現人神のように崇拝するファンも少なくない小林秀雄賞作家の山田太一氏が推薦する
2002年公開のミュージカル映画「シカゴ」をジェイコムで録画視聴する。
よかったなあ、ほんとによかった。
この映画を視聴しながら(恥ずかしい話かもしれないが)
パソコンのまえで何度もアメリカ俳優と一緒に適当に踊ってしまったくらいである。
人を殺した女たちが歌い踊りながらおのれの行為を正当化するところでまず打たれた。
踊るように生きようぜ、というメッセージ(誤読かも)がとても心地よかった。

「人殺しは立派なアート」
「平凡な暮しにはバイバイ」
「犯罪はエンターテイメント」
「裁判はショービジネス」


どんな不謹慎なことでも歌って踊れば気にならなくなってしまうのかもしれない。
何度も繰り返されたセリフは「オール・ザッツ・ジャズ」。
映画翻訳家はこう訳していたのだが、それがとにかく気に入った。
このセリフが名作映画「シカゴ」のすべてをあらわしているだろう。踊って歌えば――。

「なんでもあり」

まあ、どうせつまらぬ人生、せめて歌って踊るように生きようではないか。
じつはミュージカルの発祥の地は日本で、
ここだけの話だが(おいおい!)発明者は踊り念仏の一遍上人なのである。
登場人物みなが踊り狂う映画「シカゴ」は、
踊り念仏の一遍上人の遺志を異人さんたちがそのまま体現しているのがよかった。
人生は、なんでもありなんだ。なにをしてもいい。楽しく笑ってわがままに生きようぜ。
人を殺してもいい。正義なんてどこにもない。自分のためならなにをしてもいい。
ただ歌え。ただ踊れ。歌い踊るだけではいけない。笑え。笑いながら歌い踊れ。
この傑作ミュージカル映画を観たあと、
単純肉体労働のバイトに出向いたのだが踊るように働くことができた。ミスもなかった。
陰気な顔をせずに楽しく1日労働することができた。
こういう大衆のための映画を本当の名作というのだと思う。
インテリさんはくだらないとおとしめるかもしれないけれどもさ。

「アジアを歩く 灰谷さんと文洋さんのほのぼの紀行」 (灰谷健次郎・石川文洋/木世文庫)

→あなたにとってはどうだかはまったくわからないが、
わたしにはとってもいい本だったなあ。
灰谷健次郎の文と石川文洋さんの写真のどちらがよかったかと問われたら、
だんぜん写真のほうである。
灰谷健次郎とカメラマンの石川文洋さんの生涯収入を比較したら、
たぶん弱者の味方で正義の味方ということに表面上はなっている人気作家先生のほうが
貧乏カメラマンよりも百倍以上儲けているのではないか。
しかし、わたしは灰谷健次郎もいいのだろうが(きっといいのでしょうね)、
正義の人である腕組みが好きな灰谷健次郎よりも自然体の石川文洋さんのほうが好きだ。
間違っているのかもしれないが、
彼の写真のほうが人気作家の文章よりもはるかに良質だと思う。

それにしてもアジアの人の笑顔って本当にいいよなあ。
日本人の笑顔はどこか人工的で模造品くさいが、アジアの人の笑いはまったく自然である。
もしかしたら写真にだまされているだけかもしれないけれど、
わたし自身も何度かアジアを長期間旅したことがあるから完全な間違いではないはず。
いい本だったなあ。きれいな本だったなあ。読んでよかったなあ。
日本の底辺はどこか病的な暗さを持っているのに、
アジアのほうはどうしてあそこまで自然に底抜けに明るいのか。
いいなあ、いいなあ、といま何度もお酒を飲みながら本書の写真を見返している。
作家もカメラマンも酒好きなのが本書に好影響をおよぼしたのは疑いえない。
笑顔はいい、本もお酒もいい、ならばそうだとしたら、生きているのもおそらくきっといい。

「怒るヒント」(ひろさちや/青春新書インテリジェンス)

→非常に怒りっぽいひろさちや先生が書いた、日本人よもっと怒れという啓蒙書である。
じつはさ、ばれているかもしれないけれど、ここだけの話、ぼくも怒りっぽくてねえ。
いっとき謙虚になったんだけど、性格というのは変わらぬようでいまではかなり怒りまくっている。
もっとも客と店員というような関係で弱い立場のものには怒れないのだけれど(←偽善者)。
諸事情から時給850円の職場で余儀なく現在のところ働いている。
衝撃だったのは、目が死んでいる男性アルバイトさんががけっこうおられることだ。
喜怒哀楽という感情を失ったかに思える男性パートさんが複数いらっしゃる。
笑うことも怒ることもない。
時給850円なんだから笑わなくてもいいが、せめて怒らないかと思っている。
社員に言われたことはどんないやなことでもイエスと答え怒らない人たちがいる。
いったいあの人たちはどうして怒らないんだろう。
とても怒りっぽいひろさちや氏の分析はある面では当たっていると思う。

「怒らないことが、まるで社会的に経験を積んだ魅力ある人間の証という、
一種の信仰みたいなものがこの国にはあるようです」(P39)


しかし、と怒りっぽいひろさちや氏は続ける。
あなたたちが怒らないのは損をしたくないからではないか?
友人を失ったり、出世できなくなるから、そういう利益目的で怒らないだけではないか?
自分を大事にしないで損得計算をして怒らないのは卑屈ではないか?
しかし、ぼくの見たところ職場の労働者は損得を考えて怒らないのではないような気がする。
ひろ氏は怒るとかならず損をすると書いているが、
年長者には失礼だがそれは世間知らずというもので、
ぼくは怒って得をしたことがいくらでもある。
もちろん、得をしようと思って怒ったわけではなく、単に自制がきかなかっただけなのだが。
怒るという態度には損得度外視の姿勢がある点には著者に同意する。
あるいは、みなさんが怒らないのは以下のことを理解した賢者だからだろうか?

「怒るのは簡単ですから[そうかなあ?]、
どうしてもわたしたちはそこに頼ってしまうんですが
[それはひろさんやぼくだけじゃない?]、
それでは絶対に問題が解決しないということを知っておいてほしいんです」(P175)


いやあ、怒ってはじめて問題が顕在化して解決にいたることもなくはないっしょ?
職場のみなさんはどうせ怒っても無駄だとあきらめているから怒らないのかもしれない。
そもそも、ひろさちやさんやぼくはどうして怒るのだろうか?

「「怒り」の目的は、物事を思うがままにしたいところにあります。
でも、物事なんて相手があるものですから思うままになりません。
それどころか、自分の心一つだって思うがままにならないものです。
それを思うがままにしようとするから、カッとなってしまうわけです」(P172)


さすがは怒りっぽい人だけあって見事な分析である。
ひろさちやさんは怒りをしずめる方法もあまたではわかっているらしい。
それでも怒りっぽさは治らないし、そのうえ本書ではもっと怒れと読者に発破をかける。
怒るというのは自分を善にしてだれかを悪にしたいやしい態度と言えなくもない。
善悪というのが怒りに思いのほか関係している。
まあ、ひろ氏もぼくもできないだろうが、善悪を捨てれば怒らなくなるとはいちおう言える。
なにかのトラブルをだれかのせいにせず(悪人をつくらず)、
「成り行き」だと思えば怒りは理論上はしずまることになる。

「「あいつが悪い」がダメだと思うと、じゃ「俺が悪かったのか」と思う。
それでも当然納得できないでいるうちに、
「どっちが悪いわけでもないな」と理解する。
そこから、「成り行きだな」という考えに到るわけです。
「成り行きだ。これも縁なんだ」という発想にまでたどり着いたら、
まあ自然と怒りが消えていく場合もあるんです」(P147)


こうしたらかならず怒りが消えるとは言っていないのが、
怒りっぽいひろさちや先生らしくて非常によろしい。
そもそも、本書の主張は日本人よ、もっと怒れである。もっともっと怒れ。
損してもいいじゃないか。卑屈になるな。自分を大事にして、もっと怒れ。
ひろ氏は書いていないがぼくは怒るだけではダメだと思う。
ときには笑い、ときには怒れがいいような気がする。
怒っている人や笑っている人は人間味があっていいよね。
怒りも笑いもしない目が死んだ人は単純労働ロボットのようでゾッとする。
もちろん、ひろさちや氏もわかっているのだろう。
そのことは以下の引用文からくみとれる。

「怒るか怒らないか、それは人生をどう生きるかに深くかかわっています。
心のおもむくままに感情を表して、心の求めるままに行動できれば、
そんな幸せなことはありません。
笑いたいときに笑い、怒りたいときに怒る、
それが人生を楽しくするための基本です」(P45)


いっぱい笑ったり、いっぱい怒ったりするほうが人生は楽しい。
ときにはいっぱい泣くのもいいかもしれない。
どうして明るく笑うことばかり推奨され、怒りや涙はよくないとされるのか。
そんな根本的な問題提起が本書の奥底に流れているような気がする。
ぼくは喜怒哀楽が激しい、言い方を換えれば感情を隠せない幼稚な大人だから、
こんな怒ることをすすめるような本をよかったと思ってしまうのかもしれない。

「河合隼雄全対話9 母性社会日本を生きる」(河合隼雄/第三文明社)

→「存在そのもの」というのは、いいも悪いもないわけである。
人(自分、他人)や物は「存在そのもの」としては、いいも悪いもない。
「存在そのもの」にわれわれは勝手にプラスやマイナスのレッテルを張るわけである。
宝石なんかわたしにとっては缶ビール1本の価値もない石ころ(マイナス)だが、
人によっては億の金を支払ってまで手に入れたいもの(プラス)になる。
本当のところ「存在そのもの」としての宝石はプラスの意味もマイナスの意味もない。
われわれは人に対して「いい人」「悪い人」というレッテルを張る。
しかし、わたしにとって「悪い人」がべつの人には「いい人」であることも少なくないだろう。
犯罪者だってその家族には愛すべき「いい人」かもしれないのである。
他人のみならず、これは自分にも当てはまる。
われわれは自分のことを「ダメ」「まじめ」「暗い」「世渡り下手」などとレッテルを張る。
けれども、他人の目にはそうは映っていないかもしれないわけだ。
繰り返しになるが、「存在そのもの」としては自分も他人もプラスともマイナスとも言いがたい。
言い換えたら、「存在そのもの」はプラスでもマイナスでもない。
さらに換言すれば、「存在そのもの」はプラスでもマイナスでもある。
ならば、「存在そのもの」はいかなるものか。
「存在そのもの」はわからないものなのである。
われわれにはわからないのが「存在そのもの」だ。
わからないがためにプラスともマイナスとも言いうるのが「存在そのもの」であろう。
自分も他人もじつのところは、なにがなんだかまったくわからない存在である。
たとえば、われわれは自他を安易にポジティブ、ネガティブなどとラベリングするが、
本当のところはなにも見えていない。暗い人が明るかったりするのである。
いつも明るくふるまっている人が実際は匿名ブログに愚痴ばかり書いているかもしれない。

しつこいのはわかっているが繰り返すと、
「存在そのもの」はまるでなにがなんだがわからず、われわれの目には見通せない。
だとしたら、われわれには一見するとプラスに思えるものもマイナスかもしれない。
舌打ちしたくなるようなマイナスの事件も見ようによってはプラスかもしれない。
「存在そのもの」がコインの裏表のように
プラスとマイナスをあわせもっていると考えたらどうだろう?
プラスを集めれば集めるほど、見えない世界ではマイナスを集積させていることになる。
反対にマイナスだらけの状況というのは、
裏側から見たらプラスに満ちあふれていることにならないか。
だからかどうか、河合隼雄はこんなぶっ飛んだことを言う。
河合隼雄は嘘つきを自称しているが、
こんな発言を真に受けたら人生が破滅してしまうのではないか。

「人間のことを考える場合に、ぼくなんかとくに思うんですけど、
なんかプラスばかり追求する人って大体ろくなことがないでしょう、
(笑)芸術家にしろなんにしろね。
ためになるとか、まじめなやつは大体だめですよね。
なんかマイナスの方向に、極めていく人のほうが、ものすごい反転というかな……」(P17)


かといって、どちらの道がマイナスかもわからないのである。
河合のアジテーションを真に受けてマイナスを極めたいなどと獣道を分け入ったら、
あんがいそちらはプラスに通じているのかもしれないわけだから。
重要なのは、ふたつの道があったときに、
どちらがプラスかマイナスかはわからないということである。
Aの道とBの道のどちらがプラスでどちらがマイナスなのか。
可能ならばあれ(A)もこれ(B)も試してみたいが、それはできない相談である。
だが、プラスマイナスがわからない以上、あれ(A)もこれ(B)もとなってしまう。

「ただ、あれもこれもではなんにも言えなくなるし、動かなくなるし、変わらなくなるし。
だから、あれかこれかと言わざるをえない人間が、
あれもこれも状況のなかでどれだけ息が続くかというところで勝負があるみたいですね」(P46)


あなたの嫌いな上司が善人なのか悪人なのかはわからない。
会社に残ったほうがいいのか退職したほうがいいのかはわからない。
安易にだれかの助言にしたがわず、自分のわからないという感覚をたいせつにする。
河合は「たましい」というわけのわからないものを晩年に強調していたが、
「たましい」から見たらなにがいいことか悪いことかはわからない。
そもそも河合自身も「たましい」がなんなのかわからないと述懐している。
「たましい(ソールメーキング)」とは――。

「自分でもわけのわからないことをよく言ってるわけで、もっと開き直って言うと、
自分でもわけのわからないことを大切にしようとしているというのが、
一番いい形だと思っているんです。男でも女でも、
いいか悪いかを割り切ったとたんに、失うものが必ずあるでしょう。
下手すると、いいことと悪いことと分けて、
いいことを頑張ってくればいい人になる、とみんな思ってたわけですよね。
それをもうやめたらいいんじゃないか、ということですね」(P123)


自分でもわけがわからないものをたいせつにしよう!
本書は対話集だが大学者の河合隼雄とテレビライターの山田太一の意見交換がある。
ここがおもしろかった。いきなり話がものすごく飛躍しているのである。
おそらくこういう大きな飛躍が本来対話の魅力になるのだろう。
テレビライターの山田太一は、自分でもわけのわからないものを重んじて創作しているという。
それを引き継いで、河合隼雄はすごいことを言っている。
山田太一の創作作法は――。

「山田――頭の中で強引に作る時もあるわけですが、
そういう時はなかなかうまくいかないですね。
自分でも非常にうまくいったと思う時は、肩の力も抜けていて、
まるで自分の力じゃなかったような気がする。それは不思議なものですね。
河合――その微妙な一瞬というのが、ふれあいの妙味なんですね。
そういうのが人と人との関係の中に生まれたとしたら、
これはほんとに感謝すべきことだし、文字通り「有り難い」ことで、めったに起こりません。
野球の打率でも三割というのはものすごいのだから、
ぼくら十人の人に会うて三人の役に立てば、もって瞑すべしですわ」(P149)


創作のみならず人間関係もまたあたまのなかであれこれ考えるよりも、
肩の力を抜いて自分の力ではないものに任せていたほうがいい。
そういうときに人間関係における真のふれあいのようなものが生じるが、
しかしけれども、そのような人と人の奇跡はめったに起こるものではない。
そしてそして、河合隼雄は気がゆるんだのかぽろりと本音をもらしているのである。
カウンセラーのボス猿たる河合隼雄の心理療法でさえ効果があるのは3割程度である。
なぜなら、河合隼雄自身がこう言っているからだ。
「ぼくら十人の人に会うて三人の役に立てば、もって瞑すべし[満足]ですわ」――。
世のカウンセラーのみなさんはこれを知ったら安堵するのではないか。
ユング研究所仕込みの河合隼雄の心理療法でさえ3割にしか効果がないのである。
クライエント半分くらいに効果があれば彼(女)はたいそう立派なカウンセラーだろう。
しかしまあ、3割かあ。3割とはねえ。ふふふ、3割かよ。
とはいえ考えてみたら、たとえ3割でもありがたいことなのだろう。
自分でもわけがわからないものをたいせつにしていたら3割の奇跡が起こるかもしれない。
すぐに物事のプラスマイナスを判断せずにわからないという感覚を保持していよう。
プラスやマイナスのレッテルを張って安心するのもときにはいいが、
本当はマイナスはプラスでプラスはマイナスかもしれないというおそれを抱こう。
世界は、人間は、他者は、それどころか自分も、
本当はなにもかもいっさいまるでわかっていないのかもしれない。

本書に司馬遼太郎との対話が収録されているが、
司馬が踊り念仏の一遍を絶賛していたので驚いた。
「いま強いて古い日本にモデルを求めようとするなら、
一遍しかいないかもしれません」とまで言っている。
瀬戸内寂聴さんだけではなく司馬遼太郎も一遍のファンだったのか。
みなさまにはどうでもいいことだが、
わたしもむかしの坊さんのなかでは一遍がいちばん好きなので嬉しくなった。

「親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと」(山田太一/新潮文庫) *再読

→PHP新書から復刊されたらしいので新潮文庫のものを再読してみた。
繊細ぶってやわな感想を書くと、傷ついたなあ。
というのも本はそれぞれの解釈しだいだが、多少被害妄想的に読解すると、
結婚や子育てをしないものは人として半人前ではないか、
と著者は主張しているように読めなくもないからである(そういう意図はないでしょうけれど)。
しかし、子育てどころか結婚さえできないのは人間のクズという意見はかなり「正しい」。
いま縁あって時給850円の最底辺職場にありがたくも雇ってもらっている。
するとさあ、男は見るからに独身ばかりなのだが
(聞かれたくないから聞かないが見かけの話)、
女のパートは結婚してそうな人もちらほらいるのである。
決して本人たちのまえでは言えないが、こっそり思うのは、ふーんである。
ふーん、こういう人たちでも一丁前に恋愛して結婚しているのかあ。
なかには子育てもした人さえいそうだから、しつこいが、こういう人たちでもねえ。
そういう不謹慎なことを一瞬だけ(ですよ、一瞬だけ一瞬!)
考えなかったことがないとは言えないことを白状してしまおう。
そういう女たちが偉く見えるかと言ったら、そこまで偉くは見えないのである。
だが、人気作家の山田太一は家族(配偶者、子供)のよろしさをことさら強調する。

「こういういい方をすると家族のいない人を傷つけてしまうかもしれませんが、
家族は、すごく人間を教えてくれる場所であるし、
なかでも子供を育てるということは、人間というものを理屈なく教えてくれるし、
自分についても実に沢山のことを教えてくれます。
それ以外の所では、会社へ行ってもありきたりの通り一遍のつき合いで、
近所の人も一応いい人だっていうように、いまはなりがちです。
すると、本当のところ――自分は何なんだ、他人は何なんだ
ということがよく分からなくなる。それを教えてくれるのが、
子育ての場所であり、夫婦関係ではないでしょうか?
得難い場所だと、ぼくは思います」(P146)


ものすご~く意地悪な見方をしたら、国民的人気作家の山田太一氏の人間観はこうなる。

既婚者>独身者

子あり夫婦>子なし夫婦


この人間観が間違っていると主張したいわけではなく、まったくそうだよなあと思う。
バイト先でもダブルワークで来ている妻子持ちの若いお兄ちゃんがいるけれど、
おそらくパートのなかで一二を争うくらい仕事ができて、かつ人柄もたいへんよろしい。
山田太一さんは「本当のこと」をたまに言うけれど、
独身者や子供がいない夫婦は人間としての成熟に欠けるというのは事実だろう。
東大卒の比較文学者の小谷野敦さんは、学歴で人を判断する姿勢を隠さない。
学歴人間観が100パーセント「正しい」わけでは断じてないけれど、
学歴などまったく当てにならないと言ったらそれもまた嘘になるわけでしょう?
みなが本音の部分でどこかで意識している学歴差別を小谷野さんは正直に書く。
すると、叩かれに叩かれるわけである。
ところが、山田太一さんが独身者や子なし夫婦は人間として成長できないという
「本当のこと」を書いても、あの温和そうなお顔の恩恵なのかまったく叩かれない。

山田太一さんは「本当のこと」をお書きになっているのである。
結婚できないような男女は、人間を知る機会に恵まれず未熟なまま人生を終える。
子育てをしたことがないものは、人間の奥深いところを学べず底の浅い人間になる。
たしかにそうだよなあ。本当にまったく山田太一先生の言うとおりだよなあ。
山田太一のファン層は、リスクを恐れて平凡で月並みな人生を送る生活者が多い。
本はめったに読まないが新聞やテレビを見ていっぱしに自分の意見を語る手合いだ。
そういう連中は高望みをしないでお互いのレベルに合わせた結婚をしている。
深く考えもせずに、みんながしているからという理由で子供を育てている。
こういう多数派の生活者は山田太一氏の意見にしびれるのだろう。
平凡な自分を肯定されたと思うがためである。
みんなとおなじように結婚している私たちは偉い。
なんとなく子育てをしている私たちは立派なんだ。

結婚や子育てなんてそこいらのDQN(ちんぴら)でも楽勝でしているのである。
尊敬する山田太一さんがしたほうがいいとおっしゃるのなら、
わたしも結婚や子育てをしたいものだが(本当かよ!)、
哀しいかな、いまの稼ぎだともうどうポジティブに考えようとも無理なのである。
きっといまのまま底の浅い未熟な人間として短い生涯を終えることになるのだろう。
この本のオリジナルは著者が60歳(くらい)のころに書かれたものらしい。
60歳になったらもう安全だと思ったのだろうが、
それでも「子育て本」を書く勇気には敬服する。
だって、もし「子育て本」を出したあとに自分の子供がやんちゃをしてしまったら
赤っ恥になるのだから。
山田太一さんのご長男はアレレな時期もあったような真否不明の噂話(ガセネタだろう)を
聞かなかったこともないけれど、いまは日米をまたにかけてご立派にご活躍しているらしい。

本書のタイトルは「親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと」。
親が子供になにか意識的な影響を残そうと思っても、
そういうことの大半は無駄に終わるという子育て論である。
むしろ、意識しないところで親は子供に影響を与えていると子育てに成功した著者は語る。
むろん、それはケースバイケースだと山田太一さんもわかっているのではあろうが、
くだらぬわたしの体験では親は子供にかなりのことをできるのではないかと言いたくなる。
わたしの母親は息子であるわたしの目のまえで飛び降り自殺をした。
ある日の明け方、道ばたにいたら上から名前を呼ばれ、
声のほうを見たら母が9階から落ちてきて血まみれになって死んだ。
遺された日記にはわたしの悪口が書かれていて、人生ボロボロになりましたねえ。
14年経って、まあまあ、人生そんなもんさ、という達観に行き着きましたけれども。
言いたいのは、いいかしら、「親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと」ではないこともある。

以下は社会的な成功をおさめたのみならず、
結婚や子育てにも成功した山田太一氏の大学時代の思い出である。
氏のお父君がたまに上京してくると、かならずすき焼き屋に連れていかれたという。
山田青年のお父さんは叩き上げの人でろくな教育を受けていないから、
早稲田大学に入った息子が誇らしくて仕方がない。
このため、お父さんはすき焼き屋のお姐さんに「こいつ早稲田」と決まって自慢する。
山田青年はそれが気恥ずかしくてやめてほしかったという。

「[父は]「こいつ早稲田」といって、お姐さんがスゴイとかいうに決まっている、
という顔をするので、こっちははずかしくていたたまれない思いでしたが、
いまふりかえると、得意そうな父の顔にほろりとしますね」(P112)


どうでもいいわたくしごとを書くと今日は死んだ母の誕生日でいろいろ思い返しているが、
山田太一氏のようにほろりと亡親を懐旧するようなことがなく、ただただ悲しい。
山田太一さんは、なるべくなら結婚しろ、子づくり(子育て)をしろ、
と本書で半分言っているようなものだが、
最後にだれも興味がない愚かな失敗者のわたしの意見を述べると、
劣悪な遺伝子を持つものは結婚はしてもいいが(まあ、できないだろうが、できるものならさ)、
いいか、いいか、はあはあ、子づくりだけはやめておけよ。やめておけ。だから、やめろ。

(参考)「親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと」出版記念、
「ラジオ版 学問ノススメ 山田太一」

「働くということ 実社会との出会い」(黒井千次/講談社現代新書)

→調べてみたら黒井千次ってまだ死んでいなかったのかあ。じゃあ、セーブしないとね。
本書は1982年刊のふっるくさ~い労働礼賛本である。
人は仕事(労働)を通してしか自己実現にいたらないとか大真面目に書いてある。
ほとんどの人にとって労働はやらなければならないことだから、
だったらその労働を神聖行為にまで持ち上げようという多数派の意向は理解できなくもない。
いやいや仕事をするよりも、
これは価値があるものだとおのれをだましながら労働したほうが精神衛生にもよかろう。
しっかしさ、著者のように盲目的に労働を礼賛するのはなにかに洗脳されているようで怖い。
身もふたもないことを言えば、働く意味なんて相対的に休日の価値が高まるくらいでしょう?
毎日働いているから休日のありがたみがわかる程度。
でもね、知り合いに15年近く働かず遊び続けているふざけたやつがいるけれど、
その人に聞いたらまったく退屈しないし楽しいってさ。
まあ、そういう人は天才レベルなわけで、われわれは労働をしなければならない。
けれども、労働が自己実現にいたる道だとか説教されると、え? と思っちゃう。
そもそもなぜ自己実現しなくちゃいけないのかも、
さらに自己実現とはなにかも本書には書かれていない。
労働を通して人は成長するというのなら、労働者はみんな人格者かっていうと違うよね?

本書は仕事(労働)の教科書のようなものだと思う。
みんなこういうふうに自己洗脳していやな仕事でもいやな顔をせずにやっているという。
バカにしたようなことを書いてきたが、本書にも一理あることはたしかなのである。
よくもまあ、こんなきれいごとをきれいに書けるものだとからかいたくもなるが、
著者の黒井千次は東京大学を卒業して一流企業に就職。
退職後は専業作家になり、その後も文壇の出世コースを順調に歩んだ名士だ。
きれいごとで生きていけるような人生に恵まれたいわば果報者である。
考えてみれば、なかなかきれいごとをきれいには言えないものではないか。
ついつい人生で挫折ばかりのわれわれは本音をのぞかせてしまう。
その点、本書のきれいごとは
東大卒の元一流会社員という経歴を持つ著者にしか書けない意味深さがあると思う。
忙しいみなさんはこんなむかしの本を読む暇はないはず。
代わりにわたくしめが本書を要約すると、労働の意義はふたつあるということになる。
1.仕事(労働)を遊びと考えたら、そこに自己実現にいたる道がある。
2.仕事(労働)は人と人を結びつける。

仕事を遊びと考えようっていうのは、よく知らんがビジネス本に書いてありそうじゃん。
たしかによく仕事のできる人は遊ぶように仕事をしているとも言える。
単純作業になるとゲーム感覚で遊んで、いや働いているとでも言おうか。
みなさまはテトリスというゲームをご存じですか?
あのテトリスこそ労働と遊びの境い目をなくしてしまう魔のゲームだと思う。
このまえバイト先の同僚と雑談しているとき、いましている単純作業はテトリスだと気づいた
いろいろな形の本をひたすら箱に詰め込んでいく作業である。
これってまさしくテトリスにほかならないのである。
とはいえ、さすがにテトリスからは自己実現にはいたらないと思う。
著者が15年勤務したという一流企業(富士重工業)の労働ならば、
もしかしたら自己実現への道筋ともなり、いまの黒井千次氏の得ているような地位
(毎日芸術賞、伊藤整文学賞選考委員、文化放送番組審議会委員長)
に到達することになるのかもしれないけれども、
それは当方は経験していないからわからない。
底辺労働を一度もしたことがない元一流会社員で、
現在は権力の最高峰にいる黒井千次氏は「労働=遊び(→自己実現)」を説く。
これを労働者がみなが信じてくれたら日本社会上層部にいらっしゃる方に都合がいいのだろう。
労働者がいやな顔をせずにせっせと働いてくれないと経営者は儲からない。
労働者が少ない稼ぎのなかから税金を払ってくれないと政治家は甘い汁を吸えない。
黒井千次は言う。労働者諸君、労働を遊びと思いたまえ。

「「労働」と「遊び」を互いに背反するものと考えるのではなく、
むしろ相互補完的な人間の営みとして受けとめようとする姿勢こそが重要なのだ
「労働」の中には「遊び」がひそんでおり、「遊び」の底には
自己実現を核とする「労働」が沈んでいる事実が忘れられてはならないのである。
「労働」が疎ましく「遊び」は好ましい、という単純な感覚論をもってしては、
「労働」そのものはおろか、「遊び」の本質さえ掴みそこなうことになるだろう。
つまり、「労働」のあり方が正確におさえられていなければ、
「遊び」のありようも探れぬわけである」(P145)


わたしの言葉に言い換えたら、みんな労働も遊びも本当にしているかい?
ってことになるのだと思う。
もしやわれわれは月曜日から金曜日までひたすら(労働でなく)我慢をして、
土日に(遊びではなく)消費をしているだけではないのか?
本当の労働も本当の遊びも味わっていないのではないか?
おっと、少し「労働教」に洗脳されてしまったかもしれない。
上記のような論理の先にあるのがワタミの「24時間死ぬまで働け」である(笑)。

著者のもうひとつの主張は、労働は人と人を連帯させるということだ。
それぞれ孤独な人間は労働を通してわずかながらでも人と触れ合えるのではないか。
幼稚な言い方をすれば、みんなでひとつのことをするのは楽しいってことだと思う。
人と協力して働くことで他者のありがたみに触れることができるとでも言おうか。
わかりやすく言えば、労働を通して、もし働いていなかったら
絶対に縁がなかった人と多少なりとも交渉を持てるということになるだろう。
いろんな人とわずかなものにしろ感情の交流を持てるのが労働のよろしさだ。
以下の著者の説明はわかりやすい。

「たとえば、ある部署のメンバーが共同して一つの業務に取り組む時、
各自の机に向って別々の仕事をしていた折には見られない特殊な雰囲気が
あたりに生まれてくるのは間々経験することである。
他の職場の者が次々と退社して周囲が暗くなり、
そこだけ明りの灯されている職場で残業を続けていると、
平素はあまり関心を持っていなかった同僚が急に親しいものに感じられたり、
いつもはむしろ悪意をもって対していた職場の人間が
昼の間は見せなかった思いがけない顔をちらりとのぞかせたりする。
それは昼休みや帰り道に、
気の合った者同士が行きつけの店に腰を下して上役の悪口を言い合う際の、
ほっと気が楽になるような親しみとは別種の感情なのである。
腹が減り、疲れていても、そんな時にふと感じられる温かさは容易に忘れられない。
もしも一つの共同の仕事をしているのでなければ感じることのなかった親しみが
そこに生み出されるのだとしたら、仕事そのものが
自然の内に人と人を結びつけているのに他なるまい」(P171)


そうかといってプライベートでのつきあいが生まれるかといったら、
大半はそういうふうにはならないのだが(仕事だけの関係)、
しかし労働中の労働者同士の触れ合いは、
彼(女)にとって存外賃金以上の意味を持っているのかもしれない。
著者はきっとそう思っているのだろうし、
そこだけは東大卒や一流会社員が(嫉妬から)嫌いなわたしも同意したい。
さあ、月曜日! いまから労働だ! 遅刻しちゃうぜ!

よく覚えていないが、1ヶ月まえくらいから電子レンジがまわらなくなったのである。
あたためボタンを押してもなかの皿がまわらない。
数年まえにビックカメラで1万5千円ほどで買った電子レンジだった。
買い替えるお金もないし説明書やらを探すのも読むのもめんどくさいので放置していた。
それがさっきいまなぜかまわっていて、わけのわからなさに吹き出しそうになった。

まあ、いきなりまわりはじめるものなのだろう。
ストップ、つまりとまるときはいきなりとまってしまう。
なぜとまったのかも、なぜまわったのかもわからない。
そうではあるけれども、とまったときは腹が立つし、まわったときはうれしい。

とにかく、まわりはじめた。
これからいろいろなことがうまくまわりはじめる予感がする。
これからいいことがいっぱいあるような。
そういう予感は今年の春ごろから実感としてございました。
シンクロニシティなるものがあるのだとしたら、これをお読みのかたにもきっと!
いま流行りの言葉(おっさんくさいかも?)でいうと自己承認欲求というのが「魔」なのだと思う。
「あなたしかいない、お願いします」といわれるから人は過労死寸前まで働いてしまう。
ぶっちゃけ、(経営者ならぬ)労働者の代わりなんていくらでもいるのだけれども。
しつこいが、代わりはいくらでもいる。
べつにあなたがいなくなってもべつの人を雇用すればいくらでも足りる。
基本的に労働者なんて、よくも(たしかいい面もあるのですよ!)悪くもそんなものだと思う。

よくわからないがおそらく、
だれかのかけがえのない存在になりたいという欲求が人にはあるのだろう。
だから、人は恋人や友人を求めるのかもしれない。
愛と縁のない人、友がいない孤独な人が仕事の「あなたが必要だ」にだまされる。
あなたの代わりなんていくらでもいるにもかかわらず。

少しでも代わりがいないものになるためには秘密を知ることかもしれない。
仕事量は新入りと代わらなくても
秘密を知っているがゆえに優遇されるのがベテラン労働者ということもできよう。
どんな商売でも表に出されたら決定的にダメージになる秘密があるような気がする。
人がその秘密の公開をしないのは、
そんなことをしたら次にどこの企業にも雇われないのをわかっているからだろう。

「あなたじゃなくちゃいけない」

わたしをふくめて、人はこの言葉に弱い。
しかし、ビジネスの場ではこの言葉はたいがい嘘だ。
結婚詐欺やネットワーク商売(ネズミ講)、新興宗教では頻用される言葉だろう。
忘れないようにしましょう。
底辺職場から一流ビジネスにいたるまで、あなたの代わりはいくらでもいる。
しっかし、わたしの代わりなんていないと思うけれどなあ。
そこが「魔」であり、その人の「希望」でもあるのだと思う。
まじめはうつ病のもと。まじめの反義語はいいかげんだと思う。
いやさ、まじめもいいんですよ。でも、いいかげんもまたいい。
まじめもいいかげんもどっちも「正しい」し、どっちもよろしい。
「秋分の日」も酒代、本代を稼ぐためにせっせと非正規賃労働に励みました。
休日だから人が集まらなかったのかなあ。
今日の書籍ピッキングのライン(流れ作業)はふだん見ない顔ぶればかり(日本人)。
いつもはラインではなくほかの作業をしている方たちだと思う。
いざ始まったけれども、あくびがとまらないくらいラインの流れが遅いのである。
このぶんだと23~24時までかかるのではないかと思ったくらい。

しかし、17時くらいから外国人がたくさんラインに入ってきた。
すると、ラインのスピードが異様なほど上がったのである(結局22時終了)。
こうなると人件費と作業効率を考えたらだんぜん外国人を雇ったほうがいいことになる。
ただし17時以降は本の積み方が笑ってしまうほどめちゃくちゃである。
日本人ばかりだとお互いを牽制しあってまじめになるからどうしても時間がかかってしまうのだ。
わたしも横が日本人の古株さんだと気を遣うから丁寧になる(遅くなる)。
今日のラストはこうだった。日本人以降――。
(ベトナム男)→(ベトナム女)→(ネパール女)→(ベトナム女)→(ベトナム女)→私
もう箱のなかはぐちゃぐちゃだが、
自分の間口(持ち場)の本をその場しのぎでいいかげんに(い~いかっげん♪)
入れるくらいならできるのである。あとは野となれ山となれ。
でさあ、結局そのいいかげんで最後まで本を入れ終えたら結果オーライなわけでしょう?
うまく行かなかったのはたいへんでしょうが最後に検品さんにやってもらう。

外国人のよさはいいかげんにあると思う。
日本人って(わたしもふくめて)時給850円なのにまじめになるのよねえ。
わたしのトラウマは一回まったく日本語がわからないベトナム人の女の子(新入り)に、
そうとは知らず「まじめタイム」のノリで本の入れ方について「正しい」ことを言ってしまったこと。
そのあとすぐに悔い改めて、新人さんだし、日本語がわからないんだし、
そのうえ時給850円だし、こちらもおなじパートだし、とその日は一日こちらがうつになった。
いいかげんもよくないけれど、まじめもよくないと思いませんか?
今日はある古参パートさんが途中で帰っていた。
間口のやらなければならない書籍の分量を見たらわたしの倍近くあった。
わたしはこのパートさんは「正しい」と思う。
時給850円くらいで身体を壊すよりも、早く帰ったほうがよほどいい。
そのパートさんが帰ったあと鬼のように書籍は出たから、
彼女の予想は正しかったことがわかる。
鬼作業はパワーあふれる外国人男性さんがなさっていた。
社員さんと古参パートさんのやりとりがおもしろかったなあ。
社員「今日は19時で帰っちゃうんですか? いつものようにお願いできませんか?(笑顔)」
パート「このあと約束があるんです(笑顔)」
社員「そうなんですか(笑顔)」
パート「約束があるんで、今日は(笑顔)」

日本人社会ではこれがないと生きていけない、
相手をお察ししたり空気を読むちからをこういう光景を見ながら勉強させていただいている。
わたしはこの社員さんもパートさんも大好きである。
お互いがお互いにそれぞれ「正しい」と思う。
わたしもあの間口だったら「逃げた」かもしれない。
目先の小銭よりも(長生きはできないだろうけれど)一生ものの身体のほうが大事だし。
ちょっとまえかなり量が出る間口を振られたことがある。
はじめて朝から出勤させていただいたときである(これで最初で最後かも)。
朝からははじめてだったので二日酔いがひどく酒くさかったかもしれない。
貼りだされた持ち場の紙を見たら、「カド」に配置されていた。
「カド」はみんなが嫌っている責任の多い持ち場である。
「○○さーん、わたし、カドはやったことがないんですけどお」
「――」
「まあ、適当にやればいいんですね」
社員A「て、適当にやらないでください(苦笑)」
社員B「適当にやらないでください(苦笑)」

「適当にやればいいんですね」なんて社員さんに言える自分の図太さにあきれてしまう。
たぶん前日のお酒が残っていたのだろう。
これをバイトが言えるのも、
こうバイトが言っても苦笑で済ませられる社員さんもどちらもすごい職場だと思う。
その日の「カド」はやたら出る本の量も多く、不満たっぷりに働いていた。
午前中に帰らなかったら、午後からも「カド」だった。
そうしたらパート配置責任者の社員さんがわざわざ見に来てくれたのである。
そういう心配りに感謝して、
「大丈夫ですよ、今日はやります」の無言メッセージを笑顔に託して送った。
たぶん通じたのだと思う。あうんの呼吸というやつである。
考えてみたら、社員さんに嫌いな人がひとりもいないのである。
パートさんもほとんど全員好きだ。
今日の左横は新入りのベトナム人の女の子だった。
働いている最中にカナリアのような声でベトナムの歌をうたうのである。
ひとりカラオケをしながら働いてもいいアルバイト先なんてここくらいではないか。
この職場のいいかげんなところがとても好きである。
わたしの長所はまじめにもいいかげんにもどちらにも対応できるところかもしれない。
ある面とてもまじめだし、反面超絶にいいかげんなところも持ち合わせている。
明日は忙しそうなので24時まで働かせてもらおっと。
この映画もまたテレビライターの山田太一氏が浮世の義理かなんなのか、
かつて推薦していたことがあるらしいので(*)有料放送ジェイコムで録画視聴する。
軽度のアル中で職業は自称翻訳家としか思えない、
どこまでもぐうたらな女(薬師丸ひろ子)が世間体に縛られ結婚しろとうるさい親のために、
ホモで女に興味がない高収入の医師であるイケメン男(豊川悦司)と偽装結婚する話である。
ちなみに医者の豊川悦司と男根でお互いのケツを掘り合う卑猥な関係にあるのは筒井道隆。
興味がないので監督も脚本もだれだか調べなかったけれど、
まあ製作者が「嫉妬のない関係」を理想だと思っていたのはなんとなくわかる。
われわれはどうして嫉妬をするんだろう。
あなたに好きな人がいたとしよう。
その人が別の人をあなたよりも好きだと了解すると、
どうしてだか(どうして?)理不尽に感じ悪感情をいだくのがいわゆる嫉妬である。
この嫉妬がわからないというのが映画「きらきらひかる」だと思う。
あまりよく理解(感動)できなかったのはこちらが未熟なためかもしれない。
おそらくわたしも独占欲が少ないほうなのだろう。
だれかに独占なんかされたくないから、だれかを独占しようとも思わない。
4番目、5番目のほうがかえって落ち着く。
みんなくだらない常識なんかに縛られずに好きなように生きればいいんじゃないかなあ。
この態度の一点だけに非常に共感するものがございました。
人は人、自分は自分じゃないですか?



向田邦子賞作家で橋田寿賀子賞特別賞作家でもある山田太一氏の
推薦するアメリカ古典映画「カサブランカ」をジェイコムで録画視聴する。
わたしに白黒映画を観るように仕向けることができるのはいまや山田太一さんだけである。
おもしろくてたまらなかったなあ。
どのくらいおもしろかったかといえば、隙間に嫌いな家事をできてしまうくらいだ。
みなさまにはどうでもいいことだが、洗濯物を取り込んだり掃除をしたりはとてもめんどうくさい。
しかし、「カサブランカ」があまりにおもしろかったので、
視聴途中に何度か休止して洗濯物をたたんだりトイレ掃除やらをしてしまったくらいである。
あたまのなかは映画のことを考えているから、自然と手の動きも早くなる。
映画の先を知りたいというアメをぶらさげて嫌いな作業を素早く行うことができた。

どのような角度からも語れる名作映画だが、
さんざん論じつくされた作品に対して
映画オンチのわたしがいまなにかを語るとするならばこうなる。
人は「自分のため」と「他人(みんな)のため」、
いったいどちらのために生きるのがいいのだろうか?
そして、いわゆる恋愛と呼ばれている男女の感情交流(およびそれに付随する肉体交渉)は、
「自分のため」にするのと「他人(相手)のため」にするのではどちらが「正しい」のか?
大半の山田太一ドラマには「正しい」答えはないが、
「カサブランカ」にはどうやら正答があるようだ。
人間は「自分のため」に生きるよりも「他人(母国、正義、国民)のため」に生きるべきである。
恋愛とは「自分のため」にするものではなく「他人のため」を思うことが恋愛である。

まずはいまや絶対正義となった恋愛から話をすすめよう。
いわゆる通俗恋愛は「自分のため」にするものだろうか?
それとも「正しい」恋愛とやらは「他人(相手)のため」にするものなのか?
もし自分がだれか異性を好きになったとする。
そのときやっぱり相手をコントロール(支配)したいと思うわけでしょう。
相手に自分の価値を認めさせたい。相手をほんろうしたい。相手を自分に夢中にさせたい。
とはいえ、だれかを好きになったら「他人(相手)のため」に尽くしたいという気持も生まれる。
相手の気に入るものをプレゼントしたい。おいしいものをご馳走したい。
卑俗なことを書くと口淫というのは、もっとも相手に尽くす行為の象徴だと思う。
身体を差し出すというのが、一方の性からはもっとも愛情の表明になることだろう。

「自分のため」か、「他人のため」か?
とことんまで愛情なるものを突き詰めたらかえって反対のことをしませんか?
自分がダメだという自覚がある人は、
だれかを好きになってもこんな自分ごときが……と相手のご迷惑を考えるはずである。
相手のためを考えるがために相手のことを断念するのは論理的におかしいのか?
そうだそうだ、わたしは山田太一さんのことを好きだが、
ひとたびたりとして交流を持ったことがない。
手紙を書いたことは一度もない。
講演会にはひんぱんに行っていて、1メートル以内に近づいたことさえ何度もある。
しかし、わたしは山田太一さんに話しかけなかった。
質問タイムに挙手をしたこともない(今後するかもしれないけれども)。
自分なんかがこちらが一方的に好きなだけの相手様の貴重なお時間を
奪ってはいけないのではないかという思いがどこかにあった。

山田太一さんを好きな方は多くおられるようだが、
みなみな氏の残り少ない時間を奪おうとするわけでしょう。
仲人をしてくれ、自著を読んでくれ、自作(映画)を見てくれ、
推薦文を書いてくれ、相談に乗ってくれ、手紙の返事をくれ、つまり自分のことを認めてくれ。
本当にだれかのことを好きになったら、
つまり相手のすばらしさを理解できていたら、
わたくしごときがと思うのが「正しい」とは言えないか?
人当たりのいい山田太一さんとの交流を自慢するファンにはうんざりする。
本当にきさまは山田太一が好きなのか?
黙って遠くからなにも言えずに見ているのが本当の愛情とも言えなくはないか?

「カサブランカ」に話を戻そう。
女に振られたことを根に持って「自分のため」に生きていた女嫌いの主人公は、
映画のラストで「他人のため」に生きようと決意する。
正義(笑)のために生きよう。愛国心をたいせつにしよう。
つまり「自分のため」に生きることをやめる。
わたしはこういう態度は嫌いだが、しかし好きな女をあきらめているのがいい。
自分が惚れた女のことをどこまでも真剣に考えたら、
自分となんか付き合わないほうがいいという結論にいたるのが「正しい」のではないか?
本当に相手のことを好きになったら「相手のため」になることを考えるのではないか?
自分なんかと交際するのが「相手のため」になるのか?

名作映画「カサブランカ」はかつて女に振られたことを根に持つ女嫌いの男が、
立場を利用して逆に女に自分のことを惚れさせて仕返しに振る話とも読めなくもない。
こういう多面的な解釈をできるのが名作たるゆえんだろう。
白黒映画「カサブランカ」はとてもいい娯楽作品だった。
明日はまたまた山田太一さんご推薦の映画「シカゴ」を
バイトに行くまえに観られたらと思っている。
最後にこれだけは書いておきたい。
みなさまのなさっておられるのは恋愛ではなく恋愛もどきではございませんか?
愛のために生きるですと?
「他人のため」にあなたが生きているならそれはごまかしの偽善だ。
かといって「自分のため」に生きているといったらエゴイストと袋だたきに遭いかねない。

「(私は)自分のためにしか闘わない」

「ひがんでいるの?」

「ラズロ(恋敵)や正義がそれほど大事なら(拳銃を)撃てばいいだろう?」

「こんなに愛するなんて」


これから書くことはフィクションね。
まさか働く喜びなんてあるはずがないじゃないですか。
今日のアルバイトの最後のほうは本当におもしろかった。
本当にありがたいことに書籍ピッキングのライン(流れ作業)に入れてもらっていた。
最後のほうだからかすげえだらだらしているわけ。ラインは外国人女性ばかり。
比率からしたら日本人のほうがはるかに少ない(いることはいるけれど)。
早い時間帯は日本人が多く、基本的にみんなまじめに作業をする。
遅くなると外国人が増えてきて、本の箱の入れ方が雑になってくる。
それも仕方がない話で時給850円ゆえ日本語がまったくわからない人も大勢いるから。
いちおうは本を箱にこう入れろみたいなものはあるのだけれど、
そもそも日本語がわからない人たちだから言っても通じない。
ラインには「まじめタイム」と「いいかげんタイム」があるのだと最近気づいた。
日本人が多い「まじめタイム」は隣の人や後の人のことを考えてまじめに本を箱に入れる。
しかし、外国人が多くなってからまじめに働きなんかしたらうつ病になってしまう。
もうみんなめちゃくちゃ本を箱に入れているのだから。
わたしひとりがどうやっても直せない本の積まれ方をしている。
それにさ、ラインの後が日本語のできない外国人だと
こちらが一生懸命に本の入れ方を直してもどうせまた崩されてしまうのだ。
まわりの空気に合わせて「いいかげんタイム」になったらわたしもそうしている。
いやね、ベテラン日本人バイトさんたちもみんなそうしているのだ~よ。

それにしても今日の「いいかげんタイム」はすごかった。
みんな適当にくっちゃべりながらだらだら、
異様なほど遅いラインの動きに合わせて本を投げるように箱にぶち込んでいる。
わたしはたまたま運よくこの場に居合わせることができたが(社員さんありがとうございます)、
日本人のパートさんのなかには
電話でお休みのお願いがあった方もいたのではないか(わかりませんが)。
日本語がわからない外国人には電話をしても意味が通じない。
わたしの横にいたベトナム美少女にも社員さんが前日に電話したとか。
電話に出なかったらしい。まあ出ても会話は成り立たなかったと思うけれど。
美醜なぞ個人的なものに過ぎないと思うが、美しいベトナムっ子がいるのだ。
いまはもう見かけなくなったがこの女の子の熱心なファンのベトナム男子がいた。
「おぬしの気持、わかるぞよ」と思ったものである。
とはいえ、よくある話で顔がいいと努力して勉強しようとしないのかもしれない。
いちおう日本語を勉強しに来ているらしいが、まったく日本語を解さない。
わたしはこれもまたこれでいいと思う。
よく考えたら、若いときに異国を経験するのは成果とは関係なくいいものではないか。

いままで少しベトナム人を美化しすぎていたような気もする。
もしかしたら本気で日本や日本語を勉強したいベトナム人はいないのかもしれない。
もしいたら関わってみたいという好奇心はいまだあるのだけれど。
むかしベトナムを旅したとき現地の人にお世話になったご恩返しもふくめて。
いやたらしい自慢だがこの職場でわたしほど無駄に本を読んでいる暇人はいないと思うし。
でね、でさ、またそれとは別の話。
このベトナム美少女はあんまり見かけないような気がする
(たぶんあまりシフトに入っていないのではないかと)。
今日、たまたまラインで横に入った。
素振りからまったく日本語がわからないのはわかっていたから、それゆえ話しかけてみた。
「○○さんは美少女だね」
「ビ???」
「意味わからない?」
「(うなずく)」
「かわいいってこと。ここで働いている女の子のなかでいちばんかわいい」
これは意味が通じたようで、「なにこいつ(笑)」という目線でさっと距離を取った。
ごめん。最高におもしろかった。
この子はいちおうまじめ系美少女なのだが、仕事中にスマホを見るんだ。
昼礼で「仕事中に携帯電話を見るな」は何度も注意されたこと。
とはいえ、日本語がわからない人になにを日本語で伝えても通じない。
しかしさ、ベトナム人でさえスマホなのにこちらは旧型の携帯電話(ガラケー)。
日本語留学に来るベトナム人は(よくわかりませんが)お金持なのかもしれない。

こちらなぞは読書家だから本はたいせつなものという意識がある。
けれども日本語がわからない外国人にとって本はゴミのようなもの。
いろんな国籍の人たちが一列になって本をバンバン適当に箱に投げ込む夜――。
この光景を見ていて、なんか救われたと思った。いいかげんっていいよなあ。
ほかにもおもしろいことは今週たくさんあったけれど書かない。
当たり前の話だけれども、
本当に食うや食わずのぎりぎりの生活がかかっている人もいるかもしれないわけだから。
お金を払ったにもかかわらず
お偉いらしい社長先生から大声で怒鳴られたシナリオ・センターの悪口はいくらでも書くけれど、
お金をいただいた相手方の悪口は人としてあまり書きたくないと思っている。
好きだしね。好きってことがとても大きい。
出勤前に道端で同僚のパートさんに逢って挨拶をすることがある(もちろんこちらから)。
あるときある人が信じられないほど暗い目をしていた。
「働く喜び」なんて言ったら、この人に毒を盛られるかもしれないと思った。
こちらの思い込みが激しいのかもしれないが、驚くほどすべてに絶望した暗い目だった。
「ひどい感じ――父・井上光晴」(井上荒野/講談社文庫)

→井上光晴みたいなめんどくさいやつが父親だったらいやだなあ。
光晴はたまたま娘ふたりだったからよかったものの、
もし息子がいたら殺されるか自殺されるかしていたのではないか。
井上光晴が父親だったらいやだが、自分は井上光晴のようになりたいのである。
「全身小説家」井上光晴は炭鉱で働いたこともないくせに、
自分は炭鉱で虐げられた朝鮮人を救ったぞ、みたいな人として許されない嘘を平気でつく。
なにより他人の気持をまったく考えない自分勝手、好き勝手なところがいい。
井上光晴は家族には絶対服従を強いたらしい。
毎日、昼から酒である。
晩飯には女房に料亭に比すほどの酒のつまみをつくらせる。
気に食わなかったら癇癪を起して場の雰囲気を好き勝手に壊す。
「おれは正しい」「おれは偉い」「おまえらはおれに従え」を貫き通した。
奥さんを料理屋の賄い婦のごとく酷使しておきながら、
自分は愛人を何人もつくり(そのひとりが本書を絶賛し宣伝文を書いた瀬戸内寂聴)、
それでも満足できず文学伝習所というハーレムを組織して、
あたかも新興宗教の教祖のように生徒の女をちぎり喰い、ちぎり喰いした。

井上光晴というのはたんまりと人生のいいところだけを喰い散らかした外道男なのである。
好き勝手、自分勝手、おれさまが日本国憲法だを人生でやり通した。
浮気がいくつばれようとも、おれは悪くないと居直ったそうである。
もし死後に裁きがあるなら自分は大丈夫だが、
おまえのほうに裁きがくだると献身的なご夫人に言い放ったと知り、男だなあと。
男だなあ、おまえ井上光晴よ。
おれも井上光晴のように自分勝手、好き勝手に生きたいという欲をたいそう刺激された。
女子供なんてものは男たるこちらが高圧的に出たら、
しょせんは劣等存在、黙って服従するものだという本当のことも本書で学ぶことができた。
直木賞作家のお嬢さんが書いたこのすばらしい本を読んで、
もっと自分の欲望に忠実に人の迷惑など一切顧みず好き勝手に生きようと影響を受ける。
井上光晴の人生はハッタリのひと言だが、彼の人生から学んだのは
劣等生物たる女子供にはハッタリをきかすのがおそらくいちばんいいということである。
ハッタリをかます男のいかがわしいよろしさを
井上荒野氏のような賢女はよく父親から教育されたのだろう。
いまはもう完全に忘れられた井上光晴は女子供へのしつけができるむかしの男だった。
刺激的な良書に出逢えたことを感謝したい。

「善人のやめ方」(ひろさちや/角川oneテーマ21)

→「働く喜び」ってあるのかなあ。
バイト先のマネージャーさんは「仕事が趣味」と会社HPで宣言しているけれど。
見るからに善人でいろんなところで板挟みになっているような気がする。
どこも社員さんは拘束時間が長そうだし、
「働く喜び」みたいなものがあることにしないとなにかが崩壊してしまう気がする。
ついつい長時間働いていると、働いている自分は偉いだの正しいだのと思ってしまう。
実際、労働は麻薬のようなところがある。
あまり大声で言えないけれど、愛するものを亡くした人にもっとも有効なのは労働ではないか。
仕事をしていたら、なにも考えずにいられるのだから、
こんな精神衛生によろしいものはほかにあろうか。
いまは娯楽作家のモーム風情にも権威があるようで、
ひろさんはモームの言葉としてこんな自己主張をしている。ひろさんが訳したんだって。

「働いているあいだは自分を忘れることができるので、労働は賛美されるのである。
愚かな人間は何も仕事がないと退屈する。
労働は、大多数にとっては、アンニュイ(倦怠)から逃れる唯一の道だ。
で、だからといってそれを神聖と呼ぶのは笑止千万。
怠惰でいるためには、多くの才能と豊かな教養が必要である。
あるいは特別製の頭がいるのだ」(P126)


仕事に逃げるというのは、わたしの父親世代のじつにうまい生き方だと思う。
なにがあったとしても「おれには仕事がある」で問題から逃げることができる。
妻や子どもになにがあろうと「おれには仕事がある」で現実に向き合わないでいられる。
人生の理不尽や不平等といった問題にも「おれには仕事がある」で目を背ける。
仕事人間にとっていちばん怖いのは定年だろうが、自営業なら怖いものはない。
「おれには仕事がある」で死ぬ直前まであらゆる問題から逃げ切るのが、
もっとも当人にとってはうまい生き方なのかもしれない。
もちろん、仕事人間が放り出した問題はだれかが引き受けなければならない。
だから、彼はずるいというのは間違いで仕事人間は賢いのだろう。
なぜなら、仕事人間はなんのために生きるかをだれよりも知っているとも言えるのだから。

「……人間が生きているのは、みんな、
――自分のため――
ですよ。何のために生きているかといえば、自分のために生きています。
そんなこと分かりきったことですよ」(P22)


たとえば夫が仕事人間であることをことさら嘆く妻はわかっていないのだろう。
仕事人間の夫は自分のために好きな仕事ばかりしているのだから責めてはならない。
いくら配偶者とはいえ人様に「自分のため」に生きてほしいと思うのは他人に期待しすぎである。
夫が仕事しか関心のないことに嘆く妻は、
そんな愚痴をまき散らしている暇があったら自分も「自分のため」に生きればいい。
しかし、自分のために生きるとはどういうことかわからない人がいるのである。
なぜならこれまで絶えず世間の目を気にして生きてきたからである。
自分のために生きるとはどういうことか。

「あなたは世間の物差し・世間の価値観に縛られて生きています。
働くことは喜びだ。世の中の役に立つ人間になれ!
まじめに努力すれば、きっと成功する。
たいていの人は、そんな世間の常識に従って生きています。
それは世間に誑(たぶら)かされているのです。
あなたの人生はあなたのものです。誰に遠慮する必要もありません。
あなたが好きなように生きればいい。早くそのことに気づくべきです」(P34)


「人生は各自が自由に生きればいい。好き勝手に生きればよい」(P91)

「自由に生きるということは、自分を大事にすることです。
わたしたちはもっと自分を大事にした生き方をすべきです」(P92)


しかし、凡人はなかなか好き勝手に生きられないから、
ついつい世間が善とみなしている労働や婚活、育児をしたくなってしまうのかもしれない。
親孝行とか敬老精神とかも世間では疑ってはいけない善になっている。
ほかにすることがないから親孝行や敬老ボランティアをしているだけにもかかわらず。
自分のためだけに生きているとときに強い孤独感に襲われることがあるが、
そういうときだけ自分の満足のために老親や子どもに付き合わせればいい。
自分のためにならだれがどんな思いをしても気にしない鈍感さを鍛えよう。
ときには自分の孤独感をまぎらすために(他人のためではなく!)する、
公園清掃などのボランティアも悪くないだろう。
肝心なのは善をしようと思わないこと。自分を大事にして好き勝手に生きよう。
なぜなら善をしようとすると、絶対にそれをしていない人を悪にしてしまうからだ。
ひろさちや氏は善人をこう定義するのだから痛快である。

「善人というのは、他人を悪人にすることによってしか自分が善人になれない、
そういうあわれな人間である」(P153)


自分は善をしていると思っている連中の悪臭にはまったく参る。
善人は悪をつくらずには善に安住できない。
労働を善にしたら働かない人が悪になってしまう。
家族を善にしたら家族のいない人が悪になってしまう。
交友を善にしたら友達のいない人が悪になってしまう。
恋愛を善にしたらもてない男女が悪いことになってしまうではないか。
成功(金持)を善にしたら失敗(貧乏人)がひどく格好悪く思えるだろう。
世間の善悪(価値基準)など捨て去って好き勝手に生きられたらどんなにいいことか。

しかし、なかなかそうは行かないのが浮世というもの。
いつも自分を殺して「相手のため」を思いやって
見当はずれなことをしながら生きざるをえないのがわれわれだ。
いっそのこと相手が「自分のため」だけを思って行動してくれたらとも思うが、
相手が好き勝手なことをしてくるとさすがにこちらも腹が立ち不愉快である。
あんがいみんながみんな「自分のため」だけを思って生きたら
いまよりよほどうまくいくのかもしれないが、
それほど強い自分を持つ人はなかなかいないし、
自分が強い人は自分勝手とひどく嫌われるものだからそれも仕方がないのだろう。
忘れてはならないのは、「他人のため」に献身的に生きるのはたしかにある面美しいが、
一方で「自分のため」に生きる孤独な強さにも独自の美しさが宿っていることだ。

「本当は嘘つきな統計数字」(門倉貴史/幻冬舎新書)

→これからは統計学の時代だと息巻いている方もなかにはおられるようだが、
わたしは統計学こそインチキの最たるものではないかと疑っている。
統計学への反論はひと言で十分なのである。

「(それは)私じゃないもの!」

じつはこれは山田太一ドラマ「ありふれた奇跡」からの引用である。
子どもが産めない中城加奈(仲間由紀恵)と、
それでもいいからと結婚を望む田崎翔太(加瀬亮)とのあいだで言い争いになっている。

加奈「舞い上がってる翔太さんが醒めたときが怖いの」
翔太「子どもについては醒めてるつもりだよ。
子どもがいらない夫婦なんていくらでもいるし」
加奈「いくらいたって関係ないの。私じゃないもの。
私はいらないなんて思ってない。
自分のせいで産めなくなったことに傷ついてるし、かえって子どもが頭から離れない」
(「ありふれた奇跡」第7話より)



統計数字はみんなの値であって、それは「私じゃないもの」なのである。
たとえば老親の介護で苦しんでいる人がいる。
それは統計データにおいてどのくらいの割合かくらいは出るだろう。
しかし、それぞれがまったくそれぞれで一括りにするのは問題があるだろう。
統計は「私じゃないもの」というほかない。

本書にベイズ理論のとてもわかりやすい説明が載っていたのでそれだけで元を取った。
ベイズ理論とは新しい確率の考え方である。
いまわれわれは一般的に確率をもとにして生きていると言えるのではないか。
人が有名大学や有名会社に入りたがるのは、
そちらの方が「いい人生」になる確率が高いという暗黙の了解があるからである。
病気になったときは典型的で過去の統計を参考にもっとも確率の高い治療法が取られる。
ビジネスの世界でも新しい事業を起こすときは成功する確率の高いものが選ばれよう。
さて、ベイズ理論というのはどういうものか。
間違っている可能性もあるが、わたしの理解できた範囲で書く。
要するに、時間経過とともに確率は変わりますよ、ということだと思う。
いままでは確率は一定で変わらないものとされていた。
しかし、状況の変化とともに確率も変わっていくのではないか、というのがベイズ理論である。
ベイズ理論の根本にある考えは、高確率の選択肢を選ぶのが最適だという信念だ。
人生で言うならば、生きているうちに状況が変化してくる。
かつては高確率だった生き方も状況変化にともない低確率になることがある。
そういうときにかつての選択肢を捨てて新しい選択をしようというのが、
最新確率思考のベイズ理論がすすめる人生作法である。
ベイズ理論がすすめるのは無駄のない効率的かつ合理的な生き方である。
ベイズ理論を信じるならば、人生の目標を大きく掲げるのはよくないことになる。
その場その場の判断で目標を修正しながら生きていくのが合理的で最適な生き方だ。
以下に本書からとてもわかりやすいベイズ理論の説明を抜粋する。
これを読んだとき、ようやくベイズ理論がわかったと感動したものである。
しかし、何度か読み返してベイズ理論はわかりはしたものの、
これはなにやらインチキくさいぞという危険センサーがピカピカ光るのを感じるのだ。
こういうクイズの番組があったとしよう。

「挑戦者は、100枚の扉のうち1枚を選ぶ。
もちろん、この時点で選んだ扉が「当たり」の確率は100分の1だ。
その後、ゲームの司会者は残り99枚の扉の中から、
「ハズレ」の扉をどんどん開いていき、最後のひとつだけを残す。
そして、最後に残された扉と挑戦者が最初に選んだ扉をチェンジするかと聞く。
このような状況になったら、感覚的に考えても、扉をチェンジしたほうが
「当たり」の確率は明らかに高いということが分かるだろう。
ちなみに、最初に選んだ扉が「当たり」の確率は100分の1、
最後に残された扉が「当たり」の確率は100分の99となる」(P105)


じつにわかりやすいベイズ理論の説明だと思う。
著者が理論を本当によくわかっているから、このようにわかりやすく書けるのだろう。
さあ、ここからが問題だ。
「当たり」の確率が99%と1%に分かれるということは、いったいどういうことなのか?
というのも、確率というのは何度も試行してみないと本来は出てこないのではないか。
サイコロのある目が出る確率が約17%なのは、何回もサイコロを振ったときの話である。
一度しか試行できないときの確率はいったいなにを意味しているのだろうか?
よしんば99%と1%という確率が正しかったとしよう。
しかし、1%の確率で「当たり」の出ることもあるではないか。
わたしの人生体験上、確率1%くらいのことならときおり起こっているという実感がある。
みなさまはどうか知らないけれど、わたしは確率1%くらいなら起こりうるという信念を持つ。
ああ、いま書きながら気づいたが、あのクイズ番組の設定なら何度も試行することが可能だ。
実際に実験して確かめることが可能ではないか。
ならば、おそらくやったものがいるだろうから99%「当たる」という数字は正しいのだろう。
しかし、それでも99%にもかかわらず「ハズレ」のこともなくはないのだ。
一回かぎりの人生で引いてしまったら取り返しのつかない「ハズレ」はいくらだってある。
ベイズ理論がみんなの役に立つのはほぼ確実だろうが、
しかし一回きりの人生を生きるあなたやわたしに適用できるかどうかは
やはり疑問と言わざるをえない。

おまけとして本書で知った豆知識を書いておく。
著者は国の借金が増えても大丈夫という説を支持しているようだ。
ほら、いま国民ひとりあたり800万の借金とか言われているじゃん。
あれはいちおうは国の借金ではあるけれど、
実際は国債として日本人に買われているからぜんぜんマイナスではないという。
国の借金であると同時に日本人の資産でもあるのだから問題はないと。
もしそうだとしたら、これを考えた人は天才経済学者かなにかじゃない?
日本はどんだけ国債を発行してもいいって、
無制限で借金できる魔法のカードを持っているのとおなじなんだから。
いつか絶対に思わぬかたちで破綻するだろうけれど、それがいつ来るかはわからない。
だから、自分が死ぬまでのあいだに破綻せずに逃げ切れたらOKなのか。
こんな国債の使い方をした国家経済はいままで歴史上なかったのではないか。
歴史上なかったものは統計が取れないからどうなるかわからない。
そう、ここが統計学の弱点で過去の記録がないものには太刀打ちできない。
で、どんなことにもみんな過去のデータはそろっていると一見思えるけれども、
本当のところ明日起こることは明日はじめて起こる1回だけのケースとも言えるわけだ。
フクシマのあれだって過去の統計がないんだから、
いちばん「正しい」答えはどうなるかまったくわからないになるのだと思う。
同様にわたしやあなたのような人はかつて一度もこの時代、
この国を生きたことがないんだから、あなたやわたしがこの先どうなるかもわからない。
「わからない」ことに耐えられないものが安心を求めて統計学にすがるのであろう。

個人的な体験と直観に基づく甚だ頼りない感想だが、
もしかしたらこれからベトナムの時代が来るのではないかというような気がしている。
勝ち負けの基準はよくわからないが、世界で唯一アメリカに勝った国なのだから。
むかしやけくそな旅を運よくしたことがあってベトナムのことはなにも知らないで、
カンボジアから河川経由でチャウドックより越南に入国した。
さっきまで忘れていたが、ベトナムで感動したのはバインミーである。
あれはバインミーというのだといまごろようやく知った。
バインミーとはフランスパンにハムやら野菜やらマヨやら醤油を挟み込んだサンドイッチ。
ベトナム南部では屋台がどこにでもあり、どこで買っても泣くほどうまかった。
フランスパンの理由は、かつてベトナムがフランスの植民地だったからの模様。
しかしまじでさっきのさっきまであのベトナムのサンドイッチのことを忘れていた。
あれがバインミーという名前であることも今日知ったくらいである。
現地ではとにかくうまそうなので商品の名前も知らず露店から購入していた。
すぐに変わるかもしれないが、いまになってベトナムびいきになっている。
希望や夢などという前向きな言葉は嫌いだが、
バイト先で見たかぎりではベトナムの子たちの生命力は驚くほどだ。
原因をいまの日本人が子どものころから食っているマクドナルドのハンバーガーと
ベトナムのバインミーの違いだと書いてしまったらトンデモが過ぎるのだろう。
ベトナムはアメリカに勝ったのではなく、負けなかったとも言えるのだろう。
粘り強く交戦する。たとえ完全勝利をしなくても当面のところ負けなければいい。
いまごろ言うのかと笑われそうだが今後ベトナムは「来る」のではないかという気がしている。
「日本人のための世界史入門」(小谷野敦/新潮新書)

→小林秀雄賞作家の山田太一氏が推薦しておられたので(2013「読書週間アンケート」)、
歴史学とは一切関係ないらしいどこの馬の骨だかわからぬ、
ちょっとネットで調べてみたら悪評ばかり出てくる(すげえ!)
ちんぴらライターが書いた世界史入門書を読んでみる。
なーんて、ごめんなさい、小谷野先生。大ベストセラー、おめでとうございます。
高額の税金を払うとき、ムカムカしませんでしたか? うまく節税できたのか心配だなあ。
専門は恋愛のサントリー学芸賞学者・小谷野敦氏は
薄手ながら本書で偶然史観を打ち立てている。
世界史のあらゆることは本当は因果関係などなく、ただの偶然じゃないのかなあ。
たとえばコロンブスはなぜアメリカ大陸を発見したのか? の問いに偶然と断言する。
足利尊氏は「運が強かった」のではないか、などと、
歴史学の学問性を根本から覆す一見非科学的なことを言うが、
わたしは小谷野氏の偶然史観にいたく同意したいところがある。

歴史というのは、つまり物語である。
物語の内訳は、因果関係(原因と結果)と共時関係(たまたま偶然)である。
天皇家が続いた理由や原因などあるわけがなく、あれはまったくたまたまの偶然である。
もしくはあの一族は足利尊氏ではないがたまたま「運が強かった」。
当方もまた歴史学などとはまったく無縁だが、
学校教育、受験勉強では歴史という物語における因果関係ばかり強調して学んだ。
これが悪影響してすべての事象に原因があるような間違った思い込みを抱くのである。
ほとんどすべての歴史的事件を偶然と片づけてしまう小谷野敦はとても「正しい」。
そして、かつて「なぜ悪人を殺してはいけないのか」という本を出した氏には
表立っては書けないことだろうが、本当のところ歴史的事件に善悪はないのである。
善政も悪政もおそらくないのだろうが、小谷野敦はそこまでは踏み込めなかった。
だが、あと一歩まで行っているし気づいているがまだ言えないのだろう。
学歴差別主義者の小谷野が人権意識のうそ臭さに目がいかないわけがない。
果たしてアメリカの独立戦争(独立革命)は善か?

「……歴史上しばしば現れるこの「宣言」の類は不思議なもので、
リンカーンの奴隷解放宣言にせよ、明治維新の王政復古の大号令にせよ、
結局は戦争に勝たないと有効性を持たない」(P199)


歴史物語はほとんどすべて「勝てば官軍」の世界なのである。勝ったほうが正義だ。
アカデミズムの世界では完全に敗北した自称学者の小谷野敦ではあるが、
まだ勝利へのこだわりを捨て切れていないようだ。やはり勝ちたいという正直者である。
西洋文化が日本を含め東洋文化より優れているとされるのは(象徴はノーベル賞)、
たんに西洋が東洋に一度勝っているからに過ぎないのである。
無理だろうしやる必要もないが、大東亜共栄圏を再構成してアメリカを打ち負かしたら、
わが国の近松門左衛門がシェイクスピアよりも上になるのがいわゆる文化史である。
歴史的事件はすべて偶然(ここまでは小谷野が書いた)。
さらにわたしが追加したいのは歴史的事件に善悪はなし。
歴史的文化に優劣なし。善悪も優劣も「勝てば官軍」の結果に過ぎないと思う。
だが、小谷野は権威の源でもある西洋世界への奴隷的憧憬を正直者ゆえ隠さず書きつづる。

「現在では、西洋中心主義への批判から、
東洋の学問・藝術を高く評価しようとする傾向が一般化しているが[しているかあ?]、
私には依然として、文学も藝術も、西洋での発達ほどのものを
東洋は生み出さなかったとしか思えない」(P186)


自分で問題を作ってみると理解の度合がわかるのである。
高校時代、地学のN先生は自分で問題をつくって答えを書けという出題をされたことがある。
もちろん、記憶問題がまずあり、そこで点を取れなさそうな人への救済策だ。
地学職員室にウイスキーがあり、大学合格の知らせに行ったときご馳走してくれた。
自分で世界史の問題をつくってみよう。
問い――「なぜベトナムは日本が負けたアメリカに勝ったのか?」
答え:たまたまの偶然。
問い――「ベトナムとアメリカのどちらが善である(正しい)のか?」
答え:どっちも善である。どっちも正しい。
問い――「なぜアメリカ文化はベトナムのそれよりも優れているのか?」
答え:あんたさ、ベトナムに行ったことがあるの?

「面白いほど詰め込める勉強法 究極の文系脳をつくる」(小谷野敦/幻冬舎新書)

→「飛ばし読みの博覧強記」東大卒の小谷野敦文学博士のいかがわしいタイトルの本を読む。
「究極の文系脳」をお持ちらしい(羨ましくないなあ)小谷野さんの本はおもしろいんだけれど、
あとになーんにも残らない。でもさ、おもしろかったんだから、それだけでいいと思う。
こんなのを読むのは「もてない男」くらいだろうけれど、
どうして年齢を問わず男の子ってインテリぶりたがるんだろう。
いまもブログのコメント欄に英語でご意見をくださっている日本人のおっさんがいるけれどさ、
壮絶なズレっぷりがどこか自分や小谷野博士と通じているので物悲しい。
基本、通俗小説以外の本を読むやつなんていうのは(学生以外)、
どいつもこいつも劣等感のかたまりで人より上に立ちたいだけなのかも、と思う。
おれは見かけもみすぼらしいし稼ぎも少ないが、
本を読んでいるからおまえよりも上だ、みたいな。
大衆小説や自己啓発本以外の非実用書を読む勤め人のすがたはちょっと想像できないもん。
ふつう人を測る尺度は顔や収入、いまの地位でしょう?
あいつは顔はいいけれど稼ぎはいくらだ?
いくら金を持っていたってあいつはもてないだろう?
ははーん、羽振りがいいあいつも出自は田舎者じゃないか!
しかし、人間の上下は「顔、金、肩書」だけではないと小谷野敦は信じている。
だからといって氏が人格者というわけではなく、比較文学者は偏差値にこだわるのである。
いくらおまえが女にもてようが金があろうが大学教授だろうが、偏差値はどうなんだ?

「先日も、新聞記者から大学教授をした人で、どの著書を見ても出身大学を書いてなく、
遂に『全国大学職員録』を見たら、明治大学卒だったことがあった。
そんなに恥ずかしいことなのだろうか」(P107)

「西島は成蹊大学卒ながら、当時、朝日の学芸部で活躍していた記者だが、
いい加減なものだ」(P135)


そういうことを書くか、ふつう? ふつうではないのが小谷野さんの魅力である。
本書から学んだことをまとめてみよう。なに難しいことはない。
・本は著者の情報(顔、収入、地位、学歴)が大事。
・本の感想はその本の紹介者(推薦者)の意見に非常に左右されやすい。
・西洋哲学者の名前を出すと文章に箔がつくけれど、おっさんになったらやめようぜ。
素人の読書感想文ブログを飛ばし読みすると、
ほんと帯の惹句や巻末の解説をうのみにしていてバカだなあ、
とまるで自分が上に立ったようないい気分になる。
まあ「本の山」もチラ見されてそう思われているんだから、お互いさまってことで。
本なんかいくら読んでも性格が悪くなるだけだが、それでもおもしろい本はいい。

「時間を哲学する」(中島義道/講談社現代新書)

→いい本だったので自分でもわかる部分を繰り返し読んだものである。
以下、理解した内容を自分の言葉で書いてみたい。

時間は主観的時間と客観的時間がある。
主観的時間とはそれぞれ実感するその人の時間感覚のこと。
一方の客観的時間は、時計に象徴されるみんなで共有している時間のことである。
地球誕生のときから客観的時間は存在していたわけではない。
客観的時間は自然にか人為的にかわからないが、あるとき発生した。
中島は単純労働の管理から客観的時間が発生したのではないかと述べる。
たとえばピラミッド建設である。
何人の人がどれだけ働けばどのくらいの仕事の成果が得られるか。
これを計算式に入れてみたらピラミッド完成の時期を想定することができるようになる。
このとき客観的時間が生まれたのである。
百日前(客観的過去)や百日後(客観的未来)が発生したのも
単純労働の管理からと考えるとわかりやすい。

本書の強い主張のひとつは、客観的時間はフィクションではないか、である。
客観的過去も客観的未来も本当は存在しないのではないか。
われわれはあたかも主観的過去を客観的過去のように思い直している。
客観的過去があるかのように思うと都合がいいからである。
たとえば病気や事故といった災いが起きたときは、
過去があったことにしてなんらかの原因を設定して安心をたもっている。
災いの存在を世間的に受容するためには過去に原因を創作するとおさまりがいい。
その原因を除去できたら未来に災いが起きないだろうという錯覚も得ることができる。
しかし、ふたたび、客観的過去も客観的時間も存在しなかったらばどうだ?
この感覚をこの記事をお読みの方にわかってもらえるかは自信がない。
わたしは「客観的時間はフィクション」という感覚がよくわかるのである。
たとえば、海外旅行をしてもいっさい写真を撮らない。
すると、本当に自分が旅行をしたことがあるのかどこかわからなくなるところがあるのだ。
みなみな客観的過去の不確かさを知っているから、
日記や手帳、記念写真にこだわりを見せるのかもしれない。
ここに証拠があると言いたいがためにである。
ところが、それは本当に客観的過去の存在を証明しえているだろうか。
うーん、この議論についてきてくださる方などおられるのか。

客観的時間がフィクションだとしたら、どういうことになるか。
すべては主観的時間に過ぎないということである。
われわれは学生時代の思い出をときに1ヶ月まえの記憶よりも近くに感じるものである。
むろん、急いで客観的時間で誤差を是正しようとはするだろうけれども。
しかし、本当にその客観的時間は信頼に足るものなのか。
過去はいつ発生するのか。いま過去を思い返したそのときに過去は現前する。
ということは、いまが過去を作っているということである。
ところが、ひるがえっていまとはなにか。
いまというのは過去を振り返ったそのときしか存在しない。
つまり、過去を思い返すときしかいまはない。
いまもまた過去同様にフィクションなのではないかという疑問が生じるわけである。

では、未来といまの関係はどうなっているのか。
中島は未来の想起の仕方も過去に強く縛られているのではないかと述べる。
未来了解のモデルは、過去了解のモデルをそっくりおなじになぞっている。
われわれはいまAもBもできるような気がしているけれど、それは本当か?
なぜならAを選択してしまったら絶対にBを選んだときの結果はわからないではないか。
客観的時間のみならず自由意志もまたフィクションではないか。
われわれはいまどうしてAもBも自由に選択できるような気がしているのか。
それは過去における行為を自分が自由に選択したという思い込みがあるからだ。
言ってしまえば、「ほかでもありえた」ということを信じているに過ぎない。
われわれは過去に自由があったと妄信しているがために、
いまもAかBかを選ぶことができるのだという妄想におちいっているのではないか。

原点に戻って本書に一貫して流れる主張は「客観的時間はフィクション」である。
客観的過去も客観的現在も客観的未来も存在しない。
乱暴に言えばそれらはすべて実在の不確かな、
主観的過去、主観的現在、主観的未来に過ぎないということである。
人は往々にして客観的時間と主観的時間を取り違えるからおもしろい。
学生時代を懐かしみながら(主観的時間)
「もう15年も経ったんだ(客観的時間)」などとしみじみ人生に思いを馳せるのは、
意識してそうしているかはともかく客観的時間と主観的時間を取り違えているからだ。
われわれはどこかで主観的時間よりも客観的時間のほうが「正しい」と思い込んでいる。
だが、もし客観的時間がフィクションならばどうだろう?

中島は本書にはめずらしく「かく生きるべし」的なメッセージはまったく入れていない。
だから、これは読後にこちらが勝手に思ったことなのだが、
客観的時間などに縛られずもっともっと主観的時間をたいせつにしようと思った。
みんなの時間ではなく、自分の時間を大事にしようと思った。
みんな(人間一般)の死と自分の死とのあいだには越えようのない大きな壁がある。
中島義道は「私の死」にこだわって生きているのだろう。
ぜひとも中島義道の訃報に接してニヤリとしたいもんだが、
決して健康的とは言えぬ生活を送っているので不謹慎な笑みは経験できないかもしれない。

「私が時間論にこだわる理由は、じつはここにあります。
客観的時間がフィクションらしいという一縷(いちる)の望みを持っており、
それを全身で実感したとき「死ぬ」ことが恐怖ではなくなると思っているのです」(P56)


中島義道がなんと正直にも真理のありようを白状しているではないか!
「客観的時間がフィクション」というのは真理というよりもむしろ、
幼少時から成功者になったいまも(成功ゆえよけいに)死が怖い中島義道の
まるで子どものような「一縷の望み」だったのである。
わたしは「真理は人それぞれ」「真理とは人を喜ばせること」だと思っている。
このため、中島の主張する「客観的時間はフィクション」もまた、
あまたある真理のひとつであることを認めたい。
「客観的時間はフィクション」とは、時計やカレンダーは嘘っぱちということだ。
のみならず「過去のトラウマ」や「将来の夢」も眉唾だということだ。

ひとつまえの稚拙な読書感想文の原価はいくらだと思いますか?
答えは3千円弱です。もちろん、そんな価格で販売しようというものではありません。
今日は仕事が少ないという事前予想もあり、シフト表に休みと書いていました。
当然、休日ですから歯医者の予約を入れていました。
とても感激することに使えないパートのわたくしに前日に出勤のご依頼があったのです。
もちろん、歯医者の予約がございますのでとありがたくも感謝しながら断ります。
時間を聞かれ18時半からだと答えますと、13~17時でも来れないか。
雇ってくれた恩義をないがしろにして休ませてくださいと申し上げました。
いまふっと気づいたんです。
ひとつまえの記事「新しい教育と文化の探求」(河合隼雄)の感想文は、
ちょうどまさに13~17時半くらいの時間帯に書いてます。
もしこの時間にご依頼にしたがいバイトに行っていたら約3千円の収入です。
でしたら、あの記事の原価を3千円に設定してもいいのではないでしょうか?
言い換えたら、目に見える世界でわたしは3千円の損をした。

もし河合隼雄さんが言うように「失うは得る」ならば、「損は得」なんですよね。
昨日は職場の傘立てに置いておいた傘をだれかに持っていかれました。
「土屋」と名前を書いたテープを貼ってあるのですけれども、
日本語がわからない人が多い時給850円の職場だから仕方がないのでしょう。
ちなみに、傘を持っていかれたのはこれで二度目です。
帰宅時には雨はやんでいたので、
だれかの傘を代わりに持っていこうとは思いませんでした。
さきほど歯医者のついでに百円ショップで2百円の傘を買いました。
今度は盗まれないように対策を立てなければなりません。
いや、盗まれたらまた買いなおせばいいのか。
明日は朝の9時から来ていいとのお話。
いまのバイト先は午前中から働いたことはないので、好奇心がわくわく。
この日もシフト上は休日として提出していましたが働くことにしました。
その理由は午前中のあの職場の雰囲気を見たいからです。
そして、そのとき自分はどんなことを感じるのだろう。
昼休みの1時間の休憩の孤独時間に自分はなにを思うのか。
当たり前ですが、みなさまとおなじように自分のために働いています。
「新しい教育と文化の探求 カウンセラーの提言」(河合隼雄/創元社)

→遅咲きの大学者であられる河合隼雄さんの極めて初期のエッセイ集を読む。
もしかしたら初期の著作ゆえうっかり事例報告を書いているのではないかという、
どこかよこしまで下世話な盗み見根性たっぷりの読書であった。

心理療法家の河合隼雄は人生指南をする人ではない。
こう生きたほうがいい、あれはしないほうがいいという意見をなるべく出さない人だった。
どんな生き方でもその人にあったものであればいいという懐の広い人であったと思う。
とはいえ、河合隼雄はそれでもホンモノの生き方はあると思っていたようだ。
借り物の人生ではなくホンモノの人生を生きろと扇動しているようなところがある。
では、どういう生き方が河合隼雄のいうホンモノになるのか。
それは自分のなかから出てきたものをたいせつにする生き方だと思う。
河合はユング学者であるから、このときの「自分」には意識も無意識も含まれている。
たいがい意識というものは借り物の考え(俗世間的価値観)に支配されやすい。
大半の意識はみなの共有する世間ルール、すなわち常識に支配されている。
たとえば10万円は100万円よりも少額である。たとえば1時間は3時間よりも短い。
しかし、実際そうではないわけでしょう?
なにかを夢中になってしていたときの3時間は、人に待たされた1時間よりも短い。
底辺労働者が稼いだ10万円は、億万長者が道で拾った100万円よりも高額だ。

これには主体的かどうかが大きく関係していると時間を例にとって河合は説明する。
待つのがなぜ異常に長く感じられるかというと受動的だからである。
たしかにわがつたなき経験を思い返しても、主体的か受動的かで時間の流れは大きく変わる。
単純労働のバイトでも受動的(やらされている!)と思うと時間がなかなか経たない。
反対に時給換算の単純労働のなかにあるおもしろみを見出し、
主体的に(自分から!)動くと時間経過が早い。
自分からやるという主体性がどれほど重要か!
マネージャー(労働管理者)は低賃金パートにガミガミ言ったらかえって逆効果になるのだろう。
しかし、仕事はそういうものだからあれこれ口出ししたくなるのは仕方がないのだろう。
教育の場合はどうだろう。
たとえば幼稚園で集団の輪のなかに入れない子どもがいたとする。
このとき安易に「○○ちゃん、みんなと仲良くしましょうね」と指導するのはどうなのか。
その子のことをじっと見守っているとあるとき子どもが自分から主体的に動き出すという。
みんながやっているブランコにその子が恐るおそるはじめて手を触れてみた「とき」。
友達の玩具をひったくったという「とき」は傍目には悪に見えるが本当にそうなのか。
「先生、こんなところに虫がいるよ」とその子が近寄ってきた「とき」の厚みはいかほどか。
たとえ仲間の輪には入れなくても珍しい石を発見して喜んでいる子どもの「とき」の輝き。
意識的にか無意識的にかはわからないにしろ、
ある人間が自分から主体的になにかしたいと動き出す「とき」の重みを河合は語る。
以下は教師と子どもの例で説明されているが、
おそらくカウンセラーとクライエントの関係の理想もそうだと河合は思っていた。
友人関係の理想も河合は書いていないが、あるいはそうかもしれない。
これを職場における上司と部下の理想とまでいったらきれいごとが過ぎるだろうけれど。

「子どもたちのこのような主体的な「とき」の体験を多くするためには、
私たち大人は、できるだけ不要な干渉をせずに、「とき」の熟するのを待たねばならない。
気の弱い子が自らブランコに手を触れるまでには、それ相応の時日を必要とする。
「待つ」ということはつらいことだとさきにのべた。
しかしこの場合、私たちは「待つ」ことの意味を知り、主体的に待つことができるのだ。
その間に無為に時が流れ、私たちは受動的に待っているのではない。
何もないように見えながら、その裏で時が熟していくのを私たちは知っているのである。
よき教師は、退屈せずに主体的に「待つ」ことを知っている。
そして、その「とき」がきたとき、私たちはそれを子どもたちと共有し、
意味を確かめ、経験をともにすることができる。
このとき感じられる「存在感」は、何時何分にどこにいたというような意味での存在を、
はるかに越えたものとなっているはずである」(P67)


「自分のなかから出てきたもの」をたいせつにする――。
相手の「自分のなかから出てきたもの」を重んじるのがホンモノの教師である。
ならば、相手ではなく自分のケースでも
「自分のなかから出てきたもの」にもっと目を向けたほうがいいのだろう。
意識からではなく、いうなれば無意識と呼ぶしかないようなものから、
ある「とき」にどうしてかわからないけれど出てきた気持をたいせつにする。
ここからは学のない、かといって大した人生体験も持たぬわたしの言葉で説明したい。
われわれはどうしてかわからないけれども「それ」をしてしまうことがある。
あるタイミングでふっと思いもしなかったことを言ってしまったりする。
人間は自分でも信じられないような意外な(意識外の)言動をするものである。
考えてみると、意識した言動よりも「それ」ら無意識的行動のほうがおもしろいのではないか。
俗っぽい話をしよう。あなたが男だと仮定して、どうしてか気になる女の子がいる。
このときどう話しかけようかなんて策を弄してはいけないのかもしれない。
いや、いろいろ作戦を練るのが人間だから、それはそれでいいのだろう。
だが、ほとんど絶対まあ思ったようにはいかないのではないかと思われる。
このようなときに無意識にまかせてしまうという手もあると思うのである。
どうせ知り合う人とは知り合うし、縁のない人とはどうあっても知り合えない。
そのように達観して生きていると、
ある「とき」ふっと思いがけないことをその女の子にいってしまうことがある。
そういう「とき」こそおもしろいのだと思う。
自分でも予期せぬことを意外な「とき」にほかならぬ自分自身がやってしまう。
この「自力」と「他力」が合致したような「とき」を主体的に待つのもまたおもしろい。
現実を自分の思うように変えたいというコントロールの手綱を離してしまうのである。
自分が意識せずにやってしまう「それ」をとにかく注意する。
「それ」を出さないように注意するのではなく、出てきたときに「それ」を大事にする。
「それ」は借り物に縛られた意識から生じたものではなく、
自分のなかから出てきたホンモノだからかなりうまくいくのではないかと思う。
正しくはそう河合隼雄が思っていたになるが、わたしも最近はそうではないかと思う。
これは親鸞のいう「はからわない(放っておく)」に極めて近い姿勢になるのだろうか、
より正確を期すならば「あるべきようわ(明恵の言葉)」を考えながら、
「それ」が自分のなかから出てくる「とき」を主体的に待つということになるのだろう。

本書に河合隼雄の臨床体験と思しきものが紹介されている。
クライエントは50歳近い会社の経営者。
することなすことなにもかもうまくいき、いまはお金にも不自由していないし、
家族にも恵まれている。
ところが、傍目からはたいそう幸福そうな本人が癌(がん)恐怖症になってしまった。
癌恐怖症とは、自分は癌ではないかとパニックになってなにもできなくなるノイローゼ。
果たして彼はどのように治っていったか。
めったに目にすることがない河合隼雄の臨床事例報告のひとつである。

「話を癌恐怖症の人にもどそう。
この人は心理療法を受けている期間中に思いがけない体験をする。
自家用車を自ら運転しているときに、誤って事故を起こしてしまったのだ。
運転には自信をもっていた人なので、これはまったく信じられないミスであったが、
この不慮の事故によって、彼が本当に恐れていたものが癌ではなく、
死そのものであることを悟るのである。
このような不思議な体験を心理療法を受けている間にする人は多いが、
必ずしも実際経験とはかぎらず、夢の中で「死の体験」をして驚く人もある」(P99)


どうして彼がその「とき」に「それ(交通事故)」を起こしたのかはわからない。
一般的な常識ではたまたま注意ミスだったんじゃないの程度で片づけられてしまう。
しかし、クライエントにとってはとても意味深い体験であり「とき」であった。
河合隼雄もその「とき」の「それ」の一回性の重み厚さをよく知っていたから、
クライエントの深い感情にかなり寄り添うことができたのではないかと思われる。
なにが原因でなにが結果という話ではなく(因果論ではなく)、
この「とき(共時性)」の「それ(無意識)」の奇跡的な働きによって
クライエントは立ち直るきっかけを見出すことができた。
かたわらにこの「とき(共時性)」の「それ(無意識)」の重要性に気づく人がいて、
まさにこのタイミングで「そうだ!」とクライエントに深く共感できたのがよかった。
交通事故といえば一般常識ではマイナスの事件である。
しかし、河合隼雄はこの「とき」の「それ」をマイナスとばかりは見ていなかった。
なぜそういう見方ができるのかといえば、全体のアレンジメントを考えていたからだろう。
どうしたら全体のアレンジメントを少しでも視野に入れることができるか。
河合隼雄によると、「アレンジメントをしたのはだれか」と自問することだという。
もしかしたら「それらは、名人のアレンジした庭園のように、
一木一草にいたるまで意味をもって存在している」のではないか。
心の病や交通事故、家族不和といったマイナスは本当にマイナスなのか。

「ここで、われわれは排除するのではなく、それを受け容れることを学ばねばならない。
すべて、あること、生じていることを、全体として受けとること。それによってこそ、
われわれはそこに巧妙なアレンジメントが存在していることに気づかされるのである。
このような立場をとると、今まで見えなかったものが見えはじめ、
不幸と思い、不合理と感じる事象が、
全体としてアレンジメントをなしていることがわかるのである。(中略)
人間であるかぎり、すべてのことがアレンジメントとして理解されるはずもない。
われわれはいくら考えても不可解な事象に包まれている。
その不可解なことに対してさえ、「アレンジしたのはだれか」とあえて問うことが、
すなわち、生きるということでもあろう」(P200)


「アレンジしたのはだれか」という問いは、河合隼雄ファンならとっくにご存じの、
氏が日本の師匠とまでいった明恵の「あるべきようわ」に通じるものであろう。
全体のアレンジメントを考えたら、マイナスはマイナスでないかもしれない――。

本書でいちばん有益な示唆となったのは、
この記事の最初に書いた自分のなかから出てきたものを大事にするという作法だ。
するつもりがなかったのに、ふと身体が動いてしてしまった「それ」はおもしろい。
ふだんわれわれは意識であれこれ考えて判断した結果として行動しているけれども、
「なるようになれ」「なるようにしかならん」「どうにでもなりやがれ」「あとは野となれ山となれ」
と脳(意識)ならぬ身体(主に口だろう)の動くままに動くのもいいのだろう。
借り物(権威)に頼るのではなく、無意識まで含めたうえでの自分をたいせつにする。
以上のような人生作法はわたしが主体的に河合隼雄から盗み取ったものといってもよい。
河合隼雄は「盗む」というマイナス行為にもプラスの面があるという。

「盗みの主体的な意味を明らかに示してくれるのは、
昔の話によくあるような、剣の極意などを盗む話である。
有名な剣の達人に入門するが先生はなかなか教えてくれない。
一生懸命になって努力を続けるがどうしてもわからない。
ところが、ある日先生が一人で稽古しているとき、それを盗み見して極意を悟ってしまう。
すると、先生がちゃんとそれを知っていて祝福してくれるのである。
剣の極意などというものは、教えてください、はい教えましょう
などと言って伝えられるものではない。先生はあくまで隠して教えようとしない。
にもかかわらず、何とかそれを知ろうと、主体的にいろいろな努力と工夫を
重ねたものだけが、それを「盗みとる」ことができるのである。
達人はそのように考えているので、何も教えようとせず、
弟子が盗みとったとき初めて、それを祝福してくれるのである。
話が横道にそれて恐縮だが、最近の教育の現場では、
このような意味での真剣なやりとりがなくなってきたようで寂しいことである。
若者たちは「教えてもらう」ことや「指導してもらう」ことを
要求することに熱心すぎて、極意を盗みとる意欲をもっていないようである。
いちばん大切なものは、簡単に授けたり、もらったりできるものではないはずである」(P211)


しかしまあ、なんでも教えたがるバカが世の中にはうようよいるのである。
てめえがおもしろかっただけの漫画をネット上で顔も知らぬこちらに対して、
信じられないことに感謝のしるしだといって読めと強制してくるアホなやつがいる。
自分はシナリオを書いたこともないくせに、
厚顔にも人様にシナリオを教えたがっている恥知らずのババアをひとり知っている。
本当のことをいったら、この人に大声で怒鳴られたことはいまでも忘れられない。
どうしてある種の人たちは、自分が人の役に立てると傲岸不遜にも思えるのだろう?
そもそもどうして人の役に立ちたいなんて思うのか。
いや、河合青年が臨床心理学を学んだ動機は、人の役に立ちたかったから、なのである。
人の役に立ちたくて臨床心理学を学んだ河合隼雄は、結局なにがわかったのか。

「余計なことをしたために強い依頼心をおこさせたり、
その人の自ら立ち上がる力を阻害してしまったりすることが多い。
それに、いったい何をすることが、その人の役に立つかなどということは、
本当のところめったにわからないのである。
そのときによいと思ってしたことが後で悪い結果につながることも多い。
一個の人間の成長に役立つ最良の方法など私にわかるはずがないという確信と、
この人は自分でそれを必ず見いだすだろうという確信に支えられ、
われわれは苦しむ人を前にして無為にいる強さをもつことができる」(P194)


俳句によると春夏秋冬それぞれよろしいというのはたしかにそうだけれど、
そうは言ってもやはり建前だと思う。
いちばん秋が好き。
いんちきビール業界でも「秋の贅沢」や「深煎りの秋」が並んでいる(既飲)。
だから、もう秋になったことにしてしまおう。
実際、わずかながら黄色づいている緑葉もちらほら見かける。
みなさんそれぞれに好きな季節があるのでは?
どうでもいいわたしの話をすると「秋>冬>春>夏」になる。
夏っておおざっぱすぎね? 
まず花火。それからビールと枝豆とか、スイカとかかき氷とかどこかお子さまくさい。
アダルトは秋だあねえ。
いちばん無常(変化)を感じさせる季節だから好き。
読書の秋だあな。今日は早朝からさっきまでずっと室内で読書をしていた。
人交わりもいいのだろうけれど、気遣いがめんどうくさいと言えなくもない。
孤独癖があるためか、静かになにかに夢中になるのはやっぱり楽しい。
「本>映画(ドラマ)>音楽>ゲーム」の順番だ。
今日も録画しておいた「カサブランカ」を観ようと思っていたけれど、読書の快楽に敗北。
その1冊が井上光晴のお嬢さん(←直木賞作家)が書いた父回想記。
ほんとうにいまいわゆる左翼作家の井上光晴はすっかり忘れ去られてしまった。
まさかまさか井上光晴を被写体にして映画「全身小説家」を製作した原一男先生が、
晩年は初版5千部しか出してもらえなかった旧有名作家を殺したわけではないのだろうけれど。
若くしてデビューした宮本輝さんの傑作小説「青が散る」のヒロインは夏子であった。
いま売れている遅咲きの人気作家・西村賢太さんの私小説のヒロインは秋恵である。
もしかしたら人目を引かぬわれわれのそれぞれの人生にも四季はあるのかもしれない。
いまでも実数はわからないが50~100人(以上?)が働いているバイト先である。
一丁前に社員でもないくせに(バイトの名前を覚えるのは社員の仕事のひとつ)、
名前と顔を一致させようと日々努力してきた。
結果、外国人もふくめてけっこう名前を記憶しているつもりだ(まだまだですが)。
とはいえ、名前を覚えていても「○○さん」と名前をつけて声をかけるのが難しい。
考えてみると名前を記憶した人の2、3割くらいしか名前をつけて呼んでいない。
なかにはフルネームを記憶した人もいるのだが。
おまえ、どんだけ他人に興味があるのかって話だよな。
あはは、ぶっちゃけ興味ありまくり。
聞けるものなら全員、前歴やら家族構成やらおうかがいしたいくらい。
自分のを聞かれるのがいやだからやらないけれど。
小林秀雄賞作家の山田太一氏から学んだのは、
他人は自分なんかに興味がないという真理のひとつ。
そのくせ自分は他人に興味ありまくりなんだから困っちゃう。
正直、おばさん以上の下世話な好奇心を持っている。
おばさんが事情徴収してくれると、それを横でガン聞きしておりまっす。
中国語とおなじでベトナム語って日本人には喧嘩腰に聞こえるようなことがあるんだ。
バイト先の書籍ピッキングで両隣がベトナムだったりすると、
おしゃべりをするから(しょせん時給850円なんだからそれはそれでぜんぜんいいと思うが)
被害妄想が強いこちらは悪口を言われているのではないかと邪推してしまう。
ベトナムはよかったなあ。なんでかベトナムで1ヶ月も遊んだことがある。
当たり前だが、ベトナム旅行中に日本人としてどれだけ心細かったか。
そんなときに嬉しかったのは「しょせん人間なんて変わらんよ」
という意味合いの言葉もまったく通じないベトナム人の笑顔だった。
いまのバイト先の外国籍最大派閥はベトナムだが、
若いとはいえよく知らぬ日本でみんな本当によくがんばっていると思う。
いっときベトナム語でも覚えようと思ったが、老化した脳では無理なことが判明。
なにもできないだろうが、ベトナムが好きな人がひとりいることでも違うのだと思いたい。
うさんくさい笑顔でもつくりたい。
旅行中、ベトナムはインドに次ぐシビアな国だとうんざりすることが多かったけれど。
――すべていまはいい思い出である。
職場のベトナム人は若い日本人よりもはるかに明るくて好感が持てる。
きっと希望があるからだろう。
いくらペシミストだって影響を受けちゃうじゃないか、このう、このこの。
昨日、バイト先の間口(持ち場)にあったのは直木賞作家の井上荒野さんのグルメ本。
重い本ではなかったので、この本自体にはまったく恨みはありません。
まさか直木賞作家の偉い先生に、
自著を世に出してくれた(←字義通り)作業員に感謝をしてくれと言いたいわけでもない。
しかしまあ、縁はめぐっているではないか。
わたしがたいへんお世話になったのが、
かつて映画監督でいまは大学教授をしておられる原一男先生。
原一男先生は井上光晴とかいう、いまではだれも知らない三流作家を踏み台になされた。
原先生はたいそう井上光晴のお世話になったわけである。
直木賞作家の井上荒野さんは井上光晴のお嬢さんである。
こう考えていくと、じつにうまいように縁はめぐっているのではありませんか。
不勉強のため荒野お嬢さんのご本はまだ読んでいません。
昨日はなんだかよく出る間口だったので(そりゃあミスもした)立ち読みもできなかった。
世間様に対して努力不足を恥じ入るばかりであります。
テレパシーとは言語や身振りを介さない「思ったこと」の伝達を意味するらしい。
えへへ、いま調べちゃった。
もしテレパシーの定義がそうだとしたら、テレパシーなんていくらでもあると思う。
視線から、あ、この人はいまこういうことを考えていたって
わかることはいくらでもありませんか?
かえって言葉よりも伝わることがある。わかるんだから。だから、わかるって。わかる。
こちらがテレパシー能力を持っていると自慢したいわけではない。
日本語が通じない外国人と一緒に働いていると、相手のテレパシー能力に驚く。
「目と目で通じ合う」ではないが、本当に通じてしまうのである。
もしかしたら外国人のほうが日本人より好きという(本人も意識していない)
邪悪な気配をうかつにも察知されているだけかもしれないけれど。
こういうことが働く喜びのひとつになっている。
思っていることって言葉や身振りにしなくても通じると思うけれどなあ。
わかるでしょ、そんくらい? 本当はわかっておられるのですよ絶対!
「お鏡をご覧ください」なんて偉そうなことは言えませんけれど、
人間はどうしようもなく変わるもんですよね。
人は変わる。外見のみならず内面も変化する。
作家なんてまあ(いまでは)2、3年の商売ですから、そこまで目立たないかもしれません。
しかし、運よく(努力かな?)長寿作家になった先生の作品を丁寧に追っていると
確実に考えが変わっているんです。
思想家(笑)の全集を熟読した方がおられたら、
矛盾がいっぱいなことに気づかれるのではありませんか?
そのときどきで彼にとって「正しい」ことは違う。
おなじ人間がまったく正反対のことを言いますよね。
このへんの懐の広さが東洋は西洋より優れており、
がために五時八教(教相判釈)などというトンデモ思想が発生したわけです。
お釈迦さまは長生きしたから、そのときどきで教えた内容が異なっていただろう。
だから、いろんなお経があるのだという言い逃れであります。
だとしたら、「正しい」教えはいったいなんになるのか?
そのときその場その人への教えしか釈迦は「正しい」と思っていなかったのではないか?
80過ぎまで生きたという(実在も不確かな)釈迦の最後の教えは自灯明。
自灯明とは、くだけた言い方をしたら、いいのかな、あはん、自分で考えろってことだ!
一般的に重い荷物は女の代わりに男が持ってやれみたいな風潮があるじゃないですか?
そういう場面にバイト先で立ち会ったのである。
はっきり言って、どこか虫の好かない国籍不明女性であった。
おれでも持つのをためらうほどの重そうなオリコンを果たして女はどうするのか。
助ける義務感よりも窃視する好奇心のほうが強かった。
気づかないふりをして黙っていた。
なんと女は男のわたしでも持つのがいやな重いオリコンを軽々と持ち運んだのである。
なーんだ、女も重い荷物を持てるんじゃん。
はい、もう実験観察は終わったので、
次にこういうことがあったら率先して運ぶことにします。まかせてよ、おいらに!
いまのバイト先は個人的には涙あり笑いありで、
たとえればS席1万円の演劇を無料で拝見させていただいているようなものである。
いっとき意図的か偶然か、あるベトナム人女子の横に連続して配置されたことがある。
この子は背が高いためか、どうしてかはわからないけれど、
見惚れるほどピッキングがうまく早く正確である。
おいおい、この子、すごすぎると思ったものだ。
本音をぶちまけると、だれも重いものなんか持ち運びたくない。
あるとき彼女の間口(持ち場)にあったのが、例の箱入りの池田大作全集である。
あれを10冊、20冊運ぶのがどれほど身体に悪いか。
ベトナム女子が池田大作全集をピッキングするのを見ながら、
意味がわかっているわたしは内心で爆笑していた。
まったく池田大作さんたら迷惑なんだから、くすくす。
たまたまどういうわけか社員がそばにいるときにベトナムっ子が池田大作全集を落とした。
よく見ていないが、さすがに少しくらいは破損していたのかもしれない。
しかし、そのまま箱に入れてしまえで無言の全員一致が成立したのである。
この日は帰宅後プローストを飲みながら何度思い返して大笑いしたことだろうか。
観劇代、勉強代、修行代と思えば(思えれば)、どんなお給料でも文句は出まい。
いろいろ人には言えないわけがあって、いまどういうわけか時給850円でバイトをしている。
書籍や雑誌の仕分けをする倉庫だ。
人のプライベートは聞かない。自分が聞かれたくないからだ。
プライベートとは個人情報、つまり学歴、職歴、婚歴、年収、友人数、趣味、人生目標等々。
聞かないから聞かれない。
するとみんながみんな外見上は時給850円の作業員である。
しかし、なかには偉い人がいるとわたしは思うのである。
これがオーラなのかどうかわからないけれども。
おなじ850円労働者でそのほかの情報はなにも知らないにもかかわらず、
ぱっと見でこの人は偉い(凄い、美しい)と思ってしまう人がいる。
さすがに時給850円にも満たない人はひとりとしていない。
あなたの偉さ凄さ美しさをわかっていると、なんとか伝えたいと思ってしまう。
そんなことを言われても相手は戸惑うばかりかもしれないけれども。
しかし、もしかしたら時給850円で働いている老人が、
しつこいがもしかしたら元東大教授ではないとだれが言い切れますでしょうか?
肩書とはなんの関係もなく偉い人、凄い人、美しい人がいるという幻想に、
いい歳をしてひたっている愚か者である。