「ダラニ集」(金岡秀友訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→ダラニというのは呪文みたいなもの。
ダラニは意味のわからないところに価値があるのか、
古代インド語原文のまま唱えるらしい。
たぶんそういうのも日本語に訳しちゃったら「なーんだ」って内容なのだと思う。
「わからない」ということがいかにありがたいかである。
しかし、人生の法則性みたいなものは人間には絶対に「わからない」のだから、
もしかしたら「わからない」ダラニのようなものがあんがい効験がある可能性も否定できない。
果たして陰の実力者めいた仏さまと裏でも表でも取引するようなことができるのか。
まあ、密教の専門職業僧はしているつもりなんだろうけれども、実際はどうなのか。
きっとなにもしないよりはいいって感覚で大金を支払う人もいるんだろうなあ。
偉大なる絶対者みたいなものがいたとして、彼と交流を持つことが可能なのか。
幸運の女神と言い換えたら彼女になってしまうけれども。
彼女だったらば、やっぱりイケメンが好きなのかなあ。わからないよなあ。
わが人生をかえりみると、なーんかでっかいのがいそうな気がするんだ。
まさかそいつが賄賂(わいろ)なんか受け取らないと思うけれど、
「地獄の沙汰も金次第」っていう言葉があるくらいだからなあ。ふーん。おーむ。くいーん。

「理趣経」(金岡秀友訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→密教の真言宗で使われているお経らしいが、聞きしに勝るトンデモぶりが楽しい。
内容は全世界の絶対肯定である。快楽OK、欲望OK、なんでもOKだ。
違う解釈の仕方もあるとのことだが、
男女の性交渉を露骨なまでに、それも清浄なものとして賞賛している。
セックス経典と言ってもいいだろう。
怒りもまた善のエネルギーとして使えるからいいんじゃないの、なんてことが書いてある。
この世のぜんぶの生き物を殺しても構わない、とまで書いてあるのは愉快になってくる。
「地獄なんてないっしょ、堕地獄なんてないから」という楽観スタンスもほがらかでよい。
理趣経でキモとなる部分はここであろう。以下、[カッコ]内の記述は引用者の補足。

「かくごとく、諸法(もの)はその本質において空であり[なんにもない]、
固定した相も、目的や方向もないのであるから[善悪なんてないから]、
すべての諸法(もの)は自由で光りかがやいているのである[みんなサイコー!]。
真実なる智慧の理趣(みち)に照らしてみるときは、
ものはみな清浄(きよらか)なのであるから」(P404)


☆空→「なんにもない」→「なんだっていい」→「みんないいよ」→ばんざーい\(^o^)/

たぶん勘違いに勘違いを重ねることで仏教思想はかくのごとく発展していったのだろう。
いやあ、それにしても理趣経さんの発展家ぶりには恐れ入る。
でもさ、たしかに空の思想を突き詰めていったら快楽主義になってもおかしくない。
般若心経だって色は空だけれども、しかし空とは色であると色を肯定しているわけだから。
あんがい最高解脱者の意識と酒色におぼれたものの快楽は同質だったりするのかもしれない。
善を突き詰めれば悪に、悪をとことんまで追求したら善になるようなところが世界にはある。
理趣経の説いた世界観はそういうところにあるのかもしれない。
つまり、正反対は通じているという世界観である。
わかりやすく言うならば、もっとも穢れた売春婦がもっとも美しいというような。
きれいはきたない、きたないはきれい、である。

「大乗起信論」(柏木弘雄訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→5世紀にインドか中国で作られた大乗仏教入門書。
あまり大声では言えないが、仏典は訳が日本語としてひどいものが多いのだけれど、
本書の訳はとてもすばらしかった。
内容をよく理解できていたらちゃんとした日本語に訳せるはずなのだが、
もしそうだとしたらわけがわからない訳し方をしている学者さんは……
いや、いや、なんでもない。とにかく本書の訳はすばらしく、
現代を生きるわたしが読んでもドキリとするような深いことが書かれているのである。

「たとえば人が道に迷うのは、
自分が行こうとする一定の方角を知らないからである。
しかし方角に迷うというということは、
根本的には東とか西とかの方角を設定するからであり、
もしはじめから方角というものを設定しなければ、
その方角にたいして迷うということもあり得ない」(P384)


これはものすごく深いことを言っているのではないだろうか。
内容は、最初から東とか西という方角を設定しなければ道に迷うことはない、である。
これはどういうことを言っているのか。
我われはどうして東西(善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得)の方角を設定するのだろう。
もし東西(善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得)を設定しなかったら道に迷うことはない。
善をなそう、賤しい仕事は嫌だ、美人がいい、賢く見られたい、損をしたくない。
このような方角に基づいた意志こそ迷いにほかならないのではないか。
悪人に思われたくない、有名人にお近づきになりたい、整形してまで美しくなりたい、
低学歴は恥ずかしい、他人を出し抜いて大儲けしたい――すべてが迷いである。

ものごとをプラスとマイナスに分別するから迷いが生まれるのだろう。
本当に善、貴、美、賢、得はいつでもどこでも永遠にプラスのままだろうか。
本当に悪、賤、醜、愚、損はいつでもどこでも永遠にマイナスのままだろうか。
このように考えることで少しずつ迷いから離れられるようになるのかもしれない。
むろん、こちらは凡夫の身ゆえ一生のあいだ迷いつづける可能性も高いけれども。
方角を設定しないということは、人生に目標を設定しないということでもあろう。
そもそも方角を設定しなかったら目標など作れるはずもないわけだから。
きっと目的地のない旅のような人生がもっとも迷いが少ないのではないか。
なぜならたまたま行ったところがすべて目的地になるからである。
目的地を作るから道から外れたのを嘆くことになるという面もあるのだろう。
風まかせでどこに行ってもいいというような旅(人生)では迷いようがない。

我われは(いや、わたしだけだろう)すぐに他人を非難する。
あの人は悪人だ、下劣だ、変な顔、バカ低知能ノロマ、ケチくさい。
なにを見てもすぐに批判から入る。
よくない、サイテー、きんもっ、クルクルパー、安っぽい。
しかし、もしかしたら対象を本当にはよく見ていないということは考えられないか。
ひょっとしたら自分の汚い心を投影しているだけではないだろうか。
そもそも真の意味で客観的存在などあるのだろうか。
というのも、おなじものを複数で見たらみな感想が変わるではないか。
あるものをデッサンさせたらみな違う絵を描くのではないか。
むろん、どの方角から見るかでものの形は変わろう。
しかし、そもそも果たして我われはみなおなじものを見聞きしているのだろうか。
「大乗起信論」の説くところでは――。

「一切の世間の諸法[現象]は、ことごとく妄心にしたがって生起している。
心から独立した境界が、
あたかも主観にたいする客観の世界として存在しているかのごとくに考えるのは、
真如の平等一味・無差別なることを覚知し得ない衆生の妄念によるのであって、
われわれにおける一切の分別は、
自らが、自らの心を分別していることにほかならない」(P386)


これは科学の基礎概念を揺るがす恐ろしいことを言っているわけである。
あるいはもしかしたら純粋な客観世界は存在しないのではないだろうか。
それぞれの主観世界があるだけで、
我われが客観世界だと思っているものは夢や幻のようなものではないか。
これはたぶん唯心論と呼ばれるやつだろう(仏教では唯識論)。
月並みな教訓だが、だれかが悪人に見えたらまず自分の心を疑ってみるべきなのだろう。
人の悪口や愚痴不満が多い人の心はいったいなにをどのように作っているのだろうか。
そして、心が作るものは修行や心がけ、つまり努力でそうそう変えられるのかどうか。

分別を捨てろと言われても、完全に捨ててしまったら精神病院行きではないか(精神病)。
しかし、分別するから心を病むというのもまた真理であろう(うつ病、神経症、不安症)。
世間さまの目をまったく気にしない純粋(逸脱)主観は精神病に近くなると思う。
一方で世間さまの目ばかり気にしている客観(平凡)主観は、
うつ病や神経症、不安症を患いやすい気がする。
それでもやはり世渡りをするならば、みなとおなじ世界が見えていたほうが得だろう。
おっと、また損得にとらわれてしまったが、これが迷いであったのか。
我われは決して他人の目でものを見られないというのは真理のひとつだろう。
いや、「自分・他人」と分別しなければ真如(真実)の平等世界が見えてくるのか。
いったいなにが真実なんだろう。
仏教をかじると「わからない」ということがよくわかるので困っちゃうな、もう。

「中論の頌」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→インド2世紀の大乗仏教哲学者、龍樹(ナーガールジュナ)の頌(じゅ)を読む。
頌とは韻文、詩句のことらしいが、訳文はことさら詩にはなっていない。
正直に白状すると、空とか縁起の思想をうたったもののようだがまるで理解できない。
こういうのはわからないところに価値があるのではないか。
というのも、仏教出家グループのみならず集団ではかならず上下関係というものが生じる。
しかし、考えてみると上司や先輩が偉いという理由がとくに見つからないのである。
そういうときにたとえば龍樹の仏教哲学のようなものが
便利な道具として使われるのではないか。
すなわち、上司や先輩は龍樹をいささかなりとも理解しているから偉いという理屈だ。
集団のトップが師匠でいられるのは、
グループのなかでいちばんたとえば龍樹を理解しているからという建前を用いる。
本当はだれも龍樹など理解できなくても、
こういう使い道があるのではないかと思うのである。
龍樹の権威があれば、先輩が新参の弟子をいじめることができるというわけだ。

なにが「正しい」のかといったら、より上の役職のものの考えが「正しい」とされる。
要するに、上から気に入られないと上に行けないシステムを龍樹の権威が作るのである。
弟子がいくら龍樹を勉強しても先輩が認めてくれなかったら「正しい」ことにならない。
たとえ龍樹などまったく勉強しなくても上に取り入るのがうまいものは「正しい」ことになる。
そもそもだれが「正しい」龍樹の思想を理解していることになるのだろう。
やはりいつの時代も肩書がより上のものの発言が当面「正しい」ことになるのではないか。
「龍樹なんて価値あるの?」などと「本当のこと」を言ってしまったら袋叩きにされよう。
龍樹の権威で成り立っているピラミッドを崩すような狼藉者は破門処分を喰らうかもしれない。
勘のいい弟子は入門してすぐに龍樹を学ぶよりも、いかに先輩に媚びるかを考えるだろう。
肩書のないわたしの考えだから間違っているかもしれないが、
仏教から学べるのは「正しい」ことなどなにひとつないことなのである。
しかし、高額の袈裟(けさ)を着た坊さんと全身ユニクロのわたしの主張が食い違ったら、
ほとんどの人が外見にだまくらかされて職業僧侶の発言を「正しい」と思うだろう。

いちおう読んだという証拠に引用しておく。
こんなのはどうとでも解釈できるから「正しい」ことなどありはしないという、
いい証明になろう。

「一切は真実である。また真実でない。
また真実であって真実でない。また不真実でもなく真実でもない。
これが諸仏の教えである」(P368)


なんのこっちゃという話でしょう。こんなもん、どうでも解釈できるわけ。
そのうち上役の気に入ったものが当面「正しい」ものとされよう。
わたしの解釈はこうである。

仏教=唯一の「正しい」ことなどない!

「煩悩と業と身体と、さらに作者も、果報も、
ガンダルヴァ城の在り方のものであり、陽炎と夢との如くである」(P368)


すべては夢のようなものと言っているわけだから「正しい」ことなどあろうはずがない。
しかし、なぜかこの国にも龍樹の権威とやらがいることになっている。
いったい彼らの「正しい」ことをだれが証明するのだろうか。
彼らが学生のレポートにバツをつけられる「正しい」根拠など存在するのだろうか。

「八千頌よりなる般若波羅蜜経」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→壇蜜ではなく般若波羅蜜なのである。
世の仏道修行者たちは壇蜜よりも般若波羅蜜を求めなければならないそうなのである。
壇蜜は「エロいおねえさん」だが、般若波羅蜜は「智慧の完成」という意味である。
どう考えても般若波羅蜜よりも壇蜜を好んでしまうが、それではいけないのである。
壇蜜よりも般若波羅蜜を重んじるのが仏教なのである。
もう壇蜜のことは忘れて仏教の話をすると、
有名な般若心経は膨大な般若波羅蜜経の精髄とのことである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経さえ、その一部ということである。
しかもしかも、本書に収録されたのはその1/5だそうだから研究者はご苦労さまだ。
しかし、いまの時代に般若波羅蜜など研究していったいなんになるのだろう。
学者の世界でも出世したら壇蜜のようなおねえさんに相手にしてもらえるのだろうか。
いやいや、涅槃(ねはん)こそ人間最大の目標である。
涅槃とは煩悩の寂滅、つまり悟りのことであらゆる仏道修行者の目標である。
おそらく涅槃に達したらエロいおねえさんの壇蜜になど惑わされることもないのだろう。
いったい涅槃ってなんですか?

「天使達よ、涅槃もまた幻のごとき存在であり、夢のごとき存在であると、
私は説きます。いわんや他の法はなおさらであります」(P325)


むむむ? 壇蜜が幻のごとき存在、夢のごとき存在というのはなんとなくわかるが、
なんてこったい、仏教の最高解脱、涅槃もまた夢幻のような実体のないものなのか。
くうう、わけわかんねえ。
まあ、ぶっちゃけ世の中なんてぜんぶイリュージョン(幻想)なんだろう。
多数派のイリュージョンをかりに現実とすることでかろうじて社会が保たれている。
いまや斜陽産業の新聞やテレビがかつては現実形成に大きな役割を演じていたのだろう。
すべてがイリュージョンならば、本来ならどんなイリュージョンを見てもいい。
しかし、あんまり奇抜なイリュージョンを見てしまうと危ないやつと排斥されてしまう。
これが出家者集団内でならそうではなく、
涅槃という特異なイリュージョンを見ることのできたものが偉いと尊敬されるのだろう。

八千頌よりなる般若波羅蜜経を読むといろいろ功徳があるという自画自賛アピールがうざい。
法華経といいこのお経といい、どうしてそんなに功徳をアピールするのだろう。
その功徳といっても災難に遭わない程度のものである。
壇蜜のようなおねえさんを獲得できるお経があれば毎日でも書写するのに、ちぇっ。
ここだけの話、功徳といってもなんだか胡散臭いところがあるのである。
功徳アピールのあとにかならず「ただし書き」がついてくるのだから。
いわく、「ただし先になした業のむくいが起る場合は別である」(P333)。
いわく、「ただし前世の業の報いが熟する場合を除く」(P341)。
えええ、だったら災難に遭っても「それは前世の業」と言われておしまいじゃん。
災難に遭わないときはお経の功徳だから感謝しろってか。
あれえ、確率的に考えたら災難に遭遇しないほうがはるかに多いのではないか。
むかしっから宗教なんてこんなものなんでしょうね、はあ。

八千頌よりなる般若波羅蜜経に壇蜜のようなおねえさんが登場する話がある。
やはり単なる説教よりも物語形式になっているほうが読んでいておもしろいね。
なんでも常啼菩薩とかいうアンちゃんがさ、悟りを求める旅に出たんだとよ。
そこでダルマウドガタ菩薩とやらが究極の真理を知っているという話を聞きつけた。
常啼菩薩はみずからの身体を売って、
その金でダルマウドガタ菩薩を供養しようと考える。
え、男色ですか、と思ったら、そうではないらしい。
少年が現われ祀(まつ)りのために必要だから、心臓と血と骨髄を売ってくれと頼まれる。
いまで言うならば、臓器移植のための人身売買になるのだろう。
常啼菩薩は承諾して、鋭い刀でもってみずからの身体を切り始める。
そこに壇蜜のようなおねえさんが登場するのである。
長者(金持)の娘である壇蜜(仮名)は、常啼菩薩の自傷行為をとめる。
お金だったらパパとママに頼んでいくらでもあげるからと言うのである。
正確にはお金をあげるではなく「供養しますから」である。
おかげで命拾いをした常啼菩薩であった。

もしかしたら自傷行為をしたら壇蜜のようなおねえさんが現われ救ってくれるのだろうか。
いや、それはさすがにこのお経から得られる教訓ではないと思う。
ひとつ注意しておきたいのは、常啼菩薩が自殺しようとしていたことである。
仏教では自殺のことを捨身と言うようだが、
これは決して悪い行為として描かれていないのである。むしろ捨身は英雄的行為だ。
このために壇蜜のようなおねえさんが出てきてくれたわけだから。
真理のために捨身(自殺)を決意したときの常啼菩薩のセリフを引用する。

「いざ私は、この身体を捨てて、
その代価によって、ダルマウドガタ菩薩に尊敬を表しよう。
なんとなれば私の身体は、幾度も幾度も無量の輪廻において、
何千回となく破壊され、粉砕され、滅され、捨てられたのである。
また私は、愛欲のために、また愛欲の理由より、
無量の地獄の苦しみを味わったのである。
しかし今や、再びそういうことはない」(P352)


なぬ? 愛欲地獄だと? 常啼菩薩さんよ、けっこういい思いをしてやがるじゃねえか。
いやいや、学ぶべきところはそこではない。
この世は一回きりと思うからリスクを恐れて保守的な人生になってしまうのかもしれない。
もしかしたら来世があるかもしれないのである。
そうだとしたらこの人生でかりに失敗しても、まあネクストがあるわけだから、
そこまで用心深く他人の視線を気にしながら生きなくてもいいことになるのだろう。
また壇蜜の話をすると、どこか人生を捨てた気配のあるところが魅力なのだろう。
常啼菩薩ではないが壇蜜にもなにやら自分の身体を供養しているようなところがある。
捨て身であえて慰み者としておのれの身体を差し出しているとでも言おうか。
どうしてか般若波羅蜜よりも壇蜜から仏教の香りを感じ取ってしまうのでこれはいけない。

「般若波羅蜜多心経」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→日本でもっともポピュラーなお経の般若心経(はんにゃしんぎょう)である。
もう千回近く唱えているが悟りもしないし現世利益もないが、そんなことはどうでもいい。
般若心経は空(くう)を説いた教えとされている。
空とは無自性、つまりあらゆるものに自性(実体)がないということである。
川向こうの彼岸(ひがん)から見たら、
此岸(しがん)の善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得、分別など、どうでもよくなるではないか。
こちらのトラブルなど彼岸から見たら「対岸の火事」に過ぎないだろう。
この世のことなど「なんだっていい」とこだわりを捨てるのが般若心経の教えだ。

彼岸という絶対から見たら娑婆(しゃば)の相対的価値観など下らなく思えるということ。
絶対をわかりやすく言えば中島義道哲学博士ではないが「どうせ死んでしまう」である。
この世のことで絶対確実なことは「どうせ死んでしまう」くらいだろう。
言い換えれば、そのほかのことはおよそ確実ではなく、なにがなんだか「わからない」。
将来だれがどうなるかは絶対に「わからない」。
しかし、「わからない」だらけの世の中で絶対確実なのは「どうせ死んでしまう」こと。
「どうせ死んでしまう」のならば、この世の地位も財産も空(むな)しい。

この「空しい」が空(くう)と思えばよい。
いくら愛するものと結ばれようが、いつか生別、死別は逃れられない。
かつて愛したぶんだけ別れが辛くなるだろう。いいことばかりなんてないのである。
子どもができて喜ぶのはいいが、逆縁でその子が死んでしまったら絶望のどん底である。
子どもに自殺なんてされたら一生立ち直れなくても不思議ではない。
しかし、それはそもそも子どもの誕生という喜びがもとにあるのだと考えると、
なんと世の中の空しいことか。

とはいえ、空しいばかりではない。色即是空だが空即是色なのである。
「どうせ死んでしまう」身だからこそ一瞬の感動に永遠性をも人は感じうる。
「どうせ死んでしまう」身なのに許せない人がいる憎しみも人間味のひとつである。
「どうせ死んでしまう」から我われは深く喜怒哀楽を味わうことができるとも言えよう。
喜ぶのもいい、怒るのもいい、哀しみもいい、楽しみもいい。
これは「どうせ死んでしまう」我われがどれも一回性のこととして経験するからいいのだ。
終わりがなかったらどれも味気なくて退屈するばかりではないか。
少年(少女)時代も青年時代も中年時代も一回きりで二度と戻れないからいいのだろう。

「どうせ死んでしまう」からものを喰らい酒を飲むのが楽しい。
「どうせ死んでしまう」人と人がたまたま逢っているからよろしい。
「どうせ死んでしまう」にもかかわらず人と人が許し合えないのもいい。
「どうせ死んでしまう」のだからたぶん「なんだっていい」のだろう。
「どうせ死んでしまう」のだからなにをしても、なにをしなくてもたぶんいいのだ。
「どうせ死んでしまう」から思い切って一心不乱に好きなことばかりするのも、
世間体にとらわれ他人の評価ばかり気にして過ごすのも、きっとどちらでもいいのだろう。
どう生きたっていい。死んだって構わない。
間違っている可能性は非常に高いが、これが般若心経の空ではないかとわたしは思う。

(関連)「般若心経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3173.html

「大無量寿経」(早島鏡正訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→親鸞が好きだったという大乗仏典「大無量寿経」を読む。
訳は違うが大無量寿経を読むのは三度目になる。つくづく暗いお経だなァと思う。
キンピカの阿弥陀経に対して大無量寿経は真っ暗闇の世界を描いているようなところがある。
たぶん前向きで明るい創価学会員さんはこのお経を反吐が出るほど嫌うような気がする。
しかし、ある面で本当のことが書かれてるのである。
大無量寿経は人間のどうしようもない救いようのなさを黒々と描写する。
そこに暗い性格のわたしなどはシビれるのだが、
潜在的うつ病患者のポジティブ志向者は毛嫌いするのではないかと思う。
以下の経文から(もとより大乗仏典はフィクションだが)なにやら強い真実性を感じてしまう。
わたしが大無量寿経でいちばん好きなところを紹介したい。

「そもそも、人は世間の愛欲のなかにいて、
独り生まれ、独り死に、独り来て、独り去るのである。
すなわち、人は自己のなした善悪の行いによって、報いとして苦楽の境界に行くのである。
自己自身が行いの報いをうけるのであって、だれもかれに代ることはできない。
善業の者は幸福なところへ、悪業の者はわざわいのところへ生まれる」(P290)


☆大無量寿経=「人在世間愛欲之中 独生独死独去独来」

どうして人は生まれながらに差があるのか?
この永遠に繰り返されるとも言うべき人間の疑問に、
大無量寿経は過去世における行ないの善悪が原因だと明言しているわけだ。
ここまではっきり言ってもらうとかえって気分がいいとは思えませんか。
人生におけるスタート地点の差はかなり大きいと思うが、こういうわけだったのである。
ならば、残念なところに生まれたものは親や教師、社会を恨んでもしようがないのだから、
これも「業やれ、業やれ(=宿業だなァ)」と悲しくもあきらめるほかないことになる。
わたしは世を恨む人よりも宿命を受け入れて生きている人のほうがはるかに美しいと思う。
そういう美しさが現代では失われていることを嘆かわしいとさえ思う。
さて、大無量寿経によると決まっているのは生まれだけではないようである。

「天地の神々は、その人の犯した罪を記録して、許すことがない。
それ故に、罪を犯した報いとして、
貧窮者・下賤の者・乞食・孤独者・つんぼ・めくら・おし・
愚か者・偏屈者・せむし・狂人・無能者などが存在するのである。
一方、この世で、高貴の者・富豪・才能ある者・賢者などがいるのは、
いずれも前世において、慈悲深く、孝行であり、善をなし、徳行を積んだためである」(P293)


こういう人生観を現代日本人は嫌うのかもしれないが、ここにこそ救済があるのではないか。
人間がもしなにからなにまで平等だという考えにのっとるのならば、
貧乏人は努力が足りないから、低学歴も努力が足らないから、
うつ病患者や精神病患者も努力が足らないせいにされてしまう。
でも、そんなはずないでしょ?
どうしたってある確率のもとで不遇な環境の人は現われざるをえないのである。
そのときもし大無量寿経を信じれば、
独身で友人も恋人もいない人でも孤独をこじらせなくて済む。
これも前世の罪悪が原因かときれいさっぱり思い切れば、
孤独ライフのなかにも楽しみを見いだせるようになるかもしれないわけである。
どうしようもなくあたまが悪いのも前世が原因なのだから、もうそこは断念するしかない。
そうしたら、かえって毎日を明るく暮らせるようになるのではないか。
「どうして自分はこうなのだろう?」という悩みの悪循環こそ苦しみの正体だと思う。
おのれのマイナスを前世のせいにして「ま、しゃあないか」と思えたら、
もうそのマイナスにこだわることがなくなるから、反対に状況も改善するかもしれない。
マイナスをどうにかしようと思うから、怪しげなセミナーや宗教団体に引っかかるのである。
マイナスを解決しようとするとマイナスばかり見ることになり反対に苦しみが増すのではないか。

そのうえ大無量寿経を信じれば、あのげんなりする嫉妬心からも解放される。
世の中には恵まれた人がおられるでしょう?
顔もよくて性格もよく、高学歴で見栄えのいい仕事に就き、
いつも友人に囲まれているような果報者が。
ああいう恵まれた人たちは、本人の心がけや努力のおかげでそうなっているわけではなく、
前世でいいことをしたおかげなんだと思えば、幸せな人を妬まずに済ませられるのではないか。
みんなからちやほやされるほどの喜びはないのだろうが、
あれは彼らががんばったからではなく前世の功徳の結果なのである。
そう思えば足を引っぱってやろうなどという邪心から逃れられ、
どうでもいい他人のことよりも自分をどうしようか考えるようになるはずである。
その結果として、少しずつ運勢も上向いてくるようなこともないとは限らないではないか。

大無量寿経の内容における救いは、法蔵菩薩が修行の結果、阿弥陀仏になったところである。
我われとおなじ人間に過ぎなかった法蔵さんが長年の仏道修行のすえ仏さまになった。
そして、この阿弥陀仏の説法する仏国土が西方極楽浄土である。
かつて人間だった法蔵さんはどのような願望をもって辛く苦しい修行をやり遂げたのか。

「わたしは、慈しみの心をもって、世のすべての人々を救いたい」(P273)

このセリフが暗い大無量寿経における希望の光になろう。
「世の人々を救いたい」という理由でたいへんな修行をした人がいるのである。
結果として彼は阿弥陀仏になることができている。
ならば、我われもおのれの不遇や苦境を恨まずに、
少しでも法蔵菩薩を真似て人に親切にしようではないか。
人を恨んだり憎んだりしないで、この世は修行だと思って人に優しくしよう。
人に親切にしたときに自分の心も豊かになるというのはむかしからの真理なのだろう。
どうしようもない不幸は前世からの宿業だときれいさっぱり思い切り、
法蔵菩薩とまではいかないにしろ、
わずかでも人の顔に笑顔が浮かぶ行ないをなそうではないか。
きっとそのときにあなたの顔にも笑顔が浮かんでいるだろう。
大無量寿経が教えるのは大勝利の破顔大笑や抱腹絶倒ではなく、
おそらくあきらめの微笑である。

(関連)「大無量寿経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3203.html

「阿弥陀経」(早島鏡正訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→踊り念仏の一遍が好きだった大乗仏典「阿弥陀経」を読む。
本書は現代語訳だが別に漢文の阿弥陀経も所有しており何十回と読んだものである。
般若心経ほどではないけれど短いお経だから全文読経できないこともない。
いままで繰り返し書いてきたように大乗仏教の特徴は、
この世ならぬ仏国土を創作したところにある。
阿弥陀経の説く仏国土は西方かなたにあるという極楽国土で、
そこでは阿弥陀仏が常時説法しているという。

其国衆生(その国の衆生は)
無有衆苦(苦しみがなく)
但受諸楽(ただ楽しみを受けるだけで)
故名極楽(ゆえに極楽というのである)


どこかに苦しみのない世界があったらどんなにいいことか!
そういう切実な願いから創作されたのが阿弥陀経なのだろう。
ひっくり返せば、それだけこの世は苦しみに満ちているということであろう。
苦しみから逃れたいという下層民の燃えるような夢想が阿弥陀経に結実したのかもしれない。
かといって、朴念仁の釈迦の教え、「煩悩を消せ」はどうしてもできない。
しかし、どうしても救われたいと考える人たちがいた。
極楽国土はどうなっているのか。そこには池があるという。

池中蓮華(池の中には蓮華が咲いており)
大如車輪(その大きいこと車輪のようである)
青色青光(青い花は青く輝き)
黄色黄光(黄色い花は黄色く輝き)
赤色赤光(赤い花は赤く輝き)
白色白光(白い花は白く輝き)
微妙香潔(それぞれ清らかな香りをただよわせている)


ひろさちやさんや瀬戸内寂聴さんが好きなところである。
青い花は赤く輝こうとしないで、そのまんま青く光ればいい。
青、黄 赤、白、それぞれの魅力があるのだから、そのまんま光ればいいじゃないか。
わかりやすく言うと「もてない男」は「もてない男」のままでいいではないか。
恋愛マニュアル本を読んで必死で女子に気に入られようとするのは愚かである。
なかには「もてない男」のままベストセラー作家になり、
成功者の肩書と有名人の威光で東大卒の若い嫁をゲットするものもいるわけだから。
かといって、凡人が成功者になるべく高額セミナーに通い詰める必要もない。
なんの取柄もない凡人として生まれたのなら凡人色のまま光ればいい。
凡人のまま光るとは凡人を突き詰める、つまり凡人らしくいじければいいのである。

とはいえ、これは極楽国土の話で、娑婆(しゃば)ではなかなかそうもいかないだろう。
どうしても人間は生まれ(色)を変えようとしてしまう。
いや、変えられるような錯覚を持つのは日本人だからで、
インド人の場合はカーストを変えようがない。
現代日本人に与えられている偽物の希望(努力すれば夢はかなう)でさえ、
阿弥陀経成立時代のインド人はまったく持つことができなかったと思われる。
だからこそ阿弥陀経のようなものを創作せざるをえなかったのだろう。
さて、阿弥陀経では極楽国土の美しさ素晴らしさがえんえんと描写される。
では、いったいどうしたらこの世ならぬ極楽国土に行くことができるのか。

若有善男子善女人(もし善男善女がいて)
聞説阿弥陀仏(阿弥陀仏の話を聞き)
執持名号(名を唱えること)
若一日若二日若三日若四日若五日若六日若七日(1~7日)
一心不乱(それも一心不乱にしたら)
其人臨命終時(その人の臨終のとき)
阿弥陀仏(阿弥陀仏が)
与諸聖衆(もろもろの聖者たちとともに)
現在其前(その者のまえに現われる)


いろいろな解釈があるのは知っているが、まあ文面をそのまま受け取るならば、
人は死なないと阿弥陀仏のいる極楽国土には行けないということになろう。
そうそう、阿弥陀仏がなんなのかわからない人がいるかもしれない。
大乗仏教は歴史上実在した人間・釈迦を永遠の仏さまである釈迦如来にしてしまった。
阿弥陀仏は阿弥陀如来とも呼ばれ、釈迦如来の変形くらいに理解すればいいと思う。
法華経の久遠仏、華厳経のヴィルシャナ仏、阿弥陀経の阿弥陀仏はみな釈迦如来と同一。

話を阿弥陀経に戻すと、人は死なないと極楽国土には行けない。
じゃあ、そんなのは意味がないと思われるかもしれないが、そうでもないのだよ。
人間にとっていちばん恐ろしいのはたぶん死への不安だと思う。
どんなに現世で高い地位に上りつめても死は逃れようもないのだから。
身分の高いものほど死んだらどうなるかわからないと不安が増してくるのではないか。
このための阿弥陀経なのである。
このお経を唱えていたら死に際して阿弥陀仏が来迎してくれ極楽に連れていってくれる。
これほどの安心がほかにあろうかという話なのである。
死んだら苦しみのない楽しみだけの極楽に生まれることができるのだから。
むろん実際どうかはわからない。
科学では極楽の存在を証明できないじゃないかと現代人は言うかもしれない。
しかし、極楽が存在しないこともまた科学では証明できないではないか。
あんがいひょっとしたら極楽があるんじゃないかと愚かなわたしなどは思う。

阿弥陀経を愛読していたのは鎌倉時代の一遍である。
たぶん一遍は極楽の存在をつゆ疑っていなかったことと思う。
要するに、深い安心感を持っていたということだ。
だから、死の不安の強い貴族たちからの帰依を受けたのではないか。
たとえばカウンセラーの技量は、この安心感をどれだけ与えられるかにかかっていると思う。
全国を遊行していた一遍がやっていた仕事のひとつはいまで言うカウンセリングであった。
死の不安が強い人に死んだら極楽に行けると念仏札をときに有料、ときに無料で手渡した。
南無阿弥陀仏と唱えたらかならず死んでから極楽浄土に往生することができる。
なぜなら阿弥陀経にそう書いてあるからである。
この歓喜はどれほどか。あまりにも嬉しくて踊り始めてしまった人もいるくらいである。

もし本当に極楽浄土があったとしたら、それは革命的なことなのである。
なぜなら死が不幸ではなくなるからだ。近親者の死に悲しむ必要がなくなる。
逆に死者は極楽に往生しているのだから、葬式はおめでたい儀式になるだろう。
さらにもし極楽が本当に実在するなら、早く死んだほうがいいということになろう。
このため、一遍は「とく死なんこそ本意なれ」という名言を残している。
阿弥陀経を深く信じていたから「早く死ぬのが本望だ」と言うことができたのである。
極楽の存在を強く信じていた一遍は自殺をも肯定していたという記録が残っている。
それもそうで死んだら極楽に行けるのなら、自殺のどこが悪いのかという話になろう。
だから、自死遺族は般若心経もいいが阿弥陀経を読むと救われると思う。
だれか極楽浄土の存在を強く信じている坊さんと一緒に読経すればそれが救済になる。
ところが、いまの坊さんで極楽を信じているものなどいないのではないか。
長生きをして高僧になることを目指している不信心の職業坊主を見るとうんざりする。
本来ならば自死遺族を救えるのはお坊さんしかいないはずなのだが。

室町時代の戦争の際には時宗(開祖は一遍)の坊さんが従軍したという。
死んだら極楽に行けるのならば決死隊とも言うべき最強の軍隊を結成することができよう。
現代でもおなじ話である。
阿弥陀経には「青い花、黄色い花、青い花、白い花」が登場した。
しかし、いま真黒な人生に苦しんでおられる方も多いのではないか。
不遇から黒々とした鬱積を心中にためこんでいるいる人には死が救済になるだろう。
どんなに辛く苦しい人生でも死んだら終わりなのだから、そう考えたら辛抱できよう。
かえって恵まれた成功者になるほど死が怖くて仕方がなくなるはずだから、
お気の毒でございますね、いや正直にザマアミロとあざ笑えばいい。
なんかこの世で苦労したものほど極楽でいい思いをできるような気がする。
ならば、自殺するほど苦しんだものは死後にむしろ恵まれているのではないだろうか。
そうであったらどんなにいいことか。
こういった熱い夢想から釈迦とは無縁の大乗仏典が創作されていったのだろう。

(関連)「仏説阿弥陀経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3205.html

「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→嘘つきの河合隼雄さんが好きな大乗仏典「華厳経」を読む。
河合さんが指摘していたからつまらなさは覚悟していたけれど、
不眠症のわたしを何度も眠らせようとしたのだから言い方を換えれば大した仏典である。
とても全訳だったら読む気にならなかったので、本書は抄訳(部分訳)で助かった。
華厳経は世界の存在のありようを説明した大乗仏典だと思う。
小乗仏教とは異なる大乗仏教の新しさは、永遠の仏さまのいる仏国土を創作したことだ。
永遠ということは時間や空間が無限(計測不能)ということである。

☆この世(無常・相対的・言葉・数字)⇔仏国土(永遠・絶対的・無言語・無数)

さて、我われの生きるこの世と仏国土のどちらが真如(真実)の世界か。
これはけっこう重要な問題をふくんでいるような気がする。
この世と仏国土のどちらが真実か。
かりに仏さまのいらっしゃる世界のほうが真実であると考える。
ならば、その真実の世界はどこにあるのか。どこか遠い宇宙の彼方にあるのだろうか。
いや、そうではない。このかりそめの世界がそのまま仏国土であると大乗仏教徒は考えた。

☆この世(虚構・妄想)=仏国土(真実・真如)

華厳経における仏国土は蓮華蔵世界海と呼ばれ、
その中心にはヴィルシャナ仏がいるとされる。
ヴィルシャナ仏は、法華経では久遠仏(永遠仏)として登場したのとおなじ宇宙仏である。
大乗仏教一般で言えばヴィルシャナ仏を釈迦如来と言ってもそこまで間違ってはいないだろう。
とはいえ、華厳経ではヴィルシャナ仏が教えを説くわけではなく、
周辺にあまたいるボサツが会話しながら世界のありようを解説する。
さて、我われのいるこの相対世界は言葉で分節化されていると言うことができよう。
たとえば「自分・他人」「男・女」「幸福・不幸」「善・悪」「損・得」「多・少」「長・短」――。
しかし、ヴィルシャナ仏から見たら、そんな区分はなくなってしまうと華厳経は主張する。
以下に引用するボサツ同士の会話はどの経典の言葉よりもわたしの関心に近い。
みなさまのなかにもおなじ疑問を抱いているかたがかならずやおられると思う。
まず文殊ボサツが覚首ボサツにこう質問する

「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、
この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。
幸福な人もおり、不幸な人もあり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、
容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、
くるしんでいる人がいるかと思えば、たのしんでいる人もいる」(P207)


☆この世(幸福・不幸、健常者・障害者、美人・ブス、苦・楽)←ヴィルシャナ仏

つまり、この世はどうして不平等に満ちているのか、である。
ヴィルシャナ仏とやらがいるのだとしたら、ちょっとおかしいんじゃないか、おい!
これは「人生、そんなもんさ」とあきらめるしかない問いで、
この疑問に始終とりつかれていたら心を病んでしまうことだろう。
この難問に覚首ボサツはどう答えているか。
幸不幸も美醜も苦楽も、結局のところそれらは相対的な言葉で実体(自性)がないだろう。
幸福を見るから不幸を感じ、美を見るから醜を意識し、楽を思うから苦を悩むのではないか。
プラスを意識するからマイナスを感じるのであって、
現象自体にはプラスもマイナスもないのではないか。
あるものをありのままに感得したら、
そこにはプラスもマイナスもなく、ただそのものがあるのではないか。
これはあらゆるものに自性(実体)がないということである。
以上のようなことを以下の引用文は言っているのではないかと思う。
お読みの方のご負担を考え最初に解説めいたものを書いた。
実際には覚首ボサツは「なぜ差別があるのか」の問いに次のように答えている。

「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。
わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
すべてのものは、自性[実体]をもたない。
それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。(……)
眼・耳・鼻・舌・心身などは、くるしみをうけていると感じているが、
しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
ものそのものは、つねに微動だにもしていないけれども、
あらわれているほうからいえば、つねにうごいている。
しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことが知られる。
このような心眼は、清浄であり、不思議である」(P207)


☆[(幸不幸、苦楽、美醜、善悪、プラスマイナス)=無自性]←心眼

わかりやすく下品な話をすると10万円に自性(実体)はないということ(無自性)。
金持に取ったら10万円はひと晩の飲食代だが、ホームレスには大金になる。
あなたの奥さんは唯一存在だが、他の女性と比べると美醜や性格のよしあしが生まれてしまう。
無自性であるならば、「わたし」も実体がないということになる。
他人との関係でいろいろな「わたし」というものがあらわれ出てくるわけだ。
引用文の文脈に従えば「わたし」そのものは、つねに微動だにしていないけれども、
あらわれているほうからいえば(他人の目に映る「わたし」は)、つねにうごいている。
しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。

華厳経における「なぜ人は不平等なのか」の問いはこれで終わらない。
文殊ボサツというやつはあたまはいいのだろうが、相当にしつこいのである。
さらに見ようによってはおなじ問いをたたみかけている。
よし、わかった、我われの自我に実体のようなものはないのだな。
あらゆる存在の本性(本質)は、とりたてて善(プラス)でも悪(マイナス)でもない。
しかしだ、それはいいとしても、だがしかし宝首ボサツよ、
どういうわけで我われは苦楽を受けたり、善悪をなしたりするのだろうか。
いくら無自性だと理解していても、苦しいものは苦しいだろう。悪いことは悪いことだ。
文殊ボサツはよほど容貌にコンプレックスがあったのかもしれない。
さらにこう問うている。
いったいどういうわけで見目の端正なやつと醜いものにわかれるのか。
さて、宝首ボサツはどう答えたか。

「それぞれ行うところの業にしたがって、果報を受けているのであって、
その行うものの実体は存在しない。これが諸仏の説きたもうところの教えである。
たとえば、あきらかな鏡にうつっている影像がさまざまであるように、
業の本性も、また、それとおなじである。
あるいは、植物の種子はたがいしらずに芽を出すように、
業の本性もまた、それとおなじである。
また、おおくの鳥が、それぞれちがった声をだすように、
業の本性もまた、それとおなじである」(P208)


☆[苦楽(果報)←行為(善悪)]=無自性(実体がない)
☆[美醜(果報)←行為(善悪)]=無自性(実体がない)


苦楽や美醜の原因となる業(行為)は、鏡に映った我われの影のようなもので、
たしかに苦悩や外見はそれぞれではあるけれども実体があるわけではない。
鏡に映った姿はさまざまだけれども、それは鏡のまえに立つから違いがあらわれるだけだ。
業の悪果や善果は、いろいろな草花がさまざまに芽を出すようなもの。
苦楽や美醜は、空を飛ぶ鳥の鳴き声がそれぞれ違うようなもの。
いろいろな草花があって、さまざまな鳥が飛び交い、
また多様な人がいることで結果として世界が荘厳されているのだから、
それでいいではないか。理屈としては通っていると思うが、
文殊ボサツはよほど恨み深い性格のようでまだ納得しない。
私事だが文殊ボサツのこの怨念の深さには強く共感してしまう。

嫉妬深い文殊ボサツはさらにしつこくおなじ問いを発する。
如来のお恵みはひとつであるというのに、どういうわけで果報はそれぞれ異なっているのか。
衆生には美しいもの、醜いもの、身分の高いもの、低いもの、金持、貧乏人、
あたまのいいもの、どうしても勉強ができないもの、さまざまである。
しかし、如来は平等ではないのか。
いったいどうして如来はあたかも敵味方を差別したようにこうも不平等なのか。
私見を加えるが、この問いはまったくそうである。どこまでもどこまでも納得がいかない。
わたしも文殊ボサツに肩入れしたくなる。
この三度目の問いに答えるのは目首ボサツである。

「たとえば、大地は一つで怨親[敵味方]はないけれども、
種々の植物の芽を生ずるように、仏の福田[恵み]もまた、それとおなじである。
また、おなじ水であっても器(うつわ)によって形がちがうように、
諸仏の福田も、衆生によって異なってくる。(……)
太陽がのぼるとき、すべての闇が消えるように、
諸仏の福田もあまねく十方界を照らす」(P208)


☆「問:なぜ人間は不平等なのか?」→「答:草花だってそうだろう?」

もし実際にこういう質疑応答があったとしたならば(大乗仏典はフィクションだが)、
いくら温厚なボサツでも回答者はそろそろキレるのではないだろうか。
なぜなら、文殊ボサツはおなじ質問ばかり三度も繰り返しているのだから。
いわく、どうして人間はまったく不平等に生まれてくるんだ?
回答者に成り代わって、怨念のかたまりのような文殊ボサツに言い聞かせてみよう。
いいか、おい、文殊ボサツよ、無理なものは無理なんだよ。
あのな、おれだってみんなから人気者の桜になりたいってお願いされても困るわけさ。
みんなバラやタンポポになれるわけじゃねえんだ、いいかげん、気づけ、おいコラええ!
名もなき雑草みたいのもいないと自然世界が荘厳されないんだから仕方がねえだろ。
そりゃあ、だれにも関心を持ってもらえないで踏みつぶされるだけなのは辛いよな。
だがな、おまえみたいな雑草がいるから全体としてうまくいっているんだ。
おれはよ、おい、太陽みたいなもんで、桜も雑草も分け隔てなく照らしてやっている。
だからさ、まあ大変なのはわかるが、そこはちょっとばかり我慢してくれんかい?

ここにいたってようやく文殊ボサツもおなじ問いを発するのをやめる。
文殊ボサツといえば智慧を象徴する仏さまである。
その文殊ボサツをして三度も質問させたのは「なぜ人間は不平等か?」だ。
もしかしたらわからないことを繰り返し問うのが賢さの証明なのかもしれない。
みんなが当たり前じゃないかとやり過ごしていることに目をそらさず、
執念深く問うのが本物の智慧なのかもしれない。
これまで9回の問いはすべて文殊ボサツが発していた。
そのうちの3回は「なぜ人間には差別があるか?」であった。
10回目、最後の問いは逆に、もろもろのボサツが文殊ボサツに向かってたずねる。
いったい仏の境界(深い智慧)とはいかなるものか。
文殊ボサツは次のように答えた。

「如来の深い境界は、あたかも虚空のように広大で、
たとい一切の衆生がそこに入っても、真実には、入らないのとおなじである。
その境界の原因は、ただ仏のみがしっておられる。
たとい仏が無量劫に説明されても、おそらく説きつくすことはできないであろう。
仏が、衆生を解脱せしめられるときは、
衆生のこころや智慧にしたがって仏法をのべられる」(P210)


法華経の方便品に「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とおなじような表現がある。
つまり、世界の真実は仏のみが知っている、人間にはわからないという教えだ。
ただし太陽が大地を照らすように、雨水が草花に降りそそぐように、
衆生それぞれの機根に合わせて仏さまは説法してくださる。
とはいえ、真実は「人間にはわからない」が答えではいささか情けないので、
華厳経から凡夫のわたしが読み取った世界のありかたをここから紹介したい。
華厳経では世界を海のようなものとして見る。
これは「人間になぜ差別があるのか?」の問答でもおなじような考え方をしていた。
すなわち、衆生は姿形、貧富、貴賤こそ異なれど、中身はみんな水であるという。
いったい世界という海はどのような様相をしているのか。

「もろもろの仏子よ、第一に世界の海は、かぎりない因縁によって成り立っている。
[1]すべては因縁によってすでに成立しおわっており、
[2]現在成立しつつあり、
[3]また将来も成立するであろう。
ここで言う因縁とはつぎのことを指している。
すなわちそれは如来の神通力である、
またものごとはすべてありのままであるということである、(……)
これが世界海の因縁である。
ヴィルシャナ仏の境界はとうてい思い測ることはできないが、
われわれが経験しているとおりにすべてが安定している。
なぜならヴィルシャナ仏は
無量無辺のすべての世界海を浄めたもうているからである」(P198)


☆「世界=かぎりない因縁」→ありのままで安定している

世界にはさまざまな幸不幸、苦楽、美醜、善悪があるけれど、
それらはヴィルシャナ仏から見ると、
すべて因縁として調和が保たれているということだろう。
たしかに不幸な人がいなかったら幸福な人はボランティアができないし、
なるほど苦があるから楽が認識され、醜い人がいるおかげで美しい人がより見栄えがして、
そもそも悪人がいなかったらある種の連中は善人気取りになれなくて困るということか。
個人個人を見たらば不平等極まりないけれども全部の因縁を考えたらバランスが取れている。
不幸、苦、醜、悪といったマイナスがあることで世界は安定している。
あんがいすべてのプラスとマイナスを総和したら差引ゼロになったりするのかもしれない。
たとえマイナスばかりの人生でもそれは因縁なんだからあきらめるほかなく、
だがしかし、いまもこのいま、新しい因縁は成立しているから過度に絶望することはない。
ときどき「どうしてこんな不幸が!」という信じられない事件が起こるが、
そのことによって10年後、20年後、30年後に熟すプラスの因縁もあるのだろう。
あるいは当人の死後に成立する因縁もなくはない。
だとしたら、現実がどんなに理不尽で不平等、差別いっぱいに見えようとも、
いま世界はありのままでそのまんま安定しているということになるはずである。
このため、華厳経のあの有名な一節が説かれるのだろう。我われの世界では――。

「そこでは一々の小さな塵(ちり)のなかに仏の国土が安定しており、
一々の塵のなかから仏の雲が湧きおこって、
あまねく一切をおおい包み、一切を護(まも)り念じている。
一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、
その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である」(P199)


小さな塵のひとつでさえこの世界にはなくてはならないものなのだろう。
一見すると我われの目には役に立たないゴミのように見えるものも、
他のものすべてとの関わり合いのなかにおいて、
世界を荘厳する(=飾る、成立させる)ためには必要不可欠だという考え方である。
ならば、ささいな偶然で目に映ったものにも全体が表現されているのだろう。
世界を荘厳するヴィルシャナ仏に常時思いをはせていたら、
あるいは意味のある偶然や、ひそやかな暗示に気づきやすくなるのかもしれない。
耳を澄ませていないと聞こえてこない語りかけも、もしかしたらあるのかもしれない。
目を凝らしていてはじめて見えてくるものも世界にはあるのかもしれない。
タロットカードの偶然の配列がいまの状況を象徴するようなこともあるのだろう。
偶然を頼ることがヴィルシャナ仏の意図に近づくチャンスのようなこともあろう。
なぜならという根拠は、この世界はヴィルシャナ仏が荘厳した、
ありのままそのまんまで安定したものだからである。
ジグソーパズルのどのピースにも全体の構想が浮かんでいるのが世界だとしたら――。
少なくとも華厳経はそう主張しているのである。

「仏子よ、つぎのようにしるがよい。
この蓮華蔵世界海は、ヴィルシャナ仏が久遠のむかし、
ボサツの修行をあそばしたとき、一々のみほとけのもとにおいて、
ボサツの大願を起しながら荘厳したもうたところの世界である。(……)
この蓮華蔵世界海のなかでは、一々の小さな塵のうちに、
ありとあらゆる世界の光景をみることができる」(P201)


これは別のところでは「一即多・多即一」(一は多であり、多は一である)
と書かれている華厳経のテーマのひとつである。
これはわずかのサンプルで全体を推し測るという統計学の理論ではたぶんない。
「一即多・多即一」は詩的真実を問題にしているのではないかと思う。
大勢の女を知るよりも、
ひとりの女と深く付き合ったほうが男は「女」がわかるという意味ではないか。
ひとりの女に大勢の女というものが結晶しているという考え方である。
あるいは、わざわざ世界中の観光地を旅するよりも、
ある日、夕陽に照らされた狭いわが家の庭を見た一瞬に人生を悟るとでも言うか。
見かけはどんなつまらなそうなありふれた人生でも、
ひとりの人は無数の人が味わうであろうものを噛みしめているという感覚だろうか。
もしかりにあらゆる因縁が見えたならば15歳で死んだ少年の人生もまた完結している。
いや、ひとりの人のたわいもない悩みのなかに全人類の苦悩が結晶していると言うべきか。
たとえば多くの情報なんかよりも、
たったひとつの疑問(人はなぜ差がついているのか?)に真実が宿っているということ。
要約になっていないが、要するにとまとめるならば、
「一即多・多即一」はありふれた一瞬が奇跡的な永遠に通じているという仏教的直観である。
多を見るよりも一を見たほうが多のことがよりよくわかるという意味もあるだろう。
たとえ多を見られなくても一のなかにすべての多が映っている。
むしろ多を見たかったら積極的に一を見ろという話かもしれない。

華厳経に登場する因陀羅網(いんだらもう)の比喩も「一即多・多即一」の例である。
因陀羅とは帝釈天のこと。
帝釈天の宮殿には網(あみ)がかかっていて、結び目に無数の宝玉がついている。
宝玉は鏡のようによく磨かれていて、ひとつの宝玉に他のすべての宝玉が映っている。
無限大の鏡それぞれに無限大の鏡が映っているようなものである。
人間はこのような縁起で関係しているというのが因陀羅網の比喩になろう。
ならば、だれかが風邪を引いたくらいのことが全世界に影響してしまうことになる。
電車内で彼の咳のせいで不愉快になった人が部下を叱って、その部下が次にこうして……。
この縁の連鎖がひとりの人を自殺に追い込むかもしれないし、
反対にだれかが電車で咳をしたことでひとりの人の命が救われるかもしれない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」のも因陀羅網の比喩で説明がつくだろう。

もともと華厳経をずっと読みたかったのは河合隼雄さんの影響である。
そこでカウンセリングの話をすると、ひとりの人の悩みは自分で解決するのではなく、
待っているうちに周囲が変わるから悩みが消えたように思えるのかもしれない。
いや、「から」ではなく「とき」だろう。周囲が変わる「とき」悩みが消える。
あるいはひとりの人が変わるとき周囲もみんな変わっているのかもしれない。
「一が変わるとき多も変わる、多が変わるとき一も変わる」というのが、
もしかしたら河合隼雄さんのカウンセリング理論の要諦なのかもしれない。
「一即多・多即一」ならば、一の病は多の病を映していることになるだろう。
いま書きながら気づいたが「一即多・多即一」は因果関係ではなく、
まさにあの怪しげな共時的関係(偶然!)を示しているのではないか。
たまらなく胡散臭いシンクロニシティ(意味のある偶然)は、
華厳経の「一即多・多即一」を成立原理に持っていると考えたらかなりわかりやすくなる。
一瞬のあいだに起こったことはもし世界原理が「一即多・多即一」であるならば、
かならずや別の場所でも示し合わせたように、
関連するなにか別のことが同時発生しているということになるのではあるまいか。
さすがにこんな長文をここまでお読みくださっている方はいないと思うので、
あまりにもオカルトな予知能力も「一即多・多即一」で説明できると書いてしまおう。
一(直感)がすなわち多(深層世界)に基づくものならば、
多はすなわち一(なにかの事件)に即しているということになるはずである。

☆予知能力=[(直感)⇔「一即多・多即一」⇔(事件)]
☆シンクロニシティ=[(ある出来事)⇔「一即多・多即一」⇔(別の出来事)]


話は変わって宗教評論家のひろさちやさんは、
迷ったときサイコロを振って決めることをすすめている。
偶数ならこうしよう、奇数ならこうしようとあらかじめ決めてからサイコロを振る。
いま気づいたが、これも「一即多・多即一」の原理にかなっているのだろう。
一瞬のそのときの出目(偶数か奇数か)に多(ヴィルシャナ仏)があらわれるのだから。
実のところ華厳経はあまりにも難解なので、
かなりひろさんの解説に助けられている(「お経から人生を学ぼう」NHK出版)。
これもひろさんに教わったのだが、
華厳経には「初発心時便成正覚」という言葉があるそうだ。
はじめて発心したときに、すでに正覚(悟り)に達しているという考え方だ。
本書の訳では「はじめて志しをおこすときに、すでに無上の悟りは完成している(P226)」。
これもまた「一即多・多即一」の思考法によるものらしい。
ひろさちやさんによると、「一即多・多即一」は一瞬こそ永遠という意味になる。
哲学的に考えたら過去も未来も存在せず、存在するのはいつもこの一瞬だけである。
へたをすると一瞬後には心臓発作や地震で死んでいるかもしれないわけだ。
生きているのがこの一瞬しかないならば、その一瞬が永遠にほかならないと考える。
ならば、仏道修行を志した最初の一瞬に永遠の悟りを開いたことになる。
これが華厳経の「初発心時便成正覚」ということらしい。

華厳経のまとめに入ろう。
華厳経は「なぜ人は不平等か?」という問いに「一即多・多即一」と答えたお経だと思う。
ほかならぬそのひとりの不幸がないと蓮華蔵世界海は荘厳されないのである。
ひとりひとりの不幸、悪、貧困、障害、難病があってはじめて、
多面的な蓮華蔵世界海が荘厳されることになる。
だとしたら、どのマイナスもヴィルシャナ仏から荘厳されていることになるのではないか。
重苦しい宿業も過去現在未来の諸仏に美しく荘厳されていると思うと慰められる。
荘厳(しょうごん)とは、美しく飾りつけるという意味である。
黒々とした宿業は、けばけばしい「宿命転換」(創価学会)の三色で化粧されなくても、
そのままありのままで黒光りして美しいのだろう。
黒々とした宿業の持ち主は「赤、黄、青」を目指すのではなく黒のまま光ればいい。
明るい「赤、黄、青」はたしかにいいのだろうが、
暗い宿業を持って生まれた人は黒々と輝くという道があるのではないか。

「仏子よ、第五に、すべての世界海には測りしれない荘厳がある。
たとえば、すべての衆生の宿業が荘厳されていること、
また、過去現在未来の諸仏、
および普賢ボサツの願力が荘厳されていること、などである。
十方の世界海は、いろいろに荘厳されていて、広大無辺である。
衆生の宿業の海は、ひろくてほとりがなく、そのときどきにうつりかわっていくが、
その底の底まで諸仏の力によって荘厳されている」(P199)


こんな長文記事を最後までお読みくださり本当にどうもありがとうございます。

「勝鬘経」(高崎直道訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→大乗仏典「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を読む。
維摩経、法華経、勝鬘経は(実在したかわからない)聖徳太子が
三経義疏(さんぎょうぎしょ)という注釈書を書いたことで知られている。
要するに勝鬘経は古くから日本になじみのあるお経ということだ。
内容はけっこうめちゃくちゃで出家もしていない勝鬘夫人のスピーチが延々と続く。
勝鬘夫人はいちおうお偉い血筋らしく国王の娘で、別の国の王に嫁いでいるという。
いまで言う更年期障害だがなんだかよくわからんが(年齢設定はない)、
この勝鬘夫人が釈迦(世尊)のまえでヒステリックに小乗仏教批判を演説するわけだ。
釈迦はこのエキセントリックなおねえさんにどう対応するかというと、
「OK、OK、それでいいよ、あんたは正しい」とひたすらどこまでも彼女を肯定する。
大乗仏典だから歴史上の釈迦とはなんのゆかりもない創作であることを考慮に入れても、
これはちょっとやりすぎのような気もするが、いかにも大乗仏教的と言えなくもない。

というのも、大乗仏教は反体制という意味でのロックなのである。
もし釈迦の教えが「正しい」としたら(釈迦が「正しい」保証はどこにもないが)、
より開祖の教えに近いのはだれがどう考えても伝統ある小乗仏教のほうなのである。
どうでもいいことだが、わたしは釈迦をそれほど好きではなく、
釈迦の教えだから「正しい」というのは権威主義にしか思えないことを断っておく。
さて、後発の大乗仏教は本来なら正統的な小乗仏教にあろうことかキバをむき、
「おまえらは間違っている」と獅子吼(シャウト)したのである。
大乗仏教のどこが新しいかと言ったらば、仏国土を創作したことではないかと思う。
仏国土は、あの世、浄土、彼岸と言い換えてもよく、要はこの世ならぬ仏さまの国である。
そのうえで歴史上実在した釈迦(世尊)を、仏国土から来た釈迦如来にしてしまった。
如来(にょらい)とは真実の世界から来たもの、という意味。
娑婆(しゃば)、この世はかりそめの世界で、仏国土こそ真実であるという発想の転換だ。
さらに小乗仏教が敬う釈尊(釈迦)などたまたまある時代のインドに、
仏国土から釈迦如来が来たに過ぎない存在だとしてしまう。

☆小乗仏教:この世のみ(釈迦)
☆大乗仏教:この世(釈迦)←仏国土(釈迦如来=永遠仏=久遠仏)


さらにさらに大乗仏教はとんでもない飛躍をするのだから。
どういうことかと言うと、我われもまた仏さまになれるとしたのである。
なぜなら、釈迦如来も無限に近いほどの生まれ変わりのなかで(生死輪廻)、
菩薩(ぼさつ)として仏道修行したがために仏さまになることができたのだ、
という理屈を大乗仏教はインド古来の三世因果説にのっとりでっちあげる。
菩薩はこの世で仏道修行をする仏さまという意味。
大乗仏教では菩薩が想像もできないほど長い期間修行したあとで如来になると考える。
菩薩も如来もおなじく仏さまだが、菩薩はこの世、如来は仏国土にいるという設定だ。
わかりやすくすると以下のようなサイクルを大乗仏教は発明した。
まず前提にあるのは仏国土が存在するという発想の転換である。

☆この世(無常・相対的・有限・苦)⇔仏国土(不変・絶対的・無限・楽)

この世とあの世(仏国土)を仏さまである菩薩と如来はどう循環するか。

☆仏さま=[菩薩(修行者)→如来(完成者)]
☆この世(修行)→菩薩→(生死輪廻)→如来→仏国土→如来→この世(救済)


重要なので何度でも繰り返すが、
大乗仏教の新しさはこの世ならぬ仏国土を創作(仮構)したところである。
おそらく、彼(女)らはこの世の理不尽に深く絶望していたのだろう。
欲を捨てろという聖人しかできぬ小乗仏教の教えでは救われない人たちがいた。
彼(女)は救われたいと強く思った。
あるいは、苦しんでいるもの、絶望にうめいているものを救いたいと思ったのか。
人はどうしたら救われるのか。
もし苦に満ちたこの世ならぬ世界があったとしたらどうか。
どうしてこの世ならぬもうひとつの世界がないと言えようか。
本当にこの世だけなのだろうか。
人間にはこの世を飛び立つ想像力という翼(つばさ)が備わっているではないか。
いまで言うならば精神病的なまでに烈しい妄想の力を用いて、
仏教の革命者たちは心中に思う釈迦その人に翼をつけて天高く飛翔させた。
どこに向けてか。どこかにあるに違いない永遠の仏国土に向けてだ。

ちなみに現代の科学をもってしても仏国土は存在の有無を証明できない。
いくら科学が進んでも仏国土が存在しないことは証明できないのである。
なぜなら、いま生きている科学者のなかで死んでみたことのある人はいないからである。
言い換えたら死の不思議から大乗仏教徒は仏国土を思いついたと言ってもよい。
正しくは死と誕生の不思議(不明)によって大乗仏教はこの世を離陸した。
釈迦ほどの偉人は死んだあとにどうなったのだろう。
釈迦はどうしてこの世に釈迦として生まれてきたのだろう。
この疑問から仏国土を仏教革命者たちは創造したのだろう。
つまり、釈迦は本当のところ仏国土にいまも釈迦如来としている。
なぜ如来になったかと言えば、菩薩としてこの世で繰り返し修行を積んだからである。
ならば、我われもこの世で菩薩行を積めばいつかは如来になれるのだろう。
小乗仏教の教えでは、いくら修行しても仏さまになることはできない。
だが、大乗仏教の教えに従うならば、我われも仏さまになることができる。

大乗仏典「勝鬘経」の話をしよう。
冒頭、在家の勝鬘夫人は「みほとけ(永遠仏、久遠仏)」から予言をいただく。
どういう予言か。将来、夫人は如来になると「みほとけ」は言うのである。
「みほとけ」いわく、勝鬘夫人は仏国土に住む「普光」という如来となる。
ここに大乗仏教の真髄が込められていると思うので少し長いが引用したい。
内容はいま書いた通りなので、どうか読み飛ばしてください。
「みほとけ」は出家をしていない勝鬘夫人に以下の予言をお授けになる。

「夫人よ、
そなたが如来の真実の功徳をほめたたえるという善行を積み重ねた結果、
その善根功徳によって、
そなたは未来永劫に人間界・天上界の王者の幸福を享けるであろう。
そして、いつの世にも、わたくしにめぐり逢わない時とてもなく、
今そなたがしていると同じに、わたくしを讃嘆するであろう。
その上、無量無数のみほとけたちにもかしずくであろう。
今より後、二万アサンキヤ劫を経て、そなたは普光という名の如来となるであろう。
その時には、そなたの仏国土には、地獄等の悪道に陥るものはなく、
いきとしいけるものはみな十善の道に安住し、
病気もなく、老いることもなく、意にそわない災厄もなく、
不善の行為はその名すら聞かれないであろう」(P172)


☆この世→勝鬘夫人→善根功徳→幸福な生死輪廻→普光如来→仏国土

さて、「勝鬘経」はこの夫人が釈迦如来(久遠仏)のまえで説いた教えである。
勝鬘夫人はなにを説いたのか。「勝鬘経」の主たる内容はなにか。
夫人のみならず、我われのだれもが「如来蔵(にょらいぞう)」を持っているというのである。
如来蔵は仏性とも呼ばれている。仏さまになるための機根である。
いや、「勝鬘経」に忠実に耳を傾けよう。如来蔵とはいかなるものか。
勝鬘夫人は世尊(みほとけ)に語りかける。

「世尊よ、衆生のうちにあるところの如来の因子、
すなわち<如来蔵>は生死輪廻する場合のよりどころでございます。(……)
<如来蔵>があるからこそ輪廻が成立する、
といえば、これは理に適っております。
(……) 世尊よ、この、死といい、生ということは、
世間の常識的な言い方でございます。死とはこれ、感覚器官の機能停止、
生とは、これ、新しい感官の発生でございます。
ところが、<如来蔵>には生も死も、滅も起もございません。
何となれば<如来蔵>は、
縁起の方則にもとづく、生滅変化を特質とする存在の限界を超え、
常住・不変・静寂・永続的でございます。(……)
<如来蔵>は、真実の教えを生み出す根元、如来の<法身>そのもの、
世間的価値を超越した存在、本性として清浄な存在でございます」(P190)


わかりやすく内容を書き改めてみよう。
如来蔵は死してもなお残り、生まれ変わるよりどころとなるものである。
無常のこの世で人間は生死に振り回されるが、如来蔵は永遠に通じている。
人間のだれもが持っている如来蔵は、世間的価値観を超越した絶対的に清浄なもの。
これはユングが言うところの「自己(セルフ)」とおなじではないだろうか。
ユングは「自我(エゴ)」の奥底に「自己(セルフ)」があるという仮説を立てた。
人間が如来蔵によって永遠に通じているというのは、
ユング心理学の言う集合的無意識とおなじだろう。
ユングはインチキでオカルトだが、大乗仏教もまさにそうなのでなんら問題はない。
人間はフィクション、つまりインチキやオカルトに救われるというのが大乗仏教である。
いまの日本ではユングよりはいくぶん偉い、ユング研究所出身の深層心理学者、
河合隼雄は晩年に「たましい」ということを言い始めたが、
「勝鬘経」の説く如来蔵はまさしくそのまま「たましい」とおなじであろう。
河合隼雄は心理療法(カウンセリング)の最中、
相手(クライエント)の「たましい」を見るようにしているという。
「たましい」を見るとは、人間の如来蔵を信じるということではないか。
「勝鬘経」の教えは、どこか河合心理学に通じているような気がする。
いつの時代のどこの国の人たちも煩悩(ぼんのう)に苦しんでいるのである。
煩悩とは欲望、つまりエゴのこと。我われは煩悩に苦しまされる。
だが、もしそばに仏さまがいてくれたらどうだろう。

「世尊よ、この<如来蔵>は、あらゆる煩悩におおわれていて、
凡夫には了解しがたいのでございますが、
煩悩の纏(まと)いの中にかくされた<如来蔵>が
あるのだと信じて疑わない者はだれでも、
その煩悩の纏いから解放されたところの、如来の<法身>についてもまた、
疑を抱くことはございません」(P187)


☆無常を生きる人間(煩悩)→如来蔵(永遠)←人間(煩悩)

心理療法家は如来蔵でクライエントと通じているのかもしれない。
たとえ心理療法家がいなくても、だれかひとりでも仏教者が、
煩悩に苦しんでいる人の如来蔵を疑うことなく信じていたら、
彼(女)は地獄のような苦しみから徐々に救われていくのかもしれない。
人はだれかに救われるのではなく、もしかしたら自分の如来蔵に救われるのかもしれない。
とはいえ、大乗仏教は利他(他人を利する)の教えを説く。
大乗仏教は小乗仏教を自利(自分を利する)ばかりではないかと批判した。

大乗仏典「勝鬘経」の説く真実の教えとはなにか。勝鬘夫人は言う。
「世尊よ、真実の教えを身につけようとする者は、男であれ、女であれ、
そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう」
「勝鬘経」では「生命を投げ出す」ことも推奨されているのである。
多少穏当に言い換えると「生命を投げ出す」、つまり自殺もそれほど悪い行為ではない。
不変の如来蔵があるのならば、この世の生命などにそうこだわらなくてもいいことになる。
いくら死んでも如来蔵があるのだからまた生まれ変わってくるのだろう。
ならば、死は不幸ではないことになる。自殺はそれほどの罪悪ではないことになる。
もしそうだとしたら、自死遺族はそうまで大仰に悲しまなくてもよくなるのではないか。
繰り返すが、「勝鬘経」の言うように、我われのだれもが如来蔵を持っているのならば――。

「また、人は生命をなげ出すことによって、その代わりに、
輪廻の世界のつづく限り存続するところの、
ほとけのおいのちとでもいうべき<法(のり)>、神通変化に基づき、死滅を離れ、
無限・常住にして、不可思議な徳性をもつ
<ほとけの教え>のすべてを得るでありましょう」(P178)


これはどういうことか――。
もしかしたら自殺者はようやく輪廻を離れ仏国土で如来になっているかもしれないのである。
自殺者はいまは如来になって自死遺族を見守ってくれているかもしれないわけだ。
なぜなら、死んだらどうなるかは永遠の「みほとけ」にしかわからないのだから。
死んだ人がいまどうなっているかはこの世に生きるものには絶対にわからない。
わかっているのは、永遠の教えである「勝鬘経」に人はみな如来蔵を持つと書いてあること。
もしそうだとしたらこの世での死は断じて終わりではないこと。
「生命を投げ出すこと」が「ほとけの教え」に適うときもあるということである。

「法華経」(紀野一義訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→物好きと言うしかないが、このところずっと読経をしていたのである。
いろいろな宗派のお経を収録したいい本を見つけた(「お経がわかる本」双葉社)。
浄土系、法華系、禅系、密教系、ありとあらゆるお経が集められている。
あたかも風邪に大量の薬を処方するヤブ医者のように、
どれか効くんじゃないかと全部のお経を毎日のように声に出して唱えていた。
結果、現世利益のようなものはまるでなかったが(当たり前だろうが馬鹿者!)、
ひとつ身体でわかったことがある。
以前は嫌いだった法華経がいちばんリズムよく爽快に読経できるのだ。
わたしの好きな一遍は阿弥陀経を愛読していたが、あれはどうもテンポがよろしくない。
漢訳の美しさではたぶん法華経がいちばんのお経になるのではないかと思う。

さて、もう何度目かで法華経を読み直したわけだが、
まあ読めば読むほどよく理解できるのは不思議ではなかろう。
ひと言で法華経を要約することができるのではないかと気づいてしまったのである。
法華経とはなにか? 「嘘も方便」である。法華経は「嘘も方便」に尽きる。
嘘にまみれているのが法華経だ。
本当のことよりも美しい嘘のほうがいいではないか、と法華経は主張している。
いわく、つまらない本当よりもおもしろい嘘、役に立つ嘘のほうがいいではないか。

法華経=「嘘も方便(→嘘>本当)」

本当のことを言って相手を絶望させるよりも嘘でも希望を持たせるほうがいい。
相手の命が救えるのならば嘘を言ったところでなにが悪いもんか。
本当に相手のためを思うのならば、どんな嘘をついてもいいのではないだろうか。
法華経のエピソードをわかりやすく現代ふうに言い換えたらこうなると思う。
危険な遊びに夢中の子どもに新しいオモチャを買ってやると嘘をついて、
当面とりあえずの事故から子どもを守るのはそれほど悪いことでもない。
「どうせ死んでしまう」つまらない人生だけれども、
青年にはこの世には楽しいことがいろいろあることを教える老人は嘘をついているのか。
本当のところ現実は理不尽、不合理、不平等だが、
子どものころは「努力すれば夢がかなう」という嘘を信じていたほうがいいとは思わないか。
余命宣告された人が「お題目を唱えたら治る」という嘘を信じて死んでいくのは罪悪か。
一生懸命がんばっても芽が出ない人を励ます嘘はそこまで責められる類のものか。
たとえば凍えるように寒いクリスマスイブ、孤独なもてない男のために
ひと晩だけ恋人のように接してやるデリヘル嬢は観音さまの化身ではないか。
人生で恵まれなかった孤独な老人の愚痴を、
さも関心があるような顔をして聞いてあげる介護者は偽善的なのか。
寒々しい孤独なだけの本当よりも嘘でも夢のようなものを見ながら死におもむきたくないか。

法華経におけるいちばんの嘘は「久遠実成(くおんじつじょう)」と呼ばれものである。
「久遠実成」とは――。
インドの釈迦は実のところ死んでなどいなくて、永遠の仏さまが常に説法しておられる。
たぶん嘘なのだろうが、その嘘を信じたら生きやすくなるのならばそれでいいのではないか。
こう考えると以前は嫌悪していた法華経の説く仏罰と功徳(現世利益)も許容可能になる。
法華経いわく、不幸なのは過去世で法華経を誹謗中傷したからだ。

「この経をそしったがために、罪の報いを受けることこのようである。
もし人間となっても、つんぼ、めくら、唖(おし)であり、
貧乏と困窮、もろもろの衰えによっておのれを飾り、
水ぶくれ、消渇(しょうかち)、疥癬(かいせん)、癩疾(らいしつ)、はれもの、
これらの病を衣服とし、体は常に臭く、垢にまみれて不浄である」(P88)


独善的な前近代的因縁話めいたところがかつては嫌いだった。
しかし、よくよく考えてみたら、不幸な人のなにが苦しいのかといったら、
「どうして?」がわからないところによる部分が大きいのである。
どうして自分だけ障害を持って生まれたのか。
クラスでいちばん貧乏な家に生まれたのはなぜなのか。
いったいどういう理由で健康に留意していた自分がよりによって難病にかかったのか。
こういう疑問は科学的には答えが出ないから、考えれば考えるだけ苦しみが増す悪循環だ。
「どうして?」を考えなければいいのだが、不幸な人間はどうしても考えてしまう。
このときたとえ嘘でも「過去世で法華経をそしったから」という
「どうして?」の答えを与えられたら、本人はあきらめがつくのではないだろうか。
結局のところ堂々めぐりの問いから解放されて安心から快方に向かうこともあるだろう。
究極まで突き詰めたら「どうして?」とまったくおなじで、
不遇なときに「どうしたらいいか?」も科学的な唯一解は出ない問題である。
「どうしたらいいか?」がわからないために不安になり、
さらに事態が悪化することもあるだろう。人間にとってなにより恐ろしいのは不安である。
こうした際に法華経の説く功徳(現世利益)はたとえ嘘でも慰めになるのではないか。

「……この経はこの世界の人々の病の良薬だからである。
もし人、病むことがあっても、この経を聞くことができたならば、
病は消滅して不老不死となるであろう」(P153)

「この経を読む者は常に憂いや悩みがなく、
また病気もなく、顔色は白く鮮やかであり、
貧しく・卑しく、醜い姿には生まれない」(P135)


不老不死など嘘に決まっているが、そうだったらどんなにいいだろうか。
法華経は現世のみならず来世のことも保証してくれるのだから安心である。
病弱でもてない孤独なブサメンも法華経を読んだら来世でイケメンに生まれるかもしれない。
嘘かもしれないが、いや嘘だろうが、そうだったらどんなにいいことであろう。
法華経が我われにもたらす救済である。

今回読んではじめて気づいたが、法華経は自殺を肯定している部分があった。
「薬王菩薩本事品 第二十三」で一切衆生喜見菩薩は供養のために焼身自殺している。
諸仏は「これこそ真の精進である」と焼身自殺を絶賛しているではないか。
自殺後に一切衆生喜見菩薩は如来となり、
その後また再び人間世界に、そのうえ恵まれた国王の子として生まれてきている。
法華経に「愛する身を捨て」る行為は大精進であるという記述がしかと存在する。
自殺したものは人間に生まれ変わることなく永劫のあいだ地獄や畜生界で苦しむ、と
さも訳知り顔で小説に書いていた創価学会の作家がいたような気がするが、
彼は果たして本当に法華経を一字一句吟味しながら熟読したことがあるのだろうか。

(関連)「法華経(漢文)」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3400.html
「法華経現代語訳」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3072.html
「物語で読む法華経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1294.html

「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→大乗仏典「維摩経(ゆいまきょう)」読む。
仏典だからいちおうお釈迦さまの教えということになっているが、
大乗仏教のお経のため言うまでもなく釈迦とは無関係の後世の創作である。
わかりやすく小乗仏教と大乗仏教の相違を説明する。
小乗仏教とは比較的に釈迦の教えに忠実な出家者が中心になった仏教。
世俗から離れたインテリさんの仏教と言ってもいいと思う。
一方で大乗仏教はインテリが嫌いの在家者が中心になって興した仏教。
小乗仏教の出家者は欲を離れることを目標としたが、
あさましくもギラギラした欲望から逃れられぬ在家の人間が
それでもずる賢くも救われようという願いから釈迦に対するフィクションを創作した。
それが大乗仏教ということである。ちなみに日本は大乗仏教の国だ。

大乗仏典「維摩経」をわかりやすく要約したら、つまりは「いじめ」ということになろう。
在家の維摩という金持の人格者が本来は偉いはずの仏弟子を打ち負かす。
説教していびったり、からかったりで仏弟子を泣かせたりするわけである。
創価学会は「維摩経」を評価しているが、いかにもであると言えなくもない。
資産家のまるで池田大作さんのような維摩がインテリの学者に大勝利する話である。
よって「維摩経」の主調音は以下のようになる。

金満人格者>清貧仏弟子

大乗仏教がどのように小乗仏教に勝利するかという論理はこうだ。
釈迦の教えに忠実な小乗仏教の出家者たちはあらゆる欲望から脱することを目標とする。
しかし、欲望を消そう消そうと思うとかえってその対象の欲望にこだわってしまうのが人間だ。
結果として、欲望は消滅しないし、いつも欲望があたまのなかに渦巻くことになりかねない。
だから小乗仏教はダメだと大乗仏教は主張するわけである。
じゃあ、どうすればいいのかと言うと、欲望にこだわらなければいいと大乗仏教は考える。
欲望を消そうというこだわりを捨てよという。
そもそも欲望もその対象もみな実質はないではないか。
相対的なこの世から離れた絶対の仏国土(あの世)というものを想定(仮構)したら、
この世のあらゆるものが空しくならないか?
絶対(どうせ死んでしまう!)を考えたらあらゆる相対的な価値観は色を失わないか?
所詮は小乗仏教など相対的な価値観の世界であたふたしているようなもの。
絶対(どうせ死んでしまう!)から見たら金持も貧乏人も大した差はない。
むしろ資産家を毛嫌いするような坊主の狭い了見はいかがなものか。
以上のような論理展開を経て、
金満人格者の維摩が悟り澄ましたような清貧な仏弟子に説教する。
維摩の主張を短く言い表したものは以下である。

「もろもろのことがらは皆妄見である。
夢のごとく、蜃気楼のごとく、水中の月のごとく、鏡の中の像のごとくであり、
妄想によって生ずるのである」(P16)


☆絶対→相対世界(=夢、蜃気楼、水中の月←妄想)

どうして絶対というものを大乗仏教は思いついたのか。
これは釈迦生存時からインドにあった三世因果説が関係していると思う。
三世因果説とは過去世、現世、未来世があるというインド古来からの思想だ。
なぜ偉大なる釈迦が誕生したのかと大乗仏教徒は過去世に思いを馳せたのだろう。
過去世で菩薩(ぼさつ)として幾度も修行したから彼は釈迦として生まれた。
この延々なる過去世はあまりにも長すぎる時間のため永遠ということになる。
永遠は相対(数字)では計測できないもの、つまり絶対的なものとなろう。
釈迦の過去世を想像することによって絶対(永遠仏、久遠仏)の観念が誕生したと思う。
この絶対から見たら相対世界のこだわりなど空しくなるというのが大乗仏教思想だ。

「維摩経」から有名なエピソードを紹介しよう。
維摩の豪邸に仏弟子たちが訪問しているとき、天女が華を降らしたという。
維摩たち菩薩に舞い降りた華はすぐに落ちた。
しかし、仏弟子たちに降りかかった華は身にまとわりついて取れなかった。
たとえ仏弟子たちが神通力(超能力)を用いても無理だったという。
あわてる仏弟子のひとり(舎利弗)に天女がたずねる。
天女「どうして華を振り払おうをするのですか?」
仏弟子「華は修行僧にふさわしくないからです」
天女「そういうこだわりがあるから華が取れないのでは?」
仏弟子「ううっ(絶句)」
天女「維摩さんはくだらない分別心がないから華も落ちるのですよ」
仏弟子「(負けた)」
維摩「(大勝利)」

もうひとつ天女と仏弟子のよく知られたエピソードがある。
小乗仏教は女性蔑視が強かった。女の身では修行はままならないと考えられていた。
仏弟子「天女さん、どうして女身を転じて男性の身にならないのですか?」
天女「あたしは女性でしょうか?」
仏弟子「え? どういうことです?」
天女「あなたの目にはなにも見えていません」
仏弟子「え? え? え?」
天女は神通力で仏弟子を女身に変えてしまう。
天女自身は男の仏弟子に変身する。
仏弟子「(女になった自分に気づき)あわわ(とあわてる)」
天女「仏弟子さん、どうして女身を転じて男性の身にならないのですか?」
仏弟子「参りました」
天女「男だとか女だとかいうことにこだわる分別心がいけません」
仏弟子「まったくその通りであります。降参!」
天女「お~ほっほ(高笑い)」
維摩「(ニヤニヤ)」

まあ、はっきり言って「いじめ」以外のなにものでもないが、これが大乗仏典だ。
どうしたら「不二の法門(悟り)」に入れるかという対話もある。
いろいろな菩薩(ぼさつ)がいろいろな説教を垂れる。
最後に維摩が答える番になる。維摩はどうしたか。なにもしゃべらず沈黙のままだった。
これを文殊菩薩が絶賛するのである。
「不二の法門」には言葉(相対的価値観)でもっては入れないことを
維摩はよくわかっている、という理屈である。
大乗仏典は「言葉では語れないもの」を語ったお経なのである。
このため信仰態度は大乗仏典そのものを重んじよという形式になる。

「<法の供養>がもろもろの供養のなかでもっともすぐれていて、無比である。
それ故に<法の供養>によって仏を供養すべきである」(P57)


このたびかなりの数の大乗仏典に目を通したが、どれも「法の供養」を強調していた。
相対ならぬ絶対を説いた大乗仏典自体がありがたいという考え方である。
最後になるが仏教というのは、苦しみと折り合いをつけるための教えである。
突然の災難に巻き込まれたときは、どう考えたら救われるのか。
以下引用文中の「病」は「災難」に置き換えてもおなじだろう。
災難に遭遇したとき我われはどうしたらいいのか。

「自分の病[災難]によって他人の病[災難]をあわれみ、
過去世無数劫における苦しみを知るべきである。
一切衆生をうるおし益しようということをおもうべきである」(P25)


ありきたりだが、苦しまないと人の苦しみはわからないということだろう。
そして、苦しみは過去世の報いだからあきらめるほかない。
とはいえ、絶対(永遠)から見たらいまの苦しみなど些細なものではないか。
ということを以下の引用文は主張しているのだと思う。

「病んでいるぼさつ[仏道修行者]はこのように念ずべきである。
――いま我(われ)が受けるこの病[災難]は
みな前世の妄想・顛倒・もろもろの煩悩から生じたものであり、
実体としては存在しない」(P25)


「維摩経」を供養したら病気が治ると現世利益を主張しているわけではないのである。
病気や災難に対する見方が少しばかり変わるのではないか。
そうしたらいくらかは楽になれるのではないか。
これが苦しみに対する「維摩経」の教えである。

どうしてみんな子どもをほしがるのか長らくわからなかったが、
北崎拓氏の漫画を読んでいてようやく理由のひとつが判明する(「クピドの悪戯」)。
山田太一さんは、いまの若者は本を読まないが
代わりに音楽で教養を得ているという考えをお持ちのようだが、
あんがい本を読まない人は漫画からいろいろ教わっているのかもしれない。
さて、なぜ子どもをほしがるのか、である。
現代では結婚は恋愛をしてからすることが多い。
男女ともに相手のことを好いているわけだ。
だが、どんな美しい女性も加齢とともに劣化は避けられない。
このため、もし娘を産めば遺伝子的に美しさが再生産される可能性が高い。
したがって、子どもをほしがるという筋道である。
女が惚れたところの男の魅力も子どもを産めば遺伝子的に再生産される可能性が高い。
学者の子どもがおなじ分野の学者になることは非常に多いから、これは事実に基づいている。
むかしの下層民がばんばん子どもを産んでいたのは、
ただ単に避妊よりも快楽を優先しただけだろう。
いまはあんなバカなことをする夫婦はいないと思う。
こうして考えていくと、いまは美男美女の夫婦しか子どもを設けないのではないか。
少子高齢化対策として国が美男美女限定で一夫多妻、一妻多夫を認めるべきだと思う。
これから産まれてくる子どもは
将来多くの老人を支えなければならないという苦労が決定しているが、
子どもたちは遺伝子的に美男美女ばかりだろうから
それほど心配することはないとも言えよう。大丈夫、ニッポン!
親分と子分という関係でしか人と交際できない自我の強い人がなかにはいる。
もちろん、そういう人たちは子分になりたがるわけではない。
おのれは親分として尊敬してくれる子分を引き連れて常に先頭にいることを欲す。
むかしのカトリック作家の遠藤周作なんかはその典型だが、
いまの若い人は存在さえ知らないかもしれない。
「戦う哲学者」の中島義道さんならご存じでしょうか。
私塾を開き、その中でボス猿として嬉々としておられる。
自殺願望を持つ若い美青年が「うるさい哲学者」を神輿のようにかついでいるようだ。
中島義道さんを嫌いらしい「もてない男」の小谷野敦さんもかつて私塾を開いていた。
どう考えても嫌いな哲学者のように子分から尊敬されたかったのだろう。
どうやら中島義道さんはああ見えて子分の面倒見が非常によいとのことである。
一方で小谷野敦さんは子分を制裁したりするので怖ろしい人のような気がする。
そこが小谷野さんの魅力なのだから私塾は閉じたようだが性格は変えないでいただきたい。

「患者の悪口を書く精神科医」の春日武彦さんにとっては患者が子分のようなものだろう。
子分(患者)の人生をある種コントロールする全能感のよろしさを医師は饒舌に語る。
ただし精神科医の場合、客の患者が逆らってくることも多々あるようでお気の毒である。
B級精神科医は人嫌いのようで臨床以外で子分など絶対に持ちたがらないだろう。
イケメンでモテモテの宗教人類学者(なにそれ?)植島啓司さんは、
親分とか子分とかそういう日本の因襲的な関係を毛嫌いしていそうで好ましい。
親分になんかなりたくないと思っていることだろう。
脚本の世界では倉本聰さんと山田太一さんが対照的である。
東大卒の倉本さんは親分になりたがるタイプのようで長年富良野で私塾を開いていた。
倉本さんの風貌はいかにも親分肌のようなところがある。
山田さんは正反対で親分になりたがらない気質をお持ちのような気がする。
人にものを教えられるのかという基本の問題で戸惑ってしまいそうなところがある。

これまでは親分について書いてきたが、造語だが子分肌の人もなかにはいるのではないか。
美人脚本家の中園ミホさんは「野心のすすめ」の林真理子先生の子分を志願している。
上からかわいがられるのがうまい人当たりのいい女性なのだろう。
一度シンポジウムで美しいお姿を拝見したことがあるが、たしかにそういう感じがした。
林真理子先生のベストセラー「野心のすすめ」は発売時に書店で立ち読みしたが、
自分は電車でユニクロの服を着ている貧乏なおっさんを見たら軽蔑すると書いてあった。
全身ユニクロのこちらは、ただただ林真理子先生が恐ろしい。
精神科医の春日武彦さんのご本は大好きだが、間違っても子分(患者)にはなりたくない。
むかしある人から全部料金を奢ってあげるから
「もてない男」の小谷野敦さんの私塾に行かないかと誘われたことがある。
「行きません」と断ってしまったのは後悔すべきことなのかどうか。
かなりむかし創価学会員の漫画家という人から、
おまえを子分にしてやるという内容の鍵コメントをいただいたことがある。
名前は書かれていなかった。わたしは記載されていたアドレスにメールを出さなかった。
あまり子分にはなりたくないが、弟分ならなりたい。
包容力のある姉御肌の女親分の弟分ならば志願したい。マゾというわけではない。
いちおう最後に断わっておくと、
当たり前だが自分は親分になるほどの器ではないとしっかり自己分析している。
そうそう美人脚本家の中園ミホさんは林真理子先生の子分ではなく妹分なのかもしれない。
知り合いに有名人がいると人は自分まで偉くなったと思うようである。
たぶん日本最強の権力団体、宗教組織である創価学会はこの人間力学をうまく利用している。
コレクターの池田大作さんが海外から勲章をもらうと
自分まで偉くなったように誇らしく思うのが善良で権威に弱い学会員さんなのだろう。
とっても偉い池田さんの知り合い(弟子)である自分もまた偉いという理屈である。
自分もまた池田さんのようにドヤ顔で大勝利しようという勇気を池田さんからもらう。
これはそれほど悪い考え方ではないと思う。
むかし自分は宮本輝さんとゴルフをしたことがあるという女性を偉いと思ったものである。
この人は山田太一さんに仲人をしてもらったのよ、と聞いてその人を格上とみなしたものだ。
人はみなこういうものである。偉い人につながれば偉いと人から思ってもらえる。
たまに詐欺にも利用されることがあるので(ハロー効果)、
そこだけは気をつければあとは問題がない思考法だ。
わたしもどうにかして偉い有名人とお近づきになりたいものだ。
ただし新井一とかいう大して有名でもないマニュアル商売人はまったく偉いと思わないので、
偉ぶっているそのお嬢さんは大嫌いだ。あんたは厚顔だ、謙虚になれとむかし叱られた。
絶対的真理など存在せず、あるものはそのときの真理だけではないかと思う。
自分の書いたブログ記事でさえ、去年のものはいまとは考えが変わっている。
どうして削除しないのかといえば、だれも自分になんか興味を持たないと思うからだ。
こんな過疎ブログの過去ログをお読みくださる方がいらっしゃるとは、
いくら傲慢で厚顔、世間知らずで未熟なわたしでさえ期待できないことなのであります。
いまはもう関連記事をすべて削除したが、
今年、むかし(15年前ですぞ!)の知り合いというエリート銀行員から
匿名でブログのコメント欄にて喧嘩を売られた。
たしか、その喧嘩を売られた記事は5、6年前に書いたものだった。
いまとはぜんぜん違う考えに嘲笑的な批判をされても正直困ってしまう。
人は一貫しているという勘違いはわたしもふくめて普遍的なものではないかと思う。
ぶっちゃけ、たとえば10年前に書いたことを批判されても、
どうしたらいいのかわからないのが書き手というものだろう。
つまり、それはそのときの真理だったということだ。
むろん、この短文もおなじことになります。
他人の評価をやたら気にしている人が多い(むろん吾輩もである……吾輩はパンダだが)。
それは人として(日本人として?)当たり前のことなのだから、
どうしたら他人の評価など気にならなくなるのだろうと悩むのがそもそもおかしい。
みんな全員だれもが(日本人ならばおそらく)他人の評価がたぶんもっとも気になる。
わが国流行の日本文化論はまさに他人の評価を過剰に気にしている証だろう。
そうだとしたら、他人の評価ばかり気になるのを苦悩するのがおかしいことになる。
あなただけではなく、みんな全員だれもが外見上はそうは思えなくても
本音のところでは他人の評価をうじうじ悩んでいることになるのだから。
生涯、他人の評価にぐでぐで拘泥(こうでい)するのが当たり前なのだと思う。
唯一、他人の評価から抜け出せる裏道があるとすればそれは快楽ではないか。
快楽というと、人はみな性欲や食欲、アルコール、ドラッグを想起するのかもしれない。
しかし、快楽は人それぞれではないかと申し上げたい。
ある人にとっては下らないものがべつの人にはまたとない至上のものとなるのが快楽である。
快楽といえば一般的に思い出されるセックスでたとえれば、
同性愛、被虐愛、加虐愛、幼児愛、少年愛、少女愛、熟年愛、死体愛、
寝取られ妄想、レイプ妄想、痴漢妄想――なんだっていいのだ。
わたしがいまのところもっとも快楽を感じているのは、
ものを書くことによる表現充足である。
書くことが快楽ならば、他人から評価されなくてもそれ自体で充足していることになる。
ただし読まれるという行為をもって書くことは完結されるから、
読まれなくてもいいというわけではない。
だから、こんなつまらぬ文章をお読みくださる貴方様への感謝が尽きないのだろう。
どうもありがとうございます。これは偽善ではなく本音でありまする。
名探偵ふうに言ってみよう。ははーん、そういうことだったのか。犯人はきさまか。
いろいろな謎が解けたような幼稚で未熟な錯覚にいまひたっている。
どうして数万円のギャラでAV女優になるバカがいるのかわからなかったが、
あれは他人の評価を求めての行為だと解釈したら了解できなくもない。
「きれいだよ」「かわいいよ」と女優待遇を受けるのはそれだけ気持がいいのか。
承認欲求なんて言葉を使うといまふうだが、要するに他人の評価を渇望しているのだろう。
なんで奴隷薄給のライター風情があたかも「いちおう東大です(笑)」のように誇らしげに
「いちおうライターやってます(ドヤ)」なんて言うのかの理由もわかった。
物書き仕事の注文は他人の評価にほかならないからなのだろう。
駆け出しライターは「原稿が」「締切が」「脱稿した」などと他人に言うときがいちばん楽しい。
これは端役でテレビドラマに出演が決定した底辺役者の誇らしさに通じよう。
どうだ、どうだ、どうや、どやどや、どやねん。
多くの人のなかからほかならぬ自分を選んで仕事を依頼してくれた人がいるんだぞ。

これはナンパの興奮に近いのかもしれない。
ナンパについていく女は多くのなかから自分が選択されたと思い上がるのだろう。
他人の評価が得られたときに一般的に人は舞い上がるものなのだろう。
他人の評価ほど嬉しいものはないのに我われはなかなか他人を評価しようとしない。
ネット掲示板やブログなどネガティブな評価、つまり否定や批判ばかりである。
ある大御所脚本家がなぜ同業者をあれほど過剰にほめまくっているのか少し理解できた。
他人の評価くらい人間にとって嬉しいものはないのだろう。
ならば、欠点をあげつらうよりも作品のよいところを指摘したほうがよほどいいではないか。
皮肉を言えば、あれは他人の評価に恵まれた人気作家だからできることなのかもしれない。
我われの人生でもっとも大事なのは他人の評価である。
にもかかわらず、なにゆえ我われはもっと他人を評価しようとしないのだろう。
とはいえ、うまく他人を評価するのもまた難しいのである。
そのうえ金銭がからむ仕事の場合は、みなを平等に評価することはできない。
せめて仕事以外の趣味では、もっと他人を評価したいものである。
自分が他人の評価を得たいために、
作戦として他人を評価するのはちょっと違うと思うけれど。
そして小声でつぶやくが、他人の評価がうざいときもあるのがまた人間というものである。
「他人の評価」でググるとパンピーによる否定的な意見ばかりヒットする。
いわく、他人の評価なんて気にするな。わが道を行け、みたいな。
これはほんとうにそうで(検索してちょ)他人の評価を肯定している意見はめったにない。
しかし、「他人の評価を気にするな」はいわゆる建前、綺麗事というやつではありませんか。
本音は、内実は、他人の評価こそすべてというところが人生にはあるのではないか。
むろん、いくら願っても他人の評価はみながそろって得られるものではないけれど。
せいぜいブランドもので身を飾ったり、
イケメンの彼氏を友人に自慢するくらいが凡人の限界だ。
女ならば有名会社勤務でなくても、エリートの妻になることでも偉くなれるからお得だろう。
プーに近い男がNHK勤務の女房を持っていてもあまり誇れるものではない(逆にみじめ)。
婚姻関係ではなく、ただ有名人と知り合いであるという事実は他人の評価の最たるものになる。
有名作家から本を献呈されたら飛び上がったように喜びネットで自慢したほうがいい。
なぜならそれはだれもがうらやむ得がたき他人の評価なのだから。

一般的に見栄えがするほど、つまり偉くなればなるほどいいとされているが、
偉くなったらなにが困るかといったら、
よけいに他人の評価を過剰にこれでもかと気にしなければならなくなるところだ。
テレビ局社員が盗撮などやらかしたらたいへんだろう。
人気作家の講演会に行くと、
聴衆の質問に答える彼の腰の低さに毎回どこまでやるのかと驚く。
偉くなればなるほど「偉そうにしやがって」という他人の評価(評判)が怖くなるのだろう。
出世すればするほど倍増しに他人の評価にガチガチに縛られ窮屈になるのではないか。
だが、それでも人生でいちばんたいせつなのは他人の評価になるのだろう。
このため他人の評価を気にしない、
いわば人生を捨てたロックなやつ(きちがいともいう)がときに輝いて見えるのだろう。
捨て身で生きているやつは見ているぶんにはおもしろいが、だれも関わりたくないと思う。
最後に他人の評価を抜け出すヒントを書いておこう。
他人の評価を超越するものは快楽である。
快楽に夢中になればそのときだけ他人の評価を忘れることが可能だ。
人目をあまり気にしないほうだったのである。
このため、人から嫌われることも少なくなかった。
俗にいうところの自分勝手、ジコチューというやつだろう。
お世辞も社交辞令も断じてうまいほうではない。
だからだろうが、相手の気遣いや思いやりにも無頓着なところがあった。
建前の称賛を真に受けてしまうような世間知らずのお人好しのところがかなりある。
どうやら多くの人は、他人からどう見られるかをもっとも気にしているようだ。
見栄えのいいものにどうしてもこだわってしまい、そんな自分に嫌気が差す。
たぶんうちのブログの読者さんは、
自分とは正反対のこちらを珍獣でも見るような思いで観察してくれているのではないか。
実際につきあいたくはないけれど、
遠くから見ているぶんには、ときとしておもしろみがないわけではない。

みなさんは正しいですよ、と申し上げたい。
程度問題だろうが、わたしも人目をもっと気にしたほうがいいと思い直した。
しかし、他人の評価ほど思うようにならないものはないのである。
どれだけ人目を気にして自己を抑制していても他人から評価されるとはかぎらない。
わたしは他人からの評価とはまったく縁がない人生を歩んでいるが、
これは決して自己を解放しているからではなく、たぶんよほど幸運なもの以外は、
そもそもだれもが他人の評価はなかなか獲得できないのではないか。
だとしたら、たいがいの人にとって晴れ舞台は結婚式くらいなのであろう。

結婚している人は偉いと思う。
ひとりの異性から人生のパートナーとして選択された、
つまり他人から最大限に評価されたというのはもっと誇ってもよいのではないか。
もう結婚はあきらめているためもあるが、既婚者への尊敬は増すばかりである。
みんなの評価、すなわちもてるもてないと結婚は最終的に関係ない。
ことさらもてなくてもひとりの異性から評価されたらおそらく結婚はできる。
とはいえ、それがどれほどある種の人たちにとっては難しいか。
たとえ名もない呑んだくれのDVおっさんでも結婚しているのなら立派であると思う。
この記事をお読みの既婚者のあなたをわたしは尊敬する。
青臭い人生論をどこまでも青臭く、つまり青年気取りでアイロニカルにぶっぱなすと、
生きる目的はいかにどれだけ他人の評価を得るかにあるのではないか。
我われはほとんど他人の評価を得るためだけに生きているようなところがある。
あらゆる仕事が他人の評価を得ないことにはありつけない(就職面接、転職面接)。
もてるもてないは、異性からの評価が問題とされているわけだ。
結婚というのは、
どれだけの格を持つ(地位、容貌)相手から人生で評価されたかという証明になる。
よく知らないが、婚活でも就職面接のように自己PRをするのでしょう?
どれだけ自分が他人に評価されているか(年収、肩書)をうまく相手に伝達しなければならない。
他人から高い評価を得ているものほど婚活市場でも引手あまたになることだろう。
新人賞の選考でも一次、二次、三次と審査(他人の評価)を経て、
選考委員からもっとも高く評価されたものが受賞の栄誉を勝ち取るわけである。
ではなぜ選考委員が偉いかといったら彼(女)は過去に他人の評価を得ているからである。
選考委員の受賞歴や読者からの人気は、とどのつまり他人の評価にほかならない。

要するに、人生でいちばん重要なものは他人の評価になるのではないかと思うのである。
繰り返すが、人生でもっともたいせつなのは他人の評価ではないか。
わかりやすくいえば、自分の評価ではないということだ。
他人の評価は自分の評価とは異なる。
自分がいくら自分を評価しても(自己承認、自己愛)、
そんなものはだれも評価してくれないのである。
この世でいい思いをしたいのならば、他人の評価に徹底的にこだわらなくてはならない。
他人が評価しているものを腐すなんていうのは論外なのである。
多くの他人が評価しているいま人気のものは、いうなれば人生の正解のひとつなのである。
バカにするなんてとんでもない話で、謙虚にそこから学ぶのが本道になろう。
このとき自分の評価などいったいなんになるのか。
自分なんてものは可能なかぎり捨てて、他人の評価に忠実になったほうがよほどいい。
いま世間で上位におられる方々は、それだけ他人の評価を得ているのである。
彼(女)がなによりも気にしているのは他人からの評価(評判)だろう。

ビジネスでもっとも重んじられる信用とは、他人の評価の質のことである。
有名人のご子息やご令嬢ならば、それだけ信用は高くなるのである。
知り合いに有名人がいれば(有名人は他人の評価を集めているから)、それは信用になる。
何度でも繰り返し強調したいが、人生でもっとも重要なのは他人の評価だったのである。
どうしてこの年齢までだれもが知っているこんな常識に気づかなかったのだろうか。
ならば、合理的な努力とは他人の評価を得るための行為ということになろう。
考えるべきことは、いかにしたら他人の評価を少しずつでも得られるかだ。
そのためには多くの他人から評価されている人や仕事、作品から学習しなければならない。
いま売れているものや人はやはり参考にすべきものをたくさん持っているのである。
有名な人にお近づきになれれば、そのぶんだけ他人の評価を獲得することができる。
格上の人に評価されたかったら、どこまでも尽くす、奉公する覚悟が必要だ。
評価もギブ&テイクでまずこちらから差し出さなければならない。
こちらが評価していない人が自分を評価してくれるなどあるはずがなかろう。
そうだとしたら、だれを評価したらいいのか。
いま現在、他人からの多大な評価を集めている人物や作品こそ絶賛すべきである。
自分の評価よりも他人の評価を重んじるのが賢い生き方である。
ようやくにしてある種の真理に気づいたが、あまりにも遅すぎるので幼稚な自分がいやになる。
いまわたしがいちばん求めているものは他人の評価である。ここに第一歩を踏み出す。
みなさん年末ジャンボ宝くじは買いましたか?
わたしは早々と購入してパソコンのまえに飾っております。
12月31日までいろいろ空想できるのですから、こんなにいい買い物はありませんよね。
よくインテリが訳知り顔で宝くじは確率的期待値を考えると損だから買うなと主張しています。
それは一面は正しいのですが、
本当に確率的に考えるとかならずしもそうとも言えないのですね。
宝くじのいちばんいい買い方は1枚だけ買うことです。
なぜなら1枚買おうが千枚買おうが高額当選する確率はかぎりなくゼロです。
ならば宝くじを買うのが愚かなのではなく、
大量購入するのが確率的に損なのだということになる。
宝くじはたとえ1枚買っただけでも千枚の購入者とほぼおなじ夢を見(ら)れます。
たったの300円で壮大な夢を買えるのですから、これははっきり言ってお得ですよ。
高額当選したらなにをしたいか?
これを考えるために宝くじは存在するようなものです。
もし1億円でも当たったら――(前後賞のない1枚で1億円が当たるのかはわかりませんが)。

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こんな青空の下で原価率最悪の宅配ピザでもつまみながらエビスビールをのみたいですね。
え、そんな小さな夢しかないの、と自分でもあきれてしまいます。
このとき、横にだれかいて一緒にビールをのんでくれたらどれほど幸せでしょう。
でも、そういう相手はお金では買えないのですね。
むしろ高額当選なんかしたら、どんどん人間不信が強まるような気がします。
しかしまあ、1億円はたしかに想像もできない大金ですが、
この金額で目の色を変える現代日本女性がいるのかどうかはわかりません。
年収1億ならば、人間不信になるほど女性が近寄ってくるのでしょうが。
ああ、高額当選したら上野動物園で売っている高い生ビールをたらふくのみたいですね。

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思いっきりピンボケですが上野動物園のパンダの写真です。
ぼくはヨンダだからお友達ですね。
あ、そうそう新潮社のYonda?キャンペーン、
もうすぐ終わるそうですよ(2014年1月24日当日消印有効)。
ぼくも早くあれを送らなくてはと思っているのですが、そういう手作業が大の苦手で。
文豪腕時計でもいただくつもりですが、
漱石(発狂)、芥川(自殺)、太宰(自殺)、川端(自殺)、
いったいだれのリストウォッチをもらえば幸福になれるんでしょうか?
幸福なんて考え方しだいだから、いつでもだれでも幸福になれるという胡散臭い説もあります。
今年いちばんいわゆる世間的な「幸福」を感じたのは――。

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ある人が誕生日おめでとうのケーキを自作してくれたんですね。
ある人なんていったら失礼でしょう。友達です。
いえですね、友達恐怖症のようなものがありまして。
というのも、友達ってこっちが友達だと思っていても
向こうはそうではないかもしれないわけでしょう。
しかし、こんなぼくちんのためにケーキを作ってくれる人が友達でないといったら、
神さまか仏さまにぶん殴られるような気がします。
たとえ1億円払ったって、こんなケーキは買えないわけですね。

後日談があります。このときパンダのハンカチを誕生日プレゼントにいただきました。
とても嬉しかった。
1ヶ月後の相手の誕生日にプレゼントのお返しをしようと思います。
しかし、さっぱり相手のことがわからないのですね。
池袋を1日中うろうろしたが、本当にまったく相手の喜ぶものがわからない。
もう知り合ってから4年にもなるというのにからきしわからない。
結局、丸一日費やしてプレゼントを買うことができませんでした。
このときわたしはお釈迦さまのごとくに悟りを開いたのです。
わたしはどうしようもなく他人の気持がわからない人間だ――。
こんな単純な事実をこの齢まで気づくことがなかったんですね。
考えに考えて相手の誕生日プレゼントは、
非売品のYonda?ブックカバー(夏フェアの未開封品)を差し上げました。
結局、パンダじゃねえか、おまえはどんだけパンダ(自分)が好きなのかって話です。

わたしは他人の気持がわからない――。この幼い悟りは大きかったですね。
だって、そうだとしたら他人が自分の気持などわかってくれないのは
当たり前ということなのですから。
めったなことに自分の気持なんて他人はわかってくれない。
なぜなら、そもそも自分からして他人の気持はおおよそ想像もつかないからだ。
これは今年最大の発見だと思います。
人によっては中学生でも気づく人生の真理のひとつでありますから、ひどく恥ずかしい。
自分が他人の気持を理解できないのに、
「あたしをわかって」も「こっちの身を考えろ」もないんですね。
一歩二歩三歩、どこかいかがわしい言葉である幸福に接近したような錯覚をいだきました。
人生で一度も聞かれたことがない質問のひとつは「好みのタイプは?」である。
そんなぜいたくを言えないのはむかしから自分でわかっていたが、周囲もそうだったのだろう。
いまどれだけ考えても、好きな女性のタイプが思いつかないのだ。
正直、高峰秀子や八千草薫のよさはまったくわからない。
女優で言うならば、「想い出づくり」の田中裕子がもっとも来る(なにが?)けれど、
いまはもういいご年齢だろう。
いままで一度も考えたことがなかったが、いったいどんな人が「好みのタイプ」なのか。
だれも興味がないことをひとり考えるのも孤独の愉楽のひとつである。
「変な人」が好きというのはむかしから一貫しているような気がする。
いびつな存在にときめいてしまうところがある。
決して「好みのタイプ」ではありませんが、
いまだに芸能界で残っているかたでたとえるならば――。
ギャル曽根の「白痴美」はよかった。
最近知ったが(遅すぎる!)、壇蜜の「慰み者」ぶりはええな。
いま無料動画で無鉄砲なカートの運転ぶりを見て、
あたかも元ヤンのようなアッキーナという人の「女豹」らしさにちょっと胸踊った。
まあ「好みのタイプ」など存在せず、小声で言うとだれでもいいのだろう。

むかしは瀬戸朝香のファンのようなことを書いていたが、いまはまったく興味がない。
好きな女性タレントで検索すると「お父さんのための」うんたらがヒットするのが悲しい。
マクドナルドのCMでキュンとしたエンクミはいまなにをしているのだろう。
観月ありさは同年で、ある事情で好きになろうとしたが、どうしても好きになれなかった。
あれは女に好かれる女なのかもしれない。
こうして書いていて気づいたが、たぶん有名人よりも名もなき女性が好きなのだろう。
自分の魅力をまだわかっていない女性がいちばん好きなところがあるのかもしれない。
たとえ自分は美人だと思っている性格の悪い女でも、
こちらにしか見えていない隠された美しさがあればそこに惚れることができる。
おいらはへたをすると斉藤由貴とか南野陽子の世代だからな。
ゴクミはきれいだけれども、まったくエロを感じさせない。
こうしておっさんになると、
一生逢えないような女優でもタレントでも異性に夢をいだけるのはいいと思う。
そういう存在がいたらせめて自殺しないからである。
AKBのファンもキャリーなんとかの愛好者も断じて軽蔑するつもりはない。
むかしは毎日のように本屋に通っていたけれど、
ふと思えば最近は、新刊書店に行くのは数ヶ月に一度くらいになっているような気がする。
数年前(?)によく目についたのは「銀座ママが教える~~」シリーズだ。
いまから考えれば、なにがなんだかわからない。
どうして銀座の酒場のママはそんなに偉いのだろう。
おそらく、有名な社長さんや作家先生、学者先生がむかしひいきにしていたからだろう。
しかし、なにゆえ現世の果報者が銀座にそうまであこがれるのかはよくわからない。
いまの神戸の大勝利作家も銀座が大好きなようなことをご著作にお書きになっていた。
いちばん苦手なところは銀座だろう。
用事で行くことがあってもなぜか毎回道に迷ってしまう。
こういうところに宿命のようなものが出てしまうのかもしれない。
銀座のママよりも、池袋のママ、上野のママのほうが好きだ(むろんお逢いしたことはない)。
世の男どもは本当は無名の自分のママをいちばん好きかもしれないのに、
どうして銀座のママが偉いことになっているのだろう。
そういうものなのだ。そういうものだ。
自分は綺麗事を嫌い本音を好むというスタンスで成功者として人生を渡り切った
山口瞳(故人・男性)という直木賞作家がエッセイでこういうことを書いていました。
いわく、葬式の規模を見れば、その人がどれほどの人物だったかわかる。
あまりの俗物ぶりにぞっとした記憶がありますが、真理といえば真理でしょう。
どれほどの肩書の人が参列したか。葬儀委員長を務めたのはだれか。
たしかに葬式にその人のすべてがあらわれるのでしょう。
女は男よりも肩書を気にしないという話もありますが(たしかにそういう面はあります)、
キャリアアップした最近の女性様はかならずしもそうでもないような気がしますけれど、
これが絶対的真理かどうかはわかりません。
大人の男同士はどうしようもなく名刺(肩書)なしではつきあえないというのは真理でしょう。
酒場でも公園でもなんでも、まず最初に相手の肩書を知らないと言葉を交わせない。
名刺交換しないと、なんの話をしたらいいのかわからない。
このため、肩書勝負ではない女性に救いを求める男もかつてはいたのだと思います。
いまはどうだかわかりませんけれど。
有名人の講演会に行くと、質疑応答でやたら自分の肩書を延々と主張する人が多いです。
そういうものなのでしょう。たぶん、まだ男よりも女のほうがましなのでしょう。
善悪はどうあれ、人生は肩書競争マッチであるということはかなりの真理だと思います。
脚本の聖地といえばまず表参道でしょう。
ここは名門のシナリオ・センターという学校があるらしく、
又聞きですがこのスクールに通えばだれでも脚本家になれるとえらい評判です。
それから溝の口も隠れた脚本聖地なんですね。
なぜなら日本でいちばん偉い脚本家のY先生のご自宅があるからです。
むかしから安い安いと嘆かれる脚本料で家を建てた人など日本で千人いるのでしょうか。
たぶん千人はいないと思います。せめて百人くらいはいると思いたいところです。
以前もY先生のご自宅のせめて外観だけでも文化財の一種として拝見したいと
ひとり社会見学ツアーを企てたことがあります。
ストーカーのようなファンですから住所くらいはなんなく調べがつきます。
でも、ダメだったんですね。

このたび再度、溝の口に行く用事ができましたから今度こそと思うわけです。
どうやらグーグルマップとマピオンでは違う地図が出てくるようであります。
以前はグーグルマップを参考にしたから行き着かなかったのでしょう。
今回はマピオンです。地図をプリンターで印刷して備えました。
しかし、土地勘がなくわからない。
男子高校生に道を聞いたら信じられないほど親切に教えてくれました。
溝の口はうちの近所などと違って文化水準、教育水準が高いのでしょう。
そういえば近所では当たり前の携帯をしながらの自転車運転も
溝の口ではまったく見かけませんでした。
高校生がありがたくも教えてくれるには、まず踏切を渡る。

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それから小川をたどっていけばいいはず。
川が途切れたところに目指すべき聖地はあるのではないかと当たりをつけます。
だが、しかーし、今回も聖地を巡礼することはできませんでした。
一軒、一軒、表札を見ながら歩くのが怪しいのは言うまでもありません。
そのうえ日が暮れてしまったのです。
真っ暗であります。これでは表札も見えません。

131204_1701~01

こんな時間なのにこの界隈は犬の散歩をしておられるご婦人が結構おられます。
犬をお供に連れたご婦人はいまにも通報するような目でこちらをうかがってくるのです。
暗闇のなかではよほど近づかないと表札なんて見えません。
もしこの怪しげな不審者を見て職務質問しない警察官がいたら税金泥棒でしょう。
またもや溝の口、脚本聖地巡礼をあきらめたのはこのためであります。
どうでもいいことですが、なぜか犬に吠えられることが多いので怖かったこともあります。
お得意のひねくれた性分を生かし、
あえて見ないのもいいと酸っぱいブドウ理論を発動させました。
見ないほうが想像がふくらむからいいではないかと自分をごまかしました。
聖地巡礼を断念して溝の口駅方面へ向かう途次、激安スーパーのOKを発見。
溝の口にもOKはあったのか。
Y先生はいまだに庶民的な経済感覚をお持ちのようですから(蕎麦は高いらしい)、
Y家の買い物はもっぱらOKかなァなんて想像しながら楽しみます。
でも、OKは安いだけでまったく人情味がないから、ほかのところで買うのでしょうか。
あたまのなかでY先生のドラマ音楽を繰り返しリピートしながら、
そんな想像をするのもファンにはたまらないひとときなのであります。
Y先生の講演会後、OKで買い物をして帰宅しました。
12月4日、溝の口の高津市民館大ホールに山田太一さんの講演を聞きに行く。
川崎市立図書館の主催する読書普及講演会の一環でお題は「今ここで生きているということ」。
冒頭の図書館お偉いさんのご挨拶によると、
11月8日の予約受付開始日に600席すべてが埋まってしまったという。
いくら無料でも山田太一さんの人気と川崎市民の暇人ぶり(失礼!)には恐れ入る。
以下、講演内容を当方の記憶している範囲で個人的な備忘のために再現しますが、
むろん禁止されている録音はしていないため正確性にはまったく自信がありません。
以前の講演会でお話しになったことと重複する内容は簡略化、
あるいは文意が通じるときには省略する場合がございます。
それから個人的判断で公開しないほうがいいと思ったことも割愛いたします。
まったく完全なる再現とは程遠いことを、なにとぞよくよくご了承ください。

――今日は雨が降るという話もありましたが、どうやら降らなかったようで。
こうして多くの方にお集まりいただき、ありがとうございます。
図書館の主催ですから、本の話をしてほしいということでしたが、
私は高校から大学にかけて現実がいやで本に逃げ込んでいたところがあります。
逃げ込んでいたのは本だけではありません。映画にも逃げ込んでいた。
友達に逃げ込んでいたという部分もあるでしょう。
その点、なまなましい社会と接触していないという思いがありました。

その後、大学を卒業して映画会社の松竹に入社します。
いまでも覚えている強烈な体験がございました。大阪にロケに行ったんです。
線路の上から貨物列車を撮影する。その線路は貨物列車だけ走るというもので、
もちろん時代が時代でしたから石炭で走るんですね。夜のロケでした。
こうしてこう(身ぶり)こっちから貨物を撮る。
そっちは(身ぶり)だから映らないように人払いをします。
しかし、カメラの後ろはぎっしり見物がいました。
いまとは違って当時映画は大人気でしたから、それは大勢の見物がいます。
僕なんか下っ端だから見物の整理のようなことをやらされるわけです。
で、上から言われたんですね。あと10分で貨物が来るから見物をどかせ。
え、これはたいへんなことになったと思いましたですね。
あと10分で貨物が来る。そうしたら見物人はみんな轢かれちゃうじゃないですか。
僕は大慌てして見物人に向かって言います。
「あと10分で貨物が来るから土手のほうへ行ってください」
声が届かない。もうどうしようかと思って叫びました。
「あと10分で貨物が来ます」

すると見物のなかにいた怖いお兄さんが僕にからんでくるんですね。
胸倉をつかまれたでしょうか。怖いお兄さんは言うんです。
「よそから来てなにを言っている」
それから「ぶっ殺してやる」とも言われましたね。
僕は怖くなって逃げる。貨物どころではありません。逃げる。必死で逃げる(場内笑)。
怖いお兄さんは追いかけてくる。大阪の下町のほうでしたから路地に逃げ込みました。
行き当たりになったらどうしよう、なんてぶるぶる震えながら逃げました。
なんとか逃げおおせましてロケバスのところへ戻ると、
「おまえ、どこ行っていたんだ?」みたいなことを言われる(場内笑)。
僕のほかにも見物誘導の地元のバイトの人がいました。
「どうなりましたか?」と聞きます。そうしたら、こう言われたんですね。
見物はみんな地元の人だから、言われなくても貨物が来ることを知っている。
言われなくても、みんなわかっている。
それなのに、ほら、関西の人たちにとっては東京弁は異色でしょう。
東京弁でさも知ったかぶって、「あと10分で貨物が来ます」とやったから、
「東京もんがなに言ってやがる」と怖いお兄さんは怒ったのでしょう。

テレビのドキュメンタリーでタイの線路の上で売る市場を見たことがあります。
線路のうえにずらっと地元の人が市場を作っていて、列車が来るとさあっと片づけるんです。
で、列車が通過したらまた野菜やら果物やらを持って線路の上が市場に戻る。
ここに日本人が現われて「もうすぐ列車が来るぞ」なんて叫んだらバカみたいでしょう。
これとおなじことなんですね。
当時、その大阪のロケで僕は妙に深刻に思いましたですね。
本ばっか読んでいるとこういう勘が鈍くなる。俺はなにも知らないな、なんて(場内笑)。

撮影所はいろいろな人がいるんですね。
俳優さんは、まあ顔がよければ、あ、顔だけじゃダメか(場内笑)。
とにかく俳優さんは演技がうまければ学歴なんかぜんぜん関係ありません。
いまのようにキャリアがどうのという世界ではないですから、
大道具やライトさんは、それだけを地道にやって来たという人が多かったです。
東大出の人から、それこそヤクザめいた人までいました。
おなじ下っ端同士で照明部の人と仲良くなったんです。
びっくりするくらい誇り高い人でしたね。
照明の話しかしないんですが、コンプレックスがない。卑屈になるようなところがない。
あるとき彼から「メシ食いに来いよ」と誘われました。
そういうことは経験したことがなかったのですが、断るのもあれだと思いまして。
へえ、人の家にご飯に呼ばれることなんてあるのか。
横浜のほうへ住んでいたんですね。新婚夫婦でとてもよかった。
僕は独り身だったんですが、ああ、こういう夫婦がいるのかって。
新婚だから当たり前なんでしょうが、自然にお互いを愛し合っているんですね。
若奥さんはつつましく家計簿をつけていたんですが、そういうところがとてもよかった。
ふたりとも質実さと真面目さが感じられ、そしてどちらも相手を愛していることを隠さない。
かといって、ベタベタしているわけでもないんですが、とても気持がよかった。
ああ、すごい人がいるなと思いましたですね。

志摩の海女(あま)がいる村に1ヶ月スタッフとして行ったことがあります。
助監督です。海のなかにもぐって、こう上から飛び込んでくる海女さんを撮るわけです。
べつのところ、千葉のほうで役者さんが飛び込むのも撮影していて、
ここの海女はスタントマンのようなものです。
海女はみんな屈託なくて明るいんですね。僕にはなんだか新鮮でした。
というのも、大学ではグダグダみんなそろってひねくれたことを言っていましたから。
ああ、こういうまったく別の世界があるんだなって。
エイを撮影したりもしましたね。こんなゴムのエイが松竹から送られてきていて。
それから女の人形を海に沈ませるということもやりました。
でも、やってみるとその人形は海に浮かんじゃうんですね。
どうしたらいいのかって、泥をつめたらどうだろうかという話になる。
そのためにはナイフで穴を開けなければならないから、
こう、こうして僕がナイフを持って、ぐさっと女の人形を刺しました(場内笑)。
こういう作業をしているとき、海女の人がたくさん集まってくれるんですね。
からかわれたりもしましたが、僕のために焚火(たきび)をしてくれます。
若い僕は思いましたですね。
なんでこの人たちはお金も払っていないのに、こんなに親切にしてくれるんだろう。
深い意味はなく、たんに物珍しかっただけかもしれませんが(場内笑)。

五反田の駅で撮影したときのことも忘れられません。
駅に女が立っていて、電車からざーっと人が下りてくる。
しかし、逢いたい人は来なかったというシーンです。
カメラのテストをします。
すると、どうしても乗客は珍しいからカメラのほうを見ちゃうんですね。
下っ端助監督の僕は、「おまえ、どうにかしろ」って言われました。
いまでも覚えていますが、ひとつまえが大崎広小路という駅なんです。
「そこからおまえが乗って、乗客みんなにカメラを見ないように言え」
冗談じゃないよ、そんなことできるか、と思いました(場内笑)。
いくらまえの駅から僕が言ったって、そんなのどう考えても無理でしょう?
もう会社を辞めちゃおうかな、なんて思った(場内笑)。
でも、やりました。その電車は二両くらいしかないんですね。
大崎広小路から僕が乗って、乗客にお願いしてまわりました。
「いま松竹で映画撮影をしていますから、次の駅で下りる人はカメラを見ないでください」
みんなうんともすんとも言わないんですね。うなずいてもくれない。
これはもうダメかと思ったら、どうなったか。ちゃんと聞いてくれていたんです。
五反田で下りる乗客はだれもカメラのほうを見ませんでした。
ああ、自分は、その、ものを知らないオタクのような人なんだと思いましたですね。
もちろん、当時はオタクなんていう言葉はありませんでしたが。
それから大丈夫かとも思いました。
だって、僕が松竹の人間だからみんな言うことを聞いてくれたわけでしょう。
会社のちからはすごいというか、そんな松竹の言うことだからってみんな従っていいのか。
これでいいのか。この国は大丈夫か。危ないんじゃないか(場内笑)。
そんなことも考えました。

書物、本の世界から抜け出そう、抜け出そうとしていた時期がありました。
話は飛びますが、天野忠さんの詩にこういうものがあります。
「生まれつき私は物事を深く考えることができない。
そのためか長生きしているのだろう」
そうか、と思いましたですね。なんだ、考えなきゃいいんだ。そういう生き方もあるんだ。
というのも、当時の時代風潮として、なるべく複雑に考える、ということがありましたから。
天野忠さんの詩がとても新鮮に感じられました。
もちろん、天野忠さんはなにも考えないような人ではありませんよ。
こうして考えてみたら、「古池や蛙飛び込む水の音」というのもそうですよね。
まったく考えていないというか、だからなんだというような(場内笑)。
蛙がぽちゃんと池に落ちた。それがいったいなんなんだ?
たくさんの蛙が一斉にどぼんと飛び込んだんだという説もあるみたいですけれど。
しかし、「古池や蛙飛び込む水の音」――。
まるで主義や主張がない。にもかかわらず、感動のようなものはある。
また天野忠さんの詩ですが、こういうものがあります。
夕方の公園で自分の横を、
5つくらいの男の子と2つくらいの女の子が手をつないで歩いていた。
兄妹だと思う。
通り過ぎたときに、男の子のほうが、しんどいわと言っていたというんです。
はじめてのお使いだったんでしょうかね。
妹の面倒を見るのはしんどい、なんて5歳の男の子が言っている。
なんでもない光景です。しかし、それでいいんだとも思いますですね。
むしろ、そういうものを手放してはいけないのではないか。

吉野弘さんの詩にこういうものがあります。
「日々を慰安が吹き荒れる。
慰安がさみしい心の人に吹く。さみしい心の人が枯れる」
慰安というのは、このとき吉野さんが見ていたテレビのことです。
テレビでは慰安が笑いささやきあっているが、本当にそれでいいのだろうか。
心の中の切実なさみしさ、人に言えない悩み、深いかなしみ――。
そういうものがテレビの慰安でまぎらわされてしまう。
いまは3時間のテレビ番組とか多くて、
見はじめたらあっという間に3時間が経ってしまいます。
コマーシャルのところでは、次に重大発表が、なんてあおりますでしょう(場内笑)。
上っ面だけの慰安で、本当のさみしさ、辛さ、かなしみを忘れてしまう。
もちろん天野忠さんの、なにも考えないから長生きできるんだ、というのもそうなんです。
けれども、会社からくたびれて帰ってきてテレビを見ながらビールをのんで寝ちゃう。
こういう生活を続けていると、もっと深いものがほしいと思うのではないでしょうか。
そうではないものがほしい。上っ面の慰安ではないものがほしい。

また吉野弘さんなんですが、こういう詩があります。
吉野さんがテレビで見たと言うんです。
耳の聞こえない両親のもとに、耳が聞こえる娘さんが産まれた。
このため、ずっと声や音に関することは娘が手話で両親に伝えていました。
あるとき、父が娘にこう尋ねたというんです。
たまたまそのとき、太陽がさんさんと輝き日の光が部屋の中に差し込んでいた。
耳の聞こえない父は娘に質問する。「あれはどういう音なんだ?」
そういうものなのかって思いましたですね。
耳が聞こえないと、日が差す光景にも、雨が降るときのように音がすると思うのか。

(いきなり中断。なんでも長らくマイクに声が入っていなかったらしい。
当方は2列目に陣取っていたからまったく気づかなかった。
山田太一さんも混乱。たぶん、あたまの中が真っ白になったのだと思う。
なにを話していたかわからなくなったようでメモを見て、
いきなりまったく違うことをお話しになる。
――いや、そうではない。そうではなかったようだ。
いま考えに考えたら、ここまで言葉にならない感動について話していたのだろう。
たとえば太陽がさんさんと照るような幸福感は音ではないから手話にならない。
しかし、手話つまり言葉にならなくても、その感動はたしかに存在している。
言葉はピタリと対象を言い当てるものではない。
言葉とその示すものがきっちりイコールにならないのが、むしろふつうかもしれない)

あの津波のとき、しきりに絆(きずな)という言葉が使われましたね。
絆はちょっと違うだろうと思った人もおられたかもしれませんが、
じゃあ、だからといってほかに適当な言葉がないんです。
友達もそういう言葉でしょう。友達と言ったらなにか違うのだけれども、
ほかに言葉がないから、まあ友達としておこう。
でも、友達はなんか違うよな。友達と言ったら漏れるものが出てしまう。
しかし、友達としか言いようがない。
言葉がなにかずれているから、結果として本当のことからもずれてしまう。

僕の好きなポルトガルの詩人にフェルナンド・ペソアがいます。
彼がこういうことを言っているんですね。
「死は眠りだと言っているけれど、本当は死と眠りは違うだろう」
死は眠りのようなものだとよく言います。眠るように死ぬ。
眠っているのも死んでいるのも似ているから、そういうふうに言っておこう。
しかし、本当はそうではない。死は眠りではないですよね。
死を眠りと言ってしまったら現実から言葉がずれている。
でも、死は眠りのようなものだと思っていたら、どこか安心できるのではありませんか。
美空ひばりさんが歌っていましたでしょう。人生は川の流れのようなものと。
これなんかもそうですよね。人生は川の流れではないでしょう。
しかし、私の人生は川の流れのようなもので、
なんて言うと、なにかを語ったような気になる。わかったような気になります。
本当は違います。人生を川の流れと言ったらば、現実と言葉がずれてしまいます。
じゃあ、どうして私たちは、人生は川の流れのようなものと言うのか。
本当から逃げたいんでしょうね。私たちは本当のことから逃げ回って生きている。
恋もそうでしょう。愛もそうでしょう。
これは恋でも愛でもないけれど、恋や愛ということにしておこう。
とりあえず、ほかに適切な言葉はないし、恋や愛でいいではないか。
でも、本当に恋か。本当に愛なのか。こう考えるとやはり違います。
みんなで共同して恋や愛という言葉の嘘を守っているようなところがあるのではないでしょうか。

勇気をもらいました、なんて言葉もきっとそうなんでしょうね。
言うでしょう。スポーツ選手のがんばりから、勇気をもらいました。
ほかに適当な言葉がないから、みんなこういう言葉を使ってしまうのかもしれません。
本当は勇気なんてあげたり、もらったりすることができるものじゃありませんけれど(場内笑)。
私たちはそういう言葉を必要としているのかもしれない。
現実だけでは生きていけないのかもしれない。
むかしウサギは1羽、2羽と呼んでいました。どうして1匹、2匹ではないのか。
幕府が四つ足の生き物を食べるのを禁止していたんですね。
しかし、ウサギを食べたい。
なら、ウサギは飛ぶから、鳥のように1羽、2羽としちゃえばいいだろうという。
私たちはなまの言葉を使うことを怖がっているのではないか。
多くの言葉を違う意味で使っているのではないか。
偽物の言葉は本当のことを隠しているのではないだろうか。
いったい本当はどうなっているんだろう。なにが本当なんだろう。

杉山平一さんの詩に「繰り返し」をテーマにしたものがあります。
人間は繰り返すと言うんですね。
あるとき道に迷ってガソリンスタンドに行き当たる。
そのとき思い出すんです。ああ、3年前もここで道に迷ったなと。
ある駅で下りてお腹が空いたからご飯を食べようと思う。
駅前の食堂のメニューを見ると高いから、となりのうどん屋でいいかと入る。
うどんを食べながら、ああ、2年前もここでこうしてうどんを食べたと思い出す。
そのときもやっぱり食堂のメニューを見て高いからうどんでいいやと思った(場内笑)。
このように人間は内部になんだかよくわかんない限界を持っていて繰り返す存在だ。
これなんかは本当のことではないかと僕は思いますですね。

先ほどのフェルナンド・ペソアも似たようなことを言っています。
「人生とは、私たちが造り上げたなにかだ。どんな旅も、旅人たち自身だ。
私たちが見るものは、見られたものではなく、私たち自身でできているのだ」
どんな旅をしても、そこで逢ったものこそが自分自身なのだというのですね。
あなた以上のものと出逢うことはないだろう。
どんな人生でもその人の器量以上のものとは逢えないということです。
外国に行ったからといって華々しい体験などできはしない。
どのような旅をしてもあたたは自分自身としか逢えないだろう。
結局、外国に行っても自分自身と逢って帰って来るのだ。
そりゃあ、若くてまだ体験がほとんどなかったら、
旅で人生が変わるようなこともないとは言えませんが。
どうしようもなくおのれの持ち前の警戒心、言葉の不自由さ、ためらいなどに縛られるため、
外国に行っても所詮目に映るのは自分自身に過ぎないというのです。
かなり皮肉なものの見方なんでしょうが、これはひとつの真理ではないかと僕は思う。

本から離れよう離れようとしても、僕の場合、どうしても本抜きには生きられません。
むかし書いたドラマで吉野弘さんの詩を使わせていただいたことがあります。
会社で定年になって表彰式をしているんですね。
表彰式なんてものは決まり文句の洪水でしょう。
よく身を粉にしてこれまでわが社のためを思って一途になんたら。
(本当に)近いけれども、(本当とは)違う言葉ばかり使われるのが
定年の表彰式のような場です。そこにひとりが立ち上がってこう言うんです。
「たましいの話をしようじゃないか。諸君、たましいの話を」
これを言った男は直後にぶっ倒れてしまうのですけれど(場内笑)。
しかし、このように叫び出したくなる気持が私たちにもないでしょうか。
現実だけではいけないのではないかという気持がどこかにある。
なぜもっと深いものに近づこうとしないのか。
たましいの話をしていないから、すべてがどこかしら上っ面なのかもしれない。
これは吉野さんの別の詩なんですが、
「じゃあ、あんたのたましいの話ってなんだ?」と応じる作品もあるんです。
「たましいの話をしようじゃないか」と言っている人に、
「あんたのたましいの話はなんだ?」と聞き返したら答えられないという(場内笑)。
正確にはたましいではなく、希望でした。
「みんなが希望を持つのが私の夢だ」という人がいた。
この人に「じゃあ、あんたの希望はなにか?」と聞くと、答えられない(場内笑)。

いまは平和で豊かな時代だから、似た言葉でやっていけるのかもしれない。
ギリギリの時代ではないから、
決まり文句のような似た言葉だけでも生きていけるのかもしれません。
僕は戦争を経験していますが、ああいうときはギリギリの時代です。
空襲が毎日のようにありますから、明日どうなるかもわかりません。
食べるものもないし、薬もない。似た言葉ではダメで、なまの言葉が出てきます。
いまの日本は地獄ではないと思いますね。
いまの日本は生きがいがない、地獄だというようなかたもおられますが。
むしろ、いまの日本は天国なんじゃないでしょうか。
この先どうなるかはわかりませんが、
天国の時代が何十年かラッキーにも続いているのではないか。
むかしは本当に食べるものがありませんでしたからね。
燃料にするマキも山から拾ってこなければならなかった。
マキを持ってきても、まず米がないんですけれど。
同窓会で逢った友人に当時の僕は栄養失調みたいだったと言われたことがあります。

話を飛ばしまして、ハーンの話をします。小泉八雲、ラフカディオ・ハーンです。
ハーンの家に遊びに来る学生が複数いたそうです。
ハーンがゆっくり英語を話すと学生でもなんとか理解できたとか。
学生のためにハーンは高いお菓子を用意して待っていたと聞きます。
ある学生がハーンにお菓子をすすめられて
「私は結構です」と答えたという記録が残っています。
どうしてか。自分んちは家族が多いので、これから自立しなければならない。
そういうときに舌が肥えていては困る。学生はこう答えたそうです。
舌が肥えたら困る。こういうことを考える人もむかしはいたんですね。
もしかしたらほかの学生が、すすめられたからといって
節操なく高い菓子をむさぼり食うのがみっともなくていやだったのかもしれませんが。
ほかの学生を恥じらいがないと思っていたのかもしれません。
僕は、食べることは恥ずかしいと思っていますですね。
おいしいもののためなら飛行機に乗ってでも食べに行くというのは浅ましいと思う。
あまりにも恥じらいがないのではないかと思ってしまいます。
もっともこれは僕だけの問題で、
みなさんの中にそういうかたがおられても裁いているわけではありません。

「勇気をもらった」や「元気を出してください」は決まり文句です。
本当からは、ずれている言葉です。
「元気を出してください」と言われたからって元気が出るものではありません(場内笑)。
元気が出ればいいのかもわからない。
永井荷風が晩年のエッセイでこういうことを書いています。
自分の人生は総じてつまらないものだった。彩(いろど)りというものがまるでなかった。
しかし、もし多少なりとも彩りがあったとしたら――。
それはさみしいときだった。それはかなしいときだった。
いまはプラスとマイナスをあまりに単純化して考えすぎているのではないでしょうか。
プラスならばいい。進歩や合理化はプラスだからどんどん進めていけばいい。
新幹線はさらにさらに速くなればいい。
家電なんかもいまは矢継ぎ早に新商品が発売されますでしょう。
なにもできる。かにもできる。まったく生活に不都合がなくなっていくような勢いです。
しかし、プラスの反対のマイナスはそんなに悪いばかりでしょうか。
かなしみのようなものはそうまでして断乎として排除すべきなのか。
たとえば、いまはガンでも手術すれば治ることが多いです。
ガンを経験したことがのちに財産になるようなこともあるのではないでしょうか。
失恋や失業は、そりゃあ、その当座はたまらないでしょうね。
しかし、あとになってみたら、
潤(うるお)いや懐かしさに変わっていることもありませんか。
こう考えたら、いまのマイナスは非常に豊かなものを持っているのではないか。

ワープロが出はじめた当時、ワープロの手紙を送ってくる人がいました。
僕はそういうのをてっきりダイレクトメールかと思って読まないで捨てていました。
あるとき、私信でもワープロを使うのだと知って驚きましたね。
僕なんかはいまだに手書きで原稿を書いています。
手書きの文字というのは情報の宝庫ではないでしょうか。
まず相手の知能がわかるでしょう(場内笑)。
いや、字のうまいへたで知能まではわからないか。
でも、知性くらいならわかるんじゃないかな(場内笑)。
男か女か、若いか老いているか、というのも手書きの文字ならばわかります。
私たちは手書きをしなくなったことでどれほどのものを失ったのか。
僕は本の病(やまい)にかかっているようなもので、
いつも数冊探している本がありました。
たまに神田に出て探したりするのが楽しかったですね。
しかし、いまはアマゾンですぐに買えてしまう。
もう本を探すドキドキした興奮を味わえないんです。
いざ、そういう本を買ったら読まないんですが(場内笑)。
アマゾンのスピードは文化の敵とまで言ってもいいのではないでしょうか(場内笑)。

むかし「男たちの旅路」というドラマで車椅子の人の話を書きました。
身障者は人に迷惑をかけるなという風潮が当時あったのですが、
迷惑をかけてもいいんじゃないかというドラマです。
車椅子の人は(階段で)周囲の人に「持ち上げてください」とお願いしてもいいのではないか。
ドラマ放送後、実際にそのような親切が各地で行われたという話を聞きました。
しかし、いまはどの駅にもエレベータがあるから親切もなくなってしまうんですね。
エレベーターを使えよって話になるわけですから。
テレビで見たんですが、ショパンのピアノで小さく弾くところがあるらしいです。
けれども、会場が大きいと観客に伝わらない。
このため、微妙な音を大きくしなければならなくなって曲が変わってしまったと聞きます。
これもテレビで見たんですが、劇作家の本谷有希子さんが言っていました。
むかしは小劇場でやっていたから微妙なセリフが伝わったけれども、
大会場でやるようになってからうまくいかなくなってしまった。
本谷有希子さんがアメリカのストリップ劇場を訪問するという番組を見ました。
女性が羽でこう、こうやって(身ぶり)裸を隠すというストリップです。
本谷さんが焦らしのストリップの演出をすることになります。
というのも、アメリカのストリップは体操のようにやるから恥じらいがないんですね。
どうしたらストリップ嬢が恥じらいを持つかと本谷さんは考えるんです。
そこで貧乏のため家から売られてストリップ劇場に来たという設定にしたらどうか。
本谷さんはそう提案しますが、うまく行かないんですね。
いくら行為で表現しようとしても気持に恥じらいがないから観客に伝わらない。
それに劇場が大きいですから、小さな恥じらいなんてだれもわからないんです。

マイナスを改良していくうちにマイナスのよさがなくなってしまう――。
先日ポール・マッカートニーが来て、いまもいるのかな?
僕もポール・マッカートニーは好きですよ
70歳を過ぎているのに4時間も歌ったというんですごいなと思ったんです。
人から聞いたんですが、あれは口パクなんですってね。
70過ぎて4時間も歌えるはずがないだろうって。
ぜんぶ口パクじゃないらしいです。ところどころ本当に歌っているらしい。
でも、口パクなのに盛り上がっている観客はバカみたいじゃないですか(場内笑)。
まったく油断も隙もないと思いますですね。
老いたら新発売の商品は買わないと決めてしまうのもいいと思います。
いろいろ新しく発売されますが、ほとんど必要ないじゃありませんか。
むかし川崎のほうでは地震があると、
「いま地震がありました」と行政の車でアナウンスしていました。
地震があったのに地震があったって伝えてなんになるんですかね(場内笑)。
必要ないじゃないですか。
ゲーテ(?)が「いつもおなじですみません」というような詩を書いています。
「愛はいつもおなじです」だったかな。
(このあたりは異常に早口でよく聞き取れず)

(NHKの「漂流老人」で身よりのない胃ろうの人が
質問に答えて「まだ生きたい」と言ったのを聞いて衝撃を受けたという話は、
以前の講演会でもお話になっていたからここはさすがに省略)

決まり文句の反対にあるのが本だと思います。
でも、本なんて肝心なときにはまったく役に立ちませんが(場内笑)。
本当に読書は悪徳だと思いますね。
いまは若い人が本を読まなくなったというじゃありませんか。
では、どうしていまの人たちは本なしに教養を身につけているのだろう。
どうやって人生を深めているのだろう。
ジョージ・スタイナーが「いまの人は音楽で教養をつけている」
といったようなことを書いていたんです。
へえ、そうなのか、なるほどと僕は思い当るところが多かったですね。
来年の2月、2年前のあの津波を扱った僕のドラマがテレビ朝日で放送されます。
(最後は精根尽き果てもう話すことがないという感じでした)

☆  ☆  ☆

*2時間の講演会で30分以上時間が余ってしまったのであとは質疑応答。
いい機会なので、こういうところで手を挙げる人の鬱陶しさを紹介してみましょう。

女1(30代)
私は大学院で宮沢賢治を研究している。大学は向田邦子とおなじだ。
大学で講師もしている。私の指導のおかげで生徒も生原稿のよさに気づいた。
どうだ、私もすごいだろう、という演説をしていた。だれも興味がないのにな。

男1(しわがれた声だったから爺だろう)
車椅子がどうのと山田太一さんにわけのわからない喧嘩を売っていた。
出世と一生縁のなかった老人の「俺を舐めるなよ」は聞いていて物悲しい。
この人、なにしにここに来たんだろう。まあ暇で金がなく、話し相手もいないのだろう。
こういうときに人間が残酷なまでに不公平であることに気づかされる。
みんなからチヤホヤされる作家がいる一方でだれにも相手にされない老人も生きている。

女2(団塊世代)
やけに馴れ馴れしいキンキンした声で自己紹介をしていた。
有名人をあまりに好きなために自分の友達のように勘違いしてしまうタイプだろう。
典型的なおばさんのデリカシーのない口調に悲鳴を上げたくなる。
山田太一さんが話すのを何度もさえぎって自分の意見ばかり言うので閉口した。
団塊世代の夫婦の話を恋を絡めて書いてくださいとお願いしていた。
自分にしか興味がないのがまったくかわいくないおばさんで困ってしまう。

男2(姿形は見ていないが声からすると高齢者)
新聞で聞きかじったような放射能のガレキ問題について正義漢ぶって演説していた。
いいか、おまえは壇上にいるが、客席のおれだって一家言あるんだからな。
長々とおまえの話を聞いてやったんだから、少しはおれの話も聞けよ。
人生で恵まれなかった老人に極めて多い「俺を舐めるなよ」タイプに分類されよう。

山田太一講演会で質問する手合いをタイプ別に分類すると――。
男(先生だかなんだか知らんが俺を舐めるなよ)
女(有名な先生が大好きだからあたしを見て、あたしの話を聞いて)
足と時間を使って実地で調べた結果、これがいちばん多いような気がする。
意地悪でごめんなさい。

(編集後記)
最後にしつこく繰り返しますが、
録音していませんので講演会の内容が正確かどうかはわかりません。
注意しながら入念に避けたつもりですが、
うっかり自分の言葉を入れたところも絶対にないとは言い切れません。
このことをここに何度も何度も断っておきます。
間違っている箇所がございましたら完全に当方の聞き間違えが原因です。
それからここまでお読みくださり、
こちらの骨折りを多少なりとも評価してくださったかたにひとつお願いがあります。
いまや大人気でチケットが入手困難の山田太一講演会(少しバブルっぽいですよね)。
もし都内近郊で開催されるのを事前にご存じのかたがいらしたら、
お手数でしょうがこっそりコメント欄やメールで教えてください。
「ドラマ・ファン掲示板」は覗いています。

聞き手:土屋顕史(Yonda?)

(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3260.html
渋谷駅から外に出るときにうまくICカードを通さなかったみたいなんです。
なんだか自覚がありました。
田園都市線に乗り換えて溝の口に行きたかったのですが、改札でカードが拒否反応。
駅員さんに言うしかありませんよね。
ところが、そのスペースにはバックパックを背負った白人旅行者が4人のさばっている。
男3人、女1人の白人旅行者グループです。
国籍なんかわかるはずはありませんが、全員オーストラリア人のような気がしました。
駅員さんはひとりしかおらず、慣れない英語で接客しています。
いつまで経っても終わらないんですね。
路線の相談をしているらしいのですが、エクスペンシブだのなんだの内輪で盛り上がっている。
これが白人の日本旅行の楽しみかたなんでしょうかね。
いつまで経っても彼らの雑談と駅員への相談は終わりません。
しきりにエクスペンシブ(高い)を連発している。

こちらはずっと待っていますが、終わる気配がありません。
どうせ通じないだろうと思って、日本語で「貧乏人が」と吐き捨てたんです。いやなやつですね。
この言葉が通じたのが驚きました。
白人男性がものすごい目でこちらをにらんできましたから。
ようやくわたしの存在に白人様がお気づきくださり旅行相談は終わりましたとさ。
相手は4人だから喧嘩になったら負けますので、それ以上やばい日本語は言いませんでした。
みなさんご存じないでしょうが、言葉は国境を越えて伝わるものです。
異国で怒るときも日本語で怒ったら相手にこちらの感情が通じます。
インド、東南アジア、中国などを日本語で旅している人を何人も見かけました。
厚顔なおばちゃんなんて日本語で本当に現地人と会話できていましたから。
なまじっか外国語を話そうとすると、たとえば詐欺に遭ったりするのだと思います。
結論は旅行のために外国語の学校に行くくらいだったら、
喜怒哀楽をうまく表現する練習をしましょうってこと。
わたしの「貧乏人が」のように軽蔑感情までうまく表現してしまうと、
へたをすると殴られるかもしれませんので要注意であります。
ひでえ接客をされるときの店員は決まってブスやブサイクなんですね。
美人やイケメンの接客が悪かったことは驚くくらいありません。
非難したいのではなく、その気持がわかりすぎるほどわかるから、やりきれないのです。
ブスだってイケメンが客なら対応が変わろうし、ブサイクが美人を接客したときも同様。
怒りをぶつけたいのではなく、そういうものなのだという事実の提示であります。
美人やイケメンはまず、日常のささいな接客からして優遇されるから心が汚れません。
心が汚れていないから、相手を分け隔てなく親切にすることができるのです。
もちろん、接客だけではありません。
未熟な人生体験しか持ち合わせぬものの、
幼少期からこれまで出逢い別れてきた人たちを思い返すと「顔の汚れは心の汚れ」は真説。
イケメンほどいいやつが多くみんなから人気があります。
女からももてるからイケメンは人に屈折した思いをあまり抱きません。
美人は性格が悪いなんてブスが流したデマでしょう。
くだらぬ人生経験でも美人ほどイケメン、ブサイクといった男性差別をしません。
たぶんイケメンも美人、ブスを分け隔てなくやさしく接するのではないでしょうか。
いまは「ブサカワ」(ブサイクかわいい)という言葉があるようです。
これはブスやブサイクのことなので、新平民のような屈辱的存在でありましょう。
しかし、「ブサカワ」も一理あります。
人間はきれいなものだけを愛する存在ではないということです。
汚れにも美を感じる人がいる。光よりも闇にひかれる通人(悪趣味)がいないわけではない。
ならば、性格の悪いブスやブサイクも自殺しちゃいけません。
ちょっと自分を励ましてみました。
恋愛後の求婚のセリフとしてかつて一般的だったのは、
「ぼくがきみを幸福にしてみせる!」だったのではないかと思う。
その勘違いと傲慢と過剰な自信がうらやましい。どれだけ自分が見えていないのだろう。
自分が多少見えていたら(めったにおられない優秀な御仁は別ですが)、
ぼくなんかと結婚するよりよほどもっといい人がいるのではないか、と思わないのか。
いや、こんなことを考えてしまうのは、
悪性遺伝子を両親からふんだんに継承したぼくだけなのだろうか。
絶対にないがもし子どもなんかできたら、発狂や自殺、
ひどかったら犯罪をして人様にご迷惑をおかけするのではないかという恐怖で身震いする。
怖いもの見たさでいったいどうなるんだという興味はあるがまったく現実味のない空想だ。

プロポーズの前段階の告白からしてわからない。
どうして世の男どもは、
自分よりもよほどいい男があまた存在するという歴然たる事実に目をつぶるのか。
なにゆえ相手の女性のことを思いやって、
自分となんか交際しないほうがいいという結論にいたらないのかまったく不思議である。
告白なんかしたら、貴女は自分なんかと釣り合う程度の存在と告知しているようなもので、
ならばだとしたら愛する相手にとって失礼極まりない話ではないだろうか。
よしんば自分なんかが告白なんかしたら、
相手の女性を傷つけてしまうということに想像が及ばない男の自信はどこか気味が悪い。

しかし、専業主婦全盛時代なら(いまはそうではないが)プロポーズも意味があろう。
貴女にいろいろ金銭的、時間的、感情的、体力的な奉仕をしますからどうか結婚してください。
見せかけのプロポーズの本音が
「ぼくは貴女のATMになります」ならば男の求婚は価値がある。
だが、それは恋愛などとはまったく関係がないだろう。
このときプロポーズは契約開始の証文になろう。
こんなことを書くとどれだけ女嫌いかと思われるかもしれないが、
考えてみたら人生でやさしくしてくれたのはいまのところ男よりも女のほうである。
身もふたもないことを言えば、甘えているだけなのだと思う。