ぴよ~ん、いまは絶滅種のYonda?(新潮社から中国に引き揚げた)は、
中間搾取される現代の奴隷である派遣さんから直接雇用のアルバイトにレベルアップした。
ストーカーは人生で一度もやったことがないが正体はストーカー気質なのかもしれない。
派遣先の企業のことは興味本位で調べまくるのである(社会勉強!)。
いまの派遣先が大量のアルバイト、パート募集を出しているのである。
圧倒的に人が足りないから派遣会社なんかに日雇いを頼むのだろう。
ネットで調べたら、ぶっちゃけ高校1年生でもOKな職場なわけだ。
アルバイトも中国人やアジアの人がやたら多い。
決して差別ではないが知的障害紙一重のような人もちらほら見かける
(わたしはパンダで畜生だからそれ以下っす)。
ここまで書いたらわかるだろうが、だれでもできる超楽勝な仕事なのだ。
しかし、派遣で入るといちばん肉体的にきつい仕事をまわされてしまう。
運がいいことに責任者のHさんのとっさの温情で楽な直接雇用向けのパートをさせてもらえた。
おかげでなんと直接雇用バイトは(日雇い)派遣に比べて生ぬるいか気づいたわけだ。
だよね、時給850円でそんな働けるわけがない。
さっそくネットから直接雇用のバイトに応募した。
ネットより送信。いま御社に派遣されていますが、今日履歴書を持ってうかがいます。

人事担当(面接官)はすでに顔なじみだ。
大学生どころか高校生も来るようなバイトのせいか、
エントリーシートにはお茶目な質問がたくさん並んでいるので吹き出しそうになる。
「なぜ仕事をするのだと思いますか?」
これにどう答えたか? ――わかりません。どうか教えてください。
だって、ぶっちゃけいざとなったら自殺もありでしょう。
日本最大派閥の仏教ではたしか人間は死んだら極楽浄土に往けると教えている。
「親孝行についてどう思いますか?」
したほうがいいんじゃないですか? と答えた。
「あなたの夢は何ですか?」
忘れました。
「あなたの長所はなんですか?」
運がいいこと。
「あなたの短所はなんですか?」
どこまで本当のことを書いていいのかと迷いながら答えたのは、
――感情がすぐ顔に出てしまうこと。
外国人ばかりの時給850円の職場だからか即決で採用と言われた。
勘違いしていたが、ここも交通費は400円まで出るらしい。
派遣でも300円まで交通費は出る。
結局、派遣と直接雇用の差は交通費の100円だけ。
いや、本当の違いは楽なパートをまわしてもらえるかである。

時給850円にもかかわらずフルタイムでは入れないとのこと。
新規事業参入中だから明日の仕事量がどうなるかわからないそうだ。
このため週5日で希望しても4日しか働けないことがある。
そもそも時給850円だぜ。
ここで働いたって生活保護の受給額もいかないわけだ。食えるわけがない。
もし奇跡が起きなかったらそのうちかならず行き詰まり、
どうせ通らないだろうが生活保護申請をしなければならなくなる。
時給850円で食えるのは扶養に入っているものだけではないか。
ああ、だれか高給取りの女性の扶養に入りたいのであります。
引き続き、いわゆるコネによる比較的に楽で高額なアルバイトの紹介を
世間知らずにもこのブログをお読みの数少ない読者様にお願い申し上げます。
いつか絶対にご恩を返しますので。遅くなっても来世には絶対に絶対!
重いものを丸一日運んで日給7000円とかいやいや。
じつはさ、甘えた考えだけどエイプリールフールに書いたことは、
恥ずかしながらもしかしたらという希望がまったくなかったわけではない。
特技は速読である。
もし仕事なら1日にいま流行の書籍を5つ読んで内容をまとめることも可能。
たとえば出版関連や映画関連の個人事業主様から、
時給900円以上で雇われるのではないかという期待も
かならずしもまったくなかったというわけではない。

話は変わるが、世間の風潮として中抜きする派遣会社は最低という偏見がある。
わたしの個人的な体験から物申すと、そんなことはない、そんなことはない。
お世話になった派遣会社YのAさんには本当によくしてもらったと思う。運がよかった。
人材派遣会社の営業なんて、ブラックの極みなんだから。
20代中ごろのAさんはまだ勤務してから1年も経っていないらしい。
わたしはまるでおばさんのように噂話が好きなので、
いろいろおなじ会社の派遣さんに聞いたら半年はやっているみたいだ。
で、Aさんに聞いたらまだ1日も休日を取っていないとのこと。
人材派遣会社の営業は365日24時間労働。
その派遣会社の社員募集を見ていたら、それでも年収は300万いかないっぽい。
ゲスな好奇心から調べてみたら某派遣会社の事務をしているのもアルバイトだった。
人材派遣会社だけがいい思いをしているようなことは決してないような気がする。
だって、ここだけの話、
日雇い派遣で来るおっさんは(もしかしたらわたしもふくめて?)
あまり言いたくはないが知的障害を疑うようなものもいなくはないのである。
彼らに仕事を斡旋してあげる派遣会社は、
あるいは本当のボランティアをしている可能性もある。

グーメールが終了してアドレスをジーメールに変えてから読者様からのメールが1通も来ない。
来るときはけっこうひんぱんに来ていた記憶もあるけれども。
もし出したという人がいらっしゃいましたら、それは届いておりません。
まあ、だれも他人なんかに興味を持たないよな、という世間常識を再認識しました。
ああ、そう、いろいろバイトの面接を受けた。
いちおう実名ブログをしているがバイトごときで名前をネット検索されることは一度もなかった。
みんなそんなびくびくしなくてもいいのでは? だれも他人になんか興味を持たないのだから。
派遣バイトの世界というのは、おなじことをしていても時給が違うのでおもしろい。
たとえばいまの派遣先へは時給850円で行っている。
新規事業進出と繁忙期のため、
毎日のように1日だけの日雇い派遣さんが複数いらっしゃるわけだ。
ふつうお金の話は聞いてはいけないのだが、
若い衆が話しかけてきてくれたので時給を聞いてみた。
本業は大学生という彼はおれより50円多い900円をもらっていたわけだ。
いちおう数日先輩のわたしのほうがほんの少しだけ仕事を知っているにもかかわらず。
だがしかし、そんなことを言えば、はるか先輩の古株バイトさんたちに申し訳なくなってしまう。
わたしは某新興派遣会社さんの紹介で時給850円プラス交通費という条件で行っているが、
仕事がよくできる古参さんたちはおなじく時給850円なのに交通費が出ていない(はず)。
ライン作業をはじめてやってみたけれど、ひたすら手仕事に追われ考える暇がない。
考えすぎるのがよくないうつ病患者さんにはおすすめの仕事かもしれない。
時給850円でおのれをあわれんでいたら下には下がいた。
派遣会社の大手フルキャストの奴隷さん(わたしも奴隷の一員ですが)は、なんと時給800円!
埼玉から派遣されてくる単純肉体労働作業員は時給が低いのかもしれない。
さらにおなじ工場に派遣されてもどのポジションにつかせてもらえるかという運がある。
基本的にどこも女は楽な仕事にまわされるようだ。
とてもとても運がいいことに、わたしも女とセットの作業を上から言い渡されたのである。
女仕事のいわゆる軽作業がこんなに楽勝で心地いいものだとは!
これを知ったのは昨日たまたまおなじ派遣先で運悪く男仕事のほうにまわされたからである。
男しかいない作業場はどうしてか肉体的のみならず精神的にもきつい言動が多い。
もっと本当のことをいろいろ書きたいけれど、お金をもらっていてはさすがに書けない。
時給850円だって東京近郊でしか味わえない恩恵らしい。
この時給850円の派遣バイトすら期間限定のため今月いっぱいで失ってしまう――。
「ファミリーシークレット」(柳美里/講談社)

→大学時代、柳美里によって文学開眼させられたといってもよいくらいだ。
このため、いわば文学のうえでの恩人のひとりでもあるこの人気作家に
てのひらを返したようなことはできるならば書きたくない。
しかし、正直に白状すると、何度も途中で投げ出してほかの本に浮気(本気?)した。
なーんか、よくわかんないけれど、
シングルマザーで作家の柳さんがご愛息を殴るんだってさ。
親が子を殴るなんてむかしからよくあることでそう大したことでもないのに、
本人が針小棒大に大騒ぎしてこれは過去のトラウマが原因だとかなんとか、
いかにもうさんくさそうな著書多数の臨床心理士のところに相談に行き、
本来ならカウンセリングは非公開だから価値があるのにもかかかわらず、
双方の営業と売名のために素人目にはもっともらしい対話をするという講談社の出版企画。
カウンセリングなんて公開できないことを話すから意味があるんでしょ。
公開前提の商用目的の夢カウンセリングっていったいなんですか?
そして、柳美里さんは自我肥大しすぎでは?
貴女の夢にだれが興味があると思うのですか?
たいへん失礼ながら柳美里のどうでもいい夢語りはすべて読み飛ばしました。
フロイトやユングのインチキがうっすらばれつつあるいま、さらなる飛躍をしてみよう。

トラウマってインチキじゃないか?

いわゆる心の病をかかえた人はトラウマ(心的外傷)を物語の核にすることが多い。
でもさ、過去のトラウマが事実だったなんてだれが証明できるわけ?
家族からしたらそのトラウマは当人の被害妄想にしか思えないことばかりのはずである。
もしかしたらあらゆるトラウマなるものは、
自分以外のだれかに責任をなすりつける身勝手で卑怯な自己申告、
つまりいうなれば虚偽の被害妄想では?
いや、美しい被害妄想もあるのはわかる。
性的にオープンな薄幸そうな美少女が真剣におのれの被害妄想をつづるのならいい。
だが、大きい子どももいるような裕福な成功者のメンヘラおばさんが、
いまだに過去の被害妄想にとらわれているのは薄情かもしれないが醜くはないだろうか?
いまや柳美里さんの金銭感覚もおかしくなっている。
有名芸能人に同情して、彼女らのギャラなど大手出版社の編集者レベルだと書いている。
あのさ、年収1500万もあったらふつうの人は同情ではなく嫉妬するんじゃないかな。
人生で一回もアルバイトをしたことがないという柳美里さんは、
1週間でいいから時給850円でパートに出たら、
完全に行き詰っているように傍目からは思える彼女の文学世界に
新たな境地が開かれるのではないか。
あるいは、まともな自意識があれば一生ものを書けなくなるかもしれない。
なぜなら、自分なんかちっとも不幸ではないと気づくであろうから。

本書はいちおうノンフィクションと銘うっているが内容は嘘ばかりなので小説だろう。
フィクションの小説にもかかわらず、一箇所だけ本当のことを書いていたので抜粋する。

「作家の書いたものなんて、
私小説であっても、エッセイであっても、ブログであっても、
虚実ない交ぜなんですよ」(P21)


これをわからぬバカ女相手の商売のはずなのに、
さすが柳美里、こっそりながらよくぞ書いたとも思う。
わたしは柳美里本人よりよほど、
好き勝手にでたらめを書かれた人気作家の父母やきょうだいのほうがかわいそうだと同情する。
だれか被害妄想過剰な女流作家をひっぱたいてやったらいいのではないか。
とうに40を過ぎた裕福で五体満足の子を持つ人気作家の柳美里は舌を出す。

「わたしも、嘘ばかり吐く子どもだった。
どんな嘘だったかは憶えていないが、親や教師に「嘘吐き!」と頬をはたかれ、
バシッ! という派手な音と痺れたような痛み――、
じんじんと熱くなっていく頬の感覚を、今でもはっきりと憶えている」(P36)


ところが、取り巻きに幾重にも囲まれたいまの柳美里の頬を、
大手出版社や一流新聞社の社会的制裁を怖れずに
「嘘吐き!」とたたけるものはいまやだれもいない。
柳美里は勝ったのである。そしてある面で負けたのである。

人間は最低の生き物で他人に冷たいというのも真実だけれども、
人は思いのほかあったかくて
困っている人に信じられないほど親切にしてくれるというのも真実だと思う。
結局は金というのは心底から真実だと主張したい気にもなるが、
同時に金では絶対に買えないものがあるというのも真実に違いない。
女性は悪魔で、にもかかわらず観音菩薩のような存在であるのだと思う。
労働は人をゆがませる悪徳だというのも真実だが、
働くことを通して人は成長するというのもまた疑いえない真実ではないかと思う。
恋愛ほどすばらしいものはないというのもひとつの真理だが、
恋愛なんざ自己満足と自己顕示、
けだものめいた性欲にすぎないというのも虚偽ではなかろう。
説教の大半は無意味だが、つまらぬ説教が輝く絶対的な一瞬もあるだろう。
あなたの嫌いな上司が別の人には尊敬する人であっても矛盾はない。
昨日までラブラブだった恋人がいきなり今日去っていってもふしぎはない。
人間嫌いな人ほど本心では人を好きなのかもしれない。
みんなに親切な人格者めいた成功者ほど人間嫌いなのかもしれない。
以上、もしそうだとしたら、だれも、なにも裁くことはできまい。
ならば、自分も裁いてはならない。他人だけではなく自分も。
なれないことをしたから左足首を怪我をしてしまうわけである。
整形外科でレントゲンを撮って痛み止めと湿布をもらい国民健康保険で4千円なり。
日給8千円の派遣バイトで怪我をして治療費4千円かあ。
派遣会社にかけあったら、
自称責任者いわく労災を出してほしいならどうかご自分でやってみてください(余裕の笑み)。
たいへんですよ。ほんとかどうか知らんが、診断書だけで自腹5千円と言われる。
最近、被害妄想過剰だと気づいたので、問題はこのことではない。
みなさまにはどうでもいい詳細は書かないが、
たしかにこちらにも非はあり派遣会社の言い分も一理ある。
問題は――。
足を痛めた瞬間、往来に松葉づえを使用している人が多いことに気がついたのである。
ここにもあそこにもびっこを引いている人がいる。まさに身をもって知るである。
人間はもしやおのれに痛みがないと
他人の痛みに気がつかないようにできているのかもしれない。
言い換えたら、おのれの境遇しだいで世界の見方はいかようにも変わりうる。
いま自分がどういう立場にいるかで世界の様相はがらりと変化する。
いざ自分が痛んだり苦しんだりしないとどうしようもなくわからないことがたぶんある。
怪我をしないと、事故に遭わないと、不幸にならないと決定的に理解できないことがある。
もしかしたら我われは本当の世界を見ていないのかもしれない(本当の世界って?)。
大事なものを見過ごしているのかもしれない。
なにかきっかけがないとなかなか障害者(障害児)の存在が目に入らないのは、
関係者はご同意くださると思う。
たぶんいくら知ろうと思っても知りえないことがある。
身をもって知るしかないことがあるのだろう。
エイプリールフールに書いた記事はかなり本当でしたが、予想通りメールはなし。
野垂れ死にするのもまたいいと思いながら、非正規雇用の荒波を全身で浴びようと思う。
身をもって知ることがいくらでもあるのだろうから。
いま正式決定したが明日からは時給850円で本の梱包をする。
くだんの派遣会社はこんなわたしにまだ仕事を紹介してくれるのだからありがたい。
「すこやかな生き方のすすめ」(桜井章一・よしもとばなな/廣済堂出版)

→雀鬼の桜井章一氏と有名評論家の吉本隆明氏のお嬢さんとの対談集。
どちらも組織に属さないフリーランスのためだろう。サラリーマン批判がどぎつい。
サラリーマンは人を肩書でしか判断しない、損得しか考えない、たかるのが大好き。
そんなこともないと思うけどなあ。
みんながみんな突出した両氏のように幸運や才能に恵まれていないのだから、
処世のために自分でも嫌悪するようなせこいことをするのはそう責められないと思う。
きれいごとで生きていける人ばかりではないような気もするが、そこはわからない。
若くしてデビューした人気作家のよしもとばなな氏はデンジャラスな裏事情を言い放つ。
いわく、作家業界もサラリーマン世界だ。
作家になったら、この会に入れ、この先輩に挨拶に行け、この選考委員をやれ、
という人事指令が編集者から下るらしい。
その人事にしたがえば報酬として文学賞が手に入るとささやかれるとのこと。
うーん、やっぱりそうだったのか。

なんでも本書によると雀鬼は予知能力や透視能力、いわゆる超能力をお持ちらしい。
1億や2億なら、いまでもひと晩で稼げるとのこと。
そんな人ならたしかにサラリーマンをばかにしたくなる気持もわかるよなあ。
もちろん、大量の愛読者がいる才能あふれたよしもとばなな氏が
リーマン世界を軽蔑する気持もわかる。
たとえ一社や二社の編集者から干されても平気の平左なのでしょうから。
両者は未来永劫、わずかな日銭のために
年下の正社員に理不尽なことであたまを下げる非正規雇用者の気持はわからないと思う。
決してそのことを批判したいわけではない。
雀鬼やよしもとばななのような人もいるから世の中はおもしろいのだろう。
いろんな人がいてよろしかろう。あなたもわたしも生きていてよろしい。雀鬼もばななも。

「生きづらい日本人を捨てる」(下川裕治/光文社新書)

→「生きづらい日本人」を捨てて一見すると楽なアジアで生きている人のルポ。
率直な感想として、
日本を捨てて海外で起業したり職を得て食っていったりするのはすごいよなと思う。
とはいえ、本書に成功譚はひとつたりとも掲載されていない。
どれもどんよりダメな香りがただよう物語ばかりなのである。
世の中に甘い話なんてないとでも言いたげに、
この本ではぎりぎりで食べている邦人ばかりが特集されている。
残酷な話だが、きっとどこにも楽園なぞないんだろうなあ。
たとえどこの国でも、よしんば家族なしのたったひとりでも、
金を稼いで自力で食べていくのがどれほど難しいかがよくわかる。
みんなこんなことは知っているのであろう。
それでも日本人を捨てる人がいる。どうして日本で生きていると生きづらいのか。
反対から言えば、アジアのどこが魅力的なのか。
おそらく、それはアジア各地に楽園めいたところがあるからだろう。
その疑似楽園では――。その街では――。
きっとおそらくたぶん以下のような人が多いのである。

「どうやって皆、生活しているのだろうか。
日本からやってきた僕は、つい、そんな疑問を抱いてしまうのだが、
この街では、なにか口にしにくい雰囲気がある。
皆、楽しいことを優先してしまうタイプなのだろう」(P92)


これがどうして日本人が生きづらいかの答えでもあるのだろう。
統計もなにもないのでよくわからないが、
たぶん日本人は楽しいことをひたすら後回しにするタイプが多いのではないか。
もしかしたら楽しむことを禁忌とするような日本人が多いのかもしれない。
楽しんだり楽をしたりするのはいけない。
みんなで苦しもう。もっと苦しもう。生きるとは苦しむことだ。
おれが苦しんでいるんだから、おまえにも楽はさせないぞ。
わたしには日本人論をできるほどの知識も見聞もないが、しかし、
寝てない自慢がどうして自慢になるのか疑問に思わない人が多いのは事実だろう。
本書を読んでわかったのは「生きづらい日本人」を捨てても大半はなにもないこと――。

「人もいない春」(西村賢太/角川文庫)

→まったく成長しようとしない西村賢太がどこまでもどこまでも愛おしい。
どうで諸人くだらぬ労働なんかしたくないのが当たり前だのクラッカーで
仕事で成長するとか嘘八百だよなあ。
恋愛で成長するなんて偽善もいいところで、愛するより愛されたい尽くされたい。
ああ、経済的に養ってくれてメシも作ってくれる秋恵みたいな女が現われないかしら。
人から評価されたい、人をこばかにしたい、楽をして金を儲けたいなあ。
くうう、さみしいぜ。友がほしい、女がほしい、金がほしい、こんちくしょっ!
狂おしいほどに成功者が妬ましく、
機会があったら足を引っぱって奈落の底にひきずり落としてやりたいぜ。
人の苦しみがこちらの楽しみ。人の楽しみはこちらの苦しみ。
くそお、とりあえず女、女、女だ。
しかし、ぼく、どんな成功者になっても西村賢太さんは兄貴のように慕っているんデス。
これが真の愛読者というものなのでR♪

「男の器」(桜井章一/角川oneテーマ21)

→運がとびきりいい雀鬼によると、あまり目先の計算にとらわれないほうがいいとのこと。
いま損をすることで将来の良縁につながるということがいくらだってあるからだ。
たとえば時給千円のバイトと850円のバイトがあったら、
一目散に前者に飛びつくというのは思慮の浅い女子供のすることなのかもしれない。
ポイントは人生の収支を全体で考えるということになるのだろう。
全体で考えたらいまの痛手は将来の飛躍のきっかけをはらんでいることが絶対にないと
どうして言えようか。
できれば前世や来世まで広げて全体を考えられたらいいのだと思う。
いいかげんに本書を要約したら、
目先の計算(損得)にとらわれないのが「男の器」ということになるのだろう。
目先の計算ばかりして部下を怒鳴りまくるような上司は器が小さいとも言えよう。
どうしたら目先の損得にとらわれずにどーんと構えていられるのか。

「ものをよく見ようとするなら、目を大きくかっと見開いては駄目なのだ。
見るともなく見るような、全体をボワッと眺めるような感じでいると、
「だいたい」のところが「なんとなく」わかってくるのである」(P124)


「よくわかる最新医学 統合失調症」(監修:春日武彦/主婦の友社)

→東大卒のベストセラー作家、小谷野敦先生によると監修は名義を貸すだけらしいから
本書にはほとんど春日武彦先生の意見(主観)は入っていないのかもしれない(ファンです)。
そういえばたしかに毒は薄い。透明すぎてもっと濃ゆい白濁がほしいところ。
とはいえ、ちょこっとある春日武彦くささに胸をときめかせる因業なぼくでした。
いわく、世間で広くいわれているほど統合失調症と芸術って関係あるのか?
それはファンタジーじゃないか?
統合失調症患者も芸術家もとっぴなことを考えるのは似ているが、
前者は脳機能的に思考をまとめられないからある意味芸術とはまったく関係ない。
それから統合失調症患者がアパートを借りるときの助言もおもしろかった。
病気を正直に大家にいったほうがいいのかどうか。
病気を隠し通せるとそれだけの「社会性」があるとみなされ、
賃貸契約に成功することもあるというのが春日先生らしくアイロニカルでくすっと笑った。
就職面接やバイト面接でもおなじだよね。
マイナスのことをどれだけ厚顔に隠せるかがいわゆる「社会性」なのだと思う。

統合失調症などの精神病にだれかがなったときにいちばん困るのは家族である。
経験豊富な春日武彦医師らしい(それともゴースト?)
患者家族へのアドバイスに慰められた読者も多いだろう。
いわく、気長に見守ること。のんびり待つこと。
ハンセン病がなきいま、もっとも業病という名にふさわしいのが統合失調症ではないか。
患者さんやご家族にはおかけする言葉もない。
ああ、そうだ、どうしたら統合失調症にならないかを知っているので書いておこう。
かんたん、精神科医に診せなければ該当者は死ぬまで統合失調症にはならない。
けっこうおすすめの知恵である。そりゃあ、それはそれでたいへんなのだけれど。

「のんびり生きて気楽に死のう」(ひろさちや/PHP研究所)

→敬愛するひろさちや先生の宗教観をひと言で定義するならば責任転嫁だと思う。
自己責任ではなく責任転嫁。もう一度、繰り返す。
自己責任なんて存在しないのだから、すべては神さまや仏さまに責任転嫁しよう。
仕事でありえない大失敗をしてしまっても自責の念にかられる必要はない。
それはきっとよかれと思って仏さまがはからってくださったことなのだ。
どうして自分はあんなことをしたんだろうとくよくよと悩むことはない。
それはあなたがしたことではなく、仏さまの計画通りなのだから。
大失敗をしたから仕事を辞めるべきか迷いに迷ったときはどうしたらいいか。
サイコロを振って決めればよろしい。
サイコロがなければコインでもいいのだろう。
表が出たら継続、裏が出たら退職と決めてからコインを投げてみようではありませんか。
その結果にすなおにしたがえば、
それはあなたの決定ではなく、仏さまにおまかせしたということになろう。
なにがよくてなにが悪いかなんて人間にはわからないのである。
どうして仕事のミスがのちの幸福に結びつかないといえようか。
なにゆえ仕事を辞めるのが悪いとばかり断定できようか。
万事わからぬことを深々とあきらめ仏さまにおまかせする。
人気仏教ライターひろさちや先生が長年推奨してきた人生作法である。

「働くのがイヤな人のための本」(中島義道/日経ビジネス人文庫)

→人もうらやむ成功者で有名人の中島義道哲学博士のご著書を読んでいつも思うことがある。
この人はどうして絶対的真理がひとつだけあるという前提を疑わないんだろうなあ。
それは知的欺瞞ではないか。ものをほんとうに考えていないのではないか。
どうして「絶対的真理などない」が真実だという恐ろしい現実に向き合わないのだろう。
本書でも成功者の中島博士は、自分こそ真実を語っていると無反省でいい気なもんである。
いいかな博士、あなたの真実は
あなたのたまたまの経験がつむぎだしたイリュージョンではないかとなにゆえ疑わない?
いったいなぜに経験(人間)の数だけ真実があるとは思えないのだろうか?
この先生はどういう理由で、
自分だけが真実を知っているという思い上がりから抜け出せないのだろう?
普遍的真実めいたものを語っているものを見たらバカと思え。
みなで中島義道の無知をあざ笑おう。
以下は才能あるベストセラー作家の中島義道博士が、
たまたまの人生経験で真実だと錯覚した世迷い事ではないか。

「才能はある条件のもとで開花することをもって、
さかのぼって潜在的に「あった」とされるものであり、
永遠に開花しない才能は才能ではない。
そして、才能の開花には、ある人との決定的な出会いが、
ふと手にした一冊の本が、
ある偶然振りかかった体験が大きな手を貸していることがある。
だから、もしそのことがなければどうなったかわからないのだ。
主演俳優が突然倒れたために代役に抜擢されて、
その人の運命が開けることもある。
これが掛け値なしの真実である」(P89)


いや、それは違う。
それは博士がたまたま経験したことと見聞したことから合算された疑似真実にすぎない。
いうなれば、真っ赤なうそというやつである。
いま中島義道博士は成功者として誇っているが果たしていつまで続くか。
狂った愛読者(本当の哲学者)が、
中島先生ご自慢の博報堂勤務のご長男を殺めてしまったら、
博士がいままで誇ってきた真実などこなごなに砕け散るであろう。
まさかそうなってほしいと願ってはいないけれども。
犯罪者になるつもりはいまのところないけれども。

「生きる わたしたちの思い」(谷川俊太郎とmixi住人/角川MTGK)

→谷川俊太郎の有名な詩に「生きる」ってあるでしょ?
わたしは大学生のとき家庭教師先の小学生の国語教科書で知った。
いいなと打たれてすぐに書き写した記憶がある。
いま生きているということ――。それは○○と続けていくポエムだ。
いまはなき(まだあるの?)mixiとやらの(詩が好きな軟弱な)住民が、
谷川俊太郎に追随しようと詩を延ばしていった記録が本書である。
わたしはあたまが悪いので善悪や正誤ではなく、大部分を好き嫌いで即断するのだが、
ああ、こいつら大嫌いだと思った。
繊細ぶった自称詩人みたいな男女は殴ってやりたくなる(逆にいじめられるぞ、おまえ)。
とはいえ、こういうありきたりな詩人さんたちがまじめに正しく働いて、
まじめに正しく恋愛、結婚、育児してくれているから、
今現在のところ日本社会がぎりぎりのところで回転しているのもまた事実。
しかし、なんで自称詩人みたいな自称繊細なやつらはみんな正しい市民ぶるのかね。
本当に詩を作りたいなら繁忙期に無断欠勤して朝から酒でものんでみろと言いたい。
は~い、うそでえちゅ。
いま生きているということ。それは真っ赤なうそをつくこと。
命がけで真実を言わぬこと。

「夢と昔話の深層心理」(河合隼雄/小学館創造選書)

→昭和57年刊。
40を過ぎてから出世したかなり遅咲きの河合隼雄の、活躍初期の刊行物である。
本書で若かりし河合隼雄は、心理療法は相手に共感することが最重要だと述べている。
技法も理論もほとんど意味はないかもしれず、人は共感してくれる人の存在に救われる。
とはいえ、我われはなかなか他人に共感することができない。
なぜなら、体験が不足しているからである。
体験不足のためたとえば若者は老人に、男性は女性に共感できない。
貧困体験のない大学教授が貧困問題を論じているのはどこか空々しいのとおなじだ。
これは河合隼雄とは関係のない邪推だが、
教授先生もいっかい日雇い派遣にでも行けばいいのに怖くて行けないのだろう。

とはいえ、体験は宿命の制限をかなり強く受ける。
男はどうしたって女になれない。だれもが自死遺族になれるわけではない。
そうは言っても体験しないとなかなか相手に共感することはできないので困ってしまう。
このとき河合隼雄のすすめるのが、たとえば読書である。
いい小説を読めば、作者の人生をわずかではあるが疑似体験することが可能になる。
しかし、読書はどうしようもなく机上の空論で実体験からは程遠い。
ここにいたって河合隼雄の注目するのが、あのうさんくさい夜見る夢である。
たしかに夢のなかならば、我われも異性になることができないわけではない。
夢のなかであれば、いくら人を殺しても刑法上の罪に問われることはない。
にもかかわず、夢で見たことは疑いもなく当人の実体験である。
この体験を元手に相手にうまく共感することが可能になるかもしれないわけだ。
当方は河合隼雄信者でありながら、いまもって夢の価値を信じていないところがある。
夢なんてなんの役にも立たない偶然の産物だろうと思っている。
しかし、まったく役に立たないしさらさら意味がないからこそ、
逆に価値が生じることもないわけでもないのかもしれないと思い直した。

「ファンタジーを読む」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→本当のタイトルは「ファンタジーを読む」ではなく「現実を読む」だと思う。
我われはたいてい現実というものがひとつあるに違いないと信じている。
このため、あいつは現実を知らない、だの、自分は現実を知らなかった、だのと言う。
しかし、あるのはそれぞれの現実だけかもしれないわけである。
それぞれの現実を言い換えたらば、ファンタジーや物語になるような気がする。
我われはあるいは現実など生きておらず、
それぞれのファンタジーを夢心地で生きているだけかもしれないのである。
現実はなんだって起こりうるのかもしれない。
いくら世間では就職難と言われていようがあっさり仕事をゲットするものもいよう。
四十を過ぎた独身のおっさんがいきなり二十代前半の子と結婚することもありうる。
傍目には順風満帆な人生を送っているエリートが死ぬほど悩んでいることもないとは言えまい。
いままで楽ちん人生だったものがいきなり現世地獄に落ちることもある。
これまで友人のひとりもいなかった人が明日親友にめぐりあうかもしれない。
本当の現実はなにが起こるかわからないのだ。
ならば、それは現実ではなくファンタジーと呼ぶほうが適切ではないだろうか。
現実がファンタジーならば、それは創作ということだ。
もしかしたら夜見る夢のほうが現実で、現実らしきものは夢かもしれない。
すべてはじつのところ夢まぼろしで本当のところは存在していないのかもしれない。
本当なんてないもかもしれない。すべてウソかもしれない。

「夢か現実か、ウソか真実か、そんな分類にこだわる必要はないし、
こだわってみても、「そんなことだれにわかるだろう?」というものである。
大切なことは、そんな分類を超えて、
人が「私が見たもの」と真に言えることなのである」(P306)


どうしたらみんなの現実ではなく、自分だけの現実が見えるのか。
河合隼雄は「私の死」を意識することだと言う。
これはアジテーション(扇動)に近い。「私の死」を強く意識して生きてみろ。
そのとき世間的な損得や善悪、正否などどうでもよくなりはしないか。
「どうで死ぬ身の一踊り」と覚悟してヘタでもいいからひとりで踊ってみろ。
みんなから笑われてもいいじゃないか。

「死に対する自覚をもって人間が生きているとき、そこには
「何もかも前もって決められていたのだ」と思いたくなるような
不思議なことが生じる。というよりは、
ものごとのそのような側面がよく見えるようになる、と言ってもいいのかもしれない。
人間にとって、死ほど運命を感じさせるものはない。
「何もかも前もって決められている」ように見えるなかで、
人間としてできる限りのことをすること。
怖くてたまらなくとも、するべきことをやり抜くこと」(P119)


真実とは探し当てるものではなく、ウソを重ねる努力をして(ファンタジーのように)
創作するものと考えたらどうなるだろう。
このとき、ひとりではなくウソにつきあってくれる人がいたらどれほど幸いか。
小津安二郎の映画「東京物語」の老夫婦のようなものである。
「うちらもまあまあ幸福なほうじゃな~」
「ほんとそうですな~」
真実がなんだ。真実なんてどこにある。
どうせどれもニセモノに過ぎぬ真実めいた諦観や絶望で満足するよりも、
やれるもんなら死ぬまでホンモノの虚構である希望で自分を騙してみろ。
これが一見温和な河合隼雄先生の過激な遺言だとわたしは思う。

「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(西村賢太/新潮文庫)

→いまごろになってようやく芥川賞受賞作「苦役列車」の単行本に収録されていた
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」を読んだのだが、これがおもしろくてたまらなかった。
だいたい5ページに1回くらいの割合で大笑いしたのではなかったか。
いわゆる新人作家は日本にいらっしゃる数少ない読書家さんに、
芥川賞作品だけはかろうじて読んでいただけるのである。
しかし、その(おそらく)9割9分がそれだけで該当者への興味を残酷なまでに失う。
高度情報化資本主義経済(ってゆーの?)はかなしくもそういうものである。
だから、このため、兄事する芥川賞作家、西村賢太氏は偉大なのだ。
賢太さん、おまえ(失礼!)、正直、おもしろすぎるぞ!
私小説と銘うっている本作品に書いてあることすべてが本当で同時に嘘であるところがいい。
文壇ではむかしからじつのところいちばん偉かったのだが、
いまでは明々白々に出版界の最高権力者であることが露呈した編集者さんを、
たかがリーマンにすぎないじゃないかとバカにしているのが
どこまでも本当でしかも嘘でとてもよかった。
ここが最高によかった。以下引用文中の藤澤清造とは、
一流の芥川賞作家である西村賢太氏が敬愛しているとされる三流未満の物故作家である。
芥川賞作家はどんな有名作家も批判できない編集者さんにたてついてみせる。
こちとら実作者はサラリーマンにすぎない編集者なんかよりも偉い。

「――そりゃあ、そうさ。
何しろこちとらは、かの藤澤清造のお仕込みなんだからなあ。
そこいらの、何を背負って小説書いているのかサッパリわからねえ、
ただ編集者(リーマン)に好かれてよ、
売文遊泳してるだけの老人や小僧連中と一緒にされちゃ悲しいぜ」(P157)


西村賢太兄貴は、ダメ人間、人間のクズのおもしろさを小説内で体現している。
もちろん、そういうことができるのは実際はそうではないからなのだろう。
氏の住居1階にあるオリジン弁当まえで待ち伏せしていたら、
尊敬する賢太兄貴はサインどころか握手までしてくれそうなので、
そういう本当のことは知りたくないがためにとてもとてもストーカー行為はできない。

「乙女の密告」(赤染晶子/新潮社)

→日本人にもっとも知られた文学賞である芥川賞を獲得した作品である。
明日どんな小説だった? 
と聞かれたら答えられそうにないので今日のうちに読んだ感想を書いておく。
ワンセンテンスがやたら短いのが印象的だった。
こういう短文の積み重ねでも小説が完成するのかというのがせめてもの発見だった。
内容は世界的ベストセラー「アンネの日記」を下敷きにしているため、
批判めいたことを書いたら日本のみならず世界中の人権派からにらまれそうで怖い。
(だれもこんな過疎ブログを読んでいないのは存じあげておりますけれども)
ヒロシマ、ナガサキ、ブラク、ショーガイシャ、アウシュビッツはアンタッチャブル。
人権派の根本は、自分は人の痛みがわかるという壮大な勘違いだと思う。
しかし、そんなことをいったら小説を読むという行為までいかがわしくなってしまう。
もしかしたら読者は小説から他人(他者)ではなく自分を読んでいるとしたらどうだ?
そうだとしたら、小説にいっさい他者など書かなくてよいことにならないか?
小説には自分のことだけを書けばよろしいのだとしたら――。
「乙女の密告」が失礼ながらつまらなかった理由は、
作者が自分のことを赤裸々に書いていないからということになろう。

「99の接吻」(鹿島田真希/河出書房新社)

→いい小説なのでたいへん満足した。久しぶりに精神のぜいたくを味わった。
芥川賞を受賞した「冥土めぐり」よりも(愚かなわたしには)
こちらのほうが十倍以上もいいと言いたくなるくらいだ。
なにがいいのかといったらエロいところである。
著者や関係者をみな殺しにしたらこの仮説も信憑性が出るだろうが(しませんって)、
この小説を書いたのはどう考えても男としか思えないので困る。
はっきり言うが、通常は女流の書いた性描写ほど興ざめするものはないのである。
老害選考委員たちはなぜか女の書いた性描写に高得点を与える傾向にあるようだが。
でもさ、いいかい、しょせん女なんか男の妄想のなかにしかいないのだよ。
女は男の妄想を演じていればいいのに、昨今の女は人権意識のせいでだめになった。

だが、しかし、けれども――。
鹿島田真希氏の傑作エロ小説「99の接吻」を読んで時代はここまで来たかと思った。
鹿島田氏の妄想する女は、
いまAVを見慣れた男がイメージする女よりもはるかにエロくてとてもいい。
著者が男よりもよほど同性たる女に希望を持っている、
俗な言い方をすれば欲情しているのが本当にすばらしい。
とてもいい小説を読んだと思う。

余談だが、小説に客観的感想などあるのだろうか。
わたしはこの小説の舞台を身近に知っているからおもしろかったこともあるのだから。
正直に白状すると、関西が舞台の小説というだけで親しみを抱けないところがある。
とはいえ、フランスが舞台というだけで仏文学を称賛するアホもおられるから、
どこまでも文学作品の評価というのは恣意的(たまたま偶然)と言わざるをえない。

「冥土めぐり」(鹿島田真希/河出書房新社)

→皮肉でもなんでもなく芥川賞を受賞するにふさわしい佳作だと思う。
テーマのはっきりしているところが万人受けしやすいところだろう。
文学賞も結局は多数決の世界だから、
一部から熱烈に愛されるものよりも嫌われないものが陽の目を見ることが多いのは、
もはやそういうものだと思うしかない。
モヤシ男の書いたインチキ暴力レイプ小説などよりよほどいい。
現代文学にかぎれば、これは認めたくないが、男よりも女の書いた小説のほうがいい。
理由はおそらく、男はくだらない観念や思想で小説を書くのに対し、
女はパートの時給感覚を失わぬままに自分の言葉を追及しているからだろう。
「冥土めぐり」も作者のなまの言葉がじつに心地よかった。
こんな小説を読んでいる工員やスーパー店員がいたら、
どんなに人間全般が信じられることか。
いい小説だからこそ、わたしの感覚との相違を書きたくなる。
強調したいが、これは著者とわたしのどちらが正しいというわけではない。
芥川賞作品「冥土めぐり」は善悪がはっきりしすぎているのがわたしには不満である。
この作品において善は脳卒中かなにかでベジタブル(植物、草食)に近づいた夫。
反対の悪は、世間の評価に振り回され、虚飾の贅沢や散財を好む母や弟である。
たしかにそういう意見はもっともだと思うが、あまりに善悪を断定しすぎる。
わたしも著者とおなじで俗物的な価値観は大嫌いだが、
そういうものの見方にもまた一理あることも最近知ったので複雑である。

ともあれ、芥川賞作家の鹿島田真希氏の主張を紹介しておこう。
読書家はみな気づいていないが、世の中の大半の人は本なんて読まないのである。
1年に実用書の10冊でも読めば立派なくらいといってよい。
世間の99%の人は課題図書でもないのになんの役にも立たない小説を読んだりしない。
いくら芥川賞作品とはいえ、ネットの評判だけで語るのが忙しい日本人なのだ。
これはみんな忙しいのだからやむをえないことだと思う。
わたしもいまちょっとばかり忙しいので著者の顔さえ検索していない。
さて、芥川賞作家の鹿島田真希氏が叩くのは、むかしの価値観にとらわれた幽霊である。
むかしの一流ホテル、一流ブランド、一流グルメ、一流になる夢――。
あらゆる一流なるものは、いうなれば幽霊ではないか。
一流の幽霊なんかよりも脳卒中(?)で赤子のようになった夫のほうがいい。
世間よ、おまえらにアッカンベエだ!

「本当に辛いのは、死んだのに成仏できない幽霊たちと過ごすことだ。
もうとっくに、希望も未来もないのに、
そのことに気づかない人たちと長い時間過ごすということなのだ」(P47)


ならば、どう生きよと芥川賞作家は言うのか。
「冥土めぐり」の主人公、奈津子はどう生きているのか。

「奈津子はすっかりあきらめていた。なにもかもあきらめていた。
そして、自分の身に起こる、理不尽や不公平、不幸について、
なぜそんな目に自分が遭わなければならないのか、よく考えることもしなかった。
なるべく見ないようにして生きた。
それは直視しがたいことであり、もし見てしまったら、
血すらも流れない、不健全な、致死の傷を負うことになると知っていたからだ」(P48)


あきらめて生きていたら、
なぜかいまをときめく一流の芥川賞作家になってしまった鹿島田氏の叫びだ。
めんどうくさいのでプロフィールもろくに見ないで稚拙な感想文を書いている。
いまちらっと見たら、ああ、見なければよかった。
一流の成功者である著者とわたしは同年生まれであった。
くうう、こういうことを知っちゃうと、いろいろあきらめきれねえぜ。

「共喰い」(田中慎弥/集英社)

→芥川賞作品。やけに古臭い、文学ぶりっこ、男の子ぶりっこの激しい小説だ。
だれも知らないだろうけれど、まるでむかしの映画「祭りの準備」めいた既視感が。
芥川賞作家で受賞歴多数で、有名人かつ文化人、さらに文士の著者はわたしと同世代だが、
だからこそ氏がある種の男の子ぶりっこをしているのが痛いほどわかってあわれである。
だよね、タナシン、いまは女が強くなりすぎてうんざり、げんなり、それわかります。
女をボコボコにしたり、レイプしたいという決してかなわぬ願望を、
実現できぬからこそ小説に書きたがる著者の切実さには胸を打たれる(注射針くらい)。
まったくまったく、自分の言いなりになる女に向かって
性欲のおもむくままにこんなこと言えたらいいよね、タナシン。
おい、こら、おんな!

「下に入れさすんがいやなんやったら、口でしてみい。
お前ん中に入れられるんやったら上でも下でもいい」(P33)


これは著者の文学的表現(虚構)というやつであろう。
本音は「贅沢は言いません。上でも下でもいいのでお願いします」なのが透けて見える。
モヤシがボディビルにはまって切腹するのが日本文学であるから、
芥川賞作家の田中慎弥氏は将来国語便覧掲載間違いなしの優秀な作家だと思う。
おまけ収録の「第三紀層の魚」はまるで意味がわからなかったから、
これもやはり純文学作品と呼ぶにふさわしい傑作なのだろう。

今日はエイプリールフールだから本当の話をしよう。
ぶっちゃけ、いろいろ追いつめられていまアルバイト生活なんだわ。
先月末はラッキーで29、30、31と消費増税に踊らされた世間様から、
なにもしないでいい日給1万円のかなり楽なお仕事をいただいた(交通費別途全額支給)。
明日からは時給850円の派遣バイト。
派遣だからいつ切られても文句は言えない。
本当の話をすると、時給1000円どころか900円のバイトにも複数落とされているから。
これは笑い話だけど、いわゆる日雇い派遣(登録)からも落とされたことがある。
むろんのこと、いまさら正社員待遇など求めてはいない。
アルバイトでもその日食えたらそれでいい。考えることなく単純労働でもできたら幸いだ。
しかし、その900円の安定した直接雇用アルバイトさえも得られないのが37歳男性の現実だ。
明日の派遣バイトは履歴書に正直に「職歴なし」と書いたのにもかかわらず、
お声をかけていただいたのだからがんばらねばと思う。
明日オンリーで切られてしまうかもしれないから、バイト探しは真剣である。
どうやら公開されないアルバイト求人というのがあるように思われる。
いまはアルバイト採用1人でも数十人が応募してくるのがざらだという(競争過剰)。
エイプリールフールだから勇気を出して書くが、表に出ないバイト求人はございませんか?
雇い主様のみならず、いまバイトをなさっている方からのご紹介でもありがたいです。
当方、当たり前ですが年下にも敬語を使えます。まずは面接をお願いします。
不採用でも面接していただけるだけでも37歳職歴なしには感謝、感謝、大感謝です。
最近、知り合った人から教えてもらったのですが、
なんでもネット検索したらうちの住所くらいすぐ出てくるとのこと。
ならばと公開しますが、いま東京板橋区の浮間舟渡に居住しています。
どうか通勤可能範囲内で。
ああ、べつに日本に義理があるわけでもないので、バイト勤務地が海外でも構いません。
世間がそんなに甘くないのはよく知っていますが、
エイプリールフールということで冗談半分に記事にしました。
冗談半分、ご連絡をお待ちしています。

土屋顕史
(連絡先)yondance1976@gmail.com