テレビはめったに見ないのですが、
このまえふとテレビをつけたらドラマをやっていたのでつい最後まで見てしまった。
金持の老人が貧乏な若者にほどこしをしてやり(1ヶ月の三食昼寝つき程度)、
その元を取るように「おまえは軽いんだ」と偉そうなことを言っていました。
監督は誰かは知りませんが、じつにうまく現代日本を描いたドラマだと感心した次第。
この映像作品を作った監督はたいそう偉いのでしょうね。尊敬してしまいます。
金持の老人が貧乏な若者を叱り飛ばす物語はこれからもっと流行るような気がします。
よく知らぬ他人に向かって「おまえは軽いんだ」と言える人はさぞかし偉いのでしょうな。
いま日本でもっとも偉く金を持っていて威張っているのは老人であります。
なんとかして老人におもねっておいしい思いをしたいなあ。
老人は偉い。先輩は偉い。権力者は偉い。おかみには決して逆らいませぬぞ。

おかしな自慢をするようで恥ずかしいが本当のことを書いてみよう。
今井翼も相武紗季も山田太一ドラマ「ナイフの行方」を見るまで知らなかった。
東出昌大も山田太一ドラマで知った。
杏も三浦貴大も加瀬亮もその他多くの芸能人の名前を
山田太一ドラマではじめて知ったことが少なくない。
ほとんどテレビは見ないので芸能人のことをまるで知らないのである。
どうしてみんなそんなに芸能人のことに興味があるのかまったく理解できない。
いまわたしの関心があるのは職場の同僚である。
書籍出荷倉庫でたぶん百人近くの人が働いているのではないか。
そのひとりひとりにわたしは芸能人よりもはるかに深い関心を抱いている。
時給850円のパート仲間さんにも、立場はいちおう上となっている社員さんにもだ。
はっきり言って芸能人なんかよりもわたしの周囲の人のほうがよほど名優だと思う。
それぞれの人のことに興味がありすぎて困ってしまう。
名字だけではなく名前まで覚えている人がかなりいるくらいだ。
女優なんかよりも同僚の女性のほうがよほど美しいと思う。
二代目俳優なんかよりも同僚の男性のほうがよほど含蓄があると思う。
いままで何度プライベートに誘い出したいとチャンスを狙ってきたことか。
性別国籍問わずである。
必死になってあなたとお友達になりたいというメッセージを目線で送ったこともある。
あなたと仲良くなりたい。
性別や国籍をなしにして、あなたといろんな話をしてみたい。
むかしからのブログ読者は驚かれるであろう変わりぶりである。
しかし、突破口は開けなかった。昨日から年末年始の休みに入っている。
あの人やあの人と逢えないのがさみしいなあ。
あの職場のバイトさんや社員さんはご近所さんばかりのような気がする。
だれか軽い気持でメールをくださらないかなあ。ちょっとお話しませんか?
わたしの自慢できるものがあるとすれば秘密キープ力である。
絶対にある種の秘密は秘密のまま保てる自信がある。
プロフィール欄にメールアドレスを公開していますが、メールなんかまったく来ない。
人生、そんなもんだよなあ。さみしいもんだなあ。
どうしてみんな芸能人よりも周囲の人たちの魅力に気がつかないのだろう?
12月22、23日にNHKで放送された山田太一ドラマ「ナイフの行方」を視聴する。
金持の老人がナイフで無差別殺人をしようとしていた若年無職男性を更生させる話だ。
またまあ、よくわからないドラマを山田太一さんは書くもんだと思ったものである。
これはものすごくやばいドラマなのである。
このドラマに感動したとか言っている人は、本当にその意味をわかっているのか?
このドラマを放送してしまったNHKは、
倫理的な問題として袋叩きに遭ってもふしぎはないと思う。
しかし、山田太一というブランドのおかげで世間さまから叩かれないおかしなドラマだ。

このドラマの根本は無差別大量殺人をするような男は悪いのか、である。
新聞やテレビが大好きな無知蒙昧な9割の大衆(庶民)は、
殺人は悪いことで無差別殺人者は厳しく裁かれるべきだと思っているはずだ。
たとえば秋葉原通り魔事件の加藤智大氏は極悪人ということになっている。
さて、ドラマ「ナイフの行方」の今井翼のモデルのひとりは間違いなく秋葉原の加藤だろう。
わたしは殺人がよいのか悪いのかまだよくわかっていない未成熟な大人なので、
秋葉原通り魔事件の報道を見て、
すごい宿業を持った人が世の中にはおられるんだと思ったのみであった。
秋葉原の加藤くんだって、前日にでも事件決行1時間まえにでも
だれかがとめてくれていたら今井翼のように事件を起こさなかったわけでしょう?
秋葉原で殺された被害者もそう。
たまたまあの日にあの場所にいたから殺されてしまった。
不謹慎なことを書くと、わたしはあのとき秋葉原にいたかった。
正直、生きているのがいやだし、通り魔に殺されたり交通事故で死ぬのは理想。
自殺って面倒くさいし、周囲の人に一生ものの心の傷をつけてしまうわけだから。

ナイフで知らない人を刺そうとするのは絶対に悪いことなのか?
もし刺されたほうが死にたがっている人だったら、かえって善行をしたことにならないか?
どうして秋葉原通り魔事件の加藤智大は厳しく裁かれなければならないのか?
今井翼は加藤智大にほかならないのに、どうしてみんなからチヤホヤされるのか?
加藤智大も自分がどうして「それ」をしたのかよくわかっていないと思う。
今井翼は失恋物語をでっちあげていたけれども(あれは後付けの物語)、
本当にどうして自分がナイフで人を刺そうとしたのかは自分でもわからないと思う。
金持の松本幸四郎がどうしてあそこに居合わせて、
凶行を犯す寸前の今井翼をとめて逃がしたのかもだれにもわからない。
にもかかわらず加藤智大は裁かれ今井翼は人からやさしくされ美女までゲットする。
不平等じゃないか。不公平が過ぎやしないか?
このドラマに感動した人がいたならば、
その人はテレビニュースで殺人者の顔を見ても
裁くような態度を取ってはならないことになる。
このドラマを放送したNHKの責任も重い。
NHKのキャスターはニュースで殺人を報道したあとに善人ぶったコメントをするなよ。
あなたがまさにあなたがさみしい人にやさしくできなかったから、
その殺人は起こってしまったのかもしれないのだから。
だれかが松本幸四郎になっていたら、あの事件もこの事件も起きなかったのである。
ひっくり返せば、無数の殺人事件をとめた無名の松本幸四郎がいたことになる。
たまたま松本幸四郎に出逢わなかった不運な人が、
ナイフ事件を起こしてしまったのかもしれない。

いったいこの壮絶な差はなんなのだろうか?
どうして加藤智大は孤独なまま大量殺人をやらかしてしまったのか?
どうしておなじことをしようとした今井翼は温かい人に恵まれ美女から愛されるのか?
ブサイクでキモメンの加藤智大はなにゆえあそこまでかわいそうなのか?
7歳からひとりぼっちのイケメンの今井翼はどうしてあそこまで運がいいのか?
正直さあ、中卒無職の今井翼が女にもてるっておかしいよ。
いまでは有名大卒正社員の人でも孤独をこじらせていると聞くこともあるのに。

みんながみんなさみしいんだろうなあ。
みんな心のどこかで人になにかをしてあげられたらと思っている。
人との交流を持ちたいと思っている。
しかし、それはなかなかうまくいかない。お節介と嫌わられてしまう。
しかし、なにもしないと人は孤独なままだ。ひとりぼっちのままでさみしい。
さみしいからナイフを手に持ってしまう。
さみしいからナイフを持った若者を家に置いておこうなんて思う金持もいる。
さみしい人とさみしい人が出逢って一瞬でも交流を持てばいいのに、
それがどれほど難しいか。突破口がいかに開かれにくいことか。
今井翼のナイフは突破口だったのだろう。
さみしすぎて孤独でひとりぼっちでやりきれないから、
ナイフを使ってでもいいから人と関わりたい。人と関係を持ちたい。

中卒無職「さみしいね」
金持「あんたほどじゃない」


人と関わるとはどういうことか?
自分の話をするということだ。相手の話を聞くということだ。
わたしはちょっとだけ変わった人生を送ってきたから、
その全部は他人に話せないところがある。
でも話したい、わかってほしいという甘えた気持もある。
「甘えるのが下手なやつ」なのかもしれない。
他人の話はおもしろいと思う。
いまの職場の同僚全員からこれまでの人生来歴をうかがいたいと思っているくらいだ。
しかし、踏み込めない。立ち入れない。
仕事でカッターを手にしても、それを相手に向けるほどの根性は持っていない。

津川雅彦「(缶ビール片手に)他人(ひと)の話はおもしろいよ」
今井翼「そうですか?」
津川雅彦「つらい話も他人事(ひとごと)だもんな、ハハハ」
今井翼「あなたがどういう人か知らないのに(自分のことを話してしまって)」
津川雅彦「人徳だよ(と自分を指す)」
今井翼「え?」
津川雅彦「人徳。(あんたは)黙りすぎたんだ」
今井翼「――」
津川雅彦「しゃべればいい」


ゲバラを知っているいまの中卒の若者がいるのだろうか、
ということはドラマの設定なので言わないようにしておこう。
老人ふたりはかつてキューバ革命の立役者のゲバラに惹かれたという。
ゲバラは――。

「生まれたアルゼンチンのためじゃない。
どこの国だろうと、その国の人たちの正義の戦いに加わるのが
これからの生き方だろうなんて、けっこう本気で考えていた」


松本幸四郎と津川雅彦は、
某国の正義のためにマチとムラを連帯させようとして、
かえって相互関係をこじらせて殺し合いを誘発してしまったのである。
松本幸四郎と津川雅彦が正義のことなんて考えなかったら百人近くが死なないで済んだ。
自分たちが正義のために動いたから百人近くが殺し合いをしてみんなひとり残らず死んだ。
かつて正義に殉じた人は、もうひとりの正義の人に言う。

「あなたもそうでしょうけど、あれ以来、あの日をかかえてずっと余生を生きてきました」

本当かよ、と思うね。あんな豪邸をかまえていて、なにが余生だよ、笑わせんな。
もしわたしがそんな大勢の人を死にいたらしめたのならとっくに自殺していると思う。
かつて正義のために大量殺人をしたのに自殺もせず、
いまは家政婦つきの豪邸で優雅に暮らすイケメンで金持の松本幸四郎が好きになれない。
松本幸四郎は今井翼のことを「軽い」と裁くが「軽い」のはおまえのほうだろう?
正義のためとはいえそんな大罪を犯した老人が偉そうになーに言ってんだか。
おまえの長所は金があって力が強く(合気道)イケメンなことだ。
わたしが今井翼だったら
寝込みを襲って松本幸四郎の胸にナイフを突き立てていたかもしれない。
目を開いた松本幸四郎に「おまえは軽いんだよ」と言い放つ。
老人ふたりはさも人生をわかったような口ぶりでこんな会話を交わす。

「いまでも世界中のあちこちで殺し合いを憎みながら殺し合っている」
「自分にもそんな血が流れているんじゃないかと思うことがあるよ」


このドラマに感動したという老人は、
本当に感動したのならニュースで殺人者を見てもその人を裁くなよ!
NHKのニュースキャスターも「上から目線」でものを言うのをやめろ!
このドラマを書いた山田太一さんは、人間を信用しすぎているところがあるのではないか。
あるいは書いたあとにまずいんじゃないかとブルブル震えたのではないか。
みんなバカだから気づかないでくれるんじゃないかと期待したのか。
このドラマの根本メッセージは「殺人者に罪はない」とも言えよう。
どの殺人者のまえにも松本幸四郎や相武紗季が現われていたら、
彼は犯行を起こさなかったことになるのだから。
だとしたら、殺人者の罪っていったいなんなのだろう?
殺人者の罪はわれわれみんなのやさしさの足りなさが遠因なのだから、
みんなで責任を引き受けなければならないのではないか。
作者に期待するものは人それぞれでいいのだが、
わたしは山田太一さんに東日本大震災や格差社会といった根本のことを書いてほしくない。
根本のことを書くのは山田太一さんの仕事ではないのではないかと言いたくなる。
もっとささいな喜び、ちっぽけな意地悪、ありふれた失望や希望を書いてほしい。

たとえばの話だ。わたしがネット上に犯行予告を書いたとしよう。
人生に絶望した38歳アルバイトの男がいまからナイフを持って渋谷に行く。
果たして松本幸四郎、津川雅彦、松坂慶子、相武紗季のような人は現われるのか?
いちばん登場してほしいのは相武紗季だよなあ。
いまからナイフを持って渋谷に行くと書いたら――。
うちのブログは本名を公開しているし住まいも調べればわかるから、
すぐに警察官が飛んできてくれてそれで終わりだろう。
山田太一ドラマのようなことは現実には起こらない。
しかし、本当にそうだろうか? 本当に山田太一ドラマのようなことは起こらないのだろうか?

(追記)渋谷とかナイフとかもちろん嘘ですからね。通報しないでよ。
仕事納めの日のバイトの話。
このバイトをやったことのある人以外は興味のないどうでもいい話。
読まないで(命令形)。
男だから当然なのでしょうが、
ライン(流れ作業)の最後のほうの間口(持ち場)だった。
量はかなり多かったけれど、本の入れやすさはかつてないほどだった。
下流の布陣は――。
カドのミッチャン、サリタさん、ミッカー、ガンさん、スーさん、ぼくだったかなあ。
みんなすんげえがんばっていた。
あの人たちは本の入れ方をよくわかっていると思った。
最下流でも本を入れやすかったから。
最後のほうでベトナムのガンさんが代えられて国籍不明の女性になった。
そのせいかどうかはわかりませんが、箱入れがくずれたような気がした。
で、もう本が出なくなった最終期にベトナムのハインさんに代えられ帰宅。
女って勇気があるよなあ。
自分が稼ぐことで男を苦しませているわけでしょう?
おれがもし女で、そんなことをしたら心が病んでしまうような気がする。
男にこう言える女はすごい。
「入庫に行ってください」
さすがに「二階(←地獄)に行ってください」と男に言ったパート女は
見たことがありません。
ぼくは今日が仕事納め。
ぶん殴られそうなことを書くと、仕事をしている気がぜんぜんしないのですけれど。
今日も書籍ピッキングをさせていただきながら(させてもらっているのですよ)、
いきなり妙な過去の記憶が込みあげて来て不思議な感動をして落涙しそうになった。
やっべえよなあ。この作業が好きなのかもしれない。
書籍ピッキングをさせていただいていると書いた。
というのも、好き嫌いは人それぞれだろうが、ぼくはピックがいちばんおもしろい。
しかし、ぼくがピックにまわされることで、ほかの人が違うパートにまわされてしまう。
好き嫌いは人それぞれだが、やはりみなから嫌われているパートはあると思う。
ぼくのせいであの人が入庫にまわされ13~17時で帰ったと思うと、ああっ。
帰ってしまったけれど、18時から1時間入庫をしてもおもしろかったかもなあ。
Nさんと派遣女性がふたりで入庫をしていたからだ。
そのふたりのやりとりを観察したらどれほどおもしろかったことか。
入庫だって量が少ないから、帰らされている人もいなくはないのだろう。
たまには人の言うがままに動くのもいいのでしょうね。

世の中矛盾だらけだから、こんなきれいごとは言わないほうがいいのだろう。
でも言っちゃうと、パートと(日雇い)派遣だったら会社貢献度は前者のほうが上でしょう?
それにうちらは時給850円で働いているけれど、
聞いてみたら(よく聞けるな!)派遣さんは時給900円のことが非常に多い。
パートが帰らされて(日雇い)派遣さんが居残っているのをみると、
人事管理能力の難しさを身をもって勉強させられる。
今日はいい1日だった。
なーんか休憩時間にカレンダーの無料配布があってね。
ぼくの好みは絵はなくてもいいから(むしろないほうがいい)、
書きこめるくらいに大きく日にちや曜日が表記されていて、
なおかつ前月翌月のそれも載っているもの。
まさにぴったりなものがあって、いただいてきた。
今日はこのカレンダーの現物支給だけでも働いたかもなあ。
おまえの値段はどれだけ安いのかって話になりますけれど事実。
駐輪場でスーさんとサリタさんに逢った。
帰ってくれと言われたらしい(正確かどうかはわかりません)。
わたしは帰ってくれと言われず、自分で帰りました。
この違いって大きいんだろうなあ。あ、あ、ありがとうございます。
そして、ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい。
「新入社員読本 仕事の基本100のポイント」(社会経済生産性本部編/生産性出版)

→新入社員研修とかさ、受けたことがないんだ。
でもほら、顔はおっさんでも気持はヤングだから新しく勉強しようとする意欲はある。
自分から勉強しようとする力は、長所はこれくらいしかないんだけれど、あるつもり。
もちろん、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」くらいは、
元からネタのようなものとして知っていた。
本書を読んでいちばん勉強になったのは、働くということはロボットになれということ。
働くというのは、個人の好き嫌いを抹消してチームワークに徹することだ。
しかし、好き嫌いをなくしてしまったらそれは人間ではないでしょう?
自分というのはなにかと突き詰めれば好き嫌いなのである。
あなたとはなにか? あなたがなにを好きでなにが嫌いかというのがあなたである。
しかし、社会人になったら自分(好き嫌い)を殺せと教わるわけか。
模範的社会人を10年、20年とやっていると自分というものがなくなってしまうのではないか。
むろん、それが悪いわけではなく、自分を殺したほうがうまくチームに溶け込めるだろう。
社会人は自分を殺すことを美徳としているのか。
はっきり言って、この本を読むとわたしは社会人として不適切な言動をしているから、
バイト先の同僚からいつ殴られてもおかしくないということが理解できた。
みんながわたしを殴らないのは、自分(好き嫌い)を殺してくれていたからなのか。
社会人は偉いし、社会人経験のあるパートさんも偉いと思う。
社会人マニュアルを読んで思ったのは、
社会人は芸術家よりもよほど偉いのではないかということである。
ひたすら自分を殺して、それでも出てくる自分を殺して、最後の自分まで殺す。
これがチームワークをうまくこなすための秘訣になるのだろう。

「職場では、人に関する好き嫌いは二の次にして、
成果をあげる努力をしていかなければならない。
人は機械ではないから感情を持ち、それが人間関係の善し悪しに影響し、
ひいては協力関係にも響いてしまう。
職場でよい人間関係を形成するには、自分自身の感情をコントロールし、
仕事の成果を基準に割り切っていかなければならない」(P43)


要はやっぱり自分を殺せというわけだ。
いま社員さんのみならずパートさんの顔をいろいろ思い浮かべているが、
自分をかなり殺している人とそうでもない人に分かれることに気づいた。
男に多いけれども自分を殺せる人って偉いよなあ。
ああいう偉人(異人でもある)さんがいてくれるからチームワークがうまくいっているのか。
仕事でいちばん難しいのはおそらく人間関係なのだろう。
そして、人間関係をよくしてチームとして活躍するためには、
なるべくおのおのが自分(好き嫌い)を殺すべきである。それが社会人の生き方だ。

「職場では、まず仕事の目標を達成することが最も重要であり、
自分はそのためのチームの一員であると自覚することが大切である。
最初は仕事中心に漠然とした人間関係を築くように行動し、
仕事上の共通の役割を通した関係を深めていき、
その中で個別の人間関係を築いていくようにするとよい」(P47)


わたしはいまのバイト先でぜんぜんこれができていない。
昨日もさ、5ラインは22時終了ってみんな知っていたのに、
わたしだけ知らずに20分も無駄に職場に居残っていたから。
まったく人間関係を築けていないから、こういう羽目に遭うのは自業自得なのだろう。
ある人も言っていたけれど、わたしも世間話ができないんだ。
だから、「個別の人間関係」はあそこにいくら勤めていてもできないのかなあ。
うまく自分(好き嫌い)を殺すことができないから最低限の人間関係さえ築けない。

それから社会人は「無責任」ではいけない、という箇所もぶん殴られたような気がした。
以下はまるでわたしの仕事態度のようである。

「割り当てられた仕事をきちんと実行しない。
仕事がうまく進まなくなると、他人や状況の変化のせいにする。
反省する姿勢がなく、自分のミスは認めようとしない。
批判はするが、どうすればよいかの工夫はしない」(P91)


バイト先の若い先輩に「ミスなんて気にしないほうがかえっていいですよね」
と話しかけたときの、優秀パートさんの唖然とした表情のわけはここにあったのか。
でもさ、ミスを恐れてビクビクしているとかえってミスが増えるような気がするけれど。
本音は8~10時間の勤務中にどのくらいメリハリをつけて働くかじゃないかなあ。
「割り当てられた仕事」を8~10時間全力でやっていたら身体が壊れてしまう。
デスクワークでもみんなときどき息抜きしながらやっていませんか?
しかし、これだけは正真正銘真実というのは、わたしは社会人失格なこと。
以下はまるでわたしのことを指摘されているようだ。
社会人は「自分勝手」を言ってはいけないのか。

「自分の都合を常に優先させて考え、他の人の都合に対して配慮しようとしない。
調整を受け入れる柔軟性を持たない」(P91)


自分の都合よりも他人の都合を優先させるのが社会人ってこと?
なんかそれ、悟りを開いたと自称するインチキくさい坊さんみたいじゃなーい。
社会人ってすごすぎる。正直、ここまですごい人たちだとは思っていなかった。
自分(好き嫌い)を殺して苦行を厭わず、
高校球児のようにチームプレイに徹するのがよりよき社会人というものなのだろう。

「職場は、目標を共有するチームである。
したがって、チーム・ワークの基盤としてのよい人間関係が重視される。
しかし、このチームには、個人的な好みで参加することも、
そこから勝手に抜け出ることもできない。
一人ひとりがエゴを慎まなければ、職場の和は保てない。
この意味で、職場の和の維持に努め、和を乱さないように行動する部下は、
上司から信頼される」(P139)


いまの倉庫バイトを始めて社会人の社員さんたちに何度も見惚れたものである。
マネージャーさんはみんなから嫌われる憎まれ役のような立場だから辛いだろうなあ。
サブマネっていつも職場にいるけれど家に帰っているんだろうか。
その他社員さんも膨大な人間関係の束を笑顔でなんとうまくまとめていることか。
この本を読んだら完全社会人失格のわたしを7ヶ月もうまく使ってくれたのである。
社会人って思っていたよりもはるかに骨折りで気苦労の絶えない立場ではないか。
明日から3日、今年最後のお勤めだけれども、社員さんを尊敬の目で見てしまいそうだ。
パートさんなのに社会人として正しくふるまっているあの方にもあの方にも。
とにかく社会人は偉い。とても真似できない。
わたしは偉い人になりたくないから社会人を真似するのは自分を裏切ることになろう。
ただただわたしに可能なのは、偉い社会人さんを尊敬のまなざしで仰ぎ見ることだけだ。
出勤まえに1時間で読んだ本の感想は――。

社会人>芸術家

「図解 早わかり ベトナムビジネス」(ベトナム経済研究所編/窪田光純/日刊工業新聞社)

→こちらのベトナム体験はわずかなもの。
むかし1ヶ月かけてベトナム南北を旅したことがあること。
それからいまベトナム人留学生と一緒に働きはじめて7ヶ月。
このくらいではベトナムのことはわからないよなあ。
しかし、本書に書いてあることが絶対真実であるかどうかもわからない。
たとえば「日本人は勤勉」と言われても、そうじゃない人もたくさんいるでしょ?
小声で白状するけれど、たとえばこの文章の書き手は自分を勤勉とは思っていない。
まあ、そういう眉唾みたいなものとして
本書の内容は参考程度にとどめておいたほうがいいのだろう。

きっとベトナムなんか世界地図でどこにあるか指せない人のほうが多いのではないか。
本書から学んだベトナムおよびベトナム人の要点を箇条書きふうにメモしておく。
・ベトナムは反日的な中国圏でもないし争いごとが好きなイスラム圏でもない。
・ベトナム共産党の一党支配だが政治的には安定している。
・人口8200万人の国民市場がある。2020年には1億人を突破する。
・ベトナムは若い国で30歳以下が6割。老人の国である日本と正反対。
・地縁、血縁が強い。出身地や血族のコネが幅を利かせている。
・これはベトナム戦争を経験したからとも言われている。防衛のため同族意識が強まった。
・「人柄がよい、節度正しい、年長者を重んじる、勉強家」って本当かなあ?
・ベトナム人はプライドが高い。面子を重んじる。
・日本人は謝罪文化と言われるほどよく謝るが、ベトナム人は絶対に自分の非を認めない。
・ベトナム人は自己責任を認めようとしない。絶対に謝らない国民性。
・日本以上に学歴を重視する。家柄、毛並み、階層意識が強い。
・ベトナム人は将来のことをあまり考えずに目先の利益を最優先する。
・定価主義の日本に対して、ベトナムは値切りの文化。価格交渉が面倒くさい。
・会社のことなんかよりも自分の都合をまず優先する。
・ベトナムでは男性よりも女性のほうが威張っている。
・根本にあるのは「独立・自由・幸福」を目標とするホーチミン思想。
・ベトナム人を過度に信頼してビジネスで痛い目を見た日本人も少なくない。
・ベトナムでいくらものが売れても利益幅が小さいから日本円に換算したら儲けにならない。
・ベトナムでは日本人ひとりの賃金でベトナム人百人が雇用できる。
・ベトナムで稼いだ金を日本に送金するのがなかなかたいへんらしい。
・ベトナムで商売しようと思ったら賄賂(わいろ)がかならず各方面に必要となる。
・賄賂横行はきれいごとで言えばお礼文化、贈答文化と言えなくもない。
・高学歴化が進んでいて識字率は90%を超える。
・とはいえ大学を卒業しても就職できるのはほぼ半分の50%。
・そのうち希望の職種に就けるのは10%。
・25%はアルバイト。30%はたぶんニートやら無職やらバイト探し。

この本は8年まえの出版で、
日本に来ているベトナム人留学生の数は2千人程度となっていた。
いまネットで調べてみたら去年の統計では6290人と3倍に増えている。
ならば、いまのバイト先にいるベトナム人は6千人のうちの10~20人なのか。
もっといると思っていたけれども、あんがい少ないから、
彼(女)らはいま日本にいる数少ないベトナム人留学生だったのか。
ちなみに中国人留学生の数は8万人をオーバーしているから、
どのくらいベトナムの6千人が少ないかわかっていただけると思う。
ベトナム長期旅行経験のあるわたしがバイト先でベトナム人とめぐりあう確率って、
考えてみたらものすごく低く、大げさだけれど奇跡のようなものなのかもしれない。
できるだけ親切にしてあげたいなあ。
しかし、きつい持ち場はなにしろ若いんだからベトナム人女子にもやってほしい。

ベトナム人が学歴大好きっていうのは、ちょっと話しただけでなんとなくわかった。
しかし、ベトナム人が勉強家っていうのはどうかなあ?
1年以上も語学留学しているのにまったく日本語がわからない人ばかりのような気が。
無断欠勤とかやりまくりな子もいるような、いないような。
社員さんがいくら親心のような愛情のある叱り方をしても馬耳東風なのが笑える。
もしかしたら本に書いてあるように本当に謝るって精神がないのかもしれない。
変にプライドが高い子が多いのは事実だと思う。みんな大学出だから、
日本の底辺をどこかでバカにしているようなところもあるのかもしれない。
だったら、日本語を徹底的に集中して勉強すればいいのにやらないんだなあ。
昨日バイト先で話した女の子もまったく日本語ができなかった。
社員さんが注意していたけれど、あの話し方だと数%も伝わっていなかったのではないか。
そんな彼女でももう日本に来て1年以上になるのだからベトナム人は勉強家である(え?)。
来年、日本経済大学(のたぶん院)に入るって言っていたな。
「渋谷にある日本経済大学を知っていますか?」
「え? そんな大学あったっけ?」
帰宅してさっそくネットで調べてみたら偏差値40の大学かあ。
ここの大学院だったらお金さえ払えば名前を書くくらいで入れてもらえるのかしら。
でも偏差値40の大学の院で日本語がわからないのにいったいなにを勉強したいのか。
ベトナム人ってよくわからない。だから、惹かれるのかもしれない。
書物ならぬナマのベトナム人と接する機会があるというのは相当ラッキーかもしれない。
アメリカに勝った国、ベトナムのことをもっと知りたい。

「僕たちは池を食べた」(春日武彦/河出書房新社)

→B級精神科医の春日武彦氏の短編小説集を読む。
氏の濫造する一般書とどちらがおもしろいかと問われたら答えに窮してしまう。
なぜならきっと著者自身は、
むしろ小説のほうを評価してもらいたいと思っているのがわかるからだ。
勝手に親しみを感じている人の感情を逆なでするようなことはできるだけ書きたくない。
たしかにどれも春日武彦でなければ書けない小説になっていたように思う。
春日氏の文章のおもしろさは人の悪口にあるのである。
美談を耳にしても鼻で笑い飛ばし、
逆に美談の裏のグロテスクな部分をにやにやしながら妄想するのが
春日武彦という精神科医の「生きにくい」感受性と言ってよいだろう。

ふつうわれわれは寡黙だがまじめに働く底辺労働者を評価している。
そういう底辺労働者の美しさをヒューマニストぶって称賛する。
だが、春日はそうではないのである。
本書はいちおう私小説のような体裁を取っているが、
精神科医のもとにきた癲癇(てんかん)の患者「アヅマ君」を
春日は悪魔のような筆づかいで描写してしまう。
われわれはふつう癲癇という病気を持つ底辺労働従事者を、
同情や「世界への信頼」のようなものから好意的に眺めてしまうようなところがある。
しかし、春日武彦氏はそうではないのである。
ここは何度読み返しても笑いがとまらないので、
多少長くなるが一部略しながら著者への敬意を込めて抜粋させていただく。
患者として受診してきたアヅマ君37歳のことを春日はこう描写する。

「アヅマ君は頭が五分刈りで首が太く、体つきはずんぐりしている。(……)
外見の通りに鈍重であり、口下手で気が利かない。
人付き合いは苦痛で、友人も少ない。才気煥発といったものとは縁がなく、
他人に命じられたことを黙々とこなしていくことで精一杯である。
何が楽しみで生きているのやら、いやそんなことを考えたことすら果たしてあるのか。
人並みに希望や夢といったものも秘めているだろうに、
そんなことを自ら語ることは決して無いし、
そういうテーマについて喋る機会も相手も無い。
女性と付き合うことなど思いもよらない。
二人っきりになったら、どう振る舞ったらいいのか途方に暮れてしまうことだろう。
ただし肉欲といったものは常に渦巻いていて、
だから散らかった自室でSM雑誌を開いてオナニーにでもふけっていそうな
雰囲気も感じられて、よけい女の子に敬遠される。
冗談ひとつ言えず、マナーは知らず流行には無頓着。
「がさつ」のひとことで言い切ってしまうには、
どこか図々しさのパワーといったものに欠ける。
惨めったらしいところがある。(……)
創意工夫に欠けるから、どんな分野においても底辺に留まる運命である。
努力家というよりは、同じことを延々と繰り返していても
疑問を持つことのない鈍感な人間として理解して良いのかもしれない。
(……) アヅマ君は現在三十七歳である。家族はいない。
家庭を持っている訳ではないし、
四人いた同胞が今どこで何をしているのか知る由もない。
小さい頃から「ひきつけ」やら痙攣をしばしば起こし、病院で診てもらう
こともないまま人生におけるハンディとなって彼にのしかかっていた。
吃りがちで暗い目つきをしているくせに、
何かの拍子で突然怒りを爆発させることがあって、
しかも爆発の原因があまりにも些細なことだったりするので、こいつは
「おかしいんじゃないか?」といよいよ他人が彼を敬遠することになる。
嫌われるというよりは、気味悪がられる傾向のほうが大きかった」(P64)


こういった人を舐めくさった文章を書けるのが春日武彦氏の魅力なのである。
だとしたら、この才能は小説よりもむしろ一般啓蒙書で生かされる類のものではないか。
だがまあしかし、患者を見ながらこういう妄想をしている精神科医はいやなもんだ。
精神科医としてはいささか問題ありだが、人間としての春日武彦はおもしろすぎる。
厭世家の春日武彦氏にとってあれこれ妄想して、
その結果として世界の彩りに気づくのはたいそう「生きる喜び」になっているそうだ。

「実はこういった類の飛躍に満ちた内的体験は僕にとってごく自然なことであり、
自分にとっての数少ない「生きる喜び」の一要素なのである。
悪意と傍観者的態度と妄想傾向との組み合わせが生きる支えの一つと
なっているのは寂しい限りだが、思い描くばかりかこうして文字に
書かねばいられないところが、もはや何かの業(ごう)なのかもしれない」(P145)


人を見ながらあれこれ妄想するのって思いのほか陰気で卑猥な喜びなのかもしれない。
春日氏が描いたアヅマ君のような人はいまの時給850円のバイト先にいなくもない。
人生で底辺労働どころか一度もアルバイトをしたことがない春日武彦さんは、
妄想だけでけっこうな真実めいたものを書いてしまうのだからその意地悪な才能には参る。
先ほど、こう書いた。
目のまえの患者を診ながらあれこれ妄想する春日武彦は精神科医としていかがなものかと。
しかし、それは違うのかもしれない。以下のような箇所を見ると、
実際の春日武彦さんはかなりの名医かもしれないとさえ思うくらいである。

「人の心なんて千差万別なのだから、基本的なルールを踏まえていれば
あとは場合に応じて柔軟に対処していく他ない。
いささか規格外の人間が精神科医であると、
本人の持ち味とでもいったものが
意識的なバリエーションを越えたものをもたらすから、
その意味で精神科の医師は優等生ではない者のほうが
予想外の効果をあげる場合が少なくない。
患者にとっても医者にとっても、ある種の病態に関しては
互いの「出会い」と「相性」が決定的になる。
つまり治るのも治らないのも、運次第といったところがあるのだ」(P104)


じゃあ、たとえば芥川賞の小説と春日氏の作品を比べたらどうなるか。
春日さんの小説よりもおもしろくない芥川賞作品はかなりあるだろう。
とはいえ、精神科医という枠をうまく使い量産作家に成り上がった春日さんが、
その地位が新人にはふさわしくないと判断され芥川賞候補にならないのは、
まあ人生そんなもんよねとしか思わない。
もうちょっと社交がうまかったら春日先生はもっと偉くなれていたのかもしれないなあ。
まあ所詮は他人事なのでべつにどうでもいいことだけれども。

いまの国籍性別年代多様な職場で働くことになって復活したのが記憶力である。
むかしはすごかったんだ。
中学時代はプリント1枚を意味も不明なままにそのまま丸暗記することができた。
基本、成績って記憶力に依存していると思う。
さてさて正直な話、
いまのわたしがいるバイト先に入った新人さんは、
おそらく周囲の名前を覚えるのはあきらめるのではないか。
それほど多くの人が働いているのである。
ぶっちゃけ、社員さんが人の名前を間違えて呼んでいるところを何度も目撃している。
さいわいなことに一度もわたしは名前を間違えて呼ばれたことがない。
よくあるおっさん顔のわたしなどの名前を覚えてくださって感謝、感謝、大感謝。
ある時期まではたしかに名前を覚えられなかった。
しかし、名前を覚えることから世界が輪郭を保つのだとも思う。

ネパール美少女のサリタさんが契機だったなあ。
どうしてもサリタという名前が覚えにくかったのである。
名前を覚えるきっかけは持ち場が明示された紙である。
これを瞬間的に見て前後の人の名前をあたまに叩き込むしかない。
女性の胸の名札をじろじろ見るのはセクハラになってしまう。
サリタという名前は記憶するのが難しすぎた。
このため、持ち場にはられている紙の裏に「サリタ」と書いたほどである。
サリタさんは2時から来ることが多いが、来てからも何度も紙を見直した。
そのくらい無機質なサリタという名前は覚えにくかった。
たしかその日の左横はユーミだったような気がする(ユーコさんだったかな)。
何度も紙の裏を見ているわたしを怪しく思っていたのかもしれない。
サリタという名前を覚えたいきさつはこうだ。
サリタさんはネパール人女子。
ネパールはインドの近く。インドといえば女性の着ているサリー。
サリーだから「サリタ」さん。
そういえばおなじネパール古株女子にスミタさんがいる。
「タ」が最後につくのかネパール女子の特徴かな。
こうしてサリー+タのサリタさんの名前を記憶することに成功した。
あとはこの要領で国籍問わず片っ端から名前を覚えるようにしている。

だけどさあ、いったいバイト先でパートさんの何人がわたしの名前を覚えているのか。
社員さんはそれが仕事だからまず覚えていらっしゃると思う。
問題はおなじ身分のパートさん。みんなわたしの名前なんて知らないんだろうなあ。
覚えてくださいとは口が裂けても言えません。
けれど、ゴックさんがわたしの名前を知らなかったら鬱だなあ。
まあ、人生なんて、人間なんて、そんなものだとは思うけれどさ。
女性パートさんでわたしを名前で呼んでくれた人はいまだひとりもいない。
唯一ユーミだけが休憩室で何度かわたしの噂をしてくれたなあ。
いろいろあった翌日に上がユーミをラインの横に入れてくれたときは、
おいおい、おもしろすぎるとブルブル震えちゃいました。
ひたすらユーミを無視して(横目でチラ見しながら)サリタさんがわに立ってしまったなあ。
あれは忘れられない1日だった。
あんなスリリングな経験をさせてもらうと、このバイトを辞められないじゃないか。
時給850円のバイト先でベトナム古株女子から
「おにいさん」と声をかけられるとなにもかもぶち壊してやりたいような気になる。
第一にわたしは「おにいさん」ではなくすでに「おっさん」だ。
それに日本では男性を「おにいさん」などと呼ぶのは水商売の女だけではないか。
バイト先のベトナム人の大半が所属している東京日語学院は、
どれだけおかしな日本語を教えているのだろうか(ちなみにここの校歌は大好き)。
古株ベトナム女子が人を「おにいさん」って呼ぶのは絶対におかしいと思う。
というのも、わたしは半年以上も同僚として働いているわけだから。
どうして名前くらい覚えないのかって話だ。
わたしさあ、あんたらベトナム人よりもベトナムのことも日本のことも知っているよ。
「おにいさん」はないだろう。
1年以上日本にいてもそのくらいのガイジンは軽蔑してもいいのではないか。
わたしは「おにいさん」ではない。土屋顕史という名前を持つ日本人だ。
こちらはバイト先のベトナム人の名前をほぼ全員把握している。
しかし、ベトナムのほうはだれもわたしの名前さえ覚えてくれない。
日本人女子で男を「おにいさん」なんて呼ぶバカはいないでしょう?
そういう常識さえベトナム女子は知らないのである。
ベトナム人同士でベトナム語ばかりで会話している。
休憩時間になったとき、
わたしの存在をまったく無視されて前後で3人によるベトナム語会話がはじまった。
思わず「うぜえ」と叫んでしまったが、どうせ伝わらなかったのだろう。
ベトナムのあの子たちはなにが目的でわざわざ日本に来ているのだろう。
1年以上日本に語学留学していて、
人を「おにいさん」と呼ぶバカっぷりはいったいなにゆえなのか。
これほど日本語を解さないベトナム女子でも一部日本男子よりも厚遇されている。
ベトナム女子ってみんなバカなのかなあ。バカは嫌いなところがある。
東京日語学院は男を「おにいさん」って呼べって教えているわけ? バッカじゃん!
最近まったくテレビを見なくなったよなあ。
むかしは他人の不幸目当てでニュースだけはテレビで見ていたけれど。
むろんのこと新聞は取っていない。
いまは世間さまへの興味も薄れてネットニュースを見るのでさえ半月に一度。
そうなると、もうぜーんぜん世の中のことはわかりません。
よく知らないけれど、総選挙があったんだって?
投票率が52.6%って、この国もう民主主義を名乗れないじゃん、キャハ♪
テレビとかニュースとか日本とか、850円で働いているとどうでもよくなるよなあ。

投票率なんかよりもはるかに、
バイト先のネパールのあの子が
2日連続でぼくと顔を合わせて微笑んでくれたってことが重要だ。
あの子は絶対に幸福になってほしいなあ。
ユーミがさ、ラインでぼくのまえを通るときにマスクを外していたのはなぜ。
ああ、いくら風邪が流行っていてもぼくがマスクをしないのは、
すると警察に逮捕される寸前の変質者顔になるからだから。
古株のミッカーとふたりだけで逢ってこの職場の人間関係を把握したいなあ。
サカヅメさんのよさって気づいているのぼくだけなの?
ぼく、たぶん精神科に行かされたら人格障害の名前がつくような気がする。
つまり、ちょっと異常な妄想癖がある。
このため幻聴だろうが休憩室でこんな雑談を耳にしたような錯覚にとらわれている。
「ツチヤさんってだれが好きなの?」

山田太一ドラマは好きだなあ。
なんでも今晩と明晩、NHKで山田太一ドラマ「ナイフの行方」が放送されるらしい。
もちろん、バイトの時間帯だからライブでは見(ら)れない。
一銭も報酬がないのに感想なぞ書けるかもわからない。
もしかしたら録画しても視聴しないかもしれない。
しかし結局のところ、好きだから見ちゃうし、
だれも興味がないような感想も書いちゃうんだろうなあ。
好きって、まったく困ったものである。好き、好き、大好き。
「女にモテたきゃ男を磨け」(安藤昇/双葉文庫)

→ぜんぜんインテリじゃないから、おれ。
おれはさ、こういう本をきまじめに読みながら女のことばかり考えているアホ。
ぶっちゃけ、女と現代的通俗的な「恋愛」なんかまったくしたいと思わない。
女さまのご機嫌をおうかがいして、
テレビや雑誌で取り上げられたらしいスポットに行くくらいなら腹を切ったほうがまし。
そうそう、そうなのだ。
おれは女と「恋愛」なんぞがしたいわけではなく、ひたすらモテたいのだ。
女をおれの自由気ままに思うがままにコントロールしたい。
「恋愛」なんかしたくないけど、クリスマス近くの発情期だからか女にモテたい。
そんな邪悪な欲望から、むかしのヤクザの大親分が書いたという(99%口述筆記)
モテ本を目をギラギラさせながら女の裸のことばかり妄想して読んでみた。
いったいどうしたら女にモテるのだろう。くうう、たまらなくモテたいぜ。
教えてヤクザの安藤親分さま。

「女は男の”力”に惚れるのは間違いないが、その力というのもいろいろある。
腕力だけではなく、知力、権力、経済力、そして魅力だ」(P60)


本音をぶちまけると、この文章、ものすごくバカっぽいよねえ。
「知力、権力、経済力、そして魅力だ」のくだり。
いかにも日本語をわからないおバカさんが得意げに論じたという感じ。
こんなバカでもヤクザの親分だったらモテるのかなあ。
あわわ、いま身の危険を感じた。というのも著者は、
調べてみたらまだご存命らしいからヒットマンに撃ち殺されちゃうのかなあ。
なんか前科ならびにムショ歴のある偉い(?)人らしいしさ。
いま力がほしい。いまおれは力がほしい。なぜならば――。

「力や自信のある男がモテるのは、女が将来を考えた計算ずくだけじゃない。
そんな男の顔は、輝いていて色気が発散されている。
その色気にひかれて、女たちが集まってくるわけだ。
こういう色気は、じつは周りの男も敏感に反応する。
つまり、男が男に惚れる」(P65)


やっぱり人間、自信がたいせつなのか。
おれ、なんだか世間を知らないからか、いい歳をしていまだに自分に自信がある。
だから、勘違いをするのだろう。
いやあさ、あはは、バイト先で(あるはずないのだろうが、錯覚でしょうが)
ドキッとする視線を壮大な誤解として感じることがなくもない(ハイハイ、妄想妄想)。
もしかしたらそういう勘違いがモテるためには重要なのかもしれないなあ。
だって、著者の顔を見てだれが女にモテそうな顔だと思うかって話。
とはいえ、やたら人生でモテたらしいヤクザの著者は女をわかっている。
モテるというのはどれだけ相手の気持になれるかだと思う。
ヤクザの親分はフェラチオ(尺八/口淫)でイケる女がいちばんいいと主張する。
これ、わかるわかる、わかりすぎる。
フェラチオ(尺八)は女にとってもっとも屈辱的な行為だと思う。
だって、男の小便の出てくるところをキャンディーのように舐めるわけでしょう?
しかし、そこに女としての醍醐味があるのだとヤクザの親分は説く。
男に対する奴隷的奉仕である尺八でイケる女はもっともいい女だ。
なにがいいのか? あたまも感受性もなにもかもいい。
モテ親分の言葉を引く。

「尺八でイケる女には、もう一つ見逃せない長所がある。
それは頭がいいということ。
男を味わうだけでなく、尺八のポーズに興奮し、
さらにはよがっている男を見て興奮する――これは、
想像力がたくましいというか感受性が強いというか、
鈍い女には決してできない」(P95)


あたまがいい女が好きってすごいわかるなあ。
あたまがいいって学歴や知力や記憶力じゃないんだ。
強いて言うならば、著者の言葉を借りるならば、想像力が大事なのかもしれない。
結局、男も女もエロが好きなわけでしょう?
じゃあ、エロがなにかって言えば、とどのつまり想像力じゃないかなあ。
生まれ変わったら絶対女になって男どもをいろいろ喜ばせたいなあ。
そういう想像力があると(女ならぬ)男の場合、
かえってモテないとこの男性ホルモン過剰でマッチョな著者は言いたかったのかもしれない。


「お金とツキが転がり込む習慣術――「運のいい人」には理由がある」(和田秀樹/祥伝社)

→いまの若い人はスーパーフリーな早稲田の和田(真一郎)さんなどまったく知らず、
和田さんといえば東大の和田(秀樹)さんになるのかなあ。
早稲田(第一文学部)卒としてはさみしいかぎり。
20年近くもまえ大学で教育学演習の発表のとき、
そのころはまだいまほど売れていなかった東大の和田さんの本を紹介したことがある。
早稲田大学教授先生はえらく不愉快だったようで、
評定でCをつけられたのをいまでも覚えている。
正直、どこかで恨みに思っている。
いま記憶とネットを頼りに調べてみたら梅本洋という名前だった。
早稲田大学教授の梅本洋さんを見て、ぼくは大学に見切りをつけたところがある。
早稲田の教授の梅本洋さんの話は死ぬほどつまらなかったなあ。
こんな人にだけは絶対になるまいと早稲田大学教授の梅本洋を見てぼくは思った。
早稲田大学教授の梅本洋よりもうさんくさい和田秀樹さんのほうがよほど好きだ。

しっかし、まったく和田秀樹さんの運のよさといったらもう言葉がないレベルだ。
これほど運がいい人が運やツキを語っているのだからきっと本物だろう。
いま時給850円のアルバイトで書籍ピッキングをしている。
先日、お見かけしたのが東大の和田さんの「「運が強くなる」たったこれだけの考え方」。
偶然を重んじるほうなので、
過去の和田さんの本を調べてみたら類書があるある、ありまくり。
そのうちの1冊をブックオフオンラインから百円で買ってみた。
いろんな運やツキの本を読んだが、結局運がよくなる秘訣は自信にあるのかもしれない。
「自分は運がいい」とどのくらい信じられるかに運のよしあしは左右される。
人生経験上、いかにも運の悪そうな人って、みんな自信がなさそうだもん。
猫背でいつもうつむいている目が死んだ人の運勢がよくなることなんてあると思いますか?
異性から評価されるほど人にとって自信を持てることはないのだろう。
ぼくは「あなたはきれいだ」と850円職場でみんなに言ってまわりたいところがある。
あるいはお礼として反対にほめられたいという邪悪な感情の一面かもしれないけれど。
言っとくけど、ぼくは運がとてつもなくいいからね。
いっぱい具体例はあるけれど、いまここに書けることといえば、
これだけバカなのに(文章を見たらおわかりのはず)早稲田一文に受かったこと。
ぼく、19歳のときに人生は運だと見切ったところがある。
早稲田に受かったのが運なのだと考えたら、
あれだけ過去問をやりこんで
どうしても入りたかった東大に落ちたのも運のせいにできるではないか。
東大卒の著者の言葉を借りよう。

「一般的に、東大の卒業生は自分に自信を持っている。
入試を突破したというひとつの成功体験が
「やればできる」「努力は報われる」という自負になり、
次のチャレンジでも有利に働く。この繰り返しで「自信の好循環」が起きるわけだ。
もっとも、そこで増長してしまうと、ツキも逃げていってしまうのだが」(P65)


いやあ、和田さん、東大に落ちた早稲田レベルでも自分に自信は持てますよ。
努力は報われないからからこそ、
われわれは運にすがるという点を東大の和田さんはわかっていないところがある。
人生は努力ではないならば、そうならば、だとしたら、どこまでも運やツキだ。
話を飛ばして、変なことを言おう。
よしんば、あなたがよこしまにも相手をコントロールしようと思うならば、
なにをしたらいいかというと相手の自信を奪ってしまえばいいのである。
新入社員研修ではどこもやっているだろうが、
相手の自我を徹底的に否定して上司の言うがままのロボットを作れば生産性は高まる。
自信を持っていきなり「上から目線」で怒鳴れば、自信のない相手は屈服する。
反対に言えば、いくら肩書(社会的通俗的権威)が上の人でも
本当に自信のある人からにらまれたらオドオドしはじめることだろう。
ああ、もっと運がよくなりたいなあ。
ぼくはこのまま時給850円で終わってしまう人間なのだろうか。
理想を言えば、いまのバイト先は好きだから
たまにここで働きながらほかで稼げたらどんなにいいことか。
しかし、それに必要なのは運だ。いったいどうしたら運がもっとよくなるのか。
教えて、東大の和田さーん♪

「くだけた例をあげると「あげまん」と呼ばれる女性がいる。
なにもその女性がオカルトめいて運を引き寄せて、
つき合った男を出世させるわけではない。
あげまんの女性は、肯定的に男を受け入れ、心理的なサポートをしてあげる。
これが男には嬉しい。認知に大きないい影響を受け、
つまり自信を持つようになり、その結果、ツキが舞い込むのである」(P66)


「あげまん」さんと出逢いたいなあ。
あれだけ多くの人が働いている時給850円書籍倉庫なのだからひとりくらいいないのか。
いまのバイト先で働いてわかったのは、学歴と能力に相関性はないということである。
バイト先にはわたしよりも優秀な人がいくらでもいる。
仕事のみならず人格的にもひれ伏したい人を多く見かける。
真似をできないような人が多数いらっしゃる。
正直、参ったといまさらながら思っている。しかし、東大の和田さんは言う。

「現代の就職に際して、ますます学歴で判断される時代になっているのだ。
その理由をひとつ挙げると、学歴と実力の相関がはっきりしてきたからだ。
昔も今も、学歴があってもダメな人間はいる。
ただ、以前よりもずっと、学歴が当てになるのだ」(P193)


これもまた「本当のこと」だと思う。
自分から勉強する、好奇心を持つ、という適性のない人も時給850円には多い。
人の名前を覚えるという行為に関心を示さなくなったら終わりかもしれない。
他人に関心を持つ。そこから、あいつは好きだ、あいつは嫌いだ、が生まれる。

「ツキを呼ぶためには、人に嫌われないことよりも、
深く好かれることのほうがよほど大切だ」(P190)


ぶっちゃけ有象無象からいくら嫌われたってかまいやしないんだなあ。
にらまれたってぜんぜん平気。
10人の女から嫌われてもたったひとりの女から好かれたらいいのである。
本当に心底から下世話なことを言えば、
いくら同僚から嫌われても上役から気に入ってもらえたらいいのだと思う。
どうしたらひとりの女やひとりの上役から好かれるのか。
まあ、嫌われるのを恐れないことだと思う。
万民から好かれようと思ってオドオドしている人は一生奴隷で終わるのかもしれないなあ。
嫌われてもいい。むしろ嫌われたいと思って行動したら、
それは人とは違って目立つからかえって「あの人」の目にとまるかもしれないではないか。
運やツキを欲するのならば、運やツキを求めない態度がいちばん大事なのかもしれない。
目先の利益や損得など無視したほうが将来的にはよほどいいのかもしれない。
東大の和田さんは言う。

「たとえば、一日二〇〇〇円の残業代のために時間を浪費してしまう人が、
たくさんいるのである。
そういう人は、もっと稼げるようになるために勉強しようとか、
二〇〇〇円ぽっちなら副業で稼ごうとか考え直したほうがいい」(P109)


これはまったくそうだと思うなあ。
いまの時給850円バイトでもよく働く外国人若年留学生がいる。
本当のことを言えば、若さほどかけがえのないものはないのだから、
目先の千円、二千円よりもいまもいま脳の若いうちに勉強したほうがいわけだ。
若いいまのうちに身体を使うよりも脳を使って勉強したほうがよほどいい。
おっと、自己矛盾が生じたようだ。
ぼ、ぼくがわずか二千円のために残業させていただくのは、
決して目先の損得のためではなく、しゃ、社会勉強のためなんだから、
だから、そうなんだから、絶対!
しかし、二千円ごときを捨てて、そのぶん朝に本でも読んだほうがいいのかなあ。
むろん、こんなインチキ本はいくら読んでもビタミン剤以下なのは存じておりますよ。

「ココロによく効く 非常識セラピー」(ジェフリー・ウィンバーグ/春日武彦監修/中田美綾訳/アスペクト)

→著者はオランダのセラピスト(心理療法家?)。
大学で心理学を学んだだけなのに個人開業してけっこう食えているらしい。
監修のB級精神科医・春日武彦氏が指摘しているように、
個人開業セラピストはどこか街角の占い師と変わりがないうさんくささがある。
しかし、本書の著者はインチキ心理屋として食えているばかりではなく、
そのうえさらに本も出していて、これもそこそこ売れているという、まあ人生の成功者。
成功者ほど成功なんて意味がないという「本当のこと」を言うけれども、
本書はオランダのセラピストが書いたセラピーなんて意味がないという内容の本。
日本のカウンセリングはロジャースの影響が強く、
もっぱら傾聴(=ただ相手の話を聞く)が主流になっているようなことを聞く。

著者のやっているのは傾聴とは正反対の「挑発的セラピー」だ。
これの効果があるのはわからなくもない。
著者の「挑発的セラピー」をよく理解できた証拠に自分の言葉で紹介してみよう。
著者は器が小さいためだろうが、どうやら自殺志願のお客はあまり来ないようだ。
セラピストやカウンセラーがいちばん来られて困るのは自殺志願のお客だろう。
もし著者の言う「挑発的セラピー」に従うならば、このお客への対応はこうである。
「あたし、死にたいんです」
こう来られたら、たいがいのセラピストは前向きな発言をするだろう。
生きていたらいいこともありますよ、とか。
傾聴を習ったおばさんセラピストなら、そうですかとぐっとこらえるかもしれない。
著者は書いていないが、
著者の「挑発的セラピー」にしたがうならばこう応じてみるのもおもしろい。
「まったく同感です。死にたい? ああ、まったくです。
わたしもこんなくだらない人生とは一刻も早くおさらばしたいと思っています。
生きているのがいやでいやでしようがありません。
本当にあなたとのセラピーが終わったら自殺しようと思うくらいです」
人間はあまのじゃくだからこういうネガティブなことを言われると、
逆にポジティブなことを思い始めるらしい。

どうでもいいボク話をすると、
わたしもかつていきなりメールで逢いたいと言われた女性から
「死にたい」と言われたことがある。
「ああ、わたしも死にたいですね」と本気で答えました。
ネガティブにネガティブで応戦する「挑発的セラピー」はけっこう使えるのかもしれない。
たとえば――。
「友達がいません。どうしたらいいんでしょうか?」
「それがどうしましたか? みんな本当は友達なんていませんよ。
みんながみんな友達ごっこをして群れているだけ。
人間なんてしょせんくだらぬ存在でひとり生まれひとり死んでいくだけです」
「恋人ができないので悩んでいます」
「あのさあ、いざ恋人ができたらどれだけうざったいと思いますか?」
人間の悩みなんて99%がどれもありがちでみんなが思っていることなのである。

セラピーは「お金で買われた友情」(P54)に過ぎない、
と言い放つセラピストの著者の物言いはどれも挑発的である。
ある意味では「本当のこと」を言っているのだろう。

「失礼なのは承知のうえで言おう。セラピストは
「決して満足しない」という人間につきものの性質を利用して、稼ぎすぎている」(P184)


どんな成功者でも金持でも美男美女でも人生に不満を抱いているのである。
むしろ人生でいわゆる上へ行けば行くほど人生への不満は強まるのかもしれない。
みんながみんないまの人生への不全感は抱いているのだろう。
それどころか過去の後悔やら将来への不安も人間ならばだれしも持っている。
そういうところを食い物にするのがセラピストだとセラピストの著者は言っている。
本当は人生なんてだれもが思い通りにはならないのに、
さもそのことが解決すべき問題ででもあるかのような態度を取って、
その問題をあえて相互了解的にこじらせてお金を稼ぐのがセラピストかもしれない。
もしかしたら「本当のこと」を言えば――。

「まったく解決策のない問題だって存在するのだ。
それがわかれば、人生はもっと生きやすくなるだろう」(P106)


問題は解決しなければならない、問題にはかならず解決策がある、
――といったような学校教育やらマスコミ報道の悪影響のせいで、
われわれはどうにもならないどうしようもない問題をこじらせているだけなのかもしれない。
あるいは人生上の問題はいくら人間が解決しようとあたまをひねっても
どうにもならないのかもしれない。
いくら過去のサンプルや成功例を調べても、
人生上の問題はどうにもならないのかもしれない。
しかし――。だが、しかしセラピーにもきっと意味がある。
セラピストの著者はセラピーの実際を正直にあるがままに書いていると思う。

「わたしの最初の患者のことを話そう。彼はまだ若い学生だった。
オランダの地方都市で孤独な生活を送っていて、
寂しくてたまらないとセラピーにやって来た。わたしの指導教授は、
学生の過去を探り「内なる抑圧の理由」を見つけろといった。
しかし三回目のセッションの日、学生はすっかり自信を取り戻しているではないか。
彼は誇らしげな顔で、
かわいい女の子と恋をしてずっと一緒なんですとのろけた。
彼から行動を起こしたわけではなく、
彼女のほうから休み時間に話しかけてきて、「とんとん拍子に進んだ」のだそうだ。
わたしは面談を三十分で打ち切り、
素晴らしい人生を祈りますよと言って彼を見送った。
教授はわたしの仕事にいたくご不満だった。
わたしが「多くの潜在的な問題」を未解決のままにした、と思ったらしい」(P26)


これってまったくもって「本当のこと」だよねえ。
人生の問題って解決しようと思わなくなったら、
かえって「とんとん拍子」に進んでうまくいくことも経験からないわけでもないと思う。
なにか「正しい」助言をしたら問題は解決に向かうと信じている人のおられるようだが。

「セラピストが考えだした、
いかにもよさそうな解決策がまた新たな問題を呼んでしまうこともある。
よくあるのが、思っていることは言ったほうがいい、というアドバイス。
患者はそれにしたがったとたん、失業したり、恋人や友達を失ったりする」(P139)


むろん失業が人生を全体的に考えたら絶対にマイナスとも言い切れないのではあるが。
あるいは当面の恋人や友達を失うことが将来的にはプラスかもしれないのだけれど。
「挑発的セラピー」で食っている著者はアドバイスをしないわけではない。
それ以上の通常ならやってはいけないとされることをしてしまうのが、
挑発的セラピストたるゆえんだろう。セラピストがこんなことをしてもいいのだ。
きっと人生なにが正解かわからないのだから、ならばおそらくなんでもいいのだろう。

「まだセラピストとして見習い期間中だったときのこと。
ある青年が診察室にやって来た。集中力も落ちたし毎日が寂しいのだという。
わたしの指導教授は
「この青年はアイデンティティの危機にある。治療は一年は見ておくように」
と耳打ちした。わたしは聞く耳を持たず、
前の日に同じような悩みで来た女性を彼に紹介してみた。
どうなったかって? そう、ご名答。
二人は末永く幸せに暮らしたということだ」(P200)


人生って、そんなもんだよねえ。人間って、こんなもんさあ。
わたしもあらゆる悩みらしきものは魅力的な異性の登場で一時的に消えると思う。
でも、どうしたらそういう奇跡が起こるかはまったくわからないのである。
従来の傾聴カウンセリングをしていても、オランダ式の挑発的セラピーをしていても、
「それ」は起こるときには起こるし、起こらないまでは起きないのだろう。

だれがわたしの日記になんて関心を持つかといつも思っていますが、
いちおう痛み止め、湿布、エルボーバンドの3点セットを仕入れました。
いまだに痛い右ひじへの対策。
循環器科の女医さんが、なんてことなく痛み止めや湿布を出してくれたのは嬉しかったなあ。
エルボーバンドの、あの変なじいさん医師は、あれやっぱり怪しいよ。
中古のいかにも汚れたエルボーバンドを2千円で売りつけてくるんだから。
領収書を出すからっていうから見たら手書きのいかにもインチキくさいやつ。
ここが痛み止めや湿布を出さなかったのは、わたしのぜん息病歴を恐れてのことみたい。
しょせん外科しか知らない専門バカだから、変なこだわりを持っているのだろう。
たぶんヤブだと思うけれど、客は老人ばかりだったから、
じいさんばあさんは若い医者よりも自信たっぷりなヤブ医師のほうを好むのかもしれない。
注射してもらったけれど、
肝心の痛みはぜんぜん引かなかったと訴えたときのうろたえぶりがおもしろかった。

キノシタ先生「(右ひじを触りながら)そんなはずはない。だいぶよくなっている」
わたし「えええ? 痛いですよ」
キノシタ先生「そんなことはない、そんなことはない」
わたし「だから、痛いんです」
キノシタ先生「ストレッチはちゃんとやったか?」
わたし「はい(嘘)」
キノシタ先生「いまやってみろ」
わたし「(やってみる)」
キノシタ先生「ほうら、やり方が違う。だから、ダメなんだ」
わたし「こうでしょう?」
キノシタ先生「いや、こうだ(と説明する)」
わたし「要するに、ここを――」
キノシタ先生「おい、人が話している最中に話すな。だから、おまえは」
わたし「わたし、低学歴だから理解が遅いんですよ」
キノシタ先生「そういうことじゃない。おれの話をよく聞け」
――で売りつけられたのが2千円の薄汚れたエルボーバンド。
たしかにこれをつけると痛みはかなり減少するのだが、
使い古しを2千円で売りつけられると複雑な気分だ。
とにもかくにも、これでなんとかバイトを休まずに正月の餅代くらいは稼げそうである。
いまも痛いけれど、これだけあればなんとかなりそうな気がする。

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人によって体質はすごい変わると思う。
たぶんわたしはそうとうな痛がりのはずである。
歯医者とかでも男のくせにちょっとでも痛いと悲鳴を上げるようなみっともないところがある。
女友達に痛みに非常に強い人がいる。
生理痛もほとんどないらしい(なんで知ってんだ、そんなこと)。
歯医者でも痛がらないので、医師から驚かれるくらいだという。
母親からの影響で薬のたぐいはほとんどまったく服用しない。
歯医者から処方された痛み止めもその日だけのんであとは捨てたらしい。
わたしなんてちょっとでも痛いとすぐに痛み止めをのんでしまうのだが。
昨日はたくさん痛み止めをもらえたのでとても嬉しかったくらいだ。
基本的に我慢強い人は痛みにも強いのかもしれない。
わたしは1の痛みを5倍にも6倍にも感じるような被害妄想的なところがあるから。
男の子じゃないよなあ。すぐ泣き出す女の子っぽいメンタリティを持っている。
別の女性からだけれど「ツチヤさんって女の子みたい」と言われたことが何度かある。
話は飛ぶが「女の子を助けるのが男の子の役割」みたいな価値観に違和感がある。
もしわたしが女だったら男になんか助けられたくないと思うような気がする。
しかし、そういう態度はよくないのだろう。
男は男らしく力強く女を助け、女は女で弱々しくふるまって楽をする。
結果、あるいは恋愛のようなものが生まれるのかもしれない。

今日はふたご座の運勢がものすごくいいみたいなんだ。
女の子みたいに占いが大好きで毎日複数のサイトで今日の運勢をチェックしている。
まあ、占いが当たったことは1年に1回あるかないか、なのだが。
しかし、今日がその日かもしれないわけで。なーんか、おもしろいことないかなあ。
思い切って秘密を白状してしまうが、
このブログはじつのところひとりで書いているのではないのだ。
何十人かわからない作者がいるのである。
知っていた人はおられますか?
だって、いまわたしは国籍性別年代多様な人の働いている倉庫でバイトしている。
1日働けば、いろんなさまざまの人の視線、行為、会話、笑顔、不満顔から
意識的にも無意識的にも多大なる影響を受けることになる。
そういった結果として、このブログがかりそめわたしの手によって書かれているのである。
そう考えたら、このブログを創作しているのは、
実際のところわたしという個人ではなくいまのバイト先の人たちなのかもしれない。

さっき電話でむかしからの友人に言われたなあ。
ひとつまえの記事の一文に違和感を覚えたということである。
ロボットではない人間は「やさしさ」が重要ではないかというくだりだ。
偽善的でちょっと笑っちゃった(意味合いは違うかもしれない)と言われ、
正直グサッと来た。ああ、恥ずかしいぜ。
たしかに人間は「やさしさ」が重要なんて偽善的すぎて顔から火が出るほど恥ずかしい。
電話相手にすぐさま言ってしまった。
「いま記事を削除しますから、ちょっと待っていてください」
「消さなくてもいいじゃない」
「恥ずかしくて」
「むかしのYonda?さんだったら絶対にそんなことを書かなかったと思う」

きっといまの国籍性別年代多様な職場で働くようになって7ヶ月。
わたしは大きく変わったのだと思う。
このわたしが人間は「やさしさ」が大事なんてうっかり書いてしまうとは、ゲロゲロ。
しかし、実際にいろいろな人の影響を受けてわたしは大きく変わったのかもしれない。
いまはこのブログは集団創作かもしれないと本気で思っている。
おそらく明日ブックオフオンラインさんから大量の本が届くが、
どのひとつをとってもいまのバイト先で働き出した影響から読みたくなった本である。
ベトナムのことを改めて知りたくなって、安い関連本を複数冊購入してみた。
いまの勤務先の社員さんたちに影響を受けて、
まっとうな社会人の気持を知りたいから社会人マニュアルのような本も買った。

しかし、言われてみたらたしかにわたしが人間は「やさしさ」が大事なんて書くとはなあ。
もっとも「やさしさ」とは縁のなかった冷血人間とも言うべき我輩が。
おそらく、それだけバイト先のみなさんから受けた影響が強いのだろう。
とはいえ、いまでも「やさしさ」からは程遠い自信もなくはない。
いつか右ひじの痛みが消えたら三沢(バックドロップで死んだプロレスラー)なみの
エルボーをかましたい相手が数人バイト先にいなくもないのだから。
三沢のエルボーというのは嘘なのである(やさしいエルボー)。
あれは痛そうに見えるけれども、絶対に相手に怪我をさせない安全なエルボーだ。
このブログは三沢のエルボーなのか、それともガチンコのバックドロップなのか。
読者諸賢さまはフィクションかと思っておられるかもしれないが、
バイト日記の登場人物はみなさん仮名ではなく無断で実名を使用させていただいている。
ひとつまえの記事はわかりくかったかもしれないので補足する。
たとえば交通死亡事故という痛恨のミスがある。
しかし、当人だって5分遅く事故現場に来ていたら
絶対に事故を起こしていなかったのである。
だがしかし、人がひとり死んでいる以上、だれかが責任を取らなければならない。
このため、事故を引き起こした運転手のミスが過剰なまでに裁かれるのである。
本当は神さまのミスかもしれないのに。
もっと本当に近いことをいえば、交通死亡事故は全体のミスである。
どういうことかというと、われわれは全体で車社会の恩恵を受けている。
交通事故は確率的にかならず起こる現象だ。
だれかが確率的にそれを引き受けなければならないのである。

病気なんかもそう。あれは確率的にかならずだれかに発生するものだ。
しかし、とかくわれわれは当人の生活態度を病気(ミス)の原因にしたがる傾向にある。
どうしてかといえば、自分は健康に留意しているから病気にならないと信じたいからである。
本当は病気は確率的現象にすぎぬかもしれず、
ならば個人の病はわれわれ全体が引き受けなければならないという考え方もできよう。
ちなみに日本のよくできた(いまや破綻寸前の)国民皆保険はこの思想によっている。
ワーキングプアなどの貧困問題(ミス)も当人の努力不足に原因を帰せられやすい。
だが、貧困層というのは一定の割合でかならず発生するものなのである。
貧困は当人の努力とはあまり関係ない全体のミスとは考えられないだろうか。
仕事でミスの多い人とミスの少ない人がいたとしよう。
たしかにミスをした当人はよくないという面もあろうが、人間の能力はそもそも平等か。
人それぞれ各分野における能力は異なっているのである。
ものを数えるのがうまい人もいれば、文章を書くのがうまい人もいるだろう。
なんの能力にも恵まれなかったわたしのような残念な人も少なくないかもしれない。
しかし、人間の能力差は確率の問題で、全員が優秀にはなれないのである。
こう考えるとき仕事の小さなミスを
全体のミスと柔軟に考えられる余裕が生まれるのではないか。

ミスはいちがいにマイナスと決めつけられるものでもない。
バイト先でも絶対にミスをしないロボットのような人をたまにお見かけする。
正直、そっちのほうが気持が悪いとわたしなんかは思ってしまう。
たまたまそういう人がミスをした現場に居合わせると、
当人は屈辱なのかもしれないが、見たこちらはその人に親しみを感じるものである。
ああ、この人もロボットではなくミスをする人間なんだとホッとする。
それに単純労働作業のミスはそれほど恥じ入るものでもないと思う。
こんなことのミスが多くたって少なくたって、そんなものは人間の価値とはまったく無関係だ。
人間の価値はやさしさや思慮深さといった、そういう人間らしさで決まるものだと思う。
ミスをする人は人間味があって親しみが増すのでいい。
こういう価値観もまたあることをあたまのどこかに入れておけば安心するから、
かえってミスも減るかもしれない。
他人に「絶対にミスをしないでください」と急かしながら威圧的に伝えるのは最低の態度。
言われたほうは脅えてしまって不安が高まりミスが増えることだろう。
単純作業のミスなんかで人間の価値は決まりはしない。
ミスをしてもそれは全体のミスとも言えなくもないことをどこかで知っていたほうがいいと思う。
バイト先でお若い社員さんと話す機会があった。
それでいいのですが、
まあ一般常識通りにミスをしたのはその当人が悪いと思われているようだった。
それも「正しい」のだが、そうでもないとも言えるのかもしれない。
あるいはミスなるものは全体の状況の産物として出ているだけではないか。
変なことを白状するが、
わたしはライン(流れ作業)横の人にミスを出させる自信もなくはない。
なんのことはない、
ピッキング途中、自分が暇なときに相手の手元を監視するように見ればいいだけのこと。
これだけでミスゼロの人にもミスをさせることができるとも言えなくもない。
要するに、相手の自信を奪ってしまえばいいということなのかもしれない。
かりにもしこれが本当だとしたら、ミスはだれのせいになるのだろうか?
他者の邪悪な視線は強烈に響くとも言えなくはないと思う。
いったいミスの犯人はだれなのか? 嫌いという感情があるいは犯人かもしれない。
気持は言葉にしなくてもかなり通じるのかもしれない。
おそらくバイト先のライン(流れ作業)で
わたしの横には入りたくないという人が多いような気がする。
不安はどうしようもなく移ってしまうものなのだろう。
だとしたら、喜怒哀楽のどの感情も横にいるだけ伝わるのかもしれない。
好き嫌いなんか告白しなくても伝わる可能性もなくはないと断言したい気がする。
ミスの有無は好き嫌いの本音が大きく影響しているのかもしれない。
もちろん、なにもわからないけれど。
それでも、いまあの人が自分を好いている嫌っているくらいは、
最低限わかるような本能を人間は動物として備えているとわたしは信じている。
好きも嫌いも相手に通じる。ミスはだれのせいでもないのかもしれない。
いまだに右ひじがかなり痛いんだなあ。もう2週間も痛みが続いている。
4~5千円かかってもいいから病院に行こうと決めたのは、決して不安からではない。
不幸アピール、悲惨アピールをしたかったのである。
アクセス数なんて雀の涙だから絶対にないとは思うが、
万が一にも会社の人が見ている可能性もある。
あの人はあんなに身体を壊すまで無私の精神で働いているのだと評価してくれないかなあ。
お医者さんからもさぞかし痛いでしょう、かわいそうですね、と手厚く扱ってもらいたいなあ。
そういう悲劇の主人公ぶりたい女々しい根性がケチなわたしを病院に向かわせた。
ところが、行きつけの病院の整形外科は午前中で診療が終わっているんだよね。
ネットで検索してみたらチャリで行けるところにK整形外科というのがあるらしい。
個人病院というやつである。
いちおう土曜日午後もやっているとネットを見たら書いてあるが確認のため電話。
今日やっていることを確認してから――。
「初診で右ひじが痛いんですが、
レントゲンを撮って薬や湿布をもらったらいくらかかりますか?」
おいおい、自分の健康よりも金のほうがたいせつなのかよ、おまえさんは!
受付女性はギョッとした感じで、いま聞いてきます。3~4千円くらいとのこと。
これでかわいそうな自分をアピールできるのならいいかと納得する。
「では、いまからうかがいます」

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「先ほど電話したものですけれど」
受付の女性が若くて背が高くてチョー美人なのでビビる。
へえ、この子があんな子どもっぽい声を出すんだとムフフ。
問診票に住所氏名のみならず勤務先会社名と電話番号まで書かされるのね。
おれ、どこかの会社に勤めていたっけなあ? とりあえずバイト先の名前でも書いてみた。
ネットの評判では混んでいると書かれていたのだが、
終了間際のためかすぐに診察室に呼ばれる。
これがまたすんげえ若い女医さんで美人という言葉しか出てこない美人なのである。
受付女性とどこか似ていたから、これが医院長の趣味なんだろうなと思う。
「どうされましたか?」
こうこうこういう単純労働をしていて、2週間まえくらいから右ひじが痛いんです。
右ひじを触れられて「こうしたら痛いですか」などと丁寧な対応。
若いせいか自信がないみたいでちょっと戸惑っている。
「とりあえずレントゲンを撮ってみましょう」

レントゲン室に入ると、
白衣もつけない老人が入ってきて痛いのはここだろうとピンポイントで指摘。
レントゲン後は70半ば過ぎかと思われる医院長先生が診察してくれる。
「おれは本当は、土曜は第一週しかいないんだ」
かくしゃくとした口の悪い老人でいまでも笑いがとまらない。
「まずな、筋肉の仕組みを理解しないとな」
そういうと腕の筋肉模型を出してきて、こうだからこうなんだと説明してくれる。
買い物などで荷物を持つときはひじを曲げた状態で持て。
それから風呂に入ったときはこういうストレッチをやりな。
で、注射をするか変な腕パットをするかの二者択一だという。
「いくらするんですか、それ(腕パット)?」
おまえさんは金のことしかあたまにないのか。2千円だという。
内心でこれは百円ショップで売っていそうだなと思う。
「高いっすね」
「しょうがねえだろ。業者が決めた値段なんだから」
「注射をするとどのくらい痛みが消えていますか?」
「知らねえよ、そんなもん」
笑える老医者だなあ。

じゃあ、注射をお願いします。ひじに注射をするなんてはじめてだよ、怖いよおん。
「痛いんですか?」
「痛がりなのか。おれなんか自分で自分に注射するぞ。
このくらい(わが右ひじのこと)注射を打てばいい」
同僚の男性医師(?)にむけて。
「おまえもこのまえゴルフで痛めたとき注射打ったよなあ」
で、ひじへの注射は見た目もグロテスクでかなり痛く感じる。
注射後、これで終わりの雰囲気がただよう。
思わず患者の習性で聞いてしまう。
「あのう、痛み止めとか湿布とか出してくれないんでしょうか?」
「おれはこのくらいじゃ、痛み止めや湿布を出したことがない」
「え?(ものすごくほしいオーラを出す)」
「ほしいの?(ものすごくいやそう)」
「できるだけ強い痛み止めがほしいです」
「こんなんで強いのはいらねえよ。カルーナを少しだけ出しておくか」
なんだ、そのいかにも軽そうな痛み止めの名前は!
ああ、そんな弱い痛み止めのために薬代金を払いたくない。
「やっぱりいいです」と断る。
最後に老医師は、
「どうしても痛かったらいつでもいいからこれ(腕パット)を買いに来いよ」
とおっしゃる。

診療後、会計を待っていたら白衣を着ない医院長先生が通りかかって、
受付の美人さんにこんなことを言う。
「こいつ、F(若い美人女医)が診たときはニコニコしていたのに、
おれが診たらブスっとしているんだぜ」
「そんなことないですよ。先生、とても安心感がありました」
で、お会計は予想とは異なり2240円。やっすう。

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けれども、やっぱり痛み止めと湿布はほしいよなあ。
来週の月曜日は持病の通院日なので、まったく専門外の女医さんに頼んでみよう。
この先生はいいかげんなところが大好きで、なんでも薬を出してくれるのである。
薬を出したがらない老医師もいいが、なんでもOKな女医さんもまたいい。
お願いすれば痛み止めと湿布くらい出してくれるんじゃないかなあ。
だってさあ、そういうのがないと不安じゃない。
それからやっぱり2千円払って腕パットを買おうかと思う。
まあ深夜勤2時間くらいの金額だし、いちおういまのところ
書籍ピック職人(←速さや重さの職人ではなく箱入れのうまさの職人)
を目指しているようなところもなくはないので。
そんな職人になってどうすんだって、おまえ。
それにしても今日のあの老医院長先生はおもしろかった。
いろんな医者がいていいんだなあ。いろんな人がいていい。
「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フオン/石原未奈子訳/集英社文庫)

→1986年刊。当たり前の話だけれども、ベトナムにも文学はあるみたいだ。
この作品は(英語からの重訳だが)日本語に訳された数少ないベトナム小説のひとつ。
読後に調べて気づいたが作者は女性である。
文学なのか大衆小説なのかはわからないけれど、
そういう区別自体なにも意味はないのかもしれない。
内容を紹介すると、いわゆる恋愛小説である。
主人公はリンという美人高校教師で、理想に燃える新聞記者のグエンと結婚する。
ふたりのあいだにはひとりの娘が産まれる。
社会主義国で生きていくというのは、理想ばかり追っていられるわけがない。
新聞記者のグエンは真実を記事にはせず、生活のために上司の言いなりになっていた。
おかげで優秀な新聞記者として評価されている。生活するというのは、そういうもんだ。
しかし、潔癖なリンには夫の生活のための不正が許せない。
リンは若き日に感じたグエンへの愛を失ってしまう。
グエンはこの国(ベトナム)で生活するとは、
そういうことなんだとリンに何度も説明するが愛妻からの理解を得られない。

まだ若い美貌を持つリンは妻帯者の有名作曲家のチャン・フォンと不倫の恋に落ちる。
そこらの若い貧乏人と恋をするのではなく、
老いた有名作曲家との恋に落ちるところがリアルだ。
リンは錯覚しているわけだ。この作曲家は夫が失ってしまった理想をまだ持っている。
しかし、現実はそんなことはなくチャン・フォンも作曲家として出世するために、
これまでいろいろ権力闘争や世渡りを現実的にこなしてきたのである。
世間知らずのリンはそのことを知らず汚い中年男を理想化して、若い身体を与える。
ひとりしか男を知らなかったリンは、
みずみずしい肉体を恋多き中年からおもちゃのようにもてあそばれたことだろう。
これまであまたの不倫をしてきたチャン・フォンはリンこそ理想の女だと一瞬は思うものの、
強い政治的なコネを持つ妻と別れることはできず、新しい愛人を結局は捨てる。
チャン・フォンはリンに経済的援助をまったくしなかったからリンは貧窮の底に落ちている。
名声を利用して無料で若い肉体をもてあそんだチャン・フォンはまんまとうまくやった。
小説の最後ではまだ妻を愛するグエンが勇気を出してチャン・フォンに逢いに行き、
この老作曲家が若い妻の身体のすみずみまで舐めつくしたのかと想像して歯噛みする。
しかし、すべては後の祭りである。
チャン・フォンは党の上層部とうまくコネをつけたおかげでさらなる出世をする。
グエンは最愛の妻と離婚して、これから娘と孤独なやもめ人生を歩んでいくしかない。
独身に戻った美しいリンにはある画家が目をつけた、というところで小説は終わる。

読み終わった感想は、まあどこの国の人たちも恋愛するんだなあ。
そして、女は地位のある男が大好きってことだ。
それからベトナムは強力なコネ社会だから、不正やスキャンダルもコネで揉み消せる。
しかし、そんなことを言ったら日本だって結局はコネ社会だし、
日本の男女もベトナム以上の恋愛をしているわけではないから、
要約すれば日本もベトナムも大した差はないのだろう。
ただ生活のために小さな不正をしている新聞記者の
夫をとがめる青臭い妻が少しベトナム的かしら。
「正義」とかいう感覚が日本よりもまだ残っているのかもしれない。
小説のなかで編集長が資本主義国は能力主義だが、
ベトナムではそうではない(コネだ)と嘆くシーンがあるけれど、
日本もそこまで能力主義だけではないような気がする。
あれはアメリカと比較していたのかもしれないけれど。

みなさまはベトナムの小説なんて
お目にする機会がないでしょうからお節介から部分を紹介してみましょう。
ベトナム女性は純真とか、そういうイメージにだまされちゃいかんぜ。
ベトナム人女流作家の書く、あるベトナム女性の結婚観はこうである。
ある女性は自分の人生に満足していない。

「エンジニアの夫は、金持ちではあったが、名声への階段を上らせてはくれなかった。
富という夢を叶えただけで、栄光や精神的な満足感は与えてくれなかった。
ものは余るほど手に入ったし、愛情と優しさは存分に注がれたが、
心は満たされなかった。どこへ行ってもちやほやされたかった――
オペラハウスでも、カフェでも、映画館でも。
彼女見たさにみんなが首を伸ばし、見ては好奇心で胸を躍らせ、
名前を囁(ささや)きかわしてほしかった。
視線をくぎづけにし、うらやましがらせたかった。
醜くても地位の高い男をつかまえた運のいい女は多い」(P183)


この小説のヒロインのリンが中年と不倫の恋に落ちるのも、
結局は男が世間から広く認めらた有名作曲家だからなのである。
まあ、人間の女なんてどこの国でもこんなものなのだろう。
いっかいの高校教師にすぎぬリンは思う。

「彼女は自分をありのままに受け止めていた。
何百万といる平凡な教師のなかのひとりにすぎないと思っていた。
それなのに、この才能豊かで有名な男に愛されている。
愛されることが誇らしかった」(P123)


この有名作曲家のチャン・フォンという男がまたおもしろいやつなのである。
やはり芸術家にはどこか悪魔性がないといけないのだろう。
他人なんて知ったことかと自分のために生きるのが芸術家なのである。
この男が不倫をなじられたときに老妻に言う言葉がたいへんよろしい。

「いまのおまえにわたしを誘惑できるなにが残ってる?
器量? 性格? おまえと一緒に暮らしたら仏陀でさえおかしくなる。
普通の人間なら言うまでもない」(P148)


このセリフは女に言ってみたいなあ。
「おまえと一緒に暮らしたら仏陀でさえおかしくなる」
でも、そのためにはまず結婚しなきゃならんのだから壁は高い。
さて、この芸術家が夫の不倫に激情した老妻に向き合ったときの心の声もいい。

「相手は女だ。こっちが屈したら絞め殺しにかかるが、抵抗すれば屈する」(P210)

原文はどうなっていたか知らないが、
ここは「抵抗」よりも「威圧」のほうがいい日本語訳になると思う。
つけたしのように書くが、とても読みやすい日本語訳だった。
若い愛妻を寝取られた新聞記者風情が権力を持つ有名作曲家と対面するシーンもいい。
新聞記者は、女なんて結局は地位に目がくらまされるものだと気づいたことだろう。
賢くもあった若くて美しい妻は、自分よりも老いたこの有名作曲家を選択したのだから。
まだ若い新聞記者の自分は、老いた有名作曲家にはかなわないのである。

「チャン・フォン[有名作曲家]の言葉は
グエン[新聞記者]の耳のなかでガンガンと鳴り響いた。
まだ聞いてはいたが、せわしなくテーブルをたたく作曲家の指を、
ぼんやりと見つめていた。
長く、ほっそりとした、優雅な手。
タバコのやにのあともなければ、肉体労働によるたこや小さな傷跡もない。
ふと思い至った。この手がリンを愛撫(あいぶ)したのだ。
グエンの目に、妻の姿が見えた。
なめらかで柔らかい肌、ひきしまった乳房、すらりとした首。
苦痛という刃(やいば)に貫かれ、肉をえぐられた気がした」(P281)


ベトナムにも日本にもあるらしいけれど、結婚って不思議な制度だよなあ。
ほかにもいい男女はたくさんいるんだから、
いまよりも上が人生舞台に登場したら車のように乗り換えるのが常識じゃないか?
中古車よりは新車のほうがいいし、大衆車よりも高級車のほうがいいでしょ?
日本の場合、国産と外車のどちらの価値が高いのかは知識がないのでわからない。
とはいえ事故車なんて乗っているのは、よほどの物好きとしか思えない。
おそらく変なしがらみがあるから結婚しても車のように男女を乗り換えられないのだろう。
なぜなら愛とは独占欲であり被独占欲だから(世界でひとりだけのあなた!)、
配偶者を裏切ったらかつての自分を裏切ることになってしまう。
それでも人は人を愛するらしい。日本でもベトナムでも。きっとこう叫びながら。
123ページより。

「きみはわたしのもの、わたしだけのものだ」

まだ右ひじがちょー痛いけれど、シフトに入れていただいているから今日からバイト。
まあ痛み止めをリミットの3倍くらいのんだら大丈夫なんじゃないかなあ。
まじめなためか仕事やアルバイトを休んだことがない。
よくわからないけれど会社に電話して
「今日は~~なので休ませてください」と言えばいいんでしょ?
でも、それを言っちゃうと永遠に「今日は休ませてください」と電話してしまう予感があって。
むかし仲良くしてくれた女性さんから(聞き間違えかもしれないが)言われたことがある。
「ツチヤさんといると、どんどんダメになっていく気がする」
いつだったかふたりで家飲みしていて
かなり泥酔してさみしくなって一緒に荒川に沈もうと言ったらうなずいてくれたので、
その日のその子のその無言の言葉をのちのち何度も思い返して泣いたことがあるなあ。
社会のちょっと上も、ちょっと下も拝見させていただいたような錯覚がこの歳になってある。
はっきり言うと、上とか下とかってまるで関係ないんだよねえ。
下とされている人のなかにも上の人よりよほど上等な人物がいらっしゃる。
しかし、そういう方は長年にわたり下のあつかいを受けていたせいか妙に卑屈になっている。
上が威張っているというわけではない。
わたしの見たところ、
上は上で本当に自分は上でいいのかと自信がない人が多い気がする。
上の人に下の人の実状を報告すると、
そんな現実は耐えられないとお辛そうな顔をするくらいだ。
そこで上も下もすがるのが、いわゆる努力論だ。
上のほうの人は努力をしたから上にいて、下の身分のものは努力が足らなかった。
みんながみんなそう錯覚することで
いまの日本社会はぎりぎりで回転しているような気がする。
わたしの甘ちゃん人生観だと上も下も「いい人」が多すぎる。
上の人は上らしく威張ればいいのに、常に下に気を遣っている。
下は下で人間的な本質は大差ないのだからもっと威張ればいいのに、卑屈になっている。
自分なんか大した人間じゃないと自己卑下を続けている。
どっかの社長なんかよりも偉い人がうちの850円バイトにはごろごろいるのではないか。
そして、いま恵まれているものは、ただただ血縁コネの恩恵のおかげにすぎぬ。、
いま社会的上位にいる方たちも本当はそのことをわかっているのではないか。
上とか下とかそういう上下関係意識をなくして、役割意識を徹底すればいいと思う。
あなたさまは気苦労のたえないマネージャーのしんどい役をいまたまたましていて、
わたしはわたしでいま現在時給850円の単純労働作業員の役を振られている。
人間に偉いとか偉くないとかいう意味での上下関係はないんじゃないかなあ。
たまたまある役を振られていてそれをうまく演じるしかないと考えたらどれほど楽になるか。
よくむかしの小説に描かれている人生の辛酸とやらを味わいたいから
派遣やアルバイトを転々とするつもりだったのに、いまある書籍倉庫に居ついている。
もちろん、孤男ゆえに古株の輪にはまったく入っていけていない。
というのは嘘で、じつはみなさんとこころが通じ合っていると思うときもあるが。
先日、バイト先で健康診断というものがあった。
ラッキー。無料で血液検査をやってくれるのかと思っていたら現実は甘くない。
35歳と40歳以上しか血液検査をやってくれないのだという。
それ以外はオプションで1800円支払わなければならない。

このみんな一緒にする健康診断は思いのほかおもしろかった。
むかし仕事を教わった若くてデキるパート青年男性がいらっしゃる。
見た目と周囲の噂話から30歳そこそこだとずっと思っていた。
このため、どこか年上風情で先輩の健康診断表を見たら心臓が止まるかと思った。
30歳いくかいかないかと思っていた青年がわたしよりも3歳上だったのである。
世界観ががらりと変わったと言ってもよい。
人は見かけによらない。わたしは人を見る目がない。
バイト先によく仕事ができるみんなからいちもく置かれているYさんという青年がいる。
30をちょっと超えたくらいだろうと思っていた。
どうかわたしのような落ちぶれたおっさんにならないでください、とどこかで思っていた。
みんな一緒にする健康診断がきっかけとしか思えない。
となりのAさんにYさんの年齢を聞いたら、これまたわたしよりも3歳上だった。
そのAさんも動きがやたら敏捷だから20代後半かと思っていたら、
あはは、Yさんとおなじでわたしより3歳上でいままでの態度が恥ずかしくなりました。
わたしよりも3歳上であれだけ動けるなんて神業レベルとしか言いようがありません。

健康診断でナーベが採血されていた。
ナーベは20代半ばくらいではないかと思っていた。
しかし、無料で血液検査をしてもらえるのは35歳と40歳以上。
「ワタナベさんは35歳なんですか?」と聞いたらイエス。
やっべえ。わたしと同年代じゃありませんか。なんでみんなこんな若く見えるんだ。
いやいや、わたしが異常なまでに老けて見えるのかもしれないが。
大した苦労もしてこなかったのに(え? え? え?)。
その日にわかったのは、およそ10歳わたしはパート仲間男性の年齢を見誤っていたこと。
あの方もあの方も41歳ならば年上なのだから、
取るべき態度を間違っていたと反省することしきりである。
人生の先輩のみなさんを愚かにもかなり年下の後輩だと勘違いしていた。

女はどうなんだろうかって話なんだ。
わたしの年齢予想は女性相手にも大きく外しているのか。
失礼とは知りつつもベトナム若年女性の年齢はほとんど把握している。
逆に「あなたの年齢は?」と聞かれたら人生の先輩の特権で「秘密」と答えている。
けれども、ベトナム女子のハインさんからはパシッと年齢を当てられてしまったが。
わたしはベトナム戦争が終わったとされる翌年に生まれました。
このバイト先の男性パートさんは同世代ばかりじゃありませんか。
いちばん不遇な年代性別だという多少被害妄想的な仲間意識を感じる。
「中空構造日本の深層」(河合隼雄/中公文庫)

→代表作のひとつになっているけれども、わたしから見たらもっともくだらない駄本。
思いっきり皮肉で言うのだが、字義通りの「出世作」ではなかろうか。
本書は中央公論とやらのお偉い雑誌に書いた論考(笑)をまとめたものらしい。
内容は、周囲のヨイショばかりである。
当時権威だった有名文化人、有名学者の発言をいちいち取り上げ、
あの人の意見は参考になる、この人も卓見の持ち主だとひたすらヨイショをしている。
またそうしないとユング学者などというオカルト的な存在が、
仲間意識が非常に強く和ばかりを重んじる「日本文化村」に入っていけないことを
40歳を過ぎてから出世した世渡り名人の河合隼雄はよく知っていた。
日本文化などというのはどの分野も「村(ムラ)」なのである。
どの学問分野も芸術分野もみんな群れていて「村(ムラ)」を形成している。
どの「村(ムラ)」にもむかしからの顔役のような存在がひとりふたりいて、
彼らに礼儀正しくあいさつしないとどれほど価値ある意見も簡単につぶされてしまう。

河合隼雄は本書「中空構造日本の深層」で日本文化村の顔役に
まんべんなく礼儀正しくあいさつをしたと言うこともできるのではないか。
にもかかわらず、ではなく、このために本書は異常なほどつまらない。たいくつだ。
人さまのかたちどおりの礼状、あいさつ手紙を読んでおもしろがれる人はいないだろう。
そういうことだ。そういうことなのである。
本書では後年自分は絶対に統計データなど使わないと息巻いていた河合隼雄が、
なにやら胡散臭いデータを用いてもっともらしい論考をしているところがあり、
あの河合隼雄先生も出世するまでにはたいへんなご苦労があったことを知る。
断っておくが、最後に日本文化村の村長レベルにまで出世したのが河合隼雄である。
村長の地位にまでいかないと自分のしたいことはできないことを、
あらゆる意味で世間の裏も表も覗き見た河合隼雄は知っていたのである。
かつて日本文化村の村長だった河合隼雄の新人時代の言葉を引こう。
河合隼雄のスタートは遅いから中年の新人の言葉である。

「これ[西洋]に対して日本の場合の長は、リーダーと言うよりはむしろ世話役
と言うべきであり、自らの力に頼るのではなく、
全体のバランスをはかることが大切であり、
必ずしも力や権威を持つ必要がないのである。
日本にも時にリーダー型の長が現われるときがあるが、多くの場合、
それは長続きせず、失脚することになる。
日本においては、長はたとい力や能力を有するにしても、
それに頼らず無為であることが理想とされるのである」(P60)


いまのわたしのバイト先のマネージャーさんは、
河合隼雄のいう意味でのリーダ役をじつにうまくこなしていると思う。
日本のリーダーはみんなの調整役だから非常に気苦労が多い立場だと思う。
言いたいことを言えるのはリーダーではないのだろう。

「これ[日本神話のいちエピソード]は、日本人の特徴としてあげられる、
敗者に対す愛惜感の強さ、いわゆる判官びいきの原型となるものであろう」(P46)


アメリカ合衆国とか創価学会とか、どうしてそんなに勝者をもてはやすのかわからない。
勝った人間よりも負けた人のほうが美しく思えることはないだろうか?
わたしなんか購読している週刊漫画誌「スピリッツ」の
グラビアに登場する美人さんなど、どこも人間味を感じられず、つゆほどの興味も持たない。
勝っている人間の成功談など、
世間を知らない人の底の浅い昔話以下の物語ではないかと思っている。
負けている人間、くたびれた人間、落ちぶれた人間のどれほど美しいことか。
一般的な基準では美しくないとされる女性にどれほどの輝きが眠っていることか。
そういえば子どものころ歴史上の偉人でいちばん源義経が好きだった。
勝った人間、勝ち誇る人間ほど醜いものはないのではないか。
今度、積ん読していた「義経千本桜」を読もうといま決める。
もっと働けと怒られるかもしれない。

「人は時間泥棒の甘言に乗って、時間を節約しようとし、血まなこになって働き、
そこに自分の人間性を失っていく。
「進歩」と「能率」を標語にして、「遊び」を失い、
個性を失ってゆく人々の姿が『モモ』には見事に描写されている」(P132)


「進歩」や「能率」とは、つまり「向上」に結びつく言葉である。
いまでは「生産性」や「品質」という言葉が流行っているような気がする。
人生の「品質」を向上させたいならば、できるだけ働かず、
「生産性」を無視したほうがいい、という見方もできないことはない。
むろん、どちらが「正しい」わけでもないのではあるけれど。
本当の「正しい」ことがあるとすれば、それは「秘密」にして墓場まで持っていったほうがいい。
墓場まで持っていけない場合は――。

「それに人間というものは、常につき合っている人よりは、
一度だけ会った人のほうに深い話をすることだってあるのである」(P238)


わたしは旅先で異常なほど個人的な打ち明け話をされることが多かった。
それは断じてカウンセラーに向いているからではなく、
河合隼雄が言うようにもう二度と会わない人だったからなのだと思う。
本当にいろんな国でいろんな人から秘密を打ち明けられた記憶がある。
日本でも居酒屋でちょっと横になった人から深刻な秘密を話されたことがある。
一度だけ会う人間としてわたしはもっとも適しているのかもしれない。
まあ街角の占い師には向いているタイプなのかもしれないので、
今後ひとつの天職の可能性としていんちき占い師は考慮に入れておきたい。

「山頭火を行く」(写真:四宮佑次/ランダムハウス講談社)

いま蛭子能収の「ひとりぼっちを笑うな」という本が売れているらしい。
アルバイト先の書籍物流倉庫でも短期間に二度見たから、
増刷がかかって実際たいそう売れているのだと思われる。
どうやらひとりぼっちの人を笑うという風習が人間社会にはあるようだ。
自殺の最大原因をあげろと言われたら、たぶんひとりぼっちではないか。
ひとりぼっちほどみじめないものはないとされているような気がする。

しかし、自由律俳人(本当はただの借金魔のルンペン)の山頭火を見よ。
ひとりぼっちのどれほど豊かなことか。
彼のなした役に立たない句作がどれほど後年にみなのこころをうるおしているか。
山頭火の最初のこころの傷といえば少年時の母の自殺だろう。
山頭火の母は井戸に投身自殺をした。
山頭火はひきあげられた母の死体を見て、そうとうなショックを受けたようである。
しかし、これは山頭火の人生にとって果たしてそこまでマイナスだったのか。
母の自殺がなければ、
いまは国語便覧にもでかでかと掲載されている山頭火の俳句は存在しなかったのだ。
そう考えるとと、なにがプラスでなにがマイナスなのか。
世間一般にマイナスと考えられているものほど、
よほど豊かなものを持っているのではないか。
「死にたい」と思っているのはプラスではないか。
「金がない」のも「自分勝手」も「人に甘えたい」もぞんがいプラスではないか。

人は体験からしか意見を言えないようなところがある。
わたしも山頭火とおなじように母を自殺で亡くしている。
いま考えてみると、はなはだ危険なことを申し上げるが、
人生でいちばんリアルな生と触れ合っていたのは母の自殺直後である。
名前を呼ばれ上を見たら、母が9階から飛び降りてきて血を流して死んだ。
ほとんど狂気のような考えだが、
あれはもっとも生命そのものを味わった奇跡とも言うべき豊饒なときだったのではないか。
あのときほど一瞬のあいだにいろいろなことを考えたことはないのだから。
あの一見マイナスに思えることでいままでどれだけ人生の奥深さに気づいてきたことか。
たしかにそういう経験をすると、人にわかってもらえないというひとりぼっちの感じは強まる。
しかし、どうしてひとりぼっちはよくないのか。
もっとも実りがあるときはひとりぼっちの孤独時間とは考えられないか。

「お天気よすぎる独りぼっち」

「雪ふる一人一人ゆく」


「五木寛之 ことばの贈り物」(清野徹編/角川文庫)

→いまや国民的作家の五木寛之の名言集。
べつに五木寛之でなくても書けそうな言葉だとは思うが、それを言っちゃおしめえだ。
わたしが本好きになったきっかけのひとつは高校生時代に
五木寛之の「青春の門」を楽しくて仕方がなくむさぼり読んだことである。
ひとつの原点だと思う。もうあんな熱狂的読書はできないのがさみしい。
「青春の門」の舞台は早稲田大学で、
一浪しても東大に落ちてかの高田馬場にある大学に拾ってもらったとき、
「青春の門」のようなことがあるのかと期待したが、
そういう小説のような泥臭いことはからきしなかった。
ひとり原一男先生という泥臭いおかしな魅力のある人がいて、
この恩師によって変な方向に人生の道を誤ってしまったところがある。
当時はウブだったので人間は明確に身分差があるのだということを知らなかった。
当時、わたしは原先生を偉人だとたいそう尊敬していたが、
社会全体の格のようなものを見たらサブカル寸前の人だったのだと思う。
原一男先生よりもはるかに名が売れている「偉い」五木寛之先生のお言葉から。

「もっと人生をいいかげんに考えてもいいのです。
予定どおりいく人生なんてありません。
なにか大きな手に自分をあずけるような気持ちで、
やりたいことをおやりなさい」(P233)


そういえば原一男先生もおっしゃっていたな。
就職なんてしなくても、フリーターでもしながらやりたいことをやればいいじゃないか。
そういう世間を知らない過激な言葉にひかれて
早稲田新卒カードを捨ててしまったところがないこともない。
超氷河期でどこにも内定をもらえなかったこともあるけれど。
それにしても人生でやりたいことばかりやってきたなあ。
もうふつうの人の一生ぶん以上遊んだような気が(よくわかりませんが)する。
で、結局いまのバイト先に居つくようなかたちになってしまったわけだ。
たまに来る本業は正社員のダブルワークのインド人のロイさんから言われたなあ。
「若いときそれだけ遊んだんなら、それでいいじゃないですか」
あきらかにカースト制度そのままにこちらの身分をあわれんでいた。
しかし、わたしはけっこういまの倉庫バイトを楽しんでいなくもない。
こんな大勢の国籍性別年代多様な人たちと一緒に働いたことがなかった。
職場では勤務時間内(休憩時間含)だけどんなにかりそめに群れていようが、
わたしだけではなく、みんながみんなひとりぼっちなのである。

「人はみな、最後はひとりぼっちの人生を送らねばならない。
そして、そのことを深く自覚したほど、人間同士の深いつながり、
心の通い合う一瞬の楽しさ、ほんのちょっとした共鳴のうれしさに気づくだろう」(P191)


そうなんだよね、五木寛之さん!
われわれは「心の通い合う一瞬の楽しさ」や「ほんのちょっとした共鳴のうれしさ」に
どれほど救われる存在か。
日本語なんか通じなくても、笑顔と笑顔で一瞬交流を持ったときの喜びといったら。
こんなことを書くとどれほど孤独でひとりぼっちのさみしい人間だと
思われるのかもしれないけれど、おそらく実際にそうなのだろうからなあ。
「人間同士の深いつながり」は奇跡のようなもので、
長い人生でひとりかふたり、そういう他者にめぐりあえただけでも幸運なのだろう。
「人間同士の深いつながり」は難関すぎるが、
「心の通い合う一瞬の楽しさ」や「ほんのちょっとした共鳴のうれしさ」だったら、
これならば、これならば――それぞれの身分のようなものはどうしようもないけれど。

「たとえ、理想の未来社会が私たちのものとなった所で、
人間の孤独といったものはやはり存在する」(P170)


しかし、けれども、にもかかわらず。
微笑みを交わすくらいならできるのではないか。

「人間同士の本当の会話ってものは、言葉を必要としないものだ」(P186)

ただ一緒にいるだけで横の人の言葉にならない気持がびんびん伝わってくることがある。
ならば、それもまた会話ではないか。
もしかしたらそのほうがおしゃべりよりもよほど深い会話をしているのではないか。
こんな青臭いことを考えている時点で、まだまだ「青春の門」を抜けきっていないのだろう。
ほんとガキで困っちゃう。
バイト先の高校生にちょっとだけ話し相手になってもらうと、あっちのほうが大人だもん。
いま工業高校在学中で卒業後の楽器製作会社への就職が内定したらしい。
「青春の門」を先にくぐり抜けられてしまったような気がする。

「ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない」 (漆原直行/マイナビ新書)

→いま書籍物流倉庫でアルバイトをしているが、
出るのはビジネス書(自己啓発書)ばかりだ。
本書は読みながら何度も笑えるとても軽快なビジネス書批判本だった。
けっこうこの軽い本には考えさせられた。2、3日ストップしてしまったくらいである。
根本的な問いに行き着いてしまった。
どうして日本人は(人間は?)「デキる人」になりたがるのだろうか?
なにゆえわれわれは「デキる人」をついうっかり「偉い」などと勘違いしてしまうのだろう?
社会を俯瞰的(ふかんてき/広く)に見たら、
じつのところデキない人ほどおいしい思いをしているのではないか。
「デキる人」ほどきついポジションを振られているような気がする。
はっきり言ってビジネス書を読んで起業を目標にするなんてきつすぎるでしょう?
そんなわざわざ自分からきついポジションに行かなくてもいいのにと思う。
責任のあるポジションほどきついと言えなくもないのだから。
適当にだらだら生きている使えない人のほうが本当は生きやすいのではないだろうか。

「デキる人」ってしんどいだろうなあ。
わたしのように使えない人間はそれを恥じないとかなり精神の平安を保てる。
バイト先にはわたしよりもはるかに使えない、
日本語をまったくわからない外国人のおばさんが毎晩なにもしないで腕組みして立っている。
なにもしないほうがいいのだが、
そのおばさんは先輩ぶってデキる新入り日本人の間口(持ち場)に干渉するから、
かえって迷惑になっているくらいである。
しかし、そういう日本語も仕事もデキないおばさんのほうがおいしい思いをしているのだ。
わたしの理想はあのポジションかもしれないなあ(冗談ですよ、冗談ですって)。
わたしはかつてその古株外国人おばさんに「日本語がわかりますか?」
とおそらくだれもできないだろうガチンコな質問をしたことがある。
そうしたらようやくよけいなお節介をしなくなった。
あなたは偉そうに腕組みをしてなにもしないで立っているのが仕事なんですよ。
しつこい繰り返しになるが、ああいうデキないポジションはあこがれだなあ。
みんなもっとデキない人を目指してもいいのではありませんか?
もちろん、こっそりと、ひそやかに、えへへとごまかし笑いをしながら。

まったく実生活の役に立たない読書をしてきた結論として、
まあ誤りだろうということを書くと、著者も一部で指摘しているが、
自己啓発書はカーネギーの「人を動かす」「道は開ける」に尽きるのだと思う。
まともな社会人ならかならずやこの2冊に洗脳された経験があるのではないでしょうか。
なかでも「人を動かす」は名著で、そして嘘なのである。
わたしもなんとか自己洗脳しようと「人を動かす」を百回以上読んだことがある。
しかし、あれはどう考えてもリアルでは使えない。
人をうまく使いたい権力者が下のものに読んでほしいのが「人を動かす」だと思う。
優秀な著者はそのことをじつに巧みに表現している。
ここがいちばんよかった。
ビジネス書の古典的名著カーネギーの「人を動かす」は――。

「正直なところ、私ははじめて読んだとき「なるほど、いいことが書いてあるな」
と思う反面、本当にここにあるような人間がいたとしたら、
どこか裏表のありそうな胡散臭いオーラを放っているか、
極端なお人好しのどちらかなのではないかな、
と邪推してしまったことをよく覚えています。
(引用者注:あまりにもやばい本音なので少々中略をお許しください)
自分なりの判断基準や言動の軸を意識したうえで、
確信犯的に本書で推奨されているような対人関係を築くならともかく、
とりあえず真似してみよう、と唯々諾々 ( いいだくだく)
と受け入れてしまうなら、ただの〝御しやすいヤツ”になってしまうような気もして、
どこか危うい印象を抱いてしまいました」(P76)


カーネギーの名著「人を動かす」の正体をここまでうまく表現するとはやるなあ。
「人を動かす」はじつのところ「人に動かされる」マニュアル書だったのである。
わたしはビジネス書をあまり大々的に批判したくない。
ああいう本を読んで「デキる人」を目指している方がいらっしゃるおかげで、
こちらのような使えないダメ人間もなんとか生息できているのだから。
結局のところ「デキる人」がたくさん税金を払ってくれているおかげで、
われわれ(?)しもじもの人間は日本国で生活する恩恵を受けているとも
言えなくもないわけで。
だから、本書はいい本だったが、あまり広く読まれては迷惑になる本とも言える。
本当はデキない人のほうが生きやすいことが熟読するとばれてしまう裏本みたいなもの。
著者がどこまで意識して書いたのかわかりませんけれども。
裏読みしすぎかなあ。



結局、ずっとわたしは自分の心を閉ざしてきていたのだと思う。
だれもわたしの気持なんかわかってくれはしない。
大好きだった母親に目のまえで自殺されたわたしの気持などだれがわかるか。
しかし、どうしてそれが不幸と言えようか?
いざとなったら死ねばいいのではないか。自殺をすればすべて終わり。
死ねばすべて終わり。美人もイケメンもブスも貧乏も死ねばすべて終わり。
すべての人生相談は「自殺をなさったらいかがでしょうか?」で足りるとも言えなくはない。
わたしはどこかにそう答えられる自信がございます。
しっかし、結局なんなんだろうなあ。
人の気持を考えながらいわゆるまっとうな社会人として矛盾を生きている
マネージャーさん、サブマネージャーさん、社員さん、パートさん、
それぞれの顔がいまでは鮮明に言葉をともなって夢にまで出てくるのである。
きっとまっとうに生きるってこともたいせつなんだろうなあ。
山田太一ドラマ「早春スケッチブック」の
山崎努が河原崎長一郎に打たれたような感動を日々味わっていると言えなくもない。
わたしだって偏屈者なりに、たとえば外国の方になにかをできたらと思う。
しかし、教えられるのを屈辱のように感じる自分のような人間もいるのではないか。
そう思うから、だれにもプライベートな声をかけられない。
心を閉ざしたままである。
明日をも知れぬ人生を生きてきたという感が強い。
ときおり不安に襲われるが、それでもほとんど明日のことを考えないで生きてきた。
しょせん、明日をも知れぬ人生さ。
20代のころは絶対に30までは生きないだろうという変な確信があった。
困ったことに生き残ったので、
29歳のときに死ねぬなら殺してもらおうと思って、
インドに二度目のビザいっぱいの旅に出た。
葬式代確保のために、
ふつう長期旅行者は入らない旅行保険にも入ったのだから本気だった。
死んでもいいのだから、いや死にたいのだからインドでは危険なことをめちゃくちゃやった。
人生うまいこといかないんだなあ。
当時、本当に死にたかったのかもわからない。
このときはいまはなき(まだあるの?)使い捨てカメラを持参した。
そのときの写真を見た友人いわく、なんでこんなに笑顔ばかりなの――。
あはは、いやはや、うーん。

30代に入ってからは、もう40で死ぬと思った。
40で死ぬのは不摂生生活で決まっているのだから、あとはのんびりやろう。
40までに偶発的に死ねるという運の強さへの自信もあった。
いざとなったら自殺という最終手段もある。
死んだらすべて終わり。死後の世界にはなにも持っていけない。
あはは、あはは、ざまあみやがれ。
もう死んでいるだろうと思っていたのに、まったく不思議なことに、
いまどうしてか40歳があと数年になってきたのである。
どうしてこんなに死にこだわるかといえば、
古くからの読者さまはうんざりするだろうが母の自殺である。
女親から教わった最大のことは――。
あの人はわたしの目のまえで飛び降り自殺をなさった。悪口ばかりの日記を遺して。
いまでもそれを恨みと思う気持も残っているが、むしろ感謝の感情もなくはない。
いざとなったら自殺すればいい。そう思ったらなんでもできるではないか。
なんでもできる。なにをしてもいい。それがおそらく自由だ。
だが、自由がそれほどいいのかもいまのわたしはわからない。
どちらかと言えば、自由よりも宿命のほうにひかれている。
天命に任せるのではなく、宿命をきちんと引き受けたいといまは思っている。
友人にゲームシナリオの仕事をしている人がいる。
最近、忙しいらしくなかなか逢ってもくれず、逢っても時計ばかり気にしているのでさみしい。
ゲームシナリオが儲かるかって聞いたら、まったくぜんぜん儲からないのね。
彼女は本業はべつにあるし、そこでそれなりに稼いでいる。
にもかかわらず、金銭的に考えたらまったく割に合わない
ゲームシナリオの仕事を嬉々としてしている。
ぼくだったら時給換算で300円も行かないかもしれない業界仕事よりも
1300~1500円の仕事を選ぶよなあ。
彼女はその仕事が好きだからいくら友人と逢う時間がなくなっても
収入が大幅に低下しても睡眠時間減少でお肌がやつれても(やつれていませんが)
自分が好きな仕事(なの? 趣味なの?)をしたいのだと思う。
友人の気持をわかるともわからないとも思う。

ぼくがいまのバイト先で850円で働いているのは、
書籍ピッキングがどこか好きだから。
そのうえ、いろいろな人と一瞬だけでも交流を持てるのがひとり旅みたいでいい。
明日だれがいなくなってしまうかもわからないのである。
わたしだって下手をするといつか急に辞めかねない。
そうなったらいままで知り合った人とはすべて終わりである。
いままでわずかながら築きあげた関係がすべて終わりまったくの他人になってしまう。
なにもなかったことになってしまう。なんの縁もなかったことになってしまう。
しかし、旅をするとはそういうことだ。おそらく、生きるということも。
いつまでかわからないが採算度外視で働いてみようと思う。最低でも今年いっぱいは。
クリスマスにくっだらねえ本を箱にぶち込みながらぼくはどんなことを考えるのだろう。
しかし、その瞬間だけはひとりではない。
みんなと一緒にくだらねえ大して売れもしねえ、
情熱も誇りもないような最低の本をなにかしらの感情とともに箱に投げ込んでいる。