今日、新宿区某所で横を救急車がサイレンを鳴らしながらやけにゆっくり通り過ぎていった。
角を曲がったらテープで現場が保護され、数人の警察官が立っている。
上を見るとビルの6、7階の小さな窓だけが不自然に開いていた。
コンクリートには落ちたらしき箇所がテープで示されていた。やったなと思う。
あの高さで果たして目的がかなえられたのかどうか。
飛び降りはよほど勇気がないとできないのだから、うまくいってくれていることを願う。
しかし、どんな高さから飛んでも生きるときはたまたま生きてしまうのだろう。
よくだれかが自殺したときに友人や知人が、
へたな役者のようにことさら大仰に悲しみを強調しながら、
そんなに苦しかったのなら相談してくれていたらと嘆くのはどこか噓くさい。
それは死んだあとだから言えるのではないかという疑惑をぬぐいきれない。
もし実際に相談に行っていたら、「仕事が忙しい」といやな顔をされたかもしれない。
「みんな苦しいんだ。がんばろう」とお説教された可能性もある。
「あんたも羽振りのいい時期があったよな」
とぼそっと言われていなかったとだれが断言できようか。

自殺する人が知り合いに相談に行かないのは、その人を思っての部分も多いだろう。
迷惑をかけてこれ以上親しい人を失いたくないから逢いに行かなかったのではないか。
もし自分が希死念慮(死にたい!)を持つ人に依存されたらどれほど厄介か。
それがわかるからあえて相談しなかったとはどうして考えないのだろう。
落ちぶれてから同窓会やクラス会に参加するものは極めて少ないと思う。
だれだって自分のみじめなすがたを知り合いに見られたくないのではないか。
「相談に来てくれていたら」と嘆く人はどこかおかしい。
もし困った知り合いが逢いに来ていたら自分は助けられていたと思うのだろうか。
ひとりの人を救うためには、ときになにもかも投げ出さなければならない。
そのうえ相談直後に自殺されたらどれほど当人は自責の念をいだくことか。
ならば、いまのようにご無沙汰のまま自殺されたほうがよかったことにならないか。
ほら、おかげで自殺した人はきれいな思い出のままで残っているではないか。

果たして自殺はとめられるものだろうか。
生きていたらそれだけでいいのだろうか。
死んだほうがいいという人も世の中にはいるのではないかという思いを払拭できない。
だから、いまもって死刑があるわけではないか。犯罪被害者(遺族)は、
自殺未遂経験のある加害者にあのとき死んでくれていたら、と思うものだろう。
たとえば少女に性犯罪をしてしまうような人は、
周囲のためにも本人のためにも可能ならば早めに自殺したほうがいいのではないか。
矯正不能なおかしなやつは早めに自己処分させるのも一手とは考えられないか。
人力や努力ではどうにもならない治しようもない病気(ビョーキも)はあると思う。
自分が決定的におかしいとわかったら、厚顔に人様のお荷物になるよりも
いさぎよくおのれの生命を断念したほうがいいのではないか。
もちろん、生きていたらなにが起こるかわからない。
生きていたらどんなことだってあると思いたい(信じたい、かもしれない)。
しかし、生きていたらよけいに悪化することもまたあるのは事実である。
だが、人生はままならず自殺しようといくら挑戦しても未遂に終わることもあろう。
断じて思うようにならないけれど、
思いも寄らないこと、思いがけないことが起こるのも人生だ。

あらゆる人に対して自殺したらいいとも、生きていたらいいとも、どちらとも思わない。
ただ自殺願望の持ち主から依存されるのだけは正直しんどい。
かりにそういうご縁があったら宿命として引き受けるしかないのだろう。
その人にはたとえるならば前世でお世話になったのかもしれない。
もしかしたら来世でご厄介になるのかもしれない。
三世因果説でも用いてあきらめるほかないような関係がこの世にはあるような気がする。
腐れ縁と呼ばれているやつである。
三世にわたる腐れ縁があると思えばこそ人の温情にすがれるという面もあるのだろう。
わっからないな、もう。