脚本家の山田太一氏推薦の映画「羊たちの沈黙」をジェイコムにて視聴する。
こんな名作を見ていないのかと驚かれるかもしれない。
しかしまあ、それぞれ時期というものがあるのだからこれでいいのだと思う。
山田太一さんおすすめの映画は当たりが多く、
重い腰をあげて見るたびにこんなおもしろさがあったのかと新しい発見をすることが多い。

「羊たちの沈黙」はあからさまに本当のことを描いた名作だと思う。
映画は殺人ばかりで観客の下世話な好奇心のツボを上手についてくれる。
われわれは本当のところ本音では猟奇犯罪とか大量殺人とか大好きでしょう?
いや、わたしだけかなあ?
でも、「羊たちの沈黙」が評価されているってことはみんなもそうだとしか思えない。
退屈な日常に飽き飽きしているわれわれは非日常的なことに飢えている。
なーんかきちがいさんがめちゃくちゃやってくれないかなあ、と思っている。
欲望のおもむくままに人をぶっ殺せるやつをすごいなあ、と思っている。
建前では被害者遺族に同情するふりをするけれども。
またそうしないと世間体が悪く、日本社会では和を乱したら村八分だ。
いや、日本だけではないだろうが、日本はとくに場の空気を重んじる風潮が強い。
欲望のままに勝手をするようなやつを陰湿に排除しようとする。
逆説的にそれだからこそ、欲望のままに行動できる人へのあこがれがあるのではないか。

考えてみたら人を殺しちゃいけないなんていうルールはどこにもないんだよね。
戦争中はたくさん敵兵を殺したものが英雄になるわけだから。
いまの日本でも法律で殺人を禁じられているわけではない。
人を殺したらこういう罰がありますよ、と法律には書かれているに過ぎない。
だから、べつにむかつくやつがいたら殺してもいいわけ。
わたしの言葉だと説得力がないというのなら、偉い親鸞さんもそうおっしゃっている。
しかし、殺せない。せいぜいそいつの陰口をたたくくらいである。
このため、このゆえに「羊たちの沈黙」はおもしろいのである。

「羊たちの沈黙」はじつに巧みに観客のスリルを刺激してくれる。
スリルとは、なにが起こるかわからないということである。
われわれ人間は、つぎになにが起こるかわからない状態を
快感に思うようにどうしてかなっている。
しつこいまでに繰り返すが、なにが起こるかわからない状態は楽しい。
なにをするかわからない人と一緒にいるのは怖いけれども非日常的でおもしろい。
実生活ではそうはいかないのかもしれないが、映画でならばその状態を楽しめる。
そのうえみんな本当は映画のようなことが現実にも起こらないかと思っている。
実際、この作品にもモデルになった事件があったようだから、
現実のほうがもしかしたら映画よりもスリルに満ちているかもしれない。
しかし、現実ではどうしてもスリルをリスクと考える習慣ができあがっている。
本当はなにが起こるかわからないスリルは笑っちゃうくらい楽しいのに、
にもかかわらず生活上はちょっと変な人を見ただけで脅えてしまう。
好奇心を持っても話しかけるなんてとんでもない話で、近づいていくことさえできない。
近づいて話しかけてみたらどんなスリルと興奮があるかわからないのだが、
われわれは変な人を恐れて実際にはそういう行動を選択できない。

精神科医の春日武彦氏に言わせたら、精神医学的にはおかしい作品になるのだろう。
だが、われわれにとって大事なのは正誤ではなくどのくらい楽しいかってことだ。
快楽殺人犯で刑務所に収監されている精神科医のレクター博士は、
FBI新米女性捜査官に向けて言う。

「きみは人生を楽しむことを知らない」

そうよ、人生って楽しむためにあるんだぜ。
われわれはなにを楽しいと感じるかといったら、スリルと興奮じゃないか!?
なにが起こるかわからないことをわれわれは楽しいと感じるようにできている。
「きみは人生を楽しむことを知らない」(レクター博士)
本当はなにをしてもいいのかもしれない。
くだらない常識なんかに縛られて、
さも訳知り顔で「現実はね、世間はさ」とため息ばかりつくのはいかがなものか。
やっちゃえ、やっちゃえ、やってしまえ。それは楽しいんだからやってしまえ。
人生で一度くらいなら映画のようなことが起こるかもしれないじゃないか。
人間はなにをしてもいい。楽しいことをしよう。欲望に忠実になろう。快楽を肯定しよう。
常識や世間体を捨てよう。「なにをしてもいい」状態を人は自由という。

むかしさあ、気まぐれのひとり旅で
カンボジアのブノンペンからベトナムのチャウドックに船で入国したことがある。
チャウドックなんて田舎町は、
ベトナム人でもへたをしたら知らない人がいらっしゃるのではありませんか。
そこでもむちゃくちゃをやったなあ。
いくらかは酒を飲めるかと思われるバイタク若者さんにジモティ人気の
居酒屋さんに行ってくれとお願い。
初日は冒険だと思ってヘビを食ってみたなあ。
2日目には常連と思しきベトナム若年男性集団がテーブルに誘ってくれた。
みんな「バナナ・ワイン」と表記されていた超強い焼酎を飲んでいた。
わたしも酒の強さだけは自信があったのでがんがん飲んだなあ。
記憶をなくしてべろべろになってホテルに帰ったらしい。
翌日マネージャーに指摘されて、テヘペロでしたわい。

ベトナムのダラットで若者集団の集まりに誘われたこともあったなあ。
とある小さいながら人気酒場での話である。
わたしは数日まえからひとりで連夜ここで飲んでいた。
ベトナム人グループから手招きされた。
聞けば、みなさんわたしよりも5歳程度しか変わらぬ人たちだった。
仲間の結婚式があったので、こうして同級生が集まったとのこと。
そのうちのひとりの男性が学校で日本語を勉強した経験があった。
彼を通じてつたないながらコミュニケーションを取ることができた。
ウイスキーのバランタインを一杯か二杯ご馳走になった。
持ち込みである。近場の酒屋で見たら日本で買うよりも高かった。
そういうウイスキーもベトナムの男女は「ヨー」と一気飲みするのである。
その男女のなかにカップルがいたなあ。
まわりから冷やかされていた。
孤独な日本人旅行者は、こういう交流にとても救われた。
ベトナム商売人はがめつくて常に警戒していたけれど、
若い人はどうしてこんなにと驚くほどにすてきな人たちばかりだった。

いつまでかわからないが、いまベトナムの若い子たちと一緒に働いています。
不思議なことってあるんだよなあ。
むかしさあ、ベトナムのサイゴン(ホーチミン市)にふざけていたら流れ着いたことがあった。
いちおう「地球の歩き方」はタイのバンコクで古本を買っていたけれど、
それを参考に飲み屋を探してもどこも観光地化されていて退屈でつまらない。
当時「歩き方」に掲載されていた地元の飲み助の居どころも嘘だったし。
いまでも覚えているが、チーサック通りというところは屋台なんてまったくなかった。
なんか飽き飽きとしてね。めちゃくちゃをしたくなった。
サイゴン(ホーチミン市)にはうさんくさい、
あいさつオンリーの日本語ユーザーがたくさんいらっしゃる。
そのひとりの老人にいんちき英語でいった。
「ビアホイ。ローカル。ノーチーサック」程度だったか。
彼はひとりのバイタク(バイクタクシー)を紹介してくれた。
「一緒に飲まないか。ぜんぶ奢ります。けれど、バイタク料金はなし」

いまから思えば恥ずかしいが、
いっときのフレンドになってくれという願望のあらわれだったかもしれない。
そのバイタク男性が連れていってくれた、まあ居酒屋の安いこと、うまいこと。
必死にコミュニケーションを取ったら彼はわたしとおない齢で子どもも3人いるとか。
ふたりでさんざんうまくて安いエビを食いビアホイで乾杯した。
帰るときになって、(あまりにも愚かだが)はたと気づいたのである。
あわわ、これって酔っぱらい運転じゃないか。
そう気づいたときにはこちらの酔いはすっかり醒めて恐怖ばかり。
ふたりともノーヘル(ヘルメットなし)だから倒れたら死ぬかもしれない。
にもかかわらず、酔っぱらっているせいかバイタクにいちゃんの飛ばすこと、飛ばすこと。
途中でどうでもよくなって死ぬならここで死のうという気になった。
それからこの子持ちのバイタクにいちゃんには追加料金を払うべきだとも。
結局、無事故だった。追加料金請求もなかった。
最後に笑顔でなんか言われた。ベトナム語だったと思う。
たぶん「また会おうなフレンド」と言われたのだと思う。
いまでもそれはそれほど間違っていなかったのだと思う。
連休中はひきこもって好きな読書三昧をしたいので、
半額惣菜ゲット目的もふくめてさっき近くのスーパーに行ってきた。
新入りの若くてかわいい女の子パートさんがいた。
見ていたら古株らしきおばさんが若い子をいびること、いびること。
その若い女の子がなにをしても「それは違う」とダメ出しするのだから。
あーあ、この子もすぐに辞めちゃうんだろうなあ。
お客さま目線からしたら古株パートよりも新人の子のほうが
よほど臨機応変をわかっていて好ましいのではありますけれど。
ほんと威張る古株ってガンだよね。死ねばいいのに。

そこのスーパーよりも百円時給が安い職場でいまありがたくもバイトさせていただいている。
驚くべきことは、威張る人がほとんどまったくいないのである。
社員さんで威張っている人はひとりもいない。
古株男性パートさんもびっくりするくらいみなさん威張らない方ばかりだ。
大げさかもしれないが尊敬の念をいだくほどである。
ひとりふたり威張っていたやつがいたなあ。
入庫のとき「本の入れ方が違う。正しい入れ方はこうだから」
といかにも先輩ぶって指導してきたパート男性がいる。
その先輩がそう言うのは書籍ピッキングをやったことがないからだろう。
実際にピックをやってみたら文庫は横に寝かされていたほうが取りやすい。
そういえばあの威張っていたパートさんのすがたを最近見ないなあ。
ちっともさみしくない。

どうして古株は偉いという間違った価値観がまかり通っているのだろうか。
昨日の隣のピッカー女子はうまかったなあ。
聞いたら(日雇い)派遣で来て3日目というではありませんか。
正直に白状すると、
わたしの入った当初よりもこの派遣さんは10倍くらい書籍ピッキングがうまい。
まあ、ピッキングがうまいからといって、それがどうしたというのも事実なのだが。
ピッキング(ものを数える)の才能なんて、
ほとんど個性(創造性)の正反対だと言えなくもないのだから。
「あなたはピッキングがうまいですね」と声をかけたかった。
しかし、古株さんの地獄耳を恐れて発話できませんでした。

一般に古株は仕事がうまいとされているけれど、それは嘘ではないか。
新古と優劣はじつのところそれほど相関性はないのかもしれない。
だれとは言わないけれど、
バイト先でも古株ながらピッキングがへたくそな人がいらっしゃる。
横に入っているとだれがうまくてだれがへたか、あからさまにわかってしまう。
またまあ、へたくそな人ほど威張るようなところがある。

いつだったか(日雇い)派遣さんの隣に入ったときはこう言いました、笑顔で。
「落ち着いてあせらないで自分のペースでやればいいと思います」
なぜなら入った当初、「急げ、急げ」とせかされて、とにかくしんどかったからだ。
人は「ゆっくりやれ」と言われたほうが早くしてしまうものだと思う。
「ミスは気にするな」と言われたほうがミスをしないものだと思う。
いたらなかったのかもしれない。
今度、新入りさんや1日だけの(日雇い)派遣さんの横に入ったら、こう言いたい。
「書籍ピッキングって意外とおもしろいので、楽しんでやってくださいね」
どうせつまらぬ人生、なんでも少しでも楽しまなきゃ損損。

ああ、わかっておりますよ。
わたしが威張った人を嫌いなのは、おそらく自分がいちばん威張りたいからでしょう。
自己投影というやつかと。
もしかしたらもっともバイト先で偉そうな顔をしているのはわたしかもしれません。
反省、反省であります。
それにしても威張るやつっていやだよなあ。
できる人ほど威張らないというイメージがございますですね。
バイト先でむかしは誤ピックをしてはいけないと思っていたから、
倉庫最大記録ではないかと思われるようなミスを出したのではないか。
いまはミスをそれほど気にしていない。
また10以上ミスを出して、なんなんだ、このおっさんはと思わせたいくらいだ(嘘)。
反対をねらったほうがうまくいくという可能性もないだろうか。
嫌われてもいいと思ったら好かれるのかもしれない。
クビになってもいいと思っていたほうがいろいろうまくいく。
なんでみんなにそんな生産性や品質、効率、上昇、獲得を目指すのだろう。
どうせうまくいかないんじゃないかなあ。
ああ、人生で大失敗をしたいなあ、じゃなくて、いましているのかもしれない。
望むところよ、ビューン♪
今日も9時間45分やらせていただいたけれど、
やっぱり書籍ピッキングはどこかおもしろいんだよね。
最近はビューン♪ 
と心のなかで言いながら本を箱に投げ込んでいる。
これは経験から言うけれども、本は生卵とは違います。
マネージャーさんは、
生卵をあつかうように本をピッキングしろとおっしゃっていたけれど、うーん。
はっきり言って、本は投げ入れたほうが壊れないようなところがある。
これは古参バイトさんも言っていた。
重力にしたがって(=自然にまかせて)本を箱に入れたほうが壊れない。
聞いてみてって、言いたいよね。
わたしは本をまったくと言っていいほど破損させないから。
かえってびくびくあつかうと破損してしまうのである。
ビューン♪ 
とか効果音を内心で響かせながら本を箱に投げ入れていると、
自分が感情のないロボットになったような気がしてちょっぴり楽しい。
本は投げても壊れないって本当だよ。
おっかなびっくりあつかうと逆に破損させてしまう。
結局のところ、不安がいちばんよくないのかもしれないなあ。
びくびくするのがよくない。胸を張ればいい。それでいい。
自信さえあれば、かなり滅茶苦茶をしてもうまくいく。
生卵と書籍は違います。あなたとわたしが違うように。
時給850円のバイト先で社員さん以外から名前で呼ばれた記憶がほとんどない。
わたしは仕事を覚えるなんかよりも、名前を覚えることにどこか一生懸命になっている。
外国の方とか名前で呼ぶとギョッとするのね。
「なんだこいつ」みたいに逆に敬遠されてしまう。
あえて名前を覚えないのが文化みたいな流儀が時給850円社会にはあるのだろうか。
わたしはあなたに興味があるから名前を覚えているんですね。
無関心なやつの名前は国籍だけ知って覚えません。
しっかし、日本人古株女性バイトはいまだに名前で呼べないなあ。
はっきり言って仕事を覚えるよりも名前を覚えることに一生懸命だ。
あなたには価値があると言いたい。
その理由は、自分は価値があると錯覚したいからなのかもしれない。
名前で呼ぶと脅えたような顔をする人が多いのはどうしてなんだろう?
あなたにはあなたの輝きがあるんですよ、なーんて偽善的なことを言ってみる。
今日はきつい間口(持ち場)だったから、明日肩が上がるのかしら。
齢だなあ。若さには勝てねえずら。若い子はいいなあ。
元気でいいなあ。希望があっていいなあ。
わたしにはバイト先の若者よりも幼稚である自信があるのだから、
あはは、ビューン、困っちゃうぜ、ビューン♪
江戸時代の士農工商穢多非人ではないけれど、
いまの日本も身分社会じゃないかなあ。
結局、上のほうにいる人って、すべて身分的に恵まれている人でしょう?
会社なんて同族経営ばっか。どことはあえて言わないけれど。
社長の親族ってだけでいい思いをしているやつが多いが、それが人生なのかなあ。
ぶっちゃけ、低身分のものがどうしたら這い上がれるの?
外国人の若者がどれだけ日本語を勉強したって、
しょせんは時給千円の居酒屋バイトどまりでしょう。
大学院を出て出世するなんて無理無理。
そういう夢を見ていられるあいだだけは幸福なのかもしれない。
しっかし、低身分の若者にも優秀な努力家はいくらだっている。
どうして努力は報われないのか、というか、そもそも努力は報われないのだが。
なぜなら、どのみちどこの国も身分社会なのだから。
とはいえ、身分を超えるようなこともあるって思いたいなあ。
人間って身分を聞くまえにわかるものがあるって思いたいなあ。
「ぼくは本当は正社員で月給は24万」とか話している、
バイト先で水曜だか木曜だか限定の大声でおしゃべりをするのが好きな、
リア充ぶった若者男性さんの身分紹介雑談を休憩室で耳にしたことがある。
「月給24万」っていうのが高身分だって思っているんだろうなあ。
なんだこいつ笑えるな、と思いました。
「秘密と友情」(春日武彦・穂村弘/新潮文庫)

→患者の悪口を書く精神科医の春日武彦とイケメン歌人の穂村弘の対談本。
両者の共通点は世間知らずで、世の中とずれていて、生きづらいところ(すべて自称)。
穂村は、かなり変人なのに自己流で世間とうまくやっている春日にひかれているらしい。
わたしは春日武彦のファンで穂村弘という人は聞いたことがなかったが、
この人も相当に世の中を舐めた発言をするので、
いつか市井を生きるカタギの人に「おまえ舐めるなよ」とぶん殴られないか楽しみ、
いや、とても心配している。
両者ともに世界をいわゆる一般人とは違う角度から見ざるをえない
業(ごう)のようなものを生まれつき持っているようだ。
おそらくこのためにひとりは精神科医になり、もうひとりは歌人になったのだろう。
60近い(過ぎた?)のに銀行ATMをいままで一度も使ったことのない春日は、
かなり「本当のこと」を言い放つ。しつこいようだが、
彼は医者のなかでは色物あつかいされている精神科ではあるけれども、
いちおう国家資格を持つ医師である。

「確かにレジのおばさんを見てて、
俺にはあんな難しいことできないと思うのに、
実際には俺の時給のほうが遥かに高いのはなぜかって、
いつも不思議なんだよね」(P223)


春日先生は学生時代をふくめて人生でアルバイトを一度もしたことがない。
医者という商売一筋だから、それ以外の世界はまったくわからない。
ふつうは通念からわかったふりをするのだが、
わからないことをわからないと思った本音をそのまま白状する春日医師は正直者である。
一般的に医者は医学、つまり科学に依拠している存在だと思われているが、
さて変わり者の春日武彦先生はどうかと言うと――。

「俺、ビデオデッキに「裏切り者!」って言って捨てたこともあるよ。
「ちゃんと録(と)といてやるぜ」って胸を張ったくせにって。
俺は基本的にモノにも心があると思っているから」(P19)


わたしは精神科医の商売敵で、おなじくモノにも心があると思っている人を知っている。
その方はモノにも心があるがゆえにたいせつにするというタイプのようだが。
基本的にわたし自身もモノには心があるとどこかで思っている非科学的な人間だ。
モノに心があるとしたらモノと話せばいいのだから、ひとりぼっちも辛くなくなるだろう。

果たして患者が自殺しても「あんまり取り乱さない」春日は精神科医として優秀なのか?
春日武彦は担当患者が自殺しても「いやに淡々としてい」るという。
以下の精神科医ならではのエピソードはとてもおもしろかった。

「秘密って、実は隠していてもバレるというか、
伝わっちゃうんじゃないかと思う部分もあるのよ。
パーソナリティ障害を治療していた時、机に置いた処方箋を見て、
その患者が一言もしゃべらなくなったことがあってね。
処方箋の位置がいつもとちょっとズレてただけなんだけど、
彼女は「このドクターはあたしの話なんか聞く気はないんだ」と直感した、と。
「君の思い過ごしだよ」みたいなことを言ってなだめたけど、
心の中で実は「ウゼエ女だな」と思ってたわけ(笑)。
見破られたはずはないけど、
でもどこかで伝わってんじゃないかという気はして怖かった。
それとは別の患者だけど、結構美人で、正直言って俺好みの女性がいたのね。
これで髪がショートなら完璧に俺の好みだなと思っていたら、
ある日、俺の好み通りに髪切って来た(笑)。
やべえと思ってすぐに担当を替わってもらったけどね」(P79)


これはよくわかるなあ。
いま書籍物流倉庫でバイトをしているのだが、ライン(流れ作業)というものがある。
ラインでは一列になって流れてくる箱に本を入れている。
無心にそういう単純作業をしていると深層心理学のいう無意識状態におちいる。
そうするとラインの両隣のみならず、もうひとつ隣くらいまで考えていることがわかる。
少なくとも向こうがこちらを好きか嫌いかくらいは手に取るようにわかる。
隣が日本語の通じない外国人だと目と目を合わせただけで、
あるところまでは会話ができてしまうのだから人間の能力というものは不思議だ。
能力の上下は多少はあろうが、
一緒にいるだけで相手の気持はある程度わかってしまうものだと思う。
まあ、お偉い精神科医のご意見と底辺労働者の実感は違うのかもしれないけれど。
学生時代は親の言いなりにお勉強ばかりして親の期待通り医者になった、
精神病患者を矯正して社会に向けて投げ返す善なる職に就く春日は言う。

「俺は働かないで正気を保っていられる人って、
根源的に理解できないし、怖いよ」(P138)


反対にわたしは働かないでいる楽しさを理解できない春日医師のほうがぶるぶる怖い。
ええ、みんな本心では働きたくなんかないっしょ?
人と人はどこまでもわかりあえないんだろうなあ。
わたしの職場のパート仲間に「できるのなら働きたくないですよね」
と質問したら9割以上イエスの反応が返ってくると思う。
心の専門医らしい精神科医先生もあんがい人間をわかっていないのかなあ。
気づいたらファンだから春日武彦氏の言葉しか採録していなかった。
これでは不平等だから、よく知らないイケメン歌人の穂村弘氏の名言も――。

「結局、友情にはギブアンドテイク性に加えて、旬ってものがあるんじゃないかな。
恋愛同様、友情にも旬があるような気がする。
あのときはこの人がとても必要だったけど、今となっては迷惑とかね」(P26)


きっと「真実」なんだろうけど、世渡りのうまい成功者はさみしいことを言うよなあ。
彼は広い交友関係を持つからこういう身もふたもない「真実」を言えるのだと思う。

「源氏物語と日本人」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→なにやら本末転倒のようだが、河合隼雄のこの本を読みたいがために
ビキナーズクラシックスとはいえ「源氏物語」を読んだという事情がある。
「源氏物語」よりもむしろ河合隼雄がどうこの日本古典を料理するかに興味があった。
本書出版時、「明恵 夢を生きる」を書いたころとは格がぜんぜん違っている。
あらゆる意味で大物になった河合隼雄は、
「おれは先行研究なんてちまちま読んでいる時間がないけれど、悪いか?」(大意)
と学者とはとうてい思えないことを冒頭で勢いよく言い放っている。
しかし、いわゆる文学研究など先行研究に敬意を表しながら
(それが学問的権威になる)小さな物語のようなものをひとつつくることだと考えたらば、
大御所の河合隼雄のようにほとんどいっさい先行研究など読まないのも、
それはそれで斬新な発想ができていいのかもしれない。
どうしてみんな先例(前例、先行研究)を調べたがるのだろう。
それでは人と似通ったような考えしか生まれないではないか。
対象(世界)をまるで違ったように見ることができる天才は、
平凡な過去の研究者が書いた悪文をちまちま読んでいられないだろう。
しかし、批判が来たらどうしたらいいか?
あらかじめシンパをつくっておけばいいのである。
本書を書くまえに河合隼雄は「源氏物語」の通俗権威者たちと対談したという。
これでお墨付きをもらったから、
河合隼雄はなにを書いてもいい自由を得たことになる。

さて、先行研究を無視して心理療法家によって書かれた「源氏物語」論が
「正しい」のかどうかはわからないが、「おもしろい」かどうかはわたしでもわかる。
正直に本音を書くと、期待していたほどはおもしろくないのである。
いいかげんな要約をすると、いまは出世物語や勝利物語、正義物語の限界に
世界中が気づきつつあるが、日本には「源氏物語」があるではないか。
そう指摘したうえで、河合は「源氏物語」は
作者の紫式部の内界における自己実現の過程をうまく描いていると評価する。
自己実現とは、ひとりの人間としてその人の人生を完成させる、
くらいの意味で河合隼雄は使っていると思う。
女性というのは「娘」「妻」「母」「娼」の部分をそれぞれ内界に持っているが、
紫式部は「源氏物語」を書くことで4つの世界をそれぞれ十全に生きたのではないか。
現代人は出世物語、勝利物語、正義物語にいまだにとらわれて不自由になっているが、
紫式部のように「個」を生きるということを「源氏物語」から学んだらどうだろう。
紫式部は結婚して娘を産んだけれども、この「個」を生きるというのは内界の話で、
かならずしも結婚しなくても「妻」「母」「娼」はそれぞれの女性のなかに生きている、
と河合隼雄は主張する。氏は書いていないが、この論を発展させたら、
男性は内界における「息子」「夫」「父」「獣」を生き切ることが自己実現になるのだろう。

河合隼雄の基盤となっているユング心理学はほとんど金持の道楽に近い。
社会的に成功した人が空しさを感じて行った先がユングの診療所である。
明日食うコメがなくなるかもしれない世界では自己実現など鼻くそほどの意味もない。
いま時給850円のパートとしてひいひい働いているが(うん?)、
自己実現とか口に出したら作業員全員から袋叩きに遭いそうで恐ろしい。
わたしの意見では、べつに自己実現などしなくてもいい人生はわんさかあると思う。
しかし、また自己実現する人生があってもそれほど悪くはないような気がする。
河合隼雄の使う自己実現の意味は、自分だけの物語をつくろうという意味だ。
紫式部が内界に生きる「娘」「妻」「母」「娼」を用いて「源氏物語」を書いたように、
われわれもそれぞれの自分だけの人生物語を物語れないだろうか。
「会社人生物語」ばかりでは味気なくないか。
それでもないよりははるかにいいのである。

「きわめて卑近な例をあげてみよう。飲み屋に行って酩酊してきたときに、
いかに多くの人が「自分の物語」を語るのに熱中しているか。
ある人は、自分の的確な判断によって会社の危機を救った話を語る。
ある人は、自分のひとことによって平素はいばっていた上司が
ぺちゃんこになった話を語る。
つまり、これらの「物語」は、各人の存在の確かめを行なっているのだ。
これは生きていく上で必要なことである」(P43)


いまいる時給850円の職場の仕事なんてほとんどだれでもできる単純作業なのだが、
もしかしたら自分がいなかったら会社はまわらないという物語を
生きている人がいるかもしれない(それはそれでいいのだが)。
わたしはさすがに自分のことをいくらでも替えのきく存在だとみなしているが。
さて、物語は現実と違ってもよい。むしろ、違うものかもしれない。
いや、どちらも現実だと思っているところが河合隼雄の特徴である。

「現実を外的現実、内的現実に区別するのは安易とは思うが、
このようなことを考える上で便利な方法である。
自分の判断によって会社の危機を救った人の話を、
クールに外的現実と内的現実とに分けて記述すると、
彼の言う「判断」は別に彼個人の力によるものではなく、
彼の属する課のうちの何人かの考えであるし、
会社の重役にもそのように考えていた人もいた。
彼らの判断が採用されて会社が有利になったことは事実であるが、
会社の存亡にかかわるほどでもなかったということになる。
しかし、彼の内的現実の中で、彼は一人の「英雄」なのである。(中略)
ここで、この人が彼の「物語」を外的事実と混同してしまうと、
周囲の人々との摩擦を起こすことになるであろう。
さりとて、外的現実のみに生きていると、彼の人生は味気ないものとなり、
だんだん精気を失ってくることであろう」(P44)


このブログのわたしのバイト日記は内的現実(物語)にすぎないから、
外的現実だと思っている「偉い人」がもしいらしたら、それは違うのである。
べつに自己実現をしているつもりも、自己実現したいともあまり思っていないが、
自己実現はかなりの割合で近所迷惑を引き起こしかねないことはわかる。
紫式部のように外面の人生で破綻がなく「源氏物語」のようにやるのが
いちばんいいのだろう。もっとも文才がなければとうていかなわぬことだが。

いい歳をしてバイトをしているといろいろ気づくことがある。
もう出世物語や成功物語とは縁のなくなった人もちらほら見かけるが、
そういう不運なお気の毒な方たちが悲惨にも努力物語を生きていることがある。
「努力したらかならず報われる」というかなり眉唾な物語である。
努力物語を生きていると、身体的にも精神的にもきついばかりではないか。
常に全力で労働しようと努力するから疲弊して帰宅してから趣味ができなくなる。
努力物語を生きていると、こうなったのは努力が足らなかったからだと
自分を過剰に責めるようになり性格は暗くなりさらに人から疎まれるだろう。
「源氏物語」は努力物語ではなく、言うなれば偶然物語である。
一時期、源氏は自分の不注意から失脚して田舎へ退いていた。
そのとき人々の夢に不思議な偶然が生じて源氏は京都へ返り咲くことになる。
河合は、すべてが夢によってアレンジされていた、と見る。

「現代の合理主義者は、こんな話を馬鹿げていると思ったり、
紫式部が勝手に都合よく夢を利用して物語の展開を図った、と思うかもしれない。
しかし、筆者のように「中年の危機」にある人に数多く会っている者としては、
誰もがむずかしいと思っている危機が乗り越えられるとき、
本人の努力によるよりは、このような偶然、あるいは奇縁と
思われるようなことによる場合のほうが多いことをよく知っているので、
紫式部の洞察には感嘆を覚える。もちろん、夢も重要な役割を演じる。
運命と闘うのではなく、運命をそのまま受けいれて、意識的努力を捨て、
絵を描いたりしていると、「とき」の訪れとともに、
意味のある偶然が生じ、世界が開けてくる。
このような様相は昔もいまも変わらないと思う。
ただ、現代人はこのような現象に気づかずにいることが多いだけである」(P203)


意識的努力を捨ててみたらどうだろう?
もちろん外界(外的現実)は大切だが、
内界(内的現実)にもまた意味があるのではないか?

「夕顔の性格が内気で弱いのに、
最初に彼女のほうから積極的に歌を贈ったのはどうしてだろうか。
これは「内向の思いきり」とでも名づけるべき行動で、
内向的な人は、平素は控えめで優柔不断であるが、
自分の内なる動きを察して行動に出るときは、
周囲の人を驚かせるような思いきったことをするものである」(P175)


どうして自分がそれをしたのか後々になってもわからない行動というものがある。
自分のなかに別の人がいるような気がするときがある。
その別人が勝手に動き出してしまうときがある。
わたしも最近、自分のなかに恐ろしい鬼が一匹いるような気がしている。
よく一流作家が小説のなかで登場人物が勝手に動き出すというのはこれだろう。
本当は人間の内界には何人もの別人がいるのかもしれない。
おのれの内界の女たちを駆使して「源氏物語」を書いた紫式部のみならず。
このことに関して河合隼雄はこんなおもしろい指摘をしている。

「源氏は玉鬘(たまかずら)に自分の想いを告げるが、反応はない。
というより拒否的と言っていいだろう。源氏はなんとか説得しようとして、
深く思っている親子の情愛に別の思いまで加わるのだから、
こんなのは世間にまたとあるまい、などと強引な論理をふりまわす。
ここで実に興味深いのは、このような源氏の口説きの言葉の後に、
「いとさかしらなる御親心なりかし」(「胡蝶」)
と作者のコメントが入れてあるところである。
源氏が作者の意図を離れて勝手に行動しようとするのを、
作者がなんとか引きとめようとしているとも感じられるのである」(P222)


あんがい自分というものは、
こうだと自分が思っているような存在ではないのかもしれない。
自分で自分をあまり決めつけないほうがいいのかもしれない。
われわれはなぜか意図しない言動をしてしまうことがある。
それは自分のなかにいろいろな人がいると考えてみたらどうだろう?
自分の言ったことに自分で驚いてしまうことがなくはないだろうか?
それを河合隼雄はこのように表現している。

「……また思わず行為し、言葉を発してみて、
それによって自分の心の内がわかることもあったろう。
あるいは、それに伴う誤解や思いこみなども生じたであろう」(P294)


こうして考え始めると当初思った以上に本書は深くいろいろな発見があった。
最後にくだらないどんでん返しをすると、真剣に幸福ということを考えたら、
「源氏物語」の作者をパッと言えないような自己実現と縁のない人のほうが
恵まれているという皮肉な外的現実を指摘せざるをえない。
心が病んだりするのはいわば贅沢病なのだと思う。
ありあまる暇な時間とたしかな経済基盤を支えにして紫式部は「源氏物語」を書いた。

人間っておもしろいことのために生きていると思うんですね、いまのところ。
明日には変わるかもしれませんが。
仕事のために生きるのも、家族のために生きるのも、社会のために生きるのも、
それぞれがそれぞれよろしいのではないでしょうか。
おもしろいことのために生きる。
しかし、人によっておもしろいことはさまざまなんですね。
ディズニーランドに行くことがおもしろいと感じる人がいっぱいいるわけでしょう。
けれども、そう感じない人もなかにはおられるかと。
かなり本当のことを申し上げますと、
美食や性交、惰眠、成功、勝利をあまりおもしろいと感じない人がいるのかもしれません。
おもしろいことは、まったく人それぞれではないでしょうか。
他人のことはわかりません。

「なぜ?」を考えてしまうのが人間の宿命のようなものかもしれません。
たとえば、なぜいまわたしはいまのバイト先で働いているのか?
結局、それがおもしろいからなのだと思います。
わたしは根性がないヘタレなのでおもしろくないことは長続きしません。
金曜日。書籍ピッキングの持ち場に
哲学者の中島義道の新刊「東大助手物語」がありました。
暇だったら立ち読みしようとねらっていたのですが、かなりヘビーなところでした。
それでも、わずかな間を見計らって。
結局、中島義道が東大助手時代に
どれほど上役からいじめられたかっていう話なのだと思います。
恨んでいない、むしろ感謝していると言いながら、本当のことはだれにもわかりません。

わたしも、もっと上役からいびられるようなきつい仕事についたほうが
自分のためなのかなあ。だって、あとで恨みを書けるじゃないですか。
いまのバイトはいじめのようなものがなくて逆に驚いているくらいです。
しかし、おもしろいよなあ。
中島義道の新刊が間口にあるとわかってからの
わたしのいんちきハッスルぶりと言ったら。
なーに、有名人を自分の知り合いのように勘違いしているんですかね、あはっ。

ラインの隣は中国人女性の妊婦。
「え、(妊娠しているのに)こんなこと(仕事)をしていいんですか?」
と聞いたら大丈夫とのこと。
ちらちら見たらかなりお腹を気づかってゆっくり丁寧な作業をしていた。
2日連続ラインでこの女性の隣だから言う。
「◯◯さんの横だと本の入れ方が丁寧だから楽」
「ありがとう」と言われた。
聞けば1年以上もここに勤務している先輩らしい。
いままで見たことがなかったような気がするけれども、こういうところもおもしろい。
そう言われたら妊婦さんのにおいが微妙にするのもおもしろい。
新しい子どもをこれから横の人が産むのだと思うとおもしろい。

しかし、間口の出す本がほかよりもかなり多いような気がしたので、
思わずどうしようもなくおもしろくない顔をしてしまった。
間口の書籍量の見方は先輩バイトさんから教えてもらっているのですが、
見たら担当者を恨みそうなのでその日も見なかった。
たぶん不満たっぷりに働いていたのだと思います。
そうしたら、嫌いな入庫にまわされた。
今日にかぎってはピックよりも1時間の入庫のほうがましなのかもしれません。
入庫は相方が仲間ならばいくらでもゆっくりできることを某国籍の人に教わりましたが、
きついピッキングの持ち場はそうは行きませんので。
わたしの入庫の生産性は驚くほど低いので(興味がないのでミスばかり)、
効率を考えたら書籍ピッキングのほうがまだましなのかもしれません。

パートミーティングに呼ばれましたが、おもしろかったなあ。
同席者は書籍ピッキングのパート仲間ばかり。
とすると、いまだそれなりにおもしろいと
思っている書籍ピッキングにまわしてもらえるのでしょうか。
おもしろくて恥ずかしかったのは自分。
みなさん古株の先輩ばかりなのだから、わたしが下座に座らないといけません。
出口にいちばん近い席がわたしの場所であります。
ところが、まったく混乱してしまってまるで席順を守れませんでした。
こういう恥ずかしい自己発見もある意味ではおもしろいですね。
とっても恥ずかしいけれど、まあ人間そんなものかもしれません。

パートミーティングはお通夜のような雰囲気。
内容はみなさんの生活がかかっている企業の秘密ですからとても公開できません。
なるほど、そうなのか、と思ったことがかなりありました。
本の出す順番は、
このバイト先の協力会社(=下請け会社)が決めているのではなかったのですね。
上の会社が圧倒的に強くすべて命令にしたがうしかない。
だとしたら、パートがそれを理由に社員さんを恨むのはおかしい話になります。
間口(持ち場)の不平等も上の会社の意向なのかもしれません。
そうだとしたら、もしかしたら――。
社員さんもパートもみんな仲間といえば仲間であることに気づきました。

マネージャーさんが最後におっしゃっていました。
生産性(スピード)と品質(ミス減少/破損減少)は同時に高めることができると。
生産性をあげて品質もあげることは可能だ。
常識で考えたらこれは矛盾しています。
経験からもわかっていますが、急がせたら急がせるほどミスが増えるのが人間であります。
急がせたら人は失敗する確率が増えるのではないでしょうか。
わたしは正直にそう思ってマネージャーさんの目を見ました。
立場はまったく異なりますが、目と目で会話しあえたような錯覚をいだきました。
もしかしたら生産性と品質を同時にあげることもできるのかもしれません。
生産性と品質は矛盾した価値観ですが、
そういう矛盾を生きるのがロボットならぬ人間だからです。
コンピュータならば生産性と品質をともにあげることは不可能という結論を
出すかもしれませんが、いろいろな矛盾のただなかを生きるわれわれ人間ならば――。

ミーティングでどうしようもなく言いたかったけれど言えなかったことをひとつだけ。
生産性も品質も大事でしょうが、それよりはるかに重いのは人の身体であります。
生産性や品質は取り戻せますが、
ひとりひとりそれぞれ自分の人生を生きる人間の精神的・身体的な健康は
一度壊したら取り返しがつかないところがございます。
わたしはいざとなったら、どちらかを選べと聞かれたら、
生産性も品質も大事でしょうがわれわれ人間のほうを重んじたいと思います。
なにがいちばん大切なのでしょうか?
そういうことを考えられるきっかけを与えてくれたバイトはやはりおもしろいと思います。
おもしろいことをしたい。おもしろいことをしましょう。
人間の能力には元々差があるという本音は差別につながりかねないから、
現代日本ではあまり言ってはならないことになっているような気がする。
でも、大勢の多様な人が働く職場にいると能力差をまざまざと思い知らされる。
たとえば、オリコン回収という作業がある。
流れてくるプラスチックの箱をひとりでひたすら積むだけの作業である。
わたしはこの作業を30分未満なら時間つぶしのためにできるが、
1時間をオーバーしたら変な話だが発狂するかもしれない。
ひとりで黙々とオリコンを積みゴミを捨てる作業がどれほど難しいか。
これを専門にしてときには8時間近くなさっている方がいるが、
わたしは彼を本気で偉いと思っている。だって、こちらはできないもん。
時給1200円いただいても、あの孤独な後始末作業はしんどい。

どうやらわたしはかなり人よりも能力が低いようで、
いまのアルバイト先ではできない作業が多いのでまったく使えない。
例をあげれば、箱潰しと言われる作業がきつすぎて逃げたくなってしまう。
正直、箱潰しをなさっている方には時給をいくらか渡したいくらいである。
箱潰しをなさっている方のまえを通るときは、どうしてか低頭してしまう。
たとえ後輩の若者でも箱潰し担当者には、率先してこちらから挨拶してしまう。

検品はやったことはないが、上はさすがに見る目がある。
人の数え間違いをいちいち丹念に見つける作業はたぶんわたしには無理だ。
そういう丁寧な几帳面な仕事はできません。
なにもできないので最後の仕事、
日本語がほとんどわからない外国人女性でもできる書籍ピッキングに
まわされているのだと思っている。
わたしはなにもできない。
社員さんのように、シフトに入っているパートに明日は休んでください、
なんて言うのは精神的に辛いだろうなあ。

なんでこうも使えない男なんだろうと自分でもあきれてしまう。
しかし、使えないおっさんバイトにも価値があるのかもしれない。
もしかしたら将来ある若者が、
ああなってはいけないと仕事をがんばるようになるかもしれない。
仕事以外でも、パート仲間のうちああなったら終わりだと
いろいろやり始める人がいるかもしれない。
そのように全体を考えたら、使えないわたしもある意味では役に立っている可能性もある。
明々白々と美醜とおなじように人間の持って生まれた能力の差は存在する。
その能力を人間は超えようとするものだが、
果たして克己(こっき)はかなうものなのかどうかわたしはわからない。
それぞれの能力を可能なかぎり、それぞれ生かすしかないような気がしている。
いまのバイト先はかなりそれぞれの能力を生かすのがうまいのではないかと思う。
できないこと、いっぱい、いっぱいある。
「ビギナーズクラシックス 源氏物語」(角川ソフィア文庫)

→急に向上心が芽生え自分を高めたいという気分になったので「源氏物語」を読む。
といっても全集ではなく(うちに新潮版を購入済み)ビギナーズクラシックスだ。
要所要所の名場面のわかりやすい現代語訳と原文が紹介されている。
ぜんぶ読んだわけでもないのに、あの「源氏物語」の感想を書けと言われてもなあ。

まあ、たとえ稚拙でも自分の思ったことを正直そのままに書くしかない。
「源氏物語」を読んで思ったのは、禁じられた恋は楽しいんだろうなってこと。
親からすすめられた縁談の何百倍も、してはいけない密通は興奮するのだろう。
なぜなら、いわゆる禁じられた恋とは秘密をふたりだけで共有することである。
強い秘密を共有することは孤独な人間同士を深く結びつけるのではないか。
もしかしたら肉体的交渉よりも秘密の共有における精神的連帯のほうが、
よりふたりを親密にさせるのかもしれない。
「これ秘密ね!」というのが、味気ない退屈な人生の隠し味なのかもしれない。
なにか秘密があればこそ多くの人は噂話をすることで倦怠から逃れることができる。
真偽定かならぬ噂話や、そこから発生する悪口ほどおもしろいものはなかなかない。
かえって真偽がわからなければわからないぶんだけおもしろいとも言いうる。
「源氏物語」は女という生物が大好きな色恋ゴシップの集大成とも言えよう。
「源氏物語」はいまで言えば、芸能人スキャンダルのようなものではないか。
有名人の隠し子騒動とか、やっていることはいまもむかしも変わらないのだろう。

「源氏物語」でいちばん好きなところはここである。
光源氏は父親の後妻を好きになって秘密の関係を持ってしまう。
いわば父親を裏切ったわけである。
その結果として生まれた子どもが天皇になったのだが、だれもこの真相を知らない。
これは当時としては最大級のスキャンダルではないか。
さぞかし源氏は女とのあいだの強い結びつきを感じたことだろう。
その源氏が中年になったころ、断れない縁談を持ち込まれ若い娘と結婚する。
ところが、この美しい娘っ子が若い男に股を開いてしまうわけである。
むかし父親の女を寝取った源氏が今度は反対に女を寝取られてしまう。
ああ、もしかしたら父親は自分の行為を知っていたのだろうか?
年月を隔てて父親の気持を身をもって知ることになったわけである。
女がはらんで自分とは血のつながらぬ赤子を産むのもおなじだ。
なんと不思議なことがあるものか。これではまるで報いではないかと源氏は思う。

「さてもあやしや。我、世とともに恐(おそろ)しと思ひしことの報いなめり。
この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、
後の世の罪も、少し軽みなむや」(P309)


世の中には不思議なことがあんがいあるのかもしれない。
そして、くだらない処世術かもしれないが、アンラッキーなことがあったら
これで来世では少しはいいことがあるだろうとおのれを騙すのもまた悪くない。
妻を寝取られたらこれで来世の罪が消えたと思えばよい。
「源氏物語」から道徳を引き出すならば、
なんのために結婚するかといったらおそらく浮気を楽しむためになるのだろう。
もちろん、妻が寝取られる程度のリスクは一種のサービスだと思えばよい。
もっと不倫をしようと「源氏物語」はけしかけているのかもしれない。
ありきたりの男女交際ではなく、できるだけ道ならぬ恋をしようではないか。
そのほうが秘密をたくさん持てるから生きる味わいが深まることになる。
墓場までどれほど人に言えない秘密を持っていけるかが、
それぞれの人生の味の濃淡の差になるのではないか。
「私」とはなにかといったら、だれも知らない秘密こそ「私」になろう。
あなたと他の人間を分けるものは秘密であるとも言いうる。
藤壺は継子(ままこ)の源氏との密通事件を死ぬまでうちに秘めていたのである。
秘密が生まれるとき、秘密を知るとき、秘密が世にばれるとき――。
秘密を知りながら素知らぬふりをするとき――。
「源氏物語」はよくできた物語や芝居がそうであるように秘密の取り扱いがうまい。

さて、「源氏物語」は恋愛小説とみなされている(いない?)。
とにかくまあ、男女の関係を描いた物語という表現には批判はこないだろう。
果たしてこのような男女関係は恋愛なのか少し考えてみたい。
光源氏による朧月夜(おぼろづきよ)のレイプ事件である。
暗闇で女が近づいてくると、さっと抱きしめて押し倒したのである。
娘が突然のことに驚き「人を呼ぶわよ」と言ったときの源氏の対応がすばらしい。

「まろは、みな人に許されたれば、召し寄せたりとも、何でうことかあらむ。
ただ忍びてこそ」(P95)


おれに逆らえるやつなんていないから、人なんて呼んだって無駄だぜ。
おとなしくしろ。
朧月夜は相手が身分の高い源氏であることを知り、みずみずしい身体を与える。
いったいこれは恋愛なのだろうか? これが果たして恋愛か?
源氏がたくさんの女の身体をもてあそぶことができた理由は、
まず彼がイケメンであったこと、それから生まれがよく高身分だったからである。
「まろは、みな人に許されたれば」(おれはなにをしてもいい)
と思っている出世した高身分のイケメンにあまたの女が惚れるわけだ。
もし源氏がブサイクで水呑百姓だったらば、どの女も相手にしなかったのだ。
ならば、果たして「源氏物語」は恋愛小説なのか?
わたしは、「源氏物語」は極めて「正しい」現代にも通じる恋愛小説ではないかと思う。

恋愛=「男の顔、地位、金」

源氏が朧月夜を口説いたときの歌がいい。
おれとおまえは前世からの縁(=契り/ちぎり)があるんだよ、
と決めつけてしまうのである。
このテクニックはいつか人生で真似したいが、そんなチャンスは来るだろうか。

「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ」(P95)

朧月夜は政敵の妹だから、これもまた禁じられた恋である。
道ならぬ恋におぼれたふたりは逢瀬(密会/デート)を重ねる。
しかし、ついに秘密が露見するときが来て、
このスキャンダルが原因となって源氏は失脚してしまう。
結果として源氏は華やかな京を離れ、須磨という田舎に引きこもることになる。
不思議な夢を見たこともあり、源氏は赤石の君という田舎娘と出逢う。
赤石の君は気立てはいい子なのだが、身分は田舎インテリの子女程度である。
出世争いに敗れた源氏とはいえ釣り合わないという見方もできなくはない。
心根のいい田舎娘は夜の奉仕活動を怠らなかったのか。
うまうまと玉の輿に乗ることに成功する(この時代の貴族さまは重婚OK)。
ところが、この赤石の君こそアゲマンだったのである。
赤石の君と結婚してから源氏には幸運が舞い込み続ける。
京都では再評価がなされ貴族社会でどこまでも偉くなった。
では、どうして源氏はアゲマンの赤石の君とめぐりあえたのか。
失脚して須磨という田舎に引きこもったからである。
では、なぜ失脚したかというと政敵の妹との恋仲がばれたからだ。
源氏は本能のおもむくままに女に手を出しているが、
それが長い目で見ると結果的にうまくいっていると言えなくもないところが、
なにやら人生の深い真理をあらわしているように思えなくもない。
さて、田舎の娘っ子の赤石の君とはどのような女だったのか。
少女はまるで林真理子のような(性格はきつくないが)野心家だったのである。
田舎の女の子はこんなことを思っていた。
――あたしは田舎ものだから、身分の高い人のお嫁さんにはなれないのかなあ。
でも、ほどほどの人生なんて絶対にいや!
ほどほどで手を打つなら尼になったほうがまし。海の底に沈んだっていい。

「高き人は我を何の数にもおぼさじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。
命長くて思ふ人々に遅れなば、尼にもなりなむ。海の底にも入りなむ」(P133)


赤石の君の身のほど知らずの出世欲はとても好感が持てる。
田舎の少女は少しでも偉くなりたくて、
源氏といういまは落ちぶれた貴族と結婚したのである。
露悪的かもしれないけれど、いまの通俗恋愛結婚だっておなじと言えなくはない。
どれほどの「顔、地位、金」を持った男と結婚できるかが女同士の勝負だ。
赤石の君によって源氏のツキが好転して後の栄華を迎えることになる。

話は変わって「源氏物語」でいちばん好きな女登場人物はだれか?
これで男も女も、傾向性のようなものがわかる気がする。
東大卒のベストセラー作家(お若い奥様も東大卒で作家)の小谷野敦氏は、
いったい「源氏物語」に登場するだれがお好みなのだろう。
どうでもいいわたしの話をすると、玉鬘(たまかずら)がもっとも好きだ。
不幸な生い立ちの美少女である。
源氏とむかし関係のあった夕顔の娘であるため、
流浪中のところ源氏の家に娘のように引き取られる(源氏と血縁関係はない)。
その美少女ぶりは広く知れ渡り恋文がひっきりなしに来る。
なによりよろしいのは玉鬘がイケメン権力者の源氏を振っているところである。
セクハラを仕掛けてくる天下の源氏を、「おっさん、きもいよ~」と袖にしているのがいい。
源氏を振ったのは他に空蝉(うつせみ)、朝顔がいるらしいけれど、
空蝉は一度源氏と寝ているし朝顔は源氏を嫌っていたわけではない。
玉鬘は読み方によっては源氏に無関心どころか嫌っていた気配さえある。
いまは貧乏美少女だから仕方なく玉鬘は源氏の家にやっかいになっている。
しかし、源氏の正体を「顔、地位、金」だけじゃないかと見破っているのが鋭い。
いままで「顔、地位、金」にまかせてどんな女も自由にしてきた源氏は、
玉鬘のほんものを見抜く目にゾッとしたのではないだろうか?
あんがい源氏がいちばん愛した女は玉鬘だったのかもしれない。
このため、いつでも手を出せる状態だったのに美しいものに触れられなかった。
源氏は自分の権勢をもってしても落とせない女の存在に、
そうであるからこその輝きを見いだしたと言うこともできるのではないか。
玉鬘が髭黒(ひげぐろ)の大将と結婚しているのもたいへんよろしい。
髭黒なんていう名前だから絶対にイケメンではなかったはずである。
おそらく髭黒の大将は、優男(やさおとこ)の源氏と正反対のタイプだったのではないか。
玉鬘は外見に騙されないでほんものを見破るちからを持っていたとしか思えない。

しっかし、漫画の影響なのかネットで調べてみたら女って「源氏物語」が好きだよなあ。
ということは、当然、主人公の光源氏が好きなわけでしょう?
源氏は生まれのいいイケメンだから光っているのである。
源氏は地位もあり金もあるから光っているのである。
だとしたら、女は女性誌の内容が証明するように
男の「顔、地位、金」に目がくらむものではないか。
そんな本当のことを言ったらば、男だってと「源氏物語」を証拠として反逆されかねないが。
男はみんな潜在的ロリコン。男はすぐやらせてくれる女が好き。男の理想は一夫多妻。
いやね、男はもっと多岐に渡っていて女ほど一律化していないような気がするけれど。

向上心が目覚めて「源氏物語」を読んだが、いったいなにを得たのだろう。
「源氏物語」は女性誌レベルに女くさくて、そこが評価の分かれるところだろう。
女よりも女々しく女の腐ったような男である自覚があるわたしは、
やはり名作と言われているだけあって「源氏物語」は悪くないと思った。
そんな偉そうなことを思った。
それから、いつか「この人に契りのおはしけるにやあらむ」
と思える人に逢いたいと思った。もう出逢っているのかもしれない、とも思った。
それから、それから――。
紫式部ってほとんど恋愛体験のようなものを持たなかった人じゃないかなあ。

あいさつにすがっているようなところがあるのかもしれない。
あいさつがなかったら困るよなあ。
おれさ、あいさつ以上(深さという意味ではあいさつ以下)の会話を
バイト先のパート仲間とできる気がぜんぜんしないもんね。
自分でいちばん怖いと思っているのは、
ライン(流れ作業)で隣の人に「あなた、なんのために生きてるの?」
とか失礼なこと(失礼なの?)をいきなり聞いてしまいそうな脆(もろ)さ。
この人たちなに考えてるんだろう、とかつねに思っている脆弱さがあるなあ。
地に足が着いていないようなふわふわした遊離感がある。

さっきまで精神科医の春日武彦と歌人の穂村弘の対談本「秘密と友情」
を読んでいた。穂村弘とかいう50を過ぎたおっさんがやばいことを言うんだ、これが。

「それにしても、映画に出てくるような素敵なことってないのかなあ。
現実は、みんなもがき苦しみ、汚く生きてるものなの?」


大人になれよ、おまえ! とおれみたいなやつがいると寒々としてしまった。
これからシャワーを浴びて、あの倉庫でまたひたすら箱に本を入れるわけだ。
いやかと聞かれたらべつにいやでもないし、
積極的にしたいかと聞かれたらそこまででもないよなあ。
正直、働いている感覚なんてほとんどないから、自分でも困っちゃう。
なーんか趣味のサークルにでも行くって気がする。
就業まえの昼礼が相変わらず好きだ。
「今日も一日、よろしくおねがいします」とか最後はまとめるんだけれど、
言わない人もいるんだけれど、おれは積極的に声に出す派で、
まっとうな世界に入っていくようなウキウキした感じさえいだいてしまう。
サブマネージャーの声がびしっとしていていいんだよなあ。
「よろしくお願いします」をまったく疑っていないようなりりしさに惚れちゃうぜ。
やべえなあ。みんななにを考えながら本を箱に入れているんだろう。
おれは世界の構造のすきまを探しながらだな、ふむ。
ものすごい「真実」に今日気がついてしまったのかもしれない。
人間の救いは、自分のすがたを自分で見(ら)れないことにある。
もしかしてぼくってものすごい感じが悪い人じゃないのかなあ。
バイト中の自分のすがたはできるだけ見たくない。
時給850円で変なエプロンをつけて働く自分は正視できない。
トイレでも絶対に自分のすがたを見ないようにしている。
休憩室にある鏡もうっかり目にしないように細心の注意を払っている。
どれだけ自分が好きで、そして嫌いなのだろう。

例のあいさつさえできないバイト先のスキンヘッドのカリヤくん。
今日さ、階段で「カリヤくん、おはよう」と声をかけた。
「おはよう」とあいさつに応じてくれるのではないか。
これで怖くなったこともある。
派遣で入ったときから、カリヤはキ◯◯◯ではないかと思っていた。
そのカリヤからあいさつを返されるなんて、いったいぼくはどれほど?
もしかしたらカリヤよりもぼくのほうがよほど質が悪いのではないか?
感じが悪いというか、がらが悪いというか、キ◯◯◯じみているというか。

バイト先には感じのいい社員さんばかりだから続いているのかもしれない。
わたしより2歳上の、あの人の感じのよさは異常だ。
やはり子育てをすると人格を磨かれるという山田太一氏の指摘は「正しい」のか。
「わたしとおなじ年代のパートの人はいませんか?」
ロッカールームでその大好きな社員さんに昨日聞いた。
意味合いとしては女もふくめてだったのだが、
社員さんは男限定で答えるという常識をお持ちだった。
お答えは「いない」とのこと。
このため、みなさんから怖がられているのだと思いたい。
うさんくさいインテリ臭なんか放っていませんよね、ぼく……。

「カリヤとかサトウ(入庫)とか、あいさつもしないし感じ悪いですよね」
人の悪口が大好きな人格低劣なぼくである。
そのときに気づいたのだ。
「ああ、わたしもあの人たちとおなじくらい感じが悪いのかもしれません」
社員さんは笑顔を崩さず(「おまえが言うな!」に気づきましたですます)。
「◯◯さんは感じがいいですよね」
「――」
「わたし、ここに入ったとき、こんな感じがいい人がいるのかと驚きました」
「それがぼくのモットーですから」
いい職場にめぐりあえたのかもしれないなあ。

べつにあいさつをするのが「正しい」と思っているわけではない。
もしかしたら育ちとあいさつは関係しているのかもしれない。
むかしプチ山登りに凝ったことがあった。
人の行かないようなところばかり選んでいた。
登山者同士のアウトドア的なあいさつがうざいからだ(それでもしていた)。
一度高尾山近辺に行った。平日なのに人が大勢いるので驚いた。
基本的にあいさつをする人だが、
いかにもあいさつが嫌いなような人を見かけたら、わたしも相手に合わせた。

根本的にはべつにあいさつなんかしなくてもいいと思う。
ただわたしはあなたが好きだし良好な関係を持ちたいからあいさつをしてしまう。
わたしもあいさつをしない人がバイト先でいる。
誤ピックの多いインド人の女でものすごい偉そうで大嫌いだ。
こちらが入ったばかりのころ、作業中のオリコンを蹴っ飛ばされたことがある。
あいつは嫌いだ。だから、あいさつしない。それもまた「正しい」と思う。
コンドウさんは好きだけれど、話しかけてくんなと言われたからあいさつはしない。
自分のことを好きな人を嫌うというのは心理的にわからなくもない。
月曜日、病院帰りに新宿紀伊國屋書店本店におもむく。
久しぶりの新刊書店のような気がする。
バイト先の書籍雑誌物流倉庫で見かけた新刊がちらほらあって複雑な気分。
五木寛之の「親鸞」はくそ重くて、ちょっとだけ出したけれど不愉快だったなあ。
むかしは作家と編集者と書店員が本をまわしているのだと思っていた。
でもじつは製本会社や物流会社も欠かさざるべき存在であることを知ったわけだ。
いまあこがれの「本の仕事」をしているのだから喜ばなきゃ。

でも、実際どれだけ社会貢献しているのか。
愛社精神たっぷりだからネットで調べられる限界まで調べたことがある。
バイト先は東京圏から大阪方面へ書籍や雑誌を出荷しているらしい。
で、帰りの空いたトラックに返本を詰め込んで持ち帰ってくるとのこと。
もしかしたら正確ではないかもしれないけれどさ。
送り先には全国各地あるから間違っているのかもしれない。

いちおう、そういうふうなネット記事を見た記憶がある。
しかしだ、ぶっちゃけいまは本なんてほとんど売れないわけでしょ?
みなさん、本なんて新刊で買って読んでいますか?
そうだとすると、なにをしているのかって話なんだよね。
大量に売れない本や雑誌を出荷して、売れないまま持ち帰ってくる。
それって無駄じゃん、とも言えなくもないわけで。

バイト先では慣れもありめったに破損はしない。
むかしから本ばかり読んできたのだから本は手になじんでいる。
まじめだから本の破損を発見したときはすぐさま社員さんに報告している。
小声でつぶやくと破損本ってどうなんだろう?
どうせ出荷しても売れないで返ってくることを考えると破損本って?
岩波書店とかの例外以外は書店買い切りではないことを考えると破損本は?
ちょっとだけ本の世界を知っていること、挨拶ができること、
日本語(敬語や裏読みふくむ)ができること、以上がわたしのパート先での長所。
かなり日本語が熟達した外国人でも、日本人の本音と建前はわかりにくいはず。

ありがたくもいただいたお給金で久々に新刊本を購入しました。
「絶望名人カフカの人生論」(カフカ/頭木弘樹編訳/新潮文庫)←山田太一氏推薦(笑)
「秘密と友情」(春日武彦・穂村弘/新潮文庫)
これらの作者や編集者よりも出荷した人に思いを馳せてしまうバイト人生。
区の健康診断の結果が出たので聞いたら、肝臓こみでまだぜんぶまあ大丈夫だった。
わたしくらいの年齢になったら摂生していても難病になる人もいるのにふしぎ。
人生ってつくづく運だよなあ。
「うん、またあした」(日比野宏/凱風社)

→エッセイつきのアジア写真集。正確にはたぶんアジア人笑顔写真集。
どうして(日本人ならぬ)アジアの人の笑顔ってこんなにすてきなんだろう。
たぶん自然から笑っているようなところがあるからだと思う。
わが国のように笑顔のマニュアルのようなものがあって、
それを真似して笑っているわけではないところがいいのだろう。
笑ってと言われて笑う笑顔にはなんの輝きもないのかもしれない。
自然にどうしようもなく出てきた笑顔ほど美しいものはないのではないか。
ねらわない。人生でねらわないことを考えてみたらどうだろうか。
たとえば、旅はどこか目的地があって行なうものだとされている。
しかし、名カメラマンでもある著者の流儀は――。

「初めての土地では、僕はクジでも引くように適当なバスに乗ってみる。
とんでもないところへ行ってしまったら、むしろ喜ぶべきだ。
そのとんでもないところへは、自分が意図すると行けないからだ」(P88)


わたしも数少ないながら著者とおなじように、
海外旅行先でデタラメのバスに「えいや!」と運まかせに乗ったことがある。
もしかしたらそれが旅なのかもしれない。
もしかしたらそれが人生なのかもしれない。
老いたわたしはいまや人生でどこに行きたいという目的地のようなものはない。
強いて行きたいところをあげれば「とんでもないところ」へ行きたい。
自分がまったく意図していなかったような「とんでもないところ」へ行きたい。
そこでいままで自分が知らなかったような笑顔と出会いたい。
まったく想像もしていなかったような人と出会いたい。
いままでの人生がそうだったから、これからもそうなるような気がしている。
「とんでもないところ」へ行けるような錯覚を本書を読んで強めることができた。
いい本だった。本当にいい本だった。

「ツキを呼ぶ言葉」(桜井章一/角川書店)

→運がいいことに(え?)国籍多様な百人以上が働く書籍倉庫でバイトをしている。
仕事上、いろんな人とわずかながら接することができるのがこの仕事の楽しさだ。
国籍性別年代多様な人と関わり合うとわかるのが、運のよさ悪さである。
どうしようもなくその人のツキが見えてしまう。
いままでいっぱい努力をしてきただろうがツキに恵まれなかった人もいる。
この人はツキがあるのではないかと微笑みかけたくなるような人もいる。
日本人女性と結婚してモロッコから来た人なんてツキの輝きに卒倒しそうになった。
いったいツキってなんなのだろうか。
人間の努力なんていうものを吹き飛ばすのがツキのパワーである。
ツキさえあれば、ため息ばかりつく老人にならずに済む。
いまのバイト先で学んだ人間相とツキの関係から、
自分は運がいいと錯覚しているわたしが「正しい」と思ったことを抜粋する。
どういう人にツキは来るのか。ツキが来そうなのか。
あまり努力をしない人である。
ある意味で、自分で考え決定するのを放棄した人にツキは来るのではないか。
受賞歴ゼロで自称麻雀最強のベストラー作家、雀鬼は口を開く。

「現に私などは自分の人生のいろいろなことを
「決めない」で過ごしてきたという印象が強い。
麻雀との関わりだって、自分はこれで行こうと決めたわけではない。
なんとなく関わりができて、
なんとなくそこからいろいろな流れができたというにすぎない。
「決めない」、「決められない」ということには、
それはそれでさまざまな可能性を孕(はら)んでいるのであり、
だからこそ人生は豊かで面白くなるのである」(P87)


「人生どうしようか?」などと迷うのは意識である。
「わたしはなにか?」と迷うのは自意識である。
思い切って意識を手放してしまったらどうなるのだろう。
自己決定権を放棄する。なるようになれ。なるようにしかならん。どうにでもなりやがれ。
すなわち、意識ならぬものを信じる。

「麻雀に限らず、何事も無意識にすると一番上手くいく。
とくにスポーツなどはそうだ。
飛んでくるボールや相手の攻撃に縦横無尽に対応するのは、
無意識に身を委(ゆだ)ねていなければできない話だ。
「生」の自然な流れは、無意識にある。
自分という生命を上手に流していくコツは、
結局無意識にどれほど自分を預けられるかなのだ」(P35)


無意識に身を委ねるとはどういうことか? 意識を捨てるとはどういうことか?
意識は常に損得勘定ばかりしている。
意識を捨てるとは、得をしたい、損をしたくないという下心を捨てることなのかもしれない。
あるときの損が得の要因になるということはいくらでもある。
あるときの得がじつは莫大な損の要因だったと悟る経営者も少なくないだろう。
ものごとをなるべく損得で見ないようにするとツキが来るのではないか。
いまは大きな損害となっている対象がいつ巨大な利得に化けるかはだれにもわからない。
いまのリーダーがじつは業界のガンであることが将来明らかになることもないとは言えまい。
計算するのをやめてみたらどうだろう? 
ビジネスパーソンには難しかろうが、目先の損得勘定を捨ててみたらどうなるか?

たとえば企業の生産性のようなものは、
決して計算式であらわせるようなものではないのかもしれない。
あるツキを持ったパートがひとり入ってくるだけでいくらでも変わりうる可能性もある。
ツキや運は計算式(現代科学)であらわせないからこそ価値があるのではないか。
どうしてだかツキや運を持った人がいる。
おそらく、その人は目先の計算をしない人だろう。
常識(損得勘定)をどこかで捨てた人ではないかと思う。
ツキ評論家で雀鬼の桜井章一もおそらくそう思っているのではないか。
目先を計算をやめよう。
こいつに逆らったら損だからと威張っている先輩に従うのもいいが、
この人は嫌いだなと自分の気持に正直になるのもそれほど悪くないのかもしれない。

「仕事や生活には必要な計算はもちろんいっぱいあるだろうが、
欲がからむような計算は可能な限り外してみる。
計算しないことで人生の展開はきっと変わってくるはずだ」(P173)


会社の生産性(損得)をいくら考えても、あなたの人生とは関係ないのかもしれない。
損得じゃなくつきあえるのが、本当の家族や友人、恋人かもしれない。
生産性を追い求める行為は、あるいはもっともツキを逃がす愚行なのかもしれない。

「河合隼雄を読む」(講談社)

心理療法家の河合隼雄のだいいちの才能はシンパをつくることだったのではないか。
言い方を換えれば、敵をつくらない。
どんな人とも表面上は仲良くできる。
どんな人にもいい面があり、そこを好きになることができる才能を河合隼雄は有していた。
本書は河合隼雄存命時に出版された氏のヨイショ本である。
各界の著名人が河合隼雄がいかに偉いかの寄稿をしている。
河合隼雄の主張にひとつに「絶対的真理はない(かもしれない)」
というものがある。もし「正しい」ものがないのなら、多数派が「正しい」ことになる。
ならば、シンパを多くつくることがいちばん学問的に「正しい」ことにならないか。
本書で著名人が河合隼雄の権威(偉さ)の証明をしているが、
また同時に彼(女)ら有名人の権威(偉さ)も河合隼雄に依存しているのである。
河合隼雄は本当のところ偉くない、と言ってしまったら権威の輪から外れてしまう。
あらゆる意味で河合隼雄は世界(正しくは世間かしら)
の構造を知ってしまった「怖い人」だったのだと思う。

本書のヨイショ記事はどれも建前で意味不明な自分語りのようなものが多い。
みんな河合隼雄ににらまれたら、
なにかが終わりかねないということを無意識に察知していたのだと思う。
本書のヨイショ記事はどれも退屈だった。
河合隼雄がどれほど「怖い人」かがわかったくらいである。
各人が引用している河合隼雄の言葉がやはりいちばん輝いている。
孫引き(再引用)させていただこう。
おそらく河合隼雄はシンパは多くいたが、
本当に心を許せる親友はひとりもいなかったのではないか。
なぜなら、人は秘密を共有することで親友になるけれど、
河合隼雄はだれにも話せないクライエントの秘密をいくつもかかえていたからである。

「他人の判断やイデオロギーに頼ることなく、
われわれが何が正しいかを判断しようとするとき、途方もない困難に出会う
しかしその困難に自らの存在を懸けてぶつかってゆくことこそが人生だと、
ケストナーは言いたいのだ」(P88)


本当はだれよりも河合隼雄自身が言いたかったことだろう。
他人の判断やイデオロギーに頼るな。
あなた自身で何が「正しい」か判断してみようとしてください。
そのとき途方もない困難にぶつかるだろう。
しかし、その困難に自らの存在を懸けてぶつかってゆくことが人生だ。
そう河合隼雄は声を大にして言いたかった。
だから、不登校の児童にも心理療法家の河合隼雄はなにもしなかった。

「このようなときに、一番大切なことは、それを尊重して『待つ』ことであろう。
ときが来れば必ず出てくるし、そのときの遅れなど必ず取り返せるのである。
ただ、その間に希望を失わずに待つことは難しいことである。
しかし、それが一番いい『処方箋』なのである」(P175)


あなたがいま学校に行きたくないのなら、
それはあなたにとって「正しい」のだろうと河合隼雄は
クライエントの「私」を尊重したのだろう。
なにが「正しい」のかわからないことを深くどこまでも信じていた。
社会的成功者の言葉を「正しい」ものとして
朝礼で説教するような上司と河合隼雄は正反対のところにいた。
いまのあなたが「正しい」のである。
いまあなたが学校へ行かないのは「正しい」。
行かなきゃならないとどこかで思っているのも「正しい」。
優等生がある日急に学校に行きたくなくなるのも「正しい」。
河合隼雄は人間というものをどのように見ていたのか。

「矛盾したままで、うまいこと良い加減に生きているというのが普通の人間です」(P184)

「われわれは非常に矛盾的存在ですから、
自立と依存を良い加減なところでミックスさせて、
良い加減で生きているわけです」(P184)


刑務所の看守のように威張って「さぼるなよ」と低時給パートを威圧して歩く
若いバイトリーダーがおしゃべりをしても仕事をさぼっても、まあいいのだろう。
書籍倉庫バイトで、新人が本の立ち読みをしていたらきつく注意する古株パートばばあが
自分は立ち読みを好き勝手にするのも、まあ、そんなものなのだろう。
「正しい」ことなどなにもなく、人間は矛盾した存在なのだとしたら、
あなたやわたしがすべきことは威張っている人と表面上はシンパのように接して
すいすいと河合隼雄のようにうまくやることなのかもしれない。
そういう生き方では親友はできないかもしれないが、ひとつの生き方として「正しい」。
ただし河合隼雄はたぶん人に助言や忠告をしたがるタイプの人間ではなかった。
河合は「私」がどこまでも(無意識の奥まで)「正しい」ことを知っていた。
わたしの「私」が「正しい」ということは、あなたの「私」もまた「正しい」ということである。


昭和48年(くっくっく、若者はいつだかわからないだろう、へへーん)に放送された
山田太一ドラマ「同棲時代」をジェイコムにて録画視聴する。
山田太一が手がける最後の原作もの(漫画)になったらしい。
山田太一ファンのわたしは、シナリオではかつて二度ほど読んだことがある。
まあ山田太一さんのことだから原作をほとんど改変しているのだと思う。
おおむかしのドラマを見てふと思った。

孤独を克服するのは恋愛ではないか?

ドラマは孤独な男女がさみしさから恋愛関係にいたり同棲、結婚する話である。
リアリストの山田太一は恋愛なるものを疑う視線を当然持ち合わせている。
山田太一は恋愛を信じていながら信じていないところがある。
ふたつの矛盾をそのままに答えを出さぬままでいられる強さを有している。
割合給料のいい旅行会社に非正規で勤めるヒロインの独白(ナレーション)から。

「ろくろく知らない次郎のことが頭から消えないのは、
私が孤独だったからかもしれなかった。
沢山の人とのつき合いがあったら、次郎のことなど忘れているにちがいない。
あんなに小さな出逢いが、これほど忘れられないのは、
私が多分孤独すぎるからなのだろう。
それともこんな気持を恋というのだろうか」


女の人はみんなきれいなのである。
どうせだれも読んでいないブログだから好き勝手に自分のことを書く。
かつていち時期、山田太一の衣鉢を継ぐのはおれしかいない、
と壮大な勘違いをしてシナリオ・コンクールに応募しまくったことがある。
すべて落選してやる気がなくなって、行き詰って落ちぶれて、
なんだか自分でもよくわからないままにいま時給850円の書籍倉庫で働いている。
いや、正しくはご温情でありがたくも雇っていただいている。
百人以上働いている職場なのでずっとだれがだれだかよくわからなかったけれど、
半年が経ってようやく人の顔の区別がつくようになってきた。
ラッキーなのかどうか、女性比率の高い書籍ピッキングに配置されることが多い。
さまざまな年代、国籍の女の人がいるが、みんなきれいなのである。
どの人にもそれぞれの美しさがあって(一部例外あり)、へえといま感心している。
うっかりすると「きれいですね」と不穏なことを言ってしまいかねないところがある。
油断してベトナム人女子ふたりに思わず言ってしまったことさえある。
時給850円のためか、男女ともに専業バイトはあまり自信のない人が多いような気がする。
自信がない人の魅力にひかれて、このバイトを続けているのかもしれない。
ものすごく傲慢な話に聞こえるかもしれないが、
「あなたはきれいなんだからもっと自信を持ってください。
あなたの美しさをわたしは知っています」と声をかけたい人がいくらでもいる。

わたしは恋愛のネガティブな面ばかりに目が行っていたようなところがある。
恋愛は男女がお互いをコントロールしあう不自由なものだ。
いちゃいちゃしているのって周囲に見せつけているみたいで不快だ。
しかし、恋愛にもまたいい面があることを山田太一ドラマ「同棲時代」に教わる。
孤独を乗り越えるのは恋愛なのかもしれない(むろん唯一方法ではない)。
人間を変えられるのは恋愛なのかもしれない(むろん唯一方法ではない)。
孤独は悪いことばかりではないし変化がいいものばかりとはかぎらないが、
ならばおなじ理屈で通俗恋愛もそうバカにするものではないのかもしれない。
極めて通俗的に知り合い寝た男女ふたりの会話をシナリオ雑誌から抜粋する。
イラストレーターを目指す次郎(沢田研二)、旅行会社に勤める今日子(梶芽衣子)――。

◯次郎の部屋
   なるべく裸体に近い姿のラブシーン
   音楽で美しく
   ―O・L―
   事後、二人、動かないで、天井を見ている、
   音楽の余韻、長く尾をひいて、沈黙。
次郎「今日子、この間、もっとぼくに威ばれって言ったよな」
今日子「(息のように)うん」
次郎「自分を小さく思いすぎてるって言ったな」
今日子「(うなずく)」
次郎「その通りだよ」
今日子「ううん、私、次郎みたいに、本当にやりたいことを持ってる人、好き。
 はじめて逢ったわ」
次郎「ぼくは卑屈すぎる時がある。自分で自分がとても嫌な時がある。
 でも、そうしなきゃ生きて行けないなんて思い込んでいたんだ」
今日子「きっとそうなのよ。私は、世の中、知らないから、 
 えらそうなこと言ったんだわ」
次郎「そうじゃない。今日子に言われた時、ドキンとしたんだ」
今日子「はずかしいわ。私も、時々、とても卑屈よ」
次郎「(今日子を見て)そう(ちょっと髪にキスする)」
今日子「――」
次郎「卑屈な気持になったら、今日子を思い出す」
今日子「私も次郎を思い出す」
次郎「(抱きしめる)」


直後、今日子のナレーションで脚本家はこの会話の意味を
知的レベルの低い視聴者のためにわかりやすく説明する。
圧倒的多数派のバカを相手にしていることに作者はむかしから敏感だったのだろう。

「私は、次郎といると、自分が少しずつ成長していくような気がした。
 次郎も、自信が湧くといった」


だれかを世界にたったひとりだけの唯一存在としてお互いに認め合う。
そのことがどれほど自分に自信を持たせるか、成長させるか、伸ばすことになるか。
あなたはもっと威ばってもいい、卑屈になるな。
わたしにはそう伝えたい人がたくさんいるが、これは恋愛なのかどうか。
もうおっさんの身としては若い男女のとりもちくらいできたらという気分だ。
縁談を持ってくるお節介ばばあみたいな中年男性になってしまったようで、
自分で自分が嫌になる。嫌になっちゃうなあ、もう。
たったひとりの読者がほしいよなあ。
たったひとりでいいから百人以上いるバイト先のパート仲間にこのブログを読んでほしい。
なぜなら、きっとゲラゲラ笑えると思うから。
あのいかにも人生がフィニッシュしたようなおっさんは内心こんなことを考えていたのかと。
きんもいおっさんにも内面のようなものがあるのを発見して、
まだ将来ある若者に腹をかかえてお笑いいただきたいという欲望がある。
実際のこちらの外面を知っている人がこのブログを目にしたら
クスクス笑いがとまらないような気がする。笑ってほしいんですよ。笑え、笑え、笑え。

書籍物流倉庫のバイト先にカリヤという嫌われものがいるのである。
わたしも嫌われているだろうがカリヤよりはぜったいにましだ。
カリヤは男で齢は、まあわたしよりは下だろう。
ハゲを隠すためにスキンヘッドにしている。
サイボーグのようなやつで笑わないどころか、だれともあいさつさえしない。
社員さんとすれ違ったときでさえあいさつしないのだから、
その孤高主義はあっぱれとも言えなくはない。
わたしはここに派遣できたときからカリヤが大嫌いだった。
たまに言葉を発するのだが命令口調でとにかくむかつく。
正直な話、カッターで刺してやろうかと思ったことも何度かあるくらいだ。

今日はライン(流れ作業)で久しぶりにカリヤの横に入れられた。
ここでカリヤの外貌をご存じの人がいらしたら、どれほど楽しめるか。
カリヤというのは無表情でとにかく気味が悪いほど怖いやつなのである。
今日は箱が2600だからどうせすぐに帰される。
ぶっちゃけ、休んでいいなら休みたいくらいだ。横は大嫌いなカリヤ。
気づくと、仕掛けていた。裏にはけっこうな自信がある。
こういう大人数が働く倉庫では、最後には人間力になる。
あいさつや雑談を通して、たとえ表面だけでもどれだけシンパをつくれるか。
いまのわたしはひとりぼっちではあるが、まあカリヤよりは人とうまくやれている。

わたし「カリヤくんはどうしてあいさつしないの?」
カリヤ「(無視)」
わたし「カリヤくんはどうしてあいさつしないの?」
カリヤ「(無視)」
わたし「カリヤくんはどうしてあいさつしないの?」
カリヤ「しているよ」

いや、本当はまったくしていない(できないのだが)。
カリヤくんともども暇な間口だったから、彼のことをガン見(凝視)した。
不良用語で言えば、ほぼガンを売ったという状態である。
一瞬目を合わせたのちカリヤくんはこちらをまったく見返さないのである。
人と人は目を合わせたときに勝負が決まることがある。
わたしはバイト先輩の彼を「ふーん」と見下したからカリヤくん呼ばわりできるのだろう。
こいつも大勢この職場にいる自分に自信がないやつのひとりかと気づいた。
そうしたら、こんなバカにしたようなことをカリヤに言っていた。
カリヤを知っている人が聞いたら大爆笑すること請け合いなのだが。
「カリヤくんは日本人なの?」
「……日本人だよ」

またさあ、カリヤくんがミスをするんだ。
彼は力強くボタンを押すからレーンを壊して外れさせてしまった。
どうするんだろうとニヤニヤ見ていたら、カリヤくん、
壊したレーンを片手に健気に書籍ピッキングを継続している。
これを笑うなというのが無理な話である。
結局、カリヤは自分が壊したレーンを強引にくっつけてなにもないような顔をしていた。
そう言えば、ここに入った当初に本を破損したとき、
カリヤくんから偉そうに指摘されて恥ずかしい思いをしたことがあったなあ。
いいかい、カリヤくん、人はミスをするもんなんだよ。
18時に仕事が終わったときに、これは無意識だろう。
自分でもそんな意地悪なことをしようとはまったく思っていなかった。
「カリヤくん、お疲れさまです」と声をかけていた。
だれにもあいさつしないカリヤくんは、いっぱい感情のこもった目でこちらを見た。
あの人の目を見(ら)れない、笑うこともできない孤高を気取っているカリヤが、である。
憎々しげに彼は「お疲れさまです」と言葉を返してきた。
3825円しか稼げなかったけれども、今日はそれほど悪い日ではなかったのかもしれない。
まったくアクセス数は増えていないけれど、
バイト日記シリーズはけっこうおもしろいのではありませんか?
定期閲覧者が10人いるかわからないブログでこんな自慢をしちゃいけないのでしょうが。
木曜日、ああ、やはりバイト先のみなさまから嫌われていたことが判明する。
わたしがいつものように孤独感や寂寥感たっぷりに休憩室にひとりぼっちで座っていると、
いつもふたりぼっちの超古株の男性Iさんの声が聞こえてきた。
洗顔ペーパー(?)で顔を拭いていたわたしのことを話している。
「(あの人は)みんなから悪口を言われているから(汚れるため)顔を拭いているんだよ」
世界が壊れるような感じが一瞬だけして、まあ、そんなものだよねとすぐに思い直した。
人の悪口ほどおもしろいものはない。
ならば、どうしてわたしだけがその対象から逃れられようか。
あはっ、わたしはやっぱりパート仲間のみなさまから悪口を言われ続けていたのかあ。
原因はいくつも思い当り、それはどうしようもなく治せないものばかりだ。
悪口を言われるのはもうどうしようもないとあきらめる。

正直者のIさんが帰宅するようなのでけっこうな大声で遠くにいる彼に話しかける。
「Iさん、お疲れさまでした」
びくっとしたIさん、かわいいなあ。むろん、この人を嫌いなわけではない。
どうしたら時給850円で競馬をできるのか今度質問したいくらいだ。
この職場では本当にいじめや嫌がらせのようなものがないので驚いていた。
このたび悪口が横行していると耳にして、ふむふむ、それなら健全だと安堵した。
「憎まれっ子世に憚る」の意味はわかりますか?
世界地図でベトナムはどこにあるか指せますか?
こういうオーラが無意識に出ているから悪口の対象になるのかもしれない。
ええ、はい、悪口OK! 
人の悪口ほどおもしろいものはないのだから、そのサカナになれたことが光栄です♪
ベトナムってもしかしたらすごい国じゃないのかなあ。
バイト先で仕事が早く終わったので(それはそれで嬉しくないこともない)
ジェイコムで録画していた
アカデミー賞受賞ドキュメンタリー作品の「ハーツ・アンド・マインド」を視聴する。
ベトナム戦争を取り扱った映像作品である。
改めてベトナムのすごさを思い知らされる。
われわれ日本人はアメリカに学べ、でずっとやってきた。
それはそれでいい一時期もあったのだろうが、
いま明らかに行き詰っている。だから、ベトナムである。
これはバイト先での実体験(←そんなもん人それぞれだろう?)
から学んだことだが、ベトナム人はかなり優秀ではないだろうか。
能力の差に驚いたことが何度もある。
まだ入って間もないベトナム女子のほうがわたしよりも書籍ピッキングがうまかった。
こちらが数ヶ月働いて会得したことを
ベトナムっ子はわずか1週間程度で身につけている。
これを言っちゃおしまいだが、単純作業ではあるのではありますが。
ベトナムっ子はそこまで理解しているから、さぼるときはさぼるのではないか。
半年以上、850円多国籍軍として活躍(暗躍?)してきたが、
国籍としていちばん光っているのは疑いようもなくベトナムである。
この子たちの輝きはなんなんだろうといまでも不思議である。
なんでベトナム人はわたしよりもはるかに仕事ができるのか
(べつにバイトで評価されたいとはさらさら思っておりませんが)。
いまさらわたくしごときが言うのもあれだが、
これからベトナムの時代が来るような気がしてならない。
ベトナム人はすごい。
脚本家の山田太一さんの最新お芝居に「心細い日のサングラス」というものがあった。
迷ったすえ、7000円だったか(いまの日給)を払って観にいった。
去年のことだったと思う。そのお芝居で笑わない青年というのが登場した。
このパートの青年をどう笑わせるかが芝居の主軸になっていたような気がする。
そのときわたしはこれは芝居の設定だと思っていた。
笑わない人なんていないだろうが、虚構のお芝居の設定としてはありだろう。
いろいろ行き詰っていま時給850円の倉庫に非正規で雇っていただいている。
気づくと、笑わない男性がいるいる。いまぱっと思いついただけで5人もいる。
そのうち挨拶さえしないのが3人。
山田太一さんは、あのお芝居を取材したうえで書いたのだろうか。
本当にまったく笑わない(笑えない)人が存在するのを知っていたのかどうかだ。
果たして想像力なのか取材の成果なのか。
まったく笑わない人というのは本当に怖い。
しかし、いまのバイト先では変化が微妙に感じられる。
すこしまえだがずっと笑わなかったNさんがわたしのほうを見てちらっと笑ったような気がした。
もちろん、笑ったほうがいいとも思わないし、笑わせたいとも思っていない。
ただわたしはこの職場の人の笑顔に何度も救われたことがあるのは事実だ。
おっさんはよく知らないけれど、
最近若者のあいだで「努力したら報われる」の嘘がものすごいスピードで
ばれつつあるような気がする。
なかには、でも少なくとも努力をしなかったら絶対に報われないだろう、
といまだ日本宗教・努力教の洗脳から抜けられないものもいるようだ。
いやね、ぽろっと「本当のこと」を言うと、努力しなくても報われることっていくらでもあるよ。
それを言ったらなにかが壊れてしまいそうな気がして、みんな言わないだけで。
努力なんてしなくても報われること、あるでしょ? 
ないんなら、お気の毒さま、あなたは運が悪いの。
いや、まだ運を使っていないということかもしれないから、
これからいいことがいっぱいある。そう信じて。「本当のこと」だから。
みんな書かないけれど(わたしも書けない)、
努力とは関係なしに幸運に恵まれることって人生であるよねえ。
そう思えるのは、運がいいからかもしれないけれど。
わたしなんかがこんないい思いをしていいの? って思ったことはありませんか?
ならそれは運が悪いの。努力不足とか、そんなんじゃない、ないない。
大丈夫。これから運がよくなるから。大丈夫、絶対大丈夫。
いったいこれから人生どうしたらいいんだろうなあ。
こういうふうに迷うのはなぜかといったら、
人生は自力でどうにかできるという学校やマスコミ(人によっては会社)
から植えつけられたイリュージョン(幻想/嘘)を信じているからになるのだろう。
ひょっとしたら、ではなく、大いにありうることだが、人間はほとんどまったく無力かもしれない。
どうあがいても人は人生をコントロールできないのかもしれない。
そうだとしたら心理学的には治療対象とされる「学習性無力感」、
すなわち完全無気力状態は本来ならば人間としてもっとも「正しい」すがたになるのだろう。
むかしの貧農とかは疑いもなくいまでいう「学習性無力感」状態だったわけでしょう?
貧しい農民として生まれたら一生朝から晩まで農作業をして搾取され、
いわゆる現代風の「いいこと」はなにもなく死んでいく。
ある人のセリフだけれども、虫のように生まれ虫のように死んでいく、虫けら人生。
むかしから大多数の人間の人生は虫と変わらないようなものだったのかもしれない。
しかし、いまは「がんばれば報われる」という嘘が真実として広く流布されているから、
わたしのように人生どうしよう、なんて愚かにも悩むものが出現するのかもしれない。

そうそう、最近すごい嬉しいことがあったんだ。
むかしお世話になった派遣会社のAさんが電話をしてくれたこと。
もうその会社とは契約終了しているから、仕事の話ではなく、いわばプライベート。
「最近、どうしていますか?」っていう。
「おかげさまで」とむかしたいへんお世話になったときの感謝を伝えた。
「次は正社員ですね」とか励ましてくれた。
わずか3分にも満たない会話だったけれども、
こちらが純情なのか飛び上がるくらい嬉しかったなあ。
ビジネス以外でだれかが自分のことを気遣ってくれるなんてあるんだねえ。
わたしにとってもAさんは忘れられない人だったから本当に感激した。
きっとむかしの虫のような貧農も、
こういったわずかな人間交流を支えに虫けらのような人生をまっとうしたのかもしれない。
「人生どうしたらいい?」なんて考えることはまったくなく。

「学習性無力感」は人として極めて「正しい」状態と考えたらどうだろう?
しかし、むかしの虫けら人間でもときに笑うことはあったでしょう?
人生はコントロールできるものではなく99%無力だとしても人は笑うことはできる。
だとしたら、人生どうしたらいいか? の答えは笑おうになるのかもしれない。
どのみちどうあがいても人生は変わらないかもしれないけれど、
にもかかわらず、ではなく、だからこそ笑おう、泣こう、怒ろう、そしてあきらめよう。
無力な人間のせめてなしうるのが笑ったり、泣いたり、怒ったりすることなのではないか。
そのとき、だれかが横にいてくれたら、どんなに心安らぐことだろう。
家族というのは、このために存在するのかもしれない。
ただ一緒にいる、それができるのはよほどの親友や恋人以外は家族にかぎられる。
どうしようもない孤独な人間は、
観音さまや仏さまイエス・キリストにおすがりするのだろう。
いまや国民病のうつの最大原因をひとつあげろと言われたら向上心じゃないかなあ。
向上しなければならないと思うから、うつ病が忍び寄ってくるのかもしれない。
べつにそのまんまでも、まあ当分はいいじゃないか、と思えたらどれほど楽になるか。
向上心の上とは、つまり上下を意識することである。
下の人をバカにする(差別する)人はたいてい向上心とやらの持ち主である。
いったい向上心を持ったからといって、どう人生が変わるというのか?
いくら心持を変えたところで人生はどうにもならない部分が多い。
一般的に向上心はプラスとされているけれど、
生きづらい人はおのれの向上心を捨てればいいだけなのかもしれない。
無知ゆえ向上心も差別心もない自然な微笑みほど美しいものはないと思う。
人は自分ができないことをする人に尊敬の念をいだく。
最近、バイト先に台湾出身のOさんという社員待遇らしい若年男性が入った。
最初は緊張のためだろう。肩をいからせているところがあった。
一回ライン(流れ作業)で隣に入ったらOさんはとんでもなくすごいのである。
ものすごい量の重い本をひとりで出すばかりではなく、
こちらの間口も助けてくれた。これですっかりOさんを好きになった。
台湾にむかし行ったことがあるのも影響しているのかもしれない。
あんな重い本を大量にひとりで不満そうな顔もせずに箱に入れるOさんは偉い。
なぜなら、おなじことがわたしにはできないからである。
自分ができないことをする人はもしかしたら偉いのかもしれない。
大勢のパートがいる職場ではこうしてひとりずつシンパをつくっていくしかないのかもしれない。
わたしはOさんの味方だ。やつはできる。おれは認めましたよ。
いまコピーを取っておいた「雇用契約書」を見たら笑っちゃった。
ちっとも契約なんて守られていないわ。
めんどくさいから訴えたりしないけれど、世の中ってほんとめちゃくちゃでおもしろいね。
ああ、こんな契約を交わしていたんだと思った。更新もしたけれども。
お互いおかたいことは言わないという(たとえばインドのような)
カオスなところがこの職場の魅力かもしれない。
わたしもえんえんと仕事中にベトナム人やインド人(その他)と
くっちゃべっていたこともあるし(ほんの数回ですよ)。
社員さんはすべて見逃してくれていたし、こちらの思い込みかもしれないが、
あえて私語を誘うような配置を1時間限定でしてくれたこともあるし。
お互いさまでこちらのシフト希望も「雇用契約書」とまったく違っていたや、えへっ。
契約とか西洋流の「正しい」考えはわたしにはありません。
適量の書籍ピッキングは楽しいなあ。
外国人とほんのちょっとだけ私語を交わしても契約にはありませんがお見逃しください。
わたしも「正しい」ことは言わないようにしますから。
――とだれにも伝わらないメッセージを虚空に向けて放つ「文化の日」。
根が仕事人間なのかなあ(えええ?)。
日曜日だというのに仕事のことばかり考えていた。
生意気にも時給850円のパートのぶんざいで。
いま書籍・雑誌の物流倉庫でありがたくも雇っていただいている。
まともな定職をお持ちのみなさまには信じられないかもしれないが、
こういう倉庫では仕事が終わりしだい「帰ってくれ」と言われてしまう。
「◯時~◯時」の定時労働ではないのである。
労基に触れるのか知らないが(あえて調べていません)、
契約上の労働時間、仕事内容を履行していない。
しかし、まあ現実はどこもそんなもんだと思うし、
わたしもふくめてみんなそうだと割り切って仕方がないと働いているのではないか。

マネージャー(責任者)さんの仕事は生産性の向上である。
「生産性」というとなんだかビジネス用語っぽいが要は「急がせる」ということだ。
しかし、われわれパートにとっては急げば急ぐほど早く帰らされて稼ぎが少なくなってしまう。
これは社員さんもわかっていてパートミーティングのときに
この矛盾を正直に誠実にお話になっていた。
旦那が会社員のような安定した収入がある古株女性パートは、
社員さんの口真似で「急げ急げ」と後輩や新入りに偉そうに発破をかけるのかもしれない。
しかし、このパートで生活しているものは、
みんなが全力投球してスピードアップしてしまうと死活問題になってしまうのである。
生活できなくなるものが出て来てしまう。
いつ栄養失調で死んでしまうものが現われても不思議はない。

一度高い数値を出してしまうと、それが基準になってしまうのである。
バイト先は下請けだから上の会社から、もっと早くできるだろうと言われかねない。
その数値を出すのでさえ限界だったのに、毎日限界を求められるようになってしまう。
ひとりひとりの肉体的負担も多くなるのに時給は変わらない。日給は減るばかり。
お互いに注意・監視しあうようになり人間関係がギスギスして精神的負担も増える。
パートは社員さんを恨むようになるだろうし、
そういう負の感情はかならず伝わるから社員の健康をむしばむに違いない。
そうだとしたら、いったいどうしてそこまで過剰に
生産性(速度)を追求しなければならないのだろう。だれが幸福になっている?
ほどほどで手を打ちながらやったほうがよほどみなのためにいいのではないか。

金曜日はけっこうヘビーな間口(持ち場)を振られた。
最近気づいたが、出す書籍の量も大事だが、なにより重い本がしんどいのだ。
重い本を600冊出すのに比べたら文庫1500冊のほうが楽かもしれない。
文字通りヘビーな間口である(年齢のせいか今日もまだ両肩が痛い)。
このため、どうしようもなくライン(流れ作業)でいちばんわたしが遅くなることがある。
もう半年も勤めているから、わたしは左右を見ながら本を箱に入れる。
みんな目を合わそうとしない。
「早くしろ」とも思っていないだろう。
むしろ、本音ではもっとゆっくりやってくれと思っているのかもしれない。
ひとりの古株女性パートの非難がましい視線と目線がぶつかった。
もしかしたらそれは被害妄想で、
本当は「大変ですね」という同情の視線だったのかもしれない(きっとそうだ!)。
しかし、被害妄想が強いこちらは「早くしろ」という意味だと受け取った。

「え? それは違うでしょう?
あなたがこの間口だったら、男のわたしよりも早くやれますか?
それにわたしがこうして時間を使っているからあなたも稼げているわけですよね?
それにあなたは旦那が定収入をお持ちのパートでしょう?
わたしも女に生まれたかったなあ。
ピックをあんまり早くしたら破損をするし、身体を壊しかねません。
そういう非難がましい説教的視線はおやめください」
そう目線で申し上げたら、以降こちらをまったくご覧にならなくなった。
目は口ほどにものを言うから、たぶん通じたのだと思う。

この職場では、もっと新入りをたいせつにしなくてはならないのかもしれない。
新人さんがゆっくりやってくれるからわれわれパートの稼ぎが安定するのだから。
急がせたら新入りさんもあせって辛いだろうし破損も増えるだろう。
書籍ピッキングはみんな落ち着いて自分のペースでやればいいのではないか。
がんばればがんばるほど専業バイトの生活を困窮させてしまう面がある。
短時間パートやダブルワークはきれいごとを言えるだろうが専業はどうだろう?
マネージャーさんは委託会社とパートの板挟みでいちばんお辛い立場だと思う。

金曜日は20時くらいまでかかるのではないかという予想もあったが、
どうしてかみんな異常なほどまじめで18時半に終わってしまった。
すると社員さんは職務上やむをえなくパートさんに帰ってくれと言わなければならばならない。
ある女性パートさんの「あたし、19時まで帰りませんよ」という悲痛な言葉が胸に突き刺さった。
気持が痛いほどわかった。
どうして一生懸命やった結果として稼ぎが減らなくてはならないのか?
ふつう一生懸命がんばったら収入が増えるのが常識というものではないか?
わたしは30分なにもしないで立っていて425円よりは帰宅を選んだ。
社員さんもきっつくねえか。
わたしが社員だったら相手の気持を考えて「帰ってください」とは言いづらい。
言えるだろうが、そんなことをしているとそのうち心が病むだろう。
人からの恨みというものはじわじわと心をむしばむものなのである。
しかし、社員さんも職務上、生産性を追求しなければならない。
こんな汚れ仕事はほかの社員にやってもらいたいというのが本音かもしれない。

いまも偉そうなことはまったく言えないが、入った当初は本当にピッキングでミスをした。
たぶん倉庫最高記録の誤ピックを出したのはわたしだと思う、えっへん♪
ミス(誤ピック/数え間違い)を調べる検品という係りがいるのである。
いつもあたまが上がらなくて申し訳なく思っていた。
しかし、男性ふたりに聞いたらふたりとも「気にしなくていいですよ」とおっしゃる。
最近、理由がわかった。
ミスがゼロになると彼らの仕事がなくなってしまい時間を持て余してしまうのである。
ほどほどにミスがあったほうがいい、とも言えなくはないのである。
いろいろな国籍、性別(男女だけではないですぞ!)、年代の人が働いている。
そこがこの職場の魅力だろう。いろんな人がいてそれでいいのだろう。
やたら仕事が早い人、丁寧な人(遅い人)、
おしゃべりする人がいても歌う人がいてもいい(いるんだよ!)。
お互いに注意しあって監視しあう職場など刑務所以下ではないか。
いろんな人がいてよろしい。
笑わない人がいてもいい。おしゃべりばかりする人がいてもいい。
なぜなら、きっとそれで全体としてうまくいっているのだから。
完全を求めるとだれかの心が病まないともかぎらない。
「正しい」働き方などなく、それぞれがそれぞれの流儀で働けばいいのではないか。
いちバイトとして日曜日にそんなことを思った。「源氏物語」を読むあいまに。