「狂雲集」(一休宗純/柳田聖山訳/中公クラシックス)

→一休宗純は庶民のヒーロー一休さんとして知られる室町時代の臨済宗の禅僧。
一休さんにはかわいいイメージがあるかもしれないが、
一休宗純の実像はそうとうにヤバい人のようだ。あれな人だったわけである。
差別用語を避けるためにカタカナを用いるならばクレイジーな人というのか。
まじもんの人。マジキチなんて言葉を使っていいのかわからないけれど。
明らかに一線を越えてしまった人なのである。
もちろん、当時は精神科医なんて存在しなかったから病院に収容されることはない。
というか、現代の新興宗教のトップも精神医学的に見たら問題ありでしょう?
それに考えてみたら「殺人OK」の親鸞も「自殺OK」の一遍も、
さらには「念仏者はぶっ殺せ」の日蓮大聖人さまもどこかあたまがおかしいわけである。
むかしから新興宗教の偉い人というのはどこかが狂っているわけだ。
とくに室町時代に流行した禅なんてもんは、
もともと矛盾を抱え込んだ二律背反のいかれた世界である。
だって、禅では悟りは言葉にならないと言いながら、禅語録なんてもんがあるわけだから。
一休禅師だってこうして「狂雲集」として大量の漢詩を残している。

そもそも禅僧というのも矛盾した存在で、
外見上は悟ろうとしながら本心では大半が結局のところ上司に認められて偉くなりたい。
たぶん一休宗純は本当のことを言う人だったのである。
ふつうの人はうまく使い分けている裏と表をいっさい隠さなかったのが一休だ。
坊さんはほとんどみんな表では修行して裏では女を買ったり酒を飲んだりしていたのだが、
一休宗純は堂々と大酒を飲み女と遊び、それどころか美少年を犯しもしたのである。
通常なら表では先輩におべっかを使い、悪口は裏で言うものだが、
一休はおキチだったから出世した先輩の誹謗中傷を公然とやらかしたわけである。
一休からは蓮如や日蓮よりもはるかに食わせ者の悪臭がただよってくるのでおもしろい。
蓮如や日蓮の大言壮語、ハッタリよりも一休のそれは危なっかしいと言えよう。
こいつ、あたま大丈夫か? おい、それを言っていいのか?
とこちらが心配してしまうほど一休宗純は狂っているのである。
一休は、自分は本当のことしか言わないと誇っているようなところがある。
しかし、本当のことばかり言うやつは迷惑なのである。
みんな上手に嘘を用いて世渡りしているときに本当のことしか言わないやつは迷惑だ。
そのうえ、いくら一休でも食っていくために多少は嘘をつかざるをえない。
そこを指摘されたら今度は、自分は嘘しか言わないと周囲を煙に巻くのが一休である。
本当のことしか言わないのも、嘘しか言わないことも浮世の世界では不可能だ。
にもかかわらず、あえて「みんな本当」「みんな嘘」に一休はこだわりつづける。

「おれはそこらの坊主とは違うよ」と一休宗純は言いたかったのだろう。
だから、坊さんにもかかわらず飲酒、女犯、男色をしていることを大っぴらに公開する。
庶民も最初は「あのお坊さんは……」とヒソヒソ話に花が咲いたことだろう。
しだいにあまりにマジキチなので、このお坊さんは偉いのではと騙されるようになった。
たぶん一休の実体は「全聾の天才作曲家」佐村河内守氏のようなものだったと思う。
だが、一休宗純の場合、死ぬまでインチキがばれなかったから伝説になったのだろう。
われわれ庶民は根っこのところでいかがわしいやつ、うさんくさいやつが好きなのである。
「おれは本当のことしか言わない」なんてふんぞり返っている坊主はおもしろいのだ。
好き嫌いはわかれるだろうが、江原啓之も細木数子も視聴率を稼ぐタレントだった。
おなじように一休宗純も聖人君子から程遠いあれな人だったから人気が出たのだと思う。
とはいえ、一休が本当の狂人だったかは疑わしいのではないか。
あからさまにあざとく狂気を演出しているようなところもまた見られるからである。
そうそう、一休宗純は天皇の子だという噂がある。
いちおういまの宮内庁は認めているけれども、実際はどうだか怪しいと思っている。
一休自身がこっそり流したデマではないかという疑惑をぬぐいきれない。
精神医学的には血統妄想というのだが、自分は天皇の子だと思い込む精神病患者がいる。
一休宗純はそれではなかったのかとも思うのである。
もし一休が血統妄想を持っていたとしたら本物の狂人ということになろう。
とはいえ、自らを「狂雲」と名づけるこの禅僧の詐病ということも考えられる。
狂人は単一的でつまらないが、自称狂人はなにやらインチキくさくておもしろい。
おそらく、一休さんの人気の理由はこのあたりにあるのではないかと思われる。

じつのところ一休宗純の実像は学問的にはよくわかっていないのである。
伝説はたくさんあるけれども、あれらは江戸時代の創作とのこと。
著作もほとんど残存しておらず、「狂雲集」「自戒集」「骸骨」くらいだ。
このうちでもっとも一休宗純自身が書いたと思しきものが漢詩集の「狂雲集」である。
いまの子は学校で漢文をやらないのかもしれないが、「狂雲集」は七言絶句の漢詩文だ。
「百聞は一見に如かず」だから実際に七言絶句の漢詩文をご紹介したい。

風狂々客起狂風
来往婬坊酒肆中
具眼衲僧誰一拶
画南画北画西東


まあ、わけがわかんないでしょう?
当時のインテリといえば僧侶で、坊さんはインテリぶって漢文(中国語)で詩を創作した。
いまもインテリぶりたいものほど外来語をカタカナそのままで使いたがるのとおなじである。
明らかにハッタリなのだが、室町時代の坊さん連中は権威にとらわれ、
わざわざ日本語ではなく(留学経験もないくせに)中国語でポエムを作ったわけだ。
現代にたとえるならば英語で詩を作って悦に入っていたようなものである。
よく知らないけれど、
いまの流行歌の歌詞にもやたら英語が入っているから日本人は変わらないのかもしれない。
さて、食わせ者でハッタリ屋、見栄坊の一休宗純の七言律詩に訓読を入れるとどうなるか。

風狂の狂客、狂風を起こす、来往す、婬坊、酒肆の中。
具眼の衲僧、誰か一拶、南を画し北を画し、西東を画す。


最初から日本語で書けとも思うが、当時は漢文で書くのが格好よかったのだから仕方がない。
中二病のおっさんが駅前でドリームとかラブとかハッピーとか騒いでいるようなもんだ。
話を戻して、一休宗純の漢詩文を現代日本語に訳すとどうなるか。
このたび一休関連本をたくさん読んだが、訳はどれも異なっているのである。
人によってがらりと詩の意味が変わってしまうのだ。
そもそも室町時代当時の漢文を正確に読める人なんていまの日本にはいないと思う。
室町時代の漢文は、いまで言うならば和製英語(インチキ英語)みたいなものゆえ。
いちおうのところ本書の訳者である柳田聖山氏はこの世界の権威のようだ。
ところが、柳田氏がもう故人だから書いてしまうと、本書の訳はよくわからないものが多い。
博識自慢をしたいのか、やたら訳注をつけているのもたいそう読みにくかった。
おそらく柳田聖山氏は一休よりも自分の博識博学のほうを深く愛したのだろう。
イカサマ師の一休宗純への屈折愛ならばこちらもけっこうなものである。
正しいかどうかはともかくとして(ほとんど間違えだろう)、
この記事で紹介する一休の詩の訳はすべてわたしがつけてしまうことにする。
そもそもの一休さんからしてかなり怪しいあれな人だったのだから、
かえってインチキ訳のほうが相乗効果でおもしろくなるのではないかと思う。

(おれはキチガイ、クルクルパーで飲み屋やフーゾクを席巻している。
かかってこいよマジメな坊さん、ハハハ、おれさまを捕まえられるかな)
風狂の狂客、狂風を起こす、来往す、婬坊、酒肆の中。
具眼の衲僧、誰か一拶、南を画し北を画し、西東を画す。


通常ならば原文を先に出し、訳は後から出すべきなのだろうが、
どのみち原文は意味がわからないだろうから読者さまの便宜を考えまず訳を出す。
しばらく一休の「狂雲集」ワールドにお付き合いください。
以下、一部原文そのままに変換できない箇所は現代漢字あるいはカタカナで代用します。

(お経なんざケツを拭く紙、なーにが竜宮に隠されていたお経だ嘘八百が。
禅の経典「碧岩集」だってきれいなお月さんにゃかないやしない)
経巻は元より不浄を除く紙、竜宮、海蔵、言詮を弄す。
看よ看よ、百則の碧岩集、狼藉たり乳峰、風月の前。


一休さんはことさら法華経を嫌っていたようだ。
一方で浄土教には親しみを感じているというような内容の漢詩文がある。
どうでもいいわたしの話をすると、むかしは法華経を嫌いだったが、
いまはあのお経特有のインチキくささを愛している。
一休はインチキだから法華経に同族嫌悪のようなものを感じてしまったのだろう。
一般に詐欺師ほど詐欺師を見破るのがうまいということが言えるのではないか。
一休が指摘する法華経のインチキは、登場する仏がひんぱんに父親ぶるところだ。
おまえなんか父親じゃないだろうと室町時代に一休は法華経の嘘を見破っているのである。

(一字不説も不立文字も嘘、大乗仏典も嘘。
法華経の父子関係なんてインチキくさすぎやしないか)
一字不説、道(い)うことを信ぜず、大蔵経巻、已(すで)に落草。
オウワ、元来、戴流(せつる)の機、怪しき哉、父は小にして子は老なる。


(とにかく最上の修行である座禅をしよう、果たして如来なんて存在するのか。
たしかに法華経の言うよう三界は火宅のごとしだが、救いの車なんて待ってないぞ)
須く参ずべし、最上乗の禅、等妙の如来、豈に自然ならん。
三界無安、猶お火宅のごとし、三車、門前に在ることを識らず。


一休にかかれば法華経どころか釈迦も大した存在ではなくなってしまう。
37歳で死んだものを火葬してのちに作った詩。

(釈迦も弥勒も長い過去世では牛や馬だ、春の風になにを悩むことがあるか。
6かける6は、ええい、37だ、鐘の音が聞こえてくることよ)
弥勒、釈迦、也(また)馬牛、春風に脳乱して、卒(つい)に何ぞ休せん。
六六元来、三十七、一声の念讃、鐘楼より起る。


(悟りなど存在せず、なにもかもどうでもよいのは前世も来世もおなじ。
本物か偽物かは仏もわからぬ、仏と悪魔は紙一重と言うではないか)
悟徹を失脚して、総て閑事、去劫、来劫、又た此(かく)の如し。
金鍮正邪、仏も分ち難し、聞説(ききなら)く仏魔、一紙を隔つと。


一休はおのれのうちにひそむ悪魔をはっきり自覚している。
一休宗純は悪魔の坊さんなのである。一休の魅力は悪魔のそれである。

(髭をなでながら風の音から空模様まで興に任せて詩にする喜びよ。
外の悪魔、内の悪魔を言葉に表現するおれの住処は燃え盛る地獄さ)
風音、気象、頌と詩を兼ね、興に乗ずる邪慢、吟じて髭を捻(ひね)る。
悪魔、内外、我が筆に託す、猛火獄中、出期無し。


一休は悪魔だから言ってはならない本当のことを言ってしまう。

(どれだけ悟り澄ました顔をしたって、人間なんざ金だよ。
詩も禅も風流心も、秋の物思いも春の愁いも色恋もみんな金さ)
売弄して深く蔵す、貪欲の心、心中密々も、黄金を求む。
詩情、禅味、風流の誉れ、秋思、春愁、雲雨の吟。


いくら天皇の血筋という噂があるからといって坊さんがこれを言っていいのだろうか。
タイトルは「迷悟(迷いと悟り)」である。

(わが心は始めも終わりもなく、成仏などしないのが心の正体だ。
心が成仏するなんていうのは仏の嘘八百、われわれの心は迷っているものだ)
無始無終、我が一心、不成仏の性、本来の心。
本来成仏、仏の妄語、衆生本来、迷道の心。


本当のことしか言わない一休は禅のインチキぶりについて鋭い指摘をしている。
これはだれもが薄々気づいているだろうが、まさか禅僧には直接言えないことだ。
それを悪魔の禅僧、一休宗純はやすやすと言い放ってしまうのである。
どういうことか。
大乗仏教は自利のみならず利他(他人を利する)がなければならない。
しかし、禅など要は自分を救いたい、偉くなりたいというだけではないか。
そんなもんが本当の仏教であるものか。

(中国から伝わってきている禅はインチキだ、ちっとも人を救わないではないか。
本当の真実の仏教は、春が来たら草花が咲き乱れること、なんのために咲くかにある)
祖師禅は是れ如来にあらず、接物利生、尤(もっと)も苦なる哉。
明歴々、金剛の正体、百花春到って、誰が為めにか開く。


悪魔がとりついた狂僧の一休は、
あたかも自分は本当のことしか言わないと主張しているようである。
とはいえ、「自分は本当のことしか言ったことがない」に丸をしたらその人は嘘つきだ。
一休は嘘も嘘、嘘八百の法螺話こそ本当であることも知っていた。
本当っぽい高僧は偽物だが、嘘つきのインチキ坊主は本物なのである。
あらゆる権威を嫌った一休にも晩年はたくさん弟子がついていたらしい。
以下は一休宗純が病気のときに作った詩である。

(うっかり弟子を指導してきたが、十年もの間、教えたのは嘘ばかりのインチキ。
この寺からインチキ坊主を追い出そうとしたら、ハハハ、自分の背中が痛いわい)
錯来(あやま)って衆を領ず、十年余、実語は知らず、多くは是れ虚。
乃ち邪法の輩を破除せんと欲す、夜来、背に欲す、范増(はんぞう)が疽。


一休宗純には天敵がいた。14歳年上の兄弟子の養叟(ようそう)である。
禅の世界における出世は、師匠から印可(悟った証拠)をもらうことである。
権威嫌いの一休は師匠の華叟(かそう)からもらった印可証を破り捨ててしまった。
一方の兄弟子、養叟はおなじ師匠からもらった印可証を後生大事にかかげて、
うまうまと「叟」の字を継承するのみならず後継者の位置についてしまった。
おそらく、一休には養叟のような実務能力はなかったと思う。
さすがに印可証を破り捨てるような破戒僧を組織のトップにはできないだろう。
みんな陰ではしていても、おおやけに酒を飲み女を抱く一休は世間体が悪い。
どう考えても裏表をうまく使い分けることのできる養叟のほうが後継者には適役である。
禅僧だって食っていかなければならないわけである。
このため養叟は、お金を取って印可証を販売するようなこともした。
公案(禅の問題集)の模範解答例を金を取って教えるようなことさえした。
たしかに汚いことかもしれないが、それをしないと大勢の弟子が食っていけないのである。
養叟は世の中の酸いも甘いもかみわけた大人の実務者であった。
ところが、一休は養叟のやり方が気に食わないから公然と兄弟子を批判したわけである。
養叟は悪業の報いでハンセン病にかかったという悪質なデマを流している。
これに兄弟子はどう対応したか。大人の養叟はガキの一休を相手にしなかったのである。
一休の主張するきれいごとにいっさい反論せず養叟は大人の態度を貫いた。
それどころか自分を批判する一休のために寺を世話してやるのだから養叟は人格者である。
大人げない一休は養叟の親切を邪険に振り払う。
兄弟子の養叟が親切心から世話してくれた如意庵をわずか10日で引き払うのだから。
そのとき作った詩が残っている。

(寺なんぞ10日で飽き飽き、おれの娑婆っ気は強すぎるぜ。
後日、養叟和尚がいらしてどこに行ったのかと聞かれたら、
魚屋か酒場、あるいはきれいなオネーチャンのところと答えておくれ)
住庵十日、意忙々、脚下の紅糸線、甚だ長し。
他日、君来って、如(も)し我を問わば、魚行、酒肆(しゅし)、又た婬坊。


のちに実務家としての能力を評価された養叟が天皇から勲章をいただく。
ふつうこういうときは嫉妬を隠すものだろう?
ライバルが出世したら見て見ぬふりをするものだ。
しかし、あまりにも人間くさい一休宗純は嫉妬丸出しの詩を作るのである。

(勲章をもらったそうだが財布は大丈夫か? いくらだ? いくらした?
養叟の正体はインチキ坊主、それも盗っ人根性猛々しいやつだ)
紫衣師号、家の貧を奈(いか)ん、綾紙の青銅、三百ミン。
大用現前、贋長老、看来れば、真箇、普州の人。


一休宗純はおのれの品性を疑われるような詩を平気で作っているわけだ。
紫綬褒章をもらって喜んでいる同僚作家を、あいつはインチキだと嘲弄するようなもの。
そのうえで、さらに一休がおもしろいのは自棄酒を飲みながら自虐するところだ。

(みんなあっちの寺に行きやがる、偉いやつがそんなにいいかね?
おれんとこにゃだれも来ないから、ひとりで酒でも飲んで歌うとするか)
人多く大灯の門に入得(にっとく)す、這裡(しゃり)、誰か師席の尊を捐つる。
淡飯粗茶、我に客無し、酔歌、独り倒す、濁ロウの樽。


どうしようもないやつであることを隠さないのが真の禅師なのだろうか?
一休はライバルの出世に嫉妬して自棄酒を飲みながら自己憐憫にひたる男であった。
さて、女関連はどうだったのか。商売女を抱くことは若いころから好んでいたという。
一休で有名なエピソードは盲目の演歌歌手、森女(しんじょ)である。
一休宗純は77歳のときに、美しき瞽女(ごぜ)の森女と出会い囲っている。
森女をフィクション扱いするものもいるが、
実在したとしたら年齢は30そこそこだったと言われている。
美しき女と相思相愛の関係になった喜びを一休宗純は「狂雲集」に高らかに歌い上げている。
本当かどうかわからないが80近い一休宗純はあっちがまだ現役だったらしい。
視覚障害者を大股開きにして口淫する悦楽を一休老人は作品にしている。
タイトルは「美人の婬水(いんすい)を吸う」である。

(いいか? おれの舌は気持いいか? 声に出せよ。次の世でも一緒だぞ。
おれは畜生道に堕落したから、畜生になりきってやる、今日からアニマル一休だ)
蜜に啓し自ら慚(は)ず、私語の盟、風流、吟じ罷(や)んで、三生を約す。
生身堕在す、畜生道、イ山戴角の情を超越す。


一休によると森女の手コキがこれまたよかったという。
いったいこんな記録を残して一休はなにがしたかったのだろう?

(自分でやるよりきみの手でやってもらったほうがいい、きみは女神だよ。
ムラムラきたら天皇の血を引くおれさまのイチモツを盲目のきみが慰めるんだ)
我が手、森手に何似(いかん)、自ら信ず、公は風流の主なるを。
発病、玉茎(ぎょくけい)の萌ゆるを治(じ)す、且(しば)らく喜ぶ、我が会裡の衆。


盲目の森女は一休のどこに惚れたのかきちんと記録に残っている。
視覚障害者の森女は、
一休が天皇の落胤(隠し子)であるという噂を聞きつけ好きになったという。
あれほど権威が嫌いだった一休だが最晩年は見事なまでに出世しているのがおかしい。
81歳で一休は大徳寺の住持になっているから大出世と言えよう。
なにやら一休は天皇の落胤(らくいん)という噂をじつにうまいこと利用して、
自由気ままな快楽人生を最後まで破綻することなく渡りきった食わせ者くさいのである。
もし一休宗純が天皇の血筋ではないことがばれていたら、
とてもあのように自由に言いたい放題では生きられなかったのではないか。
いまや真相は闇の中だから一休は歴史上、偉人として君臨しつづける。
あらゆる権威という権威を否定した一休が唯一礼賛していた権威がある。
それは皇室という権威で「狂雲集」にも天皇家を称賛する作品がいくつもある。
「狂雲集」から読み取れる一休宗純は限りなく偽物くさいと言えよう。
にもかかわらず、ではなく、だから一休さんは本物だったような気がする。
本物くさいやつというのはたいがい偽物なのだから。
本当とはなにか? 最後まで嘘だとばれなかったことが本当になるのである。
だとしたら、最後まで風狂を演じきった快楽的愉快犯でペテン師の一休は本物だと思う。
勲章(印可証)への異常なこだわり(破り捨てるのはコンプレックスの裏返しゆえ)、
俗っぽい自己愛と自己喧伝、激しい嫉妬心と攻撃性――。
まるで池田大作さんを思わせるような一休宗純がわたしは嫌いではない。

「人生の価値それとも無価値」(ひろさちや/講談社)

→宗教評論家のひろさちや先生もむかし騒音恐怖症だったのである。
なんで知っているのかというときっかけが騒音恐怖症だったからだ。
8年まえ本当に騒音恐怖症に悩んでおり、
どうにかならないかと氏の般若心経解説本に手を出したのがひろさちやとの出会いだった。
その本で、ああ、ひろさんも騒音恐怖症だったのかと親近感が増したものである。
ここに治った人がいるとだいぶ慰められた記憶がある。
意外と知られていないが、ひろ氏と哲学者の中島義道氏の主張は似ている。
どちらの著作もかなりの毒を持っているのである。
どうしようもなく病んでいるときは両者の毒が薬となって効くのだろう。
ところが、薬とはいえ元来は毒だから、病気が治っても服薬するのはよくない。
最近、ひろさちやという麻薬の副作用に悩まされているようなところがある。
人生はデタラメなんだからあきらめていい加減に生きようなどと思うのは、
さすがにまだ四十にもならぬ身にはよくないのではないだろうか。

ひろさんはめったにプライベートを書かないが、
本書で知ったこのエピソードのモデルはだれだろう。
むかしひろ氏はある大学教授から「自分の子どもはかわいいか?」と聞かれた。
「ええ、かわいいですね」と答えたら師にそれではいけないと否定されたという。
「それじゃあ駄目だよ。それだと、立派な学者にはなれんよ」
子どもにかまけている暇があればもっと勉強しろというわけだ。
ひろさんは師の忠告を聞かなかったから自分は立派な学者になれなかったと自嘲している。
この師の大学教授とは、だれだろうか?
ひろさんの指導教授、インド哲学、仏教学の天皇陛下、中村元としか思えないのだが。
ひろさんは直後に、
立身出世した人の家庭は幸せではない場合が多いと意味深な指摘をしている。
立身出世するためには家庭を犠牲にしなければならないからというのが理由だ。
もしかしたらこれは中村元への当てつけなのだろうか?
中村元の家庭はもしかしたらめちゃくちゃだったのかもしれない。
運やツキというのは、どこでどう上昇したり落下したりするのかわからない。
立派な学者にはなれなかったが、庶民に大人気のライターひろさちや氏によると――。

「たとえば、ツキというものがあります。
勝負事などで幸運に恵まれるのをツキと言います。
あるいは運でもいいのです。
このツキや運というものは、存在を証明できるものではありません。
信じるものです。ツキがあると信じていれば、実際ツキがある場合が多いですね。
信じない人には、そんなものはないのです」(P201)


やたら手下が多そうな受賞歴多数(紫綬褒章、文化勲章、勲一等瑞宝章)の中村元と、
受賞歴こそないが講演会はいつも満員のひろ先生は、どちらがツキを持っていたのだろう。

「騒音文化論 なぜ日本の街はこんなにうるさいのか」(中島義道/講談社+α文庫)

→カント信奉者の中島義道さんの存在を知ったのは自らの病気がきっかけだった。
8年まえだったか、いきなり騒音恐怖症になってしまったのである。
スピーカー音がやたらうるさく感じられ抗議してやめさせたくなるノイローゼだ。
とくによく喧嘩をしたのは共産党員および支持者のスピーカー演説だ。
だれも聞いていないだろう、やめろ。いや、みんな聞いている。おまえも聞いていけ。
ときにはつかみ合うような傍から見たら滑稽極まりない恥ずかしい喧嘩を何度もした。
石焼き芋にうるさいと言いに行ったこともある。
りんりん餃子という名前の移動販売車とは繰り返し言い争いをしたものである。
あるときネットで相談したら、
中島義道という哲学者がおまえとおなじことをしていると教えられた。
恥ずかしながらそのときまで有名な哲学者の中島義道先生を存じあげなかった。

中島さんの騒音関連本は読んだら絶対に病気が悪化するからいままで禁書にしていた。
長いこと積ん読していた本書を開いてみたのは、
8年かけてそろそろかなり改善したのではないかと思われたからである。
いまや相当程度の騒音にもあきらめて我慢することができるようになっている。
8年かけて自然に騒音が少しずつ気にならなくなったのだ。
あんがい中島義道さんもいまは騒音恐怖症が治っているのではないだろうかと思う。
本書で知った「戦う哲学者」中島義道のご活躍ぶりは雄々しい魅力にあふれている。
中島さんの世馴れたところは騒音抗議の最初にまず名刺を差し出すところである。
「電気通信大学教授・哲学博士」(当時)と肩書が入った名刺をまず手渡す。
あるいは自分は大学教授であると名乗り、暗黙裡におまえよりは知的に上なんだと威嚇する。
中島義道さんのこういう世間知にまみれた姑息な態度は評価がわかれるだろう。
とはいえ、わたしでもそんなご大層な肩書があったら絶対に使うから、
計算高い中島さんをこずるいなどと一方的に裁くことはできまい。

本書で解説をしているのがストーカー加害の前科を持つ、
いまは夫婦そろって作家をなさっている小谷野敦氏である。
おなじく東大卒の男ふたりはよく比較されることが多いけれど、
以前犯罪行為を平気でできる小谷野氏に軍配をあげたことがある。
しかし、本書を読んで中島義道さんもぜんぜん負けていないぞと嬉しくなった。
なんでも早朝のスピーカー放送をやめない自治会長の家に深夜3時、
東大卒の中島哲学博士は無言電話を数度繰り返して痛みをおすそ分けしたそうである。
それってほとんど犯罪じゃんと中島さんの行動力に改めて敬意を表した。
この「自分は絶対に正しい」という信念は東大卒ならではだと思う。
そうだとしたら、東大なんて落ちてよかったのかもしれない(負け惜しみ)。
中島さんは照明過敏症でもあるようで、抗議活動の記録が本書にある。
いわく、看板の照明が過剰なラーメン屋の善良夫婦を、
大学教授の肩書を盾にしてなかば脅したようである。おれがいやだから照明を消せ!
おれは東大卒だから、哲学博士だから、大学教授だから、
ラーメン屋の無学な夫婦よりも正しいのだ。
ここはさすがにラーメン屋夫婦に同情してしまったわたしは間違っているのだろう。
あるいはこのために8年もの時間はかかったが騒音恐怖症が軽減したのかもしれない。

「選ぶ力」(五木寛之/文春新書)

→人生の大勝利者にして大成功者の著者のエッセイを読む。
勝利や成功はなんによってもたらされるか? 選択である。
選択の積み重ねがいまのあなたやわたしの人生を形作っている。
受験問題の選択肢ではかならず正しい答えがあるが、
人生における選択問題においては唯一絶対解はないのがおもしろい(しんどい)。
人生の選択問題は「結果的に正しい」ことでしか証明できないのである。
たとえば成功者の五木氏のように、
人生におけるある選択の正しさは「結果的に正しい」ことでしか証明できない。
人生問題の選択肢の答えは、選ぶまえには絶対にわからないということだ。
選んだ結果、プラスになれば正解。マイナスになれば誤答になる世界だ。
そうだとしたならば、この世界の真理のようなものはあるのか?

「もしこの世界に真理というものがあるとすれば、
それは黒か白かということではない。
黒でもあり、また白でもある。それが究極の答えではないか。
人は努力することで、自分の運命をつくりだすこともできる。
しかし、どれほど真剣に努力しても、できないことはある」(P116)


真理は黒でもあり、白でもあるならば、いったい人はどう生きたらいいのか。

「人はそれぞれ百人百様です。
ある人に良かったからといって、他の人に良い効果があるとはかぎりません」(P180)


黒も白もいい。黒も白もそれぞれ正しい。
日々われわれは情報の真偽(白黒)に左右されているとも言いうる。
もし黒も白も正しいならば、われわれは大量の情報にどう向き合えばいいのか。
どう人生を選択していけばいいのか。

「情報を選ぶというのは、賭けることだ。
一つの情報を全存在をかけて選んだ以上、その結果は運を天に任せるしかない。
私はそう思う」(P80)


もし世界に正しいものがないのだとしたら賭けるしかないということだろう。
賭けに大勝利した作家のエッセイから得られる当面の結論である。

「衣食足りて」(山口瞳/河出書房新社)

→石原慎太郎が嫌いに嫌っている山口瞳(男性作家)のエッセイ集を読む。
山口瞳は直木賞作家で小説家だが、酒、旅、競馬のエッセイもよく書いた。
「もてない男」の小谷野敦さん(この愛煙家も酒飲みの山口瞳が大嫌いらしい)が
著書「評論家入門」でどうしたらエッセイストになれるのかという疑問を提出していた。
これはまったく本当にそうだと思う(エッセイストになりたい!)。
なにかの分野の専門家のくずれたものが一般的にエッセイを依頼されているようだ。
ならば、原稿依頼をされなければエッセイストにはなれないということだ。
いったいどうしたら編集者さんから原稿を依頼してもらえるのか?
人づきあいをうまくやるしかないという結論にいたろう。
人間関係構築能力が高いものほど山口瞳のようなエッセイストに近づくことができる。
山口瞳のじつにエッセイストらしい人間観はこうである。

「ある人を評価するには、その人の友人が誰であるかを見ればよい、
と私は確信しています」(P19)


原稿を依頼してほしかったら編集者さんや、
彼(女)が尊敬する作家さんに気に入ってもらうしか方法はないのである。
編集者さんや有名作家さんの友人になれればいちばんいい。
人づきあいがうまかったエッセイストの山口瞳は、
本書によると友情とは利害関係であるという信念を持っているとのことである。
人間関係とはなにか? 友人関係とはなにか?

「この人と交際したら得だと思ったらつきあえばいい。
少なくともそのほうが長続きしますよ」(P167)


ある時期から山口瞳は権力者になったから、お近づきを求めてくる人が増えたそうだ。
お中元にはよけいなものが山ほど自宅に送りつけられて迷惑したという。
とはいえ、それは仕方がないのだ。
権力者の山口瞳に気に入られたらそれだけいい思いができるのだから。
そうはいっても石原慎太郎が大嫌いな山口瞳からひいきにしてもらうのは大変だったようだ。
山口瞳のように友情=利害関係と思ってしまうと人間嫌いにならざるをえない。
人間嫌いの権力者は手下のものにまこと厳しいのでぞくぞく震えがきた。
石原慎太郎が山口瞳を憎んでいた理由もなんとなくわかるような気がする。
もうとっくに死んでいていまはなんの権力もない山口瞳は独裁者気質だったようである。
人間操作術に長けたエッセイストはこのような自己分析をしている。

「私の一番悪いところは、これは人にも言われ、
自分でも何度か書いたりもしているのだが、次のようなことである。
仕事の面で評価できる人と交際するようになると、
私はその人に肩入れをしたり、いれあげたり、ヒイキにしたりする。
しかし、交際が深まるにつれて、相手が狎(な)れてきて、
それが度を超すようになると、急に冷たくなって、あっさりと捨てるようになる。
これがイケナイと言われる」(P137)


まるでワンマンオーナー社長である。
山口瞳存命時のみならずいまでも出版業界で出世したかったら
編集者さんや作家さん、有名人さんにひいきにしてもらう以外の道はそうないのである。
しかし、あの業界にはおそらく山口瞳のような人がわんさかいるから楽ではないのだろう。
ちょっとでも気を許してなれなれしくしたら、すぐに切り捨てられてしまう世界だと思う。
権力者からひいきにされたかったら、たとえば――。
ある作家のトークイベントに北海道から上京してくるくらいの忠誠心が必要なようだ。
のみならず、わざわざ北海道から来たと表明し恩を着せなければならない。
いま出版業界で出世している先生方はやはりそれだけの努力をしているのだと思う。
山口瞳いわく、友情は利害関係にすぎない。
だとしたら、極めて少数ながらも
利害関係からはみ出た人間関係を持つわたしは果報者なのだろう。
おそらく、友人(利害関係)がたくさんいた山口瞳よりもこの記事の書き手は恵まれている。
死者に鞭打つようだが、へたをすると山口瞳はひとりも友人がいなかったのではないか?
言い換えたら、そういう孤独を引き受けなければ山口瞳のような成功者にはなれない。
嘘つきの河合隼雄さんではないが、まったく「ふたつよいことさてないものよ」である。

2月22日、山田太一ドラマ「時は立ちどまらない」を視聴する。
日を分けて2回観たが、これは感想を書けないドラマだと思う。
どういうことか。原爆ドラマ、障害者ドラマ、白血病(難病)ドラマは危険物だということ。
うっかりした感想を書いてしまうと書き手がとんでもないひどい人間のように思われてしまう。
どこか違和感をおぼえても、それはなかなかおおやけにはできない。
よくわからないが、もしかしたらの話をしよう。
もしかしたらさ、津波で家族3人のみならず、
家屋、財産、商売道具、なにもかも失った被災者のほうが幸福かもしれない。
これほど不幸な被災者がいったいだれより幸福だというのかと怒鳴られてしまうのか?
答えは、夫も五体満足の子どももいるが、しかし、にもかかわらず孤独な主婦である。
考えようによっては、そうとも言えなくはないのではないか。
なんとなく大学を卒業して就職した先でいまの夫と結婚して子どもを産んだ専業主婦。
人からはいいご身分ねと言われそうな環境だが、
本当は彼女は被災者よりも不幸かもしれない。
家族を何人も津波で亡くした被災者よりも、
かの平安な専業主婦の孤独のほうが深いかもしれないわけだ。
山田太一は泣き叫ぶ被災者を描く大作家ではなく、たとえば平凡な主婦の
ありきたりな日常の細かな悲喜の味を巧みに描写するライターだと思っている。

新聞を取っていないので詳細は知らないが、山田太一さんはよく朝日新聞に登場するらしい。
そういういわば朝日論客のひとりとして、
震災をテレビドラマでも扱わなければならないと思ったのだろうか。
批判を恐れず不謹慎なことを書くと、新聞を読まずテレビニュースさえ見ない当方にとって
東日本大震災はいうなれば「対岸の火事」のようなものであった。
一方どうやらマスメディアの中心にいる人は、ものごとを日本単位で考える傾向にあるようだ。
山田太一さんは基本的に私を単位としてものごとを考えている人のように思える。
しかし、震災以後、マスメディアから発言を求められることも多かったのだろう。
テレビドラマは震災になにをできるか、というようなことをおそらく考え始めてしまった。
震災や津波のドラマは、日本への説教が大好きな東大卒の倉本聰先生が
お書きになったほうがよかったのかもしれない。
もちろん、「時は立ちどまらない」にも(よく観ないと気づかないが)、
山田太一作ならではのよさもふんだんにあったのだけれど。

震災や津波にはテレビドラマがまだ立ち入ってはいけなかったようにも思う。
立ち入らないこともまた優しさであり思いやりだ。
一般的に手を貸してやるのが優しさだと思われているが、立ち入らない思いやりもあろう。
むろん、山田太一さんがそんなことをご存じないわけがない。
勝手な推測だが、ニュース報道やドキュメンタリーだけには任せておけないと思ったのだろう。
テレビドラマでしか描けない本当のことがあるはずだ。
しかし、テレビニュースや新聞で報道されない本当のことは、
いまや(山田太一先生はご覧にならないらしい)ネットに公開されていることが多い。
「時は立ちどまらない」における多少不謹慎なセリフも、ネットでは大して意味を持たない。
山田太一老人が見ようとしないらしいネットには、
真偽こそあやふやだがまこと刺激的な本当のことで埋め尽くされている。
震災や津波でひと山当てたものがいたとか。
パチンコ依存症になっているものが多いというのもテレビでは流せない。
あんな震災なんぞに遭ったら酒びたりになるのが当然ではないかと個人的には思うが、
多数派から支持されなければならぬテレビのドラマではそこまで踏み込んだ描写はできない。
細部で描写しようとしていたことは2回視聴してわかった。
よくできたドラマであったと思う。
このドラマは(匿名ではない)公的視聴者からは賞賛しかされないのではないか。
それはなにも山田さんがとても広くて浅いシンパをお持ちだからというわけではなく、
ドラマを批判したら被災者になにやら申し訳なくなってしまうためだろう。
セリフを追いながら、このドラマのよくできたトラップ(罠)を見ていこう。
まず震災や津波は不公平であるという歴然たる事実が露呈する。
どうしておなじ地域(日本)にいても、無事だったものとそうではないものがいるのか。
ここで無事だった中井貴一はいう。

「自分の無事が後ろめたい」

このセリフがドラマ視聴者を裁く第一刃である。
みなさん、あの震災や津波が起きたときに後ろめたさを感じましたよね?
自分たちが無事であったことを後ろめたく思うのが上質な人間ではないか?
まっとうな人間ならばおのれの無事を後ろめたく思いますよね?
非国民以外は――。
信用金庫支店長の中井貴一は被災者の顧客から囲まれ罵声を浴びせられる。

「津波に遭わないもんにゃわからんよ」

震災や津波に後ろめたさを感じた善良なるあなたはこういわれたらどうだ?
自分の無事が後ろめたくいろいろ親切にしていた被災者から、
「津波に遭わないもんにゃわからんよ」と言われたら腹が立たないか?
中井貴一はテレビではいってはならないセリフを早口でいい放つ。
テレビではいってはいけないが、ドラマでならば可能だと山田太一が判断したセリフだ。

「津波でなんでもなかったのは俺のせいじゃない」
「津波に遭ったと聞けば、だれにでも優しくしなきゃならないのか?」
「そうそう人の身になれるか!」


信用金庫支店長の妻は賢くも慌てて夫のいってはならぬ本音を打ち消す。
こういうゲスな庶民の打算的な処世術めいたセリフが山田太一ドラマらしくとてもいい。
妻は支店長の中井貴一にいう。

「あなた、そんなことを外へ出ていったら一生終わるよ。
信用金庫の支店長がそんなことをいったら終わるよ」


おおやけにはいえない言葉をみな持っているのである。
そういう本音は本当のことだけにテレビや新聞の報道ではなかなか登場してこない。
このため、脚本家はこのドラマを世に問いたかったのだろう。
むろん、山田太一さんのご覧にならない(らしい)ネットでは
当たり前のようにほとんど常識として流通している本音だが、
テレビや新聞、被災地の信用金庫ではそういう生々しい言葉は公開しないほうがいい。
脚本家はマスメディアが拾えない裏の言葉を表に出したかった。
山田太一さんはどうしようもなくテレビや新聞といったマスメディア世界の住人なのである。
ドラマの最後で中井貴一の妻がわかったようなことをいう。
場所は津波の被害に遭った海辺のようだ。

「この海(を)見て、ここらに立てば、だれだって大泣きしたいよ」

ブログはマスメディアではなく、個人メディア(むしろ落書だな)である。
当方には信用金庫支店長のような大それた社会的地位もない。
過疎ブログの長文記事の最後で本当のことをいってしまおうと思う。
わたしはたぶんその海を見ても泣かないだろう。
まさに「時は立ちどまらない」である。
震災後にもいろいろなことが「かわいそう」な被災者以外に起こっているのである。
家族が自殺したものがいよう。難病で高校生の息子を亡くしたものもいるだろう。
夫が急死したものもいるかもしれない。障害児を産み育てている母親もいるだろう。
かと思えば息子や娘が出世して高笑いしている父母もいるのだから憎らしい。
こういう勝利父母こそドラマの被災者に過剰に同情しておのれの善人ぶりに酔うのである。
まあ、大半の人は3年も経てば「それどころではないよ」というのが本音ではないか。
しかし、表の世界でそれをいったら社会的に排除される可能性が高い。
だから、わたしも山田太一ドラマ「時は立ちどまらない」の感想をこうまとめよう。
被災者のみならずドラマの登場人物がみながんばっているので、
ぼくも負けないようにがんばろうと思いました。
がんばろう、日本。がんばろう、おれ。けっこうマジメに思っている。がんばらなきゃ。

(おまけ)
どうでもいい話。柳葉敏郎がおでんをクチャクチャ食うのがいやで仕方がなかった。
あれはライブでも山田太一脚本でなかったらテレビを消すレベルの不愉快さ。
ネットでは柳葉敏郎の食い方はクチャラーと呼ばれている。
東北漁民はああいう汚い食い方をするという差別意識でも俳優か演出家にあるのだろうか。
クチャクチャ食うなよ。見てて気持が悪い。
クチャクチャ会食のあとに柳葉敏郎のいじめっ子だった過去が暴露される。
あいつはいかにもいじめっ子の顔だから、中井貴一のほかにもいじめていたのではないか。
柳葉敏郎は母、妻、長男の3人を津波で亡くしている。
あんがい、なかには天罰だ、ざまあみやがれと思った人もいるのではないか。
これは山田太一ドラマのみならず、ネットにもめったには出てこない危ない本音である。
死んだ被災者にざまあみやがれと思ったという本音もかならずあると思う。
テレビドラマどころかネットでもなかなか公開できない人間の暗部である。
以上は演出や演技への指摘で、
柳葉敏郎さん本人のご人格をうんぬんしたものではありません。
柳葉敏郎さんはとてもいい俳優さんだと思います。
そういえば黒木メイサが演じる女も大嫌いだった。
名門一家の生まれで一流大卒、堅実な就職、野心もあり目標は政治家、美人で正義派気取り。
あんな女に人の痛みがわかるはずはないと思うが、それはひねくれ者の偏見で、
実際はああいう女性がみなに愛され人の役に立つ使える人材なのだろう(ドラマ通り)。
これも役柄への否定感情で黒木メイサさんがどうこうというわけではありません。
最後に本音をぼやく。黒木メイサのヌードやパンチラがあったらもっとよかったのになあ。
たとえば今日やらかしたメールデータうっかり全消去なんぞは自己責任と言われよう。
けれども、本当に本当に自己責任かと考えるとよくわからないんだなあ。
なんで自分がこんなことをしてしまったのかいまでもわからない。
確認を怠った、注意が足らなかったと他人から指摘されたら否定できない。
でもなーんか、違うんじゃないかという思いもあるのである。
後悔ではなく、これでよかったなと思う気持とでも言おうか。
人間だれでもミスをするものなのである。人はみな取り返しのつかないミスをしでかす。
メールを消したくらいだったらまだいいほうではないか。
おそらく、これと同じ仕組みで交通事故が起きているのだと思う。
満員の駅でうっかり乗客と口論になり相手を突き飛ばして殺してしまったときも、
いまとおなじようにたしかに自己責任だが、そう言われるとしんどいなと思うような気がする。
少なくとも家を出るのが5分遅れてその場に居合わせなかったら
事件の加害者にはならなかった。メール消去のミスだって、
今日ではなく明日データの移行をしていたら結果は違っていたはずだ。
ミスがよいのかよくないのかもわからない。
これはデータ消去程度だから思えるのだろうが、おかげで新風が舞い込み、
今日をきっかけに運が開けてくるのではないかとさえ思っている。
交通加害事故を起こしたのがかならずしも悪いかはわからず(相手が軽傷の場合)、
もしかしたらこのおかげで子どもは自殺することからまぬかれる結果になるかもしれない。
浮世を一歩引いて見てみると、なにがなににどう関係しているかわからないのである。
ある損失がめぐりめぐってとんでもない僥倖として返って来ることが
人生ではないとは言い切れまい。
本当はなにがなんだかまったくわかっていないのだと思う。
いまもってなお、なにとなにがどう関係しているのかさっぱりわかっていない。
少なくとも婚活に励んだら幸福な結婚確率が増加するというのは嘘だろう。
人の人のご縁というものはそういうものではない。
なぜだれかが交通死亡事故を起こすのかはわからない。
いったいどういうわけで殺人をする人がいるのかもわからない。
どうして今日わたしがメールデータをすべてうっかり消してしまったのかも同様わからない。
決してわかりはしないが、しかし、いまのままで世界は安定しているのだろう。
毎日のように交通事故、自殺、犯罪、戦争は起こっているが、
にもかかわらず、世界はこのままで安定している。調和が取れている。
嘘つきの河合隼雄さんが好きだった華厳経に描かれている世界観である。
大半はもうご覧になっていないでしょうが、過去わたしとご縁があった方たち。
おめでとうございます。
みなさんが送ってくださったメールは本日すべてわたしの不始末で消えてしまいました。
もう「妻を殺してくれ」と依頼してきた男のメールは世界中どこにもありません。
5、6人の創価学会員さんたちとのメールのやり取りもすべて闇の中。
「警察に被害届を出すからお前は前科者だな」と脅してきたおばさんのメールも消滅。
ムー大陸、ころにゃん、論先生、うどん等の旧2ちゃん系お仲間たちからのメールも消失。
「名誉棄損で訴える」と吠えていたインド学者さんからのメールもこの世に存在しなくなった。
むかしはけっこう女性と逢っていたりしていたんだけど、そういう証拠もぜんぶ隠滅。
たまにくる老人からの説教メールもきれいさっぱり消え失せた。
忘れられないあの子からのメールも消えちゃったと思うとさみしいけれど、
おれの心の中までは消せないぜ、ハニー。
一度有名作家から怒りの長文メールをもらったが、ああ、あれもこの世にはもう存在しない。
いつか公開したら当人の社会的評価が没落すること請け合いのおもしろいメールだった。
アルバムを見返したりはしないのとおなじ理由でメールも読み返すことはない。
だから、さみしいといったら嘘になるのだが、
完全に消えてしまったと思うといいおっさんのくせにまるで心に穴が開いたよう。
得れば失う。失えば得る。
ならば、きっとこのたびのうっかりミスで思いのほか得たものもあるのかもしれない。
「死ぬ」とか「殺して」、「キチガイ死ね」とか不穏なメールがやたら多かったから、
送信者のみなさんは証拠がもう世界中どこにもないのでどうかこれからご安眠くださいませ。
過去にさようならするのもなかなかいいもんだ。
できることならばブログどころか人生ともさようならして、
長らく不眠症で苦しむ身としては永眠という安らぎを目指したいところだが、
ざまあみろと笑うやつがいると思うとそうもいかない(だれもおまえなんかに関心はないぞ!)。
しかし、今日はめでたい。
けっこう狂ったメールを送りつけられることが多かった。
すべて証拠は消えたからね。こちら1万とか払ってデータを復活する気はないゆえ。
まあ、雪が解けて水になった、つまりは遺恨を水に流したようなものなのだろう。
あしたからはまっとうな人間になりたいものである。
消えてもう取り戻せないとなるとかえって安らぐ心があるものだ。
家族が新興宗教にいれあげてお困りの人もいるのかもしれない。
たぶん、もっともよくないのは洗脳を解こうとすることだ。
相手の意見に反論すると、向こうは自説をさらに強固にするだけである。
ならば、どうしたらいいのか? あきらめるしかない。
まあ、人間なんてそんなもの、人生なんてこんなものとあきらめる。
洗脳家族が信仰自慢をしてきたら、ああ、ほんとうにそうだねと言ってやる。
とはいえ、洗脳された人も信仰に疑問を感じるひとときというものがあるものだ。
そこがチャンスだ。といっても、相手の間違いを指摘してはならない。
いやあ、それは新興宗教団体のほうがあなたよりも正しいんじゃないの?
とこれ見よがしに言ってやるのである。
そもそも絶対的に正しい考えなどないのである。
最先端の現代科学でさえ百年後には呪術レベルだ。
相手も正しいし、自分も正しい。だとしたら、相手も自分も同様に間違えている。
そう思えたらむしろ新興宗教のほうが正しいと、疑惑にかられた洗脳者に言えるはずである。
そのとき、新たな世界が開けてくると思う。
これはあらゆる依存症(中毒)患者への対策にもなるような気がする。
酒精中毒も賭博中毒も恋愛中毒もみなみなあなたとおなじようにきっとそれぞれに正しい。
いま興味にまかせて一休さんの本をかため読みしている。
一休は晩年に森女(しんにょ=真如?)という若い盲目の愛人を囲っている。
愛人というか、まあ、盲目のセックスフレンドだ。
老僧一休は視覚障害者の女性にM字開脚をさせてクンニするのを好んでいたとのこと。
見られずに見る危険な性的快楽を高身分の破戒僧一休は堪能した。
さて、目が見えていないものほど真実を見ているというテーマは古今東西にあるようだ。
ギリシア悲劇の「オイディプス王」は真実を知って、おのが目をつぶす。
シェイクスピアの「リア王」もそうである。
われわれの明いた目ほど、ものの本当の価値を見誤るものはないのかもしれない。
あるいは目があるがために対象物の真贋を見落とすのかもしれない。
五感のいずれかが閉じているからこそ、
第六感がすぐれているという庶民好みのストーリーに準じる見方だ。
もしいまの商業文芸出版が庶民を顧客対象にするならば、
あるいは目が見えない選者に作品を朗読して聞かせたら、
いまとは別の基準から本当にいいものが選ばれる可能性もなくはないだろう。
むろん、自分が選ばれる自信などさらさらないけれども。
めくら勝負で勝つ自信がからきしないのである。
たとえば、ウイスキーを5種類、目のまえに出される。
安いものも高級品もあるとする。
どれが高価なものか当てる自信がまったくないのである。
麦酒、発泡酒、第三のビールでもおなじだ。
ラベル(肩書)を見せられなかったら、どれが高級かとても言い当てられない。
むかし父親からある麦焼酎を高級品とだまされお土産にもらったことがある。
パソコンがいまほど普及していない大学生時代の話だ。
「やはりプレミア焼酎らしくうまかった」と答えたら父はほくそ笑んでいた。
あとになって酒屋でその焼酎を発見して、
安い大衆焼酎だと気づきおのれの感覚の不確かさを知った。
このようなことは自分だけなのだと思いたい。
文芸(小説、詩、評論、短歌、俳句、エッセイ、シナリオ)のコンクールというものがある。
あれらの選者は本当に自由な境地で作品を吟味しているのかどうか、
ゲスな性格のため疑心暗鬼になってしまう。
もし有名作家の文章をそうとは知らぬ選者に読ませたらボロクソに批判するのではないか。
いや、そんなことはないと思いたい。
大半の人間は権威(評判=世間=肩書)になど
踊らされぬ絶対客観視点を持っているのである。
みながみな、わたしのようにラベルがないと味がわからぬ人間ばかりではない。
10年以上もむかしスーパーの半額中国産うなぎを
専門店の国産天然うなぎよりもうまいと思ったわたしは間違えている。
正しいのは国産天然うなぎである。
そして、ほとんどの国民が正しい舌をお持ちだと思うべきだろう。
東京も大雪でわくわく。こんばんわ。新雪を踏みしめるっていいもんですね~。
おれさまが最初の足跡をつけてやるみたいな、えへっ。
真っ白い雪をわが短足で汚しながら思ったことがあるんです。
損はたぶん得なんだろうなということであります。
長い目で見たら損はかならず得になり、得はかならず損になる。
この場合の長い目というのは来世や来々世もふくんでいますからね。
とはいえ、この法則は現世でもかなり当てはまるのではないでしょうか。
損をしたと思ったときは、どこかで得をしているからラッキーと思う。
得をしたと思ったときは、
このプラスはかならずや損をともなっているからといい気にならない。
毎回1枚のコインが配られていると思えたらどんなに楽なことでしょうか。
あるものはコインの表(得)を見て、あるものはコインの裏(損)を見る。
損(裏)も得(表)も1枚のコインに過ぎない。
バレンタインのチョコをもらえたのは大きな損害かもしれない。
1枚もチョコをもらえなかったのは感謝すべき利得かもしれない。
コインを考えたら、裏(損)は表(得)である。
コインを考えたら、表(得)は裏(損)である。
きっとこのコインがいわゆる神仏という、いかがわしいやつらなのではないかしら♪
危ない遊びほどわくわくするおもしろいものはなかなかないだろう。
みなさんも子どものころに危ない遊びをした思い出がありませんか?
麻薬的と言ってもいいぞくぞくするほどの愉楽が危ない遊びにはあるのである。
みなさんがいまこうして生きているということは、
少年少女時代の危ない遊びで実際にそれほど危険な目には遭わなかったということである。
危ない遊びをしている子どもは、その遊びが危ないことをよくわかっていないことが多い。
このために危ない遊びをしても実際にはけがをしたりはしていないのだと思う。
危ない遊びをしている子どもたちに大人が「危ない!」と注意してしまったらどうなるか。
事故が生じる危険率は飛躍的に上昇するのではないだろうか。
危ないことを知ってしまったら子どもの心にも不安が生じるから思いきりが悪くなる。
結果として事故率も高まるのではないかと思うのである。

ある人が鼻歌まじりに橋を渡っているとする。
周囲がざわざわしているけれど、男はまったく気にせず橋を渡り終える。
知り合いが彼に近寄ってくる。「あれは危ない橋だったんだぞ」と教えてくれる。
男は顔が真っ青になり、いま渡ってきた橋を振り返ると彼の子どもの姿が見える。
父親を追いかけて子どもが橋を駆け足で渡ってきている。
思わず男は「おい、そこは危ない橋だぞ!」と叫んでしまう。
子どもは父の声を聞いて立ち止まり、つい足もとを見てしまう。
橋はところどころ壊れかかっており、気づいたら子どもは穴に吸い寄せられ落下してしまう。
子どもは川の急な流れに呑み込まれ下流のほうで水死体として発見された。
このとき男はどうすればよかったのか。
子どもが橋を渡り終えるまではハラハラしながらも見守るべきだったのである。
危ない橋であることを教えないほうがよかった。
もちろん、危ない橋であることを教えてうまくいくパターンもあるだろうけれども。

いまは世相として「危ない、危ない」と不安をあおるようなことを言い過ぎる気がする。
どこの公園にも「危ない遊びは禁止」の注意書きが乱立している。
社会の雰囲気としてお互いに「危ない!」
と注意しあって息苦しくなっているようなところがないだろうか。
タバコの煙は危ない。血圧がちょっとでも高いと危ない。中国産は危険、食べるな。
あれも危ない、これも危ない、おっかなびっくり平均ばかり意識して生きている。
タレントがわずかでも危ない火遊びをしようものならこれでもかと叩く。
みんな危ない橋は渡らない。危険率が1%もあれば、それは立派な危ない橋である。
危ないと知らなければ渡りきれるような橋でもすぐに危ないと周囲が教えて引き返させてしまう。
「知らぬが仏」というのは、いまの情報化社会でなお安心を得るための格言ではないか。
「知らぬが仏」は嘲弄対象ではなく、目指すべき安心立命の境地とも言いうるわけだ。
危ない橋を危ない橋だと知ってしまったらまず凡人は渡ることができないのである。
いくら危ない遊びほどおもしろいものはないことを子ども時代に知っていたとしてもだ。
みんなが眉をひそめるような大人になりきれない未熟な男女は、
ときとしてそうとは知らず危ない橋を見事に渡りきってしまうのだからおもしろい。
われわれを縛ってやまない言葉は後悔なのだろう。
絶望や恐怖、不安はみな後悔という言葉が根にあるような気がする。
あのときああしていればという後悔がいまの絶望を形作る。
あのときああする自由があったとしたらわれわれは後悔しつづけるしかない。
過去のみならず未来も後悔の呪縛から逃れることができない。
「将来、後悔することになっても知らないわよ」は母親定番の愛あふれる言葉だろう。
いま血を吐く寸前までがんばっている人たちは、
おそらく将来後悔したくないからだと思う。
言い換えたら母親の「縛り」からいまだに脱出することができていない。
自由があると思うから後悔という言葉が生まれるのである。
過去に選択(行為)の自由があったと思うがために人は後悔のとりこになってしまう。
いま選択(行為)の自由があると思うからこそ将来後悔することを過剰に恐れる。
自由の反対にあるのが宿命(運命)の考え方である。
すべて宿命や運命で決まっているのだとしたら、過去のことを後悔する必要がなくなる。
それは神さまや仏さまが決めたことなのだからあきらめるほかない。
もし宿命や運命で決まっているのならば将来の不安(=後悔すること)は消失する。
「なるようになる」「なるようにしかならない」「ええい、ままよ」の境地である。
しかし、宿命や運命を認めてしまうと人はどこまでも怠惰や怠慢におちいってしまう。
どうせ未来は決まっているんだと努力しなくなってしまう。がんばらなくなってしまう。
やはりがんばったほうがいいと思う。ところが――。
がんばるということは宿命や運命を否定することだから、必然として不安が襲いかかってくる。
がんばっていると過去のあやまちを後悔しつづけなければならない。
親が許せない。親を見返すためにがんばる。たとえ成功しても不安は増加するばかり。
運命があるならば親を許すことができる。あまりがんばらなくなるが安心はたっぷりある。
自由を信じるのと宿命(運命)を信じるのはどちらがいいのだろう。
わかりやすく書き出すと以下のようになろう。

1.自由(過去の後悔に悩む、将来の後悔を脅える、努力家)=不安
2.宿命・運命(後悔しない、将来は神仏にまかせる、怠け者)=安心


これは西洋哲学者が考えに考え抜いた問題だろうが、
おそらくまだ「正しい答え」は出ていないと思う。
なぜならこれはどちらかをそれぞれが信じるしかない問題だからである。
是非を深く突き詰めたら答えはたぶん、
――「どちらも正しい」「どちらも間違い」「人間にはわからない」。
みんなうっかりすると忘れてしまうが、だれもがうらやむ有名人も悩みを持っているのである。
悩みとは問題のことだ。
対人関係の問題、家族問題、経済問題、仕事の問題、病気の問題――。
大風呂敷を広げて視点を日本に向けても問題だらけである。
少子化問題、年金問題、社会福祉問題、消費税問題、格差問題、老害問題、子育て問題――。
われわれは問題に追いまくられている。
問題のないことに逆に不安になった人たちが取り組むのがいわゆる環境問題だろう。
あるいは自分の問題から逃亡したいがために
環境問題にどっぷり浸かっているのかもしれない。

現在のみならずむかしから問題ばかり解かされてわれわれは大人になったとも言えよう。
学校でなにをやっているかといったら与えられた問題に答えることである。
より難しい問題に正しい答えを書ける人ほど一流大学、一流会社に入ることができる。
社会に出てからの問題には正しい答えのようなものは存在しないが、
われわれは10年以上も学校教育で洗脳されてきているため、
どうしても問題には正しい答えがあるものだという思い込みから逃れることができない。

難問にあたふたしているときがピンチになろう。
この難問をどうしたらいいかと人は迷い、ときに寝込んでしまうことさえある。
だれかのピンチはだれかのチャンス。
難問をかかえた人に近づいてくるのが新興宗教や怪しげな占い師である。
当人がかかえる難問の正しい答えを教えてあげるからお金をくれと手を差し出してくる。
問題が難しければ難しいほど、この甘い誘惑にあらがえなくなるのは仕方がない。
どうしたら新興宗教や占い、スピリチュアル詐欺に引っかからないでいられるか?
ふたつの思い込みに気づけばいいと思う。
われわれは学校教育にある意味、洗脳されてきたのだから、その洗脳を解いたらいいわけだ。
学校教育によるマインド・コントロールとは――。
1.問題にはかならず正しいひとつの答えがある。
2.目のまえの問題はかならず解かなければならない。

東大卒で受賞歴ゼロの宗教ライターひろさちや氏は言う。
最近、改めてこの人の狂いっぷりにビリビリしびれている。

「問題を解決しようとすると、かえっておかしなことになりがちです。
それは、まさにアリ地獄にはまっていくようなもの。
解決しようともがけばもがくほど、問題がこじれて身動きができなくなってしまいます。
それならば、問題を解決しないほうが、どれだけ楽でしょうか」


「とはいえ、問題を解決しないまま生きていくのは難しいものです。
おそらくこれまでに、一度もその方法を教わったことがないからです。
そもそも世間で推奨されるのは、何か問題が起きれば
「それを乗り越えなさい」「解決しなさい」ということばかりですから、
「解決するな」と言われても最初のうちは戸惑うでしょう。
でも、「今起きていることは解決できないんだ」と思えるようになれば、
こんなに楽なことはありません。
起きている問題とともに生きればいいのです。
もし、その渦中で不安が自分の心に芽生えたならば、
今度は不安のままに生きればいい。
それを無理やり解決しようとするから、さらに苦しくなるのです」


「勉強しなさい」と言うから問題児はよけいに勉強しなくなる。
「働きなさい」と言うからよけいにだめんずは働かなくなる。
「お酒を飲まないで」と言うからアル中はよけいに酒を意識するようになる。
配偶者の性格を変えようと思うからよけいに夫婦喧嘩は激しくなる。
お金を儲けようとがんばるから変な詐欺につけこまれる隙ができてしまう。
しかし、では、そうだとしたら、いったいどうしたらいいのか?
東大卒のひろさちや先生!
人間はよりよく変わるべきだろう? 社会は進歩すべきだろう?

「答えは簡単、「別にいいじゃないですか、今のままで」。これだけです」

「わたしがここで言いたいことは、
問題が起きたときに先のことやこれまでの行いを考えて、
あれこれ悩みなさんなということです。
考えれば考えるほど深みにはまり、
「不安」の迷宮に迷い込んでしまいますよということです」


問題は自分で解決しようとせず自然に解決するまで待てということだろう。
どうしたらそんな余裕を持つことができるのか?

「問題を解決しようなんて思わないこと。
さらにいえば、問題を解決しない「智慧」を持つこと」


どうしたらそのような「智慧」を持つことができるのか?
ひろさちや先生は「智慧」を教えてくれはしない。
教えてもらおうというのは怠慢だと言う。
まだ若い人はみずから学べばいいではないか。

「若者たちは気の毒です。
いや、必ずしもそうは言えない。というのは、彼らは怠慢です。
教えてくれる者がいなければ、彼らはみずから学べばいいのです。
何を学べばいいか……? 宗教を学ぶのです。(中略)
けれども、勘違いをしないでください。
わたしは宗教団体に入れとすすめているのではありません。
宗教団体は、むしろ入らないほうがいいでしょう。
ヨーロッパのキリスト教徒が、
家庭にあって父親や母親からキリスト教徒としての生き方を教わる。
日曜日に教会に行って、神父さんや牧師さんから生き方を学ぶ。
それが宗教の学び方です。
残念ながら日本の仏教寺院は、そのような「宗教の場」になっていませんが、
お寺に期待できないとすれば、書物で学べばいいのです。
若者たちは怠慢です。
「損か得か」の物差しを超えた、宗教の教えを学ぼうとすれば学べるのに、
そういう努力をしないで、相変わらず「損か得か」の物差しでもって
この世の中を泳いでいこうとしています」


わかりやすい氏の文章をさらにわかりやすく要約してみよう。
1.問題の多くは「損か得か」のレベルの話である。
2.問題は解決を目指すとよけい苦しみが増す。
3.問題はそのまんま自然にまかせよう。
4.そのためには「損か得か」を超える宗教の「智慧」を持つことだ。
5.「智慧」はひろさちや先生の本を読んで自分で学ぼう。

この記事の引用は以下の書籍からです。
「けちのすすめ」
「世間の捨て方」
「仏教が教える人生を楽しむ話」

受験シーズンだが、いざ問題用紙を配られてもいっさい答えを書かず試験終了時間まで待つ。
こんなことができるのは狂人かよほどの天才くらいだろう。
わたしは宗教の開祖はみな精神病ではないかと疑っているが、ならばひろさちや先生も――。
いやいや、狂人ではなくある種の天才だとこの受賞歴ゼロの宗教ライターを仰ぎ見ている。
本当とはなにか?
いろいろな定義があるとは思うが、わたしは最後まで嘘だとばれなかったことだと思う。
いま現在のところ嘘だとばれていないものが本当である。
言い換えたらみんな嘘で、たまたま時流に乗ったものが本当として通用している。
たまさか権威筋にひいきされたものが本当として流通している。
運よく多数派から支持されたことがみんなから本当だと思われている。

「現代のベートーベン」事件は、本当のことをばらしてだれも得をしていないのである。
よくよく考えてください。週刊誌以外、どこも利益を上げていないのではないか。
みんながみんな大損をしている。
自称天才も影武者もオリンピックの選手もレコード会社も全員、莫大な損失である。
たぶん「本当」というのは「言わぬが花」のこういうことなのだと思う。
いまから考えたら追加金1千万円をゴーストライターに払ってもぜんぜん構わなかった。
国益をふくめる全体の損を考えると、3千万でも4千万でも高くはないだろう。
しかし、ひとたび本当のことがばれてしまったいま、
たとえ10億円を積もうが世界を元に戻すことは絶対にできない。

いかに本当が恐ろしいかである。
みんなが本当を言わないことで世の中は成り立っているところがたぶんにあろう。
本当のことを言ってしまったらおしまいなのだ。それは言っちゃいけねえよ。
わたしもそうだが、みなさんも公開できない本当のことをご存じではありませんか?
人間、30年、40年生きていたら決して口にできぬ本当の存在に気づく。
よほど運のいいもの以外は、である。
詳細はわたしも書けないけれど、本当ほど恐ろしいものはないのだと思う。
それだけにゴーストライター氏の告発はおもしろく腹を抱えて大笑いさせていただいた。

果たして本当のことは本当に言ってはならないのか?
ギリギリのときは言ってもいいとわたしは思う。
今回の「現代のベートーベン」事件でも一見するとみな損してばかりのようである。
だが、それは違うと思う。損ばかりと考えるのは近視眼的すぎるのではないか。
10年、20年という長い目で見たら、
このたびばれた本当のことが生きてくるようなこともかならずやあるはずである。
ならば、たとえ本当のことでもギリギリまで追いつめられたらば腹をくくって言ってしまえ!
本当のことを隠すために自殺するのもいいが、生きてすべてぶちまける作法もある。
なるべくなら本当のことは言わないほうがいいというのは間違っていないが、
しかし絶対的な規則ではないのである。わたしはそう思う。
他人を思うがままにコントロールしようと思ったらふたつ方法があるのだろう。
ひとつは相手の欲望を刺激する。
成功したくありませんか? お金持になりたくありませんか?
女優になりませんか? プロのミュージシャンになりませんか? 作家になりませんか?
エサに相手が食いついてきたら、だったらこうすればいいと思うがままに動かせる。
「テレビドラマに出してあげるよ」のひと言で、
若いおねえちゃんといい思いをしている自称業界人とかわんさかいるんだろうなあ。
「きみセンスあるね」「ここをこうしたらもっとよくなるよ」
「きみ俳優の○○を知ってる? むかしから仲良くて、このまえ彼と飲んでね」
反対から言えば欲のない人間は始末に負えない。

とはいえ、欲の少ない人も思うがままに動かせるいい方法があるのである。
夢や希望というエサに食いついてこなかった相手は不安をあおるといい。
危ない! いまのままでは危ない! ああ、いまあなたは大損をしていますよ!
いまはたいへんな時代になりました。
いざとなったらどうするんですか? なんとかなんてなりませんよ!
みんなやっているのにどうしてあなたはやらないんですか?
このままではいけない。いまのままでは絶対いけません。危険。よくない。
これからどんどん悪い時代になっていきます。
しかし、大丈夫。こうすれば絶対大丈夫。大丈夫、安心、OK。バッチグーね。
さんざん不安をあおってから、こうすればいいとなにかを差し出せば相手を動かせる。

大丈夫。こうすれば大丈夫。ピンチはチャンス。
このことをいま知っているのは少ないですから、あなたはとてもラッキーです。
あなたは運がいい。ついている。よかった。ほんとうによかった。
え? あなたのためを思って言っているんですよ!
人を動かす方法――。
1.相手の欲を刺激しよう。
2.相手の不安をあおろう。
婚活にもたぶん使えるので結婚に「希望の香り」を見ている独身者はぜひお試しください。
反対に人から過剰にコントロールされたくなかったら――。
1.欲を捨てよう。
2.自信を持とう。
時事ネタは書かないと決めていたが、「現代のベートーベン」はおもしろすぎる。
やるなあ、すげえ、と笑いがいまもとまらない。現代のキリストじゃないか、あれは。
「現代のベートーベン」も暴露がなかったらホンモノだったのである。
歴史上うまくホンモノとして逃げ切ったものは大勢いただろうに、もったいない。
もう少しで千年にひとりの天才になれたのに(不謹慎だが)彼がかわいそうだ。
もし「現代のベートーベン」が先月に亡くなっていたら天才作曲家として歴史に残ったと思う。
天才はこうでなければならないという大衆の夢をじつにうまく演じていたではないか。
たぶんいま歴史のうえで天才とされている人物の何%かは「あれ」だったのだろう。
きっとほんとうの天才というのはゴーストライター氏のようにつつましい存在だと思う。
わかりやすい天才はインチキなのだが、ならばすべての天才がどこかインチキめいている。
インチキくささこそが天才の資質なのだと思う。
このたびのニュースではじめて存在を知ったが、「現代のベートーベン」氏のファンになった。
わたしにとっては彼は天才である。あのわかりやすいキッチュな感じがたまらない。
天才はやはりあのように俗っぽくいかがわしくなくてはなるまい。
おそらく天才学の権威である精神科医の春日武彦氏も同意してくださるだろう。
この齢まで生きてわかったのは、おそらく他人の評価はコントロールできないということです。
こちらがいくら思案をめぐらしても他人の評価ばかりはどうにもなりません。
他人の好き嫌いはそうそうコントロールできないということであります。
とはいえ、まったくの無力ではないような気もしています。
受賞歴多数のノーベル賞候補作家、井上靖氏は評価の得方を理解していたようです。
お嬢さんの回想記にお父さまの文学賞の取り方が書かれていて勉強になりました。
他人から評価されたかったら、まずこちらから評価するといい。
井上靖氏はこうしてあまたの文学賞をゲットしたとのことです。
閲覧したことはありませんが、たぶん現代のフェイスブックでもおなじですよね。
こちらが「いいね!」を押したら相手もおなじように「いいね!」と支持してくれるでしょう。
「いいね!」を送ったにもかかわらず
「いいね!」を返してくれない人は礼儀知らずになるようです。
ネットのみならずリアルでも「いいね!」をばらまいたほうが自分も評価されやすくなります。
批判すると相手から恨まれますので「いいね!」はリアルでも十分に活用できるはずです。

しかし、「いいね!」にもデメリットがあります。
なんでもかんでも相手および作品を「いいね!」と評価するのは、
嘘をばらまいていることになります。
人は本当よりも嘘を好みますから「いいね!」自体は濫造すべきだと思います。
ところが、「いいね!」ばかり頻用していると、
今度は他人の「いいね!」が信じられなくなるのです。人間不信になってしまう。
相手の「いいね!」も本心ではなく自分におもねっているだけのような気がしてきます。
いくら相手を傷つけないために優しさや思いやりから「いいね!」を連発している人格者でも、
こればかりはどうにもなりません。
相手の「いいね!」がどうしてもお返しの「いいね!」のように思えてしまいます。
自分とは損得関係のある人の「いいね!」は信用していいのかわからなくなります。
他人をけなしてばかりの嫌なやつからほめられてはじめてホッとすることもあるでしょう。
これは、世渡り下手の嫌われものの舌しか信じられないということです。

もう一度話を最初に戻して、評価の得方をわかりやすく申し上げますと――。
バレンタインにチョコをあげたのにもかかわらず、
ホワイトデーにお礼を返してくれないやつは八つ裂きにしてもいい礼儀知らずですよね。
同様、「いいね!」をくれたのに「いいね!」を返さないやつは無礼極まりない。
大人社会は「礼に始まり礼に終わる」に尽きます。
世の中はこういうふうにまわっていることを、
元毎日新聞記者で芥川賞、野間文芸賞、菊池寛賞、読売文学賞、朝日賞、文化勲章作家の
井上靖氏は熟知していました。
氏は上記以外にもたくさんの賞を獲得した世にも恵まれた作家であります。
たいへん人づきあいのうまい作家でしたが、
ノーベル賞だけは取れなかったのはご愛嬌というものでしょう。
誤解があるといけないので最後に断っておきますが、わたしは井上靖の小説が大好きですよ。

(関連)「父・井上靖の一期一会」(黒田佳子/潮出版社)
評価を求めない表現があったらばいさぎよいけれども、果たしてあるのかしら。
歌が好きならひとりでカラオケボックスにでも行けと思うものの、そうはいかない気持もわかる。
いつか武道館に上がる日を夢見ながら人の迷惑をかえりみず路上でライブしてしまう。
絵が好きならただ描いていればいいだろうに、どうしても他人からの評価を求めてしまう。
まったく評価されないと落ち込んでしまう。
とはいえ、たいがいの表現は批判もされず、ただ無視される運命にある。
むしろ批判でもされたら、そのことに感謝しなければならないほど人は他人に関心を持たない。
歌を聞いてもらうのがどれほどありがたいか。絵を見てもらうのがいかに感謝すべきことか。

趣味のない悪い大人はこういう人たちをコントロールしてみるのもおもしろいのではないか。
評価に飢えている人は他人の意見に弱いのである。
どうしたら他人に評価してもらえるか血まなこになっている人はコントロールしやすい。
相手が必死になって表現したものを、
こうしたらもっとよくなると冗談半分で指摘してみよう。
だれからも評価されたことのないアマチュアは、
そのひと言を死ぬまで忘れられないのではないか。

商売にも使えると思う。
少しでも実績があるならば、スクールを私設して相手を金づるにしてしまえばいい。
こうしたらデビューできるとおだてて金を請求すれば、感謝されてなおかつ儲かる。
某業界には、まったく実績もないのに先生をしてお金を稼いでいる厚顔な講師もいるようだ。
他人をコントロールすることほどおもしろいことはないのではないか。
とはいえ、めったなことでは人を支配する立場にはなれない。
しかし、自称表現者ならば無名のわれわれもコントロールすることができる。

さあ、よそのブログ記事の「いいね!」を押して、こうしたらもっとよくなると忠言しよう。
上から目線で人に注意するのはなかなか楽しいものである。
ブログ記事の「いいね!」ボタンはある意味でその作者の急所と言えよう。
人の弱みをつくのが趣味なんてきみも悪い大人だなあ。
悲しいことに、どの人にとっても他人からの評価はもっとも気になるところなのである。
運よく偉くなり、おもてだってマイナスの評価が来ないようになると人は疑心暗鬼にさえなろう。

他人の評価ほど恐ろしいものは考えてみるとそうないのではないか。
ひとたび依存してしまうともしかしたらアルコールやパチンコよりも始末が悪いのかもしれない。
アルコールもパチンコも最初の1回を経験しないことがたいせつとも言いうる。
ならば、一度も他人から評価されたことのない受賞歴ゼロの人間は恵まれていることになる。
負け惜しみではなく、受賞歴ゼロはかならずしもマイナスばかりではないと思う。
他人の評価は酒や賭博とおなじで、あるいはもっと強烈な麻薬なみに
人を中毒にさせるところがあるのでよくよく注意しなければなるまい。
恋愛マニュアル本を読んでも意味がないのはそれぞれ顔が違うからでしょう。
あるひと言のセリフをどの顔で言うのかでぜんぜん意味が違ってきます。
みんなどの顔の人もこう言えばいい、こうすればいいというマニュアルはインチキです。
あらゆる言動が当人はどんな顔(容姿)か、どの程度の立場(肩書)かに影響されます。
だとしたら、成功マニュアル(自己啓発書)も嘘になるでしょう。
たとえば部下を叱るのは、顔がいい上司よりも残念な人のほうがうまくいくような気がします。
部下としては「あいつには顔で勝っている」と思えるからです。
おなじ説教でも年上からされるのと年下からされるのでは大違いですよね。
男の場合、女性の上司から指導されるのはたいてい屈辱に感じるのではありませんか?
なんだかんだといって社会上層部を男が独占しているのはこのためかもしれません。

人間は顔が違う。
たとえば若くて美しい女性がストーカーされていると警察に相談したらどうか。
いっぽう、個性的な顔面をお持ちの中年女性が
ストーカー被害を訴えてもおなじような親身な対応を警察がしてくれるか。
どうでもいい話をしますと、わたしがストーカー被害を主張しても警察官は鼻で笑うでしょう。
キムタクのような美男子がおなじことを言ったときとは大違いのはずです。
自分勝手な自己主張はたいがい嫌われます。
しかし、発言者がどこから見てもかわいそうな身体障害者だったらば聞き入れてもらえます。
いまの時代においては、
一般的に社会的弱者ほど正義ぶった発言をすることが可能になります。
このため手足のない人が健常者よりも女にもてて、
より多くの金を稼げるという異常事態さえ発生するのです。

ならば、役者が決まっていない段階で書かれる台本はあまり存在意義がない。
なぜなら、おなじセリフでもどの顔が言うかでぜんぜん意味が変わってくるからです。
どんないいセリフでも美男美女が言わなければだめなことは多いですよね。
ドラマによくある嘘ですが、もてないアピールを美人女優がするのはリアルではない。
ドラマやお芝居のようにおそらく人生にも配役があるのでしょう。
そう考えたら成功マニュアル(自己啓発書)を何冊も繰り返し読むのはアホになります。
脇役がいくら主役の真似をしても痛々しいだけです。
主役のセリフなんか覚えようとするよりも、よくよく自分の顔を鏡で見たほうがいい。
あなたの言うべきセリフがわかるからです。
といっても大半の人はセリフなんて割り当てられていないエキストラ役ですけれど。
映画でエキストラが自己主張を始めたら観客は不愉快になります。
自戒を込めて語りますが、お互い演技派なんて目指すのはやめてエキストラに徹しましょうね。

成功マニュアル(自己啓発書)とおなじインチキですが、こう考えてみたらどうでしょうか。
エキストラもいいものです。
木や林や森の役(学芸会にはあるでしょ?)よりはまだエキストラのほうがましです。
エキストラだっていいではありませんか。
つまらない映画を見せられる観客役よりもまだエキストラ役のほうがいいとも言えましょう。
とはいえ、あまり大声では言えませんが、
あんがい見かけのうえでは主役をはっている人が、いまもいま、
内心では生まれ変わったら日陰の雑草や海底の深海魚になりたいと思っているものです。
あなたが嫌っているあなたの役にあこがれている人もいないとはかぎりません。
まあインチキなんですけれど、どのみち配役は代えられませんからそう思うしかありません。
よく錯覚されていることに自己表現はプラスだという通念がございます。
自分を表現することはよろしい。自分の意見を言おう。自分で考えよう、等々……。
はい、真っ赤なウソであります。
じつのところ、われわれのほとんどが他人に自分を出されることを迷惑だと感じる。
ほんとうはこちらが正解なのです。自分を消せ。自分なんか出すな。殺せ自分を。
他人の自己表現はうっとうしい。過度なものはうんざりする。異常なものはげんなりする。
なぜかと考えるに、たぶん自分を表現しようとすればするほど、
逆説的にありきたりなよくあるパターンに落ち込んでしまうからではないでしょうか。
「おれおれおれ」や「あたしあたしあたし」の意見はどれも既視感がただよいまくっています。
それは根本に自己表現が美しいものだという壮大な誤解があるからではないでしょうか。

まえに身体障害者が駅の構内で騒いでいるのを見たことがあります。
身障者の男性はひとりでなにか楽器らしきものを演奏し大声で歌っていました。
耳をふさぎたくなるほどのひどい騒音でした。
身障者の横に「……やれやれ」といった表情の駅員が立って監視しておったのです。
言うまでもなく、健常者なら駅の構内で音楽活動などできません。
障害者だからこそ弱者の権利をゴリ押しして、こんなことが可能になるのでしょう。
行きかう人はだれも自称ミュージシャンの身障者に足を止めてはいませんでした。
みんな騒音にうんざりしていたでしょうが、やさしいからほんとうのことは言いません。
見ちゃいけないものを見てしまったとわたしもすぐに目を伏せました。

こっそり思うのですが、きっとたぶん自己表現は格好いいものではなく、
どうしようもなくせざるをえないある意味で恥ずかしい業のようなものなのではありませんか。
路上で演奏したかったら動画をユーチューブにでも上げたほうがいいと思います。
あれ、はっきり言うと、うるさいですよ。ときどき殴りかかりたくなる。
演奏のみならずあなたやわたしの執筆(笑)もそうです。
自費出版をしたくなったら、人様の迷惑にならないようにブログに書きましょう。
なぜなら義理で自費出版本を買わされる友人、知人、知り合いが迷惑するからです。
自費出版した本を送りつけられても大概の人は迷惑としか感じないでしょう。
ここだけの話、たとえベストセラー本でも読書嫌いな人にとってはゴミでしかありません。

しかし、自費出版ならまだいいのでしょう。
なぜなら義理で1500円くらい払っても本ならば読まなくてもいいからです。
きっと執拗に感想を求められるでしょうが、勉強になりましたとでも答えておけばいい。
おもしろかったですよ、と言ってあげたらそれで丸く収まります。
自費出版よりもはるかに迷惑なのは演劇活動ではないでしょうか。
あれはチケット代として最低でも3000円とか取るわけですから。
5000円とか取られた日にはいくら仲間キープのためとはいえ泣きたくなりませんか。
そのうえ演劇のひどいところは自費出版本のように無視するわけにはいかないところです。
読んだふりはおろか、速読も飛ばし読みもできません。早送りはできないのです。
人によってはなによりもたいせつな時間をかならず費やさなければならない。

みんな知っていることでしょうが、ほとんどの演劇は赤字です。
大半のお芝居は俳優さんの持ち出しでやっています(交通費でも出たら立派なくらい)。
このため役者さんはどうしても自分が偉大な文化行為をしていると思い込んでしまいます。
そういうわけで知り合いの出演する芝居の感想で批判をするなんてもってのほか。
たとえ裏(本音)ではどんな感想を抱いたとしても相手のまえでは絶賛するしかありません。
舞台が閉幕したときに長々と拍手しなければならない絶対厳守のルールもあります。
お金を払って時間を取られて相手をこれでもかと称揚しなければならないのが演劇です。
金持の道楽というほかありません。
大物役者のお坊ちゃんやお嬢さんが芝居を生きがいにするのもむべなるかなであります。
親が有名人ならコネ(義理)も多くそのぶんチケットを多くさばくことができるでしょう?
チケットを多くさばけるものが重要な役を演じられるのは芝居の暗黙の了解です。
演劇の場合、政治家や悪い人たちのパーティーのようにチケットが売れるだけではだめで、
どれほど忙しくても実際に観客として来てもらわなければなりません。
彼らは芝居の端役よりもいちだん下の、しかし多くの観客役を求めているのですから。
ほとんどのお客さんは知人の子どものお芝居を見にくるわけですからまさに学芸会。

ほんとうにまったく表現行為とは、なんとはた迷惑なことでしょうか。
だれもが自分はかわいいのでしょうが、赤の他人の自分はまったくかわいくない。
友人やその子どもの自分はほほえましいですが、見知らぬ人の自分には辟易してしまう。
「自分の意見」は価値あるものに思えますが、
知らない人の「自分の意見」はなぜかうっとうしいことこの上ない。
最近、思うんですね。更新の少ないブログっていいよなあ。
ブログで長文記事を書く人って(まあわたしのことですが)、
ぶっちゃけクルクルパーじゃないんですか?
ブロガーのみなさん、くれぐれも勘違いしないようにしましょうね。
あなたやわたしが無報酬でブログを書いているのは断じて偉いことではなく、
読者はやさしいから指摘してこないでしょうが(そもそも読まれていないのが現実)、
99%のブログ記事はたとえば暴走族に比せられるような単なる迷惑行為である。
大半の表現行為は暴走族とおなじで本人たちは格好いいと信じていますが、
周囲はただただ迷惑にしか思っておりませぬ。
わたしは自分なんかにこだわりのない余裕のあるメンタルの強い人が好きです。
つまり、自分のことをどこかで嫌っております。
以上、うざい自己表現(=騒音)ほんとうに失礼しました。
最後までお付き合いさせてしまい申し訳ありません。ここにお詫びします。