ケーブルテレビのジェイコムの営業さんに落とされてしまったのである。
いままで人生で営業をかけられて即決したことは一度もなかった。
つねに相手の言うことを疑い、裏があるのではないかという考えを捨て切れないところがあった。
いまNTT(固定電話)とOCN(プロバイダー)で通信料が月5800円である。
数字にかなり無頓着なところがあるので、これも営業さんに聞かれてはじめて判明した。
なんでもジェイコムにすると9ヶ月は5700円でしかも、5つのCSドラマが見られるという。
テレビドラマといえば山田太一脚本しか興味がない(これは不勉強なため)。
TBSチャンネルも入っていたから、これはこれはと思い即決でハンコを押してしまった。
ところが、今朝調べてみたら過去の山田太一ドラマが放送されるのは、
TBSチャンネルではなくTBSチャンネル2のほうだったのである。
こちらも見たいとなると月8000円(最初の9ヶ月のみであとは9000円)
を支払わなくてはならない。2000円から3000円の増額である。

だがしかし、6月のTBSチャンネル2のラインナップを見ると――。
シナリオでも読んだことのない未見のものがいくつも入っているではないか。
「旅の途中で」「春の惑星」、そして連続ドラマ「丘の上の向日葵」全話一挙放送。
日ごろから参考にしている、あいどん先生のドラマファン掲示板によると、
「風になれ鳥になれ」も見られるらしい
(当方1話だけ川口のNHKなんたら会館で視聴したことがある)。
もう後先なんて考えないで、
目先の欲望に忠実に8000円(10ヶ月めから9000円)のコースに入ろうと思う。
「そのまんま」もいいのかもしれないが、「新しいこと」を始めるのもきっとまたいいのだろう。
お金がもったいないからと、いままでは苦手だった映画を観るようになるかもしれない。
もっとも映画やドラマは勉強ではなく、どこまでも娯楽にすぎないという思い込みもまたあるが。
あいどん先生、これからもよろしくお願いしますよ(かの匿名の有名人と対面したことあり)。
1年以上にわたる過去のドラマファン掲示板における、
CS放送TBSチャンネル2の山田太一ドラマ情報を参考にしてジェイコム加入を決めました。
さらば、NTTよ! 柳沢慎吾じゃないけれど、あばよ!
尊敬する芥川賞作家の西村賢太氏の傑作小説に「小銭をかぞえる」があるが、
さてまあ、いまいわゆる「本をかぞえる」アルバイトをしているわけだ。
やべえぞ、おれ! もうすぐ1ヶ月なのに、今日誤ピック(かぞえ間違い)の嵐だった。
やはり日曜、月曜と休んだのがいけなかったのだろうか。
社員さんたちにはもはやネタのような存在になっているのかもしれない。
へたをすると倉庫の誤ピック最高記録をたたきだしているいるのではないかと思うと笑え、
いや、みなさまに申し訳ない、まことに申し訳ないのであります。
ドラマの常套手法に盗み聞きというのがあるが、わたしは人生で一度も経験したことがない。
でもね、なんか先日バイト先で経験しちゃったような。
社員さんたちが「今日のツッチーはどう?(笑)」と会話しているのをうっかり聞いちゃった。
ものすごく救われたのは悪意はまったく感じられず、むしろ親しみが感じられたこと。
もしかしたら聞き間違いだったのかもしれないけれど。
しかし、どうして本をかぞえ間違えてしまうのだろう。
たぶん注意力散漫ということになるはずだ。
もちろん、わたしとしてはかなり真剣に数をかぞえているのである。
それでもひとりだけ間違えてしまう。
はっきり言って数をかぞえるなんて中学生でもできるわけ。
おまえ、履歴書は嘘で本当は中学も卒業していないんだろう?
と言われたら、アハハと苦笑いするしかない。
よくブログに「正しい答えなどない」としつこく書いているが、ここに実体験から訂正する。
こと数に関しては、

正しい答えはある!

重要なので繰り返すが、数字に関しては正しい答えがひとつだけ存在する。
どうして誤ピック(かぞえ間違い)がわかるのかといえば重さである。
本1冊の重さがコンピュータに登録されている。
このため箱全体の重さが異なると、
人力でぜんぶ冊数を調べられ間違いが判明するという仕組み。
「またあいつだ」と思われているのだろう。あのおっさん、なに? いったい、なんなの?
ここ最近の変化は、人のミスにものすごーく寛容、寛大になったことだ。
ジェイコムから「折り返し電話します」と言われ、
結局いくら待ってもその日は電話がなくてもまったく怒らなかった。
だれでもミスはあるのだから。というより、おれがミス大魔王なのだから。
なんで人は間違えるのかの「正しい答え」は、いったいなんになるのだろう。
最後に涙目で言っておくが(ぐすん……)、
歴史上の新発見というのはどれも間違えからなされているのですぞ♪
とはいえ、あのウニを人類史上はじめて間違えて食ったやつは、うーん、うーん、うーん。
善悪や正否は一見すると論理的だけど、好き嫌いは非合理な話だよね。
正しい間違っているは言葉で説明できるような気がするけれど(これも本当は疑わしい)、
好き嫌いは一般的に感情の問題とされ論理よりもいちだん低い問題とされる。
でもさ、結局のところわれわれは好き嫌いにかなり左右されるでしょう。
問題は好き嫌いだって思うけどなあ。
大勢の人がいても、パッとこの人は好き、この人はなんか嫌いというふうにわかれませんか。
人間の錯誤は、自分の好きな人は、その人も自分を好きだと思うところにあるのではないか。
しかし、いくら自分が相手を好きでも、相手は自分を嫌いなときがある。
いくら相手に興味を持っても、相手は自分に無関心なことがけっこうあるのがなんとも言えない。
わたしはみんな自分なんか嫌っているという被害妄想めいたものを持っている。
だから、ちょっとでも好意を示されると身構えてしまうような臆病なところがある。
傷つくのをたえず恐れているのかもしれない。
「関心の不平等」「興味の不公平」ほど残酷なものはない。
有名人の講演会の質問タイムでえんえんと身の上話をするタイプは痛々しい。
有名人に対して名乗りもせず安全な客席から喧嘩をふっかけるのも同タイプだろう。
好き嫌いってあまりにもあからさまに真実だから怖いよなあ。
わたしは意見ではなく相手の顔をまず見るようなずるさ(天真爛漫さ)がある。
おなじ意見でも男が言うのと美少女が言うのでは違う。これはまるで違う。
顔が違うというだけでだいぶ得をしている人と損をしている人がいるのではないかと思う。
とにかくネット上での議論や論争、問答が嫌いなのである。意味がないじゃん。
まったく責任のない匿名の人と言い争いをしてもなにも得るものはない。
むかしブログのコメント欄で匿名の人に喧嘩を売られたとき、
相手の正体をF銀行のYではないかとすっぱ抜いたことがある。
即座に泣き顔がまざまざと見えるような謝罪反省のメールがきたものである。
さて、われわれが善悪を論じているかのような問題は、じつのところ好き嫌いの話ではないか。
北朝鮮が悪だという人がいる。そうではなく、ただたんに北朝鮮が嫌いなんでしょう。
タレントの某がこんなにひどいやつ(悪)だと主張する人がいる。
それは善悪の問題ではなく、どこまでもそのタレントが嫌いなだけではないか。
政治家のなんとかが悪だというのは、ただそいつが嫌いなだけではないか。
虫が好かないだけではないか。
しかし、嫌いというのはなかなか当人にわかってもらえないので困る。
具体例をあげればこういう対話になりかねない。

「何度言ったらわかるんですか? 私はあなたが嫌いなんです」
「それは間違っている(悪)」
「あなたが嫌いなんです。関わりたくないんです」
「そんなことはない、そんなことはない」
「もう話しかけてこないでください」
「おまえは間違っている」
「どうして?」
「おまえに興味がある」
「私はあなたに興味がありません」
「それはおかしい。おまえはもっと謙虚になれ。人の意見に耳を貸せ」
「あなたの意見には興味がありません」
「それは間違っている。おれは正しいこと(善)を言っている」
「あなたが嫌いなんです」
「それはおれが正しいからだろう」
「あなたが嫌いです」
「おまえのためを思って言っているんだぞ」
「あなたに助言を頼んだ覚えはありません」
「きみ、大学はどこだ?」
「あなたが嫌いです」
「なぜおれの意見を聞こうとしない?」
「あなたが嫌いだからです」
「おれの勝ちだな」
「あなたが嫌いです」
「徹底的に話し合おうじゃないか。おれの正しさがわかるはずだ」
「あなたが嫌いだからいやです」
「いや、おまえは悪人だ」
「そういう問題じゃないんです」
「おまえは死ねばいい。なぜ悪人を殺してはいけないのか」
「もう議論はやめましょう」
「それはおまえの負けだぞ」
「もうなんでもいいです」
「あっはっは、正義は勝つ。善は勝つ。今日も大勝利だ。どうだ見たか!」
人間のどうしようもなさは善悪にとらわれざるをえないところだと思う。
わたしはどうしても自分が善で、だれかが悪だという考え方をしてしまう。
わが国が正しくて(善)どこかの国が間違っている(悪)だという思想も根はおなじだ。
だれかが自殺したのは、だれかのせいだという思い込みも善悪に依拠していよう。
創価学会が善で、だれか特定個人が悪だというのも、この世の狭い善悪の分別ではないか。
同様、創価学会が悪だというのも善悪にとらわれているおなじ穴のむじなだろう。
人間はどうしようもなく自分は善でだれかが悪だという考え方から逃れられない。
とはいえ、そのだれかだって人間なのだから、
自分は善で(たとえば)あなたやわたしを悪だと思うのは必然ではなかろうか。
相手の立場に立ってしまったら、相手が善で自分が悪としか思えなくなるだろう。
うつ病だ、うつ病、うつうつ、うつがやって来る。
自分が悪で周囲が善だと思うようになるのが、うつ病のきざしではあるまいか。
もしかしたら、よしんば、仮定の話だが、
あるいはいままで自分は善でだれかが悪だと思っていた人の一歩進歩したのが
うつ病という状態なのかもしれない。
が、だれかのせいで自分はうつ病になったと思う人も少なくないと思われるから、
そこまでうつ病患者さんを(病気はしんどいでしょうが)肯定的に評価したくない。
相手が善で自分は悪だと反省することもまた、
しょせんは善悪にとらわれたちっぽけな見方なのかもしれない。
もし善悪がなかったとしたらどういうことになろう。
だれが悪いわけでもない。こうなったことになにか特定の悪い原因があるわけではない。
善も悪もない。彼岸から見たら善も悪もないではないか。
たましいの話をしたら善も悪も薄っぺらい世界観にならないだろうか。
どうしたら善悪を超えられるのか。
善も悪も超えたものが、あるいは存在するのではないかと空想してみることだと思う。
「そこ」から見たら善も悪もないという絶対の境地。
その絶対は「死」であり「自然」であり「偶然」だとわたしは思う。
トラウマや被害妄想は善悪の物語である。
そうはいっても勝利物語も、
さらにそのうえをいく大勝利物語も善悪の物語にすぎないのである。
善である自分が悪であるなにものかに勝利(あるいは大勝利←ぷっ)した。
いったい善悪によらない物語とはどういう物語であろうか。
そこにヒントがあるような気がする。それは刑事ドラマでも嫁姑ドラマでもないだろう。
刑事も罪人もどちらも善である。嫁も姑もどちらも正しい。
ああ、善悪を超えることができたら! なにが善なんだよ、なにが悪なんだよ、笑わせんな!
善悪がないならば、人はなにをしてもいいことになる。
自殺をしても、殺人をしても、窃盗をしても、詐欺や脱税をしても、自己陶酔してもいい。
酒やタバコをのんでも、贅沢しても貧乏しても、ニートでもひきこもりでも精神病でもいい。
あなたも悪くないし、わたしも悪くない。あなたもわたしもとりたてて善ではない。
人間は変化するものだが、よほど生まれつきがよくないのか、いまもって努力は嫌いである。
いやなことを自分をごまかしてあえてするという努力が嫌いだ。
さあ、努力の反意語はなんだろうか? 運まかせ、怠惰などという言葉が出てこよう。
たしかにわたしは人生をかなりのところ運(=天)にまかせているところがある。
怠惰(たいだ←読めましたか?←読者さまをバカにしすぎ!)も大好き。
努力よりも怠惰のほうがよほど好ましい状態だと思っている。めんどくさいことはしたくない。
いまふと気づいたのだが、努力の反意語は、なるほど天まかせ、怠惰であろう。
しかし、好奇心もまた努力の反意語ではないか。
努力はいやなことを無理やりするという印象がある言葉だ。
いっぽうで好奇心は好きなことを興味おもむくままに調べるという意味がある気がする。
努力はいまもって嫌いだが、どうしてか好奇心はいささかたりとも衰えていない。
好奇心とは、自分が自分で新しい発見をしたいという欲望のことではないかと思う。
かたや努力はひたすら他人から認められたいという浅ましい渇望のような気がする。
もしそうだとすれば、努力と好奇心は反意語ということになろう。
好きなことを仕事にするといいというのは、好奇心のためではないかと思う。
努力は嫌いだが、わが好奇心の旺盛ぶりは、
こんなくだらぬ文字だらけのブログでも伝わるのではないかと思う。
むろん、だから偉いだの有能だのと主張しているわけではない。
なぜなら、実社会では好奇心旺盛なやつよりも努力家のほうが使えるのだから、きっと。
難しい問題はいろいろあるよね。たとえば青臭い難問、人はなんのために生きるのか?
みなさまも思ったことはございませんか?
不謹慎にも、しらーっと……え? この人ってなにが楽しくて生きているんだろう。
あんた、なにが楽しくて生きてんの?
いまのわたしの楽しみはバイト後のプローストですね。韓国のいんちきビール。
ほんとはお酒なんてのんじゃいけない経済状況なのですが、あとは野となれ山となれ。
安いと広告メールが来たのでカクヤスから買ったのですけれど、これがうますぎる。
自分でもなんでかわかりません。うまいんだからうまい!
どうしてか単純労働後は日本の第三のビールはおろか本物ビールよりもうまく感じる。
かつかつに乾いた状態ではエビスビールよりもプローストのほうがうまいんです。
これもまた自称底辺階級出身の創価学会の紫綬褒章作家が知らぬ現実でありましょう。
さきほど「慈雨の音」を読了しました。
考えるのが好きというのはやばいのでありますぞ。
考えてばかりいる人は、たぶんいや絶対うつ病になりやすい。
単純労働のいいところは、もしかしたらその時間だけ考えない時間を持てることかもしれない。
まあ、なぜか考えるのが大好きなわたしのような人間は、
あとからいろいろいろうだうだ無駄なことを考えに考えるわけですが。
とてもとてもわからないが、
あるいは考えていることを自分の言葉にできなくなった瞬間に人は狂うのかもしれない。
ありきたりな善悪観や陰謀論からおかしなことをいい始める。
それにしても、ものごとを深く考えない人というのは幸福そうだよなあ。
でも、考えるほどの楽しみはないのだから、
自称幸福な人たちに「損していませんか?」といいたくなってしまう。
考えるとは、たぶん疑うこと。疑うとは、信じないこと。
他人を信じられない人は不幸だから、やっぱり考えることはどこまでも不幸なのであります。
自分で考えないためには、新聞やテレビをご覧になるのがいちばん。
新聞屋さんやテレビ屋さんのおっしゃることは正しいと信じるのが正常へいたる道。
異論反論はあるのでしょうが(それもまた正しいと思いますよ)、
新聞購読のみならず新興宗教入信もじつにいいと思います。
考えるのがお嫌いなら、新聞、テレビ、新興宗教がおすすめ。
親切ってなんだろうか?
果たして、困っている人がいたら手助けしてあげることが親切なのか?
助言や説教は親切といってよいのか?
わたしはつたない人生経験から、助言や説教が親切かどうかはいまだもってわからない。
しかし、人と人が関係するときに、助言がなかったらだいぶ不便だろうな、とは思う。
なかには説教されるのが好きな人もおられるのだから、
(いい年齢なのに未成熟なわたしは苦手だが)説教の価値もあるのだろう。
言葉ではなく行為であるところの手助けは、かなりのところ親切だろう。
わたしも人から手助けされて感謝したことは(たぶん)みなさまとおなじでいくらだってある。
さて、いま思うのは、あえて手助けしないのも親切ではないかということだ。
手助けするばかりが親切ではない。
困っている人がいたとする。
手助けしてしまったらば、その人はそれで終わってしまう危険性もあるわけだ。
ぎりぎりまで追い込まれて、その人の成長(が偽善的なら変化)が始まることもあろう。
よくわからないが、賃仕事でもおなじことがいえるのかもしれない。
助け合いは美しいが、
ベテランはあまり新人を助けちゃうと当人が伸びない(自分で考えない)
という傾向もあるのかもしれない。
昨日はバイト先でたまたまきついポジションを振られ馴れない身はパンクしそうだった。
だが、わたしに背を向けていた高齢男性バイトさんから、なぜか親切のようなものを感じた。
あまりにものごとをプラスにとらえすぎている可能性もあるけれど(笑)。
なにかをあえてしてあげない親切は目に見えにくいが、
あるいは善と評価されやすい親切行為よりも人に深く影響を与えるのかもしれない。
正直、タバコを吸い始めたほうがいいのか迷っている。
いや、迷ってはいないが、迷ってはいないが……。
……えとあのその、まあ驚いている。
いまって嫌煙のほうが圧倒的多数派だよね?
タバコなんて吸わないほうが正常(多数派)だったような記憶があるのだが。
アルバイト先では2時間に1回休憩があるのだけれど、
みんながみんな喫煙スペースに行くのである。
いまでは相当に寛容になったが、それでもタバコの煙が好きかと問われたら首を振ってしまう。
みんなの輪に入るためにはタバコを吸うしかないのだろうか。
人生で一度だけタバコを吸ったことがある。
かなり酔っぱらってタバコ好きの女友達から1本借りた(頂いた)。
うまくもまずくもなんともなかった。
その友人はけっこう稼いでいるが、
なんで低所得層ほどタバコを愛好するのかはわからなくもない。

話は脱線するが、人前で食うカップラーメンはものがなしい。
わたしもカップラーメンは好きだが、人前で食べてもおいしくないような気がする。
けっこうどの職場でも、
正社員さんでさえお食事にカップラーメンをめしあがっているのには驚いた。
なにか現実を見てしまったようなやましさに襲われたものである。
とはいえ、カップラーメンの輪ならば入れるが、さすがに喫煙の輪は……。
いま本のピッキング(全国各書店に送る書籍を摘み取る)のアルバイトをしています。
どうでもいい話ですが時給850円。今月から正式に就業したアルバイト。
さてさて、うれしい、うれしい、やったあ! 
今日はじめてピッキングで1回もミスをしなかった。8時間でミスゼロ。
いままで数をかぞえるという人間本来の仕事(なのか?)から正反対のことをしていました。
このためか、いや単なる経験不足なだけか、
自分は計算さえできない人間なのかとだいぶ落ち込んだものです。

結局のところ、運がよかったことがとにかく大きいと思います。
どの仕事でも新人はミスをしますよね。
そもそも仕事を教えてくれる人がいたら幸いというのが、
(おそらく)いまのブラック労働世界なのですから。
もちろん、そうです。仕事を教えてもらおうと思うな。
他人の仕事を見ながら真似をしたらいい。
でもですね、いきなり他人の仕事も観察できないような位置に置かれることが多い。
そうなると学ぶ(真似る)もなにもないのですね。
なにも教わっていないことでミスをしたと責められ、屈辱のうちに辞めていくしかない。

経験から、いわゆる底辺(ではないとわたしは思うけれど)職場では、
いわゆる仲間が仕事をやさしく教えてくれません。
おなじ時給850円なのに腕組みしながら人の失敗をさがそうとするって、なにそれ?
まあ、そんなものなのでしょうから、そういうことを知るとかえって逆に、
ああん、まったくほんとうに不謹慎ですがおもしろいのであります。
しかし、いい人もいるんですね。
そういう御仁の仕方を見学して真似するしかないのでしょう。
今日はいい位置につけていただいて(いや単なる運だと思う)、
丸一日ベテランバイトさんの仕事ぶりを見学できました。
どれほど勉強になったことか。ああ、こうすればいいのか。そうか、そうか。

まだよくわかりませんが、
いまのバイト先の外国人は中国系、ベトナム系、インド系の人が多いような気がします。
じつのところ、中国人もベトナム人もインド人も大好きなのであります。
それぞれ、のべで1ヶ月半(中国)、1ヶ月(ベトナム)、4ヶ月(インド)旅したことがある。
いままでどれほど中国人、ベトナム人、インド人のお世話になったことか。
そういう異国世界に踏み込んでいきたいとも思うが、あせらないことが肝心なのでしょう。
ゆっくり、ゆっくり。
変な話ですが、一部の偏屈な日本人バイトさんよりも、よほど外国人のほうがフレンドリーです。
「ダウト」(ジョン・パトリック・シャンリィ/鈴木小百合、井澤眞知子訳/白水社)

→戯曲。アメリカ産。2005年、トニー賞&ピューリッツァー賞を受賞した米国話題作。
自分を善にする手っ取り早い方法は、
だれかを悪人に仕立てあげ弾劾することなのかもしれない。
善悪というのは相対的なものだから(あるいは相対的なものだとしたら)、
善人になりたかったら悪を見つけて「ダウト(疑いあり)」と言えばよろしい。
どれだけ悪を攻撃できるかが、おのれの善の証(あかし)になってしまう。
そうだとしたら、善人になるためには悪人をつくるしかないということにならないか?
新興宗教団体(たとえば創価学会)が悪役をつくって総がかりで攻撃するのは、
自らの善を誇るにはそうするしかないからなのかもしれない。
善人になるためには悪をたたくしかないのかもしれない。
国際政治にはまったく疎いが、アメリカが善なのはイラクが悪だからでしょう?
こういう善悪の構造を傑作芝居として成立させた作者の手腕には感心する。
さすがは天才ユージン・オニールを祖に持つアメリカ現代演劇である。

この芝居ではだれが「ダウト(疑いあり)」と言い善人ぶるのか。
カトリック学校の校長である、いかにも更年期障害といったシスターである。
このシスターばばあは、30代後半の神父を怪しいと攻撃するのである。
舞台の時代は1964年。シスターよりも神父のほうがはるかに立場が上だった。
どうして古くさく厳格な50代とも60代とも見える校長のシスターが神父を攻撃するのか。
神父が学校で唯一の黒人生徒(12歳)に親切にするからである。
あれは神父が少年愛の嗜好の持ち主で、黒人生徒を性的虐待しているに違いない。
シスターは自信満々でおのれの善を誇り、神父先生を弾劾する。
神父は旧時代的なものが嫌いで教会を変えようという進歩的な野心ある先生だった。
自称善人のシスターと、自称善人の神父の対決はじつに迫力がある。

シスターと黒人生徒の母親との会話もおもしろい。
母親はおもしろいことを言うのである。
たしかにうちの息子は同性愛の気があるのかもしれないと認めてしまう。
しかし、どうしてそれがいけないのか。
うちの息子は黒人だから公立学校でもいじめに遭った。
だが、この学校に来て黒人生徒は息子だけなのに神父先生が親切にしてくれた。
たとえ同性愛だったとしても双方が納得していたらいいのではないか。
自分は真実はどうであれ、うちの息子に目をかけてくれた神父先生に感謝している。
更年期障害(?)のシスター校長は納得しない。
真実を明らかにして、悪人たる神父を追放しなければならない。
シスターの「ダウト(疑いあり)」の根拠はおのれの経験だけである。
にもかかわらず、証拠があると嘘をついて神父の悪評を高める。
すべてはおのれが正義でありたいために!
結局、神父は狂信的なシスターに恐れをなして移動願いを出す。
かといって左遷されたわけではなく栄転である。
教会上層部はシスターの告発をまるで認めなかったのである。
芝居の最後で新米教師(シスター)が独善的な校長に言い放つ。「ダウト(疑いあり)」

巻末に著者のインタビューが掲載されていたが、たしかに作者は、
真実は老シスターと神父のどちらにあるのか劇中では示していないのである。
そこは観客に任せたいと。
さあ、演出家も務めた劇作家は、役者にはどう説明していたか。
老シスターには神父が少年愛の性的嗜好の持ち主かどうか、その真実は言っていないという。
あえて言わないほうが追及の迫力が増すからというのが、その理由である。
だが、神父役には真実を伝えたという。ただしそれは公開しない。
あくまでも観客にゆだねたいのだろう。
わたしの個人的判断では、「ダウト(疑いあり)」は老シスターだと思う。
善人ぶりたいがために、
おばあさん校長先生は進歩的な神父先生を悪に見立てたとしか思えない。

こういう傑作戯曲を読むとほんとうに生きていてよかったと思う。
ただし実際の芝居を見に行くことはなかなか難しい。
休日のためすることもなく、1日に戯曲を4つ読んだのであった。
そのうち(平均5千円支払って)芝居で見てもいいと思えるのは本作だけであった。
いや、この作品でさえ5千円払っていたら、どんな酷評をするかわからない。
古本屋で250円で買ったから、こうまで激賞できるのかもしれない。
とはいえ、ほんとうにいい劇作だった。テーマは真実とはなにか?
これはわたしのテーマでもあるから、こんなにおもしろかったのだろう。

「大理石」(ヨシフ・ブロツキー/沼野充義訳/白水社)

→戯曲。ロシア産。ヨシフ・ブロツキーは天下のノーベル文学賞作家だあ!
いわゆるニート文学になるのだと思う。
時代ははるか未来、舞台は超高層ホテル(塔)の、たしか1750号室。
ふたりのおっさんが延々と会話をしつづけるだけの芝居だ。
もうすべてが機械化してしまったため(共産主義化?)、ふたりは働かなくてよい。
メシは朝昼晩と部屋についたエレベーターから送られてくる。
本はいくら読んでもいいが、ふたりともこの部屋から出ることはできない。
科学が発展したためか、ご両人とも不老不死なのかもしれない。
ふたりは相手を嫌悪しているが、いっぽうでひとりになるのを怖がっている。
自殺が出口であるような不謹慎なことも語られる。
生きている理由は? なぜ子どもを作るのか? 
といった、いかにもニートっぽい会話が繰り返される。
なんでも相部屋になっているのは精神病(発狂)対策らしい。
しかし、それでも、自分以外の人間はみんなロボットだの、
いま見ているのはすべてかつて録画されたシーンだの狂気と紙一重のことが語られる。

よくわからないが、たぶんニートはちょー楽しいような気がする。
だがしかし、にもかかわらず、ニートを描かれてもくそつまらねえってことだ。
おまえら働けよ。ダメ元で恋でもしろよ。子どもをつくって人生の理不尽を知れ。
そんなふうにニートのおっさんふたりを怒鳴りつけたくなってしまった。
ちなみに、作者のノーベル文学賞作家ヨシフ・ブロツキーは、
ニートが理由で逮捕されソビエト政府から裁判にかけられたという
すてきな前科を持つ筋金入りである。
罪状は「共産主義建設のために有益な仕事を何一つしない徒食者」って、おいおい!
毎日、朝昼晩と食えて丸一日読書三昧も可能。
昼寝OK、テレビ映画フリー、ただし会話相手一人は幸福か?
わたしはそういう生活にあこがれるところがあるけれど、
しかしどうしてかそれを芝居で見せられてもつまらない。
人間は他人の目を意識して(観客の視線を気にするがために)、
友情ごっこ、恋愛ごっこ、親子ごっこ、労働ごっこをするのかもしれない。
まるで子どもがおままごとをするように。

「ジリアンへ、37歳の誕生日に」( マイケル・ブレイディ/三田地里穂訳/ 而立書房)

→戯曲。アメリカ産。
ユージン・オニール、テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラーのせいで、
アメリカ現代演劇と聞くと、
どうしてもわたしはあの感動がまた味わえるのではないかと期待してしまう。
だが、まただまされた。くっだらねえ芝居である。
主人公は37歳のニート、ひきこもり、世捨て人のイケメンである。
元は大学教授で高校生の娘がいる。
エリート人生からドロップアウトしたきっかけは2年まえに妻が事故で死んだから。
いまは優雅にも別荘でニート生活を送っている(金にも困っていない)。
ものすごいイケメンらしく近所のナイスバディ―でパツキンの女子高生から片想いされている。
ところが、亡妻の姉夫婦がお節介にも「働け、働け」と執拗に迫ってくるのである。
理由は高校生の娘の教育に悪いからだという。働け、働け! 死んだ妻のことは早く忘れろ!
これはお節介の極みというほかないが、
亡妻の姉夫婦は新しいガールフレンドとのお見合いまで設定するのである。
あのさ、愛する人に先立たれたのなら2年くらいなにもしなくてもいいじゃん。
ほんとうに愛していたら10年でも15年でも無為に過ごさせてやったらよいではないか。
新しい女を紹介して、この代用品で満足しろ、なんていう親切はもはや嫌がらせだろう。
どうしてお金があるのに働かなきゃいけないわけ?
彼がまた大学教授に戻ったらポストがひとつ減ってだれかが不幸になるわけでしょう?
ほんとうに愛する人の死を悼むのなら20年でも30年でも喪に服せばいいと思う。
しかし、このイケメン元大学教授はたったの2年で亡妻のことを忘れ、
新しい女との愛に目覚め、そのうえ復職までしてしまうのだから。
あんまり人間を甘く見るなよと作者を怒鳴りつけたくなった。英語はわからないので日本語で。

「エドマンド・キーン」(レイマンド・フィッツサイモンズ/松岡和子訳/劇書房)

→戯曲(芝居の台本のこと)。イギリス産。
むかしの有名なシェイクスピア劇俳優のエドマンド・キーンとやらの自伝劇(一人芝居)である。
シェイクスピアおたくのわたしは楽しめたが、
随所にシェイクスピア劇のセリフが引用されるので、
日本の観客はわけがわからなかったのではないか。
しかし、有名俳優が演じる高額チケット代金の舶来芝居には拍手を惜しまないのが
日本の善良で愚鈍な観客なのだろう。
エドマンド・キーンは現代の精神医学から見たら完全に治療対象の異常者になると思う。
あれな人を治療しないで放っておくとたまにすごいことをするという典型であろう。
そんなことをいえば、シェイクスピア劇の登場人物もみなどこかで狂っている。
彼(女)らのすごいところは、ゆがまず正しく美しく純粋に狂っているところではないか。
もしかしたら芝居を見る楽しみは狂人を観察するという邪悪なところにあるのかもしれない。
芝居は人間を描くとされる。
よしんば人間の正体がみな狂人だとしたら、
芝居は狂気の乱舞にならなければおかしいことになるはずである。
きちがいは迷惑なやつのことである。
しかし、われれはどこかで迷惑なやつを愛しているのではないか。
本当はみがみなくだらぬ自制心や常識など取っ払って自分に正直になりたいと思っている。
ハムレット、マクベス、オセロー、リア王のように芝居っ気たっぷりに周囲を振り回したい(笑)。
ふつうはなにかが自制して(羞恥心が働くのか)、ああまで自己陶酔はできないのである。
悲劇のヒーローやヒロインになりきれない。
このためにシェイクスピア劇がときに日本の観客をも感動させるのだろう。
評伝劇「エドマンド・キーン」に感動したものがいたとしたら、おなじ理由であろう。

おまえは社会見学でもしているつもりかと怒られそうなくらい、
某派遣会社の温情につつまれて仕事を転々としたことがあります。ちょっとまえのこと。
チラ見でわかったようなことは言いたくないけれど、
いい人ほど辛い立場に追い込まれるのでは?
いい人はついつい相手の気持を考えちゃうでしょう。
そうするとみんながするところの打算的な行為ができなくなります。
いい人ほど上から都合よく使われてしまうという肉体的かつ経済的な悲劇もあるように思う。
いまの時給850円の職場でこの人は、と思ったわたしよりもかなり年上っぽいおっさんがいる。
夢にまで出てきそうなくらい印象が強かった。
おなじバイトの身分だが、いろいろ仕事を教わっている。
底辺職場にありがちなことは(経験あり)、社員はだれもろくに仕事を教えてくれず、
にもかかわらずミスをすると怒られるという理不尽だ。
(もっともいまのこの職場はだれもきつく叱ったり叱られたりしないのがいいところです)
そのバイト先輩から言われた数々の言葉は、世間知らずなためか突き刺さった。
相手のことなんて考えなくていいんだから、自分のことを考えましょう。
バイト仲間の彼にはわたしがいい人に見えていたのかもしれない。
そういえば最近、わたしは変わった気もする。
以前はドアのチャイムが鳴っても無視するだけだった。
いまはどれもちゃんと対応するどころか、営業がんばってください、と応援しちゃうのだから。
どうしてこうまでダメなインチキ善人になってしまったのかと恥じ入るばかりである。
いや、わたしは善人ではない。
スーパーでむかつく老人買い物客がいたのである。
レジの行列のひとつまえの富裕層男性だった。レジの最中に携帯電話で話す。
店員の「Tカードはありますか?」の問いに「ないないない!」と怒気をふくんだ答え。
わたしは彼の声色を真似て「ないないない(笑)」と復唱した。
からかわれたのに気づいた彼はわたしをにらみつけてくる。
ところが、彼とわたしのあいだには金銭的な上下関係がない。
ニヤニヤしていたら向こうが視線を外してしまった。
こちらは失うものなどなにもないから、いざとなったら殴り合いでもする覚悟があった。
えへへ、ふてぶてしくも二重に善人自慢をしちゃったよ、おれ♪
「愛の研究」(ひろさちや/新潮選書)

→愛がわからないので、ほぼ恋愛経験ゼロと思われる(失礼!←その「失礼」が失礼だぞ!)
朴念仁のひろさちや先生のライトエッセイを読んだが、やっぱりわからなかった。
ひとつ、なるほどと思ったのは見合い結婚のほうが愛に近いということ。
親が決めた相手と夫婦になって、なにもないところから一から愛を育てていく。
ふむふむ、これはたしかに愛のような気がする。
いっぽうで、これもひろさんの受け売りになるが、恋愛結婚って愛じゃないよね?
恋愛結婚は、自分でも手に入る程度の異性を商品のように選択して獲得すること。
恋愛結婚は就職活動とおなじで経済行為に極めて近いような気がする。
だから、婚活なんて言葉が生まれるんだろうけれど。

まあ、恋愛結婚して相手が難病になったりしてからが「愛」の始まりだよなあ。
いわゆる恋愛はほとんど異性全般に対する差別行為である。
だれかをだれかよりも上と見なして(=多数を下と差別して)交際するわけだから。
しかし、「愛」って便利な言葉だ。
うまく年収3千万の男をだまくらかした女でもお金なんか興味がないという顔ができる。
彼はあたしを「愛」しているの。あたしもお金なんかじゃなくて彼を男として「愛」しているのよ。
ぜーんぜん不純じゃない純愛よ。

そうだそうだ、いま思いついた。
若者が恋愛しないらしいけれど、そんなプライベートなことは国家が関与することではないが、
しかし少子化対策としてあみだくじで若者を強制結婚させてしまえばいいのではないか。
統一教会の合同結婚式みたいに。
その代わりあみだくじはズルなしの完全なランダムにすること。
わたしはこの制度にまったく不満はないよ(もう中年ゆえ選考外ならチェッ)。
だって、ひょっとしたらどえらい当たりを引く可能性もあるわけだからさ。
まあ、お似合いの芋臭い醜女が来ても、これも阿弥陀仏さまのおはからいと愛すべえ。

やっぱりひろさんには女子くさい愛ではなく、うさんくさい宗教について語ってもらいたい。
それがお似合いですよ。以下の引用なんか、まったくそうだよなあ。

「ときに、宗教が目指す真理は一つであって、それは山の頂上のようなものである。
宗教の違いは、その登り道の違いのようなものだ、と言われる人がおられます。
わたしはその考え方が大嫌いです。
だって、仏教とキリスト教とイスラム教の頂点を極めた人がいるでしょうか。
その上、神道やユダヤ教、儒教、等々のすべての宗教の頂点を極めた人がいて、
その人が、「あらゆる宗教の目指すところは同じである」と言うのであれば、
その発言は正しいでしょうが、そんな人がいるはずがないのです。
それなら、あらゆる宗教は同じ山頂を目指しているとは言えないでしょう」(P187)


たぶん「真理はひとつのみである」という西洋式のゆがんだ思考法が狂っているのだろう。
「ぜんぶ真理ではない」「ぜんぶそれぞれ真理である」が、
こと宗教に関してはなめらかに問題を解決してくれるような気がする。
小声で言うけれど、宗教なんてどれもインチキでしょう?
しかし、(当面)科学だってインチキなんだから、だったらインチキとうすうすわかったうえで、
それぞれがそれぞれの選択をすればいいのではないか。
いちばんめんどくさくないのは、親が信じているのをそのまま引き継ぐことだろう。
いまは親が科学教であることが非常に多いから各種統計を信じて生きていけば、
まあ、めんどくさくなくて楽なのではないかと思う(実際みなさんそうしておられるでしょうし)。

むかしはお見合いがあったから、恋愛とかめんどくさいことをしなくてもよかったのか。
「ひとりの異性を愛する」いわゆる恋愛も、
西洋式の「真理はひとつのみである」という思考方法から来ているのではないか。
西洋のガキは「お父さんとお母さん、どっちが好き?」の質問に歴史上どう答えてきたのかしら。
どうでもいい脱線した話だけれど、選ぶって思いのほかめんどくさくない?
旅行先にホテルがいくつもあるより、ひとつしかないほうが気楽なときがある。
よくこんな劣悪なところで、しかもみんな低賃金で働いているなと思う職場があった。
あれはきっといまのバイトを辞めて、また新しいバイトを選ぶのがめんどくさいからなのだろう。
すべてを神さまか仏さまかに決めてもらえば選ばないで済むから精神的負担が少ない。
なぜ選ぶのがめんどくさいかといったら、
選んだものがよくなかったら自分の責任になって後悔する羽目におちいるからだと思う。
ああ、神さま仏さま、どうか気立てのいい女性とうまくめぐりあわせてください。
わたしは相手を選びたくない。
おまえが選ばれることはないぞと世間様からいくら脅されてもわたしは選びたくない。

「心の扉を開く」(河合隼雄/岩波書店)

→河合隼雄さんの利権ってどうなっているんだろう。
本書は氏が晩年に行った読書推奨セミナーの内容を書籍化したもの。岩波書店刊。
なぜか今年の2月、新潮文庫から「こころの読書教室」という別タイトルの新刊として出た。
経緯はよく知らないけれど「河合隼雄賞」なぞといういかがわしい学術賞まで創設されている。
あのね、関係者のみなさん、ただでさえ河合隼雄さんはうさんくさいんだから、
そうまでして池田大作さんに似せなくてもいいと一読者に過ぎないわたしは思いますよ。
生前の河合隼雄が自分の名前の賞ができることを知ったら卒倒したと思う。
みんながみんな橋田寿賀子のような人間ではないのである。

本書はもっと本を読もうという企画からスタートしたセミナーのはずである。
終わりの質問コーナーで挙手して、こう発言していたらどうなったか。
「読書なんて意味がないと思います。実体験にかなうものはないのではないでしょうか?」
河合さんならどう答えていたか。
「そら、もう本当です。その通りでして。本なんかいくら読んでもあきまへん」
場内は爆笑したのではないかと思う。
別の人が挙手して、こう言ったとする。
「あたしは死のうとまで思ったとき、ある本に出会って死ぬのを思いとどまりました」
「そら、もう本当です。読書をすると、そういうことが起こります」
河合隼雄のすごさは絶対的真理がないことを実体験としてよく知っていることである。
絶対的真理(本当の本当)がないならば、氏の発言はすべて嘘になろう。
すべて嘘ならば、氏のあらゆる著述は本当と言ってもいいことになってしまう。
河合さんは自分から自分のことを嘘つきだと自己紹介しているのだから恐れ入る。

わたしは河合さんをイカサマ師かなにかと思っているが、いちおうの肩書は心理学者のようだ。
そもそも心理学ってなんだろう。河合さんの専門は深層心理学と言われている。
心の深い層の心理学ってことだ。
それから河合さんは臨床心理学の専門家だ。臨床とは実際に役立つということだ。
さて、われわれの日常生活と河合心理学はどのように関係するか。
われわれは日常生活で感情を殺している。

「腹が立ったら、その通りに怒ってますか。怒ってないことのほうが多いでしょう。
職場で、課長に腹が立って、後ろから蹴ったろかと思ったけれども、
「あはは」とか言うてみたりとか(笑)。
たとえば商売している人やったら、お客さんが来ると、感じの悪いお客さんでも、
「ありがとうございます」と言うて、やってますよね」(P12)


われわれは本音を殺して建前でうまくやっていこうとする。
人間には内部(本音)と外部(建前)がある。
このうち内部(本音)はいったいどうなっているのかを研究しようとしたのが深層心理学だ。
たとえば、積もり積もったストレス(抹殺した本音)は人間の身体にどのように影響するか。
また河合さんのは臨床心理学だから、外部(建前)がうまくいくことを基本的には目標とする。
しかし、内部(本音)にも相当な価値があることを認める。
外部(建前)が本当でたいせつならば、内部(本音)もまた本当で価値あるものなのである。

「つまり、人間の自我というのは、外とものすごく関係しなくてはならないし、
内とも関係しなくてはならない。ずっと両面作戦なのです。
外に適当にすることがある場合は、そっちに心がとられていきますから、
そんなに内のほうは開かない。
ところが、今のわれわれは、外のことをそんなに心配しなくてもいいわけです。
フリーターとかニートとかいいますけど、
背景にはそれなりに食えるということがあるわけです。
あれが、ぜんぜん食えんかったら、違うと思いますよ」(P31)


もしかしたら仕事が好きな人も嫌いな人もどこか外に逃げているかもしれないわけだ。
「仕事を辞める」が口癖のような人も、
退職後に暇になって自分の内部と向き合うのは恐ろしいから仕事を辞められない。
またほどほどに仕事をしていれば内部をまぎらわすことができるから健康的でもある。
外部と内部の世界の相違は、わかりやすさの程度にあると思う。
外部の世界は一見すると整然とした因果関係で成立しているかのような様相を呈している。
千円を払えば、10分後に750キロカロリーのうまいランチを食べられるというわけだ。
上司が部下に命令したら、部下は言われたように動くであろう。
「こうしたらこうなる」というのがわかりやすい、これが外部の世界である。
人間としての深みにはやや欠けるかもしれないが、
外部だけでうまく立ち回れたら、そういう人生もまたいいのだろう。

ところが、外部からドカーンと内部の底に落ちてしまうものがいる。
それは一般的に心の病としてあらわれ、たとえば河合隼雄のような心理療法家に相談に行く。
内部の世界を外部とおなじものと考え、
いくら精神医学に頼ってもうまくいかないことがおそらく多々あるのだろう。
繰り返しになるが、外部の世界はわかりやすいが、内部の世界はよくわからない。
経済の仕組がよくわかり大儲けした経営者も、
なぜ自分の家族が突然不幸に見舞われたのかはわからない。
内部の世界は「原因→結果」というメカニズムで動いているのではないと考えたらどうか?
「原因→結果」以外の法則がわからないながらも心の奥底では働いているのではないか?
その存在は証明できないが、そうだとしたら見えてくる心の深い世界があるのではないか?
たとえば、友人が真っ青な顔で倒れる夢を見た翌日に
当人が死んでしまうというようなことがある。これはいったいどういうことなのか?
河合隼雄が注目するのは、こういう不思議な現象のわからないところである。
わからないことをわかろうとしないでわからないままたいせつにするという態度を取る。
なぜならわかりやすい外部の世界とは異なり、内部の世界はわからないからである。

「自分がこうやったから、こうなるんだとか、原因は何ですかとか、
原因を究明しましょうという世界で僕らは生きてるんですけれど、深い世界へいくほど、
「原因も何もあるか。あることはあるんやから」というのが起こる、
というか起こっていることが見えるといったほうがいいのかもしれません。
[吉本]ばななさんは、そういう共時的現象を、
すごくうまく書く力がある人だと僕は思います」(P105)


外部でわれわれがつながっているのは言うまでもない。
仕事場では大きな声であいさつして上司の命令にはやる気一杯で従わなくてはならない。
居酒屋でならば酔っぱらって女性バイトに多少卑猥な冗談を言っても構わない。
とはいえ、この場合のつながりは金銭を媒介としたものであることが多い。
河合隼雄が言うには、内部でも人間同士はつながっていると考えたらどうだろう。
さらに飛躍して深いところでは内部と外部もまたつながっているのではないかと指摘する。
これは真理の提示ではなく、
そう考えたら世界の見え方が変わるのではないかという、いわば騙しの技術である。
もし絶対的真理がないならば、世界は嘘だから、
だとしたら嘘の世界をどう見てもいいことになるだろう。
全員が共有する本当の世界などなかったら――。それぞれの世界しかないのだとしたら――。
河合隼雄は晩年に行き着いた「一即多多即一」(華厳経)の世界観を饒舌に語る。
内部も外部もふくめて、あらゆるものはあらゆるものと関係しているという世界観である。

「たとえば、ここ[セミナー会場]でも同じことがいえるのです。
私がここにいて、いま、ここにおられる人のことはある程度見て知ってるわけだけれども、
さっき言いましたね。どこかで戦争が行なわれているとか、
どこかで人が死んでいるとか、餓死している人がいるとか、
そういったことは僕は直接には知らない。知らないんだけど、
ほんとうはそういうことの全部、全部が呼応して、
私という人間を生かしてくれているのです。
私が私であるように、あるいは私という人間が成長するといってもいいんでしょうが、
私という人間が生きていくように、全世界が共鳴して、
私という人間を生かしてくれているんじゃないのかなというふうに、
僕は思ってるんですけど。
ただ、残念ながら人間である悲しさで、自分の周囲のことしかわかりません。
わかりませんけれど、自分一人の人間を生かすために、
世界でいろいろなことが起こっていると、考えてみるのもいいのじゃないでしょうか」(P68)


たとえば、ニート、ひきこもり、うつ、リストカット、摂食障害といった流行病がある。
それぞれの人は全体(宇宙)との関連でそうならざるをえないと考える。
なにが原因でなったと考えるのではなく、全体的に共時的に現象は生じていると見る。
そうすると、該当者はそれほど負の循環に落ち込まなくてもいいことになろう。
うつもノイローゼも全体との関連で自分が引き受けなければならなかった役割なのだから。
このように考えると、治らなくてもそう悲観的にならずに済むだろう。
しかし、治るときは治る。なぜならば、自然は刻々と変化しているからである。
春が来れば十代の少女が高校を卒業して大学に入るだろう。
この変化の流れもまた全体と関連しているわけだから、
うまくその変化に乗れば問題症状が解消することも絶対にないとは言えないだろう。
とはいえ、原因ばかり考えていると、重要な変化のきざしを見落としてしまうことになる。
どうしたら変化に敏感になれるのか。
魂(たましい)を見ようとすることではないかと思う。
魂とは見えないものだから、見えないものを見ようとするのがいいのだろう。
魂を見るとは、目に映るものは見ないで、見えないものを見ようとすることだ。
顔の美醜、給料の多寡、資産の有無、学歴の高低、会社の格、
そんなものにはとらわれずにいることがたぶん魂を見るということだと思う。
河合隼雄はどのように魂を見ていたか。

「私たちは自分はひとりで生きていると思っているけれども、
「そんなことはない。奥さんの力が大きいですよ」といったこともあるけれど、
必ずしもそういうことではなくて、私の家にいる蛇とか蛙とか、そういうのもみな協力して、
全部が協力して私の生は全うされていくのだというふうに考えられないか。
そうすると、やはり、魂ということはそう簡単なものではないのではないか。
魂を抜きにすると、誰が僕のために食べ物を作ってくれたとか、誰がお金をくれたとか、
そういうことばかり思うのですが、そんなんじゃなくて、というふうに思ったら、
人間が生きているということ、あるいは、人間だけではなくて、
ねずみが生きていることも、ハトが生きていることも、全部すごくて、
そういうのの、みんなのつながりとして魂があるということになりはしないか。
ひょっとすると、魂というのは、魂という限り、
私やあなた方とつながっているというだけではなくて、木とも蛙とも何とでも全部、
つながっているということになるのではないかという気がしてきますね」(P147)


絶対的真理はないなどというと人はみなバラバラになってしまったように感じるけれど、
魂というものがあるのだとすれば、
人間同士のみならず動物とも樹木ともつながっていることになる。
本当に魂の話をしたら、愛用のコップ、寝具やぬいぐるみのようなものとさえも、
われわれは切り離されているわけではないことになるだろう。
魂の話をしたら、なにがプラスでなにがマイナスかわからなくなるときもあるに違いない。
いや、そもそもの魂がわからないものだから、
魂のことを考えたらみんなわからなくなってしまう。
なにがいいことで、なにが悪いのか。なにが得で、なにが損失なのかもわからない。
ただし、人が生きている以上、変化はかならず生じるといってよい。
あの河合隼雄でさえあっけなくお亡くなりになってしまったのだから死は絶対的真理に近い。
河合隼雄が死んだとき、多くの秘密がこの世から消え失せたことだろう。
心理療法家はクライエントから聞いた秘密をもらさない人であった。
河合隼雄が死んでもうすぐ7年になるが、いったいなにが変わったのだろう。
人が死なないとわからないことがある。ならば、どの死にも意味があるはずである。

「人間ていうのは、ほんとうに大事なことがわかるときは、
絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います。
何かを得るために何かを失わなければならない。
失うのが惜しかったら、やっぱり獲得できない。
しかし、その失うものが命だったり、幸福だったりするから、大変難しいんですが」(P145)


命を失った瞬間、われわれはもっとも重要な真理を理解することになるのではないか?
もしその真理を生前に知っていたら、と歯ぎしりするほど悔しがる可能性もないとは言えまい。
われわれはみなだれもが死後に魂と正面から向き合うことになるのではないだろうか?

まえにも書いたが月刊スピリッツに掲載された、
うめざわしゅんの「一匹と九十九匹と」最終話がすごすぎるのである。
漫画にここまで揺さぶられることがあるとは思わなかった。
作者についてネットで検索しまくった。
というのもトイレに漫画を置いているのだが、
毎日「一匹と九十九匹と」最終話を読んでしまうのだから。
これではいつまで経ってもほかの連載が読めないではないか。

「一匹と九十九匹と」最終話は絶望の物語である。
主人公は26歳のアルバイト男性。
高校生のころに6歳の少女に性的暴行しようとした前科がある。
いまはうつ病を発症している。つねに自殺のことを考えている。
性犯罪を起こした自分のせいで両親は離婚をした。いまはアパートで母親とふたり暮らし。
ほんものの一匹である。九十九匹ではなく一匹だ。
男の持って生まれた強い性癖(ロリコン)は変わらないから、
いまでも少女暴行事件を起こしかねないという自覚がある。
これは究極の問題だと思う。自殺はいけないというのはきれいごとではないか。
少女を無理やり犯すような性的嗜好の持ち主は死んだほうがいいのではないか。

うつ病の男のまえに高校の同級生だったというリア充の天然女性が現われる。
彼女に救われるとか、そんな甘っちょろい世界ではない!
かつての同級生にそそのかされて、10年まえ自分が性的悪戯をした少女に謝罪しに行く。
和解なんて甘っちょろいことは起こらない。
いまは高校生になった少女から10年まえのことは決して許さないとにらまれる。
クリスマス直前である。みんな幸福そうである。
イルミネーションを見る前科一般のロリコン男と、同級生のリア充女性――。
女はあっけらかんとして言う。いまあたしたちが見ている光景ってぜんぜん違うんだろうね。
あはっ、あたし、人生ちょー楽しい。これからもきっといいことばかりあるんだろうなあ。
じゃあ、いまからイケメン編集者の彼氏とデートだから、と女は去っていく。

なんの救いもないのだろうか。いな、作者うめざわしゅんは最後に救いを書いている。
少女への性犯罪の前科のある自殺志願者のロリコン男が変わるのだ。
彼の世界の見方が変わるのである。
他人がまざまざとリアルに彼の目に映る。みんなそれぞれなにかを抱えているのではないか。
漫画家うめざわしゅんはクリスマスを生きるあまたの老若男女の顔を
じつに巧みに描写する(一見の価値ありですぞ)。
みんなどこかで絶望しているのである。自分は自分でしかありえないことに。
どうしたって自分という存在は超えられないことに。克己かなわぬことに。
携帯電話が鳴る。母親からだ。男はいまから帰ると告げ九十九匹の一員になる。
だれもが九十九匹ではなく一匹でしかないこと、それは絶望であり同時に希望なのだろう。

※たまたま作者とおなじことを考えていたので驚いた↓
過去ブログ記事「生きていたら」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3480.html

本当にいい漫画を読んだと思う。
それまで今年(このジャンルには非常に疎い)わたしが読んだ漫画で
いちばんよかったのは村上かつらの「ラッキー」だったが(古くてすんません)、
「一匹と九十九匹と」が最高記録を更新した。
ちなみに文芸評論家の福田恆存に有名な同タイトルのエッセイがある。
いま当面のところ本に関係するアルバイトをしています。
時給850円ですが一丁前に(パートの分際で偉そうにすんません)
守秘義務の契約書にサインをさせられました。
それを破っているわけではありません。
ひとつ、職場で知ったこと。
(東大卒の小谷野敦さんが好きな)東大卒のエッセイスト、
岸本葉子さんの本って売れているんだなあ。
うちの倉庫だけで配本が1000以上あって驚いた。
なぜか今日はラインが長時間とまったのです。
することもないから東大卒の岸本葉子さんのエッセイを(文字通り)立ち読みしました。
いまはウェブ上にもっとおもしろいエッセイがいくらでもあるような気が。
まさかうちのブログがとは口が裂けても言えませんけれど。
それとファンである新進気鋭の酒場エッセイスト、
大竹聡さんの新刊文庫も(持ち場ではなかったが)大量に出ていた。
よく編集者の人は善人ぶって(?)直接の売り子である本屋さんを過剰にもてはやすでしょう。
しかし、編集者が企画して著者が書き製本会社がつくった本を
全国にまわしている人たちがいる。
いったい、だれがそういう仕事をしているのか。
ぶっちゃけ(まだよくわかりませんが)、
大方は本など1冊も読まないようなノーインテリばかり(ノータリンではありません)。
それはそれとして、みなさんが本屋で新刊書籍を買えるのは、
われわれの作業があってのものだと思うと「本の山」作者は明日もバイトをさぼれません。
以前にも書いたことがあります。
真理が人それぞれなのは、体験が人それぞれなのだからではないか。
いい歳をしていまだに真理(本当)に拘泥しているが、
とりあえずいまのところはそういう解釈をして(真理=経験)、
自分をうまくごまかしているつもりだ(人からはそう見えていないかも)。
いわゆる俗世間の成功者の言葉が真理とみなされるのは、
彼(女)らが一時的にいまのところ成功しているという経歴(経験)ゆえである。
もしかしたらあらゆる真理は経験(体験)を根拠としているのかもしれない。
たとえば、有名な文学賞をいくつも取った作家が広島の原爆のことを書いたらどうなるか。
彼の作品は彼の経験(受賞歴)ゆえに傑作とされる。
しかし、もし読者のひとりが被爆者(実体験者)で、これはインチキだと告発したらどうなるか。
文学賞と実体験のどちらが強いかという話になろう。
「おれさまはですね、○○賞も○○賞も○○賞も取っているが、なにか?」
「あたしは先生が経験したことのない○○事件の当事者ですが?」
この場合、どちらが正しいことになるのだろう。
多くの場合、正否を決めるのはお金のことが多いから、
この場合は実際の被災者よりも、
不幸未経験にもかかわらず想像力豊かでお金持の
有名作家先生が正義(笑)になるのだと思う。
まあ、そういうものである。そういうものなのだろう。そう思っておけばほぼ間違いない。
もし相手はだれでもいいから結婚したい人がいたら、
結婚なんてしなくてもいいと信じることだと思う。
結婚なんてするもんかと思っていたら、そういう対象異性がふしぎと現われる。
金持になりたかったら、お金なんかどうでもいいと真剣に自分を騙したらいい。
有名になりたいなどという俗な旧世代的な煩悩をお持ちの方は、
一生のあいだ人知れぬ雑草でいる覚悟を決めようではないか。
そうしたほうがたぶんうまくいく。
子どもがほしい子なし夫婦は、子どもなんていらないと宣言しよう。
あきらめることが人生においては重要ではないかと思う。
わたしの話をすると……あはっ。わたしの話なんてどうでもいいですよね。
なぜか女に対してあきらめてから、
分不相応な親切を女性からしていただけるようになったという錯覚(妄想)がある。
現実を自分の努力で変えられると思わないこと。
もしかしたら、これがいちばん重要なことかもしれない。
どうしようが、どうしたところで、結局はどうしようもない。
この「どうしようもない」がわかったら、ときになんとかなるのかもしれない。
いやいや、もちろんケースバイケースで法則のようなものはないはず。
とはいえ深刻な現実に対しては「どうしようもない」ことはかなりの真理だと思う。
どうしたらどうなるかはまるっきりわからない。
まずそのことを信じることから始めるのもときにはいいのかもしれません。

「どうしようもない わたしが歩いてゐる」(山頭火)
人間のやっかいな本音は(おのれの愚かな実体験から)めんどくさいではないかと思う。
「面倒臭い」とも「退屈」とも違って「めんどくさい」。より正確には、めんどくさっ!
結婚はおろか、恋愛でもめんどくさいというのが(ある種の)人間の本音ではないか。
子どもがほしい(子育てしたい)なんてめんどくさすぎて狂人ではないかと思ってしまう。
仕事が生きがいの人には、仕事がめんどくさいという感性をなかなか理解できないだろう。
じゃあ、おまえはなんのために生きているんだと怒鳴られるかもしれない。
いやーん、怒んないでとおどけながら、あはっ、生きてるのもめんどくさっ。
あ、ごめん、いまのなし。それを言っちゃあおしめえだって。
世間や、それより少しばかり高尚な文化というものは、
この「めんどくさっ」を強引にごまかすために人間が創造したフィクションではないか。
恋人がほしいとか思っている人、できたらできたでめんどくさいよ。
一流企業就職をねらっている人、それ最悪のめんどくささかもしれませんね。
長生きしたってめんどくさいだけじゃん。
正直、うつ病対策に無理やりつくったような趣味とか、めんどくさくありませんか?
ぼんやりだらだらなにもしないでいるのがいちばん好きかもしれない。
とはいえ、いつかお棺に入ったらその夢がかなうのだから、
いまはめんどくさいことを仕方なくしようと思う。
本当の敵(味方)は「めんどくさっ」だとわかると、
意外と俗世間のこともうまくいくことがあるのかもしれない。
よくわからないけれどさ、あはっ。検証はめんどくさいのでそれぞれがやってください。
月刊スピリッツに連載されている、
うめざわしゅん氏の「一匹と九十九匹と」最終回を少し遅れて読んだ。
漫画だ。月刊スピリッツは創刊号から購入しているが、
なんとかいままで継続してこれたのは「一匹と九十九匹と」のちからが非常に大きい。
今朝、漫画「一匹と九十九匹と」の最終回を読んでまいった。
ほかの連載漫画を読むよりも、もうそんなことはどうでもよく、
繰り返し本作をゆっくり味読してしまったくらいだ。
作者のことはあえてまったく調べていないが(これは嫉妬対策の知恵です)、
この人はすごすぎる。
恥ずかしながらわたしとおなじことを考えているので驚いた。
ここからわかったのは、読者にそう思わせるのが作者の才能だということ。
「これはわたしが書きたかった」と受け手に思わせるのが本当の傑作なのかもしれない。
うめざわしゅんの「一匹と九十九匹と」はすごい。
漫画の感想は書かないようにしてきたが、この最終回を読まされたらそうはいかない。
この人はいったいどういう方なのだろう。
あえて調べない。わからないほうがいいこともあるかもしれないと思うからだ。
生きていてよかった、とちょっと思った。
ちなみに、この記事を読んだ方がおなじ感想を持つとはまったく思えないので、
購入リンクは張りません。
いちおう断っておくと、わたしは前科もアブノーマルな性癖もない、つまらないおっさんです。
みなさんとおなじく(?)嫌いな質問は、あなたの長所はなんですか?
あっはっは、おれに長所なんてあるわけないだろーが!
いえいえ、はいはい、そう言えるのがわたくしめの長所でございますです……。
ふと気づいたが、ぼくは物怖じしないところがあるので困ってしまう。
肩書を無視して無邪気に人に話しかけてしまうようなところがある。
どうせ人は死ねばおんなじだという、ゆがんだ価値基準があるのかもしれない。
むかし嫌いな人が多い月曜日に、新宿区の某公園で真昼間から
生活保護受給のほぼ廃人(当方の主観です)と酒を酌み交わしたことが一度だけある。
廃人さんはやたらそのときのわたしの肩書を気にしていた。
「月曜の昼間から酒をのむっていいですね」と言った。
「新宿区は生活保護が出やすいから、これ重要ね」が返答だった。
最初はホームレスかと思っていた男性に話しかけたのはわたしのほうである。
どんな人の世界にも興味があるという、いわば捨て身な好奇心がわが持ち味かもしれない。
それをべつに言いかえたら――。
わたくしの長所は物怖じしないところです。
社長さんでも社員さんでもバイト(パート)さんでも派遣さんでも、
おなじように偉い(偉くない)と思ってしまう世間知らずなところがございます。
あまり他人から好かれる長所ではないので、きっとこれはひどい短所なのでしょう。
37年ものあいだ無駄に年を食ってきたけれど、
どうしてだかマイナスの意味でもプラスのニュアンスでも前例がないことばかり起こる。
え? そんなことあるはずないじゃん!? ということがけっこう起こるのだ。
いうなればオカルト的な業や宿命、運命を、そこはかとなく感じさせるような……。
ぼかしてすんません。
ここに書くのがもったいないからではなく、自分語りのみっともなさを知っているだけ。
でもさ、ぼくだけではなく、みなさんがみなさん、
前例などない1回限りの人生を送っておられる。
1回限りだったら、確率論の適用外だからなにが起こってもおかしくないのである。
だとしたら、なにゆえみなさん前例(統計)をそうまでお気になさるのだろう。
前例はあなたとは関係のない多数派の統計結果であって、
それは占いよりも当てにならない将来の予想に過ぎないにもかかわらず。
過去は未来ではない。
だのに、どうして多くの人が過去(前例)から未来(未知)を決めつけるのだろう。
本当はそうではないかもしれないじゃないか。
とはいえ、これはわたしの体験した真実であって、いうまでもなく絶対的真理ではない。
「書いて稼ぐ技術」(永江朗/平凡社新書)

→家をキャッシュで買ったという高収入ライターが書いた物書き指南書である。
書籍の価格を考えたら当たり前だが(良心的ともいう)、
「明日から年収1億を稼ぐ」「1ヶ月で20キロやせる」「医者にかからない秘術」
の類の本だと思う。インチキ投資本に限りなく近い。
といっても、フリーライターの著者を責めることはできない。
おそらく、企画を立てたのもタイトルをつけたのも出版社の編集者だろうから。
明るい善人であるらしい著者は、本書で本当のことを無邪気に語っているのが微笑ましい。
「私が飢え死にしなかったのはなぜ」か?
それは「運がよかったこと。これが最大の理由でしょう」とあまりにも正直すぎる。
新人ライターは臆することなく出版社に営業をかけようと発破をかけながら、
最後の最後で、じつのところさ、
自分のこれまでの仕事はすべてコネ(紹介)で飛び込み営業なんてしたことはない――。
ああ、正直なんですね。
インチキ投資をすすめるような詐欺師には決してなれない著者に
好感を持たない編集者はいないのではないか。
もしかしたら著者が不安定なライター稼業を継続できたのは、
こういう素直さがプラスになったのかもしれない。

そうそう、これは物を書くときの基本的姿勢で常識だと思うが、
なかにはご存じないブロガーさんもいらっしゃるかもしれないので書き写しておく。
高収入ライターの著者も強調しているが、自分のことはマイナスを書こう。
人様にお見せする文章では自慢話ではなく、失敗談を書くようにしよう。

「ルポルタージュの書き手は幸福になってはいけません。
少なくとも読者よりは。私たちは他人の不幸が大好きです」(P132)


しかし、これも絶対のルールではないのである。
成功者のお嬢さんなんか世間を知らないから恥じらいもなく自慢話を書くのである。
そういうものが世間ずれしていないと大衆受けしてベストセラーになることもあるのだから。
こそこそ書くのはよくないので、はっきり書いておこう。
阿川佐和子女史の「聞く力」は自慢話ばかりでうざいが、なぜかベストセラーになっている。
きっと彼女はどこまでも運がいいのだろう。きっと営業の「え」の字も知らないはずである。

「売文生活」(日垣隆/ちくま新書)

→本書から学んだことは、原稿料なるものが都市伝説ではなく実在していたということだ。
世の中には本当に文章を書くだけでお金をもらえている人がいたのか。
あんなものは無知な若者をだます類のインチキ儲け話ではないかと思っていた。
繰り返しになるが、へええ、本当に文章を書くだけでお金をもらえる人なんかいたのか。
それっておかしくないかなあ。
だって、文章ってたとえお金をもらわなくても書いてしまうものでしょう?
ああ、そうか。そこで作家とライターのちがいに行き着くのか。
作家は書きたいものを書くけれど原稿料は雀の涙ほどでほとんど食えない。
いっぽうでライターは注文仕事で職人技だが、なんとか人並みに金を稼ぐことができる。
自分のために書くのが作家で、人様のために書くのがライターではないか。

いや、本当にそうなのだろうか。
というのも、ネットをぶらぶらしていると食えないライターというのがいるらしいからだ。
え? 食えないライターなんてありえないじゃん、と思う。
だって、ライターは作家とちがって食うために自分を捨ててやるものでしょう?
食えなかったら職能がないということだから、ほかの仕事をするしかないじゃありませんか。
作家ならべつだ。書きたいことを書いて食えないのは、まあ当たり前だろう。
ライターで食えないと嘆いている御仁はいったいなんなのだろう。
そのくせ、他人にはどうでもいい自分語りの思い出話を、
さも誇らしげに無料でブログに書いている自称ライターってなに?
自称ライターや自称お笑い芸人は気持が悪い。
ライターやお笑い芸人は他人に奉仕するサービス業ではないか。
自己表現をしたいのなら、
作家や自作自演の舞台俳優を目指したらいいのではないかと思うのだが。

どうやら現実に存在していたらしいライターという職業で(驚いたなもう!)、
高収入を得ている著者がお書きになったいわばドヤ本の本書を読んでこんなことを思いました。
生意気いって、すんません。ああ、原稿料なんて都市伝説かと思っていたや。
原稿料とやらを得るためのこつを著者は夏目漱石から学んだようだ。

「執筆や出版にかかわる条件は、依頼があったときにのみ有利に交渉しうる、
という鉄則を、最初に身をもってやり遂げた最初の作家が夏目漱石だった」(P88)


「貧乏するにも程がある」(長山靖生/光文社新書)

→副題は「芸術とお金の“不幸"な関係」。要するに芸術は食えないということだ。
で、なにをして食っていたんだということを著者は主に文芸方面から攻め込んでいる。
世間のことにはまったく疎いけれども、
芸術家に(自称のみならず他称にも)まちがっても聞いてはいけないことは、
なにをして食っているんですか? だということはわたしでも知っていることだ。
その世間のタブーを破るのが本書なのだろう。
芸術というものは、いうなれば暇と金が作るものだと思う。
暇と金がなければ、なかなか芸術への眼が開かれない。
芸術へとりつかれると人は自分も創作を行なうようになる。
で、この時点において問題になるのが芸術の受け手が極めて少ないということである。
いくら個人が芸術作品なるものを完成させても、
世間の大衆は金や暇がまったくといっていいほどないので
(幸運にして金があるものはたいがい暇がない)、その価値がわからないままに終わる。
したがって、芸術家(文学者)は食えないので芸術を捨てるか餓死するかの選択に迫られる。
――と考えるのが常識人の浅さだと傑作たる本書を読んで気がついた。
金がなくなった芸術家(文学者)はどうしたらいいのか。
芸術を捨てて生活のことしか考えぬ賃労働者になるか、餓死(自殺)するしかないのか。
いな、もうひとつの第三の道があるのである。それは――、借金のようだ。
本書によると、借金はいろいろと文学志望のもののために都合がよろしいとのことである。
家に財産がなくても、働かなくても、ヒモになれなくても、
もしあなたがどうしても芸術(文学)というフィクションの世界に生きたいなら、
借金があるではないか。

「借金は「ドラマ」を創り出す。だから人生にドラマを求める人間は、
借金をするなり、借金をされるなりするのがいい。
するとその人の人生には、否応なくドラマが生まれる。
[内田]百閒も[夏目]漱石も、どこかでそれに気づいていた節がある。
借金魔が愛されるのは、そこにドラマがあるからで、
読者は他人のドラマが好きなのだ」(P120)


著者は著書多数にもかかわらず生活の安定のために歯科医をしている文芸評論家だ。
長山さん、もしあなたも人の迷惑をかえりみず借金をする恥知らずで厚顔な勇気があったらば、
ちんけな文芸評論家ではなく芸術家(文士)になれていたのではないか。
いや、著者が歯科医の本業を持っているのは、おそらく営業をしたくないからだろう。
どこぞの安っぽいライターのように出版社にすがる乞食にはなりたくなかった。
たぶん、いやまちがいなく著者は自分のことを「作家」だと思っているはずである。
長山靖生氏は自分のことをライターではなく「作家」だと思っている。
ならば、「作家」とはなにか?

「作家というのは、待つのが仕事だといった作家がいる。
取材をしたり、資料を集めたり
自分の実人生でさまざまな破綻や危機を経験したりというアクティヴな面もあるが、
それらを踏まえた上で、主題が熟成して小説になるのを待つのが、
いちばん大切な作家の仕事なのだという。
だから、作家は家などでごろごろしている時が、
取材中よりも真剣に努力している場面なのだという。
仕事を仕事として成立させる場面でも、同じことがいえるらしい。
作家というものは、本質的に自分から売り込みをするべきではないし、
ましてや自分から資金を出して、映画の自主製作よろしく、
自費出版したりしてはいけないらしい」(P99)


あと一歩なのである。著者は作家まで、文学まで芸術まで、あと一歩なのだと思う。
ぜひとも著者の書いた小説を読んでみたいと思う。
そのためには歯科医という安定した職業を捨てたほうがおもしろみが俄然出る。
いざとなれば借金をすればいいではないか。
才能ある著者にはいまからでも遅くないので、文筆一本に賭けていただきたい。
繰り返すが、いざとなれば借金があるし、
借金をしたらしたでそこで生まれるのがドラマだから、それを書いたらいいではないか。
もう歯科医とか文芸評論家とかいう、くだらぬ肩書は捨ててしまってもいいのではないか。

「文豪はみんな、うつ」(岩波明/幻冬舎新書)

→やっぱり精神科医はみんなおもしろい文章を書くわけではなく、
たとえば春日武彦さんなら春日武彦だから
おもしろいことを書けるのだと当たり前のことに気づく。
作者のお骨折りには敬意を表しますが、商業出版物として本書はおもしろくないのである。
著書を濫作している春日武彦先生のほうが、おなじ精神科医の岩波明先生よりもおもしろい。
狂人の奇態、奇行をおもしろがるような視点がまったくないのが本書の退屈の理由だろう。
しかし、他人のきちがいぶりを笑いものにするというのは人としてどうかという問題がある。
おそらく、人間の一般尺度から判断したら、岩波明氏は春日武彦氏よりも上質なのだろう。
けれども、このために、本書はおもしろくないのである。
文豪の教科書的な情報提示とラベリング(きみはうつ病だ)に終始している感が強い。
狂っている人っておもしろいよね、クスクス、という不謹慎な本音が欠如しているのである。
もちろん少しはあるのだが、いまいちなのである。
とはいえ、おかしな人が多いことで知られる精神科医。
著者の岩波明氏にもほんのりとした香り程度ではあるが狂気が透けて見えるところがある。
岩波明氏は、この部分をこれからもっと伸ばしていったら文豪に近づけるのではないか。
顔写真からはとても恋愛経験が豊富そうには見えない著者は、
「愛」や「恋」をこう定義するのだが、
そこはかとなくただよう病的な感じが不健康でよろしい。

「きれいな言葉で物語ろうとも、あるいは流行りのファッションで包んでみたとしても、
「愛」「恋」の本質は相手を捕獲して離さず、自分の意のままにしようとすることである。
それが昂じてしまえば、相手を殺戮し滅ぼすことにもなるし、
文字通り食らうことにもなってしまう」(P209)


ふつう相手の迷惑を考えたら「愛」や「恋」はなかなかできないはずである。
にもかかわらず、これだけ恋愛ものが流行っているということは――。
みながどこかで狂うことにあこがれているのかもしれない。狂いたいのかもしれない。
狂った文豪にあこがれるものがいるのも、こういう理由だろう。
しかし、たかがうつ病ごときで自分を文豪に近づけてしまう読者は甘いと言わざるをえない。
本当に狂っているのなら女と心中してみろ。姪を犯してそのことを小説に書いてみろ。
「毎日出かけるのはイヤだなあ」という理由でNHKへの就職内定を蹴ってみろ。