かつて敗戦国民コンプレックス丸出しで「日本には神がいない」
と大騒ぎした福田恆存という西洋きちがいの文芸評論家がいた。
いまでも一部でマニアがいるようだが、じつは福田さんは仏教のことをまるで知らなかったのだ。
日本には西洋の神さまはたしかにいないが、
東洋の仏さまがいることにからきし不勉強なインテリ評論家先生が
むかしは舶来品の威光を借りていろいろ高みから論じていた。
「神がいない」異常事態に大慌てしていた福田さんの愚かさがあわれで仕方がない。
どうして彼の目には「オイディプス王」のようにまったく仏が見えなかったのか。
福田恆存さんはたまに庶民派アピールをしていたが、たぶんあれは嘘だったのだと思う。
ほんとうの庶民なら「因果を含める」という言葉にどうして気づかなかったのだろう。
「因果を含める」とは説得してあきらめさせるという程度の意味。
仏教の三世因果説が前提になっている言葉だと思う。
あなたがこのように不幸なのは前世のためだからあきらめなさいという日本古来の説得法だ。
「後生が悪い」という庶民の言葉にも西洋かぶれの福田さんは出会ったことがなかったのか。
「後生が悪い」とは来世の生まれがよくなくなるから、
そういうことはおやめなさいという説得法のひとつである。
この国には神さまはいなかったが、仏さまはいらしたという証拠である。
たとえ神がいなくても「後生が悪い」から日本人はそうそう悪いことができないのである。
かなりの不遇にもかつての日本人が辛抱できたのはおのれに「因果を含め」ていたからだ。
むかしは西洋の代弁者になることで偉ぶれたのだろう。
そろそろそういう悪しき習慣はやめてほしいものだが、
いまは「因果を含める」も「後生が悪い」も知らない人のほうが多いのではないか。
いまもって福田恆存のような人がある種の人たちの神になっているゆえんである。
無学な庶民「どうしてこんなことが起こったのか? なぜうちの子は死んだのか?」
科学者「それは確率的に起こりえないことです」
庶民「でも、こうして起きているじゃないか!」
科学者「統計上はありえないんです」
庶民「だが、いまおまえさんの目にも見えように起きている」
科学者「起きないはずのことなんです」
庶民「起きていないか?」
科学者「……」
庶民「この現象はおまえさんにも見えるよな?」
科学者「だから、起きないんです、本来なら」
庶民「目は開いているか?」
科学者「……」
庶民「これが見えないのか? はいかいいえで答えろ」
科学者「……はい」
庶民「見える?」
科学者「……はい」
庶民「なぜ起こったのか?」
科学者「統計上確率的には起こりえないことなんです」
庶民「しつこい! こうして起こっているじゃないか」
科学者「しかし、合理的な判断からはその現象の発生は予想できません」
庶民「だが、起こっている」
科学者「はい」
庶民「どういうことだ?」
科学者「……」
庶民「どういうことだ?(怒鳴る)」
科学者「正直、わかりません」
庶民「わからない?」
科学者「はい」
庶民「優秀なあんたにもわからないのか?」
科学者「はい」
庶民「わからないのか?」
科学者「……はい(泣いてしまう)」
庶民「わからないのか……」
科学者「はい(泣いている)」
庶民「あんたが悪いわけじゃない。泣くな」
科学者「はい(泣きやまない)」
庶民「わからないのか(ようやく涙が出てくる)」
科学者「わかりません(泣いている)」
庶民「わからないんだな。わからなかったんだ(号泣する)」
苦しめられているものに新しい言葉を与えることで楽になることもなくはない。
結局、言葉に苦しめられたり言葉に救われているのが人間なのだろう。
さて、我われはコントロー・ルイリュージョンに苦しめられているのではないか。
いぜん認知心理学の本を読んだときにポジティブ・イリュージョンという言葉を知った。
我われはみなポジティブなイリュージョン(幻想)を持っているのではないかという仮説だ。
みな自分のことを実際以上に高く評価している。
自分の将来には確率の低い不幸は起きないだろうという幻想を持っている。
自分が選んだ商品はほかのものよりよいものであるという錯覚を持つ。
以上のような自分にまつわる錯誤が認知心理学でいうところのポジティブ・イリュージョンだ。
ポジティブ・イリュージョンのおかげで我われはうつ病にならずに済んでいる。

同様に我われはコントロール・イリュージョンを持っているのではないだろうか。
たとえば、自死遺族が苦しまなければならないのはコントロール・イリュージョンのせいだ、
ということもできなくはないのである。
人生はコントロール可能だという幻想を持っているがために自死遺族は苦しむ。
もしあのときああしていれば愛する家族は死んでいなかったという錯覚に苦しむのだ。
だれもが自分の人生を自分が築き上げてきたという錯誤を抱いている。
よほど先のない後期高齢者以外は、将来をある程度コントロールできると思っている。
そして、それは認知のゆがみではないかというのがコントロール・イリュージョンだ。
実のところは、人間は人生をまったくコントロールしていないかもしれないではないか。
我われが成功者の自信たっぷりな自慢話を好むのは、
コントロール・イリュージョンが満たされるからとは考えられないだろうか。

もしコントロール・イリュージョンがなかったら人生に対して完全なる無力ということになる。
この無力感は自堕落や捨て鉢な反社会的行為につながりかねない。
このため社会全体である種の戦略として、
コントロール・イリュージョンを保持しているのではないか。
そして、我われは自分たちが作ったコントロール・イリュージョンに苦しまされる。
人生の失敗者は確率的にかならず一定割合存在しなければならないが、
彼(女)ら落伍者たちは自分のせいでこうなったのだと過剰に苦しまなければならない。
自分の人生はコントロール可能なのだから、よくないのは自分のせいだという理屈だ。
自己嫌悪に耐えられず親や社会を執念深く恨むものもいるだろう。
この苦しみがコントロール・イリュージョンゆえだとわかれば苦しみは軽減される。
もしかしたらだれがあなたの境遇でもあなたのような人生になったのかもしれないのである。
もし成功者があなた(わたしもここに含まれる)の役を割り当てられていたら、
あなた(わたし)のような凡庸でつまらない人間になっていたとは考えられまいか。

我われは相当にコントロール・イリュージョンに毒されていると考えてみたらどうだろう。
建前として官僚や政治家がなにかをしなければならないのはわかるが、
少子化対策、雇用対策、安全対策、健康対策はコントロール・イリュージョンの産物である。
コントロールできると思うから対策を取るのである。
もしかしたら対策を取らなかったほうがよくなるのかもしれないが、
コントロール・イリュージョンに毒されているがために税金を使ってよけいなことをする。

婚活ブームもコントロール・イリュージョンゆえであろう。
もしかしたら婚活をしなかったら、
好きな趣味の世界でたまたまいい配偶者とめぐりあっていたかもしれないではないか。
しかし、まさしくコントロール・イリュージョンのせいで
努力しなければいい結婚はできないと思い込んでしまう。
だいたい婚活なんてする人は非常にコントロール願望が強いと思うが、
打算的な婚活をするから結婚できないことに苦しまなければならないという面もあろう。
もしかしたら将来はコントロールの範囲内にないのかもしれない。
いままでの過去はコントロールしてきた結果ではないのかもしれない。
だが、なにゆえか、なかなか我われはコントロール・イリュージョンから抜け出せない。
常になにかしていないと落ち着かないし、他人を出し抜こうという邪心を捨てきれない。
老後の不安を考えてコントロール・イリュージョンゆえに株の勉強などをして大損する。
対策を講じればかならずなにかがよくなると盲目的に信じている。
少なくとも対策を行わなかったときよりはよいだろうと錯覚している。
AとBのうちAを選択してしまったら、
もしBの場合どうなっていたかは絶対にわからないにもかかわらず、である。

合理的な選択はかならずしも正解ではない。
合理的な選択とは、統計上確率的にそうしたほうがいいとされる行為のことだ。
しかし、まさに合理的な選択をしたせいで不幸におちいることもありうる。
非合理的な割に合わない選択をしたほうがいい場合もある。
だが、コントロール・イリュージョンゆえに我われはなかなかそう思えない。
人はみなもしもっと人生でなにかをしていたら、
いまよりも人生がよくなっていただろうという錯覚を持つ。
怠惰や無為が嫌われるのはコントロール・イリュージョンのためであろう。
コントロール・イリュージョンのために負け組は苦しみを倍加されている。
コントロール・イリュージョンのせいで勝ち組は謙虚や謙遜を失う。
もしかしたらすべて神の采配ではないかと思えば、
忌まわしきコントロール・イリュージョンから抜け出すことができるのである。
いま不安でたまらないのはもしかしたらコントロール・イリュージョンのせいかもしれない。
常になにかしていないと落ち着かないのはコントロール・イリュージョンのためだろう。

ネットで検索すれば、目的地までの最短経路が出てくる。
これがコントロール可能ということだが、たしかにいまコントロールできるものは多い。
宅配サービスで時間指定がここまでできるのは少し恐ろしいような気もするけれど。
だがしかし、人生に最短経路はあるのだろうか。人生で時間指定はできるのか。
人生は日本の電車や宅配便ほどに正確に運行するものであろうか。
コントロール・イリュージョンは人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか。
「すべては神の御心のままに」という古臭い呪文は、
あるいはもっともよく効く精神安定剤や抗うつ剤なのかもしれない。
いまカントファンの中島義道さんがネットで人生相談をなさっている。
まったくもうほんとうに人生相談には人間の闇がいろいろあぶりだされてくるのでおもしろい。
そもそも他人に安易に人生相談をもちかけるのはどうなのかという問題がある。
まず偉い人にしか人生相談をしないという権威主義はどうなのか。
だれも落ちぶれた叔父さんには人生相談に行かない。羽振りのいい人のところに行く。
もしかしたら人生で「負け」を多く経験しているほうが博識かもしれないにもかかわらず。
他人に決めてもらおうという甘い態度も問題ではないか。
人生相談は自分で徹底的に考え抜くことを拒否した指示待ち、
つまり受け身の姿勢が前提にある。
自分の人生なんだからもう少し自分で考えたらいいのではないか。
人生相談を受けるほうのおごりもなんだかいやだ。
自分は人生をわかっているという傲慢が透けて見えていやらしい。
人生相談者への断定的な回答は新興宗教の教祖的ないかがわしさを感じる。
だって、相談者のことをほとんどなにも知っていないでしょう。
対面ならまだしも書面での人生相談なんてするほうもされるほうもどうかしている。
親戚の子どもだってほんとうのところはなにも知らないのではないか。

どうして「こうしたらいい」なんてことが言えるのだろう。
他人のみならず将来のこともわかる人はいないと思う。
「こうしたらこうなる」はたぶんだれにもわからない。
それは神仏のみぞ知る世界だ。人間が手を出してはいけない。
とはいえ、人生相談は良好な人間関係維持のための必需品だ。
上司に人生相談するのがうまい人ほど出世が早いのではないか。
自分に人生相談をしてくれた部下はかわいいと思うのが人間というものなのだろう。
おれもなかなかのもんじゃないか、とほくそ笑む上司は人間味があってよろしい。
先輩後輩関係も人生相談で成り立っているような気がする。
たぶん人生相談がうまい(するのもされるのも)人がコミュニケーション能力の高い人だ。
上手に相手に人生相談をお願いしたら気に入ってもらえる。
偉くなればなるほど相談相手がいなくなるから、インチキ占い師が繁盛するのだろう。
周りが敵だらけの偉い政治家先生が占い師に依存しているという噂はリアルである。

人生相談でいちばん難しい回答は「わからない」だろう。
身もふたもないことを言えば、大学生でも人生相談に答えられるのである。
だれでも(自分ならぬ)他人のことはよく見えるから、人生相談はだれにしてもいいのだろう。
そして、だれでも責任がないならば他人の人生相談に「正しい」答えができよう。
人生相談はアリバイという意味合いもあるだろう。
「なんであのとき相談してこなかったんだ」と怒る人もいるからである。
おそらく人生相談の答えで比較的上質なのは「わからない」だと思う。
相手の言うことを親身になって聞いてあげて、なおかつ「わからない」と答えるのは難しい。
だが、もっとも誠実なのは「わからない」なのかもしれない。
「わからない」を維持できる人は偉いと思う。
どこまで「わからない」をわかっているかで、その人の深さや浅さがわかるような気がする。
人生を見る目の度合は「わからない」にかかっているのではないか。
とはいえ、「わからない」を保っているのは苦しい。
年を取れば取るほどわかったふりをしたくなる。またわかったような気がしてくる。
それでも「わからない」と言える人こそ信頼に足るのだと思う。
なにがいいのか、なにが悪いのか、どうしたらいいのか、いけないのか「わからない」――。
人間の限界は、自分の人生しか知りえないことである。
にもかかわらず、人生で体験したことを普遍的に当てはまることだと錯覚してしまうところだ。
「自分がこうだったんだから、他人もそうだろう」という思い込みから逃れるのは難しい。
どうしてか、そうじゃないかもしれないとはなかなか思えない。
どんなことでも起こりうるということに想像が及ばない。
俗に言うところの成功をおさめた高齢者ほど始末が悪い。
自分は人生をわかったと思ってしまうからである。
本来はだれもわからないはずの人生を、だ。
大成功したもののなかには私財を投げ打ち、
田舎に自分を教祖とする共同体をつくって大勢の若者に説教する先生がおられる。
自分はいいことをしていると思っている。
彼がなによりも好きなのは人生指南(人生相談)だ。
他人の人生をコントロールするのが楽しくて仕方ない。
他人を支配するのは楽しい。他人を指導するのは楽しい。他人に命令するのは楽しい。
なぜなら自分は偉いということが露骨に示せるからだ。
自分は人生の答えがわかったと思っている。
このため自信たっぷりにたとえば北海道で若者に農作業をやらせる。
別解があるとは思えない。
なぜなら自分の出世した人生は正しく、ならば自分は他人を導く使命があると思ってしまう。
おれは間違っていない。おれの言うとおりにしたら間違いはない。
おれはすべてわかっている。人生相談はおれにまかせろ。なんでもおれに聞いてくれ。
説教が大好きな大物脚本家の彼はむかし血縁の少女から芸能界に入りたいと相談された。
果たしてそのときの彼の答えは正しかったのだろうか。
もう余命少ないだろう愛煙家で東大卒の男はこれからも偉そうに説教しつづけるのか。
彼は正直にいまになって人生がわからなくなったと白状しないのだろうか。
ぼくはまだ人生がわからない。最後まで死ぬまでわからないだろう。
死ぬ少しまえまで、こうだったのかという発見があるのではないかと思う。
そうでないかもしれない。わかったと思うときが来るかもしれない。わからない。わからない。