これは実体験ではなく、知り合いから聞いたことである。
彼は実名でブログをやっているらしいが書いていいのか迷っているとのこと。
そんなこと書いちゃダメと助言した。
彼の今日の底辺バイト体験を再現すると――。

土曜日は毎回数時間しか働けないから前日に来いと言われたとき断った。
どうせ数千円にしかならないから休ませてくださいと。
ところが、すでにシフトが決まっているから来てくださいとのこと。
え? いきなり「明日は休んでください」と言ってくる人とおなじ人が言う言葉ですか?
とはいえまあ、いま物入りで金は1円でもほしいので数千円のために日をつぶす。
やはり思ったとおり土曜日はガチ肉体労働の時給850円には不釣り合いのところを振られる。
うっかり世間知らずのため、若い男性社員さんの目のまえのポジションで働いてしまう。
よく知らない若い男性社員さんはコントロール感を満足させたいのか、
こちらのオリコン化(箱詰め)にダメ出しをしてくださる。
いや、いいんだけれどさ。
ほかのパートさんから教わったやり方を否定される。
で、次に言われたようにやったら、それは違うと今度はまえにやったようにやれと言われる。
言うことにまるで一貫性がない。
べつに怒っているわけではなく、ふむふむ、これが本で読んでいたあれかと思う。
850円になにを期待しているんだと思わないこともないが、そんなものなのだろう。
終わり間際、その若手社員にやたらペコペコごまをする猿のような高齢バイトが現われる。
本当に動物園から抜け出してきたような姿形なのである。
先輩気取りでこちらにいろいろ指導してくる。
言われたとおりにやっていたら、猿から間違えているぞと指摘される。
これはとんでもないことになっている。いますぐ社員さんに言わなければ。
で、彼が報告してくれるのかと思ったら自分で言えと放置。
それでさ、社員さんに言っている途中に気づいたのだが、間違えたのは猿のほうなのである。
猿が勝手に間違えたオリコン化(箱詰め)をしたのに、こちらに責任を押しつけてくる。
社員さんに弁明している最中、猿は自分の非を認めず猿のようにちょこまかしている。
説明責任が終わったあと、話を立ち聞きしていたべつの高齢バイトさんが助言してくる。
猿(仮名)には注意したほうがいいよ、あいつはああいうことをいつも平気でやるから。
あれもこれも現実にはあると本では読んでいたが、あはっ、実体験するとこういう感じなのか。
猿はおもしろいよなあ。
雑談を振ってみたが、方言なのか猿語なのかなにを言っているかよくわからないのである。
こういう貴重なサンプルが採取できるから850円でもやっていられるのだと思う。
が、今日いちばんの収穫はそこではなく、
勝手に慕っていた高齢バイトさんがはじめて名前を呼んで話しかけてくれたことだ。
少しずつ、少しずつだと思う。なにが少しずつだかは自分でもよくわからないけれど。
しっかしさ、またこういう本音を書くと底辺をバカにしてるのか、
などと底辺を自称する本当に正真正銘に底辺のやつから批判コメントが来るのである。
あのさ、おれだって底辺なんだよ。自戒を込めて底辺こそ底辺を底辺たらしめていると思う。
底辺こそ底辺を軽蔑するが、底辺をバカにするなと怒るのも底辺である。
はっきり言うが世間から見たら、ここの正社員も決して上のほうではないだろう。
猿を調教する仕事がそこまで生きがいのあるものだとは思えない。
「わたしの南無阿弥陀仏」(ひろさちや/佼成出版社)

→このまえ自販機に150円を入れたけれどほしいジュースがなかったからお金を戻した。
けれども、100円しか戻ってこないのね。50円を自販機に取られてしまった。
だからむかついたという話ではなく、
これはなにかラッキーの布石ではないかとムフフとしたという気持悪い人の体験談。
変な話だけど、世界ってさ、裏側がどうなっているのかまったく見えないよね。
世界というカーペットのようなものは一応見えるけれど、
縦糸と横糸がどのようにからまっていまのようになっているかはわからない。
もしかしたら50円をなくした不思議が、べつの不思議につながっているかもしれないわけだ。
そうではないかもしれないけれど、そう考えたらばたかが50円でクヨクヨしないで済む。

でもさあ実際のところ、だれも世界の裏側がどうなっているかはわからないでしょう?
どんなに努力しても報われない人って世界にはいくらでもいるよね。
で、確率0.1%の成功者が「勝てば官軍」の法則に忠実に、後付けで成功の要因を語り、
それが当面のところ真実として市場経済のうえでは流通してしまうわけだ。
だけどさ、本当は成功者が成功した理由はそうではないかもしれないわけだよね。
長生きすればするほど、この世の禍福のメカニズムがわからないことに気づく。
わからないことは不安だから人は成功者の講演会に足しげく通うのだろうけれど。
しかし、わからないことを信じることで不安を消すという方法もあるのである。
この世はどうなっているのか縦糸(因果関係)も横糸(共時関係)もさっぱりわからない。
だが、わからないからこそ、それは信じるに足るのではないか。
人にはわからないことをわかっている大きな存在がいるとしたらどうなるか。
人には「わからない」が、しかし――。

たぶん、この「わからない」が
人気仏教ライターひろさちや氏のいう南無阿弥陀仏になるのだと思う。
われわれには「わからない」けれど阿弥陀仏にはわかっているのだろうから、
お任せ(南無)しようではないかという考え方である。
善悪も損得も禍福も、阿弥陀仏から見たら、
われわれの目に映っているものとは様相が異なるのかもしれない。
そう信じることが、ひろさちや氏の南無阿弥陀仏だと思う。
目先の善、目先の得、目先の幸福があとの悪、損、不幸につながってしまうのかもしれない。
たとえば、通り魔事件があったとする。
われわれの目に見えるのは、犯人が悪で被害者がかわいそうということだけである。
しかし、ひろさちや氏の南無阿弥陀仏から見たらどうなるか。

「ある青年が、いきなり通りがかりの女性を出刃包丁で刺しました。
刺されてけがをした女性はその青年と会ったこともないというのです。
刺した本人も会ったこともないと言っています。
そんな事件がありました。報道されたのはこれだけです。
しかしわたしは、縁のつながりを想像して、別の物語をつくったのです。
ある主婦がスーパーに買い物に行った帰りに、線路の横に捨て猫を見つけた。
ああかわいそうにねと思ったが、
自分のマンションでは飼えないから、買ってきたミルクをやった。
そのときに、もしもミルクをあげなかったら、その猫は死んでいた。
それなのにミルクをもらったがために命をつなぎ止めることができた。
それで野良猫になった。その野良猫が発情期を迎えてぎゃーぎゃー鳴いた。
ところが、受験勉強をしていた青年がその猫の声に気を取られて、集中できず、
それで勉強ができなかった。
たまたまその晩勉強していた部分が大学入試試験に出たので、不合格になった。
そのためにふさぎこんで、精神を病んだ。
それで、通りがかりの主婦を刺した。その主婦が、猫にミルクをやった主婦だった……と。
猫の命を助けたというのは、いいことですね。
しかし、猫の命が助かったことが、青年にとっては悪いことだったのです。
とすると、何がいいことで何が悪いことなのか、
つまるところはわたしたちには見えないのです」(P164)


物語を続けるならば、この通り魔事件の良し悪しもわからない。
刺されても死んでいなかったら、この事件が主婦の人生をプラスに変えていくかもしれない。
死んでいたとしても、息子がこの事件に発奮して優秀な弁護士になるかもしれない。
もしこの事件がなかったら、息子はぐれて人様にご迷惑をかける不良になっていたのだが。
もし息子が母の死の理不尽に苦しみ、すぐれた宗教家になって多くの人を救ったとする。
そうだとしたら、通り魔の犯人は悪をなしたのか善をなしたのかわからなくなってしまう。
なにがなんのきっかけになるかは、じつのところわれわれにはわからないのだろう。
成功という結果からなにかの原因をねつ造するのはインチキである。
なぜなら大勢がその成功原因を実行しても、さらさら富も名声も得られないのだから。
こうしたら不幸になると一般的に言われていることも本当にそうなのかはわからない。
遊び暮らしていた人が芸術の分野で認められてしまうこともないわけではないのだから。
本当はわからないんだろうけれど、わからないんじゃやりきれないので、
人々は一見すると科学的な物語をたくさんつくって、それを信じて生きている。
しかし、わからないをそのままで認め、わからないことを信じて、
つまり南無阿弥陀仏(=わかんねえよ!)と思いながら生きていく、
ひろさちや氏のような人生作法があることも知っておいて悪くはないと思う。
あるときは慰めになるかもしれないからである。あるときとは失意のとき、悲しみのときだ。
喜びにあふれた人生を送っている方には南無阿弥陀仏は関係ないだろう。

「官能教育」(植島啓司/幻冬舎新書)

→もてもての自称学者にして正体はフリーライターの植島啓司氏の新刊をいまごろ読む。
内容は中年夫婦への不純異性交遊のすすめである。
もてもてで快楽の限りを尽くした植島氏は、
まるで美食家が最後にお茶漬けのよさに気づくように、
キスをするかどうかくらいの恋愛のときめきがいちばん心地よいという結論に達したようだ。
人間はだれもがおのれの体験したことを真実だと思うものである。
このため、植島氏は既婚者の男女にキス程度から始める不純異性交遊をすすめるのだ。
軽い皮肉を言うと、自分の快楽を他人もそうだと思うという錯覚が作者にはあるようだ。
氏がそれぞれの真実にはあまり目を向けず、世界には唯一の真実があり、
なおかつ自分はそれを知っているというある種の傲慢から抜け出せないのは、
やはり学者くずれという経歴が影響しているのだと思われる。

よほど注意をしないと「すべき」という提言はしないほうがいいのではないか。
植島啓司さんのようなもてる人はいろいろな女性と楽しめばいいと思う。
なかにはそういうことにあまり関心がない男女も少数ながらいるのである。
というか、本当はみんな恋愛なんてどうでもいいはずなのにメディアが恋愛をあおりすぎる。
むかしは価値があったのかもしれないが、いまのインフレ化した恋愛はどこか汚らしい。
しかし、インフレ化したため大量生産、大量廃棄の商品となった恋愛は、
たとえば植島啓司氏のような御用学者がメディアに召し抱えられ大量販売されるわけだ。
既婚の中高年も「恋愛すべき」という自称宗教人類学者の植島氏の主張の根拠は――。
1.週刊誌の記事(いけてる中年女はみんな不倫しているぞ)
2.西洋の偉人さんの言葉(控えよみなのもの、紅毛思想が目に入らぬか)
3.うさんくさいネット記事の統計(みんなキス友がいるよ、時代に乗り遅れるな)
どこまで落ちていくんだ、植島啓司先生――。

人生は不平等である。本書は既婚者への不純異性交遊のすすめだ。
しかし、いまは(わたしをふくめて)たったひとりの配偶者にさえ恵まれない男女がけっこういる。
いっぽうで女性がひっきりなしに「抱いて」と近づいてくる植島氏は、
性の快楽を数的にも質的にも極限まで味わい尽したようだ。
その結果、女になるのが最上の性的悦楽だとこの官能学者は思うにいたった。
ひょっとするとそうではなく、
ただ植島さんの個人的性癖として寝取られるのが好きというだけかもしれないけれど。

「……いまやセックスの主人公は女であるという宣言である。
男は、彼女に襲いかかる連中の側に立ってともに女を犯す存在であったり、
彼らに犯される最愛の女の側に立って一緒に辱しめを受ける存在であったりしつつ、
右往左往しながら、なんとかしてその歓びをかすめとらんとするばかりなのである」(P144)


植島さん、死ぬのが怖くないのかなあ。
これだけ今回いい思いをしたんだから、生まれ変わりがあったとしたら、
今度はひでえ環境に生を享けそうな気がするんだけれど、他人事ながら。
しかし、まだまだなにが起こるかわからないんだ。
植島さんにもこれをお読みのみなさまにも、これから人生でなにが起こるかわからない。
これは真実である。
たとえ「人を喜ばせることが真実である」という定義にのっとっても疑いなく真実である。
人生は紙一重で、もしかしたら映画(「運命の女」)のようなことが起こるかもしれない。

「人生は本当に紙一重だと思う。
もしもあの日ソーホーへと出かけなかったら、強風でなかったら、
もしタクシーが拾えていたら、彼女の運命は変わっていたにちがいない。
人生ではささいなきっかけから思いもよらぬ世界へと入り込んでしまうことがある」(P120)


「人を喜ばせることが真実である」ならば、大半の映画は真実を映しているのだろう。
まあ、いくら真実でも「運命の女」などという陳腐なタイトルの恋愛映画は見たくないけれどね。

ひとつまえの記事で「自分語り」は嫌いのようなことを書きましたが、
ケースバイケースです。
長らく付き合いのある人の自分語り(自己開示)ほど勉強になるものはありませんから。
ああ、人間てってそういうものだったのかと。
以前から知っている人の自己開示(自分語り)ほど興味を抱くものはありません。
繰り返しますが、以前から顔や名前を知っている人のお話は楽しく聞けます。
これは常識というものでしょうが、会ったことのないお方はどうしようもなく怖いです。
で、顔を見たらかなりのことがわかるのではないでしょうか。
はっきり申し上げますが(だれも読んでいないのに)、
ご自分のお話をなさりたかったら、まず会ってから、その次の二度目にしましょう。
ひとたびお会いした人にはつい興味を持ってしまうこちらはゲスなのでしょうけれども。
いまは急ぎ足の人が多すぎるのかもしれません。
CS放送TBSチャンネル2で山田太一ドラマ「いくつかの夜」を視聴する。
2005年の作品だから、このあたりになるとライブで見た記憶が残っている。
緒形拳と鶴田真由だから美談らしくなっているけれど、実際はかなりひどい話だと思う。
定年退職した嫌われものの独居老人のところに美人がかいがいしく世話に来てくれるという、
「鶴の恩返し」めいたおとぎ話である。
緒形拳は8年まえに妻を亡くし、息子夫婦は一階に住んでいるが嫌われている。
鶴田真由は謎めいた美女という設定。どういういきさつでふたりは出会ったのか。
きっかけは漫画喫茶で人の迷惑をかえりみず自殺未遂騒動を起こした鶴田真由を
暇人の緒形拳が救急車に同乗して病院まで付き添ってあげたこと。
一見、メルヘンチックなおとぎ話だけど、見方によっては残酷な物語である。
だって、これ鶴田真由が緒形拳を一方的に振り回しているだけじゃん、とも言えるのだから。
そのうえチューひとつさせてあげないで、
えんえんとうざい自分語り(自己開示)をするのだから、
これが美しい鶴田真由じゃなかったら殴ってやりたくなるのでは? まったく美人は得だ。

だれも興味がないわたしの個人的な話をすると、このパターンが本当に多くて困っている。
やたら知らない女からうざい自分語りをされるのである。
名前も名乗らずメールでえんえんと自分語りをする人、
会いたいと言ってきてこれでもかと自分語りをして去っていく女性が人生でよく現われる。
これが鶴田真由レベルの美女だったらまだ許せるのだけれど、現実はね、現実はさ。
なんでおれがおまえの話を聞かなきゃならないわけ?
でもまだ鶴田真由は料理や掃除をしてあげているから、
うざい自分語りをしてもいいような気がする。
あれはドラマの世界で、現実は、
現実というものは名乗りもしないおばさんがえんえんと自分語りをして去っていくからね。
手料理くらい持って来いよ、こらっ!
ああ、あれは緒形拳相手だからで、
おれなんかがそんな厚遇を求めるのはおのれを知らないのか。

鶴田真由の自分語りは、まあ、もてて困るという見ようによっては贅沢な話である。
会社でなぜか年上の男性上司に好かれてしまいトラブルになるというのである。
これはすごいリアルだと思う。
大半の人間はこういう話とは無縁だろうけれど、作者は少数派の苦悩を誠実に取り扱っている。
山田太一さんとかも人気作家だから正直な話、
女性ファンにはかなり迷惑してきたのではないかと思う。
いろいろな女性ファンから身の上相談をされたのではないか。
もっとも脚本家は常識人だから迷惑をちらりとも顔に出さなかっただろうけれども。

話を鶴田真由に戻すと、自殺未遂の理由はなぜか会社で中高年の上司からもてること。
これがトラブルになって会社を辞めざるをえなくなってしまう。
会社をかえても3回おなじことが続き、いまは無職。自殺未遂。
――あたし、ほとんど父を知らないの。
2歳のときに交通事故で。3歳で母は再婚。とてもいい人だった。いいお父さんだった。
あたしも本当のお父さんのようになついていた。
ところが、お父さんはわたしが中学2年のとき突然、家を出ていった。
さて、その理由が、なんでも義父が中学2年の鶴田真由に襲いかかったというのである。
なんにもなかったけれど、これで家族は崩壊。父は家出。母は(精神)病院通い。

とびきり美しい鶴田真由が嫌われものの定年独居老人、
緒形拳に会いにくる理由は信頼できる父親代わりがほしかったからという、
これが鶴田真由ではなかったらとんでもなく身勝手な話である。
しかしまあ、しつこいけれど鶴田真由は家事をしてくれるから、
ドラマではやたら金銭に細かい山田太一作品らしく、きちんと代価は支払っているのだろう。
とはいえ、チューくらいさせてあげればよかったのではないか、とは思うけれど。
結局、鶴田真由は漫画喫茶の若いイケメン店長と結婚してしまうのである。
このへんは女の身勝手さを見事なまでにうまく描いていると拍手したい。
そうそう、そうだよね、山田太一さん!
自分の美しさを知っている女はとくに男を使い分けるのがうまい。
恋愛と結婚は別腹みたいな(笑)。

いや、鶴田真由が緒形拳をもてあそんだのは恋愛でもなんでもないところが残酷である。
一見すると男のおとぎ話(夢物語)に見えるけれども、見方を変えると残酷なまでにリアルだ。
美女は若いイケメンには惜しげもなく肉体を差し出して、定年老人にはチューひとつさせない。
ぎっくり腰で動けない緒形拳に男性遍歴(年上の上司からもてて!)を語るところとか、
男とは異なる女のリアルな現実認識がぞっとするほどうまく描かれていると思う。
わかるわかる、女ってそういうことをする、するの、するから困っちゃう。
結末を憶えていたから途中の緒形拳の自惚れた顔がじつにおかしかった。
しかしまあ、なんにもないよりはこのほうがまだましなのかもしれない。
鶴田真由が若いイケメン店長とちちくりあっているのを知らないで、
いいオジサン気取りで美女と交際していたあいだは緒形拳も充実していたのだろうから。
なんにもないよりは、せめてこういうことでもあったほうが人生はおもしろいのではないか。
作者と似たような人生観を見透かされるから、
こちらも人生でけっこうおもしろいことが起こるのかもしれない。
2002年にTBSで放送されたテレビドラマらしい、
有名脚本家らしい山田太一という人の単発ドラマ「旅の途中で」をジェイコムで視聴する。
考えてみたらおかしいよね。
新人脚本家はシナリオ1本10万円だけど(ソース秘匿ですが、まあ事実と言い切れます)、
山田太一という人は100~500万円取るわけでしょう(ソースは「別冊宝島」他の噂話から)。
おかしいじゃないの。どっちもおんなじシナリオなのに。
「旅の途中で」は田舎町の床屋のおかみさんが、初老の元大学教授にお願いをされる話だ。
100万円払うから1日、自分と一緒にあちこちをぶらぶらしてくれないか。
なんとも100万円という金額が小市民的なリアルさを持っている。
ちなみに山田氏は当方の調査したところ、
1991年発行の別冊宝島「シナリオ入門」でアンケートの年収欄(しかし失礼だよな……)に
「年収は変動が激しく、前年と二、三千万ちがうこともあります」と答えている。

「100万円払うから1日デートしてくれ」という老人からの依頼に、
中学生の息子がいる床屋の古びた女房はどう答えのか。
「私じゃなきゃいけない」と言われたから無料でつきあってあげる、である。
世のおばさんがたはこういうところにしびれて、
山田太一先生はあたしたちの気持をわかってくださると講演会に押しかけるのだろう。
ニャハ、おばはんたちも本心ではわかっておられるでしょうが、
それは竹下景子だからなわけだが。
セックスどころか肉体的接触いっさいなしの1日デート代金100万円は
果たして高いのか、安いのか、妥当なのか。
間違いなく竹下景子はこのドラマ出演で100万円以上はもらっているような気がする。
それは努力の結果というよりも(みんなそう思おうと必死だが)、
100万円の理由の大半は持って生まれた美しさや声といった天性のものである。

わたしはこういうドラマのようなこともあるかもなと思ったけれども、
こんなことはありえないと怒った視聴者もいたにちがいない。
なんとかそういうガンコな底辺視聴者の気持もひきつけようと脚本家はいろいろ策を弄している。
インテリの元大学教授は竹下景子に内緒でこっそり100万円を床屋の主人に渡すのだ。
さらに入念に100万円をテレビ画面に出して床屋さんに万札を1枚1枚数えさせている。
そのうえで「こんなうまい話があるはずはない」と独り言まで言わせる徹底ぶりがおもしろい。
お金っていちばん大事だよね。
あれがなかったらなにもできないし、夢も愛も希望も絆も人助けもない。
結局、デート代金の理由はなんだったのか。
なんでも68歳になる元大学教授の最愛の妻が4年まえに痴呆になってしまったという。
夫である自分のことを判別できないばかりか、
どんなに愛情を込めて介護しても伝わらない。

うっかりある日、鍵をかけ忘れて床についていた。ドアが開く音がした。
動けなかった。探して連れ戻すのを面倒に思ってしまった。その直後、大きな音がした。
交通事故が起こったなと思った。自分の妻に間違いないと思った。
自分が妻の死を願っていたからこうなってしまったのだ。
現場に行ってみたら案の定、そうだった。一緒に救急車に乗って病院に行った。即手術だという。
老人は妻の着替えを持ってくるためと言い残し病院を後にした。
そのままどこに行くでもなくふと旅に出た。5日後。
ある地方都市で若いころの妻にそっくりな竹下景子を目撃して、たまらず声をかけてしまった。
男は自分が妻を殺したと思っている。
100万円で若いころの妻とそっくりな女性から「いいのよ」と言ってほしかった。
これが100万円デートの内訳である。
交通事故に遭った痴呆症(認知症)の妻は、どうなったのか。死んだのか、生きているのか。

床屋の主人が電話で病院に確認すると――。
「いいのか悪いのかわからないけれど」
かろうじて一命をとりとめたという。
まったく本当にこれがいいのか悪いのかわからないのである。
自分を愛する夫の顔もわからなくなった
身の回りのこともできない老女は生きていたほうがいいのか?
本当はこういうボケ老人は早く死んだほうが周囲どころか自分にとっても幸いなのではないか?
本音と建前のことを考えるから100万で妻を売った床屋は、
交渉相手のボケた奥さんがまだ生きていることがいいのか悪いのかわからない。
元大学教授(山本学)は本音も建前もふくめて「よかった――」と嗚咽する。
床屋夫婦も「よかったですね」と追従するが、本当によかったのかどうかはだれにもわからない。

こんな話はありえないと思う人も多そうだが、わたしはあるような気がしている。
以下は山田太一が山本周五郎を評した文章からの抜粋だが、
引用文中の山本周五郎を山田太一に変換したら、
そのままでもっともすぐれた山田太一文学への称賛になるのではないかと思う。
人間は他人のなかに自分を見るものなのかもしれない。

「山本周五郎の魅力は、その基底の、
人生や人間をなるべく正確に見ようとする目の確かさにあると思う。
それは必ずしも人生や人間を辛(から)く見ることではない。
物事を辛くばかり見ていくと、いつの間にか現実をつかまえそこねてしまう。
世間には、訳知り顔の人間通が「あり得ない甘い話」
だと笑うような現実がいくらでもある。そのことを作者は知っている。
周五郎を甘いという人は、
辛い見方に溺れて、人間の甘さをつかまえそこなっているのである。
周五郎は甘いのではなく正確なのだと思う。
その上で人間の出来ることをさぐっていく。夢見ていく。
ここまで落ちてもぎりぎりこれだけはゆずれない、
そこに人間のよさも哀しさも尊厳もあるというように――」(「誰かへの手紙のように」P186)


竹下景子を妻に持つ床屋の主人(奥田瑛二)はいっときこそ100万円で動いたが、
しかし、最後はこれはお金に換算できる話ではないと
喉から手が出るほどほしい万札の束を老人に返している。
100万円をもらったらけっこうなんでもするのが人間だが(辛い話)、
その場の感傷のようなものから(人間愛からかもしれない)100万円を捨てるのもまた、
人間をかなり正しくとらえている(甘い話かな?)のだとわたしは思う。
CS放送のTBSチャンネル2で放送された山田太一ドラマ「春の惑星」を視聴する。
勢いで流されるようにケーブルテレビのジェイコムに加入してしまったため、
いまHDには今月放送された過去の山田太一ドラマが山のように録画されている。
6月は山田太一月間だったのか、まさに山のようにである。
ひとつ問題があって見たほうがいいのかどうかだ。
というのも、シナリオですでに読んでいるものもけっこうあるからである。
優秀なテレビ局社員さまには失礼な話かもしれないが、
もしかしたら(ないとは思いますよ)わたしの脳内で再生したドラマのほうが
実際の演出よりも上かもしれないではないか。
「岸辺のアルバム」は最終回だけ上映会で見たことがあるけれど、
シナリオで読んでいた当方は実際放送された映像のしょぼさにがっくりきた記憶がある。

「春の惑星」は1999年に放送されたドラマである(シナリオ未公開)。
ともさかりえが就職面接を受ける女子大生として主演を務めている。
これはわたしが就活していた時期と近いから、このドラマを当時見ていたのかどうか。
あのころの就活は本当に厳しかった。
ドラマのなかのともさかりえよりは多少ランクが上の大学だったような気がするが、
どんな小さな会社からも内定が出なかった。
どうでもいいわたしのことはさておき、
山田太一さんのすごさはサラリーマンのリアルを描けるところだろう。
サラリーマンがどれほど上辺だけ善良で、
本当のところは陰湿で臆病で小狡いかが見事なまでにリアルに描写されている。
しかし、一見リアルっぽいが当方はサラリーマン経験がないから、
どこまでも本当はどうなのかを知りようがない。
いまの脚本家も貧乏フリーター上がりのような人が多そうだから、
サラリーマンの一見濃厚だがじつは底の浅い独特の人間関係を描けないのではないか。

山田太一ドラマを見ていると生活者の実相が金とプライドだというのがよくわかる。
そりゃあ金は一銭でも多くほしいが、それを邪魔するのがよけいなプライドである。
いわゆる恋愛やいわゆる家族愛をときに阻害し、ときに高め合うのもまたプライドだ。
素っ裸になればいいのによけいなものを着込むのが生活するということなのだろう。
また生活者の特徴は弱さである。
自分が他人を傷つけたかもしれない、ということにさえ耐えられないほど弱い。
山田太一ドラマの住民はよく「人の身になれ」と言うが、
これは日ごろからつねに自分自身が人の身になっているからだろう。
そうなると、こういうことさえ起こりうるのである。
相手は自分を傷つけたと思って苦しんでいるんじゃないか、
と傷つけられた側なのに相手の痛みを思ってさらに息詰まる思いがするのである。
双方が相手のことを考え道をゆずったら正面衝突でぶつかってしまうのだが、
こういう日常の事故を描くのも山田太一さんにかなうものはいないのではないか。

最近知ったが、人間の弱点は自分もふくめて
相手の気持をどうしようもなく考えてしまうところだろう。
それは長所でもあるのだろうが、あえて反対側からそれは弱点だと言いたい。
人の身になってしまうのはやさしさというより弱さであろう。
相手の気持なんかわかるはずがないのに、
相手の身になって苦しんでしまうような弱さをわれわれはどこかで抱えているのではないか。
人の身になることは不可能なはずなのに、どうしてか人の身になってしまう。
人の身になることは不可能なはずなのに、「人の身になれ」と言ってしまう。
こういうおかしさが山田太一ドラマのおもしろさのひとつだろう。
われわれは原理上、人の身になれないはずなのに常日ごろから人の身になっている。
おっかしいね、人間ってさあ。的外れなことばっかりやっている。
溝の口の生き仏、山田太一さんおすすめのアメリカ映画「ブルー・ベルベット」(1986年)を視聴。
ひっでえ映画だった。たとえ話で説明しよう。
近所の顔なじみの成績優秀な男子大学生が、ある時期まったくすがたを見せなくなった。
季節は秋になり、ふたたび散歩している彼を見かけるようになる。
うわさでは大学をやめてしまい、いま病気療養中だという。病名はわからない。
あるとき公園のベンチで、あなたは彼に話しかけられる。「秘密は守れますか?」
彼はこの田舎町のとんでもない秘密を知ってしまったという。
「これを知っているのはぼくだけなんです。秘密にできますか?」
なにごとだと思って耳を傾けると、青年は物語り始める。
じつは子ども好きで知られるあそこのアパートの美しい奥さんは淫乱なのだ。
なぜ知っているかというと自分は誘惑され色仕掛けにメロメロになったからである。
そりゃもうあの奥さんは好き者でしてね、へへへ。
SMから始まりありとあらゆるセックスをあそこの奥さんからぼくは教わりました。
それだけではありませんよ。これはぼくだけが知っている真実です。秘密を守れますか?
じつはだれも知らないが、
あそこの奥さんの旦那と子どもは悪いマフィアに拉致され監禁されている。
このため、奥さんはマフィアのボスから脅され、
心ならずも熟れた肉体をおもちゃとしてもてあそばれている。
ぼくは彼女への愛から、そして正義のためにマフィアにひとりで立ち向かったんです。
ついには警察のトップとマフィアが麻薬取引でつながっていることを突きとめたぼくは、ぼくは!
ぼくだけがこの現実を知っている。
いいですか、これが表に出ない現実というものですよ。
ぼくは悪の組織から奥さんを救い出し、マフィアのボスをこの手でやっつけたんです。
この世の悪はぼくが打ち倒した!
いまこの町の平和が保たれているのは本当はぼくのおかげなんです。
マスコミはどこも報道しませんが、これはこの夏にぼくが体験した正真正銘の真実です。

あなたは途中から話を聞いていて気持悪くなり、
青年がいったいどこの病院に入院していたのか察しがつくだろう。
「ブルー・ベルベット」は精神病院という外枠を作らずに病的妄想をそのまま映像化している。
カルト映画だかなんだか知らんが気持悪いんだよ!
おい、映画ファンども、
精神病患者の話す非現実的な妄想に接したときに感じる不気味さがそんなにいいか?
わかりやすい狂気を天才的ともてはやす風潮にはげんなりするぜ。

今週はうっかり6日も働いてしまった。時給850円だけれどさ。
疲れて疲れて、とにかくなにもできなかった。
労働はいい意味でも悪い意味でも、人の思考力をしぼりとる。
でも、ボランティアよりはいいんだよね。
大嫌いなのがボ……、
いや当方が未熟なためよく理解できないのがボランティアという自称善行。
あれよりはましだとおのれを納得させている。
それぞれの現実があるのだと思う(銀行員、医者、テレビ局社員、編集者、主婦、ニート)。
が、時給850円の世界だというとまこと真実っぽい(底辺の現実!)。
たしかに毎日いろいろな人生劇場を拝見させてもらえる代価はプライスレスだ。
あはは、なーにを偉そうなことを言っているんだ、バカヤロウ!
心がとても弱いぼくちんは、このところ定期的に友人に職場レポートを聞いてもらっている。
底辺にはね、こんな人たちがいるんだよ。話す、話す、自分語り。

「ヨンダくん?」
「うん?」
「いや、なんでもない」
「(とりあえず)ごめん」
「なに?」
「なんとなく」
「うんうん」
「ヨンダくんの話を聞いていると」
「うん(うながす)」
「やっぱやめとこう」
「え?」
「もう言っちゃおう」
「うん(そうして)」
「ヨンダくんも、底辺なんだよ」
「……」
「……」
「あはっ、そうだった」
「……」
「忘れていました」
「……」
「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 心理療法」(矢幡洋/PHP)

→暇つぶしに安手の一般書を読む。副題は「古今東西の100のセラピーを網羅!」。
心理療法(セラピー)は100以上あるらしいが、ひとつ似通っているところがある。
スタートは、発明者の偉人(なんですか?)がとにかく個人的な事情で苦しんでいること。
彼(あ、彼女はいないような気が)は苦しみを癒そう治そうと
いろいろな心理療法(=他人の発明)を試すがいまいち効果がない。
結果として自己流の心理療法を編み出し、そこで一定程度の満足(治癒とは言わない)を得る。
ここで立ちどまれば非常に感心できるのだが、
彼は自分の発見した方法(心理療法)を普遍的真実だと勘違いしてしまう。
だれもがこの方法(理論)を試してみたら
自分がそうだったように治ると思い上がってしまうのだ。
また、そうまで自称治療者が思い込めない(信じられない)心理療法は、
現実として他人に効かないのだろうから困ったものである。

よくわからないが、心理療法はセラピストがどれほど自分の方法を信じているかによって
当面当座の効果が大きく変わるような気がする。
いまは元祖のフロイト先生もインチキだとばれかけているが、
現実の怖いところは(フロイトの理論というよりもむしろ)
フロイトの物語、フロイトの自信(狂信)は多くの神経症患者を実際に治したことである。
かかった患者としてみればフロイトは神さまのような存在だったことだろう。
ユング理論は(おもしろいが)ほとんど患者に効果がなかったという話も聞くが、
まあユングのすごさは日本の河合隼雄を結果的に生みだしたことに尽きよう。
ユングはどうだか知らないが、われわれの河合隼雄は確実にわかっていたと思う。
なにかの心理療法(他人の発明)が効くのではなく(効く場合もあるだろうが)、
それぞれがそれぞれの発見をしたときにクライエントは人生に折り合いをつけることを。
それぞれがフロイトなりユングなりアドラーになればいちばんいいのである。
可能ならば自己流、一人一流、それぞれの真実を発見するのがもっともよろしい。
とても難しくなおかつ時間もかかるのだろうが、
その人だけの物語(=世界=現実=リアリティ)を見つけられたらいちばんいい、
というのが師のユングよりも優秀な河合隼雄の心理療法だったように思う。

じつのところ師のユングとおなじで河合隼雄の治療統計結果は闇に葬られている。
どのくらいの人がいかほどの早さで治癒したかの記録が残っていないのだ。
もしかしたら河合隼雄はヤブのカウンセラーだった疑いも否定できない。
しかし、優秀なカウンセラーとはなにかという問題がある。
一般的には主訴(悩み)を可能なかぎり早く解消させるのが腕のいいカウンセラーだろう。
しかし、それがいいことかはかならずしもわからない。
どうせ悩みのない人間はいないのだから、また別の症状が出て来てしまう恐れもある。
とはいえ、サービス業としてカウンセラー屋さんを考えたら、
腕がいいか悪いかは症状がいかに効率よく緩和するかでしか測定できないのもまた事実だ。

本書で知った使えそうな心理療法を紹介する。
物語療法(ナラティブ・セラピー)というのがおもしろかった。
悩める人の苦しみの正体といったら、どれも不幸の物語なのである。
不幸の物語の悪循環による果てしない再生産をどのようにストップするか。
慣れ親しんだ不幸の物語からどのように脱出するか。
手っ取り早く言えば、新しい別の物語を作ってしまえばいいのである。
「なにをやってもダメなぼく」という物語があったとする。
永遠に悪循環を繰り返す物語である。

このとき物語療法では、原因を「ぼく」ではなく別のものに設定する。
陳腐な例で説明すれば、それはたとえばメガネのタイプでもいいのだろう。
メガネのせいでいままでよくなかったのだと原因を自分の外に作ってしまう。
これを心理学用語では「外在化」というらしいが忘れてくださって結構。
いままでとはまるで別のメガネをする、あるいはコンタクトをする。
わずかこのくらいの小道具変更でもカウンセラーとクライエントがその物語を強く信じたら、
悩める相談者は新しい物語を生きることができるようになるのかもしれない。
ちなみに精神科医の春日武彦氏はうつ病が治った患者に腕時計といった、
新たな装身具を記念として買うようにすすめているそうだが、これも広義の物語療法だろう。

創価学会はシステム的にかなりすぐれた最高レベルの物語療法を行っていると思う。
不幸な物語に苦しんでいる人に、それは前世からの宿命が原因だと納得させる(外在化)。
これからは勝利の物語を生きればいいと
ご本尊(小道具)まで用意しているのだからさすがである。
物語療法はいかに複数の人間が新しい物語を強く信じられるかが勝負の分かれ目だ。
その点、創価学会は定期的に座談会をやって信心を高め合っているから非常によくできている。
ただし、問題なのはそれぞれの多彩な個性が失われてしまうことだ。
どの人もみんな勝利の物語という同色(三色旗!)のペンキをぶっかけられてしまうのだから。
それでも虚無に苦しんでいるよりは自らを勝利の物語で騙すほうがある意味では幸福だろう。
もうここらへんになってくると好き嫌いの問題になってしまって結論は出ない。
自分だけの新しい物語(=世界=リアリティ)を作るのは非効率的で苦労も多いだろうから、
みんなから愛用されている既成品の勝利物語にどっぷり浸かるのもいいとわたしは思う。

さてさて――。
クライエントをいきなり罵倒するというショック療法めいたセラピーもあるらしい。
これは効くときは効くだろうが、絶対にうまくいく方法ではないだろう。
治療者は絶対にうまくいくと信じていなければ効き目はないだろうけれど。
逆接療法というのもアイロニカルでおもしろい。
たとえば、どもりの人にはもっとどもりなさいよと逆の指示を出すのである。
どもらないようにするからどもるのだから、ときには効果を見せるセラピーになろう。
不眠症にはこれしかないのではないか。
眠らなくてもいい、むしろどれだけ起きていられるかと逆説的に考えると効果がある。

最後に皮肉なことを言えば、もしかしたらカウンセラーは雨乞い師のような存在かもしれない。
旱魃(かんばつ)で苦しんでいる村に雨乞い師が呼ばれてくる。
この老人の評判はよく絶対に100%雨を降らせるのだという。
雨乞い師は祈祷のためにひとり小屋に入る。
これでなんとかなると村民のあいだに希望が生まれ、
ようやく明るい未来が信じられるようになる。
3日後とうとう雨が降り老人は小屋から出てきたという。
村を去った雨乞い師だが、あるとき彼に再会した村民が雨乞いの仕方を尋ねたという。
彼の答えは「なにもしない」であった。
「やまない雨」も「降らない雨」も100%絶対にないのである。
絶望して破滅的な考えになっている村民に希望の物語を与えるのが雨乞い師だったのである。
セラピストはかならず状態は変化するという希望を象徴した現代の雨乞い師なのかもしれない。
彼(女)は小屋のなかでなにかをしてもいいし、
べつになにをしなくてもときによくなるのかもしれない。
なにもしないでよくなることを信じられたら、あるいはそれが最良なのかもしれない。
しかし、凡夫の身にはなかなか希望を信じられないから、
信じるための手法(儀式)としてあまたの心理療法が発明され続けているのかもしれない。
カウンセラーの運がよければブレイクスルー的な奇跡も起こるだろう。
晴れ男や晴れ女がカウンセラーに向いているのか、
それとも雨男や雨女のほうが向いているのかはわからないけれども。
いざ旱魃(かんばつ)のときは雨男がヒーローになってしまうのがおもしろい。
いまは梅雨だけれども、たいせつな日には晴れ女がそばにいてほしいものである。

6月15日、経堂のすずらん会館に山田太一さんの講演を聞きに行く。
主催は生活クラブ東京。タイトルは「時は立ちどまらない」。
以下にメモする講演内容はみなみな、
当方のダメダメな耳、ボケかけた記憶力、つたない表現力によります。
よって、まず現物とはまるで違うものになっているということをご認識のうえお読みください。

――タイトルの「時は立ちどまらない」というのは、
ちょうどこのドラマの仕事をしていたときに講演会のお話をいただいたものですから。
でも、ほんとに時って立ちどまりませんよね。
なんだかんだ言っていても時は立ちどまりませんから助かります。
もっともどんどんシワが増えちゃって、といいことばかりではありませんが(場内笑)。

最近ドラマで書いた人物は、2歳のときに父が死んでいるという設定にしたんです。
2歳で父親が死んで、母親はそれからずっと息子とふたりで住んでいる。
男親がいない育ち方をした、いま25歳という設定の男性をドラマで書きました。
こういうとき、僕は考えますね。
いったいどういうマイナスがあって、どういうプラスがあるのか。
2週間ほどまえ、テレビの座談会で中井貴一さんがこう言っていました。
自分は父が早く死んだので、男とのつきあい方が長らくわからなかった。
男が苦手だ。父がいなかったから年上の男性にどう接したらいいかわからない。

これは僕も思いましたですね。就職して年上の上司とどう接したらいいかわからない。
そういうとき、まだ父親がいたからわりあいうまくいったのかもしれません。
こう考えると、片親育ちというのはマイナスです。しかし、欠落はプラスでもあるのではないか。
むかしは片親しかいない家庭を欠陥家庭と言っていたんです。
いまでは信じられないでしょうが、お役所言葉でもそうでした。
だったら、その欠陥家庭を書いてみようじゃないか。
お父さんと息子ふたりの家族。お母さんと娘ふたりの家族。
このふたつの家族が交流していく「3人家族」というドラマを僕は書いたことがあります。
たしかに欠陥は事実を見ることをさえぎります。
でも、考えてみたら両親がきちんといる家庭も、そのために事実が見えていないことがあります。
欠陥家庭なら見えるような事実が、欠陥していない家族には見えない。
そう考えると、どっちも欠陥があるとも言えるのではないでしょうか。
欠陥、欠陥とひどいようなことを言いますが、
苦労があることで人間はものごとをいろいろ考えるようになります。

テレビ局はいい大学を出た成績優秀な人ばかり選びますでしょう。
でも、そうしちゃうと苦労の細かなニュアンスとかを理解できないんですね。
だから、僕は言ったことがあります。
ドラマ制作に採用するのは欠陥家族の子を優先したほうがいいんじゃないか、なんて。
両親がいない子がいたらもっといい(場内笑)。
きっとそうすれば、いろいろなものがこもる話ができるように思いますですね。

人生を振り返ってみますと、幸福な思いは意外なほど強く刻み込まれていないんです。
不幸のほうがずっと心に滲みこむ味のあるものになっています。
不幸、つまりマイナスをいまの社会がうまく使いこなせていないような気がします。
少しまえは、とか僕のような老人が言うと数十年まえだったりするんですが(場内笑)、
苦労自慢というのがございましたね。
たくさん苦労をした人のほうが尊敬される。いまはそういう価値観がまったくありません。
マイナスに対して再評価するゆとりのようなものが必要ではないかと思いますですね。
時は立ちどまりませんから、社会はがらりと変わってしまうことがあります。

いまはそうではないのでしょうが、フェミニズム。
フェミニズムが台頭してきたころは、それはもう教条主義ですごかったですね
女の子が女の子っぽくなるのは親のせいだからよくない。
男女平等に子どもは育てなければならない。
でもですね、うちは女の子がふたりいますが、ふたりのうちでも違うんですね。
子どもは白いカンバスだ、といったようなことも言われました。
白いカンバスだから親が自由に描きこむことができる。すべては親の責任だ。
まるで原理主義のようなことが言われていました。
フェミニズムの評論家は、うちの子は女の子だけど機関車で遊ぶ、とか言うんです。
じゃあ、うちの子はと言い返しても、お互いそんなもの証明不能でしょう。
だいぶやりこめられた記憶があります。
それだけ当時は男性上位だったんでしょうかね。
男と女は一緒ではなく、むしろ男と女が違うから恋愛したり結婚するような気もしますが。

そういうところでも、どういうところでも、本当はどうなっているんだろうか?
本当はどうなっているかを考えるようにするといいと思いますですね。
ところでサッカーはどうなりましたか? え、負けた?
僕は途中で経堂の講演会に行かなくちゃって出てきたのですが(場内笑)。
サッカーもそうでしょう。むかしはだれもサッカーになんか見向きもしませんでしたよね。
あんな小さなボールを大きなところで蹴り合っているのを見て、なにがおもしろいんだ?
なかなかゴールしないし、見ていてもぜんぜんおもしろくない。
こんなふうに言われていました。しかし、いまはどうでしょう。サッカー一色ですよね。
逆にサッカーを見ないほうがおかしいと言われそうなくらいです。
こういうところに怖さがあると思いますね。人間なんか簡単に変わっちゃうぞという怖さ。
サッカーの話をしましたが、野球だってそうでしょう。
肉体に秀でた人が速いボールを投げて、それをバッターが棒切れで当てようとする。
だから、なんだって言うんです。あんなもん非生産的じゃないですか(場内笑)。
考えてみたら、野球のなにがおもしろいんだ?
当たり前のことでも少し疑ってみると変に見えてくるということがあります。
なるべくなら事実に近くなったほうがいいのではないでしょうか。
戦争とか起こって過激な社会になったら、あらゆることが本当に近くなるでしょうね。
でもいまは平和だから本当のことが見えにくくなっています。
戦争中だったら命をかけてチョイスしなければならないことも、
いまの平和な時代なら「ま、どっちでもいいんじゃないの」みたいな(場内笑)。
だいたい氷のうえをきれいにすべったって、それがいったいなんなんですか?(場内笑)
氷のうえをすべっているだけなんですよ。
もちろん、必要なのはわかります。
(退屈な)生活を助ける(うるおす)装置として、ああいうのも必要なんでしょうけれど。
でもでも、でもですよ、本当のことを言ったら、
80%くらいのことはじつはどうでもいいことなのではないか?
そういうふうに疑ってみることです。本当はどうなんだろうと疑ってみる。

中学受験の国語問題として僕の文章が使われることがあります。
問題として出てから一部送ってくるんです。二部送ってこられても困りますが(場内笑)。
それを読んで思いましたね。
小学6年生が中年の考えをなんでわかる必要があるのか?(場内笑)
もっとレベルが高い予備校の問題に使われたときもそうです。
たとえば、このときの登場人物の気持はどうだったでしょう。
1.悲しい、2.苦しい、3.寂しい、4.嬉しい――。
正しい答えをどれかひとつ選べと言われます。
しかし、しかしです。
文学というのはそういうチョイスをしないで丸ごと把握することがたいせつなんです。
質のいい子はこう答えると思いますね。「ここに答えはないよ」
あるいは「ぜんぶ答えだよ」かもしれません。
でも、それじゃあ点を取れないでしょう。
だから、採点者の気持を探るようなことをしなければならなくなる。
まるでギャンブルのように問題作成者の気持を読んで「寂しい」を選択する。
こういうのはどこか神経症的な世界だと思いますですね。

数学もそうです。中学、高校と数学を習います。
僕なんか社会に出てから、小学校で教わった算数以外は必要としたことががありません。
一生知らなくても困らないことで、なんであんなに苦労しなくちゃならないのか?
これなんかもリアリティがないと思いますですね。
そりゃあ、ピアノの幼児教育のような特殊例はあるでしょうけれども。
大学を出たって、自分で必要なものはわずかじゃないですか。
歴史なんて大河ドラマに教わっているようなものでしょう。
あの歴史が正しいのかどうかはわかりませんが。
どこかリアルじゃないと思う。
人間が生きていくために役に立つものと教育がまったく違うものになっている。
まあ、これは何人もの人が声をあげていかなきゃ変わらないのでしょうが。
いや、何人くらいではダメか。変わりようがないのかもしれません。
無駄な勉強は変わらないかもしれない。

スマホはなかったら困るんでしょうか?
なんでもメールが来てすぐに返信しないと失礼に当たるのだとか。
僕はファックスは使うけれどスマホはもういいです。
いえ、メールをやってもいいんですけど、よけいな苦労をしょってしまう気がして。
なければないでいいわけでしょう。
メールをやるといろんな人に返事をしなくてはならなくなってしまいます。
ずっとスマホをやっていると、
いつ自分についてとか他者について考える時間があるんでしょうか。
いったい私たちが本当に求めているものはなんなんだ。
そういうところのリアリティがいまは失われているような気がしますですね。
本当はなにを求めているのか?

テレビをつけたらコマーシャルがやっていますでしょう。
これはシジミ3千粒のエキスがどうだのと。え? と思いませんか?
なんでシジミが3千粒も必要なんだろう(場内笑)。
そんな必要ないんじゃないか。お味噌汁にシジミはいくつ入っていますか。
化粧品の広告もそうです。画面に出ますでしょう。
「これはぜんぶ個人の感想です」って。なにそれ? と思いませんか?
だって、それはだったら「これは嘘です」って言っているようなものなのですから。
そうでしょう? 「個人の感想」って言っているんだから(場内笑)。
すごい変だなって僕は思う。
私たちの社会がなんか異様なものになりつつあるのではないか。
本当はどうなっているのか? 本当はいったいどうなっているのか?
リアリティが失われているのではないか?
カラオケでも点がつきますよね。
あれはカラオケ機械のなかに基準があって、その通りに歌うと高得点になるらしいです。
しかし、その基準で歌わないほうがいい歌になっていることもあるでしょう?
どっかで事実と違うようになっている気がする。
人間は元々なんだったのか? 人間は元々はどういう存在か?

自分の家に子どもが産まれてくるとがらりと変わりますですね。
子どもが産まれてくるというのは、出産に無関係な男の感想かもしれませんが。
女性は産まれてくるどころじゃなく、もっと生々しい感覚がおありでしょう。
子どもはそれまでの価値観を持たないで生まれてくるんですね。
赤ちゃんはたえず見ていなきゃなんない大変さがあります。
それまで「人の世話をしない、世話にもならない」なんて洒落たことを言っていても、
いざ赤ちゃんが産まれたらそんなことを言っていられません。
僕は子どもにリアリティをたたきこまれましたですね。
子どもを育てることは、基本的なことを教えてくれます。
たとえば、生存になにが大事か? とか(場内笑)。
子どもが産まれた喜びというのは、それはもう大変なものでした。
子どもがこう手をあげて自分のところに飛び込んでくる。
体当たりしようというんじゃありませんよ(場内笑)。
抱きついてくるわけです。そのとき思いましたもん。こんな幸福があるのかって。
ここまでいい思いをしたんだから、あとはどうぐれようが、元はもう十分に取ったと思いました。
でも、子どもを育てるのは大変です。
デパートに子どもなしで夫婦ふたりで行けたらどんなに幸福か。
そういうやっかいさはありましたけれど。
子育てをしている人に言いたいのは、いまは大変でしょうがそれは一瞬なんですね。
永久に続くような感じがするでしょうが、あとから振り返ればほんの一瞬。
子どもはすぐに親から離れていきます。
またそれが成長するということなのですけれど。

夕方、歩いていると、僕は散歩をするんです。怖いのが後ろから来る自転車です。
もうなにも言わずにびゅんびゅん通り過ぎていきますから。
常に後ろを注意していますね。おかげで老化を防げているのかもしれません(場内笑)。
でも、あれはなんて言うんでしたっけ? ママチャリ?
まえとうしろのカゴに子どもを乗せて走ってくるお母さんの自転車には腹が立ちません。
いえ、もちろんぶつけられたら怒りますよ(場内笑)。

子どもが鍛えてくれるということがかなりあると思います。
いまは言葉がふわふわしているのではないでしょうか。
それはなぜか。どうして言葉がふわふわしているのか。
本当の事実によって言葉を裁いていないからではないだろうか。
そう僕は思いますね。
いまは「たしかにきれいな言葉だけど空疎じゃないか」
と言葉を弾き飛ばすようなリアリティがない。
「イマジン」でジョン・レノンは理想論を歌っています。
とてもいい歌だと思いますし、僕もジョン・レノンは好きですよ。
歌いますよね。みんながそう思えば、国籍もない、性別もない、うんぬん。
それはきれいな言葉ですが、じゃあ、1週間中東の人を家に泊められるか。
中東と言ったのはとくに理由はないんですが、1週間は持たないでしょう。
これは東北の被災者でもおなじです。

自分の悲しみは人に肩代わりしてもらえないんですね。
たとえば、自分の息子を亡くした悲しみ。これはもうだれも肩代わりできません。
救援物資を持って来た人が、あなたの悲しみはわかりますと言う。
そりゃあ、ものをもらうから「ありがとう」とは言うでしょう。
しかし、悲しみをだれかと共有するということはできません。
結局、人間はみんなひとりで死んでいくんです。
ひとりで死んでいくのが当たり前にならなければならないと僕は思いますですね。
よく言うでしょう。亭主が死ぬと妻が元気になるとか(高齢女性ばかりの場内爆笑)。
僕も近所でそういうケースをよく見かけます。
でも、なにかで見ましたが亭主が死ぬと奥さんのほうもダメージを受けるらしいです。
いまはもう戦争を知っている人も少なくなりましたが、戦争では多くの人が死にました。
僕も母と兄ふたりを戦争で亡くしました。
爆弾に遭ったわけじゃないけれども、薬のなさ、貧しさは戦争の影響ですからね。
いろんな不幸がありました。
このためか戦中や戦後すぐの映画には決まり文句があったんです。
「死んだら終わりよ」「なにがあっても生き抜くのよ」
それで戦争が終わり、しばらく経ったらどうなったか。
「ただ生きているだけじゃダメよ」「豊かに生きなきゃダメよ」(場内笑)
こんなふうに時代が変わると価値観も変わってしまいます。

現代はたとえば脳にダメージがあって、もう話せない人とかおられますでしょう。
胃ろうをしていてものを食べることもできない。会話も無理。
なにからなにまで人の世話にならなければ生きていけないような人。
私たちはこういう人に対して思いますよね。
これで生きていてなんの意味があるんだろうかとか、ねえ?(場内、気まずい雰囲気)
あ、ねえ? とか、ねえねえ? なんて言っちゃいけないのか(場内笑)。
NHKの「放浪老人」で胃ろうをしながら生きながらえている老人にインタビューするんです。
まだ生きたいですか? 
身よりもいない会話もできないものも食べられない老人は生きたいと意志を表明します。
もちろん、生きたくないなんて言ったらNHKでは放送できませんけれど。
僕なんかは思いましたね。それでも生きたいのか。その人の気持がわからなかった。
しかし、考えてみたらどうでしょうか。
よく言いますでしょう。
意味がある生き方じゃなきゃダメだ。
楽しみを見つけている人しか生きる価値がない。
こういうのはすべて本当は間違っているのではないか。

たとえばこのへんでふらふらしている人がいる。
一方で豪華客船に乗っている人がいたとします。
ふつうは豪華客船のほうの人が充実した生を送っていると考えがちです。
しかし、もしかしたら近所をふらふらしている人のほうが豊かな世界を持っているかもしれない。
そうでしょう? どうしてそうじゃないと言い切れるでしょうか?
いまは情報のプッシュが多いでしょう。
たとえば、教養を積まなきゃ、とか。ああ、もう教養の価値はないか(場内笑)。
こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、いろんな情報のプッシュがあります。
しかし、そういうプッシュは空疎な価値観ではないでしょうか。
温泉に行こうなんてそうでしょう。
「ためしてガッテン」によると、温泉に入ると逆に疲れるらしいですよ
「じゃあ、どうして疲れちゃいけないの?」と聞かれると困りますが(場内笑)。
温泉に行きますと料理がずらりと出てくるでしょう。
あれはどこかきちがいじみていますよね。リアリティがない。
本当の満足は別にあるのではないか?
家内から温泉に行こうと言われますでしょう。
うちでゴロゴロしているほうがいい、と僕は答えますもん(場内笑)。
それでも行こうと言われて行くこともあるんです。
温泉に入って部屋に戻る。ゴロゴロしながらテレビをつける。
なんだ、うちとおなじことをやってるんじゃないか、と気づく(場内笑)。

「温泉に行こう」ばかりではありません。
事実というのは少し揺さぶると嘘ばっかりではないか?
その嘘にとらわれて生きているところが私たちにはないだろうか?
たいせつなのは――。
ひとりひとりが世界の嘘とは関係なく、自分のリアリティを探すことではないでしょうか?
リアリティは喜びと言い換えてもいいでしょう。
なにが自分にとって本当の喜びなのかをリアルに考えてみる。
世界の嘘とはつきあわず自分のリアリティをたいせつにしてみる。
とはいえ、これは自分のリアリティの話であって、人には押しつけないほうがいいと思います。
というのも、人に圧迫を与える「よいこと」がありますでしょう。
みんな若返らなきゃならない、とか。
私たちの価値観は、あまり自由ではありません。
美しいバラを見ると、あれだけきれいなんだから食べてもおいしいだろうと思っちゃいます。
実際はバラはきれいだが食べられない。
きれいな人なんかもそうで、きれいだから頭がよさそうに見えるかもしれない。
しかし、きれいな人が実際に頭もよいかといったら、
かならずしもそういうわけではありませんよね(場内笑)。

戦争のリアリティというのは、戦争を知らない人にはなかなかわかりません。
じつは戦争中フィリピン人を日本兵はたくさん殺したそうです。
でもフィリピン人は中国の人みたいに言わないですよね。
言わない人にだいぶ助けられているところがあるのではないでしょうか。
ひとたび戦争が起こってしまったら、なかなか局外に立てなくなります。
小林秀雄がこういうことを言っていました。
「戦争が起こったら僕は一兵士として戦争に行くしかない」
ワールドカップみたいにワーッとなっちゃうともう反対の声をあげられないんです。
なにもないときは戦争反対と言えても、いざどこかの国からミサイルを撃ち込まれたらどうか。
何十人が死んだとする。この何十人を相手国との交渉で手打ちにするなんて無理ですよ。
一気に戦争に走ってしまうでしょう。
イギリスのフォースターという作家がこういうことを言っています。
「自分は信条など(自分の信条も相手の信条も)どうでもいいと思っていても、
いざヒットラーが信条を言ってきたら、突きつけてきたら、
こちらも信条を持たなければならなくなる」
それではそろそろ時間になりましたようなので――。

(質疑応答)
この講演会では事前に質問用紙が配られ休憩時間に集められた。
山のような質問用紙を手にしてそこはかとなく当惑する山田太一さん。
まず主催もとの男性社員さん(?)が特権を生かし(?)子育てについて口頭で質問する。
彼は「タケシです」とだけ名乗った。
1.中学3年生の娘がいるけれど、妻と教育方針が異なるがどうしたらいいか?
2.会社はきれいごとばかりで本音がないがどうしたらいいか?(おいおい、内部告発かよ)
3.これからの日本はどうしたらいいと思うか?
山田太一さんのお答えは、親は子と一緒にいるだけで教育になっているのではないか。
基本的にかわいがっていたらいい、というもの。
会社批判は意識的にか無意識的にかスルー。
「これからの日本はどうしたらいいか?」に山田太一さんがどう答えたかは忘れちゃった。
おそらく当方が「これからの日本」とかどうでもいいからだろう。
正直それどころじゃなく、日本よりなによりまず自分のことだからさ、ごめんちょ。

その後、山田太一さんは質問用紙を持て余したようにパラパラめぐりながら――。
読書の効用はですね、とある質問に答え始める。
自分が読書を始めたきっかけは現実からの逃避であったが、いつしか癖になってしまった。
本は他人のおすすめを読むのもいいが、自力で探すのも楽しい。
そのためには立ち読みをすることだ。
どこでもいいからパラパラ読んでみたら、その文章の質のようなものがわかるだろうから、
それで読むかどうかを決めたらばいい。
本はたえず疑いながら読むとおもしろい。
本(の内容)を信じるよりも自分(の感覚)を信じて読書をするといい。
最近、読んでおもしろかったのは中公新書の「ハンナ・アーレント」(矢野久美子)。
でも、向き不向きがあるからだれが読んでもおもしろいわけじゃないと思う。
また質問用紙の束をパラパラめくりながら、
自分のドラマのなかでもっとも自信作は? の問いに答える。
たくさん書きましたから、どれがいちばんと順位をつけたくありません。
おそらく質問の内容は身の上相談の嵐だったような気がする。
山田太一さんは質問をほとんど無視してこんなことをおっしゃる――。

人(ひと)の為(ため)と書くと偽(にせ)という言葉になりますでしょう。
どうしてそうなるんでしょうね。しかし、うまくできていると思います。
人の為と書くと偽物になってしまう。
あまりいろいろ期待しないほうがいいと思いますですね。
先ほども申し上げましたように結局はひとりで死んでいくんですから。
これで質疑応答を切り上げ、講演会は終了と相成りました。

(注)へたをすると山田太一さんの講演内容ではなく、
すべてこちらの妄想かもしれませんのでご注意あれ。
誤字脱字失礼。少しずつ修正していきます。

聞き手:土屋顕史(Yonda?)

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3491.html
長生きしているためか、いまびっくりするくらい大御所になってしまった山田太一さん推薦の
映画「サラの鍵」をジェイコムに加入したこともあり視聴する。
思いっきり通俗的だけれど、最初から最後まで2時間以上ものあいだ、
決して映画が好きとは言えないこちらを退屈させずに引っ張ってくれたのだから、
おそらく思っているよりも相当に大した作品なのだろう。
やはり「真実はなにか?」というテーマは牽引力があると再認識させられた。
ナチス時代、強制収容所から脱走したユダヤ人の少女はその後どうなったか
を現代の女性ジャーナリストが追う。
なぜサラという少女が脱走したかというと憲兵に一家が捕まる際、
とっさの判断でよかれと思い幼い弟を納戸に隠し、そのうえ鍵をしてしまったからである。
「かならずまた来るから待っていてね」と約束をして。
かなりの日数が経過したのち、サラが弟を助けに行くと壮絶な腐乱死体になっていた。
自分が弟を殺してしまったようなものである。姉弟の両親は強制収容所で死亡。
救いのない話はつづき、サラは大人になってからひとりアメリカに行く。
結婚はしたもののうつ病になりアルコールとドラッグにのめりこみ、
最後は9歳の息子を遺して自殺である。
せっかく収容所から逃亡できたのに最後はみずから命を絶ってしまうという。

サラの夫の言うセリフがよかったなあ。
サラを亡くしたあと再婚した夫は娘をひとりもうける。
男は死の直前、母親のサラの過去をまるで知らなかった50歳になる息子に伝えるのである。
「おまえのお母さんは、私が出会ったなかでもっとも美しい人だった」
「そして……もっとも悲しみをうちに秘めた人だった」
悲しみが美しさになるという世界観がとてもいいと思った。
悲しみに美しさが宿るというのはフィクションなんだろうが、
せめて映画ではそういう夢を見たいじゃないの。
とても秀逸な娯楽映画だったとは思うが、最後は「うーん」と思ってしまった。
社会派で正義心の強い美人ジャーナリストが妊娠しているんだ。
しかし、夫婦ともに高齢なこともあり、やり手の商売人の夫からは中絶をすすめられている。
映画は大衆娯楽だからそうしなきゃならないのはわかるが、
迷わせたすえにジャーナリストは子どもを産むことを決意する。
いや、いいけれどさ、映画なんぞしょせんは金儲け目あての大衆娯楽なんだから。
しかし、この映画は中絶経験、堕胎経験を持つ女性を傷つけるのではないか。
この映画のような金持夫婦はいいけれど、貧乏人なんか変な自己満足から
子どもを産まないほうがいいケースも多々あるような気もするが。

真実を知ることはいいことだというメッセージ性も、さあどうだか。
サラの息子は母親がユダヤ人で壮絶な過去を持っていたことをなにも知らなかったのである。
にもかかわらず、おかしなジャーナリストが真実をほじくりかえしてしまう。
その結果、母が自殺をしたことがわかってしまった。
知らなかったほうがいいということもたぶんにありうるとは思うけれど、どうだろう。
「中絶はするな」「命はたいせつ」「真実は知るべきだ」という、
あくまでも大衆ジャーナリズムの通念にのっとっているのが人によっては気になるだろう。
もっともこれは視聴後のひねくれた考えで、
映画を見ているあいだは物語に引き込まれ、いわゆる通俗的な感動をさせていただいた。
なんだかんだ訳知りなことを書いたが、とてもいい映画だった。
どんなつまらない労働に毎日明け暮れていても、
週に一度くらいこういう映画を鑑賞できたら、
あるいは生きる張り合いが生まれるのかもしれない。
映画は、どこまでも味気ない生活を営む大衆の日常を飾る造花なのだろう。

「河合隼雄全対話3 父性原理と母性原理」(河合隼雄/第三文明社)

→河合隼雄さんって本当に現実を知っていたのかなあ。
というのも、基本的に有料カウンセリングに来るような人は知的水準が高い富裕層なのだから。
ということは、カウンセラーは知的水準の低い貧困層の現実を知りえないことになってしまう。
しかし、そもそも共有される唯一の現実なんてない
というのが河合隼雄の根っこのような気がするから、
だれそれは現実を知っているだの、現実を知らないだのと論じることがアホらしいことになる。
それぞれの現実がそれぞれ本当で、それぞれ人の数だけの世界しかありようがない。
他人の気持とは、他人の世界のことなのだろう。
ならば他人の気持などわからないというのは、他人の世界は理解しようがないということになる。
人はわかりあえない。人の気持がわかる人というのは、
他人の気持(世界)がわかりえないことの測り知れなさを
徹底的にわかった人なのかもしれない。
ふたりの人が真剣に向き合ったとき、
相手の気持(世界)がわからないことをどこまでも知りながら、
それでもわかろうとする態度を取る相手に苦しんでいる人間は救われるのだと思う。
わからないながらもわかろうとするところに希望があるのかもしれない。
そのためにはわからないことを深くわかっていなければなるまい。
相手の気持は理解できないが、しかし――。

「男女なんていうのは理解し合うことはありえない。
分かり合うことがありえない相手に対して一緒に住んでいこうというのは大変なことです。
そのために演技に命をかけるというのが愛情だ、
という言い方もできるのではないでしょうか」(P33)


相手の気持は理解できないが、しかし、演技に命をかけることならできるのではないか。
演技というのは嘘であるけれど、だがしかし、嘘に命をかけたらばどうなるか。
そのとき嘘も本当になるのではないだろうか。
そもそもなにが演技ではない「素」なのかも考えてみるとわからなくなってくる。
最後まで演技(嘘)だとばれなかったものが本物の愛情(本当)になるのだとしたらどうだ。
演技に命をかけるのが愛情ならば、本当のことはそうそう言ってはならない。
与えられた役を嘘でもいいから命をかけて演じていたら、ときになにかが起こるのではないか。
もしかしたらそれぞれの世界しかないにもかかわらず、
たとえそうだとしてもわが国にもれっきとしたみんなの世界がある。それは昔話である。
男女(人間)は永遠にわかりあえなくても、出会って別れるくらいならできるのだろう。
みんなの世界である昔話は本当なのか嘘なのか。

「昔話で言うと、日本の場合は女性がプロポーズするのがものすごく多いんです。
そしてだいたい男はすぐ「うん」と言っている(笑い)。
相手の素性も分からずに言っている。
しかもそれが話の終わりではないんですよ。結婚で終わらないんです。
結婚から始まって、そして女性が消え去るところで終わるわけですね」(P67)


もう一度会いたくても会えない。消えてはじめて相手のありがたさがわかる。
昔話のようなことが現実に起こる人も起こらない人もいるのだろう。
しかし、起こるか起こらないかは死ぬまでなんぴとたりともわからない。
この「わからない」がみんなの世界(昔話)の救いなのだと思う。
ユング心理学のいう「無意識」とは、自分でも自分がわからないこと。
人間の絶望は自分さえ理解できない当人が決して相手(の世界)を理解できないこと。
かりに希望があるとしたらみんなの世界である昔話なのかもしれない。
この昔話を信じることができたら、
どんな孤独な男性でも毎日毎日、明るい人の演技ができるようになるのではないか。

「私が昔話の中の女性像でいちばん感心したのは「炭焼き五郎」という話です。
これは「炭焼き五郎」と題されていますが、むしろ中心人物は女性なんです。
いろいろありますが、私が取り上げたのは鹿児島県のもので、あらすじはこんなものです。
高い運命に生まれた女と低い運命に生まれた男が結婚させられる。
ところが男があんまりばかなことをするので、女は夫を捨てて家を出てしまう。
門を出ると、二柱(ふたはしら)の倉の神さまが話をしていて、
炭焼き五郎というすばらしい男がいると聞いて、
女は炭焼き五郎のところに押しかけていく。
炭焼き五郎は無一物だからと断るのに女は無理矢理に結婚する。
結婚してから家の中を見ると、釜(かま)いっぱいに金(きん)が詰まっている。
炭焼き五郎は無学だから、値打ちがあることを知らなかったわけです。
それを女が教えて、二人はたいへんな長者になったというわけです。
ヴァリエーションはいろいろありますが、
ポイントは、男は自分が金を持っているのを知らないのに、
それを押しかけてきた生まれのよい女の力によって知らされるというところです。
女性自身は金を持って生まれていたわけではないが、呪術能力みたいなものでしょうか。
男のもっている能力を引き出す力をもっている」(P186)


いまの日本では多くの男女が恋愛結婚しているのだから希望がある。
こんな男でも、と思うような人が結婚していたりするのだから現実は理解不能でおもしろい。
それぞれの女性がそれぞれの男性のうちに眠る金(きん)を見つけているのだと考えたら。
世のすべての男性よ、自信と希望を持とうではないか。
自分という倉(くら)のなかには金がたっぷりと詰まっている。
たまたま機縁が熟さないためにまだそれがわからないだけなのだ。
他人の金を見つける名人というのがいるのかもしれない。たとえば河合隼雄さんのような――。

昨日バイト先で忙しい手作業をしている最中、
社員さんがいきなり来て「明日、休んでいただけませんか?」という。
そんなもん「わかりました」と答えるしかないじゃん。まあ、その瞬間をねらったんでしょうけれど。
現実ってすげえなと思った。
その後、その社員さんとすれ違ったとき、
彼は携帯をながめるふりをして目を合わさないようにしていた。
怒っているわけじゃないのね。彼だって仕事としてしょうがなく伝えたことなのでしょうから。
だれかが憎まれ役をしなければならないわけ。
この書籍出荷倉庫は、1日の仕事量が安定しないんだ。
前日にならないと明日どのくらい仕事があるのかわからない。
で、いままでは高額な日雇い派遣に頼っていたけれどコストがかさみすぎる。
このため、だれでもいいからって直接雇用の安価なバイトを取りまくったわけである。
しかし、仕事のないときはバイトを休ませなくてはならない。
コスト削減のしわ寄せがいちばん立場の弱いアルバイトに来るのだろう。
たしかにこのバイト先はいろいろな意味で(差別じゃありませんよ)、
ちょっと他ではお目にかかれないような人もいるからおもしろいのである。

この会社は書籍取次としては中小といってよい。
1回つぶれそうになったらしいし、仕事を取ってくるには値段を下げるしかないのだと思う。
そうするとどれだけ安く人手を確保できるかになる。
いい大人を時給850円で雇って、その中年にいきなり明日休めという。
おれが社員だったら相手の気持を考えてそれはいえないが社会人はいわなければならない。
「こんなことやっていいんだろうか?」と思いながらも、
自分が食うために他人に辛い思いをさせなければならないのが会社なのだろう。
おれだって辛いもん。
昨日、親しみを感じていた高齢バイトさんが早く帰らされていた。
そのぶんこちらが2時間半ぶん(850円×2・5)多く稼げたことになる。
でもさ、絶対にベテランの彼を働かせたほうが仕事の効率はいいわけ。
新しいバイトなんていれるから彼が困らなくてはならなくなってしまった。
なんか昨日は見ちゃいけないものを見てしまったような気がした。
うちのブログをお読みの少数の読者さんは、こういう世界を実地で知らないような気がする。
やっぱり文化水準が一定程度ないと、他人の幼稚な読書感想文なんかに興味を持てないし。
世の中にはこういう世界があるわけなんだね~。
文化事業らしい(笑)出版の世界の底辺の底辺では、こういうことが繰り広げられている。

一定以上の年齢を超えると、この底辺から抜け出せないだろう。
他で雇ってくれるところはないし、そもそもバイト探しをするためのタメがない。
もうどうしようもない。ほとんど敗戦処理のような楽しみのない人生しか待っていない。
ある高齢バイトさんから「あんまり考えないほうがいいですよ」
とか言われたけどリアルで震えたもん。
新刊書店で華々しく積まれた書籍の裏側にこんな地獄があったとは思いもしなかった。
昨日バイト先で見かけたのは佐野洋子の絵本「100万回生きたねこ」。
河合隼雄の本に紹介されていて、いつかブックオフ百円ゲットをねらっていた。
ストーリーは知っていたが、絵は見たことがなかった。
バイト中に最後のページだけちらっと見てみた。なみだが込みあげてきた。
朝起きて4時間かけて宮本輝氏の小説の稚拙な感想を書いてからバイトに行く。
月の半ばに近づき、ようやく忙しい時期に入ったようで8時間働けるのが嬉しい。
宮本輝氏の傑作小説「慈雨の音」を読んでバカ笑いしたのは、
「浮世の片隅の塵芥(ちりあくた)」という作家の個性あふれる差別表現である。
バイト先で書籍のピッキングをしながら、
何度も「浮世の片隅の塵芥」が脳内でよみがえり吹き出しそうになる。
この倉庫には百人以上の人が時給850円で働いているが、
(わたしも含めて)まさしく「浮世の片隅の塵芥」というほかないような気がするからである。
しかし、たとえ「浮世の片隅の塵芥」でも人格的に立派な人間がいることを知っている。
なぜだか紫綬褒章作家で大勝利者の宮本輝氏が成功とともに忘れてしまったことだ。
おそらく「浮世の片隅の塵芥」だとしても、宮本輝ご老人より立派な人間はいるような気がする。

しっかし、若さにはかなわねえな。
今日はとなりのベトナム人(?)のおねえさんが
わたしなんかよりガンガン大量の仕事を正確にこなしていた。
ピッキング(摘み取り)のバイトってけっこうとなりにだれがいるかが重要だと思う。
なんだかこのおねえさんのとぼけたところが好きで今日は安心してピッキングができた。
それでも二度数え間違えをしたが、入ったころに比べたらだいぶ進歩している。
まあ「浮世の片隅の塵芥」ではあるけれどさ。
今日ダンボール箱のなかで見かけて打たれたのは光文社新訳文庫の「マルテの手記」だな。
テレビライターの山田太一氏推薦の「マルテの手記」を読まぬまま、
いつしか「浮世の片隅の塵芥」にまで落ちぶれてしまった。
そう思うと、クックックとおかしな笑いが込みあげてくるのだから、
バイト先では「あのキモいおっさんなに?」と言われているのかもしれない。
もちろん、それは被害妄想でだれもわたしになんか興味がないというのが真実だろう。
「慈雨の音」(宮本輝/新潮社)

→宮本輝は絶対的真理があると思っている。
正しくは絶対的真理があると「信じている」なのだが、
このふたつの大きな違いを作家は理解しようとしないだろう。
なぜなら人生で大勝利した芥川賞選考委員で紫綬褒章作家の宮本輝は、
自分は絶対的真理をすでにかなりのところまで悟っているという揺らぎない自信があるからだ。
自信の根拠は、おのれの大勝利である。どうだ、論より証拠、目を見開かれよ。
結果が出ているではないか。ものども、おれさまの大勝利が見えないか。
宮本輝の信じる絶対的真理は日蓮仏法であり、創価学会であり、池田大作の教えである。
このため、宮本輝は絶対的善も絶対的悪もあると信じている。

作者の自伝的大河小説「流転の海」第六部「慈雨の音」の主人公は、
宮本輝の父を模した松坂熊吾という
誇大妄想にとりつかれた口八丁手八丁のチンピラくずれだ。
本人は大物ぶっているが人目にはイカサマ師程度にしか見えないのだろう。
いまは金がないことを憐れまれて温情から駐車場の管理人をさせてもらっているが、
すぐに手が出る松坂熊吾なる暴力男は職務をまともにまっとうしないでいつも遊び歩いている。
与えられた仕事に満足せず、自分は管理人ごときの器ではないと信じるためだ。
息子も親に似たのか非常識極まりなく、
人様の駐車場でそこらじゅうに糞(ふん)をする鳩(はと)を飼い始めるしまつ。
管理会社のサラリーマンなら仕事として注意のひとつもしなければなるまい。
ところが、宮本輝はこの職務に忠実な善良な会社員を極悪人のような描き方をするのだ。
そのうえで善人という設定の粗暴な自動車修理工に
会社員を恫喝させて作者はひとり喝采をあげている。
これは自分や自分たち(家族、教団)を絶対正義(絶対善)と完全に信じている作家でなければ
書けない描写だろうと身震いしたが、もちろんこの震えは感動からではない。
作者のまったく他人の事情をかんがみない独善思考に恐怖したのである。
じつのところ悪よりも怖いのが正義である。
悪でもなしえない残虐な行為を人(びと)は正義の名のもとに平気で行いうる。
警察しかり、マスコミしかり、新興宗教しかり、
正義を自称する集団から目をつけられたらなにをされるかわからないところがある。
そして宮本輝もまた正義の一員である。宮本輝は正義の人である。宮本輝は正義を描く。

正義の人である宮本輝の知る絶対的真理のひとつは「世法の機微」である。
これは宮本輝の造語で、意味は人情の機微とおなじようなものになるのだろう。
「世法の機微」とは具体的には、恩人には何度も付け届け(贈り物)をすること、
だれかにお世話になったらやむをえない場合は郵送でもいいから謝礼金を送ることである。
世の中でうまくのしていくためには「世法の機微」を知らなければならない。
「慈雨の音」はほとんど全編「世法の機微」を描いたものとさえ言ってもよいだろう。
「世法の機微」とは言い換えたら「世間の常識」や「人間としての礼儀」になる。
作者が信じる絶対的真理のひとつ「世法の機微」は、
あったかい人情のみならず鋭い刃をも隠し持っている。
「あの人は世間の常識を知らないんじゃない」「人間としての礼儀に欠けるわよね」――。
松坂熊吾の一家は「世法の機微」を知っているからすばらしく模範的だという理屈だ。
まだ中学生の少年・松坂伸仁が友人をつくるために小狡く相手に小銭を渡すのだから、
松坂熊吾は毎日のように息子を殴りながらよほど厳しく「世法の機微」を仕込んだのだろう。
「慈雨の音」は学のない夫婦が妙に世知長けたふりをして粋がる気持悪い小説である。
まだ純真であるべき年齢の息子までが、
恥ずかしながらいい年をしたわたしなどがいまだできない、
ませた大人びた処世術をさらりと披露するので、
こうなるとどうしても生まれの差というものを考えずにはいられない。

正義の人・宮本輝が「慈雨の音」で描いている絶対的真理がもうひとつある。
それは創価学会の教義ともつながるバリバリの自力主義、努力主義である。
たとえどれほど悪い星のもとに生まれたとしても、
人間はだれもが正しい努力しだいで人生を切り拓いていけるという真理(信仰)だ。
みずから正しい環境を求め正しい教育(創価の?)を受けたら人間は変わることができる。
これは松坂熊吾と宮本輝の核になっている思考だろう。

「その子が蛭(ひる)になるのも
凶暴な獣になるのも良識をわきまえた上等な人間になるのも
環境と教育次第で、血筋といったものはそれによって冥伏(みょうぶく)
してしまうものだと自分は信じている」(P296)


これはどんな悪しき宿命も転換することができるという、
(ある意味では遺伝子の存在をまったく認めない)創価学会の根本思想である。
人は努力して正しい仏法や「世法の機微」を学べば人間革命を起こすことができる。
人生に負けるようなやつは努力が足らないせいだから、もっともっとがんばれ!
松坂熊吾は古い流行歌の「こんな女に誰がした」というフレーズが嫌いだという。
おそらく池田大作も宮本輝も「こんな女に誰がした」と歌うような女が嫌いなのだろう。
よほど毛嫌いしているのか二度も小説内で敵性思考として槍玉にあがっている。

「暗くなったビリヤード場のなかに、
近くの路地のどこかでかけているレコードの音がいやに大きく聞こえてきた。
昔、流行った歌謡曲の歌詞が、熊吾をひどく不快にさせた。
中学を卒業してすぐに能登から大阪へ働きに出て来て、
電器部品の工場で一日中ハンダ付けの作業に明け暮れ、
安い賃金でこき使われて心身ともに疲弊していたときに、
この「ラッキー」という新しい働き場所を得た働き者の康代が、
従業員思いの[店主の]磯辺に隠して子を堕ろした。
あの娘も、そうやって浮世の片隅の塵芥(ちりあくた)となっていくのか。
こんな女に誰がした、じゃと? てめえでなったんじゃ」(P265)


松坂熊吾にも宮本輝にも壮大な自信があるから、こういう心情をもらすのだろう。
もし自分ならばどんな劣悪な環境に生まれ落ちても清く正しい人生を送れる。
「浮世の片隅の塵芥」になるものは「てめえでなったんじゃ」という自己責任論である。
堕胎経験のある非正規雇用の女性は「浮世の片隅の塵芥」であるという、
まこと偽善のない正直な差別観の吐露でもある。
宮本輝は「仏法は勝負」という創価学会の教えにのっとり努力して人生で大勝利した。
「浮世の片隅の塵芥」(返す返すもすごい本音の差別的表現だ)をだれのせいでもなく、
「てめえでなったんじゃ」と冷たく突き放せる根拠は、
宮本輝が芥川賞作家、紫綬褒章作家に「てめえでなったんじゃ」と信じているからだろう。

宗教啓蒙小説「慈雨の音」のクライマックスは松坂熊吾の大勝利宣言である。
松坂熊吾という男は、いまではお情けで駐車場の管理人をさせてもらっている人生の敗者だ。
堕胎経験のある街角の女給を「浮世の片隅の塵芥」とさげすむ尊大な精神は失っていないが、
いまのところはだれがどう見ても人から同情されるほど落ちぶれた人生の敗北者である。
この松坂熊吾という男もむかしは小商いであぶく銭を稼いでいた時期があった。
そのときの使用人であり弟分であったのが海老原太一という優秀な人材である。
太一はのちに松坂熊吾のもとを去り、自分の会社をはじめ大成功を遂げ、
現在では国会議員に立候補するほどの大物になっている。
独善的で被害妄想が強い松坂熊吾は、
弟分の海老原太一に裏切られたと長らく根に持っている。
これはよくある話である。
かつてちょっとだけ世話をしてあげた人があとで成功すると、
かならずおれが育ててやったのにあいつは恩知らずだと憤慨するやつがでてくるもの。

さあ、この恩知らずの裏切り者を物語作家の宮本輝はどのように裁くか。
いまでは熊吾と天と地ほどにも差がある高身分の海老原太一が自殺したという話にしてしまう。
正義は勝ったのである。どうだ、見たか! 裏切り者はこのような裁きを受けるのだぞ!
このときもしつこく「こんな女に誰がした」の音楽をかけて、
「てめえでなったんじゃ」と松坂熊吾に宮本輝は言わせることで勝利の快感に打ち震えている。
いまは駐車場の管理人にまで落ちぶれた松坂熊吾が、
国会議員まであと一歩だった海老原太一に勝利した。これが宮本輝の描く勝利の物語である。
「仏法は勝負」と教える創価学会の宮本輝の描く物語はこうである。
松坂熊吾は旧知のものの死に際していちおうは善人気取りなのだが、
なお勝ち誇っているところがまこと人間味を感じさせる。
自分を飛び越して大出世した後輩が自殺したときの底の浅い感傷とザマアミロという勝利感を、
宮本輝がこれほどうまく描けるのは
作家がおのれの心中の畜生界、修羅界、地獄界をよく見つめているからだろう。
もしかしたら「正義」は「悪」よりも「地獄」に近いのかもしれない。

「太一よ、なんで首なんか吊ったんじゃ。
そんなお前に、よくもエビハラ通商なんて立派な会社が築けたことよ。
お前も自分の器以上に出世しすぎたのお。
生きちょったら、また何かの縁でお互いに心を通わせるようになって、
ジャンジャン横丁の串カツ屋で立ったままコップ酒を飲みながら、
大将、申し訳ありませんでした、
いやいや、お前の晴れの日に人前で恥をかかせたわしが悪い、
と言い合(お)うて、ふたりで笑える日が来たかもしれんぞ。
大将、あの名刺、破ってしもて下さいと駄々っ子が物をねだるみたいに、
なんでわしに直接頼まんかったんじゃ。
それができたら、お前という人間は大きくなれたのに。
蛹(さなぎ)から蝶へ変われたのに……」(P362)


引用文中の名刺というのは、海老原太一のスキャンダルの証拠である。
いまは敗北者の松坂熊吾はじつのところ勝利者の海老原太一の弱みを握っていた。
海老原太一が自殺した原因も、おそらくこの名刺にあるのである。
正確な因果関係は文中からはわからないけれど、
松坂熊吾が知り合いのチンピラヤクザにこの名刺をハナムケとしてプレゼントしたことが、
海老原太一の自殺と大きく関係しているのは疑いえない。
にもかかわらず、熊吾はいっさい罪悪感や自責の念をいだくことはない。
自殺した旧知の太一に「てめえでなったんじゃ」と言いたげである。
しかし、文面を正しく追うと熊吾がチンピラに名刺をあげたことが自殺の遠因であろう。
では、なぜ熊吾が観音寺のケンというチンピラヤクザにそんな重要な名刺をあげたのか。
たまたま偶然に古くからの知り合いである観音寺のケンと京都駅で再会したからである。
そのときの気まぐれに過ぎない。
そうだとしたら、なぜ自分は京都駅へ行ったのか。本来はべつのところに行くはずだった。
京都駅で観音寺のケンと再会した直後、熊吾は茶屋で回想する。

「道に出している長椅子に腰を降ろし、
熊吾は草餅を二皿と抹茶を註文し、煙草を吸った。
そして、大津行きの列車に乗り換えていたら、
観音寺のケンと出くわすことはなかったのだなと思った。
さして珍しくもない人の世の不思議だが、それにしても、
なぜ自分はふいにあの名刺を観音寺のケンにくれてやったのか。
それが一瞬のいかなる心の動きによるものなのか……」(P173)


この「一瞬の心の動き」をむかしの宮本輝はじつにうまく描写したものである。
(どうでもいいが、この「一瞬の心の動き」を創価学会用語で「一念三千」という)
永遠に通じているところの「一瞬の心の動き」は、
おそらく「五千回の生死」(宮本輝の短編小説のタイトル)と関係しているのだろう。
「五千回の生死」まで視野に入れたらば、「てめえでなったんじゃ」も納得がいく。
だが、いま文壇の重鎮になってしまった大勝利者の宮本輝は、
もはや「五千回の生死」を見通す眼力を失ってしまっているような気がする。
いまの宮本輝にはせいぜい三世(過去世、現世、来世)くらいしか見えていないのではないか。
老いたらば視力を失うのは自然であるから作家の弱視を、
浅薄な自己責任論のように「てめえでなったんじゃ」と裁くことはしたくない。
宮本輝はこの小説で通底音のように「てめえでなったんじゃ」と人を冷たく裁くが、
わたしは善人だからというわけではなく自分が裁かれたくないという狡さのために、
人様を紫綬褒章作家のように「てめえでなったんじゃ」とさげすむことができない。
宮本輝は「てめえでなったんじゃ」を絶対的真理と信じていそうだが、
わたしはそれは疑わしいのではないかと思っている。どちらが真理かはわからない。
もしかしたら「てめえでなったんじゃ」が絶対的真理なのかもしれない。

この小説のもうひとつのテーマに「失うは得る」というものがある。
宮本輝の少年時をモデルにした松坂伸仁は飼っていた鳩との別れを経て、
人生における目に見えない大きなものを得ている。
この松坂伸仁が長じて創価学会入信ののち大勝利の人生を歩むことになるのである。
松坂伸仁(=宮本輝、本名は宮本正仁)はこれから
妻子、文学賞、財産、邸宅、別荘、骨董、孫、紫綬褒章といった多くのものを得ることになる。
「失うは得る」ならば「得るは失う」である。
「慈雨の雨」を読んで多くのものを獲得した宮本輝老人がなにを失ったかがわかった。
目に見えるものをたくさん得ると、そのぶん目に見えない大きなものを失うのかもしれない。
もしかしたら勝つと失うものがあり、負けても得るものがあるのではないだろうか。
それにしても「てめえでなったんじゃ」という言葉は突き刺さる。
この痛みを幸運な人間は人生に勝ち続けていく過程で失ってしまうのではあるまいか。
むかしの宮本輝はいまよりずいぶん人の痛みに敏感だったような気がする。
「てめえでなったんじゃ」と言われたら深く傷つく青年だったような気がする。
青年は作家になり「錦繍」を「青が散る」を「幻の光」を書いた。それだけで十分なのだろう。
他人に多くを望むには、いつの間にかこちらも年を取りすぎてしまったようである。
いつしか勝利と縁がないままに中年になってしまった。「てめえでなったんじゃ」――。

もう若い人はほとんど名前さえ知らない業界の化石、テレビライターの山田太一さんが
すすめていた2002年のスペイン映画「トーク・トゥ・ハー」を見る。
映画はどちらかといえば嫌いなんだけど、ジェイコムに加入したから、せっかくだから。
ぶっちゃけ芸術映画とかお給金をもらっても見たくないときがある(シナリオならべつ)。
はじまってから1時間くらいまでは消したくて消したくてしようがなかった。
ストーリーはとろとろしているし、外人さんの濃ゆい顔は区別がつきにくいし……。
とくにいやだったのは物書きのイケメンと美女の恋愛が描かれているところだなあ。
へん、だれがいい思いをしていやがる、
ええ商売をしてはるイケメンさんに興味なんか持つもんかい。
イケメンの恋人の女闘牛士が事故で脳死になって、
うっとり悲しみにふけっている美男子の映像もうざくて
素面(酒抜き)で視聴するのがだいぶ骨折りだった。

半分を過ぎて、この物語の主人公はイケメンではなく「もてない男」だとわかりおもしろくなる。
いかにももてなさそうな、ホモを疑われるほどオタクっぽいキモい介護士が存在感を増すのだ。
ああ、こういうやつら、うちのバイト先にもけっこういるな、なんて思いながら(ぼくも?)。
一般的に映画は美男美女の恋愛を描くけれど、
実際は現実は女優レベルの美女は「もてない男」を相手にしてくれません。
でもさ、女が雨の日に交通事故で脳死状態(植物状態?)になったらば話は違う。
相手は目も見えないし口もきけないから、介護士はケアすることで疑似恋愛を味わえる。
勘違いをそのままにホモだってことにしておけば、
女の裸体を愛情込めて拭くことも可能になるわけである。
すべての恋愛というのは、ある意味で到達不能な境地を求めているわけ。
だって、相手にも意思があるのだから、こちらの思い通りになるはずがない。
しかし、相手がドール(人形)状態なら、思うがままに尽くすこともできるわけだ。

「あの日から雨が好きになった」と「もてない男」がいう。
それはまったく本当で「もてない男」が手の届かぬ美女を好きになったら、
その相手が交通事故にでも遭って自分が介護人になるしかないのだろうから。
20代の「もてない男」は、
人生のなかで彼女の介護をできたこの4年がもっとも幸福だったとイケメンに語る。
精神だけの恋愛はないのだろう。
植物状態の彼女と「恋愛」している「もてない男」は肉体の結びつきを求める。
それも女の生理周期を知ったうえで、この日なら身ごもると計算しての行為である。
当然、現行法では「もてない男」の行為は犯罪として裁かれ彼は刑務所に収監される。
この「もてない男」のためにイケメンが奔走するところが山田太一さんのお気に召したようだ。

最後はどうなるのか。
子どもは死産だったが、女は出産のショックから意識を取り戻す。
しかし、その真実を「もてない男」は知らされることはなかった。
子どもは死産、美女は植物状態のままと嘘の状態を教えられる。
「寂しい人生だった」といい残し、
彼女とおなじ無意識の状態になりたいと「もてない男」は睡眠薬自殺を遂げる。
意識を取り戻した若いダンサーの美女はなにも真実を知らない。
ことさら彼女が知らないのは「もてない男」の孤独だろう。
男は冒頭、精神分析医(美女の父親)の「悩みは?」の問いにこう答える。
「少し孤独なだけ」
イケメンと「もてない男」の友情もお互いの孤独に強く依拠しているのが印象的だった。
こんな映画を好きになってしまう有名脚本家はどれほど内面に孤独をかかえているのだろう。
あらぬ邪推をされるのが怖くて、とても真似をしてこの映画が好きだなどとはいえない。

「きみも奇跡を信じないと。信じないと奇跡は見えないよ」

いいおっさんがどれだけ「とっぽい(=世間知らずな)」ことを
言うのかとあきれられてしまうかもしれない。しかし、笑顔はいいものだ。
8時間の単純労働の疲弊をふっとばしてしまう力が笑顔にはあるのではないか。
男女問わずである。
なかには異性の作り笑いよりも同性の親しみの笑い顔にいやされるものも多かろう。
男女を問わず笑顔はいいものだとセンチメンタルにも思う。
そのくらいしか救いはないのではないかと思ったりもする。
日本人でさえ、とんでもないような苦しい経済環境でお過ごしの方がいるのかもしれない。
わからない。そんなことは失礼になるから、とても聞けやしない。
しかし、人は笑顔を見せる。
その影響か、わたしなんかもとにかく笑顔を見せようと思っている。
そのくらいしかできないじゃないか。
むっつりした人よりも、どうせつまらない「なんにもない」とわかっていながら、
それでも笑う人はいいと思う。
こんなことを書いてしまう自分はどれほど世間知らずなんだろうと思いながらも。
あの笑顔もよかったし、この笑顔も忘れることができない。そのあなたの笑顔も――。
まあ真実なんておそらくそんなもんだろうが、
ぶっちゃけ結局のところ「なにもない」のだと思う。
しかし、「なにもない」が真実ならば、
なにかがあるということになり、そうだとしたら「なにもない」も真実ではなくなってしまう。
これはキチガイさんと紙一重の思考だが、すべての現象に意味があると思うのもいい。
今日は不愉快なことがたくさんあったが、
そのぶんだけいろいろ経験したともいえるかもしれない。
職場で怒鳴られたときに怒鳴り返し、相手を殴ろうかとまで思ったらどうなるのか。
親しみをいだいていた先輩バイトさんの過去をうっかり聞くでもなく聞いてしまった戸惑い。
作業着姿の最高マネージャーさんがスーツを着た新規取引先候補に職場案内をしていた。
スーツ男性はこちらよりはるか年下のイケメン。
「作業員」はこのように効率的に仕事をしていますと紹介されてしまった。
まだ新米でぜんぜん不十分なのにたまたま恥ずかしくも。
おれはネクタイをつけてちやほやされるリーマンではなく作業員なのだ。
今日あったいろいろなことを(みなみな些細なことだが、しかし)
すべてが意味あるものだと思いたい。
そう思えたら生きていけるのかもしれない。それがいいのか悪いのかわからないけれど。
CS放送のチャンネル銀河にて山田太一ドラマ「風になれ鳥になれ」を視聴する。
オリジナルは平成10年NHK放送作品。全3話。
大空の風になれたら! 風は無理でもせめて大空を飛ぶ鳥になれたら!
山田太一は人間の潜在的な願いを描くテレビライターである。
主役は親族経営の小規模なヘリコプター会社に勤める50過ぎの操縦士、渡哲也。

ある日、おかしな客が来る。老いた男だ。
定年退職した身だから肩書はない。だが、こう見えても金はあるという。
だから、ヘリをチャーターしてもう一度若いころに登った山へ行きたい。
ひとりで行きたい。妻は死んだ。子どもは異国だ。いまは片足が不自由な身。
本来なら山へは二度と行くことはできないけれど、もう一度だけ好きな山へ行きたい。
もう一度だけ若いころのように山の空気を胸いっぱいに吸いたい。
いざ到着した山で男は、同行した渡哲也と整備長にこのまま帰ってくれという。
それはできないというヘリコプター社員ふたりに、男はおれの気持などわかるかと突き放す。
渡哲也は「死のうとしているんじゃないですか?」と年上の客に指摘する。
自分は「こちらの気持がよくわかる」
「私の気持なんかわかるはずがないじゃないか」とまた突き放される。
「たしかにおれにはわからないだろう。わかるような気がしたんだ」と渡哲也は寄り添おうとする。
山で死のうとしている男は、ある意味では恵まれた人生を送ってきた。
それなりの会社に勤め、それなりの結婚をして、それなりに子育てをした。
しかし、会社を定年で退職して妻に死なれてみると、なんにもない。
「この世は結局、空しい。なにもない」
なにもない、なんにもない、なあんにもない。
山にいる老いた3人の男たちは自分たちの人生がなんにもなかったことを噛みしめる。
そこに3人を心配した若い男女がべつのヘリコプターでやって来る。
渡哲也は死のうとしている老人に問う。
これから人生が始まる若い男女に「本当のこと」なんて言えますか?
渡哲也は「なんかあったんですか?」と声をかけてくる若い男女に笑顔で手を振りこう答える。
「大丈夫! なんにもない。大丈夫!」
風になれたら、鳥になれたら、と思っていた老人は山から戻る際、
ヘリコプターのなかで号泣する。その泣き声を聞きながら、だれもなにも言えない。
(以上、第1話「山からの帰還」)

本当に地上にはなんにもないのだろうか。あれがあるではないか。不幸があるではないか。
幸福なんてどこにもないかもしれないが、せめて不幸があるならなぜそれを愛そうとしない?
第2話のタイトルは「加害者たち」。
不幸というと一般的には被害が連想されようが、山田太一は加害の不幸にも敏感である。
渡哲也はむかし自衛隊のパイロットだった。
部下の妻と惚れあい(肉体関係が)出来そうになる直前、
部下が仕事中の飛行機事故で死んだという。
そういうことがある。嘘だといわれようが、そういうことが実際にあった。
そのうえ部下の日記には上司である渡哲也を尊敬していると書いてあったというではないか。
いまはしがないヘリコプター会社の機長をしている渡哲也は、
そのことにずっと自責の念をいだいている。
離婚した。退職もした。もうすぐ七回忌だが部下の妻とはそれ以来、1回も会っていない。
ところが、6年ぶりに女が会いにくるから自称加害者の渡哲也の気持は揺れるのである。
ほかにも多様な「加害者たち」が登場する。
転校するまえの学校でいじめをして同級生を自殺させてしまった中学生。
遺書には名指しで名前が書かれていたという。
ヘリコプター会社の新米整備士は、数年まえ上京する際、
両親を家庭内暴力で洒落にならないほどボコボコにしたという。
「だれがなにやってんのかわかんないな」
極めつけは、この会社に免許取得のための訓練飛行を依頼してきた若い女性がいる。
父親が県会議員をしている名家のお嬢さまだ。
彼女は父親をナイフで刺した。むろん、事件は表に出ることはなく、揉み消された。
たいがいの物語作家なら父と娘を和解させて終わりにするだろう。
しかし、山田太一ドラマではそうではない。
ナイフ事件のせいで右肩が上がらなくなった県会議員の父親がテレビ画面に登場する。
娘の話す父親像とはぜんぜん異なり、完全に気落ちしてほとんど自分に自信がなくなっている。
このいちおうは被害者の父親がいうのである。こういうのだ。
あの事件はマイナスばかりではなかった。
変な話だが、娘がそれだけ自分に真剣に向き合ってくれていたと思うと嬉しささえあった。
「あのことがなかったら、こんなたくさんのことを考えもしなかった。
感じもしなかっただろう」
さらにナイフ事件をこう表現する。あれは「簡単に解決したくない奥の深い出来事」だ。
このため、お涙ちょうだいのドラマのように、
安易にだれかの善意の引き合わせで娘と再会していいかげんに和解したくない。
そりゃあ、父と娘だから会ったらそうなるだろうが、そうはしたくない。
そりゃあ、テレビは大衆娯楽だからそうしたら視聴者は泣くだろうが、
そうはしたくないと脚本家の山田太一は考えた。
ドラマのラストで働く娘を遠くから見た父親は泣く。ほかにしようがないから泣く。
(以上、第2話「加害者たち」)

山田太一さんって、恋愛を信じているんだろうか、どうなんだろうか?
ときたま山田太一作品を鑑賞しながら、この人、恋愛を信じ過ぎじゃないかと思うことがある。
しかし、信じていないのだろう。いや、信じているのだと思う。せめて信じたいのだと思う。
50男の渡哲也がセンチメンタルにもいい気分でうっとり語った昔話があるでしょう。
自衛官のころ部下の妻と出来そうになったが、うんぬんという話。
ラブロマンスにはかっこうのプラトニックな関係である。
いい気分で彼女の地元、東北を訪れた(しつこいが50過ぎの)渡哲也は現実を知る。
あの女は愛だ恋だのという、うっとりとした話よりそのまえに金がないのではないか。
あの女は過去の事件にかこつけて浅ましくも自分に金を借りにきたのではなかろうか。
番組の最後で、渡哲也のこの邪推は真実であったことが公開される。
しかし、それでも「ひとり」よりは「ふたり」のほうがいいとご両人はカップルになる。
どうしてある関係を「金」だの「愛」だのと二分法で簡単に区別できるだろうか。
「金」も「愛」もどちらともも「正しい」のが「本当」の男女関係というものではないか。
とはいえ、世の中はそんなものだと思っていたほうがいい。
世間さまはそんなもんだから、あまり期待しないようにしよう。
最終話の(ヘリコプター会社の)お客さんは倍賞美津子である。
バブル時代の銀行による過剰融資の結果、自営業の夫を自殺で亡くしている。
バブル期の銀行のせいで愛する夫は借金だらけになり自殺した。
息子はひとりいるがふがいなく、いつも世の中そんなものだといっている。
母親たる倍賞美津子はその息子を情けなく思っている。
その息子は覇気がなく、なにも実際にしようとはしない。すべてが口だけ。
どういうわけか息子が銀行強盗をしようといいはじめた。
盗んだお金はヘリコプターから地上に振りまけばいいではないか。
倍賞美津子は「やろうじゃないの」と返答する。
なぜならば――。いつも息子がいっていたからだ。
しょせん世の中は、そういうもんだよ。世の中、なにがあっても、そういうもんだ。
そんなもんだ。しつこいが世の中そんなもんだ。しょうがない。そんなもんなのだから。
「世の中そんなものだ」が口癖の息子がはじめて自分から銀行強盗しようといいだした。
やってやろうじゃないの!
だが、現実はやはり息子は口だけで銀行からお金の1円も盗めない。
母子の事情を察した渡哲也は、なんとか事を穏便に済ませようとする。
その渡哲也にダメ息子は改造拳銃を発砲して軽い怪我をさせてしまう。
息子の人生は「なんにもない」ものから「なにかある(加害者たち)」ものになってしまった。
あたかも「それでもいいのではないか」という脚本家の無意識の声が聞こえてきそうである。
渡哲也はまるで罰でも望んでいるかのように自責的に、
(拳銃を持つ)倍賞美津子の息子に繰り返しいう。
「できないことを誇りにするんだ。できないことを誇りにしろ」
飛躍するが、誇り(自信、プライド)はたいせつだ。
もし渡哲也がいうよう「できないことを誇りにする」ことができたら――。
勉強ができないことを誇りにしたらいい。仕事ができないことを誇りにしたらいい。
恋愛はいいものだろうが、恋愛ができないことを誇りにするのもまたいいではないか。
この地上もいいが空に飛び立つのもまたいい。「風になれ鳥になれ」
空もいいが地上もまたいい理由は人は「ひとり」ではなく、ときに「ふたり」になれるからだろう。
(以上、第3話「ふたり」)