結局、この歳まで生きてわかったのは、人は食うために生きるのが当たり前だということ。
「なんのために生きるのか?」
はわが下らぬ人生でくるくる変わったから、今後も変わりうるけれども。
いまの当方の真実らしきものは、芸術やら夢やらというものは食えてはじめて成り立つこと。
いくら才能があっても食い詰めていたら足もとを見られて終わりなのだろう。
当たり前の話だが、食えなかったらそもそも読書も映画鑑賞もない。
テレビを見ている暇があったら時給650円でも働けという話である。
いまさら当たり前の話だが、本など世間のほとんどの人は必要としていないのである。
本なんか読んでなんになる? 重い荷物を正しく運べばそれだけお金になるではないか?
これは絶対的真実ではないけれど、お金を稼いでいる人はそれなりに偉いのだろう。
お金がないと本当にみじめなのだから。
お金と愛(のようなもの)の優先順位を錯覚しているわたしのようなものが
(たぶん)結構いるのだから小説や映画、テレビドラマの罪は重い(役割は重責を担っている)。
いまのバイト先に勤めてから3ヶ月になるがおもしろくて仕方がない。好き好き、大好きだ。
こんなすてきな職場にめぐりあえたのが不思議でしようがない。
なにがおもしろいって、老若男女、国籍多様、とにかくいろんな人が働いているところである。
下は高校生から上はリタイアしたとおぼしき老人までまんべんなく(本当にどの世代もいる)、
一律時給850円で働いてる(高校生は800円)。
いまだに何人働いているのかわからないところがすごい。
人ってさまざまなんだなあ、ということを身をもって知ることができるのがおもしろい。
あきらかに850円では雇えないような優秀な人もいれば(いるんですよこれが!)、
(わたしをふくめて?)ここでしか働けない(かもしれない)人もちらほら見かける。
この職場がひとつの劇場で自分もキャストの一員になったような錯覚をおぼえるのがいい。
性別、年代、国籍の組み合わせしだいでいくらでも、
いったいどうなるか予想不可能=刺激的な即興劇が繰り広げられるのである。
たまたま偶然のおもしろさに満ちあふれている。
そもそもその日の仕事量も前日にならないとわからないのだから偶然の要素が強い。
毎日がおなじことの繰り返しではなく、働いた日ごとに発見があるのもいい。
おなじ日が1日たりとしてないのである。
ああ、そうだったのか、と気づかされることばかりだ。
インテリにしかわからぬことを小声で言うが、
山本周五郎の「青べか日記」のようなものをこっそりつけたいくらいである。
……傲岸不遜ですんません。

今日は尊敬する西村賢太さんの「やまいだれの歌」を出荷したから、
わたしの労働が賢太さんの飲み代にひと役買っていると思うとひとりニンマリしてしまう。
タイトルは忘れたが芥川賞作品も直木賞作品もこの手で出荷したもんね。
作家先生に感謝してくれとは言わないけれど。

この職場におけるわたしの長所は日本語が通じることとあいさつができることになるだろう。
ほとんど日本語が理解できない人も相当数勤務しておられる。
英語ならどうだろうと試してみたが、日常英会話も通じない世界だった。
日本人でもあいさつができない人がいらっしゃる。
まあ、おれなんかにあいさつされてもうざいことは理解できるから、これはどうでもいい。
でもさ、日本語もあいさつもどうでもいいのかもしれない。
ベトナム人の女の子とかすごいんだ。
わたしの倍くらいの書籍をミスすることなく正確に大量にピッキングしている。
3ヶ月経ってもこちらはミスが多いので変な話、時給をいくらか向こうに渡したいくらいだ。
しかし、ピッキング(数をかぞえる)の才能に恵まれているってどういうことなんだろう?
若さだよなあ、とおっさんとしては思いたい。
日本人の古参女性バイトさんもまったくミスをしないので恐れ入るばかりである。
あと人知れぬ我輩の長所は外国人アレルギーがないところかな。
むかしアジアをふらふら徘徊したことがあるので、あの人たちのよさをよく知っている。

窃視者に徹したいのである。なるべく目立たないように目立たないようにしている。
自己主張はしない。言われたことにはそのまま従う。
今日ちょっとした失敗をしたような気がする。
わたしは13時からだが、仕事まえに昼礼というものがあるのである。
どうでもいいことだが、これがとても好きである。
みんなで集まって指導者の忠告を聞くなんて(高校は自由な校風だったので)、
中学生のとき以来でとても新鮮だ。
ペットボトルはゴミ箱に捨てましょうとか、コンビニのまえでたむろするのはやめましょうとか。
今日の昼礼でライン(並んで本を箱に入れていくこと)の生産性が落ちているという話になった。
だから、ラインが動くごとに笛(ピッピという運動会のあれ)を吹くという話になった。
数週間まえから笛の音が聞こえることがあった。
まるで刑務所にいるようだなあ、という落ちぶれた感が強まってしみじみとしたものである。
生産性を高める(効率をよくする)ために笛を吹きますからね。
ここで古参の男性バイトさんが挙手をしたのである。
社員さんしか発言しない昼礼でバイトさんがいったいなにを言うのか?
「それではまるで家畜労働のようではないか!」

思わず、吹き出してしまった。本当のことだからである。
うまいことを言うと思った。笛を吹かれると家畜にでもなったような気がする。
笑ってしまったのだが、数十人いたなかで笑ったのはわたしだけだった。
やってしまったと後悔する。ここの社員さんはどうしてだか、いわゆるいい人ばかりなのだ。
虚をつかれたといった感じで、それはよくなかったとその場で認めてしまうのだから。
本当にこのバイト先が好きだなと思う。
それは家畜労働だとバイトが言えるのも、言われて社員が反省するのも、どちらもいい。
失敗したのは、ひとりだけ本当のことに思わず空気を読まずに笑ってしまったことだ。
目立たないことばかり考えていたというのに、身体が反応してしまった。
ああん、明日からいじめられたりしないかなあ。
ただでさえかげではどんな悪口を言われているのか妄想爆走中なのに。
しかしまあ、みんなこんなおっさんバイトになんか興味がないだろうから、大丈夫、大丈夫。
今日1日「家畜労働」という単語が何度もあたまのなかでこだまして思い出し笑いをした。
おっさん、きもいよお。
真実を追求するとかいうと格好いいけれど、そもそも真実が定義されていないような気がする。
真実は真実だろって怒られるかもしれないけれど、でもさ真実ってなによ?
嘘ではないこと、本当のことが真実だとしても、嘘ってなに? 本当ってなに?
もしかしたらぜんぶ嘘(=夢のようなもの)かもしれないというのが仏教のひとつの知見だ。

だとしたら「人を喜ばせること」が真実だという定義もありうると思う。
もし「人を喜ばせること」が真実ならば、新聞は真実を報道していると思う。
新聞は売れないと商売にならないのだから真実(=人を喜ばせること)を掲載するだろう。
戦争のときは日本大勝利をやたら報道したのはまこと真実を伝える新聞らしい。

「人を喜ばせること」が真実ならば「努力はかならず報われる」は真実である。
「努力は絶対報われる」が真実でなかったら、ほかにどんな真実があるだろう。
バイト先で聞き耳を立てていたら俳優志望の若者さんが夢を語っておられた。
だれそれはこんなふうに見出されたから自分もいつかとしきりに成功者のことを語っていた。
毎日よく長時間働く彼は絶対に成功して有名俳優になると思いたいではないか。
ならば「努力はかならず報われる」は真実である。

本当に本当にみんなみんな老いも若きも男も女もよく働いているのには驚く。
びっくりするくらい怒らず不満を言わず自分を抑えてみんなよく働いている。
だから、このため、「生きていたらかならずいいことがある」も真実であるのではないか。
「生きていたらいいことがある」と思わなかったらとてもやりきれない。
ならば「生きていたら絶対にいいことがある」のだ。

あんがい非常識な非人道的な考えを真実だと思うのは底が浅いのではないか。
もしかしたら真実とは「みんなが信じている」程度のことではないだろうか。
働けば働くほど、当たり前だが自分の時間がなくなってしまう。
自分のあたまで考える暇がなくなってしまうということだ。
「みんなが信じていること」が真実だとしたら、真実に到達するには労働がいちばんだろう。
努力はかならず報われるのだから、みなさんがんばりましょうではありませんか。
生きていたら絶対にいいことがあるのだから、おかしなことを考えるのはやめましょう。
どうやらいまのアルバイト先の国籍最大派閥(?)はベトナム人のようだ。
若い男の子や女の子たち。どちらもよく働く(わたしから見たらだけど)。
さて直接たしかめたわけではないが、留学生ではないかという情報もある。
ふつうの日本人はベトナムの男女なんてどうでもいいのかもしれない。
日本語もろくにわからない子たちといっしょに働くのを屈辱に感じる人もいるかもしれない。
たまたまわたしはむかし1ヶ月かけてベトナム全土をめぐったことがある。
なるほどベトナムはインドほどではないが旅行者にシビアな国とも言えるけれども、
それでも多くのベトナム人のお世話になった。
ここで働いているベトナムの子たちを赤の他人のように思えないのだ。
思えばあれだけ親切にしてもらったのだから恩返しがしたい。
もちろんそんな甘い話ではないのよね。
いっぱしに善人ぶって「地球の歩き方 ベトナム」巻末のベトナム語基礎会話を暗記したけれど、
いざとなるとなかなか彼(女)らのリアリティに気圧されて使えないのである。
学校へ通ったあと、あれだけバイト先で働いて(ときには実質わたしの倍以上)、
帰宅しても日本語を勉強しているなんて本当にあたまが下がる思いだ。
にもかかわらず、みんな明るいのも本当にいい。ベトナム人っていいよなあ。
かつてベトナムでお世話になったものとして、お礼として、
いくらでもボランティアで日本語を教えてあげたいけれど、どう伝えればいいのかもわからない。
そもそも、どのようにしたら人の役に立てるのかもわからない。
よけいなお節介になるほうが多いと思う。
ベトナムでベトナム人によくしてもらったことが思い出されてならない。
考えてみたら生まれて初めて韓国映画を見たのではなかったかな。とてもよかった。
ぶっちゃけさ、コンプレックスがあるためかお洒落な白人映画が嫌いなこともある。
なーんかお人形さんみたいな美形の白人さんが、
日本語にすると不自然になるウィット(笑)に富むセリフを口にするのを見ても、ねえ?
はあ? だから? おまえら勝手にやってろよ、みたいなさ。
ここだけの話、白人映画に感動しましたとか言っている観客って黄色い猿みたいに見えなくね?

話を戻して、韓国映画「サニー 永遠の仲間たち」は本当によかった。
日本人と外形がそこまで変わらないから(白人よりも)親しみを持てるのがいい。
それにこの映画を見て気づいたけれど、韓国のことをぜんぜん知らないんだ。
このため、映像を見ているだけで好奇心が満たされ楽しいという面もあった。
内容は、あまり洗練されているとは言いがたい青春ものである。
とはいえ、洗練されていないところこそ、まさにそこがいいのである。
人間の、いや青年の、いや少女たちの原色の輝きをじつにうまく映画にしていたと思う。
これを日本人俳優がやっていたら芋臭くてダメになるはずである。
異文化ならこういうこともありえるかな、
という海外映画ならではの利得を観客として十分に楽しむことができた。

まさかいないとは思うが、
映画オンチのわたしなどが感動したからといってご覧にはならないでくださいませ。
こんな稚拙な映画が好きなのと軽蔑されるのが怖い。
それにこの映画を楽しめたのは、だれの推薦でもなかったからという理由もあるのだろう。
韓国大ヒット映画をいまさらではあるが、「自分で発見した」ところがよかった。
こんな映画をたまに見られるのなら生きているのも悪くないなと思った。
これはわたしにとって最大限の映画評価になると思う。
「サニー 永遠の仲間たち」を見て国籍を問わず人間はいいなあ、
なんて甘っちょろい感想を抱いた。
美少女はいいなあ、と言い換えたほうが正直っぽくなるかもしれないけれどさ。
わたしの底の浅さがばれるから間違ってもご覧にならないでくださいと最後に強調しておく。

比較文学者でベストセラー作家の小谷野敦さんがアマゾンレビューでほめていたので、
2013年公開の瀬戸内寂聴原作の映画「夏の終り」をジェイコムで視聴する。
こりゃたまらん、大嫌いな熊井啓の映画よりもひどいわい、と30分を残してギブアップする。
この秀逸な文芸映画を理解できなかったのは、
もっぱらこちらの鑑賞能力不足と人生体験の未熟のためであろう。
たかだか2時間くらいの映画さえ最後まで見(ら)れない自分の根気のなさがいやになった。

映画というのは絵画系のものと演劇系のものに大きく分かれるのではないか。
つまり、絵画を楽しむように目で味わう映画と、
演劇を楽しむように耳で味わう映画のふたつに分類されると思う。
どちらが王道かといえば、おそらく絵画系ということになるのだろう。
ところが、わたしは絵画のみならず彫刻、建築といった視覚美術全般を味わう能力がない。
もっとわかりやすくいえば美しさを見抜く眼力がない。
もっともっと下卑たことをいえば、とびきりの美人を見てもあまり胸ときめかないのだ。
ふーん、(よく知らないが)AV女優みたいだなあ、とか思ってしまう。

瀬戸内寂聴原作の映画「夏の終り」は男2女1の三角関係を描いた映画のようだ。
登場人物たちがとにかくしゃべってくれないので意味がわからず困った。
3人ともやたら無言シーンが多く、意味ありげな演技をしていたような気がする。
ふつうの観客は美男美女の色気のようなものに酔うのかもしれない。
わたしは「おまえら言葉に出して話せよ。黙っていたらわからないだろう」
と映画鑑賞中ずっとプンプン怒っていた。
もちろん怒っていただけではなく、恥ずかしいことを白状すると自分以外の人間が怖くなった。
なぜなら、みんなはおそらく相手の顔を見ただけで気持をお察しできるのだろうから。

映画の心理描写はナレーションか俳優の顔芸に頼るほかない。
一般にナレーションは低級で顔芸は高級とされているようだ。
本作では満島ひかりという女優がやたら深刻で意味深な顔芸を披露していたが、
人の気持が決定的にわからない鈍感なわたしはさっぱり理解できないのである。
たぶん相手の顔を見て気持を察し合う遊戯をみんなは恋愛と言っているのだろうと思う。
ならば、このすぐれた恋愛映画を楽しめない当方は欠陥人間になるはずだ。
当世では恋愛とやらがなによりも上位に位置する人生行事になってしまったようだから。

傑作映画「夏の終り」はわたしを打ちのめしたといってよい(最後まで見てないくせに!)。
正直にいえば、自由に恋愛に生きる女性は格好いい、
といった瀬戸内寂聴先生が率先して広めた価値基準に反吐が出そうになったが、
国民的作家のみならず東大卒の恋愛研究の碩学・小谷野博士が推薦する映画である。
豊富な人生経験どころかろくな学歴さえ持たぬわたしのほうが間違っているのだと思う。
映画「夏の終り」はたいへん勉強になる映画であった。
我慢して最後まで見(ら)れなかったのは、おそらく勉強が嫌いだからだろう。
思えば、わたしは相手の表情から気持を読むという学習をしてこなかった。
俳優の無言の顔芸にただただ恐怖し退屈したのはこの勉強不足ためだと思われる。
このくだらぬ記事をお読みのお若いみなさんにはわたしのようになっていただきたくないので、
下に映画と原作の広告をはっておく。どうかお勉強して立派な大人になってください。

大学時代の恩師(当方が勝手にそう思っているだけで先生はご迷惑なはず)の、
いまは大阪のほうで大学教授をしておられるH先生のお名前で久しぶりにネット検索してみた。
あらあら、あらあら、そういうふうになっていたのか。
お話させていただいたこともあるH先生の奥さまが大学教授にまで出世していて驚いた。
いいですか、ご婦人、女学生のみなさん。
出世したかったら、男とは異なり女にはふたつの道がありますぞ。
自分で努力して世渡りして、
その犠牲のぶん成功の甘い果実を味わうというのが両性共有のまこと低確率な方法。
もうひとつ女だけが渡れる高確率な出世ロードがあって、
それは成功者(権力者)の妻になることだ。
たしかにアル中のDV野郎である故・鴨志田穣(漫画家サイバラの夫)のように、
男でもおなじことをうまうまと成し遂げる偉人もいるが女に比べたら圧倒的に数は少ないだろう。
女は二種類の成り上がり方法があるから、
ぜひぜひ女性のみなさんはセクハラにめげずせっせと成功道(性行動)に精進してください。
よく知りませんが、ある評論家先生の奥さまも念願の作家デビューをなさったとか。
人生、うまいこといっている人たちも少数ながらいるのだから驚いてしまう。
あ、いまぼくの横は空席ですから、
女性陣はねらい目ですよ(←どの口で言うか、身の程を知れ馬鹿者が!)。
それにしても、それにしても、あの人が客員とはいえ大学教授にまで出世したのか。
うまくやったなあ。いまさらですが、ご出世おめでとうございます。
こういうところに人格のゆがみが象徴的に現われているのかもしれません。
ブログにプラスのことを強調して書けないんですね。
ついついだれがそんなものを読みたがるんだろう、なんて思ってしまいます。
バイトがどうしてだか楽しいとか(まったくお金になりませんけれど)、
友人にこんなによくしてもらったとか、
川口駅前のお祭りで好物のインドカレー(レトルト)を7個千円で買えたとか、
哲学者の中島義道さんの本がチョーおもしろかったとか、
血液検査の結果がよかったとか(え!? まだ肝臓大丈夫なのラッキー!)
そういうことをことさら大げさに書きたくないというひねくれた部分がございます。

高いケーキを買ったけれど(贈呈用)落として無駄にしたとか、
1万円で買った自転車が3日後に変な音を出すようになったとか(かわいいもんですが)、
年下の成功者が目について腹が立つとか、
よくものをなくす自分が心底からいやになるとか、
交通事故かなにかで早死にするのが夢だとか(けっこう本心です)、
こういったネガティブなことばかり書きたくなってしまうから困ってしまいます。

自慢話なんか人は読みたくないだろうと思ってしまうのは人格のゆがみなのかどうか。
たとえば、あるブログに友人と遊びに行ったと書かれていたとします。
もしかしたら、それを読んだ友人がひとりもいない人は腹が立つかもしれません。
そもそも個人的には友人などひとりもいないのが当たり前だと思っています。
わずかなあいだでも、たとえひとりでも友人ができたら、それはまたとない僥倖。
そういう人生観を当方は持っております。このため、人へのありがたみが増します。

妻とどうこうとかブログに書く人がおられます。
当方は結婚願望はいまのところ(明日変わるかもしれませんよ)まったくないので、
妻がどうのと書かれているのを読んでもなんともありませんが、
なかには結婚願望のお強い方がおられて憤ることもあるのではないでしょうか。
ブログの子ども記事もそう。
大半の母親は五体満足の子どもに恵まれることがどれほど幸福かわかっていません。
プラスのことはほとんどなにを書いても人をイラッとさせる危険性があるのだと思います。
もちろん、他人のことを思いやってブログにプラスのことを書かないわけではありません。
さすがにそこまで善人ではないです。
にもかかわらず、どうしてもプラスのことを嬉々としてドヤ顔で書けません。
わたしの大きな欠陥のひとつでしょう。
人間っていうのは、どれだけ秘密を持ちこたえられるかで器が決まるような気がする。
秘密というのは人を孤独にするから、
群れるのが好きなタイプは必然的に口が軽くなるのかもしれない。
もちろん、友人が多い社交的な方のなかにも器が大きい人はいるだろうし、
孤独にもかかわらずブログにあることないことを書き散らしているぼくのような小物もいるだろう。
好きな人の秘密は知りたいけれど、知っちゃったら「なーんだ」となってしまうようなところがある。
知りたいけれど隠してほしいという難儀なことを、
同時に相手に求めるのが人間なのかもしれない。
暴露本とかおもしろいけれどね。
知っちゃうと一瞬はいいけれど、
その後は対象が以前と比べるとがくんと輝きを失い色褪せてしまうから困る。

夫婦や恋人は相手の秘密を知ったほうがいいのだろうか?
そんなこともテーマのひとつにした山田太一ドラマ「秘密」(東芝日曜劇場)を視聴する。
昭和50年放送だから、こちらは生まれてもいないぜ。
シナリオで読んだことがあるけれど、これにかぎっては見ないほうがよかったと思う。
もてない底辺の孤独な若い工員が、
おなじく孤独だがちょっとマブイ年上の人妻にデートに誘われチューしてもらうって話だ。
ライターの植島啓司氏のいう「突然のキス」をこんなむかしに山田太一氏は描いているのだ。
おそらく、このキスはふたりにとって忘れがたい甘い味のする秘密になったことだろう。
映像のどこがいけないのかというと、
もてない孤独な青年役がイケメンで長身すぎておもしろくないのである。説得力がない。
専業主婦役の中村玉緒はたしか38歳で高校生の娘がいる設定。
ああ、38歳はいまの当方の年齢だから、
時代を考えても完全に人生にしくじってしまったことがいやがおうにも自覚される。
が、それと作品評価は関係ない(ことにしておこう)。

わたしは朝日新聞を熱心に愛読するような山田太一ファンが嫌いだから、
まっとうな人生を送っているあちらさんたちからもあまり好かれてはいないような気がする。
まあ、それは被害妄想というやつで、
だれもそもそもこんなブログに興味など抱かないのが正しい現実認識だと思われる。
いちおう書いておくね。
今月12日神奈川県の平塚というところで山田太一氏の講演会があるらしい。
調べたらうちからだと往復で交通費が3000円。講演会の参加費が1500円。
あはっ、4500円っておれが土曜日に稼いでいる日銭とほぼ同額じゃん。
どうせ話は以前の講演会とかぶるだろうし、
わたしは有名人のためではなく自分のために生きているので今回はパス。

山田太一さん講演会「今わたしが伝えたいこと」
開催日:7月12日(土)13時〜14時30分(開場12時30分)
会場:升水記念市民図書館
参加費:1,500円(中高生1,000円)
http://www.masumizu-lib.jp/event/event_20140712.html