今日の会話――。
ベトナム人女子との会話。
わたし「不平等って言葉の意味はわかる?」
女子「フビョウドウ?」
わたし「そう」
女子「不平等、わかります」
わたし「人間って不平等だよねえ」
女子「???」
ごめんなさい、無意識で聞いてしまいました。
この子は向上心があるような気がするからかもしれない。

階段でむかし仕事を教わった勝手にファンの男性に。
わたし「××さん」
男性「なに?(いい笑顔)」
わたし「わたし、向上心が目覚めてきたんです」
男性「それ、どういいうこと? ですか」
わたし「このままじゃいけない。このままじゃいけないってことです」
男性「え、どういうこと、ですか?(むろん、わかっておられる)」

自分を向上させたい、高めたいという気分が急にむくむく込み上げてきた。
しかし、向上心のないのもまたいいのである。
このバイト先に入ったとき、とても癒されたあるベトナム人女子の笑顔がある。
いま思えばそれは野生的とでもいうような、まったく向上心のない自然な微笑みだった。
向上心があるということは、下の人を差別する気持に通じる。
向上心など持つから人は人をバカにするとも言いうる。
今日ふいに向上心が目覚めてしまった。まったく困ったものである。
1960年公開の名作映画「おとうと」をジェイコムで録画視聴する。
キネマ旬報ベストワン、監督賞受賞作品。山田太一氏推薦作品でもある。
脚本の水木洋子の「おかあさん」がとても好きだったからたいそう期待して見たら、うーん。
ちょっとあたまの弱そうな弟が結核になって死ぬまでを見守るお姉さんが美しい。
しかし、物語としてドラマとしてこれがおもしろいのかと聞かれると、うーん。
最後のほうは不謹慎なことを考えていた。早く弟くん死んでくれないかなあ。
結局、「人のため」に生きる人は美しいという道徳映画でもあるような気がするのだが。
この映画を理解できないと書いたら、どこぞの先生に怒られるのかもしれない。
「人の気持を考えろよ!」
どうして? なんて質問したらビンタを喰らうかもしれない。
なぜなら「思いやりは美しい」からだ。

最初のほうに岸惠子が万引きの疑いで捕まるシーンがあるのだが、
あれは絶対に身体検査と称して気位の高そうな女を全裸にすべきだった。
このシーンだけはだれがなんと言おうと絶対にそうしたほうがよかったと思う。
女優は監督のため、観客のために衣服を一枚ずつ脱ぐべきだった。
基本的に俳優や女優という人たちは「自分のため」に生きている自分勝手な人が多いはず。
そういうエゴイスト美男美女が映画やドラマでは
「人のため」に生きる人間を熱演するのだから、その現実と虚構のギャップがおもしろい。

「自分のため」に生きているほど俳優や女優はその輝きを増すのだから不思議なものである。
エゴのない人たちはエゴの強い人をかならずつぶそうとするから、
それにもめげずにエゴを通す人には常人にはない孤独の美がそなわるのだろう。
孤独はひとりぼっちという側面から見るとみじめったらしいが、
一方で孤独をつらぬき通した結果として生じる美しさもないわけではないと思う。
とはいえ、容姿端麗ではないひとりぼっちがその美を獲得するのは難しかろうが――。

シナリオでは二度読んでいる作品を有料放送ジェイコムで録画視聴する。
愛妻を病気で亡くした男が半年もしないうちに亡妻の親友の女性と結ばれる話だ。
まあ、人間そんなもんだ、人生こんなもんさ、という山田太一らしい現実的なドラマだ。
山田太一ドラマの法則として、アポなし訪問というものがある。
このドラマでも美女が「日曜日になんだかさみしくなって」とやもめに会いに行く。
われわれはアポなし訪問なんてめったにやらないが、
それは山田太一ドラマのお約束だから難癖をつけるのはドラマを知らないものだ。

テレビドラマは多くの生活者が見ているから、こういうドラマは刺激的なのだろう。
たとえば夫婦でドラマを見ていたとしたらどうだ。
ドラマで妻が死んだときに悲しむ夫を見て、夫婦はお互いの顔を見ざるをえない。
自分が死んだらこの人はどのくらい悲しんでくれるのだろうかと。
結局、ちゃんと会社勤めして結婚して子育てをするのが
人間の「正しい」生き方なのだろう。
ちゃんとした会社に勤め、ちゃんとした嫁をもらい、ちゃんとした子どもを育てる。
それがまっとうな人間の生き方なのだろう。

このドラマの美女は婚約者までいたのに、死んだ親友の元夫と結婚してしまう。
どうしてそちらを選んだのか「恋愛力」の弱いわたしにはよくわからなかった。
だが、本人たちもよくわからないでするのが恋愛や結婚なのかもしれないと思うとき、
ドラマ「それからの冬」は男女の関係をうまく描いていると言えるのかもしれない。
結婚したってどうせさみしいのだろうが、独身よりはまだましなのかもしれない。
そう思わなければ結婚生活なんて継続できないのかもしれない。
断定を避けたのは当方に結婚経験がないからである。

人間は生き方から考え方、ささいなドラマ感想まで、
なにからなにまで「私」の宿命のようなものから逃れられないのかもしれない。
ひとりぼっちの「私」をそれぞれがそれぞれに生きるとき、
他者の小さな微笑みやいたわりがどれほど支えになるかを孤独なドラマ作者はよく知っていた。
むろん、小さな嫉妬、小さな不満、小さな意地悪の彩りにも作者は敏感だった。
1966年に公開された32歳の山田太一が脚本を書いた映画である。
後期の活躍が華々しいため遅咲きの作家のような気がしていたが、
氏はじゃっかん32歳でもうこんなご立派なご活躍なされていたのか。
施設出身の男女が大人になってから再会し、それぞれの立場を乗り越え結ばれる話だ。
少女のほうはどうしようもなくクズの父親の面倒を見ながらシナそば屋で働く。
母から完全に捨てられた青年のほうはうまく瀬戸物問屋の養子におさまり将来有望だ。
青年にはシナそば屋の少女よりもはるかに格上の縁談が続々持ち込まれている。
ありがちと言われたらそれまでだが(恋愛ドラマなんてみんなこのパターンだが)、
好きになっちゃいけないふたりが恋に落ちたのである。
映画作品は要約するためのものではないが、
あえてするならばふたつの気持の葛藤がテーマだろう。
自分のために生きるのかいいのか。それとも他人(家族)のために生きるのがいいのか。

青年がおなじ施設にいたシナそば屋の少女と結婚したら、
大恩ある養父母を裏切ることになってしまう。
私設を出てから少女はずっとアル中ドカタの父親のために生きてきたのである。
今後も親のために生きるのが正しいのか、それとも自分のために生きるべきなのか。
瀬戸物屋の養父母としたら自分たちのためには息子に家柄のいい嫁をもらってほしい。
しかし、本当に息子のことを考えたらば息子の好きな子と結婚させてやるべきだ。
いかにもメロドラマらしいセリフを(正確ではないが)いくつか採取する。

「困っているときは相身互いよ」
「苦労してだんだん強くなったのね」
「たかがシナそば屋の女の子じゃない」
「好きになっちゃいけないのよ」
「周りの人の身になることを考えなさい」
「先生(←女)ね、自分のためにはもう十分生きた。これからは人のために生きたい。
そう考えて施設で12年子どもたちのお世話をしているの」
「自分の心配をしろよ」
「いい人だって好きだって、お父さんみたいのがいちゃどうしようもないじゃないの」
「あたし、お父さんからも離れてひとりぼっちね」
「立派に生きようとしているんだもん」
「会わないほうがあの子のため」
「幸せですか……よかった」
「遠くからあなたのことを思ってくれる人がいるって素晴らしいことじゃない?」
「かけがえのない人とこのまま別れてしまっていいの?
先生ね、あなたが立派に生きようとしてさみしい人になってしまうのが怖いの」


人のために生きるのが美徳という価値観がむかしはいまよりも強かったのかもしれない。
子は親のために生きる。親は子の幸せをまず考える。
自分のために生きて(駆け落ち!)みんなを不幸にした結果、
人のために生きたいと捨て子のための施設で働く女の先生はなにやら象徴的である。
その先生が最後にかつての教え子に「自分たちのため」に生きなさい、と語りかける。
なぜなら、自分のように立派に生きようとするとさみしい人になってしまうからである。
32歳のころから山田太一は「ひとりぼっちのさみしさ」に敏感だったことがよくわかる。

生活する――。家族や会社のために生きる――。
家族のためだけに生きて子どもを大学に行かせるだけでもきっととても偉いことなのだろう。
その子どもが親の期待に背いて就職をせずに変な夢を追い出したときの落胆はいかほどか。
しかし、本当の子どものためを考えたら、どちらがいいのかわからないけれど、それでも。
わたしは自分のためにばかり生きてきたような自分勝手なところがあるから、
映画のなかの人物たちそれぞれがみんな人の気持ばかり考えるのが新鮮だった。
とはいえ、人のために生きたら絶対にそれでいいのかどうかは結局のところわからない。
32歳の山田太一は2人の娘(当時)を抱えて家族のために生きていたのだろう。
80歳のいま複数のお孫さんに恵まれ、
山田太一さんは自分の人生これでよかったと思っているのだろうか。
わたしは自分のために生きてきた結果としてひとりぼっちのさみしい人間になってしまった。
しかし、多くの家族に恵まれ社会的にも成功した山田太一さんは、
もしかしたらわたしなどよりはるかにひとりぼっちのさみしい孤独な人なのかもしれない。
そんなことを自分が生まれる10年まえの映画を観て思った。
根がぐうたらなので半年もおなじところに勤務したのはすごい久しぶりのような気がする。
いまのところに勤めて気づいたのは、
ものすごいセンチメンタルで感傷的だけれど、それぞれ人間は美しいってことである。
こんな多くの人間の働く書籍倉庫でこの自分が働くことになるとはまさか思わなかった。
こんな世界があるとはまったく知らなかった。
本というものは著者と出版社と書店員がやりとりしているものだと愚かにも思っていた。
こんな世界があったのかあ。
国籍もさまざまな人たちがわずか時給850円で
本好きのために著者と読者のあいだをとりもってくれている。
わたしもその一員になれたことを誇らしく思ったことさえある。
で、時給850円の人たちを見ていると、それぞれがそれぞれに美しいのである。
ああ、こんな人生があったのかと本ばかり購買者として読んできた
世間知らずのわたしは打ち震えた。
毎日書籍を全国に出荷してくださっているこの人たちは本を読まない。
それもまた衝撃的だった。
こんな世界があるんだ。こんな人たちがいるんだ。おかげで本が読めるんだ。
まこと偽善的だが、それぞれの美しさに参ってしまうことが何度もあった。
あるいはプライベートで逢ったら、その輝きは失われてしまうのかもしれないが、
ここの人たちはそれぞれ独特の魅力があった。
それは履歴書には絶対に書けないものだが、わたしはそれを知っている。
こんなことを書くと明日辞めそうな雰囲気だが、むろんそういう意味ではない。
しかし、毎日明日辞めてもいいと思って働いているのもまた事実である。
この百人以上の人のなかで、わたしと関わり合う人はいるのだろうか。
いや、もうたっぷりつきあっている。
わたしはそれぞれの人のそれぞれのときの姿にどれほど影響を受けたか。
今朝は背中が痛くて起き上がれなくて、危うく遅刻するところだった。
もうおっさんだからひたすら重いものを運び続けていると翌日にすぐ身体に出て来てしまう。
こんなブログを書いているとおかしい人に思われるかもしれないけれど、
人としてはいたってまじめで当たり前の話をすると無遅刻、無欠勤パーフェクト。
文章のわたしと実物のわたしのどちらが本物のなのかという問題があるけれど、
見たままのいかにもダメそうなひとりぼっちの気配ぷんぷんのすがたがたぶん真実だと思う。
ブログプロフィールを書き直さないとなあ。
むかしはよく知らない人から話しかけられたんだけれど、いまはぜんぜんまったく。
知らないあいだに変わってしまったのかもしれない。

いろんな人が働いているからいまのバイト先はおもしろい。
オリコンに黙々と本を入れ続ける人間を完全にダメにしそうな作業がある。
そのときにまえにネパール人の若者が来たので話しかけてみた。
おっと、やべえ!
こんなことを実名ブログで書くと仕事中に私語をしていることがばれてしまうかもしれないのか。
しかしさ、百人以上働いている倉庫でだれが人のフルネームを覚えるか?
わたしは絶対に社員さんにこのブログがばれていないほうに賭ける。
よしんば一瞬見ても、だれもこんなアクセス数の少ないブログを継続して見ないだろう。
なにより肝心なことは――。
尊敬する小林秀雄賞作家の山田太一さんが繰り返しおっしゃっていることだけれど、
人間なんてものは他人にそうそう関心を持たないというのが真実だと思う。

ポカラ出身のネパールの若い男の子とほんのちょっぴりだけおしゃべりする。
わたしがネパールのルンビニー(ブッダの生誕地)に行ったことがあると言ったら、
こちらに関心を持ってくれたようだ。
留学生で新大久保の日本語学校へ通っている。
日本に来てもう1年以上になるらしい。英語も話せるというから優秀だ。
そうそう、一時期この職場の公用語は英語にすればいいと思ったことがある。
何度かベトナム人に日本語で話しかけても通じないから英語で話しかけたことがある。
ところが、英語も通じないのである。
もう辞めちゃった子だけれども、ある気に入ったベトナム人男子に日本語も英語も通じないとき、
最後の手で中国語で話しかけたこともあるがそれでも通じなかった。

話はぽんぽん飛ぶが、今日ピッキング中にベトナム人女子と社員さんが話しているのを聞いた。
たしかこの子はもう1年以上も日本にいるのではないか。
書籍の「入門」を指してどういう意味かと聞く。
「にゅうもん」「はじめるっていうこと」と果たして正解なのか疑わしい(ごめんなさい!)
答えを社員さんがしていた。いま調べてみたら正解でした。
さすがサブマネージャーだけのことはありますなあ。
しっかしさ、1年も日本に留学していて「入門」もわからないって、それどういうこと?
バイトで身体が疲れるのはわかるけれどもっと勉強しないと。
積極的に日本人に話しかけていろいろ聞かないとダメじゃん。
パートのわたしだったら暇だからいろいろ教えてあげられるし、
見かけは愚鈍っぽいけれどいちおう大学は出ているんだけど、
そういうことは言えないしなあ。
(中卒の西村賢太さんが大嫌いな、そして東大卒の小谷野敦さんがバカにする早稲田)
ベトナム人の子と話していると、みんなけっこうプライドが高いのね。
あたしはベトナムで大学を出ていますから、って感じ。
ベトナム人女子のそういう気高いところ、とても素敵だと思う。

話を今日のネパール人男子Gくんとの会話に戻す。
わたし「日本人のことでなにかわからないことはありますか?」
Gくん「まったくわかりません。日本人の友達は一人もいないので」
わたし「――」
Gくん「学校の韓国人とネパール人だけ」
わたし「(打たれて)そうなの」
Gくん「そうです」
わたし「わたしでよければ、なにかわからないことがあったら聞いてね」
Gくん「ありがとうございます」

そうか。そんなもんなのかあ。でも、これって本当のことなんだよね。
バイト先の休憩時間にはそれぞれ国籍ごとにわかれてばらばらに座っている。
日本人だけはわたしのようなひとりぼっちが多いのはリアルでしょう。
たとえばベトナム人の子は男女ふくめてみんな固まって仲良さげにしゃべっている。
けれども、そのうちのひとりの子に聞いたことがある。
「友達は××さんだけ」
日本人だってなかなか友達になんてなれないんだから、
やっぱりベトナム人でもそうなのかと驚くと同時に安心した。
しかし、ひとりぼっちに見られたくないから固まって仲良さそうにしているのだろう。
同語反復みたいなもんだけれど、現実ってリアルだよねえ。

もうこのバイト先にありがたくも雇っていただいてから半年になるのか。
外国人と友達になれるかもって思ったけれど、結局半年も経っても無理かあ。
やっぱり仕事からプライベートまでの壁って高いのかしら。
自分から誘おうと思ったことは何度もあるけれど、変な人に思われるんじゃないかって。
ベトナムでベトナム人は気さくにこちらに話しかけてくれて、いろいろしてくれたのに。
日本人というのはどうしようもなくこういうシャイなところがあるのかもしれない。
そっかあ。あのネパール人のGくんも日本人はよくわからないのか。
日本語学校とバイト先の往復だけじゃ、そりゃそうだよね。それが現実か。
どうして人間ってみんなひとりぼっちなのに、こうまで人とうまくつきあえないのだろう。

いつまでここのバイト先にいられるかもわからない。
威張っている古参バイト女性に怒ってから全体の風向きが変わったのをびんびん感じる。
今日ある社員さんに「お聞き及びでしょうが」と質問してみた。
「謝ったほうがいいんでしょうか。××さんがあいだに入ってくださるのなら謝ります」
また履歴書を何枚も書くのかって思うとうんざりするしなあ。
やはり波風を立てないほうがよかったのだろう。
ここの社員さんとパートさんを見ていて思うのは、コミュニケーション能力の差。
社員さんはやっぱり他人とコミュニケーションを取るのがうまい。
だってさ、考えてもくださいよ。わたしなんかを半年間もうまく使ってくれたわけですよ。
いったい明日からどうなるんだろう。
まあ、なにが起こるかわからないからおもしろい、とも言いうる。
明日、失業者になっていたりしたらいやだけど、
それが将来的に善か悪かはだれにもわからない。
「図解雑学 倫理」(鷲田小彌太/ナツメ社)

→常に説教くさい不愉快極まりない本だった。
著者はあらゆる問題に「正しい」ひとつの答えが存在すると信じ、
そのうえで自分はその「正しい」答えを知っているか、あるいは近づいていると驕っている。
実際はくだらないモラリストなのに自分は自由な思考をしていると思っているようだ。
たとえば、じゃあ、死刑問題。死刑は廃止したほうがいいのか?
こういう小論文の問題のようなものが倫理の扱うテーマらしい。
ちなみに死刑問題へのわたしの答えは「どっちでもいいんじゃないっすか?」だ。
身近に死刑囚や犯罪被害者遺族がいたら、そのときはじめて考えに重みが生まれるだろう。
切実さのないところでいかにお受験小論文的に問題に答えてもそれは空々しい。
援助交際(売春)問題についてもそうだ。
わたしは関係ないから、取り締まろうが放置しようが興味がない。
強いて言うならば、まあ、みんなやりたいようにやればいいんじゃないですか、だ。
ところが、こういう態度は倫理的になっていないと著者から説教を食らうのだろう。
しかし著者よ、自分の娘が援助交際をした、自分のクラスの女子が援助交際をした、
こういう事実の重みのないところで問題を論じてもそれは机上の空論ではないか。
なんでも「正しい」答えを自信たっぷりに語る著者によると、
自殺者の増加は自立力の低下と依存症の強まりが原因らしい。
こんな机上の答えを、事実のリアルな重みに苦しむ自死遺族が読んだらどれほど苦しむか。
わたしはどんな社会問題にも口を出して「正しい」ことを言いたがる著者のような男が嫌いだ。
人間が本当に語るべきことはもっと少ないし、語り口はもっと切実だと思う。
著者はなにかを舐めているとしか思えない。

「お経 禅宗」(桜井秀雄・ 鎌田茂雄/講談社)

→禅宗も観音経(法華経の一部)を読誦するみたいだね。
もしかしたら日本人全般にいちばん普遍的に親しまれうるお経は観音経かもしれない。
むろんトップは般若心経だろうけれど、ふたつはどちらとも観音さまの教えである。
観音信仰というのは、日本人にとってもっとも親しみ深いものなのかもしれない。
ふつう観音経は偈(詩)の部分だけ唱えるのだが本書には全文が掲載されている。
ひさしぶりに観音経を全文一字一句精読してみて、あれれと気づいたことがある。
浄土宗の法然は唐の善導という坊さんが書いた「観経疏」の一文をヒントにして
専修念仏(念仏のみで救われる)を思いついた、ということに公式的にはなっている。
しかし、それは嘘じゃないかあ。
法然は観音経から念仏救済(南無阿弥陀仏)の方法を盗んだのではなかろうか。
具体的には、こういうところである。

「一心称観世音菩薩名号」(P37)
(一心に観世音菩薩の名号を称すべし)

「南無観世音菩薩。称其名故。即得解脱」(P38)
(南無観世音菩薩と言わんに、其の名を称するが故に、即ち解脱することを得ん)

「若有衆生。恭敬礼拝観世音菩薩。福不唐捐。
是故衆生。皆応受持観世音菩薩名号」(P42)
(若し衆生有りて、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福唐捐(えん)ならじ。
是の故に衆生、皆応(まさ)に観世音菩薩の名号を受持すべし)


ちなみに観世音菩薩(観音菩薩、観音さま)は、
阿弥陀如来(阿弥陀仏)の子分みたいなものである。
観音菩薩は阿弥陀仏の指示でこの世にいるわれわれ凡夫を救いに来ているらしい。
ならば、南無阿弥陀仏と観音経(法華経)の南無観世音菩薩はおなじ意味にならないか。
そして、日蓮が説いたのが南無妙法蓮華経である。
日蓮はもし法華経(観音経)を正確に読解していたら、
南無観世音菩薩と言っていたのではないか。
少なくとも南無妙法蓮華経は法華経に書いてないが南無観世音菩薩は記述されている。
おそらく怒りっぽい日蓮大聖人様も「南無妙法蓮華経=南無観世音菩薩」に
そこまで反対されなかったのではないかと思う。
とすれば、南無阿弥陀仏は南無観世音菩薩とほぼ等しいのだから――。

☆「南無妙法蓮華経=南無観世音菩薩=南無阿弥陀仏」

まさかまさかのこれを言っても、それほど間違いではないことにはならないだろうか?
はっきり言って、わたしのなかでは南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もおなじである。
そうそう、人気作家の瀬戸内寂聴氏は観音信仰者で南無観世音菩薩と唱えているそうだ。
三つのうちどれを唱えても意味はおなじだとしたら、
おなじ仏教者同士で喧嘩する必要がなくなる。

さて観世音菩薩(観音さま)はどうして娑婆(しゃば)世界にやってきたのか。
もちろん、法を説くためであり、われわれ凡夫をお救いくださるためなのだが、
観音さまはじつのところもうひとつの理由があってこの世にいらしているのである。

「遊此娑婆世界」(P49)

観音さまはこの娑婆世界に遊びにきていらっしゃるのでもある。
創価学会二代目会長の戸田城聖はおもしろいやつで、
博打的投機人かつ山師で女好きのアルコール中毒、つまり快楽主義者だったらしいが、
ときおり自分はこの世に観世音菩薩のように遊びにきたのだとうそぶいていたという。
わたしは創価学会とはなんの関係もないが戸田城聖はおもしろいと思う(名誉会長よりも)。
さて、話を戻して、観世音菩薩はどのようにしてわれわれを救うかの説明がおもしろい。
観音さまはいろいろなものに姿を変えてわれわれをお救いくださるという。
ときには阿修羅(犯罪者)や売女(ばいた/娼婦)、障害児、鬼上司に姿を変えて
われわれをお救いくださるという。
もしかしたら、あなたの配偶者や友人、子どもは観音さまの化身かもしれない。
それどころか、あなたの大嫌いな上司、大嫌いな同僚も
いろいろな縁のしがらみのなかであなたを救うためにいる観音菩薩の化身なのかもしれない。
ならば、あなたやわたしも観世音菩薩の化身という可能性も考えられる。
繰り返すが、観音さまはなんのために娑婆にやってきたのか?
1.説法、2.救済、3.遊ぶ――。われわれはもっと遊んでもいいのかもしれない。

禅宗のお経の本なのに観音経の話ばかりしてしまった。禅の話をしよう。
「修証義」というのは明治時代に曹洞宗が出した布教のための案内書である。
まえに読んだときは大したことはないと不遜にも思ったが、
このたび読み返すとなかなかいいことも書いてあるではないか。

「愚人謂(おも)わくは利他を先とせば自らが利省かれぶべしと、
爾(しか)には非(あら)ざるなり。利行は一方なり」(P130)


バカな人は利他(他人のため)をしたら自分の利益が少なくなると思う。
しかしそうではなく、「他人のため」と「自分のため」はおなじことである。
まあ、きれいごとと言ってしまえばそれまでだが一理ないこともない。
みんなけっこう「自分のため」に「他人のため」のことをしているような気がする。
そして、「自分のため」にしていることが
結果的に「他人のため」になっていることも少なくないのではないか。
「自分のため」に「他人のため」にする親切は偽善がない人間のかなりよろしい行動だ。
「自分のため」しか考えていないやつも正直でわかりやすくそれはそれでよい。
あんまり明確にこれは「自分のため」、
あれは「他人のため」と区別しないほうがいいのかもしれない。

曹洞宗の布教パンフレットが上記に紹介した「修証義」である。
これに対して臨済宗のおなじような布教パンフレットが「宗門安心章」らしい。
せっかく読んだのだから心に残ったところを書き写しておくのも悪くないだろう。

「たまたま信心おこせども、自心仏と知らざれば、ただ徒(いたず)らに狂奔し、
傍家波々地に、仏を求め、法を求めて止むときなし。憐れというも愚かなり」(P176)


どこかに「正しい」情報や成功マニュアルがあるのではないかと狂奔するのではなく、
わが心の奥底にこそ仏が眠っていることを信じて自分で考えようという意味だと思う。
仏法もだれかから教わるものではなく、自分で気がつくものなのだろう。
だれかに「正しい」説教や指導を求めるのではなく、自心こそ仏よと信じて生きていくしかない。

「病不自信の所にあり」(P185)

迷いは自信がないから生じるって、まあ当たり前のことだよなあ。
どうしたら自信が生まれるのか。
仏はどこかほかにいるのではなくわが心にいると気づくしかないだろう。
自分は他人には決してなれなく、それぞれがそれぞれおのれの道を行くしかないが、
しかし観音さまのような存在がきっと付き添ってくれているのだからそう不安になることはない。
自信がありすぎる人も不愉快だけれど、自信がなさすぎる人も見ていて痛々しくなる。
他人なんかどうせ自分を愛してくれないんだから、自分が自分を愛するしかないのだけれど。
よしんば他人が自分を愛してくれるとしたら、
それは当人が自身を愛しているからにほかならない。
自信というのは自分を信じることかあ。
もし自分の心の奥底に仏がいるとしたら、その仏さまを信じられるのかもしれない。
こんなけっこう自信たっぷりなことを書いてきたけれど、
ぼそっと白状するとわたしは自分のなかに仏なんているとはちょっと思えない。

「お経 日蓮宗」(渡辺宝陽/講談社)

→むかしは日蓮について不用意なことを書くとヤクザより怖いあの人たちから
いたずら電話や自宅訪問を受けたそうだが、
いまはもうすっかり平和になったようだから安心だ。
いきなり要点に入ろう。日蓮系の教団の肝心かなめのキモはどこにあるのか?
わたしの考えではそれは法華経の如来寿量品第十六のここである。
ようよう、おれはみんなから尊敬されているあの釈尊(釈迦)だが、おれは――。

為度衆生故(衆生を度せんが為の故に/おまえらを救ってやるために)
方便現涅槃(方便して涅槃を現ず/作戦として死んだふりをしただけで)
而実不滅度(而も実には滅度せず/しかし、実際はおれさまは死んでいない)


いったいインド人のだれがこんなことを思いついたんだろう?
いつの時代の哲学や科学をもってしても死なない人間はいないはずなのではあるが。
こういう真っ赤な嘘を堂々と自信たっぷりに演説するところが法華経のおもしろさである。
このデタラメ(真実?)をバカ正直に信じることができたから、日蓮は熱くこう語れたわけだ。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(「観心本尊抄」)


いや、ね、その、日蓮さん、たいへん申し上げにくいのですけれど、
釈尊(釈迦)と妙法蓮華経(法華経)はまったく関係ないのですけれども、お気の毒ですが。
しかし、真実は人それぞれで、人はそうであってほしいことを真実と信じるものだから、
釈尊が法華経を説き、がために南無妙法蓮華経と唱えれば功徳がある
――そう信じている人たちがたくさんいるのは善悪で裁くことのできる問題ではない。
けれども、狂信的な日蓮は善悪を自信たっぷりに語ってしまうのである。

「汝(なんじ)早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。
然れば三界は皆仏国也。仏国其れ衰ん哉(「立正安国論」)


「実乗の一善に帰せよ」はないよなあ、日蓮さん。
自分は絶対に善だとかいくら法華経を読んだからといって、そこまで言うかなあ。
だって、そんなことを言ったら、
日蓮親分やその手下以外はみんな悪になってしまうじゃないか。
実際、日蓮一派はそう思っていて悪はやっつけてもいいと乱暴狼藉をふるってきたわけだが。
日蓮グループは内ゲバもひどく、
はたから見たらガキの喧嘩のようなことをえんえんとやっている。
善を語っちゃうとかならず悪が生まれ、善を誇れば誇るほど悪を打ち負かしたくなるのだろう。
まあ、そういう生き方も退屈な日常を生きるよりもあんがい楽しいのかもしれないなあ。
毎日、自分は悪を倒すためにがんばっているとか思えたら生きる張り合いもあるだろうし。

正直、毎日みんな本当につまんなくない?
会社行って帰ってきてテレビを見て、
ニュースでまだ自分より不幸な人がいるのを見て安心する。
生きる目的もないけれど死ぬのは怖くて健康情報があれば飛びついて実践する。
こんなくっだらねえ退屈な日常を生きるよりも、
もしかしたら「実乗の一善に帰」してハッスルするほうが劇的な人生を味わえるのかも。
おれもさあ、こんな味気ない毎日にとことん愛想をつかしている。。
なーんか、劇的なことはないかなあ。
早死にする結果になってもいいから全身の血が沸き立つような行為をしてみたいなあ。
きっとこういう心のすきまにも日蓮の過激な思想が忍び寄ってくるのだろう。
自分が正義の味方になって悪と戦えたら「いい人生」になるのかもしれない。
物語としてはちょっと子供向けのような気もするけれど、いろいろな物語があってもよい。
S学会の人とか毎日「勝負」しているんでしょ(「仏法は勝負」)?
楽しそうで羨ましいけれど真似したいとは思わないんだよなあ。

ぼくはいま暫定的に「正しい」とされている現代科学よりも、
お経とかそういう宗教関係の一見するとインチキくさいもののほうが
深い真実を語っていると思っているのね。
なぜなら、科学はすべて暫定科学に過ぎないのだから。
いまの科学的な「正しい」知見も10年後や30年後には誤謬が発見されるだろう。
そうだとしたら、科学はいつまでも暫定科学で決定科学になることは未来永劫ない。

職場の人間には興味ありまくりなんだけれど、他のブログにはまったく関心がない。
定期的に購読しているブログ、掲示板は5本の指におさまるくらいである(猫猫含)。
で、その定期閲覧ブログのひとつから親しみをたっぷり込めて文章を無断引用してみよう。
作者のmmさんとはいつかどこかで会うような気がしてならない。
相手方にご迷惑をかけてはならないのでリンクは貼らない。
そのブログとはシンクロしていると言うか関心の所在がとても似ている。
少なくともわたしは彼の記事にどのくらいかは自分ではわからないが影響を受けている。
さあ、喧嘩上等、絶交上等のリンク先なしの無断引用をニコニコしながらしてみよう。

健康食品・サプリを愛用している人が、医学的根拠に無頓着な無知蒙昧とはかぎらない。むしろ半分くらいの人は、「既成の現代医学や栄養学などのほうが時代遅れなのであり、私たちこそが時代の先端を行っている」と思い込んでいたりするのだ。



なかなか意味深い文章でうなった。
わたしはこの示唆するところの多い文章を生意気にもこう改変したくなった。
それでも意味が通るのは原文の書き手がよくものをわかっているからだろう。
比較するために引用符をつけておく。

新興宗教・スピリチュアルを信じている人が、科学的根拠に無頓着な無知蒙昧とはかぎらない。むしろ半分くらいの人は、「既成の現代科学や社会理論などのほうが時代遅れなのであり、私たちこそが時代の先端を行っている」と思い込んでいたりするのだ。



ひとりぼっちではいけないと思い恐るおそる小さな声をセンパイにかけてしまいました。
怒んないでくだはい。
ぼくはどんなおかしな健康食品やサプリを服用している人も、
その人が効いていると思っているかぎり、その商品をバカにしてはいけないと思っている。
なぜなら、ぼくも怪しげな漢方薬(保険適用3割負担)をのんでいて、
それが効いていてほしいと願っているからだ。
有料放送ジェイコムにて山田太一ドラマ「縁結び」を録画視聴する。
東芝日曜劇場(=1時間もの)でわたしが生まれる2年まえに放送されたテレビドラマだ。
山田太一さんのどこにひかれかと言ったら、孤独への鋭い感受性だと思う。
こちらの勝手な想像で自己投影もあるのだろうが、
氏の孤独感は異常なほど強いのではないか。
むかし講演会でこういうことを聞いた。どこにも公的な記録には残っていない。
わたしの妄想かもしれない。
あの社交的な山田太一さんがこう言ったのね。友だちなんかできないのが当たり前。
一生でひとりでも友人ができただけでも、それはめったにない幸運ではないか。
講演会の記憶をブログに書き写しながら、これは「本当のこと」だとぶるぶる震えた。
あれは次の講演会だったかどうか記憶は定かではない。
社交家の山田太一さんがやたら「ぼくの友人の○○さんは」を連発していた。

どうなんだろう? 仕事関係で知り合った人と本当の友人になんてなれるんだろうか?
それは損得(利害関係)があるから「友だちごっこ」はするだろう。
しかし、安定したテレビ局社員演出家とフリー脚本家が友人になるなんてありえないと思う。
仕事って常に利害がつきまとうから、そういうもんじゃないのではないか。
とはいえ、仕事関係から家族になることは十分にありえることだ。
家族になるとは、正確にいえば結婚するということだ。
友人関係は(そもそも友人ってなに?)かんたんに解消できるが家族はそうは行かない。
だれかと結婚するというのは、ほとんど前世の腐れ縁なのかもしれない。
恋人関係もいつでも絶交可能だが、夫婦関係、親子関係はそうは行かない。
夫婦関係はかなりめんどうくさい離婚という作業で終焉があるけれども、
親子関係はいくら親が子を勘当しようとも生涯親は親で子は子である。

「縁結び」は縁にまつわる親子物語である。
妻を亡くした父親と、夫と別れた母親が、見合いがきっかけで結婚する話である。
そのためにそれぞれの娘と息子がひと役買う。
結局、なにが親のためになるんだろうか、という話でもある。
妻を亡くした父親のために一生世話をしてやるのが娘の「正しい」生き方なのか?
母親から依存されている息子はいったいどうしたらいいのか?
娘だって息子だってそれぞれ恋をする。結婚したい相手がいる。
このとき「自分のため」と「親(他人)のため」どちらを選択するのか「正しい」のか?
むろん、山田太一ドラマの定番で本作にも「正しい」説教のようなものはない。
「自分のため」と「他人のため」、いったいどちらのために生きるのが正解かはわからない。

ドラマを動かしたのは孤独である。
結婚するつもりなど双方まるでなく見合いをした、
どちらも成人した子を持つ高齢男女の物語だ。
女のほうが「なんだか急に会いたくなってしまって」と男に会いに行く。
おなじく孤独だった男は女のさみしさに共感してふたりは結ばれる。
わたしのドラマ解釈はデタラメばかりなので、これは誤りだろうが、
「縁結び」の正体は孤独なのかもしれない。
縁を結んでいるのはそれぞれがそれぞれどうしようもなく抱えている孤独なのかもしれない。

わたしもふたりきりで会いたい人が幾人もいるけれども、
相手のご迷惑を考えて「なんだか急に会いたくなってしまって」
と自分に正直になって会うことができない。
「もみじの季節ですね」と言われても、なら六義園にでも一緒に行きませんか?
と誘うことができない。
どうしてこうもみんながみんな孤独なのに、
だれかに「なんだか急に会いたくなってしまって」と言えないのだろう。
このためにみんなの願望を描いた山田太一ドラマは長年支持されて来たのだろう。
友人とか恋人とか仕事関係とかそういうラベリングをなしに、
このセリフを言いたい相手がわたしにも幾人もいる。

「なんだか急に会いたくなってしまって」
「よくわかるお経の本」(由木義文/講談社ことばの新書)

→日本の坊さんが行事で読み上げるお経は今年の1月に大半を固め読みした。
あれから9ヶ月経って、こちらの身辺にもいろいろあり、わずかながら読書体験も増した。
いまお経を読んだらどう思うかという好奇心から、
しかしおなじ本を再読するのは芸がないので、別の本で坊主読誦用のお経を再読する。
むろん、好奇心からだけではない。
完全に落ちぶれてしまった人生をどうにかしたいという思いがいまだあるのである。
とはいえ、どうしたら人生が好転するかまるでわからないのである。
もう自己啓発の嘘はばれかかっているでしょう?
人生はこうしたらこうなるなんていう法則は本当はないのだと思う。
人生がうまくいっている人は成功法則のようなものを得意げに語るが、
そんなものはたんに運がよかっただけじゃないか、と言うこともできないわけではない。
人生はなにがどうなっているのかさっぱりわからない。
このことに深く思い当ったときに、
ときに人は意味がよくわからないお経に目を向けるのかもしれない。
少なくともわたしはそういう思いからお経に関心を持った。
言うまでもないことだが、お経にはすべて意味がいちおうのところ存在する。
今年の1月にそれはじっくり勉強したので今回の読書は復習だから楽だった。

お経の感想を書くというのも変なものだが、いま思ったことをつらつら書き連ねてみたい。
きっとお経というのはどこまでも意味が正確にはつかめないところに意味があるのだと思う。
つまり、「わからない」ところに意味がある。
人生の究極の答え、意味は「わからない」がために、
よく「わからない」お経を唱える意味が逆説的にあるのではないだろうか。
「わからない」ことを確認するとでも言おうか。
問い、なぜお経を読むのですかか? 答え、わかりません。
じゃあ、なんでわからないことをするのか? だって、人生もよくわからないではないか。
お経のなかでいちばん退屈でつまらない意味不明なものは阿弥陀経だが、
わたしの好きな踊り念仏の一遍がもっとも愛したのが阿弥陀経である。

よくさ、大乗仏教は利他をすすめているから小乗仏教(釈迦仏教)よりもすぐれている、
という説を耳にすることはありませんか?
利他をすすめる大乗仏教は、自利だけの小乗仏教よりも偉いという論法である。
わたしもこれまでなんとなくその説が「正しい」かのような気がしていた。
しかし、あれ? とこのたび思ったのである。
小乗仏教(釈迦仏教)の自利というのは要するに「自分のため」という意味である。
これに比するならば大乗仏教の利他は「他人のため」という意味になろう。
そうだとしたら「他人のため」に生きるのはそんなに立派なのだろうか?
「自分のため」に生きるほうがはるかに困難な道なのではないか?
いまの日本で言うならば、
みんな本当のところ芸術家のように「自分のため」に孤独に生きられないわけでしょう?
そういう孤独な自己探求の道は能力ない庶民には不可能だから、
そのために「家族のため」「会社のため」「恋人のため」に生きている、と言えなくもない。
釈迦も一遍も測り知れないほど深い孤独をうちに秘めた人だったような気がする。
一方でいまの日本の職業坊主(大乗仏教)ほどうさんくさくて偽善的な存在はない。
酒を飲み女を抱く坊さんがさ、一丁前に「他人のため」に生きましょうなんて説教するんだから。
「人に親切にしましょう」「布施の心を大事にしましょう」とか虫唾が走らないか?
布施の心って意地悪な見方をしたら、うちら坊さんに金を一銭でも多く寄越せって話じゃん。
笑わせんな、大人をバカにすんなよって話だ。

浄土宗の法然というやつは実際のところそれほど大した宗教家ではなかったのではないか。
なぜなら、しょせんは「正しい」ことにこだわった秀才エリートに過ぎないからだ。
法然は専修念仏(念仏だけで救われる)の教えを説いた鎌倉新仏教の僧侶だ。
専修念仏の根拠は唐(中国)の善導という坊さんが書いた「観経疏(かんぎょうしょ)」一文だ。
本書にその一文の訳が載っているので引用する。

「一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称え、行・住・坐・臥に、
時間の長い短いを問わず、常に忘れない。これを正定業という。
というのは、これは阿弥陀仏の願にかなっているからである」(P44)


要するに、念仏は「正しい」行為だと中国の偉い坊さんが「観経疏」で言っている。
「観経疏」というのは観無量寿経というお経についての解釈である。
この観無量寿経もやたら正邪にこだわっているように読めなくもない。
たとえば、ここである。

「此(こ)の観をなすをば名づけて、正観とし、
若(も)し他観するをば、名づけて邪観とする」(P84)


なぜ「正しい」ことを言うやつが嫌いかというと、
「正しい」は「正しくない」すなわち「邪」や「邪悪」をなりゆき上つくってしまうからである。
自分は「正しい」と思っていると、だれかを「邪悪」なやつだと裁くことになろう。
正義というのは悪や邪を産み出す戦争の思想なのである。
法然は独特な仏教解釈をした秀才だが、後世に戦争の要因をつくった因業な人物でもある。
法然が念仏こそ「正しい」なぞと言わなければ、起きなかった戦争もあるのではないか。
「正しい」ことを言うやつは自分は「偉い」だのと思いがちで、その臭みが好きになれない。
ちなみに踊り念仏の一遍は、
「何(いず)れを正義とし、何れを邪義と判ずべからず」と言っている()。
このため、わたしは一遍のほうが法然よりも宗教的に深いのではないかと思っている。
とはいえ、法然が専修念仏の解釈をしなければ
一遍の踊り念仏は生まれなかったのも事実ゆえ、
坊さんと坊さんの優劣を比較することがどれほど意味のあることなのかはわからない。
しかしまあ、法然という男は死ぬ間際にも「正しい」ことを言っていやがる。
浄土宗で読む「一枚起請文」の末文にこうある。

「滅後の邪義をふせがんがために、所存を記し畢(おわんぬ)」(P204)

「自分は常に「正しい」ことを言ってきたが、
死後に間違ったことを言うやつが出てくると困るからこれを書いておくぞ」という意味だ。
より正確を期せば、そういう解釈もできなくはないという話。
しかし、そう考えると、なーんか法然さん、いやなやつじゃないかなあ。

法然の弟子に(だが一番弟子ではない)親鸞という女好きの坊さんがいる。
親鸞は教団を結成する遺志はまるでなかったが、子孫に腹黒いやつが多く、
とくに8代目だかの蓮如という悪人は権力欲が強大で、
ほとんどこの蓮如が設立したと言えるのがいまも栄える浄土真宗である。
人の考えは変わるものだから今後も変わりうるだろうが、浄土真宗ってひどくねえか?
まず浄土真宗で重んじられている「正信念仏偈」というものがある。
これはアホの親鸞が書いた意味不明の書物「教行信証」の一部である。
親鸞をアホと言ったら怒られるかもしれないが、親鸞は愚禿(ぐとく)と自称している。
自分から「わいアホでんねん」と言っているやつを、
こちらがアホと呼ぼうがバカと呼ぼうが構わぬではないか。
で、漢文をろくに読み書きできなかったらしいアホの親鸞がインテリぶって書いたのが
「教行信証」で、その中の一部を「正信念仏偈」として浄土真宗の信徒は
ありがたがって読んでいるらしい。
この「正信念仏偈」略して「正信偈」がまたひどい代物なのである。
ひと言で要約したら「肩書大合唱」のようなものである。
歴史上の高僧の名前をずらずら並びあげて、だからおれは「正しい」と言っているようなものだ。
もっと俗っぽい話に言い換えたら、よくさ、いるじゃない?
有名人と知り合いであることをやたら自慢して威張るおバカさん。
あいつと飲んだことがある、あいつとゴルフに行った、とかえんえんと語る手合いである。
浄土真宗が重んじる「正信念仏偈」はそういう俗物的ないかがわしさを有する。
でね、この「正信念仏偈」の末文がまたひどいのである。

「道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと」(P138)

これはどういう意味かわたしなりの解釈をしてみよう。
いいか、おまえら考えんなよ。
おまえらなんか足元にも及ばないような偉い人たちが言ったことなんだから、
何度でも繰り返すがおまえらは自分のあたまでなんか考える必要はないんだ。
考えるな、考えちゃいけない、
おまえらはな、盲目的におれら坊さんの言うことを信じていたらいいんだ、わかったか!
こういう意味だと解釈できないこともないのである。
一般に日本からは独創的な発見は生まれにくいというが、
それは長いあいだ浄土真宗のような奴隷養成宗教が幅をきかせていたからではないか。
「正信念仏偈」は信徒に自分のあたまで考えんな、
上の言うことには黙って従え、と言っているのである。
こんなものを毎日読んでいたらまったく自分のあたまでものを考えないバカになるだろう。
「正信念仏偈」は社員を社畜にするために毎朝声に出して読む社訓のようなものだ。
むかしわたしもある派遣先で毎日、気持悪い社訓を読んだことがあるが、
みんなあんなものは内心ではバカにしていただろうと考えると、
ならばどうしておなじような「正信念仏偈」はありがたがって読まれるのだろう。
「バッカじゃ~ん」と言ったら日本最大派閥らしい浄土真宗に怒られるのかしら。

もう人生どうなってもいいので(これを絶対他力というのだよ真宗門徒諸君!)
恐れ知らずにも本音をぶちまけると、
親鸞関係で天才と言えるのは「歎異抄」を書いた唯円だけではないか。
唯円は親鸞以上に他力思想を理解することができた親鸞の優秀な弟子である。
唯円が自分の念仏信仰を親鸞の言葉として書いたのが「歎異抄」である。
いまの言葉でいえば、唯円は親鸞のゴーストライターになるのかもしれない。
浄土真宗の重要思想は、ほとんど唯円の「歎異抄」によっているのだが、
親鸞の血族たちは手柄を横取りするために長らく唯円の存在を抹殺していた。
わたしから言わせたら、唯円は法然や親鸞など比較にならぬほどの、
踊り念仏の一遍レベルの宗教的天才ということになる。
「人を殺してもええんや」なんて書くんだから(「歎異抄」)唯円は怖すぎる。
ちなみに一遍は「自殺してもいい」と言っている。
むしろ「早く死んだほうがいい」「自殺できるならしたほうがいい」のほうが正しい解釈か。
すべては前世の宿業で決まっているならば殺人も自殺も個人に責任はないのである。
死後に極楽浄土に往けるのならば、殺人や自殺は善業になるではないか。
お経に話を戻すと、阿弥陀経は死後礼賛の本だから自殺を否定する内容ではない。
観無量寿経には自殺を肯定する以下の一文がある。

「この観を作す者は、身を他世に捨てて、諸仏のみ前に生じて、
無生忍(むしょうにん/悟り=安心立命)を得ん」(P82)


これは捨身(自殺)のすすめと読めなくもない。
この世は捨てて、少しでも早く浄土に往き諸仏にまみえたほうがいいという思想だ。
法華経にも似た表現がある(如来寿量品第十六)。

「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」(P160)

少しでも長生きしたいと効かない健康食品を
ばかすか摂取するジジイやババアはまったく法華経を理解していないと言えよう。
「不自惜身命」は命を惜しむなとも、命がけでなにかをしてみろとも解釈できる。
本書の著者は以下の現代語訳をつけている。

「ひたすら仏にお会いしたいと願い、自らの命も惜しむことがない」(P160)

うすぎたねえ浄土真宗に話を戻すと、腹黒い蓮如がひでえ文章を書いているのである。
「白骨の御文」として知られる、じつに書き手の根性の悪さがよくわかる低劣な脅迫文だ。
強く強調したいので繰り返すが、蓮如の「御文」は悪らつ姑息な脅迫文である。
内容は「あんたも明日死ぬかもしれんで、イヒヒ」である。
それから「死んだらどうなるか怖くないか、どうすんだ、おいおいおい」と続ける。
ここでストップするのだから日本史上一二を争う悪人の蓮如はずる賢い。
「うちらに金を払え」はあえて文章には書かないのだから、本当に金儲けの天才だ。
死の恐怖をあおりたてて信徒から金を奪おうという賤しい精神の結晶が「白骨の御文」である。
新興宗教の金儲けのテクニックを発明した元祖が蓮如という天才ビジネスマンだ。
本当のことを言えば(え?)、
死んだらみんな浄土に往けるのだから坊さんに一銭たりとも金を払う必要はないのである。
蓮如や親鸞など比較にならぬ天才仏教者の唯円は「歎異抄」にはっきりそう書いている。

長々とくだらぬ意見を書き連ねてきたが、最後にお経ベストワンを発表したい。
これは現在のもので将来的に変わることも大いにありうる。
じつのところ、いまいちばんいいと思うお経はむかし大嫌いだった法華経なのである。
「自我偈」とも呼ばれる法華経の「如来寿量品第十六」がベストワンだ。
このお経の内容はひと言で要約したら「嘘をついてもいい」である。
他人や自分を救うためには嘘をついてもいい。
そもそも法華経自体が釈迦とは縁もゆかりもない後代に創作されたお経である。
偽物の分際でうちらのほうが本物だと居直ったのが法華経である。
どうしてそんなことをしてもいいかと言えば、人を救うためなら「嘘も方便」なのである。
愛する子どもを救うためなら医者の父が自分は死んだと嘘をついて薬を飲ませてもいい。
法華経は嘘のかたまりと言ってよかろう。

いきなり話は飛躍するが、
西洋キリスト教は唯一絶対真理(「正しい」こと)を指向するところにその特徴がある。
このためキリスト教世界から真理を求める西洋近代科学が誕生したとも言えよう。
これに比して、はなから真理など問題にしない嘘だらけの法華経は
西洋近代思想を超越するインチキ(=嘘)パワーを内部に秘めている可能性がある。
日本人がなかなか本当のことを言わないのは法華経が根にあるからではないか。
法華経は自分こそ「正しい」と言いながら、ぜんぜん正しくないところがおもしろい。
ぬけぬけと真っ赤な嘘をおおまじめに言い放つ法華経は日本人の魂の故郷かもしれない。
法華経の内容は「嘘も方便」「嘘のすすめ」と解釈することもできよう。
大乗仏典というのはすべて嘘だが、
そのなかでも法華経は嘘の真っ赤な光彩がひときわ目立つ。
法華経が「正しい」からいいのではなく、そのインチキくささがたまらなくいいのである。
法華経を読むと現世利益があると宣伝しているのは有名新興宗教団体S学会だが、
法華経と和解したせいか、このところ周囲にいい流れが来ている気がするのである。
友人もいい仕事にありついて忙しいというし、
そのほか流れの変化を感じることがないと言ったら嘘になろう。
この調子で行けばわたしのところにも幸運が来そうだが、もちろんそれはわからない。
そうそう、法華経の一箇所にこう書いてある。
「世界の「正しい」真実はおまえらなぞにわかるはずがなく、
仏のみが知っておるんだよ、ガハハ」
それはどこかと言えば法華経の「方便品第二」のここである。

「唯(ただ)仏と仏と及(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽したまえり」(P155)

人間には「正しい」ことは「わからない」というのは、かなり「正しい」とわたしは思う。
お経を読んだらば功徳があるかどうかはわからないが、
西洋科学が絶対にないというのが「正しい」わけでもないのである。
インチキ健康食品をのんだらガンが治るケースも絶対にないわけではないと思う。
しかし、インチキ健康食品をのんだら絶対にガンが治るわけでは断じてない。
法華経はインチキ健康食品のようなものではないか。
インチキ健康食品のメリットは「治るかも」という希望が生まれることである。
わたしは「正しい」ことよりも嘘やインチキのほうを好むところがどこかにある。
あんがい観音経(法華経の一部)を毎日唱えたら福運に恵まれるかもしれない。
恵まれないかもしれないし本当のところ「正しい」ことは「わからない」。



※右の文庫本は新刊でバイト先の書籍倉庫でわたしが手ずから世に出した本である。
暇なとき立ち読みさせてもらった。その影響でこのたびお経の本を読む気になった。
みんな、本屋さんで買ってね(アマゾンでもいいけれど)♪
まえから思っていた「本当のこと」を書くとぱあっとやりたいなあ。
バイト先のベトナム人の子を数人うちに呼んで、
こちらもひとりだと怖いから日本人女性の忙しい親友に都合をつけてもらって、
ひと晩だけでいいからみんなでそれぞれの事情を忘れてぱあっとやりたいなあ。
むかしベトナムでね、なにもわたしのことを知らない人から家に招待してもらって
ベトナム家庭料理をご馳走してもらったことがある。
いまでも忘れられない感動体験だ。
こういうことはインドでもタイでもある。
中国でご馳走してもらったこともある。恩返しをしたい。
これってまったく山田太一ドラマの世界なんだよね。
ばらばらの人がいっとき関わり合って、それぞれの孤独をそれぞれに解消する。
いまYouTubeで見(ら)れる「春の一族」はその典型だと思う。
深く感動した山田太一ドラマのひとつである。

家族でも同僚でもそれぞれがそれぞれ孤独で人間はどうしようもない。
しかし、それでも人間同士の関係になにか救いがあるのではないか。
大衆作家の山田太一さんが長年にわたって描いてきた世界である。
もちろん、みんなでぱあっとやりたいなんてことが実現不可能なことはわかっている。
そういえば、いまのバイト先で花火大会のとき、職場を解放するという話を聞いた。
みんなで花火を見ようじゃないか。もちろん、ひとりぼっちのわたしは行かなかったけれど。
救いだなあ。たとえ時給850円でも、
そういうことを言えるマネジャーさんがいることも救いだし、
それに反対しない社員さんも、集ったであろうパートさんたちも救いだなあ。

人はそれぞれどうしようもない事情を抱えているが、
それでもなにか人の力になることができるのではないか。
ひとりぼっちではやりきれない。
なにも他人にはできないことをわかっていながら、それでもなにかしたいと思う。
山田太一さんが描いてきたありふれた世界である。
しかし、そのありふれた一瞬は奇跡であるかもしれない。
わたしは「ありふれた奇跡」を知っている。
書籍ピッキング(数えて箱に積む作業)やっぱりおもしれえ。
適量のピッキングは自分がロボットになったような気がして趣味として悪くない。
週に1回くらい趣味としてピッキングに来ているおにいさんもいるもんね。
要はテトリスの書籍バージョンだから、たまに遊んでいるのか働いているのかわからなくなる。
今日は9時間45分もピッキングをやったけれど(たぶん)ミスは一度もなかったと思う。
おれ、ロボットかよ!? 人間じゃないって。

ミス一覧表みたいなものが貼りだされているんだけれど、わたしは入った当初から見ていない。
こんな作業で他人と自分を比べるなんていやだから。
それに間口(持ち場)の書籍量が2倍、3倍も違うこともあるんだから、
ミスをした人がいちがいに悪いとも言い切れない。
出す量が増えたらミスが増えるのはこれはもう仕方がない。
今日たぶんミスゼロ(←一覧を見ていないから知らない)
だったのは比較的に量が少なかったから。
昨日はかなり多かったからたぶん一度ミスをしている。

ミス一覧を見ないというのは、他のパートさんにもおすすめしたい作法だ。
精神的にすごい楽だから。
わたしは隣の間口の人が本を破損したかなと気づいてもスルーする。
気づかないふりをしてあげる。それが低時給バイト同士の助け合いってもんさね。
そういえば、尊敬する芥川賞作家の西村賢太氏の本が売れてないって本当かもよ。
箱の中に新刊の「一私小説書きの日乗」(角川文庫)をちらっと見かけた。
一瞬しか見なかったから、あまり出ていなかったのではないかしら。
もう一生分稼いだってうわさだし自称破滅型だし、まあ売れなくなったのも芸になるさ。

西村賢太つながりで言えば、東大卒の「もてない男」の小谷野敦さんみたいに
他人のミスを指摘したがる人ってなんなんだろう?
あいつに勝ったとか思うんだろうか? 自分は「正しい」とか威張りたいの?
他人のミスを指摘しても感謝なんてされることはほとんどなく恨まれるだけだから。
相手のミスを指摘して勝ち誇るなんて人として品のいい行為とは思えない。
自分だってミスをするという自覚がないってそれおかしいよ。

わたしがいまのバイトでいちばん嫌いなパートのばあさんも他人のミスを指摘したがるの。
ものすごい威張りくさってさあ。
それで自分はミスをしないかっていったら、一度隣に入ったときばんばんミス出していたぜ。
あるいは、あはっ、自分でこれを言っちゃおしまいだが、
ラインでわたしの隣というのが「魔」なのかもしれない。
魔界というか。ひょっとしたら変な威圧感やオーラがあるのかもしれない。
基本的に「死にたい」とか10年以上考えていた人間だから、邪気を放っている可能性もある。
ふだんはミスをしないのにわたしの隣だと誤ピック(数え間違い)をする人、いるかも。

他人に「仕事をサボるな」って言ったら、
ぜったいに自分は常に全力投球でやらなきゃいけないわけよ。
ある社員格の若者から最近「サボるな」に近いことを言われたけれど、
それは自分で自分の首を絞めたようなものでその人は有言実行しなきゃならなくなる。
日本人に時給850円で常時全力投球を求めるのはちょっと常識がない気もするけれど。
そんなことをするからみんなすぐ辞めちゃうのかもしれない。
ある社員さんからはときどきたまーに「まあ適当にやってくださいよ」
みたいなことを言われるけれど、ならばその人は適当にやってもいいことになるが、
常に一生懸命やっているから、この人は若いのに優秀なんだなあと思う。
あんまり他人のミスは指摘しないほうがいいような気がするけれどなあ。
「正しい」お偉い学問の世界はわかりませんけれども。
今年はもうとっくに代々木公園のナマステ・インディア、終わっていたのかあ。
行き忘れちゃったや。NTR製のレトルトカレーの備蓄もほとんどもうない。
あれ、通販で買うと高いんだよねえ。困っちゃった。
そういえばナマステ・インディアは人と一緒に行ったことがない。
でも、あのインド祭りはおひとりさまの比率が高いから気にならないんだよね。
人間ってどうして孤独に見られることをこうまで恐れるんだろう(わたしもふくめて)。

風邪、引いちゃってさあ。
だけど、家でごろごろ寝てるよりも単純肉体労働バイトをしていたほうが気楽やね。
ひとりぼっち(ベトナム人女子がつけてくれたあだ名)は今日も本能おもむくまま。
あいさつ程度は交わす高齢男性バイトさんがいるんだ。
いきなりそのM氏にガチを仕掛けてみた。
書籍ピッキングの作業中にである。

わたし「一生こんなことをしているって思うといやになってきませんか?」
M氏「うちらは人生終わっちゃったからそうだけど――」
わたし「――」
M氏「(わたしの年齢をおしはかる)」
わたし「(無意識)」
M氏「(けっこう齢いっているよな?)
わたし「(無意識)」
M氏「どんな経験でも意味があるって思うんですよ」
わたし「そうですかあ(ふむふむ、そうきたか!)」

いきなりバイト同僚からこんな話を振られたら対応に困るよなあ。
「一生こんなことをしているって思うといやになってきませんか?」
受け身が取れないバックドロップ(プロレス技)みたいなもんだ。
きっとここで働くようになったのは偶然だから辞めるときも偶然なんだろうなあ。
いったいひとりぼっちの人生はどうなるんだろう、わくわく(←救い)♪。
人生って、ほんとうに思い通りにならない。
すべて前世の定業(宿業、宿命)で決まっているのではないかと思うくらいだ。
どのみちなんやかんや思いはからっても思うようにはならない。
ならば、はからわないで自然に出てきたものをたいせつにしたらどうか。
その一瞬の「とき」だけ通じる「正しい」行為があるような気がする。
そういう一瞬は毎日けっこうあるのかもしれない。
ないのかもしれないが、そう考えていたら生きる張り合いが生まれるのはたしかだろう。
笑顔でも怒気でもその一瞬の真実に賭けてみる。
できたら笑顔がいいのだろうが、きっと激怒にも価値があるような気がする。
思いはからった怒りではなく、自然に出てきたものならば憤怒でもきっと価値がある。
その場その一瞬にわけもわからずに生じた
笑い、怒り、嘆き、悲しみをもっと重んじてもいいのではないか。
この一瞬こそ自由と宿命の対立を突き抜けて、その人をその先に行かせるものだと思う。
自由があるとしたらその一瞬だ。宿命を味わうとしたらその一瞬だ。(小声で)……たぶん。
自分をたいせつにしよう。自分の笑い、昂ぶり、怒り、涙、疲れ、不満、絶望、そして希望を。
自信を持ちましょう。ほかならぬ自分自身の喜怒哀楽をたいせつにしたいもの。
大丈夫。絶対大丈夫。大丈夫だから。自分を信じて。

うふふ、なーんかスピリチュアル系のブログみたいでたまにはこういうテイストもいいでしょう♪
9月30日に山田太一さんからコメントがあった。
自分はそんなつもりで本を書いたんじゃないというコメントだった。
これがホンモノかニセモノかわからなくて17日間も悩み続けた。
今日、二度目のコメントがあった。
これで明らかに本人じゃないとわかったが、
しかし山田太一をかたってコメントするなんてわたしの常識の世界にはない。
いくらなんでもそれは人としてしてはいけない行為ではないか。
とはいえ、100%山田太一さんではないという証拠もないのである。
今朝、山田太一さんの家に電話して聞いてしまった。
時間にして3分もないが、天才の時間を奪ったことが申し訳なくて仕方がない。
山田太一を名乗っていわくありげなコメントをするなんてひどすぎるのではないか。
そんなことをされたらこちらの神経が狂ってしまうではないか。
人からそこまで恨まれる記憶なんかないよ。
だって有名人に「なりすまし」てあちこちでコメントしたら、
それは多方面に甚大な被害を与えるでしょう?
犯人捜しをする気力もない。
とにかく「なりすまし」のような行為は人としてやっちゃいけないことじゃありませんか?

今日も神経はボロボロでバイトでもミスが多かった。1日ふさぎこんでいた。
さんざんだよ。ふつうそんなことをするか。
「悪いことにはいいことがついてくる」のようなセリフが
山田太一ドラマ「ありふれた奇跡」にあったと記憶する。
河合隼雄さんの「ふたつよいことさてないものよ」も同類の名言になる。
悪いことにもいい面はあるという意味である。
しかし、これはないよ。さんざんだよ。まいったなあ。完全にやられたあ。
山田太一を名乗ってコメントした人は、
これほどわたしを苦しませてザマアミロと思っているわけでしょう?
たぶんその犯人が考えている10倍、100倍くらいこちらは苦しみ悩んだ。
相手はザマアミロといま喝采をあげていることだろう。
天罰なんてあるわけがないから、完全に犯人の大勝利である。完全犯罪成功だ。
わたしは人間というものはそこまでひどいことをしないという、
ある意味での人間への信頼があった気がする。
その信頼をぐちゃっとその人はつぶしてしまったわけである。
人間というものはなにをするかわからないから恐ろしい。怖い。人間が怖くなりました。
「本の山」ご訪問者には熱心な山田太一ファンがおられることでしょう。
わたし自身も必死に考えて結局、答えがわからない問いがありました。
うちのブログについたこの山田太一名義のコメントは本物でしょか?

山田太一 URL @
09/30 18:49 . そういうつもりで書いたんじゃないんだけどなあ。

いろいろお辛いことがあったようですが、露悪的すぎるのもあまりいい趣味とは思えません。ほどほどになさってはいかがでしょうか。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3810.html#comment4973



これには本当に参りました。最初はどうせ「なりすまし」だろうと思っていました。
というのも、山田太一さんはインターネットはご覧にならないとあちこちでおっしゃっています。
とはいえ、人間は変化するものですから方針をチェンジしたのかもしれないと思いました。
「本物か偽者か」――1週間以上、真剣に悩みましたから、
もしいたずらやいやがらせでしたら、じつにうまいものだったと言わざるをえません。
自分なんかに山田太一さんがコメントをくださるはずがないという分別はあるのですけれど、
氏は温厚そうに見えてロックな熱情を胸に秘めた人ですから真贋はわかりません。
あるいは本物ではないかとも思いました。
というのも、ある有名な作家先生から瞬間沸騰激憤メールが届いたこともございますので。
もし本物でしたら山田太一さんはインターネットは閲覧しないと宣言していますため、
氏の嘘がばれてしまうのはご迷惑でしょうからあえてコメントを承認しませんでした。
恥ずかしいことにまるで山田太一先生と秘密を共有したような気分になりました。
答えは「わからない」ままに悶々としながら日々を送っていました。
するとまた昨日、山田太一を名乗るものからおなじIPアドレスでコメントがつきました。
山田太一はという名はほかにもいるからという言い逃れもあるでしょうけれど、
まえのコメントでは明らかに作家の山田太一を自称しています。
「そういうつもりで書いたんじゃないんだけどなあ。」と――。
二度目の山田太一さんからのコメントは以下です。

山田大一 URL @
10/16 18:31 . だいぶ一人が堪えているみたいですね。

でもあなたの場合、半分(いやもっとか)自分から求めた部分があるから仕方ないとも言える。自分では幸福を諦めたつもりなんでしょうけど、心がそれを許してくれない状態なのかな?なんてどんどん分析して失礼ですね、お許しください。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3823.html#comment4975



ここで問題です。上記ふたつの山田太一先生からのコメントは本物でしょうか?
ひとつめのコメントは1週間以上、あれこれ考えました。
ふたつめのコメントを読んで非承認を解除しました。
みなさまはこのコメント、本物の山田太一さんだと思いますか?
それとも「なりすまし」の悪質な犯罪行為だと思いますか?
バイト先のベトナムの女の子から言われた「あなたはひとりぼっちですね」
がすごいこたえている。
他人から「ひとりぼっち」なんて言われたのははじめてだよ。
けっこう孤独には強いつもりだったけれど、ぜんぜん勘違いだったことが判明する。
そうかあ、わたしはひとりぼっちなのかあ。
たしかにバイト先でも半年も経つのに古株の輪にまったく入れていません。
そのあいだに辞めちゃった新人さんもずいぶんいる。
性別問わず外国人には気軽に話しかけられるんだけれど、
どうしてか古株っぽい日本人が苦手で。
もちろん、こちらが心を閉ざしているせいだと思う。

こういうインターナショナルな職場のせいか、わたしはよく外国人に間違われる。
いちばん驚いたのはヤンキーっぽいジャージを履いた金髪の日本人の若い女の子が、
ラインで隣の中年男性に大きな声で聞いているのをヒアリングしたときだ。

「あの人、日本人なの?」

それってこちらにも聞こえるんだから、
ぜったいわたしを日本人ではないと思っていたってことでしょう? なにそれ?
わたしは自分の顔をある種、典型的な特徴のないよくあるおっさん顔だと思っていたけれど。
ベトナム人女子から「あなたアメリカ人みたい」と言われたこともある。
ほめているつもりかもしれないけれど(まさかね)、こちらアメリカはあまり好きではありません。
今日もさっき新入りのネパール人から「あなたは何人ですか?」って聞かれた。
自分では見るからにダメな日本人おっさんの顔をしているつもりだけれど、うーん。
中国人に間違われてこともあったっけ。
他人から言われたことって真実に近いよね。
「ひとりぼっち」で「日本人に見えない」わたくし――。
ちょっとエネルギーを入れなければ。不愉快になる方は下の写真は見ないでね。
孤独な人は閲覧注意。
むかし友人が作ってくれた誕生日ケーキ。

140526_1834~01

社員さんはもちろん知っているんだろうけれど、パート先では年齢非公開。
だれにも話していない。
でも、社員さんと異様に仲がいいパートがいるからいろいろばれているのかもしれない。
こんな写真を自慢げに公開しないとならないくらい、
いま「ひとりぼっち」に打ちひしがれている。
今日さ、好きだった高齢男性パートさんから「話しかけてくんな」っていきなり言われちゃって。
昨日からなんかわたしに対して怒っていたようだ。
「どうしたんですか?」って聞いたら「おれに話しかけてくんな」と怒っている。
「わたし、派遣で入ったときコンドウさんが好きでここに入ることを決めたんですけれど」
と正直に伝えても「おれに話しかけてくんな」と怒っている。
なんかおもしろそうな人でねえ。
好きだった人からいきなり嫌われると辛いけれど、まあ人間そんなものなのだろう。
人生、こんなもの。わけがわからないのが人間さ、人生さ。
ああ、「ひとりぼっち」が身に染みるぜ。こっそり麻薬をもう1本打たなければ――。
以下、孤独人閲覧禁止写真。

140526_1837~01

ひとりじゃないもん!
でもさあ、こういう写真を公開すると逆にものすごい孤独っぽくないですか?
じつはそれは当たりでいまぶるぶるっとするくらい孤独感があるんだけれど。
とはいえ、おっさんなら既婚でも独身でも、
よほど働いて休みがない人以外はわたしに近い孤独感は味わっているのかもしれない。
他人のことはよくわからないけれど、そう思いたい。そう思わなきゃ、やりきれんもん。
悪いことばかり考えてしまう。
バイト先できっと古株パートさんたちに悪口を言われているんだろうなあ。
むかしはわたしになんかみんな関心はないだろうと高をくくっていたけれど、
自分でも理由はわからないけれど半年も居ついてしまったから。
わたしは社員さんもパートさんもみんな大半は好きなんですよ。
自分から壁をつくっているんだろうけれど、それはどうしようもないものだと思う。
タバコは高いしまずいので(個人的嗜好ではですよ)吸えません。ごめんなさい。
(そう言えばこのケーキ料理人はヘビースモーカー。
むかしむかし人生初のタバコの味を教えてもらいましたが、
鼻も舌も鈍感なためうまいともまずいともなんとも感じませんでした)

むかしは定期的に知らない人からメールが来たんだけれど、
グーメールの中止にともないジーメールに代えてからはパタッと来なくなった。
とすると、むかしのほうが「こいつどうにかしなきゃ」的な
「ひとりぼっち」感が強かったのかなあ。
職場でもどこでもたとえ公園でも自分から話しかけなきゃって言われるかもしれないけれど、
明日にでもクビになりそうな時給850円の
非正規雇用中年男性(社会保険なし)がだれに話しかけられますか?
とことん人生をしくじってしまったのかもしれない。
これから「ひとりぼっち」でどうしようと思うけれど、
運がいいからこの先あまり長くないかもしれないという希望もないわけではないわけで。
自分は運がよくて、かつ「ひとりぼっち」ではない、と思いたいがために、
効かない強壮剤のようにむか~しの写真をもう1枚挿入する(今年5月)。
そうそう、わたしの名前の顕史は「あきふみ」ではなく「けんじ」ですからねって、
だれも興味がない自分のことを書いてしまいたいくらい「ひとりぼっち」だ。

140526_1848~01

みんなで書籍ピッキングをしていると「ひとりぼっち」感が薄れるときがある。
だから、このバイトが好きで続いているのかもしれない。
しかし、新人さんがたくさん入ってきたら、いつまでもここにはいられないだろうしなあ。
いつまで書籍ピッキングをさせてもらえるかさえわからない。
ひたすらひとりで本をオリコンに入れる作業は「ひとりぼっち」のわたしには辛すぎる。
がらにもないことを言うけれど、少しずつでも前向きに自分を伸ばしていかないと。
まるで新興宗教団体の会員みたいだけれどさ、あはっ。
ここは高校生も働いていて、今日聞いたら工業高校の3年の彼は就職が決まったてさ。
ベトナム人の留学生も日々日本語を覚えていっているわけである。

昨日よりも少しでも1ミリでも伸びたいなんて言うと、
「がんばれば夢はかなう」とか「仕事を通じて自己実現できる」とか
信じているうさんくさい前向き野郎みたいで恥ずかしいぜ。
いまはここで働くことが1ミリでも自分を伸ばすことだと信じたい(自分を騙したい)。
昨日も今日も考えてみたらいい経験をさせてもらえたよなあ、考えようによっては。
明日のがんばりのためにもう1枚ケーキの写真を貼りたいところだが、
悲しいかなもうストックが尽きてしまったようだ。
いま「ひとりぼっち」だから批判的に思えるコメントは心底こたえるので公開は遅らせます。
おまえ「犬」とか名前に書いてあるが、「ムー大陸」さんじゃないか?
ああ、「ムー大陸」さんは絶交されたかつての親友です。
「本の山」の創設者でもあります(ブログ設定をすべて教えてくれた)。
彼がまだこのブログをご覧くださっているなんて思う甘っちょろいところが
わたしの弱点なのだと思う。
みんなおまえになんか興味がないと知らなければ、わたしわたしわたし。
そうそう、台風の日の山田太一先生とカメラマンの対談は行けませんでした。
それを目当てだけにこのブログを閲覧している方もいらっしゃるとかつて聞いたので、
山田太一未公認の自称弟子「ひとりぼっち」(ベトナム人女子がつけてくれたあだ名)
としては報告しておかなければなりませんね。
明日も「ひとりぼっち」かなあ。
本人非公認の弟子を自称しているので山田太一氏推薦の「浮雲」をジェイコムで視聴する。
これはシナリオで読んだ記憶があるけれど、くそつまらなかったという記憶しかない。
それでもこちらは山田太一非公認弟子だから、困難に負けず映画を観るのである。
つまらないことをいまさら指摘してもしょうがないので、今回は登場する男3人に注目したい。
まずは主人公の森雅之で、こいつはよくわかんないんだがとにかくもてる。
たぶん森雅之の魅力のわかる人というのが恋愛能力が高いのではないだろうか。
森雅之のよさがわかる男女はもてるというような法則があるような気がする。
ヒロイン高峰秀子の親類のおにいさんである山形勲はなかなかよかった。
山形勲は高峰秀子の「最初の男」で「3年もおもちゃ」にしたそうである。
山形勲はのちにインチキ新興宗教をはじめ大儲けするのだが節操のない小悪党ぶりがいい。
田舎で小料理屋を営む小商人の加東大介が「浮雲」のなかでもっともよかった。
加東大介は金の力にものを言わせて若く美しい岡田茉莉子を妻にしている。
客の森雅之がしている高級腕時計に目をつけ加東大介は1万円でゆずってくれないかと頼む。
まさに成金根性である。
このときの人情家ぶった加東大介と森雅之の会話があとから見返すとおもしろい。
若い妻をめとったせいか加東大介は人生わかったようなことを言うのである。
加東大介(清吉)は自分の若くて美しい女房が調理場を去ると彼女を指して――。

清吉「(彼女が去ると)どうも、娘みてえに若いんでお恥ずかしいんですが……
 これも前世の因縁で、めぐりあいだと思っていますがね……
 旦那、めぐりあいってものは大切にしなくちゃいけねえ、
 めぐりあいにさからっても……」(「シナリオ文学全集9」より)


このあとどうなるかというと若く美しい妻の岡田茉莉子は森雅之と出来てしまう。
そりゃあ小太りのプチブルなんかよりは甘いマスクの森雅之のほうはいいだろう。
男の価値を正確に品定めする岡田茉莉子は森雅之を追って東京へ出ていってしまう。
これも「めぐりあい」と観念することができなかった旦那の加東大介は追いかける。
結果、東京で森雅之と同棲している岡田茉莉子を殺してしまうのだから。
訳知り顔で言った、「旦那、めぐりあいってものは大切にしなくちゃいけねえ」の台詞が空々しい。
しっかし、相手を殺したくなるくらいの恋愛とか一度でいいから体験してみたいよなあ。
ある意味で加東大介は「浮雲」のなかでもっとも幸福な男かもしれない。
生娘だった高峰秀子を女にして3年も好き放題おもちゃにした山形勲もおいしい役ではあるが、
あまり人生の熱狂を経験したとは言えず映画的には欠損した人物と言わざるをえない。
むかつくのは森雅之である。
自分勝手に生きているだけなのに「前世の因縁」か女が彼を放っておかない。
わたしは加東大介や山形勲は好きだが、森雅之は蹴飛ばしてやりたいくらい嫌いだ。
高峰秀子は特別好きでも嫌いでもないが、3年くらいおもちゃにするのは悪くないよなあ。
いや、贅沢を言ってはならない。
パンパン(米兵用娼婦)あがりで中絶経験ありの女性(「浮雲」における高峰秀子の経歴)でも、
いまのわたしは喉から手が出るほどほしいのだった。

(どうでもいいでしょうがシナリオ「浮雲」の感想↓)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2874.html

作家の山田太一氏のみならず多数の識者が推薦する
1959年の白黒映画「お熱いのがお好き」を
ジェイコムで放送されていたから勉強として視聴する。
まことアメリカーンな映画だと思う。アメリカーン。
映画は嫌いなのでほとんど見ていないためイメージで語るが、
日本映画はうじうじジメジメしている。
我慢辛抱、奉仕精神、思いやり、相手のため、自分を殺す――。
一方でアメリカ映画は「したいことを思い切り大胆にするわ」
という気風に満ちているとでも言おうか。
名作となっている白黒映画「お熱いのがお好き」は極めて演劇的な映像作品と言えよう。
演劇(芝居)をあまり勉強していないものがこういう映画を名作ともてはやすのかと思った。
善玉と悪玉のわかりやすさ、変装(女装)、取り違え、一見するとハッピーエンドらしき終幕。
演劇だったらよくある作品なんだが、
映画でシーンをこまめに分けてよくこれをやりましたねというところがほめられる点なのか。
結局、顔なわけでしょう? サックス奏者がヒロインの女を好きになったのも顔。
結婚適齢期のその女が好きになったのは顔はよくなおかつ大富豪であるセレブ男性
で、結局、大富豪は貧乏サックス奏者の変身したことだったことがばれる。
ヒロインはお金よりも顔のほうが、いや愛のほうがたいせつだと思う。
どこの馬の骨かわからぬあんちゃんと愛の逃避行に大海原をまっしぐら――。
本物の大富豪が女装したもう一方のにいちゃんに惚れ込むのも合点がいかなかった。
いくらゲテモノ食いが趣味と言ってもあれはないだろう。
いい恋愛勉強になったのはたしかだ。
いちばん恋愛で大事なのは金。金があっての顔であり、愛である。
愛(の言葉や行動)は、相手の金や顔の代価物と言うこともできよう。

金>顔>愛

先日900円の床屋で1時間近く待たされ女性誌を固め読みする機会に恵まれた。
男性誌も決してほめられたものではないのだろうが、
女性誌の下品低劣さには目を覆いたくなった
(というのは嘘で興味津々に時間を忘れて熟読した)。
女のあたまのなかって他人の噂話(金、顔、夫、恋人)しかないんだなあ。
名作映画とされる「お熱いのがお好き」が描いているのは結局女性誌の世界なのである。
そんなことを言えば小林秀雄賞作家の山田太一氏のドラマもほぼ女性誌の世界を描いている。
なになに、女学生さんはこの映画を観て、やっぱりお金よりも愛のほうがたいせつと思うわけ?
逆でしょう。お金あっての顔であり、愛であるという現実を女子は知るわけだ。
でもさ、これは男の世界だけれども、顔がよくて女が寄ってきても空しくならないかなあ。
コンプレックスをばねにして金持になり愛人を何人かはべらかしても寒々しくはないか。
いい歳をしてそんな世間知らずのことを思うボウヤだから、
なにか役に立つ資格の勉強でもすればいいのに
世の識者にたぶらかされて「お熱いのがお好き」なんて見てしまうのだろう。
現実は映画の反対と思っておけばまず間違いがなかろう。
現実はドラマチックなこと、劇的なことはなにもないと思え。
男女がつきあうのは愛からではなく、容貌と懐事情の釣り合いからである。
愛は一瞬で醒めるものだがしかし、
その一瞬に(だけ!)生きている興奮が充溢していることを動物的感覚で
老いも若きも女子は知っている。

1992年にNHKで放送された山田太一ドラマ「チロルの挽歌」をYouTubeで違法視聴する。
「本当の愛情はなにか?」「男同士の友情と恋愛はどちらが大事か?」
といった複数のテーマらしきものが透けて見えるのだが、
そのどの問いにも作者はこれが「正しい」という答えを出していないのがよかった。
会社人間だった杉浦直樹は会社の汚職をひとりでかぶるかたちで服役する。
もちろん、出所後のポストは約束されていたから、それほどの英雄行為というわけでもない。
だが、杉浦直樹の1年9ヶ月の服役中に家内と息子が交通事故でいきなり死んでしまう。
出所した杉浦直樹は自殺を試みるが鉄道社員の高倉健に命を助けてもらう。
それどころか情に厚い高倉健は公私にわたって杉浦直樹のめんどうを見てあげる。
杉浦直樹はこのいわば恩人である高倉健を裏切って娘もいる夫人の大原麗子と駆け落ちする。

さて、北海道のある市にリゾート施設建設のために高倉健がやってくる。
いままで技術職一筋だった高倉健は望んでサービス業に就いたのである。
高倉健は自分を変えたいと思っていた。なんのためにか?
高倉健の赴任地にまったくたまたまの偶然にいたのが、
駆け落ちして所在不明の杉浦直樹と大原麗子だった、ふたりは小さな洋品店を営んでいた。
もし「正義」があるとすれば圧倒的に高倉健のほうにそれはあるだろう。
杉浦直樹と大原麗子のふたりには負い目がある。
しかし、力関係が明確に出てこないところがおもしろい。
なぜなら高倉健はいまだに大原麗子に未練たっぷりだからである
一方で大原麗子と杉浦直樹のほうは駆け落ちして4年も経てば、純粋ラブラブとは言いがたい。
大原麗子はかいがいしく高倉健の洗濯物を洗ってやったりするから関係は複雑である。

最後の一同集合シーンは圧巻だった。
いかにも山田太一ドラマらしく、それぞれが本音を言う。
大原麗子は仕事人間でちっとも自分に向き合ってくれない高倉健がいやになったという。
いっぽうで「大変なことがあった(服役、妻子の交通事故死)」があった杉浦直樹は、
びっくりするくらい本音で自分に向き合ってくれるので惹かれた。
さあ、大原麗子は高倉健と杉浦直樹のどちらを選択するのか?
ここでいかにも山田太一ドラマらしいドラマが生じる。
杉浦直樹が自分が消えるというのである。自分がこの町を出ていく。
(駆け落ちして)4年間、いい思いをさせてもらった。
いつも高倉健のお世話になってきたが、助けられてきたが、
ここは自分にいい恰好をさせてくれ。
それはよくないと高倉健はいう。この町を出ていくのは私のほうだ。
幸せにやっているふたりがこの町を出ていくことはない。
男ふたりが「いい恰好」をしはじめたことに怒るのが大原麗子である。
「自分たちばかりいい恰好しちゃって、私の気持はどうなるの?」
大原麗子は杉浦直樹も高倉健も選びたくないという。
どうにかして「年がい」を生かしてでも、この町で3人でうまくやっていけないか。
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の新しい第三の道を大原麗子は娘のまえで提案する。
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の第三の道――。

1年後、レジャー施設のチロリアンワールド開園日である。
これまた全員集合でチロリアンワールドの開園式にみな駆り出されている。
娘の声(ナレーション)によると、いまは高倉健と大原麗子が同居しているらしい。
杉浦直樹の洋品店にたまに大原麗子がパートで行くという。
三人はそういう関係になっているという。
花火が盛大に打ち上げられ、開園を知らせる色とりどりの風船が青空に舞う――。

ストーリーを要約しただけで、
このドラマから味わった感動をなにも説明していないかもしれない。
みんながみんな建前と本音に一生懸命向き合っているのがよかった。
建前に終始するのはそれなりに苦しいながらもそれほどの葛藤はないのである、
おのれの本音に向き合ったときがいちばんその人の輝きが、
ほかならぬその人の苦しみから派生するように思う。
だれか異性を本当に愛していたら一緒になるのと消えるのとでは、
いったいどちらが本当の愛情か。
恋愛が「相手のため」にするものならば、「自分のため=都合」は引っ込めるべきではないか。
「ええ恰好しい」で生きるのはみなから評価される男らしい生き方だが本当にそれでいいのか。
いずれも「正しい」答えのない問いである。
この答えのない問いに高倉健、杉浦直樹、大原麗子がそれぞれ、
それぞれの「自分のため」と「他人のため」を考えながら
自己の本音を隠さずにいっていたのがよかった。
そういう場(シーン)をあまたの偶然のちからを借りながらまったく不自然ではなくつくった
山田太一のドラマ作劇術にわたしはいちばん感動したようなところがある。
この人は天才なんだ。
また改めて天才の秘密の一端でもでも覗き見たいという好奇心を強く刺激された。
以下、どこかなじみのあるいつもの山田太一ドラマのセリフである。

「そんな偶然あるかな?」
「少しは人の気持をわかれよ」
「まじめて仕事ばかり。女はうちを守れ」
「あの人はあたしを大事にしてくれた」
「なんでも会社のために尽くす。誇りもなにもない会社員か? そりゃ女房に逃げられるわ」
「またあなたに助けられるのはかなわない」
「人間ってしょうがないことをしちまうもんじゃないんですか」
「(あんたは)女の気持がぜんぜんわかんない」
「神っていうか仏っていうか、そういうものはあるんだね」
「いまでも(大原麗子に)未練がある。こっちの魅力で取り戻そう。変わろうと思った」
「女は目先の動物だ」
「おれにだって誇りはあるんだよ」
「日曜にひとりは辛い」


このドラマを最終的に解決するのはいつもの山田太一らしくお金である。
リゾート建設に反対していた半田牧場が
経営難(借金)から市に対して折れたことがきっかけとなった。
お金がなければ愛も恋も友情も家族も、
どんな美辞麗句もなにもないという極めて「正しい」現実認識を山田太一は有している。
「チロルの挽歌」は男らしい仕事人間の高倉健が女のために仕事を辞めようとする話である。
山田太一ファンは圧倒的に女性が多いが、
お茶の間の主婦はこの物語に拍手喝采したのではないか。
あの高倉健さんが古女房のために仕事を放り捨てるのだから。
「あんたもちっとは家族サービスしなさいよ」
と亭主を怒鳴るには十分なドラマになったことだろう。
ひとつ山田太一の恋愛観がおもしろかった、
杉浦直樹が駆け落ちした大原麗子にいうのである。

「自分じゃわかんないかもしれないが、おまえは(高倉健のところに)戻りたがってるんだ」

もしかしたらわれわれの本心は自分自身よりも他人のほうがよく見えるのかもしれない。
言い換えたら、われわれは自分がなぜそれをするのかは結局のところよくわからない。
とすると、自分は意識せずにだれかを好きになっているということもなくはないだろう。
人から指摘されてはじめて、
自分がだれかに恋愛感情を持っていることに気づくこともなくはない。
やけに親切にしてしまう相手というのは、
もしかしたらあなたが惚れている相手なのかもしれない。
恋愛や失恋がなかったら人生は退屈が過ぎるのだろう。
だから、いくら小市民の細々しい生活の綾を描写する山田太一ドラマでも恋愛は頻出する。
じつにいいドラマを見たと思う。本当に感動した。

よかったなあ。さっきベトナム人の女の子と職場の階段ですれ違ったんだ。
ふつうなら「お疲れさまです(お疲れさまでした)」でしょう。
自然にぼくの口から「きれいだね」という言葉が出てきた。
ベトナムの妙齢の女の子でもバイト中は作業着なんだ。
帰宅時にこんなにきれいに化けるとは思わなかった。
考えもせずに思ったそのまま「きれいだね」と言えたのがじつによかった。
これに「ありがとう」と答えてくれたベトナムっ子もよかった。
ベトナム人は遠慮するのか「ありがとうございます」と日本人相手には言うんだ。
「ありがとう」なのがよかった。
「きれいだね」
「ありがとう」
3時の休憩時間に聞いたらほかの高時給のバイトに落ちてしょげていたらしいけれど、
がんばれと思った。
きれいなんだから、がんばれ。
そういえば休憩時間に「お金持の男をつかまえて結婚しちゃえ」と言った記憶が。
しかし、こんなにきれいだとは思わなかった。
一瞬のすれ違いである。
「(ハッとつかれて)きれいだね」
「ありがとう(ございますはない)」
今日いちばんの収穫だった。生きているのっていいこともあるなあ。
いつ時給850円から卒業するかわからない、
あのフレンドリーなベトナムっ子が幸福になることを祈る。
いままでこのバイトを続けられたいくぶんかの理由は、
かならずやあのベトナムっ子の人懐っこい笑顔にあるのだから。
すれ違うだけでも人はいいのかもしれない。
「きれいだね」
「ありがとう」
1993年にTBSで放送された全12回の連続ドラマ「丘の上の向日葵」をジェイコムで録画視聴。
もはや山田太一の連続ドラマで見ていないのは(シナリオ読了も視聴済みとカウントすると)、
ほぼこの「丘の上の向日葵」くらいなのである。
ちなみに「丘の上の向日葵」のシナリオ本は出版されていない。
このため、長らく「丘の上の向日葵」をまだ見ていないから死ねないというような気分があった。
大げさかもしれないが、こちらにとって生と死を隔てる壁はそのくらいに低い。
見ないで終わるかもと思っていた、いわば幻のドラマを実際にわくわくしながら見てみたら――。

山田太一さんはあちこちで何度も自分はネットは見ていないと公言していらっしゃる。
だから、この記事も万が一にもお目に触れることはないと思って、
山田さんからは「露悪的」「趣味が悪い」と言われかねない下劣な本当の気持を書く。
あれだけの地位に登ってしまった人だから周囲からはお追従しか言われないのではないか。
だから、わたしが書くと正義漢ぶっているわけではなく、
そもそも山田太一さんはネットをいっさいご覧にならないらしいから(大老さすがですぞ!)、
そんな損得計算はどうでもいいことだ。

期待がとても強かった「丘の上の向日葵」はじつに視聴に骨が折れる難物であった。
全12回ということは合計10時間近くあるわけでしょう?
いくら暇なこちらでもほかにやりたいこともあるわけで、
それだけの時間を取るのがどれほどたいへんだったか。
実際、8話で視聴をストップしてしまい、続きを見る気になったのは数ヶ月後だった。
とはいえ、わたしのドラマ感想が「正しい」わけでは断じてない。
基本、ドラマや映画の感想などはそれぞれの人生体験に大きく左右されるものだと思う。
ゆえに人生体験がほとんどない子どもは、
なんでもおもしがれるようなところがあるのではないか。

「丘の上の向日葵」の主人公は美しい妻と娘がいる一流会社の中年サラリーマンだ(小林薫)。
だれの願望かはわからないが(山田太一? 視聴者?)、
日常の味気なさにやりきれない思いをしているこのサラリーマンのまえに
むかし因縁があった美女(島田陽子)が登場する。
細かいところはぜんぶはしょるが、
妻子ある一流会社員の小林薫は美女の誘惑にあらがえず、
最後は三日三晩セックス三昧をする。
じゃあ、妻子を捨てるのかといったらそんな勇気もなく、
一流大学を卒業し一流会社に就職し一流の美人妻をめとり、
そのうえ五体満足のかわいい娘(葉月里緒菜)に恵まれた小林薫は
いままでどおりの元の安定した生活に無傷で帰還する。
露悪的で趣味の悪い言い方をしたら、これは中年サラリーマンの夢をじつにうまく描いている。
ある視聴者層にはとても歓迎された作品ではないかと思う。

しかしだ、しかしね、しかしなんだよ。
当方は時給850円で働く社会保険もなにもついていない中年アルバイト男性。
美しい妻どころか中絶経験多数のアバズレとの結婚でさえもうあきらめている。
子どもなんてもってのほかである。
美しい妻がいるのに女優並みの愛人(ああ女優でしたか)を得ようなんていう、
どこまでも虫がいい底辺を知らぬのんきな男の夢想にまったくシンパシーを感じない。
ひと晩だけでも小林薫さん、奥さんを貸してくださいよと土下座したいくらいの低身分の男だ。
セーラー服を着た葉月里緒菜と公園のベンチで30分おしゃべりできるのなら、
寿命が10年、20年短くなっても構わないと神にでも仏にでも誓えるような男だ。

よしんば山田太一さん本人がこのつたなき感想をお読みになったら、
「露悪的で趣味が悪い。ほどほどにしろ」とお怒りになるかもしれない。
「いくらお辛い体験をしたからといって人間としての質が低いのではないか」と。
たしかにそうなのだろう。まったくそうである。
わたしは露悪的で趣味が悪いために、書籍やドラマ作品を作者の意図どおりに鑑賞できない。
山田太一さんとわたしは趣味レベルや成熟レベルが天と地ほどに差があるのだろう。
しかし、それなのに、いったいどうしてわたしは山田太一のことがこんなに好きなのだろう。
よしんばブログのコメント欄にお言葉をいただけたら、1週間は嬉し泣きするのではないか。

人を好きになるっていったいどういうことなんだろう。
「丘の上の向日葵」にはひとつの回答例が示されている。
人を好きになったら会社や家族のことなんてどうでもよくなり、
ただふたりだけでいたいと思うもの。
わたしは山田太一先生のご自宅の電話番号を知っているがかけることはできない。
だとしたら、これは山田太一さんのことがまだまだ好きではないというなのかもしれない。
いや、そうではないのではないか、という熱い思いもあるのだけれど。
現在80歳の山田太一氏はあと何年生きるのだろうか。
わたしが山田太一さんとお逢いする日は来るのか、それとも来ないのか。
好きならなにもしてもいいのだろうが、わたしは常識に縛られて相手の迷惑をつい考えてしまう。
わたしからは低レベルに思える広く浅い山田太一ファンのほうが、
あるいは氏をより深く真剣に好きなのかもしれない。
昨日、1992年にNHKで放送された山田太一ドラマ「チロルの挽歌」を
無料違法動画サイトのYouTubeにて前後編計3時間を視聴する。
前編は後編のための布石が多く盛り上がりが足らなかったのは「キルトの家」とおなじだ。
後編の迫力はたまらなく、これは近日中に別途に書くが、とにかく感動した。
途中でなみだがとまらなくなって、身震いするくらいの感動を久々に味わった。

そのあと書籍倉庫のバイトに出向いたのだが、こうなるともうほとんど「無敵の人」である。
感動するということは、世界の見方が変わるということだと思う。
いままでそれなりにおもしろさを見出していた書籍ピッキング作業が
じつにくだらなく意味のない退屈な作業に思われて心底からいやになった。
ある意味では「本当のこと」に気づいてしまったとも言えよう。

山田太一ドラマに感動するとはどういうことか? 行動化してしまうのである。
ライン(流れ作業)では、たまにさぼり防止のためか社員格の男がまわってくる。
大半の人は黄色いポロシャツを着た人がラインに来るとまじめに作業するふりをする。
しかし、山田太一ドラマ「チロルの挽歌」にぶるぶる感動したわたしは違った。
こんな作業はくだらないと絶望しきって、
社員風味の若年男性が来ても不機嫌にだらだら不満たっぷりにいやいや動いていた。

「今日はどうしたんですか? 疲れているんですか?」
「飽きたんです。この仕事に飽きた」
「――(え? なにそれ?)」
「なーんか、飽きてしまいましてね」
「オウさん(左隣の人)と競争してみたらどうでしょうか?」
「オウさんのところの(間口の)本は多いですよね」
「ほかにもいろいろすることはありますよ」
「わかっていますが」
「(みんな大半がしていない作業の説明をする)」
「でも、時給850円じゃないですか。どうして850円でそこまでやらなきゃならないんですか?」
「なかにはやっている人もいるでしょう」
「はい」
「そういう人たちがかわいそうになりませんか?」
「やっている人も、やっていないときはありますよ」
「――」
「(わたしも)気分がよかったらやりますけれどね」
「みんながちゃんと作業をしないとどうなるかわかりますか?」
「――」
「○○○(←上の会社)に切られたら、みんな食い詰めて生活できなくなっちゃうんですよ」
「そうですよね。それはすごいわかります」

ガチトークはこのくらいで終わった。
しかし、社員格の人のまえではきちんと働いているふりをするパートってインチキじゃない?
なかには社員身分のものが来てもなまくらな姿勢を崩さない無頼の非正規雇用者もいるのだ。
わたしも山田太一ドラマに感動した影響か、ふざけたふてぶてしい態度を取ってしまった。
建前ではなく本音の意見を後先を考えずに気持のままに自然に口にしてしまった。

思ったことを後先を考えずにそのまま言う。
職場にナカウチさんという働き者の古参男性パートさんがいるのである。
むかしこの若者から仕事をだいぶ教わりお世話になった。
とにかくまじめで仕事が早く、この職場限定だがとても有能なパート男性である。
根はまじめなわたしはナカウチさんのことがずっと好きだった。
1回も笑顔を見たことがないロボットのような人だがわたしはまじめな彼が好きだ。
昨日は山田太一ドラマに感動して狂っていたので本当のことを聞いてしまう。
「どうしてナカウチさんは時給850円なのにそんな一生懸命に働くんですか?」
「生活のためですよ」と冷たく突き放された。
もちろん、これでナカウチさんを嫌いになったわけではない。
みんな生活のために働いているのだが、
適当にやっている人も多く、どうしてナカウチさんは? という文脈は伝わらなかったようだ。

以前に1回話したことのあるベトナム人女子のチャンさんという24歳のパートがいる。
ベトナム人はみんなそうなんだけど、
どうしてだがピッキング途中に助けに入ってくれるのがうまいのである。
チャンさんは新入りにもかかわらず、じつにうまく助けられたことがあって、
もしかしたらこの子はすごいあたまがいいのではないかと思ったくらいである。
翻訳家になりたくて日本に語学留学している(ベトナムでは短大卒)。
日本の大学院に入って出て、夢をかなえたいらしい。

むかしはそういう話にとても胸打たれたものである(青臭いがいまもですけれど)。
でもさ、ぶっちゃけて身もふたもないことを言うと、
正直者らしい「もてない男」の小谷野敦さんが言うように語学は天与の才能の影響が強い。
はっきり言うが、うちの職場のベトナム人留学生はバカばかりなのかもしれない。
1年以上日本にいる(むかし好きだった?)ヒエンさんも言っちゃ悪いがバカなのである。
どうして1年もいるのにそれだけなの? と悲しくなるくらい日本語を解さない。
いやさ、わかるよ。
どうせ日本語をある程度マスターしたところで所詮は時給850円が1000円になる程度だから。
日本人だって就職難なのに日本語を適当に学んだだけのベトナム人の需要がどれほどあるか。

無敵だよなあ。山田太一ドラマ「チロルの挽歌」を出勤まえに視聴して感動したから無敵だ。
無敵は無防備ということかもしれない。
中国の恋愛小説が好きなベトナムのチャンさんはガチを言う子なのである。
まえに聞かれてうろたえたことがある。
こういう底辺職場ではプライベートはみんな聞かないものなのである。
チャンさんからはしっかり聞かれたもんね。
結婚していますか?
ひとりだとさみしくないですか?
無垢のベトナムっ子に言われたことだけに胸に響いた。

そのチャンさんは、もしかしたら
もう底辺職場のおっさんに過ぎぬわたしと関わり合いたくなかったのかもしれない。
しかし昨日、ラインが暇で暇で無意識に突き動かされるままに
相手の迷惑も考えず話しかけてしまった。
正直に言ってチャンさんも、やはりこの程度の日本語能力では翻訳家は難しいだろう。
昨日、チャンさんに言われてこたえたことがある。
ああ、断っておきますが、
わたしはチャンさんのみならずベトナム留学生男女はみんな好きです。
1回くらいならだれかひとりにでもふたりにでも、
ぜんぶ奢りで日本観光ガイドをしてあげたいなあ。
むかしおなじような親切をベトナムでベトナム人にしてもらったからその恩返しだ。

チャンさんからこういう質問をされた。
まだ日本に来て1年も経たないチャンさんはかなり不穏なことを言うのである。
二度目になるが――(それほど胸に突き刺さった)。
「結婚していますか?」
「ひとりだとさみしくないですか?」
こういう本当のことをベトナムっ子にかつて言われてたいそう、うろたえた。
なら、チャンさんさみしいこちらにつきあってよ、と一瞬だけ思ったくらいだ。
昨日、5人姉妹の真ん中のチャンさんから言われたことも重くて笑うしかなかった。
「暇な時間はなにをしているんですか?」
「本を読んでいます」
「友達と会ったりしないんですか?」
「わたしは友達が少ないですから、めったに会いません」
「ひとりぼっちなんですね」

ひとりぼっち――。
いまの職場でもわたしはひとりぼっちと言えよう。
古株パートの輪にいまだに入っていけない。
今日、どうにかしようと古株さんたちがたむろする喫煙所に休憩時間に行ってみた。
するともうダメなのである。
バイトの大半がスモーカーでみんなくっさい煙を吐き散らかしているのだから。
この人はマシだろうと思っていた古株女性もみんな喫煙者だ。
我慢が足らないのだろうが、わたしはタバコの煙が大嫌いだ。本当に嫌いだ。

3階にある古株パートのほとんどが来ない休憩室に行くほかなかった。
タバコの煙がないので気分がよかった。
そこに新入りの日本人若年女性パートがいたのである。
どうしてか「文化の香り」がするので以前から彼女のことを気になっていたことは否めない。
「いきなり話しかけておかしい人に思われるかもしれませんが――」
話しかけてしまったのである。このひとりぼっちのわたしがである。
「なんでここの古株ってみんなタバコをぷかぷか吸っているんですかね?
しょせん時給850円くらいのバイトでタバコを吸うっておかしかないですか?
さっきみんなの輪に入ろうと行ってみたけれど、タバコが嫌いで嫌いで」
お答えは「みんなの輪になんか入らなくたっていいじゃないですか?」
きんもい日本人底辺労働者のおっさんに対応してくれてありがとうございます。
こうしていきなり話しかけられたのも山田太一ドラマの影響としか思えない。

さて、深夜の単純作業労働である。
古株らしいがためにやたら威張っているキノシタという不快なクソババアがいるのである。
デブでブスで顔は不満いっぱいでいかにもほかでは勤まらないような最低のババアだ。
そういうクズのババアでも仕事ができたら文句は言わない。
超絶ブスババアのキノシタはピッキングをやらせたらミスばかりなのに、
古株ゆえに威張るのだから始末におえない。
自分はミスばかりなのに他人のミスを指摘したがる廃棄物のようなババアだ。
そのキノシタがわたしの本の入れ方にぐちゃぐちゃ独り言を言っているのを聞き激怒した。
本の入れ方は「正しい」決まりなどほとんどないと言ってよい。
なぜなら次にどんな本が入ってくるかわからないからだ。
本が入らなかったら自分で入れ替えるしかない。
にもかかわらず、やたら威張っている仕事ができないキノシタばあさんは――。
こちらの本の入れ方にケチをつけてくるのだから、わたしは怒った。
「自分は絶対に正しい」と思っているろくな学力も容貌も知能もないキノシタに怒った。
このバイト先でここまで怒ったことはないというくらい怒りっぽいやんちゃをした。
いくら底辺だってキノシタのような最底辺生命体が威張るのは底辺に対して失礼だ。

わからないなあ。
出勤まえに山田太一ドラマ「チロルの挽歌」に感動したことがどのくらい影響しているのか。
あのあともいろいろあった。
キノシタに激怒したせいか、
いままでずっと好きだった古参男性バイトさん複数に自分から話しかけることができた。
キノシタにむかつかなかったら、こうはできなかっただろう。
だとしたら、いかにも底辺最低のキノシタという更年期障害ババアは敵なのか味方なのか。
まったく山田太一ドラマは罪深いものである。