政治のことはよくわからないし、だれもわたしの政治的見解なんて興味がないだろうし、
さらに身もふたもないことを言い放つと政治は
自分とはまったく縁のない多数派の事情だからブログにはこれまでいっさい書かなかった。
この記事も暇つぶし程度でたいした意味はない。
ふといま思ったのである。
政治屋さんの渡邉美樹先生と山本太郎先生はそっくりな顔をしているのではないか。
顔を源泉までたどれば身障者利権の親玉「五体不満足」の乙武先生とおなじだ。
自分は正しい、自分は善いと盲信したかのような自己陶酔および自己愛に満ちた顔つきが
三者ともに非常によく似ていると思う人はわたくし以外におられませんか。
嫌いと言ってしまったら元も子もないのでこう書いておきましょう。
御三方のどこかきなくさい被害妄想的な気配はときに庶民の共感を誘うものなのだと思う。
他人がやらないことをするのはいいとも思う。
だが、それが多数派工作に見えてしまうようなところが評価が分かれるのだろう。
みんなのためではなく自分のためにおかしなことをする奇人変人を、
どういうわけかわたしは愛しているようだ。世の価値観と異なるのは承知しております。
うらら、うらら、うらうらら~♪
日陰者のためなんでしょうが、裏道や裏技、裏入学、恨み、占い――
――裏はなんでも好きなところがある。
裏とは隠されたものという意味だと思う。
裏好きは、秘められたものを見たいという心理ではないかと自己分析している。
だから、はい、必死で表の人には裏を隠してほしいのである。
ネットで検索したらすぐにばれるような裏にはまったく興味がわかない。
相手が真剣に隠したいと思っているものこそ、まさに見たいのである。
なにもかもぶっちゃけてヌードになっている人のどこが魅力的なのかわからない。
隠しているところがその人のチャーミングポイントなのである。
演技でもいいから隠してほしい。恥ずかしがるポーズを作ってほしい。
ど変態のようなことを言うが、恥ずかしがっている裸体こそもっとも雄弁なのである。
「くぱぁ」はやめてくれということだ。
もちろん「くぱぁ」にもそれなりのよさはあるのだろうが、あれは飽きる。
秘密を懸命に保持する人こそ美しいとわたしは思う。
間違っているのかもしれないが、わたしにとって美とエロは同義である。
いかに見せないかが私小説のうまさだと思う。
意外と知らない人もいそうなので、侮蔑の法則を書いておきましょう。
なにかの職業をバカにしたかったら(いくらネットでも実名でやっちゃいけませんよ)
屋をつけるといいんです。
銀行員と聞くとお堅くてまじめそうですが、銀行屋さんというとなんかゲスでしょう。
外資系証券会社などというと格好いいですが、要は株屋なわけですから。
「さん」をつけるのもバカにするニュアンスがよく出ます。「先生」とおなじ仕組みです。
弁護士は法律屋さん。編集者は出版屋さん。プロデューサーは電波屋さん。
どんなエリート職業も身近な八百屋さん魚屋さんレベルにおとしめることができます。
薬剤師がどれほどお得な資格かはわかりませんが、薬屋さんなわけですよ。
床屋さんもいまは差別用語に近く、放送屋さんではピーがかかる言葉なのでしょう?
屋という言葉の差別的トーンがよくわかる実例であります。
居酒屋もそのうち放送禁止用語になって大衆酒場やバーにチェンジするのかもしれません。
国民的人気漫画の「美味しんぼ」は左翼臭が強すぎてちょっとついていけないところがある。
いまの連載でさんざん福島の放射能の危なさをあおっている。
あれは福島県民は読まないほうがいいような気がする。
とはいえ、わたしが放射能県民で「スピリッツ」を購読していたら読んでしまうだろう。
不勉強なわたしの意見だが、福島のことは徹底的に「わからない」のではないか。
たぶん歴史上かつてなかったことがいまもいま福島で起こっているのだと思う。
どうなるかはだれにもわからない。
わかる人がいるとしたら、たとえば百年後の日本人である。
たいへん不謹慎な物言いだが(ごめんなさい!)、百年後には
とても人為的・道徳的にはできない人体実験のすばらしい統計が取れているような気がする。
どのみち人は死ぬのだし、
いくら確率(リスク)が上昇しようが運の強い人は逃げ切れるのだから、
わたしは福島の問題はそれほど心配していない。そういうものなのだろうと思っている。
というか、よしんば本当のことを知ってもどうにもならないのではないか。
本当のことを知っても移住できる人ばかりではないと思う。
あなたはガンで3年後に死にますと告知されても大半の人が困ってしまうのとおなじである。
確率はどうしようもなく「所詮は他人事」であり、
あなたやわたしの人生を実際問題として左右するものではない。
このことを実体験としてよくわかっているから、
わたしは放射能のことを震災以後もまったく気にしていないのだろう。
ついつい裏を見たがるのは我われいやしい庶民のかなしき性(さが)だと思う。
でもさ、裏を見てもつまらないんだよね。
裏を見れば見るほどがっかりするようなところがある。
ああ、ぼかしが入った表を見ていた時代のほうがよかったんだろうなと後悔する。
で、取り返しがつかないことに一度裏を見てしまうと
まずモザイクのかかった表はもう見(ら)れないだろう。
ぼかしの入ったもので喜んでいる人がまるでバカみたいに思えてしまう。
ほんとうはそうじゃないんだと言いたくなるが、同時にほんとうがなんだという思いもある。
これはアダルトの話ではなく、社会全般のことを論じている。
いまの高校生はネットのせいで裏がすべてわかったような気になり退屈を感じないのだろうか。
結局は親(遺伝子)、顔、学歴、会社名、コネなんて裏を知っていったいなんになるのだろう。
どうしようもないことにひとたび知ってしまったら、知らないまえには戻れないのである。
隠し扉は「くぱぁ」と開けないほうがいい。裏は見ないほうがいい。
けれども、裏を見るスリルはたまらないものがあるのもまた事実である。
困った時代だ。まったくいい時代だ。あまりにも恵まれているせいで我われは悲惨である。
自分が邪悪であることをわかっている人は好きである。
派手な喧嘩をおっぱじめて周囲を巻き込むのはたいがい正義の人(国)同士である。
邪悪を自覚しているような人には、なぜか正義の人も喧嘩を吹っかけてこない。
うっかり喧嘩をするとおのれの邪悪さに気づいてしまうからかもしれない。
正義ほど怖いものはないと思う。
なぜなら正義の名のもとに人はなんでもしてしまうからである。
正義のためなら人を傷つけてもいい。原爆を落としてもいい。相手国を滅ぼすのが正義だ。
正義を主張しない新興宗教団体があったら覗いてみたいが、
寡聞にしていまだ出会ったことがない。
正義を気取る人はみな自称善人である。
おかしいのかもしれないが、わたしは少なくとも自称善人よりも自称偽善者のほうが好きだ。
自称善人は邪悪なこちらになにを仕掛けてくるかわからないので恐ろしい。
悪をつぶすためならなにをしてもいいと思うのが自称善人である。
自称善人はおのれの心中にひそむ悪を他人(他国)に投影してよしとする。
人間なんてそんなものだろうとわかっていながらも、正義の人は好きになれない。
そういえば「善き人たちの連帯」を書きたい言っている偉い小説家の先生がおられる。
彼は自分(たち)のことを善人や正義と思っていそうなので、その幼児性にアワを食ってしまう。
たとえば、こういうことを言う人がいたとしよう。
自分はカナダ留学経験があるが、実は英語が苦手である。
彼にもっとも言ってはいけないことはなにか。
それは「ああ、本当に英語がへたくそなんですね」である。
これを言ったら烈火のごとく相手は激怒して一生恨まれるかもしれない。
「そんなことはないですよ。英語、お上手ですね」が正解だ。
もてないアピールをしている男女に「本当にもてないんですね」を言ったら、
たとえ殺されてもそれほど大声で文句は言えないような気がする。
謙遜は相手のいちばん触れてはならないところが露見しているのかもしれない。
わたしは世間知らずを自認しているが、
他人から世間知らずを指摘されたときは真っ赤になって怒る。
謙虚で腰が低い人ほど怒らせたらなにをするかわからないような凄味がある。
見たことはないけれどフェイスブックで自己アピール(自慢)ばかりしているような人の
薄っぺらさにはどこか安心を感じてしまう。
謙遜が怖い。就活で自分の短所を言わせる居丈高な面接官よりも怖い。
むかしインド個人旅行で学んだ口喧嘩の仕方を書いておきましょう。
なにより重要なのは相手よりも大きな声を出すことです。
日本語も英語も通じなくても、声の大きさで相手を圧倒することが肝心です。
それから怒っているふりですね。
まあインドだからこんなもんだよな、と内心では思っていても顔に出してはいけません。
最終的に勝利するのは、怒っているアピールのうまいほうだと知りましょう。
使えるものはなんでも使いましょう。
一刻も早く相手の弱点を見つけ出し、弱みという傷を言葉のナイフでいたぶるのです。
いかに周囲の人を味方に引き込むかが結局のところ勝敗を分けます。
たとえ自分が間違っていても、多数派になれば相手に勝てます。
正義とは多数派の別名であることを腹の底まで知っておくべきです。
これは自分がどこまでも邪悪であることを認めることでもあります。
正義なんてどこにもないことを理解すれば、多数派がイコール正義だと納得できるでしょう。
悪いほうが勝つことが多いです。ならば、勝ちたかったら悪くなることです。
インドでは1日1回は口喧嘩をしていました。
インドの商人は白人も日本人も分け隔てなく騙そうとしてくるのでさすが仏陀の国であります。
自分は韓国人だといつわると商人のあきらめが早くなるという噂はなんだかリアルでした。
インドを旅行する日本人のお人好しぶりには同国人ながら悲しかったですね。
ああ、インドはなんてすばらしい国でありましょうか。
悪女にも似た美しさがインドにはございまして若い方にはおすすめの旅行先であります。
ぜひぜひ自己主張(口喧嘩)の仕方をインドでお勉強してきてほしいものです。
最近生まれに肯定的になって下卑た言葉を収集している。
いま脳内でぶんぶんうなっている下品低劣な言葉は「ははーん」だ。
「ははーん」という言葉の精神病的な響きがたまらない。
安っぽく裏を読んだようなありきたりで庶民的な猜疑心が「ははーん」に結晶している。
テレビを見ながら「ははーん」と裏を知っているかのような素振りをするみみっちさが最高だ。
作り笑顔で内心では「ははーん」のダムが洪水を起こしているような人はいい。
いいとは自分みたいで笑えるということだ。
さあご一緒にあたかも名探偵にでもなったかのように言ってみようではありませんか。
「ははーん」――おれは騙されないからな、裏は知っている、
おれをだれだと思っているんだ、おたくさんは、ハハハ。ははーん。ははーん。ははーん。
インテリの有名人には絶対に言えないことを思いきって申し上げましょう。
それは、そう、庶民は怖い、であります。
本をまったく読まないでテレビばかり見ているような不勉強な庶民って怖いよね。
テレビの街頭インタビューで政治に意見するようなありきたりなバカは日本の膿(うみ)。
テレビの言うことを真に受けてテレビ的行動をする人は死んだほうがましではないでしょうか。
「夢を持とう」とか本気で言っている夢のない大人が嫌い。
本気で努力すれば夢がかなうと信じている子どもが嫌い。
チープな恋愛ドラマに安っぽく感動して婚活では相手の年収ばかり気にする女が嫌い。
要するに庶民が嫌い。これは自分が嫌いということだから批判は受け付けておりません。
人を笑っちゃいけないので注意していることを書きましょう。
プロフィールが長く、やたら知り合いの有名人の名前を出す人には注意しましょう。
こういう人はプライドが異常に高いので、
あなたの親しみの微笑も嘲笑と受け取り激怒することがままあります。
メールや手紙、ブログ、つまり文章でひんぱんに難しい漢字を使う人も要注意。
学歴が低かったりするので、「おれを舐めるなよ」と殴られるかもしれません。
レターにカタカナがイッパイあるピープルにもビーケアフルですな。
マイナー会社のビジネスマンで社名にコンプレックスを持っている人かもしれなく、
あとでネットで陰湿なリベンジをされるかもしれません。
総じて大物ぶる人には注意が必要です。
わたしのつたない経験ですが、ほんとうに偉い人に偉ぶるような人はたぶんいないでしょう。
そうそう、他人をやたらキチガイ扱いする人も本人がキチガイの可能性があるので要注意です。
聞いてもいないのにしつこく庶民アピールする人もなんだか怖い。
いつも笑みを絶やさない人も腹黒そうですね。
男「きみ、そこのきみ!」
女「はあ?」
男「電車内で化粧をするのはやめなさい!」
女「なんで?」
男「私が不快だからだ」
女「見なければいいでしょう」
男「うるさい!」
女「はあ?」
男「きみはものを知らない」
女「大丈夫?」
男「この国には対話がないんだ。対話をしよう」
女「したくない」
男「私をだれだと思っているんだ?」
女「だれ?」
男「○○大学教授だ。この名刺を見なさい」
女「へえ」
男「へえ、とはなんだ! きみはものを知らないな」
女「だから、なんなの?」
男「ああ、きみは高卒だな」
女「だったら、なに?」
男「きみはカントを知っているか?」
女「え?」
男「私はカントの研究者なんだ。ドイツで博士号を取った」
女「そう」
男「まだわからないのか。きみはものを知らないな」
女「なにを知らない?」
男「きみにもわかるように言おう。私は東大を出ている」
女「すごい」
男「ようやくわかったか」
女「なにが?」
男「電車内で化粧をするのはやめなさい」
女「やめた」
男「わかってくれたか」
女「もう終わったから」
男「なんだ、その言い草は! 私をだれだと思っているんだ?」
女「だれなの?」
男「きみはものを知らないな」
女「あんたはなんなの?」
男「私は東大卒でドイツで博士号を取った著書多数の大学教授だ」
女「ふーん」
男「女はバカばかりで困る」
女「バーカ」
男「やっぱり人はわかりあえない」
男「ショーペンハウエルがこう言っています。(…略…)」
女「へえ」
男「カントがこう言っています。(…略…)」
女「そう」
男「あのニーチェがこういうことを言っています。(…略…)」
女「(だから?)」
男「わかっておられないようですが、ヴィトゲンシュタインはこう言っています。(…略…)」
女「(なによ?)」
男「わかりませんか?」
女「(なにが?)」
男「むすっとしているのはなぜでしょう?」
女「なぜでしょう?」
男「あなたのご両親の学歴をお聞きしてもいいですか?」
女「はあ?」
男「……」
女「帰ってもいいですか?」
男「待ってください」
女「どうして?」
男「わからない」
女「なにが?」
男「それは……」
女「ニーチェも教えてくれない?」
男「はい」
女「なに?」
男「いや……」
女「じゃあ、もう帰るね」
男「待ってください」
女「どうして?」
男「聞きたいことがある」
女「あたしは哲学者じゃないけれど、いいの?」
男「はい」
女「なに?」
男「あなたは処女ですか?」

こういうセリフのやりとりが山田太一ドラマ「想い出づくり」にあったことを記憶している。
うっかり「想い出づくり」のビデオ(DVDではない)を新宿ツタヤで借りてしまったから、
のちにシナリオ本を買いあさり研究家を自称するようになってしまったのである。
「ありふれた奇跡」がいちばん好きだが、「想い出づくり」も哀しいまでにいい。
泣きたくなるほどにいい。YouTubeで「想い出づくり」の映像を見て何度泣いたことか。
いいのである。いいとしか言えない。
落伍者の当方はされた経験がないが、成功者は人生相談をされることが多いのだろう。
これはもう人間のどうしようもないところで、人はだれもが自分の人生しか知りえない。
「自分の人生でこうだったから」という理由でしか人生相談に答えようがないのである。
しかし、そうです、まったくみなさまのご賢察の通りで、
ある人の成功法則がべつの人にもそっくりそのまま当てはまるわけでは断じてない。
ある人が成功したときの環境とまったくおなじ境遇というのは絶対にないのである。
このことを深く諦念とともに知っていたら助言や忠告、説教はできなくなる。
自分の人生でたまたまそうであったこと(偶発事)が、
どういうわけで思い上がった成功者の先生には人類普遍の法則のように思えるのだろう。
自分が自分の人生体験からしか学べなかったように、
人生相談相手もその人の経験するであろうことからしか学べない。
このことを熟知した哀しい断念の人はどのような人生相談にもこう答えるのであろう。
「やりたいようにやればいいんじゃないですか」
「好きなようにやるのがいちばんです」
「自分がこうしたいと思ったようにぜひともやってください」
これはわたしだけかもしれないが、漫画、雑文、脚本等でどこに感動するのか。
ちなみにわたしは漫画の感想はいっさいブログに書いていないが、
数年まえにブックオフ105円漫画本を解禁してから楽しくてけっこう読んでいる。
もっとも安くなるのは在庫過剰の売れ筋の漫画ばかりだから偏(かたよ)りはあるだろう。
著作権者には非常に申し訳なく思っていて、いつかひと山当てたらすべて定価で買います。
さて、漫画に話を戻そう。どこにわたしは感動するのか。
ああ、ここは作者が描きたくて描きたくてどうしようもなかったんだな。
ここだけは描かずにはいられなかったんだな。
この部分を描くために生きていたという入魂を感じさせるところである。
いちいち書かないが「スピリッツ」系の新人賞受賞作品に深く感動することもある。
いちおう書いておくと、たとえば「月刊スピリッツ」先月号掲載の「地の底の天上」は震えが来た。
たまたま最近読んだものを書いたが、漫画ではこういう感動がひんぱんにある。
漫画というジャンルには底知れない芸術性があるような気がする。
漫画家にはとうていかなわないと思うので作者が新人でもまったく嫉妬しないのもいい。
漫画家さんに言いたいのは、だれかが読んで感動しているということ。
たとえ新人さんの描いた漫画でも、読者アンケートがかんばしくなくても、
わたしのような名もなき人間がしっかり何度も読んで深く感動しているかもしれない。
下手をすると漫画が日本最高の芸術ではないかと最近は思っているわたしは、
漫画家さんには老若問わずがんばってほしいのである。
どうか描きたいものを描いてください。
編集者や読者アンケートもたいせつでしょうが、描きたいものを描いてください。
どう考えても地頭(じあたま)が悪いのである。
悪いのは現在の地頭(じとう)たる地方公務員ではなく、わたしの頭が悪い。
みんながうっすらわかっていることを意地悪く書くと、たぶん結局は遺伝子なのだ。
いまの若者は努力しないと嘆く成功者がたまにいるが、努力できるのも遺伝子ではないか。
地頭(じあたま)もかなりのところが遺伝子ではないかと思う。
両親はどちらも尊敬しているが(そりゃあ、いろいろありましたが)、
残念ながら父母ともに本を日常的に読むようなインテリではなかった。
いわゆる下層民だったのである。
年齢のせいか読書をしていても限界を感じることが多い。
これは地頭(じあたま)の差だなァとため息まじりに思う。
むろん、継続は力なりというのも真実だ。
こんなおバカなわたしでも(錯覚の可能性もあるが)、
読書を続けたおかげでかなりのことがわかるようになっている。
よくわからないが、
たぶんまえに読んだ本に書いてあった内容があとに読む本の理解を助けるのだろう。
それでもわからないものはわからない。ほんとうにわからないものはある。
しかし、わからないのも才能なのだろう。
わからないからわかろうとする。
自分の(出来の悪い)頭で考えようとする。自分の言葉で書いてみるしかない。
こんな低質の読書ブログをお読みくださる方が少数ながらいらっしゃるのは、
劣悪な地頭(じあたま)のおかげかもしれない。ならば、両親に感謝しなければなるまい。
あらゆる人生相談に「ソープへ行け!」と答えたという有名作家がいるそうだが、
その真似をしてみるとかなりの苦悩が
「インドへ行け!」で解決してしまいそうな気がしなくもない(間違っていますからね)。
うまいこと死ねないかなァと甘いことを考え、
高額旅行保険をかけてインドをビザぎりぎりの長期間ぶらついたことがあるけれど、
ぶっちゃけインドへ着いた瞬間、死ぬどころではないことに気づいた。
とにかくインド人がむかつくのである。
近づいてくる9割のインド人が詐欺師で嘘をついている。
酒を安く飲ませるレストランに入ると5割以上の確率で釣銭をごまかされる。
一度指摘した店で二度も三度もやられるのである(正直、殴ろうかと思った)。
インド人は行列できない。自分の非を決して認めない。そのくせ自己主張が異常なほど強い。

インド人に対抗するには、どうしたらいいのか。
徹底的に他人を信用せず、烈しく自己の欲望を主張するしかない。
要するに、言語が通じる通じないのレベルを超えて喧嘩するしかないのである。
お人好しの日本人がいっぱい高額ツアーを勝手に組まされていた。
そのくらいならまだいいほうで睡眠薬強盗に遭った日本人の体験も複数拝聴した。
軽々しく他人を信じるな。自己主張を怠るな。
このふたつがインドから実体験で学ぶことができる教訓だが、味わえるのはこれだけではない。
わたしなぞはインド89日間、1日たりとも酒を欠かさなかったら、
かなり危ないところに行ったり危ない人とやりとりしたりしているのである。
にもかかわらず、なぜか事件には巻き込まれていない。
ガイドブックの「地球の歩き方」を何度も読み返している人たちがトラブルに遭遇しているのに。
このことからなにがわかったのか。身もふたもないことだが、結局は運ということである。
どれだけ危なっかしいことをしても運がよければわざわいから逃れることができる。
いくら注意深くガイド本の忠告を守っていても強盗に遭うときは遭う。
強盗の被害を受けてから、
さらにそのうえアメーバ赤痢になるものもいる(たしかにいた!)のである。

さて、いまのわたしも苦悩ばかりである。迷いに迷っている。
だれかに相談して「インドへ行け!」ろ言われたら、どう応じるか。
「いまさら行きたくありませんよ……」
だが、元気がないときにしろうとの書いた写真いっぱいのインド旅行ブログを閲覧する。
なぜか涙が出るほど懐かしく、まだまだと思う気持がよみがえってくるのである。
だから、「インドへ行け!」なのだろう。人は体験からしか学ばないようなところがある。
「本の山」をお読みの少数の読者さまはお気づきでしょうか。
うちの読書感想文には、ちょっとびっくりするくらい西洋人と女性の本がない。
レディーファーストみたいなカタカナの思想が嫌いなのである。西洋が気に食わないのだ。
むかしは白人や女人の本も分け隔てせず読んでいた。むしろ崇高なものと思っていた。
だが、東南アジアをボケながら徘徊したときに白人根性というやつにうんざりしたのである。
西洋人がどれほど東洋人を見下しているのか知らないものは幸いだ。
ギブミーチョコレートの世代は白人女性から微笑を送られたくらいで
一生モノの感動をしてしまうそうだが、それはうちらの世代にはとても理解できない。
カントやニーチェをありがたがるのが(ヴィトゲンシュタインもそうだぞ、そこのおまえ!)、
まるで戦前の天皇崇拝とそっくりおなじように見えてしまうのである(忌まわしき黄猿根性!)。
アメリカのポジティブ心理学やらを科学的だと崇め奉っているのも同様だ。
なんでそんなに死にかかった高齢者どもは舶来品コンプレックスが強いのだろう。
ネトウヨの自国愛も気持悪いが敗戦国民劣等複合にもついていけない。
いまうっかり世代論めいたものを書いたが、
うちらの年代でも男女論に移行したら西洋かぶれの女郎(めろう)は多いだろう。
なんで茶髪にするんだよ! 黒髪のほうがよほどいいだろう!
仏教思想をなにも知らない老いた黄色い猿どもが、
西洋哲学という似合わぬ背広を着ていばっていることこそ、わが国の恥ではあるまいか。
おっさんになったという証拠かもしれないが、魔が見えてきたのである。
わが国のなかで女子高生ほど禍々(まがまが)しい存在はないのではないか。
このまえ駅ビルで空いたエスカレータに乗ったとき、
少し上にミニスカートの女子高生がいたので、なぜだか早足で横を通り抜けた。
通勤通学のラッシュで大勢の人がいたら、
そういうことはしなかっただろう(というか、そもそもできない)。
性的ベクトル(趣味)が違うからやらないが、
スマホをスカートのなかに突っ込みたくなる男の気持は少しわかるのである。
いま最初に「よくわかる」といったんは書いて慌てて削除したことを白状しよう。
もちろん、それは好きではないので今生ではまあたぶんいや絶対にやらないだろう。
ただし好きならやっていたかもしれないとは思う。
(ちなみに携帯電話はスマホではないし、換える気もないし、カメラ機能はほとんど使わない)
現代でいちばん割に合わない犯罪は盗撮だと思う。
不謹慎なことを書くと、スカートのなかにスマホを入れたくらいで実名報道とか、
まるで加害者が被害者のようなものではないか。
実名報道されてしまった教員や自衛官、裁判官に同情を禁じえない(不謹慎でごめんなさい)。
あれをやってしまうと親族や友人どころか、知り合いにさえ合わせる顔がないのでは。
盗撮逮捕は窃盗被害よりも不幸だと(間違っているのだろうが)思ってしまう。
これも言ってはいけないことだが、そもそもそんなにスカートを短くするほうがどうかしている。
だれかが指摘しているのかもしれないが、交通事故の原因にもなっているのではないか。
当方は車を運転しないが(免許はある)、
車高の低い自動車の運転席はチャリの女子高生を鑑賞する特等席のような気もしなくはない。
さすがにわき見運転で交通事故を起こした加害者はほんとうの理由を言えないだろう。
女子高生という魔がただただひたすら怖い。
今年の夏になにやら味わい深いニュースを見た。
関西だったか、夏祭りの夜店の「くじ屋」が警察に逮捕されたというあれである。
なんでも高額ゲーム機を景品にしていた。
くじをぜんぶ買い占め(?)だかした客が警察に通報してスピード逮捕になったらしい。
なんだかドキリとする事件だったのである。
まず当たりくじが入っているかいないかを検証してみる被害者(なの?)の大人げのなさが、
まるで幼児性を残す自分のようで苦笑してしまう。
それからまるで人生のようだな、とげんなりしたのである。
我われのほとんどが(少なくともわたしは)くじを引いているような感覚で生きている。
外れくじばかりだよ、けっ、と思っているのはわたしばかりではないだろう。
しかし、そう、夜店のいかがわしい「くじ屋」のように、
あなたやわたしの人生という箱のなかにも当たりくじが入っていない可能性もあるではないか。
そもそも当たりが入っていないのに、
「こうしたら当たる」なんていうインチキ本(自己啓発書)ばかり読んでいるとしたらどうか。
しみじみと自分があわれにならないだろうか。
そして、人生はまさしくそのようなものかもしれないのである。
いくら努力してくじを引く回数を増やしても、
はじめから当たりが入っていなかったらどうしようもない。
どれほど気合いを入れてこぶしを箱に突っ込んだところで当たりは入っていないかもしれない。
年齢のせいなのだろうが、そんな不吉なことを思わず考えてしまったのである。
商店街のくじで当たったことは一度もない。
むろんコンクールや新人賞に当選(入選)したこともない。
もし箱のなかに当たりが入っていなかったとして、それを知りたいかどうかは複雑である。
夜店の「くじ屋」で美少女はなぜかよく当たると聞くが、そういうものなのだろう。
客寄せ目的でサクラの関係者が一等賞を当てている話も聞くが、なかなか意味深である。
お笑いがわからないのである。
テレビでお笑い芸人のアクションを見てたぶん一度も笑ったことがない。
人格的に問題があるのかもしれない。なにかの病気なのかもしれない。
そんなことを弱気になって思ってしまうくらいお笑いがわからない。
笑わせようとしている人を見るとひどく興ざめしてしまう。意地悪なのかもしれない。
落語は聞いたことがないけれど、まず笑わないだろう。
そのくせおかしなところで笑うのである。
たまに映画館や劇場に行くと、ひとりだけ変なところで笑いだすことがよくある。
めったにないことだがこちらの笑いについてきてくれる人がいるので、そういうときは嬉しい。
たいがいはひとりで笑っている。きちがいみたいに思われているのかもしれない。

作者は意図せぬところで笑われることをどう思うのだろう。
いまわたしがもっとも笑える作家のひとりだと思っているのは精神科医の春日武彦氏である。
ふとした瞬間に著書のなかの一語を思い出してしまい(たとえば「娑婆っ気」)、
ツボを押されたように笑いがとまらなくなることがある。
てっきり春日氏は読者を笑わせようと思って書いているとばかり思っていたのである。
しかし、この齢になっても人は成長(変化?)するものだ。
もしかしたら作者は笑わせようなどと、
てんで思っていなかったところを笑っていたのではないか。
それはものすごく失礼なことだったのではないか。
まるで偽善者のように、そんなことを思って反省したのである。
もちろん、著書多数の有名な精神科医の先生のお気持など当方にはとても想像つかないが。

陰気な人間だと思われているかもしれないが、けっこうよく笑うほうである(近年は)。
おかしなところでひとり笑うのだから困ったもんだ。
だが、ほんとうに世間さまのお笑いがわからない。
鳥居みゆきという人のお笑いをYouTubeで見たときはかわいそうで涙が込みあげてきた。
わからないが、鳥居みゆきという美人さんがギシギシアンアンしている動画を見たら、
欲情するのではなく吹き出してしまいそうな危なさが自分にはある。
ここにはとても書けないが、そうとう不謹慎なことを考えてひとり笑っているのである。
そのうち精神科のお世話になるのかもしれない。いや、笑えるうちは大丈夫なのだろう。
思ったのは、精神科医の春日武彦氏はひょっとしたら笑うことが少ない人なのか。
よく知らないが、精神遅滞以外の狂人は笑わないというイメージがある(躁病は笑うか)。
もちろん、わたしの好きな精神科医が狂人だと言っているわけではない。
ただ、春日さんもお笑いを見てもクスリともしない人だろうな、とは思う。
決定的にどこかしらが世の中とずれている。
「人生の楽しみ見つけたり」(山口瞳/講談社+α文庫)

→「男性自身」で知られる直木賞作家の名言集。
こういうもう死んでしまった文士の本を読むと、いまのつまらなさにやりきれなくなる。
結局、精神科医がたとえば文士のような無頼派種族にいまは完全勝利してしまったのだ。
大酒を飲むのはアルコール依存症で治療しなければならない。
性的乱脈は若かったら境界性パーソナリティ障害、大人なら躁病の危険あり。
ギャンブルに夢中になるのは病的賭博で精神科医が治さなくてはならない。
むかしは心療内科などなかったから、みな精神科医に恐れをなしたのがよかったのだろう。
なんでもかんでも異常、病気と騒がないおおらかな時代がかつてこの国にもあった。
迷惑な人を「業やれ、業やれ(宿業だなァ)」と受け入れる寛容性がたぶんにあった。
いまは少しでも人とずれていたら自分から心療内科や精神科の門をたたく人が多いようだ。
楽しい50年の人生よりも、なんにもない80年の人生をよしとする風潮が強い。
社会適応がなにより重視され、精神科医や臨床心理士が絶対正義で、
わずかでも邪悪な精神は不健康または異常として冷たく排除されてしまう。
精神科医は患者に健全な破綻のない長寿人生を指導する。しかし――。

「「飲む、打つ、買う」というのは、男の本能であり、三大道楽であるという。
僕は、昔から「飲む、打つ、買う」の三つを
同時にやると男は死んでしまうという考えを抱いていた。
実例はいくらでもあるが、さしさわりがあるので書かない。
また「飲む、打つ、買う」という三道楽を何もやらないという男も
死んでしまうと信じこんでいる。これも実例がある。
若くして自殺してしまう男は、僕の知るかぎり、例外なくそうなっている」(P138)


みなさん、さあご一緒に山口瞳の旧時代的な無知をあざ笑おうではありませんか!
若くして自殺するのは「飲む、打つ、買う」をやらないからではない。
精神科を受診しないから人は自殺するのである。
心の専門医がいらっしゃる精神科にかかっていてもなお自殺する人が大勢いることは、
精神科および心療内科が一般化した現代におけるオフレコのひとつかもしれない。
いまの若い人は「飲む、打つ、買う」の意味を知らない可能性もある。
これは知らないほうがいいのだから、おじさんは教えてあげないよ。
いまの若い人って平均寿命を考えると退屈すぎて早死にしたくならないのかな。
寿命を縮めたかったら、たぶん煙草よりも酒のほうがいいような気がする。
酒を飲む理由ならいくらでも自在に作れるからご安心ください。

「純粋である。だから酒に向かってゆく。傷つきやすい。だから酒を飲む。
泰平ムード、年功序列、官僚化といったようなことが堪えがたい。
落伍者意識がある。神経過敏である。鬱屈している」(P33)


アル中は病院へ行け。ギャンブル好きはいまは病的賭博という名前がついている。
もちろん、命名したのは精神科医の先生である。

「ギャンブルほど面白いものはない。
偶然性に身を委(ゆだ)ねる快感は人間の本能に近いものだと言ってもいいと思う。
(……) ギャンブルは面白い。こんなに面白いものはない。
危険があるから面白い。面白いから大変に危険なものである」(P132)


男なら本音ではみんなめんどくさい恋愛よりも女に甘えたいのではないか。
いやいや、当方はそんな甘えた根性は持ち合わせておりませんぞ。

「男はいつまでたっても子供です。
またそういう男のほうが、実際にいい仕事をするものです。
女は三十歳くらいで一応完成すると私は思います。
男は五十歳近くなってやっと一人前の男になるのです。
男が女をリードすると思ったらまちがいです。
結婚生活では女房が演出家であって男は役者です。
いい演出家が役者をスターにするのです」(P97)


女性のみなさんは、こんな科学的根拠のない断言を信じてはいけませんよ。
なぜなら、とんだ「だめんず」に引っかかることになってしまう。
やはり結論としては、いまいちばんおすすめなのは精神科医の先生のご本でしょう。
精神科のお医者さんのおっしゃることはみな科学的だから正しい。
なぜかいまの精神科医はむかしの文士並に自己顕示欲や自己愛が強いらしく、
本屋に行ったらその手の本がいっぱいありますから選ぶのに迷うくらいでしょう。
人生の目標が長生きでもぜんぜん恥ずかしくないのが現代でありまする。

「傍観者」(井上靖/潮文庫)

→短編小説集でほとんどの作品は別の文庫で一度読んだことがあるような気がする。
このたびタイトルにもなっている短編小説「傍観者」の恐ろしさに気づく。
「傍観者」は昭和26年発表だから芥川賞受賞の翌年、つまり初期小説である。
40歳をすぎてデビューした遅咲きの作家である井上靖の源泉は、
もしかしたら芥川賞作品よりもむしろこちらの「傍観者」のほうにあるのかもしれない。
ある種の倫理的な問題をはらんだ作品といえよう。
愛する人が毒を飲んで自分の家に来たら、どうしたらいいのか?
いささか性急がすぎた。それまでの流れをかんたんに書いておこう。
「私」は青年時代に遠縁の「わがままで、病弱で、美貌な少女」梨花に恋をする。

「私の恋情の中には、その最初のときから、なにか運命的なものが、その場かぎりでない、
一生を支配するような何ものかが匿(かく)れひそんでいたように思われる」(P17)


「私」は人並みに恋をして女を知るが片時も梨花のことを忘れることがなかった。
ふたりが再会するのは「私」が東洋文化研究所に就職してからである。
二十歳の梨花は「病弱な面影はどこにもなく、わがままなところも見えず、
ただ美貌だけが、往時の蕾(つぼみ)の固さから、
ゆたかに花咲いた派手なものに変っていた」。
「私」は梨花のまぶしさを正視できず、同僚の岸本を呼んできてしまう。
「私」と岸本と梨花の関係が始まる。
あるとき「私」は梨花の家を訪問して辞するときにこの美少女から接吻のお土産をもらう。
時代は中国との戦争が始まったころである。「私」は軍隊に召集される。
中国の戦地で「私」は梨花が岸本と結婚したことを知りショックを受ける。
10年のときを経て日本へ戻ってきた「私」は梨花を憎む気持こそ捨てていたが、
愛着ばかりはどうにもならなかった。
戦後の混乱のさなか、「私」は闇商売で大儲けをした岸本と梨花に再会する。
「私」は独身のままであった。
相変わらず美貌ではあったが、梨花の生活はすさんでいくばかりで若い男に手を出したり、
ときには株で大損を出したりで、大学教授になっていた「私」はそのたびに面倒を見ていた。
「私」と梨花は決して身体のつきあいは持たなかった。
ある晩、暗い顔をした梨花がひとりで「私」のアパートにやってくる。
ベッドで休ませてほしいのだという。

「……やったなと私は思った。
梨花が毒を飲んでいることを、そのとき直観的に私は感じたのである。
私はついに来るべきものが来たという気持だった。
梨花がこのようにしていつか自分の部屋にやって来るのを、もうずっと前から、
私は無意識の中に予感していたようであった。
少しも意外なものがやって来た気持ではなかった」(P50)


このときどうするのが愛なのだろうか。毒を吐き出させるのが愛なのか。
医者(救急車がこの時代あったのか不明)を呼びにやるのがほんものの愛なのか。
「私」は「かまわない、お休みなさい」という。
自分の服毒を「私」が見抜いていることを梨花は知っていた。
最後にひと言「許してくださる?」というと梨花はひどくやさしく「私」を見入った。
そのまま女は深い眠りの中に落ちていった。
後日、このときのことを「私」はこう回想している。

「私は梨花を愛していたし、梨花は私を愛していたのである。
二人のばあいは、二人の愛情をそのような形でおく以外仕方がなかったのだ。
だから二人のあいだには何の醜関係もなかったのだ。
彼女は彼女でかってに他の男たちと身を持ちくずし、私はそれを傍観していたのである。
やがて当然のこととして彼女の生涯に破局がやってきて彼女は毒を飲んだのである。
私はそれさえも見ていた。
私がいかに彼女を愛していたかは、梨花がそうした私によって知ったはずである。
私たちは二人の愛情というものを、
そうした形においてしか終焉(しゅうえん)させることはできなかったのである」(P12)


愛する人が自分の選択で自殺したとき、果たして命を救おうとするのが愛なのか。
もしかしたら、そのまま死を見守ってあげるほうが強い愛を必要とするのではないか。
相手を助けたいと思うのはエゴイズムで、本当には相手のことを思っていないのではないか。
そして、若くして法的または肉体的に安直に結ばれているよりも、
このような屈折した関係のほうが男女ともにあるいは烈しい愛を感じられるのではないか。
ふたりだけにしかわからないこのような烈しい愛情は美しくはないか。
井上靖が「傍観者」で描いたのは男女の愛を超えた運命愛である。
傍観者たる「私」の梨花への愛は最後に運命愛にまで高められている。
女を愛するところから運命を愛するところまで上昇(下降?)しているのである。
女を愛したことからままならぬ人生(運命)をも愛す意志が生まれているではないか。
愛するのが運命なら結ばれぬのも運命で、
ならばその運命を愛する以外に人にどんな生き方があるというのか。
烈しい生き方は十中八九敗北に終わるだろうが、その敗北は夕陽のように美しい。
井上靖は上昇する朝日ではなく下降する落日の美しさを愛した作家であったのだと思う。

「文藝別冊 総特集 山田太一」(KAWADE夢ムック/河出書房新社)

→有名人との対談、有名人からの寄稿、セリフ名言集、本人インタビュー、
過去エッセイおよび新作エッセイを収録する。
かつての赤福のような「もったいない精神」の発露だろうから責める気はないが、
過去の使いまわしがけっこう多い。さて――。

もちろん、発売直後の5月に買って読んでいるけれど感想を書けなかった。
8月くらいにそろそろ書けるかと思ってパラパラ読み直したのだが無理だった。
いまになってようやく理由がわかったが、
自分がだれよりも山田太一さんのことをわかっているという壮大な勘違いが
感想を書くことを妨害していたようだ。
お話しどころかお逢いしたこともないのにおかしなものである。
年齢的にも映像ではなく活字(脚本)で追っている遅れてきた世代なのに、
どうしてそんな誤った思い込みをいだいたのか我ながら恥ずかしい。

それは大ファンだからいろいろなことを思ったわけだが、
本音をぶちまけてしまっていいのかわからなかったということもある。
顔にあざがある人に逢ったとき、あざのことは気がつかないふりをするのは礼儀である。
育ちの悪い子どものようにジロジロ見てはいけないし、
そのあざはどうしたんですか? なんて初対面で聞くのはもってのほかである。
つきあいが深まっても相手のことを思いやって聞けず、いつしか疎遠になり、
結局最後まで聞かないで終わるということも人生ではあるだろう。
しかし、実際に顔にあざがある本人はどう思っているのだろうという問題がある。
当人はまるであざがないようにふるまわれることに偽善を感じることもあるのではないか。
少しばかり知恵が遅れたような子どもから、そのあざ、どうしたの? と聞かれたとき、
あざの持ち主はその子どもをほかのだれよりも愛らしく思うこともなくはないのではないか。
あざがあることで壁ができて人を信じられなくなるかもしれない。
そうだとしたら、やさしさや思いやりが仇(あだ)になることもあるとは考えられないか。

偉くなるとは顔にあざを持つのとあるいはとても似ているのかもしれない。
相手の地位や身分をおもんばかって、だれも本当のことを言ってくれなくなる。
それは格上とか格下の問題だけではなく、
相手の顔のあざに同情するような気遣いもむろんなくはないだろう。
偉くなると顔にあざを持つ人のさみしさを実感として理解できるようになるのではないか。
かといって、顔にあざがある人同士がめぐりあってもおなじことである。
どことなく親近感または同族嫌悪のようなものを感じはするだろうが、
厚かましく踏み込んで相手のあざにまでは言及しないだろう。
しかし、家に帰ってから自分のあざのほうが小さかったと
鏡を見ながら思うこともあるかもしれない。そんな自分を嫌いになることもあろう。
顔にあざがあることで人の複雑な気持がより理解できるようになることもあるかもしれない。
それは顔のあざをポジティブにとらえるということだ。
ときに自分はあざしか見られていないのではないかとネガティブになることもあるだろう。

あざと自分とは関係ないではないかと憤慨したくなる憂鬱な日もないわけではない。
だが、あざを除去したら自分になにが残るだろうかという恐れもある。
やはりあざこそ自分なのだと悟ったように思う日もないといったら嘘になるだろう。
とはいえ、人にやさしくされるとそれは自分があざを持っているからではないか、
とつい疑ってしまいたくもなる。すぐにいや、世間とはそういうものなのだと思い直す。
こういった顔のあざのようなものを山田太一さんは持っているが、
本書ではだれもそのあざのことを指摘していなかった。
それは山田太一さんがだれよりも人の顔のあざを見ない人だからということもあろう。
人を傷つけることを恐れる人だ、といいかえてもよい。
人から傷つけられることをだれよりも恐れる人なのかどうかはわからない。
孤独なさみしい人なのだろうということはなんとなくわかるが、
人の気持などわかるはずもなく間違っているかもしれない。間違っているのだろう。
果たして本当に山田太一さんに顔のあざのようなものがあるのだろか、という問題もある。
もしかしたら、だれの目にも見えず、あざはわたしにだけ見えているのかもしれない。
反対にそれはひどい思い上がりで、最初からあざなんて存在していないのかもしれない。

大きな思い違いをしているということもありうる。
わたしはまったく偉くないが、顔のあざは自分にあるのかもしれない。
自分のあざを恐れ多くも山田太一さんに投影しているだけとは考えられないだろうか。
人は突き詰めると自分しか理解できない。自分さえ完全には理解できない。
わたしは自分にあると思った顔のあざを、
山田太一さんも持っていてくれたらいいと思ったのではないか。
あるいは、自分だけではなく、みんな顔にあざを持っているのかもしれない。
山田太一さんのあざが人一倍大きいから目立つだけということも考えられる。
ならば、だれもが自分ほど山田太一さんを理解しているものはいないと思うものではないか。
そのことはみな謙虚なために、厚顔なわたしのようにおおやけに口に出さないだけで。
みんな自分だけのあざを持っているがために、
だれもが山田太一さんのあざを自分だけがわかっていると錯覚するのではないだろうか。

逆にこうもいえるだろう。
山田太一さんは大きなあざを持っているので、人のあざに敏感なドラマを書けるのではないか。
視聴者はときに自分にはあるとは思っていなかったあざまで自覚するようになる。
このとき山田太一さんはあざを指摘しているのではなく、視聴者みずからに自覚させている。
そういうことができるのは、何度も繰り返しているよう、
山田太一さんがひときわ大きなあざを持っているからとしか考えられない。
この大きなあざはいったいいかなる性質のものなのだろうか。
もしかしたら本人にもわからないものなのではないか。
それをわたしごときが指摘できると思ったのはやはり思い上がりも甚だしいのだろう。
この記事には山田太一ドラマのように結論はない。

「手離す技術」(桜井章一/講談社+α新書)

→副題は「20年間無敗、伝説の雀鬼の執着転換力」。
よく考えたら無敗は常勝ってことだから創価学会みたいだな。
いや、麻雀は4人でやるから無敗=全勝ではないのか(よくルールを知らないけど)。
4人いれば勝たなくても負けなければいいわけだから。

本書の内容をひと言で要約したら「捨てることは得ること」である。
失うってことはじつは得ることで、得たらその瞬間になにかを失っている。
常識とか知識を身につけるたびにまっさらな心を失っているんだろうな、きっと。
受賞歴とかすごいその人を縛りそうだもんな。
「おれは○○賞作家だ」とか思って、すなおになにかを学ぶ心を失ってしまう。
出世したら寄ってくる人はみな肩書目当てだから、
他人からしてもらう純粋な親切を失っていると言うこともできるのだろう。
で、金でも地位でも名誉でも得れば得るほど、どんどん死ぬのが怖くなる。

とはいえ、やっぱり得るのは嬉しいし失うのは怖い。
強がりでいいから失ったらラッキー、
得たらアンラッキーと口にしたほうがいいのかもしれない。
残酷な話だけど友情とか愛情とか、完全に失ってはじめて存在がわかるものってあるよね。
ああ、ありがたいことだったんだなァと。
父親がギャンブル中毒だったという雀鬼の桜井章一は言う。

「得たものは必ず失う運命にある――。
これはこの世に存在するありとあらゆるものに共通していえることである。
私の人生そのものも、得ては失い、得ては失い、その繰り返しである。
むしろ、「失うほうへ、失うほうへ」と
自ら進みながら生きてきたような気がする」(P150)


ギャンブル中毒とか金を失うだけでバカみたいだと思うけれど、
きっとお金はなくしてもなにかを得ているのだろう。
親がギャンブル中毒だったから、子どもがまっとうな金銭感覚を得られた、とか(笑)。
まじめな話、得失(損得)は二代や三代を見ないとわからないのかもしれない。

「運とツキに好かれる人になる」(桜井章一/宝島社)

→副題は「図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76」。
こんな本を読むなんてどれほど落ち目なんだろうな。
いま検索したら「運をよくする本」ばかり読んでいるブログを発見して(それもすごい数)、
思わず「おまえさ、もうちょっとがんばろうって気はないのか?」とコメントしたくなった。
運やツキというのはあるのかないのかわからないけれど、
あるとして見ないと世の中のことが理不尽、不合理だらけで精神科のお世話になってしまう。
精神を患うよりは、自称20年無敗のプロ麻雀屋さんにだまされたほうがまだいい。
はいはい、雀鬼さん、どうしたら運がよくなるんだい? うそついたら舌ぬくかんな。

・運命は変えようと思っても変わらないが、自然の流れのように待っていれば変わる。
・迷ったときは固定観念を捨てて直感にしたがって選択しような。
・勝負中の運はある潮目を境にがらりと変わることがあるからあきらめんな。
・五感を開放したら「偶然の運」ではなく「必然の運」が訪れることがあるぞ。
・迷うのはやめて無意識からの直感やひらめきに敏感になろう。目指せ無意識過剰!
・不安は考え始めるとどんどん大きくなる運の敵ゆえご注意あれ。
・見えないものを見るようにしよう。個に全体を見る。全体に個を見る。
・心に着込んだ衣服を脱いでいき素っ裸になり、まっさらなハートで自然を感じようぜ。
・運を引き寄せるには感激力、感動力、感謝力!(ブラック企業の社訓みたいやな……)
・人間関係に計算や駆け引きといったテクニックを使わないと運が舞い込む。
・「運よ来い」と力まない。力を抜いていると運の流れを感じられるようになるべ。
・世界は変化しているし自分も変化している。ふたつの変化を一体化させると流れに乗れる。
・樹木の「軸」は葉でもなく幹でもなくじつは見えない根っこ。すべての現象がそうである。

「脚本 コクリコ坂から」(宮崎駿・丹羽圭子/角川文庫)

→テレビで放送されたアニメを観ておもしろかったのでシナリオも読んでみた。
アニメの場合、だんぜんシナリオよりも映像のほうがいいね。
漫画をセリフだけ本のように読んだって楽しめないのとおなじこと。
実写映画は本と相性がいいけれど、アニメは漫画と一緒なのだと改めて思った。
「コクリコ坂から」があまりによかったから千円の日に「風立ちぬ」へ行った。
「そして父になる」にしようか迷ったんだけど、芸術映画みたいのはいやだなって思って。
アニメを映画館で見るなんて小学生のとき以来だ。
結果、「そして父になる」のほうへ行けばよかったと後悔した。

「コクリコ坂から」のよさは観客それぞれの少年少女時代を喚起させるところだと思う。
たぶんほとんどの感動は受け手それぞれの内部記憶と関係しているような気がする。
「風立ちぬ」だって元エリート技術者の定年老人が観ていたら感想はまるで変わるはず。
これはとても難しいことだけれど、作品をあまり押しつけちゃいけないのだろう。
受け手をもっと信頼して、受け手がイメージするものを
表現者は助けるくらいのほうがいいこともあるのかもしれない。
もちろん、そうではない押しつけ全開のような映画もまたあっていいとは思うけれど。

☆作者の表現+観客の記憶=感動♪

「プリティ・ブライド」(サラ・パリオット&ジョサン・マクギボン/藤田真利子訳/愛育社)

→アメリカ映画シナリオ。
結婚式直前で3度ドタキャンしたことのある恋愛依存症(ヤリマン)の美女が、
4度目までドタキャンしてついに新聞記者の美男子と結ばれると思いきや、
5度目もドタキャンして観客を驚かせるも最後は美男美女が結ばれハッピーエンド。
まあ「女性の自立」とか、そういうクソみたいなテーマがあんのかな。
恋愛依存症の美女は男が代わるたびにカメレオンのように自分の色を変える。
もっと自分を出せよ。
本当の貴女を好きなってくれる人を探せよ、みたいなメッセージ、たぶん。
あんがいチェーホフの「可愛い女」あたりをまじめに下敷きにしているのかもしれん。
でもさ、おっさんにゃ、どうでもいいんだよな。
なんで女ってだれとだれとが結婚するとか離婚するとか、
そんなくだらんことでワーワーキャーキャー騒げるの? ぶっちゃけ、どうでもよくね?
男女の相互理解とか、小説や映画以外の現実でほんまにあんのかいな。
わが国でもほんの30年くらいまえは、
女は男に黙ってついてこいで通じていたのが信じられない。
弱者を保護すると格好いいという偽善的態度が蔓延して(いよっ、ジェントルマン!)、
旧弱者(女性、身障者)が異常なほどの強者にいまはなりつつあるので恐ろしい。
強いものには降参するという賢い生き方を文化進歩国アメリカの映画から学習した。

英語学習のため恋愛依存症の美女のセリフを例文として載せておく。

"I charmed the one-eyed snake awhile ago"
「あたし、もうずいぶんまえにおちんちんの取扱い方なら憶えたわ」


「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

→庶民にとっては観音(菩薩)さま信仰というのがいちばん健全じゃないかな。
観音さまはけっこうどこにでもいるらしいし、うん、たのむなら観音さまがいい。
人間なんてさ、結局不安のかたまりなんだろうね。
いつだれに難病や交通事故、身体障害、精神障害が舞い込んでくるかわからないわけだから。
みんな自分だけは大丈夫って思っているけれど、よく考えたらまったく根拠がないよね。
今日交通事故でグシャグシャになった人も昨日までは自分だけは大丈夫と思っていたわけで。
話はずれるけれど、不謹慎な話、交通事故で一瞬にして死ぬのは、
もし選べるのならかなりおいらのなかでは上位に位置する恵まれた死に方である。
そういう死に方もふくめて、人生には我われの力で決定できないことがたくさんある。
そこで観音信仰ですよって話なわけである。
「観音さま、助けて」と祈ることができたら、不安や心配は軽減するはずである。
なにもわざわざ精神科に行って抗不安剤をせしめてこなくてもよくなる。

この本にも、なーんか不幸な男の人の話が載っていた。
家が貧乏で中卒で就職するが、すぐに母親が死に、会社もつぶれてしまう。
病気になったり職を転々としているうちに頼みにしていた父親も死んでしまう。
30半ばでようやく落ち着ける工場が見つかり経営者にも信頼される。
遅くなったがそろそろ嫁さんでもと思った矢先、工場の事故に巻き込まれ身体障害者になる。
結婚も労働もかなわず世を恨みながら50近くなって、やっと観音信仰に行き着いたという。
ひとり不自由な身体で観音さまのまえに這いつくばっていき愚痴を言うのだという。
どうして自分ばかりこうして不幸なのかと。そうしたら心が落ち着きをみせたという。
しだいに運命を呪う気持も人を恨む気持も消えていった。

いやあ、世の中にはついてない人っていっぱいいるんでしょうね、はあ……。
まあ呪うべき運命のようなものは目に見えないから、
観音さまという形として現われてくれると中卒の人は
それだけで救われるところがあるのでしょう。対象が明確になるわけだから。
結局、こんなもんなんでしょうね。ついてるやつはついている一方で、
ダメなやつはなにをやってもダメで不運しか舞い込まない人生というのもれっきとしてある。
できることといったら観音さまを拝むくらいしかない。
三世因果説というのは本当によくできていると思う。
どんな不運や不遇も前世のせいにしてしまえば人を恨まずに済む。
もう現世はダメかなと思ったら、来世に希望をつなげばいいのだから捨て鉢にならずに済む。
いや、現世がもうダメだと思ったら捨て鉢になるのも個人的にはいいと思う。
そうしたら運が開かれることも絶対にないと決まったわけじゃないんだから。
なにが起こるかなんて観音さまくらいしか知らないんじゃないかな。
ふうう、ねえ観音さまよ、どうしてこんなに運が悪いんでしょう?

「わたしたち人間の世界はまことに不平等であり、非条理、不合理なものですが、
今栄えている人は前世に功徳を積んだ人だし、一生懸命にはたらいてもうだつの
上がらないわたしの現実は過去世の悪行の故だと考えられました。
つまり、過去世から現世にかけては、現在の不平等を説明してくれましたし、
今度は現世から来世にかけては、今苦しくても功徳を積む正しい生活をすれば、
来世にはよい境遇に生きることができる。
こうして業・輪廻の思想は、長い目で見ると、
バランスの取れた考え方として人々に受容されました」(P119)


なんてこったい。おいらは観音さまに質問したのに、
駒沢大学学長(当時)の奈良康明先生がお答えくださったじゃねえか。
どうして奈良先生は恵まれており、一方で不遇な人がいるのか。
これは学長先生の教えにしたがうならば、前世の功徳の差が原因でしょう。
ならば、べつにことさら奈良康明先生が偉いわけでもなんでもねえ。違うかい?
だのに、先生ったらこの本で「努力しよう」と何度も説教している。
まーるで自分は努力のおかげで出世したようなつもりなんだから、けっ!
おいらにゃ学問はいらねえ。観音さまだけいてくれりゃあいい。
困ったときは効き目があるのかどうか知らねえが観音経を読ませていただくよ。
なにせご利益たっぷりのお経だからな。
え、なに? 釈迦と観音さまは関係ねえ? 知ったことかい。
おいらは釈迦なんて朴念仁はごめんだね。

「天才だもの。 わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか」(春日武彦/青土社)

→この「天才論」はもうおもしろすぎて、いまもところどころ読み返して笑いがとまらないため、
哀しくもおのれの文才のなさを思い知らされ、
とてもではないがわかったような感想など書けず、
作者の春日武彦氏は天才ではないかとも思いたくなるが、
しかし氏の定義によるとやはりこの精神科医は残念ながら天才ではないことになってしまう。
わたしは春日さんこそ天才ではないかと声高に主張したいのだが、
この一冊だけでも天才学の権威を名乗るにふさわしい春日氏は決して認めてくれないだろう。
というのも、春日武彦さんは自身の定義する「天才」と適合しないからである。
春日武彦はなぜ「天才」ではないか――。

・作家として遅咲きである。天才というには今現在あまりにも長生きしすぎている。
・怒られそうだが、天才の顔(美男子)ではない。華々しさに欠ける。
・下品であるものの「どぎつさ」や派手さ不穏さがいまいち感じられない。
・邪(よこしま)な気配はそれなりにあるが、いかがわしさと騒々しさが足らない。
・人を振り回すエキセントリックなところが皆無の、陰湿だが内省的な性格である。
・万民から嫉妬されるには存在がマイナーで退屈すぎる。
・まったく破綻のない堅実な人生を送っている。
・小心者のため冒険心に欠け、酒、薬物、賭博、性行為等の快楽に夢中になれない。
・ちまちまと小さくまとまりすぎで、どうしても底の浅さが見透かされてしまう。
・嫉妬心は強いが、権威者とうまく人脈を作れる程度の常識と社会適応能力を持っている。
・「世間を慌てさせたり、絶句させたり、混乱させたり」する狂人を管理する職業に就く。
・医者は社会的評価の高いお堅い職業で、キッチュでチープな非日常的世界の住人ではない。
・生意気ではあるが「まっとう」な俸給取りで、熱中や気まぐれ、瞬発力、突飛さに乏しい。
・職業柄、あくまでも科学的思想にとどまり、偶然や人知を超えたものを信用できない。
・職業柄、小市民的な善悪の判断など笑い飛ばすような危うさがまったく感じられない。

春日武彦さんはこの名著をある心残りから書いたのだという。
精神科医いわく、人はだれでも生まれてくる直前に神様から問われている。
その神様は、きっと白い髭(ひげ)を生やし杖を手にしたステレオタイプなものだ。
そんないかがわしい神様から我われはいったいなにを問われたか。
「お前は苦渋に満ちた天才の人生と、平穏無事な凡人の人生と、どちらを選ぶか?」
著者によると、この問いに大概の人はつい後者を選択して生まれてきているのだという。
とはいうものの、この選択への未練は生涯つきまとう。
春日武彦さんはうっすらとこの胡散臭い神様のことを憶えているらしい。
そして、いまだにいい歳をして春日医師は後者を選んでしまったことを物足りなく思っている。
たとえ虚言癖から生じるものであろうと武勇伝を語るような人生を送ってみたかった。
変装が趣味の愉快犯のように世界を挑発しつづけ、
捨て台詞を残して早々とこの世からおさらばしたかった。
いまからでも遅くはないのではないか。
どこかに隠し扉があって「文字を持たない町」へ行けるのではないか。
後者を選んでしまった我われもまた潜在的な天才ではないか。
不足しているのは運と奇矯(ききょう)さだけとは考えられないか。
もしも願いがかなうのならば、禍々(まがまが)しい天才の世界に飛んでいきたい。
そんな夢想を表現したのがこの名作エッセイなのである。

春日武彦氏は天才の対になる言葉は凡才ではなく詐欺師ではないかと指摘する。
わたしは天才と対になる言葉は円熟ではないかと思う。
当方の円熟とは、パターンの繰り返しであるマンネリズムが深まったもの程度の意味。
おそらく春日さんも少なからずそういう傾向があるのではないかと思うが、
わたしは天才作家よりも円熟作家のほうを好むところがある。
もちろん、若くして彗星のように現われ、世から認められた天才への嫉妬がたぶんにある。
たとえ、その天才がその後に落ち目になり、
ほぼ運命にもてあそばれた被害者同然になったとしても旧天才は嫌いである。
若いうちに一度でもいい思いをしたのなら、まだましだろうと意地悪く思ってしまう。
そもそも天才の作品は感受性が鋭敏な多くのプチ天才から評価されるものだろう。
わたしは恥ずかしながら、そういう鋭い芸術的センスを持ち合わせていないのだ。

何度でも言うが、天才は嫌いである。
覗きで逮捕されたような張りぼての天才児・寺山修司よりも山田太一ドラマを好む。
豪放磊落ぶった躁うつ病の開高健よりも、せこせこした庶民派作家の山口瞳が好きだ。
美男子の中原中也や尾崎放哉よりも、サラリーマンに人気の通俗的な山頭火のほうがいい。
よく憶えていないが、深沢七郎の「楢山節考」よりもたぶん井上靖の「姥捨」のほうがいい。
文学の香り高い南木佳士氏もいいが、俗悪で下品な春日武彦氏のほうがおもしろい。
たしかに後者はどことなくマンネリのにおいがするが、それこそ円熟の味ではないか。
しかしだ、はてまあ、いったいどうして
山田太一、山口瞳、山頭火、井上靖、春日武彦の各氏が天才でないと言えようか。
本音を白状すれば、わたしは週刊「スピリッツ」に掲載されている
くだらない(と世間的には言われる)漫画からも天才性を感じることがある。
これはきっと春日武彦さんもおなじだろう。

「ビュッフェ[有名なフランスの画家らしい]を天才だと言いつつも、
わたしの頭の中では彼の絵も漫画も缶詰のレッテルの絵も、すべて同等でしかない。
だが、世の多くの人々も、案外そんなものではないのだろうか」(P139)


さて、狂人を支配・管理・指導する精神科医は天才という存在をどう見ているのか。
名著に敬意を表しながら、以下に要点を引用させていただく。
狂人はかならずしも天才ではないが、
しかし精神科医の春日氏によると、天才もまたかならずしも狂人ではないという。
どうしてか我われは天才と狂人は紙一重という通念から逃れられない。
天才と狂人の関係を精神科医はどのようなものとして思っているか。
むろん、精神科医の答えだからといって唯一絶対の「正しい」回答ではないが、
少なくとも傾聴に値するものではあろう。

「狂人と天才の決定的な違いとは、安直さの有無である。
精神を病んだ人は、我慢ができない。
性急で、地道に物事を進めることが出来ない。
すぐに事態を分かりやすい形にしなければ精神が耐えられない」(P18)


「狂気の人と天才とのあいだに通底するものがあるとすれば、それはおそらく孤独である。
どちらもメーターの振り切れた存在といった点では、常人には近寄り難い。
それがために世間からは孤立し、誤解され、冗談の肴(さかな)にされる」(P19)


数学者の秋山仁教授はかつて質問されたそうだ。
「フェルマーの最終定理」を持ち出した17世紀の弁護士ピエール・ド・フェルマーと、
その問題を解いた現代の米MITのアンドリュー・ワイルズのどちらが優秀か。
秋山教授は即座に「フェルマーに決まっている」と答えたという。
これを説得力のある意見だと春日氏は同感する。

「問題を解くことには与えられた目標がありそれへ向けての「作業」といった趣がある。
だが、問題を作るほうは、
とりとめのない森羅万象の中からひとつの謎を抽出して提示する。
作るほうが、突飛な精神が必要なのではないか。
あるいはトリックスター的な才能を必要とするのではないか。
少なくとも何か野放図で、のびのびとした精神を感ずるのである」(P96)


以下の引用文の「写真」を「小説」に、「相手」を「モデル」に換えると文学論になる。
そうそう、「撮影」は「描写」くらいの変換が適切か。

「これは凄いなあと思う写真の中には、考えてみれば、
よくもまあ相手に胸倉を掴(つか)まれなかったものだと呆(あき)れさせるものや、
これをぬけぬけと撮影するなんて人の道から外れているのではないか
といった驚きが根底に横たわっていることがときたまある。
罰(ばち)が当たらないだろうか、とか。
そのあたり、本人なりに弁明は考えているのだろうが、おそらく悪魔だか窃視者だかに
徹することが出来るかどうかが作品の迫力に反映することも少なくあるまい」(P158)


これこそまさにわたしが春日武彦氏の作品を読んで思うことなのである。
そこまで患者の悪口を書いて、いままではいいが、これから罰が当たるのではないか。
そのくらいおもしろおかしく春日さんは職業上知りえた秘密を嬉々として公開しているのだ。
モデル本人が読んだらと思うと、あまりにも残忍でグロテスクなため震えが起きる。
精神科医の春日武彦をわたしがある種の天才だと思うゆえんである。
よく読みもしないくせに厚顔にも言い放つが、
現代小説よりも春日氏の作品のほうがよほど強く文学を感じさせるのはこのためである。

「本当は不気味で怖ろしい自分探し」(春日武彦/草思社)

→春日武彦氏にとって精神科医というのは天職なのではないか。
この人はたぶんほとんどいや絶対にカウンセラーはやれないけれど、
精神科医としてならとても優秀だと思う。
「相手の身になる」というのはかなりの職業において必要とされている条件だと思う。
相手の身になって考えるというのは、大半の社会人に必要なふるまいである。
ところが、春日武彦さんは徹底的に他者との関係において閉じている。
こういう言い方をしたら人格的に否定しているようだが、そうではなく、
いい意味で人の気持がまったくわからない。そもそも春日さんのみならず、
究極的にはわたしもあなたも絶対に人の正確な気持はわからない。
ここから態度がわかれて、なお人の気持をわかろうとするかどうかになる。
春日武彦氏は患者の気持なんて知ったことか、と思っているから優れた精神科医なのである。

たぶん春日さんの診察の根本方針は「所詮は他人事」ではないかと思う。
これをやって許される唯一の臨床医が精神科の医者である。
なぜかと言うと精神科医は、患者の妄想に巻き込まれたら治療ができなくなるからだ。
相手の身になって患者の妄想を真に受けたらとんでもないことになってしまう。
ただでさえ精神病患者の家族はたいへんな思いをしているのである。
ここで精神科医まで妄想の嵐に巻き込まれてしまったら避難場所がなくなってしまう。
精神科医にとって必要なのは、相手の話を真に受けず「ふーん」と聞き流す能力だと思う。
精神病患者なんてもんは被害妄想炎上で悲劇のヒロインを気取っているのが多いのだろうが、
そこで相手に同情したら思うつぼになってしまうがための「所詮は他人事」なのである。
「あっそう」「お気の毒だね」「その話、まえにも聞いたな」「はいはい、落ちつけよ」――。
こんなふうに心中で患者を見下しながら社会適応を指導するのがよき精神科医の仕事である。
間違っても患者の気持(狂気)になってはいけないのだ。
患者の周囲(多数派)を代表して防波堤となり少しでも当人が多数派に戻れるようたくらむ。

このとき人の気持を理解できないことが才能となるのである。
相手(患者)の話(妄想)をなかなか信用しない猜疑心の強さもまた才能だ。
単純な善人医療者は、禍々(まがまが)しい狂気と向き合うには頼りなさすぎるのである。
患者さん本人はわからないが(ここはけっこう重要!)、
少なくとも患者の家族は春日武彦医師が担当だったらかなりラッキーだろう。
こういう精神科医はめったにいないと思うからである。

「どちらかといえば、自分は邪悪な人間だろう。
恨んだり妬んだり、他人の不幸を願ったりしてばかりいる。
いかがわしいことにばかり関心が向く。
いつも他人を疑い、騙されたり罠にかけられるのではないかとびくびくしている。
そのような怯(おび)えは、自分の心を相手に投影しているだけなのだが」(P201)


最後の一文がなかったらやばい人なのだが、わかっているのでこの人は安心である。
この一文がわかるかどうかでじつは大違いなのだろう。
だが、いかにうまく言い聞かせてもよく効く薬を与えても患者は理解しようとしない。
周囲が黒々とした悪意の持ち主に見えるのは、実際は自分の精神状態がそうだからであると。
よく精神病患者は「○○先生は私の気持をわかってくれている」などと言うが、
実際は「わかっていない」「わからない」ことにおいてその医師は信頼できるのだろう。
以上はすべて精神病患者(統合失調症、躁うつ病)についてだが、
うつ病、神経症、強迫症状、依存症、パーソナリティ障害については春日医師の手腕はどうか。
専門家でもないのにわかったようなことを書くのはいけないとは思うが、
精神病以外は基本的に医者に治してもらうものではなく、
自分で自分とげんなりうんざりしながら折り合いをつけていくものなのだろう。
話を戻すと精神病も治してもらうものではないような気がする(そもそも治らないのでは?)。
精神病はなんとか専門家に薬品パワーで抑えて人畜無害な状態にしてもらうものだと思う。
さて、いやな書き方をすると、言葉が通じるのはおそらく精神病以外の症状だろう。
優秀な精神科臨床医の春日武彦氏は果たしてどのような言葉を患者にかけているのか。

「精神科医という職業柄、いろいろな人たちの悩みを聞かされ、
また彼らの世界観を知ることになる。
わたしは気の毒に思ったり同情することはあっても、そのいっぽう、
「無い物ねだりをしても仕方がないでしょ」
「現状を受け入れるしかなかったら、とりあえずそうするしか選択肢はないじゃないか」
と感じその旨を伝える。
その伝え方に精神科医ゆえの技量が関与することになるわけだが、
基本的には身も蓋もない発想しかしていないのである」(P97)


「ハハハ、お気の毒だけど現実は変わらないよ」ということだろう。
「どうしようもないことはどうしようもないよね」みたいな。
結局、あらゆる悩みは解決しないのだろう。受容するしかない。
それをどう伝えればうまく相手に気づいてもらえるかが精神科医の手腕なのだろう。
精神科医の言葉を伝達しても意味がない。
ときに薬を使いつつ患者が自分の言葉でもって気づくのを待つしかない。

この文脈において春日医師は「自分の言葉」と「他人の言葉」の重みを熟知している。
「自分の言葉」は「他人の言葉」と異なる。
だが、「自分の言葉」が出てこないときには「他人の言葉」にすがるのもいいだろう。
本書によると、青年時代、春日医師は自意識過剰で自分の文章が書けなかったという。
そのときやったのが好きな「他人の言葉」を採取して書き写すことだった。
いつしか忙しくなり、そんなこともやめてしまった。
年月を経てある夜、当直室で春日さんは久々になにか書きたい気分になった。
当直中に来たおかしな患者について書きたくなった。
そのとき書けたという。「自分の言葉」で書けたという。
「自分の言葉」でなにに気づいたのか。

「自己顕示欲と「あざとさ」に彩られた自分からやっと抜け出し、
ごく自然に日常生活を送っていけそうだという、
「普通であること」のもたらす喜びを感じていたのだった。
愚にもつかない「アートなわたし」なんか存在しなかったのである。
他人に憑依(ひょうい)し、他人になりすまし、
他人の文章に自分の心をすべりこませることでわたしは救われた。
もしそのようなプロセスの途中で個性が失われたとしても、
そんな脆弱な個性など価値はない。
過去のわたしは臆病な怠け者でしかなかったのである」(P238)


精神科医の春日さんの患者のなかには病気を個性と思っている人が大勢いそうである。
優秀な臨床医がそのことを非常に苦々しく思っていることはわかるが、
精神科医が病気とみなすものが果たして本当に個性かそうでないかはわからない、
とわたしは本書を読んでもなお依然として思っている。
未熟なためか「普通であること」はそこまで輝かしく万々歳なことかまだわからない。
わかったふりをしている春日医師もおそらく本当にはわかっていないと思う。
「普通であること」を肯定しつつ、
しかしどこかに違和感を持っているのが精神科医・春日武彦の文章の魅力である。

「『もう、うんざりだ!』自暴自棄の精神病理」(春日武彦/角川SSC新書)

→精神科医の春日武彦さんを自分とは別個の
理解できないマッド・サイエンティスト扱いしたいわけではなく、
極めて似た部分も言うまでもなくたくさんあるのである。
おかしな人間を見ると胸がときめくようなゲスな覗き見根性を
恥ずかしながらわたしも有している。

いつだったか帰りの電車でひとりブツブツなにやら呟いている会社員はよかった。
背は低く見たところ高そうなスーツを羽織っていたから結構な役職にあるのだと思う。
尾木ママのような顔立ちで、だれにでもペコペコしそうな50まえくらいの男だ。
幸福の極みといった上機嫌さでひとり演説しているが、周囲はガン無視である。
このおっさんは会社でもたぶんこうで、
一応は上司だから部下はなかなか指摘できないのではないかと想像するとおもしろい。
しかし、ここまで進んで来たら早晩病院行きだろう。
最初に指摘するのは家族か、部下か、上司か。
戸惑いながら、なんて声をかけるのだろう。
裕福な身なりをしているのにこの人として壊れたざまは悲惨だが、
しかし本人は酔っぱらっているわけでもないのに上機嫌でひとりペラペラしゃべっており、
治療したらこの気分のよさも取れてしまうのかと思うと、人の精神は矛盾したものだ。

いいなと思ったのである。
毎日変わらない退屈で味気ない日常のなかにあのおっさんを置いてみると絵になっている。
周囲の人がまったく相手にしていないのも都会らしくていい。
わたしは話しかけたい欲望にかられながらも、それでもぐっと堪える理性は持っている。
とはいえ、いったん自分に禁止すると禁じ手を破りたいという危ない欲望がふくれあがる。
そうしているうちに降りる駅に着き、後ろ髪を引かれる思いで列車をあとにする。
駅のエレベーターを下りながら気づく。なんのことはない、
わたしは精神を病んだ小柄な会社員にただならぬ親しみを感じていたのではないかと。

こういうメンタリティが精神科医の春日武彦氏と通じているのだと思う。
一線を越えてしまった人への興味や親和性が似ている。
それから大人げないところもおなじなのだろう。
大人げのなさではそれなりに自信があるが、春日さんには勝てないと思うこともある。
本書で知ったエピソードがおもしろい。
裏道で春日氏は小学校低学年くらいの男子がこぐ自転車と遭遇する。
自転車はふらふら蛇行しているので、わざわざ道を開けてやったら、
にもかかわらず自転車は自分に向かって進んできて危うく衝突するところであった。
難を逃れた春日先生は大きく舌打ちしたという。ったく、ふざけんなよ!
まさにその瞬間に男子は振り返り、春日さんと目が合う。
このとき10歳にもならぬ少年から小ばかにされたように感じる精神科医であった。
いったいいくつなんだよ、春日さん! 最高すぎるぞ、その心の狭さよ!

春日武彦さんの育ちのよさに裏づけられた幼児性は愛らしい。
ナースをしている奥様は大きな子どもをいまだに育てているような感覚なのでは?
これは別の本で読んだのだったか。
NHKのど自慢を見ていて、落選者が入選者に拍手する気持が春日さんはわからない。
おれだったら絶対に拍手しないね、と言って奥さんからたしなめられる春日先生であった。
わかるわかるよ、春日さん。
なんで自分が落ちているのに、受かったやつに拍手なんてしなきゃならないんだよな~。
しかし、ここまで来ると、ウワアと思ってしまう。すげえよ、あんた、春日さん!

「以前、ある学会の理事会でものすごく失礼なことをわたしに言った男がいた。
Hという気取った男で(辻邦夫の劣化コピーみたいな風貌であった)、会が終わって
わたしが部屋を出る際にたまたま椅子に座って書類に書き込みをしていた。
このとき、彼の後ろを通り抜ける拍子に肘で頭を小突いてやろうか
どうしようかとかなり悩んだ。もちろん、偶然のふりをして、「あ、失礼!」
と慇懃(いんぎん)に謝るわけであるが、その口調にほんの僅(わず)かばかり
嘲(あざけ)りのトーンを含ませることで、仕返しのカタルシスを得られることになる。
実行すべきかどうか、真剣に迷ったが結局は肘が汚れるので止めた」(P72)


くわばら、くわばら、である。こんなことをブログに書いていると、
いつ春日さんから入魂のエルボーが飛んでくるかわからないではないか。
とはいえ、エルボーを食らったら、
立ち上がるはずみで相手に頭突きをしてしまいそうな育ちの悪い幼児性がこちらにはある。
お互いバカなことはやめましょうね、親愛なる春日先生♪

「奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集」(春日武彦/集英社新書)

→アマゾンの低劣な匿名レビューによく出てくる言葉は共感である。
著者の考えに共感できました。だから、星五つ、ぜひご一読を。
著者の考えに共感できませんでした。だから、星一つにさせていただきます。
わたしが精神科医の春日武彦さんの本を好んで読むのは、共感できないからである。
共感できないところがおもしろいのである。
へえ、世の中はいろいろでこんな奇妙な感性を持っている人がいるのかと嬉しくなる。
本書に登場する著者のミニチュアへの偏愛や境界線への執着はまったくわからない。
ほほう、それはわかりませんなァと妙に肯定的な感情が込みあげてくるのである。
贋物(にせもの)のおもしろさや蒐集(しゅうしゅう)のたのしさはわからなくもないが、
当方のものは春日さんよりもはるかに正常寄りだから、この奇人にはかなわないなと思う。
春日医師の不謹慎な本音も痛快である。
なにせ診察中に狂人を見ながら、こんなのが自分の叔父だったらいやだなと思い、
それを隠さずに著書で公開してしまうような世間の怖さをまったく知らない人である。
ふつうはやばいことを思っても世間さまに恐れをなして口にはできない。
それどころか自分が思ったことさえ封印してしまうのが大人というものである。

テレビライターの山田太一さんがエッセイに書いていたと記憶している。
友人の医者に聞いたことがあるという。医師をしていると、死にも慣れるのではないか。
友人は怒った。いくら患者を看取っても死に慣れることなんてあるもんか。
友人の怒りに山田太一さんは感動した、というようなことがたしか書かれていた。
先日読んだ内科医の村田幸生氏の本にも書いてある(「医療否定は患者にとって幸せか」)。
「われわれ医者は、どんなに患者さんの死に立ち会ってきたとしても、
決して人の死に「慣れる」などということはない」と。
ところが、春日武彦医師は「職業柄、死に対して鈍感になっていることは確かである」
と言ってはならない本音をさらりと書いてしまうのだからおもしろすぎる。続けて――。

「配偶者と死に別れたり、自分に向かって治癒不能であると癌宣告をなされたとしたら、
なるほどショックを受けるだろう。
だが、それが果たして人生において絶対的にリアルなものかというと、
それほど大層なものでもないだろうという不謹慎な考えが、わたしにはある。
厳重で重いものであるのに、だからどうしたといった気持を拭い切れない。
死を前面に押し出せば純文学が成立すると思い込んでいるアマチュア作家の
稚拙な作品を読まされているかのような鼻白んだ気分を覚えてしまうのである」(P15)


精神科医の春日武彦さんに励まされて不謹慎なことを書くと、
もし料理ひとつできないこの離人症気味の男性医師が奥様を目のまえで殺されたり、
または連れだって歩いているときに(ちなみに子どもはいない)、
相手だけ横断歩道でダンプにはねられてハンバーグのようになったのを見たら、
いったいどんなことを感じるのだろうと危ない興味が尽きないのである。
べつにそうなったらおまえだって取り乱すだろうと脅したいわけではない。
「ははーん、こんなものか」とそれでも白けていそうな怖さが春日武彦医師にはあり、
そこがまったく自分とは異なるので人間の底知れなさを思い知らされ身が引き締まるのだ。
テレビで犯罪被害者遺族が泣いているのを見て、一瞬冷たくせせら笑うと電源を消し、
「ご飯はまだ?」とキッチンにいる奥さんに近づいていくような男にも独特の味がある。
もとより、逢ったこともない春日武彦氏がそういう人間だと決めつけているわけではない。

「精神科医は腹の底で何を考えているか」(春日武彦/幻冬舎新書) *再読

→ある事情があってうちにある春日武彦氏の著作の顔写真をすべて見比べたことがある。
元来、他人の顔にさほど興味を持つ性質ではなくアイドルの顔さえ区別できないのだが。
本書における春日さんの顔がいちばん内面が出ているような気がした。
これを撮影したカメラマンは才能があるというのか、意地が悪いというのか、
まさしく精神科医・春日武彦の正体をとらえているようなところがあると思う。
精神科はかかったことはないけれど、はじめての医師の診察を受けるときは緊張する。
医者もそうだろうが、立場上、患者のほうがドアを開ける瞬間が怖いのではないか。
もし本書の顔写真のような医師がいてニヤニヤ笑っていたら引き返してしまうかもしれない。
実際、春日医師は何度か奇妙な薄笑いをやめろと患者から罵倒されたことがあるという。

このエピソードとも関係しているのだが、親も医者でお坊ちゃん育ちの春日武彦医師は
人生で一度たりともアルバイトをしたことがないらしい。
店員や警備員といった高校生や大学生でだれもが経験する通過儀礼のひとつだ。
このことを文芸誌の編集者に言ったら、それはよくないということを言われ、
内心で精神科医はそういう特異な人生経験の乏しさがむしろ世の中に対して
新鮮な視点をもたらすのではないか、と異論を抱いたそうである。
正確には反論ではなく、そのように励ましてほしかったと書いてあった。
ならば文芸誌の編集者に代わって、わたしが励まして差し上げたい。
春日さんのものの見方は非常に斬新であると思う。
きっとそれは異常なほど世間知らずなところによっているはずである。
世間知らずは春日医師も自分で認めていることゆえ、断じて悪口ではない。
世間を知らないからこそ、人のしない意外な発見を春日さんはするのではないか。

春日武彦医師は人並み外れて虚栄心が強いところがあるとお見受けした。
人からどう見られるかを異常なほど気にしている方のようだ。
俗に言うところの「ええかっこしい」というやつである。
このため上昇意欲も並々ならぬところがあり、
これだけ成功しているのにいまだに自分は不遇であると信じているのだから恐れ入る。
精神科医がここまで著書を出したがる自己顕示欲、自己愛の理由が本書で判明した。
なんでも将来、老人ホームに入ったときに周囲から一目置かれたいのだという。
この人は業績があると判明したら、老人ホームで尊敬されると思っているらしい。
それから50を過ぎたいま(本書執筆時)もなお両親から褒められたい、
それどころか嫉妬されたい、とあまりにも子どもっぽい正直な告白をしている。
親の期待通りにバイトもせず勉強して医者になり、
かつ作家としても成功した春日武彦氏の根っこにある幼児性はとても愛らしい。
まだ子どもから抜け切れていないから、
世慣れた大人にはできぬ新鮮な発想ができるのだろう。

本書でいちばん「そうだよな」と思ったのは、精神科医の愛情へのシニカルな視線だ。
忘れないために引用しておく。

「愛情には、相手を尊重し、
相手に不快感を与えたくないといった気持ちが含まれているだろう。
けれども、相手を束縛せずにはいられない側面をも持つ。
「あなたを愛しているからこそ、あなたにはこうしてほしい」
「大切なあなただからこそ、こんなことはしないでほしい」
といった気持ちが生じてくるのは当然であり、
そうでなかったら愛情とは呼べまい。
つまり相手に関心があり好意があればあるほど、
無意識のうちに相手をコントロールしたくなる。
人の心にはそういう宿命がある」(P116)


よく知りもしない他人のことを勝手に決めつけてはならないが、
ひとりっ子の春日武彦さんは両親あるいは母親から溺愛されて育ったのではないか。
このために50を過ぎてもいまだ親のコントロール下にあり、
その反発心から親を嫉妬させたいなどという幼稚な思いから抜け出すことができない。
愛されない子どももかわいそうだが、溺愛されるのも考えものである。
いや、おかげでこうして出世したのだからやはり親からは愛されたほうがいいのだろう。
春日医師は引用箇所に引き続き、
コントロール(支配)される喜びもあるのではないかと指摘している。
たとえば陶芸の師匠と弟子、コーチと選手、監督と俳優はそういう関係にあるのではないか。
なかには心地よい「支配―被支配」の関係もあるのではないかという卓見である。
その次に恐ろしいことを春日さんは言っている。
あるいは精神科医と患者にも「支配―被支配」は当てはまるのではないか、と。

「テレーズ・ラカン」(エミール・ゾラ原作/ニコラス・ライト翻案/吉田美枝訳/劇書房)

→戯曲を読みながら変なことを考えてしまった。
夫の友人でもあった間男と共謀して亭主をぶっ殺すなかなか見どころのある女の話である。
殺すまでは燃え盛っていた愛も事件後は消えて、女は情けなくも罪悪感にかられ狂っていく。
最後は男女ともにたぶん罪悪感から自殺している。
いやね、思ったのは、これを書いていいのかわからんけれど、
いざ実際に人を殺したら果たして本当に罪悪感を持つものなのかってこと。
これはほとんどの人が殺人なんてレアな経験することがないからわからないことだよね。
しかし、殺人をしてまったく罪悪感を持たない人を舞台に出しちゃうと共感してもらえない。
我われはなぜか人を殺したら罪悪感を持つものだという通念(思い込み)がある。
本当のところはわからないわけだよね。
殺人者が逮捕されて警察署で反省アピールをするけれど、
あれは裁判対策かもしれないわけだから。
本音は「チクショー捕まったか、ヘマこいた」の可能性もある。

なにが言いたいのかって、殺人者が罪悪感を持つというストーリーは、
多数派たる観客の通念におもねっているだけで、
実はぜんぜんリアルじゃないかもしれないってこと。
夫を殺したけれどうまく事故でごまかすことができたリアル犯罪者の女性が
もしこの「テレーズ・ラカン」を観たら、
あんなのは大嘘だという感想を持つかもしれないわけだ。
あたしは罪悪感なんてぜんぜんないし、いま人生チョー楽しい状態かもしれない。
だが、それを書いてしまったら客が怒るわけだ。そんなはずはないと。
もしかしたら現実はそんなものかもしれない、にもかかわらず。
ならば、あれはリアルだと俗に賞賛されるような作品は、
もしかしたらぜんぜんリアルではなくて、
実際は多数派のリアルはこうであってほしいという願いを、
作者は書いているだけなのかもしれない。
リアルだと評される作品はもっともリアルから遠いものということもあるのではないか。
なんかあたかも殺人の前科でもあるようなことを書いてしまった。

「パリ・ブールヴァール傑作集」(賀原夏子編/梅田晴夫・小沢僥謳訳/劇書房)

→ブールヴァールはフランスの喜劇のこと。
肩ひじの張らない大衆娯楽演劇のことだそうである。
収録作品は「恋の冷凍保存」「人生の請求書」「ロコモティブ」。
どれも読んでいるあいだはおもしろいのだが、だからじゃあなに? と聞かれると困る。
ただおもしろいだけでいいじゃん、というのがブールヴァールらしい。
お芝居は定型的なセリフがあるように思う。
劇を引き起こすセリフだ。たとえば、こういうものがそうだろう。

「さあさあ、落ち着いてください。これはお芝居なんです」(P32)
「人生思うようにいかないものでして……」(P124)
「なんにも起こらないってことが、幸福なのかって聞いてるのよ」(P152)
「真実っていうのは、人をよろこばせることよ」(P214)


まあ芝居っ気たっぷりなやつらが、おフランスな芝居をするのである。
現実で芝居なんてやられたら迷惑だけど、舞台のうえでなら許される。
しかし、俳優さんやタレントさんは電撃結婚やら離婚やら、
実人生でも芝居っ気のある人が多い。
そういうものはほぼ美男美女だから成立していることだ。
いちばん楽しいのは迷惑をかえりみず人生で芝居をすることなのだろう。
次に楽しいのが舞台のうえで自分が芝居をすることだが、これは美男美女にしか難しい。
他人の舞台上の芝居を観るのそれなりにも悪くないけれど、あれはやたら金がかかる。
金がかからないのは戯曲として読むことだが、芝居の楽しみのなかでは最低なのだろう。

「医療否定は患者にとって幸せか」(村田幸生/祥伝社新書)

→ネットではえらくヒステリックに叩かれているが、とてもいい本だと思う。
内科医の著者の書いた「お医者は辛いよ」である。
ほとんどの医者が青年時代、善きことを目指してこの仕事に就いたのに、
なぜか患者からは悪者としか見られない現状を嘆く。
いまの人は病院で死ぬことが多いから、遺族はつい最後の医者を悪者のように見てしまう。
医者がもう少しなにかしてくれていたら、
いささかでも長生きさせてあげたのではないかと思う遺族心理を著者はよく理解している。
著者は書いていないが、遺族はたぶんこう思えばいいのだろう。
このお医者のおかげで本当はもっと早く死ぬところをここまで生かしてもらえた、と。
わたしもむかし親を亡くしたとき、かなり強く当時の主治医を恨んだものである。
しかし、もしかしたらあの医者だからこそ、あそこまで生きられたのかもしれない。
あの医師でなかったらもっと早く死んでいたのかもしれないではないか。

読みやすい文体ながら、かなり鋭いことを著者はいろいろ指摘している。
この人は非常にあたまがいいと思う。
たとえば民間の健康食品や「○○を食べたら病気にならない」をどうとらえるか。
ふつうの医師ならたぶんあたまからバカにしてかかるだろうが、著者は誠実である。
肯定も否定もしない、つまり、わからないと言うのだから。
なぜかと言う説明がとてもわかりやすかった。
健康にいいAというものを毎日摂取したとする。たしかにそれで元気になった。
おかげで血液検査の結果がよくなった。だとしたら、効果があったのか。
答えは、わからない。なぜならばAを摂取していない自分と比較できないからである。
著者の体験として養毛剤をあげている。
長年ある養毛剤(医薬部外品)を使っていたが、
薄くなったことを同僚に指摘され別の医薬品の発毛剤に変更したという。
ところが、1か月後よけい髪が薄くなっている気がする。不安である。
しかし、発毛剤が自分に合わないのか、それとは関係なく脱毛が進行しているのかわからない。
なぜなら、いまの発毛剤を使っていない自分と比較できないからである。
結局、著者は元の養毛剤に戻したら脱毛の進行はストップしたが、
発毛剤が自分に本当に合わなかったかどうかはわからないと正直に白状している。

これは降圧剤などでもおなじだと著者は指摘する。
降圧剤をのんでいても脳梗塞になることはある。
だから、のんでも意味がなかったとは言い切れない。
もしかしたらのんでいなかったら、もっと早く脳梗塞になっていたかもしれないし、
そうでないかもしれないし、個人のケースではそれはわからない。
が、いちおう血圧に関しては大規模な統計が取れているから、
(統計のない)民間の健康食品とは異なり、まあ服用しておいたほうがいいとは言える。
わたしの実体験を書く。病名は伏せるが、ある薬の服用を開始した。
1ヶ月後に効果があったか血液検査をするという。わたしは医者に質問した。
「薬をのんでいるから、数値を悪化させる食品を口にしてもいいですか?」
医者は口ごもった。再度問う。答えは「なるべく食べないほうがいいような」――。
結局どうしたか。薬の効き目を調べるんだから、医者に逆らっていつも通り食べようと決めた。
1ヶ月後、血液検査をしてみると、たしかに数値が下がっていたのである。
西洋医学というのはすごいものだと感激したものである。
しかし、もし食生活を変えていたら薬品の効果かあったのかどうかわからないことになる。
本書を読んでわたしのやったことは、それほど間違っていなかったのだと確認できた。
(生意気にもお医者さんのご指示に逆らってごめんなさいです)

原因と結果のあやふやさにも優秀な医師である著者は敏感である。
テレビで百歳を超えた老人がばりばりフライドチキンをむさぼるのを見たという。
あぶらぎった老人は好物だからフライドチキンを毎日食べているとのこと。
ゲストが、「好きなものを食べていると長生きするんですね」というコメントを出した。
それはおかしいぞ、と著者は突っ込みを入れる。
フライドチキンを食べていたから長生きしたのではない。
丈夫な胃腸と歯を持っていたから長生きして、
結果としていまもフライドチキンが食べられるのではないか。著者は主張する。

結果から原因を後付けしない!

これはまったくそうだと同感する。いかに我われは結果から原因を作っているか。
ほかにも著者は「高僧は長寿」という説を否定している。
長生きしないと位が上がらない。若くして死んだら、高僧の地位には行かない。
高僧は長寿の原因ではなく、結果を言葉を変えて言ったに過ぎないのではないか。
「日光暴露が心筋梗塞を減らす」という論文もそうではないかと著者は言う。
日光のあたらない室内でコーヒー、タバコをのみながら
デスクワークしている運動不足のサラリーマンは心筋梗塞になりやすいというだけ。
つまり「原因→結果」のように見えて「結果→結果」を言っているだけではないか。
これは別の本で読んだが(中島義道「後悔と自責の哲学」)、
ダーウィンの適者生存説も似たようなものである。
適者が生存したというのは生存しているのが適者なのだから、
別に新しい学説ではなく単なるトートロジー(同語反復)に過ぎない。
こうして考えてみたら、世にはびこる成功法則なんぞもその最たるものである。
成功者が成功という結果から原因を告白しても、それは成功の原因ではないことになる。
さらりといま書いているが、みなさん、おわかりいただけましたか?
著者のあたまのよさには驚く。
我われはけっこう「結果→結果」を「原因→結果」と錯覚しているのではないだろうか。

さて、たいへん優秀な著者は説明責任を重んじる最近の医療風潮に疑問を呈する。
「治りますか?」と患者から聞かれる。
医師としては「かならず治りますよ」と言いたいし、そのほうが治療効果も上がる。
だが、それをやってしまったら訴えられてしまうのだという。
「治る確率は60%です」などと正確に情報を伝えることが義務づけられている。
患者の気持はどうか。「60%のためにがんばるぞ!」というのは滑稽ではないか。
患者の主観では治るか治らないかは100%か0%かである。
ならば「100%治る」と思って闘病したほうがいいのではないか。
このために患者は「60%」などという医者を敵と思ってしまうのだと著者は言う。
医者はあんなことを言っているが絶対に治してみせる、と主治医を信じられなくなる。
本当は医者だって「絶対に治りますよ」と力強く言いたいのである。

これに関係する米国の「セクレチン騒動」を本書から引用させていただく。
とてもおもしろい。

「一九九六年四月、米国の三歳の自閉症児が、セクレチンの注射とともに
しゃべれるようになったことにより「自閉症児にはセクレチン!」という報道が、
瞬(またた)く間に全米中に広がった。
そして現実に、多くの病院でセクレチンの注射により、
自閉症児が会話できるようになったり、IQの上昇がみられたのだ。
医学誌への論文報告もされている。
ところがその後のRCT[無作為化比較試験]では、驚くべき予想外の結果が出た。
セクレチンの注射と生理的食塩水の注射との比較で、改善度は同程度であったのだ。
これは多くの教訓を医者に与えた。つまり病気の種類によっては、
「非特異的エピソードが(プラスであれマイナスであれ)状態を変容させ得る」
ということだ。
右の内容は、かつて『メディカル朝日』に掲載された伊地知信二、奈緒美医師の
文章をわたしが要約したものだ」(P71)


だとしたら、現世利益をうたう新興宗教もかなり有効ということではないか。
新興宗教の集会や会報では、いわゆる奇跡めいた報告例が多数あろう。
「かならずよくなる」と周囲や本人が強く信じたら「状態を変容させ得る」のではないか。
周囲が自閉症児への見方を変えたら、自閉症児がしゃべれるようになったのである。
このときの新薬がお題目でもツボでもパワーストーンでもいいことにならないか。
我われの見方しだいで「状態を変容させ得る」というのは衝撃的なことだと思う。
自閉症児だからどうせダメだろうとあきらめていたらしゃべることはなかったのである。
希望という偽薬の効き目がいかにすごいか、である。
一見すると薄手の軽めの本だが、内容はわかりやすいうえに深い。いい本を読んだ。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ」(中村仁一/幻冬舎新書)

→こういう本がベストセラーになるのは非常にいいことである。
だって、これ以上医療費がふくれあがると国民皆保険を維持できないじゃありませんか。
国民皆保険があることから、日本人のやさしさがわかるような気がする。
ほんとうにわが国に生まれたということは恵まれていると思う。
本書の内容を忙しい方のために要約したら、ガンにならないためにはどうしたらいいかだ。
答えは、ガンになりたくなかったらガン検診を受けるな、である。
これはむかしから宗教評論家のひろさちや氏が言っていたことだけれど、
京都大学卒のモノホンの医者が言うと迫力があるぜ。
いろいろ批判はあるだろうが、売れていい本だったと思う。
かるーく批判すると、死ぬときには脳内モルヒネが出るからガンによる自然死は怖くない、
と書いてあるけれど、あなた、自然死したことがあるんですか?
それから、繁殖、繁殖、うるさい!
もう繁殖が終わった人間は死んでもいいと繰り返しているが、
いまの世の中には畜生でも可能な繁殖さえできない人間がごまんとおりますぞ。

とはいえ、いい本である。
お医者の著者に代わって大声で復唱するが、ガン検診を受けなかったらガンにならない。
みなさん、この本を読んでもなんだかんだガン検診を受けているのでしょう?
わたしはついに踏ん切りがついた。
区がしてくださる健康診断で今年は大腸ガン検診を受けなかった。
腹が据わったということだ。
どうせガンが見つかってもガン保険なんか入っていないし高額の治療費も払えない。
ならば、著者の言うように「手遅れの幸せ」をニヤニヤしながら待ちたい。
はっきり言って、自殺願望がどこかにある人には余命宣告は福音である。
なんで自殺願望を持つものにかぎって末期ガンにならないのだろう。
あんがい余命宣告されたら「生きたい」なんてハツラツとして思うものなのかもしれない。
本書で知っていちばん驚いたのは医学情報ではなく、
いまの90歳代で年に4~500万円の年金をもらっている人がいるということ。
やはりそうだったのか。高級料理店で働いてる人に聞くと、客は老人ばかりとか。
銀行員もいろいろ詳しそうだが、なぜか表には出てこない裏である。

「医療とかかわるな」の部分は人それぞれだろう。
いまはほんとうにいい時代だと思う。
激しい痛みがあっても医者に行けばよく効く痛み止めを出してくれる。
不安が強い人には精神安定剤、眠れない人には睡眠薬を処方してくれ、
どちらもむかしより効き目がよく依存度も少ないのだから。
かつては痛風になったらあん肝や白子を食べられなかったのだが、
いまは尿酸値を下げる薬が安いジェネリックで購入できるのである。
著者は医者だから医療批判をしてもいいが、
我われがおいそれとはしてはいけないような気がする。
これは被差別者ならばおのれの擁護団体を批判してもいいのとおなじ理屈である。
名著から名言を引用させていただく。

「これまで、70前後の何人もの有名人が、よせばいいのに、
健康であることの証明欲しさに「人間ドック」を受けてがんが見つかり、
目一杯の血みどろの闘いを挑んだ末、見事に玉砕し、果てています。
自覚症状は、全くなかったでしょうから、「人間ドック」など受けさえしなければ、
まだ一線で活躍していたと思うと、残念のひとことに尽きます」(P106)


「一般に、医者は医学の勉強をして医師免許を持っています。
しかし、特別に人生勉強をしてきたわけではありませんし、人生修行もしていません。
また、さしたる人生経験もありません。
そんな医者に、いかに死ぬかという、
むずかしい人生問題をつきつけるのは可哀相すぎます。
医者には荷が重すぎて、逃げ回るしかありません」(P123)


「検査の数値は、実は微妙なことで変動するといわれています。
同じ血液検体を複数の検査施設に依頼すると、
異なった測定結果がもたらされるそうです。
検査機器や検査試薬が違うためともいわれます。
同一施設でも検査技師が交替すると、測定値が変化することもあるそうです」(P179)


「自分だましの心理学」(菊池聡/詳伝社新書)

→ひと言で要約するならば、「現実を正しく見るとうつ病になるぞ」という話。
我われは現実を自分に都合よくごまかして認知するようにできている。
認知心理学によると、おかげでこうしてうつ病にならずに済んでいるそうだ。
いちおう学問っぽくするために、ある実験の結果が書かれている。
ここがいちばんおもしろかったのだけれど、
残念なことにいつどこでなされた実験の結果なのか著者は書き落としている。
まあ「だまし」などないと心理学者を信用しようではないか。
ボタンがある。そのボタンと接続していると思しきランプがある。
実際はボタンを押すのとは無関係にランダムでランプが点灯・消滅するような設定にしてある。
つまり、ボタンを押すのとランプがつくことには因果関係はない。
多数の被験者にボタンを押させてみる。
その後にどのくらい自分はランプの点灯をコントロールできていたかを質問する。
すると、たいていの被験者は、
自分はランプの点灯をある程度コントロールできたと答えたという。
正しくは、ボタンを押すのとランプの点灯はまったく関係ないにもかかわらず、である。
とはいえ、なかには少数ながら自分はランプ点灯をコントロールできていない、
と正しく現実を見抜いたものがいるそうだ。
そういう人たちは「うつ傾向」が強かったという。

どういうことか。現実を正しく見抜いたらうつ病になってしまうのである。
我われは自分に関することにはなぜかバイアスをかけてプラスに見るようになっており、
この認知のゆがみ(補正?)のためにうつ病にならずに済んでいるのではないか。
これが本書の主張している仮説で、それなりに正しいのではないかと思う。
繰り返しになるが、ボタンのランプ点灯実験はなにやら恐ろしいことを示唆している。
ランプがつくかつかないかというのは、人生における禍福とおなじではないか。
ボタンを押すという行為は、我われ人間の努力とも言えるわけである。
ならば、大半の人間は認知のゆがみゆえに、
努力で人生をコントロールしていると錯覚しているとも言えるのではないか。
で、正しい仕組み(ボタンとランプは関係ない)を見抜くものは、うつ病になってしまう。

新しいカタカナを使うことで「だまし」になるのであえていままで隠してきたが、
認知心理学ではこの自分にまつわる錯覚をポジティブ・イリュージョンというらしい。
ポジティブ・イリュージョンゆえに我われはうつ病にならずに済んでいるのかもしれない。
なぜか我われは現実を正しく認識できないようにできていて、
そのおかげでずいぶん助けられているのではないか、
というのがポジティブ・イリュージョンの心理学的な説明である。
とはいえ、正しい現実があるかどうかわからないことにも本書は触れている。
たとえば、コップに半分の水が入っている。
これを我われはなかなか正しく認知することができない。
どういうことかと言うと、価値判断を加えてしまう。
「まだ半分もあるじゃないか」(ポジティブ)
「残り半分しかない、どうしよう」(ネガティブ)
そして、大半の人は物事をポジティブに見る認知機能が心理に備わっている。

ならば、あえてポジティブな「だまし」を入れたらどうか、という問題になる。
たとえばプロレスはあえてだまされたふりをして見ないとつまらない。
著者は主張する。おなじように嘘と知りながらあえて「だまし」を取り入れたらどうか。
これは一長一短があるように思う。
たとえばお題目を唱えたら「夢がかなう」というのは絶対的真理ではおそらくないが、
そのような「だまし」を認知のシステムに入れたらポジティブになるだろう。
しかし、あまりにポジティブな人は現実を大きく見誤り手痛い失敗をする危険性がある。
なにより変にポジティブな人は近所迷惑である。
これはわかりやすくするため個人的な体験を書くが、
むかし自分は美女で文豪であると信じている冴えない四十女と逢ったことがある。
本人はそれでいいのだろうが、周囲がそいつを取り扱うのがめんどうだ。
そうはいっても、並の容貌なのに自分はひどく醜いのではないかと苦しむ恐怖症もある。

結論としては、自分を正しく見るほど難しいことはないのだろう。
さらに自分を正しく見るのがいいかどうかもわからず、
たぶん自分のすがたを正しく見たらうつ病になってしまうはずである。
うまく「だましだまし」生きていくしかあるまい。
わたしなんか自分はそうとうネガティブだと思っていたが、
あんがいかなりポジティブ・イリュージョンとやらに助けられているのかもしれない。
というか、うつ病になっていない時点で自分を正しく見ていないのであった。
たしかにそうで、どうしてこんなに醜く愚鈍で低劣なのに厚顔にも生きていられるのだろう。

「図解雑学 臨床心理学」(松原達哉:編著/ナツメ社)

→けっこうなデタラメが書いてあって笑える。
河合隼雄がユングに師事したとか(ふたりは逢ったこともないぞ)。
臨床心理士が精神病(統合失調症、躁鬱病)を扱えるようなことも書いてある。
精神病の人に薬なしで立ち向かうなんて恐ろしや、恐ろしや。
あと、これはどうなんだろう。コラムに変な美談が書いてあるのである。
C社、D社から内定をもらった学生が臨床心理士のA教授に相談に行く。
どちらの会社に就職したらいいか。
学生相談室の臨床心理士、A教授はこちらにしなさいと助言したという。
学生さんは教授の忠告にしたがい就職先を決めた。
このケースを紹介したあとに、こう来るのだから――。

「臨床心理士は学生の人生を決定し、幸不幸を左右するすばらしい仕事ですね」(P90)

おい、ちょっと待てよ。カウンセリングというのは、相手に決めさせるのではないか。
どちらにしたらいいか指示や命令をしてしまったら、それは占い師になってしまうのでは?
将来のことなんて絶対にわからないんだから、
もしその相談者の学生が就職先で失敗したらA教授は永遠に恨まれることになるぞ。
これは本当にびっくりした。
カウンセリングというのは、相談者に「こうしなさい」と言っていいのだろうか?
このケースは行動療法の指示とはまったく異なる人生の重大選択である。
心理療法の本はほとんど河合隼雄しか読んでいないからわからない。
しかし、やはり相手に自分で決めてもらうのがカウンセリングのような気がする。

人生の選択は絶対に自分で決めたほうがいいと思う。
ふたりから求婚されたとき、迷ったすえ、だれかの意見にしたがってしまったら、
結婚生活なんてうまくいかなくて当たり前なのだから、
その「だれか」を一生のあいだ恨みつづけることにならないか。
そっか。いま気づいたが、
自分で決めると自分を恨むようになることもあるのか(これを後悔という)。
仏教ライターのひろさちや氏ではないが、サイコロで決める手もある。
でもさ、サイコロで決めて失敗したら神仏を恨むようになるんじゃないかな。
宗教人類学者(なにそれ?)の植島啓司氏いわく、なるべく選択しないようにしよう。
なるべく選択しないと植島さんのように独身貴族を貫き通すことになるのか。
AかBかの選択でおもしろいのは、Aを選んだらBの人生は決してわからないことだ。
人生は引き返すことができない。
優秀な人ほど人生には選択肢が多くなるから迷いも深まるのだろう。
学力がないため職人にしかなりようがなく結婚も近所のトメさんとするしかない。
こういう人生がいちばん迷いが少なく、カウンセラーの世話にもならないのだろう。

「文学研究という不幸」(小谷野敦/ベスト新書)

→あまりにも世間知らずでこれを白状するのが恥ずかしいけれどさ、
大学を出てから6、7年経って小谷野さんの本を読んではじめて
大学教授の社会ステータスの高さを知ったようなところがある。
大学生時代は教授がそんなに偉い人だなんてまったく思っていなかった。
大学に入って驚いたのは、想像していたよりもはるかに講義がつまらないこと。
先生が教壇で教科書を棒読みしているような講義ばかりだった。
河合塾で1年浪人していたから、ぼくのなかでは予備校講師のほうが教授よりも偉かった。
いやあ、世間知らずっしょ。
だから、大学教授にあこがれるなんてまったくなかった。
ああいうつまらない人間にだけはなりたくないと生意気にも思っていたような気がする。
記憶に残っているのは社会学のO先生の講義くらい。
しかし、あれは当時ウブだったから刺激を受けたようなもんで、いまから思えばくだらない。
結局、いちばんおもしろかったのは当時客員教授だった原一男先生の授業だった。
客員教授と正規教授の違いも知らなかった。
どうすれば大学教授になれるのかなんて考えたこともない大学生であった。

本書で小谷野さんは大学の講義の大半は意味がないと書いている。
入門書でも読ませて、わからないところを質問に来させればいいだろうと。
いまのぼくからしたらまったくもって正論である。
しかし、小谷野さんはわかっていないが、早稲田の学生でさえ入門書も読めないのである。
証拠を出せと言われたら、恥ずかしながら自分を指さす。
大学時代のぼくは入門書も読めないくらい知的レベルが低かった。
岩波新書を最後まで読み通すのに下手をしたら1週間かかることもあり、
それでも最後まで読めたのだから自分としてはよしとするかというレベルの頭脳だった。
いつからこんなにぐいぐい本を読めるようになったのだろう。
やはり大学卒業直後の身近な不幸というのが大きく、
切実に「なぜ?」を知りたいと思いながら成長(退廃?)していったような気がする。
それから現実逃避としてはドストエフスキーやトルストイのクソ長い小説は有効だった。
いまではあんなの読み返す気にもならないけれども。

おっと、くだらない自分語り失礼しやした。本書は小谷野さんの本音が楽しい。
「詩人>小説家>評論家>研究者」という序列があるとかさ。
無名大学の教授が非常勤勤務の学習院のほうを愛して「学習院の○○です」と言うとか。
源氏物語研究者は、実は瀬戸内寂聴や田辺聖子にコンプレックスがあんだろとか。
それはあったりめえで、瀬戸内さんや田辺さんは研究者なんかよりはるかに偉いのだが。
「おもしろい」ことを書く人は「正しい」人よりも偉いのである。
だから、小谷野さんも「おもしろい」ことを書けるんだから、もっと自信を持ってね。
それと文学研究はもうやることがなくなっているとか、へえ、そうなのかと思った。
マイナーなものをやっても評価されないから、
みんなシェイクスピアやゲーテ、源氏や漱石に走るとか、あはん、ぶっちゃけてますな。
芥川賞作家で東大教授の柴田翔のオーラがないとか、
そんなん、どうでもええやん。くうう、笑えるぜ。

文系の大学研究者はみな人格が未熟で人事もいやらしいというのは勉強になった(なんの?)。
しかしまあ、意味もない文学研究なんぞやっていると、そうなってしまうのだろう。
結局、本書を最後まで読んでも文学研究というのはなにをしているのかわからなかった。
きっと大学教授が読書感想文を書いたら「研究」になるような世界なんでしょうな。
手下や子分を集めて生意気な新人をいびるのが大学教授の仕事なのかもしれない。
きっと人を支配するのは文学研究なんかよりもはるかに楽しい仕事なのだろう。
小谷野さんが嫌いな中島義道先生も助手時代だいぶ教授からいじめられたようである。

「自分が大学に呼んでおいていじめる、という例は、
大月隆寛も、歴史民俗博物館へ助教授として呼ばれながら、
呼んだ当人と衝突して辞めたと言っており、
おそらく、呼んだ側では、果てしのない感謝の表明を当人に期待するので、
その期待が満たされずに、いじめとなって現れるのだろう」(P223)


いじめられっ子にして大のいじめっ子の小谷野さんらしい鋭い分析で感心した。
どうして小谷野さんはこんなに人のうわさ話が好きなんでしょう。
彼の女が腐ったような性格はとてもいい。そこが小谷野さんの魅力である。ゴーゴー!

「善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学」(中島義道/角川oneテーマ21)

→大学時代、文学部だったせいかニーチェが好きなやつというのがいたな。
まあ、それでもふたりだから、当時でも哲学は斜陽だったのだろう。
で、ニーチェ好きのふたりはとにかく美男子で女にもてることと言ったら!
ニーチェ好きは常に女から囲まれていた記憶がある。
本書によると、どうやらニーチェさまはまったくもてなかったというのに、なんたるこった。
で、また15年まえの記憶をさかのぼると、愚かで醜い当方にはニーチェさまは不快だった。
女を大量にはべらせたニーチェ好きは、こちらをバカにしたようなことを言うわけ。
そりゃあ、こちらは偽善者で畜群、
弱者で奴隷根性もちだから仕方がないのかもしれないけれど。
こういう事情でむかしからニーチェはダメだった。
ニーチェさまのようなやつがいたら庶民根性丸出しで引きずりおろしてやりたい!
本書でもベストセラー作家で強者の中島義道先生は、
ぼくのような弱者を心底から軽蔑して完膚なきまでに論破なさってくださっている。
東大卒で世間的評価も高く、息子も一流の博報堂勤務の、
いま日本でいちばん偉い哲学者の中島先生が今後万が一スキャンダルを起こしたら、
先生が大嫌いな弱者(善人)たちと肩を組んで大笑いしてやりたいと思った。
お偉い中島義道先生に、先生のお嫌いな弱者(畜群)たちは、
これほどまでに悪質なのかといつか思い知らせてやりたい。
だいたい中島義道さんのような異端者(強者)が、
善良な庶民さまの寛容に助けられて生き延びてきたという自覚のないのが不思議である。
中島義道先生が嫌うような善良で卑怯な弱い庶民さまがいるから、
いまの日本はたぶんギリギリのところで回転している。
ゴロツキに近いぼくはとても東大卒でカント学者のお偉い中島さんのような思考はできない。
自称善人で奴隷根性丸出しの弱い庶民は、それでも中島哲学博士よりも偉いと思ってしまう。
も、もちろん東大卒でベストセラー作家、
なにより世間的評価の高いカント学者の中島博士も尊敬していますが(←畜群らしいでしょ)。

「後悔と自責の哲学」(中島義道/河出書房新社)

→自分の関心とどんぴしゃりの本とめぐり合うと嬉しくなる。
わたしが仏教から考えていたことを、著者は西洋哲学から考察している。
内容はかならずやみなさまにも興味深いと思うので(違ったらごめんなさい)、
理解を深めるためにも自分の言葉でまとめてみたい。どうかお付き合いのほどを。

テーマをひと言で表せば「人に選択の自由はあるのか?」だと思う。
もちろん、答えを出さずにずっと問い続けるのが哲学ゆえ回答のようなものはない。
我われが自由ということ考えるとき、それは現在ではなく過去をモデルにしている。
わかりやすいのは交通事故や犯罪である。
交通死亡事故の加害者は、
被害者を死亡させぬ(轢かぬ)自由があったと考えられるから罰せられるのである。
しかし、法定速度で注意深く運転していても事故を起こすことはある。
これはいくら酒を飲んで運転しても事故を一度も起こさない人がいるのとおなじである。
本人はなんの過失もなく運転していたつもりでも小学生の列に突っ込んでしまうことがある。
このとき、小学生をいく人か殺したという重みに折り合いをつけるためだけに、
「わき見運転」や「注意義務違反」などの法的違反と罰則が本人に課せられる。
これは運転者に過去(事故当時)自由があったという建前のもとでの判決だ。
小学生を轢き殺した運転者はなぜ自分がと思うだろう。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかわからない。
事故の瞬間、自分がなにをしたのかは決して思い出すことはできないはずである。
なぜブレーキの代わりにアクセルを踏んだのかはわからない。
しかし、その時点において自由であったという前提で責任を負わせられる。
彼はいくらそのときのことを後悔しても後悔し尽くせるものではないだろう。

自死遺族も自由の問題に苦しんでいるとも言いうる。
たとえば、父親が車庫にとめてある車のなかでガス自殺した場合――。
遺族の息子はもし学校に行くまえに自分が車を覗いていたら
父は自殺していなかったと激しく後悔する。
彼は車を覗き込むことができたという自由(の思い込み)のせいで
何年も後悔と自責の念に苦しまなければならない。
また別のケース。父親がふいに家を出て自殺してしまった。
そのまえに父親から一緒に風呂に入らないか、と誘われた。
中学生になる息子は恥ずかしいからという理由で断ってしまった。
彼は事件後、もしあのとき父と入浴していたら自殺していなかったのではと後悔する。
客観的に見たら、どちらの場合も、
たとえ息子が(していればと)後悔している行動を取っていたとしても、
最終的には自殺をしていたとも考えられる。
しかし、この自死遺族にどういう慰めを言っても、本人の傷ついた心には響かない。

いまわかりやすく交通死亡事故と自死遺族を見てきた。
こういう極端なケース以外にも、我われはいたるところで後悔の念に襲われる。
あのときああしていたら、こうはなっていなかったのではないか、と思うのが後悔の実相だ。
あのとき自分はAかBか選択する自由があったと思うがゆえに後悔するのである。
この点、自由というのは過去がベースになっている。
この過去における自由が、いまこの瞬間にもあると一般的には考えられている。
自分はいまAかBかを選択する自由がある。
こう考えるがゆえに過去の行為を人はいつまでも後悔しつづけることになる。
しかし、我われは本当に選択する自由など与えられているのか。
そもそも生まれてきたのは自由ではない。
この国にこの性別で、この程度の貧富の家に生まれてきたのは自分の意志ではない。
むしろ、投げ込まれたといってもよい。
過去の企て(選択)はすべて投げ込まれた場所からなされたものである。
なにか現状を変えようと人は企て(選択)をするけれども、
その企(くわだ)てはすべて投げ込まれた場所の制限に縛られている。
貧乏な家庭に生まれたらアメリカ留学はできないから、せいぜい図書館で読書するくらいだ。
我われの企てはほとんど常に思いどおりにはならず、
企ての結果としてまた新たな場所(制限、枠)に投げ込まれる。
この投げ込まれた枠のなかでまた我われは健気にもなにかを企てるのである。

殺人者はどうか。
殺人者は「身勝手な欲望から」や「嫉妬に狂って」や「復讐の念にかられて」事件を起こす。
だが、彼が本当に行為を後悔したときに、そういう理由が噓くさく思えるのではないか。
自分がどうしてその行為を起こしたのかはどれほど後悔してもわからない。
本当にA(殺人)ではなくBを選択する自由が自分にはあったのだろうか。
先ごろの三鷹の女子高生殺人のハーフの犯人は、
被害者を殺すまえ女子高生の部屋のクローゼットに忍び込んでいたそうだ。
そのとき携帯電話からラインで友人に「神さま、助けて」とメッセージを送っている。
あのとき彼に自由はあったのだろうか。
被害者が部屋に来なければいいと願っていたところに彼女が来てしまったのは、
果たして彼の罪なのだろうか。
このあたりはわたしはものすごくわかるのだか、みなさまにご理解いただく自信がない。
本当に過去の一時点に選択の自由はあったのだろうか。
選択の自由があるという前提を疑わず社会も世間も、もっともらしく回転しているけれど。
中島義道の言葉を借りよう。

「じつは、本人にとっても、
考えれば考えるほどなぜ自分が犯行に至ったのかわからないのです。
ということは、それを思いとどまることができたかどうかもわからない。
なぜなら、すべての行為はそれだけを取り出して解明できるものではなく、
特定の意図的行為にはかずかずの非意図的行為がぴったりまといついていて、
しかもこの行為と別の意図的行為とのあいだには
おびただしい偶然がはびこっているからです」(P107)


もしあのときああしていなければ、こうはなっていなかっただろう。
どうしてあのとき、ああしてしまったのだろう。
過酷な事件に巻き込まれ、この悲痛な問いを何度も繰り返すと運命という言葉に行き着く。
あれは運命だったのではないだろうか。
運命だと考えられたら、辛く苦しい後悔から逃れることができる。
それどころか未来の禍(わざわい)をも運命は受容する余裕を与えてくれる。
すべては運命なのだからなにが起こっても仕方がないと安心する怠惰のことだ。

どうやらニーチェが好きな中島義道は、この運命論がお気に召さないようだ。
もうひとつの悲劇の受け止め方を示唆している。
わたしの言葉で表現するならば、
その事件は一回かぎりで説明できないものとみなす方法である。
後悔している重大な悲劇は、過去に一度も起こらなかった事件である。
さらにおなじことは絶対に未来にも起こらない。
ならば、原因もなく責任もなく、後悔する必要がなくなる。
すべての現象がこのような一回かぎりの言葉にできない体験だと考えたらどうか。
「交通事故」「自殺」「殺人」という既存の手あかのついた名前を
その現象に与えてしまうから後悔に苦しむのである。
それは名づけようのない一回かぎりの体験だと思ったらどうか。
言葉を与えてしまうからいけないのである。
すべての現象をそのままあるがままのものとして見たら後悔はなくなる。
統合失調症患者は発症時、言葉のない分節化未満の世界そのものを見てしまうという。
赤い花ではなく「赤い」も「花」もないそのものをそのままあるがままに見てしまう。
このように悲劇や痛恨事を見たらどうだろう。
それは過去にも起こらなかったし未来にも起こらない一回だけの体験ではないか。
言葉で分析できないそのままあるがままの出来事である。
ならば、「なぜ」も「どうして」も「ああしていれば」もない。
このあたりは中島義道もいささか混乱している。

「ニーチェは偶然と運命のあいだの揺れを止めようとする。
つまり、われわれの眼には偶然に見えるさまざまな事象の背後に
「何か意志的なもの」があって、それがすべてを動かしていることを認めるのではなく、
すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。
たしかに、すべては何の原因も、何の目的も、何の意味もなく起こっている。
だが、そのことをそのまま承認すること、
現に起こったこと、起こること、起こるであろうことに対して、
常に〝Ja”と肯定すること。それが「運命愛(amoa fati)」なのです。
これが彼の言う「能動的ニヒリズム」ですが、――興味深いことに――
その実践的意味はやはり後悔からの解放にある。
じつのところ納得できないことを無理やり納得したつもりになり、
屁理屈をこねまわして「救い」を得るより「禍が私に降りかかった、それですべてだ」
ということを認めよ、ということです」(P150)


飛躍するが、これは法華経の説く諸法実相とおなじだろう。
諸法実相とは、諸法(世界)はそのまま実相(真実)であるということだ。
諸法実相は具体的には十如是として説明される。
ひとつの現象は是(かく)の如(ごと)し、いま起こっているそのままでよろしい。
如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報――。
あるがままで有り難い奇跡であるという見方である。
たとえば、交通事故、自殺、犯罪に遭遇する確率は極めて低い(被害、加害ともに)。
抹香くさい仏教ではなく、確率を考えてみよう。
サイコロを10回振って1が連続して10回出る確率は極めて低い。
「1111111111」
これは約6千万分の1の確率で発生する。ところが、である。
「2633151216」
いまデタラメに数字を10書き連ねたが、この順番になる確率も約6千万分の1である。
「1234554321」
なにやらきれいなこの順番になる確率も同様、約6千万分の1である。
「1111111111」だから確率が低いのではないということだ。
どのパターンでも約6千万分の1でめったに出ない有り難い奇跡的なケースなのである。
ならば一見すると「ありふれた」生活も「奇跡」のような確率で存在していることになる。
さて、問題である。「1111111111」の次に1が出る確率はどのくらいか?
1が10回出たあとにさらにまた1が出る確率はいかほどか。
答えは、サイコロを1回振るだけだから6分の1である。

過去(これまで)は未来(これから)ではない!

しかし、これから10回サイコロを振ったときの10回分の順番を予測をすることはできるか。
これは約6千万分の1の確率でしか当たらない、
とはいえ、どれほど低確率でも当たる人は当たるのである。
確率が低いことでもかならず起こるが、それがどこのだれに当たるかは予測できない。
[カッコ]内の記述は引用者の補足です。

「つまり、科学があらゆる技巧を使って、
「これまで」と「これから」とのあいだの溝を埋め立てようとしていますが、
そして、その最後の武器が確率であるわけですが、どうしてもうまくいかない。
なぜなら、この努力は無駄だからです。
すでに見たように、世界の実相は(A)異質なものの一回かぎりの継起なのですが、
そこにさまざまな関心から「同一のもの」[パターン]を入れ込んで、
世界を同一のものの繰り返しとして見なおす。
そして、その最も基本的な「同一なもの」[文脈]こそ、
「これまで[過去]」と「これから[未来]」とを
「同一の時間」における二つの様相とみなすことです。
こうした前提で世界について知ること、それが世界を認識することであり、
科学的認識はその最も洗練されたものです」(P140)


わかりやすく書くと、どういうことか。
過去のことはわからないのである。
ある犯罪者がどうしてある人を殺してしまったのかはわからない。
あるドライバーがなにゆえ児童を何人も轢き殺してしまったのかはわからない。
愛する家族がいったいどういうわけでよりによってその日に自殺したかはわからない。
過去のみならず未来のこともわからない。
どうしたら難病や事故、犯罪に遭遇しないでいられるかはわからない。
未来なんてなくてあなたは1分後に心臓発作で死んでしまうかもしれない。
歩きながらスマホでこの文章を読んでいるまさにいま車が突っ込んでくるかもしれない。
経済がどうなるかも政治がどうなるかもまったく予想がつかない。
いくら現代科学が進歩しても、過去と現在、現在と未来をつなぐ「因果性は穴だらけ」。
なぜある人が「ああ」ではなく「こう」行為し、
その過程にいかなる偶然があって、いまのような結果になるのかはまったくわからない。
なぜAではなくBを選択したのか、にもかかわらず、なぜ偶然にも禍に遭遇するのか。
なぜだれもが非難するような愚策を選択したのに偶然にうまくいったのか。
どうしてよかれと思ってやったことが最悪の結果になるのか。
すべてはなにもかもわからない。

「究極的にはわからないからこそ、われわれはみずから実現した過去の
(意図的・非意図的)行為を激しく後悔するのです。
そして、――同時に強調したいことは――
それにもかかわらずこの社会は「わかった」ふりをする。
わかったふりをして、ある人の行為を非難し、場合によっては犯罪者に仕立てあげ、
別のある人を賞賛し、場合によっては褒美を与える。
自由意志も行為の因果性も偶然も運命も、じつは何もかもわからないのに、
社会(世間)とは、わかったつもりになるよう鍛える場であり、
それを強要する場であり、それに対する疑問を封じる場です。
それでこそ、社会はスムーズに動いていくのでしょう。
誰でも、心の底で一瞬きらりと「どこかおかしい」という閃光がよぎる。
しかし、その閃光も社会の中で生きていくうちにたちまち消えていく。
そんな中で、身がこなごなに砕けるほどの禍を蒙(こうむ)った人々は、
「どこかおかしい」という問いをけっして消さない。
「なんでこんなことが?」という重い問いを抱えて生きつづけ、
それを墓場までもっていくのだろうと思います。
哲学とは、まさにこうした問いを真正面からとらえて
それに応えようとするものです」(P156)


いや、それは哲学ではなく宗教の問題ではないかとわたしは思う。
なぜなら、宗教とて哲学とおなじで絶対的に「正しい答え」はないが、
しかしそれでも「それぞれの答え」に行き着く可能性はあるからである。
「救い」がないことに耐えられるのは、断じて哲学者が強いからではなく、
彼が幸運にも「身がこなごなに砕けるほどの禍を蒙」っていないからではないか。

「悪について」(中島義道/岩波新書)

→とてもいい本だが、カント、カントうるさい。
ネットで感想文を拾い読みしてみたが、これまたカント、カントうるさい。
日本には善悪の問題を考え尽くした親鸞や一遍がいるのに、
敗戦国コンプレックスからか日本思想には目も向けず、
ハイカラ(なの?)なカントをアルマーニのスーツかなにかのように着こんで
にやつく著者が不快と言えなくないこともないが、
しかしカントならぬ自分の言葉で考えた箇所もあるから、この本はとてもいい。
わたしは興味がないので(さっぱり理解もできないし)カントのところはすっ飛ばした。
仏教国の我われがどうしてキリスト教国のカントを理解できると思うのだろう。

カント倫理学の入門書らしい「悪について」は
「偽善について」書かれていると言ってもよい。
あらゆる善は自己愛から行われているのだから、
それは偽善、つまり善ではなくむしろ悪ではないか、というのが基本論調である。
いわゆる善行の多くは、自分の評判を気にしてなされているだけではないか。
親切というのは善ではなく、する側の自己愛を満たすだけの行為ではないか。
親切にされたらそれは相手から同情されたということだから、
親切を受けることは相手の自己愛を満足させてやる不愉快な行為とも言えないか。
そもそも、なにが善か、なにが悪か、我われは本当に考えたことがあるだろうか。

たとえば、このような命令を受けたアメリカ兵がいるとする。
「目のまえのベトナム人の少年を殺せ」
これだけなら迷いも少ないが、さらにこういう条件が加わったらどうか。
「ベトナム人の少年を殺さなかったら、おまえの息子を代わりに殺す」
このとき善悪の絶対的に「正しい」答えはない。
1.ベトナム人の少年を殺してものちのち後悔するだろう。
2.ベトナム人の少年の純粋な目にほだされたら、息子が死にこれも後悔の原因になる。
3.自殺をしたらキリスト教の大罪に触れる。
ちなみに3は中島義道は指摘していないが、当然ありうる選択肢だろう。
このあたりがカント哲学者の中島義道の弱点で、
日本人は宗教で自殺を禁止されていないから、美的判断で3を選ぶ人も多いだろう。

そもそも1を選択してもキリスト教とは無縁の日本人はそれほど悩むだろうか。
「平家物語」で熊谷直実は自分の息子ほどの年若い武士を戦で殺している。
のちに熊谷直実は法然のもとで出家して少年の菩提をとむらったという。
仏教国の日本人にはこういう選択肢もあるのだ。
どうして日本人がカントの悩みなんざ引き受けなければならないのか理解できない。

中島義道はカントの名のもとに、さらに、なにが善か、なにが悪か、
絶対的な「正しい」答えがない問題を提出している。
西洋哲学はよくわからないが、カントは嘘をつくことを悪とみなしているようだ。
これは西洋の小説の話らしいが、ある医者がいる。
妻が身ごもったが病弱のため、出産したら母体が危ないことがわかっている。
妻は出産したがっている。堕胎はキリスト教では罪(悪)である。
このとき、どうしたらいいのか。
1.一か八かで出産する。
2.妻の命を守るために堕胎する。
どちらが善で、どちらが悪なのか。ここで大仰に悩む中島義道はおかしい。
我われ日本人はすばらしき「間引き」の文化を持っているのである。
たいがいは2を選択して水子供養に励むだろう。
念仏や題目を唱えながら運を天にまかせて1を選択するのもいいだろう。

さて、小説ではどうなったか。妻は赤子を出産したという。
ところが、赤子は3日後に死んでしまう。
妻のほうもやはり出産がこたえたのだろう。1週間後に絶命する。
夫の医者はどういう態度を取ったのか。
赤子が死んでしまったことを妻に伝えず、嘘をついて別の赤子を母親の胸に抱かせたという。
医師は堕胎の罪は犯さなかったが、嘘をつくという罪を犯したことになる。
中島義道はこの医師の誠実な苦悩を、あたかも自分の苦悩のように呻吟してみせる。
だが、仏教国の我われ日本人は、
どう考えてもこの西洋人の悩みを共有できないのではないか。
これも前世の因縁かと妻の死を泣きながら受容し(南無阿弥陀仏!)、
にもかかわらず妻は嘘を信じてある種の幸福な状態で死んでいけたことをよしとするだろう。

嘘をつくのは悪だというのは西洋の倫理観で、我われ日本人は「嘘も方便」なのである。
どうして東大卒でベストセラー作家の中島義道博士がこの程度のことを理解できないのか。
最後に人気作家ならではの楽しい中島節とやらを紹介しておこう。
こういういかにも俗悪ぶった文章を書けるのが中島の魅力で、
カントがどうのは西洋哲学を背広のように着こんで偉ぶりたいだけに思えてしまう。

「現代日本社会に生きるほとんどの人間は、適法性に縛られた行為を実践しようとする。
できるかぎり約束を守り、他人に不満を感じても、面前で罵倒することは避け、
贈り物をされれば、「気に入りません」とつき返したりしない。
知人が病気になれば、その家族に「いかがですか?」と心配そうな声をかけ、
上司の葬儀では神妙な顔で哀悼の意を表し、友人が結婚すれば祝福する。
このすべてが外形的に善い行為(適法的行為)であり、
しかも自己愛にまみれていることは確かであろう。(中略)
彼(女)は、誠実に努力し、他人をなるべく傷つけずに配慮した態度をとり、
不満はうちに留め、とはいえ苦行僧とは異なり、とくに地上の快楽を否定せず、
財産も社会的地位も名声も否定せず、
ただしそれらを社会的ルールにそって賢く確実に獲得していく。
そうしながら、けっして奢ることなく、人々の意見によく耳を傾け、
自分に常に批判的まなざしを向けて、刻苦精励(こっくせいれい)するのであるから、
社会的成功を収めることが多い。
だが、どんなに成功しても謙虚であり、敗残者を軽蔑することはない。
多くの人から慕われ「彼(女)ならついていく」という声は広くこだまする。
こうした人は、自己愛に首までどっぷり浸かっているのである」(P85)


まるで山田太一さんみたいだな~。しかし、自己愛ってそんなに悪いの、中島博士?
嘘がそこまでいけないのかも、わたしはわからない。

「[われわれは]他人を傷つけたくないがために、他人を思いやって、嘘をつく。
両者は連携している。他人を傷つけたくないという動機は――
その人が傷つくことを真に望まない場合もあるが――、
おうおうにして彼(女)を傷つけると自分が不愉快な思いをするからなのだ。
自分の過酷な言葉によって、その人がうつ病にでもなったら、自殺でもしたら、
あるいはその人から恨まれたら、復讐されたら、迷惑だからである。
ということは、やはり自分が不快になるのを避けるため、
すなわち自己愛を満足させるためなのだ。
優れた教師は「うちの子どうでしょう?」と心配そうに顔を覗き込む母親に対して、
教育的配慮から「よくやってますよ」と嘘を答える。
知人から個展の招待券をもらっても「行きたくありません」とは答えず
「ぜひ行きたいのですが、あいにく用事が重なって」と嘘を言い、
義理で駆けつけたすえ、ひどく失望しても「すばらしかった」と絶賛する」(P99)


中島義道は自分が信じているカントだかに従いなかば思考停止をして、
嘘が悪であることをさも自明の前提のように扱い、
いわゆる大人の人格者を悪人(偽善者)であると裁きたいようだが、
カントという権威に屈せずあくまでも自分のあたまで考え、
「嘘も方便」という我われ日本人になじんだ理屈を思い出したら、
あるいは西洋かぶれの中島哲学博士の弱点と限界が見えてくるのではないだろうか。

「人生には好きなことをする時間しかない」(大林宣彦/PHP)

→映画監督の大林宣彦氏のエッセイを読む。
ここかしこに「好きなこと」をすることのたいせつさが強調されている。
さて、大林氏の実家は父方も母方も代々医者であるという。
父方の家に生まれた男の名前にはかならず「彦」がつき長ずればみな医者になるそうだ。
この「彦」という名前は医者となにか関係があるのだろうか。
小説家の高橋克彦氏の実家も代々医者で、いぜん自伝を拝読させていただいたが、
「好きなこと」を比較的しやすい環境のようだった。
B級精神科医(本人の自称)の春日武彦氏のお父君も立派なお医者さんである。
春日武彦氏は若かりしころ好きな文筆の道で身を立てるという夢はあったものの、
おのれの恵まれた環境をまったく生かさず将来のことを堅実に計算して、
両親の思惑通りにお医者さんになっている。
春日氏は中年以降に物書きにもなり、
いまは精神科医と作家のふたつの肩書をもつ世にもめずらしい成功者のひとりである。
にもかかわらずこのB級精神科医は還暦を過ぎたいまも、
(他人のことはよくわかりませんが)おかしな心的苦悩から逃れられていないようだ。

打算的に考えたら、人生をきちんと計算したら、
「好きなこと」はほどほどにしておくべきなのである。
「好きなこと」をしろとあおるような成功者の実家はかなりの確率で地主レベルの名家である。
精神科医ならば大半は常識と社会適応を重んじるから、
「好きなこと」の節制を患者に忠告するだろう。
若いころの夢がカタルシス的にかなった大林宣彦氏はこの本でも自信満々でうらやましい。
本書には女性雑誌に連載されたという人生相談が採録されているのだが、
大林監督はどの相談にも迷うことなく「正しい」答えをもって応じているのである。
こういう世間知らずなところが天真爛漫と好意的に評価されるのかと驚く。
求婚者ふたりのどちらにしようかと迷っている女性に監督はこちらにしろと助言する。
やたら「わかります」という返答が多いのも衝撃だった。
異性の人生相談に(失礼ながら)ボンボン育ちであられる大林監督が
「その気持はよくわかります」と即答する。
人生失敗者のぼくなんぞは常々、人の気持ほどわからんものはないと思っているので、
「わかります」を繰り返すその自信満々な態度に、
恵まれている人間の傲慢さえ(きっといや絶対に嫉妬です)見たくらいだ。

父方も母方も代々医者の大林宣彦氏は成功スパイラルとも言うべき人生を送ったのだろう。
こういう人生もまたあっていいのである。
不遇不運不幸だらけの最悪人生があからさまにあるのだから、
大林氏のように「好きなこと」しかしないで成功するような、
このうえなく恵まれた人生が存在しても一向に矛盾はしまい。むしろ、ホッとするくらいだ。
もはや神仏レベルの大林監督の幸運にあやかりたくお説教を自戒としてメモ書きする。
くうう、大林監督のように「好きなこと」だけしていてえぜ。

「――他人のように上手くやろうと思わないで、自分らしく失敗しなさい。
これはぼくが歳(とし)若いひとと一緒に仕事をするとき、
彼らによく与えるアドバイスです。
誰だって何かをやろうとすれば、まずは上手くやりたい、そう願うのは当然です。
そしてその上手く、というのは、
必ず誰か他のひとの成功例が目標として頭に浮かびます。
そしてそのように自分も成功したいと、一所懸命そのひとの真似をします。
しかしこれはしょせん人真似ですから身に付かない。
無理もするし、気負いもする。
で、結局何にも自分らしさを表現しないまま、見事に失敗してしまう。
それくらいなら、むしろ自分らしく失敗したほうが、
誰の真似でもない、そこには自分自身がある。
すくなくとも、ひと真似ではない、自己表現がある。
思いっきり自分らしさを出して失敗したほうが、余程意義があるよ、
とこういってあげるのです」(P22)


映画は(も?)不勉強なためぜんぶ観ているわけではないけれど、
大林監督の映画は高校、大学時代と好きだった。
人に好きだと恥ずかしくて言えないくらいセンチメンタルなところがよかった。
うん、自分らしく失敗しようと思う。

「生きるチカラ」(植島啓司/集英社新書) *再読

→とてもいい本であるため折に触れてちょこちょこ読み返していたが、
このたびこうして通しで読んでみるとやっぱりいい。
植島啓司さんはきっと安定した大学の教授職を捨てて、
見えてきたものがいろいろあるんだろうな。
ずっと高身分だったわけだから、
安定収入がなくなることへの不安はものすごかったものと思われる。
あたまのいい人には見えない世界があるんだけど、
植島さんは秀才なのにやっちゃうんだからすばらしい。
いちばん重要なのはぶっつけ本番の精神で、
イメージトレーニングなどせずに一発勝負の偶然まかせで生きるのが最高に楽しいのだろう。
あれこれ心配してもはじまらず、いざ苦境におちいっても、そのときなんとかなるのである。

人生は備えなんか役立つほど可視的なものではない。
人生も世界もどうなるかわからないんだから、ならばこちらも合理的対策などしても無駄。
きっと生きていたらなんとかなるだろうし、なんとかならなかったら死ぬわけだが、
死ぬときは死んでもいいし、なかなか人は死なせてもらえないからやっぱりなんとかなる。
ならば、どうしたってスーツケースを転がして団体旅行に参加するのはつまらない。
みんなとおなじものを短時間で駆け足でみんなと一緒に見て、それがなんになりますか。
海外旅行をするなら(国内旅行もそうだが)自分で予定を立て、宿泊は直接ホテルと交渉し、
ガイドブックなど無視して繁盛している現地のレストランでうまかろうがまずかろうが、
二度と食べることができない地元のメシを食うにかぎる。
それが生きるってもんだ。偶然をいっぱい味わったほうが人生は絶対に楽しい。
どこまで生きられるかなんてだれにもわからないのだから、ひとり旅のような人生がいい。
観光よりも旅のほうがいいと植島啓司さんはいう。
植島さんはいま肩書がまったくない自由人ではないか。
乞食は一度やったらやめられないというのは本当かもしれない。

「だから、旅には不安がつきもので、列車に乗れるか、乗り遅れたらどうするか、
他の移動手段はあるか、宿泊はだいじょうぶか、もし高値をふっかけられたらどうしよう、
レストランでは何を注文したらいんだろう、そもそも言葉は通じるのだろうか、
そんな不安をいっぱい抱えながら毎日を過ごすわけだから、
よほど強靭な精神の持ち主じゃないとつとまらないように思われるだろう。
ところが、いざやってみればいたって簡単なことに気がつく。
どれも必要に迫られるから、なんとかなってしまうのだ。
もちろんうまくいかないこともあるだろう。しかし、そのかわり喜びも大きい。
ちょっとした親切が大きな喜びをもたらすことも多々ある」(P31)


身近にたいへんな困難に遭遇した人がいるが、
先日電話で話したら似たようなことを明るく言っていた。
いざなってしまったらなってしまったで慣れるし、そのときやれることをやるしかないから、
そうやって毎日生きていくしかないし、それは絶望というほどのものではない。
その明るい声が本当に嬉しかった。こちらも元気が出た。
生きるというのは一回きりのぶっつけ本番である。

「河合隼雄全対話8 創造の深層」(河合隼雄/第三文明社)

→いったいどこから創造はもたらされるのかを河合隼雄と識者が語り合う。
創造の深層にはいかなるものがあるのか。
全対話を読んで境界というのが創造の深層にはあるような気がした。
たとえば、大人と子どもの境界。
創造をしようと思ったら大人でありながら子どもでいなければならない。
「常に子どものそういう目で自分を見ていなければ」ならない。
「要するにみんなが分かったと思うときに、おかしいぞと思」うこと。
「そういう途方もないことを考えつく」のが子どもの力だ。
「ところが、その子どもの心を残す教育よりも、
子どもをどうして早く大人にするかというのが教育だと思っている人」がいる。
難しいのは、「ずっと子どもにしといたらいいと思う人もいること」で、
それでは困ったことになってしまう。
大人でありながら子どもでもあることがいかに難しいか。

宮沢賢治は「おれはひとりの修羅なのだ」という。
修羅とは仏教の十界(六道)でいえば、畜生と人間の境界である。
賢治が自分を修羅と見ていたとは、自分の「たましい」をよく見ていたということだ。
なぜなら修羅は仏教でいうと人の下だが、下だということは深層心理学でいうと、
自我に対する無意識みたいなものである。
以下引用はすべて河合隼雄の言葉である。

「ただ、ひとつ言えることは、「修羅」を生きる人は、
普通の人間と次元が違うということです。
普通の人間は、お金を儲けないかんし、出世もせなあかん。家もつくらなあかん。
けど賢治は、そういう欲望と次元が違うところから発想し、行動している。
その姿を上のほうからみると、あのひとは天使みたいな人やということになる。
下からみると「修羅」になる。でも天使はおもろない。
おもろいのはやっぱり「修羅」のほうですわ」(P156)


結局は自分を出すしかないのだと思う。
しかし、どのレベルで自分を見ているかが重要なのではないか。
どこまで自分の深層にたどりつけるのか。
子どもの目や修羅の目、ときにはパンダ(畜生)の目が生きてくるのかもしれない。
どこまで大人の常識的な思考から離れて創造できるか。

「小学校や中学校の絵の点数というのは、実は絵の点数とは違うんですね。
あれは常識の点数なんです。そう考えたらよく判りますでしょう。
だから、小学校や中学校で絵の点数がよかったからといって
絵描きになるのは大間違いですね」(P80)


「たとえば私が絵の世界に入って、絵を描けといわれれば、
その時点で私は常識にとられるんです」(P92)


常識を捨てる、知識を捨てる、大人を捨てるとうまくいくことがある。
このため、心理療法でも――。

「ぼくはよくいうんですよ。難しい人がこられるでしょう。そのような時、
ぼくがやるより新しい大学院の学生がやった方がよいことがあるんです。
一回目の奇跡が起こるんですね。
だから、毎回毎回、本当に初心に帰らなければいけないわけですね」(P98)


背広のような知識を捨てたところで勝負するのがいちばんいい。
しかし、背広を着ていると見栄えがいいという発想からなかなか抜けきれない。
背広を脱ぐことができない。我われは背広のような知識に毒されている。

「絵で自分を出すという人はいると思いますか、ごく少数の方ではないかと思いますね。
自分で物を出すということは、ものすごいエネルギーが要るし、
自分の物だから自分の物を出して生きればいいのに、
ほとんどの人が自分の物を出さずに死んでいくんではないでしょうか。
だから来世があると思わなければ話が合わないと思うんですよ。勿体ない話ですが……
せっかく生まれて来たのに自分を出さずに背広を着たまま生きていく訳でしょう」(P91)


うまく自分を殺して一般受けするものを計算して「二流の天才」になる人もいる。
たとえば絵描きが毎回毎回、初心に帰り何百点という絵を描くことはできない。
そんなことをしたら身体が持たないし、下手をしたら死んでしまいかねない。
「みんなが喜ぶ」作品は、AとBとCを足してできたと分析可能である。
本当の作品というのは、分析不能な部分が絶対に入っている。
ということは、分析不能な深層まで自分を自分で見なければ、
そうして作品に自分を出さなければ本当の創造ではないのだろう。

西洋哲学の知識を詰め込んだような人を背広着用にたとえているのがおもしろかった。
河合隼雄はユングという背広をときには着つつも、
しかし一対一のクライエントとの勝負では常に背広の無価値を思い知らされ、
素っ裸の自分と向き合わざるをえなかったのだろう。
子どものように裸で遊ぶのもまた悪くないものであることを心理療法家はよく知っていた。
ユングなんか難解すぎてだれも読めないから、
河合隼雄は日本でかなり好き勝手に自分を出すことができたのだろう。

「子ども力がいっぱい」(河合隼雄/光村図書)

→対談集。副題は『河合隼雄が聞く「あなたが子どもだったころ」』。
河合隼雄と各界の成功者たちとの対話である。
表に出ている会話部分では、みなさん自分の子ども時代を懐かしく語っているけれど、
河合隼雄のことだから裏では相手から悩み相談をたくさんされたのかもしれない。
むろん、そういう会話はすべてカットされている。
河合さんは絶対に守秘義務を破らない人だから、
生きているあいだ、有名人の人には決して言えぬ秘密をたくさん聞いたと思う。
その道のプロの河合さんは、なにもコメントせず、フンフンと例によって聞いたはずだ。
たぶん相手の秘密を聞いたときは、なにも言わないのがいちばんいい聞き方だ。
最低の聞き方は相手の話を途中でさえぎって、自分の苦労話をしてから励ますことだろう。
秘密を話しているほうはあまり自覚がないのだろうが、
人の辛い秘密を聞くのはかなりしんどいのである。

わたしもなぜかほとんど知らない人から深刻な秘密を突然告白されることが多い。
これは河合さんのように懐が深いからでは断じてなく、
相手は秘密を話したあとこちらなど一切かえりみず足早に去っていくので、
いわばゴミ箱みたいな人間という扱いなのだとわかる。
時間予約制の病院でまえの患者の診察が異常に長いと待たされてため息が出る。
常に1分診察を好むわたしは医者にくどくど自分の話をする人の気持がわからない。
医者やカウンセラーは相手の話をさえぎれないから疲れる仕事だろう。
「おれはおまえなんかに興味がないんだよ!」と寝言でいっているのではないか。
ハハハ、ユング学者の河合隼雄氏によると夢はそんな単純なものではないらしい。

「心理療法序説」(河合隼雄/岩波書店) *再読

→パラパラいままで読んだ本を読み返していたら、
あるところで河合隼雄がこの本は自分のなかでも重要な本と述べていたので、
このたび15年ぶりに再読してみることにしたしだい。
精神科治療と心理療法は健康保険の有無、薬品処方の有無などいろいろ相違はあるが、
実質における違いは病名にあるような気がする。
精神科では患者に病名を与えてゴールというようなところがあるのではないか。
病名を与えられた患者はその枠のなかで一定期間、病気と向き合わなければならない。
一方、心理療法は最初から最後まで名前をつけないことに命をかけるようなところがある。
一般的に病気と言われている心の苦しみを、
それをなんだか「わからない」ものとして見守っていくのが心理療法家ではないかと思う。

「平たく言えば、「わかってしまうと終りになる」のである。
一人の子どもを「札つきの非行少年」として「わかってしまった人」にとって、
その子どもにどう接するかはきまりきったことになり、
その少年は確かに非行少年であることにまちがいない、ということになろう。
しかし、どのような子どもになっていくのか「わからない」として、
多くの可能性を考えつつ会ってゆくときに、
彼は変化してゆくかもしれないのである」(P226)


名前(病名)を権威者から与えられると、我われはそこに居ついてしまうようなところがある。
ところが、名前を与えられず「わからない」ものとして接してくれる人がいると、
彼は自分がなにものか「わからない」がために、いろいろ試行錯誤して変化してゆく。
心に問題をきたしている病めるものを「わからない」ものとして、
世間の尺度とは異なる眼で見守る専門家が心理療法家なのだろう。
このためだろう。河合隼雄は心理療法の仕事を
「クライエントの発見的な歩みを援助する」(P6)ことと定義している。
病名をつけられてしまえば、その病気を医者に治してもらおうと依存的になってしまう。
だが、心の問題はだれかに治してもらうのではなく自分で解決しなければならぬ面が強い。
このとき心理療法家の態度が支えになって、
クライエントはどこへか「わからない」ところに向かって歩みながら、
いろいろその人だけの発見をするのだろう。

ふと思いついたことを書く。
ある問題行動(現象)を「わからない」ものとして見るということは、
法華経に出てくる諸法実相とおなじである。
ある問題行動をたとえばパーソナリティ障害などと名づけないというのは、
諸法実相と世界を見ることである。諸法実相は十如是と法華経では説明される。
つまり、うつ病ならうつ病をうつ病と相(見かけ)のみ見るのではなく、その現象は、
我われの目には見えぬ性、体、力、作、因、縁、果、報などが複合していると捉える。
これが「わからない」ものとして現象を見るということである。
安易に因(原因)のみを特定しようとせず、あらゆるものが関係していると見る。
なかには見えないけれど力(可能性)や作(発展性)もあるのだから絶望しない。
こういう態度のまま幅広い縁に目を配っていると、あるとき機縁が熟すこともあるのだろう。
このとき縁が熟したことに気づくものがいなければならない。
その役割を果たすのが心理療法家なのだろう。
このため、心理療法に即効性のようなものはない。
本書でも河合はボーダーラインの人の場合、10年はかかると記述している。
とにかく効率的ではないと河合は断っている。

「何しろ、心理療法は一対一で行われるので、
「効率」を考える人からは非難されることがある。
もちろん、他に効率をよくする方法があればやるのがいいと思うが、
一人の人が変るということは、
根本的に「効率」を度外視するような態度を要求するのである。
できるだけ早く終わろうと思っていると、長引いてくるが、
この人が一生続けてきても五十年くらいであるし、人類の歴史から見ると
そんなのは一瞬のことなのだから、などという気持でいると、
かえってその人は離れてゆける、というようなパラドックスがある。
終結というのは関係が切れるのではなく、関係が「深く」なるので、
それほど会う必要がなくなるのだと言ってもいいし、あるいは、
クライエントが「治療者」像を自分の内部にもつようになるので、
外界に存在する治療者に会う必要がなくなるのだ、
という言い方をしてもいいであろう」(P246)


クライエントのなかには諸法実相のようなものの見方を
内部に持つようになるものもいるかもしれない。
別の本で読んだことだが、10年、20年やっても治らない人もいるらしい。
それでも河合隼雄のところに来るというのがすごい。
おそらくこれは河合隼雄ならではのことではないか。
はっきり言って、心理療法にたよるものの大半が「死にたい」だろう。
有名人の河合隼雄に月に1回会えるというだけで生き続けた人もいたはずである。
さすがに無名の心理療法家のもとに治らないまま10年通う人はいないような気がする。
そもそも治せばいいのかはわからないことにも河合隼雄は言及している。

「心理療法の過程はあまりにも苦しいものだから、
そのようなことをしないほうが得策のこともある。
たとえば、強迫症状や離人症などのような場合、心理療法の過程で
妄想や幻覚などの精神症状が生じたり、強烈な不安のため何もできない、
というようなことも生じてくる。言うなれば
そのようなことが生じないように症状によって守っている、とも言えるのである。
そこで、クライエントによって説明可能な人に対しては、
心理療法の過程について説明し、そんなことをするよりは、病状と共に、
自分にとってやりたい仕事をして生きてゆくようにするのはどうか、
ということを述べて、クライエントに選択してもらうようにするとよい。
もちろん、症状があるのも辛いことだが、その方がいいかもしれないのである。
そして、あまりに症状が苦しくてたまらなくなったら、
あらたにきていただくことにするのである」(P189)


これも河合隼雄ならではのことではないかと思う。
個人で開業している心理屋さんが、
まさかせっかく来てくれたお客さんをそうそう帰せるものだろうか。
商売心理屋さんが開業後数年して河合隼雄の本を読み返したらどんな感想を抱くのだろう。
心理療法家は難しい仕事だと思う。
なぜならクライエントは、心理療法家に治してもらおうと思って来るのだから。
しかし、もし河合の主張に忠実に従うならば、自分で治っていくしかないのである。
とはいえ、クライエントはお金を払ったんだから相手が治してくれると信じている。
心理療法家はいったいどうやってクライエントに誤解をそうと気づかせるのであろう。
いまはネット時代だから、あそこに3年通ったけれどよくならなかった、と書かれてしまう。
本当は河合隼雄でさえ5年、10年は当たり前なのだが、
金を払っているのはクライエントゆえ怒りはもっともであるという面もある。
クライエントは金を払ったんだから忠告や助言を求めるはずである。
本書で知ったが、河合隼雄もまったく忠告や助言をしないわけではないのだという。

「忠告や助言などを与えても無駄であるとわかっていても、そのことによって、
クライエントとの関係の維持をもつことが必要と感じたときは、している。
その内容そのものはあまり問題なのではない。
その行為が関係の維持に役立つからしているのである」(P24)


考えてみれば我われの人間関係の結構が忠告や助言で成り立っているとも言えよう。
親子関係など忠告や助言を禁止してしまったら話すことがなくなってしまうのではないか。
教師と生徒の関係でもおなじことが言える。
日常生活では忠告や助言は人間関係の潤滑油と見切って、
そつなくこなしていけばいいのかもしれない。
ほとんどの人が他人から言われた正しい忠告や助言に従わないけれども。
かといって、自分だって人からの忠告や助言にそこまで素直になれないのである。
他人のことはなぜかよく見えるというのが我われ人間なのだろう。
自分のことを他人を見るように見るのは辛く苦しい。
このため、ときに大金を払って心理療法家にお手伝いしてもらうのだろう。

「相手を洗脳する文章テクニック」(宮川明/日本実業出版社)

→副題は「人の心を虜にし、思いのままに動かす」。
そもそもさ、他人様を「思いのままに動かす」ことができるなんて思っている時点で、
まーるでぜんぜんさっぱり人間のことをわかっていないわけだね。
著者がどういう人かよく知らんけれども。
人を思いのままに動かせるのなら、どうかおれにこの本を誉めさせてみてよって話で。
他人は思うようにならないからおもしろいのでは?
あまり知らない人をいじめるのはやめよう。
聞いたこともないカタカナをひんぱんに用いて権威者ぶっているのがかわいらしい。
が、どうして人はそれぞれだから万人に通用するテクニックなどないと気がつかないのか。
ある人には通じることも別の人にやったらカンカンに怒らせてしまうのがたぶんリアルな世界。
こうすればかならずうまくいくなんて受験テクニックじゃないんだから。
人生にはマニュアルはなく、ほとんど一回かぎりの賭けを繰り返しているようなもの。

相手の言葉を使おうとか(たとえば女子大の教授はギャル語を使えば人気が出る)、
おれでさえわかっているけれど、まあ教授のみならず容易にはやれないことだ。
要は相手の立場に立てってことだけど、それがむかしから難しいんだ。
著者は本当に相手(おれ)を思うがままに動かせるのかどうか一度お逢いしてみたいが、
きっとバカ高いセミナー料金を取るタイプの人だと思う。
3度目のデートでやりたいときは、
「デートの3回目でエッチをするカップルが多いんだってね」と言うといいらしいが、
いつの時代のエロ本の女子攻略講座かよと失笑した。
あえて禁止すると相手はしたがるとか、著者は他人を甘く見すぎ!
「本当にお金持になりたい人しかクリックしないでください」とか、
バッカじゃ~んと思っている人が実は大半じゃないかなァ。