶためまとまりがなく、しかし長いのでかなり読みにくかった。
おそらく学生は読まずにネットでうちのブログを発見してシメシメと思うことだろう。
意地悪だからミスリードしてやりたくもなるけれど、
困ったときは相身互いゆえかんたんなストーリーを記しておく。

ひと言で説明すれば、バカ殿のご乱心くらいでいいのではないか。
きれいな遊女(高級娼婦)に夢中になったバカ殿さまが傲慢にも忠臣を勘当する。
そこが不幸のきっかけで腹黒い部下の裏切りに遭い家を乗っ取られる。
悲惨なのはお殿さまからリストラされた忠臣である。
職をなくしたのみならず悪いことは続くもので眼病になってしまう。
カネがないので嫁を遊郭(フーゾク)に売ることになるのだが、
斡旋(あっせん)する人にだまされ9割のカネを中抜きされてしまう。
しかし、契約書があるからと泣く泣く嫁は遊郭に売られていく。
バカ殿さまはなんとか命だけは取られず逃げ延びる。
人生、悪いことばかりばかり続くものではない。
いちおうバカ殿さまは善玉で逆臣は悪役だから、最後は善が悪を滅ぼす。
忠臣は遊郭に売られた妻と再会する。
妻は一時的に狂っていたので使い物にならず売春婦なのに客を取っていなかった。
とはいえ、買われた身だから売春宿の主人とのあいだでトラブルになる。
ここでラッキーにもむかし忠臣に世話になったという商人が居合わせ、
あのときの恩返しということでカネをすべて払ってやる。
さて、この一行とバカ殿さまはたまたま再会して主従のよりを戻す。
そこにまたまた逆臣一行が登場して、バカ殿さまたちは晴れて復讐を果す。
最後は殿さまも元の身分に戻り悪は成敗され、めでたしめでたしという物語である。

こうしてストーリーを書いてみると、まあくだらないというひと言に尽きるのではないか。
とはいえ、浄瑠璃は歌舞伎とおなじで当時の大衆娯楽だったのである。
たとえるなら、いまはもうなくなったらしいが火曜サスペンス劇場みたいなものである。
そもそもからして少数派のインテリを相手にした芸術作品ではない。
ならば、この程度のものでも当時のお客さんは満足してカネを落としたのだろう。

悪口ばかり書いていても詮ないので、よかったところを紹介しよう。
この物語の発端はなにか?
殿の愛妾(高級娼婦)である伏屋が美しすぎたのがドラマの起こりである。
逆臣はなんとかこの美女をものにしたいと思って主人に反逆したのだ。
タイトルの傾城(けいせい)とは美女あるいは遊女という意味。
城を傾けるほどの美女だから傾城と言われている。
主人を追放した逆臣は伏屋をものにしたいと何度も口説く。
おだてだり、なだめすかしたりする。しかし、伏屋は殿さまいちずである。
どうして人の気持は思い通りにはならないのだろうか。
ここで成り上がった逆臣はひとつ思い知らせてやろうと
伏屋を火責めの私刑にかけようとする。
そんなことをしたらかえって反対の結果になるのは火を見るよりも明らかなのに、
あえてそういうことをしてしまう逆臣の「もてない男」ぶりがたいへんよろしい。
個人的な感想を書くが他人の恋人や女房に横恋慕するのはとてもいい。
かなわぬ恋というのがまずいいではないか。
女を自分のものにしたいという理由からライバルを失墜させる小狡さもいい。
そして、自分はその女を好きなのに、
にもかかわらず反対に自分を毛嫌いする女を折檻したり、
拷問にかけたりするのは人生にまたとない快楽のような気がする。
折檻されて苦しみに耐えている美女というのはとても欲望をかきたてられる。
拷問の準備を整え縄にかけた美女をまえにして「もてない男」は憎々しげに言う。
このセリフがとてもよかった。

「ヤレ胴欲もの[薄情もの] 人でなし。
おのれ[おまえ]を見そめしこのかた しばしも忘るる暇(いとま)なく。
たいこ[仲介者]にふきこみ宿屋を頼み 大分の金を費(ついや)し。
さまざま心をくだきつつ 呼べども呼べども出合はず。
このたびさいはひ葛之丞[忠臣] 勘当うけしを時こそと。
義を捨て主人を追ひ払ひ。貪欲心をおこせしも 皆これおのれゆゑにてあり。
しかるをつれなく振舞ふは。
友綱[主人]に思ひ深くのぼりつめたるゆえなりき」(P35)


このため、おまえをいまから火責めの刑に処すというのである。
火の上を歩かせる拷問にかけてやる。
縄でしばられた伏屋は燃えさかる火のうえにかけられた橋を素足で渡らされる。
足裏の皮がやけどでただれても伏屋は健気に耐えてこんなことを言う。

「いかなる辛さにあふとても いとしいかあいし人をすて。
おのれが色になびかうか。殺さば殺せ未来まで。
友綱様[主人]を差し置いて ほかの色にはうつさぬ」(P36)


あんたなんかの情婦になんてなってやるもんですかと啖呵を切る美女である。
苦痛に耐えながらも自分の志を変えぬ傾城(美女)に男は激怒する。

「さてさてしぶどい女かな。
まだまだ責めが軽いゆゑ、あのごとくなるほほげたきく。
それそれ汝ら引きおろし。くくりなほして向ふなる 松の梢(こずえ)に吊り上げよ。
心中立てをはき出すは とにかく責めがたらぬぞ」(P37)


悪役の卑劣さがとにかくいい。
どうしてかこの悪役のほうが気に入ってしまい、善であるほうがバカ殿に思えてしまう。
江戸時代の大衆娯楽であった浄瑠璃の売りは嘆きになるのだろう。
いまの言葉で表現するならば、登場人物の不幸自慢が観客を刺激するのである。
なにも起こらない幸福よりも、身もだえする不幸のほうが芝居では感動的なのだ。
いま芝居では、と書いたが、あるいは芝居ならぬ実人生でもそうではないか。
観客は無意識のうちにそのようなことを芝居を見聞きしながら学ぶのだろう。
浄瑠璃の登場人物はよく自殺を図るが、そこがとてもいい。
自殺が悪なんていうのは、せいぜい終戦後に入ってきた外来思想ではないか。
遊郭(ソープ)に売られることになった元エリートの妻は嘆く。

「世が世のときは御家老の奥様 または姫君と。
お乳や乳母にかしづかれ 末末の者どもには。つひに姿も見せぬ身が。
かく賤(しづ)の女となりけるさへ。世にもかなしく思ひしに
ゆゑなき物に騙られて。夫にも子にも引きわかれ
君傾城[遊女]に売られつつ。諸人に恥ぢを晒(さら)さんこと
あるべきこととは思はれず。
世に神仏はおはせぬか いかなる因果ぞ聞かせてたべ。
さりとてはなう末長殿[夫] 生きてたがひに面(おもて)を晒し。
世の嘲(あざけ)りにならんより いつそわらはを刺し殺し。
娘も手をかけ 御腹を召されうとは[切腹しようとは]おぼさずや」(P63)


おめおめ生き残るよりも体面を重んじて一家心中したほうがましではないか。
夫はどう答えるか。契約書を交わしたから、おまえはもう売春宿の商品だ。
他人さまのものに手をかけたら罪になろう。
そのうえいま眼病で目がよく見えぬ。
うっかりおまえを殺し損ねたら罪人として罰せられ末代までの恥となる。
このため、おまえを刺すことはできぬと夫は言うのである。
妻は嘆く。死ぬことさえできないのか。

「死ぬるだにも死なれぬは、過去生々にて いかなりし。
悪事をなしたる報いぞと」(P64)


根本にあるのは何度も生まれ変わりを繰り返してきたという輪廻転生の思想だ。
この信仰さえあれば、よほどの不幸も納得がいくということである。
また前世や前々世という考えがあればこそ、あっさり自殺もできるのである。
なぜなら「過去生々」があるならば、かならず来世も来々世もあることになろう。
どうして現代では「過去生々」の「悪事をなしたる報い」という、
前近代的とされる考えが消え失せてしまったのか。
おそらく現状肯定的で未来志向的ではないところが嫌われたのだろう。
しかし、とてつもない不幸は「過去生々」のせいにするしか
おさめどころがない気がするのだが。
ともあれ、この不幸な夫婦も最後には幸福になるから、
観客たる下層民は「恐怖と憐憫の情」(アリストテレス)を刺激されたうえで、
なおかつ終幕では勧善懲悪の結末にホッと胸をなでおろしたことだろう。

プロレスを見にいったことのある人ならわかるでしょうが、
悪役(専門用語でヒールと言います)の存在はけっこうたいせつなわけ。
悪役がうまく悪を演じることで観客全体が盛り上がることが可能になる。
もちろん、裏では善も悪も仲良しこよしなのだが、
演戯として悪役をする人が必要なケースもときにある。

いまでもバイト先のことはよくわからない。
残念ながら、親しい人なんかひとりもいないし。
どんなにみんなと仲良さそうにしていた人でも、
ふっと消えてしまってそれで終わりのことがある。
よくわからないが、誤解でしょうが、なんとなく肌感覚で思うのは、
まったく存在感のない、
いつも下を向いているぼくがいまのバイト先に入ったことで、
周囲の一体感が増したような錯覚があること。

もちろん、錯覚で実際のところはなにもわからない。
具体例は数限りなくあげられるけれど、しょせん被害妄想過剰なぼくの話だから。
もしかしたら最後に勝利するマッチョな正義のヒーローなんかよりも、
ぼくのような女々しいすぐに泣き言を口にする悪人のほうがおいしい役なのかもしれない。
ブログでスキンヘッドのKくんのことをさんざんネタにさせてもらっていて、
今日もラインのとなりに入れていただいたが、
Kくんがいなくなったらどれほどバイト先の味わいがなくなることか。
Kくんを慕っているのか、
ぼくをにらみつけてくる正義の味方風の男性もいていまの職場はいまのところ楽しい。

ゲーム感覚でやると仕事も遊びになるのかもしれない。
今日の持ち場は重い本も多くふつうなら辛いという感想になるのだろうが、
遊び感覚で不謹慎なほどに本を箱に投げ入れたらおもしろかった。
現実として1冊も破損させていないのだから、まあいいんじゃないかなと思う。
社員さんが横にいるときに本を思いきりぶん投げて、
ああ、やりすぎたかなと思って、えへへ♪ とごまかし笑いをしたが、
気づかないふりをしてくれた。

横がぼくとおなじで仕事をさぼるのが一見好きそうななベトナムの女子でさあ。
持ち場を見たら重たい本が2000冊もあって吹き出しそうになった。
意外や意外、女の子でも楽勝にこなしていたけれどね。
やらせればできるってことかもしれない。
ベトナム女子同士で遊ぶようにおしゃべりしながら2000冊を処理していた。
仕事としてまじめにやるのはいやだけれど(うぜえ監視つきで)、
ゲーム感覚でやればまさにテトリスで書籍ピッキングはおもしろいのかもしれない。

本というものは生卵以下だと思い知っているから投げられるのかもしれない。
むかし横がきれいな中国人女子で、本をがんがん箱に投げ込んでいたときは、
どうしてだかぼくのぶんざいでやばいと思って本を丁寧に箱に入れたことがあった。
まあ、結果は変わらないんだけれどね。
本は生卵じゃないからめったなことでは壊れない。
そして、ここだけの話、ぼくの持論は、
人生とはゲーム、ギャンブル、ギャグの3G。ここだけの話だから秘密にしてね。
ぼくはまじめだから本を箱に投げ入れたことなんて一度もありません。
生産性向上はバイト先の合言葉だが
(うそ。だって外国人は生産性なんて日本語を知らない)、
なにやら生活の生産性が高まっているような気がする、
今朝6時半に起きて近松門左衛門の「曽根崎心中」を再読(浄瑠璃つながり)。
ナツメ社の「図解雑学 男が気になる女のからだ」を読了。
さらにジェイコムで録画しておいた山田太一ドラマ「遠い国から来た男」を視聴する。
調子がいい日ってあるんだなあ。
もう今日したいことはすべてしてしまったような気もするけれど、いまからバイト。
今日はあれなんでしょう? 芥川賞の発表日。
うちのブログに何度もコメントをくださった「もてない男」の小谷野敦氏の受賞はあるのか?
東大卒。サントリー学芸賞。ベストセラー作家。若い東大卒の美人嫁ゲット。
そのうえ芥川賞まで奪取する「運」を果たして小谷野敦博士はお持ちなのか。
受賞したらわたしが手ずからバイト先で全国に出荷してあげたいぜ。
バイトから帰ってくるときには結果が出ているのか。
雨が降っているけれど、今日も元気にバイトに行くとしましょう。
昭和49年放送の山田太一脚本「風前の灯」をジェイコムにて視聴する。
いまはなきTBSの東芝日曜劇場だから1時間ドラマ。
スポンサーが東芝だから、決して一般庶民をバカにする話を書けない枠。
(そもそもテレビとはそういう大衆支配の道具)
多数派の庶民、大衆、下層民にも生きがいがあるということを、
大企業の東芝やテレビ局の社員がテレビを使って教育するのが東芝日曜劇場だ。
本作「風前の灯」のテーマはお金こそいちばん大事だということ。
人間はみんな99%お金のために生きているおかしさをドラマは描いている。
みんながみんなひたすら求めているのはお金なのである。
お金いっぱい持っていそうだから姑(しゅうとめ)に逆らえない嫁がおかしい。
姑が好きなカマボコをめぐるやりとりがいちばんおもしろかった。
姑が朝食時にカマボコを食べたいと言ったら、
実際にはあるにもかかわらず台所をあずかる嫁がもうないと答えた。
そのくらいのことで恨みが発生するのが非常にリアルでおもしろい。

わたしはカマボコは嫌いではないが、好きでもないので世代間のギャップを強く感じる。
カマボコなんていう、まあぶっちゃけ、まずいもんで嫁姑が争った時代があったのか。
話は飛ぶけれど、おせち料理なんか絶対幻想で、
あんなものをうまいと思っている40歳以下は味覚がまずいないのではないかと思う。
山田太一ドラマの描く世界は、人生とはお金、お金、お金。
医療費も新聞代金もできたら払いたくない。
可能ならば強盗をしてでも、お金をほしい。
「がつがつしたくない」が、みんながつがつしている。
かつて刑務所に入っていたおじさんがある一家に来たことが物語の主軸だ。
おじさんは昨日、強盗殺人をしていた。
そのおじさんが、ドラマの終盤で逮捕されたとき、
みんながみんなお金のためにがつがつしている一家に言うのである。
「おれとおまえらは紙一重よ」
まったくそうだと思う。
みんながみんなお金のためにがつがつしていて、
究極的に金銭的に行き詰ったものが運悪く犯罪をしてしまうのだと思う。
殺人強盗犯のおじさんは最後に捕まるが、
そのちょっとまえだけ、ひとりの悪役の存在のおかげで、
いままでがつがつしていた一家が仲良くなる。
そしてそれぞれが嘆く。こういうふうに今日は仲良くしていても、
明日からはまたがつがつするなんてやりきれない。

しかし、それが生きるということだ。生活するということだ。
生きるとは東芝のテレビ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジを買うことだった時代があった。
いまわたしは東芝のパソコンを使っている。
ジェイコムの有料放送も、この東芝のパソコンで見ている。
テレビが不要になりパソコンが幅をきかせるようになった時代、
いったいどういう表現が多数派大衆からは求められているのか。
そもそも、みんなをいっしょくたにするようなテレビドラマは、
時代の流れに逆らっているのではないか。
そんなくだらないことを思った。
東芝製のパソコンで生まれる2年まえの東芝日曜劇場ドラマを有料放送で視聴して思った。
わたしひとりの思ったことが、
東芝製のパソコンを通じて、だれにも読まれていないのだろうが、
世界中のだれもが閲覧可能な記事になる。
山田太一ドラマ「風前の灯」が放送されてから40年になる。
よくわからんけど世の男ってさあ、
女の替わりに重いものを思ってあげると女からもてるとか勘違いしてんのかなあ。
相手の立場を考えよう。
もしわたしが女だとして男からうざい干渉をされたら、めんどくせっと思うに違いない。
自分でも持てるものをわざわざ男から持ってもらったらいやではないか?
いや、そうではないのかなあ。
この人は男らしくてすてき♪ とか思うものなの?
筋肉バカのこの人にあたしの心も身体も捧げちゃおう、とか思うものなの?
男と女のどちらが強いかといえば、絶対に女でしょう?
すぐ辞める人の多いいまのバイト先でわたしが楽しく働いているのは、
ただただ自分が女々しいからだと思う。
男っぽく働こうと思ったら、かなりきつい職場のような気がする。
女々しいとはどういうことかというと、噂話が大好きだということ。
正体不明のあたくしなんかも、もしかしたら職場の精神安定に役立っているのかも。
弱い男であることを誇る時代が来たのではなかろうか。
これからは「弱い男、強い女」が定説になると思う。定説は定説だから定説だ。
いままで弱さを誇ってきたのは女だが、これからはそうもいくまい、
とだれも読んでいないブログで評論家風に断言してみた。ああ、かっこわるっ♪
先々のことよりもいま楽しむことばかり考えて生きてきた。
これでいいのかなあ。
朝、起床。
今日はバイト先の5ライン(並んで本を箱に入れる底辺作業)が3300箱だから、
13~22時まで働けるのかなと楽しくなる。
天気がいいので洗濯。
バイト先の制服(笑)のエプロンはすぐ乾くから安心。
洗濯機が動いているあいだにゴミ出し、トイレ掃除。
めんどくせえなと思いながら洗濯ものをちんたらゆっくり干す。
昨日の食器を洗う。

江戸時代の浄瑠璃(じょうるり)作品の「桂川連理柵」を読む。
3連休で新潮日本古典集成の「浄瑠璃集」を読破したが、いったいなんの意味があるのか。
早く効率的(笑)に読んで、
ジェイコムで録画した山田太一ドラマ「風前の灯」を見たいと思ったがかなわず。
わが生産性(笑)は低いと反省する。
効率と生産性がいかに大事かはいまの職場のマネージャーさんから学んだ。
朝昼兼用の食事。カップラーメン。カップスターのカレー南蛮味。

出勤。12:48到着。IさんNさんは明らかに年上のため挨拶すると安心する。
12:55持ち場表の貼りだし。今日のお隣さんを確認する。
13:00昼礼。今日の欠席者、……ではなく欠勤者は4人とのこと。
みなさん健康管理に気をつけましょう、とのあたたかい言葉に涙(うっそ~)。
当方、シフト表に入っていたのに当日急に休んだことなし。無事是名馬なり。
13:03持ち場のまえの今日のピッキング予定書籍リストをチェック。
おもしろそうな本はなし。
しかし出す本が思ったより少なく、ありがとうございますと謙虚に思う。

15:10~15:25休憩。だれとも話さず。
勤務開始時、ライン終わりのYさんのところにおっきい本が1800冊もあってビビる。
Yさんのためにもちゃんと本を入れなくてはと思う。
17:00だれが入庫に行かされたか確認する。
17:10~17:25休憩。だれとも話さず。
勤務開始時、Aさんはいつもおいしいポジションにいることに気づく。
人徳だろうか。Mさんは消えたが、だれにも消えた理由を聞けない。

19:00~19:30休憩。だれとも話さず。
勤務開始時、Hさんに「今日は22時までやりたいですね」と声をかけたいと思ったが、
対人恐怖症(え?)のため顔面硬直状態でまえを通過。
UさんとEさんが帰っていたが、自主的か強制的かわからない。
ライン上流が4連続ベトナム女子でなんだか受ける。
本を箱に入れながら、いつまでこんなことをやっているのかと苦笑いしながら思う。
無事22:00までラインは持ちスーパーに寄り帰宅。
メールに吉報あり。酒をのむ。
明日バイト先の5ラインは2050箱だから13:00~17(18?):00勤務か。
いつまでこの生活していられるのか不安になる。
酔いのため、なんとかなるさと思い切る。ああ、出世したい。
「正しい」ことがないのだとしたら、逆もまた「正しい」のだと思う。
1分1秒でもスピードを早くして時間を効率的に使うのは「正しい」。
愛社精神を持つのは「正しい」。
もう本当毎日のようにさ、ごめんなさーい、とか叫び出したくなることがある。
わたしはすべて間違えています。
「正しい」のはみなさんですので、
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと土下座したくなる。
今年バイト先で文庫5500冊出したときに横で暴力的に(←こちらの被害妄想ね)
急かしてきたバイトリーダーはMさんではなかった。
あれはなんという人なんだろう。
いまだに顔と名前が一致していない人もいるのだから恥ずかしい。
最低なことに人の名前も間違えていたし、
さすがにこんなわたしを雇っていただいている会社の悪口を書くのは
人間としてどうかとも思うので、該当記事は削除しました。

協調性がないんだなあ。今日は二度誤ピックをしたような気がする。
気がするというのは本当にいまだにミス一覧表をいっさい見ていないからだ。
そのうちの一回は明確に覚えていて文庫を100冊出したとき5冊少なく出した。
1束15冊×6で90冊、あと10冊入れなければならないのに5冊しか入れなかった。
横の人がいきなり入ってきて動揺してしまったのがよくなかった。
考えすぎかもしれないが、バイトのみならず人生全般で、
他人の親切のようなものをうまく受け入れられない偏狭さがあるのだろう。
孤独癖のようなものがあるためか、横の人が急に持ち場に入ってくると露骨にビビる。
しかし、他人と協力できる人のほうが「正しい」のだから今後改善していきたい。
なーんて、いいおっさんがいい子ぶってるんじゃねえって話だよなあ。
自分が「正しい」とか思っている人が嫌いなのかもしれない。
ええ、そうですとも、もちろん自分のことは大嫌いだ。
むかしこのブログの創設者のムー大陸さんから、
ハスミとかいう人の「物語批判序説」を読めとすすめられて読んだら意味不明だった。
物語批判というのは、実地ではこういうことなのだと思う。
「男は女よりも強い」「男は女を助けるべき」「男が苦しんで、楽をするのは女」
以上のような通俗的な物語こそ批判されるべきだと思う。
はっきり言って、ぼくはラインで横の女がきつそうでも「がんばってますなあ」と思うくらいで、
男おとこオトコ男性アピールはしたくない。あまり先だって女を助けようとしない男だ。
だって、イヒヒ、人間って平等でしょう(男女問わず)。人間は、イヒヒ、平等さね。
去年、あたかも助けろというように、ラインのきっつい横がユーミだったことがある。
しなやかな肉体で美しいなあ、と観察しながらなにも手助けしなかった。
深夜帯になったら社員のMさんがマッチョにも助けていたので、
さすがに既婚子持ちであるだけのことはあるなあ、と思いながら自分はなにもしなかった。
そもそも右ひじが痛いから、助けると自分が痛いのだが、
男は自分の痛苦などよりも女を優先すべきという物語がこの国にはあるのだろうか。
序説にせよ批判されるべき物語があるとすれば、そういう男女論だと思う。
ぼくは女を助けるよりも、むしろ助けられるのが好きだ。
事実として女の人に助けられてきたおかげで、いままでなんとか生きてこられたのだと思う。
強い女の人ってすてきだなあ。
うちのブログの定期読者さまなんてたぶん10人行くか行かないかだと思う。
だから、そんな心配をすること自体意味がないのだが、
ちょっとお酒をのんだとき自信を持って書いた記事を
翌朝確信がなく消してしまうようなことがよくある。
で、当日の晩にまたそれを一部復活させたり。
まったくだれにも読まれていないブログなのに自意識過剰は困ったもんだ。
人は他人に興味を持たない。だれもわたしになんか関心を持っちゃくれない。
何度も自分にそう言い聞かせているのだが、自意識過剰だけは治らない病気。
混乱状態にあるときは言葉に頼るしかない。
だれかに相談したらいいのだろうが、されるほうのご迷惑を考えてしまう。
そのうえ他人のアドバイスに従うという謙虚さをあまり持ち合わせていない。
このため、どうせだれも読んでいないのだからとブログ記事にする。
大学ノートに日記でも書けよと言われるかもしれないけれど、それはそうだが、
ひとりくらい自分に関心があるのではないかという幻想をたいせつにしたいところがある。
過疎ブログの村民がなにを書いてもまったく現実には影響しないのだろう。
かといって人気ブログになる方法なんて知らないし、
日陰者だからこのくらいのアクセス数はむしろ好きなのだが、
きっとこのブログの存在がだれかの迷惑や救いになっているはず。
つまり、小指の先くらいは影響力があるというフィクションを、
そうであると断念しながら嘘であると知りながら信じたい。
いま変化の大転換期のような気がしなくもないので、心乱れることが多い。
しかしさあ、いったいだれがこんな無名貧乏人のヨタ話なんで読んでくださっているの?
正直、ラインとかピッキングとかいう言葉を去年のいまごろのわたしは知らなかった。
むかしから親しくしていただいている方にどうにか、
ラインやピッキングという言葉を説明しようとしてみたことがあるけれど、
わかってもらえたという実感はない。
それほどにラインやピッキングはいざ見ないとわからない現場なのかもしれない。
いまたくさん本を出している方はほぼ全員、
書籍や雑誌のラインやピッキングの現場を知らないだろう。
そんなことで優越感を味わうくらいしか
楽しみは底辺のわたしにはないのかもしれない。
底辺用語というのがあるのかもしれない。
8ヶ月おなじ職場に勤めていてもいまだにわからない言葉がある。
「ショウブスウ」ってこのまえはじめて聞いたけれど、なんなのだろう。
世界を知るとは、言葉を知ることなのだと思う。
人間を知ることが名前を覚えることと同義であるように。
万事、急がせたほうがいいと思っているのが多数派だ。
急げ、急げ、もっと急げ、3秒早くしろ、2秒早くしろ、1秒早くしろ。
結果、その人の身体が壊れても医療費なんか払わない。
休みたいなら休めばいいが、ならば給料はないぞ。
ああ、身体がきついのなら辞めればいい。なぜなら替わりはいくらでもいる。
急げ、急げ、もっと急げ、3秒早くしろ、2秒早くしろ、1秒早くしろ。
宅配便が30分遅れたら文句を言う人がいる。
その人の家族が交通事故に遭ったらなにを思うのだろうか。
偽善かもしれないが、わたしはサービスの遅れにはやさしい。
時間指定に遅れるという電話があっても、
「とにかく事故だけは起こさないでください」とお願いしている。
急げ、急げ、もっと急げ、3秒早くしろ、2秒早くしろ、1秒早くしろ。
スピードなんかよりもはるかに人間の身体のほうがたいせつだと思っている。
急げ急げとか冗談じゃないぜ。
急げと言ったらかえってミスをしてしまうという構造をどうしてわからない人が多いのか。
人間は言われたことの逆をする。これはわたしだけかもしれないが。
学校なんか行かなくてもいいと親が本気で思ったときに
動き出すのが不登校の子どもである。
われわれは結局のところ物語に支配されているんじゃないかと思うことがあるなあ。
男女ともに結婚したほうがいいというのは、
嘘ではあるけれども現代ではかなりちからのある物語でしょう。
重いものは男が持てだの、男は女を助けるべきとか、
こんな古臭い物語がいまでも大手を振ってまかり通っているのでびっくりしてしまう。
起業して成功したら生きがいがあるという古くさい物語を信じている男の子もいまだにいる。
上司が嫌いや姑が嫌いもありふれた物語かもしれず、現実はそうではないのかもしれない。
どのくらい勲章をもらって威張れるかを人生の物語にしているような最低の人もいる。
おそらく、わたしこそがその最低の人なのだから、だれかの物語を軽蔑などできやしません。
通俗的なパターンの通説みたいなものがあるじゃないですか。
たとえば――。
上司が意地悪だとか、パートのおばさんは怖いとか、
ライン(流れ作業)をするやつは人間のクズみたいな。
いまのバイト先で働いてみてわかったのは、現実と言われているものは現実ではないこと。
上司が嫌いどころか住所を知っていたら年賀状さえ書きたいくらいだし、
威張る先輩バイトなんていないし逆に古株にやんちゃをしてしまったし、
ラインに入っている人で人間として自分よりも低いと思える人はほぼいないといってよい。
むかし嫌いだった人もいたけれど、コートに穴が開いていて、
その生活苦を考えたらあのような不愛想なスキンヘッドになるのも仕方がないのだと思う。
よくさ、現実は厳しいとか、世間を舐めるなとか言うのが好きな人がいるけれど、
それって本当かなあ。ペロペロ舐めちゃったほうがいいんじゃないかなあ。
ペロペロ舐めたほうがいきなり早食いでのみ込むよりも「それ」を味わえるのではないか。
ペロペロ、ペロリーンだおっ♪
最高のぜいたくは異文化交流だと思う。
自分が知らない世界の人のことを知るほどおもしろいことはないと思う。
なぜなら、人はだれも生まれてから死ぬまで
自分という檻(おり)に収められた囚人のようなものなのだから。
ベトナムに戦争で負けたアメリカのマズローとかいう人が人間の段階わけをしたそうだが、
自己表現と他者理解のいったいどっちがおもしろいのだろう。
去年バイト先であるきれいな人からにらまれておもしれえと思いました。
あっ、この人は元ヤンなのかしらと思ったりして。
ヤンキーの世界とかまったく知らないから興味がありまくりなのである。
小中こそ公立だったか、高校大学は有名校でヤンキーさんとの縁は切れた。
正直ヤンキーという言葉の意味も知らないし、元ヤンの人のこともまるでわからない。
だから、非常に興味があるのだ。どんな価値観でどんなことを考えながら生きているのか。
まるでインチキ学者が興味のある標本体を発見して、
目をぎらぎら輝かせて舌なめずりしているような、
まさかないでしょうけれどそんな不穏な気配をお感じになったらごめんなさい。
わたし自身がもっと他人から興味を持たれるような存在にならなければ、
いわゆる異文化交流はできないのかもしれないといまちょこっと反省している。
知らない世界を知るっておもしろいと思うけどなあ。ゴーゴー! カモンカモン!
どうして? いったいどうして? あたまがおかしくなりそうだ。
いったいどうして明らかにわたしよりもがんばっていない人が、
これほど勉強しているわたしよりも社会的地位が高く、
かつ人にも恵まれ結婚して愛人もいて友だちも多くチヤホヤされているのか。
大した不幸も知らないようなやつが若手文学者ぶっているのか。
そして、いったいどうしてわたしなんかよりもはるかにがんばり屋さんで、
しんどい作業でも全力をふりしぼってなさっている方がわずか時給850円なのか。
あの人たちは絶対にわたしよりも高額の時給を取ってもいいと思う。
いまさらながら世の中って本当にデタラメなんだなあ。
本当はデタラメであることをごまかすために、
かつては新聞やテレビが大きな役割を果たしていたのだろう。
どうしてわたしよりもダメな人が高い世間的評価を受けているのか。
どうしてわたしよりも優秀な人がわずか時給850円で一生懸命に働いているのか。
わからない、わからない、わからない。
ならば、今後どうなるかもわからないと思いたい。
いま恵まれていないあなたも、いま得意絶頂のあなたも、そして僭越ながらわたくしめも。
なにもかもわからない。具体的なことを言えば、明日どうなるかはだれにもわからない。
よほど世間知らずの偽善的な人間なのだろう。
もし自分があの人だったら耐えられないようなあ、なんて思ってしまうことがある。
たとえば、足がない人、手がない人を見て、たまに人はそのようなことを思う。
自分が恵まれていることのやましさを感じる人と感じない人はどちらが上質なのだろう。
しかし、他人の気持はわからないのである。そこが救いだ。
わたしだったら耐えられないと思うまさにあの人は、
その人なりのペースでけっこう不満をうまく解消して、
それなりに快適に人生と折り合いをつけているのかもしれない。
他人を同情するような目で見るのはもっとも失礼な行為なのかもしれない。
その人の世界のことはその人しかわからないのだから。
バイト先でやたらがんばっている人を見るとおのれの怠惰が気まずくなる。
しかし、それぞれなのだろう。それぞれ替えがきかないのがそれぞれの人生だ。
それぞれがそれぞれのペースで生きるしかない。自分のペースで生きるしかない。
バイト先から帰ると、いろんな宿題を持ち帰ったような気がする。
職場でなく学校じゃないかと思うときがあるくらいだ。
社員さんもそういう方がおられて、ふたりの言い間違えを聞いて、
勝手で身分違いではあるがおかしな仲間意識を感じたものである。
昼礼で今日は欠席者が多いと言った社員さんがいた。
あわてて欠勤と言いなおして苦笑いしていた。
携帯電話で「Eさんも今日は欠席で」とある社員さんが話していた。
海外からの留学生が多いためか、
欠勤よりも欠席という言葉のほうがなにやらふさわしい気がするバイト先である。
経済学のことなどまるっきりわからないからねえ。
身近な世界のことならば、少しだけ理解できなくもない。
いまの資本主義世界の企業は目先の損得ばかり考えていると言えなくもないのだろう。
いまのバイト先の書籍雑誌物流倉庫は例年年末が忙しいようなのだ。
忙しい時期に人がいなかったら困る。
人がいなかったらどうしようもなく日雇い派遣を取るしかないが、
彼(女)らはとにかく高額だし経験がないから効率も悪い。
だから、忙しい年末のために時給850円で使えるような
安い人間を雇っておけということに資本主義経済的にはならざるをえない。
日本語をほとんどまったくわからないような外国人女性でも、
日雇い派遣よりは使えて安いから目先の利益、
つまり年末繁忙期のことを考え雇用する。それが資本主義経済だ。

年が改まり新年になったらがらりと仕事が減る。
しかし、人員は多い。
日本語がわからない外国人は日本独特の遠慮の文化を知らないから、
こんな職場でもシフト希望の通りに入れるものと思っている。
上も下も世界にはないだろうが、あまり上とも言いにくい職場だ(環境はとてもいいが)。
外国人女性はどうして正規の勤務時間通りに働けないのか、
早く帰らされてしまうのか(稼げないのか)日本語が不自由なためわからないだろう。
去年の年末ニコニコしていた新入り外国人女性さんが、
今日はとても不安におびえた目をしていた。

だがしかし、それが資本主義経済というものだと思う。
目先の利益しか考えないで人を使い捨てにせざるをえないのが資本主義経済だ。
わたしだってベトナム人女性の代わりにわたしが帰らされたときには、
え? え? え? わたしはあの子より価値がないのと本気で絶望した。
いまの職場では日本語がまったくできないベトナム女子よりも、
このわたしのほうの価値が低いと見られることもある。
それは協力関係でわたしが4時間働いたら、
ベトナム女子も3時間働かせるというようなものだと
あたまがいい(?)ので納得できなくもないのだけれども。
究極の答えは、いやならば辞めればいい。代わりはいくらでもいる、になるだろう。
そういう職場はいくらでもあるのだろうが(経験あり)、いまのバイト先はそうではない。
だから、こうして働いているのかもしれない。

だれかが得をすることでだれかが損をする。
だれかの幸福はだれかの不幸。
これはわたしが大好きだったスウェーデンの文豪ストリンドベリの世界である。
いまの職場は冷徹に観察すれば、ストリンドベリの世界だ。
しかし、ストリンドベリの陰惨陰鬱な世界とは異なりどこか明るいところもなくはない。
こんな世界があったのかと思う。
ベトナムが社会主義ながら資本主義にも対応すべく努力しているように、
わがバイト先も資本主義経済のなかで
どこかむかしのアカ(社会主義)のあたたかさを目指しているような気がしてならない。
現代では社会主義はなかば否定されているようなものだが、
資本主義にはないあたたかさがあったのではないかと変なことを思った。
人間はミスをするものだが、そしてミスを隠したがるものらしいが、
さっきした仕事のミスをだれも興味がないでしょうけれど白状しよう。
いま書籍雑誌の物流倉庫でアルバイトとして雇っていただいている。
いろいろ作業はあるらしいけれど、入庫という苦手なものがある。
単純作業なので単純に説明するが、
本や雑誌の数を黙々とかぞえてオリコンと呼ばれるプラスチックの箱に黙々と入れ、
それをコンピュータに正しく登録して黙々とベルトコンベアに流す時給労働だ。
たとえば、このオリコンには4束(本や雑誌は束になっている)を入れましたよ、
とコンピューターに登録して流す、
まるでコンピュータさまに使われるようなロボット以下の作業だ。
先ほどこれは4束入るだろうと思って4束を入れ、かつ入力してオリコンを流した。
なにやら次は(束ではない)端数を入れる決まりらしく
(これは間違えてもいくらでもごまかせる)、
端数を入れようとしたらコンピュータの表示と実際の数字が合わない。
実際は1束40冊だったのだが、ペーパー(コンピュータ)上は1束80冊になっていたのだ。
こういうことがたまさかあるので注意しましょう、
とは先輩バイトさんから何度か教わっていた。
しっかし、気がつくかよ、そんなもん。
バイト先で入庫時間数は極めて少ないが、いままでそんなことはなかったし。
今回このミスをしたのははじめてだが、絶対にまたしないかと詰問されたらわからない。
ところが、馴れのせいか適性のためか、
こういう細かな数チェックがお上手な人もバイト先にはたくさんおられるようなのである。
優秀な人っているんだなあ、と思う。

本をたくさん書いているような人優秀な人は、
われわれの骨折りをわかっておられるのだろうか?
あなたのお書きになったたいそうすばらしい(?)ご本を、
わずか時給850円で日本全国にまわしている善男善女(わたしは例外)がいるのだ。
今日はピッキングの持ち場に泣きたくなるくらい重たいフカキョンの写真集があった。
フカキョン死ねよとはまさか思わなかったが、
フカキョンは好きではなかったが、よけい好きではなくなった。
いまのネット全盛のご時勢、重くて場所を取る女優の写真集なんて買うやつがいるのか。
あれは増刷かもしれないからなんとも言えないが、
うちの倉庫では○○○冊(クビになりたくないから企業秘密は守る)だったから、
大して売れることを見込まれていないのではないか。
いま調べてみたら増刷だったから売れているのか、ムカムカ(←どうして怒る?)。
フカキョンなんておばさんのどこがいいのかと、おっさんは言ってみる。
まったく人生って不平等だよなあ。
いまの職場には私見ではフカキョンよりもきれいな人がいるのに時給850円だ。
わたしよりもはるかに優秀な男性がたくさんいるのに時給850~900円だ。
なんなんだ。いったいなんなんだ、この世界は。バカヤロウ、バカヤロウ!
むかついたのでいまからひとりカレー鍋をつくって食べます。
最近、うちに来てくれる人がいないのですっかり料理をしなくなってしまった。
あのね、カレー鍋ってさ、鍋スープにカレールーを追加するとうまいんだぜ。
カレー鍋に豆腐を入れても不思議、どうしてか合うから一度お試しください。

(追記)フカキョンの写真集が重かったと書きましたが、あのくらいの分量なら楽勝っす。
よくさあ、成功者が得意顔でさも人生わかったような顔をして言うじゃないじゃないですか。
好きなことだけやっていろ、とか。
他人の迷惑なんて考えずに好きなことをやれるのが才能だ、とか。
ふつうの人は世間体とか親の期待とかあるから、好きなことは続けられないでしょう。
好きなことなんて続けていたら一生下積みで終わるかもしれないわけだから。
下積みっていっても平社員なら正社員だからまだいいほうで、
「失楽園」の渡辺淳一が書いていたけれど
「老人になって地位も金もないのはみじめで悲惨」というのは本当の真実だと思う。
しかし、成功者は好きなことをやれと言う。
マイクロソフト元社長の成毛眞さんとか、「痛くない注射針」の岡部雅行さんとか、である。
たいていの人は好きなことをあきらめて遅かれ早かれまっとうな人生へ戻っていくはず。
平凡というのは思っている以上に輝かしい存在だと思うのだけれど、
平凡がいやになって自己啓発書を読む人が現われる。
結果、成功した人だから言える「好きなことをやりつづけろ」という言葉にぶつかる。
で、自分は好きなことをあきらめたからダメだったんだと変な後悔をする。
でもさ、あれは成功者だから言えるきれいごとなのかもしれないのである。
たとえば先日読んだ成毛眞氏の成功本「このムダな努力をやめなさい」から。

「人生は楽しんだもん勝ちだ。
苦労も自虐ネタにするならいいが、
どっぷり浸かってしまったら人生をムダに消耗してしまっている。
どれだけ人を楽しませるネタをそろえられるかが人生の最優先課題だ、
と私はかなり本気で思っている。
資格や肩書も墓場までは持っていけないのだから、
素の自分でいかに人の記憶に残る人生を送れるかが重要なのだ。
興味がある事なら何でもいい。たとえば能に興味があるのなら、
観に行くだけではなく、自分で能楽教室に通うのもいい。能面を作る教室もある。
好きなことを深く追求する。
そのほうが楽しいに決まっている。
それこそ今、やるべきことなのである。
やがてそれが自分の武器となるかもしれない。
自分の身を助けることにもつながることはあるだろう」(P39)


人気ビジネス書の「プロ論。」の成功者たちもみな似たようなことを言っている。
うちのブログのカテゴリー「通俗成功哲学」をご覧いただいたらおわかりになるよう、
成功者はとにかく「好きなことをやれ」と言うのが好きである。
でも、好きなことを続けていて成功できるのはほんのひと握りじゃないですか。
ある面では有害でしかない言葉だと思う。
ふつうのビジネスパーソンはこういう甘い言葉に気持を揺さぶられるはずだ。
けれども、まじめに働いていたら好きなことなんてする時間があるわけがない。
逆なんじゃないかと思うね。
たたただ平々凡々にまじめに誠実にいい人たるべく働いているだけで偉いのではないか?
好きなことなどせずにいやな仕事を黙々とこなしているだけでも十分に偉いのではないか?
なんの輝かしい履歴を持たずとも結婚して子どもを育てている、
それだけで立派ではないか?
みんながみんな好きなことをする必要なんてどのくらいあるのだろう?

ただ平凡に生きる人の小さな喜びや悲しみ、小さなかなわぬ恋や小さな嫉妬による意地悪、
取るに足らないけれど本人には大事な失意や落胆、後悔、
小さな会社における出世欲、その成就あるいは断念、
できの悪いわが子への期待とその裏切り、つまりそれぞれの人生における
それぞれの人の小さな発見を丁寧に描いたのが山田太一ドラマであったと思う。
平凡な人生でも十分生きるに値する輝きを持っていることを描いたのが山田太一ドラマだ。
しかし、あれはどの程度リアルなのだろうか。完全な作家のフィクションなのだろうか。
現実ってなんだろう。他者の現実ってどうなっているんだろう。
「好きなことをやれ」という成功者のメッセージよりは、
山田太一ドラマのほうがいまのわたしにはリアリティがある(人それぞれでしょうが)。
成功者の金言と山田太一ドラマのいったいどちらが
自分にとっても真実なのかはまだわからない。
どっちが本当なんだろう。まだわっからねえ。
「本当のこと」はどれも実際に生きてみないとわからないことばかりなのだろう。
そして「本当のこと」や「人生の真実」は人それぞれでどれも「正しい」のだと思う。
まったくなにもおおやけに向けて書けない時期が9年近くあった。
書きたくて書きたくてしようがない時期も数年あったが、
コンクールや新人賞という世間からの評価はひとつも得られなかった。
そして、どうしてだかはわからない。
いっぱしに世間というものに見切りをつけたつもりになっていたのかもしれない。
コンクールや新人賞に応募しようという気がまったくなくなってしまった。
他人に評価されるためには他人のことがわからないといけないような気がする。
しかし、ぼくはまったく他人のことがわからないのだ。
今日バイト先でぼくの横にいた人、休憩室でそばにいた人の気持もまったくわからない。
いまもし表現したいものがあるとすれば、
偽善的かもしれないが彼(女)らの切実な思いかもしれない。
どんな人に対してもこの人はどんなことをいま考えているのかと思う。
聞けないよなあ。気軽に声をかけられない。
今日もチャンスらしきものはあったのに、あなたの声を聞けなかった。
なにを考えているんだろう。いったい他人はなにを考えているんだろう?
今年はじめてバイトに行き娑婆(しゃば)の風に吹かれてきた。
娑婆の風は冷たいというが、異常な暑がりなので寒さなどめったに感じたことがない。
間違いなく、いまの職場でいちばん薄着である。
むかしある「偉い」女人から「あんたは厚顔。面の皮が厚い」
と厳しく叱責されたことがあるけれど、
二代目社長のかの女はわたしを正しく見ていたのかもしれない。
例年は見かけ上のために(変な人に思われたくない!)、
外出時にはいちおう冬物コートを着ていたけれど、今冬は本音で生きようかなあ。
職場でいただいたカレンダーを数えてみたら、
今日12日ぶりに顔見知り(知り合い)と顔を合わせたみたいだ。
年末年始にだれかと逢うなんて、ないない、ないから、そんなものよアラフォー人生。
孤独ランキングはそうとう高いのだと思う。
難しいことだけれど、孤独に強い自慢も、孤独に弱いアピールもしたくない。
だって、お正月に親戚みなさん一同集まったところでひとりひとりは孤独でしょう?
バイト先で休憩時間におなじ国籍でどれだけ盛り上がっていても、
それぞれ孤独だと思う。
それぞれがそれぞれの辛さやわびしさ、孤独をどうしようもない。
つくづく他者の現実はわからないと思う。
いま横にいる人がどんなことを喜びに思い、あるいは悲しんでいるのかまるでわからない。
書かないこと、書けないこと、たくさんある、いっぱいある。
きっとみんなもそうだろうと思うのは偽善で、
なかにはお気楽に生きている人もいてほしいなあ。
――わたしのように、と書いたらぶん殴られてしまうので書かない。書いてるやんけって話。
なにがなんだかまるでわからない。明日どうなるか。明後日どうなるか。
「この無駄な努力をやめなさい」(成毛眞/三笠書房)

→すっかりニートづいたなあ。働くってどういうことだっけ?
クリスマスはまじめに働いたんだけれど、年始は明日がスタート、仕事はじめ。
これは自分のためもあるけれど、他人のためでもある。
古参バイトさんから年始は仕事量が極めて少ないという情報を教えていただいた。
10の仕事を10人でしたらいちばんいいのだろう。
しかし、3しか仕事がないときに10人シフトに入ったら、
それぞれ食い合って取り分が1/3程度になってしまう。
バイト先では50の仕事があるときもあるのである。
足りない分は日雇い派遣でまかなうしかないのだが、
彼(女)らは未経験なうえに値が張る。高い。金がかかる。
だから、30くらいの人を常時用意しておいて、
前日にならないとわからない仕事量に対応しているのがいまの職場である。
非正規バイトとして働く側としては「運」が大きく関与しているのがおもしろい。
たまたまシフトに入った日に仕事量が多ければ残業もできてたくさん稼げる。
といっても千円、2千円程度の、
元マイクロソフト社長の著者には「はした金」にもならない小銭なのだが。

働くってどういうことだっけなあ。思い出さないといかんがや。
そのためにブックオフにて108円で購入した人気ビジネス書を新幹線よりも早く読む。
本書は――元マイクロソフト社長という肩書だけで、
これからの人生を遊びながら楽しみたいという元ビジネスマンの書いた自己啓発書だ。
ネットで調べてみたら絶賛記事ばかり。
マイクロソフトという会社はそんなにすごい会社だったのかと改めて思い知った。
生身の裸の著者と道ばたでばったり会っても気がつかないだろうけれど、
肩書を教えられたら土下座して靴をペロペロしたいようないまのわたしである(うっそ~)。
著者の言っていることは「正しい」のである。
しかし、それを実行できるかが問題なのだろう。

「自分が苦手な仕事は、
それが得意な人間にやってもらったほうが効率的だし、生産的だ。
会社にとっても、そのほうがいいに決まっている。
極端なことをいえば、自分が苦手な仕事は放っておけばいい。
そうすれば誰かがその仕事を代わりにやることになる。
会社組織というのは、そういうものなのだ」(P3)


非常に「正しい」けれど、実践できるかどうかだ。
わたしがどうだかはいまのバイト先の上司やパート仲間だけが知っている秘密である。
秘密は秘密のままにしてほしい。

「我慢して不得意な仕事に取り組んだところで能力の半分も発揮できないし、
嫌々やるから時間もかかる。効率を重視するなら、
自分のしたい仕事をするほうが存分に能力を発揮できる。
違うだろうか。会社にとってもそのほうがいいはずだ」(P68)


いやね、いやいや成毛さんはご存じないでしょうが、
世の中そんなクリエイティブな会社ばかりではなく、最低限の能力しか必要のない職場も。
しかし、成毛さんは「正しい」。
本当のところ、好き嫌いが激しいから、いやなところにまわされるとミスばかりだから。
書籍ピッキングをやりたがるのは、本が好きなこともあり、
みんなでする作業であることもあり、なにより会社のためなのであーる♪

「面倒な仕事は、それを面倒くさがらない「いい人」にやってもらえばいい。
私は、そう思っている」(P70)


成功者の成毛さんはガチンコだなあ。でも、ぶっちゃけそうなんだよね。人それぞれ。
わたしの大嫌いな作業を馴れのためか適性のためか、
大した苦労も感じさせずにこなしてしまう方が複数おられる。
わたしはそういう偉人さんたちをカッコつけの「いい人」とどこか下に見るのではなく、
本当に心から自分には真似ができないことをなさる人たちだと仰ぎ見ている。
成功者の成毛さんのおっしゃることはすべて「正しい」ことばかりである。

「組織の中で孤独に耐えるのは、意外と難しい。
社内で誰にも話しかけてもらえない状態が一週間も続いたら、
普通は神経が参ってしまう」(P80)


じゃあ、いまのバイト先には成毛さんよりも神経のずぶとい人が幾人もいるんだなあ。
そういう方たちが成功していないのは、いったいどうしてなんだろう。
わたしも他人からめったに話しかけてもらえないが、
恐るおそる話しかけるとみなさん応じてくれるので本当に心から感謝している。
明日からまたよろしくお願いします。
成毛眞さんよりも人間として偉い人がうちの職場にはいるような気がするけれどなあ。

「偶然のチカラ」(植島啓司/集英社新書) *再読

→大学生のころからシンクロニシティとか大好きで、
いわば在野の偶然研究家(なさけねえ名称だ)と言ってもよい、えっへん♪
関心どんぴしゃりの本をもう4度目くらいの再読である。
偶然ってなんなのだろうなあ。
日々一刻一刻と偶然は起こっているのだが、
それを偶然と認識するのは「私」という主体(存在)である。
偶然は「私」という意識(=自意識)と強くかかわっている。
いろいろな偶然はあるけれども、
すぐに忘れてしまう偶然と深い意味を持つ偶然とにわかれる。
深い意味を持つ偶然とは、それによって人生航路が変わる偶然だ。
ある偶然を必然とある人が感じたとき、その人の人生は動き出す。
ならば、偶然をたくさん味わいたいなら旅に出るにかぎるという話になる。

働かなければならないならば、
できるだけ多くの人とわずかでもかかわれる仕事のほうが偶然を感じやすい。
とはいえ百円ショップの店員は毎日接客でいろんな人に逢うが、事件はないだろう。
退屈な繰り返しばかりで刺激は皆無と言ってよいのではないか。
偶然による発見をわれわれ(わたしだけ?)は求めているのかもしれない。
おもしろい偶然をいっぱい味わいたいと思っているところがある。
安定とか「つつがなく」とかどうでもいいから、どきどきしたい、はらはらしたい。
けれども、自分からスリルを求めたところで「それ」は偶然にしか来ないのである。
みんななにか起こらないかと切望しているのではないか。
退屈な日常になにかが起こらないか。
このため、占いのようなものに興味を示すものも現われる。なにか起こらないか?

「占いの基本は、自然の運動はある種のパターンに従うものであり、
そのパターンは宇宙全体の構造を示すもので、
同じパターンが他の場所での運動や活動に
どのような影響を与えているか知ることができるというものだ」(P83)


星占いで今日「運命の人と出会えるかも」と書いてあったら、
それだけで刺激的で会う人の姿かたちが変わって見えることだろう。
だとしたら、それも星の(占星術の)パワーということになるはずである。
なにかパターンのようなものは、
われわれには見えないがあるような気がみなしているのではないか。
たとえばルーレットの出目はだれにもわからないが、
ある規則性が神の視点から見たら存在するのではないか。
ルーレット経験豊富な著者は断言する。

「ルーレットでは、出た目はまた出るし、出ない目はいつまで待っても出ない」(P183)

めったに出ない目(大きな幸福や不幸)というものが人生にもたしかに存在する。
感覚として、変な目に遭った人はまたおかしな出目に遭遇するような気がしてならない。
おかしな偶然から立身出世、大成功した人はかならず今度は不幸のどん底に落ちる。
壮絶な不幸を偶然から経験したものは、おなじような奇妙な出目の僥倖にめぐりあう。
どうしてかそういう気がしてならないのである。
在野の偶然研究家であるわたしの分析では、東大卒である著者の
植島啓司元関西大学教授の大フィーバーはもう来ないような気がする。
運を使い果たして、いまはどう落下を食いとめるかだけだろう。
それでもいい目を見(ら)れる人は少ないのだから、彼は胸を張ってよい。威張っていい。
人が経験できないおいしい思いをたくさんしたんだから植島さん、
笑顔で棺桶に入ってくだんなせえ。

「越南(ベトナム)不眠惰眠旅三昧」(日比野宏/凱風社)

→日比野宏さんの本の大ファンなのだが、
このベトナム旅行記も深みのあるとてもいい本だった。
いま日本人がベトナムのことを知ろうと思ってどういう方法があるだろう。
インドや中国ほどベトナムは学問領域に入っていない。
インドや中国でさえ欧米志向の強い日本ではマイナーな分野だろう。
どうしたらベトナムのことを理解できるかと言っても方法がないわけだ。
ベトナム人と友人になれればいちばんいいのかもしれないが、ふたつ問題がある。
ベトナム人ならば、ベトナム人というだけで、ベトナムのことをよく知っているのか。
もうひとつのほうの問題は根本的で、
他人と友人関係になるのは神さまや仏さまの手を借りなければならぬほど難しい。
とくにわたしのようなコミュニケーション能力に障害があるカタワもんは。
だからこうして優秀な旅行作家が書いたベトナム見聞記を読むしかないわけである。

日本は戦後70年だが、ベトナムは戦後わずか約40年なのである。
そのうえ日本の戦争とベトナム戦争では格が違うとも言えなくはない。
日本が第二次大戦中に落とされた爆弾の数十倍の量を、
ベトナム北部はアメリカによって落とされたという説もあるらしい。
戦後70年だからか、日本人はお人好しなのである。他人を信じすぎる。
よくも悪くも危機意識があまりない。
まだ「地球の歩き方」も出ていない時期なのだから当たり前なのだが、
当時ベトナム人にだまされたりぼられたりした著者は、
「サイゴン、バカヤロウ」と本書に書いている。
これはわたしもまったくおなじでベトナム旅行中のブログ記事を読み返したら、
ベトナム人の悪口ばかり書いている。
いまはベトナムびいきのようなことを書いているが、
ベトナム人からされたことは親切3、意地悪7くらいのような記憶がある。
ベトナムは、タイ、カンボジア、中国とは毛色が異なるむしろインド寄りの国だろう。
しかし、あのひどい戦争を経験して
それほど時間が経っていないのだから当然とも言えよう。
著者もお書きになっている。

「他者への思いはさて置き、まずは自分中心に生きる――という風潮こそ、
サイゴンという街の厳しさや、ここに住む人間たちのしぶとさを表す証左ともいえる」(P92)


戦後70年で戦争を完全に忘れてしまった日本人は、
絆とか思いやりとか助け合いとか薄っぺらい言葉がお気に入りのようだが、
人間はみんな自分がいちばん大事なのではないか。
自分中心に生きてなにが悪いか?
こう言葉にしてみてわかったが、これはベトナムやインドの旅で思ったことだ。
ベトナムが明らかに日本に比べて活気があるのは、
みんなが「自分中心に生きる」という根っこのところを忘れていないからなのかもしれない。
明日、爆弾を落とされたら財産どころか命の保証さえないのである。
著者が旅先で知り合った戦争経験者の南部ベトナム人はこう言ったという。

「明日がどうころぶか、いまだって誰にもわからんだろ。
だから、いまを精一杯生きていくんだ。
食えるときは思う存分食い、楽しめるときは思いきり楽しんでしまうんだ」(P232)


べつに日本人批判をしたいわけでもなく、ベトナム居住のベトナム人よりも
日本人のほうがはるかにやさしいから日本人は好きなのだが、
日本人はいまを楽しむことを忘れて、あるかどうかわからない老後のために
寸暇を惜しんで労働ばかりしている人が多いような気がしなくもない。
それはそれで日本人のとてもよいところなのだが。
日本は――、日本人は――、と書いているが、みんないっしょくたにはできない。
はっきり言っておなじ日本人でも関西の人はわからないとか、
東京の人はドライで情がないから嫌いだとか、そういう意見もあるわけである。

むろんのこと、ベトナムでもそういう地域差はふんだんにあるらしい。
ベトナム人は――、なんていっしょくたにして語れる存在ではないのである。
ベトナムは南北に広がる国である。
北にあるのがベトナムの首都ハノイ(ベトナム戦争で勝った共産党サイド)。
南の中心地が旧サイゴンのホーチミン・シティ(戦争で負けた資本主義サイド)。
ベトナム戦争では南北でおなじ国の人が殺し合ったわけである。
日本以上に南北の差があるのは当たり前だ。
北ベトナムの人はベトナム戦争を「対米救国戦争」と呼んでいたそうだ。
なかには「アメリカ破壊戦争」と呼んでいた人もいた。
結局、社会主義サイドの北が資本主義サイドの南に勝ったのがベトナム戦争だ。

旅行中、著者についてくれた北ベトナム出身のガイドはこういう表現をしている。

「北も南も、同じベトナム人には変わりありません。
だけど、北の人間は勤勉で辛抱強いのですが、
南の人々は陽気で楽天的で、とても楽しい人たちです。
北の言葉はとても美しい発音ですが、南は抑揚があって元気です」(P132)


敵をつくらないうまい玉虫色の表現と言えよう。
本書によるかぎり、一般的に(戦争に勝った)北は南の人をどこかで見下しているようだ。
履歴書に南ベトナム出身であることを正直に書くと就職できない仕事もあるとのこと。
こういうのってリアルだよなあ。
ここまでベトナムに迫れた著者の人間パワーには感心する。
日本社会でも言葉にできない微妙な差別意識のようなものはあるけれど、
それをたとえばベトナム人留学生が理解するのは相当に難しいはずである。
いまベトナム人の若い子たちといっしょに時給850円で働いている。
男も女もベトナムの子は笑顔がすばらしいのである。
本書によると、ベトナムには以下のことわざがあるらしい。

「一つの微笑みは千の言葉にも値する」(P262)

ベトナム女子の笑顔にメロメロになる男もいるんだろうなあ。
著者もその口だったらしく、笑顔の裏に隠されたベトナム人女子のプライドの高さ、
自分勝手さにほんろうされたことを、
ひとりよがりにならない読書に耐えるレベルの楽しい読み物としてお書きになっている。
ベトナムの子の笑顔って本当は怖いんだなあ、ガクガクブルブル。

日比野宏さんの旅行作家としての才能のひとつは運のよさだと思う。
著者は5年ぶりにある家族に逢いたくなってベトナムに行ったという。
しかし、かつての住所にはその家族はいなかった。
にもかかわらず、著者はかならず逢えるという自信を持って行動するのである。

「……彼女たちの居所はまったくわからなかった。
だが、この地はベトナムである。
また、旅のさなかでは、なにがおきてもおかしくない。
夕食をすませたあと、なんらかの手がかりと偶然を願い、
小雨まじりのドンコイ通りを歩きまわった。
ボローダーというヨーロッパ調のレストランを通りすぎ、
ホテルに戻ろうとしたちょうどそのとき、
背後から「ヒロシ!」という声が聞こえた。ふり向くと、ぬれた路面の上で、
ウエートレス姿の次女バンが銀色のトレンチを片手に、
満面の笑みをたたえながら立っていた。
彼女は昨夜、べつの系列店で働いていたが、
今夜になって人手が足りずにこの店に派遣されたそうだ。
勤務時間が終わりに近づいたころ、窓側の客に呼ばれてふとガラス窓の外を見ると、
店先の小道を歩いていた私に気づいたという。
旅行中はとかくこの手のタイミングで偶然がよくおこるものだ」(P154)


これはまったくその通りで、旅行中は信じられないような偶然がよく起こる。
何度もおなじ人に逢ったり、
シンクロニシティの存在を確信するようなことがたびたび発生する。
きっと「旅のさなかでは、なにがおきてもおかしくない」
と無意識的に思っているからだろう。
いま日常ではなく非日常を生きていると思っているから、
そういう偶然も起こるのではないか。
だとしたら、旅ならぬ人生も「なにがおきてもおかしくない」という態度で生きたらどうだろう。
名著ゆえ、勝手に人生指南のようなものまで読み込んでしまった。
人生は旅とおなじで「なにがおきてもおかしくない」のかもしれない。
「明日がどうころぶか、いまだって誰にもわからんだろ」――。
日本は敗戦時、70年後にこうなっているとは思いもしなかっただろう。
ベトナムも戦争終了時にいまのベトナムを予想できたであろうか。
どうでもいいわたしの個人史を思い返しても、なにが起こるかなんてわかりはしない。

北朝鮮のことをバッシングしている報道を見かけることがある。
だがしかし、いまのベトナムは「勝利した北朝鮮」と言えなくもないのである。
東ドイツもソ連もつぶれたのに、ベトナムだけはうまくやっているのである。
もしかしたらベトナムは今後世界史上で重要な意味を持つ国家ではないか。
ベトナムやベトナム人はおもしろいのではないだろうか。
いまの日本の繁栄がベトナムのおかげという説もあるのである。
1955年生まれの著者はこう書いている。

「東京オリンピックが閉幕したあと、日本経済は不況を迎えた。
しばらくして、アメリカ兵が日本に姿を見せるようになると、
景気は再び上向きに転じた。さらにベトナム戦争が泥沼化すると、
「ベトナム特需」によって日本は高度成長経済に突入し、
その後の目覚しい発展を迎えるきっかけとなった」(P195)


そうしていま2015年、
ベトナムから語学留学生が6千人以上日本に来るようになっている。
その人たちといっしょにいまわたしは働いている。

「飲む・打つ・買う」なら飲むくらいだよなあ。
打つって飲むよりもおもしろそうだから、これはくわばらくわばらと敬遠している。
文字通り敬するがゆえに遠ざかろう遠ざかろうとしている。
まえの記事にインチキくさいことを書いた。

☆人生=[行為(選択)→デタラメ→結果(勝敗)]

これをまさに体感的に味わるのがギャンブルだろう。
競馬なんてまさしく人生そのものと言ってよい。
ぼくの最大の幸運ははじめての競馬で負けたことかもしれない。
大学時代、当時の仲間に誘われ、
年末の有馬記念だかに5千円ぶち込んでそれがすぐさま紙くずになった。
学生が競馬をしてはならないのはそのころ知らなかった(ことにしておく)。
ほんとビギナーズラックだかにめぐりあわなくて運がよかったなあ。

パチンコは人生で一度もやったことがない。
タバコの煙が嫌いなのが幸いしたのかもしれない。
パチンコはやったら絶対に夢中になるというおかしな自信がある。
いまのバイト先にパチをたまにやるおばさんがいるらしいけれど、
そんな悪い遊びはぼくに教えないでください。
競馬でも競艇でもパチンコでも、他人がやるのはいいんですよ。

それからギャンブルって言えば、結婚と出産もまさしくギャンブルだと思う。
結婚はギャンブルだよなあ。
あんな恐ろしいギャンブルをしたことがある人へは人として尊敬する。
あまり知られていないが出産もギャンブルである。
大いなる神の手が采配を振るう神聖で恐ろしい場所である。
おもしろいといえばこれほどおもしろいものはなかろう。
親子の絆は離婚のように切れるものではないのだから、結婚よりもギャンブル性は強い。

人生で大きなギャンブルをしてみたいよなあ。
これは結婚をしたいとか、子どもがほしいとか、そういう意味ではない。
一か八かの賭けってスリリングでおもしろそうだよなあ。
オール・オア・ナッシングとか、そういう投機的世界にあこがれがある。
口だけだと思ってください。
あるブログ推薦のNHKの72時間がどうのという番組を違法動画サイトで視聴した。
たまに閲覧している2ch「孤独な男性板」でも番組名を見かけた記憶がある。
尊敬する芥川賞作家の西村賢太さん行きつけの「信濃路」の回をYouTubeで見た。
ひねくれているせいか、みなさん演戯過剰で嘘くさいと思った。
しかし、ああいう人情劇めいたものをみんなで信じながら世間はまわっているのだろう。
いろいろな人が集まる世界って本当におもしろい。
いまのバイト先の書籍出荷倉庫は超おもしろいけれど、
NHKのカメラが入ったらみんなきれいないつわりの善ばかり見せつけるだろう。
ぼくは残念ながらNHKのような存在かもしれない。
みなさんのきれいなところばかりしか見ていないからだ。
もっとダークなきっつい暗い部分も見たいなあ。
なーんちゃって♪ じつはいろいろ見ている。おもしろいなあ。みんなおもしろい。
しつこいけれど、いろいろな人がいるっていい。
そう言いながらおまえは多様な人間を許容しないだろう、
とブログのコメント欄で批判されたことがある。
いろんな人がいていいと言いながら、
許せない人がいるぼくみたいな人格破綻者がいてもいいんじゃないかなあ(←甘え)♪
好きな作家のベトナム旅行記を読んで自分はかの国のことをなにも知らないと再確認した。
そもそもある国のことが「わかる」というのも怪しい。
日本人だったら日本のことをみんなわかっているのか。
それぞれの出身地や生活水準、
文化レベルによって日本を知っている気になっているだけではないのか。
日本人だが大阪に行ったら関西人の言葉を百%理解できる自信はない。
あの人たちはおなじ日本人とは思えないという、どこか差別的な思いもある。
(もちろん、京都や大阪のほうがはるかに格上で偉いのございますよ)
九州の人のランゲッジ(言語)をおそらく正確に理解できないし、
努力して学ぶこともできないだろう。

環境によるのだろう。
親が外国人だったら、かなり外国語の吸収も早いのではないか。
親が田舎の名士なら、日本独特の根回し意地悪文化の飲み込みも早いだろう。
いま若いベトナム人と一緒に働いている。
ベトナムにはむかし1ヶ月ふらふら遊びに行ったことがある。
カンボジアから入り、中国へ抜けた。
当時わたしは「ベトナム特需」という言葉を知らなかったような気がする。
そもそも高校や予備校では日本現代史はそこまで詳しく教わらない。

日本の高度経済成長はベトナム特需だったという説があるのを、
恥ずかしながらいまさら知った。
教わったのかもしれないが忘れていた。
1965年からほぼ10年続いたベトナム戦争が日本の高度経済成長を支えたという物語。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
15年まえの大学生時代にはまった(いまは日本最高峰権力者の)村上龍だって、
ベトナム戦争の影響を読者が恥ずかしくなるくらいに受けているのである。
いま40歳間近のわたしが若いベトナム人と一緒に働いているのは、
考えようによってはかなり文学的な事件なのかもしれない。
まあ、たまたまの偶然なのだが。

日本の高度経済成長がベトナム特需であるとしたら(真相はだれにもわからない)、
自分たちこそがいまの日本を努力で作ってきた
と威張っている老人には一刻も早く死んでほしい。
世界のどうしようもない構造の産物(高度経済成長)を、
自分たちの努力の結果だと思っているお気楽さは万死に値すると言えなくもない。
まあ、人間の歴史なんてきっとそんなものなんだろうなあ。
「般若心経で朝から幸福に生きる 不安を解決する30講」(ひろさちや/青春出版社)

→ある日本を代表する作家が自分の本を新刊で買わないやつは許さない、
とネット上で発言して波紋を広げたらしい。なんか教祖と信者みたいで怖いと思った。
そう言えば、ぼくは人気ライターひろさちやさんの本を一度も新刊で買ったことがないなあ。
印税を一銭も渡していないことになる、やばっ。
話したいとも思わないし、そういうファンはひろさん嫌いだろうとわかるから。
講演会にも行ったことがないし、行きたいとも思わない。
これって考えてみたら、ありえないほど理想的な関係じゃないかしら。
作家とファンのベタベタした関係って単純に気持悪い。
ファンのなかでも上下関係が生まれて、
自分は先生と何回ゴルフに行ったから偉いとか、そういうの新興宗教みたいで、うざっ。

人気宗教ライターひろさちやさんの主張はデタラメ、あきらめ、いいかげん、である。
あきらめよう、もっといいかげんに生きよう、は他の有名人も言っているが、
この世の中はデタラメだと断言できるのはひろさちや氏と中島義道氏くらいではないか。
思いっきりわかりやすーく人生を断片化するとこうだよね。

☆行為→(?)→結果

成功者とか金メダル選手は、自分の努力をえんえんと自慢するじゃない。
それに人ってどうしてか自分は善人だって思っているところがあるよね。
みんな悪よりは善をしたいとどこかで思っている。
どうしてかって考えると、善因善果の考え方がはびこっているからだと思う。

☆善行→(?)→善果
☆悪行→(?)→悪果
☆努力→(?)→成功
☆怠惰→(?)→失敗


まあ、こんな感じ? これってさ支配者層に都合のいい考え方なんだよね。
上のほうの人はしもじもの人間にがんばってもらわないと困る。
ちゃんと働いて年貢や税金を納めてほしい。一揆なんて起こされたら困る。
経営者は従業員から一滴でも多く労働の汗を搾り取りたいとどこかで願っている。
このため善因善果とか悪因悪果とか、
そういうデマを僧侶を通じて下層民に植えつけたのだと思う。
でもさ、実際ぜんぜんそうじゃないわけでしょう。
いい人が難病で苦しみながら早死にして、
人様に灰皿でテキーラを飲ませるようなやつが女にもてて金を稼いでいるわけ現実って。
そこで前世とか来世とか存在していない証明が不可能なものを持ち出して
(最先端科学でも前世や来世が存在してい「ない」ことは証明できない)、
悪果は前世の報いだの、悪行は来世にたたるだの、下層民を脅しつけたわけだ。

いまでも前世や来世を信じている人はいるけど(ぼくぼくぼく!)数は少ないよね。
いまは現世一辺倒で善因善果、悪因悪果という幻想をみんなで信じている。
みんなでみんなに善因善果、悪因悪果という催眠術をかけあって、
生きにくい世の中をみんなで手を取り合ってまわしている。
なかば嘘だろうと気づいている人もいるけれど、はっきり公言はできない。
でも、もういつ死ぬかわからない仏教ライターのひろさちや氏は言い放つ。

☆行為→(デタラメ)→結果

善因善果も悪因悪果もない。そもそもなにが善でなにが悪かわからないじゃないか。
他人に善行をほどこそうとしてかえって迷惑になることがどれだけあるか。
いいかげんに仕事をしていてもなぜかすいすいうまくいくことってあるでしょ?
失敗だ、不運だと思っていたことが、のちの幸運や僥倖に結びつくことも少なくない。
もしかしたら行為と結果はあまり結びつきがなく、
人間が思いはかるような善も悪もないのかもしれない。
行為と結果の関係があいまい(デタラメ)ならいいかげんも、あきらめもいい。

☆いいかげん・あきらめ→(デタラメ)→どうなるかわからない!

どうせ日本人はね、みんないいかげんにやろうと思っても、国民がらがんばっちゃうの!
外国人のさぼるときのさぼる姿勢は半端なく、日本人には絶対に真似できないから。
しかし、なにが功を奏するかなんて本当は絶対にわからないんだなあ。
日本人ってぼくもふくめて(おまえはふくめない!)マジメだよねえ。
だれも見ていなくてもマジメに働くのなんて日本人だけじゃない?
そういう日本人は息抜きにひろさちや先生の本を読むのはときにいいのかもしれない。
べつに読まなくてもぜんぜんいいけれど。

バイト先のベトナム人女子に、かつてベトナムに行った過去を伝えると、
「ベトナムのごはんはおいしかったでしょう?」と誇らしげに言われる。
といっても、確率的にはまるで当てにならない数値で、チャンさんとアンさんからだけだが。
本によるとプライドが高いらしいベトナム人女子ふたりからそう言われました。
そして、これは本ではなくネットで調べた情報なのではなはだ信用できないが、
ベトナムの方は日本料理を味がなくてまずいと思うらしい。

ベトナム料理の記憶はほとんどない。
バインミーと呼ばれる米粉フランスパンサンドイッチがやたらうまかったくらいだ。
それも注文時に追加を鬼のような顔でお願いしたマヨのパワーなのかもしれない。
富山トヨタ社長の品川祐一郎氏は大絶賛していたが、
わたしはベトナムのうどんであるフォーを一度もうまいと思ったことはない。
貧乏めしばかり食っていたからだろうと言われるかもしれない。
たしかにそうだ。ビアホイやビールのつまみになりさえすればなんでもよかった。
ベトナム商売料理は味が不明確なインチキ中華料理といった印象しかない。

いや、違う。
一回だけ雨の日にフエで13ドルするベトナム宮廷料理のフルコースを食べた。
精一杯、見かけにこだわっているのはわかったが、美味というほどではなかった。
おそらく、当方の舌が貧しいからだろう。

たまたま一度運よくベトナム家庭料理をご馳走になったら、
非常に塩分の強いほぼ日本料理だった。
外食に話を戻すと、
よくわからん貝を七輪で焼いたものは南部ベトナム最高の酒のあてだった。
あれはなんという名前なのだろう。
わたしはメニューも見ずに(読めませんもの)、
あれとおなじものをくださいという注文方法ばかりしていた。
どうしてか山奥のダラット(ワインの名産地)で食べた貝のほうが厚くうまく安く、
海辺のニャチャンでおなじものを註文したら倍の金額でまずかった。

うまいまずい、高い安い、わが国の味ってなんなのだろうか?
まあ、まずありえないだろうが、いまの職場で外国人と親しくなったらと妄想してみる。
そのときいったいなにを日本料理の代表として差し出せばいいのかまるでわからない。
懐石料理やすき焼き、しゃぶしゃぶはたしかに日本の味だが庶民の食べ物ではないだろう。
牛丼や回転寿司は日本大衆料理なのだろうが、こちらはほとんど縁がなかった。
自分の味わったことのないものを日本料理の代表として出していいのだろうか。
ちなみに中国では豚骨ラーメンが
ご立派に日本料理として認知されている(そのため少し高い)。
このレベルで話をまとめるならばトンカツや天ぷらが日本料理なのかなあ。
自分でおむすびを握って(なかには梅干し)、ほら、これが日本料理だというような、
漫画「美味しんぼ」の海原雄山のようなことだけはしたくないと思う。

好き嫌いは大きくわかれるだろうけれど、
インド料理と中華料理は心底日本とは別物とうなりたくなるほど個性があって、
うまいといえばあれほどうまいものはめったにないと思う。
ああ、いま思い出した。台湾で食べたカラスミはうまかったなあ。
老いた中年がむかしの記憶をほじくり返していたせいか、
早々とあっという間にもう酔っぱらったのかなあ。酔っているのかもしれない。
バイト先でインドのロイさんに親しみからインド全土を旅したことがあると言ったら、
自慢と思われたのか欧米には行ったことがあるのかと問われた。
「ありません」と答えたら自分は近々アメリカに行く予定だとロイさんは言った。
カルカッタ(コルカタ)出身のロイさんはインドをまったく旅したことがないらしい。
そう言えばインドでは東西南北で言葉も料理もまったく違うことにいま思い当った。
日本も北海道から沖縄まであるのである。
「男と女」(渡辺淳一/講談社文庫)

→もうとっくに死んでいて大活躍した男根もあわれ灰になった情痴作家の名言集を読む。
ちょっと調べてみただけだが(だから間違いの可能性のほうが大きい)、
渡辺淳一さんって成功者のモデルともいうべき
破綻のない順調な人生をまっとうしたんだなあ。
みんなから尊敬されて、お金もふんだんにあって、女性からもモテモテで――。
いいなあと嫉妬するのでさえ恐れ入るレベルの高身分の御仁でいらした。
有名作家は最後まで言えなかっただろうけれど、
本当は成功者なんてつまらないんだろうなあ。
だって渡辺淳一が女からもてたのは、たまたま成功していたからでしょう?
渡辺淳一が警備員として震えるように寒い夜、
旗を振っていたとしてもひとりの女でさえ視線を向けることはなかっただろう。
存命時に渡辺淳一の下半身はたいそう活躍したそうだが、
それはこの作家が人間としてすぐれていたからではなく、
単に地位が高くて金をあふれるほど持っていたからに過ぎないのである。
エロ小説を書きながら、男性作家はどれほど女性というものに幻滅したことだろうか。
もし自分が時給千円もいかないアルバイトの身分でも、
「失楽園」の渡辺淳一は自分ならば女からモテモテになると信じていたのだろうか?
渡辺淳一がモテたのは、たまたま社会的に評価され金をたくさん持っていたから。
おなじおっさんがいい歳をしてアルバイトだったら、
だれも老女でさえも目を向けやしないことをたぶん人気情痴作家はよく知っていた。

渡辺淳一はいろいろ「本当のこと」に気がついていたとわたしは思う。
けっこう本物ではなかったのではないかと思う。
「真面目」「誠実」「人の良さ」がモテない男の三箇条だと指摘しているのがおもしろかった。
なんだかよくわからんが、わたしもむかし「真面目」で「誠実」で
「人の良さ」くらいしか売りがない人間だと
他人から思われていた時期があったような気がする。
いや、いまでもそうかもしれない。
わたしはどうしようもなく宿命のようなものとして「真面目」で「誠実」で、
「人の良さ」が顔にあふれているのかもしれない。
そんなのは大っ嫌いなのに。
まあ、モテない男はたいがい「真面目」っぽく「誠実」そうで「人の良さ」が感じられる。
すると、女からいいようにあしらわれてしまうのだろう。
若いころから地位(医者、直木賞作家)と金にものを言わせて、
しこたまいい女ばかり食い散らかしたグルメの渡辺淳一先生は指摘する。

「真面目で誠実で、人が良すぎるところが、別れの理由にならないとはかぎらない。
たしかに外から見た場合、それらは美徳のように見える。
だが現実に身近にいる者には、
真面目さの裏の退屈さに、誠実さの裏の融通のなさに、
人の良さの裏の迫力のなさに苛立(いらだ)ち、
それらが重なり合って嫌悪に変わらないとはいいきれない。
離れて見るときと、身近で見るときで、評価が変わるのは、よくあることである」(P43)


あまたの美女と快楽のかぎりを尽くした人気作家の渡辺淳一氏は、
「真面目」「誠実」「人の良さ」を鼻で笑いながら、
あえてそれらの反対のちょい悪を演じることによって絶倫人生をまっとうなされたのである。
おそらく日本で渡辺先生ほど性的快楽をむさぼり尽くした男のなかの男はいないだろう。
直木賞作家の渡辺淳一ほど美女を思うがままにおもちゃにした果報者はいないと思われる。
その性的快楽の帝王、医者で直木賞作家の最後に行き着いた性的嗜好は視姦であった。
視姦とは盗み見ることと言ってもよいだろう。
大ヒット小説「失楽園」から――。

「初めは、すべてを剥(は)ぎとられた女体を、
上から猛々(たけだけ)しく襲うつもりであったのが、
美しさに見惚れるうちに惜しくなり、なおしばらくこのまま眺めていたい。
若いときは、ひたすら奪うことしか知らなかったが、
年を経たいまはむしろ目で犯す悦(よろこ)びも深い。
まさに視姦とでもいうのか、
自ら月の光になり、白い女体へ浸透するように視線を這(は)わせる」(P205)


おいおい、先生さあ、なーんかモテない男のキモい妄想みたいじゃないか。
結局行き着いた先はそれかよと言うか。
視姦だったら直木賞作家でなくても、だれでも金がなくても顔が悪くてもできるのではないか。
さすがにだれかに見られていただけで警察に通報する女はいないだろうし、
さすがに正義の警察官もただ見ていただけの男を逮捕はできないだろう。
なーんだ、結局男と女って見ることと見られることなのかもしれないなあ。
男女それぞれ見ることでお互いのことをいろいろ想像(妄想)する。
男女それぞれ見られることでお互いのことをあれやこれや考えざるをえなくなる。
見ちゃえばいいという話なのかもしれない。
男は「真面目」ぶるな。「誠実」ぶるな。「人の良さ」そうな笑顔なんて捨てようぜ。
もちろん、人間は「顔、金、肩書」だから、
いくら「真面目」「誠実」「人の良さ」を捨てても異性のことは思うようにならないが、
しかしそれでも見ることなら可能ではないか。ちらちら見ることなら。
たとえ医師の国家資格がなくても直木賞作家でなくても、
人は人のことを見ることができるのではないだろうか。
たとえひと言も言葉を交わせなくてもちらりと盗み見ることならできるのではないか。
あーあ、変態みたいなことを書いちゃったよ、うえーん。

「男と女のいる風景 愛と生をめぐる言葉の栞」(渡辺淳一/PHP文芸文庫)

→一昨年お亡くなりになったが今後、
源氏鶏太のように消えるか残るのかそこそこ興味のある作家の名言集を読む。
「失楽園」の渡辺淳一である。
いまわたしがいちばん恐れているのは職場のパート女性さんに嫌われること。
社員さんに嫌われるよりも、
それどころではなく、おなじパートの女性を怒らせやしないか気を遣っている。
社員さんも(いまのバイト先は男性ばかり)女性パートが怖いだろうなあ。
得体の知れないものに対する本能的な怖さを多くの男は女に対していだいている。
人気作家でいまは冥界に住む渡辺淳一は調子に乗ったことを書いている。
そんなこともないと思うけれどなあ。

「もともと、男が女と逢う目的の大半は情事そのものである。
途中、食事をしたり会話を交わしたり、映画や芝居を見ても、
それらはすべて情事へ至る一つの過程に過ぎない。
女性をいたわり優しくするのも、究極のところ、
その女性と関係したいという願望を抱いているからである」(P26)


人はだれでも自分の思ったことを「男はみんなこう」と思ってしまうのかもしれない。
男はみんなおなじなんてことはないことを知りながらも、それでも。
男女論はそういうものなのかもしれない。
女も女でけっこう人それぞれなのに「女の子はね」とか普遍化して
自分の意見を絶対化してしまうようなところがあるのではないか。
そもそも人間は矛盾している。
渡辺淳一もおなじ本のなかで正反対のことを言っている。
男は情事のことしか考えていないと言い放った143ページあとに――。

「男は基本的に甘えっ子だし、性格が弱いから、女を求めるのはセックスの要求より、
落ち目のとき、「いい子、いい子、あなたが一番」
と言ってもらいたいからってとこもあるんですね。
男が二十八、九で結婚するのは、社会に出て、
ワン・ノブ・ゼロだということがわかり始めるときにあたるんです。
そのとき、何も知らない無知なワイフに「あなたが一番」と言ってもらいたくて、
それが男の結婚適齢期なんですね」(P169)


まあ、どっちも本当なんでしょうな。みんな正解で、みんな誤答。
それぞれぜんぶ正しくて、それぞれぜんぶバッテンの誤り。
だって、人それぞれだもんねえ。男はこうとか、女はこうとか、一般化できないって。
みなさん生まれ変わったら男と女、いったいどちらになりたいですか?
わたしは重いものを運びたくないから絶対に女だなあ(おい、そんな理由かよ)。
しかし、渡辺老人から甘えを鋭く指摘される。

「男も女ももし自分が反対の性になったら、すごい美男と美女になって、
異性には圧倒的にもてるはずだと初めから決めている。
男になって経済力がなかったり、女になって醜女(しこめ)であることなど考えず、
もてるということ前提で、ああもしよう、こうもしようと想像している」(P33)


これってガチンコ発言だよねえ。
女は顔で男は金だって言い切ってしまったわけでしょう。
基本的にわたしも山田太一ドラマの影響か人間は「顔、金、肩書」だと思っている。
どうしてかというと、そう思っていたらいろいろ傷つかないから楽なのである。
もしさあ人間が「金、顔、肩書」でないとしたら、深刻な鬱に落ち込むかもしれない。
もてないのは顔のせいってことにしておけばあきらめられる。
もてないのは金がないためだと思っていたら気楽でいられる。
もてないのは肩書(身分)が低いのが理由だと自分をごまかせたら悩まないで済む。
でもさ、あはっ、本当は人間性(笑)が問題かもしれないんだなあ。
むかしの修練本みたいだけれど、人格を磨いていないからもてないのだとしたら――。
ああーん、救いがなくてそこは自分地獄の一丁目。
もてないのは顔が悪くて、金がなくて、肩書が低いせいってことにしておいて~。

「わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯」(カルダーノ/青木靖三・榎本恵美子訳/現代教養文庫)

→カルダーノは16世紀イタリアの……なんなんだこいつ(1501~1576)?
解説では「ルネサンスの万能の天才と呼ぶにふさわしい人物」と紹介されているが。
いちおうカルダーノは医者、数学者、占星術師(占い師)、
文筆家、病的賭博(ギャンブル中毒)、それから超能力者(ただし自称)である。
確率の基礎を作った天才数学者としてもっとも知られているのではないだろうか。
カルダーノは知的関心からではなくギャンブルで勝つために確率論を研究している。
ネットで調べればすぐ出てくるが、医者としても業績があるとのこと。

さて、自叙伝である本書を読んでいると明らかに書き手の精神が病んでいるのがわかる。
だれも知らないだろうがストリンドベリの「青書」に比す奇書と言ってよかろう。
70歳を超えたカルダーノは平然と本書の冒頭近くで言い放っているのである。
「私が有する徳といえば、若いときから一度も嘘をついたことがないこと」(P63)――。
カルダーノがいかにおかしな(魅力的なという意味)人だったかわかるだろう。
使用人から毒を盛られるという恐れを抱いているという記述が見られる。
素人判断は失礼だが、統合失調症(精神分裂病)の気配が濃厚で楽しい。
そのうえ気分の変調の異常な波が文章から印象的に感じられる。
たぶん躁うつ病(双極性障害)の気も人よりかなり多めに持っていたのではないか。
むかしは治療する薬物などなかったから、
天才が天才性を思うがままに発揮できたのだろう。

カルダーノの血はどす黒い。
カルダーノの長男は妊娠中の妻に毒を盛ろうとした罪で斬首刑を喰らっている。
このときのカルダーノの嘆きは深く、また怒りも壮大だった。
裁判長など息子を死に追いやったものが全員みなみな後日、
変死や自殺といった悲惨な死に方をしたことを本書に嬉々として書き連ね、
それがさも自分の力であるかのように誇っているようにも読めないこともない。
少なくとも天の裁きがくだったぞ、
ザマアミロという黒々しい歓喜は文章から強烈に伝わってくる。
カルダーノの次男は発狂して父を告訴したのちに国外追放になっている。
あとひとり娘もいたのだが、こいつは子どもを産めない女だったとカルダーノは嘆いている。
結婚支度金だけ持っていかれて悔しい、といった正直過ぎることまで書いているのだ。

あるいは次男から告訴されたのは、
むしろカルダーノに咎(とが)があったのではないか。
というのも、この自叙伝を読むと病的賭博のカルダーノはとにかく金に細かいのだ。
あそこからはいくらもらった、あそこの給料はいくらだったと金のことばかり書いている。
ときおり妙な人格者ぶったことも書くが、
すぐにおかしな自慢をおっぱじめるのだから狂っていると言うほかない。
自分がどれだけ世間的に認められているか、
自分を高評価した書物のリストをわざわざ作って本書で誇示している。
名誉欲などくだらないと一方で言いながら自分の名誉をうっとうしいほど強調している。
医者として自分が治した患者をひとりひとり書き連ね、
いかに自分か優秀かしつこいほどにアピールしている。
反面、いまの言葉で言うなら不幸自慢が好きなようで、
自分が世界でいちばん不幸だったというような恨み節まで書きつけている。
予想できるだろうが、カルダーノの復讐心は異常なほど強い。
70歳を過ぎているのに「復讐は人生そのものよりも快い」というイタリアの格言だかを
もったいぶって紹介している。
「われわれの性質は悪の方へ傾いている」というのもカルダーノ愛誦の句だった。

そばにいたら迷惑このうえないタイプだが、こういう変人こそ新発見をするのだろう。
カルダーノは超能力、予知能力、テレパシー能力を持っていたとのこと。
「若いときから一度も嘘をついたことがない」カルダーノの言うことだから本当だろう。
斬首刑で死んだ息子がのちに毒を盛る妻と知り合ったとき、悪い気配を感じたという。
息子に死刑判決がくだった瞬間にまったくべつの場所でそのことを知った。
ある人がもうすぐ死んでしまうことを三度も的中させたことがあるという。
カルダーノは本当のことしか言わないからこれらも本当なのだろう。
天才的占い師のカルダーノは常人の見えないものを見通し、
聞こえないものを聞く能力を持っていたように思われる。
おそらく数学科出身でユング学者の河合隼雄もカルダーノは知っていただろうけれど、
あまりにも怪しすぎて手を出せなかったものと思われる。
精神科医の春日武彦も(大好きそうだが)カルダーノには言及していない(たぶん)。
宗教人類学者の植島啓司によってわたしはカルダーノの存在を教わった。
どうしてカルダーノは人の死期を的中させることができたのか本人に聞いてみよう。

「このような出来事は、無知な人々にはまるで奇蹟のように見えるだろう。
だがもし注意深い人が本書を読んで考えをめぐらすならば、
私はすでに現実となっていたことを見たのであって、
未来を予見したのではないことがわかるだろう」(P185)


オカルトは苦手な人が多そうだが、
わたしはこのくらいの不思議なことは起こるのではないかと思っている。
正しくは、起こってほしいと思っている。
そういう不思議なことがなかったら、この世界はあまりにも味気がないではないか。
そして、小さな小さな声で言うが、
シンクロニシティのような不思議なことは起こっているような気もしなくもない。
このへんの匙加減(さじかげん)が肝心で、
不思議なことに対してはどこか半笑いの姿勢を保っていたいのだけれど。
カルダーノは明々白々とイカサマ師の風体をしているが、学術的貢献もしているのである。
はっきり言って狂人だっただろうが、ある程度の超能力は持っていたと思う。
どうしてべつの場所で起こったことや未来のことが見えたり聞こえたりするのか。
カルダーノは本書をよく読めと突き放してくるので、よおしと熟読してみた。
どのような原理で超能力のようなものが発揮されるのか。
重要なのは以下の箇所だろう。
このブログでも何度か言及してきた華厳思想の「一即多 多即一」を
念頭において読まれると、多少はわかりやすくなるかもしれない。

「ささいな出来事であっても異常なまでに執拗なものからは、
時として予言をひき出すことができる。
人の一生における出来事はすべてただひとつの小さな物事から起こり、
それが網の目のように絡み合ってさまざまな様相を呈するのである。
ちょうど雲が形作られるときのように。
こうしたごく小さな事柄は、寄り集まって増大するだけでなく、
これらは少しずつ、いわば無数の小部分に再分割されねばならない。
自分の行為のなかでこのことを理解し重要視してきた人だけが、
諸々の術、人の集団、市民生活においてぬきん出て頂点に立つことができる。
したがって、こうした微細な事件を観察するのは、
なにごとにつけよいことである」(P179)


要するに、ふつうの人が見逃すような小さな出来事は全体を反映しているのだろう。
おのれの行為において生じたささいな出来事を見落とさないようにすると、
うっすらと全体のことが見えてくるときもたまにならばなくはないと考えられないか。
ものすごくわかりやすく言い換えたら、あまりにも簡略化しすぎだがこういうことだろう。
カルダーノはしきりに不幸自慢をしているが、
当時の社会ではかなりの成功者だったと思う。

「あらゆるものを観察し、自然には何ひとつ偶然にはなさないことを確信すること。
この方法により、私は富では豊かにならなかったが、自然の発見で豊かになった」(P82)


すべては偶然かもしれないが、それが必然であると確信すること。
小さな偶然のなかに絶えず意味を求めようと努めること。
そのためには偶然に意味があることを信ずる、ではだめで、確信まですること。
超絶な自己嫌悪者で自己愛者だったカルダーノは、自分を確信していたのだろう。
自分や自分の周囲、自分の行為を確信すると
超能力のようなものがときどき現われないともかぎらないのではないか。
カルダーノは自身を超能力者だという(そう確信している)。

「……私に備わった驚くべき超能力について語ろう。
私はそれを自分の一部であると感じてはいるが、
それがなんであるかはわからないだけに、ますます不思議に思う。
それは私自身であるのだけれど、
もとは自分から出ているのではないことは気づいている。
この力は、適切な瞬間に存在しはするが、
自分の思いどおりにはならないことも知っている。
そして出現するものは、私の力を超えているのである」(P150)


これは新興宗教の宣伝する奇蹟体験のようなものだと思う。
怪しげな新興宗教が宣伝する奇蹟体験は99%インチキだろうが1%の本物はあると思う。
その1%は長い目で見ないとプラスかマイナスかわからず、
そういう確率の低いことの起こる人は変な話だが、
高確率でまた不幸のどん底に落ち込むのである。
気分の浮き沈みの大きい人が世の中にはいて、人生の浮き沈みも大きくなることがある。
本気でギャンブルに手を出したら一攫千金と破産のあいまを漂っているようなもの。
賭けというのは最終的に自分を信じるほかなく、
ぎりぎりまで追い込まれると人間というものは不思議な力が出てくるのだと思う。
しかし、なかなか人間はぎりぎりまで追い込まれることがない。
本当はそういうスリルこそ生きている醍醐味かもしれないのだが、通常人はぎりぎりは怖い。
カルダーノは狂っているから意識的にか無意識的にか、
どこかで故意にギャンブルに夢中になって自分を瀬戸際まで追い詰めたのだろう。
ドストエフスキーではないけれど、
すっからかんにならないと本気が出ないやつというのがいるのだろう。
丁か半かのスリル、どきどき感を一度味わってしまったら、
日常の退屈なぞ飽き飽きしてぶち壊してやりたくなるのではないか。
自分をぎりぎりまで追い詰めたら超能力のようなものが出現するのかもしれない。
日本で言う「火事場の馬鹿力」のようなものである。
いったいギャンブルにおいて勝者と敗者をわけるのはいったいなんなのか?
それは間違いなく人間の努力ではないだろう。

「ああ、私はいくたび、自分の悲惨な境遇に涙したことだろう。
万事が悪化の一途をたどり、あらゆる希望が失われただけでなく、
どうにかしようと熟慮に熟慮を重ねても救いを見出すことはできなかったから。
ところがまた、私が何かに粉骨砕身することなしに、
二、三ヶ月のうちに事態が一変することがあった。私はその結果、
自分の意志や行為を超えた力が働いていることを信じるようになった。
このような事は、数をあげるのが恥ずかしいほど度々起こった。
だがまたこれと同じような運命の変動が、
しばしばすべてのものを一度に崩壊させたのだった」(P153)


カルダーノは小さなことにもいちいち大騒ぎするタイプだったのだろう。
それだけ小さなことにも気を配っていた、とも言えるのかもしれない。
彼はどちらかといえば女々しい痛みを感じやすい人だったと思う。
そんなカルダーノの息子が不名誉にも妻殺しの容疑で斬首されたのだから。
われわれ凡人には想像できないほどの絶望を天才数学者は味わったことだろう。
カルダーノは占星術(占い)で自分の死ぬ日を予想して、
その日に死んだとされている(自殺とも断食の結果とも)。
わたしは一か八かの賭博的行為や確率論、占い、運勢等に強い興味を持っている。
このたび元祖とも言えるカルダーノの文章の一端に触れられた幸いをいま噛みしめている。
奇人変人っておもしろいよなあ。

←別訳
「苦味を少々」(田辺聖子/集英社文庫)

→有名作家の田辺聖子さんのアフォリズム(名言集)。
アフォリズムほど読むのも感想を書くのも楽なものはない。
しょせん短文ばかりだから超高速スピードで読める(当方は飲酒しながら味読)。
読書感想文もかんたんでちょっと気になった自分と同意見のものを採取して、
これは有名で偉い作家先生が言っておられるのだから、みなのものひれ伏せ。
そういう態度で書こうと思ったら、どこまでも適当に楽ちんに書ける。
山本周五郎賞、小林秀雄賞、朝日(新聞)賞と受賞歴華やかな
山田太一先生が解説を書いておられる有名女流作家のアフォリズムを
鼻で笑いながら、ではなく、正座をしながら身を正して拝読いたしました。
通常は自分の感覚と似たような文言を取り上げて、
自分も「正しい」あるいは「偉い」というメッセージを書き連ねるのだと思う。
あはは、ひねくれもんだから、そういうのに嫌気が差した。
本当にブルブルッときた言葉を抜粋してみよう。

「本音というのは、だまっているから本音なんですよ。
しゃべるとタテマエになってしまうわよ」(P48)


わたしなぞが絶対に言えないし書けない名言であると思う。
よくブログ記事で「ここだけの話」とか「本音を言うと」といった枕詞を使う。
あはっ、田辺聖子さんご指摘の通り、そういうのはぜんぶ嘘だから。
人様に言えるというだけで、書けるというだけで、それは本音ではなくタテマエなんだなあ。
みなさんそうでしょうけれど、わたしにも一生だれにも言えない秘密がわんさかある。
「これは秘密にしてね」なんて人にしゃべれるものは、しょせんタテマエなのである。
本当のことなんて死ぬまで人に言えるもんか、なにかに書けるものか。
おそらく田辺聖子さんもそうであったに違いない(まだご存命でした)。
ならば、でしたら、そうならば、これもまたタテマエなのでしょうか?

「人は自分が愛したもののことは忘れても、
自分を愛した人のことは忘れないものである」(P102)


ぞっとするほどの真実だと思うなあ。
人は偽善的に愛されるよりも愛するほうが大事とか言うじゃないですか。
それは絶対に嘘だと思う。
愛した経験なんかよりもはるかに愛されたという事実のほうが人間には重いと思う。
人を愛するよりも、人から愛されることのほうがどれほど心に響くか。
こんな単純な真実でさえわたしはなかなか言えないような洗脳を受けてきた。
最後にいつもわたしが言っていることを田辺聖子さんに後押ししていただく。
ぶっちゃけ、幸福ってつまらないよね。
なんにもないだらだらした幸福な人生よりも、たとえ短命でもおもしろい人生のほうがいい。
しつこいけれど、幸福な人生よりもおもしろい人生のほうがいいのではないか。

「幸福と面白いこととはちがいます。
幸福いうのは、面白いことが無くても成り立つ。
あんたといると面白うて、楽しい。それが一番とちがいますか。
幸福な人生を送った男はたくさんいますよ。
しかし、面白い目を見た! とひとり笑いして棺桶に入った奴は、
めったに居(お)らへんのやから」(P10)


思えば人生、幸福とはあまり縁がなかったけれども、それなりにおもしろかったなあ。
むかしのプロポーズの定番は「貴女を幸福にします」だったような気がする(間違いかも)。
わたしはずっと不幸(ってなに?)なので他人を幸福にできる自信なんかさっぱりないけれど、
おもしろい人生を送っているという自信はなくもないので、
「貴女のつまらない人生をおもしろくしてみます」くらいなら言えるのかもしれないなあ。
田辺聖子さんも言っていますが、
幸福な人生はなによりだけれど、おもしろい人生はもっともっといいものかもしれない。
身震いするようなおもしろい人生ってもんがあるんだ。わたしはそれを知っている。
おそらく著者もよくよくそのことをご存じなのでしょう。

「だまされ上手が生き残る 入門!進化心理学 」(石川幹人/光文社新書)

→心理学っていうだけでうさんくさいのに、進化心理学ってなんなんだ、おい!?
久しぶりにトンデモ本を読んだ。
こんなことがいま明治大学で教えられているらしいから日本は平和な国だなあ。
著者の言っていることはよくわからん。
なーんか著者には生物はみな進化の結果として
いまのような形態であるという信仰があるらしい。
生物が変化してきたのは事実だが、進化したかどうかはだれにも証明できないと思うぞ。
著者の信心によると、生物はみなみな果てしない生存競争の結果、
勝者としていまのような外形や内面を保っているとのこと。
しかし、人間は本来、狩猟民族(←そこまでさかのぼるのかよっ)。
優秀な著者にかかったら現代人にも狩猟民族の特徴がありありと見えるらしい。
そして、人間は進化してきたんだなあ、
と著者はひとりご機嫌になっているようでまことうらやましい。
あるいは目をうるうるさせているのかもしれない。ご機嫌でいいっすね、先生!

最新学問の研究結果によると、オスは目立ったほうがメスからもてるらしい。
それさあ、人間を20年もやっていたらだれでもわかる常識ってやつじゃないの?
なんでも人間をふくめて生物のなかには
「互恵的相互関係」を作りながら進化してきたものがいるってさ。
「互恵的相互関係」というと学問っぽいけれど、要は助け合いのこと。
本書の意味不明なトーンに従うならば、だましあいとまで言ってしまっていいのだろう。
たとえばお金。あんなものは紙切れに過ぎないでしょう?
けれども、みんなが価値あるものとだまされてきたから人間は進化してきた。
いま生き残っている生物は人間をふくめみんな「だまされ上手」というのが本書の結論か?
小声で言うと、みんながだまされているのに気づいて、
パッと逆を行ったものこそ大儲けできるのではないかと個人的には思うけれども。
もちろん、いち個人の大儲け(利得)は人間の進化(笑)とも変化とも関係しないがね。

たぶんインチキである進化心理学とやらのキモはこの文章だろう。

「私たちはみな、生物の長い進化の歴史における生き残りです。
祖先が数々の生存競争において一度も負けることなく勝ち抜いてきたからこそ、
ここに存在していると言えましょう。
ですから、私たち個人こじんの遺伝情報には、生き残るのに適切な特徴を形成する、
無数の遺伝子情報がきざみこまれているのです」(P117)


競争とか勝つとか、著者は創価学会みたいな思想をお持ちなんだなあ。
われわれが競争の勝利者だなんて証明できるのならしてみろよと言いたい。
それはひとつの物語に過ぎないのではないか。
たとえば、わたしはこういう物語を持っている。
われわれが太古の時代から(断じて進化(笑)ではなく)
変化(!!!)しながらいまこうして存在しているのはたまたまの偶然。
遺伝子情報なんて一生研究してもさらさら明らかにならないし、
遺伝子研究からわかるのは結局、人間にはなにも「わからない」ということ。
多数派は「だまされ上手」だから生き残っているわけではなく、
いつの時代もだまされやすい人たちが多数派を構成しているってだけ。
こんな研究モドキでメシが食える学者先生が心底からうらやましい。

これはもうインターネットの世界の永遠のテーマになりつつあると思う。
ネットでは実名を名乗る人と名乗らない人がいる。
どちらがいいのかわかりませんが、
わたしはどうせだれも自分になんか興味がないという世界への屈折した信頼(?)から、
これをお読みの方のうちひとり知っているかいないか程度の実名を公開している。
まあ、一般に匿名のネット発言は好き勝手な本音を書けると思う。
一方で実名を出してしまうとネット上でも現実同様きれいごとしか書けなくなる。
ある山田太一ファンの重鎮が自分のネット掲示板で、
早稲田大学教授を手厳しく批判しているのを目にしたことがある。
なんとも情けなくなったものである。理由は三つ。
まずその山田太一ファン古株は匿名だったこと。自分の名前を出さないでものを言っていた。
それから文章が稚拙だったことだなあ。
工業高校出身という経歴に妙に納得がいったものである。
朝日新聞しか読んでいないとこういう文章を書くようになるのかと変な感心をした。
バカが利口ぶって書いた意味不明な文章と言えばわかる人にはわかるはずである。
こういう人でさえコネがあればテレビ脚本の仕事くらいまわしてもらえるのかと驚いた。
最後にさ、びっくりしたのは匿名古株が激しく批判していた大学教授の本。
その書籍を匿名批判者は自分で買ったわけではないのである。
山田太一さんから贈られた本を匿名で厳しく裁いていた。
そういう人が山田太一ファンの古株として重鎮としてネット世界では幅を利かせている。
実名を出せないのは実社会での身分の低さがばれてしまうと恐れているのかしら。
わたしは「無敵の人」に近いから実社会で低身分なのに実名で文章を書いている。
もっとも「ドラマ・ファン掲示板」さんのようなアクセス数の多い人気サイトではないからなあ。
身勝手な要求ですけれど、できるだけ名前を名乗ってほしいなあ。
匿名でばんばんコメント欄に書かれると、だれなのか怖くなって精神的恐慌に陥る。
もちろん、ネットでも実名を名乗れなんていうルールはどこにも存在しませんが。
むしろ、ネットでは匿名で言いたい放題するのが賢いのかもしれない。
むかしやったことがあって、それはそれで楽しかったなあ。
匿名で発言するのが楽しいというのもじつによくわかる。
「図解雑学 源義経」(上横手雅敬:監修/ナツメ社)

→歴史上の人物のなかでだれが好きかって聞いたら、その人の性格がわかりそう。
いまでも中年サラリーマンって自分を家康や秀吉に比したりしているのかなあ。
信長に惚れ込んでいる上司の下で働くのはストレスがたまりそうでいやいや。
みなさまにはどうでもいいのでしょうが、子どものころから好きなのが源義経。
いま大人になって彼の虚実ないまぜの個人史を再度概観してみたら、
スタンドプレーが多いやつというか、自分勝手というか、
それを言っちゃあおしめえってことを言えば人徳がないやつだよな義経は。
部下に嫌われる上司のある典型的なタイプではなかろうか。
手柄は自分で独り占めしたく、部下の意見はまったく取り入れないわけだから。
上司に嫌われる部下の典型でもあろう。
ホウレンソウ(報告・連絡・相談)さえまともにできないほど協調性のないやつ。
源義経は一発屋の芸能人みたいなところがあって、そこがいまでも好きである。
浮き沈みの多い人生って言うのかなあ。
めっちゃくちゃ運がよくて戦術に長けていたけれども、
人の気持を読み取る能力が絶望的なまでに低くて、
ライバルの稚拙な悪だくみにかんたんに足をすくわれてしまう。
いまでいえばベンチャー企業の社長タイプなのかもしれない。
能力も自信もあるのでいっとき花火のようにひと目を引くけれども、
老獪な人心操作術をまったく理解していないがためにつぶされてしまう。

義経は31歳で死んだらしいけれども、頼朝の人生よりも絶対におもしろかったって思う。
人生を成功や勝利という尺度で見たら圧倒的に頼朝のほうが上になるのだろうけれど、
どれだけスリリングな人生を楽しんだかという基準で考えたら、
義経は頼朝なんかよりもはるかに生きるおもしろさを味わったと言えるのではないだろうか。
弁慶や静御前との逃避行とか毎日が冒険で楽しかっただろうなあ。
頼朝なんか義経の十分の一も生きる醍醐味を知らなかったような気がする。
だってさあ、頼朝を主人公にした芝居や物語なんて絶対にできないわけだから。
後白河法皇との心理戦から学ぶビジネス術みたいなゴミ本の対象にしかならない。
義経って最後に死ぬとき(追手に囲まれ自害)法華経を読んでいたらしいけれど、
もしかしたら創価学会員みたいに奇跡が起こると信じていたのかなあ。
でもさ、死ぬまえに義経がなんのお経を読んでいたのかなんてだれが知っているわけ?
平家物語とか平治物語とか、あのへんは史実ではなく娯楽物語なわけだから。
義経記なんて史実とは正反対な世界なわけでしょう。
おれもさあ、自分勝手でとにかく人徳というやつがないんだ。
人に慕われるということが皆無。
三つ子の魂百までと言うけれども、
幼少期に義経が好きだった時点で
こういうダメな大人になることが決まっていたのかもしれない。
負け惜しみを言うと、頼朝みたいな人生は絶対につまらないと思うぜ!

本書はいかにも「図解雑学」シリーズらしく、
絵画や写真がいっぱい掲載されていたので義経の人生を楽しく追うことができた。
判官びいきは義経からできた言葉だけれども、
多くの人の上に立って勝ち誇っている頼朝みたいなやつよりも、
人生で負けて漂泊する孤独な義経の人生のほうがよほど美しいとは思いませんか?

「義経千本桜」(原道生:編著/歌舞伎オン・ステージ21/白水社)

→歌舞伎台本「義経千本桜」を読む。シェイクスピアよりもおもしろいんじゃないかと思う。
歌舞伎は一度だけ観にいったことがあるが、
おもしろいつまらない以前に役者がなにを言っているかわからないのである。
客層も大嫌いな金持ばあさんばかりで、歌舞伎とは俗物の極みという結論にいたった。
セリフの意味がわからないのに役者の魅力に惹かれて感動するというのはおかしい。
このたびうざいほど注のついた本書で一字一句正確に「義経千本桜」を読んだら、
これは日本人にとってはシェイクスピアよりもおもしろい読み物ではないかと気がついた。
「義経千本桜」のテーマは「正義」でも「愛」でもなく「情」であろう。
もっと正しく言うならば「親子の情」「主君の情」を「義経千本桜」は描いている。
もちろん家族団らんや平和時代の主君関係を描いても芝居にならない。
いきおい「人の不幸」を古今東西芝居は描いてきたようなところがある。
「人の不幸」を見て楽しむのがわれわれなのかもしれない。

歌舞伎というと古典芸能だから清く正しい世界が描かれていると思われるかもしれない。
まったくそんなことはないのである。
むしろ、グロテスクと言ってもいいような気がする。
「義経千本桜」において衆人の目のあるなか、これ見よがしに自殺をするものは4人もいる。
息子を刃物で殺す父親がひとり。
自害したが死にきれないじつの娘の首を切ろうとする父親まで登場する。
芝居ならぬ現実世界で目のまえで母親に飛び降り自殺された人を知っているけれど、
その人が「義経千本桜」を読んだらだいぶ慰められるのではないか。
なぜなら「義経千本桜」でこころざしかなわぬまま無念のうちに自害するのもはみなみな、
とても美しく描写されているからである。
おめおめ生き恥をさらすよりも自ら死を選ぶほうが美しいという価値観がこの国にはある。
生きていればただそれだけでいいという現代の生命礼賛の醜悪さを、
よく読み込めばわれわれは「義経千本桜」から感じ取ることができるのではないだろうか。

「義経千本桜」の世界は――。
「生きる」ことよりも「死ぬ」ほうが美しい。
発展や栄華もいいのだろうが、
むしろ衰亡や滅亡の無念のほうが芝居ではよほど色鮮やかなのではないか。
居丈高な勝利宣言ほど気味悪いものはなく、
ままならぬ世界にむけて発せられた恨み言や嘆きのほうがはるかに人間的ではないか。
成就や幸運よりも失敗や不運のほうがどれほど彩りが深いか。
願いがかなったという達成感よりも思いかなわぬ無力感のほうが輝いているのではないか。
なにもかも人間の思い通りになるわけではないという苦い発見には、
その感情を役者のように演じ尽そうとうするならばそれなりに味わい深いのではないか。
いくら人間が願おうが祈ろうが春は夏になるし、夏が終わると秋が来る。
「春夏秋冬、生者必滅、会者定離」は無念だが、
その念をうまく言葉にしえたならばそれはとても美しいものになるのではないか。
葉が色づき止めようもなく散るのは敗北かもしれないが、
その1枚の葉がいだいた感情をうまく言葉に乗せたらば、
それは万民の心を震わせ名ゼリフになるのではあるまいか。
なぜなら彼も我もそのような存在だからである。

「義経千本桜」からいいなと思ったシーンを紹介する。
最低限の日本史知識がないとわからないでしょうから、そこはもうごめんなさい。
さて、平氏を成敗したはいいが兄の源頼朝ににらまれてしまったのが義経である。
鎌倉の頼朝は京都にいる義経に難癖をつけてくる。
どうして義経は平家方の娘である卿の君を妻としているのか?
この書状を鎌倉から持ってきたのが川越という男である。
じつのところ人には言えない事情があって卿の君は平家方の娘ではなく川越の娘であった。
さあ、卿の君を妻に持つ義経は困ってしまう。
ここで愛する義経のために卿の君は夫やじつの父親のまえで自ら命を絶つのである。
結局のところ自分が死ねば頼朝の怒りがおさまり兄弟の不仲は解消するのだから。
本当は川越の娘であると頼朝に本当のことを伝えるよりも、
平家方の娘として死んだほうが義経の役に立つ。
泣かせるじゃねえかい。卿の君は刃物で喉を突いたが死ぬに死にきれない。
川越はまことあっぱれな娘であることよと思う。
娘は死にきれぬ自分の首を切ってくれと本当の父親である川越に依願する。
この自分の首を頼朝に渡せば兄弟和睦につながるだろうと思ってのことである。
川越は刀を抜く。しかし、そこは女、娘は最期に父親のやさしい言葉がほしい。
「わが娘よ、よくやった」と言ってほしい。

「卿の君 コレノウ、そのあかの他人のお手を借るも深き御縁。
 とてもの事にたった一言。
川越 アヽ、親子の名乗りは未来でせん(ト思い入れ)。
 南無阿弥陀仏(ト思い入れ)」(P49)


南無阿弥陀仏と言ったあとに父親はじつの娘の首を切り落とした。
これでうまくいくかといったらそうはならないのである。
おりしも敵方に館(やかた)を囲まれていたのだが、
無視を決め込めばよかったのだけれども、
武蔵坊弁慶が主君のためを思って
敵陣に斬りかかってしまい、このため義経と頼朝の不和は決定的なものとなる。
卿の君の文字通り命をかけた行為は結局のところ無駄に終わってしまったわけだ。
人間は行為を選択することはできるが、結果はかならずしも思うがままにならない。

行為(選択)→?→結果(禍福)

古今東西の芝居台本を読み込んできたが、名作は常にこの構造を持っていると言えよう。
シェイクスピア劇も「義経千本桜」もこの構造を秘めていることには変わりはない。
なぜなら古今われわれもこの構造の下に生きているからである。
われわれはある行為を選択するが、その結果がどうなるかはまるで予測がつかない。
弁慶とて主君義経のためを思ってよかれと判断して行動したのである。
結果、義経一行は京を追われ流浪の旅に出ることになる。
いままで連勝続きで得意の絶頂にあった義経はおのれの宿運の衰えを知る。

「義経 古人は人を恨みず。傾く運のなす業(わざ)と思えば、恨みも悔やみもなし。
 武蔵[弁慶]が無骨を幸いに、都を開かば[開け放てば]、綸命も背かず、
 兄頼朝が怒りもやすまる。これを思えば、卿の君が最期、残り多や。
 我も浮き世に捨てられて、駅路の鈴の音(おと)聞かん。
 片岡、伊勢[家来]も供致せ」(P53)


義経は卿の君のみならず弁慶もまた、
自分のためを思って行動を起こしたことを知っているのである。
しかし、どちらの行為も意図とは正反対の結果を招くことになってしまった。
こういう人間を超えたものの采配を描くのが古今東西の芝居なのだろう。
なぜわれわれがそれを見て胸打たれるかと言ったら、
われわれもまたそのようにままならぬ世界を生きているからなのである。

さて、漂泊する義経一行を待ち受けるのが平知盛である。
史実では知盛は安徳天皇らと一緒に壇の浦の合戦で死んでいるけれども、
「義経千本桜」ではひそかに生きながらえて船宿の主人に変装しているという設定だ。
幼い安徳天皇をお守りしながらである。
むろんのこと、いつか平氏を滅ぼした義経に復讐をするためである。
ようやく絶好のチャンスがめぐってきて、いま知盛は義経に復讐しようとしている。
しかし、裏の裏をかかれてしまい知盛サイドは敗色濃厚である。
この幕における主役は勝った義経ではなく、負けた知盛なのである。
人生で思いかなわなかった知盛のほうに多く見せ場が与えられている。
勝利者の義経の役よりも敗北者の知盛の役のほうがよほど演じがいがあるかと思われる。
もはや知盛の敗北は決定的でお付きの女ふたりは早々と自害している。
知盛の願いはかなわなかった。

「知盛 チエヽ、残念や、口惜しや。
 我、一門の仇を報わんと心魂(しんこん)を砕きしに、
 今夜、暫時に手立て顕れ、身の上までは知られしは、天命天命」(P125)


弁慶は成仏しろよとでも言いたげに知盛の首に数珠(じゅず)をかけてやる。
しかし、知盛はあきらめきれないのである。
正義のためでもなく愛のためでもなく、
強いて言えば死んだいまはなき親族への情のために知盛は義経に復讐したい。
正義よりも愛よりも人間にとって怨恨の情というものは強いのである。
嫁姑の怨恨や上司の非道な振る舞いへの怒りほど人間を突き動かすものはあるまい。
このために「義経千本桜」は人気があるのだろう。
われわれがみんなやさしい正義の人だったら、だれが「義経千本桜」など見るものか。
弁慶にお情けで数珠を首からかけられた知盛のセリフはすばらしい。
敗北者の恨み節ほど人間の胸にしみいるセリフはないのではないか。
どうしてかといったら、われわれみなが
どのみち無念の思いで死んでゆかねばならぬ敗北者だからである。

「知盛 エヽ、さては、この数珠かけたるは、知盛に出家とな。
 エヽ、穢(けが)らわしい穢らわしい、
 そもそも四姓[源氏・平氏・藤原氏・橘氏]始まって、
 討っては討たれ、討たれて討つは源平の習い。
 生き替わり、死に替わり、恨みをなさで置くべきか。

    ♪思い込んだる無念の顔色、眼(まなこ)血走り、髪逆立ち、
    この世から悪霊の相を現わすばかりなり」(P125)


決してあきらめぬ知盛だったが、その眼前でまた側近がひとり自殺する。
もはやこれまでと平知盛は断念する。
平家物語では「見るべきほどのことをば見つ。今はただ自害をせん」と言って、
平知盛は壇の浦で死んだことになっているが、「義経千本桜」では――。
この芝居ではこのシーンがいちばん好きでである。
敗北に敗北を重ねた知盛が最後の復讐にも失敗して言うセリフがとてもいい。
このセリフまわしは仏教の六道輪廻の思想が基調にある。
知盛の父は清盛だが、
清盛は女子だった安徳天皇を男子だと偽ったという俗説があるらしい。
注釈によると、ここでの知盛のセリフはその俗説にかこつけているとのこと。
知盛は不遇な幼い安徳天皇を見て涙が止まらない。

「知盛 アッ、果報はいみじく、一方の主(あるじ)と生まれさせ給えども、西海の波に漂い。

    ♪海に臨(のぞ)めど、潮(うしお)にて水に渇せしは、これ餓鬼道。
    またある時は風波に遭い、お召(めし)の船を荒磯へ吹き上げられ、
    多くの官女が泣きさけぶは、阿鼻叫喚。

 陸(くが)に源平戦うは、とりもなおさず修羅の苦しみ。

    ♪または、源氏の陣所陣所に数多(あまた)の駒のいなゝくは、畜生道。

 いま賤しき御身となり、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給う。
 これというも、父清盛、外戚の望みあるによって、姫宮を男(おのこ)宮と言い触らし、
 権威をもって任官させ奉り、弓矢の神に偽り申せしその悪逆、
 積もり積もりて一門、わが子の身に報いしか(ト思い入れ)」(P127)


こう物々しく語ったあとに知盛は安徳天皇を義経に託し壮絶な自害を遂げる。
おめおめ生き恥をさらすよりも死ぬべきときに死ぬほうがどれほど美しいか。
不幸や不遇はきちんと言葉にしさえすれば、
怠惰な幸福などよりもはるかに人の心を打つことがわかるだろう。
幸福よりも不幸、無念、怨念、怨恨のほうが謳いあげるべき内容があるのである。
喜びよりも物悲しさのほうが万民の心を震わせるのではないだろうか。

話はがらりと変わって義経も弁慶も登場しない寿司屋の話になってしまう。
ある寿司屋ではむかしの恩義ために平家の落人である平維盛をかくまっている。
この寿司屋の長男は、いがみの権太と呼ばれる札付きのワルである。
といっても根っからワルなのではなくせいぜいゆすりたかりくらいの小悪党だ。
寿司屋の主人はとっくにいがみの権太を勘当している。
さて、寿司屋にかくまっている平維盛に源氏の追手が迫ってくる。
いままで親不孝だったいがみの権太は改心して、維盛を守ろうと一工夫する。
一工夫どころではなく自分の妻子を身代わりに追手に差し出すほどの改心ぶりである。
ところが、寿司屋の主人はいがみの権太の心変わりを見抜けず、
もうこいつはどうしようもないと本当は親孝行な息子をそうとは知らず刀で刺してしまう。
寿司屋の主人は弥左衛門という。女房は泣きだしている。

「弥左衛門 泣くな女房、なに吠える。不憫(ふびん)なの可愛(かわゆ)いのと、
 こんな奴を生け置けば、世界の人の大きな難儀じゃわい。
 門端も踏ますなと言いつけおいたに、内へ引き入れ、大事の大事の維盛様を殺し、
 内侍様や若君様をよう鎌倉へ渡したな。
 腹が立って立って、涙がこぼれて胸が裂けるわい。
 三千世界に子を殺す親というのはおのればかり。
 あっぱれ、手柄な因果者にようしおったなあ」(P203)


弥左衛門は息子を刺したあとに真実に気がつくのである。
いがみの権太は維盛様を殺すどころか率先してお守りしていた。
鎌倉側に引き渡したのは内侍様や若君様ではなく自分の妻子だった。
いがみの権太はよかれと思ってやったことが過去の悪行から父親に誤解され、
いまのように刺されて命を終えようとしている。
一方で弥左衛門も忠義心から息子を刺したのだが、それは間違いだったことに気づく。
人間は選択(行為)を間違える生き物である。
われわれは生きている以上、
選択(行為)をするがその結果どうなるかはだれにもわからない。
しつこいが、これこそ古今東西の芝居の持つ構造である。

行為(選択)→?→結果(禍福)

いまとなっては弥左衛門はどうして自分が息子を刺したのかその理由がわからないだろう。
自分の手が刺したのではないような気がしているのではないか。
なにか大きなものがおのれの手を操り息子を刺すように仕向けた。
その考え方は間違いではなく、弥左衛門は台本に書いてある通りに息子を刺したのだ。
これが芝居の構造である。
だとしたら、われわれも芝居をしていると考えたら、どこに人間の自由があるのだろうか。
われわれとてもじつのところ台本があって、
それを正確になぞっているだけとは考えられないか。
シェイクスピア劇もそうだが、
いい芝居というものは常にこの人生と演劇のからくりを観客に考えさせるようにできている。
さて、父親に刺され血が止まらない、いがみの権太はいまや虫の息である。
女房はせめて死に目に会ってくださいと夫の弥左衛門に頼む。
弥左衛門はそれを振り切って維盛様のお供として旅に出ようとしている。

「弥左衛門 現在血を分けた倅(せがれ)を手にかけ、どう死目に会わりょうぞ。
 死んだを見ては、一足も歩かるゝものかいの。
 息ある内に、叶わぬまでも、助かる事もあろうかと、思うがせめての力草。
 止めるそなたが胴欲じゃわいの[むごいじゃないか]。

    ♪言うて泣き出す父親に、母はとりわけ、娘はなお、不憫不憫と、
    維盛の首には輪袈裟、手には衣、手向けの文も阿耨多羅(あのくたら)」(P213)


結局、この寿司屋の悲劇はどのようにまとめられるのか。
この幕に登場するなかでいちばん高位なものは平維盛である。
おそらく、維盛のこのセリフにしか人間の救いのようなものはないのだろう。

「維盛 弥左衛門が嘆き、さる事なれども、逢うて別れ、逢わで死するもみな因縁」(P208)

一度は別れた義経一行と愛妾の静御前だったが、吉野でまた再会する因縁があったようだ。
別れの際、義経は法皇からたまわった貴重な鼓(つづみ)を静に手渡している。
静には義経の忠臣である佐藤忠信が寄り添い危険が生じると常に護衛の役を買って出た。
なんの因縁か吉野でふたたび義経と静御前が会いまみえることになったわけである。
ところが、ここで不思議なことが生じる。佐藤忠信がふたりいることになってしまうのである。
ひとりはいまもいま亡母のとむらいを終えて主君義経のもとに参上した忠信。
もうひとりは、静御前とこれまで一緒に旅をしてきて、たったいま吉野に到着した忠信である。
いったいどちらが本物の忠信なのか。
静と一緒に旅をしてきたほうの忠信が正体を明かす。
自分の正体は狐(きつね)で、いままで忠信に化けていたのだと白状する。
では、いったいどうしてそんなことをしたのか。
じつは静御前の持っている鼓は、狐である自分の両親の皮で作られたものなのだという。
幼いころに両親は殺されて鼓になってしまったため自分は親孝行をできなかった。
だから、せめて親孝行にでもなればと鼓を持つ静御前を守るために忠信に化けた。
そうしたら源九郎義経様から源九郎の名前をおまえに与えるという言葉までいただいた。
こんな嬉しいことはなかったと狐忠信は言う。
ここは泣かせどころだから狐忠信のセリフを原文で紹介すると――。

「狐忠信 (……) 前世に誰を罪せしぞ、人のために仇(あだ)せる者、
 狐に生まれ来るという因果の経文[「業報差別経」のこと]恨めしく、
 日に三度、夜に三度(ト思い入れ)。

    ♪五臓をしぼる血の涙、火炎と見ゆる狐火は胸を焦がす炎ぞや。

 かほど業因深き身も、天道様のお恵みで、不思議にも初音の鼓、
 義経公の御手に入り、内裏を出ずれば、恐れもなし。
 ハア、嬉しや、喜ばしやと、その日より付き添うは、皆大将のおかげ。
 稲荷の森にて、忠信があり合わさばとの御悔やみ、せめて御恩を送らんと、
 その忠信殿の姿に変わり、静様の御難儀を救いし御褒美とあって、
 勿体なや、畜生に清和天皇の後胤源九郎義経という御姓名を賜りしは、
 空恐ろしき身の冥加(みょうが)。
 これというも、わが親に孝行が尽くしたい、親大事親大事と思い込んだ心が届き、
 大将の御名を下されしは、[畜生ならぬ]人間の果を受けたる同然、
 いよいよ親がなお大切。片時(へんし)も離れず付き添う鼓(ト思い入れ)」(P255)


このセリフを思い入れをたっぷり込めて読み上げたらさぞかし気持がいいことだろう。
古典芸能の歌舞伎とはいえやはり演劇で、
ならば必然として役者のほうが観客よりはるかに楽しいのだと思う。
観客が安価で役者の気分にひたれる方法が唯一存在する。
台本を古本やら図書館で手に入れてセリフを役者になった気分で読めばいいのである。
この記事は何度も自分が読み上げたいから名ゼリフを書き写している面がある。
さて、狐忠信はどうするのか? 忠信がふたりもいたら迷惑になってしまう。
いまは鼓となったふた親も、このあたりで姿を消せと言っているような気がする。
親への名残はたいそう深いけれども、お役目終了なのだから自分は消えよう。
だれにでも化けられる狐だから、あっという間に消えるのも得意である。
義経と静は狐の悲しい物語にいたく感動する。もう一度、狐に会いたい。
鼓を鳴らしたらいつものように狐は現われるのではないかと義経は静に提案する。
ところがである。いくら静が鼓を打っても音が出てこないのである。
これはいったいどういうことか?

「静 さては、畜類の魂残すこの鼓、親子の別れを悲しみて、音(ね)を留めたに疑いなし。
 人ならぬ身も、それほどに、子ゆえに物を思うかいのう。

    ♪打ちしおるれば、義経公。

義経 我とても、生類の恩愛の節義、身にせまる。
 一日の考[親孝行]もなく、父義朝を長田に討たれ(ト思い入れ)

    ♪日陰、鞍馬にひとゝとなり[少年期を鞍馬で過ごし]。

 せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ。
 親とも思う兄親に見捨てられし義経が名を譲りし源九郎[狐]は、
 前世の業(ごう)。我も業。
 そも、いつの世の宿酬(しゅくじゅう)にて、かかる業因なりけるぞや(ト思い入れ)。

    ♪身につまさるゝ御涙に、静はわっと泣き出せば、目にこそ見えぬ庭の面(おも)、
    わが身の上と大将の御身の上を一口に、勿体涙に源九郎[狐]、
    保ちかねたる大声に、わっとさけべば、
    我とわが姿を包む春霞、晴れて姿を現わせり」(P259)


姿を消していた狐は、
義経公のセリフや静御前の涙に感激して思わず叫んでしまったのである。
義経様ともあられる方が、畜生に生まれた自分の業とご自身の業を重ね合わせて
感慨にふけってくださっていると思うと、狐は叫ばずにはいられなかった。
うっかり叫んでしまったせいで妖術が解けて、狐は姿をふたたび現してしまったわけだ。
義経は狐の孝行ぶりに胸打たれて、この鼓は狐が持っていたほうがいいと手渡す。
ありがたく頂戴する親孝行な狐であった。
だいたい親子なんてものは仲が悪いのがふつうだから、
「義経千本桜」のこのシーンを見た観客は(セリフの意味がわかれば)
みなみな涙したことだろう。
じつは義経一行がひそむ吉野にも追手が迫って来ていたのである。
狐忠信は鼓の恩返しとばかりに、妖術を用いて敵方を翻弄するのだが、
これを見た観客は胸がすくような思いをしたことだろう。

「親子の情」というテーマは、性別年代を問わず万民の胸を震わすものなのだろう。
なぜならば、人として生まれたもので親がいないものはひとりとしていないのだから。
そして、子は親を選べない。子は親を選んで生まれてくるわけではない。
人間を超える宿命とでも呼ぶべきものの象徴が親でありきょうだいなのだろう。
恋愛なんかよりも「親子の情」は、人間の深いところを描くことができる主題だと思う。
なぜなら恋愛は男女の同一平面上の関係にすぎないが、
親子やきょうだいの間柄は神や仏にも通じるような宿命的な結びつきだからである。
この記事を書くついでにYouTubeで歌舞伎の「義経千本桜」をちらっと見た。
相も変わらず歌舞伎役者がなにをしゃべっているのかちっとも聞き取れなかった。
きついことを言うと歌舞伎鑑賞はまったく知性をともなわぬ金持の俗物的な道楽なのだろう。
海老蔵がステキって、だったら歌舞伎役者は俳優ではなく人形みたいなもんじゃないか。
歌舞伎役者が俳優になりたいならば、客にわかるような発声をしてからにしてほしい。
芝居は言葉だ。
言葉を伝えられないならば歌舞伎は芝居ではなくファッションショーと称したほうがいい。

時間がないわけではない。しかし、漫画を読む暇があったら本を読みたい。
しかし、週刊スピリッツと月刊スピリッツを購読している。
いまさらながら(遅ればせながらでごめんなさい)
月刊スピリッツ12月号掲載の漫画「ひもパンの天使」(三谷はみな)を読む。
おもしろいなと思ったものである。そして、これを描いたのが男か女か。
結局のところ、性別ではないかと思う、いやしい根性の持ち主だ。
もし男でこれを書いていたら偉い。
女のぶんざいでここまで書けるのは偉い。
こういう差別意識はよくないのだろうが、
ある意味でみんながいだいている本音だと思う。
わたしが期待している新人漫画家の三谷はみなは女のようだ。
ペンネームのようだからそこまで人生を賭けているわけではないのかもしれない。
びっくりしたのは無関心。
わたしは「ひもパンの天使」(三谷はみな)をかなりいいと思い何度も読み返した。
そしてネットで「三谷はみな」を検索すると本人のツイッターしか出てこない。
この人は才能があると思うけれどなあ。
みんな新人漫画家の一作につきあっている時間なんてないのかもしれない。
わたしは読みました。おもしろく読みました。言いたかったのはそれだけ。
若くしてデビューしたってこんなものなのかなあ。
でも、三谷はみなさんのご作品はわたしの心に届きましたからね。
ひょっとしたらいまのバイト先ではわたくし程度でも古株になるのかなあ。
たったの8ヶ月、切れ切れに勤務させていただいただけなのだけれども。
あはっ、新入りのネパール美少女と(たぶん)ネパール美青年がくっついちゃった。
そのネパール美青年が嫌い(かなあ?)なのはたぶん嫉妬なので、
そういう嫉妬を感じる自分がおもしろかった。
実際、彼は本の入れ方がめちゃくちゃなのでダメなのはダメなのだが。
しかし、新人さんだから仕方がないのだが。
そのうえ、日本語がわからないネパール人にはだれも本の入れ方を教えられないのだが。
不安たっぷりのネパール美少女がいたので気になっていた。
あるときから笑顔を見せるようになったと思ったら、
横にネパール美青年がいたというわけだ。
わたしは不安そうなネパール美少女に幸福になってほしかったから、これでいいのだ。
人によっては偽善的と思われる方もいるかもしれないが、
わたしはそこまでがっつくタイプではない。
あのネパール美少女のように、周囲のみんなが笑顔になればいいのになあ。
そのためにわたしができることならば陰謀でも術策でもなんでもやりたいと思う。
スリルはおもしろい。どきどきしよう。そのためには恋をすればいい。
噂話であることないことでっちあげて人生を芝居に仕立てあげて、
あの人の目もこの人の目も真っ赤にさせてみたいなあ。
いつ勢いやはったりで辞めるかわからないけれど、いまのバイト先には感動がある。
去年いまのバイト先でどれほどの感動を味わったことか。
東京住まいだが、わざわざ荒川を越えて埼玉県にまで働きに行っているのである。
やばい話だが、働くのがそれほどいやでもないというか、いやいや楽しいのだ。
しっかし、書けないのである。本当に感動したことは書けない。
せいぜいその断片を(ご迷惑でしょうが)電話で友人に聞いていただくくらいだ。
書いていないのである。書けないのである。本当のことは書けないなあ。
年末ぶるぶる震えるくらい感動した体験がいくつもあった。
けれど、そういうことはここには書けない。
もったいないからでも、筆不精だからでもない。ただただ書けないのである。
書かないということでもある。本当に感動したことは書かない。秘密は絶対に守る。
わたしは「それ」を書かない。「それ」の価値を知っていればこそ書けない。
むかしはわたしもおなじような誤解をしていたけれど、
本って編集者と作家だけがつくっているものじゃないんだなあ。
いやいや、尊敬するインテリの先生方はみなみなそんなことはご承知でしょうけれど。
本は編集者に依頼された作家が書いたものを、
工場で製本して物流会社が全国に運んで書店に並ぶ。
わたしはいま本を日本各地にまわす職場でアルバイトをさせていただいている。
おもしろいんだなあ。
いままで本は書店に積まれているのが当たり前だと思っていたから。
だれかがこの1冊をある書店に向けてピックしてくれているなんて思いもよらなかった。
そういうことに感動するのがインテリぶった最低のインテリだという自覚はむろんある。
とはいえ、本の流通はこうなっていたのかと知る喜びは大きい。
ベトナム人、ネパール人、中国人、インド人、フィリピン人と一緒に働いている。
フィリピン人やインド人は苦手だが、中国、ネパール、ベトナムは大好き。
いま自分が住んでいる近場にこれほどおもしろい国籍多様な職場があったとは。
奇跡としか思えないけれども、こんなことはありふれたことなのだろう。
奇跡なんてない。奇跡なんて人生では起こらない。
しかし、好きだなあ。みんなチューしたいくらい好きだなあ。
そう言いながら今月いっぱいで辞めてしまうのかもしれないけれど(←まっさか~)。
錯覚でしょうが、ジグゾーパズルがぴたっとはまったという感覚がある。
去年はそういう1年でございました。
今年がどうなるかなんて、そんなことはわかるわけがない。
死んでもいいって思うのね。死んでもいい。でも同時に生きているのもいい。
要するに、どっちでもいい。どっちでもいい。死んでもいいし、生きていてもいい。
去年のクリスマス(イブではありません)はおもしろかったなあ。
ただ8時間、箱に本を入れていただけだけれど、どきどきした。スリリングだった。
生きているとあんなことがあるんだなあ。
人ってすごいなあ、他人ってすごいなあ、他者ってすごいなあ。
わたしは他者という言葉が嫌い。他者よりは他人のほうがいい。他人よりは人のほうがいい。
もしかしたら、人っていいのかもしれないなあ。人っていい。おもしれえや。
あっはっは、この先、どうなるんでしょうかね。わからないから怖い。
そして、わからないから、おもしれえや。
そう思えたらどんなにいいことか。ならば、そう思うようにしたい。
今年39歳になるなんていますぐ死にたくなるくらいの絶望である。
なにものにもなれずに39歳――おもしれえや、なーんちゃって♪