「月日の残像」(山田太一/新潮社)

→今年80歳になる脚本家の最新エッセイ集を読む(季刊誌「考える人」連載)。
おそらくこちらが間違えているのだろう。人間としての出来がよくないのだ。
どこがおもしろかったか思い返すと、山田太一さんの黒い部分なのである。
自分の悪口を言われていたんではないかと猜疑心をめぐらすところ。
俳優やテレビライターからの言葉に多少被害妄想的な感想をいだき、
すぐに人間なんてそんなものだと自省するところもいい。
人間嫌い、人間不信、孤独好きがどこか透けて見える世捨て人めいた感性もおもしろい。
友人の成功に嫉妬を隠せない西洋文学者の日記に深々と共感するところも味がある。
結局、どうしようもなく人間は自分というものを通してしか他人を理解できないのだろう。
いや、理解したというのは嘘で本などいくら読んでもじつはなにもわからないのだ。
本ばかり読んでいてもなにもわからない。
しかし、どうせすぐに忘れると思いながら本を読むのは楽しい。一文を引く。

「どうも私は人間の悪いほうの現実を信じがちなところがあるようで、
それもまた一種の感傷であるからむずかしいものだと思う」(P166)


一見すると、世間を甘く考え人間のよいほうの現実を信じることが感傷に思われるが、
期待が裏切られたときのことをあらかじめ想定して、
用心深く人間の悪いほうの現実を信じるのもまた感傷なのか、そういうものなのか、
といまこの箇所で立ちどまってどういうことなのだろうと考えている。
いくら本を読んでもわからないことがあるのだと実感する。

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「天風先生座談」(宇野千代/廣済堂文庫)

→宗教家の中村天風はいかにもペテン師然としていていい。
ここまで大きく法螺を吹いてくれると聴衆も楽しかったのではないか。
アメリカで極秘に医師の資格を取ったとか、優秀な軍事スパイで人を大勢殺したとか、
まるで大衆娯楽小説のようなフィクションの世界を地で生きておられる。
極めつけはインドの山奥でヨガの師匠から最高真理を教わったというところだ。
やたらもったいをつけて真理の伝達をじらすのも法華経みたいで悪くない。
教えの内容はくよくよ考えずになるべく明るく笑っていよう、である。
なーんだ、そんなことと思われる方も多いだろうが、結局そんなものなのだろう。
しょせん幸福は自己申告なんだから、くよくよ考えずに明るく笑おう。
インドの山奥まで行って悟った内容がそれかよとバカにしてはならない。
実際くよくよ考えないで明るくしているのがどれほど難しいか。

「生長の家の信仰について」(谷口清超/日本教文社)

→新興宗教団体「生長の家」第2代総裁の書いた教団入門書を読む。
「生長の家」とはちょっとばかりの因縁があるのである。
父方の祖母が熱心な「生長の家」信者だった。
満州から子だくさんで引揚げてきた寡婦の祖母はくだらない新興宗教にはまったようだ。
思えば、家族仲良しなど人生で一度も経験したことがなかった。
母と自称「神の子」(←生長の家)の祖母との抗争が絶え間なかった。
だから創価二世、三世ほどではないが、わたしも新興宗教の被害者のひとりである。
もちろん、被害者ぶることのうさんくささは知っているけれど。
子だくさんで独り身の祖母は新興宗教にでもすがらなかったら生きていけなかったのはわかる。
おなじく貧困階層出身の母が「神の子」を自称する姑を嫌った気持もよくわかる。

それにしても本書を読むと「生長の家」はひどいよなあ。
教義はキリスト教でも仏教でも神道でも、あらゆる権威を取り込んでいる。
金づるの信者さんの病気が治ったという自慢話や、仕事が成功したというドヤ話ばかり。
うちを信じれば「思った通りになる」というのが根本思想のようだ。
思ったようにならないのはおまえが間違っているからだという脅迫は当たり前のようにある。
薄っぺらい善悪観も最低だが、無学な庶民はこういう断言に恐れをなすのだろう。
いわく、事故に遭ったり、病気になったりするのは、過去の悪業のたたり。
そんなことあるわけないっしょ。すべてが偶然よ。たまたまたまさか理由なし。

こんなひどい本を読んだことはない。
これに比べたらゴーストライターが書いた池田大作さんの本でも傑作レベル。
しかし、こんなチープなものにだまされてうまく幸せに人生を終えられる人もいるんだからなあ。
祖母は最後まで自分こそ正しい善良な「神の子」と信じたまま寿命をまっとうした。
もしかしたらいまぼくがその迷惑をこうむっているのかもしれない。
でも、祖母が「生長の家」で救われたから父もまっとうな人生を送れたわけだから、
そう考えると「生長の家」がいいとも悪いとも言えなくなってしまう。

「歎異抄の謎」(五木寛之/祥伝社新書)

→ぼくってサイコパスなのかなあ?
たしかに人の気持がわからないところがあるし、善悪の観念もゆるい。
もしそうだとしたら1%くらいは「歎異抄」に責任があるのかもしれない。
母の投身自殺以後、何度も何度も数えきれないほど「歎異抄」を読んでいる。
ゴーストライターの唯円が書いた親鸞の「歎異抄」から一文を選べと言われたらここだ。

「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」

自分には善悪はわからない。
なぜなら悪といっても仏さまの目から見たら、そうではないかもしれないからだ。
いくら善行を誇ったところで、それは仏さまから見たら悪かもしれないではないか。
この論理を貫くならば、自殺が善か悪かもわからないことになる(自死遺族は救われる)。
そしてサイコパスだと言われてしまうかもしれないが、殺人の善悪もわからない。
ぼくが殺人をしていないのはたまたま運がよかったからかもしれないと思ってしまう。
もし宅間守として生まれてきていたら、彼とおなじことをやっていたかもしれない。
いま善人ぶっている人たちだって、もし宅間守として生まれてきたらどうだろう?

長らく過疎ブログでゴーストライターの唯円は親鸞よりも偉いと主張してきた。
先ごろある本を読み、梅原猛さんが河合隼雄との対談で、
唯円のほうが親鸞よりもあたまがいいと発言しているのを知って嬉しくなった。
親鸞や子孫の蓮如からは「全聾の作曲家」佐村河内守氏めいた悪臭がプンプンする。
いまの親鸞人気なんてすべてはゴーストライター唯円の功績ではないか。
こんなことを書くとまたサイコパス疑惑が生じるのかなあ、ぐすん。

「詩の楽しみ 作詩教室」(吉野弘/岩波ジュニア新書)

→1月に87歳(すげえ!)でお亡くなりになったらしいから追悼読書をしてみた。
死んだ人の悪口を言うと品性を疑われるから、これは困ったことになったぞ。
作者の詩ではなんとか自分の感受性をごまかしていたが雑文はだめである。
ごめんなさい。わたしはお亡くなりになった吉野弘さんが正直あまり好きではないんです。
「詩作とはある対象を個性的にほめること」という定義からして、はあ?
目が見えない少年少女に過剰に同情して自分の善人ぶりに酔っているのも、げえ!
吉野弘さんがいいとほめる少年少女の詩のどこがいいのかさっぱりわからない。
いかにもガキが大人にほめられようと計算して書いている詩をそのままほめるんだぜ。
全体的に左翼くさいし説教くさいのだが、この悪臭には耐え切れない。
最後にはドヤ顔で自分の詩を激賞しているのだが、いくら偉くなっても羞恥心を持てよ。
しかし、山田太一さんもほめている詩人のほうがわたしよりも正しいのは疑いえない。
以上の感想はすべてわたしの間違った誤りの、採点すれば0点になるものである。
お亡くなりになったとても偉い詩人さんから百点満点の創作作法を学ぼうではないか。

「詩を書きたくなるいろいろな場合のうち、とくに私の気持ちが動くのは、
簡単に言うと、〝何かに気付いたとき”です。
〝何かに気付いたとき”というのは、それまでの私の物の見方や感じ方に
〝揺れ”ないし〝ずれ”が生じて新しいことに気付こうとしている状態、
あるいは、それまで漠然としてわからなかったことの
意味に気付く状態ということができます。
それを私は〝固定観念のズレ現象”というふうに名付けています。
固定観念は、言いかえますと、
決まりきった物の見方・感じ方であり、決まりきったやり方です。
それが、ほんの少しでもずれると、
物事の新しい面が見えてきて、私に詩を書くように促すのです」(P169)


(関連記事)「吉野弘詩集」

「偶然とは何か ――その積極的意味」(竹内啓/岩波新書)

→難しいのでよくわからなかったが、わかった範囲で自分の言葉で説明する。
われわれは生きているかぎり選択する。
この選択の結果、幸福になったり不幸になったりするわけである。
人生の幸不幸をわけるのは偶然だが、
この偶然はいまは確率として一見すると可視的になっているような気がするかもしれない。
つまり、こういうことだ。

[選択]→確率×結果のもたらす利益=期待利益

われわれはだいたいの利益を想像して確率をかんがみ選択する。
たとえば、A子は金持の娘でどうやらおれに気があるようだからプロポーズしてみよう。
結果はまあ偶然で決まるわけだが選択の仕組みはこうである。
競馬もそうでしょう。おおよその確率と利益を天秤にかけて馬券を買う。
ところが、である。この選択の機能にはいろいろ厄介な事情がある。
まず確率の問題である。確率は本当にわかっているのかという問題がある。
われわれは選択するとき、だいたいの確率を計算するがそれは客観的なものか?
客観的な確率などサイコロくらいのもので人生の選択肢における客観確率は存在しない。
つまり、みんな主観確率(心理確率)でしかないのである。

[人生]→主観確率×結果のもたらす利益=期待利益
[サイコロ]→客観確率×結果のもたらす利益=期待利益


さらに言えば、人生においては「結果のもたらす利益」も主観的判断でしかない。
どのくらい利益が上がるかというのはやってみないとわからないということだ。
さらに、である。人生の場合、選択者が時間とともに変わることもありえる。
人間が求めるものは時間とともに変わっていく。
若いころは美しい妻を希望していても、年を取ったら優しい妻を望むかもしれない。
そう考えると人生における選択は、合理的な確率計算では表せないことになる。

[人生の選択]→主観確率(?)×結果のもたらす利益(?)=期待利益(変化する)

一般的に現代では運や不運をコントロールできるという錯覚がはびこっている。
このとき偶然は不確実性、損失はリスクと言い慣らされている。
だが、上記の式を見たらわかるよう偶然はまったくコントロールすることができない。
確率といっても大概は主観的なものだし、結果のもたらす利益もじつはよくわからない。
期待利益とはいえ、時間とともに変化するものである。
若いときは高収入が魅力で入社しても年を取ったら時間の価値のほうが高まるかもしれない。
同様、主観確率ごときでリスクをコントロールできると思ったら大間違い。
確率の低い難病にどうしてかなってしまう人もいるし、交通事故に遭う人は遭うものだ。
いくら確率を学問的に見たところでしょせん偶然に左右されるのが人生というもの。
リスクマネジメントなんて学問的に見たらできるはずもない。
確率1%なのに成功するものがいれば、80%の確率なのに失敗するものもいる。
あらゆる成功や失敗をわけるものは、じつのところ確率ではなく偶然である。

そもそも確率からして怪しいのではないか。
というのも、確率というのは頻度でしかないのである。
多数回、選択を行なってはじめて確率どおりの結果がもたらされる。
一回きりの選択の場合、頻度にすぎぬ確率はまったく結果に影響しないとも言いうる。
言い換えれば、確率は一回きりの事象には適用できない(かもしれない)。
また、たとえ確率に意味があるとしてもどうだろうか?
客観確率は何度も実験してみないと出てこないのである。
人生の選択はどれも一回かぎりだから(初婚、就活)何度も試行して確率は出せない。
一般的に客観確率のようなものが出ているものがあるかもしれない。
たとえばいまサイコロで5が連続して7回連続出ているというような。
この場合、いままでの試行では5の出る確率が100%だからと5に賭けたらどうなるか。
無限回の試行をしないと正確な客観確率は出てこないのである。
いま目に見えているような確率モドキは、たいへんな偏りのあるものかもしれない。
さて、話を戻して、われわれはいまどういう現実に向き合っているのか。

[人生の選択]→主観確率(?)×結果のもたらす利益(?)=期待利益(変化する)

いまの確率も主観的かつデータ不足のためインチキだし、
将来の自分の価値観はわからないから期待利益も当てにならない。
ならば、どう選択したらいいのか? たとえば、結婚はどうしたらいいのか?
これは著者も力説していたが、結婚は確率や利益など考えずに好きな人としたらいい。
リスクマネジメントなんて考えながら結婚するものではない。
そもそも確率だってあやふやだし、将来どうなるかなんてだれにもわからない。

以上、各個人の人生における偶然は確率ではとらえられないということを見てきた。
社会における偶然による運不運はどうしたらいいのか?
ここで著者のすすめるのが助け合いである。
人生はまったくの偶然によって金持になるものがいれば、
同様まったく偶然でしかない理由で貧困や病気に落ち込むものがいる。
これは努力が足らないためではなく偶然だから、
富裕層が貧者や病者を経済的に助ける社会のシステムを構築すべきである。
比較的わかりやすいので、ここは著者の言葉を引用してみよう。

「また自由主義経済学者は、自由な市場経済の結果はすべて自己責任であり、
それについて不満をいったり、あるいはそれを是正するような政府の干渉を
求めたりすることは、「市場の効率性」を損なうものであるという。
しかし、どのような社会においても、
人間は親から受け継いだ遺伝子や生まれた環境に大きく作用[左右では?]され、
それらは多く偶然といわざるをえない。
「市場競争」の結果もまた多く「偶然」に影響されるものであるとすれば、
その結果は常に各人の自己責任に帰すべきであるということも成り立たないはずである。
「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないもの
であるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、
他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、
道義的に正当とはいえないだろう。
「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって、
「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。
そうしてそのことが人々の間の共感を増すことになれば、
それはただ与える側の人のマイナス分が、受ける人のプラス分に等しくなるという
ゼロサムゲームではなく、人々の満足分の和が増大する
プラスサムゲームになるであろう」(P168)


いまなんだか周囲がみんな変化する気配を感じている。
新宿にある大好きだった古本屋、国島書店が営業を終了してしまった。
うちの近所のひいきにしていたブックオフも閉店して、また新たな店になるようである。
グーメールも本日11時をもって無料サービスを終了する。
このブログへのご意見、ご批判の受付にしていたのがグーメールである。
いろいろなお立場の方からメールをいただいたが、どれもじつに思い出深い。
わたしなぞにご関心を持ってくださった方がいらっしゃるのが嬉しかった。
ここだけの話、当時はいろいろやばいことを
相手によってはわずかながら生意気にも思いはしたが(むかつくふざけんな←てへぺろ)、
いまは感謝の念のほうがじゃっかん強いような気もする。
結局、人と人の関係のなかにしか希望の香りはないのかもしれない。
新しいメールアドレスをつくりましたので、
これからもなにかございましたら↓こちら↓によろしくお願いします。
いままでのアドレスは終わってしまいました。
ああ、変わろうと思わなくても変わってしまった。

(新しい連絡先)yondance1976@gmail.com
「年寄りは弱虫なンかがなれるもンじゃねえ」(小池一夫/小池書院)

→有名な漫画原作者らしい著者の創作ノウハウ本である。
著者の名前でネット検索すると「詐欺」の二文字が出てくるのが、なんともリアルで……。
なんでも創作の私塾のようなものを開き、その生徒にいろいろやんちゃをしたらしい。
デビューしたかったらこれだけの金を払え、うんぬん。
結局、これがいちばんおいしい商売なのである。
みんなから尊敬してもらえ、自分は絶対権力者として振舞え、なおかつお金も儲かる。
詳細はよく知らないが、
小池一夫氏の私設スクールはシナリオ・センターなどよりはるかにましなのではないか。
シナリオ・センターは脚本など一度も書いたことのない
創設者の血族が偉そうに創作の指導をしているのだから。
そういうのにだまされてしまうお客がいまも大勢いるのである。
そもそもフィクションの快感とは、だまされる悦楽である。
そうだとしたら、詐欺疑惑のある著者のような怪しげな人は
ついつい本物だと思いたくなってしまう。
結局、虚業というのはいかに人をうまくだますかではないだろうか。
どのようにだましたらいいのか。どうしたら読み手に評価されるか。
人気漫画原作者で詐欺師(このふたつは矛盾していない)の著者は語る。

「いい物語(はっきり言ってしまえば売れる作品)とは、多数の読者一人一人に
「ここには自分のことが書いてある」「自分とこの書き手は同類だ」
と思わせることが出来る作品であると僕は考える」(P158)

「テレビドラマ等で、視聴者の反応を見て脚本を変えるというが、
それはもう表現者としての仕事ではない」(P161)


本物っぽい気がするんだけどなあ。詐欺師の疑いもあることからよけい本物くさい。
たぶん本物はかなりのところうさんくさい、いかがわしい食わせ者なのだと思う。

「ダマす人、ダマされる人の心理学」(樺旦純/PHP研究所)

→1938年生まれ、高卒の心理学者、樺旦純氏のご著書をとてもおもしろく拝読する。
だれがいつどういう理由で、
大学を出ていないものは学者を名乗ってはいけないと決めたのだろう。
学者とは、学ぶ者である。
ならば、著者のように俗っぽいが現実に役に立つ心理学を求めているものは
心理学者でいいのではないか。
いったいどういうわけで人は大学出の学者しか認めないのだろう?
それこそまさになにかにだまくらかされているのである。
本書は俗世間で通用しそうなだましのテクニックがいろいろ書かれていておもしろい。
間違いなく研究室で発見されたものではなく、娑婆世界での体験から生まれたものである。
つまり、本物ということである。
しょせん俗世間はだますかだまされるかゆえ(悪い意味でも、いい意味でも)、
これらの知識は知っていても悪くない。惜しげなくわたしが参考になったところを紹介しよう。

・選択肢のだましがいちばんおもしろかった。
たとえば10時を示す時計の絵を被験者に一瞬だけ見せる。
このあとに時計は何時を示していましたかと聞く。
このときに「9時でしたか、3時でしたか」という嘘の選択肢で聞くと、
たいてい相手はそのどちらかで答えてしまうとのこと。
人は選択肢そのものを疑えないようにできているのかもしれない。
だとしたら、答案の選択肢のどれにも丸をしないのが正解であるときもあるのかもしれない。
われわれは選択肢を出されると、
ついついそのどれかが答えと思ってしまうような自信のなさを内に秘めている。

・これはわたしもだまされやすくもうどうにもならないと思っているが、
品薄感を出されるとついほしくなって買ってしまうのである。
希少価値ほど人を喜ばせるものはないのかもしれない。
みんながほしがっているという情報にどうしようもなく左右されてしまう。

・禁止をすると人は興味のなかったその行為をしたがるというのは経験から本当だと思う。
見てほしかったら「いやん、見ないで」というのがいちばんいいのだろう。
わざとパンチラして「見たな」と言ってすぐに隠すような行為が人をいちばん刺激する。
人は禁止されているものを禁止されているからという理由で好むようなところがある。
大麻なんて解禁してしまえばアルコール以下だとばれて、
だれも関心を持たなくなるかもしれないわけである(当方残念ながら大麻未経験)。
いまはネットのせいで台なしだが、
モザイク(無修正禁止)は絶対に押し通すべきだったと思う。
禁じられているから、みんな男はあそこに興味があったのである。
「学校に行くな」と命令したら、けっこう不登校児も心理的にあせるのではないかと思う。
パチンコ依存症の患者にいちばん言ってはいけないことは、
「一生のお願いだからもうパチンコだけはやらないで」
であるのはさすがに言うまでもないだろう。

世間知にまみれただましの技術がとてもおもしろかった。
心理学者の著者もにおわせているが、だまされるのはある面でとても楽しいのである。
死ぬまであることにだまされていたら、こんな幸福なことはないとも言いうる。
わたしは高卒の心理学者、樺旦純氏は
そこらの大学の心理学研究者よりよほど本物ではなかったかと思う。

「ひろさちやの古寺巡礼」(ひろさちや/小学館)

→人のプライベートっておもしろいよね。好きな人のことはなんでも知りたい。
ひろさちやさんも人生、途中までは出世コースを歩んでいたんだなあ。
ひろ先生は東大のインド哲学で大学院まで行っている。指導教授は中村元。
博士課程在学中には鈴木大拙が英語で発表した「禅仏教入門」を
日本語に訳す仕事をやったことがあるらしい。
その仕事を斡旋(あっせん)してくれたのは古田紹欽だったとのこと。
古田紹欽は鈴木大拙の弟子。そうとうな顔ぶれではないか。
しかもひろ先生はうまいこと古田紹欽に結婚の媒酌人を引き受けてもらった、
いいところまで行っていたのである。
ところが、ひろ先生は仏教学者にはならず怪しげなライターになってしまった。
どうして道を踏み外してしまったのか(失礼!)。
おそらく、こういうことに気づいたからであろう。

「われわれは普段、損か得かばかり考えて生きている。出世競争に明け暮れている。
でもさ、大きな大きな宇宙の中では、われわれの損得計算はなんとみみっちいか。
たとえ百年生きようと、宇宙の尺度では一瞬でしかない」(P10)


あるかどうかわからない真実を追求するよりも、嘘を信じる楽しさに気づいてしまった。
ライターのひろ氏は仏教学者と対談していて、極楽浄土はあるかどうか問われたらしい、
死後の極楽浄土はあるかないかの真実は、学問では追及できない問題である。
この仏教学者の問いに肩書ゼロのライターひろさちや先生はどう答えたか。

「極楽浄土があるか・ないかといった発想がナンセンスだ。
極楽浄土はあるべきか否か、と、そう問わねばならない。
そしてわたしは、お浄土はあるべきだ――と信じている」(P137)


ひろさちやさんはそう信じているが、他の人にはおなじものを求めていない。
なぜならば、「こうであってほしい」という願望は人によってそれぞれだからだ。
死後は無であるべきだという人の信仰心(?)もひろ氏は認めておられる。
科学によると死は無になるらしいが、そう信じるのもまた構わない。
科学でさえひとつの宗教であることをライターひろ氏は見抜いていたと思う。

ひろ先生は本書の取材のため夫婦で京都に行く(仲がよくてお素晴らしいこと!)。
京都の龍安寺の庭には、15個の石が置かれているらしい。
ひろさちや夫婦がそこで一服していると――。
タクシーの運転手に連れられた修学旅行生がやって来たという。
ガイドも兼ねているタクシー運転手がこう説明する。
ここ龍安寺には15個の石があるけれど、
どの位置に立って眺めても全部の石を見ることはできない。
このあとにタクシー運転手がこう説明したという。
ふつうならばここは高僧のセリフにするのだろうが、
タクシーの運転手を語り部として設定する受賞歴ゼロのライターがわたしは好きだ。
運ちゃんいわく――。

「なんで、こんな庭をつくったかというと、仏教の考え方では、
われわれ人間は真実を見ることはできない――と教えているんです。
人間はみんな、ちょっとずつ違ったふうに見ている。
そやから、自分が見たものだけを真実やと思うな!
他人が見ているものをまちがいやと思うな!
そういう禅の教えが、この庭に表現されてるんですよ」(P127)


ひろさちやさんのこういうところ、とてもいいと思う。
十中八九、これはタクシーの運転手が本当に言ったことではない。
しかし、そういう運ちゃんがいてくれたらどんなにいいか。
悟ったふりをした俗物の高僧が言うよりも、タクシーの運転手が言ってくれたらいい。
ひろさんが自分の言葉で言うよりも、タクシードライバーのセリフにしたほうがいい。
「言ったか・言っていないか」を問題にすべきではないのだろう。
「俗世間にもまれた運ちゃんこそ言うべきだ」と宗教ライターは思った。
だったら言わせてしまえばいいではないか。
なにが真実なもんか。だれも真実なんか見ていないぞ。
このように啖呵を切る薬屋の息子のひろさちやさんは本当によろしい。
ひろさちやさんの学問的業績はなにもないが、
たくさんの偽薬を発明して多くの人を救って(騙して)くれた。
しかし、どうしてそれらが偽薬であろうか。
効き目があったらばその薬は本物と言うほかないではないか!

「ウソの論理」(ひろさちや/中公文庫) *再読

→35年まえの本だが名著だと思う。宗教ライターひろさちや氏の原点ではないか。
ウソに対する考察がじつにおもしろいのである。
ひろ氏はウソのおもしろさをよく知っている。
・歴史上、どこかにウソをまぎれ込ませたらウソが踏襲されて本当になってしまう。
・よく効く薬だと小麦粉を丸めたものを与えても病気は治ることがある。
・高層ビルの作業員は命綱が取れていても教えてはならない。
・「ぼくは人生で一度もウソをついたことはない」というウソ。
・悪だくみがあってもばれないあいだはウソではないこと。
・狼少年のようにばれてしまったら、いくらウソをついてもウソにはならないこと。
・「真理は言語によって伝達できない」は言語によって伝達しているという矛盾。
・これは「私はウソつきだ」とおなじパラドックスである。
・このパラドックスを解く方法が書かれていたがバカのためよく意味がわからなかった。
・「隠すより現る」。本当のことを隠そうとするからウソが生まれる。
・しかし、そのウソによって本当のことがばれることも多々ある。
・戦中の新聞の日本大勝利のようなウソは、
報道する側がそうすることが「正しい」と思っているため始末が悪いこと。
・人間はそれが「正しい」と思えばいくらでもウソをつける怖さ。
・ひとつの事件を目撃した複数の人に報告させたら、どれも異なっている。
・ならば、本当の「正しい」歴史なんてあるのか?
・立場が違えば、おなじ写真でも人は違ったものの見方をする。
・人間はみずからの意見・欲望・願望でもって世界を着色しているところがある。
・色覚異常(色盲)の人はウソをついているのか?
・色覚異常の人は他人とは異なった色を見るが、それはウソではないこと。

ひろさちや氏は色覚異常なのだが、先生のおもしろさの源泉はここにあるようだ。
ひろさんには白に見えるものが奥さまには青に見えることもあるという。
このとき色覚異常のひろさんはウソをついているのか。
正真正銘、真実としてひろさんには白に見えているのだからこれはウソではない。
果たしてこういう問題は正常者と異常者のあいだにのみ発生するのか。
もしかしたら、すべてにそういうことが当てはまるのではないか。

「正常者どうしのあいだでも、二人の人間が同じ色を見ている保証はないのである。
二人の人間は、いつだってそれぞれの色を見ている可能性がある。
そのことを、わたしはここで改めて確認しておきたい。
人間はそれぞれ勝手な世界をつくりあげている。
だとすれば、いったいなにが真実なのか?
そして、同じことだが、なにがウソであるのか?」(P212)


「空海入門」(ひろさちや/中公文庫)

→歴史上よくわかっていない人ほど
自分を投影して好き勝手なお話を作れるからおもしろいのだろう。
そうではなかったことは証明できないのである。
ひろさちやさんも本書で自由気ままに自分の思想を空海に託して語っている。
空海といえば梅原猛さんが河合隼雄との対談でおもしろいことを言っていた。
空海は密教を中国で恵果から教わったことになっている。
この恵果は密教にいちばん詳しい不空のいちばん弟子である。
梅原さんは、これらすべてを空海による創作だと言い放っていた。
出世するために壮大な嘘をついたと言うのである。

ひろさちやさんも本書で空海を食わせ者だと言っているのがおもしろい。
ひろさんも梅原さんもどことなく食わせ者の香りがするのもさらにおもしろい。
人は空海の思想なら納得するというのなら、
空海のほうを偽造すればいいと考えるのが食わせ者の特徴である。
空海に便乗して(権威を借りて)自分を売りだせばいいのである。
河合隼雄がユングの名義を借りてやったことは、
じつはおおむかしに空海がやったことだったかもしれないのだ。
ひろさんは空海の幸運をこう分析している。空海のなにがよかったか。
あれこれ迷わず運命の流れに任せてしまったところがよかった。
どうしたら空海のように没主体的に任せた姿勢で生きられるか。

「無欲と正直――。この二つの条件がないと没主体的には生きていけない。
そして、空海には、二つの条件が完全にそなわっていた。
そればかりか、彼は「自分は仏陀である」と信じていた。
仏陀になりきって生きていたのだから、彼は仏陀なのだ。
そして、仏陀であれば、すべてがうまくいくはずである。
悪くなりようがないという、決定的な信念が彼にあった。
だから、うまくいったのだ」(P74)


30年以上まえの本だからか、
いまは脱力系ライターのひろさんが自己啓発チックなことを言っているのがおもしろい。
茶化したようだが、うまくいくことを「信じる」というのはたいせつだと思う。
この「信じる」ができないがために、われわれはよけいな心配や不安にとりつかれ、
かえって自滅していくようなところがあるような気がする。
人から見たらゴミのようなものでも、なにかを信じたらなにかが変わるのではないか。

「図解雑学 心理カウンセリング」(松原達哉:編著/ナツメ社)

→河合隼雄の本を読んで実際のカウンセリングを受けてみたら驚くのではないか。
受けたことはないけれど、大半のカウンセリングはみんなから尊敬されるセンセイが
いわゆる悪をいわゆる善にするために「こうしたら」「ああしたら」
と助言してくるものだと思う。
本書でも大学教授で臨床心理士の松原達哉氏が滑稽なことを書いておられる。

「カウンセラーは世間一般の人から人間として尊敬され、信頼される必要がある」(P20)

きっとセンセイと尊敬されたがるカウンセラーが大勢いるのだろうと思わせるに十分だ。
この本なんか読んでいても、まったく世間の善悪を疑っていないのでびっくりする。
ああ、河合隼雄のカウンセリング理論は王道ではなく異端だったのだなと気づかされる。
これはおそらく(日本人のみならず)人間全般が、
権威のあるセンセイから「正しい」指導を受けるというモデルから離れられないためだろう。
本当はなにが「正しい」かなんてわからないのだが、
そこまで深く病んでしまうとカウンセリングではなく精神科に行ってしまうのだと思う。
また指導者が「正しい」ことを疑ってしまうとそもそもカウンセラーになれないのではないか。

心理というのは魔の要素が強いと思う。
いったん気にしてしまうと心理のことが気になって仕方がなくなるようなところがある。
むかしは心の傷なんて唾をつけて放っておいたら治ったかもしれないものを、
いまはトラウマだなんだのと大騒ぎするから逆に悪化することもなくはないと思う。
早く忘れればいいものを心理作業でこじらせることもないとは言えないだろう。
もちろん、カウンセリングを受けてよくなるケースもたくさんあるはずである。
受けたことはないが、直感で言うとカウンセリングこそ相性がすべての世界だと思う。

「図解雑学 ユング心理学」(福島哲夫/ナツメ社)

→ユング心理学はファンタジーとしてはおもしろいのだが、
実際に効くのかどうか、そこらへんがうーんとうさんくさいんだなあ。
著者は臨床もやっているらしいのだが、その症例がショボイのである。
女性恐怖の会社員が5年夢分析をやって国際結婚をしたという。
あのね、それさ、夢分析、あまり関係なかったんじゃないのかなあ。
大のおとなが(それも男が)ふたりで夢の話をしているところを想像すると
乙女チックで吹き出してしまう。5年間もよくまあやったもんだ。
しかしまあ、どうせつまらない人生なのだから楽しみはあったほうがいいと思う。
双方が納得してやっているユング派の夢分析にいちゃもんをつけてはいけないのだろう。

本書でユングの女関係を知った。河合隼雄さんはこういうことを書かないからなあ。
ユングはおキチらしく、あっちのほうも活発だったらしい。
心理療法家ならやってはいけないはずの患者との恋愛を二度やらかしているとのこと。
ひとりめの愛人とはこじれて、女がフロイトに告発する手紙を書いたとか大笑いした。
結局、ユングもインテリぶった権威で患者をコントロールしていただけなのかもね。
ふたりめもひとりめ同様に患者から愛人に、
最後には愛人から弟子にとステップアップしたとか(これが自己実現ですか?)。
ふたりめの愛人は妻とおなじ家に同居させていたらしい。
ユング先生、それは新興宗教の教祖さまがおやりになることですよ。

ユングのテレパシー体験を引き合いに出して、
自分もおなじことを何度か経験したことがあると誇らしげに書いてしまう著者がかわいい。
経験してもおおやけにしたら占い師になっちゃうんじゃないかなあ。
とはいえ、本書出版時は講師だった肩書もいまはご立派な教授先生。
あまり失礼なことは言ってはならないと反省する。
本書を読んでユングもなかなかやるなと思った。
女性患者を洗脳して肉奴隷に仕立てあげたユング理論をあなどってはいけない。

「人の心はどこまでわかるか」(河合隼雄/講談社+α新書) *再読

→心理療法にとって「治る」ということはどういうことなんだろう?
本書で知った河合隼雄の扱った事例だが、深刻な症状のクライエントがいたという。
箱庭療法などをやっているうちに感覚が研ぎ澄まされたのか、
いままで興味がなかったクラシック音楽を好きになったり、
むずかしい小説を読むようになった。
話を聞いていると、内容は河合隼雄が感心するほどで、
音楽や文学を通じてとても深い感動体験をしているようだった。
本人も満足しているのかと言ったら、そうではないのである。
いつになったら治るんでしょう、と不満でいっぱいのようだ。
自分は普通の生活がしたくてたまらない。いつ治るのか。
河合隼雄は、いまのクライエントが好きなのである。そこでこんなことを言う。
別に普通にならなくたっていいじゃないですか。
普通になって毎朝新聞読んで、会社で働いて、晩にはくだらないテレビを見る。
そんな普通の生活はつまらないじゃないですか。
いまは自分の理解などはるかに超えた深い芸術体験をしておられる。
普通の人になる必要なんてありますか。
しかし、クライエントは断固として普通の人間になりたいと河合隼雄に反論したという。
そういうものなのかと河合隼雄は愕然とする。

ここに心理療法の怪しさが結晶しているように思う。
心理療法の商売敵である精神科の目的は、患者の社会適応とはっきり定まっている。
狂った人を普通の人に科学的に修理しようとするのが精神科医である(可能かはともかく)。
心理療法はなにを目的としているのかよくわからないところがある。
精神科医ならば、もし治ったら万々歳だが、
河合隼雄によると心理療法はそういうものではないという。
治る辛さもあることを心理療法家は本書で強調している。
実際、幻聴や幻覚が取れたけれども自殺してしまったという報告も多数あるという。
このへんは河合隼雄のずるいところで、他の心理療法家の話にしてしまう。
精神科医はまじめに職務をまっとうしていても職業柄ほぼ絶対に自殺者は出てしまう。
心理療法家も繁盛していれば自殺者がひとりも出ないということはありえないと思う。
いくら河合隼雄とはいえ、絶対にクライエントに死なれたことはあるはずである。
わたしがカウンセラーならば、クライエントに自殺されたらもうその商売は怖くてできない。
しかし、河合隼雄は死ぬまで心理療法を継続していたという。

実際はわからないのである。
自殺者はその歳で死んだほうが結果的によかったかもしれないわけだから。
河合隼雄が好きな華厳思想によるならば、
その人がそのときに自殺することにもきっとかならずや意味があるのである。
とはいえ、お金をもらっているクライエントが自殺するほどのショックはないだろう。
正直なところ、自分の精神健康上、
自殺を防ぐためなら治る治らないなど、もうどうでもよくなっていたのかもしれない。
治らないならばカウンセラーはなんのために存在するのだろう。
たぶん治るかもしれないという希望のためだけに存在している部分もあると思う。
それにしても自分の対応次第で相手の生き死にが決まるかもしれない、なんて恐ろしすぎる。
こうして書きながら気づいたが、心理療法は危なすぎる。
3分診療でつきあった患者が自殺しただけでも精神科医はしんどいのである。
カウンセラーはクライエントを治さなくても、
自殺させなかったらそれだけでいいのかもしれない。
しかし、自殺をしてはいけないと強く思っていると、
今度は自死遺族のカウンセリングができなくなる。
これを知らない人は意外と多いが、じつは「自殺してはいけない」
という一見正義っぽいメッセージは多数の自死遺族を傷つけている。

ここまで書いてきてようやく本書のタイトルの意味がわかった。
「人の心はどこまでわかるか」は反語みたいなもので絶対にわからないということか。
世の中のカウンセラーさん、お疲れさまであります。
何度生まれ変わってもカウンセラーだけは恐ろしくてなりたくないと思った。
もしかしたらもっとも心理療法を必要としているのがカウンセラーなのかもしれない。
なぜならわたしが自死遺族で自殺された絶望をよく知っているからである。
カウンセリングっていったいなんなのだろう? 
本書を読んで「わからない」が深まった。「治る」も心理療法もわからない。

「私も若いころは、苦しんでいる人を、なんとかしてよくしたい、
通常の社会生活が送れるようになってほしいと思って会っていました。
自分の子どもが不登校になったら、
親はなんとかして学校へ行ってもらおうと思うでしょう。
しかし、周囲のそういう気持ちが強ければ強いほど、
子どもはよけいに悪くなるんだということがだんだんわかってきたのです。
クライエントが治っていくのは、やはりじわじわとです。
心理療法家の中には、なにか具体的なきっかけがあって、
それこそ一夜にして変化したというような話し方をする人がいますが、
それは話をわかりやすくするためで、
実際のところは、そういうブレークスルー的なことはほとんどありません。
私が分析を受けた体験でも、こんなものがなんの役に立ってるのかなと思うくらいです。
しかし、あとから考えると、じわじわと変わってきているのがわかります。
(中略) [心理療法の]成功と言っても、しょせんは世俗的な意味での成功であって、
それがその人にとってほんとうに幸せか、その人の生きがいに通じるかというのは、
また別の問題だと思います。
逆に世間的に見たら失敗に思われるようなことになっても、
それで心理療法家としての自分を否定する必要はありません」(P44)


これはすごいことを言っていることに気づいた。
ほとんど治らなくても、まあ構わないんじゃないかと言っているのだから。
河合隼雄も別の書籍で言っているが、
人間が変わるのは10年とか15年の時間が必要だと思う。
たぶんたまたま治る時期に来たクライエントを受け持ったカウンセラーが
自分が治したと誇っているようなところがあるのだと思う。
さすがに河合隼雄ほど名声のない心理屋さんに10年通う客はいないだろう。
心理療法に1年通ったら人間というものは自分が損をしたと思いたくないから
少しだけ治ったふりくらいはするだろう。この「ふり」が肝心なのではないか。

「河合隼雄全対話4 無意識への旅」(河合隼雄/第三文明社)

→河合隼雄から教わった最大のことは、絶対的真理は存在しないかもしれないということだ。
絶対的真理は存在しない、と言い切ってしまうと、それが絶対的真理になってしまうから、
「かもしれない」をつけるのを忘れないようにしなければなるまい。
絶対的真理は存在しないと河合隼雄は信じている。
しかし、それを他人に押しつけようとはしない。
なぜなら絶対的真理はないが、それぞれの真理ならばあると信じていたからだろう。
言い換えたら、「絶対的真理はない」とは、
「それぞれの真理」「そのときの真理」「その場の真理」ならば存在するということである。
河合隼雄の「絶対的真理はない」とは虚無主義と紙一重に思われるかもしれないが、
そうではなく、いや、虚無主義でもよく、なにを信じてもいいということだろう。
むしろ、それぞれの信仰を持つことを河合隼雄は推奨していたように思う。
たとえば新興宗教に入ってしまうと、自分は絶対的真理をつかんだと思ってしまう。
日蓮大聖人の言葉は絶対に正しいと他人にまで押しつけてしまう。
河合隼雄の信仰はそうではなく、空海も法然も親鸞も日蓮もそれぞれ正しいとしたうえで、
あえて自分は(たとえばの話だが)日蓮に全存在を賭けてみようというものである。
流動性の少ないカチカチに固まったドグマ(教義)でもそれをあえて信じたらどうか。
自分で選んだドグマを、それが絶対的に普遍的に正しいとは思わず、
あくまでもドグマである、ドグマにすぎないと認識したうえであえて信じる。

「私は、ドグマをあえて信じるという考え方なんです。
絶対正しいことなんて、信じる信じない以前の話なんです。絶対正しいんだから。
そんなのは人間と関係ないわけですよ。
だから、私の個性ということが関係する限り、私の個性はそのドグマにかけると。
(……) だから、自分にとっては絶対に真です。
ただし、私にとっては絶対に真だけれども、
あなたにとっては絶対に真であるということは、
クエッションマーク置いてあるわけです」(P86)


では、河合隼雄のドグマとなにか。「絶対的真理はない」だと思う。
絶対的真理は絶対にないと河合隼雄はあえて信じている。
「絶対的真理はない」を言い換えたら「わからない」である。
心理療法をしているとき、河合隼雄はあえて「わからない」に賭けている。
なにがいいのか悪いのかわからない。どうしたらいいのかわからない。
常識をいったんカッコのなかに入れて非常識な世界をも許容する態度を意識的に持つ。
これは意識的に狂うということだと思う。
狂人は周囲から見たら善悪の価値観や行動基準がめちゃくちゃである。
河合隼雄は心理療法のかぎられた時間のなかだけ意識的に狂おうと努めている。
むろん、非常識になるためにはだれよりも常識を知っていなくてはならない。
狂うためにはだれよりもある意味で正常でなければ狂うことはできないだろう。
河合隼雄の言う共時性(シンクロニシティ/意味のある偶然)とはほとんど狂人の妄想である。
統合失調症(精神分裂病)の患者さんは、過剰に共時性を認知してしまう。
本書で心理療法家は指摘している。
もしかしたら統合失調症の患者は世界の真実をまざまざと見てしまった人なのかもしれない。
すべてがつながっているさまをありありと見てしまうと狂ってしまうのかもしれない。
なぜか。その体験をうまく言語化できないからである。
言語化しようとすると、どうしてもありきたりな妄想になってしまう。
もちろん、狂ってはならない。
このため、共時性は危険であることをよくよく知っていなければならない。
共時性は精神病の妄想知覚になる恐れがある。

「妄想知覚というのは、知覚としては正しいわけです。
たとえばこのコップにビールが七分まで入っている。ここまでは確かですね。
これは、ぼくがきのう彼女と話をしたときに、話を7分でやめたのが悪いという、
その表れだというふうにとったら、だんだん妄想になっていくわけでしょう。
だから私の考えでは、共時性というのは
非常に極端なほうにいくと妄想知覚の世界になると思っているわけです」(P81)


とはいえ、常識で考えたら治りそうもないほど
重い心の病を持った人に向き合うためには共時性のようなものに頼るほかない。
共時性は集合的無意識(心の深い層)と関係していると思われている。
ところが、この集合的無意識というもの。ユングの造語で存在は証明することができない。
たとえるならば神や仏のようなものである。集合的無意識は説明原理だ。
あえてあるとして考えてみるとうまく説明がつくという程度の非科学的な用語である。
身もふたもないことを言うと、集合的無意識は神や仏の代用品だと思う。
かりに神や仏を非科学的だからという理由で信じられなくても、
無意識ならば多少科学的な香りがするから信じられるのではないかという言葉。
長いこと生きていたら、あれは神や仏の仕業としか思えないという経験を
一度か二度みなさんもなさっているでしょう。しかし、神仏は信じられない。
こういう人のために、それは(集合的)無意識が関係しているとユングは言ったわけだ。
本当は神や仏を信じられたらいちばんいいのだが、いまはなかなか難しい。
ならば、無意識を信じたら常識では治らない病も奇跡的に治ることがあるのではないか。
無意識を信じていたら、共時性(シンクロニシティ)が見えやすくなるのではないか。
心理療法家はこう考えている。

「ぼくの考えでは、シンクロニシティは常に起こっていると言ってもいいくらい
なんだけれども、そういう現象に対して心が開かれている人はよく分かる。
ところが開かれていない人は、あってもつかまえることができない。
常に起こるんだという構え、
そしてそれをつかまえるという態度はオプティミスティック(楽観的)でしょう。
それは大事だと思うけれども、起こすとは言えないんじゃないか。
われわれの心がオープンであるかどうかが問題だと思うんです」(P115)


共時性は常識を踏み外した非常識なものの見方である。
常識というのは因果律を重視する。
なにか原因があって結果が起こるというのが常識的思考法である。
非常識な共時性の世界観は、
あらゆるものごとは世界中で同時に起こっているのではないかと考える。
塵(ちり)にも埃(ほこり)にもすべて意味がある。
鳥が鳴くのも当たり前ではなく、
そのときそう鳴いているのは一回だけだから強い意味を持っていると考える。
共時性とは「とき」に関する因果律とは異なる、もうひとつの狂った原理である。
共時性の思想は、時計が示す「正しい」時間をも疑ってかかる。
いや、さすがに時計の時間は否定しないが、
もうひとつの時間があるのではないかと考える。どういうことか。

「つまり、時計の時間と、時計でない時間と言えばはっきりすると思うんですけど、
われわれは時計の時間にしばられすぎてるわけでしょう。
四時とか五時とかいうのは切りがいいと思ってるけれども、
何も太陽は四時に出るわけじゃないし、五時に出るわけじゃなしね。
太陽の出るとき、鳥の鳴くときというのは、
なにも時間の切りのええときにやってるわけじゃない。
われわれは鳥が鳴いたときに会おうとは言わんでしょう。
五時に会いましょうとか、六時に会いましょうと言う。だから、ぼくらは知らん間に
時計の時間で世界が動いているという、すごい錯覚をしているわけです。
老人の時間というのは、だんだん時計から離れていくのですね。(……)
時計というものが、ものすごく世界観を変えてしまう。
本当は恋人に会う時間なんていうのは、五時に会おうというような、
そんなばかなことはないんでね(笑い)。そうでしょう。(……)
陽が落ちるときに会いましょうとか、魚がはねたときに会いましょうというのが、
よっぽど本質的だと思いますけど。
それがいまごろは、五時半にどこそこでとかやってるから、だめになったんで。
それから、死ぬ時間もそうですね。
死亡する時間なんていうのも別に時計と合わせてないし」(P219)


時計の時間でさえ絶対的な真理ではないとする河合隼雄の疑う力は相当なものである。
現代科学の象徴は数字ではないかと思うが、
数字はたしかに「正しい」けれども絶対的真理とはかぎらないのである。
年収1千万の人よりも借金5百万の人のほうが幸福かもしれないわけだ。
偏差値46の大学生のほうが偏差値65の大学生よりもあたまがいいかもしれない。
37歳の男よりも19歳の女のほうがものの本質を知っているかもしれない。
こう考えていくと(疑っていくと)、なにがなんだか本当は「わからない」――。
この「わからない」を信じるというのが河合隼雄の心理療法だった。
ちなみに好きな人が多い法華経も主たる内容は「わからない」である。
法華経は「諸法実相」を説いた教えとされている。
「諸法実相」は「唯仏与仏」、つまり「わからない」である。
「諸法実相」はまた「十如是」であるとされている。
いまかくのごとしであることそのまんまが究極の真実だという信仰である。
どんなに辛い不幸があったとしても、それは意味があって世界には必要なのだろう。
起きなければならない事件はすべて起きているし、今後も起きることは起きる。
起きることのない事件は起きなかったし、これからも起きないことは起きない。
いままで世界中でなるようにしかならなかったように、
これからもなるようにしかならない。
なにもおかしいことは起きていないし、これからもおかしなことは起きないだろう。
起きるとしたらそれは起きなければならなかったことなのだ。
そのような世界の真実を、ちらりちらりと偶然に見せてくれるのが共時性なのだと思う。
共時性は知るものではなく、身をもって体験するもののような気がする。
あたまでものを知っても変わらないが、身をもって不思議を味わうと人は変わるのだろう。
この変化を一般的に治癒と称しているのだと思う。

「どうしたら桜井さんのように「素」で生きられますか」(桜井章一・香山リカ/講談社+α新書)

→精神科医の香山リカと雀鬼の桜井章一の対話本。考えてみたら雀鬼はすごいよな。
本人も自称しているが、ただの麻雀屋のオヤジでまったく権威を持っていないのだから。
にもかかわらず、これだけ著書を垂れ流すように出している。信者も多いらしい。
ちなみに売りの「20年無敗」はあくまでも自称ゆえ、
意地悪だが「全聾の作曲家・佐村河内守」臭がしないと言ったら嘘になろう。
国家資格ではない雀鬼(自称?)のなにがいいかと言ったら運しかないのである。
本書で権威ゼロの雀鬼自身が語っているけれど、
麻雀はほぼ運のゲームらしい(当方未経験)。
牌が配られたときに役が完成しているときさえあるという。
プロいわく、「いくら努力したってダメなものはダメだし、
努力しなくても何とかなってしまうのが麻雀」とのことである。
麻雀屋のオヤジと正反対の、権威ある国家資格の精神科医で、のみならず人気作家、
なおかつマスコミ文化人の香山リカは本書で東日本大震災に何度か言及していた。
いわく、東日本大震災で本当にたいせつなものはなにかばれてしまったのではないか。
それは運である。津波で死んだ人と生き残った人を分けたのは運でしかない。

人生における運の比重が大きいことがばれたいまもなお、
人びとはがんばることに重きを置いている。
精神科医のもとを訪れる心が病んだかわいそうな患者さんは、
香山リカに「がんばらないためのがんばり方を教えてください」と乞うてくるとのことだ。
人気作家で精神科医の香山リカいわく、「上を目指すから苦しくなる」のではないか。
とはいえ、いまは上に立つ人が自分の利益のために下の人の競争をあおっている。
上に立つ人が「がんばれば上に行けるぞ」と言うから下の人は苦しまなくてはならない。
有名精神科医は上に立ついわゆる成功者と対談することが多いらしい。
対談後に香山リカに相談を持ちかけてくるいわゆる成功者が多いとのことである。
かなりの成功者が家族の問題に苦しめられているという。
自分に近づいてくるものが金目当てに思えて人間不信になってしまったと告白するものもいた。
ならば、一見すると運がいいようないわゆる成功者も実際はそう幸福ではないのかもしれない。
もう東日本大震災から3年である。あの日にばれたのは運がいかに重要かということだ。
精神科医でマスコミ文化人の香山リカは麻雀屋のオヤジにすぎない桜井章一に問う。
いったい運とはなんなのか? とにかく運のいい麻雀屋のオヤジの答えに耳を傾けてみよう。

「運というものも、空気や太陽の熱のように、肌で感じるようにしていけばいいわけです。
しかし現代人は自然から離れ、人工物に囲まれた生活をしているので、
見えないものを感じる力はだいぶ衰えてしまっています。
感じることができないと、余計に人はつかもうという気持ちが強くなります。
金でもモノでも人脈でも何でもつかみ取ろうというふうになってくる。
そうなるとチャンスも運も同じくつかむものという感覚になる。
しかし、運やチャンスはつかもうとすればするほど、逃げられるものです。
空気に触れるのと同じようにそっと触れていく感覚を持っていたほうがいい。
それと同時に大事なことは、すでにつかんでいると思っているものに対しても、
絶対放すまいとぎゅっとつかみ続けることをしているとかえってダメになるということです。
つかんでいると思うものには、
「いつでも放します」というこだわりのない柔らかさが必要なのです」(P174)


本当のことを言ってはいけないと嘘つきの河合隼雄さんがつねづねおっしゃっていた。
いくらアクセス数の少ないブログとはいえ、自分でもこれを言っていいのかわからない。
もしかしたらすぐに削除するかもしれません。
果たして本当に死というのは多くの人が思っているように悼まねばならぬ不幸なのか。
というのも、いまこの記事をお読みの方のなかで死んだことのある人はいないでしょう。
それなのに、どうして死は不幸だとこの世の論理だけで決めつけるのだろうか。
死は不幸というのは、もしかしたら多数派がキープしているだけの錯覚なのではないか。
あるいは死んだらこの世以上の幸福バラ色の世界におもむけるとは考えられないだろうか。
根拠は仏典の阿弥陀経にそう書いてある。
このため時宗の一遍は「とく死なんこそ本意なれ」と言っている。早く死んだほうがいい。
浄土真宗の親鸞が殺人をそれほどの罪(悪)ではないと思っていたのは(「歎異抄」)、
死んだらみんな極楽に往けると信じていたからだと思う。
死を救済だと思えたら(信じられたら)、これほど救われることはないのである。
まず自死遺族が救われよう。
自死遺族がなぜ苦しむかといったら自殺は悪徳だという社会通念があるからである。
もし死が恵みならば、自殺した愛する家族は間違っていなかったことになる。
不幸は比較できるものではないが、自死遺族と被災者遺族のどちらが苦しいか。
被災者遺族の愛する家族がお亡くなりになったのは天災(自然)のせいである。
いっぽうで自死遺族は、
家族の死は自分のせいではないかという自責の念を死ぬまで背負わねばならない。
家族が津波で死んだことは人に言えるが、家族が自殺したことは隠さなければならない。
被災者遺族にはみんなが同情してくれよう。
自死遺族には、あの家はねえヒソヒソという差別の待っていることが多い。
とはいえ、もし死が不幸でないならば、どちらも悲しまなくてよくなることになる。
お亡くなりになった人たちは、この娑婆(しゃば)なぞよりはるかにいい世界にいまおられる。
あの偉いお釈迦さまが説いた阿弥陀経にそう書いてあるのだから本当である。
法然、親鸞、一遍の信じた阿弥陀経にそのような記述があるのだから死は不幸ではない。
むしろ、これでよかったのだ。いまのままそのまんまでいい。すべてはうまくいっている。
もう一度言う。すべてはうまくいっている。ならば、悲しむ必要などどこにあろうか。
「河合隼雄全対話2 ユング心理学と東洋思想」(河合隼雄/第三文明社)

→心理療法家の河合隼雄のすごさは不思議を感じ取る力の強さにあると思う。
不思議とは、思議(思考)の及ばないことである。「わからない」ことだ。
みんなが常識的思考(因果律)からわかったふりをして見逃していることを、
それは不思議ではないかと気づく直観の力が河合隼雄はとても鋭かった。
河合隼雄のクライエントは宗教的な体験をきっかけとして治ることが多かったという。
ならば宗教的体験とはなにか。不思議体験のことではないかと思う。
そうだとしたら、どうしたら治癒につながる不思議体験が起こるのか。
たえず不思議なことが起こっていないか気を配りながら待つしかないのだと思う。
それから不思議を信じることではないか。「わからない」を信じる。
みんながわかったふりをして生きているときに、河合隼雄は「わからない」を信じる。
この世の目に見える世界以外の「わからない」世界があることを信じる。
時計が指し示す以外の「とき」があることを信じる。
根底にある世界観は華厳思想のようだ。それはどういうものか。

「……すべてものはすべてのものと関連し合っています。個別化できない、
ひとつのものの背後にすべてのものがある、というように言えます」(P87)

「だからひとつの塵(ちり)も、自分も、
木もみんなひとつの宇宙の中に入っているわけでしょう」(P181)


一瞬また一瞬に起こることがすべて全体(宇宙)と通じ合っていると見なす。
一瞬に起こることを、それ以外のすべてを反映しているものとして見る。
「原因(過去)→結果(未来)」ではなく「一瞬←同時→一瞬」の広い結びつきに目を向ける。
「事象を経時的に見るんじゃなくて、共時的に、
ある一瞬にサッとすべてのことが関連を持った全体として生じる」ものとして見る。
つまり、「何が何の結果であるとかいうよりも、全体としての布置をみる」(P26)。
因果関係ではないものを見るとは具体的にはどういう態度を取るというのか。

「私にとっては、事象はもっと複雑で、
患者さんの来る日が晴れているか、雨が降っているか、
そんなことすべては、その人の治ってゆく過程に関連しているかもしれない
という態度をとっています」(P108)


こういう態度でクライエントに接していると不思議が見えるのだろう。
不思議とは人間には「わからない」こと、つまり奇跡のようなものだと思う。
河合隼雄は一見するとありふれた事象のなかから奇跡を見いだす。
そのときにクライエントは治るのだという。

「宗教体験なんかでもそうでしょうが、われわれの心理療法でも、
本当にある人が治るというか、パッと契機をつかむというのは、
因果的に説明できないわけですよ。因果的に説明できるのは簡単なもので。(中略)
ぼくはよく言うんだけど、非常に難しい事例というのは、
極端に言って奇跡で治るだけだと思いますわ。
だけど、奇跡が起きた瞬間に「そうだ!」と言わないと、それは効果を持たないんです。
言うなれば、神の声が聞こえてきたときに、
あれはおばけが言っていると思ったらだめなように、
それは神の声だという判断はしなくちゃなりませんよね。
そのときに、神の声がなぜ聞こえてきたかといったって、
聞こえてきたんだからしようがないわけでしょう。
いまぼくは「神の声」と言いましたけれども、それは端的に言ったんで、
実際に言うと、たとえば、息子のことで悩んでいる人のところへ友達が来て、
「なんやかんや言うたって、息子は息子やないか」と言った場合に、
その声を神の声として受けとめた人はそこから立ち上がれるし、
「息子は息子」なんてあたりまえやないかと思った人は、
何も立ち上がれないわけです。
ところが、そういう一瞬というのは、ものすごく大事なときに起こるんですね。
そのときに、「そうだ!」ということをぼくらは言うだけであって、
ぼくがそれをつくるわけじゃない」(P27)


しかし、実際問題、15年近い不眠症が心理療法で治るのかなあ?
現実問題として、30年近い吃音症が心理療法で治るのかなあ?
たとえばいつも自殺を考えている重度のうつ病患者が心理療法で治るのかなあ?
なにもする気がない無気力な人が心理療法で治るのかなあ?
これに対して河合隼雄は言う。

「不思議なことというのはよく起こるんですよ。
また、悪いほうの不思議なこともよく起こりましてね」(P28)

「そして不思議なことに、治るときに自殺したくなる人というのは多いですし、
周りの人が死んだりもしますね」(P30)


悪いほうの不思議なことがよく起こるのは経験から知っている。
よいほうの不思議なことも、まあ起こらないわけでもないと思う。
ある人が治るときに周りの人が死ぬというのはものすごい怖いことを言っているのではないか。
治そうとするということは、だれかの死を願っているということになるのだから。
しかし、だれかが死ぬくらいのことがないと心的疾患は治らないというのはわかる。
もし「治癒=周囲の死」であるならば、河合隼雄はまったく治そうとしていないのだと思う。
治そうとしない、つまり、なにもしないで待っていると、
たまたまクライエントの周りの人がお亡くなりになり(ときに奇跡が生じて)治ることがある。
もし塵のなかにも宇宙が宿っているならば、ある神経症も全体の反映ということになる。
自然に季節が変わるように全体もかならず無常ゆえ変化するから、
うまく待っていたらその変化と共時的に連係して神経症が治癒に到ることもあるのだろう。
あると思いたい。そういうことがあると信じたい。不思議を信じたい。信じようと思う。

おまけの話――。
本書で知ったが、河合隼雄も梅原猛も禅はあれじゃないかと思っているらしい。
好戦的な梅原猛ははっきり言っていて、敵を作らない河合隼雄は小声でつぶやいている。
なにをか。禅の悟ったという人はうさんくさい。
なぜなら禅で悟ったと言われている高僧の行動を見ても、ぜんぜんそうは見えないからだ。
まったくそうだとわたしも思う。

「心にある癒す力 治る力 心理療法の現場から 下巻」(河合隼雄/講談社)

→カウンセリングの親玉、河合隼雄さんと彼のいわゆる子分たちとの対談集。
ものごとはシンプルに考えよう。どうして人は悩むのか? なぜ悩みは生まれるのか?
だれよりも人の悩みを聞いた河合隼雄さんの答えはこうである。

「人生って、ほんとに何が起こるかわからないし、
起こったことを自分のものとするのは大変な作業ですからね」(P149)


一回起こってしまったことは取り返しがつかないから厄介なのである。
予想外のトラブルに見舞われた人に必要なことはなにか?

「根本は、安心できる人がいるということですね」(P46)

だれも頼れる人がいない場合、心理療法家のお世話にならざるをえない。
このとき、いったい心理療法家はどういうことをするのか?
カウンセラーはなにをしているのか? 河合さんはなにもしていないと言う。ただ――。

「こっちも困惑し、ふらふらしているということで、
その人がよくなっていかれるんじゃないかなという気がするんです」(P50)


ありていに言えば、悩みを客観視できるようになるということだと思う。
悩みの正体とまっすぐに向き合えるようになる。
おろおろしてばかりだったのが、なにに悩んでいたかが判明する。
では、いつ心理療法が終了するのか? 箱庭療法も心理療法とおなじだろう。

「とくに箱庭の中に宗教的な体験があると、
自分が神さまや仏さまに見守られているという確信みたいなのができて、
こまごました人間関係のことも全部できるようになってしまうんですね」(P175)


これは偶然に起こってしまった災厄を必然化するということだろう。
その不幸は偶然ではなく、たとえば神さまや仏さまの仕業だと納得して腹に収める。
いままでがそうであったように、
これからもだれかに見守られているから心が揺らぐことはないと一歩か二歩、足を踏み出す。
だれかに見守られているという安心感。
そのだれかが心理療法家というひとりの人間から、神や仏のようなものに変わるのだろう。
ならば、悩める相談者は、
ひとりの人を通して神仏めいたものとの通路を復活させるということか。
個は永遠に通じているというのが(「一即多、多即一」華厳経)、
おそらく人の悩みばかり聞いた河合隼雄さんの希望だったのだと思う。

ああ、いま「なんでもお宝鑑定団」を見逃したことに気づく。
たしか一休関連のものが出品されるとヤフーテレビ欄で読んだ気がするのだが。
でもさ、なんでお宝を持っている人はそれを数値化(金銭化)したがるのだろう?
どうして自分の目を信じられず評価を権威筋に託してしまうのか?
たとえ偽物でも自分が本物だと死ぬまで思っていたら、それはそれでよいではないか。
最後まで偽物を本物だと信じていたら、偽物が本物になるようなこともあるような気がする。
とはいえ、なんの価値もなさそうなものをお宝だと信じることがいかに難しいか。
偽物を本物に変えるのは「信じる」という行為だと思う。
身もふたもないことを言えば、すべてが偽物と言うこともできなくはないのだ。
偽物を本物にするのは、だれがどれだけそれを本物だと信じているかだと思う。
たとえゴミのようなものでもあなたが信じさえすればそれはあなただけの宝物になる。
その宝物にあなたが救われるようなことがないともかぎらない。

あの番組は何度か見たことがある程度だが、
権威者の価格表示に逆らったものはいないのだろうか。
それはおまえさんたちの目が雲っているんだよと。おまえらはものの価値をわかっていない。
死ぬまで信じたら(たとえインチキだとしても)念仏でも題目でも本物として輝くのである。
だれがなんと言おうがあるものを本物だと信じられる人はさいわいだ。
わたしはそういう人がおられることを人生体験から知っている。
3月4日に思わず応援メッセージを送りたくなってしまうくらいだ。
テレビ番組に話を戻すと、どうしたら自称お宝を本物として認めてもらえるかはかんたんである。
審査する権威者たちに金品でも女体でも名声でもプレゼントすればいいのだ。
いま本物として流通しているもののどのくらいがその手で成り上がったかは知らないけれども。
わからないが、もしかしたら本物と偽物の溝は
「信じる」という行為で容易に飛び越えられるものかもしれない。
「なぜかあの一休さんが会社員だったら」(空野石頭/マイナビ新書)

→冗談半分で一休さんに学ぶというビジネス書を読んでみる。
いかにもビジネス書らしく著者プロフィールが異常なほど長いのがおもしろかった。
一休さんを好むのは著者のような人が多いのだと思う。
一休さんの人生は権威・肩書・資格をずっと否定しつづけたようなものとも言える。
おまえは権威ぶっているが、本当にそんなにおまえさんは偉いのかい?
きみの肩書なんて大笑いだね。そんな資格におれは騙されないよ。
これは常識だと思うが、
こういうことを言うやつほどじつは権威・肩書・資格にこだわっているのである。
一休さんの印可(師匠から認められた悟ったという資格)へのこだわりはひどいものだ。
何度も何度も印可状を破ったり燃やしたりするエピソードが出てくるのだから。
ふつうの神経ならば、一休さんよ、
おまえはどれだけ印可状(資格・肩書・権威)へ執着するんだとあきれてしまうだろう。
一休さんは肩書や資格を誇っている人を見たら、
唾を引っかけたくて仕方なくなる生まれつきの性分だったのだと思う。
最後は資格否定のために天皇の子どもなんだからおれのほうが偉いよ、
と思わず本来なら言ってはいけないこと(本当にしろ嘘にしろ)をぶちまけてしまった。
こんなゲスな男からもビジネスの知恵を学ぼうとする著者の権威好きには恐れ入る。
同類としてとても著者を批判することはできない。とてもいい本でしたよ。
「同病相憐れむ」の精神はたいせつであります。星5つの良書。

本書からお勉強になったビジネスの知恵をメモしておこう。
禅の公案(問題集)と「とんち」は似ているという著者の指摘はおもしろかった。
たしかに公案には「とんち」や「なぞなぞ」のようなところがある。

「とんちを解くカギは、どこにあるのでしょう。
私が思うに、それは「答えよう」と思わないことです。
一休とんち話が、それを教えてくれます。
とんちを解くということは、「問い」に対する「答え」を頭で考えだすのではなく、
「問い」そのものになりきることです。
なりきったうえで「答え」ではなく、
さながら「問い」そのものを相手にそのまま投げ返すような心持ちで、
あちらから来た「問い」とこちらから返す「問い」とを同一化する作業。
考えずに反射的にそれを行うのです」(P205)


答えを考えるよりも問いの間違い探しをするほうがおもしろいのかもしれない。
果たしてそれでビジネスの成果が上がるのかはわからないけれどさ。
でも、プロ野球選手やタレントが
寺でわずか数日坐禅しただけでスランプ脱出することがあるのだから、
問いに答えようとしない態度を身につけることはそれなりに意味があるのだろう。
ビジネス・コーディネーターの著者に有料で相談したら、
どの会社も100%うまくいくというわけではないのだろうけれど。
とはいえ、著者の売りはやはり目に見える資格である。
一休さんは天皇のお子であるという目に見えない資格をフル活用した。
あんがい一休さんも室町時代の商人たち相手に
ビジネス・コーディネーターのようなことをしながら金を稼ぎ、
大酒を飲み、精力をつけるために肉を食らい女を抱いていたのかもしれない。

「狂と遊に生きる 一休・良寛」(久保田展弘/中央公論新社)

→むかしは入門書から分け入って最後にそのものに到達することが多かった。
このところはいきなりなんの予備知識も持たずにそのものに触れようとしている。
どっちがいいのかは人それぞれだろう。
いきなり一休宗純の「狂雲集」を読んだときは狂いっぷりに吐き気を催した。
こういう手軽な入門書を先に読んでおけばよかったのだが、どちらがいいかはわからない。
著者は坐禅ファンのようで、一休の「坐禅は地獄」を反語的に受け取っている。
あれは坐禅のすすめであって、
達磨を超えるほど坐禅に打ち込めという内容なのだと主張する。
本当に解釈は人それぞれだとびっくりする。
あれをそういうふうに解釈する人がいるのかあ。
どの解釈が正しいというわけでもないと思う。どちらも正しいのだと思う。
著者は論争を好まない常識人とお見受けしたが、もし論争になったら肩書が勝負を分ける。
絶対にないだろうが著者から反論メールをいただいたら、
肩書が著者のほうが上だから「先生が正しいと思いますよ」という返信を出すだろう。

どうやら常識人の著者は一休よりも良寛のほうが好きらしい。
一休には80ページしか当てていないのに良寛には130ページ費やしている(おおよそ)。
おそらく権威主義の人ほど「権威嫌い」の一休を好むような気がする。
完全に出世をあきらめたような人には、
一休の「狂」よりも良寛の「遊」のほうが心地いいのだろう。
わたしは一休のほうが好きで良寛はどうにも苦手だが、
どちらの人とつきあいたいかと問われたら良寛ファンの落ちぶれた常識人である。
もとより、著者がそういう人だと言っているわけではなく、
久保田展弘さんは出世したご立派で博識な学者さんで本書も参考になることが多かった。

巻末に著者と宗教評論家のひろさちやさん、精神科医のなだいなださんの鼎談がある。
ひろさちやさんとなだいなださんの険悪な雰囲気がおもしろかった。
ひろさんもおもしろいが、なださんもおもしろかった。
なださんによると、釈迦が出家した理由は不安だという。
王子に生まれて、美男子で健康、金もあり、美しい妻がいて、子どももできる。
このように幸福だとあとは失うだけだということに気づき不安になったから
釈迦は出家したのだという説を精神科医は持ち出してきている。
なるほど、そういう解釈もできるなあ。
おそらく解釈(感想)に正誤はないのだろう。
おもしろいものとつまらないものに分かれるだけだと思う。
なだいなださんの一休・良寛への評価はこうだ。
精神科医はなんにでも不安を見るのがおもしろい。

「一休・良寛のいちばんの特徴は、
偉いお坊さんのところに行って弟子として修行して、
上の人に認められてだんだん出世するというのではなくて、
自分自身の心のなかで解決しなければならない問題を持っていた。
強い不安みたいなものをもっていて、それを解決しなければならなかった」(P238)


「一休 その破戒と風狂」(栗田勇/祥伝社)

→一休宗純を見ていると真実がわかったような気がする。
絶対的真理というのはたしかに存在して、それは小さな箱のなかに納められている。
代々みんながみんなその箱を重んじてきた。
一般の人にその箱が公開されるのは、1年に1回だけである。
箱を見た人はみな、ああ、本当に絶対的真理があるんだなと口々に安堵の声を上げる。
箱の中にはなにが入っているんだろうと議論にいそしむ人もいよう。
箱のふたを開けるのは50年に1回だけ、たとえば天皇陛下のような方がご覧になられる。
箱の中身をご覧になった陛下は、ひと言「うむ」と発して深く頷かれるわけだ。
その天皇陛下を見てみな安心してバンザイ三唱のようなことをする。
ある夜、怪盗二十面相のようなとんちの天才が数々の障害を乗り越え箱のまえに来る。
男自身もまさかこの絶対的真理の箱を自分が開けられるとは思っていなかった。
開けていいのかと一瞬ためらったのち、ガキの悪戯のような気分で真実の箱を開けてしまう。
絶対的真理が入っていると代々伝えられてきた箱の中にはなにも入っていなかった――。

この天才的泥棒が風狂の人、一休宗純ではないかと思うのである。
ちなみに諸経の王と呼ばれる法華経もまさにこの構図を持っている。
法華経は、ここに絶対的真理が説かれていると言いながら最後までそれを明らかにしない。
法華経こそ絶対的真理だが、真理の内容はどこにも書かれていないわけだ。
このことに気づいたとき、たしかに法華経は真理を説いてると感動したものである。
真実や絶対的真理――坊さん用語では「悟り」というものもおなじではないかと思う。
絶対的真理はたしかに「ある」のだけれども、しかし「ない」のである。
たとえば禅宗は中国の達磨(だるま)が元祖だとされている。
しかし、一休宗純はこともなげに達磨を批判している。
インドから中国に来たという達磨は面壁九年(めんぺきくねん)の結果、
悟りを得たとされている。
壁のまえで9年坐禅(ざぜん)をして真理を体得したというのである。
この真理が代々伝えられ、その33代目が一休宗純だという(本書253ページ)。
一休宗純は著書「骸骨」の冒頭で達磨の面壁九年を批判している。

九年まで させん(坐禅)するこそ 地獄なれ
こくう(虚空)のつちと なれるその身を


意味は、9年も座禅するなんてバカじゃないのか、どうせ死んで土に還るんだからさ。
おそらく、一休宗純は達磨がもしかしたら実在していないことに気づいていたのではないか。
絶対的真理というものはそういうものである。
坐禅には本書の著者である栗田勇さんも否定的なようだ。
根拠は「中国仏教の大家」鎌田茂雄氏が同席した講演会でそう言っていたというのである。
具体的には――。

「私は軍隊にとられて人生を無駄にした。
次に坐禅でさらに人生を無駄にした」(P304)


この直後に鎌田茂雄は死んでしまったという。
ここに絶対的真理というものが象徴的にが現われているような気がする。
真理というのは結局のところ権威(肩書)なのである。
鎌田茂雄は(わたしはこの人がやたら説教くさいので嫌いだが)元東大教授で、
晩年には天皇陛下から勲三等旭日中綬章を賜っているがために偉く正しいのである。
勲三等旭日中綬章受章者が「坐禅は無駄」だと言っているからそうに違いない。
しかし、鎌田茂雄も坐禅に夢中になった時代があったはずである。
そのときは坐禅こそ重要で意味があると思っていただろうし、
あるいはそういう発言が刊行物に残っているかもしれない。
「坐禅は無駄」というのは栗田勇さんがそう聞いただけで記録にはおそらく残っていまい。
本人はもう死んでいるから発言を取り消すことはできず、
それがある種の権威をおびた真理として流通してしまうのである。
きっと一休宗純も若いころにさんざん苦行である坐禅をやったことだろう。
その結果、64歳のときに一休は「坐禅は地獄」と本音を言い放ったのである。
もしかしたら50歳くらいまでは坐禅にも意味があると思っていたかもしれない。

真理とはこういうものなのである。どういうものか?
真理は正統性を権威(肩書)に依存せざるを得ない。
一休宗純は天皇の隠し子であるがために、みんなからちやほやされたところがある。
さらに一休さん自身の考え(真理)も年代ごとに変化しているのである。
もしそうだとすれば、88歳で死んだ一休宗純の最後に言った言葉が絶対的真理になろう。
しかし、「自戒集」(62歳執筆)、「骸骨」(64歳執筆)はどうなる?
もし一休が63歳で死んでいたら悪口だらけの「自戒集」が真理になっていたのである。
このことから、一休さんほどの人でも「そのときの真理」しかないことがわかるだろう。
ならば、いわゆる絶対的真理も「そのときの真理」にすぎないのかもしれない。
一休宗純の「遺偈(ゆいげ/遺言の詩)」が大徳寺塔頭真珠庵に残されているという。
栗田勇さんの訳とともに紹介したい。
虚堂(きどう)というのは一休宗純がたいへん尊敬していた中国の坊さんである。

須弥南畔 須弥南畔(しゅみなんばん)
誰会我禅 誰か我が禅を会す
虚堂来也 虚堂(きどう)来るもまた
不直半銭 半銭に値いせず
 東海純一休 東海純一休

須弥山の南のほとり
誰に我が禅がわかろうか
生涯を賭けた虚堂、「虚堂七世孫」を名乗ったが、
その虚堂とも今は解き放たれる、わしの禅。
  日本の一休


これはこのブログ記事の最初に書いた隠された真理の構造そのままであろう。
「おれは絶対的真理を知っているけれど、それはだれにもわからない」である。
絶対的真理を自称するが内容は説かない法華経とおなじやり口である。
決して卑怯なわけでもずるいわけでもない。
真理(真実)というのはこのような形式でしか示せないのだと思う。
あらゆる真理は「そのときの真理(=嘘)」だと一休は言いたかったのではないか。
そうであるならば、ほとんど生涯にわたって権威を毛嫌いしていた一休が、
81歳で大徳寺住持になったのもまったく矛盾していないことになろう。
なんのことはない、一休は81歳になって権威もまたいいものだと思ったのだと思う。
権威も必要悪だと割り切り火事で焼け落ちた大徳寺再建のために一肌脱いだのだろう。

一休宗純にはもうひとつ有名な遺言がある。
88歳になる一休さんが死に際して「死にとうない」と言ったというものだ。
著者の栗田勇さんはこのことを源豊宗という人から教わったという。
なんでも光悦の記した「本阿弥行状記」にそういうことが書いてあるとか。
これはもしや水上勉の「一休」とおなじで偽書ではないかと疑ったが、
栗田勇さんは文学者(嘘つき)ではないらしい。
ぜんぶ実在したから、おそらく本当のことなのだろう。いや、嘘でもあろう。
88歳にもなって「死にとうない」など一休さんは茶目っ気たっぷりではないか。

さらにもうひとつ本書には書かれていないが、
一休さんの臨終にまつわるおもしろいエピソードが残されている。
一休さんが弟子たちに、自分の死後、
どうしようもなく困ったことがあったらこれを見なさいと封書をわたしたという。
師匠の死後、弟子たちが喧嘩になり一休の本当の教えを知ろうと開けたら――。
「大丈夫。心配するな。なんとかなる」と書いてあったという。
いくら調べてもこの出典はなく、ある人が講演会でふと思いつき一休さんの言葉にしたら、
いかにも一休さんの言いそうなことだと聴衆の反応がよかったので、
その後も一休さんの言葉にしているという真実をネット上で発見した。
さらに膨大な時間をかけていったいだれが「大丈夫。心配するな。なんとかなる」を
一休宗純の言葉にしたか、書物の山とネット世界をくまなく分け入り調査した。
結果、真実が判明した。
あの一休さんの言葉を作ったのは、宗教評論家のひろさちや先生だったのである。
ひろさちやさんの本はわかりやすくていいが、
栗田勇さんの「一休」もとても平易に書かれており十分期待に応える読書であった。

「一休を歩く」(水上勉/集英社文庫)

→本当は伝統仏教のお坊さん全員に言えるのだけれど、
とくにことさらなかんずく禅僧がなぜ偉いのかよくわからない。
なんでか知んないけれど、禅では衣食住が否定されるわけでしょう。
禅は貧相自慢のようなところがあるのではないか。
どれだけのあばら家に住み、いかにつぎはぎだらけの衣裳をまとい、
何日食うや食わずでいられるかの我慢勝負のようなところが禅にはあるので理解不能。
そんな我慢比べの勝利者がどうして偉いとみなされるのか禅の世界はさっぱりわからない。
一休が師事した禅僧も我慢比べが好きな人たちだったので、こう言っているのである。
どうしてそんなに食べないことが偉いのか?
なにゆえ雨もりする家に住むのが偉いのか?
いったいどういうわけでボロボロの衣服でコスプレをすることを好むのか?
どうせどのみち本音では毎日のようにいつか出世して豪華な法衣を着て、
みなのまえに出て尊敬されることを夢見ているのではないか。

禅僧などより、たとえば一休を肴(さかな)にして金を稼ぎ高名を得て、
別荘つきの美酒美食、モテモテ快楽生活を満喫した水上勉先生のほうがよほど偉いと思う。
偽善だらけの禅僧よりも、むしろ快楽を肯定する創価学会の池田大作さんのほうが
何倍も素直に思えてしまう(当方は学会員ではないですけれど)。
どうせ死ぬんだから我慢比べに命を賭けるよりは好きなことをしたほうがいいのでは?
まさしく一休宗純が批判を恐れず自由気ままに好き勝手にしたようにである。
谷崎潤一郎賞作品「一休」から13年後の本書で水上勉は過去をやんわり否定している。
「一休」では偽書まで捏造(ねつぞう)して
森女を乞食放浪演歌歌手に仕立てあげていたのに、
NHK関連の本書では女を資産家出身の巫女(みこ)ではなかったか、
と多数派に迎合している。こういう処世術が禅寺出身の作家らしくてよろしい。
禅の世界ではいかに建前のきれいごとを装うかが出世の分かれ目なのだろう。
禅寺の裏側はいかに上司に気に入られるかが勝負の境い目だ。
禅寺出身の水上勉が文壇の天皇陛下、小林秀雄の寵愛を得たのは、ある意味必然であろう。

(関連記事)「一休」(水上勉/中公文庫)

「一休文芸私抄」(水上勉/中公文庫)

→一休は果たして本当に後小松天皇の落胤(らくいん/隠し子)だったのだろうか?
この問題はかなりのタブーをふくんでいると思う。触れてはならない部分である。
一休が後小松天皇の子どもだという根拠は、
じつのところ文献的にはそれほどたしかなものとは言いがたい。
東坊城和長の「和長卿記」、弟子の書いた「一休和尚行実」「東海一休和尚年譜」である。
だからとすぐに一休を天皇の子であると即断するのはどうかと思うのだ。
「和長卿記」は一休には子どもがいたなどと書いているトンデモ本である。
そのうえ一休の息子は父親から直々に正伝を受けている、などと書いてあるのだから。
ところが、一休自身は自分はだれにも
印可(悟りの証明)を与えていないと「自戒集」に記している。
それから弟子の書いた「一休和尚行実」「東海一休和尚年譜」もうさんくさい。
たいがい宗教においてトップは伝説化されるから、
もし一休禅師が天皇の落胤だったら弟子たる自分たちの格も上がると考えたのではないか。

そもそもすべてはペテン師一休の策略だったかもしれないではないか。
天皇家とはなんら関係もないのに酔っぱらってあることないこと語った可能性はないか。
皇室の権威をうまく利用して一休が偉くなったら(大徳寺住持)、
今度は天皇家が一休の権威を借りようと一休を落胤だと認める。
あんがいこれが現在、一休の墓を宮内庁が管理している理由ではないかと思うのである。
当時は遺伝子を用いた親子鑑定なんでできなかったのは言うまでもない。
権威というのは単一では存在しえず、相互に依存することで高め合うものものだ。
鎌倉時代の武士は権威を求めて中国から伝わった禅宗と手を結んだ。
同様に室町時代に勃興した商人はこれまた権威を求めて参禅したのだと思う。
そうなると禅は権威を得たことになるから、この権威をもって最高権威の皇室とつながる。
禅宗と皇室のいわば権威の橋渡しをイカサマ師の一休がやったという解釈もできるのである。
これは言ってはいけないことだが、なにゆえ天皇家が偉いのかはよくわからない。
しいて答えを言うならば、
むかしから偉かったから(1)、みんなが尊敬しているから(2)である。

ここで最初に話を戻すと、本当は天皇の子でなかったとしたら、
にもかかわらずそれでも果たして一休は偉いのかどうかだ。
一休は天皇の隠し子だということで結局は好き勝手なふるまいをできたところがある。
たしかに天皇の息子だと考えるといろいろつじつまが合うことが多い。
伝説によると一休の母は皇室でいじめを受けて野に下り一休を産んだという。
不遇な皇子である一休は自分は天皇の血を引くものだという強いプライドを持った。
このため、数々の奇行をしたのだと解釈するとわかりやすい。
現代でもそうだが有名人の子どもはいろいろ難しいのだろう。
どれだけ周囲から評価されても、それは親の七光りではないかというゆがんだ考えを持つ。
めったにないだろうが、有名人の子どもだからという理由でいじめられることもあろう。
いったい天皇の血筋ということはどういうことなのか?
もし一休が本当に天皇の隠し子だったとすれば、そのことを考え抜いたに違いない。
目に見える貴賤、美醜、賢愚など空(くう)にすぎぬというのが一休禅の教えである。
般若心経の言うところの色即是空である。
だとしたら、天皇の権威は否定せざるをえず、
自身が皇子であるというプライドも持ってはならないことになる。
とはいえ、一休宗純は皇室礼賛が大好きなまこと俗物めいた禅僧であった(「狂雲集」)。
そのくせ悟ったようなまことうさんくさい教えを
本書に収録されている「骸骨(がいこつ)」で説いている。
どんな身分高き貴人も美しき女人も骸骨にすぎぬと言い放つのだ。

「そもそもいつれの時か、夢の中にあらさる[あらざる]、
いすれの人かかひこつ[骸骨]にあらさる[あらざる]べし。
それを五色の皮につゝみて、もてあつかふほと、男女の色もあれ。
いきたへ[息絶え]、身の皮破ふれぬれは、その色もなし。
上下のすかた[姿]もわかす。たゝ今、かしつきもてあそふ皮の下に、
このかいこつをつゝみてもちたりと思ひて、此(この)念を能くこうしんすへし」(P32)


「何事もみないつはりの世なりけり
死ぬるといふもまことならねば」(P40)


にもかかわらず、一休宗純は天皇の権威を否定しなかった。
自分が不遇な皇子であることに異常なまでのプライドを持っていた。
どうせどちらも骸骨にすぎぬのに醜い女ではなく美しい森女を愛した。
この矛盾が一休宗純のおもしろさなのかもしれない。
ふつうの禅坊主ならば、もちろん恐れ多いから天皇家の否定はしないだろうが、
それでも美人にとらわれないポーズくらいだったら取り繕(つくろ)うのではないか。
一休は醜い女よりも美しい女を好んだ。肉を食らい酒をたらふく飲んだ。
なぜならばこれまた般若心経になるが、
色即是空(目に見えるものに実体はない)のあとに「空即是色」と続くからである。
空(実体がない)というのも嘘で、美醜、貴賤、賢愚はあるがままに存在している。
色(見かけ)も嘘だが、空(実体がない)も嘘であるとしたのが一休の禅だと思う。
このため、いまの人権社会からしたらとんでもない発言を一休はしているのである。
この実態を知ったら、いわゆる「一休さん」のファンはいなくなってしまうのではないか。
じつのところ、一休さんはたいへんな差別主義者だったのである。
一休宗純は庶民に分け隔てなく禅の教えを説いた高僧ではなく、
癩(らい)病患者や穢多(えた/被差別部落民)をあからさまに差別していた。
天皇家を崇拝する一休宗純は、同時に癩病患者や穢多を下に見てバカにする男だった。
一休宗純の「自戒集」を読んでこの男はひどいやつだと思ったものである。

一休のライバルといえば同門で出世した兄弟子の養叟(ようそう)である。
一休宗純は「自戒集」のなかで世渡り上手の先輩である養叟をボロクソに言っている。
その誹謗中傷の仕方がまこと差別的で人間性を疑われるものなのである。
どういうことか。養叟は癩病で死んだ。養叟の禅は穢多のようなものだ。
まるで2ちゃんねらーが匿名でやるような誹謗中傷を一休は実名でやっているのである。
癩病患者が差別されていたのは、いまの若い人は知らないかもしれない。
癩(らい)病はハンセン病のことで、かつては業病(ごうびょう)と差別されていた。
全身が化け物のようになる癩病は、過去の悪業がたたったのだと差別の対象になった。
穢多(えた)も姿形こそ一般人とおなじだが、悪業ゆえ汚れていると忌み嫌われた。
一休がやったことはどれほど悪魔的か。
売れない役者が人気俳優に嫉妬して、あいつは部落出身だぜ、と言うようなものである。
だれかが不運にも交通事故に遭ったのを仏罰が当たったとあざ笑うようなものである。
本当にあの一休さんがそんなことを書いているのか。書いているのである。

化者養叟捨豁舩 唱門禅与穢多禅
四条河原新開号 虎菊門下送官銭

養叟元蒙唱門号 転位入得穢多中
手物払子有牛尾 何事索話忘却洪


どちらも正確な意味はわからないけれど、
要するに養叟門下は穢多の禅だと言っているのだと思う。
お偉い天皇陛下さまのご落胤で庶民に大人気の一休さんの正体は、
「あいつは穢多だよ(笑)」と口走るような男だったわけである。
癩病(ハンセン病)差別もしっかりしている。

「養叟カ癩病ハ一休和尚ノ無住榜ニ、
法罸[罰]にアタリテ癩病ヲウケントアリシカ、
果シテ三年メニ癩病ヲウケテ死ス。(……)
一休ノ筆ニハ養叟ヲ法罰ト記ス」(P103)


アハハ、あいつは恥ずかしいハンセン病で苦しみ悶えながらおっ死(ち)んだよ、
ザマアミロ、仏罰だ、笑えるねと庶民に人気の一休禅師は書いているのである。
ちなみに高僧の養叟が亡くなった理由はハンセン病ではないという記録が残っている。
一休宗純はライバルが死んだときに偽善的に涙を流す高僧ではなく、
ザマアミロと高笑いする非常識極まりないキチガイ(あえて使う!)だった。
それどころか死後に相手の悪評が高まるようデマまで流す悪質な坊主だったのだ。
どうですか、みなさん? 一休さんを嫌いになりましたか?
わたしはここで人生ではじめての疑問が沸き起こってきたので驚いた。

なぜ差別をしてはいけないのか?

いままで一度もこの疑問を抱いたことはなかった。なぜ差別はいけないのか?
もちろん、差別はいけないことだと知っているが、なぜいけないのかはわからない。
生まれてきたときから当たり前のようにそう教わってきたが、なぜかはわからない。
突然のショックにネットで検索を繰り返したが答えは出てこなかった。
「自分がされたらいやだろ?」「なら、おまえを差別するぞ」――。
このくらいしか答えは出てこなかったような気がする。
わたしは差別する人をみっともないと思うから差別が嫌いだった。
大学時代の先輩が嬉々として部落差別をするのを見て、格好悪いと思ったものである。
しかし、なぜ差別をしてはいけないのかはわからない。本当にわからない。
日本国内では差別は隠されているが、海外ではあからさまである。
むかしベトナムのハノイで中国ビザを取ったとき、差別に驚いたものである。
中国大使館で日本人、韓国人、中国人、ベトナム人はみな行列をさせられるのである。
ところが、白人旅行者は行列をしないで優先して中に入れるのだから。
むかついて大声を上げて抗議したら、なぜかわたしだけ白人待遇になった。
さすがにここで突っぱねるとビザをもらえなくなりそうなので大人しく従ったものである。

差別されるとむかつくし、差別はしたくないが、なぜ差別がいけないかはわからない。
そのうえ実際のところで差別していない人はいないとも言いうるわけだ。
一回も美醜、貴賤、賢愚、貧富で人を差別したことがない人がいたら挙手をお願いしたい。
結婚相談所で男なら高収入者が、女なら若い美人が有利なのはどういうことか?
偽善を廃せば、みんなだれもが(もちろんわたしも)差別しまくっているのである。
人は他人を平等に扱うことはできないということだ。
結婚や就職なんてその最たるものだが、
それ以外でもわれわれは一刻一刻差別しているのだと思う。
結論は差別はいけないが、人は生きていくうえで差別せざるをえぬもので、
さらに論理的に突き詰めて考えるとなぜ差別がいけないのかはわからない。

ゲスな話をすると、やたら弱者の味方をする素振りを見せるのはどこかで偽善者くさい。
いかにも善人ぶった優等生的な高身分のお坊さんが笑顔で「みんな平等」と言うのは本当か?
だったら、おまえ、弟子からタメ口を使われても怒らないのかって話だよな。
「みんな平等」とか表で言っているものほど裏ではそうではないことを、
実体験として知っているのはわたしだけではないと思う。
偽善を嫌う一休宗純の考えは、たしかに「みんな平等(色即是空)」だが
同時に「みんな不平等(空即是色)」もまた真実であるとするものだったと思う。
表の建前は「みんな平等」だが、裏の本音では「みんな不平等」である。
一休宗純は「みんな平等」ときれいごとばかり言う偽善者が大嫌いだったのだろう。
「みんな平等」も本当だが、「みんな不平等」も本当だろう。
どっちも本当なら、「みんな平等」も「みんな不平等」も嘘になるはずである。
みんな嘘ならば、出世した世渡り上手を穢多呼ばわりしてもいいと一休は考えた。
みんな嘘ならば、ライバルの死に関してデマ(嘘)を流してもいいと思った。
みんな嘘であるならば、死もまた嘘なのだから。ふたたび――。

「何事もみないつはりの世なりけり
死ぬるといふもまことならねば」(P40)


スタートはどこであったか。一休は本当に後小松天皇の落胤かどうか?
「何事もみないつはりの世」ならば、どっちでもいいという結論になるだろう。
一休宗純が天皇の子であるというのも、
本当はそうではないというのも「何事もみないつはり」――。

本書は一休の「骸骨」および「自戒集」の全文が掲載されている。
そのうえこの二作品の作者による解説と、「狂雲集」の紹介である。
水上勉が好きな一休の漢詩に「傀儡(かいらい/操り人形)」というものがある。

抽牽(ちゅうけん)する者(は)、即ち主人公
地水合成して、火風に随う。
一曲の勾欄(こうらん)、曲終って後、
本然の大地、忽(たちま)ち空(くう)と為る。


人によって意味は変わろうが、水上勉による解説は以下である。

「これはくぐつ傀儡の世界を借りてよんだものだが、私には好きな一篇である。
うらで糸をひき、うごかしている黒子がいわば本当の主人公なのだ。
人形どもは、土と水をこねてつくったもので、火と風につきあっているだけのもの、
一曲の舞台が終ると、人形どもも本来の天地にもどって、
あとは空(くう)になっているだけではないか。
何もありはしない。さきほどの舞いは、幻影だったのだ。
一休が人形芝居を愛したという資料はないが、この比喩はおもしろい。
市中をさまよい歩いていた一日に、
河原乞食が演ずる傀儡芝居を無聊(ぶりょう)の顔で見つめていた一休がうかぶ。
案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。
うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もうごく。
操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。
いや、その主人公こそ、求めつづける正伝の正体なのだ。
狂雲もまた狂風に舞っている」(P197)


「一休」(水上勉/中公文庫)

→谷崎潤一郎賞を受賞した水上勉の評伝文学「一休」を読む。
重厚な書物、もっとはっきり言えばじつに読みにくい本であった。
しかし、これをほめなければ人ではないという迫力を持った、
ある意味で賞ねらいの意図が甚だしい文字通りの意欲作である。
おもしろいかつまらないかを問われたら、
著者や周辺の権威から判断しておもしろいと答えざるをえない。
内輪の話で「読んだほうがいい?」と聞かれたら、読む必要はないと小声で答えると思う。
権威を装いたいのか先行研究者からの引用が多く長ったらしく退屈なのである。

さて、話は飛躍するが、いったい歴史の真実とはなんだろうか?
いまだタイムマシンが発明されていない以上、歴史上の事実はすべて仮説にすぎない。
本当はどうだったかはその場にいたものしかわからないのである。
そのうえ、ある事件を同時期に目撃したものの証言でも同一になることは少ないだろう。
ならば、歴史の真実とはなにか?
人は自分の体験したことを真実と思いたがる傾向がある。
そうは言っても、体験は一瞬で過ぎ去るものゆえ固定したものとは言えまい。
そうだとしたら、もしや真実とは「そうであってほしいこと」ではないだろうか。
自他を問わず「人を喜ばせること」が真実なのではないだろうか。
男女の恋愛なんて本当はないが、恋愛はなくてはならないことなのである。
もしかしたら空海は歴史上存在しなかったかもしれないが、いてくれないと困る。
日蓮は……おっと、日蓮大聖人の話は危険だからやめよう。
親鸞は、もしかしたら親鸞は、人を何人も殺した極悪人だったかもしれないわけだ。
しかし、親鸞は虐げられた庶民を救った慈悲深い偉人でなければならない。
ならば、それが真実だ。いつだって虐げられた庶民は正しく権力者は悪である。
これは大衆が「そうであってほしい」と強く願うから真実なのである。

本書は水上勉が実人生で知った真実を一休の生涯に仮託して物語った文学作品である。
本当か嘘かというありきたりな二分法にとらわれるのなら嘘に分類されると思う。
しかし、なにが真実だ? なにが本当だ?
そう考えるとき真実など存在しないとすれば、水上勉の「一休」もまた真実である。
水上勉は少年時代、禅寺に捨てられた過去を持っている。
そこで先輩の少年僧の手淫を夜ごと手伝わされたという。
書かれてはいないが、あるいは屈辱的な口淫さえしたのかもしれない。
なかには鶏姦されたものも目撃したという。肛門が真っ赤になっていた少年がいたという。
もしかしたら水上少年は被害のみならず加害をしたことがあるのかもしれない。
本当のことを作家は書かないから真相は藪の中である。
しかし、それに近い経験をした水上勉にとっては一休もまたおなじでなければならない。
さらに、である。著者は禅の師弟関係にホモセクシャルを見ている。
これは人によって意見がわかれるところだが、水上勉にとっての真実なのだろう。

繰り返すが、真実とは自分の体験したことであり、
そうであってほしいと心中強く願うことであり、自他を喜ばすことである。
もうひとつ真実がある。権威もまた真実として見なされることが多い。
水上勉は本書で幾度も庶民びいきを装うが、庶民ほど権威に弱いものはないのである。
無知蒙昧な庶民は権威者の発言を真実だと思う。
はっきり言って、
一休の人気の理由など結局は天皇の子だからということしかないのではないか?
権威嫌いの一休自身が権威を利用してうまく立ち回っているところがあるのである。
水上勉は意識的にか無意識的にか一休内部の権威主義に敏感だった。
もう故人だから言えるが、おそらく水上勉も権威主義的な人間だったのだろう。
人によって強弱はあろうが権威に逆らえる人間のほうが少ないからそれでいいのだが。

アンチ権威を装った水上勉は本書「一休」でおもしろいことをやっているのである。
この評伝が強く依拠しているのは磯上清太夫が書いたという「一休和尚行実記」だ。
水上によると大正2年に出された本であるという。
この本にはさらに原本があって、それは元禄2年の刊行物であるらしい。
ネットで調べて知ったが、これらはすべてフィクションなのである。真っ赤な嘘だ。
磯上清太夫なんて人物は存在しないし、「一休和尚行実記」なぞという資料もない。
しかし、評伝文学「一休」はその存在しない資料をもとにして書かれているのである。
正直、作品「一休」はそれほどのものとは思わないが、この仕掛けには感心する。
そういう手があったか、やられた、騙された、一杯喰わされたとニンマリした。
谷崎潤一郎賞を受賞した「一休」発刊後、
一休関連本を出すものはみな水上勉の先行書を参考にするだろう。
そのうちのいくつかを読んだが、みな水上「一休」の嘘には言及していなかった。
さすがに谷崎潤一郎賞作品という権威には逆らえまい。
歴史上のどこかで嘘をうまく混入させえたら嘘が本当になってしまうのである。

どちらかと言えば退屈で冗長な水上勉「一休」のなかで、
もっともおもしろかったのは嘘の部分である。
一休は最晩年に盲目の森女という美女を妻(愛人?)としたことで知られている。
いちおう多数派の定説では、
ある程度財産のあった家出身の巫女(みこ)ではないかとされている。
ところが、水上勉は森女を旅芸人の演歌歌手に仕立てあげてしまうのである。
13、4歳で親から捨てられた盲目の美少女は旅をしながら演歌をうたった。
まるで藤圭子の世界ではないか。とてもいい。
ときには悪い男衆数人に騙され衣服をむかれオモチャにされたこともあっただろう。
食うや食わずの痩身ゆえ少女は男たちのけものめいた淫欲に身を任せるしかなかった。
乞食の美少女は求められたら自慰、口淫、鶏姦、乱交、縄縛、なんでもやった。
ときには好色な年増女の淫欲の餌食になったこともあるだろう。
それは哀しみだけではなかった。性には哀しみだけではなく悦びもあった。
慰み者の少女はおのれの味わった哀歓を演歌に託してうたいあげたのである。
村から捨てられた被差別民以下の存在価値しかなかった美少女は、
数知れぬほど多くの男を知り、生きていることの悲喜を歌に込めて人を泣かせ、
いつしか旅回りではあるが食っていけるくらいの人気歌手になった。
そこを天皇の血筋を持つという一休宗純に見初められたのである。
あるとき寝物語に森女は一休和尚にむかしこんなことがあったと語ったという。
これは真実である。
なぜならば磯上清太夫の「一休和尚行実記」にそう書いてあるからだ。
以下は疑似古文のため読みにくいでしょう。お読みにならなくて結構です。
どうか読み飛ばしてください。
が、ここは水上勉がいちばん書きたかったことだろうから書き写さざるをえない。
あるとき森女が一休和尚に語っていうには――。
[カッコ]内の記述は引用者の意味補充です。

「まだはたち[二十歳]をすぎてまもなきころ、大江の山をこえいくのの里すぎて、
おまちの村のだいじん[金持]にまねかれ、ざしきにて艶歌、説経節などうたひて、
一夜のやどりを許され床にふしたるに、
夜半に音のしてふすましづかにあけ入りくる人のけはひなれば、息ひそめてありしに、
人のよりそひて伽(とぎ)せよ[セックスしよう]とささやかるるをきけば、
くだんのだいじんなり。はじめてのことにもあらねば、
森[女]もからだもえ[発情して]、
胸こがるるをいつはれず[偽れず]なさるままにてありしが、
ふと耳元にささやかるるこゑ[声]の、
この世の人ともおもはれぬ、おそろしきひびきのこもりて、
われに財宝あり、おまちだいじんと人によばれてあれど、
口さけ耳鼻ひらき眼はきりさけて顔のみにくければ、
口さがなき村むすめにきらはれ、いまだに女しらずにてありければ、
こよひ[今宵]ははれて思ひをとげたるなり。
めくら女(め)よ、なれ[おまえ]はわれには彌陀仏なりとかきくどきたまふ。
森[女]は十とせ[十歳]をすぎてまもなくいねをいでて、
明かぬ眼やみのうきまくら、津母(つも)の入江やなりはひの、
はしだてもなき宿々で、えみえぬ[見ることのできない]男の肌にふれ、
夜な夜ななみだにかきくれてありしも、
げにいまだいじんのいはるる[言われる]ことの不思議なれ。
われはめくらゆゑ、
口さけ眼のきりさけ耳鼻ひらきたる人なりとも知るすべなし」(P423)


読書家には難なく読める文章だが、
このブログはもしかしたら中学生や高校生が読んでいるかもしれないので、
あえて無粋な意味の補充をしてしまいました。
要するに、盲目のものほど真実が見えるということを言っているのである。
われわれは人を見かけの美醜、見かけの貧富、見かけの善悪で判断してしまう。
たとえば皇族の血を引いていると聞くと、その人を偉いと思ってしまう。
しかし、目が見えない森女は、
われわれの見えぬ真如(あるがままの真実の姿、永久不変の真理)を見ることができる。
親から捨てられた美しき盲目の少女である森女は、
相手の貴賤にとらわれず、けものめいた男たちに未成熟な裸体を与えたことだろう。
盲目の少女はおのれの美しささえ知らないのである。
たぶんに男の勝手な論理ではあるが、こういう女人こそ阿弥陀仏なのである。
水上勉は評伝「一休」でおのれの理想を森女に託したわけだ。
真実は史書や資料に求めるのではなく、人間の熱い思いにこそ真実は宿る。
こう考えたとき文学作品「一休」には、
学者ごときには断じて到達できぬ真実が描かれていると言えよう。
本当のことよりも嘘のなかに真実がある。嘘こそ真実だ。嘘バンザイ。みんな嘘だ。
どうやらこれは一休宗純の考えでもあるようだから、
その意味でも水上勉の谷崎潤一郎賞受賞作品「一休」は正しいとわたしは思う。