なんでもいいのですが、テレビドラマでもお芝居でも見たとします。
だれでも自分の感想を持ちますよね。
どうしてその自分の舌を信用しないのでしょうか。
だれかにおうかがいを立てて、それが正しいと認められないと自分の舌を肯定できない。
1ミリか2ミリ格上というだけの人の意見をなぜか正しいと思ってしまう。
どうせだれも関心を持ってくれないのですから、
せめて自分くらい自分の舌にこだわってあげたらいかがでしょうか。
高級そば屋よりもマルちゃんの「緑のたぬき」のほうがうまいと感じたらいけませんか。
どうして高級そばがうまいことになっているかといったら結局は権威でしょう。
みんなが認めている食通の舌をみんなで追随しているにすぎません。

高級らしい話に移しますと、やたら権威者が絶賛している宮沢賢治が嫌いでもいいのです。
それは間違っていません。宮沢賢治が嫌いなのも正しい(好きなのも正しい)。
みんなから評価されているという理由で宮沢賢治を好まなくてもいいのであります。
ただし世渡りのためには宮沢賢治を尊敬しているふりをしなければならない、というだけです。
匿名のネット掲示板でも自分の舌に自信が持てない人を見かけました。
匿名なんか言い捨てなんですから、
これでもかと好き嫌いを強調すればいいのではないでしょうか。
表(きれいごと)では高級すし屋に感動するふりをして、
裏(本音)ではやっぱりおかーちゃんのおにぎりがいちばんだと思っても構いません。

おそらく、これが正しい生き方でしょう。
高級すしも素人のおにぎりもどちらもうまいのもいい(正しい)。
魚介類が苦手でも手でにぎったものが食べられなくてもいい(正しい)。
表では正しい感想を言って裏では好き嫌いにこだわるのがたぶんまっとうな人なのでしょう。
表でも裏でも正しいことにこだわるのはつまらない。
裏でも表でも好き嫌いを言い放つのは危ない。
まったくわたしは危ない、危ない。くわばら、くわばら、であります。
二面性を持たなければなりません。激しい自戒を込めて二枚舌の必要性を強く感じます。
テレビドラマ「明日、ママがいない」サイコーにおもしろいじゃん。
もろに野島伸司ドラマ世代としては久しぶりにあの味を堪能した。
これは久々に連続ドラマを最後まで完走するかもしれない。おれ、ファイト!
ポスト(捨て子)のセリフ「あたしが守ってあげる」とか、
桜井幸子版「高校教師」を思い出させてくれて、おじさんは涙が出たよ。
あれはね、野島伸司脚本ではなく監修だから自己模倣ではない。
ドラマを「人を傷つけるからいけない」って批判している人は大概、捨て子ではない。
捨て子でもないのに勝手に捨て子の気持になって、わかったような批判をしているわけだ。
いつだったかの地震のときに、
「被災者の気持になれ!」と大騒ぎしていた無関係の偽善者たちとおなじ。
良識派ぶって善人ぶってサイテーのやつら。
あのドラマを声高に批判している自称善人たちは自分が人を傷つけていないと思っているのか。
なにを言ったって傷つく人は傷つくのである。
だれかが生きているというだけでべつのだれかを傷つけている。
一見、人を思いやったやさしげな言葉がどれほど傷ついた人をさらに傷つけるか。
おのれをポストと自称する捨て子の少女はチョーかっこいいと思った。
不謹慎なものってどうしてこんなにおもしろいんだろう。もっとやれ、もっと!
「自分の意見を言え」は「自分の意見なんか言うな(周りに合わせろ)」ということ。
「個性を持て」は「個性なんか捨てろ(社会や常識に埋没せよ)」ということ。
逆に「我を捨てろ」と怒鳴られるとむくむく自分が出てくる。
「人間に個性なんかない」と言われて気づくおのれの反抗心(欠点=個性)がある。
「こうしなさい」と言われるとそうしたくなくなってしまう。
だから、親と反対の人生を送るものがいるのだろう。
「こうするな」と言われると反対にそれをしたくなってしまう。
だから、親とおなじ道を行く人がいるのだろう。
なにも言わなかったら、そのとき人はどうするのか?
こうなってはじめて、ようやく自分で考え始めるが、
模範や仮想敵はないのでこれほど苦しいことはないのだと思う。
親や先生がいるありがたさよ。口うるさい親や先生がいる困難よ。
孤児の辛さよ、教育ママのうざさよ。どちらも正しい――。
ただひとつ絶対的に正しいことがあるとすれば、自分が間違えていることだと思う。
人間存在は、これに尽きると思うのね。絶対に正しいことは、自分が間違えていること。
このとき自分が本当に間違っていたら、正しいことを言ってしまったことになる。
反対に正しいことを言っていたとしたら、間違えていないことになる。

おそらく絶対的真理は「○○がこう言っていた」という形でしか示せないと思う。
このとき○○に入るのはかならず年上で有名人なのね。
年下の言葉を真理として提示するものは、まあめったにいないような気がする。
だって、われわれ凡人は年下の有名人に嫉妬しちゃうでしょう?
真理はかならず年上の有名人(権力者)から伝達される。
松下幸之助さんがこういうことを言っていました、とか。

本当はだれの人生も「なんにもない」が本当だとする。
いくら仕事で成功したって家族が何人いたって「なんにもない」。
もしこれが本当だとすると、これは嘘になっちゃうのね。
なぜなら、「なんにもない」という真実(本当)があることになるから。

要するに、
「正しいことはない」が正しいならば、
「正しいことはない」は正しくない。

以上のように考えると絶対的真理は、
「なんにもない」=「すべて間違え」=「すべて正しい」になると思う。
これは法華経や般若心経の教えだけれども、
うちのブログの仏教記事なんてだれも読んでいないと思うので、
このようにわかりやすく(?)再度書いてみました。
野心あふれる若い人はデビューしたい、有名になりたいなんて思っているのかもしれません。
「野心のすすめ」とかいうベストセラーをバイブルのように何度も読み返したりして。
ぼくも先日ブックオフに落ちていたのでお目めキラキラさせて買い求めましたけれど、あはっ。
でもですね、有名になりたいという野心は「多」を求める欲望でしょう?
おっさんになってぼんやりわかったのは、
薄い「多」よりも濃い「一」のほうがありがたいんですね。
たとえいっとき有名人になっても、どうせ「多」はすぐ離れていきますもん。
だとしたら有名しか愛さない「多」なんかよりも、
無名にもかかわらず関心を持ってくれる「一」のほうがよほどありがたいのではありませんか。
ひとりの配偶者や友人、恋人のほうがその他大勢なんかよりよほどありがたい。
ひとりの家族のほうがその他大勢よりもよほどありがたい。
メジャーな賞を取った人が往来で自著を朗読してもだれも聞いちゃくれませんよ。
読むなんてもってのほかで、聞いてさえくれやしないでしょう。
「有名なだれだれさんが推薦してくれていま~す」と叫んだって、
その有名な人でさえ知らない人のほうが往来には多いこともありえます。
「多」を求める心は魔なのだと思います。本当は「一」を求める心でさえも。
人は世間の欲にもまれて生きているけれど、ひとり生まれ来ておなじようにひとり死に去る。
「人在世間愛欲之中 独生独死独去独来」(大無量寿経)
こんな無名ブログのくだらぬ文章でみなさまのお目を汚してはあまりにも申し訳ないので、
思わずお経という仏教における権威に頼ってしまいました。恥の上塗りです。ごめんなさい。
多くの人がなにか賞を取ったら自分にのみじめな人生も開けると信じているような気がします。
すなわち、受賞が人生の起承転結の「起」であると。
しかし、実際はなにかの賞を取るというのは人生のピーク、起承転結の「結」なのだと思います。
なにかの賞を取るのは千人にひとり、
有名な賞なら底辺の希望者まで入れたら1万人にひとりの確率でしょう。
そして実際にそこから新しい人生がスタートするのは
さらに千人にひとりの確率なのではないでしょうか。
ならば、あまり華々しい受賞などねらわないほうがいいことになります。
だって、人生が詰んじゃうじゃないですか。
起承転結の「結」を見てしまったら先はなにもありません。
なにかの賞を取ってドヤ顔で大勝利アピールしている人など
冷ややかな目で見てやればいいのです。
いまがフィニッシュだぞと。あ、ちょっと意地悪すぎるかな。
でも、現実的に大半はそうなんですから、
そこまでいっときの成功者を見てカリカリすることはありません。
「過去の人」の悲哀は一般人のそれよりもたぶん深いような気がします。
経験しないで言い放っちゃいましたが。そういう悲哀もまたいいのでしょうが。
なかには高額当選した宝くじを怖くなって捨てるような人も絶対いるでしょう。
見栄えのする賞をあえて敬遠する生き方も道としてあると思います、たぶん!
間違えていたと思う。
釈迦や法華経の怪しさを指摘してはならなかったのだろう。
釈迦が正しい根拠といったら、みんながそう言っているからのほかにない。
あの偉い人もこの偉い人も釈迦は正しいものと見なしているから釈迦は正しい。
もしかりに釈迦を正しいものとしないと、とんでもないことになってしまう。
というのも、すべての仏教学者やお坊さんの威厳が保てなくなってしまうではないか。
仏教学者がいて授業料を払う学生がいて、世の中はうまく回転しているのである。
お坊さんと遺族がうまく慣れあってむき出しの死を隠しているということもあろう。
釈迦が正しくないなどと言ってしまったらすべての秩序が崩れてしまうことになる。
だから、釈迦は正しいのである。釈迦は正しいから正しい。
釈迦を正しいことにしないと無秩序状態になってしまう。
結果的にそれでは困るから、釈迦は正しくなくてはならない。
釈迦は正しいから、法華経も阿弥陀経も、禅宗も密教も正しい。
あなたやわたしがそれぞれ正しいのも突き詰めれば釈迦が正しいからになろう。
では、なぜあなたやわたしそれぞれが正しくなくてはならないのか。
人間はおそらく自分を正しいと思わないと自我のまとまりが保てず狂ってしまうと思う。
自分が正しいというのは自我防衛ラインの最低レベルでそこが抜け落ちると人はたぶん狂う。
具体的には、自分が正しいと思えなかったら自殺してしまうような気がする。
みんなが狂わないために、なにか正しいものがなくてはならないのだと思う。
釈迦は正しい。釈迦は正しいから正しい。釈迦が正しいから、法華経も般若心経も正しい。
いまの世の中で正しいとされるありとあらゆるものが正しいから正しい。
あまり根を詰めて正しいものがなにゆえ正しいかを考えないほうがいい。
そこは魔だ。人を狂わせる魔だ。
正しいから正しい。みんな正しいから正しい。あなたも正しい。たぶんきっとわたしも正しい。

不勉強なわたしだからほかにもいるのかもしれないが、
ひとりだけ釈迦のインチキくささを指摘しているお坊さんがいるのだ。
一休さんで知られる一休禅師である。

「嘘の皮むいて捨てたるそのあとは 釈迦も凡夫も同じ味わい」
お坊さんを自称する方が非公開コメントを3回もくださっているのですね。
非公開コメントですから、
やはり公開しちゃいけないんでしょうし、どうしたらいいんでしょうかね。
コメントでいちばん困るのが非公開コメントでしょう。
よくわかりませんが、たぶんお坊さんのほうが「正しい」と思いますよ。
だって袈裟をまとった剃髪のお坊さんと全身ユニクロのわたしが並んでいたとします。
ふたりが仏教の話をしていたら、
周囲の人は9割方お坊さんのほうが「正しい」と思うはずです。
「正しい」とはそういうことであります。
前回の記事で法華経なんたらと書いたのも、
その匿名のお坊さんが話題にしていたからなのですね。
あなたの考えも「正しい」、わたしの考えも「正しい」ではなかなか通らないのでしょう。
ならば、お坊さんが「正しい」、わたしが間違えているということにしておきましょう。

どうして人はこれほどまでに「正しい」にこだわるのか考えてみたんです。
わたしもそうですが、みなさんもけっこう「正しい」にこだわりますよね。
「おれは悪くない」「あたしは間違っていない」――。
こういう思考法はもしかしたら学校教育から来るのかもしれませんね。
なにせ小学校入学(6歳)から高校卒業(18歳)まで
10年以上も「正しい」ことを学校で教わるわけですから。
「正しい」答えを書かないと先生に叱られる世界にわれわれは10年以上もいたんです。
(中卒や高校中退の方はそのぶん洗脳教育から逃れられてラッキーではないでしょうか)

「正しい」ことを教わり、「正しい」内容を覚え、「正しい」答えを書く。
10年以上もこんなことをやらされたら、
どうしても「正しい」にこだわってしまうのでしょう。仕方がないことであります。
でもですね、あまり「正しい」ことに縛られていると息苦しくなりませんか。
そんなことも思うわけです。これが「正しい」かどうかはわかりませんが。
議論や論争は好きではないので、
匿名のお坊さんはできましたらコメントを控えていただけますと嬉しいです。
あなたの考え方はとても「正しい」と思います。平たく言えば、あなたの勝ちです。
万が一、若くて美貌をお持ちの尼さんでしたらメールをください。
リアルでじっくり話し合いましょう。
どうかわたしを打ち負かしてください――なんて書くとマゾみたいだなあ。

(追記)コメントを読み返してみたら一人称が「僕」でしたから男ですね。
すごいまじめないい人っぽいんで、意地悪く歪曲して記事にしちゃってごめんなさい。
でも、あなた、法華経を絶対正義と思っているわけでしょう……。
阿弥陀経も華厳経も般若心経も法華経もぜんぶ本当でぜんぶ嘘だとわたしは思います。
しかし、あなたがそう思う必要はまったくございません。
人は自分が好きなものを正しいと思う。
嫌いなものを間違っている、誤っていると思う。
たとえば、患者が好きな薬を医者が出したがらないときがある。
理由を聞くと、その薬はよくないからなのだと言う。
その薬は正しくない、誤りだ、間違えている。
ふと思いつくままに「先生は○○がお嫌いなんですか?」と質問した。
お医者さんは明らかに動揺した。
その後、出してくれそうな気配もあったが、
患者はそのまんまもまたいいとそのまんまにした。
いつかだれかがどこかの病院における3分診療で体験したことである。

よくわからないが、もしかしたら正誤はなく好き嫌いがあるだけなのかもしれない。
法華経が好きな人は法華経が正しいものであってほしい。
だから、法華経が絶対的に正しいと他人に喧嘩を売ったりする。
法華経が釈迦の教えではないから間違っていると思う人も決して正しくはない。
ただたんに法華経の独善性が嫌いなだけなのに、誤りだと言っているだけかもしれない。
自分が正しいと思っている対象は、自分が好きなものだからかもしれない。
自分が誤りだと思っている対象は、自分が嫌いなものだからかもしれない。

つまり、この世のすべてのこと(諸法)に正誤はなく、
あるのは好悪(好き嫌い)だけだと考えたらどうなる?
受験問題のような正誤を捨てて好き嫌いにこそこだわるべきではありませんか?
好きなものをもっと好きになったほうが人生はおもしろい。
正誤なんて捨てると好きなものがさらに好きになる。
なにかを好きになると世界が好きになる、生きているのがおもしろくなる。
二者択一の問いがあったとき、
正誤ではなく好き嫌いで選択してみるのもおもしろいのではないでしょうか?
新発見というのは、つまり新しい言葉の発明なのだと思う。
新発見とはほとんど造語に近い。
この半年くらい意識して間違いでもいいからブログで新しい変な言葉を使おうとしている。
たぶん商業出版しようとしたら、
校正者や厳格な編集者にはねられてしまうだろう言葉もあえて使っている。
そもそも校正者がある言葉を誤りと断定する根拠はなにか?
答えは、前例がないからである。過去の使用例がないからその言葉は誤り。
だとしたら、おかしかないか? 
だって、すべての言葉が発明品なわけでしょう。最初に使用しただれかがいるわけだ。
前例がないからでバツを喰らっていたら、いまのような日本語文化はなかった。
ならば、新発見とは新しい見方、すなわち新しい言葉を使用することではないか?
もちろん、まったくの新しい言葉は存在しない。
むかしあった言葉を自分流に意味を変えて使うことが新発見になろう。
ところが、そういう新語を学者や歴史ある一流出版社は誤記だと消したがる。
常識がない。学識がない。前例がない。おまえは間違っている。過去のものが正しいのだから。
まあ消されてしまうものは勢い、つまり使用者の気合が足りないから仕方がないのだろう。
たぶん新しい生き方とは、新しい言葉を使うことだ。
あえて意識的に間違うことのなかにもしかしたら新しい可能性があるのかもしれない。
正しいことより誤りのほうがあるいは希望に満ちているのかもしれない。
以上、うちのブログは誤字脱字が多いので言い訳をしてみました。
わたしが人生で出逢った師匠と呼べるような人の唯一の教えのようなものは
(たぶん誤解しているのでしょうが)、「なにをしたっていいよ、アハ」なんですね。
自由を求める。縛られない。ということは、なにをしたっていい。
先生はサインを求められると当時こう書いていた記憶があります。
「もっと過激に、もっと自由に!」――つまり、なにをしてもいい。なんだっていい。
そういうことになってしまいますでしょう。
なにをしたっていいの根拠は、いまから考えれば、
きっと正しいことはなにもないから、であります。
人はどうしても世間的に評価される正しいことをしたがる。
しかし、世間体に基づく善悪なんてものは国や時代によって大きく変わりますよね。
この国にも自殺をしてもいい時代(特攻隊)のみならず、
人をたくさん殺すのが評価される正義感(鬼畜米英)さえもございました。
真実は、正邪も正誤も善悪も絶対的な基準(物差し)は存在しない。なんにもない。
ならば、なにをしてもいい。なんだっていい。
好きなことをしよう。もっと自由になろう。生き生きしよう。
どうせ人間は時代や国の制限から自由になんてなれないのだから、そう思っていたほうがいい。
自由になろう。好きなことをしよう。たとえひんしゅくを買ってもやりたいことをやろう。
なぜなら、なんだっていいのだから。
本当はなんにもないのだから。
ならば、なにをしてもいい。
どうかぜひぜひ自分にとっておもしろいことをなさってください。
東京大学といえば、偉い正しいと思っている方がおられるでしょう。
受験シーズンだから、こういうことを書いてみるのもいいか。
東大日本史の過去問で一部でけっこう有名なものがあります。
難問なのか、良問なのか、珍問なのか、愚問悪問なのかはみなさまがご判断ください。
東大というのは記述式の問題が多いんですね。
かつて日本史でこういう問題が出たことがありました。
問いを要約したら、どうして平安末期、鎌倉時代のみ名僧が出たのか自由に考えて答えを書け。
これは答えのない問いですよね。
たぶん予備校日本史講師よりは仏教を勉強しているであろうわたしの正しい答えは、
「わからない」「強いていえば、たまたまじゃないかなあ」です。
しかし、この答えだと得点をもらえませんよね。東大に受かりません。
わたしの全存在をかけて答えは「わからない」か「たまたま」だと思いますけれど、
この回答は東大のお偉い先生がたからはまったく評価されません。
人生万事が、こういうものではないでしょうか。
本当のことを言ってはいけない。
正しいことはなく、あるとすれば相手の求める答えが正しい。
本当は「歴史の流れ」なんかなくすべては「たまたま」だと思います。
しかし、「流れ」に乗らないと落ちこぼれてしまうのです。

ちなみにだれも興味がないでしょうが、
過去問の正式な文章は以下のリンク先の下のほうに書かれています。
わたしの9年前の回答例もありました。
いまでは「わからない」か「たまたま」が正しい答えだと確信しています。
「歴史の流れ」なんて自己啓発書のような後付けの物語(フィクション)です。

(関連)「日本史の考え方 河合塾イシカワの東大合格講座!」
人は不安に押しつぶされないためにご意見番を求めるのだと思う。
なんでもないことをご意見番に言われて、彼の肩書から安心を得るのだろう。
おなじことを平凡な庶民が言っても意味がない。
庶民は「○○がこう言っている」とたとえば居酒屋で相客と語り安心感を得る。
宗教の役割とは、このご意見番にほかならない。
人は日蓮の言葉だから正しいと思う。
ところが、日蓮の言葉だからといって正しい根拠はないのである。
せいぜい日蓮は中国の坊さんであるチギに正統性を依存しているくらいだ。
とはいえ、チギの正しさの根拠もない。
チギの正しさは法華経によっているから、正しさの根本は釈迦である。
釈迦が法華経を説いたならば、チギも日蓮も正しい。
親鸞の言葉が正しいと信じている人もいるだろう。
しかし、親鸞の正しさの根拠は究極的には師匠の法然である。
法然の正しさの根拠はこれまた中国の坊さんの善導(日本人はむかしから舶来品が大好き)。
とはいえ、善導が正しい根拠もせいぜい大乗仏典だから、まあ釈迦だろう。
わたしが好きな一遍は正しさの根拠を空也と阿弥陀経に依存している。
空也が正しい理由はないし、阿弥陀経を釈迦が説いたかも疑わしい。

そして、そもそもの釈迦がどうして正しいのかが最大のタブーなのである。
よくよく考えてみたら、釈迦が正しい根拠はどこにもない。
歴史上、多くの信者がいたからという多数決の正統性しか釈迦もお持ちにならぬ。
東洋だけではなく西洋の大工のせがれらしいイエスの正しさの根拠も多数決だ。
そうだとしたら、なにが言えるのか? 
もしかしたら絶対的に正しい発言は世界のどこにもないのかもしれない。
現代人は科学が正しいと主張するかもしれない。
ところが、考えてみよう。
50年前の科学的な真理でいまは誤りになっているものがどのくらいあるか。
ならば、いまの科学的真理も進歩とともに50年後には否定されうるということだ。
科学の正しさの根拠も、いま生きている人の多数決に依存しているわけである。
ということは、科学の正しさはせいぜい釈迦やイエスの教え程度ということになろう。
結論はどうなるか? 
日蓮を信じても、親鸞を信じても、一遍を信じても、釈迦を信じても、科学を信じても、
なんだってよろしい。ただしどれも絶対的真理ではないから喧嘩はやめましょうね。
言い換えたら、どれもみなみな絶対的真理だから、やっぱり喧嘩はやめましょう。
人生はいかにみなとおなじことを答えるかの受験ゲームだと思ったらいいと思います。
これは暗黙の了解になるのでしょうが、じつのところ人生にはみんなが決めた答えがあって、
その答えをいかにうまく言えるかが勝敗を分けます。
周囲の流れにどうしたらうまく乗れるかを考えるべきなのでしょう。
死ぬまで周囲の価値観に合わせていられたら、こんな恵まれた人生はありませんもの。
流れについていけなくて落ちこぼれたものが精神科や心療内科のお世話になるのです。
くれぐれも周囲の流れから脱落してはいけません。
「個性を持て!」や「自分の意見を持て!」は人を迷わす最悪のデマであります。
だって、そう主張している人は個性なんてありますか?
「自分の意見を持て!」とおっしゃっている先生に自分の意見なんてないでしょう?
「個性」や「自分の意見」は、「個性」「自分の意見」からもっとも遠いものです。
みんながみんな「個性を持て!」「自分の意見を持て!」と言うじゃありませんか?
あれは自分のようにうまく周囲に流されなさい。
決してみんなから脱落するなよというメッセージなのです。
人生はいかに周囲の顔色をうかがうかです。
勝敗を分けるのは、いかに自分の答えのようなふりをして、他人の答えを差し出すか。
これに尽きます。もし成功したいならば――。
自分探しをしている暇があったら、よほど周囲の顔色をうかがったほうがいい。
もっとも人生で大失敗をしたい人には、
たっぷりこれでもかと自分にこだわってほしいと思いますでございますですね。
これまでの失敗体験をつらつら鬱々と思い返してみますと、
原因はすべてわたしが悪く、うっかり自分の意見などを申し上げたことに行き着きます。
教師や親、上司、上役からの
「本当はどう思っているんだ? 自分の考えを言え!」は最大のワナなのでしょう。
ここで本当に思った自分の意見を言ってしまう人は人生がうまくいきません。
「おまえはどう思っているんだ?」
に相手の期待している答えを言わなければトラブルばかりの人生になります。
大学受験シーズンが始まりましたが、
小論文でもテーマに対して本当に自分の意見など書いたら落ちますよ。
あれは出題者が期待していそうなものを答える一種の慣れあいゲームなのです。
就活の面接だって、相手の期待する人物をうまく演じられる人が成功します。
就活の自己分析で本当に「自分探し」をしたら心が病みます。
探すのは自分ではなく、他人の期待している人間像なのですね。
いつも明るく前向きでプラス思考、友人が多く礼儀正しく常識を疑わない。
あとはちょっとした欠点を個性としてアピールすれば成功率が高まります。

自分はなるべく消したほうがいいのです。
自分の意見を聞かれたらテレビや新聞、雑誌で聞きかじったことを答えれば正解になります。
本当に思った自分の意見なんか公開したら仲間なんて未来永劫できないでしょう。
社会的成功者の信者になって教祖さまの主張を
そっくり口真似するのは意外と個性ある人に見られ受けはいいです。
新興宗教団体会員で社会的に成功している人が多いのはこのためでしょう。
どうしたら人生のトラップ、自分の意見を封じることができるのか。
テレビ、新聞、雑誌を見る時間をなるべく増やすことでしょう。
人生の問いは、大学入試の小論文のようなもの。
模範解答を丸暗記して答えればうまくいきます。
わたしもふくめて99.999%の人がクリエイティブとは縁がありませんから、
問題に対する態度は自分の答えを探すよりも他人の答えを探したほうが手っ取り早いです。
最後に断わっておきますと、人生を棒に振ってもいいという捨て身の人にまで、
この記事に書いたような自分の意見を強制したいわけではありません。
お好きなようになさってください。応援しています。ファイト♪
人生には暗黙の了解というものがあって、
それを知っているかどうかで生きやすさや生きづらさが大きく左右されるような気がする。
思いつくままにいまごろ知った人生の暗黙の了解を書きつけてみたい。
どれもみなさまはご存じのものばかりでしょうから、お読みいただかなくて結構です。
お若い方のみ、もしかしたらほんのちょっとだけ参考になるかもしれません。

・自分の意見は言っちゃいけない。
・教師、先輩、上司、上役、偉いとされている人全般に逆らってはいけない。
・自我(エゴ)は隠したほうが人から好かれやすい。
・じつは親には甘えてもいい。
・よくも悪くも人生は親で決まることが多い。
・人間は「金、顔、肩書」における細かな上下関係のなかに生きている。
・有名人のお坊ちゃん、お嬢さんにはゴマをすっておくと見返りがある。
・人間関係は損得関係。
・思ったことを言ってはならない。
・本音はなるべく隠そう。
・相手の口にしていることが本音だと思ったら痛い目を見る。
・作者名を隠して名画を公開したら批判の嵐。
・芸術品の偽物を本物だと提示したら絶賛の嵐が吹きすさぶ。
・人に逢ったらまず肩書を見よう。
・とりあえずみなとおなじことをしていたら叩かれない。
・いじめられているものをかばったら今度は自分がいじめられる。
・あらゆる一流に反抗してはいけない。
・女に嫌われたら終わり。
・女は意外と悪い男が好き。
・じつのところ、女は男よりも偉い。
・笑顔で近づいてくる人は注意したほうがいい。
・善人は利用できる。
・人は本当のことを言わない、書かない。
・人を誉める人が出世する。
・敵だけは作るな。
・人の恨みほど恐ろしいものはない。
・死のネタはタブー。
・宗教ネタもおおやけで口にしたらよほどの大物以外つぶされる。
・自称うつ病患者はカルテでは別の病名が書かれているかもしれないので要注意。
・人は出身大学、勤務会社がすべて。
・お願いごとをするときは手土産を持っていこう。
・人はお礼を期待する。
・自分のしてあげたことは忘れないが、してもらったことはすぐ忘れる。
・プレゼントはたいがい的外れだが、もらったら過分に喜ぼう。
・贈り物をされた後の依頼は断れない。
・なるべく贈り物をしよう。
・真実は見ちゃいけない。
・疑問点はごまかして、なるべく見ないようにしよう。
・ちょっとした言葉を人間はかなり覚えている。
・人は意外とあったかい。
・自信を持っている人が最後は勝つ。
・不安が人生最大の敵。
・「ありがとう」は何度言っても言いすぎにはならない。
・笑おう。笑う門には福来るは真理。
・本当のことから逃げよう。
・ブログに本当のことを書くバカはまずいない。
・自慢話への正しい対応は「すごいですねえ」一択。
・助言や説教で人はまず変わらないが、それでも人は助言や説教を好む。
・大丈夫を連発しよう。
・詐欺師がもっとも好きな言葉は絶対大丈夫。
・うつが来るから、いろいろ考えちゃいけない。
・肩書が低い人の言葉は決して信用してはならない。
・しつこいが、本当のことは見ない、言わない、書かないにかぎる。
臨床心理学者で心理療法家の河合隼雄さんが好きである。
このためカウンセリングにも興味がある。
カウンセリング一般に興味があるのではなく、河合隼雄のカウンセリングに興味がある。
カウンセリングに来るのは問題児や問題が生じた大人だろう。
子どもは親や教師の強い支配(コントロール)下にあるとおかしくなるのではないか。
大人も世間の価値観に縛られすぎると自分がわからなくなり調子が狂ってしまう。
河合隼雄さんのカウンセリングは、なにもしないことだという。
なにもしない。見守る。コントロールしない。
大人は「どうしたらいいですか?」とコントロール支配を求めてくるが、
それには「難しいですね。わかりません。一緒に考えましょう」と応じる。
河合隼雄さんが相手を信頼してなにもしない(コントロールしない)で待っていると、
問題児や問題行動に悩む大人が自分から動き出そうとする。
そこで振り回されてあげる(コントロールされてあげる)のが河合隼雄のカウンセリングらしい。
結果として相手の「自分という存在感」がうまくまとまりお悩み解決となる。

河合隼雄のカウンセリングにおけるなにもしないとは、
たぶん相手をコントロールしないということ。
新興宗教が悩める人をマインド・コントロールしようとしてくるのと対照的である。
マインド・コントロールされて落ち着きを見せる病的不安もあるだろうから、
いちがいに新興宗教すべてが悪いとは言い切れないのだろう。
ただし河合隼雄さんはマインド・コントロールされるよりも、
自分で自分をコントロールするほうがおもしろみのある人生を送れると思っていたようだ。
河合隼雄さんが問題にしていたのは、
正しいかどうかではなく、おもしろいかどうかだったのだと思う。
正しい人生よりもおもしろい人生のほうがいいとたぶん河合さんは思っていたのだろう。
ある言葉を知ったことで世界の見方ががらりと変わるということがある。
たとえば精神科医の春日武彦氏の著作から教わったコントロール願望という言葉がそれだ。
長らくどうして総理大臣になんてなりたがる人がいるのかわからなかった。
都知事もそうだし、各種大臣もそうである。
そうか、そうか、コントロール願望だったのか。
あれはコントロール願望を満たすことのできる、うまみのあるポジションだったのか。
男が一般的に出世を求めるのは、
偉くなればそのぶんコントロール可能なものが増えるという理由からだろう。
女がやたら恋愛にこだわるのも、
恋愛を通じて相手をコントロールできるためと考えたら納得がいく。
出世もできず恋愛経験もろくにない男女でもコントロール願望を充足することができる。
冴えない男女でも自分たちの子どもならば、コントロールすることが可能である。

同時に人はコントロールされることを欲するという側面もあるのだろう。
というか、人生はどのようにしてコントロールから抜け出すかだ、と言うこともできよう。
我われの人生はコントロールされてばかりなのである。
まず生まれてくるのは親のコントロール下である。
学校に行けば教師にコントロールされるだろう。
子どもの不登校や自殺はコントロールのきつさにたまりかねた悲鳴と見ることもできよう。
家庭教師やコンビニ夜勤といった特殊例を除いてバイト先でも上司からコントロールされる。
たいがいの大学生は就活のとき、一流会社にコントロールされることを望むだろう。
上役のコントロールに忠実なものが出世できるのが、まあ社会常識だと思う。
社長になったらば、今度は顧客のコントロールに従おうとするだろう。
いちばん偉い総理大臣でさえ実は民意(国民の声)にコントロールされているのではないか。
恋愛はコントロールされるのを楽しむゲームと言えないこともないような気がする。
愛する喜びというのは、相手のコントロールにどれだけ従えるかと表裏一体だ。
より多く愛したほうが相手から振り回されることになる。

人間はつねに他者のコントロールの期待にさらされていると言えなくもないのではないか。
つまり、だれかからコントロールされないとなにをしたらいいかわからなくなる。
マスコミにコントロールされてはじめて、なにをしたらいいか決められる。
大半の人間は従うにしろ逆らうにしろ、わたしもふくめて親のコントロール下にある。
結婚したら相手からコントロールされるし、赤子ができたら泣き声にコントロールされる。
それは悪いものではなく、人間はコントロールされないと混乱してしまう。
新興宗教やブラック企業で嬉々として活動している人がいるのはこのためだろう。
とはいえ、あまりコントロールがきついと人はノイローゼになることがある。
三種類の人間がいるのではないか。
1.人をコントロールしたがる人(自分勝手)。
2.人からコントロールされたがる人(自分のない協調性がある人)。
3.コントロールしたくも、コントロールされたくもない人(変人)。
もちろん3つがひとりの人間のなかに微妙な色合いでもって共存しているのだろう。
自分が三種類のうちのどれが強いかを自覚しているだけでも生き方が変わるはずである。
いまから50年まえの平均寿命は男66歳、女71歳だったようだ。
どういうことか。男だから男の話をすると、
いま70歳の老人は20歳のとき、あとだいたい46年くらいとぼんやり思っていた。
いま80歳の老人は30歳のころ、もうそろそろ折り返し地点だなと思っただろう。
当時の70歳はそれだけまれな存在でご意見番として偉ぶれたのではないか。
それから比べるといまはもうとんでもない時代になっているわけである。
このことからなにがわかるのか。
いまのデータを参考にしてライフプランを立てても将来どうなるかはわからない。
いまのデータがかならずしも正しいとはかぎらない。
不謹慎なことを言うと、福島の放射能の影響がどう出てくるか科学者は興味があるだろう。
昨年、プロ野球、元巨人の川上哲治さんが93歳でお亡くなりになった。
正直、たいへん失礼ながらまだ生きていたのかと驚いたものである。
いまはどういう時代か。ご意見番が多すぎるような気がする。
上が詰まっているため閉塞感が半端ない。

出生率が低いのは、若い人がこれから日本がよくなるとは思っていないからだろう。
いまの日本に生まれてくるのがそこまでおめでたいことかよくわからないのかもしれない。
それからそう、仕組としては生まれてきてよかったと思う人しか子どもをほしがらない。
思いのほか、小さい子どもをコントロールするのはおもしろいと個人的には思うが。
15年も経つと完全にコントロールが効かなくなるから、子どもはペットとしては不完全である。
部下や手下、子分、後輩はかなりコントロールが効くけれど、
血のつながった子どもは生意気に反発してくる。
そこがまたかわいいと思える人しか本当は子どもをほしがってはいけないのかもしれない。
これは現代ふうの考えだが、これもまた将来古くなるだろう。
いま生まれてくる子はなにもかも整えられているから幸福だとも言えよう。
未開拓の部分があまりないから、そこが不幸だと言うこともできるのかもしれない。
書いているうちになにがなんだかわからなくなってきたが、
ひとつ確実に言えるのは、いまの価値観は将来ほぼかならず古くなるということである。
おそらくみんなみんなすべて変わる。
どう変わるかはわからないがみんなみんなすべて変わる。
しかし、ほとんどの人がいまの価値観に縛られて生きている。
そのほうが生きやすいから悪いと言っているわけではない。
どうせたぶんみんな変わるけれども。
いまさらそんなことを知ったのかとバカにされそうだが、
日本文化というのは、つまりその「先輩は偉い」ということになるのではないかしら。
先輩は偉い。どんな分野でも先輩を立てなければならない。先輩に逆らうな。
あたまも悪いし、からきしその世界とは無関係なので知ったかぶって放言すると、
どうやら学問の世界では先行研究というのが重視されるらしい。
なにか新発見をしても、いちおう先行研究を参照したふりをしないと認められない。
これは嘘つきの河合隼雄さんが小声で言っていたことだけれど、
ぶっちゃけ先行研究を読むのが面倒だ。
ある発表をしても先行研究をふまえていないと、あーだこーだ言われる。
もしくは礼儀知らずとみなされ、まったく相手にされない。
河合隼雄さんはある時期、宮沢賢治について本格的に論じたかったらしいが、
先行研究がたくさんありすぎるので(心理療法で)時間がない自分は困ると語っていた。
どうせ先行研究なんて読んだところで自分の考えは変わらないのに、とも(ガチだよなあ)。
重要なので繰り返すが、河合さんの場合、結局先行研究を読んでも自分の考えは変わらない。

こんな本当のことを対談とはいえぽろっと言ってしまうから氏はおもしろいのである。
たぶん河合隼雄さんが鎌倉時代のマイナー坊主、
明恵を好きになったのは比較的先行研究が少なかったからではないか。
先行研究(先輩)を重んじろとはどういうことか?
後輩ほど不利になるということである。
後の時代に生まれたものほど上に縛られて窮屈である。
要するに、一番乗りがもっともいい。
勇気を出して未開拓の処女地に分け入るのがなによりも実りがある。
とはいえ、かりにそこでなにかを発見しても、
権威ある先行者がいないためにその価値を認めてもらえない危険性が高い。
確率はとても低いが、運さえよければ自分がその分野の権威になることができることもある。
わたしがストリンドベリや踊り念仏の一遍を好きなのは、
他と比べてまだあまり手垢がついていないからかもしれない。
ちなみに、むかしは新刊好きだったが、いまは古本でも新本でもこだわらない。
妻の過去の男に嫉妬している夫は先輩を敬うという日本文化を忘れた礼儀知らずである。
なんてゆうかさ、ものごとはなるようにしかならないんだから、気楽にやろうぜ。
そんな四角四面で生きなくてもええんで。
ああ、いまが幸せって思う瞬間がたいせつ。難しいことはない。考えることはない。
テイク・イット・イージー。和訳したら、笑おう。とにかく、笑おう。
本当は難しいことなんてないから笑おう。そんなもんだ、こんなもんだ、だから笑おう。

インド旅行動画↓(どうしたらブログに組み入れられるのかわからなかったのでリンクを)
http://vimeo.com/58313264

この3分動画でずいぶん気が楽になったなあ。
インドや東南アジアを旅したことがある方ならご存じでしょうが、
交通ルールなんてあってないようなめちゃくちゃな国がございます。
ほぼほぼ運転免許証のない世界があるんですね。
で、交通事故が多発しているかといったら、どうやらそうでもないらしい。
もしかしたら交通法規は事故発生率とあまり関係がないのかもしれませんね。
どれだけ厳しく正義ぶって交通ルールを押しつけようが起こるものは起こる。
むしろ、ガミガミ言う国のほうが不安を体現して交通事故発生率が高い。
いまわたしが住んでいる低文化地域なんて
赤信号でも車が横断歩道を突っ込んできますからね。
それでもいままで一度も交通事故を目撃したことはありません。
横断歩道の赤信号を渡っている歩行者に注意した若いお巡りさんに、
「おい、偉そうにすんな」と怒鳴りつけてぺこりとあたまを下げられたことが一度だけあります。
もちろん、むかしのことでいまではとんでもないことをしたと反省しています。
うちの地区のお巡りさんはみんな気がいいのでしょう。
もしかしたらこのためにあまり交通事故が起こらないのかもしれません。
こうしたらよくなる、こうしろ、こうしなければならない!
自己啓発本が描く世界であります。
自己啓発本はこうしたほうがいいという先輩のようなもの。
上を立てる、先輩に逆らわない、
というのがどうやら日本の「和を以て貴しとなす」文化のようです。
上役にはしたがっておけよ。目立つなよ。場の空気を荒立てちゃいかんぜ。
この象徴がたとえば「地球の歩き方」のようなガイドブックでしょう。
このごろ気づきましたが、ガイドブックと自己啓発書はおなじものを根に持っています。
この場所に行ったらここに行け。
自分で判断するより、おれの命令にしたがえ。
こうしていたらいいんだから、こうしろ。
大学生のころ「地球の歩き方 インド」に投稿が採用されたことがありました。
あんな偏見丸出し主観オンリーの愚見を参考にされた方がいたと思うと気まずい思いがします。
とはいえ、なるべくならばガイド本(自己啓発書)を読む側ではなく書く側になりたいものです。
人の言うことを聞くな、と言っているわけですから不穏なこと甚だしい。
むかし「青年は荒野をめざす」というベストセラーがあったようですけれど、
いまの青年は荒野ではなく安定を求めているような気がします。
青年の欲望は時代によって変わるもののようです。
とはいえ、人間普遍の目的地のようなものはあるのではないでしょうか?
人間は一流をめざす! 人間は一流にあこがれる存在である。
ならば、一流とはなにか?
一流大学、一流会社、一流新聞社、一流商売、一流家系……天皇陛下さまもそうでしょう。
一流になるためには、一流と接点を持つしかありません。
だれも一流ではないのですが、一流になりたかったら一流ぶるしかない。
たとえばお寿司屋さんは大衆店ぶるよりも、かえって一流ぶったほうが客が来るでしょう。
一流大学の講義なんてつまらないものですが、一流ぶっていたら学生が志望してくるのです。
一流会社の多忙と非人間性はあまりあるものですが、
一流だから入社希望者が後を絶ちません。
しょせん、この世は一流と三流の違いしかありません。
三流が一流になりたかったら一流に認められるしかありません。
しかし、もとから一流の家に生まれるラッキーな人もいます。
とはいえ、一流の家に生まれるのがいいのかどうかもわかりません。
この先は正しい間違い、善悪ではなく、好き嫌いしかないような気がします。
わたしはどうやら一流があまり好きではないようです。一流店は肩がこる。
「努力教」でググったら(グーグル検索したら)、あるブログが出てきたんですね。
一流の男性が書いたブログです。
その方のお父さんは一流大学出身で一流会社の社長まで出世したようです。
お祖父さんも一流銀行のお偉方で、大学名は明記されていませんが東大一家のようです。
家風は「がんばれ!」だったようです。
がんばれ、がんばればうまくいく、うまくいっていないやつはがんばっていないクズだ!
ブログ作者の人生も一流だったようです。
一流会社に勤務していて、むろん幸福な結婚をしており、
五体満足のかわいらしい娘さんが3人もおられる。
3年まえ19歳の長女が自宅で首つり自殺をした。
これは自死遺族の経験から申し上げますが、
ある人の自殺の原因は人間には絶対にわかりません。
それぞれの真実があるのみです。
お嬢さんに自殺された一流一家の御曹司は痛ましき不幸をどう見たか。
娘さんは一流大学にすべて落ちて三流大学にしか入れなかったようなのです。
そのことを深く恥じて自嘲していたとお父君は書いておられました。
これであたしの人生は三流だと絶望して、親の期待に応えられなかった若い女性が自殺した。
その一流一家はその一瞬で終わってしまったようです。
妹さんふたりは不登校になって人生をドロップアウト。
奥さんも精神病薬をのみつづける鬱人生。
生き残ったお嬢さんふたりが自殺をほのめかせるので、
ブログの作者さんは一流会社に行けないようです。家族全員ひきこもり。
一流の家系だからそれでもお父さんがクビにならないのは救いでしょう。
おそらく、原因も結果もないと思います。
ただし、ひとつ言えるのは一流がかならずしもいいとは限りません。
原因も結果もわかりませんし、
生きているのがいいのか死んだほうがいいのかもわかりませんが、
曽祖父、祖父、父親全員が一流だったプレッシャーが
ある19歳の三流女性の自死に影響していなかったとは言い切れません。
三代、四代にわたって因果はあらわれるということでしょう。
なにがなにに影響しているかはわかりません(因縁不可思議)。
あんまりいまの勝利や成功にこだわらないほうがいいと思いますが、これもよくわかりません。
新聞が大好きな、インテリ嫌いでそのくせインテリぶった高齢庶民の好きなのが一流です。
医者なんか老いも若きもそうそう変わりはないのに、
あの人は大学教授だから、博士号を持っているから、などとくだらぬ権威に縛られて安心する。
安心するのだから、かならずしも一流を否定しているわけではありません。
一流もいいのでしょう。
あたしの娘が立教大学に入りました。おれの娘が講談社の新人漫画賞を取ったぞ。
山田太一ドラマの世界であります。
庶民は一流が大好きなのに、さも自分は一流なんかにこだわらない、
自由な自分の目を持っているようなポーズを取りたがる。
そのほうが人生はうまくいくことが多いからいいのだと思います。
なにより一流を信仰していると安心できるのがよろしい。
三流の人生を送っている人も、一流を信仰することで心の安定がもたらされるようです。
ならば、一流に逆らってはならないのでしょう。
一流ではない自分の意見など言ってはならない。
一流に従え。一流をなんだと思っているんだ?
おれをだれだと思っているんだ?
一流の人がたくさん寄稿している新聞の読者だぞ。
そのうえ新聞は一流政治家も批判できる超一流なんだぞ。
大学生のころ、新聞社に就職が決定した先輩が、
「よっしゃ、おれの人生はこれで決まった、OK!」と叫んだという話を聞きました。
わたしの目のまえで飛び降り自殺をした母親が大好きだったのは朝日新聞です。
近所に息子が某新聞社に入社したおばさんがいたようです。
よく言われたものです。あそこの息子さんは新聞社に入ったのよ。
朝日新聞が大好きな高卒の母でした。一流はよろしい。
長いあいだ「がんばれ」という言葉が嫌いだったんですね。
よくわかりませんが、「がんばれ」と言われることの多い人生だったからかもしれません。
いまのままではいけない。そのまんまではいけない。がんばれ。がんばれ。もっとがんばれ。
しかし、人は絶対に変わります。これは相対的な世界で、なお絶対と言えることでしょう。
もしかしたらこの絶対しか救いはないのかもしれません。人は絶対に変わる。
ならば、そうだとしたら、はい、わたし、「がんばれ」もいいと思い直しました。
他人のことは「がんばれ」としか言いようがないところがあります。
どうしようもなく無言には耐えられないから人は「がんばれ」と言ってしまうのでしょう。
「がんばれ」と言ったら自分の責務を果たしたようにどこかで思える。
「がんばれ」は無責任で、あたかも自分が善人になったかのような気がする。
「がんばれ」はいい言葉です。便利な言葉です。
「がんばる」の反意語はなんでしょうか? がんばらない、のんびりする、あきらめる……。
「がんばる」ではなく「がんばれ」の反意語に最近、気がついたのです。

「がんばれ」の反意語は大丈夫。
大丈夫だから。きっと大丈夫。大丈夫、なんとかなるよ。絶対大丈夫。だから大丈夫。
いまのところ自身や周囲に不幸が多い人生です。
痛ましい確率の低い災難を多く目にしてきましたが、結局は大丈夫なんです。
どれもいまのところなんとかなっています。
こんなことがあったらどうしようという不幸もいざなってしまえばなんとかなるから大丈夫。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「がんばれ」と人に言うのが好きな方は、
そのあとに大丈夫を付け加えたらいいのかもしれません。
がんばれ大丈夫! がんばれ大丈夫! がんばれ大丈夫だから!
この大丈夫に人生の迫力がかかっているような気がします。
どんな人生を送ってきたかが大丈夫の気合にあらわれる。
どうなってもこうなっても大丈夫なことがわかっている人の大丈夫は強い。
なんとかなるから。大丈夫。絶対大丈夫。がんばれ大丈夫!
「結婚まで」(山田太一/「月刊ドラマ」1990年11月号」) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成2年放送作品。NHK。単発もの。
どうしてか平均的サラリーマンを描くのが抜群にうまいのが山田太一さんである。
いまのライターは突出していない凡庸なサラリーマンは書けないのではないか。
大概は医者か刑事か、そのほか特異業界のスペシャリストを主人公にせざるをえない。
要するに、サラリーマンの生活がよくわからないのだろう。
山田太一さんが描く、俗っぽいサラリーマン夫婦は本当におもしろい。
知人の娘の縁談を頼まれたとき、顔がつり合わないとか、
大学はこっちが低いとか当たり前のように人間を俗世間の物差しで値踏み品定めをする。
人間なんざ「金、顔、肩書」に過ぎぬと見切って疑わぬ庶民の
不謹慎な実相が最高におもしろい。
商社マンから大工になった男と聞けば、訳知り顔で商社で大失敗をしたんだろうと決めつける。
人間なんて、そんなもんよ。大それたもんじゃないよ。
つまり人間はね、ランク付けがあって、
上か下かをつねに留意しなくちゃいかんのだね、いいかな?
これは本当のことなんだけど、きれいごとが大好きなテレビで流していいのかと思ってしまう。

人間が平等なんてとんでもない話で、「金、顔、肩書」の細かな上下関係こそすべてである。
あいつはどんくらい稼いでいるのだろう? 大学はどこだ? きみはあんな顔がいいの?
まじめに新聞を読む庶民が生きている価値観というのは、しょせんこのくらいのものなのである。
そこを妙におかしく描写できるのが山田太一さんの稀有なる才能だ。
新聞を読む程度にインテリぶったゲスな庶民の底の浅い裏読みがおもしろすぎるのである。
せっかく若い女の子とメイクラブできる機会があっても、
脅えて手が出せないのも世間体ばかり気にする臆病な自称上級庶民らしくていい。
ゲスな価値観を持っているくせに、ロマンスにあこがれてヘタを打つのもおかしい。
なにごとも中途半端で夫婦喧嘩でさえ徹底できない情けなさは愛おしい。
本当のことは見ないで自分たちはまだ恵まれていると信じて生きている庶民たち。
悪など勇気がないからできないだけなのに、
まさにそれを理由に自分たちはか弱き善人だと誇る健気な庶民たち。
山田太一さんが「結婚まで」で描いた実に魅力的なサラリーマン老夫婦である。
英雄でも悪漢でもない庶民の美しさ(醜さ)を脚本家が愛していることがよくわかる。
善でも悪でもない平凡のほかにない輝きを山田太一さんはシナリオに活写した。

(関連)「結婚まで」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2025.html
「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫) *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和62年放送作品。NHK。単発もの。
山田太一さんの代表作を改めて読み直してみると救いのない話だよな。
53歳の会社人間が末期ガンで余命宣告されているけれど、なんにもない。
女房はほかに男を作っている。彼は女とは縁がないということなのだろう。
なぜならむかし母親も男を作って家を飛び出していったのだから。
かといって、子どもたちもとくに自分を慕ってくれているというわけでもない。
この人、いったいなんのために生まれてきたんだろう。
気づいてはいけないことに男は気づいてしまう。

「フフ、まったく、なんにもありゃしない。
会社で私のしたことなんか、どうせすぐ忘れられてしまう。
子供たちはもう自分の人生に夢中です。
女房が別れたいといい出したら、私には、なにもない。
もうじき死ぬというのに、なにもない」(P200)


周囲も本人もみんな「本当のこと」に目を背けながらそれぞれ歌をうたう。
みんなの心はバラバラだが、だれもそれを認めないことで辛うじて場が成立している。
もうすぐ死ぬ男は必死に嘘にすがりつく。

「錯覚しそうだよ。家族っていいなって(おだやかにいう)」(P251)

錯覚でもしなければ死ぬにも死ねないのだろう。
本当は家族の心はバラバラなのに、ああ、家族っていいなと自分と周囲に嘘をつく。
「本当のこと」を言ってしまえば、
53歳の男にはなんにもないのではあるが、しかしそれでも――。
みんな「本当のこと」を知っているけれど、だれひとりそれを口に出せない。
口に出したら本当にそこでなんにもなくなってしまうからである。
人はこうやってごまかしながら年齢を重ね、最後にいたってまでおのれをだまし死んでいく。
たしかに彼の死にはなんにも意味はないが、
そんなことを言えば秋が冬になることにも意味はない。
秋が冬になることに意味があるのだとしたら、
我われにはわからないが男の死にもなにか意味があるのだろう。

(関連)「今朝の秋」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2143.html

「刑事の恋」(山田太一/「月刊ドラマ」1994年4月号/映人社) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成6年放送作品。テレビ朝日。単発ドラマ。
刑事が元チンピラヤクザの妹と結婚するために仕事を辞めて寿司屋の見習いになる話。
ドラマの最後に中井貴一と富田靖子という美男美女が結ばれる。
ふっとおかしなことを考えたんだけれど書いてもいいかな。
どうしてさ、ドラマや映画で愛し合う男女が結ばれると我われはめでたし、
めでたしと感じるんだろう。そういう恋愛遺伝子みたいのがあるのかな。
ひねくれた見方をすると、愛し合う美男美女なんて嫌味なもんじゃないか。
知り合いの結婚式なんかみんな本心では行きたくないでしょう?
恋愛ドラマもよく知らない男女の結婚式みたいなものとは言えないか?
なんであんなもんをいままでの自分は楽しんで(いたかな?)いたのかふしぎである。
ま、だれとだれが結ばれようが関係ないわけじゃん。
男は男に、女は女に感情移入するのかしら。
しかし、ほとんどの男はタレントのような容姿ではないでしょ? あいつとおれは違うよ。
富田靖子なんてどうせこっちを相手にしてくれそうにないしさ、
そういう美人が中井貴一のような家柄もよく若いころから世に出たイケメンと結婚する?
ふざけんなって話じゃないか。こちらはシナリオで読んでいるからぐっと堪えたけれど。
人はどうして美男美女が結ばれる恋愛ドラマなんて見たがるのだろう。
またひとつ社会性を失ったのか、それとも偉大なる新発見をしたのか?
山田太一ドラマにはいろいろ考えさせられる。

(関連)「刑事の恋」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1349.html
「なんだか人が恋しくて」(山田太一/「月刊ドラマ」1994年4月号/映人社) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成6年放送作品。NHK。単発ドラマ。
生徒から嫌われている冴えない中年男性教師が、
詩のようなものを求めて行動に出るんだけれど、結局はなにも起こらないという話。
こいつもいっぱしに新卒の若いころはもてて女子生徒とキスをしたんだとか。
結婚しようという話になったが、新任後すぐに女子生徒と結婚するのは世間体が悪いと中止。
その後、女子生徒は高校を卒業するとすぐに遠くへ嫁に行ってしまった。
先生もつまらない見合い結婚をして、年々つまらない教師になり、
いまはつまらない生徒指導ばかりしている。
そんな折、キスをした元教え子が旦那と死別したという話を聞いた。
中年男は逢いたいと思った。もう一度逢いたい。男のロマンである。
で、電車に乗ったら不純異性交遊をする教え子を発見して、てんやわんやが生じる。
中年教師のロマンスはどうなったか。
遠路はるばる道を聞き聞きたずねていったら女性は再婚先が決まっていたという。
冴えない中年教師は「おめでとう」と言うしかなかった。
ああ、人生ってさみしいもんなんだなと思った。現実ってこんなもんだよな。
退屈な日常で我われはときおりなにか期待するけれど、その期待の大半は破れる。
若々しい高校生カップルが目立つぶん、中年の悲哀が強調されていた。
生きていてもなんにもないんだよね。楽しいのはせいぜい高校生のころくらい。
それでも高校で相思相愛になれるものは数が限られているだろう。
人生はなんにもない。つまらんもの。
まあ見合いでも妻子がいて公務員なら勝ち組じゃないかといまなら冷やかされるのか。
生徒から嫌われている教師は旅の終わりで言う。

「俺も、案外、いい旅だったよ」(P108)

なんにもない切ないだけの道行きもそれなりの味があるのだろう。
なんにもないつまらない人生にもよく見たらそこにしかない味がある。
大げさな喜怒哀楽はないかもしれないが、さみしさのようなものも味のひとつだ。
「なんだか人が恋しくて」というさみしさもまた味わい深いではないか。
昂揚するような勝利や幸福、絶頂、到達ばかりが人生の味ではない。
思いひとつで脇道、寄り道、裏道に咲く小さな花にも人は感動することができるのだろう。

(関連)「なんだか人が恋しくて」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1348.html
「三日間」(山田太一/ラインブックス) *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和57年放送作品。東芝日曜劇場。
山田太一ドラマの笑いはどこから発生するのだろう。
シナリオを読みながらおかしくて実際に笑い転げているのだから。
このホームドラマではボケかかったおばあさんがいい。
ふだんは自分は絶対にボケてなんていないと言い張っている老女である。
ところが、家族がみんな集まったときに本当のことを言ってしまう。
「かくしてたけどね、この頃、ぼけて来てるんだよ」
実際はちっとも隠されていないのである。
みんなほとんど全員おばあさんのボケが始まっていることに気づいている。
いままでボケを否定していた当人が、「かくしてたけどね、この頃、ぼけて来てるんだよ」。
笑いがとまらないではないか。
みんなは必死でボケた祖母をフォローしようとする。
父「年寄りは多少ぼけるさ」
母「大丈夫です、お母さん。ちっともぼけてなんかいません」
姉「そうよ。全然普通よう」
弟「そういう心配するってことが、ぼけてない証拠だよ。大丈夫。元気出して」

本当と嘘と笑いの関係がじつによく現われているような気がする。
嘘と本当の落差が観客を笑わせるのかもしれない。
世間では本当のことを言ってはいけないことになっている。
だから、世間では嘘が貨幣のように流通しているが、みなそれらは偽札だと気づいている。
たとえ世間から偽札をもらっても庶民は信じないのである。
しかし、仲間内ではこっそり本当を確認する。
ボランティアをやっているって、あいつ食えているのかね。
東大くん、女の子にもてなさそう。
肩書は多いけれど、あの人、高卒でしょう?
しかし、この仲間内に当人が来たらがらりと対応を変えるのである。
当人が本当のことを言ったら大慌てでとめるだろう。
「ボランティアをしてますけど無職で」(人助けは立派じゃない!)
「東大出てますけど、もてません」(そんなことない! もてそう!)
「どうせ僕、高卒ですから」(いまは大学なんて意味ないわよ! 能力次第よ!)
裏表のある人間のおもしろさを山田太一さんはじつによく知っている。
本当のことを言わないことがやさしさであることも。

(関連)「三日間」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2176.html

「それからの冬」(山田太一/ラインブックス) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成3年放送作品。東芝日曜劇場。
山田太一さんは世間の怖さをよく知っているのである。
一見やさしそうなおばさんに「人目なんて気にしないほうがいいわよ」と言われて、
その発言の裏側を読み取れず世間知らずのあまり、うっかりもし勝手なことをしたら、
陰ではおなじおばさんが「あの人、常識がなさすぎない?」などと
口汚く悪評を触れ回って歩くことになるのをよく知っている。
人間、そんなもんだぞ、
と臆病なまでに用心深く笑顔の裏で他人を警戒しているところがある。
世間ってものは甘くねえぞ。
人間なんてもんは「収入、学歴、ルックス」でしか判断されない。
うっかり甘いことを言ったら、すぐおばさんたちの悪口の餌食になる。
人と違ったことをしたら、世間てえものは袋叩きにしてくるもんだ。
だからこそ、このドラマに出てくるような女性を造形してしまうのだろう。
世間体を気にしない女性だ。死んだ親友の、まさにその夫を愛してしまう。
婚約者らしきものまでいるにもかかわらずである。
妻を亡くしたばかりの男に向かって、こんな気のあるようなことを言って誘う。

「(いまの交際相手は)収入だって、学歴だって、ルックスだって、
ほんとに丁度いいのに、どうして迷っているのか、自分が分らない」(P158)


たぶんこのドラマは高収入、高学歴、高ルックスを超える愛を描いたのだろう。
現実がそうだから、ではなく、おそらく現実にはこんなことがないからだろう。
しつこいが、男というのは「収入、学歴、ルックス」である。
人間は収入よりもたいせつなものがある、なんてきれいごとを言ったら世間様から笑われる。
学歴不問とか言っている一流会社に、ほんとうに高校中退が行ったら、どんなに笑われるか。
この人はルックスで選んだんじゃないの、なんていくら言っても、
あなたがいなくなった瞬間に女連中は男のルックスをバカにするものなのである。
こういう世間をよく知っているから山田太一ドラマはおもしろいのだろう。
世間のきれいごとを真に受け行動したら、
まさにその世間様から後ろ指をさされて嘲笑されるのである。

(関連)「それからの冬」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2175.html

「大丈夫です、友よ」(山田太一/「月刊ドラマ」1999年1月号」) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成10年放送作品。フジテレビ。単発もの。
なんでこんなに山田太一さんが好きなのか自分でもわからない。
ちょっと、おい、いいかげんにしたほうがいいんじゃないかと自分でも思う。
このドラマに若いカップルが登場するのだが、会話のやりとりがおもしろいのである。
要は女が男に結婚を申し込ませようとしているのだが、とにかくおかしいのだ。
変なんだけど、ああ、いるかもというくらいの変で、変なところがいじましくて、いい。
こんな女の人いたら惚れちゃうよ、と思うから、
たぶん作者は自分の夢のようなものを書いているのだと思われるけれど。
とはいえ、人生は不公平だから、あんな美女(深津絵里)がこちらなど
相手にしてくれるわけがないのはわかっている。
つくづく人生は不公平である。作者もまた人生の不公平に敏感である。
東京で出世した藤竜也(浩司)が地元に戻ってきて
同級生だった井川比佐志(昭夫)と再会する。
設定ではふたりとも58歳。

昭夫「俺は人生の不公平ば、大げさにいえば、あんたに教わったとよ。
浩司「でかい話だな(と苦笑)」
昭夫「造り酒屋の次男坊で、頭よくて格好よくて金もあって」
浩司「(苦笑)」
昭夫「こっちは引揚げて来て、やっと親父が戸畑の町工場たい」
浩司「うん――」
昭夫「波折神社の脇で、お前、桜井直美とキスしたべ」
浩司「どうして?」
昭夫「見とったとよ。(場所に合せて台詞は変えるが)あそこのケヤキにおったとよ」
浩司「ほんなこつ?」
昭夫「一時、俺、イジめられとったけん、よう、一人で、あのケヤキに登っとった」
浩司「そうね」
昭夫「実のとこ、俺も桜井直美ば、なんと美しか娘やろて思うとった。
 あんなんとキス出来たら、命もいらんて、思うとった」
浩司「うん――」
昭夫「それが、あんたと来て、キスしよった」
浩司「うん――」
昭夫「なんで塚田の浩司ばっか、よか思いするんかて、哀しかいうより、
 ぶたれたようになって動けんだった」
浩司「昔の昔たい」
昭夫「その浩司が、東京へ出て、羽振りようしとると聞いて」
浩司「んにゃあ」
昭夫「久し振りで逢うてみりゃあ、こっちは、このざま、
 そっちはよかもん着て、時計はローレックスたい」
浩司「んにゃあ」
昭夫「相変わらず人生は不公平たい」(P102)


現実はどうなのか。相変わらず不公平なのか。
実のところ藤竜也は事業に失敗して死ぬつもりで帰って来たのである。
藤竜也の自殺企図に気がついたのは、井川比佐志の妻の市原悦子(良子)である。
この3人はみな同級生で市原悦子は少女時代、藤竜也に初恋をしていた。
市原悦子は藤竜也の身を案じてハウステンボスまでつきあってやる。
藤竜也は市原悦子のやさしさに胸打たれる。むろん、男と女の関係にはならなかった
翌朝、血相を変えて飛び込んできた夫の井川比佐志に藤竜也は事情を説明する。
自分は死のうと思って故郷に舞い戻って来たのだ。

昭夫「なんで死ぬんや」
浩司「なにもかも失うたとよ」
昭夫「なにもかもて――」
浩司「昭夫は、俺がよか思いばかりしよるというたが、そんな事はなか」
昭夫「どういうことや」
浩司「息子を亡くし、女房に死なれ、いまはもう倒産が目前や。
 なにより、気力を失うたつよ」
昭夫「――」
浩司「良子ちゃん(市原悦子)は、なんもいわんのに、俺が死ぬ気だっちゅうこと察して、
 止めようとして追いかけてくれたつよ」
昭夫「聞いとらん」
浩司「暇がなかったと。俺が、どこ行くか分からんもんで」
昭夫「察しン悪か。俺はすぐここがピーンと来たと」
浩司「良子ちゃんに、叱られたと。なんも死ぬことはなかと、止められたと」
昭夫「当り前や」
浩司「俺は、どん底や。お前の方が、余程幸せや」
昭夫「――」
浩司「人生――昭夫」
昭夫「うん?」
浩司「長い目で見りゃあ、案外、公平なもんたい」
昭夫「うん――」
浩司「いまは、こっちが、お前を羨んどる」
昭夫「んにゃあ」
浩司「よか女房たい」
昭夫「んにゃあ」
浩司「よか女房たい」
昭夫「何遍もいうな。また、心配になるやないけ」
  二人、笑ってしまう」(P119)


これは事実なのかそれともフィクションなのかという話なのである。
視聴者はこれを見て、ああ、そういうものかと慰められるはずだ。
そうよ、そうさ、「長い目で見たら人生は公平」になっているもんだ、ああそうだ。
しかし、ダメなやつはダメなまま、トップはトップのままというのも事実でしょう。
ドラマの話をすれば、だれだって井川比佐志の役よりは藤竜也の役を望むと思う。
女だって冴えないおっさんと、
いまは落ちぶれていてもローレックスをつけたダンディなおじさま。
ふつうなら藤竜也に惹かれるのではないかと思う。
このようにゲスなことをたんまり考えさせてくれるのが山田太一ドラマの魅力である。
顔が違う、頭が違う、育ちが違う、というのはどうしようもないことだが、
作者はそのどうしようもなさから目を背けない。
ドラマはそのどうしようもなさにこそ人間のすべてがあるというリアリズムによっている。
人間の高邁な思想や気高い精神を描くのではなく、
山田太一さんは好んでどうにもならない人間のどうしようもなさを丁寧に描写する。
「人は生まれながらに差がついている」どうしようもなさを直視する。
どうしようもないことはどうしようもないのだからどうしようもない。
ただ人はそのどうしようもなさをそれぞれに味わうことならばできる。
山田太一さんは「どうにかなる話」ではなく「どうしようもない話」を描く作家だ。
もちろん、多数の視聴者を相手にする商売だから、
最後に「希望の香り」くらいは残しておこうという大人としての気配りは持っている。

(関連)「大丈夫です、友よ」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2027.html
「旅立つ人と」(山田太一/「月刊ドラマ」1999年12月号」) *再読

→テレビドラマシナリオ。平成11年放送作品。フジテレビ。単発もの。
うまいよなあ。どうしてこんなにうまいんだろう。
もう余命少ない渡瀬恒彦に市原悦子が過去のいい思い出を善意から聞いてあげようとしたら、
渡瀬が空気を読まず、豊富な女性体験(エロ話)をぺらぺらしゃべるところとか大笑いする。
人間ってそういうところあるよな。人間と人間のズレみたいのが最高におもしろい。
イケメンの渡瀬恒彦がただのおばちゃんの市原悦子を見初めたシーンもいい。
市原悦子が外国人に道を聞かれて、ゆっくり大きな声で日本語で説明していたという。
そのときの「大丈夫」がよかったと渡瀬恒彦は言う。
いま余命わずかの渡瀬恒彦(良成)のために、
いわばボランティアとして話を聞いてあげている市原悦子(美代)である。
場所は病院の一画。

美代「お寺をさがしてる人だったの。場所なら、日本の場所だから、
 ゆっくりいえば分かると思って」
良成「いい方(かた)がよかった」
美代「本当かなあ」
良成「外国人だからって、慌てたりしないで。『大丈夫。ゆっくり』って。
 堂々としてて、優しくて」
美代「どうしよう」
良成「ああ、こういう人に大丈夫っていわれたら」
美代「困ったなあ」
良成「なんだか大丈夫のような気がして来るかもしれないって」
美代「大丈夫」
良成「そう、その声」
美代「大丈夫。大丈夫よ」
良成「――」
美代「大丈夫」(P135)
 

渡瀬恒彦には娘がいるのだが、親子は単純に愛し合っているというわけではない。
一度渡瀬恒彦が危篤になったけれども、わざと娘の東子は仕事から遅れてくる。

東子「間に合わなきゃ仕様がない。
 お父さんだって、そう思ったでしょ、お母さんの時って――」
美代「――」
東子「この前、いわなかったけど、母が死ぬ頃、父は仕事だけじゃんかったんです」
美代「――」
東子「女がいたんです。だから、私、どうしても父が、幸せに死ぬの、許せない。
 私が間に合って、お父さんなんて呼んで、それで安らかに死ぬなんて、
 なんだか悔しい。母が可哀そう」
美代「そう」
東子「それで、こんなにおくれました。すいませんでした」
美代「いいのよ。人間いろいろなんだし、型通りにすることない」
東子「――」
美代「でも、お父さん、もう充分、バチがあたってるわよ。今日も、痛がったし」
東子「そうですよね。親子なのに、こんなのいけないって思うんだけど」
美代「親子だからよ」
東子「ええ」
美代「厄介ね」
東子「ええ――」(P142)


山田太一さん、どうしてこんなに親子の微妙な距離感を理解しているのだろう。
たいがいの子は親を「好きで/嫌い」だと思う。
嫌いなんだけれども、嫌いになりきれない。
好きにならなきゃいけないとわかっているんだけど、好きになりきれない。
完全に好きでも完全に嫌いでもないけれども、どうしようもない親しみは感じている。
かんたんじゃないってこと。好きとか嫌いとかスパって割り切れない。
そういうところを山田太一さんはうまく描写するんだな。
人間の裏と表をよくわかっているのにはただもう恐れ入る。
山田太一、いったいこの人はどういう才能でもってドラマを書いているのだろう。
さんざん分析しようとしてきたが、いまだに底にあるものが読めない。

(関連)「旅立つ人と」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2028.html
「居酒屋百名山」(太田和彦/新潮文庫)

→いまや居酒屋評論の最高権威となった太田和彦氏の文庫最新刊を酒をのみながら読む。
むかしから著者のファンだったけれども、人は変わるものだとつくづく思う。
居酒屋の紹介の仕方がやけに俗っぽくなっているので好みがわかれるところだろう。
この店は有名文化人のだれそれがひいきにしていたという紹介ばかりなのである。
それもかなりくどく有名文化人の名前を連呼するのは、
読者によってはいろいろ思うところがある人がいてもおかしくない。
居酒屋評論の権威は、彼が評価した店から高級食材が毎年送られてくるという。
なぜなら著者のガイド本で客足が大幅に増加したから、その感謝の表明である。
なにかしてもらったらお礼をするのは庶民の常識だから悪く言いたいわけではない。
著者は居酒屋業界ではもう顔が割れているため特別扱いも多いらしい。
こういう権威になってしまったことにあんがい著者は嫌気が差しているのかもしれない。
いや、そうであってもらいたい。
権威なんかになりたがる人ではないですよね、太田さん?

本書を読んで自分の向上心のなさを深く反省した。
酒は酔えればいいと紙パックの日本酒で満足するのは、
たとえるならば安っぽいテレビドラマに感動するようなもので、
人はやはり古典文学のような高級ブランド日本酒を求めなくてはならないのだろう。
しかし、古典文学は激安だけれど、名高い日本酒はちと値が張りすぎるのではないか。
いや、そうではない。わたしは間違えている。
上質な人間は有名人のひいきにしている店で高級珍味を食らい、
これはどこそこのだね? とピタリ言い当て、さすがお目が高いと言われなければならない。
自分が好きな安いものを飲み食いするのではなく、
せっかく食に恵まれた現代の日本に生まれてきたのなら
ガイド本の舌を信用して日々研鑽を積まなくてどうする? 一流の人間は一流の店に通う。
人間も食べ物も酒も一流、二流、三流がある。学校、会社も一流、二流、三流があるように。
一流の居酒屋エッセイを読み、いたく刺激を受ける。このままではいけない。

「修羅の旅して」(早坂暁/大和書房)

→テレビドラマシナリオ。昭和54年放送作品。天下のNHK。
いかにも早坂暁さんらしいテクニックに満ちたドラマだと思う。
まずアクションを起こすんだ。アクションを起こして視聴者の気を惹く。
理由なんてあとから説明すりゃあいいんだから、まずアクションで引っ張る。
謎の少女を登場させるところもうまい。なんだよ、この少女、とか思うもん。
現実にはほとんどないけれど、盗み見や盗み聞きはドラマの定番。
結局、テレビドラマなんて他人の人生(生活)を盗み見ているようなものなんだから。
しっかし、テレビドラマみたいな恋愛なんてあるのかなあ。
いや、現実にないからこそ人はそういう噓くさい世界を求めるんだろうけれど。
この作品に関係ない話をすると、
年齢のせいかもう刑事ドラマや恋愛ドラマは見(ら)れない。
刑事ドラマはどうせ犯人が捕まるんだろうし(それを言っちゃおしめえよ)、
恋愛ドラマは「他人の恋愛なんか興味がないね」のひと言に尽きる。
ほんとはさ、テレビドラマを楽しめる人のほうが人生をエンジョイしているのはわかっている。
還暦を過ぎてもテレビドラマ視聴が趣味の男性を知っているけれど、脳内が若すぎるぜ。
きっといろいろな意味で恵まれた人なんだろうなあ。あんまりうらやましくないけれど。

「母たることは地獄のごとく」(早坂暁/大和書房)

→テレビドラマシナリオ。昭和56年放送作品。日本テレビ。
不謹慎な話だが、むかしはドロドロっとした不幸があったからおもしろいよね。
いまとは不幸のレベルがぜんぜん違うわけ。
親に愛されなくて自分が見つからなくてリストカットする女性の不幸はチープすぎる。
そりゃあ、ご本人は苦しいのでしょうけれど。苦しみに高低はないのでしょうけれど。
このドラマのテーマは、戦後の混血児だ。
米軍相手のパンパン(売春婦)が産み落とし捨てた混血児の問題を取り扱っている。
母親から捨てられて孤児院で育った黒人とのハーフとか、きっついんだろうな。
そういう人に比べたら、もういまの人の不幸なんてどれも安っぽくて問題にならない。
いやいや、ふつうの人たちの安っぽいありきたりな悩みにも多様な色彩があって、
たとえば山田太一さんはそういう部分を絶妙にうまく描写するわけだが。
逆にディープな不幸を描くのは、視聴者に共感してもらいやすいから楽という面もあろう。
人間の不幸にも深浅や貴賤はあるのだろうか。
底の深さ浅さに関係なく、どうしようもない悲しみに耐えている人は美しいと思う。
そういう人たちの独特なそれぞれの美しさを描くことでは早坂暁も山田太一もおなじである。

「恋人よ、われに帰れ」(早坂暁/大和書房)

→テレビドラマシナリオ。昭和58年放送作品。フジテレビ。
テレビドラマのみならず小説や漫画もそうだけど、偶然の再会がやたら起こるよね。
でもさ、実際、偶然の再会なんてしたことある?
こんな人がいっぱいの東京で偶然の再会なんてないと思うけどな。
また、そういうことがないと運命とか感じられず、熱っぽい恋愛ができないわけだが。
あ、ごめんなさいね。子どもっぽくドラマの暗黙のルールに茶々を入れてしまった。
このドラマは、まあ広島の原爆ものである。
たしか作者は妹さんを原爆で亡くしているから軽々しくドラマを批評できない。
このドラマの最後に登場するのだが、
顔ぜんぶがケロイドになっちゃった女性はほんとうにかわいそうだよね。
このとき恋愛っていったいなんなのだろう。
顔がぐちゃぐちゃになってしまった恋人の女性をそれでも愛せる人なんかいるのだろうか。
この世は来世があるとでも思わなければやりきれないことに満ちている。

「熱帯夜」(早坂暁/大和書房)

→テレビドラマシナリオ。昭和58年放送作品。フジテレビ。全3回。
底辺労働者(コック見習い)の松田優作がどもりでオナニストの桃井かおりと共謀して
サラ金強盗をする。その他の愉快な仲間たちと逃亡する過程で、現金輸送車を襲ったり。
なーんか、反社会的なドラマでおもしろいな~。
ここだけの話、悪いことって本当はすんげえ楽しいんだろうと思う。
最後は警官に囲まれて銃弾をバンバン撃ち込まれて松田優作は死んじゃう。
テレビの世界ではやっぱり最後は善が勝たないと視聴者に怒られるのかとがっかりした。
悪が勝つみたいな現実に即したテレビドラマを見てみたいけれど、流せないんだろなあ。
松田優作のセリフがよろしい。

「オレはもう、自分を傷つけて生きるのはやめたんだ。真っ平だ!
……自分を傷つけるぐらいなら、相手を倒す。遠慮なしに、倒す」(P44)


いまの若者からすっかり失われているハングリー精神である。
過労自殺するくらいだったらさ、そのおおもとのワ○ミさんを殺っちゃえよとどっかで思う。
本当の幸福ってあんがい真面目に働いて勧善懲悪のテレビドラマに慰められることではなく、
銀行強盗でもして東南アジアに高飛びして毎日酒と女におぼれることなんじゃないかなあ。
違うんだろうけれど、そういう考えもあるってことは忘れちゃいけないような気がする。

「去っていく男」(山田信夫/「テレビドラマシナリオ傑作選」/関西テレビ)

→テレビドラマシナリオ。平成3年放送作品。フジテレビ。
日本でもっとも権威のあるシナリオ賞の向田邦子賞を取った作品だから読んでみた。
あまりにもあまりにも通俗くさくていけねえや。
なんでさ、テレビって気が狂ったように家族愛をゴリ押ししてくるわけ?
このドラマも余命宣告された検事が、ああ、家族ってやっぱり素晴らしいとか、
うっとりするじめじめした押しつけがましい作品でうんざりした。
どうしてテレビの世界は家族を絶対正義として描くというしきたりがあるんだろう。
そういうメッセージを電波で流すから逆に家族仲が悪い人は苦しまなくてはならなくなる。
ほんとはさ、家族なんかお互いをコントロールしあうから、うまく行かないのが当たり前。
たまーに1年に1回くらい、おお、家族も悪くないか、なんて思うのがふつうじゃないか?
家族愛が絶対正義になっているから、家族はお互いに過剰に期待しあって、
そうはいっても家族とはいえお互い他人なんだから、そうそう期待に応えられず、
コンチクショーなんて逆恨みすることになってしまう。親が悪いとかさ。
憎しみ合う家族もいいよなァというテレビドラマを見たいけれど絶対放送できないよね。
テレビが押しつけてくる通俗的家族観がどれほどの人を不幸にしているか。
いいかげんにしてほしいと思う。

「ぜんぜん酔ってません」(大竹聡/双葉文庫)

→愛読している雑誌「酒とつまみ」編集長にして新進気鋭の酒場エッセイストの著書を読む。
それとこんなテキスト(笑)と関係ないことを書いていいのかわからないけれど、
著者は結構な、いやかなりのイケメンね。
たぶん、二種類の人間がいるんだろうな。
自慢話をドヤ顔で書きたがる人と、失敗談を嬉々として自虐的に語る人である。
著者は後者らしく、ご自身の酒にまつわる失敗を本書で饒舌に語っておられる。
同病相憐れむではないが、著者の失敗談はまるで自分のことのようでヒリヒリ痛い。
そして、共感する。それでいいんじゃないかと思う。励まされる。
大酒呑みなのに著者は妻子がいて、いまのところ人生うまくいっているらしい。
医学は酒を敵とみなすが、こういう人が実際にいるのだから我われのんべえは励まされる。
著者の小説を読んだこともあるが、本書のほうが何倍もいい。
気負っていないのがいいのだろう。
なんでも著者は酒を呑みながら文章を書くこともあるのだとか。
たぶん、よくわからないが(←シロートなので)、
思ったことを思ったように気負わず書くと、ときに人の共感を得られるのかもしれない。
お酒が好きな著者の書く、気負わない文章がわたしは好きだ。
これからも思ったことを思ったように好きなように勝手気ままに書いてください。

「異形の日本人」(上原善広/新潮新書)

→これもとってもいい本だった。著者は被差別部落の出身を自称しているが、
そのマイナスの出自をこれでもかとプラスに転化している。
被差別者でもないものが、解放同盟の本当のことを書いたら差別だとこれでもかと叩かれる。
いまの世の中では被差別者が偉いのである。
いまでもなお日本にはいろいろなタブーがあるけれど、なぜそこにみなが触れられないのか。
たとえば、部落とはなんの関係もないわたしがそこに触れたら偽善くさくなってしまうのである。
この点、才能ある著者はノンフィクション作家としてもっとも恵まれた環境にいたと言えよう。
被差別部落出身ならなにをどう書いても
差別だと良識的な多数派から攻撃されることがなくなる。

日本の奇人変人をテーマにした本書はどれも記憶に残るエピソードだったが
(申し訳ありませんが大概の本はすぐに内容を忘れます)、
もっとも印象深いのは手足が動かない身体障害者の若年女性Nの性を描いた章だ。
重度身体障害者のうら若き女性Nは、
美しい悪をやらかしているのである(残念ながらもうお亡くなりになっている)。
なんでも主治医の男性を性的暴行の罪で訴えたそうである。
本書でこのエピソードがいちばんおもしろかった。
わたしのこれまでの人生体験、読書体験からしたら、あくどいのは障害者のNだ。
Nは身体障害のみならず、精神障害も持っていたのではないかと思われる。
(根拠は高校生のときに自殺未遂をしており、そのときの詳細をまったく覚えていない)
さてさて、手足が動かない身体障害者なのにNはヤリマンくさいのである。
四肢不自由なのに、にもかかわらず、男性からもてることを本書でも自慢している。
具体的には、男性経験が豊富なことを嬉々として語っている。
おそらく、主治医の意思とされる性行為もNのほうから誘ったと推測される。
そのくせ医者から性的暴行されたと弱者の立場を利用して障害者のNは法的に訴えた。

しかし、現実、事実、裁判の判決はどうなったのか。
弱者である女性で身体障害者のNが間違っているはずなかろうと、
精神も身体も健常なお医者さんに非があると裁かれたのである。
このときどれほどNは嬉しかっただろう。
人生で恵まれた成功者で強者の医者を、
弱者の自分がコントロールして人生の奈落に引きずり下ろしたのだから。
そうだ、そうなのだ。身体障害者だからといって、かならずしも善人にならなくてもいい。
Nのように何人もの男を誘惑して、地位のあるものの足を引っぱってもいい。
それは、権利だ。弱者の権利だ。被差別者はなにをしてもいい。
著者はNのシンパという立場で文章を書いているが、勘の鋭い人のようだから、
おそらく本当のことをなかば察知しながら高身分の医者を弾劾することを書いたのだと思う。
わたしは著者も、その取材対象の
身体障害者で精神障害者であった被害妄想過剰なヤリマンのNも大好きである。
一回きりの人生、なにをしたっていいのだと思う。型破りでいい。型なんか破ってしまえ。
名著「異形の日本人」で紹介される人物はみなみな型破りである。

「型破りな生き方で有名になった二人ともが路地(=被差別部落)の出身であるのは、
路地贔屓(びいき)が多少あるとしても、私は決して偶然ではないと思う。
突飛な者にさせるドグマのような何かが、彼らの中には確かにあった。
それが「路地」そのものであったように思う。
例えば、世間というものに対してある種の虚脱感を抱きながら、
逆に異常なほどの執着を示している。
この矛盾が、彼等の奇行と実力の原点のように思えてならない。
世間に対する虚しさは、生まれゆえ悔しい思いをしてきたひねくれた気持であり、
世間に対する執着は、出自はどうあれ社会に認められたいという怨念である」(P147)


言うまでもなく、著者もまた「異形の日本人」なのだろう。
だいぶまえに読んだこの本の内容を忘れることなくほとんど覚えていたわたしも、
あるいはそうなのかもしれない。めったにないすぐれたノンフィクションを読んだ。
著者にはこれからもいい本を書いてほしい。期待しています。おもしろい本はいい。

「被差別の食卓」(上原善広/新潮新書)

→被差別者らしい著者が世界の被差別者の食事を実際に食べに行くノンフィクション。
いやあ、おもしろかった。被差別者の人たちは安くてうまいものを知っているんだな。
いや、いまでは差別が表面上は消えているから、そういうメニューも一般に知られ、
逆に高級食品になっていることもあるそうである。あぶらかすなんてうまそうだもんな。
つまみながら生のままの焼酎でくいっとやれたら極楽だろう。
不謹慎な話だが、芸能や芸術の世界では被差別者というマイノリティー性はおいしい。
こんなことを言ったら怒られるだろうけれど、自称被差別者の著者がうらやましくなった。
被差別者ということでアイデンティティーに厚みが増すし、プライドも強くなる。
「おれを舐めるなよ!」という気持は生きていくエネルギーになるだろう。
「いつか見返してやる!」という怨念は生きていく張りになると思う。
むろん、そんなにいいことばかりではなく不愉快なことも多いのだろうけれど。
差別と聞くとカッカするような(被差別者ではない)熱い人権オタクが嫌いである。
こちらの思い込みによる誤読かもしれないが、
本書の著者はどこかおのれの被差別性をネタにしているようなところがあり、
そこがよかった。おもしろかった。いい本を読んだ。

「僧侶入門」(平野隆彰/東方出版)

→お坊さんというのは、いまのまま世襲でいいのではないかと本書を読み思う。
やはりどの世界も理想と現実というものがあるようである。
寺の子どもは小さいころから現実を知っているから家業を継ぎたがらないらしい。
いっぽうでお坊さん志願の部外者は、生臭い現実を知らないわけである。
制度上、だれかに葬式の司会を担当してもらわなければならないのならば、
いまのまま世襲のお坊さんに死の引導をしてもらうほかないのではないか。
お坊さんで羽振りがよく女遊びをしているのなんて京都の僧侶くらいらしい。
ほとんどのお坊さんが医者の実情とおなじであまりいい思いをしていないようだ。
「なんだかな、しかし、だれかがやらんとな~」という感じでやっているっぽい。
理想に燃えたようなやつが新規参入してきたら、
わたしが坊さんでもいじめてやりたくなるだろう。現実はそうではないと。

だいたい坊主なんてリアルな死をあいまいなままにしておくために
存在しているようなものなんだから、少しくらいのやんちゃは許そうではないか。
医者ではなくお坊さんこそ本当に死に不感症になってしまう因果な商売とも言える。
だれかが僧侶役を演じなければならないのだから、
せめてお坊さんの世界くらいは世襲を認めて、
寺の息子には仏教的宿命を体現してもらおうではないか。
一般人が僧侶になんてあこがれるものではなく、
むしろ理想の世界なんてどこにもないことを一刻も早く知るべきである。
どうしても清く正しい修行をしたいのなら刑務所にでも行け。
僧侶をふくめ、きっと甘い汁を吸っている人間なんて日本中探してもほとんどいないのだろう。
葬式仏教は浅ましいけれど、人間、正しいことばかりでは生きられないし、
まあ、そんなもんと割り切るしかない。

みんなが葬式にお坊さんを呼ばなくなったらおもしろいが、
人目や世間体というものがある以上はそうもいかないのだろう。
どうでもいいわたしの話をすると、死亡後は通夜、葬式、納骨、墓参り等すべて行事は不要。
もししたい人がいたら勝手にするのは構わないというスタンスだ。
やりたいなら創価学会の友人葬でもキリスト教式でも、ああ鳥葬でも構わない。
どこの墓に入ってもいいし、ゴミ捨て場に放置されてもOKだ。どうせ死んでいるんだから。
なんで葬式や戒名なんかにこだわる人がいるのかさっぱりわからない。

「お坊さんといっしょ」(別冊宝島218)

→お坊さんってもしかしたらおいしい商売じゃないかとよこしまな好奇心から読む。
結論から先に書くと、ビジネスの世界のように新規参入するのは完全に無理。
僧侶はカウンセラーとおなじで国家資格ではなく、宗派ごとに認定資格を出している。
ほぼ世襲が確立しており、血縁がなくこの世界に入ろうと思ったら地獄を見る。
基本的に血縁がなく僧侶になりたい場合は弟子入りしかない。
弟子というと職人みたいで格好いいが、要するに24時間無料労働の奴隷である。
師匠から認められるまで何年も奴隷生活を余儀なくされる。
儲かる寺の空きなんてないから、よほど権力ある師匠でもなければ、
どれほどひいきにしている弟子でも住職に斡旋することはできない。
坊さんの世界は先輩に絶対服従らしく、平たく言えば寺の息子にはかなわない。
坊さんの能力なんて考えてみたらないようなもので、ということはその通り、
ビンゴ、人間関係がすべてのどろどろ~っとした肌感覚の近い嫉妬うずまく陰険社会。
坊さんはよその寺の悪口を言うのが大好きで、法衣一着でも女々しく競争する。

浮き世などよりよほど格差社会で儲かる寺は儲かるが貧乏な寺は貧乏なまま。
戒名は高級寿司屋のお勘定みたいなものでおなじものでも数百万多くボルこともある。
どの寺もヤクザのように本山に上納金を払わなくてはならない。
言うまでもなく、本山の僧侶のほうが葬式に来てもらうときも高額の料金を徴収する。
どうしたら偉くなれるかといったら血縁、師匠筋、シンパの引きオンリー。
よほど世知長けていないと坊さんの世界で出世するのは難しい。
寄合に欠席しようものならネチネチ悪口を言われ、自分勝手は絶対に許されない。
汚いこともしなければならないが、表面上はきれいごとをぬけぬけと言う度胸も必要。
とにかく新規参入は目指すな。
新米坊主は食えないし威張れないしどこにもうまみはないぞ。
文化系ではなく完全な体育会系社会で、
だから逆説的にバカでお経の意味がわからなくてもやっていける。
実際、商売のお経を間違えることはよくあるが、どうせ信徒もわからないのだから構わない。
商売が儲かっているのはほんの一部で、大概はヒイヒイ言いながらの副業状態。
どの世界も甘くないという勉強になった。

「修験道の本」(学研)

→いかがわしいもの、怪しいものが好きでたまらない。
インチキくさいものに目がないのである。うさんくさいものをこよなく愛している。
日本仏教でいちばんまがまがしいものは山岳修行をする修験道ではないかと思う。
本書は写真が多く掲載されているのがよく、行者さんたちがじつにいい顔をしているのだ。
あまり大きな声では言えないが、きちがいの顔をしている人が複数いらっしゃる。
死霊がとりついた女性行者のただならぬ雰囲気は、まさにキでたいへん好ましい。
見たことはないが拝み屋さんというのは修験道の系譜らしい。新興宗教っぽくてよい。
考えてみたら修験道は密教、つまりもっとも新しい仏教である。
言い換えたら、もうほとんど釈迦とは関係なくなった仏教が密教ということになる。

心を病んだときは精神科やカウンセリングもいいが、
ときに修験道の怪しげな行者さんにお金を払って相談してみるのもいいかもしれない。
なぜなら修験道はキのにおいがするから、マイナスとマイナスを掛け合わせるようなもので、
意外な効験があるのではないかと予想されるからである。
実際むかしはきちがいの人を、
修験道と縁のある天狗さんたちに面倒をみてもらっていたのではないか。
天狗というのは明らかにいまで言うところの精神病患者だと思う。
トランス状態に入れる天狗さんはときに祭りなどで一定の役割を務めたのではないか。
あちらの世界に行ってしまったのが狂人なのだから、
こちらからあちらに連絡を取りたいときには、そういう人に頼るしかないことになろう。

本書で知った林実利という明治時代の荒行者がよかった。
彼は大峰山で通算16年の修行を送り、最後は那智の大滝に飛び込み自殺をしたという。
いや、自殺ではなく捨身入定である。周辺の住民からたいそう尊敬されていたらしい。
狂ったやつを崇めるような態度を我われは忘れてはならないと思う。
もっとも狂った仏教、修験道の世界は狂人をおおらかに肯定する革命精神にあふれている。
いまの日本に欠けているものゆえ、こんなに惹かれるのだろう。
修験道の行者などへたをするとお笑いの一歩手前なのである。
行者さんに敬意を示すものがいないと修験道は成立しないということだ。
笑ってはいけないのである、修験道を笑ってはいけない。畏れなければならない。
この世を超越したものに恐れを抱かなければならない。

「修験道の魅力」(麻生文雄・ひろさちや/清流出版)

→お坊さんの世界というのは思った以上に体育会系のノリなのだが、
そのなかでもキングオブ体育会系みたいのが修験道である。
なにせ山のなかを歩き回るわけだから。
麻生文雄というのはもう死んでいるのだが、その修験道の世界のお偉いさんらしい。
すげえ俗っぽいやつで竹下景子と対談したとか自慢しているのがかわいらしい。
ひろさちやさんのおもしろさは、言っちゃいけないことをぽろっと言うところだ。
本心ではひろさん、高僧とかみんな大嫌いなんだろうな(わかりませんが)。
高僧なんて人づきあいのスペシャリストというだけで、
ひろさんと比べたらぜんぜん仏教の勉強なんかしていないわけだから。
修験道の世界も軍隊のように階級があるらしい。
それを聞いたひろさんが正直なのかふっと不穏な質問をするので笑ってしまった。

「行者さんの位が上がったら、何かメリットはあるのですか?」(P59)

修験道トップの麻生文雄をバカにしていると思われてもおかしくない。
部下がたくさんいる高僧の麻生猊下(げいか←尊称)はなんと答えたか。
まず意表を突かれたという感じで口ごもる。メリット? メリット?
それから思い出したように自分のように大僧正になるとみんなから尊敬してもらえる、
とあまりにも俗っぽい本音で答えている。ひろさん、おもしろすぎるぜ!
醍醐寺大僧正の麻生猊下はわかったような説教をするのである。
合掌の精神で生きていると女性はみな美人になります、とか。
そんなはずないだろうが! とひろさんが思ったかどうかわからないが、
自分は美人よりも不美人のほうが飽きないので好きだと空気を読めないことを言っている。
麻生猊下は自分の威厳が通じないことに対談後、傷ついたのではないだろうか。
もしくはひろさちやは生意気だと手下に息巻いたのではないだろうか。
あいつ、おれをなんだと思っていやがる!
批判しているのではなく、生前の麻生猊下は人間味があるいいお坊さんだったのだと思う。
ひろさんは子どものようにスパッと本当のことを言ってしまうのがおもしろい。
邪気がないから相手も怒るに怒れないのだろう。ひろさんのキャラは大好きだ。
しつこく繰り返すが、お坊さんでも仏教学者でもない(独学ゆえ)ひろさんが大好きだ。

「心にトゲ刺す200の花束 究極のペシミズム箴言集」(エリック・マーカス/島村浩子訳/祥伝社)

→人生というのは逆説、矛盾、パラドックスに満ちているような気がする。
真実というものは「どっちも正しい」を瞬間的に風速で言い抜ける言葉にあるのではないか。
「どっちも正しい」とはどういうことか。ほうら、こういうことだ。

「結婚してもしなくても、あなたはかならず後悔する」(P79)

人生の真実を気合いもろともばっさり抉(えぐ)り出してしまっている。
皮肉屋の成功者(ノーベル賞!)バーナード・ショーも負けていない。
以下すべて皮肉屋として知られたショーの言葉である。
そういえば、むかしショーの芝居台本を読み漁った時期がありました。

「人生には悲劇がふたつある。
ひとつは自分が心から望むものを手に入れられないこと。
もうひとつはそれを手に入れてしまうことだ」(P23)


どっちにしろ人生は悲劇だと言っているわけである。
なってみたら思いのほか成功者というのはつまらないのかもしれない。
凡人はこんなことを言ってみたいと思ってしまう。
厭世家ショーの毒舌はとまらない。

「悲観主義者がどんな人間か知っているかね?
人はみな自分と同じくらい嫌なやつだと考え、
それを理由に彼らを嫌う人間のことさ」(P159)


いやあ、なかにはいい人もいますよ、ショーさん!
まあショーさんみたいに成功しちゃうと近寄ってくる人はみな肩書目当てでしょうけれど。
お気の毒さまでございますね。
ハハハ、成功者のあんたもおれっちも大して変わらないんだろうなあ。

「アルコールは人生という手術を耐えるための麻酔である」(P148)

とりあえず乾杯しようや。

「生命との対話 仏教・エロスと救い」(瀬戸内寂聴・ひろさちや/主婦の友社)

→釈迦の人気というのはいったいなんに由来するのだろう。
この対談集でもご両人、釈迦がお好きなようで彼を肴に話が盛り上がっている。
寂聴さんの釈迦への思い入れは激しく、
原始仏教が女性差別的な理由を、釈迦が女性の魅力をよく知っていたからだと論じている。
ったく、見てきたようなことを言いやがって、とこっそり思ったが、
いざ寂聴さんのあの迫力をまえにしたらとても口に出して言えることではない。
ふたたび、釈迦の魅力とはいったいなんなのだろうか。
仏教をかじったもののだれもが引っかかるトゲは大乗仏教と釈迦仏教の断絶である。
どう考えても明らかに釈迦は大乗の教えなど説いていないのである。
冷静に考えたら、後発の大乗仏教が釈迦の威光(肩書)だけ借りたのはわかるはずである。
寂聴さんも本書で原始仏教の教えはつまらないと本音を言い放っている。
だがしかし、それでも寂聴さんは釈迦のファンをやめようとしないのである。
ライターのひろ氏が釈迦を好きなのは学者出身で礼儀を知っているからだろう。
中村元に唾を吐いたらどんな仕打ちが待っているかをひろ氏はよく知っている。
学問というのは、上役は上役だから偉く正しいことを認めなければやっていけない。
このため、開祖の釈迦が偉いという思い込みをひろ氏は持つにいたったのだろう。

どうでもいいわたしの話をすると、
いちおう人並みに大乗仏教と釈迦の乖離(かいり)に戸惑った。
厚顔で礼儀知らずのわたしはどうしたか。なーんだ、釈迦って偉くないじゃん!
このことに気づいたら大乗仏教の矛盾もすんなり解くことができるようになった。
本当に偉いのは名義だけ釈迦を借りて、大乗仏教を創作した人たちではないか。
しかし、だれもがこうシンプルにいくわけではない。
たぶん、わたし以外に釈迦があまり好きでない仏教学習者はいないと思う。
いま世間様の目が怖く「釈迦が嫌い」とストレートに書くことさえできなかった。
そのくらい釈迦批判はこの世ではしてはならないタブーになっている気がする。

わたしが釈迦を嫌いな理由は寂聴さんとおなじで教えがつまらないからである。
インド旅行中に「ブッダのことば(スッタニパータ)」を読んだが、
あまりの退屈さに文庫本丸ごとガンジス河に流してやろうかと思ったくらいだ。
わたしは原始仏教の教えがつまらないと言える寂聴さんの眼力に感心する。
みんな本心では釈迦の教えの退屈には気づいているだろうが、
周囲の目を考えるとなかなか公言できることではない。
それでも寂聴さんのような女性が釈迦を好きなのはわからなくもないのである。
釈迦は誕生時にお母さんを亡くしている。
釈迦が産まれなかったらお母さんは死なずに済んだのである。
自分がお母さんを殺したと思ったことも釈迦はあるのかもしれない。
こういう男は女性の母性本能をくすぐるから、女性が釈迦を好きなのはいい。
だが、男だ。おい男! おまえだよ男!
男で釈迦が好きなどと言っているものは権威主義の香りがプンプンするぜ。
「釈迦を好きな俺」って偉くないか、わかってないか、どうだ、おい、どうや!
ひねくれた性分のせいか、釈迦好きの男からは変な叫び声が聞こえてくる。

本書の対談で寂聴さんと格下のひろさんが論争のようになっているところがあった。
本来なら格下で年下のひろさんが引くべきなのだろうが、ここだけは男気を見せていた。
問題となったのは、努力の是非である。
ひろさんはがつがつした努力はかえってよくないという立場をずっと取っている。
いっぽう寂聴さんはこの本で知って驚いたが相当な努力教の信者らしいのだ。
自分の成功は自分がそれだけ努力したからだとかたくなに信じているようである。
ふたりはなんとか落としどころを作ろうとしていたが、結局平行線のままだった。
最近、「どっちも正しい」ということにわたしも気づいた。
寂聴さんもひろさんも、どちらも正しいのだろう。
このブログには努力有害論のようなものばかり引用してきたので、
今回は寂聴さんの努力至上主義そのもののご発言を紹介させていただく。
ホスト役のひろさんが必死にことを穏便に済ませようとねらって言う。
「精進しなくてはいけない。でも、歯をくいしばって、
目を血眼(ちまなこ)にしてまで努力する必要はないと……」
寂聴さんはひろさんが差し出した手を振り払う。

「でもね、ほんとうは歯をくいしばってやらなければ、ものになりませんよ。
何をやったってそうです。ただ楽しくやっていては、誰がものにできますか。
小説家だってそう、学者だってそうでしょう。
ひろさんだって人に知られないときに一生懸命に勉強されたでしょう。
わたしだって、やはり人が遊んでいるときに本を読んで書いているから、
ちゃんと小説家として成り立つんです。
ひろさんは先ほどから、
勤勉でない世界が楽しいということにもっていこうとしているのに、
わたしが一生懸命反対するから困っているみたいですね。(笑)」(P127)


ひろさん、喧嘩をしたら体力的に寂聴さんに負けそうだもんね(失礼!)。
ちなみにふたりの年の差は14歳である。
論争は寂聴さんの高笑いで終わったが、長生き競争に勝つのは果たしてどちらだろう。
14年の差をものともせず寂聴さんが勝ち残るような気もして女は恐ろしい。