娑婆(しゃば)っ気全開でだれが儲けているのだろうと考えてみる。
いまやネットのせいでほぼ存在意義がなくなったアングラ裏雑誌を読んで、
いまのAV女優の薄給ぶりに悲鳴を上げそうになった。
個人の尊厳もなにもかも明け渡しさらけだして、たったそれだけの報酬なんですか?
むかしのAV女優はかなり稼げていたことも知る。
あらゆる業界で飽和点に達したら経済的には終わるのかもしれない(生きがいは残るが)。
一番乗りしたやつがたぶんもっとも儲けられる。
むろん儲かればいいわけではなく、付随していろいろ不如意が出てくるだろうけれど。
一番乗りが大儲けして飽和点に達した段階で終わるというのは、
かなりの分野で共通していることのような気がする(ライター、コンビニ、風俗、激安全般)。
あの世界もこの世界も一番乗りが大勝ちして二番煎じはそこそこなのでまだいいが、
時間経過とともに最後は悲惨にも食えない奴隷状態に近くなってしまっている。
一番乗りをするためにはどうしたらいいか?
よくわからないが、おそらく真似をしないことだろう。
ほんとぜんぜんわかっていないが、マイペースもときには一番乗りになるのかもしれない。
最初にやったやつが大儲けして末端になるほど損がかさむのはネズミ講である。
もしかしたらあらゆる経済行為がネズミ講に近似しているのかもしれない。
間違っている可能性も非常に高いから、やはり人の真似をしているほうがいいとも思う。
今日、新宿区某所で横を救急車がサイレンを鳴らしながらやけにゆっくり通り過ぎていった。
角を曲がったらテープで現場が保護され、数人の警察官が立っている。
上を見るとビルの6、7階の小さな窓だけが不自然に開いていた。
コンクリートには落ちたらしき箇所がテープで示されていた。やったなと思う。
あの高さで果たして目的がかなえられたのかどうか。
飛び降りはよほど勇気がないとできないのだから、うまくいってくれていることを願う。
しかし、どんな高さから飛んでも生きるときはたまたま生きてしまうのだろう。
よくだれかが自殺したときに友人や知人が、
へたな役者のようにことさら大仰に悲しみを強調しながら、
そんなに苦しかったのなら相談してくれていたらと嘆くのはどこか噓くさい。
それは死んだあとだから言えるのではないかという疑惑をぬぐいきれない。
もし実際に相談に行っていたら、「仕事が忙しい」といやな顔をされたかもしれない。
「みんな苦しいんだ。がんばろう」とお説教された可能性もある。
「あんたも羽振りのいい時期があったよな」
とぼそっと言われていなかったとだれが断言できようか。

自殺する人が知り合いに相談に行かないのは、その人を思っての部分も多いだろう。
迷惑をかけてこれ以上親しい人を失いたくないから逢いに行かなかったのではないか。
もし自分が希死念慮(死にたい!)を持つ人に依存されたらどれほど厄介か。
それがわかるからあえて相談しなかったとはどうして考えないのだろう。
落ちぶれてから同窓会やクラス会に参加するものは極めて少ないと思う。
だれだって自分のみじめなすがたを知り合いに見られたくないのではないか。
「相談に来てくれていたら」と嘆く人はどこかおかしい。
もし困った知り合いが逢いに来ていたら自分は助けられていたと思うのだろうか。
ひとりの人を救うためには、ときになにもかも投げ出さなければならない。
そのうえ相談直後に自殺されたらどれほど当人は自責の念をいだくことか。
ならば、いまのようにご無沙汰のまま自殺されたほうがよかったことにならないか。
ほら、おかげで自殺した人はきれいな思い出のままで残っているではないか。

果たして自殺はとめられるものだろうか。
生きていたらそれだけでいいのだろうか。
死んだほうがいいという人も世の中にはいるのではないかという思いを払拭できない。
だから、いまもって死刑があるわけではないか。犯罪被害者(遺族)は、
自殺未遂経験のある加害者にあのとき死んでくれていたら、と思うものだろう。
たとえば少女に性犯罪をしてしまうような人は、
周囲のためにも本人のためにも可能ならば早めに自殺したほうがいいのではないか。
矯正不能なおかしなやつは早めに自己処分させるのも一手とは考えられないか。
人力や努力ではどうにもならない治しようもない病気(ビョーキも)はあると思う。
自分が決定的におかしいとわかったら、厚顔に人様のお荷物になるよりも
いさぎよくおのれの生命を断念したほうがいいのではないか。
もちろん、生きていたらなにが起こるかわからない。
生きていたらどんなことだってあると思いたい(信じたい、かもしれない)。
しかし、生きていたらよけいに悪化することもまたあるのは事実である。
だが、人生はままならず自殺しようといくら挑戦しても未遂に終わることもあろう。
断じて思うようにならないけれど、
思いも寄らないこと、思いがけないことが起こるのも人生だ。

あらゆる人に対して自殺したらいいとも、生きていたらいいとも、どちらとも思わない。
ただ自殺願望の持ち主から依存されるのだけは正直しんどい。
かりにそういうご縁があったら宿命として引き受けるしかないのだろう。
その人にはたとえるならば前世でお世話になったのかもしれない。
もしかしたら来世でご厄介になるのかもしれない。
三世因果説でも用いてあきらめるほかないような関係がこの世にはあるような気がする。
腐れ縁と呼ばれているやつである。
三世にわたる腐れ縁があると思えばこそ人の温情にすがれるという面もあるのだろう。
わっからないな、もう。
学生時代は自分もそうだったから、どうのこうの言うのはおかしいのかもしれない。
だが、自分で調べない人というのは大きな損をしているのではないか。
自分で調べない人とは、なんでも他人に答えを聞けばいいと思っている人たちだ。
自分で考えられない人たちのことである。
むろん、かつてのわたしはまさにそうだったし、
いまのわたしがそれほど自分で考える力があるのかどうかも疑問である。
自分で調べない人たちの好むのがセミナーなのだと思う。
「聞いたらわかる」と思っているその庶民的な安易さはどうなのだろう。

話者の著作を1冊も読んでいないのに講演会にいそいそと行く人たちが一定層いる。
彼らが強く信じているのは「聞いたらわかる」という幻想である。
実際にセミナー参加後に内容を聞いたら、なにひとつ答えられないくせに。
きっと、なーんか知恵がついたような思いがして気分がいいのだろう。
自分で調べるのは面倒くさいが、偉い先生のお話を聞くことは好む。
なにひとつわかっていないのに多少文化的になったような満足感を得られるからだ。
最近思うのは、教わったことはほとんど身につかないのではないかということ。
自分で関心を持って時間をかけ学んではじめてものの見方が変わる。
自分が他人を変えられないように、他人も自分になにかを教えることはできない。
自分で学ぶしかない。具体的には本を読むということだ。
読むだけではなく、わかったかどうか自分の言葉でまとめてみることだ。

☆ ☆ ☆

耳学問を否定しているわけではないが、あれはどこか借り物の知恵のような気がする。
いや、借り物の知恵を持っていたほうが世渡りには強そうだから、
それでもぜんぜん構わないとも思う。
耳学問とは世間知、一般常識、処世の知恵のようなものなのだろう。
たぶん机上の学問よりもよほど耳学問のほうが役に立つ。
ならば、耳学問でいいのだろう。
わたしは学者先生よりも、読書が嫌いでセミナーや講演会を好む庶民のほうが好きだ。
それに「自分で調べろよ」は言ってはいけない禁句なのである。
気の短い庶民にこれを言ったら「教えてくれてもいいだろう」と逆に怒られてしまう。
知的コンプレックスの強い人に言ったら長期間恨まれるかもしれない。
なぜなら、かつて学生時代のわたしがそうだったからである。
わざわざ質問に行ってあげたのに「自分で調べろ」と言われたときは憤慨したものである。
質問を相手のためにしてあげた、と思うのが我われ庶民の特質なのではあるまいか。

セミナー嫌いのわたしだが、今日来月開催の無料講演会の参加予約をした。
例によってあの作家だが、毎回違う話をしてくれるのですごいなと思う。
ドラマ・ファン掲示板に書き込んでもいいけれど、そのうちだれかが書くだろう。
いくら無料でも土地柄もあり600人収容のあのハコが予約で埋まるとは思えない。
覗き見というと助平でどうしようもないイメージがあるかもしれない。
しかし、覗き見を言い換えたら本当のことが知りたいという欲求である。
隠されているものの裏側を知りたい。
ほとんど隠されているという理由のためだけに隠されているものの実体を知りたい。
隠されているものを見てしまったら、なーんだと思ってしまうのをなかば知りながらも、
にもかかわらず本当のことを知りたいと思う。
ヌーディストビーチはつまらない。
裏をちらちら見せながら、しかし肝心なところは見せない対象が望ましい。
人間にとってもっともたいせつなものは秘密だと思う。
秘密を持っていそうだから、存命死亡を問わず、その人を好きになるのではないか。
ある精神科医によると、精神の健康は秘密を保持できるかどうかだという。
たくさん秘密を持っている人はすてきだと思う。
ちらちら秘密をにおわせてくれたらもっといい。
セミヌードはいいが、ヌードになる女優はつまらない。
暴露本など出されたらたまったものではない。
若い哲学青年は生きる意味はあるのだろうか、などと悩むらしい。
いいおっさんになると、
そういう見かけだおしの悩みの意味はあるのだろうかと考えるようになる。
よくわからないが(一生わからないだろうが)、たぶん生きる意味はないような気がする。
しかしまあ、生きている楽しみも小指の先くらいならなくもないようにも思う。
なぜ生きるのか。覗き見精神、野次馬根性、嘲弄趣味のためといえなくもない。
この齢になってつくづく思うのだが、覗き見ほど楽しいものはそうないのではないか。
ちらっちらっと中身が見えるものを鑑賞する興奮よ。
野次馬根性もいいものである。いま生きているものにしか味わえないのが野次馬の愉楽だ。
野次るのもよろしい。
野次とは嘲弄、つまり人をバカにするということだが、みなさんそのじつお好きでしょう?
他人をバカにするのみならず自分をおとしめる自虐の快楽もまたおつなものである。
ネットにめずらしくも自分の悪口が書かれていると何度見返しても飽きない(ちょいウソ)。
高尚なんか捨ててしまえ、と思うのである。
もっと俗悪に娑婆(しゃば)っ気全開で生きようぜ、と励ましたくなる。
だれを励ましたいのか。まず自分である。けっこうまだまだ危ういような気がする。
それからこんなくそブログをお読みくださっているような方である。
生きる意味は、覗き見、野次馬、嘲弄――。
くれぐれも当方を覗き見したり、嘲弄の野次を送ってくるのだけはおやめください。
意味がない建前を押し通すという点では
三流高校の教師ほど象徴的な存在はいないのではないか。
本音をぶちまけるならば、学校で教わることの大半が役立たないわけでしょう。
買い物に困らない程度の読み書きや算数を教えてくれたら、それで十分すぎるわけである。
成功を金儲けと考えたら文字と計算さえ知っていたら、あとは野心と怨念だけでどうにでもなる。
べつにアルファベットを知らなくてもいいし、原爆投下の日にちを知らなくても構わない。
ならば、三流といわれる高校の先生になんの意味があるのだろう。
最低限の常識があれば、
教師はみんなこんなことを知っていても実社会で通用しないことをわかっていると思う。
それをわざわざ教えて覚えたかどうか調べることになんの意味があるのだろう。
ことさら円周率など知る必要はまったくないのである。
三流大学の教授先生も悲惨なものがあるのではないか(本音を申すと有名大学教授も)。
大学で教わることは高校教育課程以上にまったく価値がない。
経済学の教授は商売や株で大儲けできるのならしてみろよって話なわけだから。
ベケット研究の女性教授なんぞ、ぜったいにイケメンから相手にされないだろう。
ヒステリックでつまらなそうな女だと大半の男からは敬遠されるはずだ。
むちゃくちゃをいうと、高校や大学の9割をなくしてもいいのではないだろうか。
もしくはひたすら遊ばして学科など全員通過させればいい。
おっと、思い返してみれば母校の大学はそうであったから、理想は現実になっていたのである。
まずこれにご同意いただけるかが最重要問題です。
「多数派はバカばかり」をどう思うかであります。
反意語は「大衆は過(あやま)たない(庶民は絶対的に正しい)」でありましょうか。
多数派の庶民は正しいのか、低知能ばかりなのか、という問題でございます。
わたしは自分の愚かさの自覚があるため、後者を支持します。
自分を含めていわゆる大衆はバカばかりではないかという疑いを捨て切れない。
もしかりにそうだとしたら、大衆を操作しなければならない人はたいへんだなァと思います。
大衆からの人気をもっとも気にする商売のひとつにテレビ業界があります。
テレビ屋さんはうんざりするくらい
バカにレベルを合わせなければならないのではないでしょうか。
いくら年収が多く社会ステータスが高くても、あまり楽しくないのではないかと思います。
マスゴミなどと嫌われていますが、
いまのテレビ屋さんは常に愚昧な大衆からの批判を怖れる損な商売とは考えられませんか。
大衆相手の商売といえば政治家や公務員もそうです。
あこがれる人も多いのでしょうが、寿命を縮める気疲れの多い商売かもしれません。
当方が無学で愚かなためでしょうが、あんがい嫌われものの政治家先生は、
みんないい人ではないかという思いをいだくこともあります。
なによりわたしなどがどうでもいいと思っている「みんな」のことをありがたくも
考えてくださっているのですから(表面上だけかもしれませんが、それでもえらいのでは)。
そう考えていくと、医者や弁護士もそれほどいい商売ではないような気がします。
どの職業もそういう面がありますが、医者や弁護士は当人が成績優秀なだけに、
バカを相手にしたときの辛さがひとしおのように思います。わかりませんが。
賢い(?)多数派の庶民連中(わたしも含む)は、なぜだかある職種を悪人と決めつけます。
ほんとうはどうなんでしょうかね、と思うのであります。
もしかしたらもっとも俗悪なのは我われ庶民なのかもしれません。
彼らは我われよりもよほどいい人たちなのかもしれない。
かつて敗戦国民コンプレックス丸出しで「日本には神がいない」
と大騒ぎした福田恆存という西洋きちがいの文芸評論家がいた。
いまでも一部でマニアがいるようだが、じつは福田さんは仏教のことをまるで知らなかったのだ。
日本には西洋の神さまはたしかにいないが、
東洋の仏さまがいることにからきし不勉強なインテリ評論家先生が
むかしは舶来品の威光を借りていろいろ高みから論じていた。
「神がいない」異常事態に大慌てしていた福田さんの愚かさがあわれで仕方がない。
どうして彼の目には「オイディプス王」のようにまったく仏が見えなかったのか。
福田恆存さんはたまに庶民派アピールをしていたが、たぶんあれは嘘だったのだと思う。
ほんとうの庶民なら「因果を含める」という言葉にどうして気づかなかったのだろう。
「因果を含める」とは説得してあきらめさせるという程度の意味。
仏教の三世因果説が前提になっている言葉だと思う。
あなたがこのように不幸なのは前世のためだからあきらめなさいという日本古来の説得法だ。
「後生が悪い」という庶民の言葉にも西洋かぶれの福田さんは出会ったことがなかったのか。
「後生が悪い」とは来世の生まれがよくなくなるから、
そういうことはおやめなさいという説得法のひとつである。
この国には神さまはいなかったが、仏さまはいらしたという証拠である。
たとえ神がいなくても「後生が悪い」から日本人はそうそう悪いことができないのである。
かなりの不遇にもかつての日本人が辛抱できたのはおのれに「因果を含め」ていたからだ。
むかしは西洋の代弁者になることで偉ぶれたのだろう。
そろそろそういう悪しき習慣はやめてほしいものだが、
いまは「因果を含める」も「後生が悪い」も知らない人のほうが多いのではないか。
いまもって福田恆存のような人がある種の人たちの神になっているゆえんである。
無学な庶民「どうしてこんなことが起こったのか? なぜうちの子は死んだのか?」
科学者「それは確率的に起こりえないことです」
庶民「でも、こうして起きているじゃないか!」
科学者「統計上はありえないんです」
庶民「だが、いまおまえさんの目にも見えように起きている」
科学者「起きないはずのことなんです」
庶民「起きていないか?」
科学者「……」
庶民「この現象はおまえさんにも見えるよな?」
科学者「だから、起きないんです、本来なら」
庶民「目は開いているか?」
科学者「……」
庶民「これが見えないのか? はいかいいえで答えろ」
科学者「……はい」
庶民「見える?」
科学者「……はい」
庶民「なぜ起こったのか?」
科学者「統計上確率的には起こりえないことなんです」
庶民「しつこい! こうして起こっているじゃないか」
科学者「しかし、合理的な判断からはその現象の発生は予想できません」
庶民「だが、起こっている」
科学者「はい」
庶民「どういうことだ?」
科学者「……」
庶民「どういうことだ?(怒鳴る)」
科学者「正直、わかりません」
庶民「わからない?」
科学者「はい」
庶民「優秀なあんたにもわからないのか?」
科学者「はい」
庶民「わからないのか?」
科学者「……はい(泣いてしまう)」
庶民「わからないのか……」
科学者「はい(泣いている)」
庶民「あんたが悪いわけじゃない。泣くな」
科学者「はい(泣きやまない)」
庶民「わからないのか(ようやく涙が出てくる)」
科学者「わかりません(泣いている)」
庶民「わからないんだな。わからなかったんだ(号泣する)」
苦しめられているものに新しい言葉を与えることで楽になることもなくはない。
結局、言葉に苦しめられたり言葉に救われているのが人間なのだろう。
さて、我われはコントロー・ルイリュージョンに苦しめられているのではないか。
いぜん認知心理学の本を読んだときにポジティブ・イリュージョンという言葉を知った。
我われはみなポジティブなイリュージョン(幻想)を持っているのではないかという仮説だ。
みな自分のことを実際以上に高く評価している。
自分の将来には確率の低い不幸は起きないだろうという幻想を持っている。
自分が選んだ商品はほかのものよりよいものであるという錯覚を持つ。
以上のような自分にまつわる錯誤が認知心理学でいうところのポジティブ・イリュージョンだ。
ポジティブ・イリュージョンのおかげで我われはうつ病にならずに済んでいる。

同様に我われはコントロール・イリュージョンを持っているのではないだろうか。
たとえば、自死遺族が苦しまなければならないのはコントロール・イリュージョンのせいだ、
ということもできなくはないのである。
人生はコントロール可能だという幻想を持っているがために自死遺族は苦しむ。
もしあのときああしていれば愛する家族は死んでいなかったという錯覚に苦しむのだ。
だれもが自分の人生を自分が築き上げてきたという錯誤を抱いている。
よほど先のない後期高齢者以外は、将来をある程度コントロールできると思っている。
そして、それは認知のゆがみではないかというのがコントロール・イリュージョンだ。
実のところは、人間は人生をまったくコントロールしていないかもしれないではないか。
我われが成功者の自信たっぷりな自慢話を好むのは、
コントロール・イリュージョンが満たされるからとは考えられないだろうか。

もしコントロール・イリュージョンがなかったら人生に対して完全なる無力ということになる。
この無力感は自堕落や捨て鉢な反社会的行為につながりかねない。
このため社会全体である種の戦略として、
コントロール・イリュージョンを保持しているのではないか。
そして、我われは自分たちが作ったコントロール・イリュージョンに苦しまされる。
人生の失敗者は確率的にかならず一定割合存在しなければならないが、
彼(女)ら落伍者たちは自分のせいでこうなったのだと過剰に苦しまなければならない。
自分の人生はコントロール可能なのだから、よくないのは自分のせいだという理屈だ。
自己嫌悪に耐えられず親や社会を執念深く恨むものもいるだろう。
この苦しみがコントロール・イリュージョンゆえだとわかれば苦しみは軽減される。
もしかしたらだれがあなたの境遇でもあなたのような人生になったのかもしれないのである。
もし成功者があなた(わたしもここに含まれる)の役を割り当てられていたら、
あなた(わたし)のような凡庸でつまらない人間になっていたとは考えられまいか。

我われは相当にコントロール・イリュージョンに毒されていると考えてみたらどうだろう。
建前として官僚や政治家がなにかをしなければならないのはわかるが、
少子化対策、雇用対策、安全対策、健康対策はコントロール・イリュージョンの産物である。
コントロールできると思うから対策を取るのである。
もしかしたら対策を取らなかったほうがよくなるのかもしれないが、
コントロール・イリュージョンに毒されているがために税金を使ってよけいなことをする。

婚活ブームもコントロール・イリュージョンゆえであろう。
もしかしたら婚活をしなかったら、
好きな趣味の世界でたまたまいい配偶者とめぐりあっていたかもしれないではないか。
しかし、まさしくコントロール・イリュージョンのせいで
努力しなければいい結婚はできないと思い込んでしまう。
だいたい婚活なんてする人は非常にコントロール願望が強いと思うが、
打算的な婚活をするから結婚できないことに苦しまなければならないという面もあろう。
もしかしたら将来はコントロールの範囲内にないのかもしれない。
いままでの過去はコントロールしてきた結果ではないのかもしれない。
だが、なにゆえか、なかなか我われはコントロール・イリュージョンから抜け出せない。
常になにかしていないと落ち着かないし、他人を出し抜こうという邪心を捨てきれない。
老後の不安を考えてコントロール・イリュージョンゆえに株の勉強などをして大損する。
対策を講じればかならずなにかがよくなると盲目的に信じている。
少なくとも対策を行わなかったときよりはよいだろうと錯覚している。
AとBのうちAを選択してしまったら、
もしBの場合どうなっていたかは絶対にわからないにもかかわらず、である。

合理的な選択はかならずしも正解ではない。
合理的な選択とは、統計上確率的にそうしたほうがいいとされる行為のことだ。
しかし、まさに合理的な選択をしたせいで不幸におちいることもありうる。
非合理的な割に合わない選択をしたほうがいい場合もある。
だが、コントロール・イリュージョンゆえに我われはなかなかそう思えない。
人はみなもしもっと人生でなにかをしていたら、
いまよりも人生がよくなっていただろうという錯覚を持つ。
怠惰や無為が嫌われるのはコントロール・イリュージョンのためであろう。
コントロール・イリュージョンのために負け組は苦しみを倍加されている。
コントロール・イリュージョンのせいで勝ち組は謙虚や謙遜を失う。
もしかしたらすべて神の采配ではないかと思えば、
忌まわしきコントロール・イリュージョンから抜け出すことができるのである。
いま不安でたまらないのはもしかしたらコントロール・イリュージョンのせいかもしれない。
常になにかしていないと落ち着かないのはコントロール・イリュージョンのためだろう。

ネットで検索すれば、目的地までの最短経路が出てくる。
これがコントロール可能ということだが、たしかにいまコントロールできるものは多い。
宅配サービスで時間指定がここまでできるのは少し恐ろしいような気もするけれど。
だがしかし、人生に最短経路はあるのだろうか。人生で時間指定はできるのか。
人生は日本の電車や宅配便ほどに正確に運行するものであろうか。
コントロール・イリュージョンは人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか。
「すべては神の御心のままに」という古臭い呪文は、
あるいはもっともよく効く精神安定剤や抗うつ剤なのかもしれない。
いまカントファンの中島義道さんがネットで人生相談をなさっている。
まったくもうほんとうに人生相談には人間の闇がいろいろあぶりだされてくるのでおもしろい。
そもそも他人に安易に人生相談をもちかけるのはどうなのかという問題がある。
まず偉い人にしか人生相談をしないという権威主義はどうなのか。
だれも落ちぶれた叔父さんには人生相談に行かない。羽振りのいい人のところに行く。
もしかしたら人生で「負け」を多く経験しているほうが博識かもしれないにもかかわらず。
他人に決めてもらおうという甘い態度も問題ではないか。
人生相談は自分で徹底的に考え抜くことを拒否した指示待ち、
つまり受け身の姿勢が前提にある。
自分の人生なんだからもう少し自分で考えたらいいのではないか。
人生相談を受けるほうのおごりもなんだかいやだ。
自分は人生をわかっているという傲慢が透けて見えていやらしい。
人生相談者への断定的な回答は新興宗教の教祖的ないかがわしさを感じる。
だって、相談者のことをほとんどなにも知っていないでしょう。
対面ならまだしも書面での人生相談なんてするほうもされるほうもどうかしている。
親戚の子どもだってほんとうのところはなにも知らないのではないか。

どうして「こうしたらいい」なんてことが言えるのだろう。
他人のみならず将来のこともわかる人はいないと思う。
「こうしたらこうなる」はたぶんだれにもわからない。
それは神仏のみぞ知る世界だ。人間が手を出してはいけない。
とはいえ、人生相談は良好な人間関係維持のための必需品だ。
上司に人生相談するのがうまい人ほど出世が早いのではないか。
自分に人生相談をしてくれた部下はかわいいと思うのが人間というものなのだろう。
おれもなかなかのもんじゃないか、とほくそ笑む上司は人間味があってよろしい。
先輩後輩関係も人生相談で成り立っているような気がする。
たぶん人生相談がうまい(するのもされるのも)人がコミュニケーション能力の高い人だ。
上手に相手に人生相談をお願いしたら気に入ってもらえる。
偉くなればなるほど相談相手がいなくなるから、インチキ占い師が繁盛するのだろう。
周りが敵だらけの偉い政治家先生が占い師に依存しているという噂はリアルである。

人生相談でいちばん難しい回答は「わからない」だろう。
身もふたもないことを言えば、大学生でも人生相談に答えられるのである。
だれでも(自分ならぬ)他人のことはよく見えるから、人生相談はだれにしてもいいのだろう。
そして、だれでも責任がないならば他人の人生相談に「正しい」答えができよう。
人生相談はアリバイという意味合いもあるだろう。
「なんであのとき相談してこなかったんだ」と怒る人もいるからである。
おそらく人生相談の答えで比較的上質なのは「わからない」だと思う。
相手の言うことを親身になって聞いてあげて、なおかつ「わからない」と答えるのは難しい。
だが、もっとも誠実なのは「わからない」なのかもしれない。
「わからない」を維持できる人は偉いと思う。
どこまで「わからない」をわかっているかで、その人の深さや浅さがわかるような気がする。
人生を見る目の度合は「わからない」にかかっているのではないか。
とはいえ、「わからない」を保っているのは苦しい。
年を取れば取るほどわかったふりをしたくなる。またわかったような気がしてくる。
それでも「わからない」と言える人こそ信頼に足るのだと思う。
なにがいいのか、なにが悪いのか、どうしたらいいのか、いけないのか「わからない」――。
人間の限界は、自分の人生しか知りえないことである。
にもかかわらず、人生で体験したことを普遍的に当てはまることだと錯覚してしまうところだ。
「自分がこうだったんだから、他人もそうだろう」という思い込みから逃れるのは難しい。
どうしてか、そうじゃないかもしれないとはなかなか思えない。
どんなことでも起こりうるということに想像が及ばない。
俗に言うところの成功をおさめた高齢者ほど始末が悪い。
自分は人生をわかったと思ってしまうからである。
本来はだれもわからないはずの人生を、だ。
大成功したもののなかには私財を投げ打ち、
田舎に自分を教祖とする共同体をつくって大勢の若者に説教する先生がおられる。
自分はいいことをしていると思っている。
彼がなによりも好きなのは人生指南(人生相談)だ。
他人の人生をコントロールするのが楽しくて仕方ない。
他人を支配するのは楽しい。他人を指導するのは楽しい。他人に命令するのは楽しい。
なぜなら自分は偉いということが露骨に示せるからだ。
自分は人生の答えがわかったと思っている。
このため自信たっぷりにたとえば北海道で若者に農作業をやらせる。
別解があるとは思えない。
なぜなら自分の出世した人生は正しく、ならば自分は他人を導く使命があると思ってしまう。
おれは間違っていない。おれの言うとおりにしたら間違いはない。
おれはすべてわかっている。人生相談はおれにまかせろ。なんでもおれに聞いてくれ。
説教が大好きな大物脚本家の彼はむかし血縁の少女から芸能界に入りたいと相談された。
果たしてそのときの彼の答えは正しかったのだろうか。
もう余命少ないだろう愛煙家で東大卒の男はこれからも偉そうに説教しつづけるのか。
彼は正直にいまになって人生がわからなくなったと白状しないのだろうか。
ぼくはまだ人生がわからない。最後まで死ぬまでわからないだろう。
死ぬ少しまえまで、こうだったのかという発見があるのではないかと思う。
そうでないかもしれない。わかったと思うときが来るかもしれない。わからない。わからない。