政治のことはよくわからないし、だれもわたしの政治的見解なんて興味がないだろうし、
さらに身もふたもないことを言い放つと政治は
自分とはまったく縁のない多数派の事情だからブログにはこれまでいっさい書かなかった。
この記事も暇つぶし程度でたいした意味はない。
ふといま思ったのである。
政治屋さんの渡邉美樹先生と山本太郎先生はそっくりな顔をしているのではないか。
顔を源泉までたどれば身障者利権の親玉「五体不満足」の乙武先生とおなじだ。
自分は正しい、自分は善いと盲信したかのような自己陶酔および自己愛に満ちた顔つきが
三者ともに非常によく似ていると思う人はわたくし以外におられませんか。
嫌いと言ってしまったら元も子もないのでこう書いておきましょう。
御三方のどこかきなくさい被害妄想的な気配はときに庶民の共感を誘うものなのだと思う。
他人がやらないことをするのはいいとも思う。
だが、それが多数派工作に見えてしまうようなところが評価が分かれるのだろう。
みんなのためではなく自分のためにおかしなことをする奇人変人を、
どういうわけかわたしは愛しているようだ。世の価値観と異なるのは承知しております。
うらら、うらら、うらうらら~♪
日陰者のためなんでしょうが、裏道や裏技、裏入学、恨み、占い――
――裏はなんでも好きなところがある。
裏とは隠されたものという意味だと思う。
裏好きは、秘められたものを見たいという心理ではないかと自己分析している。
だから、はい、必死で表の人には裏を隠してほしいのである。
ネットで検索したらすぐにばれるような裏にはまったく興味がわかない。
相手が真剣に隠したいと思っているものこそ、まさに見たいのである。
なにもかもぶっちゃけてヌードになっている人のどこが魅力的なのかわからない。
隠しているところがその人のチャーミングポイントなのである。
演技でもいいから隠してほしい。恥ずかしがるポーズを作ってほしい。
ど変態のようなことを言うが、恥ずかしがっている裸体こそもっとも雄弁なのである。
「くぱぁ」はやめてくれということだ。
もちろん「くぱぁ」にもそれなりのよさはあるのだろうが、あれは飽きる。
秘密を懸命に保持する人こそ美しいとわたしは思う。
間違っているのかもしれないが、わたしにとって美とエロは同義である。
いかに見せないかが私小説のうまさだと思う。
意外と知らない人もいそうなので、侮蔑の法則を書いておきましょう。
なにかの職業をバカにしたかったら(いくらネットでも実名でやっちゃいけませんよ)
屋をつけるといいんです。
銀行員と聞くとお堅くてまじめそうですが、銀行屋さんというとなんかゲスでしょう。
外資系証券会社などというと格好いいですが、要は株屋なわけですから。
「さん」をつけるのもバカにするニュアンスがよく出ます。「先生」とおなじ仕組みです。
弁護士は法律屋さん。編集者は出版屋さん。プロデューサーは電波屋さん。
どんなエリート職業も身近な八百屋さん魚屋さんレベルにおとしめることができます。
薬剤師がどれほどお得な資格かはわかりませんが、薬屋さんなわけですよ。
床屋さんもいまは差別用語に近く、放送屋さんではピーがかかる言葉なのでしょう?
屋という言葉の差別的トーンがよくわかる実例であります。
居酒屋もそのうち放送禁止用語になって大衆酒場やバーにチェンジするのかもしれません。
国民的人気漫画の「美味しんぼ」は左翼臭が強すぎてちょっとついていけないところがある。
いまの連載でさんざん福島の放射能の危なさをあおっている。
あれは福島県民は読まないほうがいいような気がする。
とはいえ、わたしが放射能県民で「スピリッツ」を購読していたら読んでしまうだろう。
不勉強なわたしの意見だが、福島のことは徹底的に「わからない」のではないか。
たぶん歴史上かつてなかったことがいまもいま福島で起こっているのだと思う。
どうなるかはだれにもわからない。
わかる人がいるとしたら、たとえば百年後の日本人である。
たいへん不謹慎な物言いだが(ごめんなさい!)、百年後には
とても人為的・道徳的にはできない人体実験のすばらしい統計が取れているような気がする。
どのみち人は死ぬのだし、
いくら確率(リスク)が上昇しようが運の強い人は逃げ切れるのだから、
わたしは福島の問題はそれほど心配していない。そういうものなのだろうと思っている。
というか、よしんば本当のことを知ってもどうにもならないのではないか。
本当のことを知っても移住できる人ばかりではないと思う。
あなたはガンで3年後に死にますと告知されても大半の人が困ってしまうのとおなじである。
確率はどうしようもなく「所詮は他人事」であり、
あなたやわたしの人生を実際問題として左右するものではない。
このことを実体験としてよくわかっているから、
わたしは放射能のことを震災以後もまったく気にしていないのだろう。
ついつい裏を見たがるのは我われいやしい庶民のかなしき性(さが)だと思う。
でもさ、裏を見てもつまらないんだよね。
裏を見れば見るほどがっかりするようなところがある。
ああ、ぼかしが入った表を見ていた時代のほうがよかったんだろうなと後悔する。
で、取り返しがつかないことに一度裏を見てしまうと
まずモザイクのかかった表はもう見(ら)れないだろう。
ぼかしの入ったもので喜んでいる人がまるでバカみたいに思えてしまう。
ほんとうはそうじゃないんだと言いたくなるが、同時にほんとうがなんだという思いもある。
これはアダルトの話ではなく、社会全般のことを論じている。
いまの高校生はネットのせいで裏がすべてわかったような気になり退屈を感じないのだろうか。
結局は親(遺伝子)、顔、学歴、会社名、コネなんて裏を知っていったいなんになるのだろう。
どうしようもないことにひとたび知ってしまったら、知らないまえには戻れないのである。
隠し扉は「くぱぁ」と開けないほうがいい。裏は見ないほうがいい。
けれども、裏を見るスリルはたまらないものがあるのもまた事実である。
困った時代だ。まったくいい時代だ。あまりにも恵まれているせいで我われは悲惨である。
自分が邪悪であることをわかっている人は好きである。
派手な喧嘩をおっぱじめて周囲を巻き込むのはたいがい正義の人(国)同士である。
邪悪を自覚しているような人には、なぜか正義の人も喧嘩を吹っかけてこない。
うっかり喧嘩をするとおのれの邪悪さに気づいてしまうからかもしれない。
正義ほど怖いものはないと思う。
なぜなら正義の名のもとに人はなんでもしてしまうからである。
正義のためなら人を傷つけてもいい。原爆を落としてもいい。相手国を滅ぼすのが正義だ。
正義を主張しない新興宗教団体があったら覗いてみたいが、
寡聞にしていまだ出会ったことがない。
正義を気取る人はみな自称善人である。
おかしいのかもしれないが、わたしは少なくとも自称善人よりも自称偽善者のほうが好きだ。
自称善人は邪悪なこちらになにを仕掛けてくるかわからないので恐ろしい。
悪をつぶすためならなにをしてもいいと思うのが自称善人である。
自称善人はおのれの心中にひそむ悪を他人(他国)に投影してよしとする。
人間なんてそんなものだろうとわかっていながらも、正義の人は好きになれない。
そういえば「善き人たちの連帯」を書きたい言っている偉い小説家の先生がおられる。
彼は自分(たち)のことを善人や正義と思っていそうなので、その幼児性にアワを食ってしまう。
たとえば、こういうことを言う人がいたとしよう。
自分はカナダ留学経験があるが、実は英語が苦手である。
彼にもっとも言ってはいけないことはなにか。
それは「ああ、本当に英語がへたくそなんですね」である。
これを言ったら烈火のごとく相手は激怒して一生恨まれるかもしれない。
「そんなことはないですよ。英語、お上手ですね」が正解だ。
もてないアピールをしている男女に「本当にもてないんですね」を言ったら、
たとえ殺されてもそれほど大声で文句は言えないような気がする。
謙遜は相手のいちばん触れてはならないところが露見しているのかもしれない。
わたしは世間知らずを自認しているが、
他人から世間知らずを指摘されたときは真っ赤になって怒る。
謙虚で腰が低い人ほど怒らせたらなにをするかわからないような凄味がある。
見たことはないけれどフェイスブックで自己アピール(自慢)ばかりしているような人の
薄っぺらさにはどこか安心を感じてしまう。
謙遜が怖い。就活で自分の短所を言わせる居丈高な面接官よりも怖い。
むかしインド個人旅行で学んだ口喧嘩の仕方を書いておきましょう。
なにより重要なのは相手よりも大きな声を出すことです。
日本語も英語も通じなくても、声の大きさで相手を圧倒することが肝心です。
それから怒っているふりですね。
まあインドだからこんなもんだよな、と内心では思っていても顔に出してはいけません。
最終的に勝利するのは、怒っているアピールのうまいほうだと知りましょう。
使えるものはなんでも使いましょう。
一刻も早く相手の弱点を見つけ出し、弱みという傷を言葉のナイフでいたぶるのです。
いかに周囲の人を味方に引き込むかが結局のところ勝敗を分けます。
たとえ自分が間違っていても、多数派になれば相手に勝てます。
正義とは多数派の別名であることを腹の底まで知っておくべきです。
これは自分がどこまでも邪悪であることを認めることでもあります。
正義なんてどこにもないことを理解すれば、多数派がイコール正義だと納得できるでしょう。
悪いほうが勝つことが多いです。ならば、勝ちたかったら悪くなることです。
インドでは1日1回は口喧嘩をしていました。
インドの商人は白人も日本人も分け隔てなく騙そうとしてくるのでさすが仏陀の国であります。
自分は韓国人だといつわると商人のあきらめが早くなるという噂はなんだかリアルでした。
インドを旅行する日本人のお人好しぶりには同国人ながら悲しかったですね。
ああ、インドはなんてすばらしい国でありましょうか。
悪女にも似た美しさがインドにはございまして若い方にはおすすめの旅行先であります。
ぜひぜひ自己主張(口喧嘩)の仕方をインドでお勉強してきてほしいものです。
最近生まれに肯定的になって下卑た言葉を収集している。
いま脳内でぶんぶんうなっている下品低劣な言葉は「ははーん」だ。
「ははーん」という言葉の精神病的な響きがたまらない。
安っぽく裏を読んだようなありきたりで庶民的な猜疑心が「ははーん」に結晶している。
テレビを見ながら「ははーん」と裏を知っているかのような素振りをするみみっちさが最高だ。
作り笑顔で内心では「ははーん」のダムが洪水を起こしているような人はいい。
いいとは自分みたいで笑えるということだ。
さあご一緒にあたかも名探偵にでもなったかのように言ってみようではありませんか。
「ははーん」――おれは騙されないからな、裏は知っている、
おれをだれだと思っているんだ、おたくさんは、ハハハ。ははーん。ははーん。ははーん。
インテリの有名人には絶対に言えないことを思いきって申し上げましょう。
それは、そう、庶民は怖い、であります。
本をまったく読まないでテレビばかり見ているような不勉強な庶民って怖いよね。
テレビの街頭インタビューで政治に意見するようなありきたりなバカは日本の膿(うみ)。
テレビの言うことを真に受けてテレビ的行動をする人は死んだほうがましではないでしょうか。
「夢を持とう」とか本気で言っている夢のない大人が嫌い。
本気で努力すれば夢がかなうと信じている子どもが嫌い。
チープな恋愛ドラマに安っぽく感動して婚活では相手の年収ばかり気にする女が嫌い。
要するに庶民が嫌い。これは自分が嫌いということだから批判は受け付けておりません。
人を笑っちゃいけないので注意していることを書きましょう。
プロフィールが長く、やたら知り合いの有名人の名前を出す人には注意しましょう。
こういう人はプライドが異常に高いので、
あなたの親しみの微笑も嘲笑と受け取り激怒することがままあります。
メールや手紙、ブログ、つまり文章でひんぱんに難しい漢字を使う人も要注意。
学歴が低かったりするので、「おれを舐めるなよ」と殴られるかもしれません。
レターにカタカナがイッパイあるピープルにもビーケアフルですな。
マイナー会社のビジネスマンで社名にコンプレックスを持っている人かもしれなく、
あとでネットで陰湿なリベンジをされるかもしれません。
総じて大物ぶる人には注意が必要です。
わたしのつたない経験ですが、ほんとうに偉い人に偉ぶるような人はたぶんいないでしょう。
そうそう、他人をやたらキチガイ扱いする人も本人がキチガイの可能性があるので要注意です。
聞いてもいないのにしつこく庶民アピールする人もなんだか怖い。
いつも笑みを絶やさない人も腹黒そうですね。
男「きみ、そこのきみ!」
女「はあ?」
男「電車内で化粧をするのはやめなさい!」
女「なんで?」
男「私が不快だからだ」
女「見なければいいでしょう」
男「うるさい!」
女「はあ?」
男「きみはものを知らない」
女「大丈夫?」
男「この国には対話がないんだ。対話をしよう」
女「したくない」
男「私をだれだと思っているんだ?」
女「だれ?」
男「○○大学教授だ。この名刺を見なさい」
女「へえ」
男「へえ、とはなんだ! きみはものを知らないな」
女「だから、なんなの?」
男「ああ、きみは高卒だな」
女「だったら、なに?」
男「きみはカントを知っているか?」
女「え?」
男「私はカントの研究者なんだ。ドイツで博士号を取った」
女「そう」
男「まだわからないのか。きみはものを知らないな」
女「なにを知らない?」
男「きみにもわかるように言おう。私は東大を出ている」
女「すごい」
男「ようやくわかったか」
女「なにが?」
男「電車内で化粧をするのはやめなさい」
女「やめた」
男「わかってくれたか」
女「もう終わったから」
男「なんだ、その言い草は! 私をだれだと思っているんだ?」
女「だれなの?」
男「きみはものを知らないな」
女「あんたはなんなの?」
男「私は東大卒でドイツで博士号を取った著書多数の大学教授だ」
女「ふーん」
男「女はバカばかりで困る」
女「バーカ」
男「やっぱり人はわかりあえない」
男「ショーペンハウエルがこう言っています。(…略…)」
女「へえ」
男「カントがこう言っています。(…略…)」
女「そう」
男「あのニーチェがこういうことを言っています。(…略…)」
女「(だから?)」
男「わかっておられないようですが、ヴィトゲンシュタインはこう言っています。(…略…)」
女「(なによ?)」
男「わかりませんか?」
女「(なにが?)」
男「むすっとしているのはなぜでしょう?」
女「なぜでしょう?」
男「あなたのご両親の学歴をお聞きしてもいいですか?」
女「はあ?」
男「……」
女「帰ってもいいですか?」
男「待ってください」
女「どうして?」
男「わからない」
女「なにが?」
男「それは……」
女「ニーチェも教えてくれない?」
男「はい」
女「なに?」
男「いや……」
女「じゃあ、もう帰るね」
男「待ってください」
女「どうして?」
男「聞きたいことがある」
女「あたしは哲学者じゃないけれど、いいの?」
男「はい」
女「なに?」
男「あなたは処女ですか?」

こういうセリフのやりとりが山田太一ドラマ「想い出づくり」にあったことを記憶している。
うっかり「想い出づくり」のビデオ(DVDではない)を新宿ツタヤで借りてしまったから、
のちにシナリオ本を買いあさり研究家を自称するようになってしまったのである。
「ありふれた奇跡」がいちばん好きだが、「想い出づくり」も哀しいまでにいい。
泣きたくなるほどにいい。YouTubeで「想い出づくり」の映像を見て何度泣いたことか。
いいのである。いいとしか言えない。
落伍者の当方はされた経験がないが、成功者は人生相談をされることが多いのだろう。
これはもう人間のどうしようもないところで、人はだれもが自分の人生しか知りえない。
「自分の人生でこうだったから」という理由でしか人生相談に答えようがないのである。
しかし、そうです、まったくみなさまのご賢察の通りで、
ある人の成功法則がべつの人にもそっくりそのまま当てはまるわけでは断じてない。
ある人が成功したときの環境とまったくおなじ境遇というのは絶対にないのである。
このことを深く諦念とともに知っていたら助言や忠告、説教はできなくなる。
自分の人生でたまたまそうであったこと(偶発事)が、
どういうわけで思い上がった成功者の先生には人類普遍の法則のように思えるのだろう。
自分が自分の人生体験からしか学べなかったように、
人生相談相手もその人の経験するであろうことからしか学べない。
このことを熟知した哀しい断念の人はどのような人生相談にもこう答えるのであろう。
「やりたいようにやればいいんじゃないですか」
「好きなようにやるのがいちばんです」
「自分がこうしたいと思ったようにぜひともやってください」
これはわたしだけかもしれないが、漫画、雑文、脚本等でどこに感動するのか。
ちなみにわたしは漫画の感想はいっさいブログに書いていないが、
数年まえにブックオフ105円漫画本を解禁してから楽しくてけっこう読んでいる。
もっとも安くなるのは在庫過剰の売れ筋の漫画ばかりだから偏(かたよ)りはあるだろう。
著作権者には非常に申し訳なく思っていて、いつかひと山当てたらすべて定価で買います。
さて、漫画に話を戻そう。どこにわたしは感動するのか。
ああ、ここは作者が描きたくて描きたくてどうしようもなかったんだな。
ここだけは描かずにはいられなかったんだな。
この部分を描くために生きていたという入魂を感じさせるところである。
いちいち書かないが「スピリッツ」系の新人賞受賞作品に深く感動することもある。
いちおう書いておくと、たとえば「月刊スピリッツ」先月号掲載の「地の底の天上」は震えが来た。
たまたま最近読んだものを書いたが、漫画ではこういう感動がひんぱんにある。
漫画というジャンルには底知れない芸術性があるような気がする。
漫画家にはとうていかなわないと思うので作者が新人でもまったく嫉妬しないのもいい。
漫画家さんに言いたいのは、だれかが読んで感動しているということ。
たとえ新人さんの描いた漫画でも、読者アンケートがかんばしくなくても、
わたしのような名もなき人間がしっかり何度も読んで深く感動しているかもしれない。
下手をすると漫画が日本最高の芸術ではないかと最近は思っているわたしは、
漫画家さんには老若問わずがんばってほしいのである。
どうか描きたいものを描いてください。
編集者や読者アンケートもたいせつでしょうが、描きたいものを描いてください。
どう考えても地頭(じあたま)が悪いのである。
悪いのは現在の地頭(じとう)たる地方公務員ではなく、わたしの頭が悪い。
みんながうっすらわかっていることを意地悪く書くと、たぶん結局は遺伝子なのだ。
いまの若者は努力しないと嘆く成功者がたまにいるが、努力できるのも遺伝子ではないか。
地頭(じあたま)もかなりのところが遺伝子ではないかと思う。
両親はどちらも尊敬しているが(そりゃあ、いろいろありましたが)、
残念ながら父母ともに本を日常的に読むようなインテリではなかった。
いわゆる下層民だったのである。
年齢のせいか読書をしていても限界を感じることが多い。
これは地頭(じあたま)の差だなァとため息まじりに思う。
むろん、継続は力なりというのも真実だ。
こんなおバカなわたしでも(錯覚の可能性もあるが)、
読書を続けたおかげでかなりのことがわかるようになっている。
よくわからないが、
たぶんまえに読んだ本に書いてあった内容があとに読む本の理解を助けるのだろう。
それでもわからないものはわからない。ほんとうにわからないものはある。
しかし、わからないのも才能なのだろう。
わからないからわかろうとする。
自分の(出来の悪い)頭で考えようとする。自分の言葉で書いてみるしかない。
こんな低質の読書ブログをお読みくださる方が少数ながらいらっしゃるのは、
劣悪な地頭(じあたま)のおかげかもしれない。ならば、両親に感謝しなければなるまい。
あらゆる人生相談に「ソープへ行け!」と答えたという有名作家がいるそうだが、
その真似をしてみるとかなりの苦悩が
「インドへ行け!」で解決してしまいそうな気がしなくもない(間違っていますからね)。
うまいこと死ねないかなァと甘いことを考え、
高額旅行保険をかけてインドをビザぎりぎりの長期間ぶらついたことがあるけれど、
ぶっちゃけインドへ着いた瞬間、死ぬどころではないことに気づいた。
とにかくインド人がむかつくのである。
近づいてくる9割のインド人が詐欺師で嘘をついている。
酒を安く飲ませるレストランに入ると5割以上の確率で釣銭をごまかされる。
一度指摘した店で二度も三度もやられるのである(正直、殴ろうかと思った)。
インド人は行列できない。自分の非を決して認めない。そのくせ自己主張が異常なほど強い。

インド人に対抗するには、どうしたらいいのか。
徹底的に他人を信用せず、烈しく自己の欲望を主張するしかない。
要するに、言語が通じる通じないのレベルを超えて喧嘩するしかないのである。
お人好しの日本人がいっぱい高額ツアーを勝手に組まされていた。
そのくらいならまだいいほうで睡眠薬強盗に遭った日本人の体験も複数拝聴した。
軽々しく他人を信じるな。自己主張を怠るな。
このふたつがインドから実体験で学ぶことができる教訓だが、味わえるのはこれだけではない。
わたしなぞはインド89日間、1日たりとも酒を欠かさなかったら、
かなり危ないところに行ったり危ない人とやりとりしたりしているのである。
にもかかわらず、なぜか事件には巻き込まれていない。
ガイドブックの「地球の歩き方」を何度も読み返している人たちがトラブルに遭遇しているのに。
このことからなにがわかったのか。身もふたもないことだが、結局は運ということである。
どれだけ危なっかしいことをしても運がよければわざわいから逃れることができる。
いくら注意深くガイド本の忠告を守っていても強盗に遭うときは遭う。
強盗の被害を受けてから、
さらにそのうえアメーバ赤痢になるものもいる(たしかにいた!)のである。

さて、いまのわたしも苦悩ばかりである。迷いに迷っている。
だれかに相談して「インドへ行け!」ろ言われたら、どう応じるか。
「いまさら行きたくありませんよ……」
だが、元気がないときにしろうとの書いた写真いっぱいのインド旅行ブログを閲覧する。
なぜか涙が出るほど懐かしく、まだまだと思う気持がよみがえってくるのである。
だから、「インドへ行け!」なのだろう。人は体験からしか学ばないようなところがある。
「本の山」をお読みの少数の読者さまはお気づきでしょうか。
うちの読書感想文には、ちょっとびっくりするくらい西洋人と女性の本がない。
レディーファーストみたいなカタカナの思想が嫌いなのである。西洋が気に食わないのだ。
むかしは白人や女人の本も分け隔てせず読んでいた。むしろ崇高なものと思っていた。
だが、東南アジアをボケながら徘徊したときに白人根性というやつにうんざりしたのである。
西洋人がどれほど東洋人を見下しているのか知らないものは幸いだ。
ギブミーチョコレートの世代は白人女性から微笑を送られたくらいで
一生モノの感動をしてしまうそうだが、それはうちらの世代にはとても理解できない。
カントやニーチェをありがたがるのが(ヴィトゲンシュタインもそうだぞ、そこのおまえ!)、
まるで戦前の天皇崇拝とそっくりおなじように見えてしまうのである(忌まわしき黄猿根性!)。
アメリカのポジティブ心理学やらを科学的だと崇め奉っているのも同様だ。
なんでそんなに死にかかった高齢者どもは舶来品コンプレックスが強いのだろう。
ネトウヨの自国愛も気持悪いが敗戦国民劣等複合にもついていけない。
いまうっかり世代論めいたものを書いたが、
うちらの年代でも男女論に移行したら西洋かぶれの女郎(めろう)は多いだろう。
なんで茶髪にするんだよ! 黒髪のほうがよほどいいだろう!
仏教思想をなにも知らない老いた黄色い猿どもが、
西洋哲学という似合わぬ背広を着ていばっていることこそ、わが国の恥ではあるまいか。
おっさんになったという証拠かもしれないが、魔が見えてきたのである。
わが国のなかで女子高生ほど禍々(まがまが)しい存在はないのではないか。
このまえ駅ビルで空いたエスカレータに乗ったとき、
少し上にミニスカートの女子高生がいたので、なぜだか早足で横を通り抜けた。
通勤通学のラッシュで大勢の人がいたら、
そういうことはしなかっただろう(というか、そもそもできない)。
性的ベクトル(趣味)が違うからやらないが、
スマホをスカートのなかに突っ込みたくなる男の気持は少しわかるのである。
いま最初に「よくわかる」といったんは書いて慌てて削除したことを白状しよう。
もちろん、それは好きではないので今生ではまあたぶんいや絶対にやらないだろう。
ただし好きならやっていたかもしれないとは思う。
(ちなみに携帯電話はスマホではないし、換える気もないし、カメラ機能はほとんど使わない)
現代でいちばん割に合わない犯罪は盗撮だと思う。
不謹慎なことを書くと、スカートのなかにスマホを入れたくらいで実名報道とか、
まるで加害者が被害者のようなものではないか。
実名報道されてしまった教員や自衛官、裁判官に同情を禁じえない(不謹慎でごめんなさい)。
あれをやってしまうと親族や友人どころか、知り合いにさえ合わせる顔がないのでは。
盗撮逮捕は窃盗被害よりも不幸だと(間違っているのだろうが)思ってしまう。
これも言ってはいけないことだが、そもそもそんなにスカートを短くするほうがどうかしている。
だれかが指摘しているのかもしれないが、交通事故の原因にもなっているのではないか。
当方は車を運転しないが(免許はある)、
車高の低い自動車の運転席はチャリの女子高生を鑑賞する特等席のような気もしなくはない。
さすがにわき見運転で交通事故を起こした加害者はほんとうの理由を言えないだろう。
女子高生という魔がただただひたすら怖い。
今年の夏になにやら味わい深いニュースを見た。
関西だったか、夏祭りの夜店の「くじ屋」が警察に逮捕されたというあれである。
なんでも高額ゲーム機を景品にしていた。
くじをぜんぶ買い占め(?)だかした客が警察に通報してスピード逮捕になったらしい。
なんだかドキリとする事件だったのである。
まず当たりくじが入っているかいないかを検証してみる被害者(なの?)の大人げのなさが、
まるで幼児性を残す自分のようで苦笑してしまう。
それからまるで人生のようだな、とげんなりしたのである。
我われのほとんどが(少なくともわたしは)くじを引いているような感覚で生きている。
外れくじばかりだよ、けっ、と思っているのはわたしばかりではないだろう。
しかし、そう、夜店のいかがわしい「くじ屋」のように、
あなたやわたしの人生という箱のなかにも当たりくじが入っていない可能性もあるではないか。
そもそも当たりが入っていないのに、
「こうしたら当たる」なんていうインチキ本(自己啓発書)ばかり読んでいるとしたらどうか。
しみじみと自分があわれにならないだろうか。
そして、人生はまさしくそのようなものかもしれないのである。
いくら努力してくじを引く回数を増やしても、
はじめから当たりが入っていなかったらどうしようもない。
どれほど気合いを入れてこぶしを箱に突っ込んだところで当たりは入っていないかもしれない。
年齢のせいなのだろうが、そんな不吉なことを思わず考えてしまったのである。
商店街のくじで当たったことは一度もない。
むろんコンクールや新人賞に当選(入選)したこともない。
もし箱のなかに当たりが入っていなかったとして、それを知りたいかどうかは複雑である。
夜店の「くじ屋」で美少女はなぜかよく当たると聞くが、そういうものなのだろう。
客寄せ目的でサクラの関係者が一等賞を当てている話も聞くが、なかなか意味深である。
お笑いがわからないのである。
テレビでお笑い芸人のアクションを見てたぶん一度も笑ったことがない。
人格的に問題があるのかもしれない。なにかの病気なのかもしれない。
そんなことを弱気になって思ってしまうくらいお笑いがわからない。
笑わせようとしている人を見るとひどく興ざめしてしまう。意地悪なのかもしれない。
落語は聞いたことがないけれど、まず笑わないだろう。
そのくせおかしなところで笑うのである。
たまに映画館や劇場に行くと、ひとりだけ変なところで笑いだすことがよくある。
めったにないことだがこちらの笑いについてきてくれる人がいるので、そういうときは嬉しい。
たいがいはひとりで笑っている。きちがいみたいに思われているのかもしれない。

作者は意図せぬところで笑われることをどう思うのだろう。
いまわたしがもっとも笑える作家のひとりだと思っているのは精神科医の春日武彦氏である。
ふとした瞬間に著書のなかの一語を思い出してしまい(たとえば「娑婆っ気」)、
ツボを押されたように笑いがとまらなくなることがある。
てっきり春日氏は読者を笑わせようと思って書いているとばかり思っていたのである。
しかし、この齢になっても人は成長(変化?)するものだ。
もしかしたら作者は笑わせようなどと、
てんで思っていなかったところを笑っていたのではないか。
それはものすごく失礼なことだったのではないか。
まるで偽善者のように、そんなことを思って反省したのである。
もちろん、著書多数の有名な精神科医の先生のお気持など当方にはとても想像つかないが。

陰気な人間だと思われているかもしれないが、けっこうよく笑うほうである(近年は)。
おかしなところでひとり笑うのだから困ったもんだ。
だが、ほんとうに世間さまのお笑いがわからない。
鳥居みゆきという人のお笑いをYouTubeで見たときはかわいそうで涙が込みあげてきた。
わからないが、鳥居みゆきという美人さんがギシギシアンアンしている動画を見たら、
欲情するのではなく吹き出してしまいそうな危なさが自分にはある。
ここにはとても書けないが、そうとう不謹慎なことを考えてひとり笑っているのである。
そのうち精神科のお世話になるのかもしれない。いや、笑えるうちは大丈夫なのだろう。
思ったのは、精神科医の春日武彦氏はひょっとしたら笑うことが少ない人なのか。
よく知らないが、精神遅滞以外の狂人は笑わないというイメージがある(躁病は笑うか)。
もちろん、わたしの好きな精神科医が狂人だと言っているわけではない。
ただ、春日さんもお笑いを見てもクスリともしない人だろうな、とは思う。
決定的にどこかしらが世の中とずれている。
「人生の楽しみ見つけたり」(山口瞳/講談社+α文庫)

→「男性自身」で知られる直木賞作家の名言集。
こういうもう死んでしまった文士の本を読むと、いまのつまらなさにやりきれなくなる。
結局、精神科医がたとえば文士のような無頼派種族にいまは完全勝利してしまったのだ。
大酒を飲むのはアルコール依存症で治療しなければならない。
性的乱脈は若かったら境界性パーソナリティ障害、大人なら躁病の危険あり。
ギャンブルに夢中になるのは病的賭博で精神科医が治さなくてはならない。
むかしは心療内科などなかったから、みな精神科医に恐れをなしたのがよかったのだろう。
なんでもかんでも異常、病気と騒がないおおらかな時代がかつてこの国にもあった。
迷惑な人を「業やれ、業やれ(宿業だなァ)」と受け入れる寛容性がたぶんにあった。
いまは少しでも人とずれていたら自分から心療内科や精神科の門をたたく人が多いようだ。
楽しい50年の人生よりも、なんにもない80年の人生をよしとする風潮が強い。
社会適応がなにより重視され、精神科医や臨床心理士が絶対正義で、
わずかでも邪悪な精神は不健康または異常として冷たく排除されてしまう。
精神科医は患者に健全な破綻のない長寿人生を指導する。しかし――。

「「飲む、打つ、買う」というのは、男の本能であり、三大道楽であるという。
僕は、昔から「飲む、打つ、買う」の三つを
同時にやると男は死んでしまうという考えを抱いていた。
実例はいくらでもあるが、さしさわりがあるので書かない。
また「飲む、打つ、買う」という三道楽を何もやらないという男も
死んでしまうと信じこんでいる。これも実例がある。
若くして自殺してしまう男は、僕の知るかぎり、例外なくそうなっている」(P138)


みなさん、さあご一緒に山口瞳の旧時代的な無知をあざ笑おうではありませんか!
若くして自殺するのは「飲む、打つ、買う」をやらないからではない。
精神科を受診しないから人は自殺するのである。
心の専門医がいらっしゃる精神科にかかっていてもなお自殺する人が大勢いることは、
精神科および心療内科が一般化した現代におけるオフレコのひとつかもしれない。
いまの若い人は「飲む、打つ、買う」の意味を知らない可能性もある。
これは知らないほうがいいのだから、おじさんは教えてあげないよ。
いまの若い人って平均寿命を考えると退屈すぎて早死にしたくならないのかな。
寿命を縮めたかったら、たぶん煙草よりも酒のほうがいいような気がする。
酒を飲む理由ならいくらでも自在に作れるからご安心ください。

「純粋である。だから酒に向かってゆく。傷つきやすい。だから酒を飲む。
泰平ムード、年功序列、官僚化といったようなことが堪えがたい。
落伍者意識がある。神経過敏である。鬱屈している」(P33)


アル中は病院へ行け。ギャンブル好きはいまは病的賭博という名前がついている。
もちろん、命名したのは精神科医の先生である。

「ギャンブルほど面白いものはない。
偶然性に身を委(ゆだ)ねる快感は人間の本能に近いものだと言ってもいいと思う。
(……) ギャンブルは面白い。こんなに面白いものはない。
危険があるから面白い。面白いから大変に危険なものである」(P132)


男なら本音ではみんなめんどくさい恋愛よりも女に甘えたいのではないか。
いやいや、当方はそんな甘えた根性は持ち合わせておりませんぞ。

「男はいつまでたっても子供です。
またそういう男のほうが、実際にいい仕事をするものです。
女は三十歳くらいで一応完成すると私は思います。
男は五十歳近くなってやっと一人前の男になるのです。
男が女をリードすると思ったらまちがいです。
結婚生活では女房が演出家であって男は役者です。
いい演出家が役者をスターにするのです」(P97)


女性のみなさんは、こんな科学的根拠のない断言を信じてはいけませんよ。
なぜなら、とんだ「だめんず」に引っかかることになってしまう。
やはり結論としては、いまいちばんおすすめなのは精神科医の先生のご本でしょう。
精神科のお医者さんのおっしゃることはみな科学的だから正しい。
なぜかいまの精神科医はむかしの文士並に自己顕示欲や自己愛が強いらしく、
本屋に行ったらその手の本がいっぱいありますから選ぶのに迷うくらいでしょう。
人生の目標が長生きでもぜんぜん恥ずかしくないのが現代でありまする。

「傍観者」(井上靖/潮文庫)

→短編小説集でほとんどの作品は別の文庫で一度読んだことがあるような気がする。
このたびタイトルにもなっている短編小説「傍観者」の恐ろしさに気づく。
「傍観者」は昭和26年発表だから芥川賞受賞の翌年、つまり初期小説である。
40歳をすぎてデビューした遅咲きの作家である井上靖の源泉は、
もしかしたら芥川賞作品よりもむしろこちらの「傍観者」のほうにあるのかもしれない。
ある種の倫理的な問題をはらんだ作品といえよう。
愛する人が毒を飲んで自分の家に来たら、どうしたらいいのか?
いささか性急がすぎた。それまでの流れをかんたんに書いておこう。
「私」は青年時代に遠縁の「わがままで、病弱で、美貌な少女」梨花に恋をする。

「私の恋情の中には、その最初のときから、なにか運命的なものが、その場かぎりでない、
一生を支配するような何ものかが匿(かく)れひそんでいたように思われる」(P17)


「私」は人並みに恋をして女を知るが片時も梨花のことを忘れることがなかった。
ふたりが再会するのは「私」が東洋文化研究所に就職してからである。
二十歳の梨花は「病弱な面影はどこにもなく、わがままなところも見えず、
ただ美貌だけが、往時の蕾(つぼみ)の固さから、
ゆたかに花咲いた派手なものに変っていた」。
「私」は梨花のまぶしさを正視できず、同僚の岸本を呼んできてしまう。
「私」と岸本と梨花の関係が始まる。
あるとき「私」は梨花の家を訪問して辞するときにこの美少女から接吻のお土産をもらう。
時代は中国との戦争が始まったころである。「私」は軍隊に召集される。
中国の戦地で「私」は梨花が岸本と結婚したことを知りショックを受ける。
10年のときを経て日本へ戻ってきた「私」は梨花を憎む気持こそ捨てていたが、
愛着ばかりはどうにもならなかった。
戦後の混乱のさなか、「私」は闇商売で大儲けをした岸本と梨花に再会する。
「私」は独身のままであった。
相変わらず美貌ではあったが、梨花の生活はすさんでいくばかりで若い男に手を出したり、
ときには株で大損を出したりで、大学教授になっていた「私」はそのたびに面倒を見ていた。
「私」と梨花は決して身体のつきあいは持たなかった。
ある晩、暗い顔をした梨花がひとりで「私」のアパートにやってくる。
ベッドで休ませてほしいのだという。

「……やったなと私は思った。
梨花が毒を飲んでいることを、そのとき直観的に私は感じたのである。
私はついに来るべきものが来たという気持だった。
梨花がこのようにしていつか自分の部屋にやって来るのを、もうずっと前から、
私は無意識の中に予感していたようであった。
少しも意外なものがやって来た気持ではなかった」(P50)


このときどうするのが愛なのだろうか。毒を吐き出させるのが愛なのか。
医者(救急車がこの時代あったのか不明)を呼びにやるのがほんものの愛なのか。
「私」は「かまわない、お休みなさい」という。
自分の服毒を「私」が見抜いていることを梨花は知っていた。
最後にひと言「許してくださる?」というと梨花はひどくやさしく「私」を見入った。
そのまま女は深い眠りの中に落ちていった。
後日、このときのことを「私」はこう回想している。

「私は梨花を愛していたし、梨花は私を愛していたのである。
二人のばあいは、二人の愛情をそのような形でおく以外仕方がなかったのだ。
だから二人のあいだには何の醜関係もなかったのだ。
彼女は彼女でかってに他の男たちと身を持ちくずし、私はそれを傍観していたのである。
やがて当然のこととして彼女の生涯に破局がやってきて彼女は毒を飲んだのである。
私はそれさえも見ていた。
私がいかに彼女を愛していたかは、梨花がそうした私によって知ったはずである。
私たちは二人の愛情というものを、
そうした形においてしか終焉(しゅうえん)させることはできなかったのである」(P12)


愛する人が自分の選択で自殺したとき、果たして命を救おうとするのが愛なのか。
もしかしたら、そのまま死を見守ってあげるほうが強い愛を必要とするのではないか。
相手を助けたいと思うのはエゴイズムで、本当には相手のことを思っていないのではないか。
そして、若くして法的または肉体的に安直に結ばれているよりも、
このような屈折した関係のほうが男女ともにあるいは烈しい愛を感じられるのではないか。
ふたりだけにしかわからないこのような烈しい愛情は美しくはないか。
井上靖が「傍観者」で描いたのは男女の愛を超えた運命愛である。
傍観者たる「私」の梨花への愛は最後に運命愛にまで高められている。
女を愛するところから運命を愛するところまで上昇(下降?)しているのである。
女を愛したことからままならぬ人生(運命)をも愛す意志が生まれているではないか。
愛するのが運命なら結ばれぬのも運命で、
ならばその運命を愛する以外に人にどんな生き方があるというのか。
烈しい生き方は十中八九敗北に終わるだろうが、その敗北は夕陽のように美しい。
井上靖は上昇する朝日ではなく下降する落日の美しさを愛した作家であったのだと思う。

「文藝別冊 総特集 山田太一」(KAWADE夢ムック/河出書房新社)

→有名人との対談、有名人からの寄稿、セリフ名言集、本人インタビュー、
過去エッセイおよび新作エッセイを収録する。
かつての赤福のような「もったいない精神」の発露だろうから責める気はないが、
過去の使いまわしがけっこう多い。さて――。

もちろん、発売直後の5月に買って読んでいるけれど感想を書けなかった。
8月くらいにそろそろ書けるかと思ってパラパラ読み直したのだが無理だった。
いまになってようやく理由がわかったが、
自分がだれよりも山田太一さんのことをわかっているという壮大な勘違いが
感想を書くことを妨害していたようだ。
お話しどころかお逢いしたこともないのにおかしなものである。
年齢的にも映像ではなく活字(脚本)で追っている遅れてきた世代なのに、
どうしてそんな誤った思い込みをいだいたのか我ながら恥ずかしい。

それは大ファンだからいろいろなことを思ったわけだが、
本音をぶちまけてしまっていいのかわからなかったということもある。
顔にあざがある人に逢ったとき、あざのことは気がつかないふりをするのは礼儀である。
育ちの悪い子どものようにジロジロ見てはいけないし、
そのあざはどうしたんですか? なんて初対面で聞くのはもってのほかである。
つきあいが深まっても相手のことを思いやって聞けず、いつしか疎遠になり、
結局最後まで聞かないで終わるということも人生ではあるだろう。
しかし、実際に顔にあざがある本人はどう思っているのだろうという問題がある。
当人はまるであざがないようにふるまわれることに偽善を感じることもあるのではないか。
少しばかり知恵が遅れたような子どもから、そのあざ、どうしたの? と聞かれたとき、
あざの持ち主はその子どもをほかのだれよりも愛らしく思うこともなくはないのではないか。
あざがあることで壁ができて人を信じられなくなるかもしれない。
そうだとしたら、やさしさや思いやりが仇(あだ)になることもあるとは考えられないか。

偉くなるとは顔にあざを持つのとあるいはとても似ているのかもしれない。
相手の地位や身分をおもんばかって、だれも本当のことを言ってくれなくなる。
それは格上とか格下の問題だけではなく、
相手の顔のあざに同情するような気遣いもむろんなくはないだろう。
偉くなると顔にあざを持つ人のさみしさを実感として理解できるようになるのではないか。
かといって、顔にあざがある人同士がめぐりあってもおなじことである。
どことなく親近感または同族嫌悪のようなものを感じはするだろうが、
厚かましく踏み込んで相手のあざにまでは言及しないだろう。
しかし、家に帰ってから自分のあざのほうが小さかったと
鏡を見ながら思うこともあるかもしれない。そんな自分を嫌いになることもあろう。
顔にあざがあることで人の複雑な気持がより理解できるようになることもあるかもしれない。
それは顔のあざをポジティブにとらえるということだ。
ときに自分はあざしか見られていないのではないかとネガティブになることもあるだろう。

あざと自分とは関係ないではないかと憤慨したくなる憂鬱な日もないわけではない。
だが、あざを除去したら自分になにが残るだろうかという恐れもある。
やはりあざこそ自分なのだと悟ったように思う日もないといったら嘘になるだろう。
とはいえ、人にやさしくされるとそれは自分があざを持っているからではないか、
とつい疑ってしまいたくもなる。すぐにいや、世間とはそういうものなのだと思い直す。
こういった顔のあざのようなものを山田太一さんは持っているが、
本書ではだれもそのあざのことを指摘していなかった。
それは山田太一さんがだれよりも人の顔のあざを見ない人だからということもあろう。
人を傷つけることを恐れる人だ、といいかえてもよい。
人から傷つけられることをだれよりも恐れる人なのかどうかはわからない。
孤独なさみしい人なのだろうということはなんとなくわかるが、
人の気持などわかるはずもなく間違っているかもしれない。間違っているのだろう。
果たして本当に山田太一さんに顔のあざのようなものがあるのだろか、という問題もある。
もしかしたら、だれの目にも見えず、あざはわたしにだけ見えているのかもしれない。
反対にそれはひどい思い上がりで、最初からあざなんて存在していないのかもしれない。

大きな思い違いをしているということもありうる。
わたしはまったく偉くないが、顔のあざは自分にあるのかもしれない。
自分のあざを恐れ多くも山田太一さんに投影しているだけとは考えられないだろうか。
人は突き詰めると自分しか理解できない。自分さえ完全には理解できない。
わたしは自分にあると思った顔のあざを、
山田太一さんも持っていてくれたらいいと思ったのではないか。
あるいは、自分だけではなく、みんな顔にあざを持っているのかもしれない。
山田太一さんのあざが人一倍大きいから目立つだけということも考えられる。
ならば、だれもが自分ほど山田太一さんを理解しているものはいないと思うものではないか。
そのことはみな謙虚なために、厚顔なわたしのようにおおやけに口に出さないだけで。
みんな自分だけのあざを持っているがために、
だれもが山田太一さんのあざを自分だけがわかっていると錯覚するのではないだろうか。

逆にこうもいえるだろう。
山田太一さんは大きなあざを持っているので、人のあざに敏感なドラマを書けるのではないか。
視聴者はときに自分にはあるとは思っていなかったあざまで自覚するようになる。
このとき山田太一さんはあざを指摘しているのではなく、視聴者みずからに自覚させている。
そういうことができるのは、何度も繰り返しているよう、
山田太一さんがひときわ大きなあざを持っているからとしか考えられない。
この大きなあざはいったいいかなる性質のものなのだろうか。
もしかしたら本人にもわからないものなのではないか。
それをわたしごときが指摘できると思ったのはやはり思い上がりも甚だしいのだろう。
この記事には山田太一ドラマのように結論はない。

「手離す技術」(桜井章一/講談社+α新書)

→副題は「20年間無敗、伝説の雀鬼の執着転換力」。
よく考えたら無敗は常勝ってことだから創価学会みたいだな。
いや、麻雀は4人でやるから無敗=全勝ではないのか(よくルールを知らないけど)。
4人いれば勝たなくても負けなければいいわけだから。

本書の内容をひと言で要約したら「捨てることは得ること」である。
失うってことはじつは得ることで、得たらその瞬間になにかを失っている。
常識とか知識を身につけるたびにまっさらな心を失っているんだろうな、きっと。
受賞歴とかすごいその人を縛りそうだもんな。
「おれは○○賞作家だ」とか思って、すなおになにかを学ぶ心を失ってしまう。
出世したら寄ってくる人はみな肩書目当てだから、
他人からしてもらう純粋な親切を失っていると言うこともできるのだろう。
で、金でも地位でも名誉でも得れば得るほど、どんどん死ぬのが怖くなる。

とはいえ、やっぱり得るのは嬉しいし失うのは怖い。
強がりでいいから失ったらラッキー、
得たらアンラッキーと口にしたほうがいいのかもしれない。
残酷な話だけど友情とか愛情とか、完全に失ってはじめて存在がわかるものってあるよね。
ああ、ありがたいことだったんだなァと。
父親がギャンブル中毒だったという雀鬼の桜井章一は言う。

「得たものは必ず失う運命にある――。
これはこの世に存在するありとあらゆるものに共通していえることである。
私の人生そのものも、得ては失い、得ては失い、その繰り返しである。
むしろ、「失うほうへ、失うほうへ」と
自ら進みながら生きてきたような気がする」(P150)


ギャンブル中毒とか金を失うだけでバカみたいだと思うけれど、
きっとお金はなくしてもなにかを得ているのだろう。
親がギャンブル中毒だったから、子どもがまっとうな金銭感覚を得られた、とか(笑)。
まじめな話、得失(損得)は二代や三代を見ないとわからないのかもしれない。

「運とツキに好かれる人になる」(桜井章一/宝島社)

→副題は「図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76」。
こんな本を読むなんてどれほど落ち目なんだろうな。
いま検索したら「運をよくする本」ばかり読んでいるブログを発見して(それもすごい数)、
思わず「おまえさ、もうちょっとがんばろうって気はないのか?」とコメントしたくなった。
運やツキというのはあるのかないのかわからないけれど、
あるとして見ないと世の中のことが理不尽、不合理だらけで精神科のお世話になってしまう。
精神を患うよりは、自称20年無敗のプロ麻雀屋さんにだまされたほうがまだいい。
はいはい、雀鬼さん、どうしたら運がよくなるんだい? うそついたら舌ぬくかんな。

・運命は変えようと思っても変わらないが、自然の流れのように待っていれば変わる。
・迷ったときは固定観念を捨てて直感にしたがって選択しような。
・勝負中の運はある潮目を境にがらりと変わることがあるからあきらめんな。
・五感を開放したら「偶然の運」ではなく「必然の運」が訪れることがあるぞ。
・迷うのはやめて無意識からの直感やひらめきに敏感になろう。目指せ無意識過剰!
・不安は考え始めるとどんどん大きくなる運の敵ゆえご注意あれ。
・見えないものを見るようにしよう。個に全体を見る。全体に個を見る。
・心に着込んだ衣服を脱いでいき素っ裸になり、まっさらなハートで自然を感じようぜ。
・運を引き寄せるには感激力、感動力、感謝力!(ブラック企業の社訓みたいやな……)
・人間関係に計算や駆け引きといったテクニックを使わないと運が舞い込む。
・「運よ来い」と力まない。力を抜いていると運の流れを感じられるようになるべ。
・世界は変化しているし自分も変化している。ふたつの変化を一体化させると流れに乗れる。
・樹木の「軸」は葉でもなく幹でもなくじつは見えない根っこ。すべての現象がそうである。

「脚本 コクリコ坂から」(宮崎駿・丹羽圭子/角川文庫)

→テレビで放送されたアニメを観ておもしろかったのでシナリオも読んでみた。
アニメの場合、だんぜんシナリオよりも映像のほうがいいね。
漫画をセリフだけ本のように読んだって楽しめないのとおなじこと。
実写映画は本と相性がいいけれど、アニメは漫画と一緒なのだと改めて思った。
「コクリコ坂から」があまりによかったから千円の日に「風立ちぬ」へ行った。
「そして父になる」にしようか迷ったんだけど、芸術映画みたいのはいやだなって思って。
アニメを映画館で見るなんて小学生のとき以来だ。
結果、「そして父になる」のほうへ行けばよかったと後悔した。

「コクリコ坂から」のよさは観客それぞれの少年少女時代を喚起させるところだと思う。
たぶんほとんどの感動は受け手それぞれの内部記憶と関係しているような気がする。
「風立ちぬ」だって元エリート技術者の定年老人が観ていたら感想はまるで変わるはず。
これはとても難しいことだけれど、作品をあまり押しつけちゃいけないのだろう。
受け手をもっと信頼して、受け手がイメージするものを
表現者は助けるくらいのほうがいいこともあるのかもしれない。
もちろん、そうではない押しつけ全開のような映画もまたあっていいとは思うけれど。

☆作者の表現+観客の記憶=感動♪

「プリティ・ブライド」(サラ・パリオット&ジョサン・マクギボン/藤田真利子訳/愛育社)

→アメリカ映画シナリオ。
結婚式直前で3度ドタキャンしたことのある恋愛依存症(ヤリマン)の美女が、
4度目までドタキャンしてついに新聞記者の美男子と結ばれると思いきや、
5度目もドタキャンして観客を驚かせるも最後は美男美女が結ばれハッピーエンド。
まあ「女性の自立」とか、そういうクソみたいなテーマがあんのかな。
恋愛依存症の美女は男が代わるたびにカメレオンのように自分の色を変える。
もっと自分を出せよ。
本当の貴女を好きなってくれる人を探せよ、みたいなメッセージ、たぶん。
あんがいチェーホフの「可愛い女」あたりをまじめに下敷きにしているのかもしれん。
でもさ、おっさんにゃ、どうでもいいんだよな。
なんで女ってだれとだれとが結婚するとか離婚するとか、
そんなくだらんことでワーワーキャーキャー騒げるの? ぶっちゃけ、どうでもよくね?
男女の相互理解とか、小説や映画以外の現実でほんまにあんのかいな。
わが国でもほんの30年くらいまえは、
女は男に黙ってついてこいで通じていたのが信じられない。
弱者を保護すると格好いいという偽善的態度が蔓延して(いよっ、ジェントルマン!)、
旧弱者(女性、身障者)が異常なほどの強者にいまはなりつつあるので恐ろしい。
強いものには降参するという賢い生き方を文化進歩国アメリカの映画から学習した。

英語学習のため恋愛依存症の美女のセリフを例文として載せておく。

"I charmed the one-eyed snake awhile ago"
「あたし、もうずいぶんまえにおちんちんの取扱い方なら憶えたわ」


「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

→庶民にとっては観音(菩薩)さま信仰というのがいちばん健全じゃないかな。
観音さまはけっこうどこにでもいるらしいし、うん、たのむなら観音さまがいい。
人間なんてさ、結局不安のかたまりなんだろうね。
いつだれに難病や交通事故、身体障害、精神障害が舞い込んでくるかわからないわけだから。
みんな自分だけは大丈夫って思っているけれど、よく考えたらまったく根拠がないよね。
今日交通事故でグシャグシャになった人も昨日までは自分だけは大丈夫と思っていたわけで。
話はずれるけれど、不謹慎な話、交通事故で一瞬にして死ぬのは、
もし選べるのならかなりおいらのなかでは上位に位置する恵まれた死に方である。
そういう死に方もふくめて、人生には我われの力で決定できないことがたくさんある。
そこで観音信仰ですよって話なわけである。
「観音さま、助けて」と祈ることができたら、不安や心配は軽減するはずである。
なにもわざわざ精神科に行って抗不安剤をせしめてこなくてもよくなる。

この本にも、なーんか不幸な男の人の話が載っていた。
家が貧乏で中卒で就職するが、すぐに母親が死に、会社もつぶれてしまう。
病気になったり職を転々としているうちに頼みにしていた父親も死んでしまう。
30半ばでようやく落ち着ける工場が見つかり経営者にも信頼される。
遅くなったがそろそろ嫁さんでもと思った矢先、工場の事故に巻き込まれ身体障害者になる。
結婚も労働もかなわず世を恨みながら50近くなって、やっと観音信仰に行き着いたという。
ひとり不自由な身体で観音さまのまえに這いつくばっていき愚痴を言うのだという。
どうして自分ばかりこうして不幸なのかと。そうしたら心が落ち着きをみせたという。
しだいに運命を呪う気持も人を恨む気持も消えていった。

いやあ、世の中にはついてない人っていっぱいいるんでしょうね、はあ……。
まあ呪うべき運命のようなものは目に見えないから、
観音さまという形として現われてくれると中卒の人は
それだけで救われるところがあるのでしょう。対象が明確になるわけだから。
結局、こんなもんなんでしょうね。ついてるやつはついている一方で、
ダメなやつはなにをやってもダメで不運しか舞い込まない人生というのもれっきとしてある。
できることといったら観音さまを拝むくらいしかない。
三世因果説というのは本当によくできていると思う。
どんな不運や不遇も前世のせいにしてしまえば人を恨まずに済む。
もう現世はダメかなと思ったら、来世に希望をつなげばいいのだから捨て鉢にならずに済む。
いや、現世がもうダメだと思ったら捨て鉢になるのも個人的にはいいと思う。
そうしたら運が開かれることも絶対にないと決まったわけじゃないんだから。
なにが起こるかなんて観音さまくらいしか知らないんじゃないかな。
ふうう、ねえ観音さまよ、どうしてこんなに運が悪いんでしょう?

「わたしたち人間の世界はまことに不平等であり、非条理、不合理なものですが、
今栄えている人は前世に功徳を積んだ人だし、一生懸命にはたらいてもうだつの
上がらないわたしの現実は過去世の悪行の故だと考えられました。
つまり、過去世から現世にかけては、現在の不平等を説明してくれましたし、
今度は現世から来世にかけては、今苦しくても功徳を積む正しい生活をすれば、
来世にはよい境遇に生きることができる。
こうして業・輪廻の思想は、長い目で見ると、
バランスの取れた考え方として人々に受容されました」(P119)


なんてこったい。おいらは観音さまに質問したのに、
駒沢大学学長(当時)の奈良康明先生がお答えくださったじゃねえか。
どうして奈良先生は恵まれており、一方で不遇な人がいるのか。
これは学長先生の教えにしたがうならば、前世の功徳の差が原因でしょう。
ならば、べつにことさら奈良康明先生が偉いわけでもなんでもねえ。違うかい?
だのに、先生ったらこの本で「努力しよう」と何度も説教している。
まーるで自分は努力のおかげで出世したようなつもりなんだから、けっ!
おいらにゃ学問はいらねえ。観音さまだけいてくれりゃあいい。
困ったときは効き目があるのかどうか知らねえが観音経を読ませていただくよ。
なにせご利益たっぷりのお経だからな。
え、なに? 釈迦と観音さまは関係ねえ? 知ったことかい。
おいらは釈迦なんて朴念仁はごめんだね。

「天才だもの。 わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか」(春日武彦/青土社)

→この「天才論」はもうおもしろすぎて、いまもところどころ読み返して笑いがとまらないため、
哀しくもおのれの文才のなさを思い知らされ、
とてもではないがわかったような感想など書けず、
作者の春日武彦氏は天才ではないかとも思いたくなるが、
しかし氏の定義によるとやはりこの精神科医は残念ながら天才ではないことになってしまう。
わたしは春日さんこそ天才ではないかと声高に主張したいのだが、
この一冊だけでも天才学の権威を名乗るにふさわしい春日氏は決して認めてくれないだろう。
というのも、春日武彦さんは自身の定義する「天才」と適合しないからである。
春日武彦はなぜ「天才」ではないか――。

・作家として遅咲きである。天才というには今現在あまりにも長生きしすぎている。
・怒られそうだが、天才の顔(美男子)ではない。華々しさに欠ける。
・下品であるものの「どぎつさ」や派手さ不穏さがいまいち感じられない。
・邪(よこしま)な気配はそれなりにあるが、いかがわしさと騒々しさが足らない。
・人を振り回すエキセントリックなところが皆無の、陰湿だが内省的な性格である。
・万民から嫉妬されるには存在がマイナーで退屈すぎる。
・まったく破綻のない堅実な人生を送っている。
・小心者のため冒険心に欠け、酒、薬物、賭博、性行為等の快楽に夢中になれない。
・ちまちまと小さくまとまりすぎで、どうしても底の浅さが見透かされてしまう。
・嫉妬心は強いが、権威者とうまく人脈を作れる程度の常識と社会適応能力を持っている。
・「世間を慌てさせたり、絶句させたり、混乱させたり」する狂人を管理する職業に就く。
・医者は社会的評価の高いお堅い職業で、キッチュでチープな非日常的世界の住人ではない。
・生意気ではあるが「まっとう」な俸給取りで、熱中や気まぐれ、瞬発力、突飛さに乏しい。
・職業柄、あくまでも科学的思想にとどまり、偶然や人知を超えたものを信用できない。
・職業柄、小市民的な善悪の判断など笑い飛ばすような危うさがまったく感じられない。

春日武彦さんはこの名著をある心残りから書いたのだという。
精神科医いわく、人はだれでも生まれてくる直前に神様から問われている。
その神様は、きっと白い髭(ひげ)を生やし杖を手にしたステレオタイプなものだ。
そんないかがわしい神様から我われはいったいなにを問われたか。
「お前は苦渋に満ちた天才の人生と、平穏無事な凡人の人生と、どちらを選ぶか?」
著者によると、この問いに大概の人はつい後者を選択して生まれてきているのだという。
とはいうものの、この選択への未練は生涯つきまとう。
春日武彦さんはうっすらとこの胡散臭い神様のことを憶えているらしい。
そして、いまだにいい歳をして春日医師は後者を選んでしまったことを物足りなく思っている。
たとえ虚言癖から生じるものであろうと武勇伝を語るような人生を送ってみたかった。
変装が趣味の愉快犯のように世界を挑発しつづけ、
捨て台詞を残して早々とこの世からおさらばしたかった。
いまからでも遅くはないのではないか。
どこかに隠し扉があって「文字を持たない町」へ行けるのではないか。
後者を選んでしまった我われもまた潜在的な天才ではないか。
不足しているのは運と奇矯(ききょう)さだけとは考えられないか。
もしも願いがかなうのならば、禍々(まがまが)しい天才の世界に飛んでいきたい。
そんな夢想を表現したのがこの名作エッセイなのである。

春日武彦氏は天才の対になる言葉は凡才ではなく詐欺師ではないかと指摘する。
わたしは天才と対になる言葉は円熟ではないかと思う。
当方の円熟とは、パターンの繰り返しであるマンネリズムが深まったもの程度の意味。
おそらく春日さんも少なからずそういう傾向があるのではないかと思うが、
わたしは天才作家よりも円熟作家のほうを好むところがある。
もちろん、若くして彗星のように現われ、世から認められた天才への嫉妬がたぶんにある。
たとえ、その天才がその後に落ち目になり、
ほぼ運命にもてあそばれた被害者同然になったとしても旧天才は嫌いである。
若いうちに一度でもいい思いをしたのなら、まだましだろうと意地悪く思ってしまう。
そもそも天才の作品は感受性が鋭敏な多くのプチ天才から評価されるものだろう。
わたしは恥ずかしながら、そういう鋭い芸術的センスを持ち合わせていないのだ。

何度でも言うが、天才は嫌いである。
覗きで逮捕されたような張りぼての天才児・寺山修司よりも山田太一ドラマを好む。
豪放磊落ぶった躁うつ病の開高健よりも、せこせこした庶民派作家の山口瞳が好きだ。
美男子の中原中也や尾崎放哉よりも、サラリーマンに人気の通俗的な山頭火のほうがいい。
よく憶えていないが、深沢七郎の「楢山節考」よりもたぶん井上靖の「姥捨」のほうがいい。
文学の香り高い南木佳士氏もいいが、俗悪で下品な春日武彦氏のほうがおもしろい。
たしかに後者はどことなくマンネリのにおいがするが、それこそ円熟の味ではないか。
しかしだ、はてまあ、いったいどうして
山田太一、山口瞳、山頭火、井上靖、春日武彦の各氏が天才でないと言えようか。
本音を白状すれば、わたしは週刊「スピリッツ」に掲載されている
くだらない(と世間的には言われる)漫画からも天才性を感じることがある。
これはきっと春日武彦さんもおなじだろう。

「ビュッフェ[有名なフランスの画家らしい]を天才だと言いつつも、
わたしの頭の中では彼の絵も漫画も缶詰のレッテルの絵も、すべて同等でしかない。
だが、世の多くの人々も、案外そんなものではないのだろうか」(P139)


さて、狂人を支配・管理・指導する精神科医は天才という存在をどう見ているのか。
名著に敬意を表しながら、以下に要点を引用させていただく。
狂人はかならずしも天才ではないが、
しかし精神科医の春日氏によると、天才もまたかならずしも狂人ではないという。
どうしてか我われは天才と狂人は紙一重という通念から逃れられない。
天才と狂人の関係を精神科医はどのようなものとして思っているか。
むろん、精神科医の答えだからといって唯一絶対の「正しい」回答ではないが、
少なくとも傾聴に値するものではあろう。

「狂人と天才の決定的な違いとは、安直さの有無である。
精神を病んだ人は、我慢ができない。
性急で、地道に物事を進めることが出来ない。
すぐに事態を分かりやすい形にしなければ精神が耐えられない」(P18)


「狂気の人と天才とのあいだに通底するものがあるとすれば、それはおそらく孤独である。
どちらもメーターの振り切れた存在といった点では、常人には近寄り難い。
それがために世間からは孤立し、誤解され、冗談の肴(さかな)にされる」(P19)


数学者の秋山仁教授はかつて質問されたそうだ。
「フェルマーの最終定理」を持ち出した17世紀の弁護士ピエール・ド・フェルマーと、
その問題を解いた現代の米MITのアンドリュー・ワイルズのどちらが優秀か。
秋山教授は即座に「フェルマーに決まっている」と答えたという。
これを説得力のある意見だと春日氏は同感する。

「問題を解くことには与えられた目標がありそれへ向けての「作業」といった趣がある。
だが、問題を作るほうは、
とりとめのない森羅万象の中からひとつの謎を抽出して提示する。
作るほうが、突飛な精神が必要なのではないか。
あるいはトリックスター的な才能を必要とするのではないか。
少なくとも何か野放図で、のびのびとした精神を感ずるのである」(P96)


以下の引用文の「写真」を「小説」に、「相手」を「モデル」に換えると文学論になる。
そうそう、「撮影」は「描写」くらいの変換が適切か。

「これは凄いなあと思う写真の中には、考えてみれば、
よくもまあ相手に胸倉を掴(つか)まれなかったものだと呆(あき)れさせるものや、
これをぬけぬけと撮影するなんて人の道から外れているのではないか
といった驚きが根底に横たわっていることがときたまある。
罰(ばち)が当たらないだろうか、とか。
そのあたり、本人なりに弁明は考えているのだろうが、おそらく悪魔だか窃視者だかに
徹することが出来るかどうかが作品の迫力に反映することも少なくあるまい」(P158)


これこそまさにわたしが春日武彦氏の作品を読んで思うことなのである。
そこまで患者の悪口を書いて、いままではいいが、これから罰が当たるのではないか。
そのくらいおもしろおかしく春日さんは職業上知りえた秘密を嬉々として公開しているのだ。
モデル本人が読んだらと思うと、あまりにも残忍でグロテスクなため震えが起きる。
精神科医の春日武彦をわたしがある種の天才だと思うゆえんである。
よく読みもしないくせに厚顔にも言い放つが、
現代小説よりも春日氏の作品のほうがよほど強く文学を感じさせるのはこのためである。